真・東方夜伽話

ルミナス世界と日出ずる国の革命布告(ニューワールドオーダー)④

2019/01/25 01:12:32
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ルミナス世界と日出ずる国の革命布告(ニューワールドオーダー)④

みこう悠長
◆ ◆ ◆



 腹の下で、女が恐怖の叫びを必死に噛み殺して震えている。ぎゅっと閉じられた瞼の端から押し出されるように涙が流れていた。精一杯に膝を閉じて拒絶しようとしているらしいが、全く無駄なことだ。
 女の恐怖に染まった表情が無性に性欲を掻き立ててくる。長く伸ばした先端を女の下半身、衣服を破り剥き取って現れた肌に擦り付けると、思い切りに嫌悪を露わにした視線を向け、しかしこちらを見るのをすぐにやめて顔を逸した。見ていられないのだろう。この先端が入りたがっている場所は女にとっても余りにも明白で、それから逃れようと絶望的な抵抗を試みている。だが、それを無慈悲に何度でも何度でも突き崩して、その抵抗が全く無駄なのだとじっくりと時間をかけて知らしめてやる。抵抗が徐々に弱々しく衰えて、表情は噛み付くような嫌悪感から耐え忍ぶ苦痛のそれへ変わる。諦めが顔を出した、生き物の持つこうした様子が、好物だ。

「いたか?」
「こっちにはいなかった」
「早く見つけないとオモト様がお怒りになるぞ」

 ひとの声が聞こえる。この女を探しているらしい、知ったことではないが。この女を探しているのだろう声をBGMに、生殖行為の準備などまったく整っていない様子の雌の生殖器へ、潜り込んでいく。

「っ」

 目を見開いて驚きと苦痛の表情、わかりきっているはずのことを何故驚くのだろう、それとも慈悲か奇蹟かそういったものを期待していたのだろうか。それを跡形なく砕くのも、胸がすく。驚きと衝撃に跳ねた表情は、押さえつけられ圧迫される腹の下でゆっくり苦悶と悲しみへ着地していった。女はそれでも声を噛み殺している、ここで犯されるのとあの者達に見つかるのを天秤にかけて、犯される方を選んだらしい。哀れなものだ。捕まれば殺される、純潔を失っても生きていれば望みがあるとおもっているのだろうか、いっそ奴らに捕まって殺されたほうがマシかもしれないというのに。

「最近、オモト様の御神託、変じゃないか?」
「変?」
「何ていうか、ちぐはぐっていうか、一貫性がないっていうか。」
「……海の向こうからムナカタとかカラシマとか言う奴らが来てからだ、オモト様の様子がおかしいのは。そんなことあんまり口にするなよ、殺される」

 ここで声を上げれば、少なくとも草叢と木立の向こうに聞こえる男たちの注意はこちらに向いて、おそらくはここにやってくるだろう。こうして組み敷かれて犯されようとしている状況は打開できるかもしれないというのに、音はそれを選択しなかった。こんな姿を、男に見られるそのことの方が耐え難いと判断したのだ、そうした女は実に愚かだ、そして、美味だ。
 女は首飾りを下げ、手首や足首にも貝殻で出来たアクセサリをまとっている。特筆すべきは翡翠で出来た装身具を幾つも身に着けていることだ、これは相当位の高い女らしい。それを示すように、この女は大事に鏡を抱えていた。鏡面は磨き上げられ姿をすっかりと映し出す程の品質だ、これは余程のものでなければ持つことが出来ないもののはずだ。

「ヤハタ様とオモト様があんな仲違いを始めるなんて、俺達はどうすればいいんだ。ヤハタ様に恨みがあるわけじゃないのに」
「オモト様の鏡を見ただろう、ヤハタ様の時代は終わったんだよ。」
「あのお二人の中が急に悪くなったのだって、海の向こうからやってきた奴らがオモト様に変な入れ知恵をしたからだろう? 元はヤハタ様の方が圧倒的だった、それでもお二人は上手くやってたってのに」
「オモト様はずっとこの機会を覗ってたんじゃないのか。だって元々この国はオモト様のものだったのに、ヤハタ様が入ってきてから様変わりしてしまった。今度はオモト様が同じことをしようとしているのかも。意趣返しだ。」
「ヒメの立が気に入らなかったってことか? お二人は……そうは見えなかったんだがな」

 ここは岩戸の側。ヒメとかモトとか呼ばれている中核的な存在の女がこの洞窟に籠もり、そして再び出てきた後は、この洞窟の周りにはもうほとんど誰も来ない。今その辺をうろついている男も、この女を探しにわざわざここに来ただけのことだろう。ここはもう、祭の後といった場所だ。
 この女は人気のないこの付近、この洞窟の側に毎日毎日いて、いつも祈っている。翡翠玉の装飾を数多く身に着け、鏡を持っていたことは、やはり身分の高い女で、元は男たちを束ねるリーダーだったのかもしれないことを示している。でも、きっと今は違うのだろう。そうでなければ、声を上げて救出を期待してもいいはずだ。まさか恥辱のために命の危険を顧みずにここで声を押し殺すなどありえないし、おそらくはあの男たちに見つかると助け出されるのではなく、捉えられ殺されてしまう立場に零落したのだろう。そうした地位の転落自体は、今までよく見てこたことだ。実際に凋落して元は仲間だった者に殺されたやつもいるし、逃げ回った挙げ句飢えて死んだやつも見てきた。だが、いずれにも共通しているのは、同胞でさえ命の保証をしてくれるわけではないという、種として愚かとしか思えない社会性と機能の存在だった。

「~っ、っっ!」

 男たちがすぐ側に来ている、振り返って茂みを少しでも掻き分ければ、この場所と状況を目の当たりにすることになるだろう距離だ。そこに男たちの気配を感じながら、女は自分で自分の口を覆うようにして声を抑えている。都合がいいとは思わない、別にこちらは見つかったって問題はないのだ、単に女の都合でしかない。ただ、そうやって苦しそうな表情のまま犯され続ける絵面は、必要以上に劣情を掻き立てる。そのことを自覚していないのだろう。
 目をぎゅっと瞑って恐怖の表情すら我慢しようとする女。震えているのが寒さ故ではないのは明らかだ。更に体重を押し付けて、女の割れ目に押し込んだ肉塊を、更に置くまで突き入れる。

「っ! ……っ、〜〜〜〜っ!!」

 ぶつり、と破れる感触が伝わってきた。もしこの女が神に仕える|巫女《シャーマン》の様な存在だったなら、恐らくもう元の様に神の声を聞くことは出来ないだろう。処女性は|巫女《シャーマン》にとって命よりも大事なものだ。それを奪ってやった。最高に爽快な気分だ、女の中に入り込んでいる肉が、ますますうねってしまう。動けば敏感な肉幹に、赤く濡れた女の粘膜が擦れて一層気持ちがいい。 
 股の間に生まれた激痛に、女は目を見開いて口をパクパク半開きに動かしながら、しかし声に鳴らないように掠れたような空気に抑えて喉を鳴らした。
 上にのしかかる常軌を逸したサイズの体を、押しのけようとしても無駄だった。猪のような巨体を前に、女のひ弱な腕はそれをどうにか出来るはずもない。馬乗りに拘束され身動きの取れない体に、陵辱の痕を刻んでいく。

「っ! っくふっ、ぅ……っ!」

 ずっとこの女がここで祈り続けるのを見てきた。その背中に漂う悲しげな雰囲気は、岩戸の中に閉じこめられた者への感情の影なのだろう。
 別に、この女に何か思い入れがあった訳ではなかった。元来、手に入るなら誰でも構わずに交尾している。そうして生き延び、殖え、強くなってきた。それに手に入れようと思えば手に入らない女はいない、ただ都合の良さそうな雌が無防備に孤立していたから孕ませようと思っただけだ。それ以上の理由なんてない。
 でも、この女は何か、引っかかるものがある。誰でも良かった、の言葉で片付けるには、何か違和感があった。

「ふっ、ふうっ ……っ、ぅっっ!」

 声を押し殺して耐える女。その意志をへし折って、この女の我慢を突き破って声を出させたい、なかせたい。いつしかそう思うようになってしまっていた。熱く神経を焼く粘液を一層に濃く零しながら、先端で女の肉穴を掘り進む。女に快感を注ぎ込み続けて、狂わせたい。ただ子を産ませるだけではなくて、感じさせたい。

「んっ、ぐ…… っん ふうっ、んっ、んんんっぅっ」

 もっと。もっと、この女を。
 結合部からは白濁した愛液が、とめどなく流れ出している。女の体は完全に快感に狂っている、こんな化物相手に本気で快感を覚えるなんてこと、媚薬効果で神経がイカれてしまってでもない限り、ありえない。でもそれでいい。もっと、もっともっともっと狂わせて、感じさせて、女の方から求めさせたい。

 ぞるっ

 精を注ぐ肉管を、太く、それに表面に皺を寄せて摩擦が強める。女の雌肉はそれに喜びうねって、蜜を増やして襞を激しく震わせた。太さを増した肉筒に、雌肉は跳ね回りながらそれを奥へと送り込むような蠕動を始めている。

「っ!! っぁ、っぅ ……っ、〜〜〜〜っ!! っぁ〜〜〜っ!!」

 女の腰が揺れて輸精管の前後運動に合わせるように波打つ。声こそ辛うじて殺しているようだが、唇を割って歯の隙間から漏れ出す息は桃色に染まって温度を上昇させている。声の代わりに、愛液を怒涛に撒き散らしていた。漂う生々しく咽返る程に濃い雌の匂い。女の顔は、狂う寸前を絵に描いたようだ。怒り眉に顰めていながら、目はとろんと半ば閉じ、瞳はヨリまくって涙を流している。半開きの口からは、声を出さない代わりに、舌が伸び涎が垂れている。なんなら鼻水まで糸を引いている。
 これでまだ声を出さないように意志を持っていることが、信じられない。

「ぉ゛っ……!! ぁ、ぁぁっ、っ、っっぅ、っ!」

 ガクン、ガクン、と脱力と強張り、痙攣を繰り返して、腰の動きはもうあからさまな前後運動、輸精管を同族男性の性器に錯覚してそれを求める動きに変わっていた。絞るようなうねりは、精子を受け取り奥へ飲み込むための雌の反応だ。愛液を零しながら肉棒を絞ってくる。
 更に奥、哺乳動物が娘個体を秘めて育てる雌の象徴的部位をめがけて、精子注入肉筒を打ち付ける。抜き差しの動きを激しく、わざと膣壁の襞に摩擦を強くするようにしながら、先端をその奥でコリコリと硬さを保つ部分にぶつけ続けた。
 ここが、雌の弱点に違いない。性行為のための弱点と言うよりも、雌としての本能と機能の根本的な宿命的な弱点。それをがつんがつんと突き、力を緩めて舐めるように揺らしてから、再び突きこむ。不規則に、だけど激しく打ち込む圧迫を多くしてその肉穴をいじめ抜く。
 そしてついに。

「ああ゛あ゛っ゛っ!!」

 遂に堪え切れなくなったのか、女が声を漏らした。これだ。これだ、これだこれだこれだ! たまらない、声を堪えていたその忍耐を、突き破らせたことが、えも言われぬ快感だった。そんなこと、今まで雌に子種を注いできたどんなときにも感じたことがない感覚だ。こんな快感は、知らない。
 もっと、もっと声を出させたい。もっと理性を割らせたい。もっと狂わせたい。
 この女には、そう思わせられる何かがあった。もっともっと、自分を求めるように狂わせてしまいたい!

「んんんっ! あ、っ、ん゛あ゛っ! っひ!!」

 男達が、漏れ始めた声に気付いてこちらにやってくる。

「?」
「声が聞こえたぞ」
「こっちだ」

 ニンゲン如きに交尾を見られたところで何を気にすることもない、始まった放精を止めるつもりもない。一度声を漏らしてしまった女の方が、それを境に急に変貌する。

「あ゛あっ、あ゛あああっ! 熱い、っ、あついぃっ! 膣内が、膣内がぁっっっ!!! んっ、ああ、あ゛あ゛あ゛あっんっ!!」

 苦痛と、悔恨と、それを押しのけて強制的に湧き上がってくる、強烈な快感、この女がたとえ高い地位の女でも、ニンゲンの神でも、それに仕える何者かでも、関係がない。ひ弱で柔らかいニンゲンの肉の内側をとろかせて籠絡することに、何の難しいことだってない。注ぎ込んだ牡精にはどんな生き物の雌の血も狂わせる麻薬が含まれているし、どんな生き物の卵にでも取り憑いて我が子に変性させる力がある。
 そして、この女に対してだけは、この生殖力が、心底得意に思えて仕方がなかった。これがあってよかった、この女をこんな風に出来て、なんて清々しいのだろうか。なんて気持ちがいいんだろうか。なんて、嬉しいのだろうか。こんな感覚は初めてだ、ただ見つけた都合がいい雌だっと言うだけなのに、これは何のめぐり合わせだろうか。この雌肉、いいものをひろった!!

「ヤハタさま、ふあぁっ、ああああっ! だめ、だめえっ! あついのっ!! イヤなのに、イヤなのに、こんなのっ、おかしいっっ! 助けて、助けて、助けて、ヤハタさまああっ!!」

 ヤハタというのが誰なのかなんて、知らない。恐らく毎日ここで祈りを捧げていたのを見るに、あの洞窟の中にいる誰かなのだろう。ヒメとかなんとか呼ばれる女があの穴から引きずり出されるのを知っているし、その代わりに誰かが放り込まれるのを見た。この女はそれと関係しているのだろう。でも、それも関係がない、むしろそうして社会から切り離されて孤立した雌というのは、格好の苗床だ。

「ヤハタさま、ヤハタぁあっ!! お助けください、私はっ、わたしぃぃっ!!! ああああっっ! ダメ、です、もうだめですっ!!」

 声を殺していたときには実を縮こめようと収縮していた体が、声を我慢できなくなってからはそうではなくなっていた。全身を広げるようにして、声とは裏腹に交尾を受け入れている。肉穴はうねり震えて蜜をしとどに垂らし、剰え腕は押さえつけ拘束する脚に絡みついて媚びるように擦り付いてきている。

「あちゅっいっ! ほとがっ、ほとが、とけるっ 耐えられない、こんなのもう、だめですっ、ヤハタさま! 申し訳ありませんヤハタさまっ! おおっ、んおおおっ、ああ、あんっ あふっあああっ!! 気持ちいいっ、気持ちいいんです、こんなのいけないのに、きもちいいっ!!!!」

 女の腰はうねり、彼女を美しく飾り立てるネックレス、アンクレット、それに今はボロになっているが色鮮やかな服だった布切れが、せり上がってクネり舞う体に跳ねて煌めき、音を立てる。色に狂った雌が、自ら燃え尽きようと肉体を暴れ回らせる美しさは、格別だ。精を吐き続ける肉管に、一層の力が籠もる。最後の最後まで、搾り出して注ぎ込んでやれそうだった。

「ヤハタさま、ヤハタさまヤハタさまヤハタさまヤハタさまヤハタさまっ!!!!」

 さっきから、やはたやはたとうるさい。あの岩の中にいるニンゲンのことか。これだけ交尾に狂っていながら、まだ誰かの名を呼ぶのか。自分にこんな感情があるなんて初めて知った。その名前を呼ぶのをやめさせたい。他の誰かの名前を叫びながら、自分の精を受けて快感を感じ続けて絶頂していることが、我慢ならない。
 もっと狂わせて、自分しか見えなくしたい。今叫んでいるその名前を、忘れさせてしまいたい。
 征服欲、なのだろうか。強烈に湧き上がったドロ着いた感情は性欲とは違っていた。今までは相手を孕ませて生きた卵鞘に出来ればその雌がどうなろうが気にならなかったのに。今は、この女を、自分のものにしたいと、思っていた。
 肉管を蠢かせて、女の中を擦り上げる。喜ぶ場所を探して、見つけては、その場所を嫌と言うほど押し込んで擦った。精を吐き出して粘膜の神経を快感で焼き潰しながら、女の肉を貪る。

「ひっぐ、ぐぅぅっ!! おっを゛ん゛をっっ!!!! ほぐっっ! ヤハタ、さま、たすけて、たすけてくだっ、ふぎゅううっ!! うあ……そこ、そこぉっ! そこだめ、そこばっかりっ、どうなってるの、わたしのからだ、どうなっちゃってるのおぉっ!!」

 輸精管を、女の雌肉がぎりぎりと締め上げ、奥に取り込むような動きでうねり回っている。注がれたゼリー状の精液で下半身全体が包まれるほどになっている。それを吸い込んだり、痙攣して締め上げ吹き出したり、そうしてまた奥へ取り込んで。絶頂を継続する雌肉の動きは支離滅裂で、そして淫らだ。管が出入りする度に、ぐちょ、ぐちょ、と粘ついた水音が響いている。空気を巻き込んだ撹拌音は、雌媚に堕ちた女の表情同様に汚らしくて淫靡で、そそられる。

「な、なんだ、この声」
「ヤってんのか……? キクリ様のこえに聞こえるが、まさか?」

 茂みを分け入ってきた男達、それが目にしたのは背中に硬く光沢を持った甲を背負い、その下に透明な翅。節くれだった腹からは乱暴なガス交換の呼気。大樹の枝のように太くトゲのついた複数の脚。これは、〝むし〟としての姿だ。ただ、ニンゲンたちが知っているむしと呼ぶものにしては、余りに巨大だろう。

「うわっ!」
「こ、これ、土蜘蛛ってやつじゃないのか?!」
「馬鹿野郎、土蜘蛛は〝むし〟じゃねえ、だが、こいつは……」
「ああっん、んっ ふうっ! んっ……うううんっ! くぅぅうっん! 熱い、熱い、きもちいいっ!!!!」

 あれだけ声を殺してこの男たちに見つかることを恐れていたというのに、今はもう男たちにこの姿を見られることも全く気に留めていない様子だ、ただ気狂えたように嬌声を叫び、腰を降って、注がれる精の熱さと肉の摩擦の快感に狂い咽び泣いている。

「んおっぉ……ほへぁあっ……きぼぢい゛ぃっのぉっ、ヤハタさまぁっ おっオ゛オ゛オ゛っん゛っ!!」
「き、キクリ様、だよな」

 男の一人が、この女のことを見て、漏らした。そう言う名なのか。男たちがそこにいても構うことなく女を犯し続ける。

「オモト様に引き渡さないと」
「こいつ、っ、おい、そいつは、モトヒメ様のところに連れて行く必要があるんだ、おい、あ、あっちにいけっ」

 何だ、邪魔するのか? ニンゲン風情が。これは渡さない。
 脚を一本、奴らの目の前の地面に突き立てて土を抉ってみせる。

「うわっ! こ、こいつ、守っているのか? なんとか……」
「いや、腹を見ろ、《《産み付け》》られてる、どのみちもう手遅れだ。―オモト様に知らせよう」

 男達はこちらを警戒しながら、後ずさるようにこの場を去る。オモトとかモトヒメとか言っていたのは、洞窟の奥から出てきた女だろう。知ったことか。
 男がいなくなった後も、気が済むまでこの女―キクリといっただろうか―を、貪り続けた。

 まだ、足りない。



◆ ◆ ◆



 ケアが足りないかもしれないなと、思っていた。
 なんせまだ状況がよくわからないからと、香を焚き、符籙を打って対症療法になりそうな処置を施しただけで、終わっていたからだ。だから今回は、きっちりと対応しようと思って、方術施術セットをちゃんと持ってきた。使わないかもしれないがいろいろの符籙を持ってきた。原因の究明を徹底するつもりだった。

