真・東方夜伽話

雲わく道に山居の命⑦

2018/05/01 02:59:59
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雲わく道に山居の命⑦

みこう悠長
§ § §



「祠部司書、この病の正体解明の期限日は先月だが」
「あー、正体は解明出来かけ、えー、出来ておりますが、兵部によって実地調査を止められておりまして、最終的な結果は、今暫く……」
「兵部尚書」
「封鎖を行っているのは工部です。兵部は工部の封鎖に従って取り締まりを行っているまで」
「兵部尚書、その言いぐさはあんまりではないですか。兵部が|御東《みあずま》と封鎖境界の空白距離やラインの設置に対していちいち注文を付けてくるのでしょう! 我々は実質的に兵部の言いなりに封鎖柵を作っている。兵部が動かせといえば動かさずを得ない、作れといえば作らざるを得ないのに、責任転嫁も甚だしい」
「それとですが。先週マスコミで取り沙汰された工部左侍郎にまつわる女性問題について、あのような問題のある人物を左侍郎に起用するなど、兵部尚書は任命責任を感じませんか?」
「今その事については回答を差し控えさせていただきます」
「兵部、そのような態度で議会に臨まれるから民からの信任にヒビが入っているのではないですか? 兵部、兵部、兵部、責任ある回答を」
「俺よりも吏部に聞け、任免は吏部がしているだろう!」
「現在吏部は賄賂で腐りきっています。癒着が見え見えで、まともな評価制度も任命制度も機能していない。吏部尚書は兵部右侍郎にさえNoを言えない立場になっているのに」
「ああ、兵部でも工部でも良い! 養生博士に調査をさせねば決断ができぬだろう。今すぐ養生博士を|御東《みあずま》に入れろ。祠部尚書、それでよいな? 養生博士への命状は中書から取り付けておく」
「お待ち下さい、|御東《みあずま》に直接博士を立ち入らせるのは、その、少々早すぎると申しますか」
「何故だ。実地調査が出来ずに困っていると言っておったろう」
「今すぐにと言うのは、流石に無理が……何せ正体不明の病です、祠部としても準備を整えねばいけません。ですが、その、少々予算が……人も、道具も、兵糧も、必要ですから……」
「いつなら整うのだ」
「現在祠部に割り当てられている予算では、満足な装備を用意するのに、4ヶ月お待ち頂きたく」
「はあ? 4ヶ月だと、馬鹿馬鹿しい」
「しかし……月末には山祭も控えており、祭事を疎かにするわけにも行かず」
「そろそろ祭儀と医薬を別の司書に分ける必要があるんじゃないのか。病気平癒は何でもかんでも神頼みという時代でもなかろう」
「公務機関の縮小と公務員報酬の削減を求められている中で、司書を増やすなど……」
「それが一つになっているから無駄な金がかかっているんじゃないのか。そもそも山祭など本当にやる必要があるのか? 祭事一つやる度に私腹が肥える、おまつり貴族と揶揄されているのをご存知か? こんな不名誉な名前」
「今はその話はよせ、そんなくだらないことに時間を咲いている余裕は」
「祠部はいつもそうして問題を先送りにするではないか! ならいつ議論すればよいのだ!」
「あー、疫病のことで意見のある者は」
「|月帝の飛地《MoonyBase》に支援を要請すべきではないのか。この病はどのみち我々の手には負えない」
「月帝との物価格差を調査し直したまえ。我々の一年の稼ぎは向こうでは一週間の食費だ、そんなところに支援を依頼して、一体幾らふっかけられると思っている。何十年も借金で首輪を繋がれることになるぞ。」
「度支使、依頼してあった試算はどうなった」
「はい、以前河童の織部と、はい、協同学術会合を行った際のですね、はい、その時の出費を元に、はい、両者の物価比率を、えー、勘案しますと、はい、この調査は未知の病のもの故、|月帝飛地《MoonyBase》もおそらくリスクヘッジを噛ませてくるでしょうから、ええ、すると先の祠部からの予算増額も考慮に入れて」
「まて。度支使、お前のところの出処不明金の話は結局どうなった。不法取引があるのではないか?」
「ええ、はい、その件につきましては」
「余計な水を差すな! 度支使、さっさと結果を言え」
「その、金銭対価による支援要求は、現実的とは、ええ、言い難いかと。出所不明金の件につきましては、刑監司の調査中であり、ここでの発言は控えさせていただきます」
「ああ、もういい、下がれ。月に借款を作るわけにはいかん」
「あの土地の者は皆、自らを罪人だとする教義に従っているようだ。無償の救済をくれるかもしれない。付け入る価値は」
「馬鹿も休み休み言え、|国外の宗教《そんなもの》を頼ると、金どころか奴等の得体のしれぬ教えで国体を縛られることになる。問題外だ。第一、博麗を通さずに|月帝の飛地《MoonyBase》になんか支援を依頼してみろ、元々月は博麗とさほど友好的ではない。何を疑われるか」
「だからさっさと博麗に上奏すべきだと言っている! 元々は博麗の用意した人間が地底と結んだ盟約が弱く守られていないことが原因なのだ。落ち度は博麗にある、文句は言わせん」
「内乱も収まったばかり、未だに反乱分子も刈り取りきれていないというのに、そんなことでは我々の統治能力を疑われかねない。」
「そうだ。特に守矢がガタガタと煩い、足元を見られると厄介だ。主客司も守矢には手を焼いているではないか」
「ええ、これ以上付け入られるような材料を差し出すのは、国益に反します」
「これ以上博麗に尻尾を振って、我々の立場は低くなる一方ではないか。我々は博麗の下部組織ではない!」
「さよう。暦に律令、祭事の果まで八雲の女狐が口を出してくる。主権侵害も甚だしい」
「博麗やら八雲に頼らずとも、グォダ=ニャマムとやらを殺せばこの病は収まるのだろう?」
「兵部尚書、敵の戦力も不明だと言うのにそのようなことを」
「白狼天狗の数を減らすいい機会ではないか」
「白狼天狗をぶちこむにせよそうでないにせよ、問題は最終的にグォダ=ニャマムとやらを刈り取れるのかどうかだ。結局殺しきれず中途半端に刺激したり、あっさり討ち取って白狼天狗に華を持たせるような結果になっては意味がない」
「白狼天狗の件は政治が舞台になる、そうなればたやすい。土蜘蛛を打ち取れなかったときのことを考えればいい。博麗への上奏はその時で良いのではないか。白狼天狗でどうにもならなければ、博麗とて容易い相手ではない、言い訳は立とう」
「白狼天狗の人的浪費はそれこそ守矢との摩擦で抑止力低下を招く、そんな安易な発想で物を言うなど、兵部尚書の言葉とは思えぬな」
「それは主客の仕事だ、兵部は地底だろうが守矢だろうが博麗だろうが、必要があれば戦うまで」
「そんな事を言って良いのですか? 現在兵部は部民統制が行き渡っていないと見られて軍縮を迫られているではないか。白狼天狗のフィジカルなしに、兵部は兵部でいられるのですか?」
「貴様、天狗の敵か。白狼天狗を野放しにすることこそ、兵の統制欠如。軍属は我々が目の届く範囲で掌握する」
「おい、ここは安全保障の話をするための集まりじゃない。他所でやれ」
「では、失礼させていただきます。我々は、あくまでも決定に従って『力』を行使するための機関。このような茶番に付き合ってはいられない」
「では、議会の決定に従うと?」
「|我々《兵部》の気に召せば、な。いいか、兵部は――」







 溜息と共に|遠見《テレグノシス》を止める。

「もういいよ、止めて。」

 僕が指示すると、灰色狼の執事が音声を止めた。議会のライブ窃視は終わりだ。見る価値もなかった。結局また何も決まらず何も動かずに終わるのだろう。あんな議会を何日も繰り返してる。各部署が足を引っ張り合って、全体として歩くこともできなくなっている。

「議会は踊り疲れることを知らないのか……。ばかばかしい、こんな状態だから文は一人で行動を起こしたのかもしれないな。いや、|椛《姉》も連れてったっけ。あれなら天魔に親政させてた方が遥かにマシじゃないか」

 ていうか、兵部尚書、ありゃクソ野郎だな。かくいう僕も兵部下部組織の狼司の武官公務員なのだけど、あんなのがトップだと不安が酷い。ていうか鴉は全部死ね。とか言うと文も鴉か。いや文も死んでいいよ、チクショウ。
 文の腹の立つ、人を喰ったような笑い顔を想像して、気分が悪くなるような、懐かしいものでも思い出すような、妙な気分になる。まあ、姉と上手くヤってくれりゃそれでいい。ぐしゃぐしゃと頭を掻いてから、ふう、と息を吐く。溜息と言うよりは、切り替えの息遣い。
 僕は傍に控えている執事に視線を送って言う。

「『服』は届いている?」
「はい。」
「何着出来た」
「まだ、2ちゃくのみのようです」
「そっか。持ってきて。」

 天狗社会は鴉が牛耳っているけれど、社会的に狼の立場は今でも幾らか通用する。法律とかではなくて、文化の残骸みたいなもの。政治の舞台じゃなくって、下町の慣例みたいなもの。過去の遺香といえばそれまでなのだけど、昔は、鴉天狗を顎で使っていた立場だったのらしい。社会性と頭数がその立場をひっくり返して、今は鴉に嘴で使われているわけだが。狼には狼の社会があって、僕は幸か不幸か一応は狼の中では名家と言われるやつの生まれだ。この真っ白い毛並みは、時代が時代なら相当偉い立場の色だったろうけど。
 だから、ほぼ僕個人が自由に扱える執事、なんてのがいる。偉い白鴉天狗の執事は付き人であり小間使いや細々とした世話をするのにはそれぞれ別の部下を持っているようだが、今の白狼天狗はそんな大層なものを抱えられる立場にない。執事、なんていいながら小姓や丁稚と大差のない、なんでも屋の下僕のようなものだ。ありがたいやらえらそうやら複雑な気分ではあるのだが。

「おまたせしました」

 彼が、ててて、と葛籠を持ってきた。まだ若い、僕よりももっと幼いのに、労働に駆り出されている。まあ、ここにいるだけ遥かにマシというものだ。灰色の狼なんて、天狗社会では下層も下層、普通は貧困にあえぐような者達だ。

「ありがと」

 それもこれも、天狗社会が、お世辞にもいい状態にないせいだ。鴉天狗が牛耳っているというのはもちろんそうだが、鴉天狗など天狗社会では元々は数ばかり多い大衆でしかなかった。白狼天狗の方が数が少なく力はあった。それ以上に、大天狗というのがいて、鴉やら狼やら山やら蛇やら川やら何やら色んな存在の権現で、とにかく体のでかい天狗が普通の天狗と別格にそう呼ばれていたのだけど、その大天狗も今は蔑ろにされている。今は政治の表舞台から外されて、辺鄙な地域へ、慮って遠ざけられている。
 鴉天狗が数の力で政治を動かしているのだが、数が多く多数決で得られる決定が、必ずしも正しく優れているかというとそういうわけじゃないというのが、鴉社会になってから否応なく現れている気がしていた。急激な社会変化の中で、天狗社会の意思決定源泉が鴉へ急にシフトしたことによる摩擦で、時間とともに安定する、なんて言われているけれど、本当にそうなのだろうか。バカが100万人集まってもバカな答えにしかならず、賢者1人の答えをどう逆立ちしても導けないのが、今の選鴉民主制ではないのだろうか。その象徴のような議会だった。なんて、白狼天狗の自分が言うと、あんまりにも香ばしいので口に出す訳にもいかない。嫌な立場だ。
 民主制というのは、より良い政治的決定をするための制度ではないのだろう。国民全員が『自分たちで政治を動かしている』という、自覚ある積極性を持ち、国民自身が政治的満足を得るために構築されたシステムなのだ。国民それぞれが自分のことを自分で決めたいと願うその感情をシステムにしたものが民主制の正体であって、多数決によって可能性最善や最小不幸が導かれるのは、副産物でしか無いのではないか。
 だって恐らくは今、天狗の社会で天魔が大きな力を有しながらも議会によってひっくり返されるシステムが出来たのは、全天狗や河童などの住民を交えた民意なのだが、それが生じた理由は「より良い政治的決定をする」ではなく「んなクソみたいな政治すんな、俺達が自分で決めるわ」という不満と利己によるものだったのだ。天魔に大きな失政があったわけでないにも拘らずだ。だから数が多く頭の回る鴉天狗が利権を握っていて、そして賢者のいない議会はああして踊り続けている。

 僕は音声伝達媒体の水晶を握り潰して砕き、灰皿に落とす。上から聖油を注いで五芒を切ってから、火を点けた。この火が消える頃には、この水晶はただの水晶に戻っている。盗聴の証拠は残らない。

「下がっていいよ。僕は少しでかけてくる。2、3日あけるかも知れない。文や姉が戻ってきたら、なるだけ早く戻るつもりだと伝えておいて。どこに行くのかは答えなかったと言って。何故聞かなかった、なんて言われたときはね。」
「しょうちしました」

 姉が文に付き従っているのは、文がそうした種族間の溝に対してリベラルなものの見方をし、しかも何やら裏で効果のあるロビー活動を行っているということからの、白狼天狗としてのメリットによるものだと思っていた。
 だが、どうも違うようだった。姉が文に付き従うのは、何かもっと、僕らの血筋に関わりのあることらしい。聞かせてはもらっていないが。あの二人が一体何でつながっていて、今何をしようとしているのか、僕にはわからない。

(仲間はずれかよ、くそ)

 姉を取り上げられた弟、と揶揄されるのは御免だから絶対に口には出さないが、自覚している。この幼稚な感情をどうやって処分していくか、毎日悩ましい。そのうち慣れてしまうことなのだろうけれど、もし二人の関係や行動が、天狗のあり方とか、山の政治のうんたらみたいなのに関わってくることならば、このままでは僕は、死ぬまで二人のことを下から見上げるだけの存在になってしまう。姉が優秀で自分が愚鈍、というよく聞くような取り合わせではない、それでも、似たようなものとしてセットで語られがちなことに嫌気を感じていたし、姉は文と一緒に行動するようになって自分の色を出し始めた。せめて、僕も自分で何か行動を起こさないと。
 僕は執事の持ってきてくれた衣装を着込む。もう一着を葛籠を背負子に乗せて、屋敷を出た。

 向かう先は、|御東《みあずま》の、中だ。



§ § §



「|吾《あ》れを、孕ませてくれ」

 投げつけられた言葉を私は、上手く処理できなかった。何を言っているのか、よくわからない。
 それに、こんな声で言葉を吐く|花鹿《かじか》様を、初めてみた。

「か、|花鹿《かじか》様?」

 暗闇を蛍の光で照らし出してから、私はその状況を初めて把握した。
 精液と愛液の混じった粘液、粘りつくような恨み、切り裂く悲しみ、忘れがたい痛み、そして破瓜血から、新たな生命が次々に形造られ、|花鹿《かじか》様の穴から湧き出たようだった。
 それは草。それまでこの野に生えたことのない、新参の草。旺盛な繁殖力で土を汚し現住の草木を蝕んでいく。
 それは石。それまでこの地に現れたことのない、化外の石。異形の佇まいで元来の信仰を破壊していく。
 それは水。それまでこの川に流れたことのない、異質の水。異なる性質を撒き散らして現存の魚達を追い詰めていく。
 それは風。それまでこの空に吹いたことのない、未知の風。生ぬるい風が一帯を撫で元よりの土地を削り取っていく。
 それらは全て倭神に犯され孕み付けられた、忌まわしい子供。それを次々に産んでいるのは、他でもない|花鹿《かじか》様だ。この土地を異質に歪め穢していく異形の子等を、|花鹿《かじか》様が、産み落としている。穴を開けられ神性を失った、|花鹿《かじか》様が。

「っ!?」

 すぐに蛍光を消す。再び闇の帳が立ち籠め|花鹿《かじか》様の輪郭も幽かな像へ戻った。だが、その黒い暗幕の向こうから、掠れたか細い声が、|私を求めて《…》鳴いていた

「孕ませてくれ、はやく。この、汚水の泉の如く呪わしい子を産み続ける穴を、佐伯って呉れ。お前がしてくれるなら、お前がなら、耐えられる。倭神の子産みを止めて呉れ」

 ぞくり、と背筋に電気が走った。私を捨てて一人で行ってしまったのを|花鹿《かじか》様が少しでも後悔しているということを、期待しなかったわけではない。
 残党狩り程度の小さな軍勢ならば、この山にのこる虫を総動員して|花鹿《かじか》様をお救いするくらいなら出来ると思って、|花鹿《かじか》様の姿を探し回っていた。それだけではない。|花鹿《かじか》様が、一人になった心細さからもう一度私を見たときに心変わりして、一緒にここを逃げ出すように選択を覆してくれるかも知れない、あるいは……私を受け入れてくれるかも知れないと、考えていなかったかと言うと、嘘になる。
 私を捨てたことを後悔すればいい、その後悔の末にもう再び私を見たときに、もう一度私の神様になってくれると言ってくれればいいと、ほんの少しだけ思っていた。せめて「やはり一緒に逃げよう」と言ってくだされば、私はその言葉を一生忘れずに、でもその言葉を握りつぶして自分の腹に落として生き続けるつもりだった。

 でも、まさか、こんな。

 目の前にある|花鹿《かじか》様の姿を見て、|花鹿《かじか》様と駆け落ちしたいとか、もう一度一緒にいたいとか、そういう希望は全て吹き飛んだ。今、私の中にあるのはその逆だった。
 地面に横たわったままの|花鹿《かじか》様は、もう、神としては死んでいた。そして人間の少女の体は、西の軍勢に犯されていた。強姦を受け穴を開けられて山の神として死んだ|花鹿《かじか》様は、泣いていた。
 |花鹿《かじか》様の泣き顔を見たことがないわけではなかったが、こんな悲痛な顔の|花鹿《かじか》様を見たのは初めてだった。辛い悲しい悔しいと、声を上げて当たり散らすように泣き喚いてくれた方が逆に痛ましさなど無いというのに、|花鹿《かじか》様は声を殺して唇を噛み、嗚咽を飲み込んで涙を拭くこともなく、ただ静かに泣いている。
 山として神として生きてきた彼女から、倭はそれらをすべて取り上げたのだ。挙げ句、こんなふうに尊厳を踏みにじり、奪い尽くしたのだ。
 人間では黒色の頭髪が、茶色やまるで黄金の様に色を薄めていて、それは神である肢体の現れとされた髪の毛は、ばさばさに乱れ、倭の人間からは邪神の証だと毟り千切られている。青みがかった目も不気味がられたのだろう、目の周りには何度も殴られて腫れ上がり鬱血し、切れて血を流している。
 体のあちこちにに痛々しい傷を負い、綺麗だった顔にも眼窩を中心にひどい有様だ。唇も切れて血が流れた痕があった。だがそれ以上に目についたのはやはり、痛々しく腫れ、切れ、血を流して、しかし血液以外の液体にも濡れた、股の間だった。

 既に「産んだ」形跡がある。
 すぐにまた、新しく何かが生まれるだろう。|花鹿《かじか》様の望んだ子ではないことは、明らかだ。

 もし彼女が|山《神》として死んだ後なのだとしたら、残された彼女は今は容れ物ばかりのただの人間の女だ。人間の女なら、強姦された事実は穢れや罪と同じ、彼女は神として殺されると同時に人間の女としても、殺されたに等しい。生きてはいるが、もうまともな人生を送ることは出来ないだろう。
 神体としての「|容れ物《からだ》」はまだ残っている。神が様々な神を生み出してから死ぬことはしばしばだ。そういう神を何例か聞いたことがない訳ではない。でも、こんな風に救いのない経緯と立場でこうなってしまった神を見たのは、初めてだった。
 それに、人を好いてしまったことも、初めてだった。

「|花鹿《かじか》、さま……」

 目の前で、また、新たな子が生まれようとしている。次は、|花鹿《かじか》様の怨みの涙から何かが生まれようとしていた。顔立ちは平たく目が大きい。柔らかそうで、黄色い肌。明らかに倭の子だ。

「|穂多留比《ほたるび》……|穂多留比《ほたるび》、頼む、頼む。倭の子を産むなんて、耐えられない……|吾《あ》れを」

 本来、山神である|花鹿《かじか》様に、私のような虫妖が子種を植え付けるなどありえない話だ。山神様でなくなって人間であるとしても、女性の多くは虫である私の子を産むなど、悍ましく狂気に満ちた発想だ。それでも|花鹿《かじか》様は私自分を孕ませるように要求している。私を求めての発言ではないこれは、望まぬ倭の子を遠ざけたいだけのことだ。
 私を求めてのことではなかろうとも、それでも、|花鹿《かじか》様がそう望むのなら私は彼女の全てを受け止めて癒やして差し上げたい。彼女を抱き寄せて優しく包んで、その痛みを私に明け渡して欲しい。そんなものは全て私が請け負って、|花鹿《かじか》様にはただ、苦しみなんかとは無縁でいて欲しい。
 そう思う、絶対にそれに違いなんて無い。
 けれど。

「|花鹿《かじか》様、あなたは|私《他人》を拒んでいたのではないのですか?」
「……拒絶したのは、お前ではないか」

 私から顔を背ける。たしかにそうだ、最後の最後でいつも、私は|花鹿《かじか》様を遠ざけていた。でも、それは彼女が私を……ただの|他者《・・》だと思って扱っているのが、分かっていたからだ。ただの蛍、ただの外部の存在、ただの玩具。大勢いる虫の中でも偶然に自分に懐いている「何とかという虫」。
 私を固有的な存在として認めるわけでもなく、彼女の中に入って彼女の「一部」となることを、心の底で私に許していない。
 彼女がそれを望んでいた、少なくとも口ではそうだと言っていたから、私はそれを忠実に守った。

「経緯はどうあれ、結局こうして他人の|侵入《・・》を許し、あなたはあなたの存在を他者で担保してしまった。|孤高の存在《山》は、崩れました。その途端、今度は私に関係を迫るのですか? 御覧ください、|花鹿《かじか》様。あなたにはまだ、立派な脚が付いていますよ。私を拒んで、独力で立とうとするなら、その脚はまだ使える筈です」

 私の物言いに、驚いたように目を見開く|花鹿《かじか》様。その足が既にまともに機能していないだろうことなど、一見すればわかる。
 胸が締め付けられる、出来ることなら本当に締め上げて体中をバラバラに飛び散らせて死んでしまいたいくらい。
 あなたのその目は、一体何の意味を持っている? 私を信じていたということですか? その視線に感じる絶望の裏に、私への……気持ちがあったということですか?

(そんな目で、そんな目で私を見ないで下さい!)

 締め上げられる心臓がきりきりと軋みを上げている。食道や肺、胃の中まで圧迫して内圧ががんがんと上がっている感じがする。|花鹿《かじか》様の驚きと悲しみの混じった目線が私に向いているのを感じるだけで、体が内側から破裂しそう、このまま頭をかきむしりながら叫び出してしまいそうだ。この場で平伏して、どんな願いでも聞いて差し上げたい。私に気のない言葉であっても、敢えてまともに真に受けて……。
 だめだ。だめなんだ、そんなんじゃ。
 私は横たわる|花鹿《かじか》様を、立って見下ろしながら一言、振り絞った。

「そんなに産みたくなければ、自ら|ほと《・・》を抉り取ればいい」

 声が掠れていないか? 脚は震えていないか? 目線を逸して逃げずにいられただろうか?
 私の言葉に、|花鹿《かじか》様が開けた口を閉じないまま、目を大きく見開いた。数拍、言葉を失った後、頭を横に向けて私とは逆の方を向き、消え入りそうな声で、言う。

「|穂多留比《ほたるび》……やはり、お前も。お前ももう私を山とは認」
「もう!」

 |花鹿《かじか》様の言葉に割り込んで、語気を強める。耳障りな声、狭い場所に夥しい羽虫を追い込んだ時のような、吐き気さえする穢れた声で、|花鹿《かじか》様の美しい声を。いや、今の|花鹿《かじか》様の声は、そのような高貴なものではなくなっていた。
 そのか弱い細い、愛おしい声を、元気な頃には鈴虫のよう(虫に例えることは不遜極まりないのかも知れないけれど)に綺麗な声を、私はもう、聞くことが出来なくても、構わないと思っていた。

「もう、あなたは山ではありません。倭の某に|貫かれ《・・・》水路を通されたあなたは、もう、山ではない。神ではない。我々、妖以下の……」
「は。ははははっ……結局、お前も|そう《・・》なのね!? 少しでもお前に期待した私がバカだったわ!」

 |花鹿《かじか》様は私の声に被せるように、笑いだした。明らかに、自嘲と、それに私への非難の色を含んでいる。視線をこちらに向けることも、しなくなった。もう|花鹿《かじか》様のものではなくなった山肌に視線を落とす。

「こんな、父親もわからぬ穢れた神を産むくらいなら、せめて、お前に奪ってほしかった」
「『せめて』? 都合のいいことをおっしゃいますね!?」

 つい、語気を荒げてしまった。それは、怒りが引きずり出した声ではない。迷い、決意の揺らぎへの焦り、後戻りを許さぬ自己説得の現れだった。その怒声の意味を|花鹿《かじか》様がどれくらい認識してらしたかは、わからない。

「この湖も三日後には水が抜けただの盆地となりましょう。 すぐにでも倭の人間が入り、土を汚し|私生児《水稲》が一帯を覆い尽くす。この地の神は、たった先程死にました。今、私の眼前にあるのは、その死体です。倭神の子を産み続ける、穢れた死体。それが嫌なら、自ら|そこ《・・》を潰して止なさるがいい。さあ。それとも」

 つい先日までの|花鹿《かじか》様なら、こんな私など吹けば殺せた筈だ。口惜しい、このように思い上がった、と叫ぶ|花鹿《かじか》様。|花鹿《かじか》様が、そうして倭に向ける憎しみと寸分違わぬ巨大な怒りと憎しみを私に向けてくる様を見て、私は、昂ぶった。
 次々に新たな悪神を股の間から溢しながら、痛みが染み入ってくる股の痛みを引きずり立ち上がろうとしている。が、膝が笑い腰が砕け、足に力が入らず崩れ落ちている。地に臥せったその前に、進み出てそのお顔を覗き込んだ。

「お前も本当は、|吾《あ》れを、後ろから憎しみをもって見ていたのか」
「……いいえ。その、逆です」

 私が言うと、死ね、と言われるよりも恐らく信じ難かったのだろう、蒼白な表情で目を閉じた。わからないだろう、この感情がこの言動に結びつくだなんて。私自身でも、気持ちが悪いと思うくらいなのだ。

「私は、虫けらの分際で、あなたを愛していました。虫けらの分際で、阿祖様に嫉妬し、|花鹿《かじか》様、あなたに愛されたいと願っていました。無論、許されぬことと承知しております」
「ならば、ならば、|吾《あ》れを、は、孕ませるなど、容易いでは……」

 容易くなんか……!
 その言葉を飲み込んで、別の言葉を投げかける。

「嫌です。倭神の胤で穢れたあなたの『穴』になんて、触れたくありません。どうしてもその子産みを止めたければ、その穴を抉り取られませ」
「|吾《あ》れは、|山《神》だ。|大阿祖を仰ぎ彼に仕え支えてきた、神だ! こんな、こんな屈辱は、受け入れ難い!! お前がそうまで言うのなら、自らほとを切り裂き潰し倭神に報いてやる。火を持て!」
「火はありません。山を堕ちたあなたに、与えられる火など。これをお使いください」

 私は、手斧に相応しい石を一切れ、手渡した。ただの、ただの石だ。無味で冷たく、祝福も光もない、この山から拾い上げたものであっても、今は|花鹿《かじか》様のものではない、ただの、石。|花鹿《かじか》様の手は震えている。受け取った|花鹿《かじか》様を見下し続けている。そんなくだらないもので、ほとを破れと、私は言った。

「さあ、疾く、その穴を潰されませ。早、何十という倭神がこの土に染み込んでいます。これ以上あなたが汚れた者とならぬよう、疾く、潰されませ、二度と子を産めぬ体に」

 私はそう言って急かす。口は乾いて一言ごとに貼り付き、喉はよじれて声を発するのにさえ失敗しそうだ。途中で言葉を切って誤魔化し、手近にあった石斧を指さす。

 |花鹿《かじか》様は、手斧石を両手で頭上に掲げる。鋭く尖った方を下に向け、そのまま思い切り臍下へ振り下ろし、腹を潰せばもう穢れた神を産まずに済む。|山《神》であった|花鹿《かじか》様の、富士の一端であった|花鹿《かじか》様は。
 |花鹿《かじか》様は、手斧石を両手で頭上に掲げる。これをすれば、|花鹿《かじか》様はここで終わりだ。|山《神》としての|花鹿《かじか》様は、産みを以ってそれ以外をしてさえ、もう、長らえない。二度と子をなすことはできない。阿祖を敬い生きてきたはずの|花鹿《かじか》様は、何のために生き続けられよう。
 |花鹿《かじか》様は、手斧石を両手で頭上に掲げる。あとは振り下ろすだけだ。手を離して落とすだけでも。簡単なことだ、一瞬で終わり、そしてそれにより|花鹿《かじか》様の身を焼く屈辱は、終わる。簡単だ。
 さあ。私は、手斧石を両手で頭上に掲げる|花鹿《かじか》様に迫る。
 |花鹿《かじか》様は、手斧石を両手で頭上に掲げる。
 手斧石を両手で頭上に掲げる。
 手斧石を。
 |花鹿《かじか》様は。

「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!」

 どすん!

