真・東方夜伽話

ルミナス世界と日出ずる国の革命布告(ニューワールドオーダー)⑥

2019/03/11 23:49:50
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ルミナス世界と日出ずる国の革命布告(ニューワールドオーダー)⑥

みこう悠長
§ § §



 通学路のアスファルトだと思っていたら、黒い表面はコールタールの波打ちだった。
 その黒いシーツにひたひたともひたひたともひたひたとも足音なく足跡をつけて歩み寄ってくる四足足足、犬いぬ? はワンとも言わずにイトミミズの涎をを垂らして、生臭く沸騰する液体を擦り付けてくる。口だ。牙はないが唇はある。

「うああ」

 じくじく濡れる悪臭に、じくじく両生類のタンパク質神経塊揺れる溶ける。絡みついてくる吐息と脚、逃げられない。絡みついてきて、払うことも僕はプレッシャーと貨幣経済の奴隷で365日のマーチがでチューン再生で不快DEPTHリバーブ。あ耳の内側から胃腸を舐め回してくる不快なスライム音だ。毎日こんなこと繰り返して、繰り返して、平面地球説を知らないのか? 天体は隠れない回るだけ。蝕まれるだけなんだ。落ちるか、破裂するか、それか僕の胸、内的宇宙にハングされて再帰的に定義される蛸は、覆い隠された伝説の奥から手を伸ばして僕を頭から齧り取っていく。
 きもちわるい。
「きもちわるい?」
 きもちわるい。
 低い声と息遣い、唸り声と吠える声は僕の耳に入って胃をかき混ぜてくる、振動する、揺らすように強いられていやいやボーリングで吐きそうになる。でも、ここで吐いたら僕は黒いシーツの一部になってしまうから、平面地球のシミになってしまうから、口を抑えてえづいて息苦しいのを何とか堪えようと膝をつくと、蟻地獄のリバースバベルに顎。

「気持ち悪いんだ!!」

 お前は何を言っているんだ? 吠える、声、意味がわからなくて、混沌として悪意のブラフマンが大梵字踊りで破壊を繰り返す。星は上って月を砕き降り注ぐ嘔吐感にきらきらしてる。お前は何を言っているんだ?悪意を吐き続けられるならずっと終わらない。墨なら良かったのに。オートクチュールの悪態ドレスに僕の我慢は限界を迎える引きずり出される。摩擦が痛いばかりなら贖罪の機会もあったのに、突破すると血を吐いて破裂するのに、風船みたいに膨らんでいくこれに、犬はずっと吠える声を注いでいくから、どんどん膨らんでいく。
 お前は何を言っているんだ? がどんどん体積を増やしていって、空に沈んでいく風船は僕の口から出てくる浮袋みたいに言葉と感情をせき止めて、嘔吐。爪が背中に突き刺さる、嘔吐。黒いコールタールのネバつきは口から出られなくなると体中に電気的毒性を蓄積していく、せめて、お前は何を言っているんだ?に答えて欲しい。答えて。なんなの?お前は何を言っているんだ?お前は何を言っているんだ?「お前は何を言っているんだ?」お前は何を言っているんだ?フルタイムドーパミン阻害ボイスが僕をアナログリバーブきつすぎて気持ち悪い。お前のリビドーなんて知らないんだよ、アイデンティティは見えないから。口が割れている。風船みたいに膨らんでいく犬語人面バルーンが僕を床に押しつぶしてそのままそれでも膨らみ続けるとこれが破裂する頃には僕はきっと死ぬんだと、部屋の墨に潜む黒いシミが笑っている。

「押しつぶされて「たち」死んでしまえば、僕はきっと」

 声が漏れており21時にはきっともう七曲りのシリアル接続が切断される。犬。四足の脚の足の足足足犬。おおお前は何を言っているんだ?右から左へと積み上げられる遅効性神経毒の波打ち。黒い表面はケダモノはいるし除け物だらけの優い世界で僕は四足の海の上で黒い残滓を掻き分けて泳ぎ続ける。
 何が目的だ。わからない。何が言いたいのか。「わからない。」「ねえ」なに。
 どうして私を?血を吐きながら抱擁を望む腕は僕を捕まえて皮を剥いで、バックドラフト赤いペンキ牛乳はより良い世界への開かた扉なのだという。バカを言うなと思うがそれを否定できるエビデンスを僕は持ち合わせていない。情緒不安定の薬害に今度は薄濁りをプレゼントされた。蠅を招く。エッセンシャルオイル? 口元にべったりでそを犬と足と黒のサーフェイス。オイルならもっといい匂い臭いい。臭い。口元に臭い。も散々だっていうのに。お前は何を言っているんだ?

「ちょっと」
 腕が、曲がる、逆に。うねる。腕が。唸る。歌には聞こえないそれは。穿つ。
「たち」

 迫ってくる。ラテックスの膜を張った巨大な骨格が、僕の呼吸器に貼り付て窒息を訴えてくる。ハリネズミ、助けて。流れる糸引き液に嫌悪感はくさやの正当性をインターネット配信で伝えうと思わせてくる。ほら。また。ほら、ほら、笑っている歯が月にへばりついて僕は暗黒伝動皮膜の上を滑り降りる涙のようなものなのののだ、内側に深海とガラスのアンチノミーを溶接してるのから、僕はそれに抗うことができに、潰れ雀。隙間に差し込む朝日が全然救いにならなくて、大人はみんなマンホール鬼をやめることができない。だからここには来てくれなくて、ずうっとサングラスのぬいぐるみ。
 ほら、腕が。
「ほら、腕が。」「くに」
 ほら、「腕が」。腕が「腕が」腕腕腕腕「たち」「腕腕」腕「腕腕腕。」
 
「|国立《くにたち》!!」
「えっ?」

 ほっぺたが痛い。
 頬を、何かが両サイドから挟んで引っ張っている、何かはすぐにわかった。瀬織さんの手だ。

「なにひてるの」
「それはこっちのせりふ……大丈夫?」
「え?」

 ソファに体を投げ出して、僕は仰向けに横になっていた。声と、それに至近距離の映像で瀬織さんだとわかったが、他の光景が片っ端から歪んで滲んでいる。

「うなされてたよ」
「ああ、そうなんだ、ごめん。起こしちゃった?」
「それは平気なんだけど……ちょっと、普通じゃなかったから」

 はい、と手渡されたのはタオルだ、目元から頬までがべちゃべちゃに濡れている。

「あり、がと」

 受け取って、顔を拭く。顔全体を覆うようにしたまま、大きく息を吐こうとしたが、巧く吐けなかった。ひく、ひくっ、としゃっくりのようなものが混じって一直線に呼吸ができない。本当に、ないているときみたい、いやきっと、泣いていたんだろう。
 夢の内容はよく思い出せない、ただ、断片的に浮かんでくるのは。

(母さん……)

 母親の、意味性。映像が浮かんでくるわけでもない、ストーリーも出てこない。断片的な情報だって思い出せなくて、言葉一つも紡ぎ出せない。でも、頭の中にこびりつくように残っていたのは、母親という言葉の持つ意味の残滓のようなものだ。そこから立ち上る熾火煙のようなものがもうもうと頭蓋骨の中と胸骨の内側にぎっしりと詰め込まれて膨らみ圧迫してきていて、何も思い出せないのにそれだけで吐きそうになる。えづいた。

「ごめん」
「あやまんなくってもいいってば」

 瀬織さんは、僕が状態を起こしたソファの隣に腰を下ろした。

「ほんとに、大丈夫?」
「だいじょうぶ、すこし、水でも飲んで……」
「今更、後悔しているの? なんて馬鹿なことは聞かないけど、やっぱ」
「後悔はしてるよ、欠片でも僕はまともな人間性を持っているんだなって、この嫌悪感が示してくれてる。すべき事をしたからって後悔がないわけじゃ、無いでしょ。殺さずに済む方法があったなら、その方が良かったには決まってる、あんな方法しか選択できなかったこと自体は、やっぱりどっかで後悔してるんだと思う」
「そう、だね」

 瀬織さんは、隣に座ったままそれ以上近づいても来ないし、でも立ち上がりもしない。僕の方を見ることもしないけど、背を向けもしない。その距離に、ずっといる。

「後悔、しているのから、それとも、まだ、怖いのかも」
「こわい?」
「怒られるのがかなあ。なんでこんなことしたんだ、って怒鳴りつけられて、《《躾》》を受けるのが。もう、いないのにね。終わらせたはずなのに、逃げられない。これなら何のためにやったんだかわからないや。悪いことをしたと思っている僕が、一番情けない」

 非合理的な思考だ、親を殺したことは、親が気に入らないから、親がまた僕を怒鳴りつけバツを加えるのだという、恐怖心が、未だに胃のそこにわだかまっているのだ。ありえないのに。
 僕の心臓と脳味噌の中に残っている匂いの正体は、たった今までそこに母親が(の亡霊)がいたのだという残響のようにも思える。

「殺しても、まだ解放されないのかな。折角、瀬織に手伝ってもらったのにね」
「|国立《くにたち》……」

 視界の済で、瀬織が僕に向かって手を伸ばしてしかしそれ以上を留まったのが見えた。でも彼女は未だに僕の横にしわって、視線も呉れずにいる。
 今の僕には、そうやって、適度に放っておいてくれる彼女が、酷く頼もしく思えてしまった。

「あー、寝よ寝よ。だめだね、凶悪犯罪者がこんなんじゃあ」
「もっかい、寝られそ?」
「たぶん」

 じゃ、寝よ。そう言って彼女はソファの上で体育座りするみたいに膝を抱えて、ちらりと僕を見た。寝ろ、と言う意味だったろう、僕はもう一度目を閉じた。
 すぐ傍で、でもつかず離れずのところに感じる遠い人肌のおかげで今度は、変な夢は見ずに済みそうだった。
 彼女は小さな身じろぎで、どういたしまして、と伝えてきたような気がした。

「ありがとう」

 その夜は、髪の毛一本だって触れうこと無く過ごした。



§ § §



 基本的には髪の毛一本だって触れあう事無く過ごすという約束だった。《《基本的には》》。
 池袋の外れにある事務所へアクセスの良い東久留米に構えた居住は、普段使いのボロの事務所よりも尚小さい賃貸アパートだった。金に不自由している訳ではないがこのフジワラという人物は住まいという点では贅沢の仕方を余り知らない人間だ、この部屋は慎ましい寝食と狭い風呂を満たすためだけに用意されていた。駅観点では池袋まで1本という立地ではあるが、件の公園に寄せて借りたこのアパートは駅まで徒歩で20分以上かかる、間取りも小さく決して贅沢な物件ではない。最寄り駅に限ってはいい場所であるが、この場所が好きだったのは近くに豊かな竹林を抱いた公園があったからだった、それは遠い故郷を思い出す、いや、忘れないように記憶に引き留めるのに、必要だったのだろう。
 その小さな木造アパートの一室に、今はゆったりとした橙の間接照明が揺れている。現代には些か似合わない《《たんころ》》に灯った火の揺らぎだった。

「ふ、うっ……」

 橙色に揺れる仄明るさの中に、悩ましげな声が流し込まれている。部屋の隅、頭から布団を被り閉ざされた内側から、息を殺すような声がくぐもって響いていた。こうしてしまえば世界の全てはこの小さな小さな暗所の中に封じ込められ、その内側に含まれた湿っぽく暗い、そして汗ばむ熱気を孕んだ一握りに圧縮されるように錯覚することが出来る、普通の人間からは想像も出来ない様な長い時間を普通の人間と同じ精神で生きて生きたフジワラにとってこんな風に小さな世界に閉じこもることはある意味では心のバランスを取るのに必要な行為だったのかも知れなかった。
 それに、彼女には、縋るものが、あるのだ。

「くふっ……ん」

 何時でも好きなように灯りを作り出すことが出来る、今部屋を橙染めにしている灯火はその証だが今は布団に潜り込み自ら焚いたその僅かな光からさえ逃避するように閉鎖世界の暗闇に沈み込んでいる、眩しさが嫌いなわけではないそれでも、見えない安心感というものが、彼女の中にはあったのかも知れない。何か呼ぶような声を漏らしながら、まるで闇の中で小さく蠢く虫の様に体をもぞもぞと動かしている。

「ふっ……ん、ぁっ、はぁ、はぁっ」

 膝を抱えて小さく蹲る用に布団の中で縮こまり腕をその内側に抱き込むように含んでいる、細い代わりに長くて深い吐息は熱っぽくしっとりと湿っていて色付いた声が漏れ出してた。言動ばかりは粗暴さをわざと纏うような態度が多いフジワラという女の口から漏れる色香の強い吐息と声は、意外と言えば怒りを買うかも知れないが、そのギャップ故に酷く生々しく、煽情さを余計に強くしている。
 白い指は、折り畳まれた膝と膝の間を抜け少し痩せの過ぎる細い太股に挟まれるた先で、じっとりと蜜垂らした肉花に出会っていた。濡れそぼった陰花は寂しげに花弁をヒクつかせ、匂い立つ蜜を奥から止め処なく溢れさせている。フジワラの今はすっかり可愛らしくなった指先はその蜜を徒に絡め取るように、その花弁の縁を撫で奥に繋がる花弁の合わせ溝をなぞる。

「かぐ……」

 何者かの名前が口を突いて出そうになるのをフジワラは、それを口に出してしまうと自分の感情そのものが体の中から出て行ってしまう、それを恐れているかの様に慌てて口を噤み、その名前を飲み込む。

(違う、違うっ)

 一層強く膝を折って体を縮こめたまま頭を振って何かを否定するような仕草をみせるフジワラだが、しかしそれとは裏腹に中心に芽生えた濡れ芽はムクムクと膨らんで《《何かに擦り付けたい》》欲求が高まっていく、さっきから濡れた花弁を撫でてばかりいる指を、花芽が誘っていた。

(歯止めが……きかな、いっ)

 体を縮めて手淫に耽ろうとしていた体を跳ね上げるように広げて、フジワラは枕に顔を押しつけその枕を抱いて沸き上がる牝欲に抗った。
 何もフジワラが性を嫌悪する性分だというわけではない、単にさっき口を突いて出そうになったその名前に、何か思うところがあるのらしい。

 ふーっ、ふーっ

 荒く高まってしまった呼吸を、まるで枕がガスマスクのフィルタか何かであるかのように顔面に押しつけそこを通して物理的に無理矢理抑え付けようとしていた。勿論そんなことで呼吸という生理現象が収まるわけがない、同じように、脳から滴る彼女自身が認めたくない感情指令に従って心臓で熱を増して体中に行き渡り最終的には下腹部に凝集される情欲もまたそんなことで抑え付けられる訳もない生理現象だった。

(だめ、だっっ……て、のにっ)

 うつ伏せに布団に押しつけた体を必死で鎮めようとするが意識すればするほど体は反乱してくる、フジワラの腰は意思とは半ば関係なく蠢きくねって、布団の柔らかさに向かってその中央で咲き誇って蜜を滴らせる花と新たに膨らんだ芽を擦り付けようとしてしまう。伏せた姿勢のまま大きくガニ股を開き、その間でジンジンと熱と放つ肉部屋の生み出した欲情に堕ちた淫裂と肉芽を布団の生地に押しつけて、既にべっとり濡れたぱんつ生地との摩擦を貪ろうとしていた。腰を押し出してくねらせて、だが求めている大きさには全く足らない刺激に不満を覚えているのだろう、フジワラは布団の上で背筋仰け反りをするような姿勢のまま曝け出されるだらしのない表情は、どこかで焦燥や不満を募らせているのが分かる。
 ガニ股を開いたまま床に手を突いて背中を反らせ、宙に向かって口を半開きにした浅ましい顔を突き出すように、そして決壊寸前の理性で堪えているのはその半ば開きっぱなしになっている口から喘ぎ声が漏れることだ。欲情を堪えて股の中心を床に押しつけ擦り回すのを堪えているままならそうなってしまうことはないだろうが、それは時間の問題と言えた、床に擦りつける盛り上がった肉丘から湧き出す淫乱の泉は肖像を絶する長命を生きる肉体が、全く枯れ衰える事無く花盛りのままであることを如実に表していた。

「は、くっ、ぅ、ちくしょ、ぉっ……こんなにサカって、アタシっ」

 下着は吸水の限度を超え、湧き出す淫蜜を布地の向こうから滲み押し出している。股間を前に突き出すように敷き布団で床オナを止められず、喘ぎ声と色付いた吐息を花咲かせながら身を捩り、その声色とは裏腹な悔しそうな言葉を漏らしていた。
 顔を押しつけ、身を焼く情欲に耐えようとする枕を、フジワラは布団の中深くに引きずり込んで、それを腹の下に敷いた。

「だめ、なのに、こんなこと……くそっ、あいつのせいでっ、くそぉっ……」

 顔を持ち上げた枕から剥がれた口元へ、つう、と部屋を満たすの橙の光を受けて銀に輝くの糸が、一本橋を引いた。剥がされた表情は橙の光源を考慮に入れても赤く染まり、点光源である事を考慮に含めてもなお光を照り返して潤んでいる、欲情に染まった強い女の貌と劣情は決壊したダムから怒濤を打つ水のようなものだった。

「はっ……はっ、ン……ぅっ」

 腹の下に押し込んだ枕を四つん這いで跨ぐように包み、それまでと同じように股を開き膝を突いたその中央に擦り当てる。くねらせた腰の要点を、枕の膨らみが責め立てる。

「ふっ、ぅんッ」

 突き刺さるように鋭く、だけど溶けるように甘い刺激が、ぬるぬるに濡れた布地ごと圧迫して擦り上げる淫花の根元に爆ぜた。崩落を始めた理性に代わり、その下から浮かび上がる牝の欲望がフジワラの体を支配していく。枕相手に腰を振り、今やぱっくりと割れたピンク色のワレメの奥から止め処なく淫蜜を吐き出し快感製造機に化けてしまった女のレガリアを、必死に磨き上げている。
 鼻の下をだらしなく伸ばして、半開きの口の端に涎の滴を浮かべて激しい吐息を漏らしながら、遠くを見つめるように焦点の合わない瞳を橙の灯火に揺らすフジワラは、その緩慢さを描いたような上半身をすっかり裏切る激しい動きで、下半身を揺さぶっていた。

「ふーッ、んぉぉ、あふっ、んっ、ンっ、うううっ、くオっ……おさまれ、おさまって、くれぇっ♥」

 誰に語りかけるでもない文脈で、フジワラの口から漏れた言葉が部屋に木霊する。それは虚しく霧消して、まるで次の快感を待ち焦がれる、否、自ら貪ろうとする牝の声。この暴走した欲情を堪えようとする言葉尻などただの言い訳、今やそれは自分を耳から犯すマゾヒスティックな側面を持つと同時に、ぬるぬると淫汁をまき散らす欲情の高まりを裏付ける宣告のようなものだった。
 枕を太股で挟み腰を前に押し出して腰をくねらせる、べっちょりに濡れた股間からぱんつを越えて染みだした愛液は今やその枕に濡れシミを広げている。尖り熱を漏らす淫核がヌメリに包まれた摩擦で、麻薬のような快感を生み出し続ける。最早フジワラは、枕を使った床オナを辞めることなど出来ないだろう、彼女の内側で燃えさかる劣情の炎を、さしものフジワラでも制御不能に陥っていた。

―威勢のいいことだな、フジワラ?