「えっ?」

 だのに、私の心配も他所に、訪ねた唐島は喜んでいた。つい昨日の夜まで自らの身に生じていた異変は、今朝起きるとぱったりとその形跡を消していたからだ。不思議な事件や妖怪絡みの問題ごとを手際よく解決してくれるという、最近話題の聖廟付きの道士にまで相談した、まあ私のことだ。その甲斐があってのことなのか、それとも放っておいても時間が解決してくれたことなのか、今となってはわからないがどちらだっていい、ともかく唐島は朝日に向かっておはようを言う喜びを感じているようだ。まあ、私の処置に効果があったのだということにしておこう、実際に符籙も打っておいたし、効果の有りそうな対応も行ったのだ。功を奏したのだろう。
 唐島は、足元から伸びる自分の体と同じ形をした黒い塊にこれほどに愛着を感じるものなのかと驚きにも近い感情を抱いていたが、それもそうだ、なんせ影とは生まれてからこのかたまで一秒たりとも別れたことのない伴侶のようなものである。唐島に妻はないが。それでも今朝起きて朝日を迎えたときに自分の脚からにょろりと伸びるように存在していた自分の影に、唐島はつい、「おはよう」と声をかけてしまったという。もちろん挨拶が返ってくるわけではないが、単に嬉しかったのだろう。

「いやあ、影が無くなったときはどうなることかと思いました! おかげさまでこの通りですよ!」
「え、影が戻ったのか?」
「はい! 親族一同皆戻りました。それも道士様に言いつけられた通りに札を部屋に貼り一心に祈っておりました」
「親戚の話は聞いておらんぞ、同じ様に無影になっていたのか?」
「はい。私が人柱として怪しげな霊廟?の人にあたってみる、ということになっていたのです。いやまさかこんなに覿面に影が戻ってくるなんて、思ってもいませんでしたよ!」
(またバカにされておるのか私は)

 しかし、どうにも腑に落ちない。唐島の影が戻ることはないだろうと判断していた、恐らく唐島はこのまま消耗して死んでしまうだろうと。私には最初から無影となった唐島をどうにか救おうという気などなく、〝朔〟が生じた原因を探ろうとしていたのだ、それは唐島を救うことは出来なくともこれ以上の拡大は防げるかもしれないと思ってのことだったし、そもそも自分という出自の背負う宿命のようなもので、おおっぴらに言うつもりはなくとも何らかの形で責任を負うか、解決に動くのはその償いであるとも思っていたからだ。その結果として唐島に影が戻り助かったというのなら、それに越したことはない。
 そう、唐島の影は帰ってきた。確かに彼の足元には影がおとなしく生えているし、その影に異常性は何ら感じられなかった。あくまでも普通の影のように見えたのだ。それが、なおのこと腑に落ちない。

「まさかと思うが、こうして影が一人で出歩くなんてこと、私が知らんだけで実は日常茶飯事だということはないのか」
「それこそまさかですよ。そんな話、聞いたことありません」
「じゃよなあ、なんでもない、忘れてくれ」
「それにしても、さすが道士様です! 見事にほら、この通りですよ!」
「は、はっはっは、我の仙術にかかればこんなものよ。人間、体内の陰陽のバランスが崩れるからああした問題が起こるのじゃ。日頃、陰陽の均衡を意識して生きよ」

 そんなことになにか意味があるわけではないのだが、彼はぴょんぴょんと跳ね回って影の存在を喜んでいる。地面から脚が離れても、忠実に彼の体に付き従う黒い塊。幻想郷に住まう神妖一般にとって「影がなくなれば死ぬ」は常識、ニンゲンにとっても不吉な現象であることに変わりはない、それが帰ってきたとなれば喜ばしいことに違いはないのだが。

(幻想郷にセオリツヒメが送られているとするなら、あのルーミアとかいう小妖怪がそうとは極めて考えにくい。いるとすればもっと巨大な存在になっているはず、少なくとも太子様と比肩できる程度には。他に何かもっと強力な神妖がいるのか……?)

 同じ性質を持った神妖が単一とは限らないが、力が大きな存在はそれだけその|根源《ソース》に近いと言える。|根源《ソース》に近いから大きな力を持つ場合もあれば、|根源《ソース》の方が大きな力に引き寄せられる場合もある。逆に、弱小な妖怪が|根源《ソース》に近い存在だということはまずないというのが、広い見解となっている。|根源《ソース》そのものが小さい場合にはその具現たる神妖も小さな存在となるが、一般的に大きな主語となるような対象ではその|根源《ソース》は例外なく巨大であり、その影響を受ける神妖も数多く具現化している。そしてそうした巨大な|根源《ソース》に近い神妖がいれば、それは確実に伝説に残ったり深刻な痕跡を現世に残しうる強大な力を持つ存在となる。

「おかげさまで、これで明日から気分スッキリ仕事に励むことが出来ます。うちの丁稚達にも、道士様のいらっしゃる……ビョウインでしたっけ?」
「霊廟じゃ、呼び方など何でも良いが、ビョウインはやめろ。ああ|聖廟《セイビョウ》とかもやめといてくれ」
「霊廟に参拝するように言い付けておきます。この間までは花畑に礼拝していたんですが、あの建物のほうが全然ありがたいってものです」
「そうかそうか、ウム、是非そうしてくれたまえよ。吸血鬼や花ビラなんぞより我等の方が有り難いと知らしめねばならん」

 そうは言っても、あの風見とかいう得体の知れぬ化物や吸血鬼とは、今すぐに真正面を切って争いたいかと言われればNOだ、この土地では我々はまだ大した力を持っていない、太子様お一人に全て任せることになってしまう、それは避けなければならない。だが。

(太子様のお考えは、しかし、今ひとつわからない。この〝朔〟の件、放っておけと言いながら、先日の晩餐会での行為は挑発行為以外の何事でもない、明らかにルーミアとかいう妖怪を対象にしていた。)

 太子様、屠自古、それに私は、先日紅魔館で開催された夜間屋外晩餐会に招かれ、そして少々手荒い動きをした。その晩餐会へは領地境界問題の牽制で招かれたのだと思っていたのだが、太子様からの妙な指示によるものだ。

(確かに、八博体制下で認知された陰・影・闇・暗の概念に隣接した神妖は、あの雑魚妖怪だけのようだ。食事会に招かれたとき、紅魔の奴らは明らかに我等がルーミアとかいう妖怪メイドへアプローチすることを拒絶していた、どう考えても不自然だ。)

 ルーミア以外に似たような属性を持つ者がひとりいるが、それはニンゲンだ。万一この〝朔〟の元凶であったとしても、霊廟勢の危惧する存在ではないと判断されている。

「道士様?」
「あ、い、いやあ、大変じゃったぞ、うぬの影は山を駆け川を渡り、逃げ回ること数百里じゃった。捕まえてここに戻るよう説得するのに、いいだけ骨を折ったわ。hahaha!」
「それはそれは、本当にご苦労痛み入ります。道士様の力がなければ私は今頃……今頃どうなってたんでしょうか? 影がなくなると人間どうなっちゃうんでしょうかねえ」
「死ぬ」
「へ」
「死ぬに決まっておろう。うぬの影はうぬの半身じゃぞ、余り物とか副産物とかではない、霊的な体の一部じゃ。」
「はへ」
「と、いうのが定説じゃ、そういうことになっとる。」
「はあ、胡散臭いですね。もしかして何もしなくても勝手に戻ってきたんじゃないですか?」
「そんなことは、ない。……と思うぞ」
「影だって偶には主人の目を盗んででかけていんですよ、些細な旅じゃないですか。それを青くなったりはしゃいだり、何百里も追いかけてとっ捕まえるなんて、全く大人げないなあ」
「……(ぶん殴りたい)」

 前に見舞いに来たときに真っ青になっていたのは、私ではなく唐島の方だった。私はどうなってしまうのでしょう、影はいつ帰ってくるのでしょう、と影が無くなってどうなるのかわからないにも拘らず漠然とした不安感で気を病んでいた。気を病んでいたのは、唐島の方だ、間違いなく。ぶん殴りたい。

「まあ、影が戻ったなら何よりじゃったな。だが使った香のアフターケアもある、また来週には顔を出させてもらうぞ。|主《ヌシ》に与えていた香は、人の陽気を無闇に高めるものじゃ。光があれば闇もある、影が消えたのは主の中の光が薄れたからじゃ。適度に陽気を増してやる必要があった。じゃが、きちんと後始末をしなければ、陰陽の均衡を崩して望ましくない結果を招く。」
「いやあ、あのお香いいですね、なんだか気分がフワッと軽くなっていろんな心配事が軽減するようでした。もっと頂けませんか? 高くうr」
「あれは誰でも火をつければ《《使える》》ものではあるが、誰にでも簡単に《《扱える》》ものじゃない。さっきも言ったがきっちりアフターサービスも必要じゃし、使用量も微調整が必要なのじゃ。でなければ」
「でなければ?」
「廃人じゃな。陽気が高まり過ぎてもロクなことにはならぬ。アフターケアを怠れば、お前は意識もなくなり糞便を垂れ流し続ける二酸化炭素製造器直行じゃ。意識がないから水も飯もとれずにそのまま死ぬ。」
「ヒエッ……」
「それが嫌なら来週は予定を空けておくんじゃな。なに、2,3ヶ月もケアをすれば問題ない。」

 そう言って、唐島邸を後にする。
 影が戻ってきたとなれば、あとは精神安定のために炊いた香のアフターケアを怠らなければ問題ないだろう。唐島というケースについてはこれで終了となる。私の意識は既に他のものに向いていた。

 〝影は何故消えて、何故戻ってきたか〟疑問はその一点に集約されていた。

(本当に、あのルーミアとかいう弱小妖怪なのか? 太子様は、何をどこまでご存知で、どうするつもりなのじゃ?)



◆ ◆ ◆



『おい、どうするつもりなんだ』

 この事務所は昔、誉田汐里という人間がやっていた探偵事務所だった。現在はフジワラとだけ名乗る別の人物が同じ様に探偵事務所をやっているが、事務所の名前は「誉田探偵事務所」のままだし、フジワラが行っている仕事も探偵業とは言い難いものだった。
 女の頭上では声が鳴っている。これは新手の目覚し時計、ではない。

『フジワラ、おい。このまま寝ててもどうにもならんぞ』

 頭の上の同居人の声を他所に、長い銀髪を結い上げただけでソファに身を投げだして寝てしまった女は、薄っすらと目を開いた。寝ぼけ眼だ。

『起きてるか』
「……ねてる」

 フジワラは頭上からかかる声に仕方なく体をソファから引き剥がして起き上がり、言い訳程度の給湯室に入る。キッチン、というものはこの事務所には備わっていないし、洗面所など望むべくもない。コップに水を淹れたり飲み余したコーヒーを捨てたり、精々それ位は出来ようかという程度の規模だ。こんなことは滅多にあるわけではないがなかったことはない、以前に反省して一つ常備しておいた旅行用の歯ブラシセットがこの辺にあったはずだ、と上の戸棚をごそごそと物色してそれをなんとか見つけ出した。

『たまに事務所に戻ってきたなら掃除くいしたらどうだ、埃っぽくないか』
「なあ、起きていきなりそんなことを言われる身にもなってくれよ、せめて―」
『おはよう』
「……おはよう」

 まだぬけきってねーな、女はこめかみに指を押し付けるような仕草をしながら、ぼやくように言う。

「また来週には出かけるんだ、掃除したって変わんねえよ。それよっか、頭が痛くてそんな気になれやしねえ」
『典型的な掃除できない奴の科白だな。あれくらいの酒でよく酒好きを公称するもんだな』
「|お前《わっか》と一緒にすんなよ……」

 幾つかの柱がどすどすと突き立っている以外に部屋の区切りが少ないただ広いワンルームは、まるで小ホールや中規模会議室のような方形の間取りにいる、どうも誉田が隣接する部屋との壁をぶち抜いて一つにしたものらしい。ここは3階だが、3階には誉田探偵事務所しかなかった。事務所の中はお世辞にも綺麗とは言い難い、誉田がここで働いていた頃からこの事務所は訪問者が多いわけではなかったがそれを反映する風景がそのまま悪化したようなものだ、探偵事務所と言うよりは資料室のようになっていて、人の姿がなければ高耐久媒体でのドキュメント保持義務を仕方なく守るために紙媒体に印刷した膨大なデータをそのまま放り投げ続けている場所にだって見えるだろう。少なくともここで事務作業をやったり接客したりする場所には見えない。
 その空間を辛うじて事務所足らしめているのは、入り口付近にわずかに広がる接客スペースと事務机、それにその奥に小さくある給湯室への入り口くらいのものだ。ぶら下がる電灯は、元はそれなりに高価だったのか、あるいはそのフェイクだったのか、シャンデリアとまでは行かないが光を拡散させる素材をふんだんにもちいたシェードが備わっていたが、ホコリをかぶってただの間接照明に成り下がっている。事務机は現代的な集合オフィス用のパソコンデスクだがそれもこの部屋の雰囲気には全くマッチしていない、上には紙の資料しか並んでおらず、電子機器類はタブレット端末が一つ乱雑にほうられているだけだった。壁はコンクリート打ちっぱなしのインダストリアルだが、それはデザインあってのことではなく前述の通りに部屋を複数統合したときに引っ剥がしただけのものらしい。テレビが壁にかかっているその周辺だけを見れば、2000年代に流行ったデザイナーズなんたら、のようにも見えるが視線をずらせばそれは幻想だとすぐにわかる。

 先月6月4日に東京都北王子市の商業施設で発生した爆発事故について、調査を継続中の警察当局は昨日記者会見し、本事件をテロ思想に基づく大量破壊行為と位置付け、捜査を警察庁テロリズム対策局に移管し強化することを発表しました。6月4日正午頃、東京都北王子市にある地上34階建ての大型複合商業施設ビルの31階部分でフロアの半分以上に及ぶ大規模な爆発が発生しまし、爆発に加えて大規模な火災が発生しました。この事故で、200名以上が重軽傷を負い病院に運ばれ手当を受け、21名が死亡、現在でも3名が意識不明のままとなっています。
 この事件では発生直後から、奈良県東奈良市に本拠地を置く宗教法人「|照道《しょうとう》教」が関与していると見られており、警視庁も|照道《しょうとう》教を中心に捜査を継続していました。今回の記者会見で捜査当局がテロリズム対策局へ移管されることとなり、捜査はより一層厳しくなることが予測されます。
 被害者遺族の一人は我々の質問に対し、〝教団はテロ組織だ、それが認められてよかった。事件の真相を解明し、教団には適切な対処を期待する〟と述べました。
 |照道《しょうとう》教は以前より、教団施設の周辺住民と摩擦を生じたり、強引な勧誘活動を行うなど問題が多く指摘されてはいるものの、現在教団のテロへの関与を示す明確な証拠は得られておらず、捜査はこれからだと言えそうです。
 教団には数百名規模の信者がいると言われており、全国に私有地を保持していると見られています。私有地では自給自足コミュニティの運営試験を行っているとの教団側からの発表がありますが、テロに用いた爆発物の製造や、テロ実行犯の潜伏先となっているのではないかと言われています。

 人感センサーによって、起き上がったフジワラを検知したテレビは映像と音声を流し始める。内容は、フジワラが調査を依頼されているテロ事件のことだった。巷の報道ではようやくテロとの認定が公式に発表されているようだが、フジワラが依頼を受けたのは発生から一週間後のこと、その時点で既に事故ではなく何者かによるテロなのだろうという話を、依頼主から聞かされていた。

「|ぶっほうはへえ《ぶっそうだねえ》」

 他人事のように歯を磨くフジワラ。事件を報じるニュースは次になんただの専門家の口から出る「そんなことはもうわかってるわ」と思うしかない一言を映し、「結局何もわかってないんかい」と思うしかない状況説明に終止したまま、次の季節のニュースへと移り変わった。
 テレビは奥の資料室然とした場所とは別に、この事務所スペースにも幾つかの本棚が置かれており、それは割と触っているらしい、棚戸は開閉を繰り返した様子であるし、底にだけは埃の積りが薄い。収められている本は、「隠された王 大筒木垂根」とか「天皇家に入ったペルシア人の娘」「富士山に消えた姫」「謎の女神 木花咲耶」とかなんだか怪しげな本と、残りは至って普通の市販の大学ノートが無数に何十冊も立っていた。探偵業に必要な本とは、少々考えにくい。

「あー、しかし、お前に乗せられて飲みすぎた。もう酒なんか二度と飲まねーぞ」
『その科白が何回目か教えてやろうか』
「結構です」

 歯を磨いて顔を洗ってからようやく意識が戻ってきたので、ソファに倒れ込んで寝る前に脱ぎ散らかした服を一枚一枚探し出して、着込んでいく。一人で二杯頼む奇妙な飲み方をしながらバーで酒を煽っていた、その程度の場にふさわしいラフな服装が、ラフに脱ぎ散らかされていた。水兵の制服の様な襟にリボンをあしらったトップスに、ダメージ感の無い平坦な色合いでシルエットの素直なストレートジーンズ。全てを着込んだあとで、寝落ちの寸前でなんとか団子に結わえた髪を下ろして手櫛で軽く整える。雑な対応だが、それでも見られる姿に鳴っているのは、フジワラの見目が整っているからにほかならない。
 ふああ、と大あくびを一つキメて、この事務所での定位置である事務机に向かって椅子に腰掛ける。ぎぎぎぎと心もとなさを誘う音が、椅子から響いた。同時に、窓のサッシはしまっている位置を示しているにもかかわらず、ひょうひょうと流れている空気、立て付けの悪い窓の隙間風だった。

「ほうら。そもそも隙間風は出入り自由、防火対策もされてないしいつ崩れるかもわかんない、ここはオンボロだ、手間暇かけて手入れするなんて馬鹿らしいじゃないか、ここはただの仮の住処だ、長居するつもりもねえ」
『そう言ってここに来て何年だ?』
「汐里のやつがいなくなってからだから……ほら、大した時間じゃないじゃねーだろ」
『お前にとってはな』

 この事務所はなんと二つの世界大戦を眺めた世界遺産級の建物に、テナントしている。だが築年数を示す数値を「由緒」という言葉でかろうじて言い換えたとしてもそれだけのことだけであり、この建物に他の価値は全く何もないだろう。ガス電気水道が通っていることだけでも奇跡的だ。この建物に入っているテナントはもう「誉田探偵事務所」だけで他は全て空室だった。世界にも稀に見る長い歴史を持った建造物であることは、この土地がずっと誰かの私有地であり今もそうであることからほとんど知られていない。つまり「ただボロいだけの建物に入った、怪しげな探偵事務所」という以上のことはない。
 「誉田探偵事務所」を人が訪れることも滅多にない、フジワラは自分以外の足音が聞こえればそれは間違いなく、客のものだと判断できる。旧い建物ではあったが、「何かが出る」といった類の話はフジワラ自身聞いたことがない。建物自体はどうやら頑強なのらしいが、それでも床板には劣化の進む素材を使っているものもあるのだろう、ある場所は凹んでいて、凹んでない場所でも歩いて踏み込めば妙な音がなることもある。時間がゆっくりと作り出した鶯張りだ、などとフジワラは自嘲している。隙間風はひどくて、夏熱く冬寒い。何十年か前に一度一部だけをリフォームしていたが、それが統一感を破っているせいで却って破損感と廃墟らしさを増している。天井にぶら下がる伝統にはシーリングがない、浅い皿を逆さまに取ってつけたような埃よけにソケットが、そっけないケーブルでぶら下がっているだけだ。ただし、流石にそこにセットされるのは裸電球、といった風情のあるものではない、逆に時代錯誤感が強くなるLEDが煌々と青白い光を落とす、今どきフィラメント球など手に入れるのが大変だ、フジワラが手ずからLED球が付くように改善していた。この建物の中はどう改造してもいいと了承を得ていた、それはフジワラ以前に、誉田がここで探偵業をしていた頃からのことだ。
 LEDの青白い光はこの建物の景観にはひどく不自然で、どうにも居心地が悪い。フジワラは自分が事務所の中に入るとさっさと廊下の電灯を消してしまう。事務所の中ではフィラメント球を模した赤っぽい光を発する電灯で統一してある、何ならランプやろうそくまで使った形跡がそこかしこに転がっていた。
 強い風が吹くか、あるいは側の道路を大型の自動車が通る度にがたがたとなる心許ない窓のガラスには、外向きに黒い文字で「誉田探偵事務所」と貼ってある。この文字を一体どれくらいの人間が認知しているかは全くわからないが、少なくとも客がまともに来ないことを考えるとこの文字は外してしまってもいいのではないかと、フジワラは考えていた。それを示すとおり塗装が剥げ音も空気もスカスカと漏らす薄く立て付けの悪い薄い戸を、をガシャガシャ(あんまりにも立て付けが悪い上張られたガラスと枠の間に隙間が大きく遊びまくっているため変な音がする)と叩く者は、もはやだれもいない……と言いたいところだが、ごく稀に酔狂を通り越して正気でも失ったのかと思う様な者がここを訪れる、いや、客が正気を失っているというのは言葉が通じないとか妄想がひどいとか心霊現象についての話だとか、そういう客ばかり来るというわけではない、こんな怪しげな私立探偵事務所に仕事を依頼しようという経緯が正気を疑うということだ。あるいは、こんないかがわしい探偵にしか頼めないような仕事である、か。
 そうしてやってくる酔狂な客……だけでフジワラが食っていけるわけがない。そんな探偵小説のような格好のいい清貧で生きていける、現代はそんな時代じゃない、誉田汐里がいた時代はどうだったか走らないが。こんなボロい私立探偵事務所でもコンスタントなインカムが望めるのは、フジワラが持つ神社本省とのパイプと、そこから依頼される仕事が途切れないからだった。これはもう、この建物と同じくらいに古い歴史を持つ関係性で、契約の更新期限もなければそれを見直されることもない。そもそも契約書を誰が持っているのかもわからない、なのにずっと続いているものだった。
 誉田探偵事務所には、フジワラ一人しか所属していない。だが、この事務所では常に話し声が聞こえていた。

