真・東方夜伽話

はじめてのシガレット・キス

2017/03/08 03:21:56
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はじめてのシガレット・キス

歩く楽しみ

喫煙者咲夜と非喫煙者美鈴が淡くちゅっちゅする話です。
喫煙表現がありますので、お気を付けください。

 外は、身体が痺れる程に寒いだろう。窓の内側から見ているだけでそう思えるのだから。つい先程までそこに立っていたからよく理解している、というのもあるかもしれない。視界の端で影が動いた。
 それは、煙草の箱から新しい一本を取り出す動きのようだった。やれやれ、と心の内で呟きながら、私と彼女の間に置かれたマッチを手に取って、外側から内側へ擦って火を灯す。一気に燃え上がった火が小さくなって、ゆらりと揺れた。
 すっかり様になってしまった仕草で、彼女の口元の煙草に小さな火を移す。小さな火はもっと小さな火になった。彼女は一口目を細く長く吸い込んで、吸ったときと同じように、細い煙にして吐き出す。
 紫煙はあっという間に広がって、テーブルの上で消えてしまう。
「ありがとう」
「感謝よりも、本数を控えて欲しいものです」
「肺よりも耳が病みそう」
 マッチを振って消しながら、いつものやり取りを交わす。
灰皿の縁の窪んだ部分に煙草を置いて、彼女は、十六夜咲夜は、漸く私の方を見てくれた。灰皿の上で燻ぶり続ける煙草から昇る煙は、彼女が口元から吐き出すそれとよく似ていた。
 咲夜が煙草を吸い始めたのは、丁度一年前。今日のように寒い日だった。
 何処からか手に入れた緑色の箱に入ったそれを、わざわざ館の敷地外に一人立ち、不味そうに吸っている姿を、私が偶然見かけた。咲夜の話ではそれが初めての喫煙だったらしいが、真偽は怪しい。
「解りますか? 恋人の唇を、煙草以外の味で知らない人の気持ち」
「こっちからすれば、とっても甘いんだけどね」
「他人の不幸は蜜の味ですね」
「摂りすぎると毒ってことね、なんでも」
 私がいくら言ったところで彼女が煙草を辞めてくれる訳じゃないことなんて理解している。それに、そもそも本気で辞めて欲しい訳じゃない。明日が春だったらいいのに、なんてことは本気で念じるものじゃない。
 だからこれは、そういう遊び。私と咲夜の共有された秘密の遊戯。
 二口目を吸い込んだ彼女は、先程よりも長くそれを肺に溜めた。本人曰く、儀式のようなものらしい。私はちゃんと煙草を吸っていますよ、と誰かに言い訳するための。
 そうして吐き出された煙は、今度は先程よりもゆったりと、外で吐く白い息のように空気に混じる。彼女の喉や肺に長く触れ、汚して出ていく悪魔の煙。別に、それに嫉妬するつもりもない。
「んー」
 お揃いのグラスに注がれたウィスキーを舐める程度に流し込んで、咲夜は唸るようにその声を上げた。
「どうしました?」
「やめられないなぁ、って思って」
「知ってます」
「お酒の方よ?」
 咲夜はグラスを摘まむように持って揺らし、氷がカラカラと小気味良い音を奏でた。咲夜の表情は、たまらなく素敵な笑顔だった。グラスの中身が酒じゃなくて、もう片方の手にあるものが煙草じゃなかったら、もっと少女らしいのに、と思った。でもやっぱり、可愛いものは可愛いと思わされてしまう辺り、私の方が実は少女らしいのかもしれない。
 そんな嘯きをかき消すように、私は自分の分のグラスを傾けた。独特の、木樽に似た香り。苦手ではないけれど、どうにも薬っぽさを覚えてしまって愉しもうという気分にはなれない。しかしどうもこれが最近の彼女のお気に入りらしく、付き合っていたらほんの僅かだけ慣れてきているのも事実。
「ねぇ、美鈴」
「なんでしょう、咲夜さん」
「ごめんね? 私、本当にちょっとは申し訳ないって思ってるのよ」
 これは、彼女の口癖だった。嘘じゃないことを知っているせいで、聞き流すこともできない口癖。しかも、これを言うときの彼女は、少女というよりも子猫のような表情になる。酒と違って慣れることのできないその表情に、私は目を逸らした。
「横顔も素敵よ美鈴」
「見えなくても素敵ですよ咲夜さん」
 短く吸って吐く音が聞こえた。その匂いが鼻に届く。匂いに関しては、最早慣れを通り越して日常だった。何せ一年間、或いはこうして肩を並べるようになって数か月、この匂いを嗅ぎ続けてきたのだから。
 咲夜には決して言わないけれど、悪くないとさえ感じるようにすらなってきた。
「うぇ」
「どうしました?」
「葉っぱが口に、ね」
 振り返ると、いかにも不味そうな顔で咲夜が舌をべっと出していた。彼女自身の指先が、赤くて短いその舌先に触れて小さな侵入物を取り除く。
「貴方の手で取ってくれてもいいのに」
「それだけじゃ済まなくなりますよ」
「……あー」
 葉の欠片を灰皿に捨てた咲夜の手が、グラスに伸びた。ぐい、と注いだ量の三分の一程を一気に飲み干す。流石にあれを真似できる程、私はウィスキーの味に慣れてはいない。
「もう一度、どうしました?」
「一口で酔っちゃったなんて馬鹿らしいから、酒を飲んで酔いを覚まそうとしているのよ」
「身体に毒ですよ」
「摂らなさすぎも悪いのよ」
 バツの悪そうな彼女の一言に、その真意を理解した。まだ酔ってもいないのに、誘うようなことを言ってしまったのが恥ずかしいらしい。
 たまらず私は、煙草を持つ咲夜の手首をぐいと掴んで、強引気味に唇を重ねた。
 酒気と煙草の味が混じった、不思議なキス。弾力のある唇から伝わるそれを、恐らく人は大人の味と呼ぶのだろう。
「んっ……、気が早いって」
「お酒の味で多少マシかな、と思いまして」
「あんたも酔ったの?」
「咲夜さんと同じくらいです」
 もう一度バツの悪そうな表情を浮かべて、咲夜はぷいと顔を逸らす。なんとか一本取ることに成功したようだ。
 とんとんと灰皿の淵で灰を落とし、そのまま咲夜は煙草を置いて、テーブルに肘をつき掌に顎を乗せる。
「早く飲んじゃいなさいよ、それ」
「咲夜さんがその火を消す頃には」
 頭の回転の速い恋人をなんとかやり込められたことが楽しくて、ついくすくすと笑いが零れてしまう。そんなときに飲むウィスキーは、ほんの少しだけ美味しかった。どちらも、十回に一回くらいの頻度でしかないけど。
 因みに、その十回で一回の勝利感は、それを忘れた頃にやり返しの形で何倍かになって返ってくる。周りから見ればおかしいかもしれないけれど、それもまた、私の愛しいものの一つだったりもする。
「アホ面」
「ギャンブルに嵌る人ってこういう気分なんでしょうね」
「ギャンブルねぇ……お嬢様が夢中になったらどうしましょう」
 お給料が半分になるかしら。と咲夜は言う。半分、つまり変わりはしないということだ。
「私の国にも色んなギャンブルがありましたよ」
「麻雀とか有名よね」
「コオロギを戦わせるとか」
「聞きたくない話ね。ギャンブルの話、おしまい」
 咲夜のグラスがからんと音を立てる。どうやら、もう飲み干してしまったらしい。
 ちら、と灰皿の方に目をやると、煙草の方はまだ結構長さを保っている。私が飲み干すまでの時間と同じくらいだろうか。
「何度も言いますけど、そんなに早く飲むと酔いも早いですよ」
「『おかわりはいかがですか?』でしょ」
 なんとなく平時よりも頬に朱の差した咲夜が唇を尖らせる。はいはい、と私は一杯目の半分ほどの量を、咲夜のグラスに注いだ。半分にした理由は経験と、それから咲夜の今日の様子。――どちらも同じことかな。
 咲夜は注がれた茶褐色の液体に口を付ける前に、同じ色をした葉の煙を吸い込んだ。短く吸って、惜しむように長く吐く。まだ充分に長さを保ったそれを、灰皿の底に押し付けながら。
「もういいんですか?」
「言ってなかった、と思ってね」
 そう言って、グラスを軽く持ち上げる。その意を解して、私も同じ高さにグラスを合わせる。
「乾杯、美鈴」
「乾杯、咲夜さん」
 ちん、と鈴のような音がして、グラスの中の氷が少し揺れた。照明の光をきらきら乱反射して、まるで春の陽の中にいるようだった。