「どういうつもりですか」
「後生よ……お前が、|穂多留比《ほたるび》」

 できなかったのだ、|花鹿《かじか》様は。|女《・》を捨てられなかった。私はそれを責める気になんてなれない。それに、それこそが、|ボク《・・》の願いだったから。
 私は彼女に悟られぬように、胸を撫で下ろした。本当に女陰を潰されたら、賭けは私の負けだった。いや、これに勝ったとしても、私には彼女に祝福を取り戻させることも出来ないし、私の立場が好転することはないだろう。けど、それでいい。
 斧石は股の間、地面を深々と抉っただけで、|花鹿《かじか》様の股はまだ倭神を産み続けている。

「元、|山《神》にも拘らず、女さえ捨てられない、と」
「後生だから、|吾《あ》れを、|お前《・・》で上塗ってくれ」

 それ以上は、言葉に出来ていないようだった。自尊心が喉を塞ぎ、口惜しさが肺を潰している。こんな酷い顔の|花鹿《かじか》様を見たことがない。|花鹿《かじか》様は、私の足元に縋り付いていた。
 倭の某に打ち勝つこともできず、死ぬことも出来ない。女を辞める勇気もなく、だが望まぬ子産みもまた、耐え難いと。優柔な甘えが、目の前にいる邪蟲へ向かっていた。
 姿勢は、まるで私がいつも|花鹿《かじか》様にしていたような、額づき平伏す姿勢。|花鹿《かじか》様が、私に頭を下げている。屈辱にぐちゃぐちゃになった胸の中も顔も、股の間も、全てを一緒くたにして、|花鹿《かじか》様が私に平伏している。
 気高く優しい姫であった|花鹿《かじか》様をずっと敬愛して……不相応な感情を持ち続けていた。今でもそれは、変わらない。だのにこのように無様な姿を晒して自分に平伏す|花鹿《かじか》様を見て、苦々しい気持ち以上に、ぐつぐつと不徳な感情が湧き上がっていた。当たり前じゃないか、当たり前じゃないか! ずっとずっと好きだった手の届かない筈の女性が、こんな風に私に頭を下げているだなんて、冷静でいられるはずがない!

「倭に下るくらいなら、お前の方が遥かに」
「……それでは物足りませんね」

 彼女を、手に入れたい。|花鹿《かじか》様を、私のものにしたい。
 それは、彼女を生かしたいという想いと都合よく融合していく。

「神を死に、山を下り、虫に成り果て、私のものになりますか、|花鹿《かじか》様。|阿祖見山居比女命《あそみやまいのひめみこと》。山ではなくなったあなたなら、もう、|私でも《・・・》愛することが出来る。奪い去ることが出来る。既にヒトではないが山でさえなくなった、死なぬだけの憐れで卑しい女なら、|虫ケラ《この私》にだって、似合いです」

 |花鹿《かじか》様の顎を掴み上げて、上を向かせる。そうして顔を突き合わせてみると、|花鹿《かじか》様が私を見る目は、もうすっかり変わっていた。憎しみのこもった目線、敵を見据えるような強い視線。当然だ、私は|花鹿《かじか》様を裏切ったのだから。私が、わざわざ戻ってきたのは、山を降ろされた憐れな女を笑うためなのだから。そして、その死にぞこないを、今は手中に収めようとしている。山として神として存在し続け、元は私のような小さな虫ケラなど取るに足らない、平伏して当然と思っていた|花鹿《かじか》様だ、こんな風に|虫ケラ《私》の前に膝を折って頭を下げ、剰え孕ませてほしいなどと言い、その所有物になると宣言させられようとしている。
 私を睨み付ける視線は、もし視線に物理的な質量があったなら、間違いなく|花鹿《かじか》様は視線で私を射抜いて殺すつもりがある、それくらいの目だ。胃が、キリキリと悲鳴を上げている。心臓が不整な拍動を繰り返して、強烈な動揺を物語っている。あらゆる内臓が口から出てきてしまいそうな、不快な内圧。締め上げられて体が粉々に砕けそう。こんな風に、|花鹿《かじか》様に憎しみを向けられるのは、言葉に置き換えられるような感覚ではない。力を持っていた頃の|花鹿《かじか》様に、徒に体を引き千切られて捨てられる方が、まだ何百倍も甘美だったろう。
 でも、この八つ裂きにされて体が粉々になってしまいそうな苦痛も、私の独善的で不伝達のコウイの副産物だと思えば、いたくていたくていたくていたくて、心地よい。
 冷や汗が噴き出す体で、笑いながら|花鹿《かじか》様を睨み返し、不敵に笑い付けてやる。

「良いですよ、その目。良い蟲になる証です。倭への憎しみと、私への怨み。それに何より、自分自身への、口惜しさ。なら、舌を出してください。山ではなく獣のように、神ではなく人のように、舌を。証の口吸いを」

 上向かせた顎、頬を左右から押しつ薄ようにして開かせる。唇を重ねて乱暴に割れた口の奥へ舌を差し入れる。そして、喉から押し出したそれを、彼女の口の中へ放り込んだ。

「〜〜〜っ!?」

 口の中に入れられたそれは、蠕いていた。硬い感触と、柔らかく湿り蠢く触感。それは、蝸牛だ。口の中を泥の匂いを撒き散らして這い回り、|花鹿《かじか》様の口の中に|汚らわしい《可愛らしい》足跡を引いていく。

「噛み潰して、飲み込んでください」

 出来ない、こんなものを、|陸貝《まいまい》を飲み込むなんて。
 そう目だけで許しを請うてくる|花鹿《かじか》様。だけど私は同じように目だけで早くしろと伝える。金属光沢のある冷たい複眼で、今や山でもヒトでもなくなった|花鹿《かじか》様を何重にも見下して、慈悲のない色で。

「噛んで下さい」

 私が言うと、|花鹿《かじか》様の下の上をぬらぬらと歩き触角を伸ばしたり引っ込めたりを続ける蝸牛を含んだ顎が、唇を結んだままで、開かれた。

 がりっ

 体中に電流が走った。|花鹿《かじか》様が蝸牛の殻を噛み砕いた音を聞いただけで私は、法悦の淵に落ちた。|花鹿《かじか》様は気付いていないが、私は蝸牛を口の中で噛み砕いた|花鹿《かじか》様を見ながら、射精していた。私が、|花鹿《かじか》様の口を犯している。尊厳を踏みにじって、彼女の拒否権を奪い、最悪の嫌悪感を飲み込ませた。

 ぞくん、ぞくんっ

 ペニスへの刺激なしに、私は|花鹿《かじか》様の置かれている状況を目の当たりにし、あるいは想像しただけで絶頂が重なっていく。

「……噛め!」

 命令する。従うしか無い|花鹿《かじか》様は、がりがりとカタツムリの殻を噛み砕き、そしてその内部の柔らかい肉質を、潰していく。泥臭く、ぬめぬめした、不潔な蟲を、口の中で咀嚼している。
 泣きそうな顔、というよりもももう涙を流して泣いている。倭の人間に犯されるときも、こうやって|可愛い顔で《…》泣いたのだろうか。そうやって、泣きながら、それまで絶対に拒絶して受け入れなかった他者の侵入を、強制されて子を孕んだのか。

「噛み潰せたら、口を開いて見せて下さい」

 そう言うと、大粒の涙をぼろぼろとこぼしながら|花鹿《かじか》様は口を開けて私の方に向ける。
 生きた蝸牛を口の中で噛み、殻片が口内を傷つけている。ぐちゃぐちゃに形を失った蝸牛の体だったものが、舌の上に乗っていた。もはや汚物と等しい。それは汚物だが、まさしく私の体の一端だ。|私《汚物》を口の中で咀嚼して涙を流している|花鹿《かじか》様。それを見て、もう一回、ぱんつのなかに精を放ってしまう。

「美味しいですか?」

 美味しいわけがないだろう、睨み付ける目線がそう物語っている。でも、もう引き返せない。

「じゃあ飲み込んで|いいですよ《…》」

 私が許可を出すと、|花鹿《かじか》様は涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔を更に歪めて、口の中で自らミンチにした生の蝸牛を飲み込んでいく。私が、|花鹿《かじか》様に、飲み込まれる。ぐちゃぐちゃに殺された私が、|花鹿《かじか》様の喉を通って、|花鹿《かじか》様の中に入った。
 あれだけ他人の干渉を拒んでいた|花鹿《かじか》様の中に、私は入り込んだ。そして、山でも神でもなくなりそれでも生きる|花鹿《かじか》様の「生」を、私が強制する。|花鹿《かじか》様の存在を私が担保する。

「これで、あなたはもう、正式に|山《神》ではない。汚らわしく卑しい、私と同じ蟲の一人です。 倭人の言葉を借りて、|そのもの《・・・・》になるのも悪くはないでしょう。」

 もう一度顎を持ち上げる。さっきとは違う接吻を、何度も何度も、強く。何百年も、ずっと恋い焦がれてきた、唇。思い切り嫌がるだろう、そう思っていたが、|花鹿《かじか》様は私の期待に応えるべく従順に舌を伸ばして私のそれを受け入れてきた。
 自ら腕を伸ばして、私に、絡み付いてくる。もう一度口を寄せる。唇が重ねられて、私は、幸福感に苛まれた。
 自ら舌を出して私の口へ奉仕してくる|花鹿《かじか》様。もう、|山《神》ではなく、私のものになっていた。
 彼女の背筋がぞくぞくと、粟立っているのが、伝わってくる。快感と、幸福感と、ただの接吻でしかないのに。

「では望み通り、これからあなたを孕ませます。虫けらごときに種付を願った憐れな神の死体を」

 |花鹿《かじか》様の股間から流れ出るのは、倭神の子ではなくなっていた。
 私を受け入れる準備、その証の液体が、|花鹿《かじか》様のほとを割り股を伝っている。|私《蟲》との契を結び蟲となった|花鹿《かじか》様。憎いものを睨み付ける目、涙を流して唇を噛みながら、私を見る。だが、体の方は私との行為を想像して、ひくんひくんと揺れていた。穢神の代わりに私を求める淫液が滴っている。

「……股を、|開け《・・》」

 |花鹿《かじか》様は涙の雫を乗せた睫毛を伏し、顔を逸したまま私の方に向けて、股を開いた。



§ § §



 急激な新陳代謝のせいで体温が上がり続けている|花鹿《かじか》。彼女の体は、不可逆に、妖怪に、虫に変化していく。体の変化というよりも、存在の置換。その置換の過程で、|穂多留比《ほたるび》への服従回路が組み込まれていく。
 倭に男達に植え付けられた種を上塗りして消したいだけ、そのはずだった。

 だが、相手が悪かったのかも知れない。

 こんな風に、体が悦びに震えて求めてしまうように作り変えられてしまうなんて。なら、何故彼を選択した。一度は捨てると決めた筈の|ただの玩具《淡い慕情》なのに、迎えに来てくれたとでも勘違いしたのだろうか。

 相手が悪かったのだ。

 少しでも、求めてしまうような相手に頼むことではなかった。

(|穂多留比《ほたるび》に、依存、してしまう……)

 依存させられている。
 状況に漬け込まれて、薬物中毒のように、意志に関係なく体が彼を求めてしまう。
 いや、意思も時間の問題かも知れない。

 開かれた股の間に見える赤々と濡れた陰部。男達に散々に散らされた処女と陵辱で傷ついたそこは、すっかり癒えていた。それどころか目の前の「王」の視線に晒される快感に、蠢いて蜜を垂らしていた。

(こ、んな……なぜっ)

 彼女の体は今急激に内部から作り変えられている。|穂多留比《ほたるび》に飲まされた蟲のせいだ。
 人間の体としての組織は食べられていき、代わりに蟲のそれに置換されていく。蟲になるということは、目の前の小さく弱いホタルの妖怪に、服従するということだ。
 虫は、人間に敵意を持っているわけではない。ただ、多くの場合、無関心なのだ。巨大な組織を営んでいるにも拘らずその組織力を利用して進んで人間やその他の種族を支配しようとしないのは、そもそも関心を持っていないからだと言われている。生きるためや代をつなぐための最低限の寄生しか行われていない。
 だが組織的に支配をするつもりがないのに間違いはないが、寄生されたものは例外なく、悲惨な結果が待っている。なんせ、相手がどうなろうと興味を持っていないからだ。慈悲など無い。
 だがこの|穂多留比《ほたるび》は、|花鹿《かじか》という少女に興味を持っている。興味という言葉では余りにも未分化かも知れないが。|穂多留比《ほたるび》は、|花鹿《かじか》を、従僕化しようとしたのだ。それでもあの虫を飲み込むなんて馬鹿な真似をしなければ防げるものだったというのに、|花鹿《かじか》という少女にも何かそれを受け入れるに足る理由があったのだろう。もしくは、ただの絶望だったのか。

「私を見て、|花鹿《かじか》様」

 目を背けたまま、自分を組み敷く|穂多留比《ほたるび》の方を見ようとしない|花鹿《かじか》。だが。

「|見て《・・》」

 |穂多留比《ほたるび》がそう命じると、否応なくそれに従ってしまう。それに、|穂多留比《ほたるび》に組み敷かれた彼女は、もう体中で雌の期待を表現してしまっている。今更視線ひとつくれない様子も、ただ劣情に薪をくべるものでしか無い。

「気持ちよく、してください」
「……口でしろということか? 男というのは、どうして」
「|早く《・・》」

 |穂多留比《ほたるび》に割り込むように|指示《命令》された|花鹿《かじか》は、反抗の言葉を途中で打ち切って、股間にむしゃぶりついていた。|穂多留比《ほたるび》はまだ王ではないし、王になる可能性が低いと言っていた。だが、こうなっては主は|穂多留比《ほたるび》であり、|花鹿《かじか》に対しては王命の如く逆らうことが出来ない。彼の奴隷に作り変えられていく体が、それに狂気を感じるほどの喜びを覚えている。何十回も肉の塊をぶち込まれて擦れて裂けて痛い筈のアソコがじくじくと飢えて涎を垂らし摩擦を求めている。

「卑怯、っ、者っ……ん……こんなことで、ちゅっ、れろっ 女を従えて んんぐっ……ちゅっ、ちゅぅぅぅっ……恥ずかしくないの、かっ あむっ、んっ」

 断続する口愛撫の中で口が少しでも離れる度に、反抗的な言葉を口にする|花鹿《かじか》。だがそれは、口淫の抑揚として離しているだけで、嫌悪感で口から吐き出しているのではない。
 熱心ささえ感じるフェラチオは、先端にキスをしたり舌を伸ばして舐め回したり、口に含んで唾液まみれにするだけでなく、竿全体に頬ずりしたり鼻先で匂いを吸い込んだり、とても嫌悪感混じりの行為には見えない。
 それでもその行為の最中に|穂多留比《ほたるび》をじっと睨み付ける視線は鋭く、憎しみと悔しさに染まっていて、それに少しの悲しさが零れている。

「あ、|花鹿《かじか》、さまっ、すご、っそんなのっ」
「気持ち悪い顔を、んっれろっ、ちゅっっ、してっ、はむ、んっ……っくっこく、こくっんっ、最低の男、ちゅっ、だな」
「|花鹿《かじか》様が、孕ませて、ってゆったんですからね。忘れたんですか?」
「くっ……ちゅっ、ちゅぱっ、だからって、こんなことまで ちゅっ、あむっ、んっ、んっ」

 いずれも、男達に強要されて覚えてしまった浅ましい技術。自尊心の高い|花鹿《かじか》がすることでも、ましてそれを|穂多留比《ほたるび》に進んでするような行為でもない。だが、|穂多留比《ほたるび》への服従を受け入れてしまった体が、勝手に知識をフル回転させて|穂多留比《ほたるび》への奉仕を続ける。
 口先、それに視線や表情といった意思が表出しやすい部分だけが、|穂多留比《ほたるび》への抵抗を続けている。だが望まない相手、嫌いな相手、その気にならない相手との性交で燃え上がったりしづらい筈の体までも、感情に反して性欲だけが異常に興奮して昂ぶって、求めていた。尋常な「欲しさ」ではない、言葉で嫌悪を示し反抗しても、体は|穂多留比《ほたるび》との性的な接触に歓喜している。

(嫌だ……こんな事、したいわけではないのに。ただこの|胎内《ナカ》に、さっさとあの臭い液体を注いで、終わって欲しい、だけなのに その筈、なのに……)

 |花鹿《かじか》の手に残された理性と記憶、だが、残されたのは理性と記憶「だけ」なのかも知れない。体の自由と本能的欲求、上層と下層双方とも奪われ、残された理性はその双方から擂り潰すように削れていく。自らの意思に反して|穂多留比《ほたるび》に服従し、その服従と奉仕に快感と幸福感を感じる体と本能に|花鹿《かじか》は翻弄されていた。
 |穂多留比《ほたるび》の男性器全体を口の中に飲み込むと、先端からじくじく零れてくる苦い液体の味と感触が口の中に広がる。嫌悪感さえ感じる味だと言うのに、まるで甘露でも舐めているような気分になってしまう|花鹿《かじか》。男達に輪姦されたときのものと同じとはまるで思えない。
 舌を使って、必死にそれを舐め取って味わってしまう。理性では、気持ち悪いと、感じているはずなのに。

「んっ、ちゅっ、この、クソ虫、ちゅっ……はむ、がっ」
「そんなに嫌なら、やめても、いいですよ」
「ちゅっ、くぱっ、ああ、やめてやる。今すぐに、お前のこれを噛みちぎって、すぐにでも」

 反抗的な言葉を吐きながら|穂多留比《ほたるび》のペニスを口に含み、睨み付けるような上目遣いは険しい三白眼にも見える。だが一方で、顎と首を激しく動かして熱心なフェラチオも続けている。
 口の中に唾液を溜めて、|穂多留比《ほたるび》の肉竿を愛おしそうに舌で舐め回す。唇をすぼめたリングでエラの部分を刺激する。頬の内側の粘膜に亀頭を押し当てて擦る。舌先で鈴口をホジリ、亀頭の縫い目をなぞる。
 性的な行為が好きな女でなければ進んでやりそうにもない口淫のテクニックは、全て一晩で男達に強いられ覚えてしまった忌まわしいものだ。だが今の|花鹿《かじか》は、その技術を惜しげも無く|穂多留比《ほたるび》に披露して、彼に奉仕していた。睨み付けるような、恨みの籠もった視線を向けたまま。
 言葉通りに、|穂多留比《ほたるび》のペニスを噛みちぎる、なんて素振りは一つも見せていない。視線と、時折口にする反抗的な言葉以外は、まるで愛おしい主人に構ってもらうのが嬉しくてたまらない淫乱女奴隷の愛撫そのものだ。

「くんっ、こんな粗末なもの、すんっ、よく女の前にさらけ出せるものね くんっくんっ」
「|花鹿《かじか》様の前でなら、なんでも見せられますよ」
「すうううっ、うるさい、これ以上おまえの、くんくんっ、汚いものを見るなど、ごめんだっ! んご、くんっ」

 そう言いながら、ペニスから口を離した|花鹿《かじか》は鼻先を竿の下と陰嚢の間に突っ込んでいる。汚らしいと言いながら、その間の酸味と汚物を足したような匂いを吸い込んで胸いっぱいに溜め込もうとしている。剰え、舌を出してそこを舐めていた。

(……見た目可愛らしいこいつでも、牡の部分は、こんな匂いがするのか……男、なのだな)

 散々フェラチオをしているというのに、その匂いがいきなり|花鹿《かじか》の頭の中の深い部分に突き刺さった。彼女を倭の軍勢から一度救い出した腕に感じた、見た目にそぐわない男らしさ。オスの、強制力みたいなもの。
 |花鹿《かじか》のフェラチオが、一層熱を帯びる。口に含んだ睾丸の重さが、全て|穂多留比《ほたるび》の牡の象徴だと感じてしまってから、|花鹿《かじか》の中の箍がひとつ、トんでしまった。
 |花鹿《かじか》の下半身からは、強烈な雌の匂いも漂い始めている。|穂多留比《ほたるび》に虫体投与を受けて体を虫に作り変えられてしまってからじくじくと充血と蜜濡れの状態になっていた女性器は、彼を求めて発情状態になっていた。もともと、倭の男どもの精を塗り潰してもらうのが彼女の願いなのだが、いっそ|穂多留比《ほたるび》からも強制的なレイプであってほしかったと、|花鹿《かじか》は考えていた。それならば、いっそ全てを敵に思って感情を飼いならすことが出来ると。
 なのに、今の彼女の体は、自ら進んで|穂多留比《ほたるび》の種付を待ちわびている。口先で抵抗し、理性では嫌悪感を抱いていても、体と本能が完全に彼のものになっている。

「ぐちゅっ、ちゅっ、支配した女に、まっさきにこんな事……この、品性下劣虫っ ちゅっちゅぼっ じゅぼじゅぼじゅっ」
「どうとでも、おっしゃって、くださっ、あ、ああっ、いっ これは、|花鹿《かじか》様がお望みになったこと」
「私は! こんなことは望んでいない! お前はただ、倭の種汁を、|吾《あ》れの中から追い出しさえすればいいのだ! お前の支配下に下ったからと言って、|吾《あ》れをこんな風に」
「そんな言葉も、私の股に顔を突っ込んだまま言われても、全然説得力無いですよ ふあ、それ、すごくきもちいですっ……」

 陰嚢を舐め回してベトベトに濡らしてから、再び竿愛撫へ戻る|花鹿《かじか》。口に含んで唇を伸ばし、音が響くくらい激しく首を振って口淫する。舌は口の中でめちゃくちゃに動き回って、|穂多留比《ほたるび》の男性器を執拗に愛撫していた。

「ふっ、ふっ、ふうっ」

 相変わらず睨み付ける三白眼、言葉尻は全く拒絶の一色。でも鼻息を荒くしてまでする貪欲ささえ感じるフェラチオ。頬をすぼませて、唇をつっぱって、ヨダレが口元を汚しても気に留めず、|穂多留比《ほたるび》の肉棒への愛撫は加速していく。

「|花鹿《かじか》、さまっ……で、そうっ……」

 |穂多留比《ほたるび》が、苦しそうにさえ見える喜悦の表情で、射精が近いことを告げる。

「じゅるじゅるじゅるっ 掌を舐めているだけで、ちゅっぷっ、れろ、気を遣るお前にしては、頑張ったじゃない、かっ んっじゅぼじゅぼじゅぼっ」

 |花鹿《かじか》は、|穂多留比《ほたるび》の肉棒から完全に口を離した。

「あっ、|花鹿《かじか》さまっ、どうしてっ」
「射精すなら、こっち……」

 |花鹿《かじか》は元々望んでいた通り、神産みの種を上書きさせるために、もうすっかり熟れきってワレた肉アケビを見せる。だが。

「|やめないで《…》!」
「ば、ばかっ……むぐっ、じゅぶっ、んっ、ぬぶっ、ん〜〜〜っ!」

 |穂多留比《ほたるび》の命令で、本当は膣に入れたい肉棒を、再び口に飲み込んでしまう。
 射精に向けて一直線にそれを導くための速くてある意味で単調な口使い。ヨダレれを撒き散らして、息もつけないペースで首を振る、振らされる。頬を変形させて不様な表情のまま、苦悶の眉と恨めしく睨み付ける目、欲情に染まった頬。めちゃくちゃに混在したフェラチオを強いられて、否応なく高まってしまう|花鹿《かじか》。それに、それを指示している|穂多留比《ほたるび》。

「で、るぅっ……! |花鹿《かじか》様、 かじかさま、かじかさまかじかさまっっっっっ!」

 最後の最後で、|穂多留比《ほたるび》は|花鹿《かじか》の口からペニスを抜き取った。

「か、顔でっ」
「ぷ、ぁっ、お前、こんなっ……あ」

 |穂多留比《ほたるび》にとって恋心のイコンである|花鹿《かじか》の美しい顔を、自分の体液で汚そうとしていた。

「んっ、〜〜〜〜〜〜っ!」

 鈴口がぱくぱくと蠢いたのを、|花鹿《かじか》の目はしっかりと見ていた。見させられていた。そしてそれが一際大きく口を開いた瞬間に、どぶっ、どばっ、と音が聞こえそうなほどの射精圧が|花鹿《かじか》の顔面を襲った。
 それは|花鹿《かじか》の知る(知ったばかりの)射精とは全く違うものだった。まるで小便の切れ目のような、大量で凄い勢いで何度も何度も吹き付ける精液。彼女を犯した男達も同じようなことをさせたが、顔にかけられた射精はいずれも、ただ上からかけて垂らすようなものだった。だが、|穂多留比《ほたるび》のものは、全然違っていた。
 夥しい量の精液は、彼ら虫というものが個の強さよりも繁殖数という全の強さを選択した証でもある。相手が同じく虫であれば、何千何万もの卵でこれを受け止めるのかも知れないが、今の相手は神を落とされた人間、卵は一個だけだ。その一個の卵を目指して、人間とは比較にならないおぞましい数の精虫が、蠢いている。

「んぶっ、ぶごおぉっ! やめ、っ、こんなっ ほらる、んぐっ」
「口、|開けて《…》」

 更に追加の命令をされて、|花鹿《かじか》は|穂多留比《ほたるび》の射精に対して顔を上に向けてゲル状の精液が上に乗って残るようにしたまま、口を開けた。目はとても開けていられない、でも、精液が目に入ってこない程度に薄く目を開けて、|穂多留比《ほたるび》のペニスと……それに恍惚に表情を崩す愛しい顔を睨みつけようとしていた。
 頬に、瞼に、鼻先に、唇に額に髪に、顔全体にまるで叩きつけるような水圧でぶっかけられる精液。量も夥しく、一吹きで顔の上に乗り切らない量が撒き散らされて、どろどろと顔の下に零れて落ちる。それに、温度が高い。人間の男の精液なんて冷たくて気持ちが悪いものだったのに、|穂多留比《ほたるび》のそれはまるでお湯をかけられているようなぬくもりが、ゲル状の吹き溜まりからじわじわと染み込んでくる。

