真・東方夜伽話

はしひめさま、はしひめさま

2018/10/21 09:10:21
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はしひめさま、はしひめさま

空賀青

※誰てめえ
※ネチョが遥か彼方
※実用性などない
※原作との矛盾・オリ設定・超解釈・オリキャラ?要素等々てんこ盛り
※過去捏造
※マジで誰てめ…誰だ貴様は!?
以上、ご注意ください

 落ちる、落ちる、落ちる。
 裾野の風穴から忍びこんだ縦穴は、どこまでも暗く、深く、妖怪の目でも果てが見えない。入り口付近は、まだ、月光を受けてぼんやり明るかったが、落下し続けるにつれわずかな光も見えなくなった。
 耳元でびょうびょうと轟音が唸る。人ならば十代中頃を超えるかどうか程度の少女の身を、吹き返す風が容赦なく打ち続ける。
 長い旅路に晒された肢体は疲れきっていて、墜落じみた降下の風圧から妹を守る盾になるにはあまりに心許ない。残された妖力もさほど多くない。周囲の探知を行っている第三の眼は、酷使のあまり縁から血を滲ませていた。
 だが、それでも。

 第三の眼がつと動いた。
 右斜め前、しかし見送られる。ただの歩哨兵だろうか。否、後方から、
 ──頭を。こいし!
 とっさに体を反転させ、遠心力を利用して背負っていた妹の体をかばうように抱えこむ。
 直後、紙一重のところを鬼火を纏った腕が切り裂いていった。目のほとんどを覆っていた紅藤色の髪が宙に舞う。少し焦げ臭い。
 久方ぶりに開けた視界に、木の葉を思わせる鮮やかな緑髪の少女が飛びこんできた。避けられるとは思っていなかったらしい。驚愕、瞬時に追撃。良い判断だ。
 浮力に回していた妖力を手のひらに集積させる。生じた妖弾を、構えようとしていた少女に向けて押し出してやる。直撃はしなかったが牽制にはなっただろう。落下速度は増した。このまま逃げ切れる。
「っ、お姉ちゃん、蜘蛛の巣!」
 ふわり、と自分のものではない妖力で体が引き上げられる。下に落ちようとする力と、上に昇ろうとする力とに挟まれ、圧迫されて体が軋んだが無視をした。
 首をよじって目だけで進行方向を確認する。なるほど、穴をふさぐほどの巨大な蜘蛛の巣が張られていた。時間はない。
 顔を歪め妖弾を絞り出そうとするとするこいしを制止し、第三の眼で巣の主を見つける。金色の髪に赤い目の少女。土蜘蛛か、好都合だ。
「刀の名は」
 縦穴内に響くよう声を投げた。土蜘蛛が訝しげになる。
 本人がそれと意識せぬうちに心の隅に浮かび上がった刀を見つけ、そうそう、と右手を開く。
「想起『膝丸改め蜘蛛切』」
 手のひらに現れた妖怪退治の刀に土蜘蛛は目に見えて動揺した。十分だ。構っている余裕はない。
 左手でこいしを抱きすくめたまま右手の刀を振り上げる。巣にかかるかどうかという頃合いを見計らい、身を反転させ両断する。はらりと舞った糸の切れ間を猛烈な勢いでくぐり抜けた。
 刀を消し、ぐらりと歪んだ視界を閉じて第三の眼に意識を集中させる。追撃はない。このまま逃げ切れるか。
 こいしを背負い直して「ありがとう」と声をかける。
「私、足手まといだね。ごめん、お姉ちゃん」
 疲れきった、それでも奇妙にあっけらかんとした物言いに首をふる。「そんなことを言わないで」言葉でも否定する。
「あなたが気づいてくれなかったら、蜘蛛の巣にかかって終わっていたわ。無理をさせてしまってごめんなさい。もう平気だから休んでいて」
「不安だなぁ」
 声は笑っているが、妹の身体がとうに限界を超えているのは嫌になるほど理解していた。
 第三の眼はこれまでの旅路で酷く冒され、ほとんど閉じてしまっている。くたりと預けられた四肢に力は残っていない。こちらが抱えていなければ滑り落ちていってしまうだろう。
 早く、落ち着ける場所でゆっくり休ませなければ。承知しているが、焦って自滅するわけにもいかなかった。唇を噛みしめ、慎重に浮力を抜く。風圧が増した。これ以上の増速は無理だ。
「さっきのひとたち、さぁ」
「こいし、」
「話くらいさせてよ。こんなに真っ暗で、深くてさ。私の世界とそっくりだよ。お姉ちゃん慣れてないでしょ。疲れたらちゃんと休むから」
「…………。そうね、土蜘蛛に、おそらく釣瓶落としかしら」
「有名どころだぁ。はじめて見た」
「ええ」
 相づちを打つ。こいしは黙りこんだ。
 眠ったのかと横目で確認したら、緑青色の瞳は開かれたままだった。のっぺりまとわりついてくる暗闇を見据えたまま、微笑を浮かべる。
「攻撃されたね」
「私たちは、侵入者だもの」
「地底は嫌われ者の終着地点、じゃなかったっけ」
「そう聞いていたけれど、来る者すべてを諸手を挙げて歓迎するわけではないのでしょう。危機管理はどんな場所でも必要よ。まして、地上から地底へ降りるのは禁じられているから」
 淡々と言うと、こいしは「うん」と呟いた。
「わかってる、わかってるんだけど」笑みを浮かべたままの唇が微かに震える。
「わたしたち、地底でも嫌われるの?」
「……それが覚妖怪よ」
 自身の言葉が妹の心を切り裂いた感触があった。
 すまないと思う。申し訳ないと思う。覚としては致命的と言えるほど、感受性が豊かで柔らかな心を持っているこいしに、向ける言葉では決してない。
 しかし、嘘を言っても何にもならないのだ。
 覚妖怪は嫌われ者の中の嫌われ者。ひたすらに避けるか、退治するしか打つ手はない。読心を買われて一時の安寧を得たとしても、用が済めば、生かしておけぬと手のひらを返されるのがお約束だ。
 覚を嫌わない者などいるはずがない。まして。
 その先を思うのはやめにして「だからこそ」とこいしに笑ってみせる。
「確実に嫌われる能力だからこそ、やりようはいくつもあるわ。どんなひとが相手だろうと、相互不干渉くらいは引き出してみせる」
「さっすがお姉ちゃん、自信まんまーん」
 くすくすとおどける声はいくらか快活な響きを取り戻していた。すこしだけホッとする。
 ふぅ、と息をついたこいしは肩に顎を載せてきた。ふれ合った頬は、一縷の安堵など吹き飛ばしてしまうほど冷たく、強張っている。
「大丈夫だから、休みなさい」半ば懇願の意をこめて言うと、こいしは力なく喉を震わせる。
「大丈夫とは、思えないけど」細い体が背中に預けられる。その軽さに胸が千切れそうなほど痛む。
「私たちのこと、任せるよ」
 その言葉を最後にこいしは目を閉じた。ひそやかな寝息は聞こえるが、ごうごうと喧しい風音にかき消されてしまいそうだ。
 体から眼にのびている導線がドクリと脈打ち、赤い眼から血が垂れた。限界を超えているのは妹だけではない。痛みは無視して三つの瞳を爛々と輝かせ暗闇を見据える。

 どのくらい落ち続けているだろうか。風音の他は何も聞こえず、暗闇の他は何も見えない。第三の眼も自分たち以外の存在を見つけない。
 墨をぶちまけたような暗闇に精神も塗りつぶされていく感覚がする。こいしの言は正しかった。自分はこの世界に慣れていない。灯りを点ければまた違うだろうが、余分なものに回す妖力はない。
 ふっと息をつき緩やかに首をふる。
 限界まで張り続けていた緊張の糸を和らげ、改めて張り直すための小休憩。そのつもりだった。
 油断だった。
(どうして、こんなことに)
 心の内側で火打ち石が叩かれる。自分のものかも分からない言葉が胸に落ちる。その一言が、飛び出た火花を受けて火種になり、情炎が燃え上がる。
「っ──!?」
 とっさに妖力を全開にして宙にとどまる。体が軋んだが構っていられなかった。唐突にわき起こった嫉妬の炎が、己の意思や理性を焼き尽くさんと燃え盛る。
 どうしてこんなことになったかなんて考えるまでもない。人間のせいだ。妖怪のせいだ。自分たちを蔑み、恐れ、考えなしに制御できない力を振るった大馬鹿者たちのせいだ。
 こちらは攻撃などしていないのに。ただ、静かに暮らしていただけなのに。
 欲に駆られ、暴力に酔い、手当たり次第に物を壊す。動物を撃つ。木々を焼く。山を殺す。正義は我らに有りと高らかな雄叫びを上げ、耳に快く気持ちを高揚させる言葉の下、他者を害す。そこに在るだけのものを叩き潰す。
 妬ましい。無責任な馬鹿どもが妬ましい。
 妬ましい。夥しい死者の上にあぐらをかき、安穏と暮らしている者が妬ましい。
 妬ましい。生き地獄を味わう前に彼岸に渡った者が妬ましい。
 妬ましい。否、憎い。
 己をここまで追い詰め、大切な妹の心を、丁寧に、徹底的に壊した"無辜の民"が、憎くてたまらない。叶うのならこの手で、今すぐにでも道を引き返して──
「ぅ、ぐ、ッ──何者だ!!」
 振り払うように叫ぶ。縦穴に絶叫が轟いた。
 わんわんと岩壁を震わせた残響が聞こえなくなって、静寂が戻ってくる。
 肩を怒らせ荒い息をつきながら、心の臓をかきむしりたくなるような妬心を抱えながら、それでもこいしを背負いなおす。
 冷たい手足。細い体。怒りに身を任せている場合ではない。
「何者だ」
 もう一度暗闇に声を投げかける。第三の眼で周囲を睨む。
 言葉までは聞き取れないが、見つけた。
「前方、右。姿を現せ。覚から身を隠せると思うな。それとも、強引に引きずり出されるのが好みか」
 精一杯の虚勢だった。万全の時ならともかく、今の自分に敵対する相手を叩き伏せられる余力は残っていない。
 それでも虚空を睨みつけていると、暗闇から溶け出すように相手が身を現した。
 山吹色の髪を風に靡かせ、均整の取れた肢体を異国風の装いに包んでいる。目鼻立ちのはっきりした顔は冷たい印象を受けるほど整っており、浅緑の瞳は底光りする光を湛えていた。美しい少女だ。もちろん、ただの人間ではあるまい。
 目の前の妖怪が獰猛な笑みを浮かべる。胸に巣くう嫉妬心がいっそう強くがなり立ててきた。奥歯を噛みしめる。
「礼儀知らずに名乗る名はない。地底への道は封鎖されているが、知らなかったか、覚妖怪」
 輝く光が降り注ぐ地上へ戻るがいい、と嘲るように言い、人差し指を上に向ける。他者を妬み、世界を憎む己の声が大きすぎて、目の前の相手の声が聞こえない。何を見ているのか分からない。
「戻る道など、ない」
 妬ましい、妬ましい、と騒ぎ立てる心を無視し、赤い眼をいっぱいに見開いた。導線が震え、鮮血が噴き出す。
「帰る、場所なんて、ない!」
 妖怪が笑顔を消した。目一杯見開いた眼に、束の間、心が流れこんでくる。
 地面に泣き伏せる女性、平らかな水面の川、頑丈な造りの橋、ぱるすぃと笑う優しい声。
 すぐに嫉妬に狂う自らの心が塗りつぶした。目の前の相手から逃れようとする体を無理矢理動かし、第三の眼を胸の前に掲げた。
 橋に川。泣き伏す女性。地上と地底をつなぐ縦穴。
 大博打もいいところだが、賭ける価値はある。
「橋姫、さま」
 妖怪の動きが止まる。正解か。
 暴れ立てる心を抑えこみ、まっすぐに相手を見つめる。
「橋姫様、ご無礼をお許しください。古明地のさとりと申します。こちらは、妹のこいし」
 妬み言がいっそう大きくなった。
 数回息を整えてから震える声を絞り出す。
「住み処を焼かれ、地上を追われました。地底への侵入が禁じられているのは、存じています。他に行き場がありません。どうか、ご慈悲を」
「慈悲とは、なに?」
 間髪おかずに返される。橋姫は剣呑なまなざしをこちらに向けた。
「地底は今、鬼が支配している。庇護が得られるよう私に取り持てと?」
「庇護などいりません」
「では、なにがほしいの」
 どうやらこの嫉妬は目の前の橋姫に煽られているらしい。全ての声を押し流してしまいそうなほど喧しい妬み声に、さとりは息を詰まらせる。
「身の安全と、静かな暮らし」
 必死に紡いだ願いはあまりにも拙く幼かった。
 こんなもの交渉ではない。ただの力任せな尋問だ。緑目を輝かせる彼女に為す術なく跪いていると分かっていても、それ以上言葉を続けるのは不可能だった。今や全身を冒す猜忌の念に呑みこまれないよう、こいしを背負い、橋姫を見つめるのが精一杯だ。
 永劫にも近い時が流れたように感じられた。
 ふと、橋姫が表情を和らげる。同時に、ぎゃあぎゃあ騒いでいた妬み言がふつりと消え去った。まるで、折れる寸前まで引き絞っていた弓を緩め、弦を外し、いちばん負荷のかからない状態に戻してやったかのようだ。
 住み処を焼き出されて以来、こんなに凪いだ心持ちになるのは初めてだ。自分の変化について行けなくて戸惑うさとりに、橋姫はまなじりを緩めた。
「地底を支配している鬼のまとめ役は、いいヤツよ。あなたたちを受け入れるか知らないけれど、話も聞かずに殴りかかってきはしないでしょう。案内はしてあげる。あとはがんばりなさい」
「あ、え?」
「なにを惚けているの」
 呆れたように言われた。
 慌てて麻痺したままの思考を働かせる。これまでのやりとりを思い出す。が、こんなに急に態度を変えられることをしたおぼえがない。
 もしや、
「罠じゃないわよ」
 先手を打たれた。
「あなた覚妖怪なんでしょう? 心を読めば、罠かどうかくらいわかるでしょうに」
 まったく仰る通りだった。
 まごつきながら第三の眼から伝わる情報に意識を向け、さとりは困惑する。
 鬼へ紹介する手順、地上の妖怪との話し合い、面倒事、その前に少しでも休ませてやらなければ、食糧の備蓄。
「ちょっとまってください」
「あ、全部筒抜けなのか。さすがに気分悪いわね」
 口と心、ふたつの声はきれいに重なった。
 なんと言えば良いのか分からなくて「すみません、心が読めて」と眉を下げる。橋姫はフンと鼻を鳴らした。
「読んだのならわかるでしょう。ひとまず家に来なさい」
「いえ、場所を教えてもらえたら自分で。その、食事って、もうすこしでなくなりそうですが」
「うるさい。つべこべ言わない」
『今にも死にそうな顔してる妹しょって、自分もふらふらで、遠慮なんかしてる場合なの』と心の声で叱られた。言葉に詰まる。
「……ありがとうございます、橋姫様。このご恩は必ず」
「水橋パルスィ。様なんていらない、気色悪い。はやく来なさい」
 言い終わるやいなや、きびすを返して降りていく背中を急いで追う。疲労は強いが、精神的に落ちついているからか、余裕を持ってついて行けた。こちらをちらりと見て、パルスィと名乗った橋姫は速度を上げる。弾みで胸中の独り言が聞こえてきた。
『まともにしゃべれない程度には煽ったんだけど。妹がいるから? それにしたって、普通なら気が触れるのが先でしょうに。大した精神力だこと』
 間違いなくさとりを指しているであろう言葉は予想を外れるもので、ついグラリと揺れてしまった。目の端に入ったのだろう、パルスィは顔をしかめる。
『そうか、これも筒抜けか。まったく厄介な能力ね、妬ましい』
 同じ轍は踏まぬ。なんとか耐えたが、さとりの内心は先ほど以上の衝撃に揺らされていた。
 厄介な能力、いつものことだ。気分悪い、いつものことだ。けれど、読心持ちと分かったのに、読まれていると承知しているのに「妬ましい」とは。
 どんな顔をすればいいのか分からない。文字通り生まれて初めて向けられる言葉だった。