 今日のキスも煙草の味がした。
 私にとっての、大好きな人の味。
「……ん」
 催促するように、咲夜の舌が伸びてきた。いつもそうだ。ベッドに入って最初のキスをするのは決まって私、最初に舌を絡めるのは必ず咲夜。ダンスのステップを揃えるように、それはいつだって変わらない。
 暫くの間、咲夜の舌を好きに遊ばせる。その動きにはっきりとした目的は感じないし、決まった動きというのもない。私の舌の上を撫でる感触も、上顎をつつくような戯れも、全て咲夜の気まぐれ。咲夜はただ夢中で私の口内を味わう。
 折角だから私もお返しがしたいのに、唇と唇の繋ぎ目は咲夜の舌で塞がれている。彼女の煙草臭い口内の香りを覚えるには、まだもう少し時間が必要そうだ。
 繋いだ片手に、力が籠った。あまり強くはないから、酒でぼけた感覚には気持ちいいくらいだ。
 それを合図に、ぎゅう、ともう片方の腕で彼女の身体を抱きしめた。何の抵抗もなく、彼女は私の身体に体重を預ける。唇が離れる。最後の瞬間だけ、彼女自身の香りがした。
 私と咲夜の身体が密着する。瘦せ型であまり肉がない筈の彼女の胸元が、不思議と私を包み込んでくれているような感覚。それが私は大好きだから、彼女を抱きしめるのがたまらなく大好きだった。
「ちょっと、やだ、嗅がない」
 咲夜の首元の辺りで息を吸うと、そんな文句が彼女から飛び出した。でも、止めることはできない。彼女が煙草に手を伸ばしてしまうように、彼女が自分から舌を伸ばしてしまうように。
 物が焦げたのと似た匂いが最初にして、それから、蜂蜜をほんの少し垂らした紅茶のような香りがした。これが、咲夜の匂い。いつでも私を魅了する、愛しい香り。何を言われたって、これから離れることなんてできない。
「美鈴?」
「はい」
「気持ちいい」
 きゅ、と私の腰に回された手が、更に私を抱き寄せる。繋いでいた手を放して、咲夜の背中に回した。今この瞬間、私と咲夜との距離がゼロになっている。その事実が胸を満たす。誰よりも、私達は近い。今ここに、貴方がいる。胸に注がれる感情はもう一杯一杯で、それでも尚注がれて、零れたものが愛の言葉になる。
「私もです。咲夜さんの身体、大好きです」
「……やらしい」
 笑いが零れてしまう。ベッドの上じゃなかったら、きっとまたアホ面だなんて言われてしまうだろう。
 何度だって言える。私は、咲夜と抱き締めあうことが、きっと何よりも好きだ。彼女の感触が心地良くて、彼女の香りが愛しくて、彼女を独占している事実が誇らしくて。心臓と心臓が傍にあり、一緒に高鳴り合う。それだけのことが、世界で最高の幸せに思える。
 私の背中にある咲夜の手が、まさぐるような動きを始めた。背中を撫でるような感覚は、性的というよりも、マッサージのような気持ちよさがある。
「服、脱がせてくれるんですか?」
「無理かも」
 やけに素直な咲夜の口調が可愛らしかったから、二度目、いや三度目のキスも私からだった。咲夜はすぐに私を受け入れて、瞼を閉じる。それが私への信頼の証のような気がして、誇らしい気分になる。
 舌を絡め合うような動きがなく、そこだけ時間が止まったかのような長い口づけ。その下で、私達はそれぞれ、自分の服を脱ぐ。私達の間では、裸になろうとするとき、こうして目隠しをし合うのが癖になっていた。咲夜が、脱いでるところを見られたくないなんて乙女らしいことを言うから。
 着衣から、裸へ。日常から、非日常へ。少女の時間から、大人の時間へ。そういう変化の境目が、咲夜とのキスで繋がれているなんて、余りにも出来すぎたロマンチック。
 ――ふと、咲夜が目を開けた。同時に唇が離れる。何かに気付いた顔だ。
「美鈴、せなか」
「え? ……あぁ、はい。かしこまりました」
 一瞬だけ、私の背中がどうかしたのだろうか、と考えた。今日は怪我をするようなことはしていない筈、とも。しかしそれはどうやら、メイド服の背中の紐を解いて欲しいという意味らしかった。
 自分だけが気づいた勘違いが、やけに照れ臭い。
「どうかした?」
「いえ、私の背中に何かあったのかな、と」
「見えてないわよ。怪我とか?」
「えぇ、まぁ」
 気付かれていたようだった。酒に酔い、求愛に溺れた後の咲夜はいつだって必死そうで、子犬みたいで可愛いのに、こういう勘だけは鋭いまま。
「付けてあげようか、傷」
「そういうの、お好きですか?」
「痛いのは好きじゃない」
 しゅるん、と咲夜のメイド服のリボンが私の手によって解かれる。私の方はキスの間に厄介なボタンやリボンの類は外してある。
 少し間の抜けた会話が混じったけど、その後はきっと充分に色があった。
 咲夜が唇をきゅっと固く閉じる。
「咲夜さん、いいですか」
「ばか」
 訊かないでよ、という意味だろう。裏の意味が余りにも簡単に読み取れるし、そう言うであろうことも知っていた。だから私は、既に咲夜を抱きしめていた。
 今度は、咲夜の頭を私の胸元に持ってくるように。真ん中だけ露出した素肌に、咲夜の銀色の髪が触れる。筆先でなぞられているようなその感触がくすぐったい。咲夜の両手が私の肌と服の間に侵入してくる。ひんやりと冷たいそれに、私は思わず声を上げた。
「冷たい? ごめんね」
「いいえ。存分にあったまってください」
 眼下で無防備に晒されている咲夜の後頭部を、二度撫でる。漏れた生温い息が胸元にかかって、やっぱりくすぐったかった。
 後頭部の向こうには、咲夜の背中が見えた。肩甲骨と鎖骨に合わせて隆起する滑らかな素肌には、ブラの紐が食い込んだ跡が痛々しい赤色として残っていた。私は、撫でていた手を下して、ホックの辺りを軽く摘まみ、離す。小さな金属音がして、咲夜の背中の面積が、ほんの僅かだけ広がった。
 綺麗だ。夜の内に降り積もった初雪みたいなその場所に、私は何度目かの恋をした。例えそこにどれほどの傷が残っていたとしても、私は同じ感想を持つだろう。 
 咲夜の手が私の胸の下辺りに触れる。言葉にすると怒るけど、咲夜は私の乳房に触るのが好きみたいだ。私だって勿論嫌いじゃない。触られるのも、触るのも。
 ぐっと、身体を押された。その後に、咲夜の方から唇を重ねられた。そのキスも、唇同士のスキンシップ程度。余韻もないままに離れてしまっていった咲夜の唇が、「全部脱ぐ」と呟いた。
「見ないで」
「はいはい」
 今の今まであんなにもくっついて甘えていたのに、この瞬間だけは自我が芽生え始めたばかりの子供のようだ。しかしその子供の言うことにも逆らえない私。素直に後ろを向いてあげる。
 不規則な衣擦れの音がする。ただ服を脱ぐだけのことでも、今の咲夜の酔い様では、それさえ上手くできるかどうか心配にはなる。ただ安心できるとすれば、彼女が脱げなければ素直に脱げないと言ってくれること。
 脱いでるところを見られるのは恥ずかしいのに、脱がせることは恥ずかしくないらしい。それと、脱いだ後を見せるのも。
「それは恥ずかしいわよ」
「あだっ」
 急に襟元を引っ張られて、ベッドに押し、もとい引き倒された。上向きになった視界には、咲夜の顔と、何にも隠されていない乳房。とても豊かとは言えない膨らみが、まっすぐと私を向いていた。あいや、私を見ているのは胸ではなく、咲夜の顔の方だった。
「なんでまだ脱いでないの」
「いやー、ご馳走のことばかり考えていて」
「食器出すのくらい手伝わないと、呆れられるわよ」
「誰にでしょうか」
「私だと思う?」
 もしかしたら、と返すと、咲夜は私の顔に覆いかぶさるようにキスをした。今日の彼女の積極度は、いつもよりも少し高いかもしれない。今度からは、おかわりの量を減らそう。
 直ぐに咲夜の舌が侵入してきた。煙草臭さは残っているけど、多少はマシな味。もし私が酒に口をつけていなければ、これに酒の味も混じるんだろうか。だとしたら、ああ、少しはウィスキーに慣れるのが早くなるかもしれない。だけどそれは、今の私にとって惜しいことだ。
 おもちゃ箱を漁るように踊る舌を、私は軽く噛んだ。咲夜の眉間に力が入る。不満らしい。でも止めたりはしないし、彼女も引き抜こうとはしない。
 固定された舌先を、私の舌先と交わす。気のせいか、冷たく感じる唇。煙草臭いのに、甘い味の唾液。ぱっと咲夜の舌を解放して、その隙に攻勢に入る。
 侵入した咲夜の口内は、私のそれよりも狭い気がした。彼女がきゅうきゅうと私の舌を吸うせいかもしれない。ふと咲夜の顔を見ると、最高級に甘く蕩けた顔だった。今度からはキスのとき私も積極的に攻めていこう。そう思わせられる可愛さだった。
 ――可愛い。不思議だ。いや、愛を交わす行為なのだから、可愛いで間違いない。しかし、愛を交わし、そして欲と性を交わす行為である筈なのに、色っぽいとか妖艶だとかそういう言葉よりも、ただ可愛いと、たまらなく可愛らしいと、そういう風な言葉ばかりが浮かんでしまう。
 声も顔も、手も指先も、背中も胸も、それから――とにかく、何もかもが可愛い。
 愛というよりも恋に近いその感情が、私の鼓動を衝き続ける。
 こういうことについて、咲夜は私をどう思っているのだろう? 訊いても答えてはくれないだろうけど、それでも答えを知りたくなった。
「可愛いです、咲夜さん」
「あんたが今から可愛くなるのよ」
 離れた唇に、唾液の橋が掛かる。直ぐに途切れてしまうそれは、可愛い、じゃなくて色っぽい。
 咲夜が、身体ごと私に覆い被さる。片腕で身体を支えて、もう片方で、私の肌を撫でながら、ゆっくりと服をずらす。
「咲夜さんが可愛くなる方が好きなんですがね」
「お返し、よ。今日は私に尽くされなさい」
 咲夜の蒼い瞳の奥に、輝きが宿っていた。酔いが覚めたか、酔い方が変わったか。次はもっと早く、尽くさなきゃ。何度か思っているそれが成功するのは、大体二回に一回くらい。そして今日はできなかった方。
 部屋の外では私が咲夜さんを手伝うことなんてできないんだから、この空間でだけはそれをしてあげたいのに。
「攻める方が気持ちいいだけでしょうに」
「ご馳走は時々がいいんでしたっけ」
「毒にならないくらいね」
 気持ちいいよりも、気持ちよくなってくれる方が、気持ちいい。肉体的ではなくて精神的な満足感。前者より後者の方が優れているなんていう価値観は私にはわからないから、そうじゃなくてただ咲夜にはそっちを求めているだけ。
 まぁでも、どっちにしたって、結局はお互い気持ちいいのだけれど。人のために何かするのは自分のため。そういうことだ。
 咲夜の指先が、私の首筋を伝う。その流れに沿って、優しくて微弱な電流が走った気がした。その指先はそのまま肩へ。私に触れるのが、指先だけでなく掌に。決して大きくはない掌が、並よりは少し広いかもしれない肩を包む。咲夜の体温が、私の身体のほんの一部に伝わる。もっと、その体温を感じたい。私の体温を、彼女に伝えたい。
 そんな、甘すぎる意識の中で、ふと気が付いた。咲夜は、ショーツをまだ身に着けている。ちら、と横を見ると、真っ白なシーツの上に、その白に指先程度の黄色を混ぜたような、クリーム色のブラが脱ぎ捨てられている。いつも通り、ばっちりと上下お揃い。
「あー、っと。下着、可愛いですね」
「言うのが遅い、減点。今日も逆転なし」
 あったことがないじゃないか、という反論が口の中で留まる。
 しまった、最初に咲夜の下着を見たときには紐の部分だけだったから、油断した。というか、反省した。
「因みに美鈴、私は少し悲しいきもち」
「すいませんでした。今度はすぐに気づきます」
「違うでしょ」
「咲夜さんの身体が綺麗すぎて」
「及第点。でもね、悲しいのはそっちじゃないわ」
「降参です」
 軽く諸手を挙げる。それを見たか否か、咲夜は私の首元に顔を寄せた。驚く間もなく、鎖骨の少し下辺りの皮を、強く吸われる。因みに、若干痛い。
 ちゅ、と音がして咲夜の顔が離れる。そのまま咲夜は私を見下ろして、
「あなたが全然新しい下着を着けないものだから、もう全部見飽きたってこと」
 と、口元の涎を拭きながら言った。
 それにしても、そうか、下着か。明日にはどうにかしないとな。連敗に慣れてしまうのは、流石に御免だ。
「罰ゲームね」
「なんなりと」
 咲夜がくすくすと笑った。彼女の与える罰ゲーム、それは決まって、睦言と変わりのないものばかり。
「名前で呼んで? この後から、眠るまで」
「咲夜さん」
「違うでしょ」
「――咲、夜」
 自分の声が緊張していることがわかる。何度彼女にそう呼ぶように言われても、初めの一度はこうなってしまう。それは、照れでもあるし、ある種の恐れでもあった。咲夜に対する、ではなくて、自分の中のリミッターが外れてしまうような気がする、そんな可能性についての。
「もっと」
「咲夜」
「素敵よ、美鈴」
 咲夜。咲夜、咲夜。何度でも、頭の中なら呼び続けられる。口にすることについては、最初の何度かに壁があるだけ。その何度かを越えてさえしまえば、あとは溺れるように繰り返すだけ。要するに、おぼこと同じ。元々それが、私は好きな筈だから。
「ずっと、ずっとよ。私とあなたが疲れて、眠ってしまうまで」
「咲夜」
「美鈴」
 約束していたかのように、私達はまた、唇を重ねた。




 私は、厨房の中を覗き込んでいた。扉はない。
 その中に立っているのは、一人の少女だった。私は、彼女が誰かを知っている。咲夜さんより幼くて、けれども姿形のよく似た少女。私は、彼女が誰かを知っている。
 その背中を眺めていると、急に私の中に実感が湧いてきた。私は今、とても悲しいんだと。悲しむべきだとかそうじゃないとかを抜きにして、抑えられていたのであろう気持ちが溢れ出てくる。
 あと少しで涙が零れてしまいそうだった。それでもまだ、零れてはいなかった。
 少女の背中に一歩ずつ歩み寄って、私は後ろから彼女を抱き締めた。いつかに覚えたあの感触ではない。もっと頼りない、小さな体躯。けれども骨の周りの肉は、少女の方が咲夜よりもあるかもしれない。
「大丈夫」
 囁いたのはきっと私。少女が、泣いているように見えたから。泣きそうに震えているのが見えたから。
「もう、いないの?」
「そう。もういない」
 少女の問いに私が答える。もういない、それが誰のことを指すのか、私は知っていた。少女の見えない泣き顔が、堰を切ったように崩れる。慟哭という言葉に相応しい、幼いけれども充分に大きな感情の出力。それを見て、私の抑えていた涙が、もう耐えきれないと一つ、二つと落ちていった。
「やだ」
「私もです。とても、とても……」
 悲しい。
 もう会えないことが。もうあの身体を抱きしめられないことが。あの香りを嗅げないことが。一緒に言葉を交わせないことが。彼女という存在を、永久に感じられないことが。
 それでも、過去にあったその全てを思い出せてしまうことが。過去の私が、その全てに幸せを感じていたことが。
 たまらなく悲しくて、せつなくて、過去を羨みかけてしまう。
「いいひとだったね」
 少女を抱く腕に、強く力が籠ってしまう。痛いかもしれない。それでも、強く抱きしめ続けた。私に今できることが、それしかないから。涙が、少女の銀色の髪を濡らしてしまう。少女の涙が、私の腕を濡らしてしまう。
 真っ白な厨房で、私と少女が二人、泣き叫び続けていた。私は、それを天井の上から眺めているようだ。
 上から見下ろす自分自身は、当たり前だけど初めて見る姿だった。それどころじゃないのに、新鮮な感覚だな、なんて思ってしまっていた。彼女がもう居ないことを、悲しんでいるのに。それ以外のことを考えてしまう、そんな自分が嫌になった。 少女の泣き声は、もう聞こえない。
 私は、一つの事実を再確認する。

