真・東方夜伽話

永遠の手痛い愛も、それは止まることなく③

2019/10/18 00:52:49
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永遠の手痛い愛も、それは止まることなく③

みこう悠長
§ § §



「ここでの暮らしはどうじゃ、少しは慣れたかな?」

 大陸式の調度に、藤原は全く慣れていなかった;尻だけを高い台の上に載せる足が地に付かない椅子という腰掛け台も、高坏にでも置けば床で済むのにわざ/\椅子よりも高くひょろ長く伸びた足を立てて物を乗せる机という奇妙にでかい膳の様な台もだ。床に腰を下ろす空間もあるのだが、どうにも妙に装飾的で、居辛い。
 だが藤原はその回答を後回しにした;そんなことは二の次で、彼女にはもっと重要な問題があった。

「そんなこと、どうでもいい」

 悲田院スラムで排斥も許容もされず人でもなければ妖怪でもない|境界性《マージナル》な扱いを受け続けていた娘は、藤原を名乗った女によって、だが人間として最低な住環境から多分にマシな住まいへと移された。妖怪じみた白い娘が藤原を主張するのを、藤原と名乗った女は否定することなく譲り渡し実は自らは物部であると娘に告げた;そのことも娘は否定しなかったが、それというのも単に娘には物部というのが一体何なのかその重要性を理解していなかったからだった。
 白髪は傷んでボロ/\な上に貧しい路上生活者の例に漏れず頭を振れば蚤や虱がぱら/\ぴょん/\といった様、化けて出るほどに白い肌も土泥に汚れれば赤みがない分余計に汚らしく見えたが、どうやらこの藤原を名乗って回っているのらしいその実を物部という道士、良い身分の人間と繋がりがあったのだろう;これがそう言えば、藤原はとやかくと多くを聞かれることもなく、雨風を凌げるどころか放っておいても最低限の飯が提供されるような上等な住まいに移されたのだった。
 だが藤原自身も、それに物部も察している;本来の彼女の居住はこれよりももっと贅沢なものであったらしいだが、藤原はそれ以上に突然に与えられた不自由の少ない生活に反感を持っているようだった。

「ほんとうなんだろうな」
「うむ。我は嘘など吐かぬ、これでも道士の端くれぞ?」

 藤原を名乗っていた物部が本物の藤原を匿うのは、自らが藤原ではないことが他に知れては拙いからだ;《《本物の方の》》藤原はそう高を括っていたのだがどうもそうではないらしい。物部が藤原に要求したことは藤原を騙ることの他言無用ではなく、藤原が不死の身となった経緯を聞くことだった;そうすれば、物部は藤原に更には、自分の持つ道教秘術の内好きなものを一つ教えてやると、取引を持ちかけのだ。と藤原が物部を強請る素振りを見せたところで、この詐欺(といっても火を吹いた妖術は詐欺どころのものではなくどう見ても本物だったのだが)道士は全く動じることはなかった。藤原にとっては破格の取引だ、ムシが良すぎて疑わしく思うのも無理はない。
 藤原にとって物部の言い出したことはおかしなものであったが、その藤原の言葉も物部にとっては十分に不可解なものであった。

「そのなかに、わたしをころせるじゅつは、あるのか?」
「はあ?」(この娘、死にたがっておるのか?)

 藤原の言葉を聞いて、物部は怪訝そうな表情を見せる;物部がそう判断するのも無理からぬことであろう。自分を殺せるものを、この娘は探しているのだろうか:不死者である自分自身を。物部は返してやった、藤原の望むだろう答えを;それは藤原の想像しなかった返答だ、この物部という道士が不死者についての理解のあるものだという前提に立つのであれば。

「あるとも」
「……だったらそれだ」

 藤原の二つ返事は低い声にしかし強い意志が窺える、やはり死ぬ気なのだろうか。だがそうだとすれば、直接自分を殺すように物部に頼むはずだ;物部はますます訝しんだ。

「それが良いというのなら止めはせぬが、それも使い方次第だと心得ておけ。濡れた雑巾でさえ、使い方を正しくすれば……否間違えば、人を殺すことが出来てしまうもの」
「そういう〝ごこうせつ〟はいらない」
「いいや、そういうことじゃ;この世の何事も、そうした理の上に成り立っておる。それがわからねば、水を以て火を消すことも叶わ―」
「うるせーな、こむずかしーことをぐだ/\いってんじゃねーよ。オレがどうやって〝しなず〟になったのか、しりたくねえのかよ」

 物部の言葉をまどろっこしく振り払うように途中で遮り藤原は語気を強めたが、当の物部は意に介することもない;藤原の見た目が子供だからと侮っているというわけでもなく、それは純粋に自信の表れのようだった。

「威勢の良いことだな藤原の娘。だが、それはこちらのセリフじゃ。我は別に構わん、実際のところ不死など《《間に合っておる》》からの。完成度の向上と、他にどの様なアプローチがあったのか、興味が湧いただけじゃ。なに、死にたがりの小娘からその分の余命を積み上げられている思えば我らも気が楽というものじゃ、自殺願望があるのなら……ぜひ《《そうして》》頂きたいものじゃな」
「オレじゃねえ……しぬまえに、ころさなきゃいけないやつが、いるんだよ」

 物部の言葉に同意を示さない藤原、だがしかし反論もまた、しなかった。この娘は確かに自身を終わらせたいとの願望の片鱗を見せたかも知れない、だがそれを覆い隠すほどの激しい生への執着が、物部には見えていた。その矛盾した激情は、物部が面食らって一瞬言葉を失う程に強い;その意志の強さを肌に感じた物部は、僅かに笑んでから、大仰に頷いてみせた。

「ほう、ほう」
「わたしを、やつをころせる、じゅつをおしえろ。でなきゃ、くすりのことは、おしえない」
「なるほどな;心中でも、する気か。まあよかろ。鳳凰のいめぇじが強いようなら、それに相応しいものをくれてやろうか? 丁度それは、我の得意分野じゃ。だが、教えはするが、すぐに自在に使えるとは思うでないぞ?」

 にか、と皿の様に割った三日月の口角を引いて笑うと、鋭さに反して幼気を呼ぶ犬歯が覗いた;乞食女にはそれは、厭味のない笑みに、見えたのだ。なかとみの:幼気残る貴人はそう口にしたがその意味を、賤女は読み取れない;いや、読み取れたとしてもこの悲田には今や関わりのないことだっただろう。

「うるさい、なんでもいい、さっさとおしえろ」
「焦るな焦るな。死なぬだけでタダの人間のお前に、そう簡単に術が扱えるものか。さあまずはこれを呉れてやる。」

 物部を名乗る道士は懐から三枚符を取り出した、目の醒める程に|鮮やかな《ビビド》な黄色い符には気味の悪くなる程に生々しい紅色で呪文が描かれている;その黄色と赤の|色彩対比《コントラスト》はまるで|肉と血の再現《リィンカーネイション》、藤原にとっては目を背けたくなる|呪《シュ》を纏っているのと同時に、彼女の不死性にとっては全く不意に高い親和性を示していた。
 三枚の内二枚には同じ呪文が描かれている;藤原には到底理解のできない蚯蚓の這ったような曲線の交わり合いだが、おそらく何らかの意味があるのだろうことだけはわかった。そしてもう一枚には何も書かれていない、ただの黄色い紙だ。

「符籙じゃ。そう簡単に他人に呉れてやるものではないのだが、他でもない|藤原《中臣騙り》のためじゃ、ひと肌脱ごうではないか?」

 くくく、と爬虫類然と細めた目口で笑う物部;ひと肌脱ごう、だなどと明らかに何かを企んでいるような態度であったがそれも藤原にとっては些末なことだった。なにせ、どの様なリスクがあろうとも、この蓬莱人にはもう失うものなど何もない:家も:財も:友も:家族も。命さえも、失うことはない。蓬莱人となった彼女の手に残されたものは、膨大な未来だけだ;それとて〝失い方〟を知りもしない。

「一枚は、我が使ってみせよう。一枚は、自分で使ってみよ。一枚は、|主《ヌシ》の|始原《おりじなる》とするが良い。」
「おりぢなる?」
「|主《ヌシ》が自分で符を打つのじゃ、|主《ヌシ》専用の、|主《ヌシ》だけの。それが出来るようになれば、あとは好きなだけ自分で作って増やせばいい。符を打つとは、そういうことじゃ」
「しっぱいしたらどうなる」

 藤原の問に、物部は両の掌を上に向けて開く;水の泡だ、のジェスチャーだろうか。つまり〝それまでだ〟ということらしい。仙道術の符籙打ちをただの一枚で身に着けろなど、土台無理な話だ。物部道士の意地の悪い《《ふっかけ》》に、しかし藤原は応じた;掴めるものなら藁でも掴む、今の藤原は目的成就の手段に、いよいよ窮していたからだ。
 そう簡単なことではない、物部は確かにそう言った;習得させる気があるのかないのかさえ判然としないそのやり方を藤原に課して。物部の差し出した符籙に術者の妖気を増幅しイメージ具現化を補助する機能が備わっているにせよ、藤原がいかに不死者であるにせよ、ただ手本を一度見、それだけで何らかの術をすぐに実行できるようになるとは到底に思えない;だが藤原は迷うことなくその符を手に取った。そしてそのついでに、貧民街で生き延び続ける中で否応なしに身につけたスリの技術を以て、物部が懐に忍ばせていた短刀を掠め取る。そしてそれを隠すつもりもなく、物乞少女は物部の目の前に晒した。

「おいっ」

 ぞぶり

 物部が何かを言う前に、藤原はすかさずに、短刀を自分の心臓に突き立てた。
 ち。物部は舌打ちをひとつ、漏らした。生活に困窮して心の荒んだ者が刃物を手にしてすることなどふたつにひとつだ。

(不死者とは言え、所詮は死にたがりの小娘か)

 突然自傷行為に走った藤原の奇行を、物部は冷ややかな目で見ながら、どこか落胆するような思いで胸中独りごちた。死者再生と煉丹に通ずる秘薬の奥義をこの娘から引き出し、更にはあわよくば遠大の|計画道祖石《まいるすとん》に利用しようとした物部だったが、それはやはり無理かと、溜息を吐く。
 だが、その落胆は再びに裏切られて思いもよらぬ結果を見せた。

「ふ、ふふふ……あっは、げほっ、ごぼっ、あははは ごほっ、ぼごっ はははははは!!!」
(! こ、こやつ……)

 藤原は小刀を深々刺し入れた胸の傷口からも、深く突き立ち肺臓と喉笛に溢れ出した血を口からも、赫々と燃えるような血を噴き溢しながら、正気を放り捨てた様に笑っていた;笑いながら、泉が如く溢れる血を手に受け止めて血濡れた掌を空白の符籙に向けて、叩きつけるように重ねる。そしてずるりと腕を引いて、血糊をべつとりと擦り付けた。刹那、紙面の殆どが真っ赤な濡れに滲んだ符が、その小さな紙切れには不自然なほどに大きな炎の柱を巻き上げる。

「は、はっは、ごほっ、ごぼっ、このほのおで、あ゛い゛つをころせる、おれ゛の、のろいの、ひだ、はっ、はあっ、げっぐ、は、ははっ、ごぼっ、ごぼおっ! ひ、ひひっ!!」

 炎の赤なのか、血の赤なのか、最早区別の付かない程に赤く染まった藤原の姿、それはゆらゆらと生気なく揺れている。辺りには炎のというには余りにもべっとりと絡みついてくる呪わしい熱気と、人間の死体が焼ける悪臭、ぶすぶすと水分の多い肉が焼けて弾ける音、それに癲狂に罹った様な笑い声が漂い、急激な熱変化によって巻き起こる風がそれを混濁させていく;えもいわれぬ不快感を撒き散らしていた。鳳凰:その表現を物部は心中で撤回した、これは、|腐敗火龍骸《どらごんぞんび》だ、|鳳凰《ふぇにっくす》だなどと烏滸がましい、もっともっと遥かに下劣な、|不死《あんでっど》。

「ごれで、この゛ほの゛おは、おれの、も゛のだ、くっは、ははは……! あいつも、あいつもくれないに、そめて、やる゛っ……!」

 自分の血を炎に変化させ気狂えたように抱腹する藤原を抱くように立ち上る炎は、物部が冗談じみて言った鳳凰さもありなん;舞い上がる火柱と紅の翼、狂ったように笑う藤原の背を間近に見ながら物部は、肌身離さず持ち歩く錆びた鉄釘を無意識の内に握りしめていた。

(薬で妄りに不死へ短絡した人間とは、こうも《《欠落》》するか……!)