『おい、誰か来たぞ。ボロい床が鳴いてる』
「そう思ってんならコーヒーでもお茶でも淹れてくれ。わかってるよ、アタシはお前に呼び鈴をやってほしいわけじゃないんだ」
『じゃあ何をすればいい』
「……ICレコーダーかな」
『大して変わらんじゃないか、何ならお茶汲みのほうが高性能だ』
「ごめんって」

 この事務所にいるときは基本はいつでも暇だ、自由業と言う言葉を引き合いに出せばフジワラは、少しくらいは仕事で縛ってくれても構わないんだが、と言う。仕事を引き受ければ引き受けたで文句ばかり言いながら取り掛かるのだから取り合う意味もないが。そう言うとまる気ままな自由業で一年の家300日くらいは暇をしているように聞こえるがそういうこともない、あくまでこの事務所にいるときは暇だ、と言うだけだ。仕事があるときはこの事務所で過ごすことはないし、いわゆる仕事、とは別にフジワラは〝本業〟と称した活動を行っている。本業のほうが取り組みが緩く稼ぎがない、実際には〝本業〟は趣味のようなものだ、だがその趣味こそがフジワラのライフワークでもあった。
 誉田探偵事務所の評価というのは、つまり件のパイプの接続先からはそれなりに高いもので、彼女へ支払われる少なくないし、その報酬というのは機密扱いの財布から捻出されている、機密とつく財布を何度市民から切りつけられてもこのパイプが切れずにいることは、彼女の仕事ぶりが期待以上であることを示している。本来なら建築基準法で完全にアウトであるこんな建築物に事務所を構えていることも、その登記上の名義が誉田という人物のまま捨て置かれ正式にはフジワラのものではないことも、黙認されているのはそういうことらしい。
 この事務所で暇を持て余していること自体はそうそう頻繁なことではないが、暇なときにフジワラは何をしているかと言うと、何もしていない。寝ているか、面白くもないワイドショーをかけっぱなしにして、ギシギシとうるさく喚くようになったヘッドレスト付きの椅子に背中を放り出し、事務机の上に脚を放り出して、新聞を顔の上からかぶるようにして寝ている。時折思い出したようにコーヒーを淹れたり煙草を吸ったりして、一応仕事の上で必要になるかもしれない時事問題や経済情報をワイヤドで確認してから、また寝る。予定がないときの過ごし方は決まってこうだ。
 頭の上に口うるさい同居人がいることもあって、好きな酒は好きなだけ飲むことは出来ないし、好きなギャンブルは横からを出されて調子が狂う。好きな女アサリを使用者なら聞こえる声でぎゃあぎゃあ言われてしまい、好きなことの殆どは出来ないでいる。煙草はフジワラが頭上の同居人から勝ち取った唯一の自由と言っても過言ではなかった。ただ、昨日ばかりは珍しく、深酒を煽った、特に理由はないが、頭上の同居人の機嫌が良かったらしい、珍しく一緒に酔って帰るに帰れず家よりは近い事務所までなんとかたどり着いて泥になって寝たというわけだ。
 そして今は珍しく事務所で寝ていたところだったが、頭上の同居人が声をかけた通り誰かがやってきた、|神社本省《お宮》の奴らが来るというのなら予定表に記入もしてあるが、今日は予定は真っ白だ。こんなことは年に一度あるかないか、どころではない、ここ何年もなかった。

「こんな場所に何の用だよ」
『こんな場所で商売しているやつの科白ではないな』
「物乞いじゃないだろうな、予定にない来客なんて珍しい」
『物乞いならいいだろう、この事務所に持っていかれて困るものなんてない』
「バカをいうなよ、秘蔵の酒も、増税前に買いためておいた煙草も、持ってかれて堪るもんか。これでも腕っぷしには自信があるんだ、ぼっこぼこにして追い返してやる」



◆ ◆ ◆



「確かに予定にない訪問でしたけどね、それはなんですか、自衛隊軍化反対運動に参加でもするつもりだったんですか」
「た、たまには酔覚ましに防犯訓練もいいかなと思っただけだ……」

 扉を叩き、内側から「どうぞ」の返答を待ってから、つまり可能な限り紳士的に扉を開いた唐島は、安全第一の黒文字を記した黄色いヘルメットを被り金属バットを構えたフジワラの姿を目にすることになった。扉を開けたのが唐島だったことに気付いたフジワラは顔を真っ赤にしてバットを引っ込めたが、唐島が思いの外俊敏でなかったなら、今は救急車の音が響いているところだったかもしれないことと、床には最新の凹みが一つ追加されたことを付け加えておく。

「コーヒーでいいか、うちには紅茶はねえ」
「でしたら結構です」
「逆に失礼なやつだな」
『この間温泉に行ったときに持って帰ってきたティーパックがあったろう』
(ああそれでいいか。ほらな、貧乏性も役に立つってもんだ)

 給湯室に備わっている火の付きの悪いレンジは、ガスのノブをひねって、かちん、と音が鳴っても火花が出ない。電池を交換してもダメだった、スパーカがいかれているらしい。が、このコンロの周りにはマッチもライターも置かれていない。フジワラは五徳の上に水を注いだヤカンを乗せ、そのままノブをひねる。カチン、と鳴りはするがやはり火はつかない。が、フジワラが人差し指と親指を、鳴らない指パッチンをする様に擦り合わせると、ぽん、と火が付いた。

「なけなしのティーをくれてやる、持ってきたのが仕事の話なら色を付けてもらうぞ」
「1杯5.4円分なら、よいですよ」
「カーっ、可愛くねーなあ」

 コーヒーカップに湯と紅茶ティーパックを放ってフジワラが給湯室を出ると、唐島は既にソファに腰を下ろしていた。革張りのソファは健在ではあるがあちこちに汚れが目立っていて、これが黒ではなかったら見るに耐えない姿だろう。スーツ姿の唐島は、このボロの事務所には不似合いなほどにかっちりフォーマルだ。
 唐島の前のローテーブルに紅茶を差し出してから、自分用の事務机にコーヒー……カップに入った味噌汁を置いて、きいきいと鳴き声を上げる椅子に座り直す。唐島は既に何か資料のようなものを取り出していた。

「普段からそうやって味噌汁を飲んでるんですか」
「二日酔いなんだよ、ほっとけ。二日酔いの起き抜けには味噌汁ってかーちゃんに習わなかったか?」
「あいにく酒を飲まないもので」
「つまんねーやつだな」

 コーヒー渋のしっかり染み付いたカップに、具のない味噌汁が注がれている。事務所内に、なんとも場違いな味噌汁のいい香りが漂っていた。

「お休みのところでしたか。予定にない訪問、申し訳ない」
「予定にないも何も、アタシが偶然気が向いて着替えた後で良かったぜ。ネグリジェ一枚のお出迎えでなくて申し訳なかったな?」
「あなたのそういうのは結構です、本題に入っても?」
「軽く傷付くなそれ」

 フジワラが対して傷ついてもいない風に言うが、それを更に気に求めないように、唐島が話を本筋に入れる。

「最近ニュースを賑わせている爆破テロはご存知ですよね」
「猫も杓子もあればっかりだ、いっぺん聞けばわかるような内容を何万回も繰り返して、おかげで楽しみにしてた〝幻想!超常ドキュメント〟と〝ヒストリスクープダイバー〟がお預けだクソ」
「……フジワラさんって、〝そういうの|好《ず》き〟なんですか」
「お前んとこだってそういう部署だろ」
「いえ、|神社本省《ウチ》は一応はノンフィクション専門ってことになってますので」

 ノンフィクションというか、神社本省自体が政教・人信それぞれの距離感を時代に合わせて動かしてきた張本人、フジワラもそんなことは百も承知なはずだ。彼女は単にオカルト系の番組をエンターテイメントとして好いているらしい。
 巷を賑わせているのは、商業施設の入ったビルの上層階で、突然爆発が発生し多数の死傷者が出たという出来事のことだ。それを事故ではなくテロと発表したのはマスコミ各社で、発表当初は事故現場の分析などは進んでいない状態だった。政府広報はテロとの明言せず「テロと断定は出来ない」としていたが、世論は既にテロと信じ切っている。政府も、テロだとも、あるいはテロ以外の事件や事故であるという検証結果も得ることが出来ておらず、マスコミの言いたい放題の状態になっていた。

「その《《ノンフィクションの方々》》が来たってことは、何か確たる情報を元に動いてるってことか? しかも、こうやってやってきたのが、警察やら公安でなくて〝お宮〟とはね。その辺が来たら全力で逃げてたかも知れんけど」

 フジワラが、コーヒーカップに入った具無し味噌汁を空にし終えた辺りで、唐島が話の流れを改める。

「|照道《しょうとう》教という新興宗教も、よく報道されているのでご存知でしょう」
「たしかに最近名前はよく聞くが、内容はよく知らないな。そんな《《やべー》》宗教団体なのか? それ放置してたなんて、確かに〝お宮〟としては失態だな」
「放置していたつもりはないんですが……確かに後手に回った感はあります。件の教団は、食肉の禁止だとか、同性婚の禁止だとかに加えて、政治批判やら自給自足コミュニティの推奨、革命の提唱なんていろんな思想を適当にくっつけただけのお粗末な新興宗教なんですが、問題は、最終的に全員自殺することを教義に挙げていることです。確かに今のところ何の問題も起こしていない、少々過激な勧誘活動をする程度の新興宗教でしかないのですが」
「へー。自殺を推奨している宗教なんて勝手に滅ぶだろ、ああ、だからほっといたのか?」
「そういうわけでもないんですがね。我々が問題視しているのは、|照道《しょうとう》教の教義や宗教的な活動について、あるいはその経緯で発生する非信者との揉め事なんかではなかったのです。ただ、それが突然に〝自殺〟の点にかかってくる問題が浮上して」
「言い訳はいい、アタシにはそれを責める筋合いもないし、何の関係もない。」

 そうですね、唐島は弱ったように言う。超法規的な組織でその気になれば対外の無理は利かせられる神社本省の人間がまったく形無しな様子、つまり唐島ひいては神社本省はいつもこうして、手に負えないあるいは諸々の理由で直接実行したくない仕事を、誉田探偵事務所に持ち込むのだ。

「今回の爆破テロが|照道《しょうとう》教の仕業だということ自体は、確たる情報が入っています。〝ノンフィクション〟です。」
「ほー、珍しく強気じゃねえか。」
「〝陽の時代が来る。全ての陰は駆逐され、世界は光に満たされるのだ。我らは遂に光の法を施行する鏡を手に入れた。〟これは、信者に向けて発せられた教団内部向けの広報にあった言葉です。鏡というのが―」

 唐島の言葉を、しかしフジワラは遮った。

「さっきのが聞こえなかったのか、カルト教団の教義なんか仕事の内容には関係ねえ、とっとと《《すべき事》》を言えってんだ、その上で受けるかどうか決める。|神社本省《あんたら》とは、仕事を引き請けるかどうかアタシが決めるってことで約束してる筈だ。」
「……存じております。こちらの探偵事務所は企業の信用を《《担保する》》のが得意と聞いています。そのセンで今回臨時の〝お願い〟に伺ったのです。

 その唐島が「お願い」といったのは、つまり神社本省と言う機関が、正式な業務委託としてこれを行っているわけではないことを強調するための「おまじない」に過ぎない。実際には契約書のない契約であり、信用に基づいた口約束で行われ、昔からの慣例と申し送りによってのみ維持されている。金額だけは書面で交わすがそれは備忘でしかなく、何の金額なのかも記されない。業務委託契約としては個人でしかないフジワラにとって極めて不利に聞こえるが、それを承知の上で受託し、それでもなお「受けるかどうかはフジワラ次第」という有利を取れているのは、こうした業務を行える同業他社が存在せず、業務の内容も違法中の違法で真っ黒だからだ。不利を強いて内容をバラされて痛いのは、国の方である。現に、神社本省から以外、個人や企業を相手にした仕事では、フジワラには利が上がらないこともしばしばだった。

「見てのとおりウチはいつでも火の車だ、こんなオンボロの事務所をいつまでも使い続けなきゃならんくらいのな。《《いつもやってる仕事》》以外なら他にもっと優秀な探偵やさんがいるだろ、アタシはそういうのはヘタクソなんだ。いつまでもこんなボロい事務所にいるってことは、そういうことだ。察しろ。」
「この事務所がお気に召さなければいつでも新しい場所を用意しますが?」

 元々、この法的に真っ黒な建物に事務所を維持していること自体が、神社本省からのバックアップあってのことだ。ただ、フジワラがこの場所にこだわる理由が語られたことはない。

「いらねーよ。企業の信用を〝担保〟するって意味が、どんなことかもわかってんだろ?」
「存じております。今回〝お願い〟したいことも、それと似ていると思っていますので。」
「似てるだあ?」
「件の教団の私有地どこかにある、〝鏡〟、つまり神体を我々のところに持ってくるか、あるいは破壊して頂きたい。」
「おー、随分と破壊工作員らしい仕事じゃねえか。鏡を割れば終わりってなら、そんな楽な仕事はねえ。それって、ただの鏡なのか?」
「残念ながら、ただの鏡とはいきませんね。そうでなければこんなボロい探偵事務所になんか来ませんから」
「褒めるのか貶すのかどっちかにしろよ」

 少し憎たらしげな目を唐島の方へ向け、そのまま今度は自分用のコーヒーを淹れに再び給湯室へ。

「それで? もう少しはアタシにとって美味しい餌はないのかよ? 今んところ追加の面倒ごとを持ってきました、ってだけにしか聞こえねえぞ。」
「それは、全くそのとおりなんですがね。無理やり付け足すなら、そうですね、この件は〝本業〟の方にも関係があるかも知れません。」
「あんだって?」

 フジワラが、給湯室の入り口からひょいと首だけを出し、訝しげにしかし興味をむき出しにして唐島への視線を改める。

「鏡が御神体というのも、よくある神道のステレオタイプに過ぎないとのだ思いますが、その〝鏡〟は元来、我々が行方を探しているものです。これはさっきの〝逃げ出した神器〟ではありません、昔からずっと行方を探していて、見つからないままだったものです。それ以前の経緯はありましょうが、まさかあんな新興宗教の私有地内にあるなんて、全く情報が掴めないでいました。」
「ずっと探してただって? 裏でコソコソとはいえ国を挙げて探してたのに見つからなかったのかよ。」
「いかんせん、それを伝うための歴史的手掛かりが消えておりまして。フジワラさんに消していただいたと、申し送られています。かなり昔、とだけ聞いておりますがいつの頃かはわかりません。前任者が歴史線の依存関係を見誤ったのだとか」
「アタシが? 心当たりが多すぎてもうわかりゃしねえ」

 と、普段フジワラが他の人間とやり取りをしているときには黙っている頭の上の声が、言葉を挟んできた。給湯室にいる間は声も唐島のところまでは聞こえまい、そう思ってのことかもしれなかった。

『どれのことだろうな、〝焚書〟の履歴は取ってあるんだろう?』
「その時サボってなきゃな」
『お前が焼いて歴史ではなくなったら私にも辿れんのだ、そういう手抜きはするなと言ってるだろう』
「わかってるよ。まだなくなったとは決まってねえ、アタシの機嫌がよけりゃ詳細に、悪ければ雑に、残ってるはずだ。酔っぱらってれば、残ってない」
『お前は少し自分のしてることの重大さを自覚しろ……嗚呼、稗田が途絶えていなければ履歴も逸史も残っていたろうに』
「稗田を閉じたのはお前だろ、アタシの責任じゃない」
『うう……』

 急に反応がなくなったフジワラを不思議に思って、あの、と唐島が首を傾げている。

「ああ、なんでもない。ちょっと思うところがあっただけだ。かなり昔、ったらまあ……ああ、いやそんなことはいい、どうせお前が知っても仕方ないことだろう。だが、史実が焼失済だってのにも拘らず探してるってことは、余程重要なもんなんだな?」

 コーヒーを淹れたフジワラが再び現れる、頭上の声はすっかり口を閉じていた。そのまま事務机に座り直して顎をしゃくるような動きを見せる、話を続けろと言う合図だ。それを見た唐島はフジワラの横柄な態度にも嫌な顔を特に見せることはなく、話を続ける。彼の心が広いのではなく、それは単に慣れっこで肌を立て飽きたと言うだけだ。その証拠に、広げた紙とボールペン、メモを取れるように持ったペンの背をやむことのない癖のみたいにいつまでも神経質さを顕にして親指の腹で推すように回して弄んでいる。これがノック式のボールペンならカチカチとやかましい音が鳴り続けることだろうか。

「|照道《しょうとう》教で〝鏡〟として崇拝対象になっているものは、我々の内々では〝|日燧鏡《ひすいのかがみ》〟と呼ばれています。教団内部でも同じ様な名で呼ばれているようで、つまり教団は我々が秘匿している逸史断片を、大小知っているようです。」
「神器が逸史と一緒に外に漏れてるって言ったら、それこそ〝お宮〟の大失態じゃないか。まあ現代でよかったな、時代が時代なら朝敵でも政敵でもおっかぶせて焼け野原にしないといけない案件だ」
「そうは言っても、最近そうしたケースが多すぎるんです。従来の様に、悪い場合、祀る程度では全く意味がなく〝|Neutralize《無力化》〟か〝|隔離《Insulate》〟、あるいはその両方を行わない限り、意思を持ったように移動するケースさえあります」
「それこそオカルトかよ、まああんたらはノンフィクションのオカルトがお仕事なんじゃしょうがねえか。」
「あなた自身もあまり下手なことをすると〝|隔離《Insulate》〟の対象ですよ、フジワラさん」
「わぁってるよ、感じが悪いな」

 これは唐島の仕返しだ、流石にそう気付いたフジワラはこれみよがしに煙草に火を付ける。唐島が喫煙者じゃないことを知っていて、敢えてだった。

「その鏡はまだ動いてはいませんが、いつ動き始めるかわかりません。」
「動く? 動く、ってなんだよ」
「動き始めれば、恐らく、不明破壊活動主体として対処する必要があります。いわば〝|神妖《かみさま》の卵〟です。件の爆発は、〝|照道《しょうとう》教のテロ行為〟であることに間違いはありません、それを運用して力に訴えたわけですから。同時に〝未然な不明破壊活動主体の活動〟でもあります。」
「おいおい、まて、ふざけるなよ。|神妖《かみさま》の卵だあ? お前な、アタシのことを随分買い被ってるようだが、アタシだって死んだら痛いんだ、|神妖《かみさま》と戦えるとか馬鹿げたこと思ってんじゃねえだろうな、ゴメンだそんなあぶねー仕事、引き受ける道理が」