 十六夜咲夜は、もう居ない。




 夢から覚めた瞬間、体温はそこになかった。あれほどに交わしあって混ぜ合って触れ合った体温が、今ここにないという事実。あるのは、シーツの冷たい感触だけ。
 もう居ない、訳ではない。きっと、先に起きた咲夜がさっさと仕事に出てしまっただけ。知っている。これが初めてではないのだから。いつものことなのだから。咲夜は、居る。それも、この屋敷のどこか、つまり近いと言ってもいい場所に。それが当然だと、理解している。
 それでも、今日ばかりは確かめずに居られない。あの夢と、右目に残った涙を理由にして。
 払いのけるように布団を剥がして、ベッドから落ちてしまっている自分の衣服を拾い集めた。脱がされた、或いは自分で脱いだときとは逆順に、それらを身に着ける。――ちゃんとした着替えは、あとでしよう。
 それから扉を乱暴に開け、後ろ手で閉めながら小走り気味に廊下を歩く。はしたないことだと解っているし、咲夜に見られたら叱られるだろう。今はそれでいい。今は、咲夜の姿をこの視界に収めることが、何よりも大事なことなのだから。
 一つ目の角を曲がったところで、せっせと遊ぶ妖精メイド達を見つけた。
「すいません、咲夜さん見ませんでした? ちょっと用事があって」
 意味もなく言い訳を挟んでしまう。彼女達は、私と咲夜さんの関係を知っているのだろうか。知られていたら恥ずかしい。
「咲夜さん?」
「あっ、さっき紅茶を淹れてました」
「じゃあお嬢様のところだね」
「ありがとうございます。いやー、お屋敷がこうも広いと、人探しも大変ですね」
 するつもりのない世間話の形を模した一言に、彼女達はくすくすと楽しそうに笑った。
 それでは、と軽く手を振って、お嬢様の部屋へ早足で向かう。後ろの方から「次はかくれんぼにしようか?」という声が聞こえてくる。見つからないまま、遊んでいることを忘れそうだなと思った。
 歩を進めていくと、何人かの妖精メイド達とすれ違った。その内の一人は私が館の中を闊歩していることが少し不思議に感じていたようだけど、それはそれとしてみんなが私に会釈をしてくれた。私はその度に笑顔で手を振り返す。そんな過程の中で、夢の中とは言え咲夜を失い、揺さぶられてしまっていた私の感情が少しずつ冷静さを取り戻す。
(あれ、私どんな理由でお嬢様の部屋に入ればいいんだろう)
 素直に理由を話す? 怖い夢を見たので、皆さんがちゃんとここに居るか心配になりました。そんな風に。
 私のキャラなら、或いは許されるかもしれない。さっさと入ってさっさと出ていけば、馬鹿だなアイツは、くらいで済まされると思う。特にお嬢様辺りには。
 しかし咲夜にとっては、それは今夜の主導権を握る材料になってしまう。「怖い夢、忘れさせてあげる」とか言って。悪くはないが、出来れば今夜こそは私が触れて、彼女の存在をより強く確かめたい。
(寝起き直ぐに何を考えているんだ、私は)
 これじゃあいやらしい女みたい、なんて自分に呆れ返っていると、結局どんな理由で入るかを決めることができないまま、お嬢様の部屋の前に辿り着いていた。季節ごとにデザインの変わる、お屋敷の中でも一等手の込んだドア。今季のデザインは、隣り合って飛ぶ二羽の蝙蝠をモチーフにしているようだった。
 一応手をノックするときの形に固めて、そのまま動きが止まってしまう。まぁ馬鹿なことを言って誤魔化せば、精々一度叱られるくらいで許されるだろう。
「入れば?」
 と、今にもドアを叩こうとしたその瞬間に、横から声が聞こえてきた。私が歩いてきたのとは逆方向の廊下には、ティーセットをワゴンに載せて転がす咲夜の姿。ワゴンには、お茶の他にも軽食も並べられている。
「何の用事かは知らないけど」
「あ、あーえっとですね。そう、今日は少し暖かいのでお出かけはいかがですかー、って言いに」
「残念。お嬢様にはそれでも寒いみたいで、この紅茶にはブランデーが入ってるわ」
 適当に思いついた言い訳に、咲夜はそれが取り繕ったものであると気付いていないようだった。気付かれていたとしても、どうだっていい。だって今、望んでいたことが叶ったんだから。
「咲夜さん」
「暖かいからって仕事中の昼寝は禁止よ。見つけたら冬山で眠るときの気持ちを教えてあげる」
「違いますよ、そうじゃなくて」
 はぁ? と素直に感情を表に出す咲夜。その眼光は二人で居るときよりずっと鋭くて、とても取り付く島などありそうもないけど、それでもこの咲夜は、私の愛する咲夜なのだ。そんな事実で、安堵と、そして壊れそうなくらいの幸せが急激に溢れてきた。
「やっぱり何でもありません」
「もう昼寝の最中だったのね。まぁいいわ、入ったら? お嬢様、今日は新鮮めな話し相手をご所望でね」
 そう言って、私が触れることさえあれ程に躊躇っていた扉を、咲夜はいとも簡単に開いてみせた。
「おそーい」
「失礼いたしました、お嬢様」
「あら、今日は紅いのが一緒ね。私はいいけど、パチェ辺りの恨み節は覚悟しといて」
 その先の広い空間には、階段の上の椅子で退屈を持て余していたらしいお嬢様。手を両膝に挟んで、羽をぱたぱたと揺らしている。 
 扉とお嬢様の間に、比喩表現ではなく一瞬でテーブルと二つの向かい合わせの椅子が現れて、テーブルの上にはお茶会の準備が整った。咲夜のワゴンは、当然既に空だった。
「居てもどうせ侵入されるので、だったら話し相手として働いてもらおうかと」
「ふぅん、お喋りも仕事なんて下働きは難儀ね」
 生きることも仕事ですので、と咲夜はそれだけ言い残して、部屋を後にしようとする。
「あら、咲夜は一緒にお茶しないの?」
「休憩時間ですので雑事を片付けて参りますわ」
「残念ね」
 お嬢様はそれ以上引き留めることをせず、ぴょん、と座っていた椅子から、咲夜が用意した方の椅子の横まで一跳びで移動した。
 咲夜はと言うと、悠然と部屋から出る方向へ歩を進める。そして、私の横を通り過ぎるときに、「心配性ね」と私にだけ聞こえるよう囁いて、その後はどこかに消えてしまった。
「さぁ、お茶の時間よ」
「私なんかがご相伴に預かってもよろしいんでしょうか」
「言葉が喋れない妖精メイドを連れてこられるよりはね。あの従者、最近私への意地悪が酷くて」
 どうやら、お茶を交えた世間話はもう開始されているようだった。断るための表に出せる理由が見つけられなかったので、お嬢様の向かいの椅子に座ることにした。その場の空気に流されるなんて、私は何を操る程度の能力を持っているのだろうか。案外、運命を操る程度の能力が、単に私の能力を上回っただけ、という説もある。
「さて。で、本当は何か訊きにきたんでしょう? 私に」
 いいえ咲夜さんが居なくなってしまう夢を見たので、咲夜さんが居ることを確かめに来ました。こんな歳にもなって思春期みたいな夢を見るなんて、私もまだまだ若いですねぇ。
 そんなこと、言える筈がない。
 尤も、実際に咲夜が居ることは確認できて安堵することはできたし、言葉を交わすどころか剰え私にだけ聞こえる言葉を残してくれたのだから、私の目的は既に達成されたと言えなくはないのだけど。でも、できればもう少し余韻だとかが欲しかった。
「例えば、これのこととか」
 そう言ってお嬢様が何処からか取り出したのは、見慣れた緑の箱だった。咲夜さんが、いつも傍らに置いているのと同じもの。
「……やっぱり、お嬢様の仕業だったのですね」
「仕業なんて失礼ね。所業と言って欲しいわ」
「業が深いのは自覚していらっしゃいましたか」
 私の言葉で、お嬢様は全てを見透かしたようにからから笑った。
「貴方も欲しかった?」
「いいえ、私には少し早いような気がします」
「少し、ね。貴方もいい加減ご長寿妖怪だったわね、そういえば。そうだわ、訊くのを忘れてた。お砂糖は何杯?」
「じゃあ少しだけお願いします」
 お嬢様は、砂糖の入った瓶を開けて、添えられたスプーンでそれを掬う。私の想像する少しだけとは違って、すり切り一杯分くらいの砂糖が私の紅茶にふりかけられた。真っ白だったそれは、赤茶色の透明な液体に潜った途端、その姿が見えなくなってしまう。
「ありがとうございます、お嬢様は?」
「私は入れないのよ、最近はね。健康に気を遣っていて」
「素晴らしいことですね。少し意外です」
「従者には煙草を与えてるクセに、ってところ?」
 しまった。その話題からは逸れたと思っていたのに。別に煙草の話題自体が嫌なワケではないが、話し過ぎると余計なボロを出してしまいそうだから、できれば避けたかった。
「美鈴は健康マニアっぽいものね。大丈夫よ、アイツは煙草くらいで身体を害するタマじゃないわ」
「それはまぁ、確かに」
「今日も元気だ、煙草が美味い。ってね。価値観って幻想入りしないのかしら」
 別に私は健康マニアではないのだけど、そっちに関しては何も言わないでおく。今度からは健康に気を遣ってみようかなとは思った。
「偶然手に入ってね。咲夜への給料代わりに丁度いいと思って戯れにあげてみたら、なんか習慣になっちゃったというか。あぁ、勘違いしないように言っておくけど、咲夜が取りに来るんじゃなくて私が定期的に渡してるの」
「そっちの方が勘違いっぽいと思いますけど」
「貴方の上司は別に中毒者じゃないわよ、っていう雇い主としての優しさ」
 給料代わり。お嬢様はそう言った。だとしたら、咲夜が煙草を止めない理由の一つがなんとなく理解できる気がする。貰ったから、消費してるだけ。尤も止めない理由はそれだけではないのかもしれないし、そして最大の理由は特に止めるきっかけがないことなのかもしれないが。
「それにしても、丁度いいですか」
「えぇそうよ。見て、これ蝙蝠の絵が描いてあるの。可愛いでしょう?」
 お嬢様が、煙草の箱を私の方に向けて滑らせた。その緑地には確かに、金色の蝙蝠の意匠が施されていた。
「そう言えば、お嬢様は蝙蝠に化けられるんでしたね」
「真っ黒な蝙蝠だけどね」
「それで、蝙蝠柄の煙草ですか」
「蝙蝠の姿を持つ吸血鬼に仕えるメイドが蝙蝠柄の煙草を吸っているなんて、なんだか楽しそうでしょう?」
 そう言って、お嬢様は砂糖の入っていない紅茶を啜った。私も真似をするように、砂糖が入っている方のカップを両手に持って、一口だけ味わってみた。あれだけの砂糖が入ったのに、甘いとは感じない。
 楽しそう、という言葉に共感はできないが、お嬢様が楽しみそうなことだと理解はできる。この方は、表裏ない絶対的な忠誠よりも、油断すれば寝首を掻こうという意気を示された方が愉快に感じるらしいから。
「どちらかと言えば、お嬢様の方がお似合いな気がします」
「いやよ。それ不味いらしいもの。私が喫むとしたら、精々煙管ね」
「ああ、似合いそうですね」
 皇帝のような豪華な椅子の上で足を組んで、長い煙管を燻らせる。想像したその姿は、普段よりも更に威厳のあるものに思えた。
「そう言えば、蝙蝠は目が見えないのよ。知ってた?」
「知識としては一応」
「暗闇の中で過ごしすぎて、必要がなくなったらしいわ。その分、音に関してはとっても敏感なんだって。闇に生きる私達にはぴったりね」
「音に関して、ですか」
「そう。超音波を放って、その反射を聞くことで目の代わりにするの」
 鼻も効くんだったかしら、忘れちゃった。と紅茶のたてる湯気を吸い込むお嬢様。きっと、素晴らしくいい香りだろう。
 煙草の話題はもう終わったようだ。なんとか変なことを言わずに済んだ。多分。
「さて、ここで簡単ななぞなぞ。傍にあると慣れすぎちゃって見えなくなるものって、なんだと思う?」
「……大事な人、ですか? なんて、乙女チックすぎましたかね」
「まぁ正解。半分正解にしといてあげる」
 やれやれ、とでも言いたげに、お嬢様は掌と翼を同時に広げた。
「模範解答は、『暗闇』よ」
 随分抽象的な気がしますなんて、勝ち誇るような表情を浮かべるお嬢様を前にしては口に出す気になれなかった。
「私達が蝙蝠になってしまってはいけない。暗闇すら見えなくなるようでは、それは仄かな光さえ失うことと同じ」
「勉強になります」
「まぁ、貴方が思っている通り、この問題の答えなんていくらでもあるけどね。例えば」
 もう一度砂糖の瓶の蓋を開いて、お嬢様はスプーンに山盛りの砂糖を掬った。それを自分の紅茶に入れて、ティースプーンに持ち替えてからかき混ぜた。
「ほら見えなくなった。舌で確かめればわかるんだけど」
「健康に気を遣っていたのでは」
「知らない? 砂糖は身体に良いのよ。あとミルクとか」
「その通りでした。お嬢様が煙草をお吸いになられたら、同じことを言おうかと」
「煙草は健康に悪いわけじゃないわ。健康が煙草に悪いの」
 暗闇が視界を隠すんじゃなくて、視界が暗闇を視るように。そんなことを言いながら、たっぷりと砂糖の入ったその紅茶を、お嬢様は美味しそうに飲み干した。
 その言葉に含まれた含蓄を飲み込むことは、私の頭ではまだできない。それでもまぁ、決して間違ったことを言ってはいないのだろう。降参の意を示す代わりに、私はティーポットからお嬢様のカップへ新しく紅茶を注ぐ。
「お砂糖はどれ程?」
「さっきのより少し多いくらい」
「摂りすぎは身体に毒ですよ、どんなものも」
「甘いのに慣れると、只の紅茶が随分苦く感じてしまうようになるのよ」
「それが毒ということです」
 小言めいたことを言いながらも、私は山盛りが一杯と、その三分の一くらいの量の砂糖を、お嬢様の紅茶に入れた。丁度いいわね、とお嬢様は笑ってくれた。
「さぁ、ティータイムにはおやつが付き物よ。美鈴、食べなさい」
「でもこれはお嬢様の、なんて言わずにいただきます」
「見たところ、貴方は寝起きで未だ何も食べてないようだし」
「うぐ。正解です」
 真っ先にサンドイッチに伸びた手が一つ目を掴もうとした瞬間に、そんなことを言われた。まるで見ていたかのようだ、と私は素直にサンドイッチを手に取る。お嬢様はいたずらを成功させた子供のような表情だった。
「前にも言ったか忘れたけど、この紅魔館は実にいい勤め先なのよ美鈴」
「転職活動をしようと思ったことはありませんね、確かに」
「それは貴方がどこに居たって同じように生きられるからよ。紅魔館では、勤め人に規則を与えていない」
「居眠りは罰せられるんですよ、ご存じですか?」
「それは咲夜の作ったルールね。ある意味自由の象徴」
 お嬢様の言いたいことはわかるし、同意もできる。例えば下っ端でしかない私が、こうして館の主であるお嬢様とお茶ができて、何の気兼ねもなく私の方からサンドイッチに手を伸ばせる。権力のために権力に縛られた権力を作り、その権力を守るために末端が権利を失くした人形となるような組織では、少なくともない。
「年中無休で年中無給、でも働くか遊ぶかは自分次第。転職活動だって勝手にどうぞ。そして、酒も煙草も愛も、自分で手に入れる分には自由自在」
「最後は少しハードボイルドですね」
 何か核心を突くような、或いは見透かされたようなことを言われた気がする。私はそれを、言葉の綾だと思うことにした。
「あーあ、銃が欲しいなぁ」
 銃なんかよりも自分で戦った方がよっぽど強い癖に、お嬢様はやけに本気っぽかった。いつか本当に手に入れそうだし、そうなったら試し撃ちなんて言って壁に穴が空きそうだ。
「最近読んだ漫画の影響ですか」
「何だと思う?」
「生憎私はお嬢様のお下がりくらいにしか触れることがなくて」
「今度貸してあげるわ」
 お嬢様は二杯目の紅茶を飲み終えた。随分早い。喉が渇いていたのだろうか。私はサンドイッチに水分を奪われてしまい、それを補うように紅茶を一気に呷ったので、私とお嬢様のカップが同時に空になる。
「漫画と言えば、この前貸したやつ面白かった?」
 私のカップに紅茶を注ぎながら、お嬢様は思い出したようにそう言った。
「ああ、少年がロボットに乗るアレですか。少々難しかったですが、なんとか面白かったです」
「ロボットじゃないらしいわよ、パチェが言ってた。ドイツ語がいっぱい出てきたのが私的には評価ポイントね」
 お嬢様に紅茶を注ぎ返す。カップの半分くらいを満たしたところで、ティーポットが空になってしまった。私が先に注いでおくべきだったかもしれない。
「あら、咲夜ったらこれしか用意しなかったの。意地悪ね」
「お砂糖は山盛り二杯でしょうか?」
「いいえ、甘いのはもういいわ」
 そんなことより、とお嬢様は続ける。
「貴方はその紅茶をさっさと飲み干して、そしてさっさと着替えてきなさい」
「バレてましたか」
「昨日のことのように知っていた」
 どきり、と胸が跳ねる。平静を装うべく、カップに口をつけた。一杯目よりも温度が下がっていて飲みやすい。それと、少しだけ渋みを強く感じた。先程は砂糖の甘みを感じていなかったけど、実は大事な役目を果たしていたのかもしれない。
 私がサンドイッチをもう一つ摘まんで、お嬢様はビスケットを次々と口にする。本当に何でもない世間話を交わして、私が紅茶を飲み干した頃にお茶会は終わった。
「今度からは、もっとたっぷり淹れて欲しいわね」
「えぇ、ゼーレにはそう伝えます」
 内緒の伝言ゲームを楽しむ妖精メイドのように、お嬢様はくすくすと笑った。