 突然、しかしまあ、いつも通りと言えばいつも通り、フジワラの頭上から声が響いた。

「け、Kっ、寝てる間はでてくるなって言ってあったろう!?」
―寂しそうにしているから気になっただけだ。なに、相談に乗ってやろうと言うだけだ
「そうだん、って……」

 頭上に腕を振って払うような仕草、頭の上から聞こえる声を振り払うつもりなのだろうか、しかしそんなことはお構いなしに、声は聞こえる。しかも、フジワラの《《行為》》の様子を、それに今の姿もすっかり見ていたのだと。

―折角だ、もっといい場所で使用じゃないか
「はっ!? おい、Kやめろっ、お前おとなしく引っ込めよって……ばかやろっ!」

 頭上の声はフジワラを揶揄い煽るような声色で、彼女の耳元に声を編み上げるように置く。Kと呼ばれる姿のない声だけの存在を背負ったまま、さっきまでオナニーに耽っていたフジワラはのそのそと玄関先に立てかけてある姿見の前へ移動した。フジワラが自ら移動したようにしか見えないが、それは言動に不自然な不一致があるのを否めない。
 フジワラはその理由を承知の上なのだろうか。移動した姿見の前で、映った自らの姿から顔を背けた。

―相変わらず立派なクリトリスだ、また育ったか? 子供の陰茎くらいあるぞ
「そっ、そんなに、ねえよっ……」
―そうか? 精通したての男子のペニスはこんな風に……可愛いモノだろう

 映し出されていたのは当然フジワラの姿だが、乳首が勃起し乳輪の膨らみ上がった乳房と、淫蜜で濡れそぼった太股、欲情に染まり締まりを失いだらしなく崩れた顔をひっさげて鏡に映った人物は、浅ましい牝の姿だった、無理もない、さっきまであんなに声を漏らして自慰に耽っていたのだ。

―見えるだろう、ほら、お前の淫核の、巨大な事よ
「みえねえっ、そんなの、みえてねえよっ♥」

 口では否定しているが、その表情が紅に染まり薄ら笑うようなそれに変化していく、あからさまに欲情の現れだった。刺激を求める下半身を制し切れず、暴れ馬と化した腰回りはくねり蠢いて鏡の前で揺れている。色欲に狂うフジワラの目は鏡に映る自分の姿を凝視し、その視線はKと呼ばれた声の主が指し示す、丸みを帯びて膨らんだ大きな淫核へ殊更に注がれている。細く僅かに肋も浮き、少々痩せぎすな印象さえあるフジワラの肉体に不釣り合いな印象さえ感じるのが、肉付きのいい乳房と、何より巨大な淫核だった。
 美形であるに違いは無いが女性の美貌と言うよりは中性的な均整と表現すべきフジワラの美しさは、裸になって胸を隠せばこの淫核の大きさ故に裸の時の方が逆に男性と見紛うかも知れない、細く痩せた体躯を見、腰回りの細さに女性性を見出した次の瞬間、それを否定するような男性器にも似た淫核が存在を誇示しているのが目に飛び込んでくる、これは勝ち気な性格を厭わないフジワラをして唯一のコンプレクスといえた。
 それなのに、こうして一旦性欲の火が灯ってしまえば、このコンプレクスの体現である肉芽は、突如として肉欲を刺激し加速させそして満たすための器官に早変わる。口で否定するのはそうした裏腹とそして正直に反応する肉体の悲しいほどの貪欲さに対する、惨めさ、そして更にそれをラッピングする強烈な劣情の炎だった。

―ふふ、可愛いじゃないか、《《妹紅》》?
「か、可愛いわけが、ないだろっ、こんな、く、クリっ……」
―そうか? どんなに嫌がって火手してみても、こうしてみれば

 そうKと呼ばれる声が勿体付けたような事を言うと、フジワラの手はまるでそれに従い期待に応えようとするように指先を股間へと動かす。躊躇無く充血して膨らみ上がったクリトリスの下でヒクつき淫液を滴らせる、いまはぱっくりと開いた芳しい肉アケビに指先を添え、ぬめる粘膜の上に指を滑らせる。

「だ、だめ……だって、Kっ……っ♥」

 言葉尻に矛盾した手の動きは、彼女の淫裂を濡らす豊潤な蜜を指に掬い取る。人差し指、中指、薬指、そして親指。余りにも豊かに潤った筋間の淫泉は、藤原自身の指を滴るほどに濡らしていく。これがフジワラ自身の行為でないのなら一体どういうこととも合点がいかない。彼女は嫌ダイヤだといいながら自らの手で陰部から愛液を掬い取って指先を潤している。そしてフジワラは、自分の体の中で一番大嫌いで、そして一番好きな敏感な、充血して膨らみきった肉芽を、すっかり蜜に濡れた指で包むように掴んだ。

「ふぅゥっっつンっっ♥」
―いい声だぞ妹紅。大丈夫だ、その声を上げて、そうして身悶えヨがっている限り、お前は紛れもなく女だ、安心して喘ぎ散らしていいぞ
「やらっ、やらぁぁっ♥ Kっ、やめてくれっ、こんなの、アタシは、こんな淫乱女じゃ、ないっ……淫乱じゃっ♥」
―淫乱女だろう、こんなにマン汁を垂らしながらクリオナで腰振ってる自分の姿を鏡で見て興奮しているなんて、変態で淫乱な牝と言われて否定できると思っているのか?
「淫乱じゃっ……ないっ♥ アタシは、オナってなんかっ、これはKっ、けーねが私の体を操ってきゃふぅッ♥」

 フジワラの言葉を遮るように、しかしフジワラ自身の手が淫核をきゅっと摘まみ上げた。こぷんっ、っと摘まんだクリトリスの下で物欲しげにヒクつき続ける赤熟れアワビから愛液が湧き出す。それをクリトリスを摘まむのとは逆の指で掬い取って、今まさに虐めている淫ら肉芽の先端へ運んで濡らす。てらてらと淫液潤いで照り返しを抱き始めた巨クリが、まるでペニスのようにシコり上がって、赤く光る先端に一層の充血、そして敏感肉感を膨らませる。

―ふふ、まだ固くなるのか。完全にペニスではないか。いずれ射精も出来るようになるかも知れないな
「しっ、しねえ、射精なんかっ、アタシは、アタシは女だっ♥」
―ああ、そうだな。立派な淫乱女だ。見ろ、その状態が鏡に映っているぞ。美しい体に麗しい銀の髪を振り乱して自慰に耽り、お前は正しく牝の快感で狂っている、この生き物が、女以外の何という生き物だというのだ?
「おっ、お前がっ、慧音がっ、してるんだろぉっ……くっ、うっン、ああっ♥」

 フジワラは自らの股間を両手でまさぐり、片手は見事なまでに膨らみ上がった大きなクリトリスを虐め倒し、もう片方の手は擦り手マンを続けながら、時折マン汁をクリトリスへ注いでいる。ガニ股に大きく開いた股間を鏡に晒しながら、浮き上がるほどに自慰快感を貪り、その涎を床にまき散らしている。

「アアッ♥ 慧音っ、慧音、もう、許してくれっ♥ こんなの、はっ、ダメだっ、ダメなんだぁっ♥」
―何がダメ何だ、妹紅? そんな性格なのに、律儀で純情じゃないか、輝夜姫以外にはこのマンコは触れさせないって言うのか? ふふ、可愛いな、ますます可愛いぞ、妹紅。もっと……虐めたくなる

 きゅっ、きゅきゅっっ!

「ンぎぃいぃっ♥ ひァっ、おぉヲぉっン♥ やめりょ、やめおぉおっ♥ クリっ、アタシのクリ、とれるっっ♥ そんなに強くしたらっ♥」
―こんな風に強くしたら、気を遣ってしまうか?

 がくっ、がくっ、と、首が据わらない赤子が乱暴に扱われているみたいに暴れるのは、フジワラの体が快感電流で感電痙攣しているからだ。だが、大きく開いた股のまま愛液をまき散らすほどの手マンとクリ擦りの動きは、正確無比で狂うことなく自分の弱点を的確に自虐している。喘ぎ声をに混じって快感告白の様な科白を漏らしながら、焦点の合わない目は震えて徐々にヨり、瞼が降りるのとは逆に瞳は上の方へと逃げている。びくっ、びくっ、と体が震える度に焦点を取り戻し瞳は正面を向くが、視界に入るのは鏡に映った自分の淫乱姿だけ。そしてまたすぐにヨリ目に変わっていき、顰めた眉の眉間を見上げるように瞳は上向いていく。また痙攣しては縋り付く細い理性の紐をたぐるように正気の目を繕い、またヨリ目に崩れていく。それを繰り返しながら、徐々に徐々に、フジワラは焦点の合わない目を諦め始めていた、否、そんなことはどうでも良くなっていた。

―いい顔だぞ妹紅、素直になってきたじゃないか
「やめっ、もうやめっ♥ 慧音っ、アタシもうイくっ♥ イっちまうぅっ♥」
―輝夜姫はよくよく上等お前を調教していたらしいな、何度こうしてお前を虐めても、妹紅は必ずイくときにきちんとそうして、絶頂申告するじゃあないか、|愛《う》いじゃないか
「調教なんかじゃっ、違うっ、アタシは調教されてなんかないっ♥ これは輝夜が、あのバカ女が、アタシにっ」
―調教したんだろう? 〝イくときはイくって言うのよ〟とでも教え込まれて、好き者マゾのお前はすっかりそれを受け入れたんだ
「ちがっ、あいつの言うことなんか、アタシが聞くわけ……ンおぉおっ♥ クリ、クリ虐めやめっッ♥ 摘まむなっっ♥ 強く摘まんだら先端がっ、先端が敏感になりすっ……んぎいいぃいいっ♥」

 右手の指先でぎゅうぎゅうと転がすように摘まみ上げて圧迫したクリトリスの先端は充血し、快感神経が鋭敏になって剥き出し粘膜に浮き上がる、そしてべっとりと愛液で濡れたもう片方の掌を広げて、その先端を子供の頭でも撫でるみたいに、撫で擦った。
 ぐりんっ、と形ばかりの抵抗を見せていた瞳はヨリ目白目を剥いて裏返り、弛緩した口元は下を口の中に収めることを諦め舌を顎からはみ出している。一緒に涎がだらりと糸を引いて零れ落ちた。それと同時に、まるで人間とは思えぬ淫らで浅ましくしかし特上の甘美に染まった叫びが、響き渡った。

「んほをヲおおおおオおぉぉぉぉっ☆ だめっ、それダメっ♥ 刺激つよすぎひぇっ……んぎィィィっ♥♥♥ やめろっ、やめりょおおおおっ♥ イく、イく、イくイくイくイくぅ♥ぅ♥ぅ♥ぅ♥ぅ♥ぅ♥ぅ♥ぅ♥」

 やめろやめろと叫びながら、全くオナニーの手を止めることなくアクメに向かって一心不乱に手を動かしているようにしか見えなかった。小さなアパートで壁はきっと薄い、隣の住人はきっとこの声をしっかりと聞いているだろうがそれも気にすることなく下を垂らして涎を零しながらアクメ絶叫を上げるフジワラ。
 最早ひっくり返り鏡を前にしてはいない、鏡の向こうに誰かがいるのならその人物に向かって絶頂に震え収縮するマン肉を開いて見せつけるように、大股を開いたまま体は後ろに倒れ背を張り、喉を仰け反らせている。それでも手だけはまるで別の生き物が襲いかかっているかのような動きで正確に女陰をまさぐり続けている。
 びくんっ! びくんっ! と痙攣する何度かに一度、フジワラの開いたヴァギナは鏡に向かって淫液を吹き出していた。鏡面に向かって快感絶頂の飛沫を吹付けて、それでも彼女の手は自慰を止めようとしない。止まって、くれない。

「んぎっ☆ け、けーねっ…… もうっ、アタシもう、イってるっ、イってるからっ♥ 手、とめっ、とめてくりぇえっ♥♥♥ んほ、ぉぉっ、イくの終わんないからっ、とめてっ、とめっ……ぐぎゅぅっ☆ 頼む、たのみゅぅ♥ このままじゃあたひ、あたまトぶッ♥ アクメしすぎで頭ばかになるっっ♥♥」
―もうなっているだろう。毎日毎日サカリのついたマンコ犬みたいに輝夜姫で思い出しオナニーして、エロ顔晒してアクメして。変態オナニスト以外の、妹紅、お前は何だっていうんだ?
「あたひっ、あたひはああっ♥ ンッ♥ ふうぅっっ、くううっ♥ おぉっ☆ んっほぉおっ♥♥♥」
―ふん、もう私がどうにかしなくても、勝手にオナってるじゃないか、妹紅。嫌ならやめればいいだろう、私はもう何もしていないぞ、お前の無様な連続アクメオナニーを眺めているだけだ
「とっ、とまらにゃっ……とまらにゃいいぃっ☆ 手マンとまんねえっ♥ セルフクリ虐め止められ無いっ、マンコえぐりとマン汁噴き止められ無いっ♥♥♥♥ イく、イってるっ♥ ずっとイってる♥♥♥ アクメきもちいっ、連続アクメ気持ちよくてとめらんないっ☆ んオ~ぉッ♥ んひぉぉっ♥ 終わんないっアクメとまんないっ♥ マン汁でぬるぬるになったクリ気持ちよすぎてやめらんないっ♥」
―まったく、輝夜姫が夢中になるわけだ。お前が毎日こんなにエロ可愛い自慰ショーを見せてくれるなんてな

 しっかりと見ているぞ、と物語るような頭上の声は、今は全くフジワラひとりが真に自分ら自慰に耽っている姿を、見下ろしているのだろうか。
 フジワラが激しい自慰に自らを沈めて悶絶し続ける中、最後のひと言を境に、頭上の声もしばらくナリを潜めた。
 フジワラは気付いていないだろう、頭上から、噛み殺すような吐息が聞こえていたことに。







「……毎日じゃねえからな」
―どうだかな

 がるるる、と威嚇する猛犬のような表情を天井辺りに向かってしてみせるフジワラだが、その方に何がいるのかは分からない。そもそもフジワラ自身にも、声の主がどこにいるのかなど分かってはいない。
 フジワラは大きく溜息を吐いてから、自分の体液で汚れた床と姿見をげんなり顔で拭き始めた。

「こんなの毎日なもんか、お前、Kっ、夜は出てこないって約束だっただろう!?」
―ってことは、毎晩してるって事じゃないか
「ちーがーうー!! 今日は偶然だ!! ちょっとあいつを思い出しただけじゃないか!」
―こないだもそう言っていたな
「《《こないだも偶然だ》》、ちくしょうっ!」

 隠す気もない繕いで《《がなり》》声を空中にぶつけるフジワラ。布団に戻って滑り込むように倒れて、ばんばんと叩いて非難の声を上げる。声の対象は、当然姿など見えない、派手な独り言以外にはどうしたって見えやしない。

「そもそもアタシとKはそんな仲じゃねえだろ、お前だって愛しのセンセー探してて、利害が合致してるから一緒にいるだけだろっ!」
―そう寂しいことを言うなよ、お互いパートナが見付からずに寂しい体を持て余してるなら、たまには解消し合ったっていいじゃないか
「お前ホント性格変わったよな!? 時代に適応するの早くね!?」
―永琳は永琳で輝夜姫とよろしくやってるだろう。お前ばかりが操を守っても馬鹿を見るだけだぞ
「そっ、そんなことねえよ、あいつは」
―あいつは、なんだ? 《《お前が殺したいほど憎んでいるあいつ》》は、なんだ?