 地底世界の話を始めて聞いた時、さとりが想像したのは、狭く湿気た空間にひしめき合う妖怪たちの姿だった。地底に封じられた妖怪や、地上から去って行った妖怪が暮らしているとの情報もあったからだろう。住みやすい場所とは思わなかった。
 だが、こうして実際に目に映すと、その想像は誤りだったと痛感する。
 縦穴を抜けた先には広大な空間が広がっていた。
 楕円形の大地には大小いくつもの川が流れている。岩壁には無数の松明が設置されており、赤々とした鬼火であたりを照らしていた。
 なにより特筆すべきは天井の高さだ。低いところでも十五尺(約五メートル)、全体の平均を見ると百五十尺(約五〇メートル)、高いところは三百尺(約百メートル)以上の高さがある。
 松明の光と天井の高さ、果てが見えない洞窟の奥から縦穴へと吹き抜けていく風が相まって、清々しく開放感のある場所だった。
 そんな地底の、目に見える範囲の土地のほぼ大半を、旧都と呼ばれる元地獄跡に作られた都が占めている。土木の土蜘蛛と怪力の鬼が協力し、記憶にある都を再現したそうだ。方格設計と呼ばれる碁盤状の街には、地上と彼岸から定期的に輸送される物資が溢れ、毎日が祭りの如き様相だとか。
 気候はどちらかというと寒冷で、季節によっては雪も降る。しかし、旧都のちょうど中心に位置する灼熱地獄の跡地だけは常に温暖だ。そのあたりからは間欠泉も湧いており、誰でも自由に使えるらしい。
 こうした諸々を、さとりは、パルスィの自宅で世話を焼かれつつ説明された。もとい、問いかけて答えを読んだ。
 縦穴にほど近い古びた家屋にずっとひとりで住んでいるという彼女は、手際が良かった。家の脇を流れる川で汲んだ水を湧かして、ふたり分の着替えをよこし、さとりたちが身を整えているあいだに食事を作る。
 湯に浸した布で身を清め、傷に生薬を当て、清潔な衣服に身を包むと、久方ぶりに人心地がついた気がした。
「粗末な食事で悪いけど」
「とんでもない。ごちそうになります」
 ヒエやアワなどの雑穀、それから、川で釣れるという魚の干物を砕いて煮詰めた雑炊に口をつける。薄味の汁は胃の腑に優しく、ほろりとくずれる魚は滋味に溢れていた。なによりも、舌が火傷しそうなほどの熱さが嬉しくて、目が潤む。
 湯気のせいにして目尻を拭ったさとりに、パルスィは素知らぬ顔で箸を動かす。
「妹の分は残してあるから、ですか。ほんとうにありがとうございます、パルスィさん」
「さん、とかいらない。あんまりひっどい格好してるから憐れんだだけよ。それと、感謝してるならわざわざ口に出さないでくれる?」
「失礼、性分でして。ひとの心にこうして触れるのも、久しぶりなものですから」
 パルスィの視線が動いた。
 それを追い、さとりの傍らで寝入ったままのこいしをそっとなでる。弱々しい寝息は変わらないが、傷を手当てし、白湯を飲ませたからだろうか。頬に幾分か赤みが戻っている。
「ええ、妹も覚です。ですが、ここへ逃げてくるまでに酷く傷ついてしまって、能力のほとんどを封じてしまいました。私にも、この子がなにを思っているのかわかりません。すこし、長い話になりますが」
「勝手に話しなさいよ、もう」
 やれやれと肩をすくめつつ『聞いているから』と促され、さとりは小さく笑う。
「私たちは、他の古明地の覚とともに、山の奥で暮らしていました。元は甲斐国の出だったようですが、逃げたと……そう、そういうことです。人間をからかう以外は、他との接触を断っていました」
 だが、時は乱世。各国の将が武勇を誇り、天下の覇者となろうと争っている。
 弱きは強きに食いつぶされ、民は戦に駆り出される。戦は混乱を生み、混乱は不安を生み、不安はやがて恐慌をもたらす。血を吸った大地は恵みを削り、人は飢えた。
「住んでいた山を、焼かれまして。……何故でしょうね。高名な武士が潜んでいたとか、近場でお家争いがあったとか、いろいろな噂が流れていましたが、今となっては。覚は不測の事態に弱いのですよ。私と妹は、狩りに出ていたので命を拾いましたけれど、他は。……ええ、確認しました。集落があった場所にはなにひとつ。……お気になさらず、過ぎた話です」
 それから長い旅が始まった。戦を避け、安住の地を求めて、東へ。
 仮にも妖怪だ。食事にありつけなくてもどうにかなる。覚妖怪は、他者の心を読むことで得られる恐れを糧とするから、危険を冒してまで相手を襲う必要もない。
 だが、なによりも、否応なしに流れこんでくる心が堪えた。
 まだ見ぬ戦への不安や恐怖ならまだいい。悲惨なのは戦があった後だった。
 死にたくないと願いながら死んでいく者。何もかも失くして茫然自失に陥る者。親を求めながら飢えていく幼子。訳も分からないまま騒乱から逃げ惑う動物たち。
 さとりでさえ見聞きが辛かった。眼を覆いたくなる光景が、声が、いくつもあった。
 戦乱で荒廃したのは人心だけではない。極稀に人外と遭遇できても、覚と知られた途端牙を剥けられる。そういうものだと理解していたが、弱った身体を打つ余裕のない嫌悪は心にひびを入れた。
 導かれるように幻想が息づく隠れ里に辿り着いてからも、向けられる感情は変わらなかった。
「もともと、すなおで大人しい、優しい子なのですよ。眼を閉じたいと願うのもしかたのないこと。残念ですけれどね。とはいえ、針山に座っていたら傷は膿むばかり。どうしたものかと決めあぐねていたときに、地底の話を聞いて、あとはご存じの通りです」
 鬼に報告すべきことがあればどうぞ。そう結んで雑煮を飲み干す。
 パルスィは『鬼に仕えているわけじゃない』と首をふり、こちらの食器を奪うと代わりに薄手の毛布を放ってきた。
「会ったばかりのヤツといっしょの部屋で寝るほど能天気じゃないの。使いなさい」
「いえ、そこまで甘えるわけには」
「べつにどこでだって休めるのよ。あなたにうろちょろされるほうが落ち着かないわ」
 そう言われては反論できない。おろおろと言葉を探すさとりを一瞥し『おやすみ』と言い置いてパルスィは部屋を出ていく。
 立って座ってを何度かくりかえす。一度は部屋から出ようかとも考えたが、釘を刺すように言われた言葉が脳裏を巡った。
 諦めてこいしのとなりに腰を下ろし、柔らかい銀緑の髪をそっとなでる。
 そうしていると、自分でも戸惑うほどの強烈な眠気がこみ上げてきた。小さく嘆息し、さとりは膝を抱えて目を閉じる。

 低く抑えられた話し声で目がさめた。
 しばらくぶりにゆっくり休めたからだろうか。体が軽い。第三の眼も、絶好調とまではいかないが、ここ十数年の中ではいちばん調子が良い。
 音を立てないよう立ち上がり、部屋の戸に身を寄せ赤い眼のまぶたを持ち上げる。玄関口でパルスィと一角の鬼が言葉を交わしていた。
 どうやら、さとりたちが地底に侵入したことが他の住人に伝わり、動揺を生んでいるらしい。最初にやり合った土蜘蛛と釣瓶落としだろうか。やはり、やり口が少々強引すぎたか。
 互いへの口ぶりから察するに、パルスィが言っていた「良いヤツ」というのはこの鬼だろう。戸を隔てていてもさとりとの力量差は圧倒的だった。ふと見下ろすと手のひらは小さく震えている。やれやれと苦笑した。
 足早にこいしの元へ戻り、様子を窺う。寝息は大分穏やかになったが未だ眠りに落ちたままだ。それでいい。休める時に休まなければ。
 借り物の着物を脱いでぼろ切れを継ぎ合わせた衣服を身に纏う。書き置きをと思ったが、どこに何がしまってあるのかさっぱり分からない。諦めて、固く閉じられている紫色の眼をなでた。
「いってくるわ」
 唇だけで呟いて立ち上がる。
 戸を開けて歩み寄る。すぐに視線を向けられた。
 パルスィは、表情こそ動いていないが焦りと不安、相当量の心配。改めて思うが妙な橋姫である。ひとが良すぎるというか、人間くさいというか。だからこそ信じようと思えるが。
 鬼のほうは「おや、おまえさんが侵入者かい。こんなほそっこいのにヤマメとキスメの関所を押し通るとは、大したもんだ」読む前に豪快に笑われた。
 にこりと微笑を返す。
「はじめまして、星熊勇儀さん。覚妖怪が一、古明地のさとりと申します。妹は伏せっておりますので挨拶に伺うのが遅れますが、ご勘弁くださいませ」
 礼はせず、まっすぐ見据えたまま言い放つと、勇儀の心が動いた。表情も動いた。「ああ、こりゃ」と頬をかく。
「名乗りもせずに失礼した。覚妖怪ってことは」
「ご推察の通りです。面倒なことになった、と。そうでしょうね、自分がどう見られるかくらいはわかっています。おや、そうではない? お仲間が? ふむ、なるほど。たしかに、そのような使いかたもできますが」
 珍しいことに勇儀は覚への嫌悪が強くなかった。どちらかというと、仲間の鬼たちや妖怪の身を案じたようだ。
 地底に住んでいるということは、大なり小なり心に傷を抱えていることを示唆している。覚妖怪に暴き立てられ、直面させられるには厳しい傷だろう。まして、妖怪は体よりも精神に重きを置くのだから、傷の程度によっては存在が危うくなる可能性も高い。
 という諸々を、読んだ端から言葉にしていく。勇儀の頬が引きつり、パルスィがため息をついた。
「なあ、さとりとやら。もうすこし、話をしようって態度を見せてくれないかね」
「覚妖怪なので。ええ、そうですね。この性格が嫌われる要因との自覚はあります。ああ、もちろん、敵意はありません。勇名轟く鬼の方々と対峙する気など、すこしも。近くに誰も住んでいない場所を教えていただけたら、あとは勝手に……そうもいかない? 萃香? もうひとり頭領がいるのですね。はて、」
「こら」
「ぅ」
 頭を引っぱたかれた。ご丁寧に、避けられないよう後ろから腕で首を絞められてから。
 妖怪といっても、覚は精々人間より頑丈で力が強い程度だ。鬼の系譜でもある橋姫に身体能力で敵うわけがない。
「痛いですよ、パルスィ」
「ひとん家で喧嘩をふっかけるな。勇儀は悪いヤツじゃないって言ったでしょう。こっちの顔を潰さないでくれる」
「ですから私は、鬼の庇護などこれっぽっちもいらないと、あっ、ごめんなさいすみません、わかりました、わかりました私が悪かったですから、心をいじるのやめてください。それをされるとなにも見聞きできなくなるんです、けっこう恐いんです、ねえ、パルスィ!?」
 首を絞められたまま平身低頭謝罪をした甲斐あって、さほど悪化しないうちに解放される。ついつい安堵の息をついた。
「相変わらずえげつない能力だ」とパルスィにカラリとした笑顔を見せ、勇儀はさとりを覗きこむ。
「面倒な能力、おまけに性格にも難あり。だが、我々の庇護がいらないと言いきる度胸は気に入った。パルスィに恩があるのはこちらも同じだ。どうだ、覚妖怪。このへんで手打ちにしないかい?」
「…………失礼をいたしました」
「よし」
 パン、と両手の平を打ち合わせ、勇儀は開けっぴろげに笑う。
『ついておいで。その気はあるんだろう』との呼びかけに頷いて、やれやれと首をふるパルスィをふり向いた。
「めんどうついでに、おねがいをしてもいいですか」
『妹?』
「ええ。必ず迎えにくるから待っていてと伝えてください。暴れたりはしないはずなので」
「わかったわ」
 ぺこりと頭を下げてきびすを返す。こいしのことは気になったが鬼を片手間で相手取ろうとするのは愚かだ。後ろ髪引かれる思いを断ち切って、勇儀の後に続き地面を蹴った。


「それで、家と旧都での安全をもらう代わりに、怨霊の管理と灼熱地獄跡の管理、ついでに外部との使者とお役人も兼務することになったの? お姉ちゃんさぁ」
 呆れたような言葉に「できないことはないかと思って」と首をすくめる。パルスィの背中に乗っかりながら、こいしは「まったくもう」とため息をついた。

 勇儀に連れられて鬼の住み処に赴くと、二本の角を持った小柄な鬼に出迎えられた。
 さとりよりも幼い容姿をしているが、伝わってくる妖力は勇儀に負けず劣らず。おまけに、勇儀よりもしたたかで計算高いと来た。内心、頭を抱えた。
「まずは三人で話したくってね」
 萃香と名乗った鬼が提示してきた条件は、けれど、一方的というほどのものでもなかった。
 鬼が現在抱えている問題は、大きく分けてふたつ。不定期に暴れ回り地上へ侵攻しようとする怨霊の管理と、彼岸や地上といった、地底以外の場所との外交だ。
 前者は総力を挙げての力尽くで、後者は勇儀や萃香が地上にいた頃の伝手でどうにか回しているが、いつ崩壊してもおかしくない現状である。特に後者は、外交の切り札である情報力も、強力な手札となる技術力も失った鬼にとって、頭の痛い問題だった。
「こう言っちゃなんだが、鬼ってのは基本的に、まぁ、その」
「頭の中身まで筋肉」
「萃香ァ、そこまで言わなくともいいだろうに」
「勇儀は甘すぎるんだよ。ま、だから、覚妖怪の能力はほしい。我々に忠誠を誓うなら多少の融通は利かせるよ。伏せってる妹もいるんだって? 悪い話じゃあないはずだ」
「お断りします。鬼に傅く気など毛頭ない。私たちは誰の下にも就きません」
「話し合おうとしてやっているのに、」
「炒り豆、鰯の頭、柊の葉、童子切り。鬼はいいですよね、弱点が多くて。土蜘蛛から聞いていませんか? 読むだけではないのですよ」
「たかだか妖怪一匹で、私らがどうにかできると思ってんの?」
「まさか。ですが、あらん限りに暴れたら、傷ぐらいは付けられるでしょうね。たかだか妖怪一匹に、天下の鬼の頭領が傷つけられたと知れたら、あなた方に従っている者はどう思うでしょう? 一枚岩でないことなど読まずともわかります。数の力の恐ろしさはご存知では?」
「…………」
「萃香、もういいだろう。なあ、さとり、腹を割って話そうじゃないか。私たちにはおまえさんの力が必要だ」
 と、そこそこ物騒な話もしたけれど(実際、他の鬼たちと引き合わされた時は少々手間取った。血気盛んな輩を何人か、迎撃ついでに心の傷を抉ってやったら大人しくなったが)、終わってみればかすり傷程度で住居が得られたのだ。現段階では上々ではないだろうか。

 そろそろと窺ってみるとこいしは大きなため息をつく。山吹色の髪に指先を遊ばせながら、ねめつけてきた。
「相互不干渉、じゃなかったの?」
「そうしたかったのだけれど、ね。思った以上に人手不足、もとい、ひとを使えていないみたい」
「慕われすぎるのも考えものねぇ。鬼が右と言ったらみんな右。左も見てみようなんて考えもしない。なぜってそれがいちばん楽だから」
 言いつつ、こいしはパルスィの頭に顎を載せる。ずいぶん仲良くなったようだ。ほほえましい光景である。
「一から十までぜーんぶ、自分たちで決めなきゃいけない。だけど、鬼の得意分野は奪うこと。まぁ、わかるよ。覚妖怪の手も借りたいよね」
「でしょう。それに、協力は惜しまないと取りつけてきたから。発案はこちら、実行はあちら。そんな感じでひとまずやってみよう、と」
「使えるだけ使って、必要な知識と方法を吸収したら、すぐに首を切ろうって魂胆見え見えじゃん」
「そうなったら逃げるわ」
「しょせんは借宿住まいかー。切ないわー」
 よよよ、と泣き真似をするこいしを、ついにパルスィが捕まえようとした。だが、こいしが宙に浮かび上がるほうが早かった。追い払おうとするパルスィの攻撃を巧みにかわし、彼女が諦めたところで再び背中に張りつく。
 相変わらず体捌きが巧みだ、と笑みを浮かべるさとりに、「あのねぇ」パルスィが座卓を叩いた。
「どうにかしなさいよ、妹でしょ」
「無理を言わないでください。妹の笑顔を曇らせるなんて、私にはとても」
「甘やかしてないで、ちゃんとしつけなさい」
「だぁって、こうしてると楽しいんだもん」
「あら羨ましい。嫉妬してしまいそうですわ」
「嫉妬なんてこれっぽっちもしてないくせに。ああもう、だから髪をいじるな、頬ずりするな! うっとうしい!」
 じゃれ合う様に頬が緩む。
 口では辛辣なことを言っているし、強い戸惑いを感じているようだが、心の底から嫌がっているわけではない。パルスィの、そんな心持ちを無意識下で感じ取っているのだろう。こいしは朗らかに笑っていた。妹のこんな表情を見るのは本当に久しぶりだ。さとりはほのぼのと目を細める。
 とはいえ、いつまでも彼女の善意に寄生するわけにはいかない。さて、と手を叩いてこいしの名を呼んだ。
「数日中には、妖怪の賢者や閻魔王との会談があるわ。それまでに調べておきたいこともある。お暇しましょう」
「はーい」
 お世話になりました、とそろって頭を下げる。パルスィは苦虫をかみつぶしたような顔になった。「ちょっとだけ待ちなさい」と言い置いて、部屋を出ていく。その脳裏に浮かんだ事柄が伝わってきた。さとりは目を瞬かせる。
「あの、いくらなんでも、そこまでお世話になるわけには」
「また勝手に読んで。もう用意しちゃったのよ、黙って待ってなさい」
「ですが、それを頂いたらあなたの食べる分が。嫉妬を糧にすると言っても、て、ああ、釣り。なるほど。配給も近いって、あなたがもらえる量はたかが知れているのでは、ぷっ」
「まったく、ほんっとうにうっとうしい能力ね」
 顔で受け止めた麻袋を引き下ろす。
 中を見たこいしが「あれ」と目を見開いた。仕立て直された衣服が数着に、雑穀と魚の干物が入っている。水橋宅に蓄えられていた全食糧だ。こうまでされても返せるものなど何もないのに。
 麻袋を戻そうとしたら強引に押しつけられた。
「怨霊の管理に仕事の提案、外との話し合いにも参加するってんなら、それなりの立場になるんでしょ? そんなぼろ布着てたら地底の恥さらしじゃない」
『それに』と心の中だけで続けられる。
『さとり。あなたは恐れでどうにかできても、今のこいしはそうじゃないでしょう。守ってあげなさいよ、お姉ちゃんなんだから』
 そう言われては返す言葉がない。
 心配そうなこいしを見て、仏頂面のパルスィを見て、さとりは麻袋を受け取った。深々と下げた頭を軽く小突かれた。こちらの目を覗きこんだパルスィは静かな笑みを浮かべる。
「ここが本物の地獄だった頃から知っているけど、間違いなく、今がいちばんマシよ。どんな名君の統治にもひずみはある。それを、今よりも小さくできる?」
 わかりません、と即答した。こいしが呆れ眼を向けてきた。
「仕方ないでしょ。私はひとの上に立つ器ではないもの。けれど、目指すべきものはわかっている。そこに至る手段も想像できる。ならば、やるしかないでしょう」
 こいしがやれやれとため息をつく。パルスィがゆるく首をふる。「なら、やってみなさい」と放り出すように言われ、さとりは笑った。
「充分な衣食住の確保。目標はそれだけです。そのために、まずは──」
 パルスィは小首を傾げ、こいしは腑に落ちたように頷いた。
 ふたりに向けてさとりは力強く宣言する。
「まずは、畑を作りましょう」