「やっぱり此処でしたか」
「今来たところよ。勝ち誇らないで頂戴」
 出来れば脅かせようと音を殺して近づいた私の突然の声を、咲夜は見向きもせずあしらう。その瞳は獲物を探し、獣道を闊歩する狼によく似た眼光を放っていた。ぶら下げた片手には確かに火をつけたばかりらしい煙草があって、私とお嬢様とのお茶会の間、本当にお仕事をしていたらしいことを知る。
 紅魔館の裏側の、塀よりも外側。そこが、咲夜が自分の部屋以外で煙草を喫するときの定位置だった。こんな場所を選ぶ辺り、咲夜は喫煙する姿を出来る限り誰かに見られないようにとは思っているのだろうか。
「見られたくない、というよりも邪魔をされたくないだけよ。それで? 貴方、門番の仕事は?」
「侵入者が正門から入ってくるとは限りませんから」
「最近は正面から堂々と、が主流だそうよ」
「この館の周りに怪しんでくれるようなご近所さんは居ませんから」
 咲夜の真似をして、壁を背もたれにして立つ。その距離は、手を伸ばしても届かないくらい。
 視界の端で咲夜の腕が動いた。そっちを見ると、すぅ、という音もなく咲夜が煙を吸い込んでいる。唇の端に煙草の端をほんの少しだけ触れさせる、丁寧な吸い方だった。
 吐き出された煙は、湖で遊ぶ妖精たちのような不規則な動きを見せて、冬の夕空に広がっていく。やけに長く吐くな、と思ったら、どうやら途中から咲夜自身の息になっていたらしい。
「すっかり冬ですねぇ」
「ずっと前からよ。昨日に比べて暖かい、なんて言葉を信用するんじゃなかったわ」
「覚えてらっしゃいましたか」
「一時間と十二分。まだ健忘症じゃなくってね」
 やけに鋭い眼光と言葉に、私は一年、或いはそれよりももっと前の日々を思い出す。あの頃の咲夜は、毎日が今日みたいな様子だった。二人で部屋に居るとき以外は、今も殆どそうではあるけど。
「一時間ですか。結構でしたね」
「或いは三百六十七日と二十三時間四十一分」
 一年よりも少しだけ長い時間を、咲夜は事もなげに暗唱した。その数字の指す時間は、もしかしたら今私が思ったあの日のことなのだろうか。健忘症でないとは言え、記憶力が優れているとも言い難い私には、それ以上の心当たりも確信もない。
「あのときは、『今日はきっとお外が気持ちいいですよ』だったかしら」
「多分ですけど、そっちは本心からだったと思います」
「でしょうね。季節外れの急な雨さえなければ」
「一年前の私が失礼しました」
「雨が降ると煙草が美味いのよ。知ったのはそれから少し後だった」
 思い出した、ような気がする。
 そうだ、あれは、昨日のような日のことなどではなかった。勿論凍えるような寒さではあったけれど、雨の景色があるとないでは大違いだ。
 私はあの日、新品の傘の試用を兼ねてこの塀を一周する警備――要するに散歩をしていて、雨の中で傘も差さずに震えながらしゃがんで煙草を吸う咲夜を見つけた。
 咲夜がそんな場所に居ることと、その身に似つかわしくないアイテムを手に持っていることとの二つに同時に驚きながら、私は咲夜を慌てて館に連れ戻し、咲夜の私室へ連れていった。風邪をひかないようにと、タオルで拭いたり、魂が抜けてしまったように動かなくなった咲夜を着替えさせたり、付きっ切りでお世話して、そういう流れの中でなんだか妖しい雰囲気になって――いや、これ以上はやめておこう。
「あの頃は確か、咳き込んだりしてましたね」
「吸うときに苦しいのかと思ったら、案外吸い終わった後がキツくてね」
 気付けば、咲夜の言葉の節々にあった棘が消えているようだった。二人きりのときのような甘い響きこそ、そこにはなかったけれど。
「貴方も要る?」
「先程お嬢様にも勧められました」
 あれは勧められたと言えるのだろうか。自分で自分の言葉に茶々を入れる。
「そう。要らないってことね」
「私には、まだ」
 お嬢様にしたのと同じ答え。『まだ』がそうでなくなる日を、私はきっと決めることができない。
「今も未来も変わらないものだけどね」
 咲夜はそう言って、煙草を長く口元に蓄えた。私はそれを見て、絵になるなあ、なんて馬鹿なことを思った。
 冬の張り詰めた空気に立つ、銀狼に似た咲夜の姿。煙草から立ち上る煙と、咲夜が吐く白い息。前者には心を奪われて、後者には心を捕らわれる。どちらかと言えば、ではあるけれど、正直私は咲夜の口元ばかりを見ていた。
 そしてそこで、あることに気が付く。
「外なのにマフラーしないんですか? 風邪、ひいちゃいますよ」
「煙草の匂いがつきやすそうでね」
「駄目ですよ。健康優先です」
「貴方は煙草の方を止めるよう言うべきではなくって?」
 意外だった。顔にも言葉にも出さないけど、私が喫煙に関して口を出すことを嫌っている筈の咲夜から、そんな言葉が出るなんて。ある種の自虐なんだろうか。
「堀を埋めるなら浅いところからです。それに、煙草は健康に悪くないとの太鼓判を押されてしまいましたので」
「随分格のある太鼓判だったんでしょうね」
「五百年の歴史があるそうで。煙草の味は健康のバロメータだそうですよ」
「じゃあ私はずっと不健康なのね」
 それ以上、私が何かを言うことは許されない気がした。
 咲夜は改めて、すぅと音を立てて煙草の煙を吸い込んだ。それを肺でたっぷり時間をかけて巡らせたあと、空に向けて大きく吐き出す。煙は、一瞬の内に見えなくなった。
「ほら、こんなにも不味い」
 ぽつりと呟いたその言葉は、私に向けられたものではない。空か、自分か、或いは別の誰か。私は、その誰かに嫉妬に似た感情を覚える。
 いつの間にやら取り出した革袋に、咲夜は火のついた煙草を捻りながら押し付けた。携帯できる灰皿なんだろうけど、それは私が初めて見るものだった。
「新しい灰皿ですか? いつの間に」
「森の道具屋でね。折角手に入れたけど使いそうなのが私ぐらいだから、って貰ったの。常連にはなっておくものね」
 ふと、それを受け取る咲夜の姿を想像してしまう。
 咲夜は、館の外では案外愛想の良い人間として知られている。森の道具屋の主人は、この館によく侵入してくる魔法使いの知り合いで、確か男性だった筈だ。そして話を聞く限りでは、咲夜の喫煙を知っている。
 そんな事実と記憶と推理の羅列に、私は言い様のない感情を覚えた。胸を針で刺したような痛み、そしてその針で胸をかき混ぜられるような苦しみ。いや、簡単に表現できない訳ではない。ただそれが適切であると思いたくないだけで。
「――他人の嫉妬は、そうね。初めて作った焦げたクッキーかしら」
 ぽつりと、咲夜はまたも呟いた。
「不思議な表現ですね」
「意味を知りたい?」
「苦くてしょうがない、でしょうかね」
 それから、二度と作りたくないと思った筈なのに、何度も何度も繰り返し失敗してしまう。そんなイメージ。
「作って貰った方は嬉しいものよ。今知ったわ」
「……ええっと、私は照れた方がいいんでしょうか」
「痛み分けでいいわよ」
 相変わらず、お嬢様も咲夜も、喩え話が難しい。言葉をそのまま理解することもできるけど、どうもそれ以上の含意があるような気がしてならない。私はこの気分を、あと何度クッキーを焼くまで続ければいいのだろう。
「咲夜さん。咲夜さんは、私が居なくなったらどうします?」
「悲しむでしょうね」
 文脈を無視した私の問いに、間髪入れず咲夜は答える。
 そもそも夢のことなんて誰かに言うつもりなんてなかった筈なのに、いつの間にかそれは口を衝いて出てしまった。そして、咲夜の余りに素早くて素直な返答に、私はそれ以上の驚きを隠さずに居られなかった。
「……ですよね。私もです」
「大体、そんな思春期みたいなこと、私が今までに何度考えたと思う?」
「咲夜さんにも思春期があったのなら」
「貴方は本当に馬鹿ね。真っ盛りよ」
 信じがたい。思春期真っ盛りなんてことも、また咲夜が『私が居なくなってしまったら』なんてことを考えたということも。少なくとも、冬の空の下に凛として立つ咲夜は、そのどちらにも無縁なように見えてしまう。
「大方、珍しく夢でも見たんでしょうけどね」
「正解です、珍しいってところまで。よくご存じで」
「貴方の寝姿を一番よく見ているのは誰だと思っているの?」
「言葉にしても?」
「私が目を覚ましたとき、必ず貴方が居てくれること。感謝してるわ」
 驚く程に、素直な言葉。私が居なくなったら悲しむ、ということでさえ驚いていた私には、その言葉でまるで天地がひっくり返ったように感じた。
「貴方にもそんな夢を見る可愛さが残っていたなんてね」
 忘れていた。これで、私の連敗の可能性が濃厚になっていたことを。
「楽しみにしてるわ。貴方がどんな夢を見せてくれるか」
 そう言い残して、咲夜は結局私の方を一度として見ないまま、何処かへ消えてしまう。
 その姿を目に捉えることができた最後の瞬間、『愛してる、美鈴』なんて言葉が聞こえた気がして、それから私の身体には、咲夜に抱き締められたときと似た感触と体温が残っていた、気がした。