「くさい……ひろいにおいら、こんなものを女にかけて喜ぶなんれ、さいへー……らっ……さいへーの、くそむしっ、お前なろケツが光っるらけの、ハエろ変わらぬっ!」

 口を開けろと命じられ、その通り口を開けて|穂多留比《ほたるび》の射精を顔面と口で受け止めながら、甘ったるい声で罵り声を漏らす|花鹿《かじか》。口を閉じることが出来ず、精液が流れ込んでくるのを受け入れながらその中央で蠢く舌の光景は、|穂多留比《ほたるび》の射精欲をさらに継続させた。
 |花鹿《かじか》の手は|穂多留比《ほたるび》を罵倒しながらも、その肉棒に添えられたままだ。それどころか扱くように動き続けていた。射精に跳ね回るペニスの先端が自分の顔に向き続けるよう優しく包み、口を大きく開け舌を伸ばし、扱く度に降り注ぐ吐精を口の中へ導いている。それでも|花鹿《かじか》の想像を超えた射精は口の中に収まりきらず、べちゃべちゃと降り注いで真っ白く濁った汚らしいゲルで|花鹿《かじか》の顔はコーティングされていく。
 やっと射精の勢いが衰えてきた頃には、|花鹿《かじか》の顔は外からは表情さえわからないくらいに真っ白く塗りつぶされていた。粘度の高い精液が鼻の穴にかかる度に、|花鹿《かじか》の鼻からは見るに堪えない精液鼻ちょうちんが膨らんで、割れる。口の端からも涎なのか精液なのかわからない液体が、ダラダラと零れ続けている。

「おろこは、ろうしれ、こんらころをしららるのら……きららいらけの、馬鹿みらいな行為 おまえ、も、見損なった、わ|穂多留比《ほらるひ》」

 だが、口の中に堪った白濁液を、|花鹿《かじか》はまだ吐き出しも飲み下しもせず溜めたままだ。|穂多留比《ほたるび》にいいと言われるまで、溜め込んでいるのだ。
 その|花鹿《かじか》に対して|穂多留比《ほたるび》が命じたのは。

「|うがいして《…》。ガラガラうがい。私の精液を、ぶくぶく泡立てて」
「ば、ばかいうな、ひょんらころ、れりるわけが、ごぼっごぼぼぼぼっ、んぐ、ぶぐっ、がばばばばばばば……」

 口の中にたっぷりと溜め込まれた精液を使って、がらがらと喉奥をうがいしろというものだった。何の意味もない、ただ女を精液で苛むためだけの命令。当然|花鹿《かじか》の口は拒否し、体は即座にそれを実行した。
 ドロリと匂い立つ臭い精液は、|花鹿《かじか》の唾液と混じり合って柔らかくなり、ごぼごぼと|花鹿《かじか》の口の中で泡を立てて行く。

「|次はくちゅくちゅうがいです《…》」
「〜〜〜〜〜っ!」

 口を閉じ頬をう膨らませて、歯と歯の間を通すように精液で口の中を洗う。歯茎の根本、唇の裏側までが全て精液で味付けされてしまう。|花鹿《かじか》は涙を流して|穂多留比《ほたるび》を殺意さえこもった目で睨みつけながら、しかし勢いよく精液うがいを続ける。

「|見せて《…》」
「ぷぁ……ころひれ、やる……」

 口の中に見えたのは、細かく泡立ち|花鹿《かじか》の唾液と混じり合ってクリーミーになった、精液。|花鹿《かじか》の口が開かれると、もわっ、と悪臭が立ち上り、それは|花鹿《かじか》自身の鼻にも入った。

(こんな、こんなこと、うけいれ、られない……っ ただ、ただ倭の神産みを、止めたいだけだったのに、どうして……)

「飲んでいいですよ」
「のめほ、いうろか、これを……! おまへ、ろこまであれを」
「|飲んで《…》」

 ごくっ、ごくごくっ、ごきゅっっん

「ぷあ……」
「美味しかったですか?」
「美味しいわけが、あるかっ……こんなものっ! ご馳走さまでした」

 殺意と憎しみを隠そうともしない目を|穂多留比《ほたるび》に向けたまま白濁液クリームを飲み下した|花鹿《かじか》。だがその嚥下と同時に、彼女の体が小さく断続的に脱力していたのを、彼女の主人は見逃していなかった。
 それどころか、ぴくん、ぴくんと小さく跳ねる腰とそれに、隆起したクリトリスの下で、割れ目の間から断続的に絞り出されるように目に見えて流れ出している白濁した液体、小刻みに痙攣するお尻。

「|花鹿《かじか》様、私のザーメン飲んで、イキました?」
「は? イクわけないでしょう? 精液を飲んでイクような、|吾《あ》れは変態ではない! 見くびるな、蛆虫野郎!」
「イッてましたよね」
「イッてない!」

 フェラチオばかりで塞がれっぱなしだった口が久しぶりに自由になり、勢いよく|穂多留比《ほたるび》を罵倒する|花鹿《かじか》。だが、精液ごっくんで絶頂したと指摘されたのを強行に突っぱねながら、彼女は蜜でベトベトになり割れ目がパックリと広がった女陰を、|穂多留比《ほたるび》の目の前に突きつけていた。

「イッてなんか、ないわ」

 採れたての貝の肉のようにぬらりと蠢く媚び淫肉が、|穂多留比《ほたるび》の目の前で蜜を垂らし続けている。べっとりと股ぐらまで濡らした愛液が鼻をつく強烈な雌の匂いを漂わせている。

「お前の行為なんかで、こんな卑怯な行為で、気を遣ったりするものか。自惚れるな、ムシケラが」

 |花鹿《かじか》は両手で肉裂を左右に開いて|穂多留比《ほたるび》の目前に晒し付ける。鼻先が触れそうなほどの距離、陰毛の生え際、ラヴィアの皺と陰核の膨らみまで、はっきりと分かる距離。左右にくつろげられた肉割れ目の奥へ伸びる、柔らかく閉じた穴が、蜜を湛えて蠢いている。

「舐めていいですか?」
「だめよ、馬鹿言わないで」

 だめだといいながら、しかし体の方はもう一歩陰部を|穂多留比《ほたるび》に近づけて、股をぐいと押した。|穂多留比《ほたるび》の口が|花鹿《かじか》の陰裂に触れ、どっと蜜の量が増える。

「んひ……だめだと、い、言っているでしょう! ほぉぉんっ」

 |花鹿《かじか》の手は|穂多留比《ほたるび》の頭を掴んで引き寄せ、彼の口を自分の陰部へ押し付けている。

「はっ、はっ、はっ、クリ、舐めないで、やめなさっ……」

 だがそれをしているのは|花鹿《かじか》だった。自ら腰をくねらせ、|穂多留比《ほたるび》の唇と、それにたまに鼻や歯にクリトリスを擦りつけている。

「お前なんか、お前のことなんか、|吾《あ》れは……っ、つっ! 〜〜〜〜っ!」

 |花鹿《かじか》の声が上擦ったように一段階高くなり、|穂多留比《ほたるび》の頭を押し付ける力が、ぐっと強くなった。次の瞬間、|穂多留比《ほたるび》の口元に、どぶっ、っと粘りの強い液体が吹き出した。
 そして、かくん、と力を失いずるずる体を倒して|穂多留比《ほたるび》にも誰かかかってしまう。

「二回も、イっちゃいましたね」
「イッてない、イッて……ないぃ……」
「|キスして《…》」

 胸元に崩れたままの|花鹿《かじか》が、命じられるままフラフラと覚束なげな体で首を伸ばして、|穂多留比《ほたるび》に口づける。
 唇で触れる、|穂多留比《ほたるび》の唇。柔らかくて、熱くて、でも女のそれと違って少し固い唇に、また、男を感じてしまう|花鹿《かじか》。

(っ……〜〜っ!)

 その瞬間、脳裏を火花が何度も弾けるような感覚を覚える。そのまま煤と焦げが広がるように、黒くではなく真っ白く、その火花が頭の中を塗り潰していった。
 ひくん、ひくん、と|穂多留比《ほたるび》に口付けをしながら全身を小さく痙攣させる|花鹿《かじか》。

「あは、私の精液の味ですね、これ」
「ぁ……あふ……へぁぁ……」

 肉体的なアクメに背を押される形で、キスの拍子に、精神的な絶頂も迎えてしまったらしい。肉体的な絶頂よりも何倍も、心の抵抗力を溶かしてしまう。
 ふにゃふにゃになった|花鹿《かじか》は、恥ずかしさと戸惑いを混ぜつつもやはり悔しさを滲ませた表情で、|穂多留比《ほたるび》の方を見ている。体に力がうまく入らないのか、まだ|穂多留比《ほたるび》の上から動けないでいる。

「こ、こんなことで、|吾《あ》れを手篭めにしたなんて、おもうな、よ」
「……思ってませんよ」
「はあ、はあっ…… どう、だかな。お前は、さっさと……|吾《あ》れを、孕ませれば、いいのよ。他のことはこれ以上、しなくていいわ」

 体が完全に屈服していることは、|花鹿《かじか》自身も既に自覚している、だがそれでも認めたくない譲れない一線というものがあるのだろうか、それは長年主従を築いて過ごしてきた、二人の間の距離感がそうさせるのかも知れないし、|花鹿《かじか》のプライドが高いことがそうさせるのかも知れない、どうしても上から目線の口調が抜ける気配はない。
 一方の|穂多留比《ほたるび》は、単純な余裕の心境を以て、|花鹿《かじか》の抵抗を受け入れているようだった。


「|花鹿《かじか》様。ご自分の体の変化、お気付きですか?」
「な、に?」

 体の内部から、体組織を劇的に虫妖へのそれと作り変えられてしまっているのは、|花鹿《かじか》にも自覚があった。さっきまで二度と歩けないだろうと思っていた脚からは、いつの間にか痛みは消えているし、その他にもレイプで骨折も混じっていただろう怪我だらけだった体は、いつの間にか|穂多留比《ほたるび》に体中で奉仕をしていても苦痛を感じないくらいに癒えている。倭の穢神を生み続けていた女陰にも、もはやその気配はない。虫体投与を受けたときからもう、子産みも止まっていた。
 それ以外に何か、体に変化があっただろうか。|花鹿《かじか》は痛みが消えた自分の体を確かめる様に、自分の手を見てみようとする。

(?)

 そこで、驚くべき事に気づいた。手、と意識して、すぐに右手を動かすつもりだったのに、自分の意識の中にもう一つの選択肢が生まれていたのだ。意識が、自分の体の認識が、作り変えられている。右、と意識してもまだ選択が足りないと脳みそから問い返された。それでも無理に今までどおりの意識で手を目の前に持ってきてみると、見慣れた自分の手と一緒に奇妙なものが目の前に現れた。

「っ!?」

 それは、巨大な、虫のような脚の先端だった。細かな剛毛が生えそろっていて、毛のない部分は光沢を放っている。見えるのは先端だけだが、先端はまるで刃物のように鋭利に尖っている。
 恐る恐る、|それ《・・》だけを意識して、動かそうと意識してみた。意識、出来てしまった。その虫の脚は、|花鹿《かじか》の意のままに、動くではないか。荷重のかかる重心の一から考えると、どうやら背中から、ぐるりと抱くように生えているらしい。

「ア……アァ……」

 左手と、同じく左の、今まで使ったことのない方、を意識して自分の前に持ってこようとしてみた。それは余りにも違和感なく出来てしまった。|花鹿《かじか》の目の前には、人間の右手、左手、それに、虫のような右手、左手が、ある。それらは人型に虫型に拘らず、どちらの手も全く違和感なく、驚くほど区別なく、自由に動かすことが出来るではないか。

「ほ、|穂多留比《ほたるび》……これ、は」
「ご自分で、仰ったではないですか。私の配下に下ると。山神でありながらムシケラの眷属に下り、私のものになると。それがどういう意味か、全く想像できていなかったはずは無いでしょう?」

 脚を、意識してみた。左右に、6本も追加されている。人間の手足に加えて、虫のような脚が、8本、増えていた。それは完全に|花鹿《かじか》の体に、適合している。
 更に、臀部からは自分の今までの体とは別の力を蓄えた、虫の腹のような膨らみが生えていた。意識せずとも別の呼吸を繰り返し、気門らしき穴から常に熱い呼気を履いている。蛇腹に重なった下側となめらかな一枚板で出来た板金のような硬い表皮。だがそれも、意識をすれば自ら動かす事ができる。

「脚を欲してらっしゃるようでしたので、ムカデさんか迷ったんですが、人間たちから土蜘蛛と呼ばれる|花鹿《かじか》様には、蜘蛛が一番導入しやすかったもので。でもよかったと思います、強くて、美しい、蜘蛛は|花鹿《かじか》様に似合い、です」

 |穂多留比《ほたるび》が言うのを他所に、|花鹿《かじか》はその場で彼から離れて四つん這いになっている。

「お゛えぇぁぁっ……げはっ、ぐ、げええっ」

 自らの身体を認識した瞬間、嘔吐していた。瞬間的に強烈なストレスを感じたのらしい。先程|穂多留比《ほたるび》から飲まされた精液も、その前に男達から飲まされた精液も全部、胃液と共に吐き出していた。

「う゛ぇぇっ、お゛、ぐげええぇぇっ、げほっ、げほっ」
「……吐くこと無いじゃないですか、私の体も似たようなものなのに、酷いですね」

 その言葉尻に反して|穂多留比《ほたるび》には、ショックの色は一切ない。むしろ愉快そうな薄ら笑みさえ浮かべて、|花鹿《かじか》を見下ろしている。

「私は、|花鹿《山神》様には相応しくない、虫けらでした。それでも、身分違いと分かっていても、あなたを愛してしまいました。でも、虫になったあなたなら、私は相応しい。私は、あなたを堂々と、抱くことが出来ます」
「……そんな、ことのために」
「そんなこと? そんな事かもしれませんね。でも、これはあなたが選んだことです。自分の足で立つことを望みながら、私の下僕に加わって私に存在させられることを、あなたは選んだので」
「違う!」

 叫ぶ、|花鹿《かじか》。

「違う! 私は、そんなつもりでお前に……そんなつもりじゃ、なかった! 私は、一人で……!」

 自由に扱えるようになった8本の擬足、土蜘蛛としての妖力。何者かに積極的に信仰されることによって保証される力ではなく、恐怖や疑心、悲しみや苦しみといった不可避の感覚によって強制的に力を吸い上げ収集する存在へ生まれ変わった|花鹿《かじか》は、早くもその力を自在に操っていた。
 自分の弱い部分に漬け込んで自分を虜に貶めた|穂多留比《ほたるび》への、慕情を保ちつつも憎しみを先行させ、それとほんの少しだけの負い目を混ぜた飽和感情混合物が、|花鹿《かじか》の体を動かす。

「お前が、お前のせいで、私は、|穂多留比《ほたるび》ぃっ……!!」

 眼の前の、自分をかき乱して答えを乱す、矮小な蛍の妖怪を、蜘蛛の手足は瞬く間に捕らえ上げた。人型の手足4本しかもたない|穂多留比《ほたるび》のそれを、余りある腕で掴んで拘束し、残りの擬足は腹から吐き出した糸を繰り、対象の体を括りあげようとする。それに、自分の顎に熱い毒が秘められているのにも気付いた。

「はっ、ははっ! このまま、お前を、お前をっ!」

 山の神から巨大な妖怪に転生した|花鹿《かじか》とって、目の前のこの小さく弱い蛍を取って食い殺すことなど、容易いことに思えた。現に、|穂多留比《ほたるび》は|花鹿《かじか》の拘束に抵抗もできず、体の自由を奪われ、糸を巻き付けられようとしている。このまま|花鹿《かじか》が噛みつき顎に生じた毒をすっかり注ぎ込めば、この弱い王子はあえなく死に絶えることだろう。だが。

「|わきまえろ、蜘蛛《…》」
「っ、く、がっ……!」

 |穂多留比《ほたるび》がそれまでと同じように命令を下すと、やはりそれまでと同じように|花鹿《かじか》の体は彼の操るがままになってしまった。その顎が目の前の蛍に毒を注ぐことはなく、彼の手足を拘束していた擬足は素直にその戒めを解いた。蜘蛛糸はまるで雪が溶けて消えるように失われ、|穂多留比《ほたるび》は何事もなかったかのように立ち上がる。

「動け、この脚はもう、|吾《あ》れの脚なのだろう! 動け、動かぬかああああっ!!」

「流石です、|花鹿《かじか》様。もう、そんな風に力を扱えるなんて。体も、練習しなくっても自由自在だなんて、信じられません。|花鹿《かじか》様は神様よりも妖怪の方が才能あったんじゃないですか? 妖怪になっても、私なんかよりもずっと強いままです。凄いです、本当に。でも、強さに関係なく、あなたはもう、私のものです」
「……くっ」

 |花鹿《かじか》がどんなに動けと命じても、新たな手足も、それどころかやはり元の手足も、全て思い通りにならない。襲いかかろうとしていた|花鹿《かじか》の方へ、|穂多留比《ほたるび》の方から歩み寄ると、|花鹿《かじか》の体はまるで磁石が反発するように一定の距離を保って後ろへ下がってしまう。刃のようになった鋭い脚の一本でも、目の前の男に突き刺せば終わるというのに、それが出来ない。

「さあ、完全に虫のものとなった|花鹿《かじか》様、続きと行きましょう」

 さっき、股を開けと言われて人としての体で股を開いて陰部を晒し、求められるまま|穂多留比《ほたるび》へ陰茎愛撫で奉仕した。今度は、|花鹿《かじか》の体はまるで死んだ虫のようにひっくり返って、全ての擬足をくの字に折り曲げて無力さをアピールしていた。そして、人の脚はM字に開かれ、主命によって再び蜜を吹き出した陰部が肉を割っている。手は、頭の上で組まれて無抵抗を表現し、上半身を曝け出していた。

「種付して欲しいですか?」

 苦しそうな、恨めしそうな、憎しみのこもった表情で|穂多留比《ほたるび》を睨みつけながら、しかし手足も、それに陰部も本能も|穂多留比《ほたるび》の|それ《・・》を求めて服従を示している。

「答えて下さい」
「ほ、ほし……い」
「ちゃんと、答えて下さい。」

 |穂多留比《ほたるび》の指先が、無防備に曝け出された下半身に近づき、へその下の、ふっくらと膨らんだ辺りをそっと撫でる。

「ヒぐっぅっ!?」

 それだけで、まるでへその下、つまり子宮が心臓になってしまったみたいに、ドクン、と激しく拍打った。そして、鶏卵の割れた後のようにドロリと、信じられない量の愛液が淫裂から溢れ出す。溢れ出したのは、愛液だけではない、それを染み出させるに足る、あんな、悲鳴のような嗚咽のような、声を漏らしてしまうほどの、異常な程の快感。

「お……オ゛ヲ゛、っぐ……ふっ」

 下腹部に触れられただけで、絶頂の寸前まで突き上げられる。だが突破しない。|穂多留比《ほたるび》のては|花鹿《かじか》の下腹部を何度も何度も優しく撫で、絶頂の寸前が天井であるかのような、快感の飢餓。それを何度も繰り返された。

「ほ、ほらる、びぃいっ! お前は、おまえはあああっ!! |吾《あ》れをもてあそんれ、らのひいろかあぁあっ! んっ、ぐ、ひいいぃっっぉぉっ!」

 降参ポーズにひっくり返っている|花鹿《かじか》の腰が、ピンとつった二本の足で持ち上がり、異様なほどの量の愛液を垂らしている。それどころか、イッてもいないのに、断続的に小さく飛び散っている。

「ちゃんと、答えてくださいってば。種付、して欲しいですか? 最初に私に言った言葉じゃないですか、今更何を恥ずかしがっているんですか?」
「ひっグ……ひれ……っ、たねずけ、ひへっ……ほらるび、ああっ!」
「|花鹿《かじか》様? ちゃんと仰っていただかないと」

 まるでその優しいタッチが相手の喉元にナイフを突きつけるのと同じであるように、|穂多留比《ほたるび》は|花鹿《かじか》の下腹部をひたひたと撫でる。その度にまたたく間に絶頂に打ち上げられてしまいそうな強烈な性感が暴れまわり、しかしそれは快感の値は絶頂を示す値の寸前で上昇をやめ、そのままその極大値に張り付いて遷移し続ける。
 脳髄が焼ききれそうな欲求不満、肉体も本能も完全に支配され、残された僅かな理性はその二つの板挟みにあって抵抗の余地を残されてはいなかった。

「たねづけ、|吾《あ》れに、たねぢゅけっ、種付、してくれえええっ!!」
「っ!」

 確かにその言葉を強いたのは|穂多留比《ほたるび》だった。だが、実際に一切の抵抗を奪ってその言葉を叫ばせたとき、|穂多留比《ほたるび》自身も、堪らず言葉を失った。気の利いた言葉も、皮肉った科白も言うことが出来ず、ただ、股を開いて性交を乞うた|花鹿《かじか》の上に、覆い被さる。
 半分蜘蛛、半分人間のようなおぞましい姿で、死んだ蜘蛛の様にひっくり返ったまま股を開いて交尾をねだる|花鹿《かじか》に覆いかぶさった|穂多留比《ほたるび》の姿は、既に人間ではなくなっていた。半分ばかりは人の姿を保っている|花鹿《かじか》の上に覆い被さっているのは、純粋に巨大な一匹の蛍。
 人間の姿だった頃は小さい少年の姿だったが、今、虫の姿に戻った|穂多留比《ほたるび》の体は、|花鹿《かじか》と同じかそれを覆い隠すくらいに大きく、そして力強い。

「これが、お前の、元の姿、なのか」

 虫の姿となった|穂多留比《ほたるび》が、人の言葉を発することはない。それどころか、人の姿だった頃と同じような知性を持っているのかさえ怪しい。眼の前の昆虫はまるで、|花鹿《かじか》の体を交尾の相手としか見做していないようにさえ思えた。
 忙しなく動く足で、のそのそと|花鹿《かじか》の上に乗る|穂多留比《ほたるび》。甲虫らしい固く光沢を持った細長い体、節くれだった硬い足。頭部には複眼が備わり、本来蛍では退化してしまって水を飲む程度の口も、妖怪として長齢を経るために、まるでトンボやハチのような強靭な顎を備えている。細長い腹部の先端には輝く発光器が備わっていて、煌々と光を漏らしていた。
 |花鹿《かじか》がいつかに見た、発情中の|穂多留比《ほたるび》のそれと、同じ光り方をしている。だがその時と違うのは。

(これ、が、|穂多留比《ほたるび》の)

 |花鹿《かじか》のお腹の上を、余り器用そうではない動きでのたのたと白い柔らかそうな管が動き回っている。発光器を持つ|穂多留比《ほたるび》の腹部の更に先端から湿り気を持って伸びた、これは彼の生殖器だ。先端が鈎の様に曲がっているが、お腹に触れている感触から察するにさほど固いわけではなさそうだ。人間のペニスと、同じくらいかも知れない。少しの湿り気を帯びていて、既に先端から何か汁が漏れ出しているのがわかる。その汁も生殖器も、|花鹿《かじか》の体温よりも少し、温度が高くて熱い。

「く、ふぅっ……んっ」

 ずっしり重量感のある甲虫の体、抵抗しようとも全くびくともしない剛健な外骨格の腕、妖怪としてのエネルギーに満ちていて熱を帯びた腹、それら全体を包み込む、金属光沢をまとう甲。赤と黒のコントラストが鮮やかで、おしりの光の黄緑色が、美しいのに雄々しい。

(男、なんだ……|穂多留比《ほたるび》って、男……オス……)

 さっきまではそれが天井だと思っていた子宮の疼きが、更に天井に頭をこすりつけるように限界を訴えてくる。絶頂を味わわせないまま快楽の頂点を暴力的に迫り上げられ、だがそこに辿り着けない強烈な飢餓感、枯渇感。
 先走りのような液体をなすりつけながらお腹の上でのたうち、自分の中に入ろうとしている彼の生殖器を認めた瞬間から、|花鹿《かじか》の中の強烈だが絶頂を求めるばかりだった性欲は、いつしか狂おしく相手を求める愛欲に変化していた。自分を組み敷く巨大な虫の、姿に、受精欲を抱いて、膨らませてしまう。

(交尾、したいっ、こいつと、今の姿の|穂多留比《ほたるび》と、交尾して、交尾、して)

「|穂多留比《ほたるび》、お前と、したい……っ! 倭の子産みを止めるとかじゃなくて、お前と、お前と、子作り、したいっ!!」

 半分は人間の体を保っている|花鹿《かじか》だが、その腕を伸ばして、固く熱を帯びた昆虫の体に、愛おしいものにそうするかのようにしがみついた。相手が大きすぎること、それに固い外骨格の表面には、上手く抱きつくことが出来ない。それでも必死に、必死に、すがりつくかのように腕を伸ばし、そして、股を開いて虫の輸精管の挿入を乞う。
 完全に昆虫の体となった|穂多留比《ほたるび》に、その言葉に応える人間の言葉はない。ただ、開閉する度にぎちぎちと金属同士が擦れるような音を立てる顎が左右にゆっくり開いて、|花鹿《かじか》の口元を触る。これは、接吻なのか?
 常識的な判断を下すならば、そんな化物相手に応えるなど悍ましいばかりだというのに、|花鹿《かじか》は、彼の差し出した甲虫然とした固い顎の間に躊躇なく頬を挟み込み、その奥に見える小さな舌のような器官に向けて舌を差し出した。
 咀嚼し、あるいは噛みちぎる大顎の内側には、液体を舐め取ったり吸うための吸引型の口器が備わっている。舌のように見えたのはこの第二の口だった。これは驚くほど長く伸び、舌を出してこれを受け入れた|花鹿《かじか》の喉の奥まで入り込んでいく。

「ふごっ、んぐ、ぐぎゅっ……」

 きっとそうしようと思うのならあっさりと|花鹿《かじか》の頭蓋を噛み砕けるのだろう左右に開いた大顎は、優しく|花鹿《かじか》の頬を挟み、包み込むように触れている。6本の脚の内2本の跗節が器用に曲がって|花鹿《かじか》の背中に回されている。固く鋭い爪でその背を傷つけないようにか、ゆっくりと、動いている。

(化物、なのに 虫だぞ、どう見たって、虫以外の何者でもない、人の姿をして|吾《あ》れの前に笑っている|穂多留比《ほたるび》の姿から、かけ離れているというのに、なのに)

「ぷ、ぁ……げほっ、げほっ、は、早く、早く来てくれっ……!」

 王子蛍の奴隷に肉体を作り変えられ性感帯と化した喉、その奥までを吸引口器でブラッシングされ、下半身ではなく胸元から襲ってくる未知の快感を刷り込まれた|花鹿《かじか》は、|穂多留比《ほたるび》を拒絶したい思いと、|穂多留比《ほたるび》の精子を受精したい思いとの間で、極限の揺さぶりを受けている。
 体は完全に陥落しており、こうして股を開き抱きついて受精を乞う科白まで吐き、現実肉体を駆け巡る快感はそれまでの|花鹿《かじか》の常識を全てひっくり返すほど。だがその奥底で、鍋の底にこびりついた焦げのように、彼への敵愾心がジリジリと存在感を主張している。
 彼の言動の一体何が、自分の憎しみを煽るのか、今ひとつ整理できていないのも確かだった。

(|吾《あ》れは……誰かに依存したくなんか……)