 拒絶しようとしたフジワラの言葉を、今がその時だと得意げに、唐島は遮って割り込んだ。

「輝夜姫に関係する可能性があるとしても、ですか?」
「なんだって?」

 フジワラが、その一言で気色ばむ。さっき唐島が、本業に関係するだろうといった核心が顔を出そうとしていた。彼女にとって、〝本業〟とは、輝夜姫に関わることらしい。

「新興宗教が偶然手に入れちまった神器が、〝断章〟とどういう関係があるんだよ。|輝夜《あいつ》が|神妖《かみさま》に成り果てるなんてことは、ねえ、絶対に。」
「流石に、ご執心ですね?」
「ちっ……これはアタシのライフワークだ、それ以下でも以上でもねえ。ああ、話を聞かせてみろチクショウ」

 覚悟を決めた、煮るなり焼くなり好きにしろ、とでも言いたげに椅子に座り直すフジワラ。対し、唐島はカバンから他にも幾つかの資料を取り出し並べながら喋り始める。少し喋っては、資料の必要な部分をフジワラの事務机に放るように遣り、あるいは元のソファに戻って。横柄さの仕返しにも見えるが、その実フジワラが仕事を断らぬようにギリギリ機嫌を取っている、誉田探偵事務所の職員は、仕事の内容云々と同じくらいに、退屈な仕事を嫌う。それには程々に煽るのが一番いいと、唐島はよく知っていた。

「日本の文化を紐解くとその根底には多くの場合、半島や大陸の影響を強く見出すことが出来ます。だと言うのに、日本はまるで、昔から太陽が神様でした、とで言いたげな神話体型をしている。太陽太陰暦から太陽暦に切り替えられたのも比較的最近のことだと言うのに、月を司る神格は活躍の形跡を神話に見出すことが難しい。不自然だと思いませんか?」
「そんなことは今まで百万回でも聞いた、耳タコが大きくなりすぎて塞がりそうだ。確かに|天照《アマテラス》、|須佐之男《スサノオ》と並んで三貴神と言われているくせに、|月読《ツキヨミ》はほとんど神話に出てこない。それに古代から残る〝ツキヨミ〟の言葉から、芸術分野の風流のイコンとしての表出を除くとその数は更に減る。その上|月読《ツキヨミ》は、何なら嫌われ役だ。|祟《タタリ》を起こしたり、|天照大神《アマテラスオオミカミ》と喧嘩して一生顔を見ないように昼と夜が別れたなんてひどい扱いを受けてさえいる。そんな中から、アタシはずっと〝断章〟を探して、そしてそれをせっせと《《消して》》回ってる。そんなわかりやすいアクセスから今更手掛かりがあるなんて、今ひとつ信じられねえ」

「月の都は、神話によって意図的に隠されています」
「それを隠したのは、お前達じゃないのか、御用学者さんよ」
「残念ながら、我々もそこまでは。私達が肯定しうるのは、ごく一般的な、神話大系です。天皇家が天皇家たる理由をつなぐための。それ以外のことは、《《存じませんね》》。」
「ハ。なるほどね、それで、アタシがヨゴレをやれってのか、動機はよくわかったぜ。餌の釣り方も上等だ。」

 フジワラは短くなったデスを灰皿に押し付けて煙を吐き出して唐島を見る、それはため息のようなものだっただろう、ようやく腹の底が少し見えたと、安堵だったのかもしれないし、提示される仕事の面倒臭さへの憂いだったかもしれない。

「で、そのヒスイノカガミってのは、何なんだ。まさか昔から狂信者の玩具だったなんてものじゃないんだろ? アタシが逸史を|焚書《け》しちまってたとしても、それが何なのかくらいわかってるから、躍起になってんだろ?」
「ええ。伝わっている|日燧鏡《ひすいのかがみ》の持ち主は誰かと言うと」

 視線を向けないフジワラもしかし、耳が猫のようにそっちを向いて言葉を待ち構えている。興味なさげに聞き直す声に、焦れた様子が伺えた。

「へー、だれだよ」
「卑弥呼です」



◆ ◆ ◆



 唐島が去った後、フジワラはもう一本煙草に火をつけていた。椅子から立ち上がるのもなんだか億劫、そんな様子で、机の上に脚を放り投げている。

『本業に手掛かりがありそうじゃないか、面倒ごとかもしれないが、よかっただろう』
「そうだな」

 人が一人しかいない空間と二人いる空間では、燻れる煙の流れは全然違う。一人しかいなくなった事務所に漂うそれは、まるで彼女の思慮の様にその場に留まり、消えそうで消えない。
 煮えきらない、何かを思い悩むように黙るフジワラ。それが、唐島に依頼された仕事の内容についてではないことは、頭上の同居人には、わかっていた。

『《《アレ》》が、|神妖《かみさま》に成り果てたりするか。そんなタマじゃなかっただろう。従者もとんでもなく優秀だった。関係がある、と唐島は言っていたが、話を聞いていると関係があるようには思えない、お前が言うとおり、いまさらそんなところから手掛かりが出るなんて思えない。杞憂に過ぎ―』
「ちげえ」

 頭の上の声を否定する、が、その否定はまるで肯定だ。そのとおりだがほっといてくれ。どこにでもなくただ、ぼうっと放り投げられた視線がそれを物語っている。

「……ちげえよ」
『そうか、悪かったな』

 もう一つ、まだ消えないまま薄っすらと漂っている煙に追い打ちをかけるように、深く息を注ぎ込む。まだ長い煙草を乱暴に消して、溜息を吐いた。
 やがて、彼女は目を大きく開いて、なにか失念していたことを急に思い出したように表情を変える。慌てて立ち上がり、ヨゴレて曇った窓とその上からかかるボロボロのブラインドを越えて外を覗いた、窓の外には駐車場が見える。

「しまった!」
『どうした』
「ああ、もう奴の車がねえ、せっかちめ! そんなにママのおっぱいが恋しいかよ!」

 せっかち、と言うがもう随分時間が立っている、当然駐車場に唐島の姿はない。

「大変なことを確認し忘れた、これじゃあ仕事に取り掛かれるかさえわかんねえ」
『唐島の発言なら一字一句記憶してあるぞ、何が引っかかってる』
「ちげえよ、あいつ、そのことについて何一つ言わないで行きやがった、悪意しかねえ」
『なんだ、そんな問題があったのか』
「交通費だよ、ここから奈良、徳島、宮崎、なんて回るのに幾らかかると思ってる。交通費が出るのかどうか確認しなかった、ああ!」
『100回や200回往復しても平気なくらいの蓄えはあるだろう』
「いーや、何が何でも|神社本省《お宮》に出させるぞ、アタシは交通費はビタ一文出さねえ、できれば食費も宿泊費もだ。おいK、奴の電話番号も一字一句記憶してあるんだろう? 教えろ、すぐに確認しないと!」
『……相変わらずの吝嗇だな』



◆ ◆ ◆



「吝嗇のつもりで言ってるんじゃないんだ」

 そんな誤解をしているとは、ボクだって思ってやいないが。
 どこかにギリギリに理性の破片が残っていたのだろう、狂気と言うよりはただの精神薄弱状態だろうか、その果てで、なんとか踏みとどまった彼は、か弱い声を返してきた。

「だって、ほかに食べるものなんか」
「どうしてもと思うんなら食べればいいよでも、もしあの女に仕返しする機会があったなら、どの手で彼女を殺すのさ?」
「ころしたいなんて、思ってない」

 光ひとつ見えない暗闇で、彼は消え入りそうに細い声で答える。

「でも、彼女は君を殺そうとしてる。でなきゃこんな仕打ちをするもんか。君をここに放り込んだのは、あの女の従者達だ。あの女がここから出る代わりに君がここに閉じ込められているんだろう?」

 驚いたことに彼にはボクの声が聞こえるらしい、それなりの人物なのだろう。言葉が通じる上に、会話も出来る。ボクは彼に合わせて声を変えているわけではないのに。

「なにかがあったんだ、きっと。海をわたってきたやつらが、みょうな術をつかって民をまどわしてる。だから」
「妙な術、なら君だって使うだろう。それに、海を渡ってきたのは君達の祖先だって同じだ。ここには元からいた人間なんてほとんどいない」

 齧り付いた方の腕は、化膿が始まっている。失血死しなかっただけましだが、死ぬときの苦痛は一層強いかもしれない。
 ボクは、何故彼のいわば自殺願望を止めたのだろうか。人間なんて放っておいて殺してしまえばよかったのに。いや、もう放っておいても死んでしまうだろう。飢餓状態だし脱水もひどい。自傷の失血に傷の化膿も進んでいる。これ以上構う理由など何もない。だが妙に気になってしまう、何故かは、わからない。

「あの女と君は敵同士だったんじゃないのかい。少なくともボクが見てきた限りは、そうだと思ってたのだけど。君はあの女を庇うのか」
「ヒメ……オモトとは、うまくやってきた。争っていたのはかんちがいなニンゲン同士。こんなことになるようないきちがいなんて、なかった。あるとすれば、ニンゲンたちの……」
「君は、何者なんだ。ボクの声が聞こえるなんて。ボクに聞こえる言葉が喋れるなんて。ニンゲンをニンゲンと呼ぶなんて。」
「おまえこそ、なにものなんだ、オレの〝こっちの〟みみにとどく声で、しゃべるなんて」

 もうそろそろ、だろう。声から力が失われてきている。細った火がふつふつと途切れ途切れで明滅する様に、彼は言葉を絞り出している。

「ボクは、〝むし〟だよ。ニンゲン達がここに来る前から、ずうっとここに住んでいる、むし」
「むし……でも人のことばをはなしている。おまえは、神なのか」
「どうだろうね。君たちがカミと呼ぶものの概念が、ボク等にはよくわからない。ともかく、君はもうじき死ぬだろう、ボクはその死体を食べに来たのさ。そんな神が、いるっていうのかい?」

 彼はここに閉じ込められ出ることも叶わず飢えて渇いて正気を失ったのだろうが、こんな穴、ボク等には開けっ放しも同じだ。

「オレを、喰う?」
「アリが、ダニが、ムカデが、コオロギが、ゴキブリが、ネズミが、ヘビが、コウモリが、トカゲが、君を待っている。ボク等はみんな腹ペコなのさ、今の君と同じようにね。」

 ボクの声を聞いて、彼は笑おうとしたのだろうか、口元が動いているが声は聞こえない。代わりにふしゅ、ふしゅ、と息遣いらしきものが小さく噴いていた。笑うほどの体力が残っていないのだろう。だが、その体が突然大きく動いた、素早い。

「ふざけるなよ、むし、なんて、むし、なんて」

 はっ、と気付いたとき、ボクは彼の下にいた。どこにそんな体力が残っていたのだろう。暗闇の中で、彼からボクの姿を見ることは出来なかったろうが、ボクからははっきりとその姿が見えた。その表情は、まともな人間のするものではなかった。飢餓と、乾きと、傷と、何より……信じていたのだろう女から裏切られた精神的な傷が彼の心を蝕んだのだろう、人間とは、弱いものだ。

「つかまえたぁ」
「つかまった」
「お前が手をくうのをとめてくれたおかげで、お前をつかまえられた。礼をいう」
「どうする気?」
「きまってる。オレははらがへってるんだ。たべものだったら、まだあるじゃないか」

 彼の口からは狼のように涎が滴り、さっきまで虫の息だったのが信じられないほどに深く激しい呼気を漏らしている。何も見えていないだろうはずの目は鋭く尖って、人間らしさを失って吊り上がり、光のない瞳は不規則にでたらめに動き回っている。失われて動いていない腐りかけの腕をものともせず棒のように突き、もう片方の腕でボクの体を地面に押し付けていた。見えていないはずなのに、岩陰にいるボクを正確に見つけてボクの体を掴み上げた。

「おまえを、くうのさ」

 乾いていないのが不思議に大量の涎を垂らす顎が大きく開いて、ボクを口に放り込み、そして噛み潰した。
 ボクの脚がもげる。ボクの胴体が潰れて中身が漏れ出る。痛い。ボクの首がちぎれて胸と頭がバラバラになる。ボクの体はバラバラになっても意識が終わらない下等な作りだ、まだ感覚がある。痛い。脚は散り散りに砕かれて、中身を押し出された胴はすり潰されていく。痛い。一部が飲み込まれる。頭が砕かれて、胸の破片と混ざり合う。唾液の洪水。彼の舌にかき回されて、肉も皮もなくなる。そしてボクの最後の一片まで、飲み下された。



◆ ◆ ◆



「着いたわ。私を殺すかどうか決めるなら、ここで決めた方がいいわよ」

 そう言って車を止めたのは、パーキングエリアでもない何でも無い山間に突然現れる定食屋、の廃墟。仮に営業していたとしてもわざわざこんな得体の知れない店に入るかと言われればNOだ、こんなど田舎の道沿いで当時は千客万来とでも考えていたのだろうか、でも実際は、このザマだ。国道沿いの廃墟と言われれば珍しそうに聞こえなくもないが、そんなことはない、バブルの頃にでもつくったのだろう都市と都市を繋ぐ一本道の幹線道路沿いには、|今日《こんにち》こうした廃墟なんて幾らでもある。瀬織さんが無免で飛ばしてきた道沿いにだって、10分に一度はこうした廃墟か、その廃墟があったのだろう不自然な空き地が、あった。まさか、そのうちの一つに車を止めるとは、僕も思ってもいなかったが。

「普段からあんなことしてるの?」

 もしかして中の入ったガスボンベは売れるのだろうか。

「まさか。でもやり方くらいはね、一般教養として」
「どんな教養……?」

 普通に生活していても、普通に学校に通っていても、留守の家の入ってLPガスのボンベを窃盗の方法なんて覚える理由はこれっぽちもない。鎖を切断するための油圧カッターについては「まあどっちかといえばバイク用だけどね」と僕の知らない言葉を喋っていた。知るものか、そんな言葉の意味なんて。
 こんな廃墟に車を止めたこと自体も驚きだが、それよりもここに来る途中で、窓から光の漏れていない民家の脇に入ってコレを持ってきたのだ。
 コレとは、LPガスのボンベである。

「運び方くらいは知ってても損はないよ」
「得にもならなさそうだけど、いや、そっちじゃなくてさ」
「そう? 外でバーベキュとかやるなら知ってると、株が上がるってものじゃない」
「……あいにくそんな仲間がいないからね」

 これから私がその仲間ってことか、と悪い笑みを浮かべたまま瀬織さんは車を降りた。顎でしゃくるような動きをするのは、僕にも降りろという意味だろう。もはやここで僕がなにか行動を起こせるとは思えない、直接危害を加えられるような状況になる以外では、一旦彼女に従っておくことにしよう。行動の文脈的には、死体をどうにかする手段を提供してくれる、というものに見えるからだ、もし瀬織をどうにかしなければならないとするなら、それは死体の処理の仕方を見てからでもいいだろう。

「で、こんなところに着いたわけだけど。私を殺してみる?」
「……いいよ、もう」
「よかった」

 よかった、と言う割に、あんまりいい表情に見えなかったのは何なのだろうか。
 降りたのは無駄に広い駐車スペース、大きくもない店舗の背後はすぐに山林。もしここが営業中であったなら、店員はここに住む以外にない、こんな辺鄙なところに毎日出勤なんかしたくないだろう、それとも当時は毎日ここまで自動車通勤をかましていたのだろうか。結局そうした現実的ではない立地、だからこうして放置されているのだろう。こうした廃墟に特に多いのがラーメンくらいしか食うものない定食屋で、他には潰れた土産物店、閉園した観光農園の入り口、なんかがそんなイメージに沿うだろうか。
 不思議な感覚に襲われるのは、こうして廃墟だけを視界に入れている限りはこの地域の人間は既にどこか別の場所に移住してしまうかあるいは滅んでしまってもう人間の一人だって存在していないような印象を受けることだ、道を駆け抜ける車のヘッドライトだけがそれをちらちらと照らすが寂寞を払うには足りていない、ちょいと後ろを振り返ってみるとこの通り国道は車が結構な頻度で通り抜けているにも拘らず。それを人間としてカウントするのなら決してこの地域から人間がいなくなったわけではないし、事実この廃墟は依然として人間の生活に隣接したままなのに、この場所だけが、まるで時間からも空間からも切り離されて置き去りにされているような、そんな寒気を催す静けさに支配されている。
 次々に通り過ぎる自動車、バイク、トラックの中の人間は、この廃墟のことを一切気に留めない。まるでここにこんな者は存在していないかのように、僕たちがここに人間の死体を二つ持ち込もうとしていても、全く気にせず走り抜けていく。車の調子が悪くて、あるいは眠気に襲われて止めたのだと思うのが精々だろう。
 人の生活はここにはないのに、行き交う車の灯りとそのために設置された照明光の拡散によって、この廃墟の周辺の空気は彩度の低い濃紺で満たされている、決して真っ暗闇ではないが底に見える人影が瀬織さんのものなのかどうかさえ怪しい、そんな具合。いつの間にか瀬織さんが別の何者かと選手交代していても、この状況下なら気づかないかもしれない。

「運良く未使用の20型があってよかったねえ。」

 転がしているガスボンベと声から、その人影が瀬織さんだということは裏付けられる、いやそもそも一瞬の内にニンゲンが入れ替わるなんてことはないのだから、僕は一体何を期待しているのかということだが。

「あんな真新しい予備が置いてあるなんて、ツイてるよねー」
「え、うん」

 同意を求められてもなんと答えればいいのかさっぱりわからない。運よくとはどういうことだろうか。
 もしかしてこれって瀬織さんのヤバイトなのだろうか、ガスボンベを窃盗して誰かに売りつけるとか。ガスボンベって個体識別用の記号が書いてあるんじゃないのかな、使い終わったあと安易に廃棄なんかしようものならあっという間に身バレしてしまいそうなものだけれど。そのへん詳しくなんて知ったことではない。
 そもそも、ここにガスボンベを持って来て何をするかなんてことも、僕には正直想像がつかない。

「こんなところで何するの? まさか逆に僕が殺されるとかじゃないよね」
「|国立《くにたち》、漫画の見過ぎじゃない?」
「ぇぇ……」

 この状況でその科白を聞くとはきっと僕でなくても思わないだろう。

「一旦入ろうか。どういう状態か確認しないと」

 何を言っているのかと思って考え込んでしまう、入るって言葉の指しうる目的語を模索しても、今あるのは目の前で寂しそうに闇に飲まれている廃墟だけだ。
 ラーメン、と建築の規模に見合わない巨大な看板を掲げているが、その文字は血を流しているように錆色のシミを垂らしている、ということは昔はこの文字は電飾を気取っていたのだろうか。

「あれに?」
「他に何があるのよ」
「他に何もないから聞いてるんだよ、正気?」
「正気って言葉、そろそろ諦めたら? 人殺しなんて、狂気の沙汰よ?」
「正気は狂気と相殺しないよ」

 それは、あの家の中で嫌と言うほど思い知らされたから。父も母も、まさしくあの家にあっては狂気に飲まれていたと思う、だけどそれは正気を失っていたかと思うと、そうではないだろう。理性は正しく機能していて、だからこそ一般の住宅の一つに普通の人間のような顔をしたまま生活できていた。染み出してもなんとか出来るだろうレベルで狂気の隠蔽を怠っていたのは間違いないが、僕が《《こういうことをする》》以外は、そのギリギリを見極めて生活していたのだ、理性あるいは正気以外にそれをなし得るものはない。

「はははっ、なかなかいいこと言うね、それ、結構好きかも」

 なんだか上手くはぐらかされたような形になった、別にあの廃屋に入るのがどうしても嫌だというわけではない、ただそれが正常な行動とは思えなかっただけだ。瀬織さんが僕をおいてすたすたと元 の方へ歩いていくのを、結局追うしかなかった。あたりをキョロキョロと見回している僕と違って、瀬織さんには迷いがない、まるでここに一度来たことがあるような様子だ。

「初めてよ」
「え?」
「いや、聞かれそうな気がしたから」

 なんだ、ただのエスパーか。って、平静を装うと思ったのだろうか、そんな気のない言い方で。

「瀬織、何者なの」
「何者でもないわよ、ただの女子高生。知ってるでしょ、私、君のクラスメイトなんだよ?」
「今更何言ってるんだよ」
「気づいてないかと思ってた」
「名前よばれりゃ気付くよ。それに」