 淫液で濡らしてしまった枕のカバーを外して、中身を確かめる。濡れてはいないようだがくんくんと匂ってみて不快な匂いがないか確かめた。そしてだめだこりゃと洗濯カゴに放り投げて肩を落とす。

「せいかくわりーなあ……。解消し合うったって、どうせお前は体がないんだ、アタシばっかりがこんなハズい目に遭うなんて、不平等だクソっ。いいか、アタシがお前の代わりに食ってもいい都合のいい歴史断片の傍まで誘導しなかったら、お前はさっさと飢えて死ぬんだ、あんまりアタシに逆らわない方がいいぞ」
―心しておくよ

 くっくっ、と笑う声は、実際にはそんな残酷なことをこのフジワラという女がしないことを信用しきっている証拠だった。「お前には感謝してる、これでも感謝のつもりなんだよ」と頭上の声は言うが、フジワラは「だまれよ」とふて腐れた顔で枕を失った湿っぽい布団に潜り込んだ。

―今の私はお前の体を間借りして、体は一部繋がって共用している。お前がイッてる間、私がどうなっているのか、想像してみろ
「いつもそう言うがな、信用なんか出来るかよ。確かめようもない、言うだけ唯って奴じゃねーか」
―どうすれば信用できる?
「知るか。体のないお前がアクメキメてる証拠なんて、あるわけが……」

 と、そこまで言ったフジワラの指先に、熱く濡れた柔らかい感触が広がる。べっとりと濡れて垂れる滴が掌に滴る感触。フジワラの手は今は、自分の股間を触ってなどいない、ただ投げ出されていただけだったのにも拘わらず。

―忘れるなよ、元々は、永琳は輝夜姫を、私はお前を、欲してたんだ

 「忘れた、そんなのはお前等の都合だろ」フジワラはそう呟くように吐き捨てて、目を瞑った。「もう寝る、明日は仕事だぞ」。だが控えめに目を開いて、もうひと言、付け足した。

「……するときはちゃんと言え、付き合ってやるから」
―ははっ、偉そうに。だけど、気が向いたらそうさせて貰おうかな

 次いで何もない空間から人肌の温度が突然現れて、フジワラの唇に触れた。



§ § §



 仕事、と言ったのはこのことだった。今日は朝一で唐島を問い詰める必要があったからだ。フジワラにとって気に食わないことではあるが、唐島という男は多忙らしい、捕まえられると分かったときにしっかりと捕まえておかなければ、次にいつ詰問できるのか分かったものでは無いのだ。

「アタシが焼却したってのが何なのか、思い出せねえか」
『思い出すも何も、私が見ていたわけではありませんから。前の担当者に聞いてくだされば。いや、これは前の前だったかな、申し送り内容に起源項目がないもので』

 誉田探偵事務所には時代遅れの固定電話が設置されている。回線こそワイヤドと共用だが、ついこの間電話公社の役人(いや今は民間人なのか?)に「いい加減メタル線の電話契約を切替えさせてこいって上司に首締められてるんです、人助けだと思って」と言われ仕方なく切り替えたばかりだった。他の会社を探すと探してみたものの一向に見つからなかったのだ、今時メタル回線の新規契約を受け付ける会社なんか。
 使い慣れたものから変えるのは嫌だというのよりはもう少し積極的な嗜好性において、ほとんど鳴ることのないこの電話をフジワラは未だに維持している、中古屋というよりもはやガラクタ集積場でしかないような店を何軒も巡って、メタル線と無線ワイヤド回線を仲介するブリッジを探し出し、電話公社の人間が勧めるカタログ映えばかりは良さそうなモダンな(そしてこの部屋にはすこぶる似合わない)電話機や、金がないから切り替えたくなかったと勘違いしたのか一番安い玩具のような電話機を勧めるのを断って、フジワラはそのブリッジを介して未だに黒い光沢を持つ曲面で構成されダイヤルの代わりに穴のあいた円盤を備えた《《未来デザインな》》固定電話機を、引き続き使っていた。

「どっちにしろ関係ねえよ、お前の前の担当者はアタシの目の前で死んだし、その前はもう50年も前に定年だった、どのみち生きちゃいねえ」
『でしたらお手上げですね』

 今時電話なんかイヤホンと同じサイズに収まるデバイスなのに、誉田探偵事務所の固定電話は大盛り対応の|丼《どんぶり》くらいのフットプリントを臆面もなく主張する威容を誇る。受話器というデバイスはそもそも絶滅危惧種だ、くるくるととぐろを巻くケーブルで、本体とつながっているそれは耳と口を酸素ボンベか何かみたいに取り巻いている。フジワラは口元に伸ばされた腕の先に付いたぷつぷつと穴の開いたメッシュ部分に声を投げ込むように喋っている、じつに奇妙な光景だ

「なんかねえのかよ、手掛かりになりそうなもんは」
『そちらに伺う前に、こちらでも探せるだけは探したんです。ですが、歴史から消えているような事物の記録は公式には残されている訳ありませんし、仮にあったとしても私の権限ではアクセスできません。今も引き続き探してはいますが、期待はしないで頂きたい』

 黒電話はずんぐりとした本体部分をフジワラの手でむんずと掴まれる形で連れ回されている、黒いケーブルはアナクロなメタル電話線、件のブリッジデバイスは事務所の床に無造作に放り出されていたが、そこからまるでビル爆破ダイナマイトの導火線のようにずるずると本体まで繋がっているのだ。肩と耳で挟むように受話器を、左手で本体部分を、持ち運んでいるのを見れば、携帯電話を使わない合理的な理由を見つけるのにはなかなか骨が折れそうだ。辛うじて開いた右手は、本棚にずらりと並んだ本を品定めするように、あるいは見ようによっては愛撫するように、指先でその背表紙をなぞりながら、一冊、また一冊、と移動していっている。電話の向こうの相手と会話を続けてこそいるが、その目線もほんの背表紙に消えかかった文字で書かれたタイトルを置い続けている。ここに並んでいるのも、時代遅れのアナクロ物理書籍だ、だがその本一冊一冊が従来の意味での物理書籍で無いことは、ここの場にいる一人ともうひとつ、のみが知るところとなっている。

「なんせ|神妖《かみさま》の卵だってなら、日の本の国存亡に関わりかねないんだ、念入りに頼むぜ」
『承知していますよ。まあ日本が滅んだところであなたの命は少しだって脅かされないのでしょうけど』
「それとこれとは話が別だい。アタシは日本が気に入ってんだよ、こんな社会情勢でもね」
『それは一公務員としては嬉しいお言葉ですね』
「だったらケチケチしねえで、交通費と宿泊費くらい全額前払いでどんとくれてもいいだろう」
『〝それとこれとは話が別〟です』
「くーっ、可愛くねえなあ」

 悪態をつきながら、フジワラはほんの一冊を引っ張り出し、肘と手首でほんの天辺と底辺を挟むようにしながら指先でページをめくるように、右手一つで器用に内容を掘り起こしていく。
 開かれたページは……墨に沈めたように真っ黒だった、否、よくよく目を凝らすと紙の素材色は点、点、と塗りつぶし残したようにだけ、見えている。これは黒い紙ではなく、白い紙に何重にも重ねて書き付けられた内容の堆積した姿だった。目で見て読めるものではない、だが特殊な術でこの堆積を展開し、適切に抽出するのなら、それはあくまでも普通の日本語と変哲のない画像情報に過ぎない。展開できるのであれば、だが。

「|神社本省《おまえんところ》にあるのは公的な記録のみだろうがな、内はアーカイブスじゃないんだ、消した歴史の一つ一つをいつでも引っ張り出せるような大層なシステムにやなってねえ。それを出来るやつは死んじまってるし、もう一人は体を失ってる。そしてアタシはこの本の山が大嫌いだ」
―少しは遠慮して物を言え、傷付くだろう

 てめえがそんなたまかよ、と上の方の決して誰もいない方へ、擦り潰したように小さくした声を投げるフジワラ。

「奈良、平安、|隔離済《Insulated》しか無いな。この辺に|再活性化《Reactivated》フラグの立ったケースは無いが、そもそも遡れるの自体がここまでか。飛鳥、古墳以前は歴史体系をなしてない、|断片化《fragmentation》と|重複《Duplication》が酷くて時系列がわかんねえな。」
―いわんこっちゃない、ちゃんと履歴を残しておかないから
「癌みたいに増えてくケースをちゃっちゃと歴史から|取り除いて《燃やして》はこっちに隔離してるんだぞ、履歴なんかまともに取れるもんかよ。お前が食ったら腹を壊すようなやつばっかりだ」
―むう……それもそうだが……
『どうかしましたか』

 フジワラが頭の上と会話していると、電話口の声が訝しげに問うてきた。慌てて「なんでもねえよ」と切り返しながら、真っ黒くなるほど|重複《Duplication》したケース情報を視線でなめている。

「ああ、いや、そもそもそんな昔の出来事は、史実として承認されていない。余程問題があって困るというものは、依頼されれば焼却しているが……正直それがどうして不都合だったのかはお前さん方の問題だ、アタシは関知しないで仕事をしている。ケース間の依存関係を疑う必要が出たって、正直お手上げなほど|断片化《fragmentation》してるんだ。わけがわかんねえ」
『今回のテロ事件で用いられた爆発性の熱化学現象は、極最近のテクノロジ以外で実現することは難しいはずです。ですから|日燧鏡《ひすいのかがみ》は、ある種のオーパーツと呼んでもいいでしょう。ですが、我々の持つ歴史と資料を幾ら遡っても、それは〝神器〟と記されていながら、〝新興宗教団体の所有物〟と記されているばかりです。その二つの状態がどのように接続されて遷移するのか、間にはミッシングリンクがあります。そしてそれをなしうるあなたと、実際にあなたが絡んだという、我々の間での申し送り事項。私達の手元には今はそれしかありません。』
「テロなんて本当はどうでもいいんだろう、お前らは神器さえどうにか出来れば」
『その通りです。あなたが|日燧鏡《ひすいのかがみ》をどうにかするに当たって、|照道《しょうとう》教を皆殺しにしてしまっても、我々は構わないと思っています』
「するかよ、そんなこと」
『たとえの話です』
「その割には声に冗談味がないんだよ、テメーの声は。何もかもクソ真面目に聞こえる」
『ありがとうございます』
「褒めてねえよ。お前らは知ってるんだろ、|神妖《かみさま》が何なのか」
『不明破壊活動主体のことですか? 残念ながら、それについては、何も』
「嘘くせえな」
『あれ一柱に、都市一つ放棄したりしているんですよ、〝送る〟こともそうですが、被災地のケアも含めて、そう簡単なものではありません』

 電話を肩と耳で挟むようにしながら、見開きがまっくろく染まった本をパラパラとめくっていくフジワラ。頭上の声が、電話口の声を拾い聞いて疑問を口にした。

―|日燧鏡《ひすいのかがみ》ってのは何なんだ。卑弥呼の持ち物だと言っていたが。卑弥呼と鏡、それに大陸とのつながりは確かに切っても切れない重要なリンクだが、卑弥呼の鏡と言われているものは三角縁神獣鏡が有力だ。魔鏡現象によって、全く平らに見える鏡面から反射した光の中に背面の図柄、つまり神獣や花と言った文様を投影する、ある種のプロジェクタでこれを宗教的な現象や儀式に用いていたというのが通説ではないのか。それが、光熱兵器オーパーツだって?
「名前の通りというか、そうである前提で話が進んでるんだろ。固有名詞臭くない、神器なんて言っているが、壊してしまっても構わないという依頼内容も含めて、史実になって欲しくない歴史ってやつに違いない。」
―かもしれないな。どうするんだ?
「どう、って?」
―放棄してしまってもいいんじゃないのか? これは思ってるより面倒な予感がする
「ちげえねえ。でも生憎、短くない人生を生きていて、得た教訓があるんだ」
―教訓?
「迷ったらめんどくさい方を選べってね」
―お前には随分と似合わない言葉だな。程々にしておけよ
「……少しでもアイツの手掛かりがあるなら、な。こちとら時間は腐る程あるんだ」
―《《腐っている》》時間は相当長かったがな
「うるせーよ」

 フジワラは手に取っていた本を棚に戻しながら電話口に向かっていう。

「宇佐に行くのはやぶさかじゃないがナァ、アタシは一体何で宇佐くんだりまで行かなきゃなんないのか、きちんと把握しておきたいんだよ。単にそこにお前たちの言う神器があるっていうのはわかっているが」
『〝日出る処の天子〟を否定してもらった、とありました』
「は?」

 突然脈絡も無い言葉を言い出した唐島に、フジワラは訝しげに眉をひそめて受話器の方へ横目を送るように声を出す。

『申し訳ありません、こちらの申し送り事項の欄に、その様な記載があったもので。お心当たりは?』
「〝日出る処の天子〟っつったら、聖徳太子じゃねえか。確かに……こいつの実在確実性を断ち切ったのはアタシだ、お前らにとって都合が悪かったらしいじゃないか。何を焼いたんだったかな、確か、阿蘇の付近で出土した木簡とかそんなだったかな。」

―私の肚の中でも、既に隋に書簡を送ったのは聖徳太子だという確証は失われている。お前がエビデンスを消したからだろう。
『〝日出る処の天子〟つまり聖徳太子なんて、卑弥呼には関係ないはずですよ。この二者の間には大きな時代の隔たりと、歴史としての空白を挟んだ対岸同士にいます。《《そういうことになっています》》』
「そんなこと、今日日小学生でも知ってらい。だが、そもそもその〝日出る処の天子〟が深く解明されると、九州の別系統の王朝が見付けられて今の天皇家にとって都合が悪いから〝焚書〟してくれってのが依頼だったと記憶している。」
『なるほど、それがあなたの消した歴史かもしれないということですか』
「とぼけるのは確かにお前の権利だ、それは大いに認められるべきだろう。だが一つ聞かせてくれ、当時は全然気になっていなかったんだが、今回その〝|日燧鏡《ひすいのかがみ》〟とやらをどうにかこうにかするって話が来たから気になったんだ。掘り起こされて困る別の王朝ってのは、阿蘇の付近に由来を持ち卑弥呼と対立していた別の王の国なのか? それはつまり、|狗奴《くな》国と|卑弥弓呼《ひみここ》もしくは|卑弥弓呼素《ひめこそ》のことだったのか?」
『そんなこと、私に答えられると思っているのですか? そもそも知らないと申しております』
「……そこをなんとか、と言って答えてくれる奴じゃないことはわかってるがね。」

 電話口の唐島の声は、もはや拒絶の色を隠そうとしていない。フジワラは本棚の内、飛鳥それ以前の棚へ脚を向けていた。ここはもう時系列が存在しない、明示できないからだ。フジワラがさっき口にした通り、フッキングされる史実自体があやふやで、それと座っ萍される形で逸史へ弾き出されるファクトを、正確に時系列に並べることも出来ない。だからその履歴自体も順序性を保てないからだ。フジワラが向かった「前史」と銘打たれた書架に並ぶ本は、大きさも開き方向も、色も形も、本棚に収まる姿さえも何もかもが統一感を持たずバラバラだ。しかもそれらの本一冊一冊には高圧縮された記号化事実が縮退されて詰め込まれている。この中から目的の情報を探し出すのは困難を極めるだろう。それこそ、|稗田血族《インデクス》がなければ。

―答えられないという答え、つまりそうだということか。〝日出る処の天子〟が聖徳太子ではなかった、とするのなら、誰だったのかということになる。それが現在の皇家ではない別の王が存在していた手掛かりになられては困ると、〝お宮〟は手掛かりとなる文献をお前に〝焚書〟させたのか。
「そうらしい。焚書の履歴を掘り返すなら、〝日出る処の天子〟は聖徳太子ではなく|卑弥弓呼素《ひめこそ》だったということだ」
―ヒメコソ、ヒメコソ……どっかで聞いたことがあるな。ああ、国東半島の海上にある姫島に朝鮮からやってきたのが|比売語曽《ひめこそ》という朝鮮の王族とかいう歴史になっているな
「ヒメコソは朝鮮からやってきたと伝承が残っていて、姫島に居座ったかもしれないし、|狗奴《くな》国の王と関係があったかもしれないし、関西には幾つも祀る神社が残っている。邪馬台国から大和政権にスライドした前提だが、卑弥呼やその系統が東へ移動したことを含めば、|卑弥弓呼素《ひめこそ》は卑弥呼と対立して、争い、同化を受け、卑弥呼を含むスメラミコトの系統に取り込まれたとするのに十分な状況とも言える」

 頭上の声は、フジワラと堂々とひそひそ話をしている、その向こうで電話口には唐島が白を切る声が聞こえていた。

『私の口からはお答えは出来ませんが、可能性は残しておくことにしましょう。他言はしていただいても構いませんが、もはや誰も信じはしないでしょう。歴史ではなくなってしまっていることですし』
「そいつはアタシの仕事が上等巧く行った証拠だ、誇るぜ」
『いかにも。』
「〝日出る処の天子〟は、|卑弥弓呼素《ひめこそ》だった。そして卑弥呼と関わりがある、むしろ神話上では同一人物に統合されているかも知れないな。おい、他にはなんか書いてないのかよ」
『生憎と。箇条書きのメモに過ぎませんので』