 理由なんか、無いのだ。原因も因果もない。そこにあるのは、ただの、信条。彼女が虫を受け入れてまで生き延びようとしたのは、一人で独立し、自在の存在として、自然となって生きるためのチャンスを掴み直すためだった。その結果が、|穂多留比《ほたるび》に存在を依存するという相反した結果を導いたのは、彼女の早計故だったのだが、それでも、彼女はまだ諦めていない。
 |穂多留比《ほたるび》が自分に向けている感情……それに|花鹿《かじか》自身が|穂多留比《ほたるび》に向けてしまいそうになっている感情、それは、彼女の信条に反する。それは宗教だ、何者も信者をもたない、自分だけが信じている限り誰にも歪められず侵されず失われない絶対の宗教。自らが信者である神に、自らなることが、彼女が辿り着いた答えだったから。
 どんなに体が|穂多留比《ほたるび》のものになってしまおうとも、その宗教だけは絶対に渡さない。その一念から、彼への抵抗心を失わずに、快楽に咽びながら耐えている。
 体は、堕ちていても。

「|穂多留比《ほたるび》、はやく、はやくうっ……っ」

 気味の悪い昆虫の頭部、固くつるつるした表面の顎と頬、それに複眼。どこかもよくわからずに手を伸ばし、腕を伸ばして抱きつくようにくっつく。昆虫のくせに、内容する妖力のせいでか高めの体温の様なぬくもりが伝わってくる。
 今の彼の姿に、人の心を見い出せと言われてもそれは難しく、信じがたいものだ。それはお互いに手を伸ばして指を交え、溶け合う様に交流できるものではなく、ただお互いにそこにある別物だということを境界同士を通じて感じられるものでしか無い。
 でも、|花鹿《かじか》にとっては交わることではなくただ感じることというその形が、最も理想だった。
 ふしゅー、と、腹部の脇に備わる気門から、熱い空気が吹き出す。左右に割れぎちぎちと音を立てる顎の奥で、第二の口吻が蠢き|花鹿《かじか》の唇に触れる。複眼の表面に反射する色が赤や青緑黄色と脈打つように刻々変化する。人の姿のときにも可愛らしくひょこひょこと動いていた触角が、今もひたひたと|花鹿《かじか》の頭のあちこちに触れて回る。これが、|穂多留比《ほたるび》の興奮を示すものなのかどうか、|花鹿《かじか》にはわからない。だがそれで十分だった。

「お前を|吾《あ》れの内側に受け入れるなど、許しがたいっ!」

 そう言ってもう一度、虫の伸ばすブラシ状の口吻に吸い付いてみせる|花鹿《かじか》。
 それを合図に、白く柔らかい雄性生殖器が、|花鹿《かじか》の|中《・》に、潜り込んだ。

「ふぐっぅぅっ、んっ、んんんんんっぁぁあああああああっっ!! お、んヲ゛おぉぉぉ゛おっ!!♥」

 体のサイズに対して、ほんの僅かなサイズの肉管でしか無い。そこに、やはりそれに収まる程度のサイズでしか無い肉の棒が差し込まれただけだと言うのに、体全体がばらばらに吹き飛んでしまいそうなほどの快感。
 さっきまで焦らされに焦らされ絶頂に「だけ」到達できないじりじりとした快楽漬けだった|花鹿《かじか》は、8本の付属肢に本来の脚2本をぴぃんと突っ張って、あっという間に絶頂させられてしまった。
 背から伸びる擬足が伸び上がったせいで、彼女の体はブリッジをしたように反り返り、喉を晒して足先まで突っ張ったアクメポーズは、電気に打たれて痙攣しているかのよう。

(挿れられただけで、イッ……)

「をほぉ゛っ! は、はっ、そ、そこ、そこはぁっ♥」

 挿入を受けただけで軽イキを果たす|花鹿《かじか》、だが|穂多留比《ほたるび》の攻めは止まらない。
 鈎に曲がった|穂多留比《ほたるび》の輸精管の先端は、|花鹿《かじか》のGスポットをぐりぐりと的確に押し上げる。固い表皮が蛇腹に重なり、微毛を生え揃わせた腹部がクリトリスに擦れる。重厚感のある体重と腕の力強さ、妖力によるじんわりとした熱い体温の心地よさ。作り変えられた体と本能。それと、元からあった、彼への淡い恋慕。それらが全て綯い交ぜになって快感に化け、女陰から脳髄へ一直線に突き刺さった。

「い゛っ、イグっ……♥ イってる゛っ、からっ♥ そこ、そこばっかりは、よせえっ♥」

 鈎状に曲がった男性器は、柔らかく解れたヴァギナを出入りする度に空気を巻き込み、ぐち、ぐち、といやらしい音を響かせる。痛みはない、とにかく爆発するように快感だけが、|花鹿《かじか》の頭を白く塗り潰し、それに心臓のあたりにときめくような締め付けを与えていく。
 何度もGスポットを押したり離したりを繰り返して、抜け去り、もう一度入ったときにはより深い挿入が襲ってきた。今度はGスポットよりもより深い部分に鈎の先端があたる。恥骨を押し上げるように、優しく、でも力強くそのポイントを刺激されると、それまでを上回る信じがたい快感が爆発した。

「に゛ゃっ……な゛んだっ、ソコっ!?♥ そんなとこ、知らないっ♥ そんなところ、男達にも、されなかったっ♥ うぐっ、ふぉぉっっ♥ だめだ、ソコは、そこはなんか、なんがら゛め゛らぁあっ!!♥ ほにゃるび、ほらるび、しょこらめ、らめええっ♥」

 再び絶頂をキメる|花鹿《かじか》。尿道から蜜を噴き、ビクビク痙攣して、腕は|穂多留比《ほたるび》の固く毛の生えそろった腕に巻き付くように縋っている。8本の付属肢は、快感のせいで制御系が混乱しているのか、上下左右にめちゃくちゃに動き回って、何の行動も出来ていない。だがそのまるで悶死する直前のような無作為で激しい動きが、彼女の快感の大きさを物語っていた。

(あ、|吾《あ》れのカラダに、こんな場所が……っ、こんな、だらしなくなる場所が、あったなんて……っ♥)

 もはや神でもない、山の巫女でもない。メスだ。とびきり上等のメス。人間でさえない、ただの、メス。

「んもぢいいっ♥ ぎもぢいいいっ♥ ほらるび、ほらるびのちんちん、ぎもぢいいっ!♥ ぉお゛ぉ゛ぉっん♥ オクの、しょこ、しょコぉぉ゛ォ゛っ♥ クリの裏側、の、おぐぅ゛っ♥ しにゅぅっ♥ ぎもぢよすぎて、じぬ゛ぅ゛っ゛っ♥」

 びたんびたんと体を跳ね回らせ、しっちゃかめっちゃかに付属肢をのたうち回らせながら、連続|絶頂《アクメ》をキメる|花鹿《かじか》。
 |絶頂《エクスタシー》をキメまくって、意識の境界がふわふわと溶けて薄れていく中で、何かが、|花鹿《かじか》の脳内に流れ込んで来る。これは、なんだろうか。|花鹿《かじか》にはよくわからない、よくわからないが、それはまるでカメラのピントが徐々に合っていくように、意味を結び始めた。

―― ボクノモノダ

 言葉というよりもそれは直接意味を挿入してくるような概念の伝達。声なのか、あるいはもしかすると虫同士だけで使える特殊な伝達なのか、フェロモンなのかも知れないし、妖怪としてのテレパスかも知れない。だが、どれであっても構わない。

―― モウ ボクノモノダ

「ふざ、けりゅな、そんなもの、で……」

 どぶっ! どぼぼおっ! 人型のときの射精の勢いもすごかったが、正体に戻っての放精は、もはや暴力的だった。

「ヒぐぅぅっ!?」

 既に先端を子宮口の奥に差し込んでいた輸精管は、ぐっ、と太くなって強制的に子宮口とそれに巻き込むようにAスポットを刺激する。そして一気に注がれる、酒精のように熱く、蜜のように甘く、毒のように心地よい、精液。一撃で子宮を満たして膨らませ、次の放出で溢れ出して膣を満たす。

―― スキ

「っをヲぉおお゛っっほぉ゛ぉお゛っ♥ ぐぎっっ、イひぃぃっ♥ な、なんら、なんら゛ごれぇぇっ♥ こっ、こんにゃの、ごんに゛ゃのぉぉ゛っ♥」

―― スキ カジカサマ

「これが、愛だなんて、勘違い、するなっ! これは、これはちがうっ! ……ふぐぅぅっ♥」

 そこから何度も放たれる度、絶頂にヒク付き締め上げる膣の内側から、押し出るように沸いて溢れる、大量の精液。ごぼっ、ごぼぉっ、子宮の中から膣の中まで、全ての精液がひと噴きひと噴きで一度に刷新され、常に新品の精子が|花鹿《かじか》の胎内を満たし、流れ、溢れ続ける。

―― スキ スキ

「好き好き言うな、虫のくせに、そんな高等な感情を……!」

 どばっ! ぶぼおぉっ!

「んご、ほぉぉっ♥ ぐひっ、くびぃぃっ♥ そんな、に、ほぐっぅぅっ♥ しょんなにどばどばだひゃれらら、卵子にぶっ刺さりそうな精子が、またおしながされひゃうららおおぉぉっ♥ 受精っ♥ 受精ひらいんらから……をっぐぅうっん♥ とっ、トバひしゅぎィィっ♥」

―― スキ カジカサマ

「う、うるさいっ、お前に、好意なろ、もとめれないっ! んぐぅぅうっん♥ 求めてるのは、子産み、らけらあっ♥ おっ、おおおぉっ♥ これ、するっ、ぜったい、ぜったい受精する♥ 確実に孕むっ♥ |穂多留比《ほたるび》の子種で、確実に|妊娠《にんひん》しゅるぅぅっ♥ 卵産むっ、蜘蛛になったカラダが、何百個も、なんじぇんこも、おみゃえの|卵《あかひゃん》、うみゅぅうっ♥」

 どくんっ、どくんっ、どくんっ、強烈に脈打っているのは彼の腹部から伸びる性器だけではない。蛇腹に膨らんだ彼の腹部そのものが、大きく脈打ちポンプのように拍動して精液を強烈に送り込んできているのがわかる。熱い呼気を左右の気門から吹き出しながら、しかしそれ以外の部分はまるで石になったようにピクリとも動かない。全身全霊を射精に費やしているかのような、そして、ただひたすら、スキ、の概念だけを送り込んでくる、|穂多留比《ほたるび》。
 その不気味な射精運動に、|花鹿《かじか》は逞しさを感じていた。自らが虫になったからか、それとも、これが|穂多留比《ほたるび》だからか。何れにせよ、快楽と肉体操作によって、彼女の理性は、たとえそれが言語を保っていたとしても、正常かどうかは疑わしい。
 その緩んだ意識の隙間に刺さってくる、|穂多留比《ほたるび》の思念。だが、|花鹿《かじか》はそれを受け入れるわけには行かなかった。自分の宗教のために。それは、彼女の強さであると同時に、弱さでもある。

―― スキ カジカサマ

「お、お前のことなど、好きでも何でもない、大嫌いだ、このムシケラ、がぁああっっっっ!!♥♥♥」

 拒絶の言葉を叫びながら、|花鹿《かじか》は自分に覆い被さり生殖器を挿入して精子を送り込み続けてくる巨大昆虫に、体中で、8本の付属肢すべてを使って、抱きついて、そして、果てた。



§ § §



 交尾を終えて、|穂多留比《ほたるび》は暫く巨大蛍の姿のままだった。じっと、動かない。暗闇に佇み落ち着いている虫がそうであるように、触角だけをゆらゆらと動かして、時たま脚を上げて位置を変えるだけだ。
 |花鹿《かじか》は、その下からのそのそと這い出した。行為自体は、倭の男達にされたことと余り変わらないかも知れない。でも、今彼女の体を満たしているのは痛みや苦しみではなく、「理性に反した」幸福感と充足感。それにわずかに残る股の痛みだけだ。
 |花鹿《かじか》が体の下をすり抜けても|穂多留比《ほたるび》は動かない。触角が少しそちらに向いたのと、彼女が這い出すときに脚を上げて通したのを見るに、認識していないわけではないようだ。
 もしかすると、彼なりに賢者モードなのかも知れない。

「すぐ、|来る《・・》と思うから。そこで、産んでくる。覗かないでくれるか?」

 何も答えない|穂多留比《ほたるび》、だが、彼女にはなんとなく、彼が頷いたように思えた。
 8本の擬足を極力使わずに歩くのは、彼女なりの抵抗の印かもしれない。そうして、彼に抱かれ散々絶頂を浴びせられた場所から少し離れた場所に、彼女は出産の母屋を作った。
 それは、密度の高い蜘蛛糸で作られた、球体をくり抜いたような空間。彼女はその中に入って、蓋を閉じた。

 |穂多留比《ほたるび》はまだそこから動かず背を向けたまま、だがその様子を察するように触角だけをそちらに向けて揺らしている。微かに光る尻の発光器は、発情のものではなく、何か優しさを湛えたようなゆったりとした明滅を見せていた。
 動かずにその場で光っているだけの蛍。それに、その少し向こうで白い糸で作られた巣の中で出産する蜘蛛。そこにいるのは、異種虫の|番《つがい》のその有り様のようでもある。







 一晩明けて、|穂多留比《ほたるび》は人の姿に戻って、木の根のまた辺りにちょんこりと膝を抱えて座り込んでいる。

(|花鹿《かじか》様、そろそろ、かな……)

 恐らく今の彼なら、直接|花鹿《かじか》の脳内に言葉を送り込むことが出来ただろう、が、それをしなかった。ただ、彼女が出産を終えて巣を出てくるのを、静かに待っている。
 そして、かさ、と草を分ける音が聞こえて、彼女の姿が現れた。立派な蜘蛛脚を、もう躊躇なく使っている。でも人の形の部分は、変わらず美しいままだ。|穂多留比《ほたるび》は、跳ねるように顔を上げたものの、|花鹿《かじか》にどんな顔を向けていいのかわからず、苦いような、でも笑うような顔で、|花鹿《かじか》を見た。
 |花鹿《かじか》は、冷たい無表情で|穂多留比《ほたるび》を見る。その視線に刺されて、|穂多留比《ほたるび》の表情は昏く萎縮した。

「産まれたわ。何人かの子供はもう、山に溶け込んだ。蜘蛛、蝿、蝶、蛍もいたかな。新しい石と、土も産まれた。」
「そう、ですか」

 やっぱりどういう顔をしていいのかわからない|穂多留比《ほたるび》。出産を迎えるのなんて初めてだし、でも|花鹿《かじか》はそれを嬉しそうにしているわけではない、当然だ、これは、レイプされて泣いていた女を、上からレイプし直しただけなのだから。|穂多留比《ほたるび》にその自覚がないわけではない。

「あの、|花鹿《かじか》様、私は……」
「なあ」

 本当に、あなたのことが好きなのだと、こんな形になってしまったけれどあなたを傷つけるつもりなんて無いのだと、伝えるつもりで口を開いたのに、|花鹿《かじか》はそれに割り込むように声をだす。そして、付属肢の内2本で抱きかかえられていた、もうひとりの子供を前に差し出し、|穂多留比《ほたるび》に見せる。

「っ」

 それは、不具の子だった。
 骨がなく常に体を重力に垂らしている。心臓らしい部分が脈打ってはいるが、口も目も開け放たれたまま声を上げることもなく、微動だにしない。時折その口の端から紫色の涎が垂れている。その涎が滴った地面では、草が一瞬にして枯れ、土は生気を失い砂に化けた。

「この子、どう思う」

 どう、と言われても、|穂多留比《ほたるび》には何も応えることが出来ない。
 |花鹿《かじか》の方から、孕ませてくれ、と口にしたことで生まれた神は、異形をなしていた。男から声をかけることが正しいかどうかではなく、きっとその発端そのものが誤っていたのだろう。それと、元々この二人は、交うべきではなかったのかも知れない。他の子供達は山に溶け込んだと言うが、こうして、二人の歪な交いの呪を身に受けてしまった子が、産まれたのだろう。

「その子は……だめかも知れません。骨が、無いみたいです。生きてはいますけど、間もなく、死んでしまうでしょう」

 この不具の子をそのまま育てるかどうかという選択肢は、選ばずに済みそうだ。どう見ても、このまま生きながらえるとは思えない。

「エヤミだ。この子が、一番最初に産まれた」
「……」
「|吾《あ》れとお前の、宿命のような子だな」

 重く暗い沈黙がその場を支配する。それはだが、単に畸形児を産んでしまったというショックからではない。|穂多留比《ほたるび》には|花鹿《かじか》をアフターレイプしたという負い目があり、|花鹿《かじか》には|穂多留比《ほたるび》に産まさせた子だという後悔があったからだった。

「でも、もう|花鹿《かじか》様は、|あの者達《倭》の子供を生まなくて済みます。これからは、もっと元気な子供も、作れます。倭の神々と人々からは、どうにか逃げて暮らすことも出来るはずです。|花鹿《かじか》様が、私のものである限りは」
「……そうだな」

 |花鹿《かじか》は、意を決したように顔を上げ、|穂多留比《ほたるび》の目を見つめる。急に見つめられて、狼狽えてしまう|穂多留比《ほたるび》。|花鹿《かじか》は、ぽつりと、呟いた。

「この子を、処分してくる。ここで待ってて」

 残酷にも聞こえる言葉だがそれを、父親となった自分が見届けたほうがいいのか、それとも「ここで待っていて」と言った彼女は、それを出来るのは自分だけだと自負しているのか。


「私も」
「いい。|吾《あ》れが決めたことだから。|吾《あ》れがやる。そこの川で」

 そこの川とは、人間達が|花鹿《かじか》の体を貫いて通した川だ。

「……わかりました。でも、傍まで行っていいですか? 見ないようにしますから。私にも」
「お前に責任なんて無い。選んだのは、|吾《あ》れだ。」
「|花鹿《かじか》様」
「ここにいて。その後……巣でも造りましょう」

 はい、と答えた|穂多留比《ほたるび》は、再びその場に座り込んで追いかけない意思表示をした。

 暫く、彼はそこに座ったまま|花鹿《かじか》を待っていた。彼女の言う「処分」とは、なんだろうか。殺してしまうことか、それとも、川でということなら流してしまうことだろうか。どちらにせよ、そう長くは罹らないだろうと思っていたが、小一時間立っても帰ってこない。
 もしかして、やっぱり決断できないでいるのでは無いか。そう思った|穂多留比《ほたるび》は、姿こそ見ないにせよせめて傍に行って、言葉をかけようと彼女が向かっただろう川辺へ移動する。
 川の音が聞こえて、すぐに姿を感じた。|穂多留比《ほたるび》はその姿を目にしないように慌てて背を向けて木陰に隠れる。

「川に、流されましたか? それとも…… 何か、お手伝いできることは、ありませんか」

 答えはない。手伝えることなど無いということだろうか。
 手を貸すことは望んでいないらしいと察した|穂多留比《ほたるび》は、もう一つ、声を掛ける。どちらかと言えば、こちらのほうが、伝えておきたいことだった。
 レイプした自分がそんなことをどの口が言うのか、そう言われてしまえばその通りだと彼自身もわかってはいるが、いつまでもあんなふうに倭の子を産みずたずたの心境で、誰を恨んでいいかもわからないまま過ごすよりは、いっそ自分が恨みを一身に受けたほうが、|花鹿《かじか》も処理しやすいだろうと、仮にそれで自分が二度と雪げない汚名を着たとしても、それで彼女が整理をつけて歩き出せるのなら、それでいいと思っていた。
 そんなことを恩着せがましく言うつもりはない、けど、次の一歩は、意識してもらわないといけないのだ。

「|花鹿《かじか》様、決して見たりしませんから、声だけ、聞いて頂けませんか」

 木陰越しに、|花鹿《かじか》に向かって言葉を投げる|穂多留比《ほたるび》。

「ずっと前から、|花鹿《かじか》様が一人で、自分の足で立って歩きたいと願っているのは、知っていました。阿祖様を眺めていたときにも、きっと、神としてではなく、ただの一人の女性として恋されていたのだと。でも」

 きっとそれは、宿命的に出来ないことだったんだ。彼は思っていた。こうして|花鹿《かじか》が自分の配下になって、それでも独立心のような彼女らしさを折らずに保っていてくれたことは、彼の望んだものだった。

「無理に一人で歩く必要なんて、もう、無いんです。|花鹿《かじか》様はもう、神様じゃない。人間でさえなくなってしまいましたけど、きっと、それでよかったと思えると思います。私が、きっと、保証します。それに、|花鹿《かじか》様は、今度は、私がお守りしますから。」

 |花鹿《かじか》に向けて、新しく生を歩んでいくことを提案する|穂多留比《ほたるび》。神と違って、妖怪は人間の間に恐怖や未知、疑いや恨みといった負の感情があれば勝手にそこから力を吸い上げて生きていける。完全に独立というわけではないが、神よりは遥かに、悪にして安定した、存在だ。

「どうでしょう、|花鹿《かじか》様。もう一度、生き直すというのは。その伴侶が、もし、私で良ければ」

 声は届いているはずだ。全く言葉を返してこないのは、わからないでもない。でも、微動だにしていないように感じられる。

「……|花鹿《かじか》様?」

 |穂多留比《ほたるび》は、意を決して木陰から顔を出して、|花鹿《かじか》の様子を見た。
 そこにあったのは、|花鹿《かじか》ではなく、彼女が脱皮した抜け殻だった。

「えっ」

 |穂多留比《ほたるび》は、意識を飛ばそうとした。下僕となった今の|花鹿《かじか》を、彼には察知することも出来るし、言葉を飛ばすことも出来る。望むのならこの場に呼び戻すことも出来るだろう。

 だが、彼はそれをしなかった。



§ § §



「騒がしいね、|上《・》はまたごたごたと身内で争っているのか」

 穴の中から声がした。視線を送ると、そこには宙に浮いた桶。井戸に備わる釣瓶のように見えるが、吊り紐が見えない。何より、その釣瓶の中に人が入っている。
 桶は一見すると木製のように見えなくもない、だが目を凝らしてみればそれは木質にしては妙な光沢を保っている、金属光沢と言うには幾らかしっとりとしているようだが、だからといって木のような柔らかな素材でも決してないように見える。その木にカムフラージュした何らかの素材でできている一枚一枚の部材は、それぞれの辺部が黒光りする、こちらは明らかに金属質の素材で縁取られ、この桶はそれが組み合わさって出来上がっていた。普通の釣瓶落としの乗り回す桶とは性質が異なることを、この中ではミスティア・ローレライはよく知っている。
 桶の中に収まっている人型は、ミスティア・ローレライよりもなお幼い印象の女児の姿をしている。神妖については外見など何の指標にもなりはしないことをこの場にいる全員は知っているのだが、それにしても幼気が強い。明るい色の髪を可愛らしい髪飾りで左右二つにまとめているのがどうにもアンバランスに見えるのは、その人型が纏うのが真っ白一色の死に装束だからで、ついでに言えば天冠まで額に被っている、見るからに死体か幽霊かといったモノトーンの佇まいだからだ。白と肌しか見えない釣瓶落としのこの色合に対して、明るい色の頭髪とそれをまとめる明桃色の髪飾りはいかにも場違いに見えた。
 その頭の上を通り抜けるように、桶に備わったっては頭上でアーチを描いている。黒い金属質、鉄だろうか。その取っ手から天に向けて伸びる紐は半透明で空に向かって一直線に走っているように見えるが途中で姿を薄めて消えていた。だが途切れているわけではどうやらなさそうだ、というのはこの釣瓶落としが移動する際には、必ずこの透明の紐に持ち上げられるように空中に登るからだ。

「釣瓶落とし?」

 空気を読まずに現れたその釣瓶落しらしき桶を、訝しげに見る東風谷と天狗達に対して、ミスティア・ローレライにはそれの心当たりがあった。

「あなた、りっくんの」
「おーう、あんたがさっきの虫妖の相方かい。さっきは世話になったね」
「な、なにか、ご用ですか」
「ニャマムの命でね、あんたを保護しに来たよ。ってなんだか私じゃ保護しきれないような面々がお揃いのようだけど」

 それは、東風谷の言う通り釣瓶落としだ、どう見ても。だが、釣瓶落としは本来井戸に住まう妖怪でこんな、間欠洞に住み着くなんて話は、天狗達も、守矢の巫女も、聞いたことがなかった。
 釣瓶落としはひょろひょろと上昇を続けて、アーチを描くようにしてミスティア・ローレライの傍に着地する。

「あ、あの」
「危害は加えないよ、少なくとも、あの巫女よりは私の方が信用できるってもんさ。……まあ、私が敵う相手かどうかは別だけれどね
 まるで敵対存在のように言われた東風谷早苗は、再び空中にある見えない揺り椅子に座るような姿勢で、見下すような視線で釣瓶落としを見る。

「よくわかってるようですね、釣瓶落とし。あなたの出る幕ではありません、おとなしく巣に戻りなさいな。さもなくば」

 東風谷早苗は御幣を天に向け、風を呼ぶような仕草をする。天狗二人とミスティアは、さっき吹き荒んだ暴風を想像して身構える。

「おっと、そこまでだよ、諏訪の女。私に手を上げるのはよした方がいい。私はニャマムに仕える|神官《ヨキロル》だ、私の見るものは全てニャマムが見ている。私の聞くものは全てニャマムが聞いている。私の言葉は私の言葉である前にニャマムの言葉だ。あなたが私に敵対的立場を取るならそれは、グォダ=ニャマムへの敵対的行動と同意。よく弁えて行動することだよ」
「そんなこと知ったことではありません」

 風祝は御幣を振り、風を呼ぶ儀式を切る。制御され射角が整うのなら、釣瓶落としとミスティアを穴の中へ突き落とす暴風が抜けることだろう、ミスティアはいよいよ翼を大きく広げて風に備え、風が吹いたなら鳥の姿でそれに抗うつもりでいた。
 が、さっきはただ|癇癪《ヒス》を起こしただけでも吹き荒れた神の風は、今は木の葉ひとつ巻き上げることはなかった。
 無風の中で釣瓶落しは、その存在の弱小に拘らず尊大な表情を見せる。まるで風が吹かないことを知っていて、それを嘲るよう。

「ふふ、ニャマムに対する負い目を、諏訪はちゃんと覚えているようだね。感心感心」
「負い目」

 自分を、この辺りにいる奴等には敵わないと言っておきながら全く不遜な態度を変えようとしないつるべ落としに、東風谷は少々苛立ちを見せている。

「お前にそのつもりはなかったとしてもだよ。今、お前の風はお前の呼びかけに応えなかった。そういうことさ。諏訪は、グォダ=ニャマムを殺しにでも来たのかい?」
「まさか、その逆ですわ。ただ私はあなたの……」

 東風谷早苗は釣瓶落しを指差して目を細め、何ならその指先と姿勢に、余計に偉そうに見える綾さえ付ける。

「あ、あんだよ」
「あなたのその態度が気に食わない」

(え、こいつに言われんの?)
(おめが言うなし)
(は? 自分はいいのか)
(あなたが言わないで下さい)

「……態度がでかいのは生まれつきだ、ほっといてくれ」

 半ば呆れたような釣瓶落とし、東風谷の態度が大きいというのは持てる力を考えるのならば、納得が行かぬわけではない。ただ、この釣瓶落としの不敵な態度は確かに、不思議なものだった。釣瓶落としなど所詮は弱小妖怪、どう見積もっても守矢の巫女に偉そうな口をきけるような存在ではないはずだ。
 それも、先に彼女が言った通り、グォダ=ニャマムとこの釣瓶落としが感覚共有を敷いているから、ということなのだろうか。