「おまえのためなら、ばけものにでも、なってやる。まっていろ。ぜったいに、ころしにいくからな」

 肉の焼ける匂いが収まらないのは、不死者となった藤原の肉が焼ける傍から再生して新たな悪臭源供給しているからだった;栄養を欠き渇いた肉は、それでも脂を含んでよく燃えた。
 戦慄した表情で藤原の焼不死体を睨みつけながら、物部は、お気に入りのおもちゃを手に入れた藤原の気が済むのを、忌まわしいものでも見るような目で睨み、そして忠告を口にする;それは術を授けたものとしての威厳を保とうとしてのことだったかもしれない、現に物部の言葉は藤原にはよく理解できず、熱しすぎたその頭を幾分かクールダウンさせることになった。

「おい、|藤原《中臣騙り》、勘違いするでない、仇も同じく不死者なのじゃろう? 炎などで不死者を焼けるものか。その火で|主《ヌシ》が殺すべきは、命ではない。価値と意味、縁起じゃ」
「はあ????」
「|主《ヌシ》にはまだ難しいかのう? 先達が謂うのじゃ、今ここで理解せよとは言わぬが、覚えておくが良い。価値と意味を消すのなら、ぬしが|焚《や》くべきは、記録じゃ。ま、|主《ヌシ》がよっぽど阿呆でなければ、我があれこれと指図する必要もなかろう;何せ、ぬしには永遠に試行錯誤をする時間があるのじゃからな」

 半分は目の前の非人に恐れにも近い驚きを抱きながら、もう半分はそれを嘲り煽るように見ながら、物部は藤原に向かう。

「|藤原《中臣騙り》は仏門を叩いたのではないのか? ここは悲田院じゃろう、施し癒やすだけではなく、ついでに教え伝える場にもすれば、捗るものを;ちゃーち、を見習い給えよ。まあ、仏教は好かぬがな、あれの教義には頷ける部分もある。」

 わざとだ、この女が遠回しに物事を言うのは:悲田の幼女は、年齢には不相応な聡さで以てそれを感じ取っていた;試すようにのらりくらりと言葉を回す女にあからさまな避難の眼を向け、果にはいよ/\〝てめえ〟と口を開きかけたところで、同士を名乗る女は口を開いた。きっとそれさえも、試された結果なのだろうと思い、娘は歯ぎしりする。

「〝遠離一切顚倒夢想、究竟涅槃〟と続く経文を聞いたことはないか?」
「ない。」
「ぉぅ、即答じゃな……。まあつまり、この場合に引き合いにしたいのはこういう意味の部分じゃ:あらゆる存在は無自性、この世に自性自在の存在など、どこにもない。自分が自分だと思うこの意思も、〝空〟が流転した一時的な状態でしか無く、それを為しているのも、決して存在自身ではない。つまり〝空〟じゃ。ならばそれをしているのは何かと言うと、それ自身以外のあらゆる全てじゃ;そしてそれ自身以外のあらゆる全てもまた、〝空〟である。この世のあらゆる存在は〝自身以外のもの〟同士の相互作用によって〝空〟から型抜きされた除外の集合即ち〝仮和合〟に過ぎぬ。」
「あにいってんだおまえ、うまのみみにねんぶつってことばしらないのか。オレがそんなむずかしいことわからないばかだってこともわからないなんてさてはおまえばかだろ」
「……バカにするなら相手か自分かどっちかにせえよ……」
「だから。どういうことだよ」
「|主《ヌシ》の仇とやらを伝える全ての情報と、繋がる全ての絆を消せば:因と縁を絶てば、果は自ずと消える、いかに不死者だったとしてもだ。対自ひとつではなく対他すべてを燃やし尽くといい。いいか、よく聞け、心せよ。不死者を殺す方法がないだなどと、思い上がるなよ、|不死者《あんでっど》。」
「ああもう、ごちゃごちゃとわかんねえよ! クソどうし、はっきりいいやがれ!」
「火を消すのに、火を消す必要はない。周囲の燃えるものをすべて取り除けばそれでよい。同じことじゃ。不死はな、命が尽きないのではない、命の在り処が変わっただけ、見誤るなよ」

 騙されたのではないか:藤原の表情から狂気じみた殺意の迸りが消え、代わりに焦り色をつけた空気が流れ出る。所詮は自分も、それに奴も、焼ききれないヌルい炎を押し付けられたんじゃないのかと。だが物部は違うという、だがその本質も、幼い藤原には理解できていなかった。

「焦るな焦るな、まあ、|主《ヌシ》には焦る必要などこれぽちも無いのであろう? いずれ分かるじゃろう、わかったときに、実行すれば良いて。わからん内は無駄に|現《うつつ》でも焼いてみるのもよいのではないかな? くく」

 藤原の焦りは、全く見当違いの間違いというわけでもなかった;つまり、これは物部の企みの内で、自分はまんまと手綱をかけられたのだということだ。



§ § §



 天にまします星神と、神々に見守られる民達、政治は神から授かった民を導く役目を代行する神聖なものである;その勤めを体現したはずの天井図とその下に並んだ太政官達の椅子、円卓。それを睥睨する一段高い上座と下座を遮るように御簾が垂れている;その向こうには空席の玉座が物悲しく佇み、上座そのものが鎮座する者の無い空虚な空間に貶められていた。
 星神達の長にして月の神の代弁者たる皇帝は、今はいない;仮に順当に継承が行われたならば、ここには若い女帝が君臨していたはずだ。だが今は玉座だけではなく、この太政官円卓にさえ空席がある。
 皇帝として即位することを許されなかった内親王は、即位までの猶予期間に社会勉強に励むとして太政官達の長である太政大臣に就いていた;だがこれにも仕事があるわけではない、太政大臣など「位貴くも職掌無し」なお飾り。しかもれももう5年も前のことだ。今や月の政治は|太秦《うずまさ》を名乗るようになった秦氏が率いる|秦部《はとべ》とその協力者となった|稲員《いなかず》、|稲部《いなのべ》が牛耳っている。|意部《いんべ》と|綿部《わたのべ》は全く権力を剥奪され形だけの太政官として、勤めもなくこの場に並んでいた。
 が、今日は、様子が異なる。
 太政殿には、|意部《いんべ》の長である|意琳《イ・リン》と、内親王太政大臣だけだった;いつもいる筈の|綿部《わたのべ》の代表者達の姿が見えない。

「|意《イ》」
「は」
「|太秦《うずまさ》と|稲員《いなかず》は今更問わぬが、|綿部《わたのべ》達はどうしたのか」

 本来なら御簾の向こうの玉座にあるだろうこの女性が、今は円卓の上座に着いているに過ぎない。
 形だけの合議議長である内親王、その比喩に相違なく身なりばかりは極めて豪奢に整っている;もともと皇族なのだから当然ではあるのだが、何の権力も持たないお飾りの官職に押し込められているその代わりに与えられ〝それをやるからおとなしくしていろ〟と黙らせるためと見ても仕方のない、金襴銀累絲に螺鈿宝石の衣服に宝飾、髪飾りに靴、飾り立てられたお飾りの人形;それが今の内親王の立場だ。彼女に、その立場に押し込められた無念があるのか否か、側近である意も綿も、知り得ない。こんな立場にあるがかの内親王は予てより賢帝たるを嘱望された才女、皇族としての立ち居振る舞いも政治家としての分も弁えているのだろう、そんな心情は《《おくび》》にも出さない。

「申し訳ありません、存じておりませぬ」
「そうか」

 内親王太政大臣はするりと立ち上がって、御簾に向かう。誰もいない玉座に向かって跪き頭を垂れまるでそこに皇帝がいるかのように振る舞うのは、皇帝という代弁者がいなくともそこには月の神が降臨しているという象徴的な儀礼だ。だが。

「あーもう、やめよ、やめ」

 内親王が、まるでもう飽きたのだと言うような口調に砕けて感嘆を吐き、一緒に|古式ゆかしい正式礼装《コンサバフォーマル》の帽子をむんずと掴んで床に打ち捨てたのは、先に|意部《いんべ》の長に問うた通りこの場に|綿部《わたのべ》が参じていないことに憤ってのことではない;純粋に、本当にもう、全くこの状況に嫌気が差したからだと、物語っていた:その表情が:その口調が:その振る舞いが。
 投げ捨てた帽子を、|稚兎《ちと》が拾い上げて丁重に保持し続ける;ここには、遠ざけられた内親王と、外された貴族と、幾許かの奴隷兎しかいない。警備さえ手薄だ、ここには帝位継承権順位第一位の皇族がいるというのに。
 急に態度を裏返した皇女に、|意琳《イ・リン》は袖を上げて顔を隠すようにしながら頭を垂れる:いかにも。|意部《いんべ》に、琳以外の殿上人はいない。正式には|意琳《イ・リン》は|意部《いんべ》の長ではなく、高齢で職務のままならない長の、ただ代理をしているだけだ;だがそれは、眼の前の高貴な女性がその収まるべき座に収まることが出来ない事情とは全く性質を異にしている、|意部《いんべ》の女、琳は特に部内に抵抗勢力もなく、反対を受けることなく長から代理とそして次代を託されているからだ。そうした自らの身の上をよく/\知っているからこそ、|意琳《イ・リン》は内親王に強く出るのを憚った。

「琳は|綿部《わたのべ》に気を付けろと言ったけれど、ね」
(……?)

 それは甘さだったかも知れない;こうして四大連は最早四ではなくなり、2+2という形で実際的に上下関係となった。奉じていた皇女も排斥され、この場は一体何の場なのか、誰も答えることはできない。対する|太秦《うずまさ》と|稲員《いなかず》は、大極殿に優るとも劣らない秦氏の広大な所領に構えた新築の〝望白月〟と呼ばれる別邸で、密室政治を行おうとしている;彼らには既にそれだけの力が与えられていた。参議の殆どは望白月からの命を実行する体勢になっており、太政殿は既に政治の現場では、なくなっていた。自分に、二人と同程度の権力欲―それが仮に王権を簒奪するほどの傲慢であっても―があれば、或いは逆説的にバランスが取れていたのかも知れない;|意琳《イ・リン》はそう考え少々の反省を抱きながらも、まだ内親王に従い続けていた。彼女には、|綿部《わたのべ》がそうしたかも知れないように、王権抵抗勢力に寝返るつもりは毛頭ない;それは、政治的な動機ではないからだ。
 だが、|意琳《イ・リン》は何か不穏な気配を感じていた;その正体の説明は付かないだが、一見投げ首な態度を見せる内親王に、含むものを感じていた。それがどこに出力されているのかも判然としない;身振りか、声色か、目の色かもしれないが、わからない。虫の報せ:本能の警鐘:第六感、そうした類の無根拠な違和感。

「何も絶対に皇帝が政の長を務めるべきだなんて、思ってないのよ、私は。豫はー、豫はー、とかつかれんのよはー。誰か上手くやる人がいるのなら、上手くやる人がやればいい。行政機関なんてマシな政治を執行するための手段でしか無い。政治のために民衆がいるのではないのと同じ様に、行政機関のために政治があるわけじゃないのだから。」

 負け惜しみ、にも聞こえそうな疎遠された皇女の言葉、しかし彼女はこう続ける。

「ただ、私の方が上手く出来ると思うのよね:|太政官《お前達》より」
「……御意に」

 先に僅かに察した違和感がまるで見当違いのものだとは、|意琳《イ・リン》は感じていない;ただ、その正体と答えがたった今にわからないと言うだけだ。この内親王に、強烈な傲慢と巨大な野心、それに見合った能力があることを、多くの者は知らない;それを知っているのは、亡き前帝を除けば、|意琳《イ・リン》だけだろう。先程見えた片鱗はそうしたものの漏出だとの確信が|意琳《イ・リン》にはあった、そしてそれは間もなく裏付けられることになる。



§ § §



「何事?」

 バタ/\と、何やら騒がしい物音足音叫び声が、回廊を通じてこの太政殿にまで聞こえ及んでいた;やかましい:眉をひそめた内親王が表情をそうした理由は単に騒がしく落ち着きの無い様子に向かってのことではない;それが何の喧騒であるのかを、既に大方の見当を得ていたからで、その内容に向かって、嫌悪感を示したからであった。そして、その奥にちらりと一片垣間見える、それとは別の表情;その正体を、その時|意琳《イ・リン》はまだ見極められていなかった。
 見て参ります:|稚兎《ちと》の一羽が一言言い置いて回廊の方へ行こうとするのを、内親王は引き止めた。「要らないわ、大体察しが付く」様子を見に行かせる代わりに、その|稚兎《ちと》から帽子を受け取り、彼女はそれを恭しく被り直す;そしてあろうことか、誰もいない玉座の方に向かって一礼し―

「で、殿下?」

 |意琳《イ・リン》の動揺の声を無視して、御簾を持ち上げ更にはその中に足を踏み入れる;そこは、月神あるいはその代理人である皇帝しか立ち入ることの許されない場所だというのに。
 そして、そのまま玉座に、腰を下ろした。
 何か問題でもあるのか、言外にそう放言するように、これみよがしに玉座の上で足を組んで見せる内親王。

「議会中、失礼いたします……えっ」

 低級官吏が数名、慌ただしく議場に雪崩込んできた;真正面に見える玉座に人影、それが内親王の姿だと察した彼らは驚きの表情を浮かべるが、すぐに顔を伏せる。

「は、どうせ会議なんかしてないわ。―何事か。申せ」

 神妙な口調ではあるが、自体を概ね察していると御簾の向こうで表情を崩す〝玉座に着いた、帝位継承権順位第一位の皇族〟。その表情はしかし、御簾に隠されて誰にも見られることはなかった。ただ、|意琳《イ・リン》だけは、それを想像したかもしれない。

「兵が秦邸を包囲し、執権|太秦《うずまさ》はすぐにその任を降りよと叫んでおります。皇室侮辱の罪を問う故、出廷しろとも……」
「兵ですって? 軍を動かすには、《《皇帝大権》》か議会の決定が必要な筈。決議の実権を握っているのは秦、何故軍部が秦に」
「綿でしょ。 |意琳《イ・リン》、あなたが予見していた通りじゃない」

 御簾の奥から漏れる笑い声と交じるような声が、|意琳《イ・リン》を射抜く:まずは一人ね。冷たい笑い声に射抜かれた|意《イ》の女は、心臓に氷を流し込まれたような気分だった。

「私が申し上げたのは……」

 〝まずは一人〟の言葉の意味を、琳は酌み取り切れていなかった。
 御簾の向こうにいる内親王、|意琳《イ・リン》には薄い御簾と小さな段一つが急に遥か遠い距離に感じられていく;それでは君主は勤まりませんと言ったのは自身だったその自覚はある、それでも、ここ数年での変化に彼女は、誤解を恐れずに言うのであれば、怯えに近い感情を覚えていた。それは急に冷え冷えと固まり鋭いだ刃が自分に向くのではないかという恐れからではなく、どこまでも自分の中の感情と自分の理性との間にある齟齬に対してであった。
 |秦部《はとべ》が|太秦《うずまさ》を、|稲部《いなのべ》が|稲員《いなかず》を名乗り政治を牛耳ってから、皇女の言動が徐々に変化していっていることに|意部《いんべ》の琳は気づいていた。|綿部《わたのべ》も|稲部《いなのべ》も一緒にと気遣い次の世代の融和を望んでいた筈の〝殿下〟は、|意琳《イ・リン》にも本心を隠すことが多くなっている。

「|綿部《わたのべ》は|秦部《はとべ》の躍進に危機感を覚えて、逆転を賭けて兵を挙げたわ。当然ね、|綿部《わたのべ》には元から軍属に強い影響力がある。どちらかと言えば、その断絶を実施する前に行動を起こした秦の方が愚かだったのよ;この事変は、最初から見えていたことだわ。琳、そうでしょう?」
「いかにも」