 聖徳太子の実在性を喪失させ、同時に〝日出る処の天子〟が|卑弥弓呼素《ひめこそ》である可能性も迷宮に押し込んだのは、まさしく神社本省の依頼を受けたフジワラだった。そして浮かび上がってくるのは、〝日出る処の天子〟と卑弥呼の関係だ。〝日出る処の天子〟を聖徳太子と置かないのであれば、邪馬台国や大和政権とは別の、九州に存在した王朝の王だとする説は確かにある。そうであれば、|卑弥弓呼《ひみここ》もしくは|卑弥弓呼素《ひめこそ》こそがそれであり、卑弥呼と同一と見做すには矛盾が多い。その矛盾は、神社本省の遣わせたフジワラが〝焚書〟し歴史から逸史へ恣意的に隔離された幾つかの事実がそこに《《ないことによって生じたもの》》だった。

「しかし、卑弥呼=聖徳太子だと?」

 そこまで積み上がった事実を噛み潰し、そこから苦い汁でも滲んだような顔でフジワラは声を漏らす。

―馬鹿げた話だ、だがその裏付けをこそ、お前が焼いたのだろう。
「……おぼえてねえよ、ンなことよぉ」

 くしゃくしゃと頭を掻きアルビノ銀色に光る長い髪を乱すフジワラは、少し《《がなった》》声で電話口の向こうで何か決定的な(だがどんな状況になってもやすやす証はしない)事実を抱えたままの唐島に、当たった。

「おい唐島、聖徳太子が卑弥呼と|卑弥弓呼素《ひめこそ》の存在的背景を汲んだ空想上の人物あるいは空想部分を大いに含んだ歴史上の人物だとしたら、卑弥呼=聖徳太子=|天照大神《アマテラスオオミカミ》、まであるぞ、いいのかよ?」
―いいのかよ、ってお前な……
『中途半端に史的物証が残っているからおかしな推論が成立してしまう、あなたが聖徳太子=|卑弥弓呼素《ひめこそ》を示すエビデンスも焼き尽くしてくれれば丸く収まります』
「中国にまで出張しろってのかよ、人使い荒すぎだぜ」
『聖徳太子はペルシャ人だった、聖徳太子はゾロアスター教徒だった、聖徳太子の側近だった秦河勝は摩多羅神となった、その秦河勝は|智天使《ケルビム》の像を日本に持ってきた。聖徳太子はもはや宗教的には何でもアリの人物です。今更聖徳太子の周辺にそんな与太話が一つ追加されたところで、何も変わりやしないでしょう』
「ペルシャ人って、そんなネタまであるのかよ……」

 フジワラががっくりとうなだれるように肩を落とすと、それに倣うように落胆の色を隠そうとしない声が頭上から聞こえた。

―やはり新たな神になりたがる人物は、違うな。聖徳太子といい、卑弥呼といい……この二者がつながるというのなら宗教バカの数が一人減る分平和なくらいだ
「ちげえねえや」

 フジワラはアタリをつけた前史書架の前で、まるで遠くの山でも見上げるようにその全貌を見渡すようなポーズをして見せている。なんせこの中から、関係しそうなわずか一頁か一節、もしかすると一文を探し出さなければならない、これから発生するタスクには確かに、登山のような準備と覚悟が必要なことは間違いないだろう。

「また何かわかったら連絡して欲しい」
『電話に出てくれませんか、あるいは留守電という《《人類最先端の技術》》を導入するとか』
「いなかったらまたかけてくれ。」

 だったらせめて定時連絡のときくらいはその机の前に居て下さい。そう言い残して電話は切れた。回線切断の機械音が漏れ出す受話器を、左手にぶら下げた本体の頭に生えた二本の出っ歯の上に放り投げる。

「レディに携帯電話の番号を聞かないなんて、失礼な男だ」
―唐島にだって相手を選ぶ権利くらいあるだろう
「ひでぇな、死んじまいそうだ」

 これっぽちも死にそうだなんて思っていなささそうな表情で、フジワラはずるずるとケーブルを引き摺りながら|黒い塊《電話機》を抱えて、書架室を後にする。つかつかと急ぐような足取りは彼女の平常心以上苛立ち未満を示していたかも知れない。
 やっと一息つける、そんな雰囲気を漂わせながら、いつもの居場所であるデスクに向かって、気に入りの煙草に火をつける。いつもよりも1割程度は吸い込む息が多かったかも知れない、それに従うように吐き出す煙も多い、一気に燃焼させた煙は紫煙と言うにはほど遠い鈍色の揺蕩いだった。

―そういえば、こないだ手がかりだと言っていたニンゲンがいたのはどうなったんだ
「逃げられたよ」
―逃げられた? 何をしたんだ、少年愛も守備範囲だったとは知らなかったぞ
「そっそうじゃねえよ! いつ気取られたんだかわからないんだよ、アプローチする前から警戒心剥き出しで、近寄る前から逃げる準備をしてた。声をかける暇さえなかった。」
―どんな見た目で迫ったんだ
「だからちげえっての! あー、あの少年がどっかからアタシのことを知ってる可能性があるってことだ」
―お前のことを? ありえないだろう
「だが確かに、最初から警戒していた。知っていないと、しかも間違った知識でアタシのことを認識していないと、ああはならないはずだ」
―間違ったも何も、お前を警戒するのは正しい知識じゃないか
「……本気で言ってるんだったら泣くぞ」
―悪かったよ、可愛い可愛いもこたん
「ああああその呼び方はやめろおお!」



§ § §



 警戒すべきだったのだろうと、思う。だってこの状況は余りにも不自然で、だけど僕にとっては用意されていたみたいに都合が良かった。警戒しない方が本当ならばおろかなのだでも、ボクにはもうそんな余裕はなかったから。
 僕は余りにも都合よく自分を閉じ込める岩戸を破壊して、その代償を払うことなく逃げ場を得てしまった。短絡的な、本来破滅するだけの方法で、破滅を先延ばしに逃げ続けている。後何日逃げられるのかなんてわからないけれど。巻き込んでしまった女の子の存在も、不可思議といえば不可思議だ。僕の中二病極まりない行動のケツを拭ってくれようとしているのは、都合こそ良いけれど理解は出来ない。彼女に何の動機があるのか、僕にはわからなかった。

「|日《のぼる》様、お食事をお持ちしました」
「あ、はい。ありがとうございます」

 ここに来たときに最初に瀬織さんを迎えた中年くらいの女性が、しずじずと食事を持ってきてくれた。黒と朱の膳に乗った立派な出で立ち……少し古くなったような感じの食器に、贅沢と言うよりは体に優しそうな食事が乗っている。ホテルの料理に対する旅館の料理という感じだ。
 別の膳にわざわざ乗って出てきた和風ハンバーグのような肉の焼き物らしいものは、食べてみるとなんだか今まで食べたハンバーグと味が違っていて、口の中で噛む度にクエスチョンマークが染み出してくる。まずいわけではないのだけれど素材が何なのかよくわからない。
 何なのかわからない、のは確かだが、出てくる料理それぞれはとても品のいい印象を受ける。豪華ではないが贅沢、美味しいと言うよりは体に優しい感じ。恐らく外で食べようと思えば口当たり以上に値が張るだろうタイプ。しかし、昼からこんなに、とは。

「あの」
「はい、|日《のぼる》様」

 「様」。なんで僕に「様」の称号が付いているのかと言うと、正直よくわかっていない。おそらくは瀬織さんが原因だ。彼女は最初から「様」付きで呼ばれていた。「|観月《みつき》様」。そういえば彼女の下の名前は観月だった。全く意識したことがなかったけれど、妙な発端でそれを意識させられるようになった。彼女はここでは多くの人から観月「様」と呼ばれている。

「僕は、何者なんですか」
「はい?」

 我ながらおかしな質問だったとは思うがその言葉に相違ない、僕は今一体何者として扱われているのだろうか。「様」なんて呼ばれてそういう風に指を突かれる謂れは何もないように思う。それともここは本当に民宿かなにかなのだろうか。瀬織さんの話ではここは今リゾートホテルとして使われているわけではない。僕が客としてそんな風に扱われる理由もないように思う。ただ、建物自体はリゾートホテルを意識して作られたもので間違いないのだろう、通された部屋は豪華なものだった。ボロアパート住まいだった僕の家の3倍くらいある。スイートでも想定していた部屋なのだろうか。瀬織さんと一緒の空間に入れられた(失礼な言い方だが、なんでそうなったのかよくわからない)が、目を覚ましたらもう昼で、瀬織さんはどこかに行っているようだ、この広い部屋でぽつねんと一人で昼食を食べることになるようだ。

「〝様〟って」
「成り行きの詳細なんか私にはわかりませんので。ただ、観月様が道士として扱うようおっしゃったから、そうしているだけです。失礼とは思いますが、あなたがそれに値する方とは、私はまだ信じられません」
「……僕も信じられませんけどね」

 そりゃそうだろう、僕自身わかってないんだから。大体、〝道士〟って何だ。
 少なくとも僕よりは事情を知っていそうなこの女性に色々と聞くことは出来たかも知れないが、瀬織さんはあの時僕に、黙っていろ、と言って口止めをした。余り余計なことを言うべきではないのかも知れない。瀬織さんに直接事情を聞いてからのほうがいいだろうか。
 僕が、騙されているのでなければ、だが。
 騙されているとしたところで、構うものか、と僕は思っていた。僕には今更「手遅れになるような事象」はない、親を殺して逃げ回る立場だ、今の状態では何もかもが拾い物で丸儲けという状態なのだから。ハメられて何かを失おうとも、それは元々僕の手にあったものではない、仮に瀬織さんが僕の何かを利用しようとしているのなら、僕は彼女にそれを甘んじて手渡したっていいと思っていた。
 元来、僕はこの世界の閉塞に厭気が差していたのだ、それであんなことをしたことに間違いはないが、この世界の門番だった父母を屠ったところで僕には、外に出て行きていくほどの力も意志も無いことくらいは、自覚はあった。だから我慢してたのに、ついカッとなって、踏み出してしまったのだ。それは僕の人生で最大のミスだったと言っていい、殺したことではなく、我慢できなかったことが。我慢して我慢して我慢して我慢して我慢し抜いて、この暗い洞窟を無事抜け出す算段を立てていたというのに。愚かなことだ、僕は。

「失礼します」

 女性は、急に口を結んで閉ざた僕を、何か疑い値踏みするような視線で舐め回してから、口調だけは丁寧に部屋を出ていった。
 部屋はただがらんとしていて誰もいない、一人でこの広い空間に放り出された時、僕はどうしていいのかわからなくなってしまった。この部屋を出て、しばらく過ごすことになるのかも知れないこの農村を散策してもよかっただろうに、僕にはその気力もないのだ。結局、あのくらい世界を飛び出したところで、その先何かをする意志も気力も目的も、僕の手元にはなかったということだ。
 ホテルのスイートを思わせる広いリビングに漂う、手入れこそされているがデザインそのものの古さに加えて経年の跡を隠すことが出来ない調度の持つ何か隔世の感が、じわじわと画角の端から僕の意識に染み入ってきて褪せた色に染めていくような感じがする。一人でいると、まるでこの部屋自体が僕を飲み込もうと、新たな餌を見つけたと食指を伸ばしているかのようにさえ感じられる。
 広い世界に鎖も柵も無く一人で放り出されることに、僕は慣れていなかった。この時代を感じさ現実感を失わせるような空間の匂いは、無性に僕を孤独以上の孤独、不安以上の不安に沈めてくる。

(もしかして)

 もしかして、と思った。

(もしかして)

 それは意外に思えたが、今更になって考えてみれば何も、意外なことではない。そう思った僕自身の方が意外だといえる。

(もしかして、僕には)

 暗く僕を閉じ込める世界を脱出してもなお、僕はその外の世界の自由の重さに耐えられないのではないか? また僕は、閉じ込められることを望んでしまうのではないか。望んでなんかいなかったはずなのに、振り返ってみればあの自由のない監獄のような世界は、何もかもを看守のせいにして自身への責任を脱ぎ捨ててしまえる甘えの泥濘だったのではないか。
 だから僕には、もしかして。

(もしかして、僕には、もう瀬織さんしかいないんじゃないだろうか)

 それは、余りにも甘ったれていて小狡い幼稚な考えだったが、それを否定できる要素は今の僕の手元には何もなかった。
 目の前に出された食事は、看守が差し入れた、乾いたパンと薄いスープに、見えてきた。



§ § §



 隣にいたのは、瀬織さんだけだ。この部屋には僕と彼女しかいないのだから当然だった。彼女の声で僕は目を覚ました。

「|国立《くにたち》? ちょっと、|国立《くにたち》」
「んあ?」
「〝んあ〟じゃないわよ、可愛い寝ぼけ顔しちゃって。ずっとここにいる必要ないのよ、監禁してるわけじゃないんだから。」
「あ、ああ、ねてた」
「みりゃわかるよ、もう。寝るならベッドもあるのに。今朝も全然起きなかったし、疲れ取れてないんじゃない?」
「かも知れないけど、ベッドは……ちょっと」
「|国立《くにたち》って布団派か。枕変わると寝れない方?」
「そうじゃないけど」

 ベッドは瀬織さんが寝てる場所なんだ、ずかずかと踏み込めるわけがない。昨日だってソファで寝たのだ。疲れが取れていないからか、いつの間にかまた寝落ちしていたらしい、でもやっぱり肩が痛かった。
 彼女は学校でも目立ってメイクなんかをするタイプの女子ではなかったように記憶しているけれど、今の彼女は、結構きっちりメイクをしているようだった。目鼻立ちがくっきり目立っているし、目の周りと頬、それに唇の血色感がそれ以外の部分の透明感と隣接していてなんだかファンタジックな印象を受ける、別人ではないけれど別の顔。僕を起こして距離が近い、ドキッとしてしまった。

(なんとも思わないもんなのか)

 彼女は本当に僕とセックスした瀬織さんなんだろうか。うじうじと行為を引き摺る僕と違って、彼女は、まるであんなのはこの間消しゴムを貸した程度の関係だと思っている、と思わされるほどに普段通りだ。死体の処理に協力したことに比べれば性行為なんて大したことではないのだろうけれど、だったらその動機の方がわからない。

「ん? なに?」
「いや、ソファで寝るのは流石に首が痛くなるから布団が欲しいな」
「布団をもう1セット用意して、なんて言ったら、早くも危機か、って言われちゃうよ」
「危機、って何?」

 いや、わかってるけど、なんでそんな状況になっているのかというのは……まあ僕がやらかしたせいで匿ってもらっているのが原因なんだろうけれど、だからって、と頭の中ではその無限ループだ。どうやらこの小さな村の中で、僕は瀬織さんの婚約者か何かとして扱われているらしい。それ自体には、その、そんなに不満はないんだけれど、だからって、ああまたループだ。

「じゃあ交代にする? 昨日は私がベッドだったから、今日は|国立《くにたち》」
「……僕がソファでいいよ」
「えーっ、少しは欲を張ってよ」
「だから布団をですねぇ」
「それはダメです」

 女性に対する幻想が強いのだという自覚はある、反面で恐怖心はそれを上回るほどに強いと思っている。何か自分以外のものに責任を充てるのは自分の不甲斐なさを棚上げするような気がしてしまうが……母の影響があるような気がしている。一度《《あんなこと》》をしたからって、どうにもなることではないだろう、どうにかなる人もいるのだろうけれど、ならない人もいるということだ。
 彼女はどうやら気にしない方の人間で、僕は無用に気にする方の人間だと言うだけなのだろう。

「この話はやめよ、今はまだ日が高いよ」
「夜になったら〝もう布団を頼みになんて行けない〟って言うんでしょ」
「あー、バレてるわね、どうやって黙らせるかな」
「悪かったよ、布団を欲しいなんてもう言わないから。何か企んでいそうなその目をやめて」

 部屋の作り自体は古い、柱にビルトインされた振り子時計は古めかしいと言うよりも確かにバブルの亡霊の様な感じ。暖炉のような構造物もあるが当然火など付いていなくて、大きく開いた口の中には掃除機が突っ込まれている。当時はそれは趣味のいいデザインだったのだろう、大理石と艶出しされた木造が隣接して高級感を出そうとしているが、今見てもレトロですら無いただの古臭い成金趣味だ。そのケバい柱に沿って、ミトリで買ったようなシンプルな姿見が置いてある。大きな部屋なのに、建築技術が古いのだろう、柱がどんどんと部屋の真ん中にいるのも大きな部屋の割に今ひとつ開放感につながっていない理由だろう。一番開けたスペースの天井は高く、よく見れば天井にはメダリオンとその中央にひょろっと小さく紐がぶら下がっている。恐らくシャンデリアなんかを付ける想定なんだろうが、今は何もぶら下がっておらず掃除も届かないので埃の紐が成長しているようだった。テーブルも無章良品みたいなシンプルなデザインで飾り気のないものだ、部屋全体の調度には微妙にミスマッチ。バルコニーも今は何も置かれていない、十分に広いがなにが茂ってるんだか僕にはよくわからないプランターが幾つか置いてある。なんだか不自然に見えるのは、ホテルのスイートくらいの構造で高級感を出すためだろう場所に、その代わりにことごとく生活感が置いてあることだった。
 昨日僕が寝たソファも、合皮でそんなにふかふかというわけじゃない、普通の民家にもありそうな比較的質素なものだった(ソファ自体が安いものではないのは重々承知だけれど)。