 ***

 それからの月日は矢のように過ぎていった。

 さとりたちが地底に降りてきたことによる地上と彼岸との悶着は、想像したほどではなかった。
 前者は、そも、誓約を破ったのは地上側である。まずその点を突いた上で、幻想郷でも迫害されるさとりたちをどうにかしたかった、との妖怪の賢者の内心を表に出したところ、丸く収まった。
 赤くなったり青くなったりをくりかえす八雲の大妖に、勇儀が「まぁ、おまえさんがなんだかんだいいヤツだってことは、知ってるさ」と悪意なくとどめを刺した時に笑ってしまったのは、すまなく思う。
 後者についても、さとりの能力が怨霊の管理に有用と明示できたので大事にならなかった。
 怨霊になる霊は誰も彼もが尋常でない心の傷を持っている。それを軽く刺激してやったところ、彼の者たちは揃って沈黙し、大人しくなった。その働きを「怨霊も恐れ怯む少女」と称えた閻魔王は、話もそこそこに去って行く。地獄の移転を終えても彼岸の人手不足は解消されなかったらしい。
 鬼たちが苦戦していた(すなわち、他の妖怪も解決手段が分からなかった)問題を手早く片付けると、さとりとこいしに向けられる視線はガラリと変わった。
 勇儀や萃香が「手を組むことにした」と明言したとはいえ、覚は木っ端妖怪である。当初は、鬼ならともかく覚妖怪を主として担ぐなどと、侮り嘲り、不満を隠そうともしない輩が大半だった。
 それがどうだ。一晩も経たぬうちに怨霊を侍らせ、妖怪の賢者を手玉に取り、閻魔王からも認められる。それほどの能力と知謀を兼ね備えているのだ、あの覚妖怪は。勇儀と萃香がいるから「手を組む」で済んでいるが、その気になれば旧都を手中に収めることなど造作もないのではなかろうか。恐ろしい。目を付けられたくない。
 もちろん、事実は異なる。能力や性格の相性や時勢の影響も大きい。
 しかし、曲がりなりにも権力者として立つに当たって、恐れられるに越したことはない。この機を逃すまいと、さとりは考えを実行に移した。

 元々地獄の繁華街だったこともあってか、旧都はしっかりした土壌を持っている。灼熱地獄跡から縦穴寄りの土地は街として整えられていたが、怨霊がはびこっていたのも影響して、奥側の土地は手つかずの荒野のままだ。血の池地獄の跡や、探索が進んでいない更なる深部などを計算から外しても、広大な土地が使える。
 そこを開墾し、強さの異なる鬼火を掲げ、川から水を引き、畑を作った。作物が安定して取れるようになってからは、養豚と養鶏も始めた。旧都において、新鮮な肉や卵はご馳走の部類に入る。目に見えて分かりやすい恩恵を提示され、さとりの方針は相応の支持を受けるようになった。
 こうした事業の働き手を勤めたのは、一部の物好きな鬼と、立場が弱く日陰を歩いていた妖怪たちだ。
 それまでは、鬼を主とした集団の元に物資が集まっていたので、物を得るにはそこにすり寄るしか手がなかった。
 鬼は総じて強者を好むが、彼・彼女らが気に入るほどの力を持つ妖怪は多くない。技能も然り。となると、手っ取り早いのが己の身を捧げることだ。多少の乱暴さに目をつぶれたら、鬼は悪い情人ではない。強い鬼に気に入られればそれだけ良い生活もできる。
 しかし、誰も彼もが遊女の真似をできるはずもない。たとえ感情を殺して身を任せても、気に入られなければそれで終わりだ。
 そうして落ちぶれた者たちや、パルスィのように最初から鬼に靡かなかった者たちにも、勇儀が便宜を図ってはいた。だが、ひとりができることには限界がある。辛うじて生きていける量の物資を、惜しみながら食いつないでいく生活をしていた者たちにとって、さとりが示した働き口は、溺れる身に差し出された藁も同然だった。
 太陽のない地底に畑を作るなど荒唐無稽な施策もいいところだ。雇い主となる覚妖怪も恐ろしいだけで信頼はできない。だが、それでも、今の生活から抜け出せる可能性があるならば……。
 まさしく身を粉にしての働きだった。成果も出た。自分たちが育て上げた作物を見る妖怪たちの目に、以前のような澱みは見当たらなかった。
 けれど。さとりは思う。
 まだ、足りない。

 さとりがしてきたことは最低部分の底上げだ。元より、ひとにも物にも不便していなかった鬼やその取り巻きにとって、現状は面白いものではないだろう。
 鬼側から不満が噴き出ないよう、外からの物資は充分量を確保したが、ひとが離れていくのはどうしようもできない。加えて、地底にやって来た鬼の大半は、天狗や河童など盟友との確執という傷を負っている。ひと離れは深刻な問題だ。
 楽しそうなのが羨ましいならおまえたちも共に汗を流せば良い。そう勇儀が取りなしたので一部の不満は解消されたが、そもそも、土いじりなどやってられるか、という意見もある。
 そこで始めたのが旧都の整備だ。
 以前から整っていた箇所のみならず、街の外れや灼熱地獄の近辺など、ほとんど手が入っていなかった箇所にも建物を造り、上下水道を整備し、暮らしやすくなるよう手配した。住宅が整ってからは、湯屋に賭場、食事処や舞台小屋と、要望に応える形もとった。
 土蜘蛛ほどではないとはいえ、膂力のある鬼は建築も得意だし、街が整備されていくのは目に見えて分かりやすい。給金も出る。おまけに、荒ら家に住んでいた妖怪からは、まともな住み処ができたと感謝される。
 この試みは中々うまくいった。この様子なら、とさとりたちが住む家の改造も持ちかけられたので、ありがたく受けた。
 けれども。さとりは思う。
 まだ、足りない。

「これ以上、なーにが必要だってんだい、ええ?」
 勇儀の提案から生まれた石造りの館、地霊殿。その完成披露兼慰労ということで開かれた、食堂での宴会。
 壁に背を預け、主に動物たちによるどんちゃん騒ぎに微笑しつつ、考えこんでいたさとりを勇儀が見咎めた。巨大な杯に並々と酒を注ぎ、ついでに料理も拝借して、さとりのとなりに腰を下ろす。
 お味はどうですか、と尋ねると、勇儀は満面の笑みを浮かべた。
「文句なしに旨い。とくに、この、馬鈴薯と茗荷、豚の素揚げはたまらんね。塩っ気が強くて酒に合うし、肉も身がひきしまってる。これは、あれだろ、放し飼いがいいんだろう?」
「そのようです。管理するのが嫌だっただけですが」
「おまえさんの打つ手は、なんだかんだ成功するから大したもんだよ」
 勇儀がそれを本心から言っているのは分かった。第三の眼に見られることも慣れたようだ。じっと見つめる赤い眼に笑いかけ、さとりの視線の先を見る。
「それにしても、大所帯になったもんだね。こいしといっしょにパルスィにじゃれついてんのは、ありゃあ火車かい?」
「ええ、お燐と言います。その素揚げを作ったのもあの子ですよ。よかったら、あとで声をかけてあげてください」
「そうさせてもらおう」
 勇儀の言葉を反復する。そう、大所帯になった。

 誰にとっても予想外だったが、灼熱地獄の跡には動物たちが住み着いていた。地獄の移転の際に若すぎて働き手にならないと切り捨てられた、地獄烏と火車の幼子たち。本来ならば襲う相手の怨霊にすら追いやられ、助けを求める言葉も持たず、ただ消滅を待っていた動物たち。
 気づいてしまっては放っておくこともできない。当時は荒ら家同然だった家に連れ帰り、傷を手当てし食料を分けてやると、最初は警戒していたが徐々に心を許してくれた。恐れを片隅に抱きながらも、こちらを慕ってくれるのは新鮮だった。
 そうして、数は増え続ける一方で、いよいよさとりひとりでは手が回らなくなってしまった。そこで、火車のお燐や地獄烏のお空といった、人型になれて力も強力なふたりを筆頭に、怨霊の管理や灼熱地獄の管理、自分で自分の世話をできない者の管理と仕事を振り分けていき、どうにか睡眠時間を確保できたさとりである。
 朝から夕までは報告を受けた事柄への対処、夕から夜半までは家族たちの世話、夜半から朝までは外とのやりとりも含めた事務仕事。空いた時間にやんちゃをした怨霊を締め上げる。一時はそんなありさまだった。もうあの頃には戻れない。戻りたくない。断じて戻ってなるものか。

 遠い目をしたさとりに何かを察したのだろう。「一時期はすごい顔をしていたなぁ」と朗笑した勇儀は、切れ長の目を温容に細める。
「十年さ」
「……もう、そんなに経ちますか」
「おまえさんにとっては"もう"か。私にとっては"まだ"だよ。まだ十年しか経っていないのに、旧都は変わった。いいほうにね。さいきん仕事以外で街に出たかい? ずいぶん明るくなったよ」
 勇儀がこちらを見る。
『それでもまだ、不満かね。足るを知らぬは身を滅ぼすぞ』たしなめるような声音は親しみに色づいていた。さとりは口元を緩め、勇儀を見返す。
「身の程を超えようとは思っていません。ですが、整えられたと言っても、一部のみ。多くの物資は外頼りです」
 例えば、と勇儀が持ってきた卵焼きに箸を付ける。
「卵は地底産。けれど、だしや味醂は地上からのものです。醤油も然り、大根おろしも然り。すべてを地底でまかなえるとは思っていませんが、もうすこしどうにかできないかと思うんですよ。とくに、加工品は、仕入れるにも値が張りますから」
 今の地底が対外に輸出しているのは怨霊由来の金や鉱石だ。それだけに頼るのはあまりに能がないし、虚弱にもなる。調味料や反物といった加工品、酒や紙や小物などの嗜好品を地底で作れたら、新たな職が増やせる上、輸出品が増える可能性も生まれる。とはいえ、そのためにはある程度の規模の工場が必要で、相応の品質のものを作るには時間と資金が必要だ。成功すれば取り返せるが、失敗したら悲惨である。
 という説明をすると、勇儀はふむと考えこんだ。
「じゃあ、作るか、工場」
「そんな簡単にできるものなんですか?」
「あの新しい閻魔様から送られてきた本の中に、それっぽいのがあったろう。私にはちんぷんかんぷんだが、ヤマメなら解読できるんじゃないかい? 得意なのから始めていけば、そうそう悪いことにはならんだろうよ」
「……なるほど」
 数年前、彼岸の人手不足解消のためやって来た新しい閻魔は、非常に堅物だが聞く耳は持っていた。酸いも甘いも見届けた地蔵らしく、さとりのやり方を支持してくれている。「無駄にはならないでしょう」と大量の本を送ってこられた際には、玄関役であるパルスィたちに何往復もさせてしまったが、たしかに有益なものも多かった。
「やってみましょうか」
 善は急げ。
 早速ヤマメを呼びに行こうとしたさとりだったが「まあ、待ちなよ」と勇儀に引き留められる。
「せっかくの宴だってのに、仕事の話をして白けさせるつもりかね。明日でいいだろう、そんなもん。それより、ほれ」
 杯を押しつけられ、升から並々注がれた。
「ええ、と?」
「まあ飲め」
 どんな酒でも注がれた瞬間名酒に変わるという、星熊杯。手渡されるのは初めてで面食らってしまった。戸惑うさとりに「いいから」と勇儀は片手を上げる。
「まずはひと息、いってみようじゃないか」
「……杯を交わさなきゃ気がすまない、ですか。功労者と言ってくれるのはありがたいですが、私はできると思ったことをしてきただけです。だいいち、あなたが各方面の不満を宥めて調整してくれたのも、大きな成功要因のひとつで」
「だーっ、もう! ほんとうに厄介な能力だねぇ! いいから飲め、ほら。さっさと飲まないと劣化するよ」
「飲め、と言われましても」
 透きとおった酒を見る。
「恥ずかしながら、お酒を嗜む趣味がなく」
「そんなもんこれからおぼえりゃよろしい。ぐいっといけ、ぐいっと」
 こうまで言われては断れない。それに、三度の飯より酒盛りが大切な旧都において、酒を避け続けるのも限界があるだろう。いい機会、かもしれない。
 心を決めて「いただきます」と口をつける。ピリッとした舌触りに少し驚いたが、爽やかな飲み口と果実を思わせる芳香が思いの外飲みやすかった。
 言われた通りひと息で飲み干して、ふぅ、と息をつく。「これは」杯を返しながら言う。「おいしいです、ね」
「そうだろう。いやぁ、いい飲みっぷりだ。気に入ったよ。どうだ、もう一杯?」
「ええ」
 頂戴します、と言おうとしたはずなのだが、妙に舌が回らない。酒の影響か、体もポッポッと火照ってきて、手に力が入らない。
 ……おかしくないか?
 どうにも働きが鈍った思考で気づくのと、視界が揺れたのはほぼ同時だった。ふっと目の奥が暗くなる。
「お? おい、さとり?」
 勇儀の声にも応じられない。おや、と思ったまま、さとりの意識はどこかへ飛んでいく。

 ハッと目を開けたらパルスィの仏頂面が視界に飛びこんできた。眼をゆっくり動かすと「気づいたのね」と声がかけられる。『まともに飲んだこともないくせに、勇儀の酒を一気に飲むなんて馬鹿じゃないの』とも叱られた。未だふわふわする感覚をもてあましながら「面目ない」と苦笑する。
 勇儀はと頭をずらす。ヤマメやキスメといった数少ない訪客と、こいしやペットたちに囲まれて、大いに飲み、食べていた。
 まぁいいかと顔を戻そうとして、枕にしては暖かい触感を認める。というか視界がおかしい。普通の枕に寝かされているのならば、どうしてパルスィはこちらを覗きこむようにしていて、焦点を少しずらすと異国風の服の上からでも分かるほど主張する双丘が目の真ん前に──
「──たいへんしつれいをっ、ぅ」
「こら、寝てなさいって」
 いわゆる膝枕をされていることを理解したと同時に跳ね起きた。しかし、酩酊した体は自由が利かず、強引に寝かしつけられてしまう。
「地霊殿の主を床に転がしとくわけにもいかないでしょうが。我慢なさい」
「いえ、がまんというか……すみません。ご迷惑を」
 膝枕をする側に回ることは多々あれど、してもらうことなどなかったさとりである。初めての経験を興味深く思う気持ちもあるがそれ以上に気恥ずかしさが勝った。
 常は厳しい印象が勝る彼女の面差しは、下から見上げるとずいぶんと柔らかく、なんだかドギマギしてしまう。加えて、上を向いていると否応にも視界に入ってくる形の良い胸は、わずかばかりの羨望とそれをはるかに凌駕する母性とを感じさせてどうにもこうにもにっちもさっちも。
 両手で顔を覆った。
 両目もしっかりつぶった。
「なによ?」
「戒めです」
「なんの?」
「後生ですから聞かないでください」
『相変わらず変なヤツね』
「否定はできません」
「だから勝手に読むな」
「性分です」
 はぁ、とため息がつかれた。ふたりのあいだにしばし沈黙が落ちる。
 食堂の中央で続けられる宴は賑やかだ。勇儀から手渡された杯を、こいしが一息で煽ってみせる。少し心配になったがケロリとして二杯目を求めていた。なんだろうこの差は。
 ここまで距離が近いと、第三の眼を向けるまでもなく、パルスィの内心も漂ってきた。
 楽しそうに笑っているのが妬ましい。屈託のないやりとりを交わすのが妬ましい。料理上手なのが妬ましい。ついでに、気狂いの橋姫に無防備な姿をさらせるその神経が妬ましい。
 いつも通りの心模様に知らずのうちに頬が緩む。自他ともに嫉妬狂いと認める彼女が、その緑目に映す世界を覗くのは思いの外心地よかった。嫉妬は他者を高く見る感情だ。パルスィが見る世界は大分捻くれているけれど、きれいで、時に切なくて、なにより優しい。
「そういえば、聞きたいことがあったんだけど」
 言葉と一緒に、見るからに重そうな革袋が眼に映る。ああ、と目を開き、パルスィを見つめ返した。
「妥当な報酬です。どうぞお納めください」
「渡る者の途絶えた橋にしがみつく橋姫が?」
 自分を嗤う彼女に「ふむ」と息をつく。
 嫉妬は他者を高く見る感情だが、同時に、自分をどこまでも貶められる感情でもある。それに呑みこまれないあたり、嫉妬心を操るの言は伊達でないと思うけれど、正当な評価をしない理由にはならない。
 まずですね、とさとりは指を立てた。
「縦穴の管理もそうですけど。外からの物資の受け取り、これはヤマメとキスメもですね。それから水源の制御。あれだけ豊かなのに水害がない川なんて初めてですよ」
 一度息をつき、もの言いたげな口元を視線で黙らせた。
「いちばんは、旧都にたまる嫉妬の管理。こんなに矢継ぎ早に新しい事業を推し進めても、暴動が起こらない。根深い対立も少ない。勇儀や萃香の人徳、あるいは私への恐怖? それだけでこうはいかないでしょう。今のところ、知っているのは私とこいし、勇儀だけですが、萃香や、ヤマメとキスメあたりも察しているでしょうね。個人的には、もっとおおっぴらにしてもいいと思いますけども、どうします?」
 ほほえみかけると今度はパルスィが顔を覆った。口にできずに心の中だけで呟いた声を拾い、片っ端から返していく。
「十二分に大したことです。どれだけ助かっていることか。誰も知らないはずなのにって、私の能力をお忘れですか。あるいは、こいしがなんのために出歩いていると? ……ええ、まあ、本人の興味や楽しみもあるでしょうけど。見るべきところはきちんと見ていますよ、あの子は。……ふむ、性質に従っただけと。ならばこちらも、その恩恵を勝手に受けて、勝手にありがたがっているだけです。問題が?」
「わかった、わかったわもういい! もういいから!!」
 耳まで真っ赤になった橋姫様に頬が綻ぶ。
『ほんとうに面倒……いいヤツなんだけど面倒くさい……あまりにも厄介……!』
「覚妖怪(わたし)をも"いいヤツ"と評しますか。驚きです」
「ちょっと黙ってなさい」
 べしん、と口を押さえられた。素直に閉じるとパルスィは心の中でああだこうだと文句を述べて、重く長いため息をつく。
「……そういうことなら、ありがたくもらっとく。報酬なんて渡したのを後悔させるくらい盛大に散財してやるわ」
 すなわち、旧都の金回りがいっそう盛んになるということだ。パルスィはそこまで分かっている。さとりを変だ妙だと表する彼女だが、本人も十分変わった嫉妬狂いである。
「ありがとうございます」
「だから読むなって」
「性分ですもの」
『もー』
 がっくり項垂れたパルスィに礼を言って起き上がる。若干の酔いは残っていたが、水を飲むとずいぶんスッキリした心持ちになった。
 げんなりした面差しを覗きこみ、問う。
「なにか、食べたいものはありますか?」
 想定していたのは、宴会の場に並べているたくさんの料理だ。数は作ったし、地霊殿以外の客は少ないといえ、結構な勢いで消費されてしまっている。なくなる前に取ってこようと思った、それだけだった。
 けれど、さとりの言葉を受けたパルスィが思い浮かべたのは、握り飯と味噌汁だった。しかも、俵のような形をしている握り飯で、味噌汁の色は白みが強い。
 訝しげな顔になったのに気づいたのだろう、パルスィは眉を顰める。「なんでもいい」とぶっきらぼうに言って、『なんでもない』と目をそらした。
 気にはなったが、あまりもたついて食事にありつけなかったら情けない。「では、適当に見繕ってきますね」と言い置いて、さとりは立ち上がる。