「虎の威を借る何とやら、気に食わないですね」
「おたがいさまだい、乾坤の加護を受けた|神様《人間》」

 ふん、と鼻で笑い飛ばす東風谷。売り言葉に買い言葉のラリーが生じそうなものだったがそこは東風谷とて守矢とその配下勢力の顕現、自覚もあるのだろうか当初の目的は忘れていないと憎々しげな目を釣瓶落としに向けた後、本題に戻る。

「まあいいです、話を戻しましょう。グォダ=ニャマムというのは、一体何者なのです。|佐久都美《ざぐとみ》の|化身《アスペクト》ですか?」
「まあ、当たらずとも遠からじ、かな。それはザグトミの|化身《アスペクト》じゃない、本質切片さ。ザグトミがヘマをして逃げるときにこっちの世界に置き去りにした本質の破片、逃げようと巻いた尻尾がでかすぎて、拾い損ねていったのさ。そしてそれはもういない。ニャマムが食ったからだよ。」

「くった? 取り込んだということですか」

 自前の取材成果にせよ、政院の掴んでいる情報にせよ、釣瓶落としの言うことは射命丸あるいは犬走の知るところは仔細が違うようだった。彼女達は、穴の付近で蔓延している疫病は「|佐久都美《ざぐとみ》」と呼ばれる何者かの|化身《アスペクト》がばらまいているものだと思っていた。それがグォダ=ニャマムという名前と同一性を持つものか、別のものかというところはわからなかったが、その情報のセンを頼ってここにやって来たのだ。だが、釣瓶落としが言うには、「|佐久都美《ざぐとみ》」あるいはその|化身《アスペクト》はここには残されていないらしい、しかも、グォダ=ニャマムが「喰った」と来た。
 そのことは射命丸だけではなく東風谷も反応を示している。このことは守矢も知らないことのようだった。

「まあそういうこったね。だから、|佐久都美《ざぐとみ》がなんなのか、なんてことは大した問題じゃない。そもそも|佐久都美《ざぐとみ》本体でも|化身《アスペクト》でもないし、それは|こっち《・・・》の話でもないしね」
「ならば、グォダ=ニャマムというのは」

 皆まで言わせるのかい、そういいたげな勿体ぶった表情。さっきの東風谷の尊大な姿勢にも似た、良く言えば堂々たる、悪くいえば神経を逆なでする見得を切って、釣瓶落としは言う。

「神さ」

 釣瓶落としの吐いた言葉に、まっさきに反応したのは犬走だった。

「神? あんな悍ましい疫病を撒き散らす存在が、神だなんて」

 犬走も、射命丸も、上に撒き散らされた疫病のもたらした惨憺たる光景を目の当たりにしてきた。神と呼ばれる者が、あんなものをもたらすだなどと、犬走は考えたくはなかったのだろう。
 だが彼女の反応を半ば面白がるようにして、釣瓶落しは意地の悪い笑顔で応える。

「神なら正しく、神は人に恵みをもたらすなんて、誰が決めたの? 神にも色々居るだろう、善いも、悪いも。なあ、諏訪の女、そうでしょ?」

 犬走の言葉を、軽々しい表情で東風谷へスルーパスする釣瓶落とし。パスを受け取った守矢の巫女の表情は、不快感を全く隠そうとしない険悪なものだった。

「守矢の神は邪神などではありません」

 語気を強める東風谷。対し、釣瓶落としの方はそれどころか尚、東風谷を嘲笑っている。

「ああ、そうさ。いいよ。それでいい。神とはそれで良いのさ、|巫女神《諏訪の女》。神は正義だ。正義は人だ。人が正義を振りかざす度に神が生まれ、神は人の数だけある。自分の神は正しくて、隣人の神は悪しき邪神だ。それでいいよ。だから、ニャマムは邪神だ、お前達誰から見ても、|正しく《・・・》邪神だよ。だけどそうは見ない者が幾らかいる、彼女は神だからね。|地底《シェンディ》では邪神が隣りにいることは普通だし、幾らかは彼女を崇拝している」
「私達が人によって粗製濫造された神だと仰っしゃりたいのですか」
「粗製じゃない、だが神は確かに濫造されているだろう。諏訪に限った話ではないさ。神なんて感情や思想や概念の論理モデルに過ぎないし、ニャマムはそうしたものの|存在《実装》でしかない。|実装そのもの《彼女自身》に善悪なんて関係無いのさ。」

 やれやれ、と釣瓶落しは幼い外見には全く似つかわしくない偉ぶった様子で周囲の4人を見回す。特に最後に視線を送った東風谷早苗へは、値踏みするような、侮蔑するような、あからさまに悪意のある視線を送る。今彼女が口にする言葉の一つ一つは、どうやら東風谷によく刺さっているように見える。不快感を通り越し、守矢の巫女の表情には怒りが浮き上がり、彼女の周囲には先に釣瓶落しが無駄だと言ったことにも関わらず不自然な旋風が巻いている。

「|地底《シェンディ》はいいところさ。悪人っていうのは、悪人の存在を認めるからね。争いこそすれ、違う種類の悪人をそれなりに尊重する。でもどうやら地上の善人は違うようだね、善人は悪人の存在そのものを否定して抹殺する。それどころか隣の別の善人さえ殺そうとする。それに比べりゃ、地獄の方が善性があるってもんさ。諏訪は」
「あ、あのっ!」

 東風谷の憤慨も、巻き始めている旋風も、釣瓶落しが察していないはずはない。それでも更に言葉を重ねようとしたのに対して、慌てて割って入ったのはミスティア・ローレライだった。
 寺子屋で子供が先生に意見を述べる時のように手を挙げて注意を引く。この釣瓶落しの正体が何なのかは彼女に知れたことではないが、少なくとも一介の夜雀にとっては守矢の筆頭巫女に割って入るのは勇気のいることだ。

「んだよ、もうすぐだからおとなしく待ってなよ」
「その、|よくろお《…》、ってのは、巫女さまのようなものですか? 妖怪でもなれるものなんですか? え、もうすぐって」
「ヨキロル。まあこっちの言葉じゃないからそれ位の|揺れ《・・》どうでもいいけど。神職と奉仕者を足したようなもんだね。こっちがどういう社会制度なのかは知らないけど、こっちは気に入った主を探して自由に移動できるし、主も隷従を切ったり貼ったり自由なのさ。神官として妖怪を求めるやつもいれば、戦士として侏儒を好む主もいる。そういうのを持たないやつもいるし、欲しても集まんないやつもいる。ニャマムを|邪《・》神と見做さないのは、何も|神官《私》だけじゃない。」

 はあ。聞いたのはミスティア・ローレライだったが、その内容はよく飲み込めていないようだ。

「あ、あと、さっきあなたと……すれ違った化蛍は、無事、なんですよね」
「『すれ違った』。こっちは交通事故で大破だ、とんだ交通整理があったもんだね」
「はうう」

 それがどの程度の被害なのかはわからないが、リグル・ナイトバグはこの釣瓶落しの桶を一度すっかりと壊していた。別に彼女が気に負う必要はないのだろうが、性分というものだろうか。

「まあいいさ、こんなのはタダの服みたいなものだ。あの少年、下に降りてったなら、大丈夫かな」
「えっ」
「ニャマムの|恋する男《フリークス》は、案外多いんだ、彼女、地下ではちょっとした|神像《アイドル》だからね。彼もニャマムを追いかけて会いに行ったんじゃないかと、思ったんだけれど」
「り、りっくん、浮気……? もしかして私に黙って一人で行っちゃったのって」

 釣瓶落としが口にした全く空気を読まない突拍子もなく場違いな内容を、しかしミスティア・ローレライは真に受けたどころか十分に膨らませて受けている。さっき天狗や東風谷と遣り取りをした中で彼女が一番心配していたのは、何を差し置いても、「何故自分を置いて一人で穴の中に行ってしまったのか」という射命丸からの指摘に対しての可能性についてだったのらしい。へなへなとくずおれるミスティア・ローレライ。ふと、その様子を見ていた声が、釣瓶落としを呼んだ。

「こら、キスメ。話をややこしくするんじゃないよ」

 その状況を見ているのはこの場にいる他の四人、今聞こえた声は、どこから? そこには穴と空と木々くらいしか無い、というのにそれら全てが振動するような、大きくはないが奇妙な声が聞こえたのだ。

「ん?」
「え、なにか?」

 射命丸は犬走を、犬走は射命丸を見て、私じゃないよとお互いに目配せしている。その二人のやり取りを見ていた東風谷はミスティア・ローレライをみた。だがその声質が、雀の高い声でないことも明らかだ。一方のミスティア・ローレライはその性質故か、その発声源を察しているように。全員が全員を見回した後にたどり着く答えに、最初から到達しているようだ。
 全員が、ぽっかり開いた|深道洞穴《フォール・オブ・ウィル》の入り口へ目を向ける。

「あ、もう来たんだ」

 釣瓶落としは、途中で見えなくなる透明な吊り紐を天に向け、ひょろひょろと上に登る。弧を描くようにのんびりと穴の上の方へ移動し、そのまま降下を始めた。するとまるで滑車越しに吊り紐を下へ引いて釣瓶が上に上がってくるのと丁度逆のように、釣瓶落としが上空から目線の高さくらいにまで降りてくるに連れて、穴の下から何者かが登ってくる。



§ § §



「なっ、き、『来た』?」
「この、匂い……」

 釣瓶落としの言葉を聞いた射命丸が驚きの声を上げる。犬走は青龍刀とカイトシールドを構えて射命丸と穴の上に現れた人影の間を遮るように立った。東風谷は、御幣を握ってその様子を険しい表情で油断なくみやる。
 東風谷が思わず口にした『匂い』とは、文字通りの香りや臭いのことではない、それは、神妖の類が皆それぞれ持っている、空気やオーラ、雰囲気といったようなもので、少なくともこの場にいる誰もが感じられるものだ。
 その『匂い』を感じ、東風谷は顔をしかめて御幣を握る手に力を込めている。それは、余りにも普通ではなかったのだ。邪神、という言葉がさほどの意味を持たないというのは先の釣瓶落としの言だったが、それでも東風谷は、いや射命丸も犬走も、ミスティア・ローレライも、穴をゆっくりとまるで日の出のように浮かびあがってきた人影に、邪神、の言葉を感じていた。
 上ってきた人影の姿が明らかになるにつれて、漂うその『匂い』が、色濃く変化していく。
 それは、奥深い山林のようなじっとり湿った生命力。あるいは、死体の周辺に漂う虚無と絶望感。心をおかす数式。一方で、地下深くで蠢く大地の息吹。火山火口の硫黄のざわめき。その間歇を埋める、廃屋の奥の腐った床板を踏み抜く静寂と、肉が腐って形を失っていく残響。篝火が揺れ闇が削れる温度。
 そして、奔流する邪の神性。
 大きく口を開けた|深道洞穴《フォール・オブ・ウィル》の縁に落ち込むように青さを保っている草の毛布が、急に色褪せ褐色に染まって枯れ果てる。その壊死空間が、穴から姿を現すその人影の大きさに比例して、地面を這うように徐々に広がっていく。水が染み出して水溜りが広がるように、死の影がひたひたと行進していた。
 姿を現したそれが、グォダ=ニャマム、なのだとその場にいる誰もが察した。同時に、あまりにも性質の異なる『匂い』同士が絡み合って漂い巻く異様な雰囲気に、誰もが言葉を失い目の前の姿に注意を払いながらも辺りの様子を気にしている。

「早かったじゃないか」

 グォダ=ニャマムと思しき人影は、姿ばかりは、人のような|形《なり》をしている。白皙は雪の艶めかしさではなく血を透いた生々しさ、ただ白いばかりか青白い病性を貼り付けている。肌の上から浮いた血管が青色を滲ませているからだ。彫りが深めに落ち窪んで見える目は昏く生気に乏しいようだが、まるで夜の空で焦点を合わせないときにだけ視界の隅に薄ら笑む星のような、陰鬱とした輝きを散りばめていた。何より、半ば閉じられ気味だが本来は大きく丸みのある垂れ気味の目形を、紅いシャドウできつく鋭く釣って見せている。それとバランスするように、唇にも真っ赤な色が塗られていた。蒼白ささえある肌理に、それらの赤はまるで他の場所にない血色を無理に集めたかのように見える。

「早くないよ。あんたがおそいの」
「しょうがないじゃんか、私は落ちるのが専門で登るのは苦手なんだ、知ってるだろ?」

 スファレライトをスェードに鞣したような煌めく生地にシトリンを編み上げた飾り布をやかましく纏う衣装は、端々に銀糸で縁取りがあり、ちらちらと光の乱反射を見せる。指に耳に胸元に装身具として輝く真っ青な宝石と、ドレスの飾りボタンとして6つ配された|目玉のような輝き《シャトヤンシー》を見せる黄色の玉石。いずれもジルコンのようだ。
 だがそれらを差し置いて最も目を引くものは、その背中にあった。遠目には神の威光を示す|光背《ニンバス》のようにも見えるが、それではない。上下に長く扇状を描いて広がるのは、脚だった。節を曲げ先の鉤爪を尖らせた蜘蛛のような脚が、上下に4本ずつその人型の背後から広がっていてまるで落ち着いた深呼吸をするようにゆったりと揺れ動いている。臀部には人型の下半身とは別に蜘蛛様の腹があった。金属光沢をもった蛇腹の重なる蟲腹部は、まるで大型獣の呼吸のような熱く荒々しい音を立てて脈打ち、熱い呼気が給排されていた。人型部とは別の呼吸器系を有しているのだろうか。
 とにかく、その脚や腹が衣装や装具では無いことが、遠目にもわかる。もしかすると衣装や飾り布も何かの生体器官の変容なのかも知れない。
 実に、気味が悪い。過ぎた妖艶とはかくも気色の悪いものか。人型の部分だけを切り取るのなら、冷ややかな美貌の女性に違いがないのに、虫と融合した様に見えるその姿のせいで、美しさは全て不気味へ転化されていた。その場にいた、釣瓶落しを除いた全員が、凍りついている。それと軽々しく口を利いている釣瓶落としに対しても、それに巻き込まれるように気味の悪さが生じてくる。

「そんなわけで、みんなお揃いだよ」
「……そのようね」

 あたりを見回す、グォダ=ニャマム。頭部にある2つの目以外に、その特徴的なドレスに縫い付けられた6つのキャッツアイそれぞれまでも、まるで身体的な眼球であるように各々が動いて瞳様とした光をあちこちへ向けている。
 異国情緒な奇妙さに満ちているが、アースカラーに統一されているにも拘らず綺羅びやかなワンポイントのせいで華がある。宝飾で豪奢に飾り立てられてはいるものの生気の薄い肌あいに褐色中心の衣と暗色にまとまった落ち着きのある姿に対して、頭髪はまるで黄金が燃えているようなぎらつく金。衣服と同じ橙から茶と、銀で誂えられたバレッタでまとめ上げられていた。

「|そいつ《・・・》は、新しい|信者《カルト》? それとも|神像《アイドル》の|追っかけ《フリークス》かい?」

 グォダ=ニャマムの姿が穴の中から完全に現れ地面よりも少し高い位置で上昇を止めた後、遅れてひょろひょろと登ってきたものがある。白い粘着性がある糸で雁字搦めになり身動きを封じられた、それは。

「り、りっくん!?」
「おっと」

 リグルの姿を認めたミスティアが思わずその方へ飛翔すると、そのコースを交差するようにキスメ、と呼ばれた釣瓶落としがその軌道の間に入り込んで、すれ違う。すれ違いざまに、どこから取り出したのか、身の丈を大きく超える|大鎌《サイズ》を構えてその刃の側をミスティアの前へ向けた。

「っ!」

 すんでのところで停止するミスティア。刃は正確無比に彼女の喉が通り抜けるだろう場所に設置されている。

「首が落ちた程度で死ぬ雀だとは思ってないけどね、流石に全く平気というわけには行かないだろう? 許可なく近寄るんじゃないよ。あんたがどう思っているのかに関わらずニャマムは、神だ。あんたが気安く近寄っていい相手じゃない」

 そう言って、更に後僅かだけ、刃をミスティア・ローレライの喉へ、寄せる。つぷ、と柔らかく白い喉の皮膚が一枚だけ切れる。ミスティア・ローレライは両手を挙げてゆっくりと、後退する。キスメと呼ばれる釣瓶落としはそれを深追いするようなことはなかった。

「これは私の|信奉者《カルト》でも|おっかけ《フリークス》でもないわ。ただの下僕。」
「下僕ぅ? 私じゃ不足かってー」
「足りないよ。蹴ったり殴ったりしてないだろう」
「……おおう、そりゃあよかったよ」

 キスメ、と呼ばれた釣瓶落としは、グォダ=ニャマムらしき人影の傍に滞空してそれと対話している。|神官《ヨキロル》を「神職と奉仕者を足したもの」と評した割に、その|神官《ヨキロル》である釣瓶落しは、主らしき人影に対しても随分に気安い。

「あなたが、グォダ=ニャマム」
「ん? これは……」

 その様子を地上から見ていた射命丸が、跪いて見せた。だが、犬走はまだ油断なく、穴と射命丸の間に立って盾を構えている。跪く射命丸を|8つの目で《…》見てグォダ=ニャマムは内2つをすっと細める、そして笑った。

「はっ、はははは! サルタヒコの模倣品だけじゃなく、白狗までいるじゃないか。これはいいわ。 貴様ら揃って私の先導をさせることにしよう。|倭《やまと》への意趣返しとしては、これ以上無いセッティングだわ」

 |猿田彦《サルタヒコ》、という言葉自体は、射命丸の知るところでもある。符の名前にも入れている。だが自分がそれだという自覚はない。

「サルタヒコは我々天狗の一部で語られている昔話の登場人物です。私がそうだということでは」
「射命丸さん、事情を解さないなら黙ってて頂けますか?」

 グォダ=ニャマムから関係しそうな言葉を出され反応した射命丸だが、東風谷から黙れと言われてしまう。カチンと癪に障ったところだが、反論しても仕方がないところなので射命丸は押し黙る。そこは裏社会で汚く生き抜く射命丸のこと、表情を変えないどころか苛立ちに反して笑って返し、小さくなったように引っ込む。
 その笑みが正直なものではないことを承知の上でいる東風谷はそれに目もくれずにグォダ=ニャマムの方に、同じく恭しげに頭を下げた。



§ § §



 閉め切った本殿の中に、蝋燭の光だけが4つ、揺れている。大きな炎姿はゆらゆらと揺れ、止まって静かに燃え、また不意に揺れる。部屋の中に風はないというのに。よく見る蝋燭よりも炎が大きいが、明るさは幾らか控えめのように見える。その光から生じる影も流れる水面のようにゆらゆらと揺れていた。
 その蝋燭のおぼろげで柔らかく自ら揺れる橙色の光は淡く部屋を満たし、四隅や祭壇の物陰などに残る影にさえ体温のある丸みと生々しさを与えている。四角く区切られた広いとも言えない本殿の中は、その柔らかい光に映し出されてぼんやりと膨らんでいた。狭いはずなのに、明るすぎない蝋燭光が溶けるような暗さへ自然にフェードアウトし、心なしか空間的な広がりを感じる。
 この蝋燭の原料である櫨の木はこの山に沢山生えているが、この櫨から蝋燭を作る職人はもう|阿波戸《あわと》にはいなくなってしまった。この土地の櫨で作った和蝋燭のストックも、もうなくなろうとしている。それは、皮肉にも申し合わせたようなタイミングだった。

「さだめなのか」

 小柄な少女の姿が、柔らかい橙の光に包まれて波打つように不規則に揺れている。少女の肌は橙の光に染まって血色豊かに生き生きとしているが、日本人にしては幾らか凹凸が激しい顔のつくりのせいで蝋燭の光の陰影がきつく映し出され、その表情は沈んで浮かないように見える。サイドから前方に向けて長くなるように切りそろえられたおかっぱの黒髪は、まとまった形だけを見れば甲殻類の顎部の形のようにも見えた。
 祭壇を抱えた本殿の中は、全体に独特の香りが焚きしめられている。草いきれの中に、若干の甘みと、更にほんの少しだけ動物の匂いのような野性味を加えた、ムーディで湿気のある香り。お香か護摩の香りだろうか。
 部屋の中の仄かな暗さに、全てのものが姿の輪郭を失うその果ては、まるで別の世界や違う時代へ向けて時空そのものが溶けていくかのように勾配している。物陰や四隅の暗黒は、まるでこの世界とこの時間と、同一の時空を維持していないのではないか。そこに指先を差し込んだら、そのままずぶずぶと向こう側に沈み込んで通り抜けられてしまうのではないか、そう思える不思議な雰囲気が部屋の中を満たしていた。焚きしめられたエキゾチックな香のせいもあるかも知れない。
 祭壇には、一見して一般的な神社のような、装飾を施した木製の外縁を構えているが、その中央には玉も鏡も刀も置かれていない。丁度その祭壇の向こう側から垣間見えるように、背後に聳える山の崖が荒々しく覗いていて、縦に亀裂の入った岩肌からは水が湧き出て小さな流れを作っている。山体を神体とするにしても、こうした本殿の形は珍しい。
 彼女は祭壇の前に片膝だけを立てて一人で座っている。だが、四方の蝋燭の光に照らし出されて生じる壁の影はしかし、立て膝で座る少女のシルエット|だけ《・・》には見えなかった。
 その場には彼女以外に誰もいないように見える。一人で祭壇に向かって灯火を立て香を焚き、何かを祈っていた。これも独り言に違いない。

「この世界で出会うことなど、無いと思っていたのに」

 種を撒くよう命じたまさにその矢先だったのだ。まるで、待ち構えていたみたいなタイミング。彼女には、本当にそうなんじゃないかと思えていた。だってそうでなければ、この申し合わせたような時系の一致、納得など行くものか。
 この場所で、ザグトミの破片を喰ってまで生き延び力を蓄え、もう長い間生を続けてきた。だのに、何故こんな風に重なるのか。焦りといえば焦りだが、反面、諦めといえば諦めのような感情。彼女自身でも正体を探りきれない深淵に淀む黒のような感情が、彼女の心中を埋めていた。

「いるか」
「はい」

 姿は見えない。この部屋にいる人物は確かにおかっぱ頭の少女だけだが(それもこうした神殿に一人でいることが普通とは考えにくいが)、声は確かに本殿室内から聞こえた。それを呼んだ少女の背後に立つように、蝋燭の光に影だけが、映し出されている。祭壇の前で片膝を立てて座る少女の背後に立つように、長身のシルエットに後ろで結わえた長い髪の流れる形が見える。だがそれ以外には影絵だけでは何もわからない。姿が見えぬこの奇妙を、しかし祭壇の前に座る少女は気に留めていないようだ。

「あれは、どうしている」
「色々と嗅ぎ回っているようです。恐ろしく勘が働くようで、次々に」
「勘ではない、記録よ。血か、魂か、遺伝子か、残留思念か、名前なんてどうでもいい、そういう脈々と連なりながら形を持たない連環の『ひも』に刻まれた、記録。思い出すのでも知っているのでもなく、言葉に直すことも感情に表すことも出来ず、ただ引き寄せられる。」
「邪魔でしたら……殺してしまいましょうか」
「できるの、お前に?」

 姿のない女の声は、黙した。

「端から出来るなどとは思っていないし、それでお前を責めるつもりなど無いわ。ここに来て、あれがどう動こうと何を知ろうと関係ない、もう間に合わないわ。」
「蛍の方は」
「放って置いていい。どうせ奴には何もできないわ」
「……承知しました」

 ザグトミの切れ端は、この地で一人で力を復興しようと自らの力を祀らせるための邪教を興してこの地に小さく燻っていた未発見の疫病を嗅ぎつけ利用しようとした。その一環でかねてよりこの山を祀るために存在していた社を乗っ取ったがそれと同時に、自らの力を阻害する邪魔な虫の存在に手を焼き、その根絶を目指してまるで人間のような涙ぐましい努力を続けていた。
 しかし結局、そうして手を拱いている内にどこかから現れた化け蜘蛛に食い散らかされた。ザグトミ片の巣は主を失い、そこには化蛍が住み着いた。蛍を珍重する人間が普段からその場所に蛍を招いていたのが影響したのらしい。土蜘蛛はそれを気に留めること無く、無視してきた。先程、姿のない女に言い放ったように、彼女にとってその蛍妖は取るに足らない存在だったからだ。
 ザグトミが疫病を利用して神威を広めようとしたのを邪魔をし続けた得体の知れぬ虫こそ、その蛍妖の仕業であった。蛍にしてみてもその虫は未完成の|息子であり《…》、改善の余地があると勘が逢えていた。蛍もまたその蟲の研究を続ける必要があり、ザグトミの欠片が巣に築いていた設備は好都合だったのだ。
 |阿祖見山居比女命《祭壇に向かう少女》は、今や土蜘蛛に堕している。そしてザグトミの一部を喰い、同じように病を利用して山を取り戻そうとしているのだった。新たな邪魔者が現れても、今更それを覆すわけには行かない。

「今更、止められるものか」

 見た目ばかりは人の姿、だが壁に映る影にはその背に蜘蛛の脚を背負った女は、祭壇を前にして自らの胸に手を当てて探るように触っている。
 最近になって胸の辺りに違和感を覚えるようになってきた。奴の出現は、この予見だったのかも知れない。ロリスの化身と同化してさえ、この変化を止めることが出来ない。どちらが先に、到達するか。彼女の焦りはそこにあった。
 神のまま死ぬことも良しとせず|妖怪《土蜘蛛》に堕ち、未練がましく人に身を窶し、|怪生《ざぐとみ》を食らって内側から冒されてまで過ごしてきた。復讐とは違う、だって討ち果たすべき仇はもうこの世にはいないのだから。ならば何なのか。誰かに証明したかったのだろうか、私はまだここで生きていると。死んだりなどしていない、こうして力を取り戻して戻ってきたと。生きていること、存在の証明、自己の価値、それを誰かに見せつけ知らしめることもまた、彼女は復讐と変わらないと考えている。そして、「だれに」という問いで行き止まりになることも、同じだった。
 こんな自問を何年続けてきただろう。
 人間は結局あれから何度も殺し合いの歴史を重ねてきた。あの白い鉄を手にしたからだと、彼女は考えている。そうして目の前を何人もの人間が通り抜けていくのを見送って、彼女はようやく前に一歩踏み出したところだった。
 かつて自らを祀っていた社を、娘の力を用いて丸ごとザグトミの尻尾から取り返し、自らを自らの手で祀ることにした。信者は少なく、ひっそりと存在し、その信者も元の教義など忘れている、彼女にとっては好都合だった。好都合だったはずなのに。