「……ごめんね、なんか急で」
「その通りだよ、事態が急過ぎて僕は拐われてきた猫みたいになっているしかない」
「借りてきた猫じゃなくって?」
「僕を《《誰から》》借りてくるっていうのさ」
「親御さん?」
「もういないよ」
「知ってるけど。やっぱ拉致監禁気味?」
「そこまでは思っていないけどさ」

 思っていないけど、感じてはいる。僕はここから歩いてでも帰ることが出来るかも知れないが、帰ったところでお縄になるだけだろう。ここにいるしか無いのだ。

「じゃあ少し、散歩でも行かない?」
「散歩?」
「オリエンテーションみたいなものかな。説明させて」
「やっとだね。僕はまだ瀬織がここでは何者なのかも、〝道士〟とか言うのが何なのかも聞いてない」
「でもまあ、よく半日この中でおとなしくしてたね」
「借りていた猫はおとなしいもんと相場が決まってるんだよ」
「拐われてきた、は撤回してくれるんだ」
「散歩の結果次第かなあ」

 じゃあ、任せてよ。そう笑う瀬織さんに、僕は今はもう無条件の信頼を寄せていた。何でだろう、なんでこんなにも無防備になってしまうのだろうか。自分でも不思議だった。
 そうして瀬織さんに連れられるまま、1階のエントランスを通る。あのおばさんがいたが、瀬織さんはいつものすまし顔でおばさんを一瞥して、通りがけに置いて行くように言葉をかける。

「少し外出します」

 この村の人達と接する時、瀬織さんはまたたく間に《《猫を被る》》。

「あ、観月様、少々お待ちください。」
「何?」

 呼び止められた瀬織さんは、氷の表情を向ける。多くの村人に向かっては、ああした少し冷たい対応が多い。幾らか柔らかい相手もいるが、それでもどこか一歩引いた感じだ。

「鏡の精度改善について、19時から会議を行います。ご参加くださいますね?」
「……わかりました」
「それと―

 何の会話だかわからないけど、瀬織は少なくともこの村では何らかの重役なのらしい、何か会議のようなものがあるのだろう。今朝もそれで出掛けていたみたいだし。
 会話が終わると長い髪をマントみたいに翻してあるき出す瀬織。いってらっしゃいませ、と背中から声をかけられるのを、当然と思っているようなツンと澄ました様子で、そんな音のなる靴ではないけれどツカツカと踵を鳴らして歩いていそうな足取り、背をぴっと伸ばして胸を貼るように体の軸をブレさせない歩き方。僕はそれに倣わなければいけないような気がして、なんとなく気が引けるけれど、同じ様に胸を張って彼女の隣に肩を並べて威張り散らすように歩く、上手く出来ている気はさっぱりしなかったけれど。
 元々学校でも付き合いやすい空気を出してはいなかったのだけれど、彼女がここで被るのはまたそれとは別の《《猫》》だ。普通は猫を被るというとその逆な気もするけれど……むしろ僕と話している時の方が、取り繕っているのかも知れない。理由なんて知らないけれど、そんな気がしてしまう。だってそうだろう、わざわざ棘の有る態度を撒き散らすなんて、その方が余程不自然だ。なにか理由がるというのなら、それはドラマか漫画か映画飲み過ぎというものだろう。

「どしたの?」

 応急処置にしか見えないがそのまま恒久対応にされ道具としての命を絶たれた吸盤式の取っ手?を引いて扉を開ける瀬織さんが、物悲しく鈍色の肌を空に打ち付けたままのホテルゾンビのファサード領域から抜けたところで、声をかけてきた。

「え?」
「なんか、黙っちゃって」
「あんまりお喋りな方だとは自覚なかったんだけど」
「まあ、そうだね。なんか言いたそうにしてたからさ。|国立《くにたち》って、学校でもそうだったよね、ずっと何か言いたそうにしてて、でも何も言わないでずっと本読んでるの」
「悪かったね、気持ちの悪いやつで」
「そ、そんなこといってないじゃんー! 確かに気持ちは悪かったけど!」
「どっちさ」
「その気持ち悪さが、気になってたからね。|火垂向《ヒダリムキ》」
「そのよくわかんない概念がよくわかんない」
「キチガイさん」
「人間のコミュニケーションにはオブラートは必要だと思うんだけど、どうだろう」
「皮被り」
「それはもうほっといてよお!」
「いいよ、私気にしないから」

 こうだ。僕に対してだけ妙にフレンドリな態度に、見えなくもない。
 僕に向かっていい子ちゃんを演じるのなら、どうしてなんだろうか。その理由がわからないままでいると……不要な期待を抱いてしまいそうになる。

「ほら、いこ」
「わ、わっ」

 瀬織さんは僕の手を掴んで、引っ張る。
 少なくとも嫌いな人間にする態度ではない、のだが、本心の行動かどうか、はわからないけど。



§ § §



 KEEP OUTの意思表示はあるが、よくドラマなんかで見る黄色と黒のテープではない、麻縄で外枠を括っているだけだった。立ち入り禁止表示なのか、足下には小さな木製の立て看板の様な板が置かれているが、文字は何も書かれていない。よく見ると張り巡らされた麻縄には一定間隔で稲妻のようなジグザグの形に折られた白い紙がぶら下がっている。それはこれが、警察や検察といった表向きの機関に管轄される出来事ではないことを示していた。所謂立ち入り禁止の黄色と黒の人払いテープは、もっと手前のところに設けられていてそれはもう通り過ぎている。この麻縄の区切りは最悪人目に付く距離を更に隔てたその内側に貼られた臨時の結界だ。外枠も内側の結界も無遠慮に踏み越えて立ち入ってきたのは、フジワラと呼ばれる(名乗りが本名かどうかはその職業から鑑みて極めて疑わしいが)女性だ、結び目がリボンのように広がる幅広の靴紐で編み上げられたカーキのレザーロングブーツ、そのくるぶしまで届く生成の白いリネンのワンピースの上から、袖を下ろすと指先まで隠れ腕を伸ばせばムササビのように脇が余る大きなGジャンを羽織っている。青いリボンがワンポイントのベレー帽。
 KEEP OUTのテープも簡易結界の麻縄も、スカートの裾を振り乱して大股で踏み越えてきた、いつも通り言動に似合わないガーリーな装い、そしていつも通りにその被り物からは姿のない声も聞こえている。

「草の根ネットワークの奴らの写真の通りだな、いや、こいつは……もっとひでえ」
―完全に公安と|神社本省《お宮》の管理下に入ってるな、禁忌で暗黙に、だが強烈に人を払っている。
「唐島の野郎の顔がいつ出てくるか不安になってくるぜ」

 右掌を中に翳すと、指先の延長上に五つの小さな光球が浮かぶ、マグネシウムを空気に晒した様に目映い、だが小さく継続性のある照明炎は、指先を離れてフジワラの周囲を独りでに漂って辺りを明るく照らし出した。

―痕跡など何も残ってはいないな。光と熱は、何も残さない、破壊の象徴だ。
「そいつはアタシの専売特許だぞ、クソッタレ」

 ブーツで良かったななんて苦笑うのは足下の状況が悲惨だからだ、流石に死体は片づけられているが、人間の形をくっきりと残したように熱変化している床、壁、柱。天井は大きく上に抜けていて、まるで何か高温のモノが天から降り注いだことを語ろうとしているようだった。可燃性のモノは一つも残っていない、中央付近では剥き出しになった鉄骨、それにコンクリートが鑞の様に溶けて混ざり合いすぐに冷えた姿が見える、某の足を彷彿とさせるそれは熔解から急激な冷却で別の組成に変化していた。この中に或いは人体の燃え滓も混じっているのだろうか。

「これが、爆弾テロの仕業か? 何を隠してやがる」
―そうではないにしても、唐島から受けた仕事とこれがどうつながると言うんだ。一介の新興宗教がやれることではないぞ、それこそこうした有様は、お前の商品の一つじゃないか
「その通りだ、こんなことお天道様の見える場所で堂々とやられちゃ、アタシは商売上がったりだ」

 Gジャンのポケットに余った袖をはみ出すように手を突っ込みながら、ブーツの先で溶けて凝固した《《色々なもの》》の混合物を蹴飛ばすフジワラ。脆い一部が崩れ落ちると、その断面には一様ではない複雑な色が見えた。人の破片が……見えたりはしなかった、そもそもそんなふうに形が残っているような温度ではなかったろうことは、周囲を見れば大方予想がつく。

「妖気の残り香も|無《ね》え。ここに化物が降臨したってことでもないらしい。巷の噂にあった|怪異性球電《ボールライトニング》でもないな、こいつは球電程度の温度じゃねえ、非電導性のものもすっかりやられてる。でも」
―|神妖《かみさま》出現前の宏観異常現象としてなら
「まあ|神妖《かみさま》絡みなら、凡そ人間が想像できることで起こり得ないことの方が少ないだろうがな」

 唐島からロクな追加情報は得られていない、このテロが|照道《しょうとう》教の奴らの仕業「かもしれない」ということと、この出来事が|日燧鏡《ひすいのかがみ》という、神社本省が躍起になって探していた神器の《《可愛らしい寝返り》》だったかも知れないことは、最初に聞いたとおりだった。こんな麻紐の即席結界に何の意味もないだろう、もう一度寝返りだの寝言だのが出れば、今度はこのビル全体が崩落するかも知れない。
 「草の根ネットワーク」を自称するアマチュア情報屋(売ってるんだからアマチュアと呼ぶべきかは微妙だが)の写真に誘われるように現地に赴いてみたが、それが示すとおりこれは明らかに爆弾テロなどではなかった。

―唐島は「卑弥呼の持ち物」とか言っていたが、ヒスイノカガミだったか?
「……卑弥呼殺害説というのがあるな」
―まあ聞いたことはある。だが絶大な権力を持った女王だったのに、殺害される動機なんかあるものかね
「それだけ、力が衰えたときには民の失望も大きかったんだろうな。まあ殺されたんだか死んだんだかはあまり関係がないと思っているが。」
―力が衰えたというのは、天変地異でもあったのか。皆既日食説が有力だが。
「皆既でなくとも日食自体は数年に一回、大部分がかけるものに限っても2、30年に一度は起こっている。卑弥呼の力を疑うような一大イベントの契機としては説得力に欠くと、個人的には思うがね。恐らく、噴火だよ」
―噴火……その頃はまだあちこちの火山が活発だったか
「鬼界カルデラって特大のやつが、鹿児島沖にあるだろう。そいつの噴火は九州の南半分を火砕流が洗い流したってくらいだったらしい。その噴煙で太陽が隠れたことだったんじゃないのか。そして太陽が隠れたことは、〝岩戸隠れ〟として伝えられている。卑弥呼と|天照大神《アマテラスオオミカミ》をつなげようとするなら、これは格好の事象だ」

 フジワラと頭上の声の主は、唐島に何らかの仕事を依頼される形でこの場所にやってきた。元々はビルの爆破テロ事件に関係している宗教団体の秘匿する「神器」がここにあるのではという話だったが、それは単にその神器を民間の手に転がしておくのが気に食わない神社本省の意向だったろう、そんな意向などフジワラには関係のないことだったが、結局こうして事件に巻き込まれることになった、進んでそうなったようにも見えるが。
 それを、卑弥呼だ|天照大神《アマテラスオオミカミ》だ胡散臭い話と真面目な顔で直結させようとしている。普通なら、眉をひそめるどころか唾を塗るやつだ。
 それでも二人は簡素な結界を施された、悲惨な〝天災〟の光景に静かに視線を泳がせながら想像を転がす。

―ひとついいか
「なんだ」
―私の考えでは、天岩戸から出てくる前までは、アマテラスというのは月の神だったんじゃないかと思っている。そしてそのヒントが、宇佐にあると考えた。だからお前をここに導いたんだが。
「天岩戸に|天照大神《アマテラスオオミカミ》が隠れたというのは、私は、実際には卑弥呼の殺害と天変地異を撚り合わせて出来上がった伝説なんだと思ってる。そして|天照大神《アマテラスオオミカミ》が岩戸を再び出てきたというのは、旧来の神とは別の神の擁立のことだった。新たな神が立った時、太陽を自称して岩戸隠れを太陽と神の関連として語らせ、自らの神威を高めようとした。」
―例えば、月を信仰していたそれまでの権威付けを全て否定して新しい権威を誇ろうとして、か。
「ああ。だから唐島のやつは、アタシらに宇佐に行くようにけしかけた。何かあるんだ、いつもそうやって人を馬鹿したようなやり方をするんだ、奴は」

 舌打ちをはさみながら、憎たらしいものがそこにあるかのような表情を浮かべて、フジワラは続ける。

「月信仰からのパラダイムシフト。それが太陽の女神|天照大神《アマテラスオオミカミ》であったし、恐らくそれは卑弥呼か、その妹|臺與《いよ》だ。それより前、ここには月を信奉する国があったが、卑弥呼が率いる国に負けたんだ。月の男性神|天照大神《アマテラスオオミカミ》が存在した。」
―男神アマテラス説とも少し違うか、前に別の神として存在していたということか? だが、|天照大神《アマテラスオオミカミ》という名前が継続して使われるのはおかしくないか
「岩戸隠れ前のアマテラスは、アマテラスなんて名前で呼ばれていなかったに違いない。」

 そう言って、フジワラは唐島からの話の要点をメモした手帳を取り出す、「|日燧鏡《ひすいのかがみ》」というキーワードが見え、それに「草の根ネットワーク」を自称する情報やから買い取った写真も挟まっていた。黒く塗りつぶされたようになっているのは、事務所の改竄履歴アーカイブから一部を複製してきたログの一部だ。勿論この二人以外に読み取れる者は、滅多なことでは見つからないだろう。それと被災地の光景とを交互に見るようにしながらフジワラは息を吐いた。

―名を変えたのか、そうだ、それはきっとヤハタとか呼ばれていた。八幡様の前身は卑弥呼以前に存在した蛮神だということか?
「八幡様になったヤハタは、後から掘り返されて神仏習合のネタにされただけだろう。そのミスリードをほどく必要がある、だから宇佐に来たんだろう?」
―男神アマテラス説を踏襲してまでのつもりはなかったが……なるほど、面白い話だな。そもそも宇佐の土地に宗像三女神が大々的に祀られているのはおかしい、朝鮮半島との海路要点だった辺津宮から見て随分遠い。北九州にせよ、下関にせよ、出雲にせよ、朝鮮半島か大陸に向かうルートを眺めるにしては、中途半端だ。もともと宇佐神宮は海神を祀っていたわけではなく、宇佐平野を広く治めていた別の神の再利用だと考えるのは、別におかしなことではないな。

 フジワラは一度は拡げた、唐島からの資料と情報屋からの資料、それに自分で調査した何点かのエビデンスを再びしまい、デスに火を吐けた。火種を用いずに眩い火を熾す、フジワラが何の気なしに使い倒しているその力こそ、|天照大神《アマテラスオオミカミ》に通じる力のようにさえ見える。

「卑弥呼の時代には、既に朝鮮半島から色んな人間がやってきていた。現在神道の神様や古代の豪族氏族、土着の神として伝わっているものの中には、朝鮮系の人々が帰化・神格化された人間やその文化の名残も沢山あるらしい。その時期には、日本には旧いスタイルの道教や古代神仙思想がもたらされている。道教系の氏族や氏神が、旧来の豪族や氏神を追い出すか取り込む形で表舞台に立っていた地域もあっただろう。だが卑弥呼は、一度は日本に根付きかけたこれらの氏神を、再度取り込んだ。戦争だったかもしれないし、親和的な統合だったかもしれない。結果として、邪馬台国という強大な国を作り上げた。」
―卑弥呼はその時代の動乱を武力の面でも宗教の面でも、器用に乗り越えたリーダーだったということだな
「そのリーダーも力が衰え死ぬと、一度は男王が立ったが失敗し、新たな女王が現れた。その世代交代を、大噴火による日光遮断とそれが晴れていくことに紐付けて権威を保とうとしたが、邪馬台国は新女王を掲げた後忽然と消える。大和政権として東へ移動したのかも知れないし、そこで滅んで歴史から隠されたのかも知れない。卑弥呼は、日本の神道が様々な蛮神を器用に取り込んでいく先駆けだった。神道は今でこそ緩い宗教と言われているが、その元は、あらゆる神を取り込んで自らが最高指導者であることを保とうとした貪欲なリーダーだったということだ」
―その貪欲なリーダーが持っていたのが、「|日燧鏡《ひすいのかがみ》」というやつなのか?何を思ってこんなえげつない熱化学兵器を欲したんだ。やっぱり敵をねじ伏せるためだったのか
「元の思想が、捻くれたのかもなあ。あるいは本当にすべてを焼き払いたくなったのか。今更そんな理由など想像も出来ないがな」



§ § §



 彼女に引かれるままに歩き、あの山が、あの家が、あの畑は、なんて説明をしてくれる。そうしている内に、奇妙な建物が見えてきた。
 これは、繁華街、なのかな。
 こぢんまり……というよりもしょぼい。そしてそれ以上に、怪しさを絵に描いたような姿をしている。アパートみたいに2階建て2部屋の4室が集合したような木造の建屋は、見た目通りの鉄骨階段を備えている。壁は黄色く塗られ鉄骨階段もピンク色のペンキで彩られているが、ペンキのハゲ後の下に覗く鉄骨は錆で腐食が進み茶色が生々しく剥き出しになっていて錆滓が流れた赤茶の筋が色あせた黄色い外装に、流血のような縦シミを残している。ピンク色の地肌にも錆の色が浮き、泥が付いて土が乗り、地面からは伸び上がった雑草に頭を擦り付けられている。「スナック割烹 わけあり」と書かれたケバい看板には、よくわからないが赤色回転灯が乗っかっている。目立たせるためなのだろうか、怪しさしか感じない。店名の「わけあり」というのも……面白がっているのだろうか。その他にも「バー 半おち」、「ファッションヘルス オーガと♥」、「ワイン居酒屋 太陽神アジム」と書かれた看板がある。
 繁華街、と呼ぶにはあまりにも小さい、なんといっても街ではなく建物一つだけなのだ。しかも店の名前が軒並み怪しい、僕一人なら近寄らない建物だ。