 結果から逆算すれば確かにその通りではあるだが、それを予見していたということではなかった。精々がリスクに含んで立ち回る、という程度の物言いのつもりであった|意琳《イ・リン》は心臓を巨大な手で握り込まれているような錯覚をおぼえた;もし内親王がこの事変を蓋然性を以て見込んでいたとするのなら、自分も同様の存在として見做されているはずだからだ。

(ここ数年で、殿下はお変わりになられた。|秦部《はとべ》にも|稲部《いなのべ》にも敵対心を隠そうとしない。|綿部《わたのべ》や私にはそうした素振りはないけれど……)

 |綿部《わたのべ》が何らか逆転を狙ってくる可能性については|意琳《イ・リン》の目からだけでなく明らかだったが、流石に|綿部《わたのべ》が軍事力を使って|秦部《はとべ》を追い落とすなどとまでは考えていなかった。そこには大義がない、仮に武力行使によって|秦部《はとべ》の首脳を刈り取ったとしても、そこに|綿部《わたのべ》が収まるとは考えづらいからだ。

(いや、大義ならある)

 そうか:|意琳《イ・リン》は、まるで深い傷に塩水を受けた時のように目を瞑り表情を渋らせる。そう、大義なら今ならある、眼の前に。彼女は突然御簾の中に入り玉座に着いた〝殿下〟の行動を思い返した。

「大貴族同士で潰し合いなんて、笑わせるわね。こんなことが政治屋の仕事だなんてちゃんちゃらおかしい。」
「……御意に」
「私はね、政治屋は幾ら私腹を肥やしたって構わないと思っているの;但しそれは、上等な政治に対する正当な対価である必要がある。政治屋同士で足を引っ張り合いお互いに牙を向け合って時も財も命も無駄に浪費するのは、政治屋の仕事じゃないわ。よって権力闘争とは即ち、背任行為に等しい。だから|皇族《私達》がそれを担ってやろうって言っているのに、お前達政治屋はその厚意を無駄にしてばかり。嗚、嘆かわしい」

 御簾の外からその内側にある内親王の表情は全く伺いしれない、同じ様に内側から|意琳《イ・リン》達の表情を細かに知ることは出来ないだろうとはわかっているのに、彼女はその方へ顔を向けることを、無意識の内に避けてしまった;何か無性に、恐ろしいものがそこにいるような気がして。
 間もなく後追いの伝令が届いた。報告によると、秦氏の居住を包囲した綿の軍勢が、|秦部《はとべ》の有力者全てを、討ち取ったとのことだ。
 |意琳《イ・リン》の寒気にも似た予感は、見事に的中したのだ。
 だが、寒気はまだ、収まっていない。

「はじまるかしら」

 何のことやらわからない、|意琳《イ・リン》を見る内親王の目は、有無を言わさぬ力の輝きを秘めているた。







 報告に現れた二人を、皇女は玉座に腰を下ろし足を組んで肘を付いたまま、御簾の中から見ている。

「豫を思い通り使って、〝月〟を名乗るか、思い上がったものだな?」

 言葉の表面上には不満を述べているが、内親王の口調からは本気で|綿部《わたのべ》を弾劾する意思は伝わってこない;ポーズなのか、あるいは諦めているのか。|意琳《イ・リン》は袖で顔を隠して伏してそのやり取りを聞きながら、内親王の脱力した口調の裏側を必死に探ろうとする。だがどうにも汲み取れない;この皇女は、何を考えている?

「綿豊子:依子、お父上はどうなされたか。この様な一大事に、殿下の御前に顔を出さすのは長たるお父上ではないのか。それを、そなた達二名のみとは、どういった了見か?」

 内心がわからないのは皇女だけではない;今こうして御前に現れ礼を示しているのは|綿部《わたのべ》の長ではない、その娘姉妹である綿豊子と依子の二人である。たった今|意琳《イ・リン》が口にした通り、本来ならば部長が事情を説明しに来るべきなのだ;仮にお飾りの皇女だったとしても。加えて、綿は秦を抑えた功績によって尊姓を得ると自ら口にしている。恐れ多くも「月」の字を宣うというのだ。
 |意琳《イ・リン》の問いに、上座の御簾に向かって伏したままの綿姉妹が答える。

「父は、この度の動乱で討ち死になさいました。」
「代わって我ら姉妹が、ご報告に参った次第です。」

 綿の女二人の言うことに、|意琳《イ・リン》は不信感を湧かせる。

(討ち死に? それほど激しい抵抗があったとは報告にないのに……)
「|綿部《わたのべ》の民は、殿下の御即位を願っております。月を統べるのは、万世一系たる帝の血をおいて他にありません。自らの私利私欲のために殿下御即位を妨げ剰え政を恣にし太平の世を見出そうとした秦の行いは帝ひいては神を冒涜するものであります。この度の騒ぎは、歪められた皇室と政の姿を正し、再び帝の御世に太平あらんことを願うものであります。殿下のお心の安らかなるを乱してしまったこと、平にお詫び申し上げるとともに―」
「よい。お前達の言い分は《《分っている》》。」
「……慧眼に御座います」

 ふん、とわざと聞こえるように鼻で笑い飛ばす皇女。〝わかっている〟。わかっているとは、どういうことか。

「豫を奉り上げ皇室の正当性を旗印にして、秦と稲を放逐したかったのだろう? 月の字が欲しいのなら、好きに名乗ればいい。それに、求めるものは姓だけではないのだろう、豫を皇帝に推す代わりに何を欲するのか、申してみよ。……駆け引きは無用だわ」

 御簾の向こうにシルエットを揺らす皇女は、報告に駆けつけ即座に褒美をねだる傲慢な|綿部《わたのべ》の姉妹に、あからさまな不快感を示している;だがそれを実際に処遇に反映させようとするつもりはないようだった、剰えその要求を全て飲んでいる。
 出来事を仮に文書へ事実として著すのならば、月帝の権威は地に落ち摂関執権に力を簒奪され逆うこともかなわない惨めな姿にも見えるだが、そうではないことを、この場にいる誰もが肌で感じている;当の綿姉妹も例外ではないだろう。その証拠に、不躾な要求を突き付ける一方で、その態度は表面上どこまでも従順に見える。もぎ取れる果実はもぎ取るが、木を切り倒すことまでは望まない;|綿部《わたのべ》の振る舞いは、|意琳《イ・リン》の目にはその様に映った。

「ふん。まずは月の尊称を与える、ならば綿は今後は綿月を名乗るか」
「お許しいただけるのであれば、そのようにしたいと考えております」

 はあ。その溜息は、思い詰めた性質のものではない、どこか呆れたといった色を匂わせていて、それは月を名乗ろうという綿の傲慢に対するのではない別の不満を表している。だが、それ以上に、どこか、作為的だ:|意琳《イ・リン》は感じた。

「まあ、豫を立ててくれたというのだから、それ位のことはしないと示しは付かぬかな。月の字を受けて尚、|綿部《わたのべ》は忠義を保つと誓うか?」
「御意に。」
「我らの覚悟は予てよりのもの。それは、ご承知頂いているかと存じます。」

 綿豊子と綿依子の〝処女〟は、性徴が現れるよりも相当前に施術されている。まるで必要がないほどに早くそして、深い〝処女〟は、人工臓器を用いた女性器の再建も行っていないことにも示されている。綿姉妹の下半身に、女の証がおりたことは、生まれてこの方一度もないのだという;それが来る前に、その源を抉り取っているのだから。
 一般庶民が去勢によって公務員試験を免除され官吏となることは今でも、多くはないが散見される出世ルートだ。だが四大連の氏次長たるこの二人にはそんなことをする必要はつゆとも無い、黙っていても政界の頂点に君臨することが約束されている筈なのだから。

「ええ、知っているわ。女を、捨てているのだったわね?」

 月人の娘個体出産は殆どの場合、性器の交合など契機とせず自然発生の生殖細胞も用いない;一部の自然妊娠指向の者を除いては、次世代は人工授精と人工子宮によって〝作り出される〟。従って処女の後に性器を再建しないことは生殖可能性や性を捨てたということではない;だがそうではないにしろ、彼女達の凄みに、疑いの余地はなかった。
 綿姉妹の処女は、女性の|穢《褻枯れ》を徹底的に排除しようとしたもので、それは|綿部《わたのべ》の長が彼女等を政治の道具として扱った証であると同時に、ある意味では全幅信頼してのことだったろう。だが、その長も亡くなったのだという。|秦部《はとべ》が私兵を掻き集めて抵抗したとしても、軍を動かした|綿部《わたのべ》との間には圧倒的な兵力の差があったはずだ、戦死など万に一つも考えにくい;極めて不自然な死だったが、今となってはその真相を解き明かすこともかなわない。

(……なにかが)

 不自然なことが多い:|意琳《イ・リン》は状況を訝しんだが、内親王の発言がその疑念を一層に深めさせる。

「豊、依。豫はそなた達を信頼している」

 皇女の声色が穏やかに和らいで、御簾越しにさえその態度が解れたのがよく伝わってくる。信用の言葉を受けて綿姉妹は、更に深く頭を垂れた。

「そうね、|弓月《ゆづき》も|五十浪《いそら》も残念だったけれど、これからは我等が次の世代を作る、そういうことであろう」
(……え?)

 御簾の向こうから聞こえた声に、|意琳《イ・リン》は自らの耳を疑った。

(〝|弓月《ゆづき》も|五十浪《いそら》も残念だった〟? 二人とも討たれたというの?)

 |意琳《イ・リン》が驚いたのは、|太秦《うずまさ》の若領である|弓月《ゆづき》と|稲員《いなかず》の次代たる|五十浪《いそら》が殺された、という事実の方ではなかった。

(豊と依がここに来てから一度も彼らの名前は話題に上がっていないと言うのに、何故殿下は彼らが亡くなったと、断定しているの? まるで、もう知っていたみたいに)

「豊、依。そなた達なら、きっと月の太平を保ってくれるだろう;いいだろう、豊、依。月の姓字を使うことを許す。豫が即位してからも、関白として補佐して貰おうと思う;それで遺恨内な?」
「「謹んで」」
「何より、綿は遠く遡れば豫とも姉妹のようなもの。頼りにしている」

 関白。帝の補佐機関で、殿上者として皇帝に準ずる高位の官職だ;二名ともをそれに就けるという。内覧の権限を持つ関白は、皇帝への報告奏上を、それに先んじて受けて好きにフィルタし、通過させた案件に関しても強く影響力を保つ;ならば仮に皇女が即位したとしても、皇帝に殆どの権威は残るまい。

(外戚の件、わざわざ引っ張り出すなんて)

 |綿部《わたのべ》が皇帝の外戚であることは、綿家が自称しているに過ぎず公的な見解ではない。実際に大きな権力を握っているから黙認されているが仮に他の誰かが同じようなこと口にすれば処罰も免れない発言だった。だが同時に綿家がまったく皇族と関係がないとする資料もない、いかんせん話が古すぎるのだ、綿家の論拠となる書物が史実に能うるのか、その真贋も(何を以て真とするのかさえ)誰も答えを持っていないのだ。どこまで遡ることなら史実であって、どこよりも過去は神の代の昔話として扱うのか、明確に定まっているわけではない。
 それを知っていてこの内親王は口にしたのだろうか。元から綿家が後続の外戚であると考えていたからなのか、それもわからない。その心中はわからないまでも、こうして口に出しそれを肯定したということは、言葉以上に意味のあることだった。幸か不幸か、この場にいるのは、皇女、意琳、綿豊子、綿依子の四名。あとは|稚兎《ちと》が数匹だけだ(|稚兎《ちと》はこうしたときには人として数えられない)。

 やはり殿下は、もう諦めておられるのでは。力の均衡も、皇帝としての妥当な力も。政治を嫌いさっさと実権を誰かに譲って第一線から離れたがる皇帝も歴史上には何人もいた、この皇女もそうなのだろうか。

「殿下、少々、お言葉が軽くはありませんか」

 だが、この皇女の考えるところにはどうにも汲み取りきれない深淵を感じる。|意琳《イ・リン》は動揺を抑えきれない顔を袖で隠し続け、だが言うべきことは口にした。保身のためではない、別に|綿部《わたのべ》の言い分に強く反発するつもりもない、単純にこの皇女に戒めを送ろうとしただけだ。だが、|綿部《わたのべ》の娘たちにはそうは映らない。政敵、その事実に変わりはないのだから。

「|意《イ》殿。まだ〝処女〟も施していないあなたと、我々は覚悟が違うのです」
「女の陰気が漏れ、《《陛下》》に|触穢《そくえ》があってはならない。それを承知で、女を保つなんて」

 綿豊子と綿依子が、|意琳《イ・リン》へちらりと視線を送り勝ち誇った言葉を投げる。相応の年齢になり、女穢の兆候も現れていると言うのにまだ〝処女〟をしない|意琳《イ・リン》には、反論の余地はない。皇帝に|穢《褻枯れ》を伝染させることは、綿姉妹の言う通り、絶対にあってはならないことなのだ。

「琳、そなたも、頼りにしている。」
「―は。光栄に御座います」

 後から取って付けたような言い方だが、その言い回しに対しては|意琳《イ・リン》は疑いを抱いたりはしていない;疑いではないむしろ、首筋に宛てがわれた冷ややかな鋭い鉄の塊のような感触に、恐怖さえ抱いていた。



§ § §



 王たる者に一度は失った光を再度もたらした知恵者であると伝説されている意家は、元より帝の諮問機関であり御用学者としての立場が強かったが、その意家にあって|意琳《イ・リン》は少し道を外れ、医学の道を志し、見事にそれをモノにしている。内親王の侍医として身の周りにいることが多く、相談役としての立場をより強くしていた。同時に帝の侍医は固辞し関わらなかったため、その崩御にあたって責を問われることもなかった;政治的な肌感覚でそれを避けたのだろうが、さすがの機転だと、良くも悪くも囁かれている。
 意家、ひいては|意琳《イ・リン》の明晰な頭脳と、それに依って皇族に近づく妥当さについて、他の有力貴族たちも認めざるを得ない。こうして侍医として公私の曖昧な領域で内親王と接する|意琳《イ・リン》と、同じような領域で張り合おうという者はいない。