 それに、と底まで口にしてから、出てきそうになった言葉を飲み込んだ。いつも君を見ていた、なんて言えるわけがない。

「気付かない方がおかしいじゃないか。ただの女子高生は車の運転やガス窃盗なんてしないし、心を読んだりしない」
「心? なんて読んでないよ、そんなエスパーじゃあるまいし。」

 ぐう。そういうところだってのに。

「初めて、こんな風にクラスメイトと口を聞いたってこと」
「そっち?!」
「え? どっち?」

 自然に考えれば、心が読まれたなんてことがあるはずもない。またアホなことを口走ってしまったと少し後悔しながら、僕は、あー、とかなんとか言ってバツの悪さを誤魔化してしまう。

「えっと、瀬織、ここに来たことあるのかなって思ってたら、初めて、なんていきなり答えられたから」
「ああ、そっちは初めてじゃないよ、何かのときに、ってね。こんなこととは思ってなかったけど」
「そ、そう」

 何かのときって? 前はなんで来たの? なんだかその質問を誘われているようで、でも聞いていいことでもないような気はして、口を噤んでしまう。これは、天然なのか、ただ僕をおちょくっているのか。しかしおちょくっているにせよ、そうでないにせよ、学校で見る瀬織とまるで別人だ、ころころと表情を変えるしよく喋る。でもあの有無を言わせない|威圧感《カリスマ》は健在だった。彼女が迷いなく廃墟に入っていくのを、僕はただ追いかけている。

「まともに口を聞いたのが、|国立《くにたち》でよかった」
「え?」
「あんまり仲良さそうな人、いなさそうじゃん。変な噂とかされなくて済むなって」
「そういうこと」
「どういうことを期待していたの?」

 定食屋の入り口はガラス張りのドアだがヒビが入り、木の板で×印に封印されている。飲食店らしく他の面もガラスで囲われていたが、内側から目隠しのシートのようなものが雑に貼り付けられていて中を窺い知ることは出来ない。正直不気味を通り越して怖い。車はびゅんびゅん走っているが、見えるだけでこことは別世界に存在しているようなものだ。たとえアパートで薄い壁越しの隣の部屋に住人がいるのを知っていたってまるでここには一人しかいないように思えて怖いのと同じ。
 瀬織さんが少し脇にそれて中の様子を覗っているので、僕が先に正面入口についた。暗くて遠くからではわからなかったが、内側から貼り付けられているシートは、ガラスの向こうからこちらに向かって手や顔を押し付けてきている化物の肌のように見えてしまう。扉の取っ手同士が鎖でキツく結ばれていて開きそうにないが、木の板にせよこの鎖にせよ、封印が外側からかけられていることが、まるでこの中にあるものが出てくるのを阻止しようとしているように見えてしまう。それを、瀬織さんは解放しようというのだろうか。さっきの油圧カッターで切るつもりだろうか。

「あ、ダメだよー」
「え、中に何がいるの?」
「何かいるように思う?」
「いや、その」
「ま、光のない真っ暗な中じゃ何を怖いと思っても恥ずかしいことじゃないとは思うけどね、まっとうな人間は暗闇で生きていけるようには出来てないし」

 これは、同情されたのだろうか。なんだか情けない。ああ、もうなんかダメじゃないかこれ。いろいろ。それ以前に、死体隠蔽の現場を目撃された時点でアウトなのだけど。

「正面は入るのはダメってこと。どうせ用事があるのは裏口になるだろうし、前のあれを破る意味はないよ。こっち。」

 瀬織さんが手招きしているのは、店舗の裏手側だ。そうか、勝手口。僕はとぼとぼと瀬織さんの手招きする方へ、吸い込まれるように歩いていく。



◆ ◆ ◆



「電気はないからね。スマホでどうぞ」
「懐中電灯機能くらいはあったかな」
「え、マジ、その電話?」

 ガラホ、と呼ばれる奴だ、しかも子供向けの奴で前面にボタンが3つ、側面に2つあるだけだ。機能は貧弱で、僕の位置を把握していつでも通話が出来ること、つまり僕を監視することが目的で持たされたもの。普通のスマホなんて持ったこともない、小遣いなんてないのだから自分で選ぶ余地もない。

「|国立《くにたち》の家って、特殊な家だった?」
「他の家のことは知らないけど、少なくともまともではなかったと思うよ、だからこんなことになったのだし」
「ふうん。ま、人を殺しちゃう人間にまともかまともじゃないかなんて、判断出来ないか」
「だったら訊かないでよ」
「悪かった悪かった」

 1ミリも悪く思っていなさそうな様子で、目線さえこちらに向けないまま瀬織は廃墟の中を歩いていく。
 足元にはなにか黒い粒のようなものがバラバラと散っている、動物の糞だろうか、こういう光景を何かで見たことがある。歩いていくと、ばたばたっ、何かが通り抜けるような音がした、恐らくそういうことなのだろう。
 まるで時が止まったかのような空間。僕は携帯電話の明かり程度ではこの難所をくぐり抜けるのに一苦労だが、瀬織さんは違うようだ、スマホ程度の明かりで難なく奥に進んでいく様はやはり何度か来たことがあるようだ。裏口はキッチンの脇に通じているのらしい、そこからすぐに折れるとカウンターのような台に囲われた空間に出る。その一角を目指す瀬織さんを追うと、裏口とは逆側らしい位置にあるレンジの様な設備に辿り着いた。やはり「ラーメン」を売りにしようとしていたこともあって、底にあったのはほとんどがラーメンのための調理器具のように見えた。

「こういう廃墟はこの道路沿いに幾つかあるんだけど、道具一式も全部一緒に放置されてるのって珍しいのよね。ほら見て、鍋も寸胴も、キッチン用品も食器も置きっぱなし。布巾まで置いてあるよ。こりゃあ運が良かったわね。それとも、先客がいるのかも? 人間とは限らないよねー」
「やめてよ」

 瀬織さんはそれを指さして「最初来たときあの寸胴の中ヤバかったんだから」と笑っている。垂直に立った鍋の壁面は、小動物が落ちたら確かに登れないかも知れない。虫にとっても都合がいいかもしれない、余り「どうヤバかったのか」を聞く気にはなれなかった。

「この辺だとガスはアレだから。設備さえあれば閉栓とか関係ないのよね」
「あ、それで」

 アレ、といったのは、ガスボンベのことだろう。長期出張か何かでいない家からガスボンベを盗ってきたのはそういうことらしい。

「取り敢えず、設備自体はなくなってないみたいだし、一旦戻ろっか」
「え、うん」

 まるで手際のわからない僕に対して、瀬織さんは何らか踏むべき手順が既に頭の中に入っていて、それを実行しているのらしい、僕には次に何をしようとしているのかもさっぱりわからないし、それをお構いなしに次々に行動を起こしている瀬織さんの様子を追いかけるしかない。何をしようとしているの? と聞くこと自体は出来るはずだが、なんだかそれも億劫と言うか、彼女自身が既にそれを把握しているなら僕がいちいちしゃしゃり出る必要なんかないのではないかと思ってしまう、死体を車に乗せるときのように、瀬織さん一人では難しいだろう場面に到達したら、手助けをすればいいだろうか。
 それでも、何をしようとしているのかくらいは教えてもらうべき、なんだろう本当は。今はまるで瀬織さんが主人公みたいに行動の中心、でも本当は死体をどうするかとか諸々のことに主体的に当たらなければならないのは、僕なのではなかったか。
 それにしたって、確かに手慣れているというか、普通はそんなものの取り扱い方法自体知らないだろう、でも彼女はまるで慣れた手つきで、車に乗っけてきたガスボンベの底辺をコロコロと転がすようにして運び出していた。

「|国立《くにたち》はさ」
「うん?」
「なんであんなことしたの?」
「あんなこと?」
「決まってるじゃん、あれ、ご両親でしょ?」

 そのことか。そして、今更か。なんだかいろいろの順番があべこべな感じがするけれど、なんとなくその順番の破綻はボクに安心感を与えていた。死体を埋める前の穴と死体を前にして、こんなことを聞かれたなら、きっと気が動転してまともに答えられなかったろう。いや、こんな状況で聞かれたってまともな答えなんか絶対に出るはずはないのだけど。

「何も考えずに、って、言ったじゃないか」
「それを言ったのは私でしょ」
「それに同意したよ」
「本当に?」

 恐らく設置空間らしい場所にボンベを据え付けて、何事か作業している。一体何をしているのかは僕にはさっぱりわからないが、それよりも、彼女がどうしてこんなことが出来るのかの方が不思議だった。

「私はね、《《計画してた》》よ。」
「え?」
「だから、まともに喋ったのが、|国立《くにたち》でよかった」

 何を計画してたっていうの? 瀬織さんも、《《やった》》ってこと? ―僕で、よかった?
 それを聞くのがなんだか怖くて、聞き返すべきなのかどうかをためらっっている間に、瀬織さんが先に言葉を続けてしまった。

「ここはね、そのために目をつけてた場所なんだ。さっきも言ったとおり、ここはいろんな意味で都合がいいから。ガスが使えるかどうかだけ、まだ確認してなかった、確認しようがないからね。」
「使えるの?」
「さあ」

 えい、と最後に何か一声かけてから、ぱんぱんと掌を払うようにして作業を終えた。携帯電話でボンベの上部の何かを確認している。いいかな、と呟いて、再び中へ促された。

「いよいよ本番でーす」
「何の」
「決まってるじゃん、わざわざガス引っ張ったのに」

 まあそうなんだけど。そうはわかっていても、なんだか信じられない。さっき所在を確認したレンジと寸胴の場所まで戻って、瀬織さんはレンジのバーナー部分を噴いたり払ったりしている。

「ちゃんと使えるのかなあ」
「さあね。レギュレータだけは新しいのにしたけど、こうやって放置されてるやつは配管の中に虫が巣食ってたりすると、調子が悪くなるって。蜘蛛の巣とかね。そんなものの中を掃除する手段もないしね、一発ぶっつけ勝負。下手すると」

 ライターとボロ雑巾のようなものを手に持った瀬織さんの両手が、左右に広がるような身振りを示す。口では「どーん」なんて。そりゃあこんなに古そうなガス設備を使うのだ、そうした事故のリスクは当然鑑みるべきだけれど、想像はしたくない。

「二人ともあの世行き、悪くないでしょ」
「ぇぇ」
「じゃあいくよ。爆死してもいいように、神様にお祈りしといてね」

 爆発、死傷者。なんだか件のテロを思い出す。そういえばあのテロは、結局なんだったのだろう。|照道《しょうとう》教との関連は、どうだったのだろうか。

「神様なんて、まっぴらだ」

 僕のその反応に何か腑に落ちない表情をしてから、彼女はレンジの火力調節用のノブをひねってから、コンロの下にライターを添える。かちん、という音と共にライターが点火。そして、ぼん、と小さく低い音が響いて、灯がともった。
 ほわ、携帯電話のディスプレイやLEDと違う、ゆらぎを持った灯りが小さく廃屋の片隅に灯った。

「おー、無事生き残ったね。いや、まだわかんないか。ガス漏れがあったら遅れてドンってこともあるだろうしね」
「縁起でもないこと言わないでよお。でもこれで、ここでしばらく生活できるね」
「は?」
「え?」
「|国立《くにたち》、もしかしてここで生活しようとしてる? 私と? やめてよ」
「え? だって」

 え、え? どういうこと? じゃあ何のためにガスを? そう考えたってガス、それにこんな設備、調理用じゃないか。

「まあ、何日かは確かにいることになるけどね。勘弁してよ、こんなところで国立と新生活なんて、まっぴらだわ。……死体持ってきて」

 まっぴら、と一刀両断にされてしまった。まあ何かを期待していたわけでもないが、だったらここで何をしようというのだろうか。わざわざガスを使ってまでここで火を熾す意味はが、別にあると言うことか。

「もってきたけど、取り敢えず片方」

 言われるがままに父の方の死体を持ってくる、一度に二つは難しい。死体を抱えて持ってきたら、瀬織は寸胴をひっくり返して中に入っていた《《いろいろなもの》》を捨てた後だったらしい。
 小さな、赤みを持った仄かな灯りが、足元から瀬織を照らしている。クラスで見る凍った花の様な彼女とも違う、車の中で見た歯車のような彼女とも違う、さっきまで暗闇の中で見ていた彼女とも違う。とても、生気のある瀬織さん。急に、なんだかとても生々しく見える。それは僕の精神的なところが落ち着いてきたからだろうか。……落ち着いただけ?
 熱を帯びた光がゆらゆらと照らす瀬織さんの姿が、ゆっくりとこっちを振り返る。立つ。僕の方へ近づいてくる。こんな真っ暗な廃屋で意味もわからず二人きり、何を考えているのかはよくわからないけれど、何故か僕の死体遺棄を手伝ってくれている瀬織さん。僕に何か、恩を売って何かを企んでいるのか。それでも、なんだか、構わないような気がする。
 瀬織さんは、僕の前に立って、どこを見ているのか、少し不安になるような表情で、口を開いた。

「脱がせて」
「え」

 耳を疑った。なんと言った?

「脱がせてほら」
「は!? ままま、まってよ、そんな心の準備」
「ぁぁ……ちょっと|国立《くにたち》さ、いちいち反応がヤバいよ。むっつりなの? 脱がせてって《《それ》》の服」
「え、あ、ああ! う、うん」

 それ、とは死体のことだった。死体の服を剥いで、処理しようというのらしい。何かいちいち自分の反応が残念すぎて気が滅入ってくる。僕はしたいから服を剥ぎ取り裸にして、どうしようっていうの、と聞いた。ここに入れといて、と指を指したのは寸胴だった。

「ごめん」
「別に謝ることじゃないけどさ。死体、煮るの。何日かかけてじっくりね。ここなら悪臭も気付かれないし、精々スマホくらいの光じゃ夜も誰かいるようには見えない。車はもうちょい位置を移動させればわかんないし。匂いは出るけど、ここで車を降りる一はいない。この土地の持ち主もたまには何か理由があれば来るんだろうけど、年に一度来ればいいくらいでしょ、来ちゃったら……私じゃなくて代わりにその人を殺してね」
「もう瀬織を殺そうなんて思ってないってば」
「あらそう」

 その4文字に何の感情がこもっているのか、もしくは何にもこもっていないのか、僕には分からない。警戒心を解かれてはいないだろうが、警戒する相手とこんなことをするとも思えない、放っておけないと言ったが、放っておかない理由はさっぱり見当が付かなかった。

「もういっそ、|神妖《かみさま》でもやってきてばーっとやってくれないかしら」
「いやだよ、そんなの」
「そお? |神妖《かみさま》がこの辺一体をめちゃくちゃにしてくれれば、死体遺棄の手間も省けるってもんじゃない?」
「それは、そうだけど」

 近年「不明破壊活動主体」と呼ばれる正体不明の化物が、時折現れては破壊活動を行い、そして自衛隊に迎撃されて消えるということを繰り返していた。自衛隊の中にはその化物専門の部隊があるんだとか。何年に一回くらいのペースで、正体もわからない、対応の方法も確立されていない。そのせいで激甚災害と同じ様な扱いを受けていた。社会不安を強く煽っていて、そのせいで政治は混乱しているし妙な宗教もたくさん出来ている。その宗教の一つが、両親が信仰していたものだったのかもしれない。そうした宗教が、社会不安や|神妖《かみさま》の破壊活動から自分を守ってくれるというのは、理性的に考えれば明らかにおかしな話なんだけれど、怖いものから目を背けたり考えないようにしたりというのはいつの時代でもどんな事象にも、カンフルとして有効なのだろうか、その無痛状態に魅入られる人はすごく多い。
 そうした宗教を信じる信じないは別として、実際に現れて人工物を破壊していく|神妖《かみさま》の存在は否定しようがない。確かに、ここが|神妖《かみさま》の移動経路に含まれてしまえば、もしかしたら死体は上がらないかもしれない。

「ま、そんなものに期待してても仕方がないよね。もう一つの死体も持ってこよ。あと水も。水はたまに汲みに行かないとダメだから。裏手の山を入っていったら小さい沢があるから、そこでね。もしかしたらガスもまた盗ってこないとダメかなあ」

 二人で車に戻り、瀬織さんが水を、僕が母の死体を運ぶ。
 父の死体はともかく、母については死体になった顔を、見たくはない。死を認めたくないわけではなく、なんとなく、死しても尚僕をどうにかしてきそうな気がして、蓋をしたままにしたかった。幸い、この寝袋は顔の部分を紐で引っ張ると窄めることが出来る、そうして顔が分からないようにしていた。それでも服を剥ぐときには否応なく見る必要がある。

「ふうん、お母さんと何かあったのか。それで殺しちゃった?」
「うるさいな。見て分かるものなの?」
「わかるよ、|国立《くにたち》は特にわかりやすい。お父さんの死体と扱い方が違うし、何より、|国立《くにたち》って完全に母親似だよね、同じ顔してる。こりゃあ何か確執があったねって、見たらすぐ分かるよ」
「知ったようなこと言わないでよ」
「いいじゃない、もうただじゃ済まない仲なんだからー」
「そういう言い方しないでよ、自分でももう懲りてるんだからさっきみたいのはさ」

 瀬織さんにけらけらと笑われながら寸胴に死体を放り、瀬織さんが水を入れて蓋をする。気密性がある蓋ではない、乗っけるだけだが、そこから死体が見えない目隠しのためだけでも意味があるような気がした。

「火、点けるよー」

 瀬織さんが、死体を放り込んだ僕の足下で言う。寸胴から離れてオーケー、と答えると、さっきと同じようにレンジに火が点いた。実際に殺してしまったときよりも、ずいぶん実感が湧いてきた。この二つ並んだ寸胴の中に、母親と父親がいて、その体を煮詰めようっていうのだ、やってることの異常性が、ふつふつと湧き上がってきた。これからこれを煮詰めて小さくして、捨てるなんて。
 異常性? 何が異常なのだろう。異常な状態を打破するには異常な手段を取るしかないじゃないか。だって正しい手順は既に無力だった、あるいは選択するわけにはイかなかった。望ましくない結果を導いた直接的な原因をその名前で示すのなら、我慢できなかった自分の忍耐の不足こそが、異常という言葉の向き先なのだろう。
 僕は、自分の人生をどこで洗浄すればいいのだろう。もうそれは叶わないことなんだろうか。
 それとも、本当に「|神妖《かみさま》」が、洗いざらい、吹き飛ばしてくれるだろうか。

「あとは待つだけね。簡単でしょ?」
「簡単なものかい。瀬織はこんなこと、なんで慣れてるの?」
「慣れてないよ、これで3回目かな。」
「さん……十分じゃないかな。瀬織って両親は」
「私の両親は健在よ。私がやったのはただの処分で、殺しちゃったのは別の人だし。両親はね、まだ、計画。|国立《くにたち》に先を越されちゃったな」

 冗談めかして笑う瀬織さん、なんだか落胆しているように見えた。なんで? 僕の両親の死体を使って、死体の処理が出来るか確認出来るじゃないか。もし計画があるのなら、それを実行すればいい。ここでの成果を利用して、なんならもっと精度の高い方法を考えて。

「これが上手くいったら、またここで、処理すればいいよ。同じ様に」
「そうね、できるかな」
「出来るでしょ、っていうか、瀬織がやったんじゃないか、これ。僕は何もしてないよ」
「ちがうわ。私には出来ていなくて、|国立《くにたち》には出来た」
「え、何が? 僕は何も……」
「実際に、殺してしまったことよ」

 瀬織さんの目が僕を見ている、ぞくっと背筋が凍った。そうだ。幾らこうした知識があったところで、これはただの隠蔽工作だ。究極な目的は、何だっただろうか。僕がしたことは、そういうことなのだろう。ミステリ小説や推理モノに登場するような理想的な完全犯罪じゃない、完全な方法を綺麗に周到にというよりも、現実と手際を以て、いわば汚い方法で精々の処理を実行しようとしている。そのこと自体が間違いなく驚異的なことだ。だけど、やっぱり、それらすべてが集約される先は、僕が、二人の人間を殺したという事実なのだろう、瀬織さんが指しているのは、そういうことだ。

「羨ましい」
「羨むようなことじゃない、こんなことは―」

 でも、計画を立てていたということは、それだけの思いの大きさがあってのことだ、きっと、本当に羨ましがっているのだろう。僕のほうが少しだけ、我慢が足りなくて、悪意が大きくて、自分を保つための欲望が捨てられず、生きる願望が強くて、つまり殺意が僅かに強かった、そういうことだろうか。

 |自分が生きる希望《親を殺す異常》が。

 だからほんの寸でのところで、僕と瀬織さんは違うのだ。その小さな小さなさが、巨大な結果の違いを生む。それはさっき瀬織さんが言ったことだ。彼女は僕に比べれば遥かに正常な人間だ。僕が突き動かされた、他の人間には理解されない、して欲しくもない、するべきでは決してないこの感情と同じ様に、瀬織さんのその内情なども僕には知り得ることではないと前提しながら、それでも同じものを共有してしまっているのかもしれないと思ってしまうところに、僕は、平たく言うのなら、共感と同情を、覚えていた。
 鍋の蓋の隙間から、湯気が立ってきた。もう引き返せないところに来ていることは、百も承知だった。でも、この湯気は、それを決定的にボクに知らしめている気がする。足元に灯っている火は、僕の旧い世界を加熱して形を崩すための、救いの火のようにも見える、それは、僕が望んでいた、天にも届く巨大な火柱ではなくて、こんなにもちっぽけな暖かな火だということに、少しの動揺も感じていた。隣に、こんな人物が立っていることも。
 瀬織さんも、何を眺めているのかわからない、ぼうっと虚ろいだ目で寸胴と火を眺めている。同じ様に、踏み出してはいけない場所に踏み出したことに不安を覚えているのだろうか。それとも、本当に僕の死体処理を先に実行したことを後悔しているのか。
 後悔してほしくない、折角まともに口を利いたのがこんな人生の終わりみたいなシーンで、お互いに同じ夢を見ていた仲なのなら、こうして鎖を煮詰める結末を、僕は彼女にも届けたいと思ってしまう。

「瀬織」
「なに」
「今度は僕が手伝うから」

 瀬織さんは、僕の方を見ることもなく、ただ、うん、と頷いた。
 携帯電話の光をオフにすると、夜の闇が、しん、と僕らを包み込んできた。



◆ ◆ ◆



 ここはいつでも、暗くひんやりとした闇に包まれている。そこに、力なくうずくまっている彼に向かって、ボクは声をかけた。驚いた様子だ。

「お腹は膨れたかい?」
「おまえは……きのうくったはずなのに」
「食べられたね」

 ボクがまた現れたことに、彼は驚いているようだった。
 彼の言う「神」という存在がどんなものなのかは知らないけれど、もしかしたらボクは彼にとってそういう存在に映るだろうか。それとも、もっと別の何かに?