「ここは唯一の歓楽街だよ」
「街っていうか」
「まあ、規模がね……。店の名前は、表札みたいなものなの。スナックが|和気《わけ》さん。バーが|越智《おち》さん。ヘルスはもう営業してないんだけど、|大神《おおが》さん。居酒屋さんが、|安心院《あじむ》さんのお店。」
「へ、へえ」

 他はともかく、オーガが出てくるヘルスなんて、想像したくない。

「あ。あれが、和気さん」

 瀬織さんが示した方には、女性が一人歩いている。手提げ袋に野菜を沢山詰め込んで歩いているのは、品の良さそうな、おばさんとおばあさんの間くらいの女性だ。

「観月様?」

 瀬織さんが和気さんとやらを見つけると、和気さんもすぐに僕らを見付けて寄ってきた。寄ってきたというか、この建物がこの人の仕事場なのなら僕らが進行方向にいただけなのだが。

「和気さん。お久しぶりです、お変わりないですか?」

 瀬織さんはやはり猫を被り直して丁寧な口調、まるで絵に描いた聖職者の女性のように、下へ降ろした手も指同士を汲んでいる。

「おひさしぶりです。お戻りになられていたのですか?」
「ええ、少し事情があって、昨日戻りました。」
「ヒスイの件ですか?」
「いいえ、違います。ですが、しばらくここにいると思います。」
「それはそれは。観月様がお戻りだなんて、園のみんなが喜ぶと思いますわ。」

 和気さんというかたも大概丁寧な人だ。振る舞いが上品というか、旅館の女将さんみたいなイメージ。とても……野菜の一杯に入った手提げをぶら下げて、あの看板の店に入っていくとは考えにくい。

「和気さんは、昔、東京で高級クラブを営んでいたそうよ。」
「高級クラブだなんてとんでもありませんわ、あんなお店、キャバクラに毛が生えたようなもの、単に単価が高いだけで、男と言ったら、少しでもいい女とやりたいだけ、女の子も金持ちに愛人営業したいだけでしたから。老いたのでしょうね、確かにキラキラした世界でお金も手に入りましたけど、三十路を迎えた辺りから、耐えられなくなってしまって。本当に高級なクラブだったら、男性も品格のある方がいらしたでしょうし、もう少し長くあの世界にいられたかも知れませんけれど。」

 今は、これが性に合っていますの。と両手にぶら下げた野菜を少し持ち上げて笑う。言葉遣いは丁寧で立ち居振る舞いもしとやかで、見目も上品に整っている、服も和服を着て髪もきちんと結わえている。だが靴は歩き易さを優先しているのかスニーカーだし両手のそれがどうしても立ち姿にアンバランスで、和服も小綺麗にはしているが決して東京の高級店で働いていた人のそれに見は見えない。だというのに、謙遜して言う和気さんの表情は晴れやかで、店を畳んだことには後悔の欠片もなさそう、気持ちのいい表情に見えた、これが営業で鍛えられた笑顔という名の無表情でなければ、だが。

「え、そこで、お店してるんですか?」
「ええ。前にどなたかが使われていたお店の看板をそのまま使わせて貰っているんですよ。この辺りはみんな顔見知りですから、お店の面構えばかり綺麗にしてもあまり意味がないんです。中は随分作り変えてしまいましたけど。うちの店の前だけ取り繕ったように直しても、この建物のを見出してしまうだけでしょう? 折角歴史のあるお顔をしてるんですから。」

 歴史の顔……と反芻しながらもう一度あの集合店舗の《《|お顔《ファサード》》》を改めて見てみるが、やはり怪しさは拭えない、この和気さんという人と見比べても同じだ。

「えっと……お名前は」
「あ、|国立《くにたち》|日《のぼる》と言います。観月さんと、昨日こちらに……」
「まあ! 〝事情があって〟って、そういうことなんですか、観月様」
「そうです。よろしく頼みます」

 そうです、と少しの迷いもなく即答する瀬織さん。瀬織さんもなかなか、演技力がヤバい。そこでそんなに綺麗にサラッと嘘言えるか。ていうか、これ以上状況を固めてしまうと、本当に後に引けなくなるやつでは……。

「立ち話もなんですから、お二人共、中へどうぞ。ヒスイの話もお聞きしたいですし」
「いえ、|日《のぼる》さんに一通り案内してるところだったので。また今度お邪魔します。」
「そうでしたか、残念ですわ。でも、じゃあここにお住まいになるんですね。何にも無いように見えますけど、実際何にもない場所ですわ、ここは。その代わり、とても安らぐ場所ですのよ。私は、この園に救われました。ここに来なければきっとダメになってしまっていたと思います。観月様が選んだ方でしたら、きっとこの場所が気に入ると思いますわ。」
「はい」

 はい、とは答えたが、よくわからないのが正直なところだった。今まで見てきた人たちが理知に欠いているとは思わないが、殊更品性を感じさせて落ち着いた様子の和気さんも観月「様」、しかも随分と《《手放し》》で、だ。

「それでは、ごきげんよう」
「失礼いたします。」

 歩き出した瀬織さんに並ぶように僕も歩き出した。

「っ?」

 横に並んだ時、思わず上げそうになった声を、飲み込んだ。彼女が、僕の手を握ってきた。どうやら「そういうこと」を演じるために、手をつないでおこうということらしかった。
 何もそこまで徹底しなくても、と思ったが、僕の手を握る彼女の手が必要以上に強いような感じがして顔を見る。和気さんとのやり取りは気を引き締める必要があったのか、それとももっと別の理由なのか、まっすぐ前を見て脇目を振らずに歩くその横顔は、妙に固く見えた

「|国立《くにたち》、まずい、あっち回ろ」
「えっ?」

 そう言って突然引き返す瀬織さん、何だろうとその方を見ると、パトカーが一台止まっていた。そばには警察官がいる。僕も慌てて警察官の視界に入らないうちに死角に隠れた。

「ど、どうして……バレたのかな」
「そんなことはないと思うよ、この辺でみ、たまにはおまわりさん来てるし。たしかに珍しいけど、チャリで回れる距離に交番がないからパトカーで来ているだけだと思う。私達を探しに着たわけではないと思うけど、姿を見られるのは、まずいでしょ?」

 こくこくと頷く。
 確かにパトカーはサイレンも鳴らしていないし、おまわりさんは普通の交番にいそうな人の服を着ているし、特に何かを探したりしているような感じでもない、刑事さんとかそういう人ではないっぽい。本当にただ警邏に着ているだけのように見えた。

「あっちから回れば大丈夫だよ」

 そう言って、少し向こうに見える生け垣の方を指差す。基本的に畑風景で見晴らしのいいこの村の中でも、ああした生け垣越しになら見られることもない。
 生け垣の範囲を抜けると、パトカーの姿が見える位置ではなかった。僕らを探しに着ているわけではないのだろうけれど、ほっと胸をなでおろす。

「せーふ、だね」
「うん」
「こっち行くなら、風間さんち行こう」

 四方を山に囲まれた、と言う地形は全国あちこちにあるようだけれど、ここはそういう感じの場所ではない。人がまとまって住むには本来狭すぎる。でもこの場所は急峻な地形にへばりつくようにごく小さな集落を形成していて、村といえば村だ。道はアスファルトではない、セメントを平らに伸ばして適当な間隔で横に溝を引いたような簡易なものだが、これを対向車同士が鼻面を突き合わせたらどちらかが転がり落ちなければダメだろうなと思える細さと急峻さだ。坂道と同じくらい多いのが階段で、1段1段が低くなっている代わりに少々大回りに刻んであるため遠道感があるが、この集落の高齢化具合を見るとそれを見越して整備されているのかも知れない。
 棚田と、斜面を刻んだ果樹林が山にへばりついている。こんなところで人が暮らしているなんて、通ってきた幹線道路を毎日行き交う車の主でも知らないだろう。国道なり高速なり、太い幹線道路で時折見かける「こんなところに墓があって、誰がお参りするんだろう」とか「こんなところに階段があるけど、人が歩くとは思えないな」とか「なんでこんな場所に納屋が立ってるんだろう」「あんな細い脇道どこにつながってるんだ、しかもこの道路から降りれる場所が全然見当たらない」というポイントの、つまり一つだった。瀬織さんが迷いなくその道に降りて細い道をずんずん進んでいくのは、まるでこの社会からドロップアウトした自分たちの道行きヲのもののようにも思えた……のだけど、実際に踏み込んでみれば、底で生きている人はやっぱり人間なのだ。

「主要産業は、農業です。って車の中で言ったよね」
「パッションフルーツとアボカドとか」
「そ。あっこの畑のおばあさんがね、エキスパートなの。農家って言うより、植物マニアみたいな人なんだ。それで、みんなに農業指南してるの」
「へえ」

 指をさしたのは、見える山の斜面に齧り付いてぶら下がっているような危なっかしさを感じる木造建築の家屋と、そこから平面を切り出さず斜面をそのまま全部畑にしたように拡がっている耕作地だった。

「あそこにおばあさんが住んでいるの?」
「うん」
「よく、生活できてるね、ちょっと、僕でも歩くの大変なんだけど」
「あそこのおばあさんは、ちょっと特別かもね。確かに私もそう思う」

 セメントの危うい舗道の足元を油断無く確かめながら見ると、急峻な畑にまるでそれをものともしないように歩き回って農作業をしている人物の姿が見える。何をしているのかまではわからないが、動きだけ見ると、おばあさん、とは思えなかった。
 ふと、その動きが止まって、そしてこっちを振り向いた。おばあさん……かどうかはちょっとわからないが、麦わら帽子の内側に手拭を垂らして日よけにしている、典型的な農家の女性のフォルムだ、一見する限りは。背筋が曲がったりもしていないし、ここから見えるシルエットはスラリと高い、おばあさんという言い方が相応しいかどうか、ここからではちょっと判断がつかないくらいだ。そのシルエットが、手を上げて、手招きするような動きを見せた。
 えっ、と思って瀬織さんの方を見ると、彼女も手を振っていた。

「いこ」
「えっ、お邪魔じゃないの?」
「見えないの? 呼んでるんだよ、あれ。もしかしたら何かご馳走になれるかも〜♥」
「ご馳走?」
「ほら、みて。ここの畑、全部果物なの。しかもこの辺の風土じゃ育たないはずのものも、あるの。あの人にかかったら、育たない作物なんて無いんじゃないかって言われてるんだ。呼んでもらえるとね、昔から色々果物をご馳走になれるんだ。ちっちゃい頃からお世話になってるんだ」
「へえ、ずっとここにいる人なんだね」
「私が小さい頃から、ずうっとあのおばあさんのまんまなんだよね。おばあさんなんだけど、年取ってないみたい」
「なんかおっかないな……」

 お隣さんだと思ってお付き合いをしていたら、そのお隣さんが実は座敷わらしでしたとかそういうネタなのだろうか。
 スタスタと慣れた足取りで斜面を登って件のおばあさんの家の方に向かっていく瀬織さん。僕はそれに少し息を切らしながらついていく。

「こんにちわ、風間さん」

 家の側まで来ると瀬織さんが到達するのと合わせるように、お婆さんも家の前へ到着していた。お婆さん……と言う割には活発な感じだ。背は丸まってないし、上品なご年配という感じで、農村で畑仕事をしているような人にはちょっと見えない、けれどタオルを挟んだ麦わら帽子には可愛らしいリボンがあしらわれていて、上下揃いのヤッケもチェック柄を差し込んだポップなデザインだ。少し鋭く目力の強い表情のせいで、おばあさんという印象が薄い、少し若く見える。

「遠くからじゃよくわからなかったけれど、若い男連れてくるなんてね、観月も隅に置けないじゃないか」
「えへへ。|日《のぼる》っていうんです。風間さんには会わせておきたくって」

 そう言って瀬織さんは僕の腕に腕を絡めてくる。ふ、フリなんだよね、これ?
 でもそれ以上に、瀬織さんの態度が今まですれ違ってきた人に対するものと、少し違う。砕けていて、どちらかというと、僕に対する態度と似ている気がする。どっちが《《猫》》なのか、いよいよわからなくなってきた。

「私は観月の親じゃないよ、会わせられたってどうしようもないねえ。どうしたんだ、学校に行ってたんじゃないのかい。やっぱ鏡のことで呼び戻されたのかい」
「いいえ、そうではないんですが、ちょっと色々あって、休学、ですね」
「……まあいいさ、ちょっと顔貸しな。そっちの虫も」
「む、むし?」
「観月に付いた悪い虫じゃないか。観月はお姫様なんだよ、お前さん、ここの男衆に顔を見られたなら、暗い夜道には気をつけるんだね」
「ふぇっ」
「もう、風間さんってば、大袈裟ですね」
「大袈裟なもんかい。お前、自覚無いのかいね?」
「んー、ない……こともないですけど」

 ほらみれ、と意地の悪そうな笑い方で瀬織さんを見る、風間さん。そのまま家の方に入って手招きする。上がれということらしい。

「こっちだ。ハスカップあんだ、くってけ」
「えっ、ハスカップなんてあるんですか!?」
「蓮……?」
「北海道でしか取れない上に生の流通なんかほとんどない幻の果物だよ!」
「なんも、そこで生ったんだ」
「普通こんなとこで取れないんだから! すごい、さすが風間さん! ほら、|日《のぼる》、いただこうよ!」
「う、うん」

 の、のぼ……?
 最初にここに来たときにもそう紹介されたけれど、面と向かってそう呼ばれるとちょっと、恥ずかしい。きっと驚くべき対象はそんなものではなくて、生のハスカップがあるという事実なのだろうけど(僕はその植物をしらないけれど。ハス、とか言ってたけど蓮根か何かだろうか)、突然下の名前で呼ばれて手を引かれてしまったことの方に、慌てている。

(元々人懐っこい人なのかも知れないなあ)

 学校での印象もあるし、ああした振る舞いが演技であるにせよ一日の大半をそうして過ごさなければならないとなれば否が応でも染み付いてしまうのだろう。2年間見てきた誤解の顔が、またたく間に剥けて見えるのには驚かされてしまう。なにより、その人懐っこさが自分に向いているのが、むず痒かった。
 二人で風間というおばあさんの家に上がり込んで、テーブルの前で腰を下ろした。畳は少々傷んでいて、ドアノブカバーのような可愛らしい当て布がされているのに座卓の足の跡が幾つか凹んで戻らなくなっている。部屋は純和風で古臭いのではなく、本気で古い。窓には障子も重なっているが、障子には何箇所も穴が開いていて、濡れて茶色く変色したノリのシミもある。天井には誰の写真だかわからないが幾つかが額に入って並んでいた(その内一人は、何だか僕の父に似ている……気がしないでもない)。梁なのか欄間なのかわからない場所には、阿修羅像のような彫刻が見えるが、これも変色しているしよく見ると蜘蛛の巣がかかっている。
 さて瀬織さんの寛ぎ様と来たら、あの元ホテルの自室にいるときよりも、断然のびのびとしているように見える。この風間というおばあさんは昔からの馴染みということなのだろう、よくこうして遊びに来ていたのかな、と思わさせられる寛ぎ具合だ。

「布団派は、瀬織の方だったんじゃないの?」
「えっ?」
「布団かベッドかって。和室での脱力具合すごいよ」
「実はねー。畳の方が好き」

 ぱた、と後に倒れる瀬織さん。そうやって仰向けにひっくり返ると、服の布地が体のラインを生々しくなぞるものだから、急に目のやり場に困ってしまう。あからさまに目を離すのもなんだか嫌らしいのでなにか部屋の中のものに注意を払ったふりをすべきだと、わざとらしく「ふうん」とか言って辺りを見回す、完全に失敗していた。
 畳に手を突いて部屋を見回している僕の手の上に、瀬織さんの手が重なるのがわかった。

「せ、」
「おまちどおさん」

 地獄に仏、風間さんの絶妙な空気を読まない登場で救われた。いや地獄ではなかったのだけど、生殺しは生殺しだったかも知れない。こんなところで始めるわけには行かないし、嬉しそうな態度一つでも取ったらまるでちょろい男だと思われそうで嫌だった。ちょろいんだろうけど。

「ほれ、ハスカップだよ」
「わあ、ほんとだあ♥」

 マリア様に祈りでも捧げるように胸の前で手を汲んで目をキラキラさせながら暗紫色の粒を見ている瀬織さん。何ていうか、ブルーベリーをブサイクに大きくして少しナスのように垂らした様な形だ、想像していた蓮感はゼロだった。