「勘違いしている?」
「勘違い、と申しますと」

 ……などという前置きを差し置いても、皇女にとってこの侍医はお気に入りだった。|意部《いんべ》の実質的な長であることもあるし、殿上に登った女性の中で気性が合うのは彼女だけだったからだろう;綿の娘二人も女性に違いはなかったが、この内親王とは微妙に馬が合わなかったのだ。
 〝沐浴も立派な医療行為である〟今更そんな詭弁が通用するのもおかしな話だが、実際に通用するのは皇室というのがまさしく浮世離れした空間だからだろう;今内親王が上がってきた浴槽は確かに薬効の見込まれる湯ではあったがそれでも態々医者が立ち会うようなものには思えない、それでも皇族が使うのならば最新の注意を以てということならば誰も否定はできないだろう、意家が入り込んだ権能源泉とはこうしたものだった。

「失礼いたします」

 |意琳《イ・リン》は、自らも浴場に相応しい薄布だけをまとった格好で、浴槽を出た内親王の体を上等なタオル丹念に拭っていく;皇女自身も手頃なサイズのタオルで拭いてはいるが、任せっきりにしているわけではないというポーズでしかなくそれが皇族としてのマナーの内の振る舞いであることは明白だ。
 体を拭くことさえ部下にさせる、一見皇族あるいは上級貴族らしい傲慢さのようにも見えるが一歩間違えば丸腰で刃を向けられる状態だ;これはこれで〝お前に任せる〟という信用の表現であって、こうした立場にあって部下の半目を買うようでは容易に殺されかねないのだから、ある意味では持ちつ持たれつの舞台、それに、公私の境界が最も曖昧になる瞬間だ。
 そういう点では〝洗兎〟も同じだが、洗うという行為は、される側には清めだが、する側には穢れが溜まるとみなされている、下級の兎に任されたまま顧みられていなかったし、この皇女は洗兎を使っていなかった。

「いいお湯だったわ」
「有り難いお言葉、湯係の兎に伝えておきます。大変喜ぶことでしょう」

 定形と言えば定形なこんなやり取りを、頭の処理能力のほんのわずかにでも使うことなく―兎達に皇女の言葉を伝えることは忘れないにせよ―対応しながら、琳は皇女の体から水滴を取り去っていく。浴室から漏れ出す湯気と湿気に混じって、皇女の香りが空気に満たされる;これが湯に混ぜた香油の香りだとは誰もが知っていることだが、この皇女の色香はそれを捕まえて我が物にしているようにさえ思えた。
 殿下は、美しい。
 こうして湯浴みの世話をするのは|意琳《イ・リン》にとって毎日のことであるが、その毎日の仕事の度にまるでそこまでが仕事だとでもいうように、彼女は皇女の裸体を目にする度欠かさず同じ感想を抱いていた。
 皇族と言うだけで、肖像画では別人と思われるくらいに美化して描かれたり、容姿端麗具合を虚構レベルに盛られて記述されたりするのが常だが、この皇女の美貌は本物だった;女好きで通った前帝と后の間の実子ではないのではないかと囁かれるほどだ―というのは|意琳《イ・リン》の感想であったが、それ自体は誰もが認めるところだった。まだ月の都が月になく地球の一部を占めていただけの頃、仮に隣接する他の国との間に外交が必要だった時代なら、きっと政略結婚の素材とされ〝傾城の〟という言葉を恣にしたに違いない。これも、|意琳《イ・リン》の感想だったが。

「|秦部《はとべ》と|稲部《いなのべ》を、|綿部《わたのべ》の軍事力をけしかけて潰したのが、私の企みだなんて、まさか考えていないわよね?」

 体を拭っていて、急に政治に関わる言葉が飛んでくると思っていなかった|意琳《イ・リン》は一瞬戸惑った。湯浴みの間にそれ以外の言葉を口にすること(湯浴み以外もそうだ、皇族にとっては何かすることはそれ自体が祭儀なのだ)は、皇族としてはよろしくないことだとされている。だが、それを押して口にするのは、この皇女のリベラルとも型破りともいえることだ、長年それをみてきた|意琳《イ・リン》は、驚きこそすれ、以外とは思わなかった。

「そのような大それた考えは、私には思い及びませぬ」

 考えていたわけではないだが、その可能性が全く無いとも、|意琳《イ・リン》は断じていなかった。あんなにも優しい、もっと的確に言えば甘かったこの内親王の発言が、ここ数ヶ月で急に、|意琳《イ・リン》にわからなくなった;まるで狡猾な政治家を前にしているような気分で、それ自体は|意琳《イ・リン》にとって経験のないことではないが、皇女がそうであることには居心地の悪さを感じていた。

「考えてたって顔してるわね」
「いえ……しかし」

 流石に、そんな思惑があるとは思えない。いくら最も皇帝に近い存在だといえ、四大連を手玉に取るなんてことができるはずがない。何より、今のこの皇女には、兵も、票も、ない。何かを動かすための力なんてあるわけがないのだ。でも。
 皇女は、従者のすすめの通りにガウンに袖を通し、帯は自ら縛った。その間に琳は履物を用意しドレッサーへ促す;次に|宇宙《そら》と同じ色ほどに黒く星を散りばめたように艶めくその髪の毛を梳かすためだ。念入りに曇りを取り除いてあるドレッサーに内親王を招く、それに促されるまま歩みを進めつつ通り抜けざまに、皇女は言った。

「……もしそうだとしたら、あなたはどうする?」
「は」

 |意琳《イ・リン》は目眩を覚えた、強烈なやつだ、まるで天と地がひっくり返り全ての意味がその地盤を失い遊離するような;自分の足元にさえ、今や地面を感じられていない。
 月の頭脳を謳われる明晰な頭も、この皇女の前では空回りする。理解できないというわけではない、理解が及ばないというやつだった。この難解な方程式を解き明かすのに、設置できる未知数の数と式の数が一致しない。思考の範囲を拡大しても、拡大しても、未知数を一つ獲得すれば式はふたつ増えた。
 ドレッサーの前の椅子に腰を下ろす筈の皇女は、しかしそうではなく|意琳《イ・リン》の横に立って肩に手を置き、動かないでと言外に伝えてそのまま、|意琳《イ・リン》の背後に回る。そして、後ろから腕を回してその風呂上がりとは思えないひんやりとした白魚のような手を、下ろしていく。

「で、殿下」

 そこは。
 口にするのも憚られ息を呑んだ|意琳《イ・リン》、皇女はその耳元に小さく言葉を流し込んでくる。

「まだ、《《女》》なのだそうね?」
「も、申し訳ありません。すぐに……」
「いいのよ」

 いいのよ。
 その容赦に、一体何の意味があるだろう。裏を探る|意琳《イ・リン》、だが全く空を掴む。今の皇女には何かをする動機が多すぎる。私の股間には、付け入られる要素が多すぎる、と。
 一方で皇族の女は〝処女〟を行わない。女性の肉体的性質を、道徳観念に反さずに保ち続ける唯一の存在でもある。|褻枯れ《生理》との戦いは、性交出産の代償として、宮廷の中でだけ認知されていた。生の女性でありえるのは、皇族の女性だけなのだ。

「女であることをやめたくない。私はそれを責めることなんて出来ないわ、同じ女としてね。ある歳になったらお前はもう女ではない、そんなこと、決められたくないわよね?」

 皇女の言葉に、|意琳《イ・リン》は答えることができない。何を答えても、正解ではないような気がする。

「年端もない子供だった頃に、綿の二人は〝処女〟したんですって。《《どう思う》》?」

 どう思う、そう聞かれてまともな答えが出るはずもない。本心を言えば神と清めに反するもので、模範解答をすれば自分を罰する。ここまで〝処女〟を先延ばしにしてきた自分への相応の罰だろうか、年貢の納め時、とはこのことだろう。

「帝と皇室への忠誠を誓う、最も優れた家門であると―」
「はぁ〜!?」

 |意琳《イ・リン》が回答を終える前に、皇女は驚いたような口調で割り込んできた。

「琳、私、あなたのことは特別信用しているつもりだったのに、嗚、残念だわ、あなたから私への信用ってその程度のものだったのね!」

 《《そこ》》に触れていた皇女の手が離れ、彼女は「みて、こんなひどいひとがいるの」と誰かにアピールするかのような(その場には|稚兎《ちと》さえいないのだが)ポーズで、落胆と驚きの混じったような反応を見せた。

「流石は学者先生? ってところかしら? 私が聞きたいのってそんな優等生な回答じゃないのよね。ねえ、優等生じゃだめだって私に教えてくれたの、あなたなのよ? あなたが言うのならきっとそうなのだろうって、《《心を入れ替えた》》っていうのに、琳は私にそんな態度! はーざんねん!」

 |意琳《イ・リン》は黙ってしまう;その沈黙を、皇女は萎縮や否定とは捉えなかった、事実、回答は本心ではなく、それは皇女の見透かした通りだった。小さく幾つか頷いた内親王は、もう一度|意琳《イ・リン》を後ろから抱きすくめる。この内親王の容姿が整いに整い過ぎているのは言わずもがなだが、意の娘も決して不美人ではない;鏡には、黒髪の美女と銀髪の美女が並んで映しだされていた。そして、その映像はすぐに倒錯の春画に変わる。

「あなたが変えさせたのよ、この心の臓」

 内親王の手が|意琳《イ・リン》の手を掴み、ガウンの中の豊満な胸の上へ導いた。

「生の女って、嫌いじゃないわ」

 ぞくっ、|意琳《イ・リン》の背筋に甘い電流と同時に氷水が同時に流れ込んできた。

―毒だ、これは

 彼女は優れた薬師であったが、それ故に、それは想像に容易いことだった。
 もう、囚われた? おそらくそうなのだと自覚したところで、皇女は、もはや取引ではなく命令に近いそれを、口にした。

「親政を取り戻したいの。協力して」
「し、親政……」

 幼い頃より自らに付き従い、その存在故に父帝崩御後後見を失い抵抗勢力の四面楚歌中にあって支持基盤を失うに至ってなお、辛うじて暗殺の目を抜け仰せ権力の一線を保ち派閥の一翼を担うに留めさせる、忠実で有能極まりなく、何より信頼を置くその従者へ、内親王は短い言葉で端的に協力を仰いだ。
 罠ではないのか。罠、何の? |意琳《イ・リン》は戸惑った、仮に|綿部《わたのべ》の半目を利用して|秦部《はとべ》と|稲部《いなのべ》の放逐を成し遂げ、言葉の通りに親政を実施しようというのならその|綿部《わたのべ》も排斥しなければならない。それに|意部《じぶん》を利用するというのなら、いずれは自分も突き落とされる、殺されるのかもしれない。

(あゝ)

 〝それではつとまらない〟かつて皇女に投げた自分の言葉を、この内親王は実践しようとしているのだとしたら。
 毒、か。

(本望かしらね)

 月世界で王権が政治を動かしていたのは酷く昔の話、彼女の父帝も帝位にありながら政治を行うわけではなく神職最高位官としての看板でしかなかったのだ。遡ること14代、月人の寿命が〝あの〟地球換算で4桁に届かんという程のそれほど昔にまで遡って漸くに、君主制で政治が行われていた時代に至る。その末期も官僚の前身たる長老達が強い権力を持った議会として元老院を開設し、皇帝はYESを下すだけの承認機関となっていた:今と同じである。実際に親政と呼べる政治形態が生きていたのはもはや散り散りの文書に残る記録のみ;それを、今更復活させようとこの内親王はいうのだ。まともな感覚でその発言を捉えるのなら夢見がちな皇太子の馬鹿げた夢想発言と一笑に付されるその発言、それを大真面目に言う内親王本人と、協力を仰がれた「月の頭脳」とさえ謳われ後に王党派筆頭となる名家〝意〟の長女が、本気で成し遂げようと手を取り合うに至るのには、幾つかの偶然と、それに幾つかの思惑と必然があった。

「色いい答えを期待しているわ」

 空も見えないこの部屋の中で、まるで星空でも仰ぐように乱暴に上へ視線を投げ捨てた|意琳《イ・リン》。歯車は噛み合い回り始めているのか、あるいはもう絶望的にずれて軋み上がり、砕けるのを待つだけなのか。意の娘には、急にどうでも良くなっていた。考えて、この女の頭脳を以て望むのなら、それがどのような結果に至るのか少なくとも最も確かろう予見を弾き出すことはできたかもしれないが、その演算によって導き出される答えよりももっと魅力的な解を、見つけてしまっていた;それは正解でなくとも、構わないとさえ思える。

「いいえ、検討の時間は不要です」

 余りにも長きに渡って継続している官僚政治;汚職と縁故による腐敗にと金権政治が常態化し、皇帝を始めとする神職脈々を蔑ろにし続けることで励起された神罰諸々も、しかし腐敗に始まる官民癒着で辛うじて維持されている。科学技術で神話を恣意的に再現して民の叛意を無理に抑え込み文明を保つという歪な構造、そして何よりそうした体制を眺める月人の寿命が、元より長かったのを更に伸ばし続け社会全体が停滞に沈んでいるという暢気にものっぴきならぬ現状に、畏き内親王と賢き名家の息女の二人がもはや絶望にも似た限界を感じていた。この皇女の企みは、そうした社会への不満からにほかならない。だが、その企みに意自身が肯定的に取り込まれる蓋然もまた、なかった:それでも、だ。

「お手伝いします、陛下」

 この皇女が|意琳《イ・リン》の《《感情》》に気付いていない訳もなく、それを利用したことは確かだが、それでも〝乗りましょう〟とすぐに答えた|意琳《イ・リン》の返答に皇女は驚きの表情を見せた、まさか二つ返事で乗ってくるとは思っていなかったのだろう;今の自分に何の力もないことを自覚しているからこそ。
 それまで澄ました表情で体を拭かせていた皇女が、ほんの少し体を強張らせたのを、|意琳《イ・リン》は感じ取った;何を考えているのかわからない、そうした感情を逆に抱かせたのだろう、次の言葉が、それを裏付ける。

「して、私には何が与えられますか?」
「……まだ何の計画も予定も立てていないのに、優れた皮算用は怖いわね。それとも、あなたの頭の中にはもう算段が出来上がった、その優れた計算機で?」
「計算なんてしていませんよ、殿……陛下。私の計算機はすっかりもう、壊れてしまったみたいですから。落ちた螺子ももう見つかりそうにありません」