「ボクは一人じゃないからね。言ったろう、ボクは〝むし〟だ。ひとりやふたり死んだところで大した問題じゃない。君がそうしたいのなら、ボクは君にいいだけ食われることだって出来る」
「……もう、いらない」
「そう。死ぬ気になったってこと?」

 彼は何も言わない。もう生きることは放棄しているのだろう、この状況だ。でも、死にたいと思っているはずがない、生き物ならば、自死を考えるなんてありえない、少なくともボクらはそうしていきてきた。ニンゲンには自死という概念があるのかもしれないが、ボクにはそれは想像できない感情だ。

「そういえば、いいことを教えてあげる」
「いいことなんて、いまさら」
「君の取り巻き連中は、全員殺された。あるいは、ヒメとかモトヒメとか呼ばれてる女の下に降ったよ」
「なにがいいことだ、それに、そんなことは想像どおりでもある」
「話は最後まで聞きなよ。一人だけ、生き残ってる。まだ君を慕っているみたいだよ」

 ボクは、外で見かけた女のことを伝える。あの女は辛抱強く彼のことを待っているようだった。でも、彼女が《《今どうなっているのか》》までは、知らせるつもりはなかった。

「なに」
「岩の外に、ひっそり隠れるように野宿しながら、まだいる。首飾りやら腕輪やら櫛やらつけてたし、何より君がヒメと呼ぶ女と同じく、大きな鏡を持っていた。結構な身分の女のようだったけれど」
「……キクリ」

 やはりそれがあの女の名前だろうか。ヒメだとかモトヒメだとか呼ばれてる女が連れ出された後、この洞窟の外にはもう誰も残っていない。残っているのは、さっきの女だけだった。あの女だけが、彼をずっと、待ち続けてそこにいた。毎日のように祈り、身を捧げるように。
 胸の奥に、ちり、と苦い泥のようなものが生まれた。

「君がニンゲンの神だとすると、あの娘は君の伴侶だったのか」
「そんなんじゃない、でも、あれはそうおもっているかもしれない」
「ふうん。それでずっと外に齧り付いている訳だね」
「……キクリは、だいじょうぶなのか」
「さっきまでは生きてたよ」
「は?」
「今は見てないからわかんない。見てこようか」

 ボクは、そう、喩えるなら髪の毛の一本の先に目を開くような感覚が近いだろうか、そうやってこの穴の外の近くに目を開いた。ボクの髪の毛はこの島の至るところに生えているし、ボクに手はこの島のどこに生える花だって詰むことが出来る。ボクの脚はこの島のどこにだって辿り着くことが出来るし、ボクの目はこの島の隅々まで見渡すことが出来る。ボクの声はこの島のどんな深い井戸の底にも届くし、ボクのこの島のどんなひそひそ話も聞き逃すことがない。これをニンゲンはカミとかオニとかタマとか言うが、ボクにはそれらの概念のほうがよくわからない。
 彼女はまだ生きていた。死なせるつもりなんかない、だって、彼女には生んでもらわなきゃいけないから。今は、ヒメとかモトヒメと呼ばれる奴らの軍勢から隠れるように、茂みの中に横たわっている。お腹に、子を宿して。

「生きてるよ、良かったね」
「あれは、オレをまっているのか?」
「知らないよ。自分で聞いたらどう? ま、君が死んでしまっては無理かな」

 全く自分のこと以外を考慮に入れていないような物言い、それは我儘な様子と言うよりは、彼の世界には他の誰も存在していない様な口ぶりだったのだが、キクリ、という名を口にしてからは随分とその女のことを気にかける雰囲気が浮かんできた。心配なんだろうか。今心配すべきは自分のことだろうに。側にいるボクは、その死体を食べるために待ち構えているというのに。
 こんな都合のいい食事が転がっていることは珍しい、他の大型の動物も入ってこないこの空間では、ボクら〝むし〟がこの獲物を独占できるのだから。
 でも、この場で彼を処理してしまえば、あの女は彼の死を知らぬままだ。死を知らないということは、いつまでも祈り続けるということだ。いつまでも彼女の中では彼が生き続けて、ずっとその場所を譲らないだろう。―癪だ。

「君がその気なら、ボクが君をここから助けてあげてもいいよ」
「……ほんとうか?」
「但し、その体では無理だね。見ればわかるでしょ、あの岩の隙間をその体で通ることは出来ない」
「じゃあどうするっていうんだ」
「食べさせてよ。ボク等はいつでもお腹が減っている、君の体を食べたいんだ。その代わり、君はボク等と一緒に外に出る、ボク等は君の一部をお腹に入れて外に出るのさ。」
「なんだって?」

 彼はこの洞窟の外で、少し前まで、神だったのか、神の声を聞く者だったのか、その言葉の意味を読み解く者だったのか、ボクの知ったことではない。ボクはむしでありカミだったが、彼はニンゲンでありカミだったのかもしれない。それでも、死を恐れて肉体を失うことに躊躇し、弱い意思を持つ、ニンゲンと全く変わりのない生き物に、ボクには見えた。そんなくだらないことに、小さな優越感を感じている。
 何かが、あの女を犯してから、変わってしまった気がする。何だというのだろう。

「魂はあの岩戸を抜けられる。体はボクらが引き受けるから。外で落ち合って、君の体を外に作り直すんだ。」
「そんなこと、できるのか?」
「言ったろう、君次第だ。君が強い意志を持って死に、魂になってもそれを忘れないのなら、出来る。」
「わすれてしまったら」
「魂だけが、亡霊としてこの中に残り続ける。霊体なしに肉体は再構成できない。」

 可能か不可能化で言えば、可能だ。ボクが力の提供をすれば、そんなに難しいことじゃない。でも言っている通り、彼の石が強固で霊魂がしっかりとした記憶を保ち、目的を達成しようと動いた場合だけだ……そんなことが出来るほど精神的水準が高い生き物は、ほとんどいないけれどね。そうだ、失敗してしまえばいい。再生を夢見て、その夢破れて。

「出たいんだろう、この洞窟を」
「ちがう」

 その一言だけ、彼の声色が、少し変わったように聞こえた。なんだろうか。

「ちがう、オレが出たいのは……このくらくてふるい……せかい全体だ。だから、こうなった以上、しんでもいいって思ってた。でも、いまは」

 彼の意志を感じた、それに、自分の中にどす黒い何かが生まれるのも。

「決まりだね。じゃあ、今度は、〝ボクの番〟だ。」

 ボク等は、岩陰から、土の中から、石と石の隙間から、宵闇の縫い目から、一斉に姿を現して、抵抗をやめた彼の体に覆い被さった。洞窟の暗闇で、小さな小さな足音が、何百何千何万と重なり合って大きな音を立てる。洞窟の真っ黒の中に、何百何千何万もの小さな羽音が音を刻む。洞窟の天井には岩も土も見えない、一面をコウモリが埋め尽くしている。洞窟の壁には岩も土も見えない、一面を地虫がびっしり覆い尽くしている。天井の床には岩も土も見えない、一面にネズミやヘビやトカゲが折り重なっている。それらは全て、目の前の死にかけのニンゲンのカミを、食べられるのを待っている。全てがむしで、全てがボクだ。
 彼が「出たい」という何かのことなんて、ボクにはあまり関係のないことだ。彼が強くそれを望み、岩戸の外で体の再構成に成功したのなら、自分でそれを成就すればいいのだ、ボクはそれを手伝っただけだ。その先のことなんて、知らない。
 復活が、成功するかどうかもね。
 今のキクリの姿を見たとき、彼はどう思うだろうか。今は洞窟の外にいる人間達を恨んでいるが、今度はボクを恨むだろうか。
 きっとそれは、さぞ爽快なことだろう。

 あの女は、ボクのものだ。
 さあ食事の、時間。



◆ ◆ ◆



 食事の時間に重なったらしい、従者が盆に食事を乗せて持ってきているところだった。だが、彼はそれを受け取るつもりがないらしい。

「旦那様、お食事を……」
「眩しい、眩しいっ! 戸を開けるな、暗幕を閉めろ光を入れるなっ!! 目隠しを、もってこいっ!」

 影が戻ってきたならもう問題なかろうと、与えていた香の精神作用が抜けきるまでアフターケアを続けるつもりだった。今回もそのつもりで、空気を浄化する別の香と、解毒作用のある茶を持ってきた。これを一月も続ければすっかり問題ないだろうと思ってのことだ。
 だが、私が往診に来たとき、唐島の様子はこの通りだった。

「はいるぞ」
「ど、道士様?」
「そうじゃ。具合はどうか、と、聞くまでもないようじゃな」

 唐島は再び臥せっているとのことだった、とにかく、今この部屋の中ではそれは「らしい」としか表現できない。なんせ何も見えないのだ。真っ暗で光が一筋も刺し入らないように厳重に幾重にも遮光を施した部屋の中で、蝋燭の一つも灯さない闇の中で目隠しをしているのだ。声ばかりは聞こえるが、恐らく寝ているのだろうことくらいしかわからない。ついでに言えば……風呂にも入っていないのだろうか、かなり強烈な匂いが充満している、控えめに言って……吐きそうだ。
 私にはこの部屋の中の様子がさっぱりわからなかった、当然だ、暗すぎる。
 だが唐島は。

「眩しい、ああ、眩しい! おい! 右の方から光が入ってきてる、きちんと閉めないか! ああああ!」

 唐島が叫ぶと、部屋の戸の外で少しだけ暗幕のいち部が動いたように感じられた。私には一切光が入り込んでいるようには見えないのだが、唐島自身にはほんの僅かな反射光の侵入さえ感じられている、そうとしか思えない物言いだ、「眩しい」だなどと。現に、この真っ暗闇で僅かな光も入り込んでいないように見える闇の中で、唐島は目隠しをほんの少しずらしただけで正確に私のいる方向へ声を投げてきていた。声のする方向くらいしか唐島の所在を察する手掛かりはなかったが、一方の彼にはこの暗闇の中で私の姿が見えているのらしい。

「道士様、これは、どういうことですか! 目が、目がどうにかなって……どんな小さな光でも眩しすぎて気が狂ってしまいそうなのです! ああ、痛い、目が!!」
「う、うむ……」

 何だ、この症状は。今までに見たどんな病態とも違う。私は医者ではないが、それなりに見聞があるつもりだ、それでもこんな症状を訴える者に、どんな医者を宛てればいいのか想像も出来ない。

「眩しいのです、どの様な小さな光でも、目から入ってまるで頭の中が焼き尽くされるように眩しいのです。体中が炎で炙られるように熱いのです。光が怖くて仕方がない!!」
「落ち着いてくれ。少し状況を聞かせてくれぬか。これは、香の後遺症ではない、むしろ、影を疑った方が……」

 関係はわからない。ただ、光を極端に恐れるという状態を、感覚的に影が消えたという彼自身に生じた現象に答えを求めたくなるのは、自然な発想だろうと思う。

「影が無くなったという他の親族はどうした」
「同じです、同じ様に目を開けているのが眩しくて辛いと。ああ、目が痛い、眩しい、光が痛い」
「光が当たらなければ、平気なのか?」
「はい。ですが、世界とはこれほどに光に満ちていたのですね、前まで真っ暗だと思っていた場所にも、複雑に反射して僅かな光が入ってきているなんて」

 真の闇、というのは存外に難しい、それは確かなことだが、それでもこの唐島の反応は異常に思えた。暗幕を4枚も5枚も重ねて光を遮り、壁に囲まれた部屋の中で目隠しをして生活をしているとは。どんな敏感な網膜に鳴っているというのだ?
 感じているのが本当に光なのかも疑わしい。何らかの原因で唐島の目は別の波長を目にしてしまえるように鳴ったという可能性はないだろうか。音を見れるだとか、目に見える光ではなく例えば電波が見えるようになってしまったとか。考えにくいことだが。

「なんとかして下さい、こんな状態では、まともに生きていけません。あ゛あっ!」
「わかっておる。……そなたの親類達の様子も見たい、手掛かりがあるかもしれぬ。所在を教えて欲しい。」

 住まいを口にしようとした唐島だが、今の私の状態ではそれを書き取ることも出来ない。丁稚か使用人のどちらかでも知っているならそちらから聞くことにするとして、今は唐島自身の話を聞くことにした。

「いつからこうなった?」
「影が戻ってきてから、一週間後くらい、です。道士様が来た、三日後、です」
「ふむ。まず香の副作用かどうかを確かめたい。今まで光過敏の副作用が報告されたことはないんじゃが……」
「あっ、ひ」
「どうした?」

 突然、唐島が驚いたような声を上げた。私は暗闇の中で何一つ視界が聞かないままだったので、何が起こっているのかさっぱりわからない。
 それにしても、酷い匂いだ。これほどに光を嫌うようでは、風呂に入るのも困難か。それでも何か出来ることはあろうに。前にあったときの唐島は、性格こそいけ好かぬ部分もあったが良家の人間らしく小綺麗で清潔な様子には交換が持てたというのに、この匂いを買いでしまってはそのイメージも完全に台無しだ。

「ひ、光が、見える」
「光が? どこに見える」
「そっちに」
(……指さされても見えんのじゃ)

 少なくとも私にはその光とやらは見えていない。幻覚だろうか。
 ここに満たされているのは強烈な陰の気だ。これだけ閉め切って闇に閉ざしていればこの空間が陰気占められる仕方がないことだろう、だが、陰気が余りにも過剰だからといって、これほどに光(つまり陽気)に反発を持つ状態に陥ることはない、おおよそ人間界では陽気を受け付けないほどの陰気というのは創出されないはずなのだ。
 彼のアフターケアに用いている香は、鎮静効果があり体内の解毒作用を高める|底野迦《てりあか》だが、軟膏ではなく香とする場合には阿芙蓉を混ぜることがある。だが私の|底野迦《てりあか》香には阿芙蓉は含まれていない、そもそも今の唐島から抜く必要がある香こそが阿芙蓉なのだから。
 今見えている幻覚や妙な光恐怖症状は、阿芙蓉の望ましくない効果である可能性が高い。抜けていけば、消える症状かもしれなかった。今はこれを落ち着かせることを考えよう。
 そう治療方針を改めようとしていたが、唐島の幻覚は激化しているらしい。

(それとも、なにか憑物でもあるか、あるいは誰かから意趣返しでも受けているのか)
「|主《ぬし》に覚えはなくとも、恨みの類があるかも知れん。我特製のチート符籙『〝意趣返し〟返しの護符』を用意するので」

 と、たしかこの辺りに淹れたはずだと見えない中で荷物をゴソゴソ漁っていると、唐島が更に妙な声を上げた。

「あ、熱い」
「なに?」
「熱い、熱い、熱い熱い熱いあついあついっ」

 声はどんどんヒートアップしていく、まるで、本当に火にくべられたりしているんじゃないだろうなと思うほど、その声は大きく、切迫したものになっていく。ただ、私の周囲に熱を感じることもない、実際に熱いのでもないのらしい。これは、光を厳格しているのと同じ様なものだろう。と高を括っていたのだが。

「お、おい?」
「熱い熱いあついあついっあ゛ついあづいい゛いいいい゛ぃィぃ゛ィ゛ぃぃィィィィっ!!!」

 何事かあったのだろうか、と思っていたが、いよいよ尋常ではない様子になってきた。声はあまりにもなりふりを構っていない、これは、何か、まずい状態なのでは……?

「ど、どうした、熱か? 熱があるのか? まて、今鎮静の符を、ああ見えぬ、灯りをもらうぞ」
「嫌だ、光は嫌だ、痛い、痛い痛い光は痛い熱い、熱いいたいいたいいたいいたいいたいいいいいいあああああ!!!!!」 
「お、落ち着け! 眩しいのは一瞬じゃ、少しだけ……」
「ああ゛ああ゛あ゛ああああ゛ああ゛ああ゛ああああ゛あああ゛あ゛あ゛ああ゛ああ゛ああ゛あああ゛あ゛ああ!!!!!!」

 絶叫、それ以外にこれを表現する言葉があるとすればそれは、断末魔、だ。
 耳を突き破るような絶叫をあげて、唐島の声はそれ以降ぱったりと途絶えた。
 嫌な予感がする。

「と、戸を開けよ! たれか!」
「し、しかし」
「構わぬ、それどころではない!」

 私が部屋の外にいるのだろう従者に命じると、開きます、と声をかけてから、一枚一枚ゆっくりと暗幕が開かれ光が差し込んでくる。この時点で、私には部屋の中の状況がぼんやりと目に入ってきた、いや、見えただけで、理解は出来なかった。最後に、戸が開かれて外の光が溢れるように流れ込んできた。そこでしっかりと見えた、この部屋の光景は。

「これ、は」
「うわぁっ! だ、旦那様……!?」

 部屋の中を見た使用人が、言葉を失う。無理もない、こんなものを見て平気でいられる人間など。顔を背けてしまった使用人に、私は問うた。別に確信に近づくための質問にはならない、極々自然で率直な、疑問でしかない。

「いつから《《こう》》だったのか、知っておるか?」
「いえ」
「じゃろうなあ」

 想像していたとおりの答えだった、これは裏切ってほしいところだったのだが、流石にそうは問屋が卸さないか。
 部屋の中、使用人が顔を背けたその光景。布団の上には、唐島の死体らしきものが横たわっている筈だった。さっきまで会話していて、突然叫びだし、そしてさっき断末魔を上げて死んだ唐島の。
 だが、光が差し込んで見えたその死体は、黒い腐敗液を布団にべったりと染み込ませた姿だった。既に死後1ヶ月が経っていようかという程の古い死体に見える。酷い匂いは、死体の腐乱臭だったのだ。唐島は、とうに死んでいたのらしい。
 その間、気付かれずにここに、何者かがいたのだ。
 私がさっき話をしていたのは、唐島ではなく、その何者かだったのか。

「この火傷は……」

 死体は、今こうなってしまっては状況を推し量ることにも限度はあろうが、酷い火傷を負っているようにも見えた。皮膚のめくれ方だ、これは、通常の火や熱ではなく、魔術的な加熱に因るものでなければ生じないものだ。
 通常、外部から加熱を受けると当然外皮から徐々に体組織が熱死していき熱傷となる。だが唐島の死体の表皮は、焼けたように見えるのと同時に、皮膚の深い部分から捲れ上がったり、泡立つように破裂したような裂傷が見えていた。これは、体組織の深部が直接熱せられ、体内の水分が蒸発し体内で水蒸気爆発を起こしたときに生じる、一部の炎熱系魔術特有の熱傷だ。ただ炎で炙られるよりも余程に苦痛が酷いと聞く。

(炎系の術を使う何者かが、殺したとでも言うのか?)