 初めて触れた咲夜の肉体の深い部分は、酷く冷たかった。それまでも、体温の低い人だとは思っていた。気の流れ方を見てもそうだし、日々の生活でほんの少し触れる瞬間でもそれは充分に伝わった。しかしそれにしても、ここまで冷たいなんて。
 今に限って言えばそれは咲夜自身の体温というよりも、雨によって体温を奪われてしまったというのが最も直截的な機序と考えるべきなのだろう。しかし私にはどうにも、そうは思えなかった。やはりこれは彼女自身の冷たさなのだと、そう感じた。
 なんというか、咲夜自身が体温を拒んでいるような。雨水に奪われた暖かさを取り戻すつもりがないような。そんな印象。
「……どうしたの。まさか、初めてでもないんでしょう。何か怖気づいていて?」
 そういえばあの頃の咲夜は、こうしてベッドの上で余裕を見せつけるような言動をすることがあった。当時からそれを可愛らしいなと思っていたけれど、見かけることがなくなった今となっては、尚のこと愛おしく感じる。
「いいえ、冷たいな、と」
「風呂にでも入れてくれれば良かったのよ。少なくとも、身体の方は」
「それも楽しそうですね」
「別に貴方と一緒とかじゃないから」
 ぷい、と咲夜は顔を横に逸らした。
 ベッドの上で服をはだけて、髪はタオルで拭いたときにぼさぼさになってしまっていて。そして目を合わせようとしない咲夜。私にはその姿が、たまらなく魅力的に見えた。
 そうだ。このときから既に、私の心は咲夜に奪われていたのだ。こんなのも悪くないな、くらいにしか表象的には思っていたけど、実際には深いところで、心底で、私は咲夜に惚れていたのだろう。
 私は、咲夜の胸の柔らかそうな曲線に、舌を這わせた。できるだけ弱く、触れるか触れないかくらいで。舌先で感じる咲夜の肌は瑞々しくて、冷たくて、甘かった。朝露のような甘さに、それは近かったと思う。
 耳元で、咲夜の吐息が聞こえる。くすぐったさを我慢しているようなその声に、何も感じていない訳じゃないんだなと少しだけ嬉しくなる。調子に乗るように、脇腹に置いた手を軽く躍らせる。感じさせるというよりも、それこそくすぐるように。
 咲夜は身を捩らせた。失礼な話ではあるけど、この人にくすぐりなんて通じないと思っていたから、その反応は意外だった。横を向いていた筈の咲夜が、私をじろりと睨む。くすぐったい、と抗議したいようだ。
「こっちの方がお好きでしょうか?」
 私は、答えを待たずに咲夜の首筋に噛みつく。歯を立てることはしない。私の貪欲な唇に囲まれてしまった喉元を舌先で突き、舌の腹で緩く撫でる。アイスクリームを味わうようなそれも、しかし端から見れば吸血鬼の食事と変わらないかもしれない。
 舌での愛撫にまじえて、時折吹きかけるような吐息と吐きかけるような息吹。ただでさえ敏感な首筋の感覚への、様々な感触の波状攻撃はさしもの咲夜でさえ声を耐えきれないものであったらしい。
 余裕を見せつけるような長い言葉ではない、溢れるような短く高い嬌声。水面が張り詰めるまで注いだ水が、テーブルを軽く揺らすだけで零れてしまうように。
「ほん、とうにっ……初めてじゃ、なかったのね」
「鎌掛けだったんですか。油断なりません」
 妖怪は、人間が思うよりも色を好む。咲夜がそれを知っていると思ったから、冬の寒さを紛らわすような艶やかな過ちに乗ったつもりだったんだけど。
「それでも、貴方とは初めてです。咲夜さん」
 これが、思えば私の初めての睦言だった。それは、咲夜の右耳に、ほぼ零距離で届けられた。そのまま私は、咲夜の耳に寄せた唇から舌を出して、咲夜の耳の裏を舐めた。
「っ――感覚器官を直接なんて、ずるい」
「この口も感覚器官ですので、お互い様です」
 まさかこの油断も隙もないメイド長を相手に、一本取れる日が来るなんて。その高揚感からか、私はわざといたずらっぽく、指を唇に当てて言ってみせた。
 流石にこの程度の挑発に乗る程咲夜も冷静さを失っている訳ではないらしく、冷たいままの瞳で私の唇を睨んだ後、肉食獣のような素早さで、襲うように私の耳を噛んだ。咲夜の口内は暖かくて、全身どこもかしこも冷たいように思っていたけど、当然そんな訳がないことを知らされる。
 身体が冷たい人は心が暖かいんだって。そんな、いつだったかに教わった言葉を思い出す。だとするならば、彼女の心と身体の境界線は、この唇にあるのかもしれない。私が咲夜に与えたのと同じくすぐったさの中で、私はそんなことを思った。
 すると、咲夜の唇が、私の知る中で唯一暖かい彼女の一部が、たまらなく恋しく思えた。だから私は、一度目のキスを彼女に捧げた。彼女とは初めてのキスを、私が望んだから。
 彼女は拒まなかった。当たり前だと言えば当たり前だ。既に彼女の、服を着ていれば見ることのできない部分にまで触れているのだから。誰しもの目に見えるその唇に触れることは、挨拶でもするように当たり前のことだから。
 その触れ合った唇は冷たくて、それでも私は、放さなかった。彼女もまた、私から逃れることはしなかった。永遠の別れを前にした恋人のように、私達は長いキスを交わした。静かな、キスだった。
 やがて、彼女の方からその静けさを打ち消して、私の中に彼女の体温が入り込んだ。無機質で冷たい言葉しか放たないと思っていたその唇から、艶めかしい湿度と温度が私に与えられた。
 応えるように、私は咲夜の舌に自分の舌を絡める。その舌は、もしかしたら私よりも暖かいくらい。咲夜の、私の首を抱きかかえる腕が、少し優しくなった気がした。稚拙な彼女の舌の動きが、それまでの誰のそれよりも、私は好きになった。
 静かではなくなったけれど、相変わらず時計の針は止まっているようで。まるで雨の中に居るようだった。
 それでも止まない雨はなくて、時計の針は動き出す。どちらともなく唇が離れて、舌と舌の間に、混ぜられてしまった唾液が名残を惜しむように伝っていた。
 足りなくなった酸素を吸い込むと、私の口内に煙草の味が混じっていることに気付いた。それが、初めての咲夜とのキスの味だった。
「咲夜さんこそ、初めてじゃないみたいですね?」
「さぁね」
 愛しい咲夜の唇から出たのは、相変わらず冷たい言葉だった。その裏にあった感情や記憶は、私にはわからない。どちらにせよ、これが私との初めてのキスなのだから。
 そう。私と咲夜の初めてのキスはやっぱり私からで、舌を絡めてきたのは咲夜からで、そしてその味は煙草の匂いだった。
 キスの後、私はまた、彼女の身体に手を伸ばした。全身隈なく、確かめるように。十六夜咲夜という一人の人間の形と存在を確かめ、感じるために。咲夜は、もう甘い吐息を我慢しなくなっていた。まるであのキスが何かのスイッチだったかのように、彼女は私の愛撫に身を任せて、素直な反応を見せるようになった。
 首筋に触れれば震える。胸を撫でれば力が入る。その突起を舐めれば声が出る。腹部をなぞればくすぐったがる。
 急ぎ過ぎないよう、そして執着しすぎないよう、一箇所ずつを慣らす程度に愛して、やがて腹をなぞっていた私の指先が彼女の寝間着に触れた。私が着替えさせた寝間着の、下半身を覆う方。脱がせてしまってもいいかと彼女の瞳に問い掛けた。
 口がむっと尖って、咲夜はぷいと顔を逸らしてしまった。どうやら、良いということらしい。私は、彼女が口にしない言葉を、表に出さない温もりを、少しずつ理解できていると思えた。
 下着を残し、ズボンだけに指をかけて引っ張る。先程着替えさせたときとは逆のこと。自分が着させたものを自分が脱がす。たったそれだけのことなのに、そこには特別な意味があるような気がした。勿論それは、ただの気のせい。こんな暇つぶしの延長でしかないことに、特別な意味なんてありはしない。
「下脱ぐと、寒い」
「お布団被りましょうか」
 咲夜の艶めかしい太腿が露わになった頃、そんな声が聞こえた。私は咲夜が下敷きにしていた掛布団を引っ張って、二人分の身体に被せる。咲夜にとっては下腹部までだけど、私にとっては頭まで。視界が暗くなってしまったのは少し惜しいけど、乙女はお腹を温めなければいけないらしいから仕方ない。
「こっちの方がいいわね。あんまり見られなくて済む」
「見られるの、恥ずかしいですか?」
 くぐもって聞こえる筈の私の問いに、咲夜は一拍置いてから答えた。
「好きでも、嫌いでもないわ。私の身体は私の身体で、それ以外の何物でもないから」
「私は好きですよ、咲夜さんの身体。一級品の陶磁壺のようで」
 それ以上、咲夜は答えなかった。ならば身体に訊こうと、暗闇の中でさえ白く雪のような咲夜の太腿の味を、私は確かめることにした。足首辺りで留まっていた衣服を払い除け、滑らせるように両脚の間に手を潜り込ませると、咲夜は自分から、少しではあるけど私が入りやすいように脚を開いてくれた。ここは、他の場所よりも僅かに体温が高いようだ。
 膝と腰の間、左側の太腿の最も膨らんでいる部分から、更に上の方へ。留まることなく、舌が這う。付け根辺りの窪んだところに達したとき、咲夜の身体の反応がより明確だった。私は、そこを唇で愛することにした。今までのような、くすぐる程度の愛撫じゃない。そこに痕を残すことを目的にした、あまりに熱いキスだ。
 私の頬のすぐ近くには、咲夜の最も秘密で大事な場所を守る下着があって、そこに触れることもせず、ただその傍に私の痕を残す。それはとても背徳的なことのように、私には思えた。
 音を立てて口を離す。そこにきちんと痕が残っているか確かめたかったけど、暗くてよく見えない。私は、一度は被った布団を押し剥がす。
「咲夜さん、キスマークつけちゃいました」
「知ってる。案外痛いし、見えないと吃驚するんだけど」
「わざとですよ。ほら、見えますか?」
 咲夜の上半身を起こして、その背後に回り込む。悪魔が人へ、囁くように。
 先程私が吸っていた場所を指差すと、咲夜の視線がそこに向けられた。咲夜の白磁の肌に、微かではあるけれど私のつけた痕が残っていた。物理的には内出血でしかないそれは、確かに私が咲夜の身体に与えた、目に見える唯一のものだった。
「……これ、消える?」
「首元辺りだと、完全に消えるには一週間くらいかかったり」
「ふぅん」
 怒られる、かと思った。咲夜は、自分の脚の付け根、ひどく無防備なその場所に付けられた愛の痕を、慈しむように撫でていた。咲夜と近い視点で見るそれは、一枚の絵画のような光景だった。
「私にもつけますか? 咲夜さん」
「興味ない」
「それじゃあ、こちらの方で」
 一瞬だけ見えた咲夜の素顔のような姿から、またも冷たい態度に変わってしまう。こうして見え隠れする咲夜の知らない部分をもっと見たくて、私はまた、彼女の下半身に手を伸ばす。
 私の右手がまず触れたのは、咲夜の右膝。そこを一撫でして、それから今度は、ふくらはぎの外側へ。行って戻って、膝を通り過ぎて。その辺りで咲夜が大きく息を吸い込んだ。これから訪れるかもしれない刺激に備えた? でも、そんな簡単には覚悟させない。
 咲夜の左耳にふっと息を吹き掛けて脱力を確認した後、空いていた左手で咲夜の乳首を軽く摘まんだ。そして、すかさず脚を撫でていた右手を、更に手前へ。
「や、ぁ……ッ!」
 固くなった乳首の周りを、螺旋状に爪の先で引っ掻く。右手は、既に咲夜のショーツに触れていた。目立たない程度に刺繍があしらわれた、水色の簡素なショーツ。その下にはきっともう一つの、咲夜の体温がある筈だ。
 下着と肌の境界線をなぞる。よく指が滑る肌で、綺麗だった。咲夜の頬が朱く染まっていることに気付いた。綺麗だった。
 今度はクロッチの部分に触れてみた。咲夜の身体は肉が少ないけれど、布越しに触れたその箇所はとても柔らかい。その柔らかさに触れているとつい力を入れてしまいそうで、乱暴にしないよう気を付けながら軽く撫でる。
「緊張しないでください、痛くはしませんから。咲夜さん」
 自分にも言い聞かせるような、そんな言葉。咲夜の喉元が、ごくりと動いた。
「な、まえ」
「はい?」
「さん、じゃなくて……咲夜って、呼んで」
「わかりました。――咲夜」
 そう呼んだ瞬間、自分が自分でなくなってしまったような気分になった。まるで舞台の上で空想上の誰かを演じる役者のように。私は私以外の言葉を辿っているような、そんな感覚。さん、なんて二文字を無くしただけで、こうも印象が変わってしまうとは思ってもいなかった。しかし咲夜は、自身が望んだ私からの呼び捨てを、しっかりと受け入れてくれているようだった。
(こういう顔、できるんだ)
 暫くショーツの上からだけ咲夜の秘部に触れていると、咲夜の顔が段々と蕩けてきて、物欲しそうな目をするようになってきた。頃合いか、と私は咲夜の耳元に唇を寄せ、囁いた。
「『咲夜』が欲しいのは、こっち? それとも、」
 こっち? と今度は咲夜の口元に唇を寄せる。咲夜は、目を閉じた。そして、私の問いに答えもせず、自分から私に唇を重ねてきた。そして、咲夜の舌はすぐに侵入してくる。口内の温度は先程よりも上がっていて、唾液も粘度が高くなっている。
 ――元々、答えなんてどっちでもいい。どちらも与えるつもりだったから。
 私は、咲夜と唇を繋ぎ舌を絡めたまま、咲夜のショーツの上に置いた指の力を少しだけ強めた。より生々しい、湿った感触が指に伝わってくる。咲夜の舌の動きに必死さが増した。まるで、風に吹かれて落ちてくる果物を全て拾おうとでもするように。
 脱がしたばかりのときは、まるで外の寒さをそのまま連れてきたかのように冷たかったのに、私と肌を重ねる内、咲夜の体温は私に近づいてきていた。冷たいよりも暖かい方が、人は性感が高くなるらしい。聞いたのは何十年も前の酒の席だったかもしれないが、そんな与太話を今になって信じられる気がしてきた。
 じゃあそれを使わない手はないと、私はとうとう、咲夜を覆い隠す最後の布をずらして、その内側に隠されたものに触れてみた。湿り気ではなく、液体そのものが私の指先を濡らす。そこに侵入するモノを受け入れ、その動きを潤滑にさせるための、防衛本能による分泌物。知識としては解っているけど、今は私の情欲を昂らせるためのものにしか見えなかった。
「そこ……は、ゆっくり」
 消え入りそうな、本当に咲夜の口から出ているのか信じられなくなるような小さな声が聞こえる。勿論ですよなんて言わずに、私は望まれた通り、咲夜が少しでも痛みを感じないよう、恐怖を感じないよう、そこに触れた。
 その間、私と咲夜の唇は何度か離れ、その度にまた触れ合った。唇が離れると咲夜は目を開けて、触れる少し前には目を閉じる。夢から覚めるように、夢に入り込むように。
 短くはない時間、秘部を慣らすための愛撫とキスが続いた。何度繰り返しても、作業のようだとは思わない。楽しい夢は何度見ても楽しいから。
 何度目かもわからないキスを交わして、唇が離れ、咲夜が目を開けたとき、表面と周囲を押し解すだけだった私の指を、本当に少しだけ、咲夜の秘裂の中に忍ばせた。折角のキスを止めてまで見えるようにした咲夜の顔は、痛みを訴えているようではなかった。一々『大丈夫ですか』なんて心配されたら興覚めだろうから、それを表に出さずに済んだことも併せて安心する。
 咲夜の中は、温かかった。その更に奥は熱いくらいなのかもしれない。確かめてみたい。そんな風に逸って仕方がない気を抑えること自体が、私の心臓を高鳴らせる。
 私の指の動きに合わせて、小さい喘ぎ声を上げる咲夜。もっとこの響きを聞きたい。理性を失って、感じるがままに嬌声を上げてしまう。そんな見たことのない咲夜の姿を、早く知りたい。それを叶えるためには、焦ることは許されない。欲望が生じさせる理不尽な矛盾は、恐らく『こういうこと』の中で最も魅力的な要素の一つなのだろう。
「美鈴、もっと」
 吐息に混じって、吐息と変わらない声がした。
「痛いかもしれませんよ」
「もっと、貴方の好きなようにして」
 貴方の好きなように。その部分は、やけにはっきりと聞こえた。その言葉に、私は恋をした。
 下半身に伸ばしていた手と、咲夜の控えめな胸を様々に弄んでいた手の動きを止める。右手についた咲夜の蜜を、咲夜自身の唇に押し当てた。咲夜は数瞬迷って、私の指を口に含んだ。
「それじゃあ――私の好きなように」
 それは、出来るだけ優しくということ。そしてそれを、咲夜に悟られないこと。
 私は、咲夜の身体を抱き締めた。微かな体温の差、それ自体が咲夜なんだと、私は不思議なことを思った。そして、抱き締めたまま、咲夜をベッドに寝かせた。
「目を瞑ってください」
 戸惑いか不安のどちらかに緊張を混ぜて、それでも尚興奮の色が強いような顔をした咲夜の両眼に、私の掌を被せる。そして、飽きる程に交わしたキスを、もう一度。
 長いキスだった。退屈になってしまいそうな程のキスは、暫くずっと、静かなままだった。
 キスが終わった後、私は咲夜から離れて、咲夜に布団を掛けた。
「おやすみなさい、咲夜さん」