 数日後のことである。
 普段ならば休憩をしている時間に、食堂の一角で盆を前に考えこんでいるさとりを認め、燐が声をかけてきた。盆の上にあるのは俵型にむすんでみた握り飯と、椎茸のだし汁で馬鈴薯を茹で、あく抜きしたところに白味噌を溶かした味噌汁だ。
「おやつですか?」と期待に満ちたまなざしを向けられた。「おやつではないのだけど」と苦笑しつつ、薦める。大喜びで味噌汁に口を付けた燐は、すぐに複雑そうな顔になった。心を読むまでもない。
「おいしくない?」
「や、まずいってほどじゃ……はじめて食べる味です」
「そうね。あなたたちは、そうよね」
 記憶と書物から参照するに、パルスィが思い浮かべたのは西国、特に京の都風の料理だろう。
 彼の地は、食材本来の味を最大限に引き出すため、全体的に薄味の味付けを好む傾向にある。薄口醤油に白味噌、昆布はさすがに高価すぎるので干し椎茸で代用し、再現できぬかと興じてみたのだが。
 椀を取って口を付ける。眉を下げて笑ってしまった。
 強すぎる椎茸の風味と、甘いんだか辛いんだか分からないぼやけた味噌の味に、ぽろりとくずれる馬鈴薯。優雅な京風料理と言うよりは故郷で食べた味に似ている。山の中だから食材は豊富だったけれど、調味料は貴重だった。ケチというのも馬鹿馬鹿しくなるほど少しずつ使うものだから、地の味だけが主張してきて、なんとも野趣溢れる味だったのだ。
 慣れ親しんださとりからすれば、これはこれで悪くない。懐かしい味である。
 しかし、全体的に甘辛めの濃い味が多い地底料理に馴染んだ燐にしてみれば、どこが良いのかイマイチ分からない不思議な味だろう。おまけに、俵型の握り飯は、常の三角型と違ってほろりと崩れやすい。仕事の供にするには繊細すぎる。
 ただの気まぐれだ。懐かしい味を食べられただけで良しとしよう。そう片付けてしまうのは簡単だった。
 けれども。
「……しいたけのだしは弱めにして、おむすびの塩も控えめにする。白味噌に赤味噌を加えてみたら、馬鈴薯の味を補えるかも」
 ぽつりと呟いたさとりに、燐は不思議そうな顔をした。
「まだするんですか」
「ええ。ここでやめるのも、中途半端な気がして」
「もしかして、こいし様に作ってあげるとか?」
「そうね、うまくできたらあの子にもあげましょう」
「…………」
「善哉? あれは砂糖をたくさん使うから……でも、うん、そのうち挑戦してみましょうか。さいきんは、お燐たちががんばってくれているから、余裕も出てきたしね」
 燐が嬉しそうに耳をぴくぴくさせた。二股の尾も上機嫌に揺れている。天鵞絨のような毛を優しくなでて「さあ、仕事に戻りなさい」と促した。
 猫型に戻り、弾む足取りで去って行く後ろ姿に微笑を浮かべ、さとりは今一度盆に向き直る。ほかほかと湯気を立てる料理をじっと見る。
 言葉にするのは簡単だが、実現するのは難しい。試行回数が必要だ。だが、幸い、料理の腕にはそれなりに自信があるし、なんだかんだと世話になりっぱなしの橋姫様に、返せるものがあればと思う。
(それに)
 料理を持って行けばパルスィと話す時間が取れるかも知れない。心を読むのは性分だが、時間さえ許せば、さとりだって彼女の声を聞いていたいのだ。
 よし、と割烹着の袖をまくる。まずは味噌の配分からか。

「──というわけで、いっしょにごはんでもいかがですか」
「これのどこが味噌汁だって?」
 斜眼から目をそらす。
 水橋宅の座卓に並べられたのは、俵型の握り飯に瓜の浅漬け、ほうれん草のおひたし、馬鈴薯と里芋の煮っ転がしだ。味噌汁のみの字もない。
 あれこれと試してみたものの味噌汁はうまくいかなかった。白味噌を前面に押し出すと馬鈴薯の味が気になるし、だしを利かせ味噌の配分を変えると赤味噌が多くなりすぎる。馬鈴薯以外のものを具材にしようとしても、地底で作れる作物には限りがあるので、ちょうど良いものが見当たらない。
 作物の改良が進み、調味料も地底で作るという計画が軌道に乗り始めたらまた別のやりようもあるだろうが、現状これが精一杯だった。
「味噌汁は、改めて挑戦しますので」
「改めて、ねえ。胡麻すられてもあなたに靡く気はないわよ」
「けっこうですよ。お燐やお空は慣れておらず、こいしはあまり帰ってこない。萃香は、私の相手を勇儀に投げていますし、彼女を呼ぶとなるとお酒が必須でしょう」
『消去法ね』
「それだけではありませんけれど」
 鬱陶しそうに手をふって、そういうことなら、とパルスィは箸を取った。大きめに切った馬鈴薯を器用に割り、口に放りこむ。
 食べ方がきれいだな、とふと思った。箸の持ち方は手本のようだし、袖を押さえるなどのちょっとした所作に違和感がない。そうした優雅さをどうやら意識して消しているようだが、身に馴染んだものはそう易々と変わらないのだろう。彼女はいつも民族風の衣装を着ているけれども、正絹の着物を纏っても絵になりそうだ。
 何ともなしに見つめていたら軽く睨まれた。肩を竦めて箸を手に取り、里芋を食べる。とろっとした歯ごたえと、舌に残る甘い味噌。上出来である。
 パルスィは特に何も言わなかった。眉間に皺は寄っているが箸は止まらない。懐かしいと感慨深げな念を、思うそばから追い払っている。複雑な心境を見ているのが楽しい。
 静かな食事を終え、台所で食器を洗っていたパルスィがふっと思いつく。
「水、ですか?」
「ああ、うん。使うだしや味噌のことばかり言っていたけど、そもそも水がちがうのよ」
「というと?」
「読んだんでしょ」
「あなたの声が聞きたくて」
『説得力がない』
 呆れたようなまなざしにほほえみ返してみる。やれやれと首をふって、パルスィは黒光りする瓶に視線を移した。
 昔と同じ、脇の川から汲んだ水だ。飲料水と生活用水とで分かれている。口に入れるほうは煮沸をしてあるそうだが、文字通り地下水なので、地底の水は澄んでいる。妖怪なのだしそのまま飲んでも腹を下しはしないだろう。
「……こっちとあっちだと、水の味がちがうのよ。ここの水は硬いけど、あっちの水は、もっと口当たりがやわらかい」
「十分に飲みやすいと思いますが」
「山奥と比べたらそうかもね」
 肩を竦めたパルスィはどこか遠いところを見た。霧のように漂ってくる光景がある。
 細い手に持たれた柄杓。柄杓から注がれる透きとおった水。地に伏せた無数の目を持つ緑色の怪物を、そっとなでる可憐な少女。
 少女を成長させた面差しが目の前の彼女と重なった。さとりは目を瞬く。こちらの様子には気づかないようで、パルスィはふっと息をつく。眼に映っていた光景も消える。
「それこそ、甘露。水あめみたいにとろんとしていて、ホタルが好みそうな味ね。水がちがうってことは、だしの出かたもちがうでしょう。そのへんが関係してるんじゃないの」
 放り投げるように言われ「ふむ」と顎に指を当てる。
「つまり、水をやわらかくする方法を考える必要がある、と」
「思いつきだけど」
「試す価値はありますね。それに、調味料を作るのにも応用できるかもしれない」
 おもしろい、と思わず呟いた。パルスィは苦笑する。
「まあ、精々がんばりなさいな」
「はい」
 頷き返し、後片付けの続きに戻った後ろ姿を見つめる。今はもう片鱗もない、おそらく彼女の過去に関係する少女を思う。
 目の色も、髪の色も違うけれど、あの少女の顔立ちはどうもパルスィと被る。そう思って見つめてみると、てきぱき動きまわる華奢な背中が、以前目にした泣き伏せる女性を連想させた。この一致はなんだろう。
 ろくでもない過去など地底では珍しくもなんともない。わざわざ騒ぎ立てるものでも、不幸自慢をすることでもない。
 そう思っているのに流せない自分がいた。何故なのかは分からない。ひとの心に惹かれる覚妖怪特有の、趣味の悪い好奇心。それだけかもしれない。
(わからないならば)
 ひとまずは置いておこう。他にやることはたくさんある。時期が合えば、縁があったら、より深く見ることもあるだろう。
 そう定め、座卓に頬杖をついてパルスィの姿を追う。柔らかそうな山吹色の髪が、動きに合わせてふわふわ揺れるのが目を引いた。燐がいたらじゃれついているかもしれない。
 想像してしまい、堪えきれず噴き出した。気味悪そうにこちらを見るパルスィに「すみません」と手をふって、さとりはまなじりを緩める。


 それから、手料理片手にパルスィの家を訪問するのが習慣になった。
 時間が取れる時は週に一、二度。忙しい時は月に一度行けるかどうか。
 不定期な上、前もって約束もしないので、会えるかどうかはパルスィの気分に左右される。訪れて留守だったこともあるが、さとりはさほど気にしなかった。やり方が一方的だという自覚はあった。
 パルスィは、心底から面倒がり、鬱陶しいとの気持ちを隠しもしなかったが、追い返しはしなかった。
 最初のうちは、さとりが持参する料理につられて。往訪が指の数を超える頃には、諦観を兼ね備えた受容と、一抹の親しみを持って。固く結ばれた蕾がゆっくり花開くように、彼女の心が徐々にこちらを向いてくれるのは、素直に嬉しかった。さとりの問いかけに答えるだけだった彼女が、自分からしてくれる話を聞くのは楽しかった。
 他者から恐れ嫌われるのが覚妖怪の本分。とはいえ、それだけで生きるのはずいぶん味気ないのだと、地底に来て理解した。豪奢な食事も毎日続けば飽きがくる。パルスィといると穏やかな心持ちになれた。
 だが、こうもあっさり受け入れられると戸惑いもある。ペットたちでさえ、時には読まれたくないこともあると、四六時中懐いてくるわけではないのだ。不定期なのが程好い距離を保てているのだろうか。
 不思議に思って尋ねると、パルスィは「私は下賤な妖怪だもの」と興味なさげに息をついた。
「守らなきゃいけない立場もないし、取り繕わなきゃならないものもない。汚いとわかりきっている腹を探られたって、なんともないわ」
「パルスィの心はきれいですよ」
 鼻で笑われた。
「地底で唯一嘘をつける覚妖怪。丸裸にした心を癒やしも殺しもできる能力。あなたの言葉は信用ならない」
 まったく妬ましい、と心中で呟いた、次の瞬間には持参した茶碗蒸しを頬張ってご満悦になる。忙しない心模様にほろりと笑んで、さとりは少し考えた。
「あなたに嘘をついたことはいちどもありません。これからも、嘘は言いませんよ」
「それが最初の虚言だったりしてね」
 双方ともに本心からの言葉だった。
 やれやれと眉を下げ、いっそパルスィも心を読めたら良いのにと夢想する。さとりの言葉を塵ほどにも信じないままに、さとりの存在を受け入れる。その不器用さがもどかしい。

 後になってふり返ると、このもどかしさが転換点になったように思う。それまでもさとりを揺さぶる言動はあったが、どうにかならないか、と思ってしまったのだ。
 もちろん、どうにもならない。ひとの心は当人のものだ。他人が変えられるものではない。影響を与えることはあるかもしれないが、変化を受け入れるも入れないも本人次第。重々承知していたのに、さとりは無謀に手を伸ばす。
 会えると嬉しいと言った。変わり者だと不思議がられた。
 所作が様になっていると言った。苦虫を噛みつぶしたような顔をされた。
 話を聞くのが楽しいと言った。役に立つ話はできないと頬をかかれた。
 心を見ると落ちつくと言った。悪趣味な奴だとため息をつかれた。
 パルスィはきれいだと、なんども伝えた。その目が映す世界が、いくつもの感情を抱えこむ心が途方もなくきれいだと、言葉を尽くした。何もかもを諦めた乾ききった声で「そう」とほほえまれた。そんな顔をさせたいわけではないのに。

 数十年間ものあいだ悪戦苦闘してきた味噌造りが軌道に乗ったのはそんな時だった。加工品の製造の中で、食料衣料を含めて最も遅れていた味噌造り、それがついにうまくいった。
 味噌を(特に日持ちがしない代わりに素の味が活きる味噌を)作るに当たって、大切なのは米麹だ。しかし、米から麹を作るのが相当に厄介だった。
 そこでまず躓き、味噌の種類でもまた躓き、更に、大豆の風味が強く残る赤味噌や豆味噌を好みがちな旧都において、立場の弱い白味噌をここまで押し上げたのだ。一輪や村紗といった、知識・技術・味覚の面で味方についてくれた面々の協力があっても、難題だった。感慨もひとしおだ。

「というわけで、今度こそお味噌汁を作ろうと思います」
「まだ諦めてなかったの」
「これでも気は長いほうなのですよ」
 はいはい、と微苦笑するパルスィから割烹着を借りて、まずは飲料水に炭酸塩を入れる。こうして置いておくと硬さが抜けた水が上澄みにたまるのだと、以前村紗が教えてくれた。
 上澄みだけを別の鍋に移してから、地底風煮干しをだしとして泳がせ、そのあいだに馬鈴薯を下処理する。
 丁寧に、丁寧に、と調理をしていたら『どうしてよ』と問いかけられた。
 どのような意図かを探り、パルスィ本人も細切れの思考をまとめきれていなかったので「そうですねぇ」と最初に思いついた答えを返す。
「ほしがっていたから、でしょうか」
「ねだられたら、誰にでも同じようにするの」
「誰にでもというわけでは。パルスィだからこんなに一生懸命になっているのは、あるでしょうね」
『なんで他人事なのよ』
「自分でもわからない部分もありまして」
『遠慮なしに暴き立ててくるくせに』
「心を読めるからといって、心のすべてがわかるわけではありませんから」
 最後の灰汁を除き、火から下ろす。「さあ」とパルスィをふり向いた。
「できました。お椀を持ってきてくださいな」

 我ながら良い出来だった。
 あっさりした煮干しのだしと、こくりと甘い白味噌が絶妙な塩梅でとけあっている。ほろりと崩れる馬鈴薯も舌に優しい。よかった、と内心で安堵のため息をつく。
 パルスィは、一口すすったきり黙りこんでしまった。気にはなったが、彼女の心が今と昔とを行き来していることは分かったので、何も言わずに箸を進める。
 過去を想起させるのに催眠は必須ではない。よく聞いた音、いつか見た景色、馴染んだ味に触れるだけで、心は簡単に現在を離れる。戦いの場で催眠を併用するのは、そうしたほうが望みに近いものを得られるから。それだけだ。
 想起した記憶への思い入れが強ければ強いほど──負った傷が深ければ深いほど、ひとは言葉を失し、口をつぐむ。もしくは、自分の身に起きたことではないかのように、あっけらかんと語ってみせる。そのいずれも、深すぎる傷に呑まれないようとする、防衛本能だ。
 あるいは、過去と表現するのは間違いなのかもしれない。
 大きすぎる出来事は、その瞬間に当人を引きとどめる。先へ進もうとあがけばあがくほど、心と心の乖離は激しくなり、ついには引きちぎれてしまう。ちぎられた心はその場所にずっと囚われたまま、どこにも行けない。
 不意に、パルスィが唇を引き結ぶ。椀に口を付け、一口。続いて二口、三口。
 勢いよく味噌汁を平らげていく様に面食らってしまった。
 ぽかんとするさとりには何も言わないで、ぐるぐると回る思考のまま、パルスィは最後の一滴まできちんと飲みきる。座卓にたたきつけるように椀を置いた。カァンと高い音が響く。
 つい眉をひそめた。彼女は自棄を起こしている。
「パルスィ、あの、」
『あなたはなにもわかってない』
「まずはおちつきませんか、ちゃんと聞きますから」
『憐れみよ。同情よ。私でも見下せる相手が来たから情けをかけただけ』
「それでも、あなたには助けてもらいました。て、そうではなく」
 なんとか口を挟もうとするものの、変な具合に開き直ってしまったらしいパルスィは、立て続けに言葉をぶつけてくる。参った。これではいつもの逆だ。
『私は下賤な妖怪よ』
「そうは思いません」
『どうあってもあなたを信じられない』
「信じてもらえるよう、努めます」
『嫉妬狂いの怪物に、入れこんでいいことなどひとつもない』
「嫉妬狂いと言いますが、あなたはきれいだと、いつも、」
「あんたは、なんにもわかってない!」
 手首を掴まれ、床に押し倒された。したたかに背中を打ちつける。思わず顔をしかめたさとりに馬乗りになって、パルスィは浅緑の瞳を煌めかせる。
「さとり」
 激流のような思考が流れこんでくる。
「見て」
 嫌だこんなのなんでどうしていっそどうにでもなれ嬉しいのに嬉しいなんて思っちゃいけないどうせまた裏切られるでもさとりならこのひとだって変わらない笑う顔を見ていたい声を聞いていたいもうあんな思いをするのはいやだおねがいたすけて──
 膨大な言葉を押しのけて、鮮やかな光景が視界を埋め尽くしていく。
 ──わたしが救われることなんて、