§ § §




 思案するような仕草を一つしてみせた|意琳《イ・リン》だが、その仕草には全く意味がなかったことに内親王は気付いている;つまり意の女は先のやり取りの中ですでに要求をすぐに決めていたということだ;勿体振って王女の様子を窺っている、それも、不安からではなく。

「そうですね。ひとつ、でしたら今ここで、お願いしたいことがあります」
「〝お願い〟という表現は好かないわね;これはいわば褒美なのだから、|意琳《イ・リン》、あなたはそれをもっと傲慢に要求するべきだわでも、まだことは成っていないのよ、何を望まれても今の私には支払うことができない、それに褒美とはそれが成ってから遣わすものだわ、そういうものでしょう? 約束はできるけれども」
「今すぐに頂けないのなら、私はこの件を綿姉妹へ告げ口しますわ、《《殿下》》」
「そんなことを口にして、生かして帰すと思って?」

 皇女が警戒心を顕にしてそう言うと、意はゆらりと身を揺らして入浴時のアメニティとして王侯貴族用の過剰なバリエーションで山の様相を呈した内の一つから真っ白いタオルを一つ、迷いなく掴み取った;それは腰を紙の帯で結ばれており花束のように形成されているがその芯からは筒状の硬質な何かが顔を出した。|意琳《イ・リン》の目的はそれだったのらしい、花びらを思わせる純白のタオル地を片手に取り、残った筒状の何かの両端を掴んだ;誰の目にも明らかだ、それは刃物である。さらりと抜身を晒した銀色の鉄、その姿を見て内親王は目を見開いて息を呑む;そして押し殺したように落ち着きを強調した声色で言った:まちなさい。

「要求は、簡単なことです、陛下。陛下が、嫌だと仰らなければ」

 刃渡り20センチメートル程の直刃の短刀だ、匕首のに比べると少々細く隠匿前提の刃物のように思えた。|意琳《イ・リン》はそれの鞘を捨て去り抜身のまま絵を握る;片方の手には、少々不自然にタオルを持ったままだ。
 誰が見ても|意琳《イ・リン》が内親王を脅迫しているようにしか見えない、だがその場には誰もいない、誰かが慌ててこの状況を抑えるようなことも期待できない;皇女は表情を強張らせて一歩、後ろへ後ずさる。壁際に追い詰められているわけではないだが、このまま一時的に彼女の正面から逃げられたとしても精々《《少々広いだけの》》浴室に追い込まれるだけだ。
 |意琳《イ・リン》に協力を求めたのは間違いだったか、そう公開し始めた皇女はしかし、次の瞬間に意外な光景を目にして驚きの声を上げた。

「陛下」

 一言言いおいて、|意琳《イ・リン》は手に持っている刃物の切っ先を返して自分の方へ向けた。柄の底付近に空白を作り、白鞘を皇女へと差し出してくる:まるで、これを手に取れと言うように。

「琳? どういう」
「陛下に、私の〝処女〟を、お願いしたいのです」
「は?」

 |意琳《イ・リン》が自分を刺し殺すつもりでないことがわかっただけでも、皇女にとっては大きな安堵だった;思わず深くため息を漏らしてしまう:驚かさないでよ。
 〝処女〟。|意琳《イ・リン》はそう言った。刃物を向けているのは自分の腹部だ、それを手に取れとメッセージし、皇女へ鞘を手渡そうとしている。じり/\と近寄られて、壁際に追い詰められる;鞘を手に取るつもりがなかった皇女も、そうしてにじり寄られては洗濯を強いられる。もうひと押しと差し出された白鞘の柄を、万一気でも変わってこの切っ先が自分に抜いたり、そうでなくとも|意琳《イ・リン》がすぐさま自分の腹にそれを突き立てたり、するくらいならばと、仕方なく手に取った。皇女の白く細い指が刃物のを握る、横から追いつくように現れたもう片方の手はタオルを握ったままで、これも持って行けと手渡してきた。何のことだかわからないうちに白いタオルも受け取ってしまう皇女。

「処女、って」
「それが私の求める、協力の対価です」

(このナイフで? 私が? 処女ってパートナが少しけ入刀して、あとは医者がやるものじゃないの?)

 内親王が胸中抱いた疑問はそのとおりであった。処女とは宗教職の強い通過儀礼であって、今日日本当に〝女〟を摘出するのは夫や妻ではなく、医者が行う;だがここには医者はいない
、いるが当事者だ。

(それに)

 それに皇女もそれを知っていた、|意琳《イ・リン》が〝処女〟を嫌がり避け続けてきていることを;綿姉妹を政敵と評しながらも〝処女〟の済未済によってアドバンテージを譲り渡してしまうことを承知していながらまだ〝女〟のままである事実には、処置を避けているという以外に妥当な理由を見つけることは難しい。

「あなた〝処女〟が嫌だって、女であることが望みじゃなかったの?」
「そうです」
「……|触穢《そくえ》は気にしないのかしら? 私手ずから〝処女〟を施すなんて、私に|瘀血《おけつ》がかかるかもしれないのに?」

 皇族に〝女〟の|瘀血《おけつ》が少しでも触れ|触穢《そくえ》に至ることは、決してあってはならないことだ、だが内親王がそう言うと、|意琳《イ・リン》は少し、笑って答えた:挑発的な声、誰を挑発しているか? あるいは自嘲か。

「陛下も〝|女性性《穢れ》〟を恐れるのですね」

 意外な反撃、皇女は警戒した;警戒と言っても敵対的な関係を見てのことではない、自分が試されている、と感じてのことだ。だからといって、この文脈で登場し得る語彙に対して何か冴えた回答など持っている訳でもない。

「……それは政治家として問い? それとも、霽と褻、清めと穢れ、道徳的な問い?」
「いいえ。女としての問いです、陛下。」
「女として?」
「陛下は女として〝女〟をなんと考えますか?」
「……|意部《いんべ》の長が悩む問にこの場で答えろというのね。酷だわ」

 誤解を恐れずに言うのなら、私は今までそんなことを気にしたことがないわ:皇女はそう前置いた上で従者の問いに答えた。

「今日日〝女〟になんて意味はない、それは〝男〟も同じよ。娘個体は機械的配偶子接合によって、親の体に独立して増殖される。雌性同士でも雄性同士でも雌性雄性の組み合わせでも、そこに違いなんてないわ。本質的にはクローンで、恣意的乱数注入を含めてディザインド。だから、男にも女にも意味なんてない。性別の〝性〟にSexの意味なんてないわ、性別の〝性〟は今日Propertiesの意味よ。」
「いかにもその通りです陛下ですが、ですが私は、私はどうしても……性的差別を欲してしまうのです」
「差別を、欲する?」

 |意琳《イ・リン》の奇妙な物言いに、皇女は眉を潜めた;想像こそしていたがやはり真意が掴めない。
 月の社会からは性差別が根絶されて久しい、それがどういったものだかも、想像こそできても実感を持って想起することはできなかった;というのも、月ではもう、皇女が言った通り性別というパラメータ自体がさほど意味をなさないからだ。想像は難しくとも、それが望ましい状態ではないことくらいはわかっている。その旧世代の再生さえ難しい、不幸せな状態を、望んでいるのだという。

「どういうことか、わかりかねるわ」
「どういうことか、私にもうまく説明できないのです。ただ、私はこの肉を以て〝女〟でありたいと、願ってしまっています。女であることに執着するなんて、自分でも異常だと思っています。いつまでも子供でいたいと願う、幼子の我儘と同じです。〝女〟は、捨てなければならない。女に限らず性別というパラメータの持つ分離性は穢れの源泉であって、災厄をもたらす、我々がまだ未熟な人類だった頃の忌まわしい痕跡でしかありません。我々は進化した、猿から生えた下等な人類を脱ぎ捨てたはずです、穢土の人間とは違う、もっと進歩的で、平等で、清く、美しい。だのに、私は」
「それは、差別ではなく、区別ではないの?」
「かも知れません。でも、私は、差別〝されたい〟のです。女として、穢れを生み、|褻枯れ《けがれ》を恐れる、肉として、蔑まれてでも。いえ、むしろ〝女であること〟が理由なのであるとしたら、そのせいでいっそ蔑まれて疎まれたいとさえ」

 滔々と語る|意琳《イ・リン》の口調はしかし、言葉が進むに連れて細り、弱々しくなっていく。

「わからないわ。琳、あなたにとってこそ、〝女〟って、何なの? それは子宮や卵巣に対する肉体保持的自己同一性とは違うの?」
「違うのです、でも、ええ、わかりません、こんなちっぽけな肉器官に私の〝女〟が証されるなんて、許しがたい誇大です。月都の進歩した人類にとって解剖学的な雌雄をジェンダーと結びつけるなんてナンセンス、そんなことは理性ではわかっているんですでも……でも……!」

 言葉に詰まる|意琳《イ・リン》、皇女は先を促した;今の自分はあなたの言葉を少しずつ噛み砕く歯を持ち合わせていないからと:続けて頂戴。

「それでも、私は……〝女〟を捨てるのが怖い。自分が自分でなくなるようで、どんなに屁理屈をこねても、メスを入れて薬を注いでも、私はだって私は〝女〟なのに、私の下半身は女なのに、それを、鉄と火で焼き潰すことが、本当に清く穢れのない体の建築なのだと、どうしても、どうしても信じられないのです。綿姉妹の潔さが、私には眩しくて羨ましい、ああも毅然と〝女〟に依存せず自己を確立できている彼女達こそ、月人として模範でしょう;私は、どうしても執着してしまう、彼女達のように潔くなれない」
「……正しい〝処女〟を施せば、人工子宮も造営卵巣も、再建できるわ;|生理《褻枯れ》も起こらない欠点のない女、それは主に意一族が積み上げた実績でしょう? 子宮を取って卵巣を失って、仮に乳房を切って捨てたとしても、それでもあなたは女、毅然として女よ。それでは、不満だというの? 待って、誤解はしないで欲しいわ;私は、生の女も嫌いじゃないわよ、その点では、琳、あなたと同じ。でも、あなたの気はそれでは済まないわね?」

 頷く。
 もはやこれは「関係性」を問う問題ではない;純粋単純に|意琳《イ・リン》という人間の性同一性と自己同一性更にそれらの統合的認識について、彼女は月人の道徳観念から外れた思想を持ってしまっている;それは精神疾患かも知れないし内分泌系の狂いかも知れないが、ともかくその反社会的な倒錯について自ら吐き出し咀嚼し正しい形に認識し直す破壊的再建を求めているのだということを、この場にいる二人の女は言外に確認しあっていた。

「わかっています、ああ、〝処女〟の適齢期を逸した女の、なんと惨めなことか。私は自分自身の生得な子宮を持たない生き物として自分を保てるとはどうしても、思えない、怖い、そう怖いのです。それを怖いと思う自分がまた、気持ち悪い。これが女の腐ったヤツというものなのかも知れません、嗤って下さい、陛下。そして、命じて下さい、早く〝処女〟しろと。願わくばあなたの手でそれをと、私は望んでいるのです;それが私の願いです。私の中にある〝女〟に、どうしてもSexとしての女を求めてしまうのです。精神的に成熟していないのか、あるいは本当に腐ってしまったのか……気持ちが悪いと自分でも思います、道徳に反する異常な思想です。穢を招くと同時に、差別的です。反社会思想です。精神異常者です。だのに……どうしても、私は、〝女〟であることをやめたくない! 〝女〟としてしかいられない、哀れな女を、どうか裁いて下さい!!」
「琳、私は、あなたが〝処女〟をしないままでいても、構わないと思っている。あなたは医師よ、しかも比類なく優秀で、何者の理解も及ばない位に高度な。もし琳の体に|女性性陰気《けがれ》があっても、そんなものどうとでも隠し果せるわ」

 それはその通りだろう;|意部《いんべ》の行う医術の内訳を他の誰もが理解し得ない、|意部《いんべ》の民が奥義を尽くした医術だと言うなればもはや誰も追及し得ない、それは隠蔽にはもってこいの筈だった。だが|意琳《イ・リン》はそれを拒絶する。

「ですがそれではいけません、陛下」
「私は〝女〟も|褻枯れ《けがれ》も恐れたりしないわ、忘れている? 私も女なのよ。女が汚れを生むという錆びついた鎖、女を消し去れば清らという黴の生えた思想、それこそ《《豫》》が刷新しなければならぬ世界だと思っている。本当に、女に穢れなどあると、思っておらぬ。だから、|意琳《イ・リン》、そなたが願うのならそのままでも」

 皇女は|意琳《イ・リン》の《《女の証》》に手を遣り、触れた。「ええ、女だわ。それの何が悪いの?」追い縋るような主君の問いかけを、しかし従者は振り払った。

「いけないのです。私が願うのならと陛下が仰るならば、それはその逆です。私は、女を、捨てなければいけない。全てを擲ってあなたに奔るなら、あなたの障害になるもの全てはここに脱ぎ捨てなければ」

 |意琳《イ・リン》は皇女の手に自分の手を重ね、それを包むように掴んだまま、愛しの君主を振り返った。一度は置いた刃物をもう一度持ち直させ、先端を自らの腹部に向けたまま。タオルも一緒に掴み上げて柄をく無用に一回りさせ、更に内親王の手にももう一回り。細く鍔のない直短刀はそのまま持って力を込めると滑って怪我をしかねないから、と。安全に細い匕首を握り直した皇女に向かい、しかし君主に向ける視線と口調とは少し違うそれで、|意琳《イ・リン》は言う。

「だから、琳、そんなこと―」
「ねえ《《■■■》》、私は、私自身よりも、あなたを選ぶの、そう言っているの」
「……重たいわ、ソレ」
「そうね、私の女を殺して欲しいなんてね。……この未練たらしい女に、どうかその慈悲で、とどめを刺して」