 この部屋の中には一切火気がない。周囲のどこを見ても焦げも見つからない。焼死したとしても、これは不自然な状態だ。明らかに、魔術的な力の行使があった、そうした技術者に殺された死体だ。
 殺したのは、さっき私と言葉を交わしていたニセ唐島(?)だというのか。それ以外に考えられないのだが、それも考えにくい、どう考えをまとめたものだろうか。まとまるはずもない、こんなとんちきな状況。

「道士様、旦那様は」
「残念じゃが……。他の縁者も、籠もっているのか?」
「はい。唐島家には他に弟様と、姪がいらっしゃいます。皆、同様に、暗所に籠もっていると聞いております」
「そうか。恐らく、同じ様に……」

 使用人達は力なく肩を落とした。彼等に、唐島の死を悼む程の忠誠心があったというわけではなかろうが、こうした使用人というのは家が廃れれば食い扶持を失う。血縁全員が突如として亡くなったのだ、純粋に失業を憂いてのことだろう。あるいはこれが疫病か何かの類と疑うかもしれない、そうであれば自分も感染しているかもしれない不安からくる気落ちかもしれないが、いずれにせよ唐島の亡骸の側で陰鬱な表情をして入るが彼の死を憂いてのことではないだろう。

「不謹慎ではあるが、だとすると血縁がなければ同様の症状は出ないじゃろう。ぬしらは安心して良い。この件は一旦〝神霊廟〟が預かる。他言無用じゃ、よいな?」
「はあ」

 使用人に下がるように命じると、まるで逃げ出すようにその場から消えた。彼等が今後どこでどうやって食っていくのかは知らないが、今はそれどころではない。
 目の前で死んでいるこの死体は、一体何事なのだ?
 さっきまでそこにいて私と話していたのは、何だ?
 あの断末魔は、何故上がったのだ?
 何が、そこで叫んだのか?

 唐島の死体の周囲を調べてみても、唐島の死体以外には何も見つからない。別の何者かが折り重なるように死んでいるというようには到底見えない。
 唐島から聞いた言葉が、耳にこびりついて残っている。「光が怖くて仕方がない」これは何かを意味しているのではないだろうか。

(なんだというのだ)

 唐島の死体からは、再び影が失われていた。



◆ ◆ ◆



「何だって言うんだ。こんな《《ど》》田舎にほんとにあるのかよ? っていうかただの山ん中じゃねーか」
『しらん』
「知らんってなあ、お前はアタシの頭の上に乗っかってるだけだからいいがな、こっちはせっせと歩かにゃいけねーんだぞ」
『健康に良さそうじゃないか』
「それ間に合ってるんだよなあ、生憎と!」

 賑やかそうに聞こえる会話だが女一人以外に姿はない、携帯電話のヘッドセットも見あたらないが、どう言うことだか声は二人分。渋谷の人混み無人と違って今は本当の無人の中にいる、ここは山奥、このまま歩けば神社に着くというところだが、人の姿はとんとない。無理もない、今は全く真夜中で、ここは商店街や繁華街でもなく、比喩一つ無くただの山奥、山道がひょろひょろと山間を縫って心許なく延びるだけなのだ。かの神様にお参りするにもこんな道を通る人はいない、今は宵闇に阻まれて見えないが、頭上には文明の証たるロープウェイが吊られていて、それに乗ればこんな山間ひょいと越えられてしまうのだから。だが残念ながら今は休止中、真夜中は営業時間外だ。それに、あの索道に乗ると今度はその神社を通り過ぎてしまう、その神社は山の6合目辺りにひっそりとあるらしい。

「なあ、これほんと、いつ着くんだよ」
『まあまだ半ばといったところかな』
「はあ!? 結構歩いたぞこれ!?」
『構わんだろ、死ぬわけでもあるまいし』
「しーーーぬーーー!」

 終電に間に合わなかったみたいな二人の声と一人の姿は、細い山道をすてすてと歩いていく。お世辞にも山歩きになれていそうな姿には見えないし、足取り自体もそれ相応。もしこの山道を自らの足で行くというのなら、ロングブーツで歩いたりはしないだろう。銀色の長い髪は、今はウシャンカから垂れ出てウェーブを靡かせている。起毛素材の手袋もしているのだから防寒はましな方かもしれないが、短めの白いファーダッフルの裾の下からは生の太股が覗き、すぐにブーツに吸い込まれている。つまり、甚だ場違いな恰好だ。夜道を睨む目ばかりが、夜空に朧するエラキスの様に薄光って赤い。

「こんなところから太陽が昇るワケがないだろう、何を考えてたんだ昔の人間は」
『太陽が昇ったなんて後付に決まっている、それにそんな場所は日本中のどこにだってたくさんあるだろう』
「そうだけど、だったらなんでここなんだよ」
『それは|お前が歴史から消した人物像《聖徳太子》にでも聞くんだな』

 アンマッチな恰好と言えば、この女の服装の山歩きに対するアンマッチもそうだが、それを除いても、服装と口調にはずいぶんとアンマッチがある。都会の若者を謳歌しそうな服装だと言うのに似合わない粗暴な口調は渋谷で目にしたものと同じ、あれは商売のための演技だった、というわけではないのらしい。
 こんな山中を歩くのに不自然に軽装な女の荷物の中には、以前情報屋から買い取った真贋さえ定かではない写真が含まれている。爆破テロの現場が、爆発を伴っていないことを示す画像だ。
 姿が見える方の女は、死ぬ、と叫んでいるが、その割には足取りはことさらに重いというわけではないようだ。

「アタシのせいかよ、てかそれならお前の領分だろ」
『知らんな、消えた歴史は歴史ではなくなる。つまりもう私の持ち物じゃない。ただの伝説なら、ニンゲンの持ち物だ』
「つまりアタシだって言いたいのか」
『お前の〝本業〟だってそうだろう』
「ちっ、あれを引き合いに出すない。」

 フジワラと名乗る女は、姿のない声と会話を継続している。こんな|人気《ひとけ》のない山道にこの二人(?)が一体何の用事があるのか、会話の内容から窺い知ることは難しいただ、件の写真とが関係していることは確かだろうし、そうであるならおそらくは先日発生したテロ事件と関係するところだろう。

「ああ、もう、どうせただの伝説ならずうっと洞窟の奥にでも封印されていればよかったんだ、なんで新興宗教なんて面倒くさい奴らが先に唾を付けるんだ。本当なら|神社本省《お宮》の奴らが先に|Neutralize《無力化》に動くべきだってのによ」
『飯の種だぞ、仕事をくれている神社本省に感謝して労働に励めよ』
「|神社本省《お宮》が仕事の再委託をしているなんて、ロクでもねーよ。言っとくがな、労働に励めというのならだ、お前がそういう姿な以上はお前も一緒に勤労感謝の日にはハッピーメーデーファッキンゾーゼーだからな?」
『この国の勤労感謝の日はメーデーとは一致しないぞ』
「しらいでか。アタシが何年日本人やってると思ってる」
『まあ今の私には体がない、仕事には口を出すだけだからな、頑張れよ』
「きーーー!」

 「神社本省」とは全国の神社を体系的に組織する特殊宗教法人の名称だが、その位置付けは超法規的なものなものになっており一般のそれとは大きく性質を違えている。国内のテロ事件にせよ、新興宗教絡みの話にせよ、本来的には通常「神社」という言葉が指す領域には直接関係のないことであるし、なにより既に国家神道に対して違憲判決が下されている筈なのに、当該法人は国家機関として機能し続けているのはおかしな話である、蓋し神社本省の存在は一般には伏せられたものだった。

『ここを選んだ理由は何だ、と言ったな』
「あるなら聞かせて欲しいね。ないならもうその話は蒸し返さないでくれ、考えただけで頭が痛くなる。アタシはお前と違って頭脳派じゃないんだ」
『|姓《かばね》をくれてやったんだ、少しは知る努力をしたらどうだ、神社本省と付き合いを続けるなら今後もこういうことだってあるだろう』
「確かに貰いはしたがな、1から10までお前のおかげだなんて思ってねーぞ。」
『誰から奪った名前だろうがもはや関係ないがな、もうその荷物は下ろせないぞ。お前がいっときの恨みにかられて、引き受ける必要のなかったものまで考えなしに丸呑みしたから悪いんだ』
「ああ、わかったよ、お前の説教が夜が明けまでじゃちょっと足りないくらいだってのはよく知ってる、沢山だ。いいから理由とやらを聞かせてくれ」

 耳を塞ぐような仕草で頭を振る、フジワラと名乗る女。歩くのが大変だ大変だと言っているようで、なかなかどうして楽しい学校の遠足感が出ている。

『唐島の話を聞きながら、私なりに考えた。古代のことで歴史として残されている断片はそう多くない、信憑性については過信は出来ないのだが』
「アタシのヤマカンよりはよっぽどいいね」
『岩戸伝説は日本各地にいくつも存在する。その中でも、この辺りに伝わる話は少しばかり他の地域とは違うらしい。』
「へえ、何が違うんだ。日本の神話じゃ親が子を食ったり、浮気の嫉妬に狂って諸共殺す、なんてことはないと思っているが、期待していいのか?」
『一体何を期待しているんだ……。一般的な岩戸伝説を今更浚う必要はないだろうが、特殊な箇所を対照するために必要な箇所だけを言っておくと、こうだ。〝昔々あるところに、太陽を司る女神様がいましたが、弟と喧嘩して天岩戸という洞窟に引き篭もってしまいました。太陽を司る女神が引き篭もりになったので、太陽が光を失いみんな困ってしまいましたが、ある神様が洞窟の外でお祭り騒ぎをして誘い出そうと一計を案じ、それが成功して再び太陽が光を取り戻しました。めでたしめでたし。〟こうだ。』

 所謂一般的に伝えられる「岩戸伝説」を思い切りかいつまんだものを、女の頭の上から響く声が滔々と喋る。一方女の方は、道すがらそれを聞いているだけと言った面持ちだ、説教とどっちが良かったのかきっと天秤にかけている。

「しってらい。で、この辺の|天照大神《アマテラスオオミカミ》は、それとどう違うっていうんだ?」
『この地域の岩戸伝説曰く、こうだ。〝昔々あるところに、太陽を司る神様に仕える巫女と、彼女の声を聞き民に伝える弟がいました。巫女は弟と喧嘩して天岩戸という洞窟に引き篭もってしまいました。巫女が引き篭もりになったので、太陽を司る神様が人間のために太陽を照らしてくださらなくなったのでみんな困ってしまいましたが、ある神様が洞窟の外でお祭り騒ぎをして誘い出そうと一計を案じ、それが成功して再び太陽が光を取り戻しました。めでたしめでたし。〟』
「大して違わねえじゃねえか」
『天岩戸に引き篭もったのは太陽を司る女神ではなく、その|巫女《シャーマン》で、神託を聞き解釈して民に伝える|審神者《さにわ》として弟が登場している。向かっている神社には、そうした異聞の断章が残っているかもしれないということだ。』
「神様はどこ行ったんだよ、神様は。|巫女《シャーマン》と|審神者《さにわ》の話になっちまってるじゃないか。だったら卑弥呼の弟が|須佐之男命《スサノオノミコト》だってのか? 荒唐無稽過ぎる、そいつは流石に〝ナシ〟だ」
『消えかけている異聞だ、広く伝わっている話に比べれば辻褄が合わないこともあるだろう。その不整合にこそ鍵があるのではないか? お前の今の|姓《かばね》だって全く整合性を持たないものだが、それなりにドラマがある自負くらいはあるんだろう?』
「アタシの話はドラマなんて大層なもんか。ああ、そのまま消えちまってくれれば、こうして山道をトボトボ歩かなくてすんだってのによ!」

 女はスマホをいじいじ触りながら、そんなに平坦でもない山道を危なげなく歩いている。

『おい、ながら歩きはやめろと学校で習わなかったか』
「あいにく習ってねーな」

 頭上の声はそれを警告していたが、女の方は全く聞く耳を持たない。
 画面の光で顔だけを煌々明るく照らしながら歩いていると、突然変な声を上げた。

「あぁ!?」
『躓いたか、脚をくじいたか、踏み外したか、靴擦れでもしたか、足の爪が割れたか、いわんこっちゃない』
「お前な……。これ見ろよ、ニュース。」

 女が覗いていた携帯電話にはトップニュース、速報、とテロップの入った動画ニュースのサムネイルが停止状態で表示されていた。

『なんだ、案外まともなものを見ているのだな、どうせエロ動画サイトで気に入りの動画選別でもしてるんだろうと思っていた』
「なあさっきからなんかひどくねえ? |神妖《かみさま》だよ、|神妖《かみさま》。ほら」
『ほう?』

 顔からスマホを少し離すようにして、動画ニュースを再生する。

―……滋賀県琵琶湖東部に出現した不明破壊活動主体、所謂「|神妖《かみさま》」は、中高度に浮遊しながら黒い靄を纏いながら平均時速8キロメートルと非常にゆっくりとした速度で移動を続けています。姿は蛇の様であり不規則に体を巻くように動き続けているようですが、全長に直すと400メートル程度になると予想されます。内閣直轄の対策機関「不明破壊活動主体被害対策室」は、今回の不明破壊活動主体を「|闇靇《サンダーインザダーク》」と仮称することを決定し、自衛隊に対して駆除を実行するよう指示しました。黒い靄の正体ははっきりしていませんが、内部に稲妻のようなもの発生を伴うようで、大きさは半径900メートル程度の概ね球状、地表にはわずかに触れるのみですが通過後の実地調査によってもこれに接触することの影響はまだ確認されていません。従来の|神妖《かみさま》と異なり全く破壊活動を行わなないまま移動を続けており、破壊活動が行われていない段階で駆除作戦を実行し不用意に刺激することは控えるべきとの声もあり……―

「破壊活動してない不明破壊活動主体ってなんだ?」
『友達にでもなりに来たんじゃないのか』
「そんな平和な奴らならもっと早い時期に握手してるさ。でも、いきなり滋賀県に現れるって、京都近すぎじゃないか。やばいんじゃないの、|神妖《かみさま》って京都に行こうとしてるんだろ?」
『私に聞くな』
「お前似たようなもんだろ」
『はあ? 私が一体いつ破壊活動したというのだ』
「まあ、今は手も足も出ないな、口は出しまくってくるが」
『……フンっ、悪かったな、こんな体で』
「あー、おこんなよー、あいしてるってー。」
『お前その適当に愛してるって言葉使う癖なんとかしろよ』

 呆れたような声で言い捨てられる。頭上の同居人をなだめるように喋りながら、歩いていく山道はまだ遠そうだ。

『|巫女《シャーマン》と|審神者《さにわ》のペアと聞いて真っ先に思い出すのは何だ?』
「そりゃあ卑弥呼とその弟だろう、唐島も言っていた、日本人としてもまさしく代表例だ。今の岩戸伝説異聞は完全に卑弥呼とその弟の話をごった煮にしてるだろ」
『そのとおりだ。』
「……なんだって?」

 女はまるで誰かに改めて問い質すように立ち止まり、首を傾げる。先端を火で焙ったものの吸い込むのをついぞ忘れ冷えた外気に熱を奪われ点きかけた火が消えてしまう煙草は、口から落ちかけた。一人山道、身振り手振りで声を発しているの女の様子は、完全に一人芝居にしか見えない。

「邪馬台国と岩戸伝説は関係がないだろう。卑弥呼は歴史で岩戸伝説は神話だ、レイヤーが違う。勿論神話は史実の伝説化に違いはないんだろうが」
『その二つのつながりに問題の発端があるに違いない。神話はもう《《歴史ではない》》、神話化してしまった歴史の詳細は私にももうわからないが』
「問題って何のだ」
『決まっているだろう、お前が今神社本省から請け負っている仕事のこと、つまりあのテロ《《モドキ》》についてだ』

 頭上の声に、歩き詰めの女は口を閉ざす。「何が言いたいんだよ」女はそれこそ正しい独り言のように口の端から垂らすような声を漏らした。頭の上の声は答えない基、その声の正体もその全容を知っているわけではないことを女自身も知っていた、「そうかい」、問うても無駄だと思って返してからは無言、ただ黙々と光のない山間を歩いていく。
 闇の中無限に続く地獄への道行きにさえ思える道行きを無心に歩き続け、突然落とし穴にでも落ちたかのように開けた空間に出た。木叢が開け覗いた空に月明かりが妙に燦然、青白さが不気味にささえ清流している。
 改めて、頭上の声が、静かに言った。

『着いたな』
「ここのようだが、神社ったって、なんにも……ねえぞ?」

 目指していたのは神社なはずだ、だがそれを「神社」と称していたのは女の頭の上から聞こえる声だけで、地図に記されているわけでもQoopleEarthに記されているわけでもない。女はそれが神社なのか何なのかわからないまま、声の指し示すままに歩いて来ただけだった。
 着いた、と言われても目の前に社のようなものはない、それらしいものは鳥居が一つ立っているだけだ。それも朱塗りされていない石造りの旧いもので、全く手入れをされていない苔蒸していて何なら一部がかけて失われているような、ボロ。周囲にも社は見当たらず、人の手が加わっているようにも到底見えなかった。これが神社だと言われても誰も納得はしないだろう。

「これは、《《どっちの》》だ?」
『さっきまでの私の話をもう忘れたのか? 《《両方》》だ。』

 女が望んでいる鳥居の向こうには、月の薄明かりだけがぼんやりと輪郭を切り出す、それこそ月の光によってではなく月の光がもたらす影によって形を切り出されて、ぽっかりと口を開いた横穴が見えた。

『邪馬台国は初期大和政権の端緒によって斃され、その礎の一部となった。滅ぼされたと言うよりは取り込まれた形になり、その後は大和政権の神格化に一役買ったと私は考える。邪馬台国は大和政権に武力で斃されながらしかし、その核は内部に残り続けて宗教的に大和政権……というよりは大和神権を、内側から侵食したのだと、私は考えている。』
「それを示すものがここにあると? 岩戸伝説の主体が太陽神ではなく|巫女《シャーマン》と太陽神の|審神者《さにわ》だったという手掛かりがだとか、岩戸伝説と卑弥呼を紐付ける証拠が? カルト教団がそんな大層なものを後生大事にこんな山奥に取っておくかね」
『かもしれない、というだけだ。もっと言うのなら、仮に岩戸伝説の引き篭もり女王様が神話上の架空人物ではなく伝説化した実在の人物だったとするなら、それは神に関わる|巫女《シャーマン》と考えるのが自然になる。だがこの地域での岩戸伝説はそれとも違う、突如弟として|審神者《さにわ》が現れているのは不自然だ。不自然なケースとは切り捨てるべきではなく検証すべきイレギュラーではないか?』
「わけがわからないな、|天照大神《アマテラスオオミカミ》ってのは、何者なんだよ」
『|天照大神《アマテラスオオミカミ》は天岩戸の事件でその重要性を改めて示され、現在はそこに神の威信を得ていると言っていい。天岩戸事件を経る前は、どうだっただろうか。元は太陽神としての神格を持たなかった可能性、ひいてはそれ以前は何らかの《《別の神格だった》》可能性は、顧みられるべきだ。その方がしっくり来るだろう』
「こないぞ、というか、何を言っているのかわかんねえよ。|天照大神《アマテラスオオミカミ》は本当は昔本当は何らか別の神格で、大和政権に取り込まれたタイミングで正しく|天照大神《アマテラスオオミカミ》になった、ってか? そんなの……あっ」