「……止めさせない。私は|自然《山》に、|神《私》に、もう一度」

 そのためにあの日から、泥でも汚水でも死骸でも糞便でも口にしながら、生き延びてきたのだから。

―― ■■■、■■■

 それは彼女の娘の名前だ。音は聞き取れなかった、いや理性によって分解できる意味と概念をなさず音としてさえ危ういが、確かに声であった。彼女はそれを愛おしげに呼ぶ。
 それは望まずに産んだ子の名。いや、望んだのだったろうか。もはやどうでもいい。一度は存在自体を疎んだが今は、その存在をかけがえ無く思っている。
 娘は母の過去を立証し、母の生存と拡大を支えた。それがどんなに忌み嫌われる方法で、彼女にとって望まぬものであったとしても。彼女はそれを受入れたのだ。そして彼女の現在と未来を形作る鍵になろうとしている。
 この娘には意思らしきものがない。体もまともではない。骨はなく常に地面にべったりと垂れ滴っていて、立体的形質を持つ器官の形の分だけが、高さを持って膨らんでいる。血流を流す度に小さく脈打ち低い体温を持っている以外、口は開け放たれて上を向いたまま、目玉もどこかに焦点をあわせること無く左右でバラバラのどこかに向けられていて、常に潤っているのだが瞬きはなく動きも見せない。手足は陸に打ち上げられたタコのように曲がりくねってへばりつき、不規則にのったりと蠢いている。
 娘のその体は、自らの性質を体に刻んでいるのだ。そしてザグトミの破片を与えると、劇的に変異した。それはきっと、喜びという感情の原形だったのだろう。それと、成長。口から泡を吹いて歪な笑みを浮かべるようになった。元々紫色の病の涎を垂らす子だったが、それからはその泡が弾けた飛沫から、無数の彼女が更に生まれるようになった。風にでも水にでものって、この娘の破片は今、|阿波戸《あわと》のあらゆる場所に蔓延っている。いずれは何者かの体を借りて|阿波戸《あわと》を出てもっと広い世界へ流れ着くかも知れない。それこそが、社に座る女の望みでもある。
 一人ならず二人まで邪魔者が現れたが、きっと間に合う。そのいずれもまだまともに機能していない。土蜘蛛が先に行動を起こそうとしていた。無数に分裂してこの土地のあらゆる場所に根を下ろした彼女の娘が、母の呼びかけに応えて活動を始めたとき、彼女の凱旋パレードが始まる。

「さあお前が必死になって止めたかった、|大流行《エピデミック》のはじまりだ。私と、お前の娘だ、祝ってくれよ、|道《すすむ》。……いや、|穂多留比《ほたるび》」



§ § §



 助手席グローブボックスの上に投げ出した足を引っ込めて珍しく普通に座り直し、煙草の火を消してアッシュトレイを押し込んだ。吸い殻で一杯になったそれは上手く閉まりきらず、何本かのフィルタが入り切らずに挟まっている。

「始まったぞ」
「うん」

 バンがゆっくりと、発車した。そのゆったりとした、まるで忍び足を車輪でして見せるような発車は、肉食獣が空腹を覚えて狩りに出かける足の動きのように見える。停車スペースから、低速で這い出して、そのままなだらかな加速。
 向かう先は、|阿波戸《あわと》だ。

「金にならん仕事、勘弁して欲しいね」
「しゃーないよ、姫のご命令だ。あたしらは生活のために死体売ってんじゃないからねぇ」
「死体集めて売ってんのは元々リンの仕事じゃないか。なんで私が手伝ってんだか」
「それは感謝してますってば姉御ぉ〜」
「どうだかね」

 ちなみに喫煙女を姉御と呼んだ、体の小さい女の方が圧倒的に年上だ。
 まあ、今やこっちが本業じゃ、しょうがないよ。そう言って猫の歩みのように車を滑らせるのは、その通り猫耳のカチューシャを付けゴシック風のドレスに尻尾とふざけた出で立ちのリン。それとその横で次の煙草に火を点けている黒のパンツスーツの大女は、クー。クーは運転できないから、万年助手席だが。二人共黒尽くめの、しかしどうにも演技じみたわざとらしい服装だ。

「ザグトミの尻尾と、ロリスの分身。一網打尽のチャンス、逃したくはないねえ」
「ほっといてもいいんじゃないの? どうせ今どき、こっちの世界でどうなったって、猛威を振るってこともないんだろ。パンデミックを起こすには、神様やら妖怪の|祟《たたり》より、今じゃ人間自身の愚行の結果の方が近道だ。今どきそのへんにひっそり住んでる神妖の力じゃ、|地域流行《エピ》程度だろう」
「こっちの世界じゃ宗教の神聖性は死んでるからね、科学とかいう魔術も進歩しているみたいだし。きょーび、奴等がどう足掻いたって人間達の手で鎮圧出来るものにしかならないだろうね。あたしもそーおもうけど、姫の指示じゃしょうがないよ。」
「だったら人間達に自分で処理させりゃいいじゃないか。なんで私達がこんな所まで出張る必要があるんだ」
「一応は解決に向けて行動しました、っていう実績が必要なんでしょ、実際に解決したかどうかではなくて。姫は政治家だから、そういうの気にするんだよ」
「創造性のない仕事だなあ。ただの捨て駒じゃないか」
「生きて帰れりゃ捨て駒じゃないよ。あたしらの仕事は殺すことと壊すこと、そもそも創造性なんか無いじゃん?」

 そうだけどさ。でかい女は溜息をひとつ吐いて、私は頭が空っぽだからそういうことはよくわからん、と呟く。
 そもそもこれから彼女たちが赴く場所での仕事には、命をかけるようなものはない。彼女達はそれをするのに命の遣り取りをする必要がない能力と装備を、与えられているのだから。
 彼女たちの言う「お尋ね者」を内包しているとはいえ、何れも今はただの人間だ。殺せば、死ぬ。あるいは、壊せば、壊れる。
 クーと呼ばれた大女の手に収められているのはPP-2000。比較的小型であるとは言ってもそれなりのサイズの銃、だがこの大女の手に収まるとまるで大きめの拳銃程度に見えてしまう。
 バンの後部は死体を乗っけるスペースになっていて、それを解体するための工具が道なりの揺れでがしゃがしゃと音を立てている。死体の状態に合わせて使い分ける大小のノコギリ、バーナー、様々な鎚、手斧、色々な形の楔、鉈、吸水ポリマー、防水シート、大量のS字フック、ワイヤー、五寸釘、錆びた十字架、欠けた数珠、饐えた聖水、端に血を吸った札。
 一部では彼女達をゴーストバスターとかヴァンパイアハンターと呼ぶ者もいる。人間の形をしているのに、どこか人間らしくない雰囲気を感じる出で立ちや雰囲気、それに死体を回収していく仕事の様を見て言うのだろうが、実際は死体を集めているだけだ。必要に応じて|死体にする《…》場合もあるというだけで。
 今、バン後部には死体は乗っていない。解体用の道具も隅に寄せられて待機状態ではない。代わりに中央を陣取りその空間を圧倒的に占めているのは、火器だった。

「こんなモノ使わなくたってクーが燃やしてくれれば、弾代もかからないしおまわりさんを気にしなくて済むし、らくなんだけどにゃー?」
「お腹が減る」
「平和じゃないか」
「こっちの世界じゃ核は使いにくいんだよ、平和どころか戦争の象徴だ、知ってるだろう」
「それ、クーがさっき苦手って言った政治の話。」
「むー」

 いつもそうだ。クーが駄々をこねても、リンは上手く丸め込んでしまう。でもクーが駄々をこねてその通りに行動すると、決まってろくなことにならない。だがクー自身がそれを自覚しているから、最終的にはリンの言う通りにする。

「『|六方稠密棒《制御棒》』、持ってきてるんだろう?」
「まあ、これがないと|ヘリウム3《三本目の足》が言うことを聞かないから。でもあんまり使いたくない。お腹すくし」
「もー」
「……バ火力バ火力言われるからヤなんだよ。そりゃ、私は確かに鳥頭だし、こんな強い力をくれた|双子の姫君《プリンセス》には感謝してるけどさ。あと、モリヤ?」
「人型の対象一つ二つ消すのにそんなにでかい火は要らないよ。っていうかそんな嫌ならいいさ、こいつでやろう。そいつでもいいよ。『仕事は選ぶがやり方は選ばない』でしょ?」
「ああ」

 そう言って、運転席に前のダッシュボードに転がっているHK45CTを顎で指し、視線でクーの手の中にあるPP-2000を見た。
 文句を言いながらもよくリンにくっついてくるクーだが、リンもクーの扱いに慣れていて、どの程度まで彼女の話を聞けば、ぶつくさ文句を言いながらも気持ちよく付き合ってくれるかをよく承知している。この二人の距離感は二人にしかわからない不思議なものだ。お互いに文句を言って、時には憎まれ口を言い合いながら、リンがハンドルを、クーがエンジンを、回す。

「焼却処理が沢山必要そうなら、ちゃんと、使うよ」
「わかった、ありがと」



§ § §



「サルタヒコの出迎えはともかくとして」

 射命丸と犬走に向かって嘲るような視線を投げた後、グォダ=ニャマムは、それを制止し頭を下げた東風谷の方を見た。見た、というよりは睨み付けるといったほうが近いかも知れない。

「諏訪の女。何故|タケミナカタ《出雲のクソ野郎》が来ていない。|ただの巫女《使いっ走り》だけよこすとは、私を見くびったか」

 まるで本気ではない殺意を見せびらかすように、余り穏やかな表情とは言えない顔で土蜘蛛は東風谷の方を見る。だがそんな視線を向けられた東風谷の態度は、慇懃かつ飄々としたものだ。

「滅相もございません。私はいわば、|リグル・ナイトバグ《そこの彼》と同じ立場の者です」
「なに?」
(え、りっくん?)

 守矢の発言に、眉をひそめるグォダ=ニャマム。それに、思わぬところでリグル・ナイトバグの名前が出たことで、ミスティア・ローレライが反応する。

「我々の神系の神々には消えること無く封印され、細々と存在を継続していた者たちがあります。それは、私へつながるこの血筋が、かの神系をひとまとめにミシャグジと銘打ちタケミナカタ神の背後に置いて|代々密かに一緒にお祀り《グレイソーマタージ》していたからです」
「あの穴の奥から、よく見ていたよ、お前達の再構築を。信心の集約と隠蔽、そして新たな命名。諏訪の旧神系は上手くカプセル化され、新参の神ともそつなくインターフェイスしている。便利な|仕組み《ラッパー》を考えたものね。|阿祖見山《私》は、その事前実験場にされたのでしょう? 腹が立つが、見事なものだ。ああ、全く腹が立つわ」

 グォダ=ニャマムが憎々しげに言うと、東風谷早苗は一段深く頭を下げる。

「この地に『諏訪』は御座いません。ミシャグジに習合されたモレヤもソソウもチカトも、タケミナカタもヤサカトメも、倭も出雲も諏訪も、この地にはもうありません。ただ『守矢と東風谷』があるだけです」
「守矢だ東風谷だと嘯いて見せても、諏訪に変わりがあるものか。」
「この地においでなされたソソウの巫女と、タケミナカタの化身、お二人いずれをも神として存在せしめているのは、今この地に住まう民草ではありません。博麗でもありません。」
「……では何だというのだ。自在の存在だとでも言うのか」
「|私です《・・・》。八坂神奈子と洩矢諏訪子は私の神でありますが、私は彼女達の神です。だから、私は、守矢の全権なのです。人が神だなどと、不遜と思われますか?」

 土蜘蛛神は、黙っている。不服そうな表情を浮かべながらも、反論も何も発さない。ただ聞いているだけなのか、何か思うところがあるのか。人の言動の背後を探るのが仕事のようになっている射命丸にとって、雄弁が銀であることに変わりはないが、沈黙もまた無数の手がかりを持ったものだ。黙っていれば隠せるだなどは、射命丸は思っていない。その沈黙には思念の色が滲んでいるのを、見逃してはいなかった。

(今までの反応を見ると、反論しそうなものなのに。守矢と土蜘蛛の間に、何がある? 今の守矢の発言が、土蜘蛛の何を|刺した《…》?)

「人の世など、どうでもいい。私達は共依存で存在する、孤立した神系です。人はただ、この円環に集合としての神性を見出して守矢の下に集まっているに過ぎません。」
「詭弁を弄すな。ならば、リグル・ナイトバグが、私にとっての神だというのか? こいつが、そんな大層な立場なものか。私がこいつに存在|させられている《…》とでも? ふざけるな」

 守矢の巫女の言葉に反感を顕にする土蜘蛛。リグル・ナイトバグの方は、蜘蛛糸に巻き取られいるが目を閉じたまま全く動じない。そもそも生きているのだろうか。いや、死んでいればもっと雑に扱うだろう。それに、守矢から関係性を誤解したような言葉が出たときに、真っ先にこれは死んでいると言うだろう。ならば、麻痺しているか、眠らされているか、黙っているように強制されているか。

(あの土蜘蛛神にとって、リグル・ナイトバグは一体どういう存在なの? |神《主》と言われて言葉を荒らしたのを見ると、神ではないにせよ、何らかの依存関係を持つということか? だが、もしそうならば何故リグル・ナイトバグは大人しく捕まったままでいるのかしら)

 射命丸は隣の雀を見る。彼女の使う風変わりな遠隔会話は、遠隔とはいえテレパスではない。お互いの口元と耳元の空気の振動を同期させるものらしい。故に、口の動きを見れば会話をしているのかどうかはわかる。今、二人の間に会話はないようだった。射命丸は、まだ、リグル・ナイトバグが|御東《みあずま》の疫病に噛んでいるものとの疑いをまだ持っている。ひいては、このミスティア・ローレライもその協力者なのではないかとも、疑いを晴らしきっていない。
 対して、守矢が同じ疑いを持っていると言っていたのは、もっと大きな目的を隠すためのカムフラージュだと感じていた。それが、今この二者の間で交わされている意味のわからない会話の正体だ。人の世などどうでもいい、と言い放った守矢。大きな目的のためには、その他諸々のことを平気で捨て去る豪胆な組織だということも、射命丸は知っている。

「あなたが、リグル・ナイトバグとどのような関係だったかも、この地でどのような関係を再構築するつもりなのかも、守矢にとっては知ったことではありませんただ、守矢……いえこれは、タケミナカタとミシャグジ達の記憶ですが、|不合《あえず》国の端にあった小さな山のことを、忘れてはいません。」
「この期に及んで『忘れてない』だなど、都合のいいことね」
「|私《東風谷早苗》が逃げ出したあの世界から、|阿祖見《あなた》がいつか同じようにやって来ることを、お二人から聞かされていました。もしあなたにその可能性があるのならお迎えに、そのつもりで今ここにおります。リグル・ナイトバグが関わっていたことは驚きましたが」
「これのことは気にしなくていい。個人的に、因縁があるだけよ。」
「あの!」

 守矢と蜘蛛が話をしている間に、ミスティアが割って入る。話の内容はさっぱりわからないけれど、一つだけ、どうしても把握しておきたいことがあった。

「今、そこにいるリグル・ナイトバグは、無事なんですか? それと、あなたに彼が、どんな関係があるのですか。彼は、あなたに会いに行ったのですか?」
「……質問は一つにおしよ、雀ちゃん。まあいい」

 グォダ=ニャマムは話に割って入られたことに少し表情を曇らせるが、思い出すか言葉を選ぶか、どちらかをするように返事を返す。

「これは、無事だよ。今は毒で気を失ってるだけさ、中まで溶かしたりはしちゃいない。」

 無事だと聞いたミスティア・ローレライは、はう、と大きく胸を撫で下ろす。その回答だけでも彼女にとっては十分なものだった。

「|関係《・・》……そうだねえ、なんて言えばいいのかしら。『ただならぬ関係』とか『のっぴきならない関係』とか、そういう感じかな」
「はぐらかさないで下さい。りっくんは、あなたを探して穴を降りていったんですよね?」
「聞かされてないのかい」

 言われたくないことを言われた、そう顔に書いてあるような表情を見せるミスティア・ローレライ。

「ええ」
「ま、言いたかないだろうね、こいつも。でも、私が自ら言うことでもないのさ。私の口からは、控えさせてもらう」
「そんな、無責任な」

 蜘蛛糸で巻き取られてぐったりと動かない相棒を見て尚解答を控えると言われれば、「無責任」の言葉も無理もない。だが蜘蛛神の発した言葉はミスティアにとっては意外そのものだった。

「無責任、とは、私じゃない、これに向けて言うことだね」
「なん……」
「おっとここまでだ。私にとってあまり利のあることではないし……こいつにとってもそうだろう」
「そんなこと、言われても」
「こいつの名誉のため、なんて偉そうなことを言うつもりはないけど、きっとそういうことになるわ。聞きたきゃこいつ本人から聞くことね」

 ミスティア・ローレライは、グォダ=ニャマムを除けば一番状況を理解していそうな東風谷の方を見る。その東風谷といえば、リグル・ナイトバグとミスティア・ローレライの関係になど微塵も興味が無いらしい、ただ御幣を、戦闘ではなく儀礼での姿勢で構えている。天狗も、守矢も、あの蜘蛛に対して強い礼の姿勢を示していた。
 それは表面上のものだとすぐに見てわかる。射命丸とグォダ=ニャマムの間に立つ犬走はまだ臨戦姿勢であるし、東風谷も儀礼の姿勢ではあるが、御幣を手にしている以上、さっきの風の荒ぶり方を見る限りはすぐに戦闘に突入できるだろう。

(追い払う、気なの? 博麗からの許可もなく?)

 博麗はこの幻想郷に対して、来るもの拒まずの姿勢を崩していない。それ故、「幻想郷への不法侵入」という罪状は存在しないし、それを理由に威力行為に出ることは許可されていない。その侵入者が幻想郷に甚大な被害を与えると認められ場合にのみ、幻想郷の内側に入った後で異変として対処し、その結果「除去」することは、八雲あるいは博麗が認めたケースに限って執行される場合がある。しかしそれは極稀であるし、独断を許されるものではない。
 守矢の巫女は、八博体制の方針に対立するとしてもなさねばならないことがあると言っていた。それは、グォダ=ニャマムを打ち倒すことなのだろうか。
 戸惑いながらも、ミスティア・ローレライはそれらに従い同じようにグォダ=ニャマムに傅いてみせた。彼女には武装らしい武装も、戦闘スタイルらしいスタイルもない。必要があれば翼を大きく広げて|变化《へんげ》するまでか。その場面が訪れたとき、そうすべきか。実際に牙をむくかどうかについては、迷いがあった。
 地面に視線を落としながら、ミスティアは糸でぐるぐる巻きになった恋人の姿を思い浮かべていた。ぐったりしていた、肌の血色も悪くて、目も閉じたままだった。もし無理に交戦開始となれば、あの状態の彼は非常に危険だ。

―― りっくん

 |空振通信を試送し《pingを送っ》てみるが、反応はない。グォダ=ニャマムが言った通り意識がないのか、遮られているのか。

(それとも、返事をしないのか)

 ミスティアが不安に思いながらも顔を上げられずにいると、射命丸が口を開いた。まるで、試すような声色。

「改めまして、グォダ=ニャマム。この土地に何のご用でしょう」
「心地の良い空ね。さて、どれにしようか」

 射命丸を「サルタヒコの模倣品」と称した蜘蛛神は、その方に一瞥もくれないまま、遠くの風景を見渡している。そしてある一点で視線を止め、天狗の|領域《テリトリ》で一際高く険しい山の方を指差した。

「あの山がいいわ」
「よさそうじゃんか、険しくて、人が来なそう」

 |釣瓶落とし《キスメ》が同意したのに頷いて、グォダ=ニャマムは東風谷、射命丸、それにミスティア・ローレライと犬走を軽く撫でるように見回してから、言った。

「あの山を、貰うわ」
「は?」

 射命丸には、グォダ=ニャマムの言っている意味が飲み込めなかった。だが、彼女の言っていることは、紛れもなく言葉通りのことだった。

「あの山を、|吾《あ》が住まいとする。サルタヒコ、白狗、それとソソウの従僕、|吾《あ》れをあの山に|案内《あない》せよ。|吾《あ》が住まいとする社を築くに適した場所は、いずこか?」

 それは、紛れもない領地割譲の要求だった。余りにも明け透けで、思慮も遠慮も無い。それを、それまでとは異なる口調……それにこれがこの場にいる全員の勘違いでなければ、纏う「匂い」を蜘蛛妖からまさしく神のそれに変化させて、言う。

「グォダ=ニャマム、今少しお待ち頂けませんか」

 山を案内しろというグォダ=ニャマムを引き止める射命丸。

「なに?」
「あなたが現れるのに先立って、|深道洞穴《フォール・オブ・ウィル》……その穴から湧き出すように、疫病をもたらす|悪い空気《みあずま》が現れました。今はここから東にある場所で、人間に対して病を撒き散らしていますが、徐々に東へ移動しています。あなたと、関係が?」
「そうよ。」
「えっ」
「尤も、伝染を媒介しているのは呪でも祟りでも悪い空気でもない、虫による|接触伝染《コンタギオン》よ。|瘴気《ミアズマ》なんて、ファンタジックな呼び方が実態に即していないとは、分かっているのでしょう?」
「え、ええ、まあ」

 意表を突かれたのは問いかけた射命丸の方だった。あまりにもあっさりと認めた、もっとしらを切るとかはぐらかされるとかするものだと思っていたからだ。それは射命丸ばかりではない、ここにいる東風谷もそうであるし、ミスティア・ローレライもそうだ。元はといえば射命丸もミスティアも、|御東《みあずま》あるいは蟲の活動について元を探るためにやってきたのだから。東風谷は、違うようだが。

「虫、というのは」
「さあ? こいつに聞いて頂戴」

 リグル・ナイトバグを指す、グォダ=ニャマム。

「|蜘蛛《あなた》は虫ではないのですか?」
「虫といえば虫よ。でも、こいつの配下ではない……!」

 射命丸がそう言うと、グォダ=ニャマムはあからさまに嫌そうな表情を見せる。その様子を見た東風谷が、口を開く。

「蛍は、阿祖山麓で多く見られていたそうですが。古来より星を流したかと歌われるほどに飛び交っていた蛍も、彼の地には今は固有の蛍は失われてしまったと聞きます。人間がある種の疫病を克服するために、一緒に蛍も根絶してしまったのだとか。……そこに捕まっているのも、蛍の妖怪ですが。阿祖を臨み倭に従うことを良しとせず刈り取られた山と土蜘蛛、疫病根絶の名目で人の手で意図的に締め上げられた蛍。何か、関係が?」
「……ない」

 それは、あると答えたようなものだ。グォダ=ニャマム自身も、実際には全く隠し果せるつもりでの、その答えではなかったろう。

「まあ、いいです。あなたの|過去《・・》を掘り返すのが|守矢《我々》の目的ではありません。あなたがこの幻想郷に害をなさず、親和を以てこの地の山を抱くというのであれば、守矢はその協力をいたします。博麗との」
「待って下さい、東風谷様、それは余りにも……山を切り取られる|我々《天狗》の立場はどうなるのですか」
「知りません」
「なっ……」

 話を無視すると真正面から言われ、鼻白む射命丸。

「元々|御東《みあずま》の存在を隠蔽しようとしたのは天狗です。それに、この幻想郷には可入禁出の原理がある。幻想郷に移住しようとするものを拒む権利はありません」
「しかし、|地底《サブタレイニアン》は既に幻想郷の一部。その内側の騒擾に対しては|八九文《やそあまりここのつのことば》が適用されるはずです。居住の可否はその土地の支配者にあるとに明記されています。あの山は、天狗の」
「あの山の名は、何というの?」

 割り込んだグォダ=ニャマムの問いに、射命丸は答えられない。名など無いのだ。グォダ=ニャマムが指した山は天狗の山域にありはするものの、天魔宮やその城下町がある都からは遠く離れ実効支配が及びきっていない場所にある。博麗に提出され認可された版図上では天狗の支配にあることになっているが、東風谷早苗が指摘した通りそれは実のない主張である。実際に誰が支配しているのか、その山までは距離があり支配が人や組織によって呼び名が異なり、どんな環境になっているのか、誰か実質的なリーダーがいるのかも判然としていないのだ。
 八博体制下にある各有力者もそうしたフロンティアは有しているものの、天狗の山は存在自体は古いにも拘わらず組織化の歴史が浅いため、統治基盤の緩みが指摘されがちだった。
 射命丸はどうせわかるまいとハッタリをかまして適当な名前を言ってしまおうとしたが、そのわずか一瞬の空白を守矢に言質されてしまう。

「名はない。当然です、天狗の領域にはあっても統治できていないのですから。これは幻想入りする新たな住人に分け与えられるに適切な土地と思いますわ。それに|地底《サブタレイニアン》が幻想郷の一部であるかは博麗も、古明地も明言していません。よって……」

 東風谷の展開する論に間違いはない。恐らく予めそれなりの理論武装を用意してあったのだろう。この場で鉢合わせたときのためと言うよりは、今後想定される八雲・博麗を御前に置いた祭議の場でのものだろう。
 とは言え、こんなことは射命丸の責任でもなければ、射命丸の裁量でもない。しかも、東風谷のそれは戦闘態勢を崩さないまま言うことだろうか。先の強引、あるいは先を急くかのような発言と、平仄も取れない。

「あの疫病がグォダ=ニャマムの仕業だとするなら、可入禁出の原理に問うより先に判断せねばならないことがあります」

 この幻想郷にその|忘れ去られた者《レムナント》を招き入れるか否かを判断にかけることが出来る特例は、ある。もしあの疫病が幻想郷全体に多大の被害を及ぼしそれを本人が収める気がないのなら、八雲に命じられた博麗による排除が行われることもある。今は湖の畔に居を構える紅魔卿レミリアが幻想入りした際がそれにあたる。途中で博麗に下り八博体制下に含まれることを認めたために幻想入りが認められた。その際のいざこざの影響でレミリア・スカーレットは、強大な力を認められて権力を与えられはするものの中央から遠ざけられた「辺境伯」という立場を与えられている。
 仮にこの疫病とその病域である|御東《みあずま》がグォダ=ニャマムの仕業だとはっきりし、この土蜘蛛がこれを収めるつもりがないということになれば、幻想入りを認めないケースと判ぜられる可能性はある。それでも尚この地にとどまろうとする場合は、排除が命じられる。排除とは、「幻想郷の外にだすのではなく、内側で処分すること」だ。

(守矢は、もしかして水面下で八博に命じられて、そのためにグォダ=ニャマムを監視に来た?)

 ミスティア・ローレライは疑いを持ち始めた。
 守矢はその性質上博麗と競合関係にある筈だが、首格たる東風谷早苗が体制や組織とは別に博麗霊夢と蜜月であるらしいため、利害に裏付けされない意向の汲み方をすることがある。今回もそれにあたるのかも知れない。
 射命丸だけではなくミスティア・ローレライも訝しむところの、守矢の強硬な姿勢と辻褄の合わない言動は、それを引き合いに出して考えるなら、辻褄は遭わないが説明はつく。

「|守矢《シュネム》の巫女様、あなたの、真意が見えない。我々天狗は、守矢に対して」

 射命丸の焦りを察した犬走が「文さま、私が戻ります。議会に報告を」と提案したがしかし、当のグォダ=ニャマムが割り込んだ。

「|諏訪の《…》。何を勘違いしている。思い上がりも甚だしい」
「えっ」

 射命丸が、驚きの声を上げた。東風谷も訝しむような表情を浮かべている」。

「何故私が今更、貴様らの手助けなど受けるという話になる。埋め合わせなど求めていない、貴様らのような恩着せがましいやり口はもう沢山だ。諏訪の女が本当に全権だろうがただのハッタリだろうが、お前の主がここにいようがいるまいが関係はない。選択肢など存在せず、私は自らの意思で、誰の肯定もなく、あの山を貰い受ける。」
「何を仰っているのか……分かりかねます」

 東風谷がグォダ=ニャマムの発言の意図をつかみかねて問う。グォダ=ニャマムの求めているところを鑑みるなら、守矢の協力を取り付けない理由はない。だが土蜘蛛はその申し出を偽悪的に突っぱねた。ただのプライドだろうか。

「お前達に案内させるのも、諏訪女の進言などを聞き入れてのことではない。示威行為の結果で……結構よ」

 まだ宙に浮いたままのグォダ=ニャマムがその場にいる全員を見下しながらそう言った瞬間、獣が唸るような音が四人の足元から響きはじめた。音、というよりは、それと同じ周波数を持った地面の振動。

「! 飛んでください!」

 音の正体を察したミスティア・ローレライが、瞬発して高く飛び上がるのと同時に、他の者達にそう叫んだ。鬼気迫ったその声色に、射命丸は犬走を横から浚うように抱き上げて高く飛んだ。東風谷は黙っている。
 地鳴りはいよいよ大きく膨れ上がって、やがて地中を響く音から、空気中を動体が震える轟音に変化した。土砂崩れのもたらす絶望的な崩壊音、普段耳にするようなものではない。
 空中に飛び上がったミスティア・ローレライと射命丸文、それに犬走椛は、グォダ=ニャマムを油断なく見遣りながら何かが起ころうとしている地面に注意を払う。飛び上がり、地上を見返した彼女達はすぐに、空中を土が滑り抜けるような音の正体を見ることになる。
 地面から、まるで槍が無造作に突き出すように形成された岩の尖塔が無数に突き立っていたのだ。まるで、パチュリー・ノーレッジが|空間設置魔術《インスタレーション》を施した場所に突き出すエメラルドシティを彷彿とさせる大型の地形操作、あの大魔術師が予め空間に設置して行使する規模の魔術を、この土蜘蛛神は前段階の設置もなく、突然に作り出していた。

(なに、これ……神を自称するだけあるってこと?)