 ――今でも咲夜に『意気地なし』として話の種にされ続ける、私と咲夜の一晩目の話。




「知ってる? 貴方の唇ってすごく柔らかいのよ」
「言われたことがあるような、ないような」
 珍しく、今日の咲夜はすこぶる酔っていた。酔うだけなら珍しくないが、問題はその酔い方。普段なら多少なりとも色のある酔い方をするのに、今日のそれは酔っ払いらしいものだった。
 こういうときの咲夜は、私が会話の選択肢を誤ろうものならすぐ機嫌を損ねるし、すぐに直してまた返答に困るようなことを言ってきたりする。言ってしまえば、面倒になる。いい意味で、と付け加えないと本当に私が面倒がっているようだけど。
「そうだったかしらね」
 どうやら、正解かはともかくとして外れの選択肢ではなかったようだ。
 咲夜は、ワインを水かお茶のように呷っている。ウィスキーは一杯目で私が止めた。こうなる予感がしたからなんだけど、もしかしたらそれは逆効果だったのかもしれない。
「咲夜さんの唇は、そうですねぇ。弾力があって、若々しさと瑞々しさを感じます」
「どうして違うのかしらね」
「歳の違い、でしょうかねぇ。特に見た目的な意味で」
「熟女だものね、貴方」
 見た目的には咲夜と少し違うくらいだと思うけれど、咲夜がそう言うので、そうだということにした。実年齢で言えば熟女どころかミイラだし、熟女の方がまだマシだろう。
 それに、咲夜のくすくすと笑う顔が可愛いということ以上に大きな問題では決してない。
「あーぁ、今日もお酒が美味しい。宿酔いになったらどうしましょう」
「宿酔いの咲夜さんはレアですね」
「レアじゃないわ。存在しないの」
 いざとなったら治るまで時間を止めますわ、と言った咲夜さんは、少し正気を取り戻したようだ。
「それにしても、今日は随分と酔ってらっしゃいますね」
「酔っているように見えて?」
「勿論」
「そう。美鈴が言うのなら、そうなのでしょうね」
 随分と素直に、咲夜は私の指摘を受け入れた。これは、予想以上に酔っているのかもしれない。
 夕方会話したときの咲夜は普段よりほんの少し冷たかった気がしたのに、今となってはこんなにあられもない姿。女心と秋の空、とは言うけれど、それにしたって移り気すぎる。いや、移り気は浮気性のことだったかな。
「覚えてる? 初めてのキス」
「えぇ、勿論」
 つい先程思い出したばかりです、なんてことは口が裂けても言わない。
「あのときも私、柔らかいなぁって、そんなことを思っていたの。その後自分で唇を触ってみたけど、貴方程の柔らかさはなかった」
「それは、見てみたかった姿ですね」
「残念。私の唇の感触を確かめてくれる人が、もう居るから」
 咲夜は自分の腕を枕にして、机に突っ伏した。そのまま私の方を見て微笑む。
 そう言えば、今日は灰皿に吸殻がまだ一つ。普段ならば、ここまで酒が進む間にあと二、三本は吸い終わっている筈だけど、今日は緑の箱、金色の蝙蝠があしらわれたそれに、手を伸ばそうとしない。
「無くなりそうなだけよ」
 と、灰皿をじろじろ見ていることに気付いたのだろうか、咲夜は心を読んだように言った。
「残りあと一本でね」
「それを吸ったら、禁煙ですか?」
「違うわよ。馬鹿ねえ。まだ気付いてなかったなんて」
 しまった。機嫌を損ねてしまっただろうか。酔いが醒めかけていると思って油断した。
「最後の一本の火が消える頃、素敵な夢のお迎えが来るのよ」
 その喩えが、一瞬私には理解できなかった。どうやら機嫌を損ねた訳ではないらしいと安心しつつしばらく迷ったが、「半分正解」としか言われなさそうなアンサーしか見つからなかった。
「マッチ売りの少女、でしょうかね」
「そうよ、正解。さぁ、天使よりも素敵な夢を見ましょうか」
 ――半分ではなく、正解だったらしい。正解だろうと思ったものが半分で、半分だろうと思ったものが正解だなんて。私の頭の回転の遅さと奇妙なツキ方に、自分で呆れてしまう。
 咲夜は、残っていた一本を口に咥えると、自分で火を付けた。紅茶に砂糖を入れるみたいに、それはとても自然な所作だった。
「あれから一年ね、美鈴」
「三百六十七日と、なんでしたっけ」
「もう三百六十八日よ。とにかく、一年と少し。貴方が私を、愛してから」
 その表現には、まるで咲夜が私を愛したのがそのずっと後、という意味が含まれている気がして、胸がちくりと痛んだ。咲夜と今のような関係になったのはその暫く後だったし、あんな一夜で咲夜が私に惚れたなんて、到底思ってもいないけど。
「あのときの貴方、意気地なしだったものね」
「一年経ってもまだ言いますか」
「死ぬまではね」
 ふっと笑って、咲夜は煙を吸い込んだ。
「嗚呼、酔うと煙草が美味い」
「不味い筈では」
「これは相変わらず不味い。美味しいのは、煙草よ」
「煙に巻こうとしてません?」
「煙草だけに、ね」
 自分の冗談に、咲夜は心底面白そうに笑った。難しい冗談を言ったかと思えば、自分の洒落に自分で笑って。やっぱりこういう酔い方は、見ている方からすると面倒と言うのが正しいだろう。いい意味も悪い意味も、そこにはない。
「そろそろ、お水でもいかがですか?」
 酔いが醒めることに関しては最早期待していないけど、せめて悪酔い、宿酔いくらいは防いであげたい。
「んー、お水? そうね、夢が覚めたらいただきますわ」
 またも理解に苦しむことを言って、咲夜はいつの間にやら短くなっていた煙草の火を灰皿で揉み消した。くしゃっと歪んでしまったそれを、一本目の吸殻にぶつけるように、咲夜は灰皿に向かって投げ捨てた。
 それから咲夜は机に突っ伏して、そしてまた、私の方を向いて笑う。
「さぁ、約束通り素敵な夢を見せてもらおうかしら?」
「約束の内容が変わっているような……」
 今、完全に理解した。
 言われてみれば確かに、咲夜は床に入るその直前、必ずかは解らないけど、いつも煙草を手にしていた。初めて咲夜の肌に触れたその日だって、直前ではないにしろ、彼女が煙草を吸っているところを見かけたのが切っ掛けだった。
 咲夜がそんな柿の葉を煎じるようなおまじないを信じる性格だとは思えないけど、しかし彼女自身が言ったのだ。マッチ売りの少女で正解だ、と。いやはや、正解も完全な理解も、私にはまだまだ難しいな、なんて思っていると、咲夜はその間に寝入ってしまったようだ。私が部屋の扉を叩く前から既に寝間着に着替えていたのは、もしかしたらこうなることを予測していたのかな、なんて。
 あの日のような色の頬に私はおやすみなさいのキスをして、咲夜をベッドへ運ぶ。机よりはいい夢が見られるだろう。私が咲夜の夢に干渉できるとしたら、それくらい。あとは精々、寝覚めがよくなるように、片付けをしておくとか。
「私はちゃんとここに居ますよ、咲夜さん」
 咲夜の耳元でそう囁くと、咲夜の表情が少しだけ緩んだ気がした。
 今日の勝負、咲夜が寝落ちて不戦勝。どちらの勝ちかは、言うだけ野暮だ。




 次の日の仕事中、わざわざお嬢様が外に出てきて、『お茶会』の誘いを受けた。昨日のお茶会でそれ程面白いことを言えたとは思えないが、何かお嬢様に思うところでもあったのだろうか。
「なに。招待は主賓自らがして当たり前のことさ」
「そう……なんでしょうかね」
 例えば神社主催の宴会を、巫女が出席者全員に伝えているとは思えないが。それでもお嬢様の中ではそういうルールということらしい。――尤も神社の宴会は、招待があろうとなかろうといつの間にか沢山の妖怪たちでごった返しているのだったか。
「それに、今日は別の参加者もいる。化学反応は思ってもみない物質の組み合わせで発生する、とかなんとか」
 その別の参加者が咲夜だったらいいな、と私は一瞬思った。しかしよく考えてみれば、お嬢様とそのお付きである咲夜、そしてその恋人であり単なる下働きである私の三人でお茶をしても、きっと私は緊張しきりで変なことばかり口走ってしまいそうだから、手放しにいいと言っていいものでもないかもしれない。
「断るなら、理由はなんでもいい。ただ、何度でも誘ってみるけどね。時間の許す限りは」
 そこにどんな意図があろうと、雇い主直々に招待を受けた以上、断る道理はない。そう思ってはいたけれど、そうでなくとも断る理由がないということに私は思い当たる。若干訝しんではいるけれど、それは実際に行ってみれば解ること、だろう。多分。
「喜んで出席させていただきます。今度は甘いものにも手を出して宜しいですか?」
「でしょうね、知ってたわ。軽食は好きにどうぞ」
「ありがとうございます」
「楽しみにしてる。それから、時間まではまだ少しあるわ。精々沢山汗をかいておくと、お茶が美味しい筈よ」
 ふふんとお嬢様は鼻を鳴らして、そこを去っていく。寒いとはいえ決して優しくはない陽差しから身を守る日傘を、お嬢様は自分で支えていた。咲夜の付き添いなしでお嬢様が外に居るのを見るのは、今日が初めてかもしれない。
 館へ向かうお嬢様の背中を、しばらく私は見つめていた。理由は特になくて、なんとなくだけど。その歩の進め方に迷いはなくて、ひたすらに真っ直ぐだった。そして歩幅は小さくて、普段咲夜はこの歩幅に合わせて歩いているのだなぁ、なんてことを思いつく。
 私だったら、それを真似できるだろうか。自慢ではないけれど、並よりは長い私の脚では、うまくお嬢様に合わせることができない気がする。それに日傘の高さも合わないかもしれない。そう思うと、咲夜がお嬢様のお付きをしているのは意外でもなく適切なのだと理解できた。
 咲夜と、お嬢様。その組み合わせは、館の外の存在にとって、この紅魔館の様々な人々の中で最も馴染むものだろう。私は基本的に単独行動だし、妹様も滅多に外と触れ合うことがない、パチュリー様も似たようなもの。
 しばらくこの紅魔館で暮らせば、お嬢様は図書館に赴いたりお気に入りの妖精メイドを眺めて居たりと、咲夜と共にある時間がそれほど長い訳ではないことが解るけど。
 また咲夜も、床を共にすることがある分、一緒に過ごしている時間はお嬢様より私の方が長いかもしれない。ただそれは、誰かに見られない部分だから、表向き一番長いのは、やっぱりお嬢様になるのだろうか。いや、私と咲夜との仲を館の住人が知らないとは限らない。というか、バレていてもおかしくはない。だとすると、いや、それでも――。
 逆接が何度も頭の中でつながって、結局『お嬢様と咲夜の組み合わせが、一番自然』という結論に落ち着いてしまう。それは嫉妬してもどうしようもないことだし、また私なんかが不満を抱けるようなことでもない。だから私はただ自己嫌悪を抱いて、その中に少しの羨ましいという感情だけを混ぜて誤魔化す。
 お嬢様が、館の扉の前に着いた。そこで日傘を閉じて、私、というよりも門の方を軽く振り向く。気付けばずっと見つめっぱなしだった私の視線に気付いたらしく、手を振ってくれた。私は笑顔で、大きく振り返す。
 作り笑顔では、多分なかったと思う。心からの笑顔でも、なかったけれど。