 ***

 目の前に女性がうずくまっている。波のように揺蕩う豊かな黒髪は泥に汚れ、ふくよかだった頬はげっそりと痩けている。
(パルスィ、聞いて)
 泣きはらした顔に、幸福そうな笑みを浮かべていた面影はない。
(縁談が決まったの。前も話した、あの、変な人。ほんとうに、ほんっとうに変な人でね、私がいいんだって。こんな顔でも、こんな髪でも、変わったものが好きでも、それでいいんだって。あんな殿方、はじめてよ)
 ふふ、と柔らかく喉を震わせたはずの彼女は、どうか幸せにとこいねがったはずの彼女は、
「……わたし、おかしいのかなぁ」
 もう、どこにもいない。
 感情という感情が抜け落ちた声に言葉は返せなかった。そんなことはないと、ただひとりの相手を、身を尽くして想うのは可笑しいことではないと伝えたいのに、声が出ない。
 人ならざる身どころか、おおよそ、生きとし生けるもの全てと見比べても尋常ならざる醜悪な体。決まった形を取れないこの身に声を出すための器官は無い。代わりに、かつて逃避行を供にした者たちの目ばかりが、無数に寄せ集まっていた。なんの使い道もない、醜いばかりの無駄な体。
 この身を「おもしろい子」と受け入れてくれた恩人の役にも立てない体。
「他にもね、通う人ができたんですって。通う場所ができたんですって。ふつうのことよね。あんなにすてきな人なんだから、あたりまえのことよね」
 虚ろな顔で呟く彼女の、胸の奥底で緑目の魔物が目を開く。
 緑目の魔物。我が同胞。主の嫉妬心を糧にして肥え太り、力を増し、時には主を呑みこんでしまう魔性のもの。
 彼女に良い影響を与えるとは思えない。しかし、今の彼女から何かを取り上げてしまうと、大切なものが一気に崩壊してしまいそうな危うさがあった。
「わたし、ね」
 彼女が顔を覆う。両手の隙間から透明な雫がいくつもこぼれる。
「……あたりまえだって、思えない」
 緑目の魔物が首をもたげる。両の目がキラリと輝きを増す。
 何もできなかった。

 世界が暗転する。

「パルスィ、聞いて」
 大きな目を爛々と輝かせ、彼女が笑う。その声は久々に明るかったが、正常とは思えない。
「明神様がお告げをくださったの」
 嬉々とした説明に体の芯から冷えていくようだった。必死に身をふり彼女を思いとどまらせようとする。
 生身の人間が二十一日も川に浸って無事で済むはずがない。
 人の道を外れ異形となるのが彼女の幸せに続くはずがない。
 声にならぬ声で叫きたてるも、彼女の目には映らない。思い詰めた彼女にはなにひとつとして届かない。
 ならば。パルスィは全ての目を彼女に向ける。
(せめて、おまえ)
 緑目の魔物に念じる。応える感触があった。
(おまえは、この子を、守ってあげて。ひどいことにならないよう、助けてあげて)
 魔物はこくりと頷いた。
「きっとうまくいくわ」
 彼女はほほえんだ。

 世界が暗転する。

 変わり果てた彼女の姿を、パルスィは呆然と見つめていた。
 鋭く尖った耳。紅い唇からのぞく牙。赤黒く染まった全身に、けれど、あるべき腕はない。
 彼女が泣き笑いになった。
「パルスィ、わたし」
 か細い彼女の声は、ただただ懐かしい。
「わたし、なんてことを」
 それ以上は言葉にできなかったようだ。彼女は地に伏せ肩を震わせた。重い身を引きずり寄り添うと、縋るように頬を寄せられた。ぼろぼろと溢れる涙が焼けるように熱い。
 緑目の魔物は、今や、彼女と完全に同化していた。魔物に触れ、意識を通わせ、ことの顛末をたたきつけられる。
 女を殺し、男を殺し、その親族を殺したところで彼女の一族が討ち滅ぼされた。怒りと嫉妬に身を任せ、殺し、殺し、殺していたら、武者に腕と狂気とを断ち切られた。そうして顧みた己の身は、余すところなく血に汚れている。
 パルスィは悟った。彼女を凶行に至らせたのは自分だ。緑目の魔物に気づいていたのに何もせずに見送った。あろうことか嫉妬心を煽る真似をした。
 それがなければ、あるいは。
「……ねえ、パルスィ」
 永劫にも近い時が過ぎ、彼女がふとこぼす。こちらを見上げる彼女の面差しは何故だかひどくあどけない。
「わたし……わたしね。もう、疲れちゃって」
 ごめんね、ごめんね、と言いながら、彼女は身を預けてくる。何を望んでいるのかは知れた。緑目の魔物から伝わってきた。
 彼女を包みこむように全身を広げる。不定形の体を初めて便利だと思った。彼女は安心したように頬を綻ばせて、母の腕に包まれて眠りにつくように目を閉じる。
「ありがとうね、よろしくね」
 そうして、緑色の目をした怪物は彼女を喰った。
 骨のかけらも、爪の先すらも残さず、緑目の魔物も吸収して、彼女を己のものにする。ひとつになる。

 気づいた時には二本の足で地面に立っていた。目線が低い。視界が暗い。体の感覚も妙に浮ついている。
 転ばないよう慎重に歩を進める。月明かりに光る小川を見つけた。何も考えずに覗きこんで、水面に映りこんだ姿に笑いそうになる。
 血で汚れた全身に、尖った耳と鋭い牙。くっきりとした目鼻立ちや華奢な体つきは紛う方なく彼女のものだ。
 けれど、艶やかに光っていた濡れ羽色の髪は金色にくすみ、暖かみのある焦げ茶だった両目は緑色にぎらついている。
 パルスィは頬を歪ませた。
「わたしの、なまえは」
 ようやく得られた声は、弱々しく頼りなかったが、たしかに空気を震わせた。これがあれば十分だったのに。彼女に届けばそれで良かったのに。
「なまえは、パルスィ。……水橋のパルスィ」
 言い直したらしっくりきた。この身体は彼女のものでもある。私は彼女で、彼女は私。
 うん、と頷いて背中を伸ばす。
「まずは、腕を」
 その後のことは、後になってから考えよう。自分の行く先にまともな道などないだろうけれど、彼女に頼まれてしまったから。
 大地を照らす月を仰ぐ。歩いて、歩いて、歩き続けて、行き着く先は果たして何処か。


 暗転しそうになる世界を強引に引き寄せ、必死になって見据えた。第三の眼をいっぱいに見開き、何かないのか、と視線を走らせる。
 何かあるはずだ、とさとりは思う。
 パルスィは壊れていない。過去に自分を置き去りにして、それでも水橋パルスィは今を生きている。背中を押した何かがあるはずだ。かなしいだけでは、なかったはずだ。
 眼を凝らすさとりの耳に、突然、「ぱあるすぃい?」と幼い声が飛びこんできた。
 ひとりの少女が緑目の怪物の前に座りこんでいた。地面に掘られた文字を読み、不思議そうな顔で怪物を見やる。
「これが、あなたの名前?」
 怪物が首肯する。
「ぱあるすぃい、って言うの?」
 少し迷うそぶりを見せたが、また首肯する。
「変なの!」
 開けっぴろげな言葉に怪物がガクリと項垂れた。少女は「だって」と唇を尖らせる。
「ぱあるすぃい、なんて呼びづらいわよ。聞いたこともない。……唐の言葉? でもなさそうよねぇ」
 ぶつぶつと呟く少女は思索に励んでいたが、やがて、そうだ! と手を叩いた。
「ぱるすぃ、なんてどーお?」
 怪物が首を傾げる。少女は得意気に指を立てた。
「長いから呼びづらいんだから、短くすればいいのよ。あなたのほんとうのお名前は、ぱあるすぃい、だけど、これからは、ぱるすぃって呼びましょう」
 ゆらゆらと揺れる怪物に、少女は「大丈夫」と大きく頷く。
「最初はちょっと驚くけど、すぐに慣れるよ。わたしだって、ほんとうは水橋の姫だけど、みんな、場所を取って宇治の姫君って呼ぶもの。だから、大丈夫」
 少女が言うほど簡単な話ではない。人間と違って、妖怪は、文字通り名が体を表すのだ。名を変えられてはその妖怪の性質も変わってしまう。下手をしたら別の存在になってしまう。
 けれど、怪物は、大きくゆっくりと頷いた。少女は満面の笑みを浮かべ、怪物を両腕で抱きしめる。
「よーし、決まり! ぱるすぃ、これからよろしくね」

 ***

 暗転した世界から弾き出された瞬間、目眩に似た強烈な衝撃がさとりを襲った。平衡感覚を奪われ上も下も分からなくなる。目の奥がチカチカ光る。縦穴を落ちたあの時よりも辛い。
 無理矢理能力を使ったことによる制御の喪失、今までにないほど奥深くまでを読んだ衝撃、もしくは、その両方。
 空気を求めて懸命に喘ぐ。掴まれている手首が揺れ、パルスィがふっと力を抜く。
「これで、わかったでしょう」
 静かに言い聞かせ離れようとした手を、体を、しゃにむになって捕まえた。
 視界がぶれる。心は読めない。だが、こちらの手をわずかに握り返したその仕草に真情の流露を見た。
 パルスィ、と名前を呼ぶ。
「わたしは、まちますよ」
 目眩を堪えて三つの目を向ける。内心は見えない。けれども、さとりを見る彼女はひどく怯えているように見えた。
 間近にある口が開く。唇が震え、何も言えずに閉じた。白魚のような手を握りしめながら、代わりにさとりは言う。
「名前を、もらったのですね」
 とても大切な人だった。
 パルスィの表情が崩れる。
「その恩人を、壊して、狂わせて、喰ったのが私よ」視線を逸らし吐き捨てるように言う。今にも泣き出しそうなのに、それだけじゃない、と血を吐くように紡ぐ。
「わたしは、水橋の姫でもある。ふつうに従えず、嫉妬に狂い、夫もその妻も、皆を殺した。……わかるでしょう、あなたなら。やめておきなさい」
 言葉を待ったが、それ以上は何も言わなかった。一向に良くならない目眩はもう諦めることにして、パルスィの手を両手でつつむ。
「だから、待ちますと、申し上げました」
 浅緑の目がこちらを見る。きれいだ、としみじみ思った。
「あなたが、いろいろとこじらせてめんどうな性格をしているのは、承知しています。家族を傷つけられては困るのも、そのとおりです。でも、ねえ、パルスィ。そんなの、大した問題じゃないんですよ」
「じゅうぶん、たいしたことでしょうが」
「パルスィ。いえ、水橋のパルスィ、とお呼びしたほうがいいでしょうか」
 口を一文字に結ぶ彼女を覗きこみ、ほろりと笑う。
「私は、あなたが好きです。あなたがほしい。嫉妬に光るその瞳も、たったひとりを、性根を曲げてしまうほどに想うその心も、とてもきれい」
 でもね、と指先で肌をなでる。
「私では、あなたを助けられません。救えません。心を読むだけの妖怪に、川底に沈んだ橋姫を引き上げるのは荷が重すぎる。だから、ここまで上がって来てください。待ちますから」
 橋姫様、と心の中で呼びかける。
 愛し姫様、と心の中で呼んでみる。
「あなたの心は、いちずで、つよい。過去に想いを残しながらも、きちんと今を生きている。大したものです、ほんとうに。パルスィなら、昔のあなたも、傷も、すべてを受け入れられますよ」
 揺らぐ光を湛えた瞳が震える。縋るように手を握り返される。
 だが、彼女はさとりを見つめ、決して目をそらそうとしなかった。
「私とのことは、落ちついてから考えてくだされば結構です。気は長いほうですからね。やることもたくさんありますし、のんびり構えておきます。……どんな答えでもかまいません。あなたが笑えるならば」
 さとり、と囁くように呼ばれた。ふたつの声で呼ばれた。
 はい、と応えて、さとりは穏やかな微笑を浮かべる。
「たまには、待たせるほうにまわってもいいでしょう。いつまでもお待ちしますよ、はしひめさま」
「……橋姫を待とうなんて大間抜け、あんたくらいよ」
 捕まえていた手をそっと放す。両手の甲でぐしぐしと乱暴に目元を拭ったパルスィは、冷静な面差しを取り戻した。
 凜としたまなざしはさとりを映していないが、その横顔はやはりきれいだ。少しだけ見惚れて、さとりは口元をむずつかせる。

 ***

 待つと言ったが、通うのをやめるとは言っていない。頻度は相変わらず不定期だけれど、それからも、手料理を持ってパルスィの元を訪れた。
 さとりを招き入れる彼女はいつも、どこか遠くを見つめていたが、ふとした瞬間目の前に戻ってくる。そういう時のパルスィは、こちらとの距離や扱いを決め損ねているようで、なかなかに振り回された。
 例えば。

 ある時は、無言のまま髪を弄られた。
 生来のくせっ毛な上、こいしのように繊細で柔らかい髪質ではない己の髪は、かなりの跳ねっ返りだ。清潔感があれば十分なのだしと、空に毛繕いをされる以外は最低限の手入れで済ませていた。それが気にくわなかったらしい。
 使いこまれた櫛で丁寧に髪を梳かれると、なんともこそばゆい。第三の眼から体につながっている導線が邪魔らしく、なでるように除けられるのもくすぐったい。
 何を言っても『大人しくしてなさい』の一言でとりつく島がない。おまけに、時間をかけて手を入れられた結果さらさらの髪になったさとりに「見慣れない」の一言。両手でわしゃわしゃとなでくりまわし、すぐに元の自由に跳ね回る髪に戻ったのを見て満足げに頷くときた。
「なにがしたいのです、あなたは」
「地霊殿の主なんだから整えたほうがいいと思ったんだけど、予想以上に似合わなかった」
「行動に移す前に気づけませんでしたか」

 ある時は、珍しくかなり酔ったパルスィから、恋歌を求められた。
「だいたい、あんたは強引なのよ」
「はぁ」
「色恋事っていうのは、もうちょっと、いろいろ、駆け引きしながら距離を詰めていくものなのにさ。なつっこい犬っころみたいに来られちゃ、気づきたくなくても気づくわよ」
「わかりやすくはないつもりでいましたが」
「もっとほら、こう、歌とかないの」
「聞いていませんね?」
 んー、と赤ら顔を緩ませるパルスィに、さとりは思案を巡らせる。
 歌、歌か。
 彼女が言っているのは、おそらく、古より紡がれてきた詩歌のことだろう。思い起こしているのは大和歌だ。五・七・五の上の句に、七・七が連なった三十一文字。
 はて、困った。想いを歌に託して交わすなんて雅な文化、少なくとも古明地の集落にはなかった。麓に住む人間たちも持っていなかった。
「そもそも、誰かを想った時点で集落中に知れましたからねぇ。成立も破局も一瞬でしたし」
「嫌すぎる」
 思いっきり顔をしかめる。これが種族による隔たりというやつか。いや、そういえば、当時は眼を開いていたこいしも「趣もへったくれもない」と渋い顔をしていた。価値観の相違か。
 さとりからすれば、手っ取り早くて話が早いと思うけれど(事実、パルスィが心を読めたらと思うことは度々ある)ご所望ならば応えよう。そう思って考えたはいいが、そもそもの勝手が分からない。三十一文字、三十一文字、とくりかえす。
「こわいなら お待ちしましょう いつまでも、…………えっと」
 駄目だ後が続かない。
 上機嫌な様子から一転、パルスィが冷めきった目を向けてきた。
「ない」
「ない、ですか」
「とてもない」
「面目ありません」
『地下六六六階よりなお低い』
「そ、そこまで言います?」
 旧都の更に下ではないか。
 思わず反論したが、きっぱりと首肯された。
「数を合わせれば良いってもんじゃないの。決まりごととか、言葉遣いとか、いろいろあるのよ」
「すみません、無作法で」
『かくとだに 忍びいだくる わが思ひ さとりあらはす 君がことのは』
「な、なるほ、ど?」
 放り投げるように詠われた歌は、たしかに、己のものとは比べものにならなかった。すごいですねと素直に賞賛したら、大分めちゃくちゃよと首をふられた。
「どんな意味なんです?」
「ないしょ」
「えっ」
『これがわかるくらいには教養つけなさい。本はあったわよね? 旧都だって、ここのところずいぶん落ちついたんだから』
「ええ……?」
 困惑するさとりに、パルスィはいたずらっ子のような笑みを浮かべ、片目をつぶってみせた。
「地霊殿の主様でしょ。がんばりなさい」
「学ぶべきは大海のごとく、ですか。わかりました、わかりましたよ、パルスィ」
 こうも発破をかけられて、できませんでは情けない。
 そう定め、今まで触れてこなかった文学作品を片っ端から読みこんでいくうちに、いつしか本を読むことそのものが楽しくなっていた。特に、心情描写が詳細なものは興味深い。
 表現が美しすぎるもの、荒れすぎているもの、よくぞここまで精緻にと驚いたもの。どれもこれも刺激的だ。表現されている言葉や内容から、作者の人となりを想像するのも乙だった。
 また、文字に書いて表すというのは、それだけで思考を整える働きがある。これまで読んできた心たちを、半生や読んだ前後まであれやこれやと想像しながら文字に起こしてみたらなんとなくすっきりした。今までは気づかなかった視点を得ることもあった。
 こいしからは「お姉ちゃんが小説にハマるどころか書き始めるなんて、悪い冗談かと思った」と評されたが、なんだかんだにこにこと読んでいるので嫌なわけではないのだろう。