 二人は浴室に移動していた。浴槽の縁に腰を載せて股を開いている|意琳《イ・リン》、成熟した女の股は目立って高い陰阜を成していたが、それには不釣り合いに陰毛は薄い。

「鋤いているのね。《《盛り具合》》、気にしているの?」
「へ、陛下、そんな言葉、ご、ぞんじ……なんですね……」
「庶民の風俗を知るのは皇族にとって立派な努力義務よ〜? あなたに向かって披露するとは思っていなかったけれど。ていうか、私だって女なんですけど?」
「ぅぅ、毛があると、余計に膨らんで見えるので……《《削ろうか》》、迷っていたんですが」
「そんなのもったいないわ。《《膨》》らみマンコは、《《膨》》を呼ぶマンコよぉ?」
「まっ、ま、まままままままま、陛下、そんなっ……!」
「ちょっとぉ。これから私に無免許〝処女〟をさせようっていう人間の発言なワケそれ?」
「ぁう」

 浴槽と言っても皇太子邸宅の浴室のそれだ、池と間違うくらいの大きさがあって、湯の代わりに水を張れば鯉でも放てば本当に池になるだろう。大きな浴槽に向かって熟れた女股を開いて晒す|意琳《イ・リン》;自分の体の特徴を〝処女〟から逃げてきたせいで変形してしまったはしたない体だと恥じているようだった。その足の間に体を割り込ませるようにしている皇女は、|意琳《イ・リン》の下腹部の姿をまじ/\と見、そして、撫でるように、どこか優しく、触っている。

「ハァ、まさか皇帝に相応しいかよりも先に、医者の素養を求められるとは思わなかったわ:まるで無理な話」
「申し訳ありません」
「で。……本当にいいのね?」
「大丈夫です。終わったら、すぐに|意部《いんべ》の医者を呼びます」
「そうじゃなくて」
「はい?」
「私がやってしまっても、ってこと」

 そう言うと、意は王女に向けてまっすぐ、迷いも曇りもない澄んだ視線を向ける。

「あなたに、してほしいのです」

 わかったわ:皇女もまたある種の覚悟を決めて従者の目を見つめ返す;握った刃物は決して医療用のものではないでも、そんなことを言い訳に拒絶することも、今更臆病だし非礼なことに思えた。

「あと」
「なに?」
「できるだけ、乱暴に、してください」
「……わかったわ。でも期待しないでね、私はおしとやかなの」
「ぇっ」
「ちょっと?」

 ふざけたようなやり取りは、処置を目の前にした緊張の誤魔化しだ;これを政治取引の対価にと依頼した|意琳《イ・リン》にとっても、取引を持ちかけた皇太子にとっても、未体験のことだそれに、悪しく思っていない相手の〝処女〟を施し施されする本番を目の前にして全く平静を装うにも逆に大真面目に向き合うのも、なんだか違う気がしていた。そもそも〝処女〟などという儀礼に、真面目に向き合うほどの価値なんてあって堪るものか:施す方にも施される方にも多かれ少なかれそうした想いが、あったから。

「緊張してきたわ」
「そう、ですね」

 だがそれも、実際に鋭利な刃物の切っ先の、ひやりとした感触が下腹部に当たりあるいはそれが柔らかな皮膚へ沈む感触が指先を伝って来たのを、感じるそれまでのことだった。

「い、いれるわよ」
「はい」

 |意琳《イ・リン》の、陶器の造形のようにすっと通った臍すじに沿って下った白い丘には、無駄な毛の一本も見えない、新雪の雪原のようななめらかなで肌理の細かな表面を、唯一犯すように銀色の尖りが降ってくる。
 柔らかく弾力に富む皮膚肉は鋭い鉄の先端の圧迫を受けてもすぐには裂けずに押し込まれるように凹んで耐える、しかしそれもすぐに限界を迎えた:ぷつん:静かに弾ける感触、そしてすぐに新雪の平原に赤い泉が湧き出した。表面張力でドームをつくり、鉄の先端に塗り拡げられるように辛うじて広がっていく;泉の湧出に勢いはない、まだ侵襲は、〝処女〟を施すには余りにも浅い。

「もっと、です、それじゃあ」
「え、ええ」

 権謀術数を繰ろうとするさしもの皇女も、〝さあ刺して下さい〟と狂言する者に向けて力の具合に迷いがあった。険しい表情で小刀を握る、タオルで巻いて滑り自傷を防ぐ処置をしたのにその程度の刺傷では意味がない;取り除かなければならない|褻枯れ《女》は、そんな浅い場所にはないのだから。

「もっと」
「わかってる」

 更に押し込む、だが、そう深くは差し込まれなかった。柔らかい肉を掘り進む感触が、まさかこんなにも生々しくざらついた、だのにヌメった複雑なメッセージを投げかけてくるとは思っていなかったからだ;皇太子は、僅かに怖気づいていた。

「思い切り、入れて、下さい」
「わかってるって、ば……っ」

 自分の腹に感じる鋭い痛みがしかしまだ浅いところで止まっていること、股を開いた間に割り込んできている内親王の姿が酷く小さくしぼんで見えた|意琳《イ・リン》は、檄を打った。

「その程度で、その程度の意思で……陛下の謀が成るとお思いですか!?」
「わ、わかっているわよ、そんなこと!」

 ぞぶ。
 成分の殆どが水であるという、だのにこの砂に埋まるような、布を切り裂くような、感触は。刃を埋める方も、埋められる方も、想像と全く違う肉の声に、表情を引きつらせた。これはとんでもないことをしているのではないか。でも二人は、止まることなんかできないと思った。止めるわけには行かないと思った。〝女〟を殺し切ることと、月の魔窟で成し遂げようとすることと、全く関係のないふたつの道が、ブレてボヤケて、霞んで、そして重なり溶け合っていく。
 皇女にとってそれが一体何の象徴になるのだろうか、刃を突き立てる〝女〟という|幻影《ぱんとむ》に重ねる敵とは何だろうか;今や内親王自身にもわからなくなっていた、ただ目の前にあるそれを成し遂げる、そのことだけ。従者も君主に殺させようとしているものが一体何の|幻想《ればりえ》なのか見えなくなっていた、ただ目の前にあるそれを殺し切る、そのことだけ。

「わ、あああああっっ!!!」

 何かを振り切るように声を上げたのは、皇女の方だった;その声が浴室中に反響し四方八方から耳へ侵入してきたのを感じた意家の娘は、どこか安堵したような表情を浮かべそして―

「っぐ、あ゛い゛っ……あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛っっっっっっい、いああ、お゛っっ……!」

 痛い、の言葉だけは決して口にしてはならないと、咄嗟に歯を食いしばった;それを口にすることは、皇女への侮辱に当たると思ったのだろうか。
 皇女の刺し入れた刃は確かに深く刺さった、ちょうど臍の下辺りの雪原を刃渡りの八分程までだから深さでは十分なはずだった;だが足りない、目的は、破壊か切除なのだから。

「ぜんぜん、まだ……っ」
「はっ はっ はっ」

 次は、突き刺した刃を横なり縦なりに引かなければならない、もしくは引き抜いてもう一度、もう一度、更にもう一度と、繰り返し刺すか;深く突き刺さったとはいえひと刺しした限りでは酷い損傷には見えないだが、それでも皇女の手は震えていた。

「もっと……もっと!!」
「はあっ、はあっ……」

 生き物の肉のはずなのに、不気味なくらいにざらついた繊維質の感触に、血と脂が絡みつくぬめり、同時にその両方が刃を握るに伝わってくる;それを(いや、一体何を?)引き裂き切り離すように、彼女は刃を一気に横にずらした。

「あっ……」
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っっっっっっっっっっ〜〜〜〜っっっっっ!!!!!」

 ざり、と不自然な音が手を、背筋を、伝って二人の間に響く;力を込めた女は力み過ぎたせいで想像よりも強く深く長く刃が進んだことに驚き、刃を受けた女は腹に爆ぜた痛みが熱に化けて傷口から溢れ出すのを感じた。

「あ゛っ、い゛……あっぐ……お゛、そ、そお、ですっ、陛゛下、これ、をっ゛……もっっっど……っ」
「はあっ! はあっ! はあっ! はあっ! んぐ、ふうっ、はあっ! わかっ、てるわよ」

 脂に濡れた砂を鉄の棒で掻き混ぜる様な気味の悪い感触が響いた後、一文字に広がった裂け目から一瞬だけ白と黄色の、感触とは裏腹に柔らかそうな組織が顔を覗かせ、しかしそれは次の瞬間に赤い濁流に飲まれて消えた。
 どば、と音が聞こえそうな程の勢いで血が溢れ出す;大量に溢れ出た赤が、浴槽のぬるま湯に注がれ立体的な幕を広げていく。浴槽に入らなかった血流は浴槽の縁を伝って床に赤色の水溜りを成長させていった。

「あ゛……死ぬ……私の、私の、〝女〟が、死んで、く……」

 その声色はまるで啜り泣くよう、痛みによるのか、下腹部を切り裂かれて声に力が入らないのか、それとも、決意に反して、後悔しているのか―全てかも知れない。|意琳《イ・リン》の目は涙で濡れていた;大粒の涙をぼろぼろと零して、彼女は泣いている;何を泣いているのか、皇女はそれを問う勇気が出せずにその表情を一瞥したきり目を逸してしまう。
 |意琳《イ・リン》の下腹部が横真一文字に裂けて脈打つように血を吹き出している;だがそして、刃はまだ埋まったままだ、すべきことはまだなっていない。

「つづける、わよ」

 |意琳《イ・リン》の嗚咽は激痛によるものだ;皇女はそう自分に言い聞かせて、しかしその真意を問うことも表情を伺うこともできないまま〝処女〟の続行を宣言する。|意琳《イ・リン》は頷き、浴槽の縁を掴む手に力を込めた;指と指の間から血溜まりの残滓が押し出される。
 怯えを抱えながらも深く突き刺すことに成功した成果を惜しんでいる、問いわけではなかったが、一度突き刺したそれを抜き取る勇気は皇女にはなかった;もう一度、あんなふうに突き刺すなんてできる気がしない。だが一文字にしか刃を引くことができないそのありさまでは、|意琳《イ・リン》の〝女〟を切除することができない;少なくとも、刃の進む方向を曲げる必要があった。だがそれには、刃が肉と皮、筋と脂肪を営利に切り裂いていく方向とは無関係に、刃を回す必要がある。それをするくらいならば一度|意琳《イ・リン》の腹から短刀を抜いた方がスマートであるはずだが皇女にその余裕が生まれることはなく、彼女は刃を意の腹部に埋め込んだままにねじり込むように無理強いて方向を捻った。

「い゛っ、あああ゛あ゛ああ゛っっ、が、ひっっ……! っっは、っはあっ、あああ゛あああああ゛ああ゛あっっっっっ」
「我慢、して」

 皇女が過ちに気付いたのは、意の娘が一際強い叫びを上げてからのことだった。だが今更それをどうすることも出来ない、内親王はナイフを捻り回し切っ先をようやくのことで曲げた。刃が回転した場所では、鉄の薄さと尖りに組織が巻き込まれ、引っ張られ千切れ、引き裂かれている;余計に拡大した損傷箇所では出血が増し、組織を引き千切るような損傷は痛みも大きく、意の娘は耐えかねて悲鳴を上げてしまった。

「あ゛……っ、ぐ、はあっ、あ……ああ……あ」

 心臓の動きに同期して脈打つようにどくどくと溢れ出す血液。内親王の繰るナイフは確実に|意琳《イ・リン》の〝女〟を追い詰め刳り抜こうとしている。腹部を刃物で抉られている意は紛れもなく命の危機に瀕しているしかし同時に、刃によって体から切り離されまさに市に行こうとする〝女〟の輪郭が、|意琳《イ・リン》にははっきりと感じられるようになってきていた。それまで厳然と自分の中に陣取り自分の意思と不可分に癒着しているがしかしその輪郭と境界が漠然とぼやけていた、まるで自分全体がそれであり、それ全体が自分であるとさえ思っていた〝女〟が、突如形を得て境界線を描きそれに沿って自分から剥ぎ取られていく、そうして、はっきりと、初めて、それが見えてきた;今まさに切り取られ捨てられ死んでいくだろう今際の際にあって、それは、ようやくのことだった。
 貧血に揺らぐ意識のそこから手を伸ばしてしがみつく現実の光景、指先に触れるのは女の実態、それは死に行こうとしている。ならば、どうしてこの意識を保とう。血濡れた刃に体温は染み込んで、埋まる切っ先は肉を突いて少し動く度に組織を切り裂いている。|意琳《イ・リン》の腕の中から取り上げられようとしている、それは尊厳と呼んでいいものかも知れない;小さな肉の器官にそれが収まっているなどと、彼女自身信じたくなかった。だが、こうして抉られようとして捨てられようとして切り裂かれてその存在を強く、しかも自分と一体であるように感じてしまう。

「私、女っ、私は女なの、子宮っ、私の……」
「感じてるのね、死にゆく消えゆく女の断末魔を」

 こくん、と小さく頷いた;その表情には、明らかに後悔の色が浮かんでいる。悲しみかも知れない。寂しさかも知れない。

(私が、しているのね)

 誰がやろうと同じことだ。それにこの社会では誰もが皆やっていることだ。今更なんだ。

(私が、あなたを、奪っているのね。殺しているのね。)

 恐怖か:怯えか:躊躇のあった皇女の心境に、変化が芽生え始めている。突き立てた刃をずらし少しずつしかし確実に肉を切り進んで|意琳《イ・リン》の〝女〟を追い詰めて行く行為を自覚して皇女は、腹の底で黒い泡のようなものがふつ/\と湧き上がるのを感じていた。罪悪感や後ろめたさとは違うそれは、《《肯定的な》》感情だった。

「そう、そうなの」

 他人の肉に刃を突き立て殺しこそしないもののより深くその尊厳を踏みにじり冒涜するその行為に、見出してはいけない色を、それはしているように思えた。変化は皇女だけではない、それとまるで|同期《シンクロ》するように|意琳《イ・リン》の側にも歪みが伝染する。
 いや、本当は、二人ともこうなるのを、望み、見越し、待っていたのかも知れない。そうでなければこんな異常なセックスを、交えるはずがない。

「へ、陛下……ぁっ……」
「……臭いわ、琳、酷い匂い。これが穢れた女の|瘀血《おけつ》の匂いなのね」

 下腹部から大量の流血を続けながら、それは意識がほつれて正常な思考と判断を失ったからだろうか、|意琳《イ・リン》の表情から苦痛と後悔の色が消え、口元が緩んでにへらと笑い、目は細って夢見るように揺れていた;視線の先にあるのは、紛れもなく、自分にはモノを向ける皇女の姿だ。
 ざりっ、刃が、大きく肉を割いた。