「初めてみたな」
「そりゃあねえ、生のハスカップなんて日持ちしないから産地でしかお目にかかれ無いんだから」

 違う、この果物のことではなくて、そんな風にはしゃいで笑う瀬織さんをだ。

「そっか、そりゃ見ないわけだね」

 でも、嘘を吐いた。

「ほら、|日《のぼる》も早く食べなよ」
「うん。いただくよ」

 口に放り込んだ〝蓮カップ〟とやらは、凄く柔らかくて皮がすぐに破けて豊富な果汁が染み出した。果肉は柔らかくて瑞々しく、酸味強めの甘酸っぱさは爽やかでベリー系の味わいだ。ブルーベリーを柔らかく多肉多汁にして酸っぱくした感じだろうか。

「ん、おいしいねこれ」
「美味しくって健康にいいんだってさー。貴重なもの食べちゃった。風間さん、ありがとうございます、ごちそうさまでした」
「若い子は美味しそうに食べてくれるから食わせ甲斐があるね」

 そう言って、風間さんは、僕の顔をじっとみてくる。無表情にも見えるがその目は険しいようでもあり、見つめるようでもあり、悲しそうでもある。

「えっと」
「ふうん」

 そうして僕のから視線を外した風間さんは、はあ、と溜息を吐いた。え、なんなの、いきなり人の顔見て溜息吐くって。
 でも、その様子を見て、瀬織さんは僕に横から抱きつくみたいにして視線を風間さんの方へ向け、頬を膨らませている。

「あげませんよ」
「はっ?」

 いきなりくっついてきて何を言うかと思えば、瀬織さん、意味がわかんないです。
 そんな警戒するような瀬織さんの視線を、風間さんは、ふっ、と笑い飛ばして、払うように手をひらひらと動かして応えた。

「これは私のなんですー、色目使わないでくださいー?」
「要らないよ、そんな弱そうな男」

 風間さんは、かかか、と笑いだした。「うちの人にそっくりだったからさ」と言って、年寄りなのか若いのか判断がつかないような表情で瀬織さんを見る。瀬織さんも笑いながら僕から離れた、ほっとしてしまう。

「ところで、風間さんのご主人も畑の達人だったんですか?」
「いや、あれは畑作業はてんでダメだったね、私が一つ一つ指示しないと向日葵一本枯らしちまう有様だった。なよなよした男でさ、ほんとにあんたに似た感じだったよ。だから、ちょっと虐め過ぎたらしい、あたしより先に死んじまってね。まったく役に立たない男だよ。手ばっかりかかる男で、そのせいで夫を亡くしてからはやることがなくて、あれこれ畑で試してたらこのザマさ。」
「そんご主人が亡くなってからここにいらっしゃったんでしたね?」
「ああ、今でもあのダメ夫のツラばっかり思い出すね。あそこで思いとどまってれば、もう少しは外で穏やかに生きられたのかも知れないけれど」
「えっ?」

 思いとどまる、って、何だ?

「ここはさ、そういう思い出に浸りながら生きていくにはちょうどいいんだよ。誰にも邪魔されないし、都会みたいに忙しなく前に進むことばかりを強いられず、ただ罪の意識に苛まれながらおとなしく消えていきたい私にみたいな人間には、天国みたいなところだよ。こうやって、好きなだけ園芸に打ち込めるしね。」

 思いとどまるとか、罪の意識とか、何のことだろうか。瀬織さんの方を見るが、彼女は何も感知していない、あるいは既に全てを知っているのか。思いとどまるとかいう単語も出てきていたし、過去が云々だなんて、風間さんも何かがあるのだろうか。
 でも、そう言う風間さんの表情は、とても穏やかで幸せそうなのだ。罪の意識に苛まれ、なんて言っているけれど、それが何であれ、もう昇華してしまっているように見える。
 こんな風に、このおばあさんにどんな過去があったのかは知らないけれど、きっとこの場所ののんびりしたスピード感は、それを癒やすか流すか慰撫するのに、ちょうどよかったのだろう。
 若いみそらの僕がこんなことを思うのはおこがましいのかも知れないけれど、僕には学校や都会のスピード感は辛かったのかも知れない、もしかしたら両親も。だから、両親は宗教なんかに逃げ場を見出したのかも知れないし、そこに救いを見いだせなかった僕は、破滅しようとしているのかも知れない。
 僕らは風間さんのお宅を後にした。坂がちな細道を元の道へ戻りながら、僕はついつい、気分が良くなってしまう。ここに住んでいる人はみんな、とても人がいいように思える。勿論隣人として常に顔を合わせているとまた別の感想もあるのかも知れないけれど、どっちが《《猫》》なのかという点では、今まさに隣にいる瀬織さんがそれだ、誰にだって裏表はあるだろう。それは仕方がないことだ。

「瀬織」
「ん?」
「ここ、いいところかもね」

 僕がそう言うと、彼女は困ったような顔をするだけで、何も答えなかった。



§ § §



 誰にだって裏表はあるものだな、と博麗霊夢は思った。それは仕方の無いことだとも、分かっている。でも単純に意外だったのだ。目の前にいる人物について、|四則同盟《カルテット》の中でも優等生な奴だと思っていたからだ。

「ちょっと聞きたいことがあんだけど」
「えー、ちょっと待って、いま爪やってんの、みてわかるでしょ。」
「相変わらずリグルにお熱ね。それ結構いいやつでしょ」

 陽光に左手の掌を向けて透かすように、特徴的に長く鋭い爪先の形を気にしているミスティア・ローレライ。どういう構造になっているのかはわからないが、引っ込めたり出したりを繰り返しながら、先端の形を気にしているようだ。出す時に指先に引っかかるのが気にくわないようでもあったし、表面が綺麗に光沢しているか気にしているようでもある。右手には獣の革を鞣したものを持っている、切り株をよく平らに削ったテーブルの上には、青色の粉が入った薬袋と、乳白色のクリームのようなものを入れた浅いボトルが乗っかっている。ネイルバフに使うサファイアの粉とシアバターだ。シアバターにサファイアの粉を混ぜて、革で研磨するのだ。爪の手入れに使うものとしては上質なやつだ、幻想郷では上流階級が使う位には。

(私だってそんな上等なの使ってないぞ……。幽香なら使ってるかもなあ。後はレミィとか、蓬莱山の姫も爪気にしてそう)
「そりゃー私の旦那様だもんねー。チルノにはあげないよ?」
「用事はそれじゃないんだけど」
「それにしてもあの太陽、変だね。久しぶりに日蝕でも来るのかな。そんな時期だっけ?」

 爪先を透かす視線から、流石に直視しないようにずれた位置には、欠け始めた太陽があった。確かにわずかに円形が削れているがまだ十分に明るい、それを視界の隅にでも置いて形を認識しているのはミスティア・ローレライも流石には妖怪というところだろうか、所謂夜雀が昼に強いというのはあまり聞いたことがない。

「そう、その日蝕のことなんだけど」
「ご飯まだかよっていうんでしょ、ルーミアがつまみ食いし過ぎるからおやつもうないの。時間まで我慢しっとぅぅぉぉおおおえええぃぃっ!?」
「あんたもそういう反応すんのね、結構新鮮だったわよ」

 爪磨きに夢中だったミスティア・ローレライが、振り返った先にいた姿を見てまんまるの目を大きく見開いてひっくり返った。貴重なサファイア粉末の薬袋を一緒に落としそうになって慌てて手で受け止めて事なきを得た後で、慌てて膝を付いて平伏する。

「ああああああのっ、いいいいいいまのはですね、は、博麗神祇伯とはつゆとも思いませんであわわわわ」
「思ってあの態度ならぶっ飛ばすところだけど、そうじゃないなら、いいわ」

 そうでもそうじゃなくてもきっとどうでもいいのだろう態度で、小さく溜息をつく博麗霊夢。腰に当てた手にはそれでも御幣が揺れていて、いつでも無慈悲な某になれることを示している。

「で、この日蝕のことだけど」
「はひ、わたくしはなにもぞんじませぬ」
「あんたが日蝕起こせるなんて思ってないわよ。ルーミアはいる? リグルは?」
「今は二人共、おりません。お約束がありましたでしょうか」
「いや、無いんだけど。無いから聞きに来たのよ。どこ行ったの知らない?」
「いえ……生憎、二人共出ていまして。この日蝕に、リグル・ナイトバグとルーミアが、関わってるのですか?」
「だから、わかんないから聞きに来たのよ。あいにくとこちとら何の手掛かりもないの。でも、思い当たる節だけは、あるもんでね」
「チルノにも聞いてみますが、ルーミアはご存じの通り紅魔館で勤務中、リグル・ナイトバグは公務で夢幻館に」

 ミスティア・ローレライは平伏しながら口を小さくぱくぱく動かしている。おそらく遠隔会話でチルノに問い合わせているのだろう。程なくして、チルノがやってきた。

「げっ、霊夢、マジでいる」
「こっちは随分ご挨拶ね」
「こら、チルノ、昔と違うんだから」
「あー、これは霊夢のハクレイさま、ご機嫌斜めのようで……って、いてっ、いてえっ!」
「別に気にしないつもりだったけど何か腹立つ」

 瞬間移動したようにチルノの背後に現れて尻を叩き、飛び上がって逃げ回る彼女を更に亜空穴で追いかけながらすぱーんすぱーんと小気味の良いスネア音を刻んでいく博麗霊夢の無慈悲なお払い棒。日蝕の照らすまだ青い空に数度も響いたところで地面に倒れた「く」の字になったチルノが降参の合図で地面を二度叩く。

「ひでぇよお、ついこないだまでこんなちっこくて一緒に遊んでたじゃねーかよぅ……」
「ニンゲンってそういうものよ、チルノ。博麗もう6人目なんだから、慣れないと」
「案外お前も言うな、夜雀? 人間がそんな奴ばっかりって訳じゃないわよ」
「じゃあ霊夢はなんなんだよぅ」
「元々の性格が悪いだけよ。弱いものイジメって楽しいじゃない?」
「巫女ってのはそんな奴ばっかりなのかよ……弱い者イジメが楽しいとか、妖怪退治が楽しいとか」
「そうとも限んないわよ、実際に自分で神様になろうとしちゃう奴もいるしね」
「霊夢ってそういう野心ありそうに見えんだけど……いってええ!」

 もう一発チルノの尻にフルスイングをくれた後、急に苦い顔をになって大きな溜息を吐く博麗の巫女。博麗神社の祭神は、なんせまだ顕現したままで実際に口も利ける、その上強大な力を持っていることははっきりしていて、博麗という神官家にそんな意志はない、だが場合によってそうとは限らない、ということだろう。

「で、二人は別々のところにいるのね?」
「え?」
「ルーミアとリグル・ナイトバグよ。実は一緒に行動しているとか、ない?」
「それは、ないと、思います……多分」
「自信なさげね?」
「最近、リグルがルーミアといちゃいちゃしてるから、自信ないんだよな?」
「自信なくないよ!」
「ないのね、わかった。」
「ふええ……風見さんはお仕事でのこともあるからともかく、ルーミアに取られたら立ち直れない……」

 わかくていいわねー私より何倍も年上のくせに、と呆れ顔の博麗霊夢。

「でも、大丈夫だと思うけど。あの二人がヨリを戻すことはないわ、それは宿命的なものよ。……ルーミアの方に、その自覚があるのかは知らないけどね」
「ヨリ……りっくん元カノ多過ぎでは」

 今度はチルノに代わってミスティアが地面にくずおれる。

「……あんた、あの二人の関係、知ってるんでしょ?」
「概要程度、です。詳しくは、聞かされておりません。」
「あの二人ってあんな雑魚だけど、歳だけはえらい食ってんのよね。色んなシステムに食い込んでて不用意に浄滅させらんないのよね、扱いづらいったらないわ」

 あんたら全員そうなんだけど特にルーミアがね、と付け足す博麗の巫女。

「そのお陰で格別の取り計らいを頂いていることは、承知しております」
「ま、そういうこと。今更隠し立てするつもりもないし関係者だから言ってしまうけれど、あの日蝕、定例蝕じゃないの。で、あの二人が関わってるんじゃないかって踏んでるのよね。だから幾つか問い質したいことがあったってわけ。私も、きちんと申し送りを受けていないことなのよ、私が直々に来たんだから重大さは推して知って頂戴」
「相変わらず自分の尊大さを隠さない奴だなあ!」

 霊夢の言葉を受け止めるように頭を垂れるミスティアと、いーっ、と歯を見せて威嚇の色を見せるチルノ。

「あら、褒めても何も出ないわよ?」
「そういうとこだっての、あーっもうキライ!」



§ § §



 博麗霊夢に向かって、嫌い、と堂々と言う奴は珍しい。同時に、博麗霊夢はこの屋敷の主に嫌いだと真っ向から言える珍しい人物かも知れない。
 時間の観点を除き、空間に含まれないエネルギーの抜け道や、それを応用して膨らませた不当なエネルギー滞留を、俗に亜空間と呼ぶ、空間と似た概念だが空間ではないということだ。これを扱う存在は少ないとはいえ存在しないことはない、だが真の意味で空間にアクセスしようというのなら話は違う、何せ幾つかの点で物理を捻じ曲げる必要があるのだ、並大抵の存在がなし得る技ではない。だが、本当に空間をオペレーションするバケモノが、この幻想郷には、いる。厳密に言えば、空間を扱うのがそのバケモノの特性ではない、そのバケモノの持つ活動の一つの副次的効果として、空間へネイティブにアクセスすることを含むというだけだ。
 そうして生み出された空間の内、この幻想郷で最も巨大なものが、幻想郷である。最も巨大なものではなく、それよりは幾らか小さなものとして、そのバケモノは自分の住処を拵えていた。
 ここは|迷彼我《まよひが》。ここに棲まうバケモノは、汎ゆる事物の境界を操るという。かのバケモノの手にかかれば、自己と他、他と他、それに自己と自他までもが境界を曖昧にし、自我を迷わせあるいは溶けるのだとか。
 まあ、あくまでも、そのバケモノがその気になればということなのだろう。
 今ここにあるのは、そんな悍ましい逸話とは縁のなさそうなあくまでものんびりとした、平和な空間だった。向こうには幾つも山が連なり、真っ青に晴れ渡る空には白い雲が流れている。風に流されて小鳥の囀りが聞こえ、降り注ぐ陽光は柔らかい。豪華ではない茅葺きの住居らしい家が一軒だけ建っていて、時は動いているが時代は止まっているような、穏やかな空間だ。概念が溶け合い物質が境界を失う、空間が空間を飲み込み合っている、宇宙の廃棄場所のようなそんな場所ではなかった。だがはて、この幻想郷にはこの様な場所が、あっただろうか。つまりそういうことである。
 軒先では、背の高い女性がその家の周りをせっせと掃除している、一軒しか無い家の周囲は自然を刳り貫いたようではあるが、境界などはないように見える。竹箒を振って落ち葉を払うのは石畳、石畳の敷き詰められていない領域には雑草が繁茂しているが、その規模はよく調整されているようで、地面が見えない程度に、草の分布が偏らないように、何よりぼうぼうと見た目が悪くならないように、不自然な自然さで茂っていた。
 掃除をしている背の高い女性は、家の中の様子を少々窺うように耳を立てている。耳だ。立っている耳は人間のそれとは明らかに異なり、三角に上向いている。よく見れば奇妙な衣装かと思っていたファー質の腰飾りはそうではなく、八叉を持つ尾の毛らしい。屋敷の中をちらちらと気にするように耳を傾けるたび、豊かな毛のしっぽがふわりと揺れる。そうして見ていれば、その長身の女性は箒を動かしているだけで掃除をしていない時間がかなりの割合であるようだった。中が気になって仕方がないのだろうか。

「こんなことが許されるはずがないわ」
「許すも何も、事実なのだから。それとも裁く、この世界を?」

 決して豪華ではない質素な作り、だが上品さは伝わってくる屋敷の一室から、二人の声が聞こえてくる。

「それとも、私を?」
「紫……」

 家の周りの光景は間違いなくのんびりとしたのどかな光景に違いない、だが座敷の奥から聞こえてくる言葉はそうとは限らないようだった。

「誰かが、月を暴こうとしてる。本物の月でも永夜の月でもないわ、|幻想郷《こっち》の月よ。」
「吸血鬼が引き止めているのではないの?」
「ええ、うまくやってくれている。でも、誰かが」
「《《誰か》》が? 誰かなんてもう知れているのでしょう? いいのよ、私に忖度なんかしなくても。私が招き入れた者が全て、ここで平和に過ごすとは限らない。それはあの吸血鬼だってそうだったはず。だからこそ」
「そうよ。だからこそレミィはその役目を引き受けた。この世界への従属を示すために。」
「そんな無機質な動機だなんて言わなくてもいいじゃない。私はあの子の事、気に入っているわよ。プライドが高いのに、そのプライドの高さが自分の弱さのせいだと自覚してる。好ましいわ、そういう拗らせた奴こそ、|幻想郷《この世界》には相応しいのだもの」
「レミィを、悪く言わないで」
「悪くなんて言っていないわ、本当よ、気に入っている。あの子の|運命への抵抗《赤い衝動》は、この幻想郷に新たな一歩をもたらしてくれたもの。この停滞しきった世界に、前に進むという概念を流入させてくれたわ。霊夢、あなただって感じたでしょう? だから、あの時霊夢も一度はその手でであれにとどめを刺した。」
「……わかってんなら、いいわ」