 そして、ある時は、「嘘でいいから」と袖を握られる。
 砕かれかねないほど荒れ狂い、浮いては沈み、不安定に揺らめく彼女の心は大分参っていた。どうしたのだろう、と考える。
 思い返せば、ここ最近、活気づいた地底を利用できないかと彼岸のお偉方が圧力をかけてきたり、幻想郷で博麗大結界とやらが張られたりとご近所さんが賑やかで、パルスィの顔を見られなかった。自分が訪れなかったあいだに、何か、心身を揺さぶるようなことがあったのかもしれない。
 という諸々を、読み終わるよりも早く口が動いていた。
「嘘ではないので、そのおねがいは聞けませんね」言ってから、せっかくの機会を逃したのではと思い当たった。
 あれ、と固まったさとりに、パルスィが軽く噴き出す。おかしそうに、けれど切なげに笑んで、額を軽く小突く。
「しまった、って思ったでしょ」
「……はい」
「撤回するなら今のうちよ」
「いえ。……いえ、撤回などしません。本音ですもの。あなたがほしいと言いました。その程度の妥協では物足りませんから」
『無理よ』と肩を落とす。同時に逡巡も伝わってきた。「無理ではありません」ときっぱり言いきり、さとりはふっと目の力を抜く。
「三百年以上通い詰めているのですよ。その事実を、もうすこし重く捉えてくれてもいいと思うのですが」
 パルスィが沈黙した。ぎゅう、と目をつぶり、細く長く息をはく。
「今日は、帰って」
「わかりました、待ちましょう。また来ますね」
 投げた言葉に応じる声はない。けれど、複雑な色に揺れる浅緑の瞳は、さとりのことをまっすぐに見つめている。

 重なることもあれば、離れることもある。寄せては返す水のように、つかず離れずの距離を保ったまま、さとりはパルスィを待ち続けた。
 こいしには「もどかしすぎてもうよくわかんない」と言われるけれど、今の関係は恐ろしいほど居心地が良い。小説の世界ならば、思い違いによるすれ違いのひとつやふたつも起ころうが、パルスィの心を見ていたら勘違いのしようがないのだ。いじらしいほど懸命に、過去や己自身と向き合おうとする彼女は、可愛らしかった。

 そうして、時たま吹き荒れる嵐をやり過ごしながら、かつて望んだ通りに平穏な生活を送っていた、ある日のことである。
 地底に、巫女と魔法使いが競い合うようにして殴りこんできた。

 ***

「お酒、飲む?」
 持参した料理の準備をパルスィに任せ、座卓に突っ伏すさとりにそんな言葉がかけられた。
「いえ、お気持ちだけで。……みっともない姿を見せてしまいそうですから」
 少しずつ飲み慣れていったので、一升飲んだらばたんきゅう、という事態には陥らなくなっている。それでも、地底基準で測るとさとりは酒に強くない。心身共に疲労困憊なところに酒を入れるのは憚られた。
「べつに、かまやしないけど」
 言いながら、手早く料理を並べる。
 白味噌を添えたふろふき大根に、ほうれん草と椎茸の柚子和え。俵型に握ったおむすびは、軽く炙って刻んだ青唐辛子を混ぜこんだ味噌を具としたものと、ごま塩を和えたものとの二種類がある。そこに、白木の汁椀も加えられた。干し椎茸でだしをとり、乾燥させた小海老を散らしたお吸い物だ。ああ、とさとりは頬を緩ませる。
 いただきますと声をそろえ、真っ先に汁椀を両手でつつんだ。少し熱いくらいのぬくもりが椀から伝わってくる。火鉢で温められているとはいえ、水橋宅は地霊殿よりも寒いし、真冬の地底の空を、半刻(約一時間)かけて飛んできた体は芯から冷えきっている。気遣いがありがたかった。
 汁を啜ると腹の底から温められる。体がぽかぽかしてきて、久しく忘れていた食欲も湧いてきた。見苦しくならない程度に箸を動かす。勢いよくぱくつくさとりに、パルスィは優しい微笑を浮かべている。
「ああ、おいしかった。生きかえりました」
「忙しそうにしてたものね」
 他人事のように言うが、彼女がさとりやこいしたちを案じて地霊殿を訪れていたことは知っている。先の異変の後処理に忙殺されていたので一度も相まみえず、かなり切ない思いをしたものだ。
「その節はすみませんでした」と苦く笑い、さとりは遠い目になる。
「真犯人、もとい真犯神と話がついたからよかったのですけど。八雲からは"手段くらい選べペットを管理しろ"と怒られましたし、萃香には"ようやく見せた隙がこれか"と笑われましたし、映姫さんは、信頼と放任と放置の兼ね合いについて説教を」
 朝から夕までは外や勇儀とのやりとり、夕から夜半までは家族の食事と状態の確認、夜半から朝までは、頑なにさとりと会おうとしない真犯神の二柱への書簡をつくり、間欠泉地下センターの完成予想図を確認し、八咫烏や核についての文献を漁りつつ、空いた時間に、四季閻魔と相談を行って、久方ぶりに地上に出て調子づく怨霊たちを締め上げる。
 かつての頃よりさらに酷い。絶対に戻ってなるものかと固く決意していた生活以上の仕事に襲われ、さすがに参った。
「一ヶ月耐久不眠生活も案外なんてことないですね。時たま、誰も寝てはならぬ、と叫びたくなりましたが」
 ふふふふ、と虚ろに笑うさとりに、パルスィは黙って先を促した。穏やかなまなざしはどこかこちらを甘やかすようで、ついつい言葉が口をつく。
「みんなして、好き勝手なことを言ってくるんですよ。ほんとうに、もう」
 深いため息をついた。
 眉間を押さえたら手が伸ばされる。ぽんぽん、とあやすように頭をなでられた。『よくがんばったわね』と和やか言われ、胃のあたりに渦巻いていた重い澱みがふっと軽くなる。同時に、気恥ずかしさがこみ上げてくる。
 やってしまった。これでは、酒を断った意味がない。
「す、……すみませんでした、パルスィ。せっかくあなたといられるのに、愚痴ばかり」
「かまやしないって言ったでしょう」
 素っ気ない言葉に『あなたのことだもの』と続けられ、喉が変な風に引っかかる。どうも、長年の願いが叶う瞬間というのは、こちらがついて行けないほどあっさり与えられるらしい。
 目を白黒させ、口を開いて閉じてをくりかえすさとりの反応に、パルスィはふはっと破顔した。「おっかしい顔」と笑う彼女の、心は凪いだ水面のようだ。
 喜びに頭が追いつけなくて疑問ばかりが先行する。下手を打っていると分かっているのにぐるぐるまわる思考がまとまらない。
 どうにか落ち着こうとしたが、できなかった。諦めて「無粋を許してください」と断ったら「今さらすぎる」と即答された。敵わない。
「理由を、伺っても?」
「……言いづらいんだけど」
 言いながら、異変の際にかちこんできた巫女と魔法使いとを心に浮かべる。
 片や宙に舞う花のように自由自在に、片や彗星のようにまっすぐに。勝ち気に笑んだ少女たちは弾幕の中に躍りこんできた。
 ごっこ遊びとはいえ当たれば痛い。虚弱な人間では、下手を打ったら死につながる可能性も皆無ではない。まして、忌み嫌われ追いやられた地底の妖怪を相手取っているというのに、彼女たちは腹の底から楽しそうに笑って、
 ──ひとり残らず完膚なきまでに叩き潰し、勝利を引っ提げ飛び去っていった。
「あいつらを見ていたら、なんだか、こんなに怖がってるのが馬鹿馬鹿しくなってきて」
 さとりが差し出し続ける手のひらは、パルスィが求めた途端に引っこめられるものかもしれない。
 それならそれで構わない、と思うようになっていた。土壇場で取り上げられ、無様な橋姫だと嘲られても、与えられた言葉は忘れられない。寄せられた優しさは心に染みこんでいる。辿り着いたこの最果てで、最後にこんなに温かい気持ちを抱きしめたまま逝けるなら、嘘で良かった。
 けれど、ああも不敵で不遜な(おまけに強力な妖怪たちの力を纏った!)人間たちを見てしまうと、大人しく神妙になどしていられなくなった。
 真面目くさって思い悩むなんて阿呆らしい。しがらみに縛られて苦しむなんて馬鹿らしい。歩きかたが思い出せず、途方に暮れたままかつてのあの時に立ち尽くしていたパルスィを、笑顔で伸して悠々飛び越えていった彼女たちが、心から妬ましい。
 ──わたしだって、ちゃんと歩ける!
「もしも嘘だったら、全力で張り倒してから、本気になってもらえるようにがんばればいいか、って」
「心底から惚れこんでいてよかったですよ、ほんとうに」
 彼女の膂力で殴られてはしばらくベッドから起き上がれないだろう。
 想像してしまい軽く青ざめたさとりに、パルスィはいたずらっ子のようににこりと笑う。
「そうね。命拾いしたわね」
 花咲くような可憐な笑みを見て、さとりはしばし言葉を失した。じんわりと湧き出るような、沁み入るような幸福感があった。
 初めてだ。初めて受け入れられた。初めて応えてくれた。

 瞬間、爆発音が轟いた。
「は?」
「え?」
 急展開に心が切り替えられない。素っ頓狂な声を上げてしまう。
 だが、地底中を振動させるような衝撃に、呆けている場合ではないと理性が戻ってきた。パルスィと顔を見合わせ、一拍おいて立ち上がる。
「これだけの衝撃となると、勇儀が?」
「まさか。アイツにここまで出させる相手なんていないわよ。まして、弾幕ごっこができたのに」
「ですよね」
 表に飛び出したさとりたちの目に、意味が分からないものが飛びこんできた。
 木造帆船、空を飛ぶ。全長百尺(約三〇メートル)を優に超える巨大な舟が、猛烈な勢いでこちらに近づいている。大きく「寶」と書かれた白い帆は風を受けて誇らしげに膨らんでおり、減速する気配はない。むしろどんどん増速している。
「なんで! 舟が空を飛ぶのよ!?」
 眼を最大級に見開いたはいいものの固まってしまったさとりをかばい、パルスィが叫ぶ。しっかと抱きしめられ地に伏せた直後、恐ろしいほどの風圧をまき散らして頭上を舟が飛んでいった。同時に、声が届けられた。

「押しとぉぉおおおる!!」
「パルスィさんごめんなさい、通行料はあとで払いますので!!」
『すまぬ』
「飽きたら戻ってくるわー」

 村紗の、一輪の、雲山の、それからぬえの声を捉えた瞬間、舟が垂直に向きを変え、縦穴の奥に消えていった。船幅が足りないのだろう。時折、岩を削るような轟音と、落石がある。
 その音も聞こえなくなりあたりに静寂が戻ってからも、しばらくのあいだ、そろって縦穴を見つめていた。『意味わかんない』との呟きに「ほんとうに」と首肯する。
「……命蓮殿の法力の結晶。空を飛ぶ穀倉。舟にもなると聞いてはいましたが、さて」
「そこそこまともなヤツらだと思ってたのに」
 嘆きつつ飛び立とうとするパルスィの手を掴む。「なによ」と睨まれたので「やめてください」と首をふった。それだけで伝わったらしい。パルスィは面倒くさそうに『仕方ないじゃない』と眉をひそめる。
「ヤマメやキスメなら問題ないでしょう。不意打ちになったとしても、あのていどでどうにかなる玉ではありません」
「けど」
「地上との交流は、徐々に再開していこうとの話でまとまっています。怨霊の管理を厳しくしておけば、そこまで口は出されないでしょう」
「いや、でも、あんな舟」
「間欠泉のせいにします」
 徐々に騒がしくなっている旧都方面を眼に映しながら、さとりはきっぱりと声を張る。
「灼熱地獄が復活した影響で、間欠泉が不規則に噴出しているのは事実ですから。それに巻きこまれて勝手に出て行った、と」
 こんな詭弁、一輪たちの行動次第で簡単に吹き飛んでしまう。承知しているが彼女たちのひととなりはそれなりに知っているのだ。強引に通せる可能性は低くない。
 ですから、とさとりはパルスィをじっと見た。
「やめてください。しなくていい怪我を負うことはありません」
 それでも納得しきれなかったようだが、旧都の騒ぎがいい加減無視できなくなってきた。勇儀ひとりに任せているのは無理がありそうだ。
 さとりの表情から察したらしい。「わかった」とため息をついて、パルスィはさとりの手を一度握る。
 ぬくもりをしっかり染みつけて、手を放す。『様子は見に行くわよ』との言葉に「おねがいします」と頷いて、さとりはふと苦笑を浮かべた。
「それにしたって、なにも、今このタイミングでなくてもいいと思いません? せっかく、ようやく、心置きなくいちゃいちゃできると思ったのに」
「いちゃいちゃって」
 馬鹿、と眉根を寄せる、その頬は淡く染まっている。おどけるように笑ってみせはしたが、切なさがいっそう増した。
「あーあ」と嘆くと頬がなでられた。『無理するんじゃないわよ』と釘を刺される。その声音は気遣わしげだ。柔らかな手のひらに慰めを得て、「はい」と気持ちを切り替える。
「なるべく……できるだけはやく、また来ます」
「ゆっくりでいい。待ってるから」
 ぐ、と頷いて宙に浮かぶ。何度も何度もふり返るさとりを、パルスィは苦笑して見送っている。

 ***

 一輪たちを信じたのは正解だった。恩人の復活と救出を見事成し遂げた彼女たちは、「また変な住人が増えた」程度の認識で幻想郷に受け入れられ、暮らしている。
「あんな馬鹿でかい舟を吹き上げられる間欠泉がありますか」と頭を抱えていた八雲の九尾も、事態の終着点に胸をなで下ろしていた。純粋な頭脳による策謀ではさとりを凌ぐ彼女だが、信愛する主が冬眠する時期の異変に神経をすり減らしたのだろう。迷惑料として渡した地底の地酒に珍しく喜色をこぼしていた。

 心配していた旧都の面々も、彼女らの旅立ちをおおよそ好意的に受け入れていた。元々地上から追いやられた身、焦がれる気持ちは少なくないはずだが、「今は地底が我が住まい」の思いが勝ったらしい。地上には物見遊山に赴けば十分、帰ってくるのはこの場所だと。
「どうだい、さとり」
 満たされた面持ちの勇儀に問われ、口元を仄かに緩める。
「誰も嘘は言っていませんね。やってきたことは、まったくの無駄でもなかった。その認識で間違っていないかと」
「相変わらず偉そうな物言いだ。ま、だが」
 軽く握ったこぶしを差し出される。
 まっすぐな信頼はどうにもこそばゆいが、同じようにこぶしを握り、手の甲同士をこつんと当てた。
「今後ともよろしく頼むよ」
「ええ、こちらこそ」

 片っ端から片付けていっても、一段落にはほど遠い。そろそろ平気だろうと燐たちの管理は緩めたので自由に使える時間はできたが、仮眠をとるのは数日に一度という生活は続いていた。
 一日の気晴らしにと身を清めてまた執務室にこもり、聖白蓮からの来訪を打診する書簡を前に考えこんでいると、唐突に真正面に気配が降ってきた。
「まーたそんなことして。かわいくないからやめたほうがいいよって、言ったでしょ?」
「っ」
 朗らかな声に肩が跳ねた。バクバクと早くなる鼓動を抱えながら、「こいし」と顔を上げる。髪を額で押さえていたカチューシャをずり上げられ、ピンピン跳ねる前髪をなでられる。
 帰ってきてくれたのは嬉しいし、久しぶりに顔を見られて安心したが、
「いつも言っているけれど、せめて、ドアをノックしてから入ってきてくれないかしら」
「性分です」
「またそんなことを言って」
「お姉ちゃんをビックリさせるのは私の十八番だもん」
 ふふん、と胸を反らす仕草が愛らしい。はいはい、と笑うさとりの手元を覗きこみ、こいしは「ふぅん」と唇に指を当てた。
「水蜜さんたちの恩人さんだね? ご招待するの?」
「いえ、勇儀に任せましょう。飛倉の欠片が地底に残っていないか探したいそうだから、そのほうがやりやすいだろうし」
「あとやることは?」
 楽しそうな問いかけを意外に感じる。こいしは、どちらかというと自由気ままに外を歩き回っているのが好きなようで、さとりの仕事に興味を示すことはなかったのに。
「急ぎのものは、勇儀との相談と、映姫さんへの返書ね。彼岸のお偉方が舟の件を理由にまたちょっかいを出そうとしているようだから、……藍さんにも軽く相談しておいたほうがいいかしら。幻想郷側から言ってもらったほうが効くし。ああ、間欠泉地下センターも仕上げに入っているらしいから、視察と、どういう経路を作るか検討しておかないと。そういえば、苺の収穫量が前回よりも減ったって」
「ストップ、もういい」
 指折り数え挙げていくと、げんなりした顔で制止された。大きなため息をついて「ワーカーホリック」とぽつりとこぼす。意味が分からなくて首を傾げた。仕事をしたくてしているのではなく、やらざるを得ないから嫌々やっているだけなのだが。
「お姉ちゃんさぁ」と斜眼を向けられる。
「このあいだパルスィさんのとこ行ってから、何日経ったと思ってるの」
「……ふたつき」
 もう一度、肺の空気を全てはき出すかのようなため息をつかれた。と思ったらこいしが消える。
 はて、と周囲を見渡すと、いつの間にやら窓が開き、椅子から引っ張り上げられていた。
「とりあえず、勇儀さんに地上の尼さんが来るよって伝えて、映姫さんに、藍さんに相談してみるよってお返事すればいいんだね?」
「こいし、まちなさい」
「まーちーまーせーん。まったく、唐変木な姉をもつと苦労するわー」
「それについては申し訳ないと、まってこいし、まだ仕事が」
「一日くらい休んでも平気だよ。お姉ちゃん知らないの? ちゃんと休憩して、充電しないと、能率って下がるだけなんだよ」
「そうは言っても、あ、せめてお土産を」
「そういう風に変に格好をつけるからさぁ」
 ずりずりと窓際まで引きずられ、
「パルスィさんのとこに行けるチャンスを逃すんでしょー!」
 気合い一発、外に放り投げられた。
 温暖な空気につつまれる。そのまま自由落下しそうになり、慌てて宙に浮かんだ。反転した視界に七色に煌めく石桜が飛びこんできて、はた、と目を瞬いた。もうこんな季節になっていたのか。
 封じこんでいた寂寥がふつふつとこみ上げてくる。体勢を立て直して地霊殿を見たら、「いってらっしゃーい」と手をふったこいしに窓を閉められた。まったく、気の利く妹がいると心強い。
 上着を持っていないことに気づいたが取りに戻る時間も惜しい。ふよふよと高度を増して、最短ルートでパルスィの家へ向かう。