「あ゛っ、ぐ、あ゛、あ゛!」
「だったらもっと強く感じなさい、噛み締めなさい、思い知りなさい!! 私が琳、あなたのことを奪い尽くしてあげるから!」
「ぁ……ぁあっ……は、い……♥」

 内親王の口調にも既に当初の怯えも気後れもない、むしろ、目の前の女から奪い尽くすことを快感として捉え愉悦に浸っているような、それは恍惚だった。

「ほら……ほら、こうして抉ってあげるわ、あっ……!」

 心持ちが豹変し行動に迷いがなくなった勢いが余って、手と小刀とに巻きつけるようにしていたタオルが外れ、ぬるりと手元が狂って小刀が飛んだ;それは回転しながら浴室の床を滑り遠くの方で止まる。

「はっ……はっ……はっ……」
「ふーっ、ふぅーっ♥ はあっ♥」

 一瞬、いやそれは妙に長い時間に、二人には感じられた;浴室内に二人の荒くれた息遣いの音だけが響き、残忍な傷口から夥しい血液が流れ出している、長い一瞬の、ざわめかしい沈黙;言葉はない、二人の間に意思の疎通があったようには思えないだが、|意琳《イ・リン》は激痛が蟠る下半身を圧してもうひとつ足を大きく開いた。皇女はナイフを失った手を、開かれた太腿に添え、体をもう一歩深く股の間に埋めた。
 失血の朦朧の中で、何かを待ち望むような薄ら笑いを浮かべる|意琳《イ・リン》、無傷にも拘らず激しい動悸を覚え鬼気迫る表情で、血の流れ出す傷口を、まるで睨み付けるように見つめる皇女;その口が緩み:ゆっくりと開き:歯を覗かせて:唇は吸い込まれていく。
 肉の抉れかかった深い傷口を刻みつけられた、腹部に、皇女の口が、寄る:ヒステリックに寄る瞳:暴れる吐息:震える唇:伸びる舌:そして、顎は大きく開かれた。

「っ……♥」
「ぁぶっっ、んぐ、はむっ、ああ、んっぐ!!」

 ゆっくりと迫っていった口、唇か舌かはわからないがそれほんの少し、刃傷部分に触れた次の瞬間、皇女の顎はナイフで刳りつけられた傷口に唇を吸い付け舌を差し込み、歯を立てて肉の断裂部分に齧り付いた。

「ん゛っ!!!♥」

 刀で肉を切り刃で女を切除するのを放り捨て、それを口に含んで食いちぎり食べるように奪う、始まってしまえばまるで崖を転がり落ちるように止まらない、止まらないだけではなく加速していく。|触穢《そくえ》など気に留める様子もない、血濡れて汚れる白い肌同士に、むしろ愉悦さえ感じながら、意は脚を開いて股間を突き出し、皇女はそれに口を寄せて貪り食うように、肉を噛みちぎる。

「あ゛っ゛! ん゛、お゛ぉ゛ぁっ゛♥ へ、陛゛下゛っ♥ 食べ……てるっ、陛下が、私の、腐った〝女〟を、たべ……っ!!♥」
「あむ、がじ、んっ、じゅるっ、んふっ、琳、美味しいわよ、あなたの女っ! ふふ、ああふふははははっ♥」

 ぞるっ、ぞりっ、恥骨からの圧迫で強く膨らみ上がった|意琳《イ・リン》の陰阜の切れ目に、皇女はまるでそれが獲物の肉か何かのように齧り付いて血を啜り、剰えその肉壁を歯で噛み締めていく。首を傾げ、顎を開いて前歯が肉の深くに及ぶように押し付け、あふれて口の中に流れ込んでくる血を啜って飲みさえしながら、皇女は従者の腹の肉を抉り、噛みちぎり、そして口の中に切り取られた肉を食んだ。
 恥丘の肉は脂肪分に富んでおり、肉を食いちぎり口の中に含む度に、血だけではなし得ないぬらりとした脂のぬめりと、そして特徴的な臭みが広がっていく。

「おいひぃ……♥」
「はっ、はひっ……かひゅ……♥ へい、かっ♥ わたひの、〝おんな〟おいひいれすか……♥」
「ええ、とってもくさくて、どろどろて、すっごく女だわ♥ はむっ ずるっ」
「〜〜〜〜〜〜〜〜っっ♥♥♥♥」

皇女が前歯に肉を挟んだまま首を上げ、ゴムのように伸びながら千切れていく自分の女肉を眺めながら、|意琳《イ・リン》は自分の乳房を掴んでいた;いや掴むと言うよりも、爪を立てて指を突き刺し、捩じ切るような扱い。まるでそこにも〝女〟がいて、それさえいたぶり殺すことに快感を覚えているようだった;もしそうならばそれは、自慰だったろう。
 自己乳虐にさえ女の虐待とそこから生じる快感を得ながら、|意琳《イ・リン》はついに後ろに倒れ床に横たわる;開いた股は皇女の腕がすっかりと捕まえていて、歯を立て少しずつ肉を剥いで行く行為は止まらない。肉食獣が肉を食いちぎって行くように、すっかり血塗れ赤く染まった皇女の口は、意の恥丘肉を剥き取ってその下に潜む本丸に及ぼうとしていた。

「刃物なんか使わないで、最初からこうすればよかったわ。あゝ、ぞく/\するっ……!」
「はへっ……はっ♥ はあっっっ♥ 裸に、なってるっっ♥ 私の、〝女〟が剥き出しっっっ♥ ……っ、んっ……! 〜〜〜〜〜っ♥」

 突然、|意琳《イ・リン》の体が背を反らせるように曲がり、波打って跳ねた。びち/\と血飛沫が舞い、辺りを一層に汚していく。

「!?」

 何事か、もしかして、死んでしまっただろうか。皇女は慌てて貪り突いていた陰阜から顔を上げて|意琳《イ・リン》の顔を覗き込んだ;だがそれは杞憂だった(実際に深刻な出血が続いているのだ、杞憂ということはないのだが)。
 |意琳《イ・リン》の呼吸はまだはっきりとしており、自らの乳房を虐待している力は依然強い;その表情は緩んだ頬に潤んだ瞳、吐息は苦痛に耐える喘鳴ではなく色付いて別の熱を持っている。面持ちは、法悦のそれだった。

「イッてるの、琳? 剥き出しの子宮見られてイッているの?」

 皇女はのしかかるように体を持ち上げ覆いかぶさり、その手を肉が剥ぎ取られ内側の赤白い組織が剥き出しになった股間へ運ぶ;そして、顔を覗かせている〝女の部屋〟に、触れた……いや、それを強く握った。

「〜〜〜〜っ、ぁ゛、っ♥ んぅっっ゛っっ゛っ♥ はずか、しっ♥ ナマ子宮っ、裸の女見られて、ぞく/\、しますっ♥ にぎっ……♥ 子宮握っ……♥♥ っ♥♥」

 下腹部の内臓を剥き出しにされ剰え触られ握られた|意琳《イ・リン》は、その度に浴場の床に体を跳ね回らせて血飛沫を上げながら、絶頂に見をよじる。声は快感に染まり、表情も愉悦に満ちている。

「ふふ、最低よ、ズタ/\のお腹の中のナマ子宮握られる痛みでアクメするなんて、最低に穢いワ!! しかも、くさァい♥ 穢れた女血の匂い、クラ/\するっ♥ これでイくなんて、最っっっっっ低のド変態よ、キチガイよ! あははははは、私もね、あははははは♥♥♥」
「あ゛っ゛♥ も゛、もうし、わけっっっ、ございま、せんっ♥ でもっ、感じるんですっ、女をっ、今までで一番、一番、女を感じますっっ゛っ゛っ♥ 私、私女だったんですね、女だったんですねっ……♥」
「そうよ、穢れた女。陰気を撒いて、臭い女。でも、さいっっっっっっっっっっっっこーに、琳、今のあなた、キレイよ♥」
「そんなっ♥ そんなっっ……♥ うれし、い、です♥ でも、でもこれで最後なんですね、あゝっ♥」
「そうよ、月の頭脳と称される|意部《いんべ》の長が、ここまでそれに気づかないなんて、本当に愚か、救い難いほどに愚か♥」
「もうしわけっ、申し訳ありません♥ そんなかんたんなこともわからないバカで申し訳ありません♥ でもっ、うぐっ、ぁ、い゛ぎっ……あぁ゛あ゛あ゛っ!! お腹っ、ナマの|子宮《オンナ》っ♥ きもちいいぃっ♥」

 手が、破けた腹肉組織を掻き分け体腔に潜り込み、血とリンパと漿、それに脂肪でぬらつき鈍く光を照り返す筋と腹膜の間から、いよいよそれを引きずり出す。ぶつぶつと生きたままの体組織が引っ張られて伸び、そしてちぎれる感覚が伝わる。出血は増して危険な量にいたっているだろう。それでも二人は〝|子宮《セックス》〟をやめようとしない。引っ張り出した肉色の百合花のような形のそれを、皇女は目を細めて眺め、表面にキスをした。

「ふぁ……♥ そんな……っ、私……キスされてるっ……♥」
「臭いわ、あなた、すっごく臭い♥」

 臭いと蔑む言葉を口にしながら彼女のの表情は恍惚に染まっており、それを見る女の顔も嬉しそうに笑っていた。
 びくっ/\
 空虚になった下腹部にはもう〝女〟はないというのに、女の体は〝女〟の絶頂を極めて何度も震えて跳ねている。

「子袋からブラ下がってるこの黄色いの、何かしら? タマゴちゃん? かーわいい♥」
「それっ、は、ほんとの、ほんとうの|私《女》、ですっ……♥ ああ、陛下、それを、それをお口に……あっ、あっ、ああっ、そんなぁっ♥♥♥」
「いただきまぁす」

 まるで葡萄の房を豪快に頬張る時のように、高く持ち上げた下側から開いた口と舌でそれを掬い取る要領で、そして窄めた唇で「ちゅるん」と吸い取り、肉百合の両脇にぶら下がる女の核をひとつ、口に含んだ。そして、顎を引いて、ぶちん、毟り取る。

「あぁぁぁぁぁあっっっっ♥♥♥ おわった、わたしのタマゴ、死んだぁっ♥ ふっ、ん、んんっ、イきます、またっ♥ 自分のタマゴ、陛下にカニバられるの見て、ぞく/\感じながら、イきます、イく、イっっっっっくぅぅぅっっ♥♥♥」

 びくんっ、また大きく絶頂を迎えて体を仰け反らせる。

「はーっ、はあぁーーーっ、はあっ♥」
「んふふ、ごらんなひゃいな」

 絶頂と貧血に朦朧とする|意琳《イ・リン》の顔の前に、皇女は口に含み舌の上に載せた卵巣を、見せつける。そして、ゆっくりと口を閉じ、大げさに顎を動かしながらそれを、咀嚼した。

「あ゛っ♥ ああ゛っ♥ あ゛っ……♥」
「んんーっ、ほいひ(おいしい)♥」

 ヨリまくった目で自分の卵巣が踊り食いされるのを見ながら、またアクメをキメている。
 自分でも味わってみなさいな:そう言ってまだ片方のタマゴが残った子袋を口に咥え、そのまま顔を寄せる。喪失オーガズムで震える口がふる/\と開いて、それを受け入れる。
 二人の口で挟み込むように、子宮肉を左右から食み合いながら、興奮に荒れる呼吸を鼻から通す。下品な鼻息は流れる血をしぶかせ、あるいは赤い鼻提灯を膨らませた。
 あぐ、/\、と弾力のある肉袋を食みながら、うつとりと表情を恍惚に染めてお互いの視線を絡め合う二人。ぞくんっ、ぞくんっ、と少痙攣を小刻みに繰り返しているのは、今は二人ともだった。自分の下で組み敷かれながら法悦を漂う女を見ながら、責め立てる自身も感情イきしてしまっていたのだ。
 噛み付き合う子宮はしかし食べきれるものでも食いちぎれるものでもない、肉百合越しのキスに酔いしれながら飽きた頃にはそれは、ぼとり、と床に転がる。

「はっ……はあっ……わ、私まで、あてられちゃったわ……♥」

 にへら、と笑う皇太子は、女の象徴を失った傷口に手を伸ばして、乱暴にその損傷組織を撫で回す。腕にべっとり血液を塗りつけてから、その赤い濡れを、組み敷いた女の体になすりつけていく。

「ふふ、女の穢れの匂い、クセになっちゃうかも……♥」
「は、ハヒィ……ん♥」

 白目を向いて、死体特別がつかない位に弛緩した女の顔に、血を塗りつける。黒みを帯びた赤化粧が、女性の陰気が生命力の欠如を示すなんてことが嘘だと証明しているみたいに、鮮やかに表情を彩っている。今度は直接、口づけた。

「〝処女〟は、終わりよ。すっかり取ってしまったわ、あなたの〝女〟」
「おわっり、ました……わたしの、〝女〟は、おわりました……」

 消え入るような声は、気狂えた絶頂ゆえなのか、失血で失神寸前なのか;しかしそのどちらでもないと、皇女すぐ思い改めた。

「おわりました……おわりました、おわりましたっっっっ! うううううううううぁああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!」
「っ!?」

 それは嗚咽、だったのだろうか;あまりにも大きく悲鳴どころか咆哮にさえ聞こえてしまう。|意琳《イ・リン》の〝女〟はここで殺され、ならばこれは、〝女〟そのものの悲鳴だったのだろうか。

(やっぱり……未練があるのじゃないの)

 内親王は、血みどろに濡れた頬を、まだ幾分か透明に近い湯でゆすいで、立ち上がる。陶酔は覚ます:深呼吸をひとつ、ふたつ。そして|意琳《イ・リン》の目の前に手をかざし、その目が手を追うことを確認してから、浴室を出る。専用線を引いた音声コンパニオンを呼び出して「医者を。処女に失敗したわ」:直ぐに緊急医療体制が整うだろう。
 ふう、と溜息を付いて、まだ横たわったままの(起き上がれるはずがない)|意琳《イ・リン》の側に戻り、しゃがみこんでその顔を覗き込む。