 そこまで言ってから、女は頭上の声が言っていた言葉を改めて脳内でまとめ直し一つの過程に至ったようだ、それは女にとっては相当想像外のことだったらしい。

「お前、|天照大神《アマテラスオオミカミ》が卑弥呼の神格化された姿だって言いたいんじゃないだろうな。だからその二つが混同されたような異聞が気になるってことか? 卑弥呼|=《イコール》アマテラス説は確かに存在するが」
『少し違うな。私が見出したのは、|天照大神《アマテラスオオミカミ》と卑弥呼のペアではない。』
「それでもないってなら、じゃあなんだってんだよ、勿体ぶるない」
『私が見ているのは、アマテラス信仰成立の背後にある、宇佐八幡の成り立ちだ』
「それでここだってのか」
『宇佐神宮には3つの宮があり、ひとつは神功皇后を祀っている、これは大和政権の神聖権威付に祀られた新しいものだろう。残りのふたつはそれよりも旧いもので、そしてどうにも不可解な神だ。違和感がある』
「不可解? 応神天皇と宗像三神だろ、大和政権の持ち物だ。何が不可解なものかよ。ああ、違和感も何も、いちいち想像をこねくり回してたって、なんにもわかりゃしねえ。ここに証拠があるんなら、さっさとそいつを拝んで帰ろうぜ」

 |神妖《かみさま》出現のニュースを横目に見ながら、女はポケットから萎れたデスのソフトを取り出して一本を咥える。そうして口元から手を離して間もなく、マッチもライターもその姿が見えないというのにその側に寄り添うように、小さな火種が浮いて現れる。まるでキャバクラで横に付いた女の子が煙草に火をくれる、その火だけが突然現れたように。女は咥えた煙草の先端をその火種に晒す。そして細く長く、煙を吐き出す。

「そういえば、この辺は日本で最大の宗教の坩堝だ」
『確かにそうだな。宇佐が自領内に神宮寺を随分沢山建立したらしいからな。神仏習合の渦中と言えるな』
「ああ。日本の神話は、高千穂や橿原じゃなくここから始まる。神道の新旧が交代した場所であり、神と仏が共に歩み始めたのもここからだ。でもそれだけじゃねえぞ。」
『なに?』
「ここは、戦国時代には大友氏の版図だった」
『なるほど、キリシタンか』
「そうだ。ここは|原始神道《随神道》の発端の地で土着の山岳信仰が宇佐の奥の院に残る。道教の影響を受けた神皇神道と融合した随神道は宇佐神宮の三宮として姿を保ち、神皇神道は更に仏教と融合して六郷満山という特徴的な自社群を作った。その上で隠れキリシタンがキリスト教を仏教に溶け込ませて生き延ばした。それら全てが、今でも残っている。カオス過ぎる、こんな場所が他にあるか? ここはまさに日本の臍だ、霊的坩堝だよ。」
『違いない。この場所になら、他にどんな新しい神が現れても不思議じゃないな』
「そういうことだ。|神妖《かみさま》も、それにつられてやってきたってことかもな。唐島の言葉が本当なら、|神妖《かみさま》の卵までここにあるっていうじゃないか。新たな世界と、新たな神が、ここから始まろうというのだろうかな」
『それを阻止するのが、CIPHERや〝まほうつかい〟達だ。昨今は|神社本省《お宮》も機能を始めてる、自衛隊だってただではやられんだろう。それに、|決して薄れぬ伊勢の血《お前》も、いる』
「買い被り過ぎだ、アタシは貧乏私立探偵の立場が気に入ってるんだよ。表舞台に出るのはまっぴらだ」
『だが、状況はそうはさせてくれないだろう。現に今こうして、神器を手に取ろうとしているじゃないか』
「こんなことなら〝|藤原《中臣騙り》〟なんて返上すればよかったぜ」
『……そういうことなら、ほら、さっさと行くぞ』
「人使いが荒いな、このレキジョは。しかし、唐島のやつにまんまと踊らされた気がするぞ、これ、〝断章〟に全っ然関係ないんじゃないのか? ああ、チクショー、|神妖《かみさま》まで現れて、この仕事が終わっても給金なしとかは勘弁してくれよー?」

 女の足は鳥居を潜り、そのあんぐりと開かれた洞穴の口へ向かう。女は綿を包む様に柔らかく閉じられた掌で改めて煙草の先端を抱く、その内側で煙草の先端に自然に火が熾り今度こそ煙草には火が点いた。吸い込んだ息を、細く長く吐き出すと、月影に照らされた煙が紫色に|燻《く》ゆれて薄れ、消えていく。
 厄介なことに巻き込まれたのかもな、その言葉の代わりに煙を吐いて火を赤々と揺らしながら、女は洞窟の中へ、吸い込まれるように進んでいく。夜と洞窟の闇が、女の体を丸呑みにするように取り込んでいった。



◆ ◆ ◆



「レールDARTへの通電完了、現在充電中。炸薬弾頭も換装弾倉に待機中。」
「了解。充電状況を監視……目標の到達までまだある、適当に気ぃ抜いとけ。」

 植物由来のなんとかって新素材を用いた内装で強度確保と軽量化が両立できたらしく、居住性も抜群だ。内装が幾らか軽くなった分、換気扇も良くなったんだろうか。旧式の93式に比べて随分過ごしやすい。と、秦は車内でぼうっと考えていた。原田のきっちりした報告にも、どことなく身が入らない様子で応じている。
 車載タイプの|広帯域多目的通信機《こたつ》が質のいい音声通信と、C4I2による遅延の少ないデータ連携を実現してくれている。その通信機を伝って、聞き慣れた声が入ってきた。本営組の塩田だった。

―02式を10輛なんて破格の対応ですよ。〝すぐにおしゃかにするんじゃねえよ〟ってやつですね。
「善処はするが、無理だってことくらいわかってんだろ。俺たちは肉の壁だ、鉄の棺桶に入ってるだけの」

 02式は国内にもまだ20輛しか配備されていない。日本の密集市街でもある程度の運用が出来ることと、船舶だけでなく航空運搬が可能な戦略機動性を確保することを重視した小型な作りのために搭乗員はなんと秦と原田の2名だけ、でもちゃんと回るように自動化・半自動化されていて、小型化と少人数運用による戦力の低下はないと言われている。信頼性担保は、戦略装備移転法に則って第8次カシミール紛争で4輛が運用された実戦に従っている、日本国内で実弾装填運用されるのは今回が初めてらしい。カシミール地方での運用実績は当然山岳地帯での経験値となる、元々想定していた市街地戦ではないが、奇しくも今回の配備にはもってこいの経験になった。

―そう言わないでください、秦さん。相手は|神妖《かみさま》ですよ、万全なんて言葉は存在しません。
「せめて士気の上がる言葉くらいかけるもんじゃないのか、本営付きの高級指揮官さんよ」
―しかし、目標の破壊行動はまだ観測されていません。大した相手ではない可能性もなくはないです
「気休めでももう少し質ってものがあるだろう……」

 国内政治的には望ましい機会だが安全保障上観点では、少なくとも国際世論は日本の軍拡に対して厳しい視線が飛んでいる。少し前までは「日本も積極的平和保障の輪に参加するべきだ」と叫びまくっていたというのに、今は「過剰な軍拡はアジアの不安定化を招く」とかなんとか。「|神妖《かみさま》」の存在も、テロと思われているくらいで、今の日本には軍拡の理由に信用がない。

―それと、俺の後に怖いねーちゃんがいて
>何を仰ってるんですか、怖くないですよ?

 マイクに向かっていない、BGMの様な距離感から声が聞こえた、確かに女性の声だ。

「怖そうな声が聞こえたよ。CIPHERの|現場派遣員《ゲンバ》か?」
―そうです。俺達の監視だそうです
>監視じゃありません、一応協力しに来てるんですけどね、私は。心外ですね?

 〝CIPHER〟は「不明破壊活動主体」対策の専門部署で、超法規的な軍閥をなしているらしいが招待がわからない。それに、「|神妖《かみさま》専門部署」を名乗っておきながら今のところ何の成果も聞こえてきていなかった。兵器開発を行っているとも、人員確保を行っているとも言われているが、全く正体の知れない組織だ。|神社本省《お宮》が絡んでいるらしいとも聞くが、坊主共が軍事に顔を突っ込むなんて考え難い。だが「不明破壊活動主体」、通称「|神妖《かみさま》」という発端のわからない呼称となら、三流映画の設定並みのを想像することは出来る。

(妄想だな、仕事で考慮に含めるような内容ではない)

 秦はつくづくこの仕事のサラリーマン感を呪っていた。命を賭して任務にあたっていても、本当に重要な核心はわからない、一般市民よりは幾らか知っているが、だからといってそれを知っているから何になるかという点では知らないのも変わらない様な情報ばかりだ。
 それにしても、と秦はスピーカーに耳を傾ける。聞こえてくる声は、声質だけで言えば随分と若い女のものに聞こえる。だが若い女性が入り込めるような現場でないことは秦自身ががよく知っている。声だけが若く聞こえるタイプの人間だろうか。わざわざデータリンクを使用して顔を拝もうとも思わないが。

「そっちのピリついた空気を察する、ご愁傷さまだが、胃痛は送ってこなくていいぞ」
>|自衛隊《あなたがた》が失敗したら私の身だって綺麗なままじゃなくなるのです、ちゃんとやってください。失敗なんかした日には、あなたの上官が何故か突然あなたに不誠実な評価を下すようになるかも知れませんね?
―ぱ、パワハラだー!

 なんでこの状況で漫才なんかやっているんだろうか。
 だが、声を荒げるとか言葉遣いが鋭いとかではなく、真綿を鼻と口に詰め込んでくるタイプの女らしい、塩田には本当に同情する。俺は絶対に願い下げだ、と彼はげんなり顔でそれを聞いている。

「報告。レールDARTの充電、完了しました。対放緩給電を継続します。冷却能に問題なし」
「了解。聞いての通りだ、通信に障害はない。」
「……あいあいさ」

 02式には小型化以外にも従来の特車にはない装備が搭載されている、それが車載電磁砲塔だ。平たく言えば小型のレールガンで、小型とはいえ電力をアホほど食うので給電設備が輜重隊の装備に含まれているときにだけ有線給電で使用可能な、拠点防衛に眼目した特殊兵装だ。有線給電だから陣地転換を行えば再配線しない限りはもう使えないし、熱を持ちやすいので連続で2射すれば次弾以降の集弾はガバガバと、おまけに装填できる弾種が少ないと海外からは酷評されているが、代わりに弾道の直進性と弾速、侵徹力は折り紙付き、ひいては「トリガを引いた瞬間に狙った場所に当たる」「1shot1kill」を低練度の砲手でも容易に実現できるようになっていた。
 有線給電は課題だが、防御偏重が強いられる自衛隊ではその解消の優先度は低い、国土全体が防衛拠点であり、その拠点防衛兵器として機能することが優先される。戦略機動性が確保されていれば戦術転換能力は軽視されがちだ、なんせ日本の国土には転換すべき陣地を敷ける地形が少なく、それをしなければならない場面は既に絶望的なことが予見されるからだ。
 対し、02式の俯/仰角設定は一般的な国際平均よりもかなり大きく実現されている、これは日本の山がちな地形を意識してのことだが、搭載された電磁砲弾の直進性が高いことによって曲射が難しくなる短所を補う点でのシナジーも期待されていた。

「CIPHERのお姉さんよ、一つ質問させてくれ。」
>何か?

 無線越しに質問を投げる秦。現場に現れてはいるが|現場派遣員《ゲンバ》は恐らく編成の中に組み込まれていないだろうと期待はしていなかった。「現時点では」軍属とはなっていないだろう。質問をしたところで返ってくるかはわからなかったが、女の声は存外に快く返ってきた。
 今度はちゃんとマイクに向かって喋っているようだ。しかし、|広帯域多目的通信機《こたつ》の通信品質は随分といいようだ、無線通信と言うよりももっと直接耳元で囁かれているように聞こえる。まあヘッドセットは耳元にあるんだから当然といえば当然かもしれない。
 秦が疑問に思っていたのは、まるで宇佐市を護る様な配備のことだ。目標は京都なんかスルーして瀬戸内海海上をふらふらと低速浮遊で移動しながら、今は呉市の上空にいる、京都を守護する禁裏御守衛はどうやら撃破されたらしい。

「|神妖《かみさま》ってのは京都に向かうもんじゃないのかよ? なんで北九州なんかに」
>九州には、不明破壊活動主体の侵入を阻止しなければならないポイントがいくつか存在します
「九州に? 初耳だな、京都以外は聞いたことがない。

 てっきり禁裏御守衛よろしく配置されるものだと思っていた大方の部隊員の予想に反し、遠く九州、両子山の尾根から瀬戸内海を望む布陣を指示された。02式主力特車10輛の他、12式主力特車20輛、が稜線に沿って配置され、F-8攻撃機8機を艦載した、はうき型航空護衛艦1隻と、|囁《ささやき》とかいう新型潜水艦が土佐湾に配備されているらしい。SHIMARS5輛、しらさぎ無人攻撃機8機の発着施設、その他支援車輌を含む本営が、大分北部中核工業団地の敷地を一時的に接収した一帯に組織されていた。ちなみに島民の退去が完了している姫島にも41式火力支援装甲車15輛と、93式自走高射機関砲3輛、AH-64D2JP12機、それに運用する第一前站が配置されている。国の威信をかけたレベルの防衛線でこれだけ手厚い歓迎を受ける、|不明破壊活動主体《神妖》とはつまりそうした存在なのだ。

「そもそも|神妖《かみさま》が一体何を目的にしているのかさっぱりなんだ、あんたらは知っているのか?」
>目的はわかりませんが、目指している場所はわかります、北九州を目指す以上は……。
「なんだよ、まさか国東半島に財宝でも埋まってるのか。それとも|神妖《かみさま》も黒川温泉でひとっ風呂浴びたいのかよ」
>そういった認識で構いません

 質問に答えてくれそうな雰囲気を出していたので秦はあわよくば答えてくれるかもと期待したが、結局核心についてはにべもなくあしらわれてしまった。|広帯域多目的通信機《こたつ》から聞こえる声はアニメ声優みたいに可愛いのに、態度は随分と可愛げがないなと、妙に耳元に残る声に、秦は落胆を隠せないでいた。

「ところで塩田、姫島の方はどうなってるんだ。あれは囮の武装島だろう、なんで有人部隊が配置されているんだ。無人防衛設備を配置する話じゃなかったのか」
―囮じゃありませんよ、れっきとした実戦部隊です。
「だとしたらなんであんな中途半端な武装で配置してるんだよ、装甲車と高射砲って、なんのつもりだ。それで|神妖《かみさま》に勝てると思っているのか」
―まさか、それで|神妖《かみさま》に勝てるだなんて
「だったらただの戦力の小出しだろう、何やってんだ」
―しりませんよう、自分は作戦立案に異を唱えるような立場じゃないですから。本営に言ってくださいよお

 秦は、|神妖《かみさま》の予想進路上に存在する姫島に配置された独立部隊が気に掛かって仕方がなかった。|神妖《かみさま》はこうして主力戦車がガン首並べて待ち構える様な相手だと言うのに、それよりも手前で火力支援用の装甲車輌や高射砲という武装を、不確定な陣地確保状態で展開している。これは敵の主力(|神妖《かみさま》は単騎だから主力しか存在しないが)の進行に対して、みすみす食われろと言っているようなものだ。

「あそこの部隊をこっちに並べたほうが遥かにマシだ。目標が中高度を浮遊している以上は高射砲は後方で支援火力を展開したほうがいいだろう」
―秦さん、今はただの戦車乗りなんですから、あんまり作戦に口を出さないでくださいよ。俺だってそう思ってるんですが……
「だったら上に代われ、俺が―」

 秦は作戦に対して口を挟める立場ではない、それは塩田の言うとおりであったし、その場にいる原田も承知していることだ。だが、同時に秦の言っていることが尤もだということも、全員が感じていた。
 今にもマイクを使って通信機越しに塩田の胸ぐらを掴み挙げそうな剣幕の秦に向かって、声が届いた。まるで、マイクを使っていないような、クリアに通った説得力のある不思議な声だ。

>私が聞きましょうか
「|事務屋《白襟》のねーちゃんが、どれくらい聞いてくれるのか疑問だな」
>まあ、そうですね。でも、愚痴を聞くくらいなら、今の私でも出来ますわ
「だったら、今のを全部聞いていたろう。そういうことだ、相手を見くびり戦力を小出しにして、自ら各個撃破されに行くなんて、後の世のお笑いぐさに鳴りたくなきゃ、さっさとあの部隊を下げてここに合流させろって話だ」
>ごもっともな意見、ですが、変更は認められません。
「……愚痴を聞いてたんじゃないのか、意見として聞かれてたなんて思ってなかったぜ。CIPHERのねーちゃんよ、あんた、|自衛隊《俺達》が失敗して指揮を放り出すと思ってそこで待ってるんじゃないだろうな」
>まさか。自衛隊は日本を護る力を与えられた唯一の存在です。そう簡単に作戦破棄をするだなんて思っていません、ですが、アドバイスは我々にでも出来るところがあると、思っています。
「いけしゃあしゃあとよく言うぜ」

 秦は、懐からショートホープを取り出した。作戦中の喫煙は禁じられているが、02式は換気性能がよく、今までのMBTの中で一番喫煙に向いていると皮肉られていた。荷物に煙草が含まれているのも禁止されていることだが、ホープの小ささは適当な荷物の隙間に押し込むのには都合がいい。ガスやオイルを使わないフリントから無骨な火花を吸い込むだけのライターを擦り、着火する。

>秦さん、おタバコをお吸いで?
「吸ってないよ」

 短い丈だが早く吸い終わるということはない、ゆっくりと加熱させ過ぎない様に、だが少し太い幹に負けないよう力強く吸い込み、少し溜めてから半開きにした口と鼻から半々ずつ煙を吐き出す。これが旨く味わえる吸い方だがこれをすると自然とロングタイプの銘柄を雑に吸うのと同じくらいの時間を必要とする。喉と鼻に絡みつくような少し青臭さのある味わいと苦味、そしてその奥に隠れた丸い甘みが複雑な味わいを織りなし、心地よい。吸い方に落ち度はない、だが、少しばかり好みの状態ではなかった。

「やっぱ冷やしとかないとダメだな、戦車の中は暑すぎる」
>やっぱり吸ってますね、車内は禁煙のはずです! 秦さん!?
「こいつ委員長タイプか、めんどくさいなー」
「委員長っていうか、隣にいるナリを見るに、子供ですよ」
>子供って言わないでください! これだから自衛隊の現場になんか来たくなかったんです!

 きーだの、がらがらだの、きゃあきゃあだの、ちんちんだの、いろんな騒音が聞こえてくる、前站は大変らしい。
 やれやれ。秦は、気に入りの煙草の煙を、回り続ける換気扇に向けて吐き出した。
【20190126】不足していたタグを追加

【20190323】⓪投稿に際し、誤字脱字以外の「内容の」遡及修正をしました。
「不明破壊活動主体は呉上空にあり、それまで破壊活動を行っていない」
 ↓
「不明破壊活動主体は瀬戸内海上を通過し、途中で自衛隊の部隊を打撃している」

遡及修正は極力避けようと思っていましたが、今回やむを得ない理由で修正させていただきました。
申し訳ありません。

【20190417】
潜水艇→潜水艦 (1箇所)の修正しました。
作中通して潜水艦としていること、当該1箇所のみが潜水「艇」表記になっていたこと、潜水艇/潜水艦では明確に異なることから。
みこう悠長
コメント




1.性欲を持て余す程度の能力削除
情報が出てくるごとに謎がずぶずぶと深くなっていく感覚……真相はどこまでの深さにあるものなのか。これから起こる事件はどこまで深みにはまっていくのか。
背景が壮大になる反面、日少年は個人規模の犯罪に手いっぱいなのが対照的というか無自覚的というか。ここから先も転げ落ちていく一方なのかどうか。諸々含めて先が気になります。