「──という次第でして」
「だからって、スリッパも履き替えずに来ることないでしょうに」
「つい失念してしまいました」
 春先とはいえ、地底は寒く上空は更に冷える。息を凍えさせながら戸を叩いたさとりを、パルスィは慌てて招き入れた。暖かい室内に肩の力を抜きながら、愛用のスリッパを汚さないよう脇に置いた。
 床につくところだったのだろう。火鉢に暖を起こしなおそうとするパルスィを止め、しげしげとその姿に見入る。小紋を散らした淡い色味の浴衣は初めて見るものだった。
 視線を受け、パルスィは照れくさいと視線をそらす。
「ヤマメに頼んだら、なんだか、ずいぶん少女趣味になっちゃって」
「よくお似合いですよ」
「う、ん」
 しかし、と小首を傾げる。もとより身だしなみは整っている彼女だったが、寝間着は地味なものを好んでいたおぼえがあった。
 無言の問いを受け「だって」といっそう頬を赤らめる。
『待ってるって言ったでしょ』
「はうあ」
 意図せず奇声が出た。顔を覆った。予想外のいじらしい姿に肩がぷるぷると震えてしまう。なんだろう。なんだろう、このかわいいひとは。
 静かに身悶えていたら不安そうに名が呼ばれる。すみませんと首をふり、熱い頬に手で風を送った。
「心を打ち抜かれるとはこういう感覚かと……長いこと待たせてしまった自分が情けないと……ねえ、パルスィ、やっぱり地霊殿に住みませんか。養いますよ」
「いやよ、縦穴まで遠いし」
「ですよね……」
 ため息の代わりに思いっきり抱きしめた。彼女自身の匂いとは別に、秘めやかな花の香気も鼻腔をくすぐる。この香りは胡蝶蘭か。今までの自分を拳骨で殴りたい。
 怖々と背中に腕が回された。「気にしなくてもいいのに」との言は本心からで、いっそう腕に力をこめる。
 窘めるように名を呼ばれた。渋々顔を上げる。彼女の目に映る己はずいぶんへたれた顔をしていた。そんな頬に手を添え『こんなに冷えて』と柳眉を下げる。
「でしたら」彼女のまなじりをなでた手は、たしかに、指先まで冷えきっている。
「あたためてくれますか?」
 その言葉が合図となり、ふたりしてもつれるように布団に倒れこんだ。

 ヤマメ特製の浴衣は恐ろしく手触りが良い。おまけに、山吹色の髪や浅緑の瞳が映えるよう、絶妙な塩梅で彩られている。キスの雨を降らせながら浴衣の胸元を割り開き、さとりは感嘆の息をついた。
「パルスィ」
 浮かされた声で名を呼ばれ、パルスィは恥ずかしいと頬を染める。けれど、眼に映る彼女はそれ以上にさとりを求めてくれていて、多幸感が胸を満たした。
「きれいです。とってもきれい」
「う、るさ、っ……」
 形の良い乳房は柔らかく、指に合わせて形を変える。そのくせ十分な弾力があって、ぷるんと揺れるのが目を引いた。慎ましやかな頂は桜色で、かするように時折触れてやると押さえられた嬌声が漏れる。
 尖った耳をさわさわと愛撫しながら己には無い胸の感触を堪能していたら、色に呑まれつつある彼女の心に疑問が生じた。頬に口づけ、視線で促す。困ったように眉が下がる。
「あなた、なん、だか、っあ」
『慣れてない?』と続けられ、ああ、と頷く。
 どうやら、パルスィの想定としては、未経験のさとりを彼女が優しく導いてやる予定だったらしい。それもそれで非常に心惹かれるので「今度おねがいします」と応えた上で、頬をすり寄せる。
「以前も話したかもしれませんが、覚の集落は筒抜けですから。それが嫌な者は、集落から離れた場所に閨を持っていましたけれど、気にしない者も多かったので」
「情操教育、んっ、どうなってんのよ」
「心が伝わるだけですもの。それに、筒抜けなのがかえって興奮するという意見もありましたし」
「変態っ」
「私じゃありませんよ」
 言いながら、鎖骨にそって指先を這わせる。ぞくりと背を震わせ、腕を掴む手に力がこめられた。もどかしいのは嫌いではないらしい。薄皮に触れるか触れないかくらいの力加減で白磁のような素肌をくすぐる。パルスィが腰を揺らした。
 それから、と爛々と輝く赤い眼をよく見えるように示してやる。内心を読まれていると認識した途端、いっそう彼女の心が蕩けた。素直な反応に興奮が煽られる一方で、少しだけつついてみたくなる。言おうとしていた台詞の代わりに、底意地の悪い笑みを浮かべる。
「……幼い子の中には、性欲を処理する方法をわかっていない子もいましたからね。まったくの未経験というわけでも」
「なっ、この、ふあぁっ」
 存外強烈な嫉妬を向けられたので弱いところをつねって主導権を奪われないようにした。すぐに「ごめんなさい、意地悪をしました」と頭をなで、ぎらつく目を覗きこむ。
「道具しか使っていませんし、そも、人型にもなれない幼い子たちです。自分たちでやりくりできるようになってからは関与していません。もちろん、あなたに想いを寄せてからは、一切、誰とも」
 許してもらえませんかと窺ったら「趣味悪い」と目を覆われた。隠さないでください、と腕をのけて底光りする緑目に頬を緩める。
「その目が見たくて、つい。……え、お燐? いいえ、彼女は早いうちから人型になれましたし。お空? 同様です。そもそもあの子は、性欲の概念そのものが希薄でしたから。お燐が苦戦していましたよ」
「……仮にも恋人を抱いてるってのに、他の名前を出さないでくれる?」
「すみません、パルスィ」
 にこにこと頬をなでたら首元にかみつかれた。耐えられないほどの痛みではないが、鋭い犬歯は皮膚を破る。がぶがぶと何度もかみついて、くっきりと歯形が残った青白い肌をなで、パルスィは満足げに鼻を鳴らす。
「マーキングをされてしまいましたか」
「なんでうれしそうなのよ」
「独占欲と思うと、どうも」
 ばつが悪そうに逃げようとした顔を固定し、口付ける。薄くて紅い唇を食み、舌を差し入れたら仄かに血の味がした。さとり、と求められたので唾液を押しこむ。細い喉がこくりと動いた。
 欲されるまま口づけを重ね、紐帯をほどいて浴衣をはだけさせる。まっさらなままの素肌はほのかに上気し赤らんでいた。
「下着はつけていないのですね」
 下腹から腰をなぞりながら言う。吐息のような声の合間に『寝るときは、慣れなくて』と言い訳をされた。
「これはこれで趣がありますけれど、下着を脱がせる浪漫、というのも味わってみたいなと」
「んぅ……じゃあ、こんど」
「はい」
 内ももをなでると期待に満ちたまなざしが向けられた。秘所は既に濡れそぼり、刺激を求めてひくついている。それを目と眼で確認しながらも、肌に触れる手はあくまで優しく、刺激少なを心がける。
「さ、とり」声が濡れた。
「なんでこんな」もどかしそうに問われる。「ほしいですか?」と逆に尋ねたら、口ごもり、『うん』と頷いた。口元を綻ばせるさとりに、読まれたと理解したのだろう。耳まで赤く染めて心をとかす。
「わ、かってるなら、ぁんっ」
「わかってはいるのですが」
「そ、こっ……ぁ、まって、つよぃ……うぁ」
「まだダメですよ」
 イっちゃう、と白く染まりそうになるところで刺激をやめ、頭をなでる。中途半端な状態にとどめられ、緑目の端に涙が浮かんだ。
「なん、でぇ?」
 情欲に濡れる声に背筋が震えた。無防備なほど素直な痴態に第三の眼ですり寄って、さとりは囁く。
「以前の方は、ずいぶんと情熱的なやりかただったようですから。ちょっとした反抗心です」
「そんな」
 途方に暮れるパルスィの鎖骨に唇を落とし、胸の頂をくすぐる。去来しかけていた見知らぬ優男の姿が消え、意地の悪い微笑を浮かべたさとりが彼女の心を占める。少しだけ溜飲が下がった。
 仮にも水橋の姫の夫なので好意的な言葉を選んだが、彼女の前夫は、ずいぶん手荒いやり口を好んだようだ。それしか知らないパルスィは、さとりの穏やかな愛撫に奇妙さや戸惑いを抱いている。追い追い全てを上書きするとしても、ひとまずは、その感覚を塗り替えたい。
「せっかくの機会です。ゆっくり楽しみませんか、パルスィ?」
「ひぁうっ」
 ふっくりと充血した陰核を優しく弾く。電流が走ったように身を跳ねさせた彼女だが、それ以上は弄らずに、また緩やかな愛撫に戻してやると「そんなぁ」と泣き声をこぼした。
 高みに上り詰めながらあとひと息が超えられない。そんな現状のまま、好きなように弄くり回されるのを想像したのだろう。絶望的な表情を浮かべる。
 けれども。
「私になら、ですか。うれしいですねぇ。ええ、もちろん、嫌なことはしないよう努めますよ」
「ぅ、ぁ」
 とろとろにほどけた柔らかい心はさとりに心身を任せきっていた。元々、被虐欲は強いほうなのだろう。寸止めを受け続けて気が狂いそうになる自身を想像して、昂ぶる。ほとんどまともに触れていないのに、秘所からは愛液がしとどに溢れ、シーツを濡らしていた。
「……自覚はなかったけれど」
 ぽつりと呟く。ふやけた瞳に疑問がよぎるのを認めて「なんでもありません」とキスをひとつ。さとりの言葉を素直に受け入れる様を見てしまうと、普段はそこまで意識していない凶暴で冷然とした部分が刺激されてしまう。
(好きな子ほどなんとやら。……気をつけなければ)
 きゅ、と乳首を指でこする。それだけであられもない悲鳴をあげたパルスィに、ゾクゾクと震える快感を抱きながら、嫌なことはしないように、と己に重ねて言い聞かせる。

 時間にして半刻(約一時間)ほどだろうか。丹念な愛撫を与えてゆく。パルスィは息もつけない様子だった。
「さとりっ、も、ゃ、やだぁっ」
 顔から耳の先、首筋、胸元までを紅潮させ、目からは生理的な涙が止めどなく流れている。これでもかと快楽をためこんだ肢体は、わずかな刺激にも過敏に反応し、解放を求めて縋りついてくる。『さとり、さとり』と一生懸命にこちらを求める心はさとりのことしか考えられていない。言いようのない充足感が癖になってしまいそうだ。
 軽く口づけたらがむしゃらに舌を求められた。応えてやりながら耳の縁をなぞると、それだけで達してしまいそうだ。こら、と軽く叱って身を離す。
 いっぱいに伸ばしてくる赤い舌をひとさし指でなで、くすぐり、口の中に押しこんでみたら、夢中になって指をしゃぶる。中指も唇にあてがうと、何も言わないうちから二本の指をくわえ、一本一本を丁寧に舌で愛撫する。淫らな痴態を取り繕おうともせず、一心不乱に指に奉仕されると触ってもいない秘裂が濡れた。
「もういいですよ」
 えづきそうになりながら奥まで咥えようとしたので、制止する。伝わってきた不満に苦笑してしまった。苦しいのも気持ちいい、ときたか。調子に乗って焦らしすぎたかもしれない。
「こちらにはいらないのですか?」
 ぐちゃぐちゃにふやけている秘裂をなぞると、涙に濡れた表情がとけた。「ほしい」と言った弾みでまた涙が溢れてくる。『さとり、おねがい。ほしいの。ちょうだい』と懸命にねだられて思わず笑み崩れてしまう。
「そうですね。ずいぶんと我慢させてしまいましたし」
 言いながら首筋に唇を落とす。それだけで大きく身震いした。
「こんなに愛らしく求められては、さすがに理性が保ちません」
「じゃあ、」
「はい」
 目を輝かせたパルスィに笑顔で頷く。
 それだけでは貪りとられそうな心が見えたので「ただし」とパルスィを布団に押し倒した。衣擦れの感触にすら身をよじる彼女を見下ろして、一言だけ命ずる。
「私がいいと言うまで、勝手に達してはいけませんよ」
「なっ」
 天国から地獄、とはこういう時に使う表現なのかもしれない。喜色から一転、「そんな、そんな」と必死に首をふるパルスィにほほえみかける。
「できませんか?」
「無理よ、無理に決まって……だって、からだ、もう」
「では、ここでやめますか?」
 さすがに可哀想かと思ったが、言葉が口をつくほうが早かった。さとりの提案に、揺れる瞳から雫が溢れる。『やだ、そんなの』と心は縋ってくるのに、
「……やぁ……」
 涙が溢れる目を両腕で覆い、弱々しい声で乞われると、どうにも。
(かわいい……)
 反省どころか調子づく一方の嗜虐欲に頭を抱えたくなる。しかし、これ以上追い詰めては本格的に辛がらせてしまうとギリギリのところで理性が働いた。
 泣きじゃくるパルスィに第三の眼がすり寄った。「パルスィ」とできるだけ優しく名前を呼んで、まぶたに、額にと口づけを落とす。「ふゃ」とあどけない声が嗜虐欲を刺激しそうになり、慌てて理性で引き止めた。
「やめるのが嫌なら、がんばってみましょう?」
 引き止めきれなかった。
 もう彼女が欲したことはなんでも聞き入れるつもりだったのに、己の口から出たのはそんな言葉で、なのにパルスィは「……ん」と素直に頷いてしまう。
「なるべくゆっくりさわりますから。ね?」
 頬をなでながら秘裂に触れる。びしょ濡れのわれめはひどく熱くて、軽くあてがうだけで呑みこまれそうだった。
 つぷ、と中指を沈ませる。「っふ、ぁあ」びくりと身を震わせ肩を縮めたが、どうにか堪えたらしい。きゅうっと目をつぶり、浅い呼気をくりかえし、快感に呑まれまいと耐える姿がいじらしい。刺激しすぎないよう細心の注意を払って根元まで埋める。待ちわびたようにぬるぬるとうねる襞が絡みついてきた。
 パルスィ、と額にキスを落とす。さとりを見上げた緑目はとろりと綻んでいる。『さとり、さとり。おねがい、イきたい、イかせて』と懇願する言葉と、『もっとほしい』と被虐を求める言葉とがある。決断は早かった。
「まだ、ダメですよ」
「ひ、ぁああっ!?」
 膣奥のこりこりした部分を指の腹でそっと圧す。華奢な背中が弓のように反ったが、さとりの言いつけを懸命に守ろうとしている。
「ここが好きなんですね」
「やあっ、あ、だめ、もぉ」
「いけません。がまんなさい」
「だって、んあっ、そこ、きもちひ、……だめ、イく、イっちゃぁ」
「言うことが聞けませんか?」
 ゆっくりとした刺激は止めずに少しだけ厳しく命じると、愛液がこぷりと溢れてきた。発情した心が悦びの悲鳴を上げる。カチカチと歯を鳴らしながらも、今にも爆発しそうなほどぱんぱんに張り詰めた快感を堪えようと、必死で首元に縋りついてくる。
『ごめん、ごめんなさい』とさとりの機嫌を損ねることを恐れる声と、『きもちいいの、もっとして』と一心に喜悦を求める声、言葉の体を成していない艶やかな悲鳴とが混じり合って、こちらの心が飽和しそうだった。
「パルスィ、」ひとさし指もねじこむ。にちゃりと音を立てて難なく奥まで咥えこまれた。法悦に蕩けた声が鼓膜を叩く。むせかえるような女の匂いに頭の奥がくらくらした。これ以上はこちらも箍が外れてしまう。
「いいですよ、イって」
 くにくにと奥深くを優しく押しこむ。瞬間、流れこんでいた全てが白く弾けた。途方もなく深い官能が伝わってきて、さとりもまなじりを引き締め痩身を震わせる。二本の指は痛いくらいに締めつけられ、粘度のある愛液が手首までつたってきた。
「っぁ、あ……は、ぁあ……」
 淫蕩な表情を隠そうともせず、恍惚とする彼女は言い尽くせないほど可憐で、淫らだ。己の身が落ちつくのを待って汗ばむ頬をそっとなでた。明瞭な思考は戻らないまま、むき出しの心が求めるまま甘えるように頬を寄せられる。
「……かわいい」
 ぽつりとこぼす。彼女の心よりも、体が先に反応した。
 未だ中に入れたままの指をきゅうんとつかみ、くちゅ、と咀嚼するように伸縮する。
「え」
「ひぁっ!?」
 ちゅくちゅくと指をしゃぶる膣壁は、まだ足りないとでも言うようにさとりの指に絡みついた。パルスィの心が快感と混乱とに揺れる。『まって、まって』と身を落ちつかせようと試みているが、喜悦にくねる肢体は彼女の言うことを聞かなかった。
「やっ、ぁぅ、あっ……なに、これぇっ」
「ええと」
 チリチリとひりつく欲動を抑えながら、さとりは「おそらく」と仮説に至る。
 おそらく、焦らしすぎたのだろう。耐えに耐えた快楽の発露は一度では収まらなかった。混乱と快感とが目立っているが、パルスィの心の端には『もっとほしい』と刺激をねだる、根源的な欲求に近い声もある。常は意識の下で大人しく過ごしているその欲求を、さとりは刺激しすぎてしまった。
「たくさんがんばったんだから、ご褒美がほしい、と。もっともね」
「ぅっあ、なん、やぁ、なに言ってっ」
「つまりは、そうですね、大人しく抱かれてください」
「わけわかんな、ふぁあっ」
 くい、とひとさし指を曲げて浅い箇所を刺激する。ざらついた天井を抉るように押しこみながら、奥の弱いところをそっとくすぐると、身をよじって強すぎる快感から逃れようとした。
 さとりを押し返そうとする両手には力が入っていない。空いているほうの手で掴んで、「きれいですよ」と手のひら同士を握り合わせる。
 ひっ、と細い悲鳴を上げ全身が震えた。喜悦をより求めようと腰を持ち上げていた体から力が抜け、湿った布団に崩れ落ちる。逃しはせずに身を寄せた。
「まっ、て、さと……ぃ、ぁぁ」
「ごめんなさい、やめられません」
『いま、イってるの。イくのとまらないの。おねがい、まって』
「無理です」
 反論も喘ぎ声も口づけで封じる。
 完全に弾みがついてしまったらしい。二本の指を中でばらつかせるたび、パルスィは軽い絶頂に達している。息がしづらいかと体を離そうとしたら、『やだぁ』と抱きしめられた。頭の芯がカァッと熱くなる。
「あなたは、だから、そういうことを」
 指の腹で弱いところをぎゅうっとこする。細く白い喉が引きつった。喘ぐように口をぱくぱくさせながら、自由にならない体を寄せてこようとする。
『だって、嫌なの。はなさないで。ぎゅってして』
「はなせるわけ、ないでしょう、もう」
 感じすぎて声も出せないくせに、目の焦点も合っていないのに。必死に縋ってくるパルスィが愛おしくてたまらない。泣き笑いになる。
 ぎゅう、ときつく抱きしめたらそれだけで達した。さとりを求めて浅いところまで降りてきた子宮口を軽くなでるとまた達する。求めているのか、求められているのかよく分からない。ふるりと揺れる乳房を食むと膣壁が痙攣する。
 休む間もなく強い快楽の波に呑みこまれて悲鳴を上げているのに、パルスィはどこか幸福そうに表情を弛緩させた。『さとり、さとり』とその名が全てだと言わんばかりにくりかえす。
「しゃとぃ、ぁ、すきぃ……」
 蕩けるように囁かれ、胸が詰まる。何も言えなくなる。
 脱力しきった身体を限界まで抱き寄せて、抱きしめて、第三の眼から伸びる導線でも自らに縛りつけた。パルスィ、と絞りだして、ありったけの気持ちを言葉に託す。
「好きですよ、パルスィ。わたしも、あなたが、だいすきです」
 眼に映る心がほにゃりと緩む。嬉しそうな声が白波に似た快楽にとける。
 声にならない悲鳴を上げ、きゅうぅと全身を縮ませて、直後、ふっと脱力する。くちゅ、ちゃく、と余韻に浸るようにさとりの指を味わうパルスィの、体に意識は戻ってこない。