 射命丸は自分がさっきまで立っていた場所で、無数の岩の尖塔が交差しているのを見て背筋を凍らせる。地上の地形は一瞬の内に元の平らな姿を失って、まるで剣山のように姿を変えていた。ミスティア・ローレライの呼びかけで飛び上がっていなければ、今頃岩の尖塔に串刺しになっていただろう。
 一方、飛び上がらなかった東風谷早苗。串刺しにあっているか、と思われたがそんなことはなかった。その姿を認めた射命丸もミスティアも、ほっと胸をなでおろす。
 石が砕けた砂埃の舞い上がりに象られるように、東風谷の周囲には彼女の体を包み込む球形の風のフィールドが展開されているのが見えた。石の槍はその風のフィールドに突き刺さった境界面から先が、まるで鑢で削り落とされたかのように姿を失っている。風のフィールドの中央で、東風谷は涼しい顔でグォダ=ニャマムを見据えている。

「天狗だか守矢だかハクレイだか知らないが、邪魔をしないでもらおう。私が山に住み着くことでこの世界にどのような悪影響が及ぶかなんて、私には全く関係のないことだわ。お前達が|略取《そう》してきたのと同じようにね。もし、このゲンソウキョウとかいう次元界に私が悪影響を及ぼすなら、諏訪の巫女、お前はどうするというのだ」
「不本意ながら、あなたには……二度目の死を迎えていただきます」

 そう言うと、守矢の巫女は御幣の構えを攻撃的な戦闘モードに切り替えた。なるだけ垂直に立てて用いられ、先端を何かに向けられることのない御幣を、斜めに、そして先端を対象、つまりグォダ=ニャマムに向けている。体軸と足の運びもそうだ。グォダ=ニャマムにむけて、右肩を前に出し斜めになるように立つ。儀礼的な|構え《スタンス》とは明らかに異なる。何より、纏う雰囲気に棘が立っていて、彼女の周囲に立つ風一枚一枚に、刃が含まれているように変化している。彼女の立つ足元は、グォダ=ニャマムが冒し乱した地質とは明らかに違っていて、静かに密やかに力を蓄えているようだ。

「風……吹くのか」

 先程風を向けられようとして、しかし不発に終わったキスメが、疑問の声を上げる。

「さっきは|風神《八坂》様が寝ていただけのようですわ」
「ふん、面白い。諏訪がどれほどのものか見せてもらおう。キスメ、さがってなさい。」



§ § §



 鴉面の先端に詰めてある薬草が|御東《みあずま》の瘴気を浄化してくれていると、信じるしかなかった。燻した薬草をリソースに用いた解毒|対物魔術設置《エンチャント》による瘴気浄化機構と、汚染滓が目に入るのを防ぐ眼鏡を設けた黒塗りされた革製の面、撥水効果の高い水鳥の羽を重ねて作った羽衣、河童の作る護謨という素材でできたブーツ。肌を一切露出しない黒尽くめの肌着。今、自分の命を守るのはそんな薄っぺらな被膜一枚に過ぎない。
 地面は何故か|泥濘《ぬかる》んでいる。湿気が多い土地柄であることは承知しているが、道のあちこちに水溜りがあり土も水気が多くて泥の様相を呈している箇所があちこちにあった。水場には必ず何かの虫の幼虫が沸いていて、成虫も産卵のためにたかっている。
 悪い水の存在は病を呼ぶ、だが、この水気は病を呼んだのではなく、まるで病に呼ばれたかのようだった。空にはまた雲が湧いて曇り始めていて、きっとすぐに一雨来るだろう。こんなに雨ばかり降る地域でもなかったはずだ、|御東《みあずま》の中はどこでもこんな感じ。いっそじゃんじゃか降って虫が外に出られないような様子ならばいいものを、しとしとと降って地面に水気をもたらしてはまた晴れるのだ。虫や病を余計に活気づける。

 姉が文と行動を共にしている間、僕は|御東《みあずま》に飲み込まれた人間の里に立ち入っていた。姉たちも一度足を踏み入れているというが、特に観察対象も定めない状況視察だったらしい。姉曰く、そこで文は人間に対して偽悪的な言動を取ったという。

(人間同士で罪を被せ合うよりはマシだったとでも言うのか? そのために、天狗がただの悪者になったとしても)

 文の思考は偶に全く理解が及ばない。いや、理解できたとしても実際にそこから導き出される言動をするかという点に置いてだ。姉は、文のそういうところに、惹かれているというのだが。僕には少し、わからない。

(まあ、どのみちもう、誰も生きてはいないか)

 鴉面の浄化機構を通してもなお感じる、死体の臓腑の腐った匂い。辺り一面に、死と病の匂いが立ち込めている。この村の中はどこを歩いても感じる。死体、蝿、泥、腐臭、蝿、死体、野犬、蝿、死体、カラス、蝿、土、死体、蝿、腐臭、蝿、死体、蝿、泥、蝿、蝿、蝿。

(蝿、それに妙に蚤が多い。ダニもか?)

 蚤が媒介する病気の存在は、天狗の社会の中でも知れている。この|御東《みあずま》の実体が、蚤やダニの群の移動という可能性は、十分に考えられることだった。
 目につくのは蝿、常に視界の中を10匹も20匹も飛び回っている。それに加えて、やたら蚤とダニが多いのが気にかかった。一歩歩くごとに蚤が跳ねるのが、|肉眼で《…》見える。羽衣の上にも面にも、常に蚤がしがみついている。たらふく食べて膨れ上がったマダニの類があちこちに見える、奴等は、死体から何か得るような虫だっただろうか。
 この疫病が、空気感染するのか、精神感応するのか、あるいはこの蚤やダニが媒介するのか、もっと別のものなのか、今の天狗あるいは河童の力では解明できていない。
 天狗社会は、この疫病を「|辛痕《つらあと》」と仮称した。関係者には皮膚病として伝えられたが、これが皮膚病などではないことは明らかだ。

「皮膚病で、臓腑の内側まで傷むものだろうか」

 皮膚症状はその病態の一端でしか無いのだろう。実態はもっと深刻な病に違いがない。そうでなければこれほどドラスティックに人の里が壊滅するとは思えない。
 里の中に人間の気配は一切感じなかった。|千里眼《テレグノシス》で見渡しても、生きている者はいないように見える。

 この里は、滅んだ。

 |深道洞穴《フォール・オブ・ウィル》から漏れ出てきた不可視の病瘴領域「|御東《みあずま》」に飲み込まれて、人にも家畜にも未明の疫病が襲いかかって、為す術もなく全滅していた。

(逃げ出すことも出来ずに、ただここで死を待ったのか)

 天狗の封鎖施策によって、逃げ出そうとした人間は殺されて人目につかぬ場所で焼却されている。死体に残る異様な症状を見るに、罹患後座して死を待つその心境など、想像したくない。ぞっと背筋を凍らせたのは症状故か、天狗の打った残酷な施策に対してか。

 井戸の上に、煙のように空に色がついて見えるほどの蚊柱が立っている。普通ではない。中を覗いてみると、死体が折り重なっていた。放り込まれたのだろうか。それとも、水を求めて落下したのだろうか。そんな事があるだろうか。それにこれは、尋常の蚊では無いような気がする。ただの水辺に集まっていたのではなくこの蚊は、明らかに人の死体に群がっていた。

「うわっ!」

 覗き込んだ瞬間、井戸の中の死体からおびただしい数の蝿の群が飛び上がってきた。
 ばちばちと面に体当りしてくる蝿の音、近くて密度の濃い無数の羽音。眼鏡の上を歩き回る蝿の腹。見るんじゃなかった。

 里の半数以上の家は、火災で形を失っていた。
 この病気が暴れたり精神症状を示すとは聞いていない。集団パニックを来した可能性はあるが、それにしては住居の火災はおとなしい。もっと破壊活動が見られてもいいはずだ。
 道端にはたまに、病気の症状で死んだのではなく、明らかに他殺じみた、頭蓋骨の陥没した死体が転がっていた。一つだけではない、そうした他殺体の腐敗したものは幾つも、あちこちにある。
 木の幹に縛り付けられたまま腐敗している死体も幾つもあり、その中の幾つかは縛り付けられた木ごと燃えて炭になっていた。
 病原もわからず、伝染ルートもわからず、対応策もわからないままだった人間は、罹患した人間を私刑で殺し、患者の生活していた家を焼却したのだろう。互いに殺し合って火を付け合って、おそらく罪のない人間同士で罵り合って殺し合いまでしたのだろうか。
 人間同士が、せめて自分だけでも生残したいとその尊厳を失ってまで殺し合い、その果てに結局誰ひとり生き残らずに全滅したのだ。

 今ここに人里はない。あるのはただ、その残骸だけ。

 頭部全体を覆い、薬草を詰めた管を通る僅かな空気穴と、ガラスの覗き窓だけがついた鴉面。視界を蝿と蚤が埋め尽くし、耳に入ってくるのは無数の虫が羽ばたき跳ね歩き回る小さな音の夥しい数の密集。
 虫達にどれほどの意思があるのか、狼である僕にはわからない。虫たちと会話できるのは、彼の特権だった。彼といくら仲良くなったところで、僕には虫たちの声は聞こえない。
 僕の回りにたかってくる羽虫、少しでも足を止めると真っ先に体を這い上がってくる地虫。僕の体の、何を目指して群がってくるのだろうか。体温か。炭酸ガスか。体の匂いか。姿形なのか。血の匂いか。殺意を伴うのか。懐っこさ故なのか。それとも、何かもっと別の言いたいことがあるのか。この病を運ぶのは、虫たちなのか。

「リグル……やはり、キミなのか?」

 考えたくはない、でも、今考え得る最も可能性の高い疫病神は、リグル・ナイトバグだ。

 地面に横たわる死体の一つに向かって、僕は手を合わせる。体中に暗紫色の腫瘤をびっしりと生やしたまま死んだ死体は今は黒く変色して、無数の虫にたかられている。手を合わせて許しを請うてから、僕は錫杖を使ってその死体を暴いた。
 柔らかい繊維できている筈の衣服は今やそれでも頑丈な鎧だ、なにせ腐った屍肉は余りにも柔らかく、錫杖の先端で押せば容易に崩れて内側のじくじくと液化したような黒い何かが顔を覗かせるのだ。
 この死体の中に、何かヒントが有るのだろうか。それともそれはもう、この体を捨てて出ていった後なのだろうか。
 |月帝の飛地《MoonyBase》には、幻想郷の人智の及ばない高度な医療技術があるという。河童の使う「科学」という魔術の、飛び抜けた高等なものだとか。その手にかかれば、この疫病の正体も何もが明らかになるのだろうか。何れにしても、これが紛れもない政治マターである以上、博麗へのエスカレーションを経ないと協力を仰ぐことも出来ない。
 穴に向かうと言った姉と文は、一体何をしているだろうか。穴の付近には|彼《リグル》がいるかも知れない。

 視界の隅に、何かが入った。いや、蠢いた。こうして前方光学視野として取り入れられる映像じゃない、|千里眼《テレグノシス》のソナーに検知された、動体報告。民家の中、その中の、陶器……これは、瓷か? その内側で、何かが蠢いた。蟲ではない大きな存在が、小さくピクリとだけ。

(……!? 生存者!?)

 僕はその方へ|千里眼《テレグノシス》を集中させながら、その方へ歩いていく。
 間違いない。死体のように動かないままだったから気付かなかった。まるで、死体を塩漬けにした、これも疫病で死んだ人間からそれが伝染しないようにと人間が悪あがいた死体処理の結果なのだと思って見逃していたが、まさか蓋をした瓷の中に、子供がいるなんて。

「誰か、誰かいるのか? 生きている者は」

 いるのを知った上で、扉を叩く。応答はない。瓷の中の子供らしき姿は、肩を竦めて瓷の中で小さく体を縮こめていた。
 もしかしたら子供が逃げているのは、疫病よりも、人の方なのかも知れない。疫病の恐怖で正常な判断力と理性と道徳心を失い殺し合い火を付けた人間の方から逃れるために、瓷の中に隠れているのでは?

「……僕は、天狗だ。悪い人間を」

 ああ、これが、もしかしてこれが文のやったことの真意だったのか? 死んでしまう人間に対する今際の際の心の救済のために言った嘘だったんじゃないのか?

「天狗が、悪い人間を皆懲らしめた。もう安心していい」

 悪い人間なんて、この村にはきっといなかった。天狗は何もしなかった。何一つ正しいことを言っていない。

 瓷の中に隠れていた子供が、もぞ、と動いた。出てきてくれそうだ。まあ出てこなかったら蓋を開けて無理やり連れ出すつもりではあったのだが。
 天狗、と名乗ったことが功を奏したのは、正直意外だった。だが、それはこの子供が人間に対する反感を抱いてしまっていることの証明でもある。人間に恐れを抱くようになった人間の、憐れなことと言ったらない。社会的生き物なのに、その社会に万全で入っていくことが出来ず、死ぬまで適応できない欠陥品として苦しみながら生き続けなければならないのだ。天狗でも、同じようなことだ。

 がた

 扉が開いた。出ててきたのは、死体だった。
 いや、まず目に飛び込んできたのは、腐乱した死体二つ。その向こうから、手をのばすように戸を空けていたのは、ガリガリに痩せた、少年だった。齢、10ちょっとといったところだろうか。

(……症状が、出ていない?)

 驚いたことに、その少年には|御東《みあずま》の瘴気による疫病症状が出ていない。いや、少しだけ出ている、肌に少々の炎症が見るが、この村の状態を鑑みるとそれでも驚異的な状態だ。
 彼の入っていた瓷の中を覗き込む。ずっと蓋をしてとじこもっていたからか、外に比べて虫の数が圧倒的に少ないのは確かだ。だが、幾らか蚤は跳ねているしダニもいないわけじゃない。大中型の虫がないと言うだけだ。この瓷が病気の予防に効果を示したとは考えづらい。この狭い空間に何日もい続けたわけではないだろう、残された食物は口にしただろうし、井戸はだめになっていたが別の方法で水分は摂取していたはずだ。用だって足していただろう。外に一切出なかったわけではないだろうことを考えると、虫や瘴気、残留思念に接触もしているはずだ。
 なら、何故? 彼は何故こんなにも症状が軽い? それにこの湿疹は、同じ病状か? 死体にびっしりと巣食っている腫瘤だらけの様相とは、余りにも違う。
 彼はどうしてかこの村を捨てて逃げるという選択をせず、それによって封鎖網を敷いている天狗に殺されること無く、だがこの村の中で疫病にも村人にも殺されずに生き残った。
 どうして村を捨てて逃げなかったのか、それを聞くのはまたあとでいいだろう、会話をする余地が生じるのなら。

「天狗……」
「ああ。この村は悪い人間がはびこっていたから、僕たち天狗が、天罰を加えた。見ただろう、あの人間たちの、恐ろしい姿を」

 少年は険しい顔をして黙ってしまった。何を見たのだろうか、わかったようなセリフを吐いては見せたが、ただのはったりだ。疫病に冒された深刻な腫瘤を蓄えた外見のことを指しても、あるいは互いに殺し合ったり火を掛け合うような理性を失った姿を指しても、恐ろしい、という言葉を出しておけば外れはしまいと思ってそう言っただけだったから。

「天狗は、なにしにきた」
「迎えに来た」

 流石に、回答が短絡的すぎるだろうか。迎えに来た、と言って、どこに連れて行く宛があるわけでもない。それ以前に、突然現れた天狗に付いていくだなどと言うだろうか。
 少年は、じつ、と僕を見る。目には、光がない。きっとその目で見たくもない人間の醜態と、それらが腐り果てて死ぬのを目の当たりにしたのだろう。それが元々この少年の目なのか、あるいはここ数週間で失われたものなのか、僕には知る由もない。

「もう人間は懲り懲りだ。どこかに連れてってくれるなら、どこにでもついてく」
「ここはお前の家か?」
「ちがう。死んだやつの家に隠れてただけ」

 そうか、この少年が瓷に隠れていたのは、村人がこの少年を「病気を運んできたヤツ」と断定して探し回っていたからだろう。死体が扉の前に固めて転がっていたのは、少年を探していた生存者を遠ざけるために彼が運んできたものかも知れない。少なくともそうした効果があって、彼は殺されずに生き延びている。
 人だけではなく、病気も彼を殺さなかった理由は、不明のままだが。

「俺は元々この村の人間じゃない。ちょっと前にここに流れ着いただけだ。どこにいったって、同じ」
「そうか」

 少年をよく見ると、少し、異国情緒のある顔の作りをしている。少々彫りが深い印象があり、暫くまともに食べていないために痩せこけてはいるが骨格自体はガッチリしている。そのせいで、他の住人よりも手足が短くまとまっているような印象を受ける。
 元々この土地の人間ではないと言っている。この疫病は、|深道洞穴《フォール・オブ・ウィル》のから湧き出す|御東《みあずま》がもたらしたものであって、彼が病気を運んできたわけじゃないことは明らかだ、そこは心配するところではないだろう。

「お前と一緒にこの村に来たやつはいるのか」
「いるけど、殺された」
「病気にはなっていたか?」
「なってない。俺と、父さんと母さんは、なってない。でも、この村の奴らに殺された。流れ者だから」

 流れ者がだから殺されたのではなく、誰でも良かったはずだ。この疫病の責任をおっかぶせてしまえる誰かなら。
 だが、もしかすると疫病にかかっていないか、症状が軽いのは、その血筋のせいかも知れない。父親も母親もかかっていないというのが本当ならば、彼の症状が薄いか全く無いかどちらかなのは、ある程度信憑性がある。

「とりあえず、行こうか。この村に用なんてもう、無いだろ? それとも、ご両親に手を合わせてからにするか?」
「いい。焼かれてどこにいるかわからない」

 少年は首を振った。あまり悲しそうに見えない、父母のことだと言うのに。普通はもっと悲しむところだろう。もう十分に悲しんだ後なのか、そのための感情を枯らしてしまったのか。

「……そうか。じゃあ、これを着て」

 僕の着ているものと同じ防護服だ。防護というよりは、変装の目的だが。この黒尽くめの防護服なら、中が人間だとは一見してもわからないだろう。天狗の連れ合いだと言って逃れられる可能性もあるし、もしあの瓷の中にいたことが本当に疫病を回避した理由だとするなら外気に余り長い間触れさせないことも対応の一つとしては必要だろう。

「どこに連れてってくれるの」
「悪いものが、いない場所さ」

 僕がそう言うと、少年は少しだけ、表情を和らげた。こんな胡散臭くていかがわしいセリフに対して。
 そんな場所、この世界のどこにもないというのに。



§ § §



 もう一度阿祖神社に向かおうと外に出た瞬間、目に飛び込んできた光景に我が目を疑った。

 顔や腕だけではない、全身の肌が葡萄を敷き詰めて並べたように膨れ、その多くが割れて血を流している。多くの人が半裸のままなのは、この状態で服をまとうことが苦痛だからだろうか。頭髪が多く拔けているように見える、その腫瘤は頭部にまで広がっていた。毛穴が機能を失ってしまったのだろうか。目は血走って赤いが、瞼にまで生じたそれのせいで最後まで開くことが出来ないのか半開きの奥深いところから赤く染まった目が覗いているように見える。唇には腫瘤は出来ていないが、疥癬のようにひび割れて、血を流している。それ以外の肌はより異様な状況だ、表皮も真皮も通り越しその内部の肉質までが不完全に角質化して、そしてぱっくりと傷口を割っている。粒状の腫瘤と腫瘤の間には、肉の奥深くまで食い込んだ、それはもはやひび割れと言うよりも溝となって刻まれた切れ目が不規則に走り巡っている。肉の深い部分まで中途半端に角質化して柔らかい肉と触れて痛みを撒き散らし、まだ生の肉で残された部分が裂けると血管が千切れて血を噴いている。
 半裸で歩いているのが肌が何かに触れるのが辛いからだとすると、合点がいくことがある。歩き方が歪なことだ。ガニ股に開いた足をゆっくりと前に出して歩いている。ピアノを引く真似でもしているように肘を上げて腕を開き、手を幽霊のように前に垂らしている。ゾンビウォーク、なんて言い方をしてしまうとハロウィンの演物のように聞こえてしまうが、どちらかといえば……原爆投下後の酷い熱傷を負った瀕死の人の流れ、直視に耐えない状態の人達が列をなしてどこかを目指し、のったりと歩いている。
 その列の中には、「竜宮」で日帰り入浴していた男女の集団も混じっていた。全身にはびこった腫瘤に皮下組織から押し上げられて破れめくれ上がった姿では、それが彼等だと気付くのにやや暫くかかってしまった。

「こ、れ、なに」

 無意識の内に、アミちゃんと手を繋いでいた。お互いに手を探りあって、触れた指先の感触で安心を求めるみたいに、絡め合う。だが、思わず顔を背けてしまった私と違って、アミちゃんはその列を直視したままだった。まるで、火事の現場で炎に見惚れてしまっているみたいに。でも、それにしてはなんだか表情は固い。
 原爆投下後の、とは表現したが、列を成してどこかを一直線に目指す、腫瘤だらけの半裸の人達の姿は異様ではあるものの、建物が全く健在であるということが、一層に異様さを増して見せている。戦禍よりもゾンビを感じたのは、恐らく建物が残っているためだ。

「|辛痕《つらあと》です……」

 アミちゃんが、血塗れで疱瘡だらけの人達の姿を、じっ、と見ながら呟いた。

「えっ!?」

 慌てて自分の腕を見る。確かに炎症は残っているが、|道《すすむ》君が言った通り、既に収まってきていた。まて、もし天然痘のように、一旦収まってから全身への拡大が出るような病気なら。
 まずい、と思ってアミちゃんの手を払って離そうとしたが、彼女は想像以上に強く手を握ってきていて離れなかった。

「アミちゃん、私……! うつっちゃったら」
「サユリさんは大丈夫です。」
「そんなこと、なんで」
「……大丈夫です。私が保証します。」

 視線を、病人の列から離さないまま、大きくはないが強い声で、言った。
 アミちゃんが何を言っているのかよくわからない。でも、彼女はそのまま、まるで何か決意でも秘めているように、そのまま私の手を引いた。

「行きましょう」
「えっ?」
「阿祖神社です。いえ、その前に、資料館かな」
「ちょっと、まって、こんなときに」

 私が状況を理解しないまま、彼女は車のエンジンを掛けた。車内から乗って、と視線を送ってくる。私は促されるままに助手席に乗り込んだ。







 ゾンビ映画と違うのは、病人達が発病していない人間に襲いかかってこないことだろう。戦禍映画の方が近い、と思ったとおりであったし、その分、後ろめたさもひとしおだ。ゾンビ映画なら、フィクションだからと笑って終わらせられるが、車の外に広がっている光景も、対照した戦禍映画も、そういう訳にはいかないのだから。
 車を流している間にも、幾らかは発病していない人を見かけたが、何れも顔色が悪いようで、その人達と同じ様に列をなしてどこかに向かって歩いている。

「神社に向かってるんです」
「えっ」
「|阿波戸《あわと》での|辛痕《つらあと》の|大流行《エピデミック》は、大昔には、定期的にあったことのようです。その度に、村の人は神社に神頼みに行ったのだといいます」
「それって、|阿波戸《あわと》の|祝主《しゅくしゅ》さんが、病気にかからない聖人だからっていうこと?」
「……そうです。」

 私が、実際に資料館で|道《すすむ》君と思い至った推理を言うと、アミちゃんは少し迷うようにしてから、一言肯定した。そうなのか、やっぱり阿祖神社の|祝主《しゅくしゅ》という神職は、|辛痕《つらあと》に耐性を持った人間。

「|祝主《しゅくしゅ》っていうのは、|辛痕《つらあと》と併発しない寄生虫症に、進んで罹ることを選んだ一族って……これは私の仮設だけど」
「そうかも、しれません」

 そうかもしれませんって、それってそうだって肯定しているようなものじゃない。アミちゃん、何を知っているんだろう。おばあちゃんから聞いたという昔話に、何かあるのだろうか。

「アミちゃんのおばあさんが、そのことを何か言っていたの?」
「大体、サユリさんが仰ったようなことです。『神様を飲み込むんだ』って、妙なことを言うものだと思っていたんですが」

 それ以上は、お互いになんとなく言葉をつぐんでしまった。車を流し、神社へ向かう道から旧役場庁舎へ向かう道に別れてからは、減ったとは言えそれでも人の列はまだ見える。それが視界に入ってくる限りは、陰鬱な気分がどうしても付きまとう。
 せめて意識だけでも違うことに向けようと、会話を振ってみる。

「|阿波戸《あわと》を治めていた阿祖神社の神様は、|塞《さい》の神様だったんだと思う」

 阿祖神社についての、もう一つの所感だ。

「サイですか。角が生えてるから、鬼とか、強そうですしね」
「うん? 角?」
「サバンナにしかいないと思ってたんですけど、昔は日本にもいたんですね」

 おう、こんな時でもやってくれるなアミちゃん、さすがだ。

「ごめん、動物の|犀《サイ》じゃない。塞ぐ、って書くの。お城とかの要塞のサイ。その当時はまだ犀は日本にはいないね」
「あっ」

 真っ赤になって俯いてる。可愛いなあ……。いや、俯いてないで前見て運転して?
 まあ、犀がいなかったっていうと、因幡の素兎の話に出てくる和邇ってのが何なのかっていう話題にもなるのだけど。

「土蜘蛛と、ミシャグジ様は、本質的に同じものなんだと思う。恐らく両方共、塞の神として祀られる経緯を持っている。土蜘蛛は、神様にはなれなくて、妖怪にされてしまったけれど」

 ミシャグジという神様が実態を持たないものだという説がある。実態を持たないというのは神ではないということとは少し異なる。
 諏訪には元々縄文時代から祀られてきた「モレヤ」「チカト」「ソソウ」という神様がいたが、それが後にミシャグジという神様一本に習合されたのではないかと言うものだ。大和朝廷が諏訪地方を平定し、土着の神々をタケミナカタに関わる形で取り込んだ際に、「この辺にいた神様みんな」を一括りに「ミシャグジ」と呼んで倭の神々の背後に見えるように置き公然の秘密として伝えることで、諏訪に棲んでいた人々の抵抗を抑えた、あるいは一定の距離を保つための目印にしたのではないかという話。
 何故一つにまとめる必要があったかは、恐らく神話として語る際によくある同一化と同じ変遷を見るものと思うが、人々の伝承の中でその方がつようが良かったのかも知れないし、語られてく中で「今となっては何が含まれたんだかわからない”系”」が「正体のわからない”個”」の名称にすり替わってしまうというのは想像に難くない。
 それらの神系全体をそのときに含まれた一柱のモレヤなどに集約せず、何故かミシャグジという別の神を立ててラッピングしたことは特殊な例で、つまりミシャグジは独自の神というよりはそうした経緯で祭り上げられた「境界性の神格」であるという。地理的な境界、民族的な境界、宗教的な境界、政治的な境界、それらを間に存在し、間隙を埋めて緩衝するために出来上がった特殊な神だということだ。
 こうしたミシャグジ観ではミシャグジは所謂「塞の神」と位置づけられており、クナドと呼ばれる立ち入り禁止区域を表現した神格あるいはその境界の守り神とされている。クナドは「岐」と書き文字通り道の分かれ目のことだが、同時に「来な処」であり、来て欲しくないものを迷わせて立ち入らせない立入禁止祈念の形を持っていた。縄文時代には戦乱が頻繁だったわけではないのだから、来て欲しくないものの最たるものは、当時は疫病神だっただろう。
 「ミシャグジ」という神様の中には「モレヤ」「チカト」「ソソウ」あるいはアラハバキと呼ばれる者(達)も含まれるのかも知れない。アラハバキの正体も今以て謎のままだが、長髄彦ひいては物部氏とつながりがあるとされ、やはり縄文の匂いがするものだ。

「同じ人間なのに、神様になったり、妖怪になったり、よくわからないですね」
「長い歴史の中での変遷だからね。私やアミちゃんみたいな一人の人間が、その短い人生の中で、誰かと別の誰かを指して急に別物だと差別しはじめた、っていうのとは少し違うのだと信じたいけれど。まだ科学なんてなくて、神様とか呪とか、そういう物で世界が動いていた時代だし」
「でも、手があって足があって、二本足で歩いてて髪の毛があって、って姿を見たら、仲間だと思わないんでしょうか」
「元々、人種とか、血筋とか、棲んでいる土地とか肌の色とか目の色とか体の大きさとか、それと話す言葉とか、『自他を区別するもの』がそういう小さなものだったんだと思う。人種区別の変遷と認識の変化と科学技術の相関か、アミちゃん面白いこと言うね」
「何も言ってませんけど……」
「ま、だから、あっちから来た人間の男と、こっちから来た人間の女が、とある場所で出会ったら、『時代を越えた素敵なボーイ・ミーツ・ガール』じゃなくて、『森で熊と鉢合わせた恐怖体験』とかと同じレベルだったのかも知れないってこと。もちろんそのまま『言葉もわからない相手と体だけのめちゃくちゃセックス超気持ちいい』したってのもあるかも知れないけど、それは長い歴史の中でそういうことが、あったかなかったか、というだけの問題だと思う」
「サユリさん、それ、セクハラです」
「ええっ、女の子同士じゃん、いいじゃん?」
「そういう問題じゃないんです。 サユリさんってほんと男の人っぽいですよね、そういうデリカシーの無さとか」
「ご、ごめん……」
「そりゃ確かに、あったばっかりで、めちゃくちゃセックスしましたけど……?」

 今言うの、それ。周りゾンビだらけなのに密室でセックス始めてそのままカップルで食い殺される役のフラグじゃん。乗らないよ? それ乗ったら死亡フラグだから。ああっ、でも、これ我慢するのツラっ!