 部屋の中は天井が高く、高い天井に格子がぶら下がり、その中央から覗くように釣り金具、その先には鈎が付き、更に鍋がぶら下がっていた。その下に方形の砂場のようなものがあり、熾火になった薪がある、砂場のような囲いの中に満たされているのは、砂ではなくて灰のようだ。鈎が自在になっていないのは、恐らく火力の調整を別の方法で出来るからなのだろう。釣り金具の付いた囲炉裏があるなんて、もしこれが人間の家ならば相当な資産家の家ということになるが。

「食べないの?」
「そんな気になれないわよ」

 囲炉裏を囲んでいる人物は二人、片方は博麗霊夢、そしてそれに隣合わさるように座っているのは、この空間「|迷彼我《まよひが》」の主のバケモノである。バケモノと言っても博麗霊夢に比べれば一回り大きいことを除けば、今はニンゲンそっくりの形をしている。見た目だけで言えば筆舌にし難い程の美女の|姿《なり》ではあるが、その場所に居合わせるなら異様な気配にその場に居合わせるのを避けたくなるだろう、猛獣が側にいる息遣い、亡霊が側にいる肌寒さ、親の仇が側にいる落ち着きのなさ、虫が側にいる気味の悪さ、死体が側にある忌避感、目上の者が側にいる居住まいの悪さ、それらが全て渦巻いるのだから。美女の姿は、まさに姿ばかりだ。中身はまごうこと無くバケモノであり、それを平然とするのはここにいる博麗霊夢くらいのものかも知れない、隣合わさって座って、椀に注がれた何か汁物を勧められている。「食べる気になれない」というのは、バケモノに注がれたものなど食べる気になれない……ということではないらしい。

「そんな話、初めて聞いたわ。よくもまあ、楽園なんて嘯いているのね」
「楽園を謳っているのは、私ではないわ。当然博麗でもないでしょうけれど」
「当たり前よ、そんな忌々しい月が浮かぶ世界だなんて」
「安心して? 〝博麗〟はその後で作ったものだから。霊夢は……」
「そういう問題じゃないわ」
「じゃあ何が問題なのよう」

 言葉を一つに限定するのは難しいが、それでも一つに絞ろうとするのならおぞましいと表現するしか無いその美女の雰囲気を、より一層に不吉なものにするその態度は、胡散臭さ。いじけるように口をツンと尖らせ、可愛らしく綾をつけてすり寄るように博麗の巫女の手を取る、

「あなただって、今まで散々、不都合なものは葬って来たじゃない。本人が生きたいか、為したいか、それに関わらず」
「それは! ……ルールを破ったからよ。人妖の理を破り、他の住人に害をなすから。」
「あの月は今更誰にも害なんて及ぼさないわよ。及ぼすとするなら、その中身が暴れだしたときだけ。それを封じているのだから、なあんにも問題ない。幻想郷の住人が、争いを好まないのはね、お互いに、自分の一部が」
「もういいわ、御託は。」
「あらあら怖い」

 肩を竦めて笑う八雲紫を、今更そんな事実を突きつけるなと憎らしげにそれを見る博麗霊夢。怒りに近い色合いは、しかしどこか苦々しく悲しみに似た色を湛えている。

「どうしてあんな小さな妖怪にそれをさせたの?」
「押し潰して突っ込んだら小さくなっただけよ」
「本当に?」
「あら。何を疑うの?」
「あんた、本当は誰かが壊すのを、待っているんじゃないの?」
「それは、霊夢、いや、博麗次第ね。」

 博麗霊夢がそれを言うのを、まるで嬉しそうに笑う八雲紫だが、その言葉のどこに嬉しさを感じる要素があるのか、第三者には容易には計り知れない。博麗の巫女自身はその笑いの意味を知って、目を閉じた。ああ、このバケモノはやはり私の手に負えない、匙を投げる絶望というよりも暗い先行きへの不安に近い表情だ。

「……狡いわ、そんなやり方」

 博麗は一口か二口、蕎麦に口を付けただけで席を立ってしまう。それを見上げる八雲紫の表情は、少しだけ寂しそうにも見える。辺りに重たい霧のように立ち込める妖気はその表情にはとても似つかわしくない、どちらが本物だろうかとしかし博麗霊夢は疑いはしなかった。その両方が、八雲紫なのだと、よくよく知っていたから。

「もう少しゆっくりしてきなさいよ、霊夢がここ来るの珍しいから、折角とっておきの雉蕎麦つくったのよお?」
「あんたが料理してるの初めて見たし食べたいのは山々だけど、私はあんたみたいに、壊れたら作り直せばいいなんて、達観できないの。」

 この幻想郷を作り上げておきながら、それを一度にずたずたに破壊する爆弾を仕込んでいる。神妖精霊全てを慈しみながら、同時にゴミのように掃いて捨てたりもするだろう。その中に、博麗も含まれている。霊夢は、博麗という〝系〟は、それを理解している。それが、八雲紫なのだと。
 それでも博麗霊夢は、このグレートマザーに、特別な感情を抱いている。尊敬と侮蔑、信頼と疑心、そして、恋心と嫌悪。でも、その感情を誰かが知ったとしても誰もそれを咎めはしないだろうし、おそらくは博麗霊夢と親しい間柄の幾人かはそれに気付いてもいるだろう。

「レミィの様子を見てくる。外じゃもう、日蝕が始まってるの」
「ええ。行ってらっしゃい。出来れば、帰ってきてね」
「善処するわ」



§ § §



 親しい間柄、と表現するのには余りにも壁がある。近い自覚はあったけど、その間に挟まる恐らく相当薄い壁がしかし、ボクにとってはどうにも不可侵の壁に思える。いつかこの壁を通り抜けることが出来るのだろうか。紫太妃はどんな壁でもすり抜けるのだろうが、そんな特殊なことをしなくても無言の内に中がいいらしい雰囲気を感じる。何て言うか、本当に長い間連れ添った仲みたいに、言葉を交わさずに信頼の空気だけが間に漂っている感じ、壁があろうが無かろうが関係が無いのだろうなと、感じる。
 赤詰草の敷き詰められた中央に巨大なベッドがあり天井も壁も不気味な反復画像になっているあの部屋に、フォーマルな印象は一つもない、そも私邸の寝室であるのだプライベートルームに違いない部屋だが、ボクの納税行為に際してはかの部屋がまさしく正式で公の場なのだった。
 対して、今いる部屋は真の意味で|風見辺境伯《TheSleepingDandeLion》……いやこの部屋にいる限りは、貴族伯卿ではなく個人だ、幽香さんの私室だ。
 くどいとまで言ってしまいそうな、ピンク色とチェック柄とフリルとフラワーモチーフ、これは幽香さんに特徴的なデザインだが、正直幽香さんの性格からは想像できない乙女チック振り切りMAXといった感じだ、似合わないなんて言うと殺されるし、似合うと言っても殴られるのだ、じゃあ一体どういうつもりでこんな部屋にしているのか答えてもらいたい。
 その幽香さんも、実際にはボクのことをペットか、部屋に入ってきた羽虫の一匹か、あるいは歳の離れた子供か何かと思っているに違いない。ボクが労役納税に来る時以外の幽香さんは、ほとんどの時間を服を着ているのも着ていないのも変わりがないくらいの薄着で対応する、冬の寒い時期ならば今度はまるで人目をは憚らぬもこもこに着ぶくれしてだ、幽香さんにとってはボクのことなど、恥ずかしいところをいくら見られたところで恥ずかしいとも思わない様な取るに足らない存在なのだろう。今も今で、目の前にいる幽香さんは本繻子織りのスリップ一枚で、ソファに体を投げ出したような姿勢でボクの来訪を迎えていた。

「お忙しい中お目通り頂き、恐悦至極に御座います」

 彼が、現れた。
 ルーミィの髪飾りはもう心配無いはずではなかったのか。ここに来るときにすっかり脱ぎ捨てて来て、あれを自ら手で触れないという暗示は、もはやただの形骸になっているものだと思っていた。だって《《あの中》》にいた彼は、もう、向こう側に濾してきた筈だったのだから。
 でも、シオリは現れた。無数のボクの内のいずれか一匹から彼について申し送りを受けただけで、本当に彼と対面したのはボクではないけれど、僕にはそれに極めて近い状態でその記憶と経験を共有されている。見間違えるはずがない。彼も、僕を見た瞬間にかつてのボクの呼ばれ名を口にしていた。どこか別の経路を通って幻想郷にやって来たなんてことは考え難い、となるとやっぱり、髪飾りの呪は消えていなくって、その中にずっと彼はいたのだろうか。確かに彼の言葉は昔の記憶を保っているようだったし、それに起因する感情もあの頃のままのように思えた。
 それは、完全にボクの想定外のことで、同時に、奇しくも同じ時期にルーミィを雇いたいと言ってきた紅魔、それに幽香さん、その間にボクの知らない内に滞りなく結ばれていた協定は博麗の了承するところだという。余りにも作為を感じる。
 ボクは、ルーミィを除いてはこの件について最も中心的な当事者として自覚を持っていた。だが、どうやらそうではなくなっていたのらしい。問うべきは、問わねばならない。だが、ボクはもうあの頃のような大きな存在ではなくなっていた、自ら主となるような存在でもなければ、主からは羞恥を与える対象でさえないとみなされる程度には矮小な存在に落ちぶれている。

「で?」

 しかし、こうだ。見て欲しいこの可愛らしい部屋。どこを見ていたって目にピンク色が転写されそうな空間、どこをどう見ていたってチェック柄とフリルが飛び込んでくる、目の間にいるの光沢と透け感のあるスリップ一枚まとっただけの美女中の美女だというのに、その部屋の主たる美女が投げてくる言葉は低く大型獣が威嚇に喉を鳴らしている声のように威圧的で、目なんかそれ以外の何者にも見えない、ライオンの方が黒目がちな分まだ可愛いかもしれない、幽香さんの三白眼は向けられているだけで寿命にスリップダメージが入ってきそうな感じ。
 でも、それに怯んでしまっては仕方がないというものだ。ボクは公的な場でのふるまいの通り傅き頭を垂れて、主である|風見辺境伯《TheSleepingDandeLion》へ声を差し出す。が。

「我々|四則同盟《カルテット》所属、〝宵闇の〟ルーミアが紅魔館で人夫として労役に就いている件でお伺いしたき……」
「あんた、ここが仕事場だと思ってるの?」

 ボクの声に割り込むように、丸い刃のような声が刺さってきた。幽香さんはまるでこの部屋を見るのは初めてだ、とでも言いたげに、部屋の天地と四方を舐めるように見回す。うっ、と声を引っ込めてしまう。

「今、私オフなの。オフで、ここは自分ち。あんたは今どこに来ているの?」
「る、ルーミィのことなんですけど……」

 つまり、仕事みたいな口調はやめろということだろう。ボクが平たい口調で言い直すと、鼻先で小さく「ふん、結局仕事のことか」と不機嫌そうに言って、ソファの上で横に投げ出した脚を組み直した。しかしそれ以上の制止はない、ボクの言葉は通行許可を貰ったらしい。
 幽香さんはソファに体を投げ出した姿勢のままローテーブルに手を伸ばし、上に乗った底の浅いボウルに盛り付けられた、瑞々しい多肉葉を一枚摘んで口に運び、ポテトチップスのように食べた。これは噛み煙草のようなもので、ふんだんに水分を含んだ葉肉の中にごく微量のアルカロイド系成分が含まれている。幻想郷でこの植物を栽培できるのは幽香さんだけらしい、誰も興味を持っていないから栽培しないのだとか。ボクも食べたことがあるけど、お酒やコーヒー、紅茶の方が余程にキマるという程度だった。味も……蓼食う虫も好き好き、とでも言っておこう。
 幽香さんがそのハッパを口に運んでもぐもぐとしているのを見計らって、あの、と声をかける。

「あれが、何?」
「ええと……じゃあ、単刀直入に聞きます。レミリアさんと、何を企んでいるんですか? もしかして、ルーミィの髪飾りが何なのか、ご存知なんですか?」
「さあ」

 冷ややかな温度の一言を返し、幽香さんはボクの方を見ている。まるで値踏みするような目つき、これは《《知っている》》。だが、言葉尻はあくまで否定のそれだった。

「あの宵闇小娘の、お気に入りの髪飾りのことなんて、私には興味ないわ。あんたは執心しているみたいだけれど?」
「人夫出しのときにレミリアさんから何か、言われてるんじゃないですか? あるいは博麗から。ルーミィの髪飾りには、やは」
「くどいわ。私はただ、あの吸血鬼の望む通り人夫出しをするよう、博麗から言われてそれに従っただけ。それ以上のことなんて知らないわ、今知っている以上のことを知るつもりもない。」

 つっけんどんな態度に取り憑く島もない。しかし、今知っている以上のこと、という言い回しには引っかかる。

「私はあんたの過去を買い取ったつもりでいたけれど、これだから群で生きる虫は扱いに困るわ、どうせ私の手元にあるお前の過去なんて、無数にあるお前の過去の内の高々ひとつでしかないんでしょうね。私の知らないお前の過去なんて、文字通り私の知ったことではないわ……お前が自分でなんとかしろ」

 ボクの過去を買い取った? どういうことだろう。 たしかにボクは今、幽香さんの麾下の|四則同盟《カルテット》という組織に所属している。でも、過去という表現は何だろうか。思い当たるフシが見当たらない。首をかしげているボクを他所に、幽香さんは滔々とまるで呪文か何かのようにボクには意味のわからない言葉の連なりを口にする。

「あの黒子妖怪がお前の何だったのか、最近やってきた嫌な匂いのする三人組と何の関係があるのか、幻想郷にどんな関わりを持つのか、私には興味ない。知ってはいても、興味を評するのを私は自己の敗北だとさえ考えているわ。それにお前は、それを知っているつもりだろうけれど、それがこの幻想郷にどんな影を落とすことかなんて、どうせ無自覚なんでしょう?」
「えっ、幻想郷に?」
「……お前が何を足掻いたところで良くも悪くも転がらないことよ、気するだけ無駄だわ。無数に存在するお前の過去に、私の腕一本が入り込んだところで何も変わらないのと同じくね。でも、その立場でありながらお前の無自覚さは……癪に触るわね」

 何か、ボクが知っていることと幽香さんが知っていることの内容には乖離があるように思えた。だって、ボクが知っているルーミィのことなんて、最近やってきた三人のことも、幻想郷が云々ということも、関係がない。

「待って下さい。もう、ボクの知る範囲を過ぎているようです。そんな大きな話、ボクは」

 知らないわけではない、ただ、この幻想郷には関係ないと、思っている。でも、もしかして……。

「博麗神社、基、八雲紫の謳う創世記には、大いなる欺瞞がある。お前も当事者ならわかるでしょう、人と神妖の均衡が保たれれば妖怪は人を食わず、人は妖怪を呪わず、神は人を造らず、人は神に依らないと言われながら、未だに妖怪は人を食い、人は妖怪へ怨嗟し、神は人を粗製し、人は神に縋るのを。その欺瞞がどこから来ているか、そもそもこの幻想郷が人妖の共存する古の土地からこの場所を切り離すことで、幻想郷が別の界として成立したというその縁起自体にある。八雲でも博麗でも、その人妖の恐れと呪の連鎖、人神の畏れと祀りの円環を断ち切ることが出来ていない、これはこの幻想郷の持つ構造的欠陥よ。その発端は、あの髪飾りに関わる。お前の知っている、お前が関わったと思っている髪飾りとは、《《訳が違う》》。」
「どういうこと―」

 明らかに、幽香さんの言っていることとボクの知っているルーミィのこととは全然違っている。ボクはそんな規模の大きな話ではないと思っていた。ルーミィの過去は、この世界にやってくるときに向こう側に脱ぎ捨てて来た筈ではないのか。それを未だに引き摺るなんて、彼女の意志から鑑みてもありえない、当然側で見ていたボクもだ。誰かが意図的に掬い上げて、勝手に再接続したということだろうか。いずれにせよ、ありえない。
 どういうことか、とその真意を聞こうとしたところで、しかし幽香さんは、でも、と割り込んできた。

「お前と、あの髪飾りと、件の宵闇小妖がどうなるかなんて、私には興味ないの。」

 お前が、私が買い取ったお前の過去をシラないというのならね。
 そう言ってボクを一瞥、その目には色を読み取ることが出来ない複雑な感情が貼り付いていて、瞳はボクを睨みつけている。そのまま立ち上がり、つかつかと部屋を出ていってしまった。もう話すことはないから帰れ、そういう意思表示に思えた。

「アレは、《《中身》》が多すぎる。」
「中身」

 幽香さんが、涼し気な顔にでも確かな警戒心を滲ませながら言うのを見て、ボクは、ルーミィの下に現れた彼の姿を、思い浮かべた。それは端から、幽香さんも、博麗も、レミリアさんも、承知のことなのだ。問題は、何が起ころうとしているのか、だ。
コメント




1.性欲を持て余す程度の能力削除
おや、妹紅慧音たちは幻想郷じゃないほうの世界でも妹紅、慧音って名前になるのか。まあ妹紅の場合は幻想郷に来ていないIFがあったとしても蓬莱人になって1000年以上を生きたというルーツは変わらないから、人格はほぼ本人そのままという意味もあったりするのでしょうか。
こういう語られてない設定についてあれこれ考えるのは楽しいのですが、あまりやりすぎると頭の中で決めつけてしまって読み方が歪んだりするのが怖いところであります。

幻想郷の方はやはりかなり大きな規模の話なのか、しかしルーミア本人はまだ自覚は無さそう。リグルや布都たちの今後の活躍に期待がかかります。