 はふ、と思わず息をついたら、あたりにはあまりに色濃い香りが満ちていた。くらりとふらつく思考のままに、刺激しないよう指だけ抜いて、パルスィのとなりに倒れこむ。寝そべったまま見つめる寝顔は、玉のような汗を浮かべて凄艶な色気を漂わせていたが、同時に、幼子のように力の抜けきった様相でもあった。
 ふふ、とついつい笑ってしまう。どうにもならないほど圧倒的な充足感や、幸福感がこみ上げてきた。
 どうしても堪えられない笑い声をこぼしながら、若干痺れている腕を動かして、足下にくしゃついていた毛布を引き上げる。本来ならば、互いの汗やら愛液やらでベトベトになった体を拭き、寝間着を着させ直す気遣いが必要だろうが、それをできるだけの体力は残っていなかった。めいっぱい集中した後特有の、やんわりした鈍い重みが目の奥にある。
 こんなに幸せな疲労はいつぶりだろうか。いや、もしかしたら、ここまで甘やかなものは初めてかもしれない。
「……ふふふっ」
 浮かんだ心はそのままに、ぐっすりと寝入るパルスィに抱きつく。頬ずりをする。汗で張りついていた髪を整え、あどけない寝顔をぺたぺたなでまわす。
 心置きなく好きなだけぬくもりを味わっても、パルスィは起きなかった。安心しきった寝顔は少しも歪まず、むしろ、ほんわりと綻んだようにも見える。
 肘を支えに上半身を起こして、パルスィを見つめる。頬は緩みっぱなしだった。
「まったくもう。無防備すぎます、よ?」
 山吹色の髪に指を遊ばせていたら、不意に感極まった。じんわり滲む視界を手で押さえる。受け止めきれないほどの幸福が、雫となってわずかばかりこぼれ落ちただけだったのだろう。すぐにおさまった。
 温かい涙を受け止めた手を、そっと閉じてもう一度開く。少しだけ湿っていたがすぐに乾いた。その手のひらをまたパルスィに伸ばす。いつまでもこうしていられそうだった。

 ***

 深い眠りから強引に引き上げられ、顔をむずつかせる。久方ぶりにぐっすり寝入っていたものだから覚醒に時間がかかった。柔らかい枕に顔を押しつけ、うー、とうつらうつらしているところを「ほら、さとり」と揺らされる。
 その手をつかみ、ゆるゆるとたどって顔を見つけた。よしよし、と顎の下をくすぐると『さとりってば』と再び声がかけられる。
「私は燐じゃないわよ」
「…………ぅ?」
 予想外の言葉に顔をずらす。第三の眼も持ち上げる。ぎらりと閃く緑目を見つけて、頬がいっそうほわほわと緩んだ。満面の笑みを浮かべて目元をなでる。
「おはよう、パルスィ。そうしてもらえると、起きやすくていいですね」
「橋姫の嫉妬をモーニングコール代わりにしないでくれる?」
 のそのそと起き上がり小さくあくびを漏らしたら『空が来てる』と告げられた。
 お空が、と幾分か気持ちを切り替え、いつの間にか布団の脇にたたまれていた服に手を伸ばす。パルスィはと見ると既にいつもの民族衣装で、髪もきちんと結わえられていた。少しの乱れもない。
「体調は平気ですか?」
 問うと、わずかに目が逸らされた。「うん、まぁ。ちょっとボーッとしてるけど」言葉少なに肯定され『だるいだけ』と添えられる。つい動きを止めてしまった。パルスィがしまったと瞑目する。
 パルスィは、種族橋姫の中でも強力な部類に入る妖怪だ。彼女の回復力を持ってすれば、たいていの怪我や疲労は一晩休めば全快するだろう。それなのに「だるい」とは。
 やはりやりすぎた。さとりは反省する。それにしても昨晩のパルスィは可愛らしかった。頬が緩みそうにもなる。
「空が!」
『来てるって言ってんでしょうが、鼻の下伸ばしてないでさっさと行ってやりなさいよ主人』とたたくように言われ、すみませんと慌てて立ち上がる。だが、耳まで染めた彼女の表情を見逃すさとりではない。緩みっぱなしの頬を直しもせずに出たものだから、空に首を傾げられた。

「こいしから?」
「はい! えっと、地霊殿に帰ってきて、……」
 そう切り出した空の心は、こいしと会えた喜びが大半を占めていて、その他の情報が探れなかった。ほほえましく感じながら問いを投げ、ぷかぷか飛び回る思考を一緒に追い、スカートのポケットに入れられた覚え書きの存在に辿り着く。
「そう! こいし様から、これをさとり様に渡せばいいよって言われたんです」
「さしずめ伝書烏と言ったところかしら。ありがとう、お空。見せてくれる?」
「どうぞ!」
 妹の文字を読むのは久しぶりだ。またうまくなったと口元を綻ばせたさとりだったが、文面を解した途端なんとも言えない心地になった。顎に手を当て、少し考える。これは、つまり。
 壁にもたれていたパルスィを手招きし、覚え書きを示す。興味なさそうに覗きこんだ彼女だったが、短い文を目にした瞬間「え」と気の抜けた声をもらす。
 手紙には、こいしの筆跡で「お赤飯炊いておくよ。パルスィさんもつれてきてね」とだけ書かれていた。表現しがたい沈黙が落ちる。
 先に口を開いたのはパルスィだった。
「……つまり、もしかして、見られてた?」
 こいしがその気になってしまえば、さとりですら気配に気づけない。妹の感覚を思うと全部が全部見られていたとは考えにくいが、
「一部を覗かれた可能性は、ゼロではないかと」
「そこは嘘でも見られてないって言ってほしかったわ」
「あなたに嘘は言いませんと約束しました」
「キリッとするな!」
 絶対行かない、ときびすを返そうとするパルスィを捕まえて、空と協力して家から引きずり出す。
「行かない帰る」だの「妹のしつけはちゃんとしろって言った」だの「覚妖怪にはプライバシーの概念はないのか」だの騒いでいたが、空の「パルしぃ、いっしょにごはん食べるの嫌なの?」の一言に諦めた。負けていた。さとりの言は少しも聞き入れないのに、空の泣き落としには一瞬で落ちるあたり、相変わらずである。
「空。私の名前はパルシィじゃなくてパルスィよ」
「パルしぃ?」
「ちがう。パルスィ」
「パルスィー?」
「おしい。パルスィ」
「パルしぃ?」
「……まあ、それでいいわ」
「うん! パルしぃー!」
 いつもは旧都の喧騒を遠く感じるだけの空の旅も、同行人が増えるとまた違う趣があるものだ。
 嬉しそうに一回転し、そのまま烏になってより高くへ浮かび上がる空を見送る。石桜の光を反射して漆黒の羽がきらりと光った。
 さとりたちのことは認識しているらしいと確認して、やれやれと首をふったパルスィにほほえみかけた。
「すみません、たびたび。わかってはいるのですが」
「ん」
『まあおぼえるまでくりかえすだけよ』とあっさり頷かれた。視線を前へ戻す。
 空の先導に従う形になったので、普段とは異なり、旧都のちょうど真上を横切る空路だった。松明の光にぼんやり浮かび上がる夢幻のような都は、今日も今日とてお祭り騒ぎらしい。
 暖色にくるまれる都を見下ろして、そういえばとパルスィに視線を移す。
「勇儀から聞いているかもしれませんが」
『ああ、橋を作るって?』
 地上との誓約を緩和するにあたり、整えるべきところは山ほどあった。
 縦穴から旧都までの荒れ地の整備、並びに、河川工事と橋の創設もそのひとつだ。旧都の訪客はのきなみ飛べるとは言え、都には景観というものがある。せっかく建物や街並みに凝っていても、一歩外へ出たら手を入れられていない荒野だらけでは、外部の相手に示しがつかない。
 しかし、より優先すべきは、農場と牧場の拡大や、年月によりガタが来ていた建造物の改築、なによりも、先の異変と一輪たちの旅立ちの余波でぼろぼろになった箇所の修繕だ。急きそうになる気をなだめすかし、ひとつひとつ終わらせていって、ようやくそちらにも手が回せるようになったのだった。
「勇儀やヤマメと話を始めているのですが、なんといっても、あなたの橋でしょう? パルスィの意見を取り入れたくて」
「縦穴から延長して管理するってだけでしょうが。私のじゃないわよ」
「いいえ。橋を架けようと提案したら、みなさん、ああ橋姫の橋を造るのか一肌脱ごう、ですからね。旧都の総意ですよ」
 パルスィが動きを止めた。ふり返ると、怒っているような、泣き出しそうな、複雑な表情を浮かべている。
 少しのあいだ言葉を探し、『なんで』と落とされた疑問に、さとりは穏やかに破顔した。
「誰も気づかない仕事、誰にも知られていない働き。それでも、見ているひとはいるものです」
 深い傷を負って地底に逃げこんだ時、「休む家ならある」と旧都を示された。
 配給にありつけず空腹を水で満たしていた時、「釣りすぎた」の一言と共に魚と釣り竿を押しつけられた。
 地底へ降りてすぐの頃は、燦然と輝く世界にいる者たちが妬ましく、夜も寝られない日も多かった。それがある時からふつりとなくなった。当時は気づかなかったが、今となってみると、もしかしたら。
「──ただの気まぐれよ。嫉妬が減ったら困るだけ」
 パルスィは吐き捨てるように言った。
 先ほどまでやんわり綻んでいた心は固く強ばってしまっている。俯く彼女の傍らに寄り添い、きつく噛まれた唇をそっとなでる。
「たいへん興味深いことですが、概して、気まぐれはひとを救うのですよ」
 愛し姫さま、と手のひらを差し出した。
「私の大切な愛し姫さま。私だけの、と言いたいところですが、あなたを囲っては恨まれます。受け取ってあげてくれませんか」
 いっそう俯き、指が白くなるほどこぶしを握りしめた彼女を待つ。千々に乱れた心は万華鏡のように煌めいていて、さとりは眼を緩ませた。
 カァ、と頭上で空が鳴く。『さとり様ー? パルしぃー?』との呼びかけに顔を上げたら、差し出していた手のひらが引ったくられた。勢いよく引っ張られ、危うく体勢を崩しそうになる。
「パルスィ?」
「はやく行くわよ」
「えと、はい」
 有無を言わせぬ言葉に大人しく後を追う。さとりたちが進み始めたのを見て空もふわりと寄ってきた。じゃれるように間近を飛んで、『先に行きますね!』と力強く羽ばたいて行く。
『橋の見本はあるの』
「見本、ですか。ええ。外の世界の資料ではありますが、映姫さんと、保護者経由で守谷の風祝から」
「じゃ、選び放題ってわけね」
「技術や材料の制限はかかってしまいますが、そのように解釈していただいて構いません」
『せいぜい、七面倒くさい注文を出して、後悔させてやるわ』
「またそんな言いかたをして」
 思わず微苦笑するとちらりと見られた。「わりと本気よ」と真剣に言う。
 首を傾げたら減速して、ちょうど横並びに飛ぶ形になった。
「救ったかなんだか知らないけれど。私は、さとりの橋姫でいたいもの」
 思いもよらず、痛いほどにまっすぐな言葉を受け、目を見開いた。手に力をこめたものの上手い返事が見つけられない。『困らせたいんじゃないのよ。わかっててくれたらいいから』と重ねられ、ますます何も言えなくなる。
 ん、とパルスィが視線を動かした。地霊殿だ。
 先に到着していた空が扉を押し開き、弾むように転がり出てきたこいしと燐とがこちらを認めて手をふった。ふたりともエプロン姿のままだ。知らずのうちに苦笑してしまった。
 放されそうになった手を握りしめ、浅緑の目を覗きこむ。
「そばにいてください」
 ようやく出てきたのはありふれた願いだった。けれど、パルスィは笑ってくれた。たおやかな微笑は何度見てもきれいで、だから、ありきたりでも良しとする。
「うん」
 ふたつの声で頷いて、握っていた手をそっと放す。とん、ととん、と地面に降り立った。
 こいしが「おかえりー」と白い歯を見せる。「橋姫のお姉さんもいらっしゃい。ごはんできてますよ!」得意気に尾を揺らした燐の横で、空が待ちきれないと羽を羽ばたかせた。強靱な黒羽に打たれ、こいしと燐が軽くのけぞる。
「なにやってんのよ」
 ため息まじりの声は優しい。こいしたちの元へすたすたと歩いて行く背中に目を綻ばせ、さとりもゆっくり後を追った。
初めまして、もしくはお久しぶりです。空賀青と申します。
ここまでお読みいただきありがとうございました。本当にお疲れさまでした。

書く前
パルスィに(性的に)甘えるさとり様ほしいぞ!!
現在
一意専心土下座に励むこと。それが今の私にできる善行かと。少しでも暇つぶしになりましたら本当に幸いです……!
(11.1追記)
>>はろぱぱ様
削ってもこのありさまかと頭を抱えておりましたので、そう言って頂けますと本当に救われます!ありがとうございます!
リクエストを頂戴し大変光栄ですが、未熟者ゆえ自分の中で書き筋が見えないと中々難しく…生温かい目で見てやって頂けますと有り難く存じます…!
空賀青
コメント




1.はろぱぱ削除
楽しめました。
読み始めたら面白くてあっという間に読み終えてました。
次回作も楽しみにしています。
時間があるときで構いませんから今度は、パチュリーと魔理沙のお話(アナル)を読んでみたいです。 魔法図書館からいつも勝手に魔導書を持ち出す魔理沙に堪忍袋の緒が切れたパチュリーがトラップを仕掛けて魔理沙を捉えアナルをいじり懲らしめるお話を。