「さて、良く来てくれたわね」
 メンバーはこれで全員、とお嬢様は大きく両手を広げた。メンバーとはつまり、お嬢様と、私と、そしてパチュリー様。その三人のことらしい。
「はいこれ、一応題と巻数を確認してくれる? 探すのを妖精達に頼んだんだけど、どうも仕事が適当でね」
 ブン、と魔法が発動するときの音がして、お嬢様の広げた両手の上から本が数冊落ちてくる。勿論それを受け止めることなどいくらお嬢様でも出来るわけがなく、本はばたばたと床に叩きつけられた。
「本を大事にしなさいよ」
「こっちのセリフねレミィ。他人の本なんだからちゃんと受け止めて欲しいわ」
「他人の、ね。ところでパチェ、あの図書館の本は何処から出ていると思う?」
「神様からの贈り物。信心はないけど」
「悪魔の戦利品よ。信心がないもの」
 言いながらも、パチュリー様は簡単な呪文を唱えて散らばった本を一箇所に集め、まだテーブルクロスが掛けられている以外殺風景なテーブルの上に移動させる。最初からそこに呼び出せばよかったのではないかと思ったけど、私は魔法や魔術の類がさっぱりなので、何も言えない。
 というか、この二人の会話に混じることができる人が咲夜以外に居るのなら、是非そのコツを教えて貰いたい。
「緊張しないでね美鈴。余り話したことはないだろうけど、コイツ、こんなのでも根は極悪人だから」
「中国の五行思想、私も勉強したことがあるわ。よろしく、美鈴」
 お嬢様の言葉を無視して、パチュリー様は無表情のまま私を一瞥して言う。
「よろしくお願いします、パチュリー様」
 緊張しない、なんてできそうもない。苦手という訳ではないけれど、迂闊なことを言えなさそうで、珍しく私が無口になってしまいそうだ。或いは、寧ろ私の発言なんて一切気にしなさそうでもある。
 そんな思いを知ってか知らずか、お嬢様は悠然と椅子に腰掛ける。合わせるように私とパチュリー様も椅子に座って、そしてそれと同時にコンコンコンとドアが三度叩かれる。
「入りなさい」
 ドアがゆっくりと開かれ、見たことのあるワゴンを押す咲夜の姿が見えた。なんだか、少し気まずく思ってしまう。私だけ、なんだろうけど。
「失礼します」
 昨日のそれとは打って変わって恭しく、咲夜が頭を下げる。そして小さな歩幅でワゴンを押して、お茶会の用意を整える。
「お茶はたっぷり用意した?」
「十全ですわ、お嬢様」
 お嬢様の問いに、咲夜は私に見せるのとはまた違った笑顔を見せた。隙がなく垢抜けた、瀟洒な笑顔。お嬢様にとっては見慣れたものなのだろうけど、それは十六夜咲夜という一人の人間、というよりも、紅魔館のメイド長としての完璧な表情だった。
 やがて、先程までは本くらいしか置かれていなかったテーブルは、昨日と同じように紅茶や軽食、各種食器の並べられた豪華な景色に姿を変える。
「下がっていいわ、咲夜。それから、この本を私の寝室に」
 本の山の一番上を手に取って、それ以外の本をお嬢様は指差した。咲夜は時間を止めることなくそれらを抱えた後私達、或いはお嬢様やパチュリー様に一礼して、背中を向ける。
 両手で押すワゴンは軽くなっている筈なのに、先程と同じ歩幅とスピードで、咲夜はドアの向こうに行ってしまった。向こう側で咲夜はもう一度頭を下げて、そしてドアは閉じられた。
「さて、楽しいお茶会の始まりだ」
 ぱん、とお嬢様が柏手を打つ。パチュリー様は、もう一口目の紅茶を味わっていた。一杯目は、既に咲夜が注いでおいたらしい。咲夜が余りにも流麗に準備を整えるものだから、一つ一つの動作が目に見えていなかった。
「おいおいパチェ、気が早すぎないか? 時間も紅茶も、たっぷりあるんだぞ」
「私達の寿命がいくら長くても、紅茶の寿命は短いのよレミィ。本が永く遺されても、それを書いた者がいつかは死ぬように」
「そして本の持ち主は変わる。日々お茶会が違う誰かと開かれるように」
 まずい。このままでは本当に、一つの発言がないままお茶会が終わってしまう。別にそれが悪いという訳ではなさそうだけど、招待してもらった身が無口では、お嬢様の顔を潰してしまう、のかな。
 とにかく何か話さなくては、と私は最も取っつきやすい話題を選ぶ。
「そう言えば、咲夜さんとはお茶しないんですか? 私よりはよっぽどお二人と話が合いそうな」
「奴は、自分の淹れた紅茶を飲まないよ。少なくとも、私の前では」
「成程……メイドとしての弁え、ってやつですかね」
「そんな殊勝な輩だった時期もあるかもしれない」
「毒でも入れてるんじゃないの?」
「私の健康に気を遣うとは。やっぱり殊勝なメイドね」
 毒、か。それが本当にお嬢様のような吸血鬼に効くのかはさておいて、もしもそれが本当だとしても、私はこれを飲み干すだろうか。害があるらしい煙草の煙を、払いもせず真横で吸いこんでいる私のことだ、場合によってはそれでも飲むのかもしれない。
「はっ、冗談だよ。私の紅茶に毒を入れるという咲夜のマイブームは、もうとっくに過ぎた」
「本当だった時期はあるんですね……」
 そう言えば、買い物から帰った咲夜の荷物に福寿草やら附子やらが含まれていることがあったけど、あれはパチュリー様の実験用などではなかったのか。
「残念ながら効いたことはなかったみたいね。不味くて飲めなかったことは?」
「五回、よパチェ。その度にお前を呼んで飲ませてやってるんだから、知ってるだろう」
「良薬口に苦し、よね」
「毒薬が美味いということわざはあったか?」
「探している最中」
「私も探してあげる」
 言って、お嬢様は咲夜に持って行かせる前に山から取った本を開いた。随分古びた表紙に書かれた題名はローマ字とは少し違う文字で、私には読めない。
「おい、なんだこれ。前のから話が飛んでないか?」
「だから巻数を確認してと言ったでしょう。文句なら手伝わせた妖精によろしく」
「そいつは今何処に?」
「今頃湖かしらね。お仕事熱心だこと」
「美鈴、図書館の求人の条件が随分良いみたいよ」
 上手い返しは見つからず、私は困り笑いで誤魔化した。お嬢様はそれを咎めることもなく、本に書かれているであろう文章を追いながら、ついでのように紅茶を啜る。お嬢様を頂点にした二等辺三角形状に配置された椅子の、私の向こう側のパチュリー様と目が合った。
「ごめんなさいね、もてなしの心がない友人で。因みに、緊張しないでという言葉だけは本当よ」
「生憎招待される方が多い立場でな」
「招待されないで入ると巫女か魔法使いが飛んでくるものね」
「厄介なルールだよ。宴会が外で開かれるのが幸いだ」
 会話の最中、やはりお嬢様は視線を本から上げない。お茶会なんて上等なものに慣れていないから知らないけれど、会話とお茶を楽しむだけがお茶会ではないのだろうか。それこそ、宴会が酒肉と喧嘩だけではないように。
 だとしたら、そうか。確かに私が緊張する必要はやはりないのだろう。変な安心の仕方をして、私は紅茶に手をつけないまま、山盛りのスコーンを一つ手に取った。
「そう。そういうこと。思っていたよりも随分賢いようね、美鈴」
「初めて言われました。恐縮です」
 それが純粋な褒め言葉なのか、或いは幼い子を育てるときに掛けるような言葉なのか、私には判断がつかないが、悪い気分になるものでは少なくともなかった。
「それで、こんなことを訊くのも野暮かもしれませんが、今日私は何故呼ばれたのでしょう」
「私は新しいもの好きなのよ。新鮮な肉には新鮮なワイン」
「レミィが本を読むための雑音にされてるのよ、私達は」
「本を読むための雑音、ですか……」
 聞いたことがあるような気がする。人は、静寂の中にいるよりも若干雑音が聞こえた方が集中できるとかなんとか。外での昼寝が気持ちいいのも、その辺が理由なのかもしれない。
「パチェの言った通り。弾幕の流れ弾を心配する必要がなくて、酒臭くもない雑音。私はお前の声が好きなのよ、美鈴」
「それも初めて言われましたねぇ」
 嘘、ではないけれど、十割の真実でもない。咲夜は滅多に私を褒めたりしないけど、稀にスイッチが入ったように私の色んな部分を好きだと言う。そこには声についても含まれていたと思う。
「ふぅん。意外」
「身体の柔らかさとかはよく褒められますけど」
 因みにこれは本当だった。妖精に柔軟体操を見せると目を輝かせてもらえるし、それに役立つことも多い。数少ない自慢の内の一つである。
「成程、確か貴方は体術使いだったわね」
「妖怪としてはそれが本業じゃないんですけど」
「因みに私は身体が固くってね。門番を相手に羨ましいと思うくらいには」
 羨ましい。お嬢様の方から私にそんなことを言うとは。恐らくお嬢様は冗談のつもりなんだろうけれど、私からすれば先程考えていたことを見抜かれていたようで、正直心臓に悪い。
「レミィの場合は不摂生が原因ね。特に美鈴と比べてみると」
 お嬢様が閉じた本を自分の元に引き寄せると、パチュリー様はそう言った。
「パチェは落とした本が拾えない程度にはいいものを喰ってるんだったな?」
「魔女のエネルギー源は魔力なのよ。摂りすぎは身体に悪いけど」
「私は小食でね」
 パチュリー様が本を開く。そして、「あら。この本前にも読んだわね」と呟いた。お嬢様はそれに軽く舌打ちして、サンドイッチを手に取った。先程の言葉を体現するように、それは随分小さなものだった。
「何の本なんですか? それ」
 そもそもお嬢様が本を読むなんて珍しいものだから、私はそれがどんな本なのか気になって訊いた。小難しい学術書には縁がないけれど、物語だったら興味がないこともない。私とお嬢様は、漫画の趣味がよく合うのだ。
「恋物語よ。長い長い、ね」
 お嬢様はサンドイッチを二つに割って、その内の一つを口に放り込む。
「そして悲しい、恋の物語」
 数度の咀嚼が終わって飲み込んでから、お嬢様はひらひらと、残った一つを軽く振る。それが何を暗示しているのかはわからないけれど、お嬢様はその一つを随分と愛しげに見つめて、口元だけで笑っていた。
「説明してあげたら?私がしてもいいけど、ついレミィの知らないところまで口走ってしまいそうで」
「口走ってしまうのもいいが、次に見る景色はお前の知らないところになるぞパチェ」
 どう考えても喧嘩の買い文句にしか聞こえないが、恐らくは止めない方がいいのだろう。その推理は当たっていたようで、お嬢様はふぅと溜息を吐いて、何事もなかったように「そう言えば、美鈴はドイツ語が読めないんだったかしらね?」と私に訊いた。
「えぇ、はい。学のない妖怪でして」
「学を詰め込み過ぎると喉を病むようだから、それでいいのよ」
 やはり、この二人の会話は素直に口喧嘩なんじゃないだろうか。だとしても、私にどうにかすることはできないけれど。
「それで、あらすじのことだったかしらね。話の内容を思い出すのに丁度いいし、教えてあげる」
「恐縮です」
 お嬢様は、改めて椅子に深く座り直した。そして、口を開く。
「これは、ある屋敷に勤める従者の恋の話」
 ――ぐっと、息が詰まったような感覚に襲われる。咲夜さんとの恋愛が知られていたかもしれないことに驚いたとか、そういうことではない。何かもっと大事なことに気付けていないような、そして気付けていないことにだけ気付けたような、そんな気分。
「大丈夫よ。貴方達のことを咎めたりなんてしない、昨日そう言ったでしょう?」
「知っては、いたんですね」
「さぁね。知っていることを知っていてはやりにくいでしょう、とだけ言っておくわ。そしてここからするのは、本当に物語の上での話。それをよく踏まえて聞きなさい」
 そう。知られていること自体は別段問題ではない。少々恥ずかしさだとか照れだとかを覚えなくもないが、その程度。しかしお嬢様は、知っているだとか恥ずかしいだとかの感情よりも奥深く、その先の運命を見ているかのような、そんな瞳を私に向けているような。気のせい、気にしすぎなのだと、私は信じたい。
 パチュリー様が、向かい側から「合ってるし、レミィは嘘を吐いていないわよ」とため息交じりに言った。その言葉に、多少ではあるけど私は救いと安心を覚える。
「話してもいいかしら、美鈴?」
「えっ、あ……はい。お願いします。すいません、取り乱しちゃって」
「随分可愛らしいところがあるのね。――それで、従者が恋をしたのは、まぁ王道ではあるけど、自分の主だった。そして主も、従者のことは憎からず思っているようだった。そんな甘い日々が綴られているのが、第一巻だったかしらね」
「因みに私は一度そこで読むのを止めた。その後に渋いお茶が欲しくなって」
「じゃあお勧めを訊いたときに渡すんじゃない。それも二巻まで一緒に」
 それでその二巻は、とお嬢様は仕切り直す。
「視点者が変わるのよ。今度は別の従者に、ね」
 お嬢様が、二つに割ったサンドイッチの内の一つを取り出した。もうなくなったと思っていたそれは、まだお嬢様の手の内にあったらしい。お嬢様はそのサンドイッチを食べるでもなく、抓んだまま虚空で遊ばせる。
「従者Bから見た主の姿は、それはもう酷いものだった。自分の主であっても軽蔑してしまう程に。女にはだらしない、お気に入り以外の従者への態度は酷い、そして何より、余りにも気まぐれすぎる。そんな主を、従者Bは恨んでいた」
 お嬢様は、サンドイッチを見つめていた。
「そして従者Bは、恨みの他に恋もしていた。主にではなく、一巻の主人公、従者Aに。これもまた、昔の物語には良くある展開。今も、かしらね?」
 サンドイッチに向けていた視線が、今度は私を向いた。お嬢様から借りる漫画は戦闘シーンがメインの派手なものなので、私はその答えを知らない。お嬢様は、くすくすと笑った。
「先程話した通り、従者Aは主に恋をしている。それも、盲目的で献身的で、甘すぎる恋をね。その様が、従者Bにとっては主への恨みを募らせる要因の一つになった。この辺から、まぁ悪くない物語だなって思い始めたわ」
「本当はもう少し情緒のある話なんだけど。レミィ、これちゃんと自分で読んだ?」
「読んだのが寝室でね。静かすぎて覚えていないだけだよ」
 パチュリー様の一言に、お嬢様の表情が僅かに緩む。ただ、従者とか主とか恋とか、そんなワードに一々跳ねてしまう私の心臓は、例えそれが物語のことだと幾ら言われようとも、収まりはしない。
「そして二巻のクライマックス。自分の恨み敵であり恋敵である主、そして恋する従者A、その二人の一挙一動に心を揺さぶられる従者Bは、とうとう衝動的な言葉を聞いてしまう。――主が従者Aと結婚するつもりだ、なんて噂を、ね」
「主従同士の結婚、ですか」
「まぁ、時代とお国柄よね。そしてその噂を聞いた従者Bは、こんなことを考えてしまう。従者Aとは既に寝たのだろうか、とね。主は手が早い、きっと手遅れに決まっている。自分では触れることすら叶わない従者Aの身体に、主はその汚れきった手で、指で、触れたのだろうと」
「それは、なんというか……私だったら、そこで読むのを止めてしまいそうです」
 心当たりがあるのに、心当たりがなさすぎて。
 というか既に、私はこの話を初めから聞かなければ良かったとさえ思っている。
「でしょうね。子供だなんて思わないであげるから、まぁ聞きなさい」
 お嬢様は、愉しそうだった。失礼だと、無礼だと解ってはいるけれど、その愉しそうな表情を、私はとても良いものだとは思えない。私の呼吸が浅くなっているのを感じる。
 パチュリー様が一瞬だけ私を見て、すぐに本に視線を戻す。お嬢様は、サンドイッチを持っていない方の手で、紅茶のカップを持った。それを一口味わうと、「あら、もう冷たくなっちゃった」と残念そうに呟いた。
「それで、そんな想像をしてしまった従者B。その後に、止まらない吐き気を抑えながら、主の元へ向かって――そして、どうしたと思う?」
「私だったら、いえ、私が作者だったら、殺すんだと思います」
「それは、主を? 従者Aを?」
「……主を、です」
 少しだけ、想像してしまう。十六夜咲夜という一人の人間が居なくなってしまうことではなくて、別の誰かに奪われてしまうこと。私は、それでも咲夜を殺したいと思う程憎むことなど決してできない。
 だから、恋する人を奪ったその誰かを、しかもその誰かが元々恨んでいた人間ならば尚更、自らの手で殺してしまうのが自然だと、私はそう思って、そしてそう答えた。
「そうよね。きっと貴方ならそう答えると思ったわ」
「結局、従者Bはどうしたんですか?」
「実はね、私も知らないのよ。私が読んだ二巻は、従者Bが主の寝室へ向かうところで終わってしまったの。不親切よね、本の形を取っているなら一冊ごとに物語が完結するようにすべきだわ」
 でもね、とお嬢様は続ける。片手に持ったサンドイッチが、私に見せつけるように向けられた。
「私はこう思うの。従者Bは、主と寝たんじゃないか、ってね」
 そしてそのサンドイッチは、とうとうお嬢様の口の中に放り込まれた。先程よりも長く噛んでから、お嬢様の喉元を通り過ぎる。私はと言えば、お嬢様のその突飛な発想に驚きよりも困惑を覚えていた。
「驚く程のことでもないでしょう? 恨みを愛と取り違える、愛を恨みと取り違える。どちらも珍しいことではない。それに、どちらも同じようなもの」
「いえ、というよりも、その。勝手に従者Bと主は同性だと思っていたもので」
「それもまた珍しいことではないし、同じようなもの。同性なのは従者同士の方なんだけどね」
 また、心当たりのある箇所が増えた。やはりこれは、私と咲夜とのことを揶揄しているのではないだろうか。決定的に違う部分がいくつかあるから、そうとは判断しきれないけれど。
「だから、本当に物語の話よ?」
「変に誤魔化さないで、誤解を招きそうなところは先に言いなさいなレミィ。詐欺師じゃないんだから」
「理解ある心の広い雇い主を目指しているのよ」
「目指す最中でしょう。ごめんなさいね美鈴、レミィが私に頼んだのは、『同性愛が出てくるお勧めの本』だったのよ。悪気はないと思うわ」
「実際ないわよ。ただキーワードとして頭に残ってただけ」
 あはは、と私は苦笑いしか返すことができない。普通に、恥ずかしい。
「それでどう思う? 私の考えたこの後の展開について」
「恨みが愛情に、とかは私には解りませんが……そうですね。私が理解できるように解釈したら、従者Aを抱いたその腕に抱かれることで、従者Bは愛する人を感じようとしたとか」
「ふぅん? それもまた、猟奇的な発想ね。嫌いじゃないわ」
 いつの間にか、お茶会らしい雰囲気に戻っているようだ。尤も、先程までも私が単に咎められていると思い込んでいただけなのだろうけれど。
「ま、それが正解か知っているのは、ここにはパチェだけなんだけどね」
「ノーコメント。ネタバレはほんの少しが命取りだから」
「つまり詐欺師がする方の沈黙か」
「失敬な。無実の罪人がする方よ」
 私は、二人の会話を聞きながら手に持ったままのスコーンにかぶり付いた。小気味の良い音ではあったけど、歯が立ったところからぱらぱらと粉が落ちてしまう。私は、服についてしまったそれを払っていいのか逡巡して、結局そのままにした。
「それで、パチュリー様が今読んでらっしゃるのが三巻……いいえ、四巻でしたか」
「いいえ。これは一巻の方よ。そして今レミィの寝室にあるのが、二巻」
「パチェ、お前さては本を呼び出した時点で巻数が違うことを知っていたな?」
「残念なことに、この紅魔館の図書館にはそれ以降の続きが所蔵されてないようなのよね」
 お嬢様の言葉を無視して、パチュリー様は本を置き、肩を竦める。
「やっぱり詐欺師の方の沈黙じゃないか」
「訊かれたから答えたのよ」
「それを詐欺師の沈黙と呼ぶ。知らないなら訊いてやるが、パチェ。お前は、この後従者Bはどうすると思う?」
 お嬢様の問いに、パチュリー様は暫く考える素振りを見せた。どうやら、この続きを知らないというのは本当らしい。
「そうね、主の寝室に向かったなんていうのはミスリードで、実は従者Aの元にでも向かったんじゃない? それこそ、愛情を恨みと取り違えたのかもしれない」
 私はその本を読んでいないから解らないけれど、もしそうだったら一番平和だなと思った。まさか、従者Bが従者Aを殺すなんてことはないだろう。それこそ三巻は一巻と似ていて、従者同士の甘い日常を描いているとか。
 ――と思ったけれど、やはりそれは読んでいて余りに退屈そうだ。やはり私に物語の先を考えるなんてことは難しい。
「二巻を読んで確かめておくよ、ミスリードかどうか。どうせ今は読書の気分じゃない、一巻の方なんて尚更だ」
「あら、じゃあどんな気分なの?」
「本よりも楽しいことをしたい気分だよ。ああ、月が満ちていくわね」
「満月は暫く先よ」
「私が決めればその日が満月なんだよ」
「十六夜には私が眠るということね」
「よく分かってるじゃない」
 難しい会話だった。いや、先程よりもずっと簡単だけど、簡単が故に行間が読み辛い。
「ああそうだった。貴方には休暇をあげるわ、美鈴」
「休暇、ですか? それはまた、突然な。というか私、ここに居るのも休暇もそれ程変わらない気がするんですけど」
 野良で生きていては食うにも困るであろう私にとっては、寧ろここでの生活の方が余程モラトリアムを満喫できているとすら言える。ここ数ヶ月は、特に。
「いいから、雇い主が休暇と言ったら休暇なのよ。数少ないまともなお茶会相手に死なれても、困るしね」
「死ぬって……休暇の間に、何かなさるおつもりだったりとか」
「半分正解」
 半分じゃなくて全部よ、とパチュリー様が横槍を入れる。
「私は種を撒くだけよ。耕しもしないし水も遣らない、収穫流通も人任せ」
「何にせよ、ここに残らせていただく訳には行かないってことですね」
「そうね。食うに困らない程度のお駄賃はあげるから、暫く好きに暮らして頂戴。今日くらいはここで寝ていくことを許すから、明日には出ること。因みに、里の人は取って食わないように」
「妖怪退治に本気を出されるのは見たくないので、そうします」
「聞き分けがいいのね。それに私も、そんな姿をもう見たくはない」
 随分昔の記憶となってしまった紅い霧騒動のことを、私は思い出す。あの時は確か紅魔館の住人全員で、巫女や魔法使いを歓迎して、不謹慎かもしれないが楽しかった。最近は他の場所でそういうことがあったとも聞かないし、この幻想郷の変化は大きいんだろうなぁなんて、身の丈に合わないことを考えた。それに比べて、私と咲夜との関係やお互いへの感情の移り変わりなんて些細なんだろうと思えるくらいに。
「堅苦しい話はもういい。お茶会を再開しましょう。そうね、バレてることもバレたことだし、貴方達のことを聞かせてもらおうかしら?」
「いやー、恥ずかしいというか私がしていい話ではないというか、出来れば他の話題で」
「恥ずかしがることはないわ、誰にだってあることだもの。例えば私にも……ねぇパチェ?」
「さぁ。レミィがつまみ食いに熱を上げてた時期なんて覚えてないわ」
「お前との関係は特別だったさ」
「じゃあ私がつまみ食いだったのね。あらやだはしたない」
 捨て置けない内容の会話なような、そうでないような。この二人ならあり得るようにも思えるし、実際になかったとしてもあるように思わせるくらいは簡単だとも思う。
「何を妄想してるのよ美鈴。何もなかったわ、こんなちんちくりんとは」
「ただ少し、文学的な雰囲気に憧れてな」
「文学っていうか、耽美よね。付き合わされる身にもなって欲しいわ」
「と、このように。どんなことがあっても、後から振り返ったときに見えたものだけが記憶には残る」
 それはつまり、数年、或いは十数年、数十年と経ったあと、今私に見えている景色とは別のものが見えてしまう可能性があるということなのだろうか。年長者の言葉はいつだって耳に痛くて、実感しにくい。
「咲夜さんは、どう思っているんでしょうかね……いえ、これからどう思うんでしょう」
 質問というよりも、それは自分に刻む込むような言葉。独り言だと判断されたのだろうか、お嬢様はふっと一つ息を零すだけだった。
「歴史は過去のもの。明日のことさえ、記した本は存在しない。トンデモ予言の書は、案外多いのにね」
「パチェ、お前私の能力を覚えているか?」
「運命は過去になってからそれが運命だったと知るのよ」
「そして運命は過去によって定まる。時間は進むもので、止まることはあっても戻らない、か」
「やっぱりつまらないわね、これ」
 パチュリー様が本を閉じた。そしていかにも飽き飽きしたと言いたげな表情で、その本をテーブルに放る。
「じゃあ面白い話をしよう。美鈴、お前は咲夜をどう思っている?」
「恥ずかしいですけどやっぱり、好きですよ。仕事も凄いし、頭も良いし。勝てない部分は沢山あります」
 自分が思うよりもずっと簡単に、そんな文句が出てきた。惚気でしかないそれを、お嬢様は楽しそうに聞いてくれた。恥ずかしいというのは本当だけど、それでも誇らしさのような感情が勝る。私のことではない筈なのに、それは自分を褒められるよりも強い感情。
「咲夜は幸せ者ね、そして人を褒めるのは素晴らしいこと。でも美鈴、敢えて老婆心から一つ教えてあげる」
「『質問は質問で返すこと』、でしょう?」
「そう思うかしら?」
「要するに、レミィは貴方から訊いて欲しいのよ。お嬢様はどう思ってるんですか、なんてね」
「酷く不本意ではあるけど、パチェの言う通り」
 本を手放して手持無沙汰になったパチュリー様が、スコーンを小皿に取ってナイフとフォークでそれを小さく切り分けた。そうか、そうすれば欠片がこぼれることなく食べられるのか。
 今度はそうしてみようと思ったら、更にパチュリー様はその切り分けたスコーンにジャムを塗ってからそれを口に放り込んだ。
 なんだか勉強になることが多すぎて、これを終えた後知恵熱でも出さないか心配になる。
「改めて訊かなくてもいいわ、美味しいお茶のお礼に答えてあげる。そうね、咲夜のことは、とても優秀なメイドだと思ってる。それだけ」
「勿体ぶった割には、不親切な答えね」
「美鈴が聞きたいのは別のことだと思って、ね。例えば――」
「咲夜さんがお嬢様をどう思ってるか、ですね」
 やはり、何もかも見透かされている。改めてそう気づいて、私は降参するようにその問いを表に出した。それが本来、咲夜に訊くべきことだとは解っているけど。
「全然解らない、というのが正直なところなんだけど、そうね。アイツは決して、私のためには死ねるとか、そんなことは考えていないでしょうね。それだけは解る」
 既に用意されていたかのように、お嬢様はそう言った。
 咲夜は、お嬢様のために死なない。お嬢様のそんな考えに、半分くらいは納得できた。
「そして私のために生きるでもなく、死なないことも選ばない。全く、優秀なメイドで困ってしまう」
「レミィのために死ねるなんて言った奴が、本当に死んでいっただけじゃない」
「居たかなぁ、そんな奴」
 お嬢様は頬杖をついて、真剣に悩んでいるような姿を見せた。確かに、お嬢様のための死が報われることはなさそうだ。
「美鈴のために死ぬかは、まぁ私には解らないわね。休暇中に考えておいて頂戴。教育的に言い換えれば宿題よ」
「宿題、ですか。そう言えば私明日から休暇なんでした」
「休暇をどう過ごすかは自由だけど、取り敢えずここには居ないように」
「はい。羽を伸ばしてみようと思います」
 未だ何か妙だなと思ってはいるけど、お嬢様に問い詰めてみたり頭脳活動で解き明かしたりすることは私に向いていることではない。気の流れるままに、そしてお嬢様の言葉通りに過ごしてみよう。
 不思議と、私はそんな澄んだ気持ちで居た。或いは、諦観の領域に達していたのかもしれない。
「あらもうこんな時間なのね。まだ余りがあるけど、そろそろお開きにしましょう」
「こんなに美鈴を独占していると怒られちゃうものね」
「あはは。そんな人気者になれたらいいです」
 ぱちん、とお嬢様が指を鳴らす。咲夜が、ドアから入ってくるのではなくお嬢様の横に直接姿を現した。その傍らには、空になったワゴンもあった。まさか最初から居たのではないか、と一瞬全身の血液が一斉に冷える感覚を味わう。
「因みに咲夜、お茶会の間何をしていた?」
「掃除が少々と、料理の下拵えを」
「そう。じゃあ、このお菓子も一緒に掃除しておいてくれる? 折角だから美鈴に少し持たせてあげて」
「畏まりました」
 咲夜が私を一瞥した。咲夜が突然姿を現したことへの驚きが未だ冷めていなかった私の顔に対して特にコメントすることもなく、咲夜は片付けを始めた。
「因みに咲夜、貴方は私生活が仕事に影響する?」
「お嬢様がお望みであれば、なんなりと」
「じゃあさせないように。命に関わるような楽しいお仕事だったら、好きにしていいわ」
「それはまた、心の広いご判断で」
 あっという間に、散らかっていたに等しいテーブルの上が片付けられていく。その素早さも、一つ一つの所作でさえ、私には一生掛かっても真似することが出来ないだろう。
「あら、お土産を包む布がありませんわ」
「あとで持っていってやればいいわ。冒険の前には大きいパンが付き物だからね」
「拾い食いなんて紅魔館の沽券に関わりますからね」
 やがて、テーブルの上はお茶会の前と同じ状態に戻る。
「美鈴、片付けを手伝ってくれる?」
「え? あ、はい。わかりました」
 私の存在なんて置物くらいにしか見ていないと思っていた咲夜に声を掛けられ、驚いてしまう。その顔を見るとどうやら付いてこいということらしく、私は慌てて椅子から立った。
「それじゃあね。またお茶会に誘うかもしれないわ。どちらもが生きている限りはね」
「はい。楽しみにしています」
 ワゴンを押す咲夜のゆっくりとした歩調に合わせながら、お嬢様の方を振り向いて小さく手を振る。お嬢様は軽く手を挙げて私に応え、パチュリー様も視線だけで返事を返してくれた。
「さぁパチェ。懐かしく甘き日の思い出話でもしましょうか」
「黴臭く不味い日の間違いではなくて?」
 そんな二人の会話を聞きながら、メイドとしての役割を果たす咲夜の横を歩いていく。先程までのお二人との会話の影響か、それとも咲夜が仕事モードなせいか、私からは口を開けずに居た。
「……何を変に緊張してるの、陽気が取り柄の貴方らしくもない。お二人に私の浮気でも密告された?」
「まさか。浮気してます?」
「乙女は、現実にも虚実にも一緒に恋ができるのよ」
 その隙のない返答に、私はある感情を思い出した。それは、お茶会の前に考えていたこと。即ち、表向きには咲夜とお嬢様の組み合わせが最も有名だなんて羨ましいなぁなんていう、子供みたいな感情のことだ。
 お嬢様達とのお茶会を通しても、その感情を上手く片付けることは結局できなかった。様々なヒント、導きを貰ったような気もするけれど、私はそれを活かすことなどできないだろう。こういうときに、もう少し頭が賢ければと思う。
「因みに、美鈴は浮気が許せない方?」
「悔しいですけど、咲夜さんが戻ってくるならそれでいいですね」
「ふぅん。まぁ、そういうのは実際にその状況にならないと解らないものらしいけどね」
 居なくなってしまったらどう思うかと同じように、と咲夜は言った。確かにそうなんでしょうね、と私は月並みに返す。
「って、咲夜さん。館の中でこんな話」
「どうせみんな知ってるわよ。知っていることを知らなかったのは貴方くらい」
「やっぱり、そうだったんですか」
「隠す気もなかったけどね。知られていた方が好都合なこともあるもの」
「知識は力なり、でしたっけ」
「そして無知が無力とは限らない」
 ガラガラとワゴンの車輪が回る音がする。部屋や塀の外で話すときは基本的に静かだから、私にはその環境音が少し邪魔に思えた。
「さて、貴方はここまででいいわ。どうせ私と貴方が並んで歩いているところを見たかっただけでしょうし」
 車輪の音が止まったのは、洗い場の前だった。中には何匹かの妖精がふよふよと何をするでもなく漂っている。
「あれ? 片付けを手伝うとかは……」
「どうせ真面目な方の妖精メイドがやってくれるわ。それと、先に私の部屋に戻ってていいわよ。酒は勝手に飲まないように」
「咲夜さんはまだお仕事が?」
「館の外に、いくつか言伝を預かっていてね」
 そう言って、咲夜はワゴンを洗い場の入り口に置いてそこから去ってしまう。心に抱えた馬鹿な悩み事どころか、お嬢様から休暇を頂いて明日には館から出なくてはいけないということすら、私は伝えられないままに。なんだか、タイミングを外された気分。
 お嬢様からお茶会に招待されて以降、他人の言葉で浮き沈みを繰り返した私の気分が結局沈んだままで、一人ぼっちになってしまった。珍しいことでもない筈なのに、私はそれが、ひどく悲しいことに思えた。