「コホン……。|阿波戸《あわと》に住んでいた神様は蛭子神に習合はされちゃっているけど、元々はそうした「境界性の神」だったんだと思う。この土地特有の疫病を祓うというご利益は塞の神の性質を源流に見て、それほど的外れとは思えないし。それとは別に、縄文性の神格であり今でもこうして細々と残っているくらいに存在感があったのだろうことを考えると、恐らくは大和朝廷の進行を遮る縄文文化の地域として存在していたのも、想像に難くない。この地理的な境目だったってこともあるし、この|阿波戸《あわと》の阿祖神社に祀られた神は、境界性の神、つまり塞の神だったと思うの」
「倭の進行を遮っていたってのは、ツチグモって縄文人の?」
「たぶん。土蜘蛛という呼び方も、境界性の存在と似たような役割をしているの。地理的時間的な緩衝として倭とそれ以前の人間たちの境界に存在する人々」

 |今日《こんにち》残っている「歴史」というものは、全てその記述者を主観とした「認識された外部」でしか無い。認識というのはそもそも、そうした外部との「境界」にしか働かない。境界なしにその本質や統一を見ることなど、少なくとも人間には出来ないことである。全ての「存在」は本質としてその形で自ら存在するのではなく、外部との境界線によって輪郭を区切られることによって排他的にのみ存在するという哲学的観点があるし、それはそのとおりだと思う。
 視覚一つ取ってみても、人間の目はそれそのものを見ることが出来るわけじゃない。視覚というセンサーは対象そのものの姿を捕まえるのではなく、対象に反射した光を感じているに過ぎない。音はそもそも発声源からの信号でしか無いし、触覚に関してもそれを通じて理解できるのは触れ合っている表面だけだ。人間の認識は対象の本質を捕まえるように出来ているのではなく、自と外、それに、外と他、のそれぞれ境界を浮き彫りにするようにしか出来ていないのだ。
 歴史においても、そうなのだろう。境界性の神というのは、歴史という一つの「自己」から見たときの「外部」「他者」が認識された姿に、時系列が付与されているだけのものなのだ。それが対象の全てでは、決して無い。

「そういえば|阿波戸《あわと》では不思議な形になっているヒルコ神だけど、由来を素直に読み解けば、さっきみたいな『ボーイ・ミーツ・ガール失敗談』の最たる例のような気もするね。ヒルコと縄文をつなげると、イザナギとイザナミの出会いが、倭民族と先住民族の出会いとか、弥生と縄文の邂逅とかって見做して、その融和の失敗としてヒルコやアハシマが生まれたって比喩も、気持ちのいいものがあるなあ」
「気持ちいいですか? 可哀想な気も」
「ああ、その、ゴメン、この感覚ってオタクじゃないと通じないかも……」
「はあ」

 数学の数式がぴたっと解けたときとか、推理小説を読みながら想像がバッチリ当たってたとか、そういうカタルシスと近いかも知れない……けどいちいち説明するのもなんか、相手に対してマウント取ってるみたいで嫌なのでやめといた。
 ヒルコやアハシマという神様と同じように土蜘蛛もまた『出会いの失敗』として描かれうるものかも知れない。境界というのは摩擦を孕むもので、摩擦が心地よいものか痛いものかと言うと殆どが痛いものばかりだ。不具の神として描かれたり妖怪にされてしまったり、しがちなのかもしれない。鬼八にしろ、|両面宿儺《リョウメンスクナ》にしろ。その点で言えば、ミシャグジは非常に上手く取り入った形になっている。
 実際に、土蜘蛛、と呼ばれる何か固有の集団がしっかり存在していたわけではない、強いて言えば何らかの形で存在した縄文人ということになるのだろうが、実態はただ「倭以外」ということになる。
 そもそも縄文時代と弥生時代、縄文時代と倭の時代、縄文人と弥生人、縄文人と倭人、日本人と渡来人、は境界をともにしないと思っている。縄文時代と弥生時代は、地学の問題だ。縄文時代と倭の時代は、古代政治の問題だ。縄文人と弥生人は日本史の問題で、縄文人と倭人の問題は生物学の問題、日本人と渡来人は地政学の問題だと思っている。実際には、縄文時代を生きた倭人はいただろうし、大和政権の中で政治的権力を持った縄文人はいただろう。
 マンモスハンターなんて呼ばれてる古代先住民と、|饒速日命《ニギハヤヒノミコト》に連なる人々、それから|瓊々杵命《ニニギノミコト》から連なる人々。実際にはもっとたくさんの奔流があったのかも知れない。仮にこの三極を無理やり縄文と弥生に分けるのだとしたら、|饒速日命《ニギハヤヒノミコト》に連なる人々をどちらに振り分けるか、あるいはどう真っ二つにするのかという問題になるし、でもそもそも縄文と弥生、日本人と日本人以外を分けようとする試み自体が、さほど重要な問題ではないのだろうと私は思う。
 それでも、というのなら、私はこの|饒速日命《ニギハヤヒノミコト》に連なる人々を、「実体を持った」境界性の存在として位置づけたい。そして、そうした二極化の区分をしようとすることの方が「実体を持たない」認識として、非難したくもなってしまう。
 「○○は土蜘蛛と呼ばれていた」という記述は可能かもしれないが「土蜘蛛とは○○である」という必要十分な記述は出来ないのだ。ただ、幾つかの集団の持つ特徴を多重継承した曖昧な抽象クラスでしか無いのだ。
 土蜘蛛という存在は、自らの存在で自らの存在を説明しうる主体ではない。

「|辛痕《つらあと》って病気の正体が今ひとつわからないっていうのは気持ちが悪いままだけど、とにかくこういう病気がこの土地にあったのだとすると、村をクナドとしておくために、塞の神を祀ったっていうのは一つ説得力があると思う」
「そうですね」

 まばらになってきたとは言え、まだチラホラと見える、発病者。どこで感染したのだろうか。|阿波戸《あわと》中の人が一斉に発病するなんて、どんな病気であったとしても普通のことじゃない。まるで人為的に引き起こされた、バイオテロのようだ。
 こういう考えは不謹慎だけど、自分に発病しないらしいことを考えると安心する。これがどんな病気かはわからないが、こうなれば日本政府もこの土地を否応なく視野に入れる必要に駆られるし、阿祖神社っていう歴史的経緯を調査すれば、きっと直ぐに解決するだろう。治すことは出来ないかも知れないけど、封じ込めくらいは出来るはずだ。

(封じ込め、そうか、封じ込めてしまうというのも、ある意味では塞の神のご利益と同じだな)

 なんだか、皮肉めいている。

「……まあ、分かれ道に犀がいても、厄病神だってそっちには来ないだろうね」
「サ〜ユ〜リ〜さ〜ん〜 ……イジワル」
「犀じゃないけど、音と意味が切り離されないっていう観点で、塞のサイは、サビ、錆でつまり鉄を指すっていう説もあるよ。鉄は弥生時代になって大陸からもたらされたって言うのが一応の主説だけど、実は最近、縄文時代に既に国内で鉄を生産していたっていう説が出てきてるんだ。諏訪の神様が縄文の神様の中でも強力だったのは、既に鉄を使用していたからだとも言われてる。ただ、赤くて目立つ酸化鉄を集めて低い温度で溶かして作るものだったから、弥生時代に大陸から伝わった製鉄技術のそれよりあまり質が良くなかったみたい」

 ちなみに古史古伝という書物に|緋緋色金《ヒヒイロカネ》と呼ばれる金属が登場するが、これはクロムと鉄の合金、つまりステンレス鋼に近いものだったのではないかという見方がある。化合する相手により様々な色を示すクロム(元々クロムの語源は色という言葉)の内、二クロム酸塩などに見る赤を指して緋緋色としたのかも知れない。|緋緋色金《ヒヒイロカネ》と同じ様な性質を持つ金属で竹内文書などの一部の書物に登場する|青生生魂《アボイタカラ》があるが、こちらは青色を示していて、クロムの様々な色があるという性質を彷彿とさせる。何れも錆びない、磁石にくっつかない、熱伝導が良い、などのステンレスとの共通点も見られる(クロムやニッケルの配合を変えた場合には錆びたり磁性を帯びたりする)。ちなみに、古史古伝にせよ竹内文書にせよ、偽典とされていて史実としては認められておらず、双方とも実在の金属とはみなされていない。
 国内のクロム生産は|今日《こんにち》殆ど行われていないが、最大の産地は鳥取だった。つまり、出雲である。
 既に鉄を使用していた諏訪の神々を打ち破ったのは、ただの上質な鉄ではなく、偶然に生産されたステンレス鋼だったのでは、というのは少しファンタジックすぎるだろうか。

「でもさ、サバンナにしかいない犀が日本にいたかも、っていうのは、正直言って私はロマンあるなあって思う。個人的には、だけど」
「……今更取ってつけたようにフォローしても、サユリさんが意地悪なのには変わりありませんからね」
「ちょ、ちょっとだけフォローさせてよう」
「はいはい。学者先生のフォローを聞きましょうか」

 学者じゃないんだけど……。

「元々、ホモ・サピエンスってのはアフリカで生まれたって言われてる。そっから、ヨーロッパとか、中東とかロシアとか通って、はるばる日本に来たってわけ。その間で、ホモ・サピエンス以外の別の人間と交雑していて、日本にもその地が一部流れてきてるって、夢見てるんだ。」
「他の人間?」
「ネアンデルタール人とか、聞いたこと無い? 滅んじゃったって言われてる人間」
「ああ、聞いたことはありますが」
「滅んじゃったって片付けるのは簡単なんだけど、最近はホモ・サピエンスはネアンデルタール人と交雑してたって説が有力。だから、日本にもその血がほんの少し混じって届いたんじゃないかなって」
「縄文人に、ネアンデルタール人の血が混じってるってことですか?」
「血、っていうか遺伝子かな。しかもほんの少しだけど。でも、もしかしたらすごく低い確率で突然変異的に先祖返りして西洋風の顔つきのひとが現れたとか、あるいはヨーロッパに住み着いた人たちと分岐する前に語られていた伝説とか神話の断片が、その移動の経路に置いてきてあるんじゃないかって、夢見てるの」

 今の所、つながりが見いだせているのは遺伝子型という物証が残せる人種の移動と、語族という考え方だ。神話の中に見るいくつかの類型は見出されているが、人種や語族に付随するものとしてしか扱われていない。具体的な神話や宗教的な色を帯びると、急に日ユ同祖論のような眉唾説になってしまう。

「ええっ、日本人にいきなり金髪の人とか、肌の黒い人とか、白い人とか、いたらびっくりしますよ」
「そう、だから鬼って呼ばれて排斥されたんじゃないかって。もちろんこんな説はないけどね。鬼ってのは、せいぜい渡来人か何かだと言われているけれど、結局今でも判然としていない。白人の肌はそのまま白といってもいいけれど、素直に裸を見れば赤みたいなものだし、古代の基準では黒も青と混同していい。あるいは青人っていう人種がいたなんて言い伝えを残す神社だってあるの。蒙古斑って紫だからその名残じゃないかなんてのとかね。赤鬼青鬼がそこにいそうな感じがしない?」
「さすがに、しませんけど」
「……だよねー」

 縄文時代と同じ時期、大陸では十分に文明らしいものが存在して記録が残っていたりする。かつては縄文時代には文明はなかったと言われているが、最近の研究では文明らしい大きな人の営みがあったという説が有力になってきている。もしその両者に同じような神話や宗教があったとすると、それは人間が大陸を移動する分岐前に持っていたその共通点なのだろうと思う。もしかすると、本当に西洋に残っている神様と同じ神様が、日本にも別名で残っているのじゃないかって、思う。

「でも、なんか面白いですね、そういうの。もし本当なら、国境とか宗教とか人種で喧嘩してるのが、馬鹿みたいに思えます」
「うんうん。海に囲まれてたちっちゃい地域だし、きっと人種の流れとしては端っこでそれ以上環境による変化が生じなかったからかも知れないけど、そのせいで日本では人種・民族間抗争が無いって言われてる。でも実は昔にはきっとあって、早い段階で終わっちゃっただけなんだと思うんだよね。そういうものの名残が、こうやって見えるのがすごく楽しい。……今は楽しいなんて言ってる場合じゃないけど」
「その、つながりかも知れません」
「えっ?」
「サユリさんや、私が、|辛痕《つらあと》に罹らないの」
「そうなの!?」
「いや、なんとなくそうだったらなって」
「ああ……。うん、そういうのもあるかも知れないね。鎌形赤血球がマラリアに対する抵抗力が強いってのとか、学校で習うけど、ああいうのが、あるのかもね。」

 びっくりした。真相知ってるのかと思ったじゃん。
 残念なような、安心したような、複雑な気分。

「おばあちゃん、そう言えば死ぬまで金髪にしてたな」
「マジで」
「金色は福を呼んで厄を払うんだ、なんて言ってました。実際に温泉掘っちゃったんだからそのとおりかも知れません」
「ふふっ、そうだね」

 アミちゃんのおばあちゃん、生きてたらヒントの詰合せみたいな人なのになあ。この件にかかわらずとも、昔のことを知っている人というだけで、私の「悪趣味」の点で、お話してみたかった。

「ところでさ」
「はい」

 いい加減、切り出してもいい頃だろうと思って、思い切って聞いてみることにした。いや、思い切ってっていうか当事者なんだから知る権利くらいあるのでは!? 運転してるの私じゃないけどさ。

「なんで資料館行くの?」

 アミちゃんは、人の流れが神社に向かっていると知っていながら、行き先を旧役場庁舎に指定したのだ。理由があるに違いない。

「あそこの子、怪しいと思いませんか」
「えっ、いや、いい子だと思うけど、可愛いし、素直だし。ちょっと背伸びしたがりな感じとか」

 じっ、と見つめられる。なんか目が緑色に見えるんだけど……私ショタコンじゃないしこれは年上女性として素直な感想であってえっと。

「ああ、いや、怪しいって、何が?」
「まず全然成長してない感じ」
「まあそういう子もいるじゃない」
「あと、どこに住んでいるのかわかりません、というか、あの資料館に住んでるみたいです」
「えっ、わざわざ鍵を開けに来てるってゆってたよ?」
「それが怪しいです。サユリさんを騙そうとしてる」

 なんで? え、ていうか、ちょっとアミちゃん怖いよその発想。

「サユリさんが行くようになってから張り付いてみていたことがあるんですが、一度も敷地を出てこなかった」
「え、アミちゃん何してるの……スト」
「元々奇妙な子だと思ってたんですが、サユリさんがご執心なので私も気になってしまって」

 そういうアミちゃんの表情は、興味があるというよりもなんだか、怖い無表情だ。

「確かに、妙に賢いっていうか、知識があるっていうか、見た目のとおりには思えないけどさ。で、これから行って何になるっていうの? |辛痕《つらあと》の原因を知っているとでも」
「どうしてサユリさんに近づくのかしら」

 ……マズい目をしている気がする。運転している横顔からでも、なんだか怖みを感じる。
 なんだか掛ける言葉を失ってしまう。もしかして、疫病大流行のパニックシチュエーションで、ストーカー女の勘違いで修羅場、なんて笑えないギャグは勘弁してほしいよ? っていうかアミちゃんそういう人?

(いやいやいや、今んとこそんな素振りなかったし凄いいい子だし、今回は誤解を解けば)

「サユリさん」
「は、はい」

 突然名前を呼ばれて、変な声で返事してしまう。アミちゃんの方を見ると、前を見てしっかり運転をしながらもその表情は、どこか深刻に思いつめているみたいで。そして飛んできた言葉は。

「ごめんなさい」
「はっ?」
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【20180501】誤字を修正
【20180513】⑧の投稿にあたって、ここにあった後書きを⑧へ移動。
みこう悠長
http://monostation.blog112.fc2.com/
コメント




1.性欲を持て余す程度の能力削除
ついにあかされた花鹿と穂多留比が袂を分かつ決定的な因縁。自分勝手な優しさと欲望がない交ぜになった好意は、打ちひしがれるに十分な時代の流れという暴力の結果、果たして歪んだ形でしか届かないで……言葉も体温も不完全すぎる、やっぱり人類補完しなくちゃ(使命感)
マイマイ飲まされちゃう金髪の子かわいそう(アーチ状に目を歪ませた赤面で股間を押さえつつの発言)。あんなことがあっても女を捨てきれないのは残ったのがそれだけ、であれば仕方ないというか、賭けとはいえ穂多留比くん結構えげつない精神攻撃ですねぇ。そりゃあ行為中に罵倒がやまないのも致し方ない
王命の重さで望まぬフェラを強制させられているものの、短い期間に仕込まれた(脅されたというべきか)技術を使う幼女って不幸なんだけどこう、いい……庇護欲もあるのですけどはしたない音を立てながらよだれが伝っていくのとか絵面的に大好物ですよふぅ…時折に口を離してにおい嗅ぎながら(嗅がされながら)雄を意識しちゃうのもいい。子供なのに散々掘り返されそして産まされたことで熟れきった部分を持っているギャップがなんともクるものがありますね!しかし花鹿、「出すならこっち」だと…(ビキビキ)出すならこっち警察になって作中の場面に殴り込みそうになりましたが穂多留比くんはわかってらっしゃる
大量のぶっかけで顔面汁まみれになっちゃうの背徳的で好きです(ザーメンならぬザー面ですね!)。女の子の可愛さや綺麗さが鼻ちょうちんとかできて台無しになってる感がたまりません。精液うがい後の見せつける(させられる)ように開いた口なんてむっとするようなにおいがのぼってきているだろうし、歯列や口蓋にだって精液が糸を作っているに違いない、ありありと目に浮かんでくるようです
体の変化にショックを受けて吐いちゃうザーゲロ系女子はなんというか軽いリョナを含んでいるようで、ちょっと下品ですが興奮しちゃいますねンフフ……
現れた穂多留比の本性に受精欲を催しちゃう異常感がたまらなく好みで、長い口器を喉まで迎え入れて性感帯にさせられちゃうのえっろい。挿入されただけで人蟲合わせた十本脚をぴんと伸ばしちゃうのが全身を使った肉体淫語の表れみたいでたまりません(端から見ればあのちょっと鈍くさく見えちゃうリアクションが淫語系の良さとエロさだと思っております)。クリイキと膣イキを同時に味わって脚をわちゃわちゃさせてるのがギャグっぽいのに花鹿がエロいせいでずっこいですぞ!w(もしかしてガス噴射して退治してる蜘蛛を含めた虫さんたちって感じてるのでしょうか、ボブは訝しみました)花鹿の見た目(幼いヤマメなのですけど)が三白眼と幼女が合わさって某幼女な戦記の子に被ってしまいます(声も)……おちんちん痛い
緊迫のフォール・オブ・ウィルではローリーが合間に和ませてくれてて可愛いですなぁ(ちゃっかりのろけてるし)、ニャマムが彼女に取る態度がほかと比べて柔らかいのはリグルへの温情みたいなものなのでしょうか。紐解かれはじめる会話のなかでそれぞれの立場や思惑が混ざってて会話のドッチボール感がぱない。守矢の体制というか早苗の在り方は少しだけ形は違えどニャマムの目指したものと同じなだけに面白くはないでしょうねぇ、あっちは共依存でニャマムは自己補完ですけれど。ついに口火が切られた幻想郷編での〝異変〟、今回は霊夢は出張らず早苗さんが無双モードっぽい?果たしてどのような結末になるのか、気になるところです
いまのところ事態を察知していない様子の楓くんだけど、このあと彼がどのように関わってくるのかも気になりますね。彼が助け出した生き残りは宿主っぽい感じがしますが、血清でなくとも似たようなカードとして切られるのか、生き残りとしてカーテンコールの場にあがれるのか、どう転ぶのかはわかりませんがいまの纏まらない議会が平常になっている天狗社会に匿うのも危なさそうですし、本当は宿主でなく症状が遅いだけだったらという不安もやはりあるのがなんとも。佳境に入って目立たないながらも動きはじめた楓編でしたが、テレグノシスで覗きみる民意のくだりは風刺が聞いててうんうん頷くとともにちょっと刺さりました(ぐふっ)
そしてサユリ編でも動き出してしまった状況ですが、温泉の三人組、ああ……(合掌)相変わらず彼女の大胆な仮説接続が楽しく、現代側は物語の裏が補完されまくって気持ちいい。リンとクーは向こう側の記憶を持っているようで、そうであれば行き来が自由な感じなのでしょうか。どちらにせよ彼女たちがサユリとアミのふたりを助けてくれるだろうことが予想されるのでとてもわくわくしちゃいます。資料館に向かうのはやはりなにか知っている感じがしますけど、それが花鹿と裏で繋がっているのか、彼女の家系から受け継がれてきたものがあってそういうのが関係しているのかと予想が尽きませんが、謝罪の意味が絡んできそうな気がしました。立ち入り禁止の地下に赴くだろう彼女たちが得る真実はいったいどのようなものなのか、はらはらとどきどきが止まりません
穂多留比と花鹿ふたりの子供である辛痕(蛭子神?)と現代での決着がどうなるのかも注目で、祭壇にいたもうひとりの影がだれなのかが、予想としてはキスメでしょうがアのつく子だったらどうしようかとちょっと不安……本来の祝主本家を滅ぼした佐久間医師が敷いたレールを使う花鹿が言ったロリスの化身だけはいまだに予想がつかないものの、次で最後、どのような結末になろうとも楽しみにしております
今回もとても楽しめました、ありがとうございます
誤字脱字報告にて終わりたいと思います↓

佐伯って呉れ。→遮って?
体のあちこちにに痛々しい傷を負い、→にの衍字
そこ《・・》を焼き潰して止なさるがいい。→止め?
もし視線に物理的な質量が会ったなら、→あった
頬を左右から押しつ薄ようにして開かせる。→押し潰すように?
|花鹿《かじか》様の下の上をぬらぬらと歩き→舌
というよりもももう涙を流して泣いている。→もの衍字
状況に漬け込まれて、→付け、つけ込まれて
体と本能が完全に枯れのものになっている。→彼
ヨダレれを撒き散らして、→れの衍字
何故ん何万もの卵でこれを受け止めるのかも知れないが、→何千
穂多留比《ほたるび》の者性欲をさらに継続させた。→射精欲
だが、口の中に堪った白濁液を、→溜まった
左右にくつろげられた肉割れ目の奥へ伸びる、→脱字、またはタイプミスによる誤変換?
荷重のかかる重心の一から考えると、→位置
気門らしき穴から常に熱い呼気を履いている。→吐いて
自分の弱い部分に漬け込んで→付け込んで、つけ込んで
だが|穂多留比《ほたるび》の攻めは止まらない。→責め
押し出るように沸いて溢れる、→湧いた
|花鹿《かじか》はそれを受け入れるわけには行かなかった。→いかなかった
そう長くは罹らないだろうと思っていたが、→かからない
桶に備わったっては頭上でアーチを描いている。→取っ手
「危害は加えないよ、少なくとも、あの巫女よりは私の方が信用できるってもんさ。……まあ、私が敵う相手かどうかは別だけれどね→鉤括弧の抜け
この辺りにいる奴等には敵わないと言っておきながら全く不遜な態度を変えようとしないつるべ落としに、→釣瓶(表記揺れ?)
釣瓶落としが上空から目線の高さくらいにまで降りてくるに連れて、→つれて
ミスティア・ローレライは両手を挙げてゆっくりと、→上げて、あげて
「放って置いていい。どうせ奴には何もできないわ」→放っておいて?
ザグトミ片の巣は主を失い、→ザグトミの片・欠片?
改善の余地があると勘が逢えていた。→考えて?
その侵入者が幻想郷に甚大な被害を与えると認められ場合にのみ、→認められた・る
古来より星を流したかと歌われるほどに飛び交っていた蛍も、→謳われ
居住の可否はその土地の支配者にあるとに明記されています。→にの衍字、または脱字?
辻褄は遭わないが説明はつく。→合わない
東風谷も訝しむような表情を浮かべている」。→」の衍字
人々の伝承の中でその方がつようが良かったのかも知れないし、→都合

ここからが少し自信がない部分で……↓

過去の遺香といえばそれまでなのだけど、→威光?(とても迷いました、意図しての表現だったらごめんなさい汗)
もはや汚物と等しい。→汚物に?
猛威を振るってこともないんだろ。→振るう(口調による意図でしたらごめんなさい汗)
グォダ=ニャマムの求めているところを鑑みるなら、→考慮、踏まえる?(守矢が過去の彼女を知っているのでとても迷いました…こちらも違ったらごめんなさい汗)