「琳、やはり医者には人工女性器の埋設ではなくて、組織再生を命じておくわ。あなたは」

 |意琳《イ・リン》の処置血に濡れた皇女は、改めて血を拭いながら言う。人工性器の再建ではなく自己細胞から再生すれば、限りなく元に近い状態に戻るだろう。あとは、やはり当初考えた通り、隠蔽するべきだ。内親王は、直ぐに情報封鎖の体制を企画し始める。だが。

「後生です、そんなことをされたら私は……何のために〝処女〟を行ったのか……わからない、わからなくなって、しまいます」

 今からでも生理を招かない人工女性器を再建し普通の女性として生きていくことを選択する;そうして何ら悪いことなど、あろうはずがないだが、|意琳《イ・リン》は君主の手を取り、痛みと失血に朦朧とする意識の中でそれを、拒否し、その表情を見た。

「でも、あなたのためだと思えば……耐えられます」
「私はあなたの感情を弄んだわ」
「〝処女〟だけを見れば、綿の子達と、変わりません。これは、私の問題です、陛下」

 か細い声で答える。医療チームが到着した音が聞こえる、命に別状を及ぼすことはもうないだろうだが、彼女にとって、何を抱えて何を手放し、生きていくのが生きていくということなのだろうか。〝処女〟を施した当人にもわからなくなっていた。

「申し訳ありません、陛下。私は、女を捨てる口実に、あなたを利用しました」
「……だったら、一生、あなたはそれを糧になさい。あなたの尊厳を奪ったのは、私よ」

 手を握る。だいぶ血を失っている、冷たい。それでも握り返してきた指を、慈しむようにもう片方の手で包んだ。

「|意《イ》。そなたに〝八〟の尊姓を与え、意家は本日を以て|八意《やごころ》と尊称する。豫の従僕として、よく仕えよ。」



§ § §



 巷を歩けば奇妙な光景、家々の軒先に何やら矢鱈と目に付く品々;塩、米、それに金属具、や宝石、宝飾品、明らかに金目のものだが、これは強盗が白昼堂々と家の中のものを掘り返して持ち出すものを取り出している現場などではない、こうして見渡す家々の殆どがこうして軒先に不思議と価値のあるものを放り出しては、更に家の中から何事か呪文のようなものが聞こえているのだから、それは尋常の状態ではないというものだった。

「ある意味、壮観じゃのう……」

 通りかかったというわけではない;|物部布都《この道士》はこの様子を見に来たわけだが、そうと知って来てみても、目にした光景の異様さを笑い飛ばそうにそれが出来ずに半ば引き攣った表情でそれを見ていた。はは、乾いた笑い声が漏れる。
 その背後からするりと滑る出すように、突然もう一つの人影が浮き上がって現れた;見れば足がない。膝から下が煙のように朧いで薄れて消えている。その姿を見た道士は、しかしその様子を気にした様子もない、知った顔とでも言うかむしろ連れ立ってやってきたというふう。

「こりゃあ完全に、アレだな、アレ」
「おい蘇我、出てくるな。足の無いお前がこんな所で人目につけば余計に自体をややこしくするじゃろう」
「へいへい、誰のせいで足がなくなったんだかねえ」
「ぐぅ……そ、それでもじゃ、状況を見よ」
「わぁってるよ」

 そういって、蘇我、と呼ばれた足のない人物は煙のように薄れて再び姿を消した;だが声は聞こえる。幽霊というにはどうにも昼間に出歩くのもおかしく、おかしいなりに陽キャだが、幽霊ではないと言うには腑に落ちないその人物は、やはり幽霊だ。

「アレだな」
「アレアレ言うのは老人の証拠じゃぞ」
「うるさいなあ、アレだろ、|床夜神《とこよのかみ》」
「なんじゃそのスケベなやつは……|常世神《とこよのかみ》じゃ」
「しってるよ」
「なら黙っとれ」
「つれねーなぁん」

 また一つの家から、何かが放り出された;見ればそれは上等な衣服のようだ、家の佇まいから判断するに随分《《奮発した》》もののように見えるが、放り出し方は至極乱雑で捨てるが如し、家の外に放り出されたそれは二度と見向きもされておらず、他の家々と同じく家の中からは何やら呪文のようなものを唱える声が聞こえていた。

「この虫は人の心身に巣食う、何度潰しても時代を超えて現れる、嗚、面倒なやつじゃ」
「出てくる度に潰してまわるのが面倒だよなあ、すぐ伝染するし。毎回秦みたいな奴が登場するとも思えないし。あー、こんなに流行しちまったのか」
「そこで、アレの出番じゃ;面白いやつを見つけたからの」
「はあ」
「ほれ見よ、あそこで火の手が上がっておる」

 物部の指差す方には、細く煙の上がるのが見えた。

「なんだい、金目のものを燃やして常世虫に捧げてる煙じゃないのか」
「あ……そうかもしれん」
「お前、自信満々で間違うなよ?」



 物部道士のやってきた先には一軒の他の家と同様に高価な家財道具を軒先に放り出した家、だが妙な呪文は聞こえなかった。その代わりに悲鳴のようなものが聞こえる;この家に限っては、金目のものが軒先に放り出されているのは強盗の仕業かもしれない。
 じゃまするぞよ、と誰にともなく口にして物部は門を抜けて真っ直ぐに煙の元へ向かう。
 家の人間は、押し入った何者かに怯えるように家の中に隠れている。そして煙の発生源は、庭に生えた木の燃える火だった。素直に捉えるのなら、木の燃えるのを眺めるように立つ銀髪の女こそ強盗、あるいは放火魔ということになるだろうか。
 物部はその女の背中に声をかけた。

「常世神の幼体がまた巷を賑わせていると聞いてやって来てみたが、もう収拾している者がおるとは杞憂じゃったか。しかし、まさか|主《ヌシ》がのう」
「……うるさいのが来たな」

 明らかにわざとらしい、姿を消したままの蘇我幽霊は、まるで感心してその人物を見ているような演技をかます物部を見る;わかっててここに来たくせに。
 女が焼いている木には、明らかに不自然な数の芋虫が這い回っている、動きは緩慢で火を放たれた木から逃れることができずにそのまま焼け死んでいっているところだった。

「この虫がお前の言う〝縁〟とか、〝空の輪郭〟とかいうやつの一つなんだろ」
「我は|主《ヌシ》の仇の詳しいことなど知らん;|主《ヌシ》がそれを〝縁〟だと思うのなら、そうなのじゃろ。しかし殊勝じゃあないか、愛しの仇がその火で焼けぬと気付いたか?」
「テメエがそう言ったんだろ、クソ道士。あと〝愛しの〟ってのは撤回しろ、殺すぞ」
「わかった/\、悪かった、取り消す」

 柑橘系の何かが実るその木に宿る無数の芋虫、これが常世神、の幼虫なのだという。財を捨て、この虫を大切に崇めれば福が来る、それがこの界隈で突然流行しはじめた民間信仰だ。信仰、というには伝播が性急で自体が急激すぎる;信仰と言うよりは集団ヒステリーの類と言った方が正確かもしれない。銀髪の女は、その虫を焼いているようだった:持ち前の〝火〟で。

「……こんなやり方は保険だ。オレはあいつを直接焼き殺さなきゃ気が済まない。こんなヌルい炎を押し付けやがって。」
「火力自体は主の鍛錬次第じゃ、励めよ」

 ちっ、聞こえる舌打ちを鳴らして女は言う。

「お前等の厄介仕事を引き受けるために、オレにこんなことを吹き込んだんじゃねえだろうな」
「その通りじゃが? だが確かに|主《ヌシ》の仇討成就にも利することじゃ、嘘はゆっておらぬ。知っての通り、その虫は陸貝を媒介にして蝶の幼虫に取り入る。成長して羽化すれば、立派な常世神じゃ。そしてその陸貝は―」
「嘘を言え、こんなもの羽化したところで小妖精にしかならねえ」
「少妖精でも雑魚妖怪でも、夥しく群れて人に崇められれば神と変わらん。あれが神として顕現すれば、|主《ヌシ》の仇の輪郭もまたはっきりと歴史に現れよう。それを消したくば」
「わかってる、畜生が。オレが焼いて回る限り、こいつは羽化しない、永遠に幼虫だ。しかしこんなにもわらわら/\沸いてくるなんて、クソっ!」
「我々も手伝うから、よろしく頼むぞ」
「ああ、うるせーっ、オレは虫が嫌いなんだよ、さっさとあっちもやれ!」

 焼けて死んでポトリと落ちる芋虫から目を逸らす、文句を言っても仕方がないと観念したかのように、空に向かって文句を垂れる藤原;よく見ると半ベソだった。感心/\と頷きながらそれに背を向けて、物部道士と蘇我幽霊も別の家に向かう、|藤原《中臣騙り》がしたのと同じように押し入ってするかは別として、回る先々で常世虫を焼いて回る;常世虫の駆除だった。
 神代より時折史実に名を見せる〝常世神〟の実態は、半妖半精で虫型をした精神寄生獣のことだ。現実の存在諸々に寄生しながら成長し、羽化したあと最終的に人体に入り込み宿った人間の脳を冒す;人間は幻覚を見て辺りを徘徊した末に死ぬが、その間に歩いた経路に卵を撒く……とされているが、現れる度に羽化を前にして必ず都合よく駆除されていた。未だ嘗て一度も羽化したことはない、ある意味で最も伝説的な存在だった;誰がそれを語ったのかも知れていない。藤原が口にした通り〝|永遠に幼虫のままの存在《エタニティ・ラルバ》〟として知られている。

「しかし何であの子は妖精を殺して回る必要があるんだ? お前、何を吹き込んだんだよ」
「あれの仇は月に登って帰るのだそうな。常世神と三尸虫と庚申待とを関連させれば、都合が良かろ。アレのおかげで、常世神は、アレがサボらない限りは永遠に幼虫のままだ。」
「可哀想に、まだ若いのにこんなやつに騙されて」
「騙してはおらぬとゆっているではないか。それにアレは同類じゃぞ、若くない」
「えっ」
「あれは不死者じゃ。蓬莱人と名乗っているらしいが、我等とは別の方法で練丹をなして死なずの身になっておる。」
「蓬莱人……月?」
「だから、都合が良いのよ、アレをさせておくにはな」
「……布都、お前、邪悪かよ」

 邪悪とは人聞きの悪い、庚申待はれっきとした道教の教えじゃ:と言うその表情は冷ややかだ、口角が僅かに上がってさえいる。

「しかし、ああも容易に火術を呑み込むとは、それこそあの娘を捨てなどせずに陰陽殿にでも入れば藤原家も今暫くは武家になど封殺されずに済んだかも知れぬのに、あれの父も見る眼がなかったな。まあ、親とは子を買い被るか見縊るか、どちらかというものか」
「あれが布都がゆってた|藤原《中臣騙り》の忘れ形見ってわけか」
「あゝそうじゃ、面白いやつじゃろう?

 見た限り、藤原はもう自在に火術を操っているようだった。炎を自らオマージュしたような赤い袴のような下履きには、もう自分で打ったのだろう符籙が縫い付けられている。長く伸びた髪の毛をまとめる髪飾りにまで、火術の呪符が打たれていた。執念といえば執念だが、そこまで行くと少々気持ちが悪い……のだが、口を開けばそうした装いの陰湿さが嘘のような竹割気性が火を吐く、それは物部が拾って仮住まいを与えて見えた頃の刺々しい性格そのままで、ある意味で気持ちがいいものだった;その変わりっぷりと相変わらずの同居を見た物部はどこか満足そうである。

「言うた通り、あれの背後にも〝丹〟がある;我らの立場は決して盤石ではない、我らが次の世に送られれば、あれも付いてくるじゃろう。今の内から|持ちつ持たれつ《なかよしこよし》も悪くはない」
「お前は普段はすっとぼけてるのに、偶にそういう怖いことを言い出すからな。何を企んでいるのか知らんが、あいつの足もなくしてやるんじゃないぞ」
「なるほど、それも良いな」
「おい剣呑だな? そういう黒幕ムーブを隠さないやつをな、最近〝ふらぐ〟っていうんだぞ」
「しかしな、便利じゃぞ、好き好んで歴史の証跡を焼いて回るなど我々に誂向きではないか。あゝ言うのを歴女っていうらしい」
「え、歴女ってそうのなの? それにしたって、オレらの都合のいいように焼いてくれるかな」
「古い神と世界を脱却して新しい神を迎えようとする我らに、焼かれて都合の悪い歴史など一つもなかろ?」
「……まーなあ。しかし、悪徳クソ道士だあ、布都よぉ」
「あれが探しているのは鳥の唾液が固まってるような場所にある貝、鳥経由で寄生虫など幾らでも潜伏できよう。森林性の鳥は、雛へ必要な《《かるしゅうむ》》を与えるために|陸貝《かたつむり》を餌として与えることもある。燕の巣に寄生虫がいたって何も珍しいことはない」
「は? 貝? 貝ってどういうことだよ? お前、あの娘に常世神の幼体のことを、何て伝えたんだ」
「あの幼虫など、哀れ寄生虫の宿主となってしまったただの芋虫じゃ。本体はその中にいる、陸貝経由の精神寄生体の方よ」
「だからそれを―」
「|子安貝《しやつがい》」

 なんだそりゃ、腑に落ちない様子で首を捻っている女幽霊。背後の幽霊がそれを理解しているのか否かなど全く関係のない様子で、物部道士は満足そうに頷いている。そして演技がかった仕草で、左手を受け皿に右手を拳にし、ふたつを叩いて合わせるような動作をして見せる。ひらめいた、そんな動作だが不意に思い付いた様子には全く見えない、既定路線をわざとらしく今ここで発表してみせたに違いない、胡散臭そうにジト目を流す幽霊の表情がそれを物語っていた。

「ああ、そうか、しまった、しまったぞ。あれがどんなに仇の縁起を焼いて回ってみたところで、あれ自身が消え得ぬのを失念していた;縁起を消して回っている内に最後には自身を消すしか無いことに気付く、なんて|理不尽《愉快》な《《りどる》》を唆してみたつもりが、しかし出来上がるのは、あれと仇がお互いを見つめ合うだけの純粋世界ではないか。最高のぷろぽーずじゃな、はっはは、失敗/\!」
「……クソ道士」
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