 独り、私はベッドの淵に座っていた。それまでの間には部屋を意味なくうろうろしたり、窓の外を眺めてみたり。まるで初めてのデートを前にした若者のような挙動不審の中で、私は色んなことを考えた。ここから出ていくなら、最後に咲夜とたっぷり愉しんでおこうかなぁなんて馬鹿なことから、お茶会で交わした会話のこと、そして答えの出ない自分の感情のこと。
 時間としては、やはり最後のそれを最も長く考えていたのかもしれない。しかし同時に、それは最も収穫のなかったことという意味でもある。何度お二人の言葉を思い返し、如何に解釈してみたところで、結局私が一番見つけたい答えへの道筋すら見つけることができない。
 そもそも考えること自体に意味がないというのも、理解している。咲夜と話したじゃないか。世の中には、実際にその状況になってみないと解らないものがある、と。
 咲夜さんがお嬢様のことをどう思っているのか、なんてこともそうだ。訊いてみなければ知ることができないどころか、本人しか事実を知り得ない。
 ――それでも勝手に考えることはできてしまうから、厄介なのだ。賢くなることができないならば、いっそ本当の無能になってしまいたい。そうすればきっと、私はただ純粋に咲夜を好きなだけで居られるだろうから。今のような嫉妬になりきらないうじうじとした思考、従者Bのような愛と何かの取り違え。そんなものから、きっと無縁になれる。
 いっそ本当に浮気されていればいいのに、と思った。咲夜は本当はお嬢様とも愛し合っていて、ピロートークの中で鈍感な私を馬鹿にするとか。そうなれば、『実際にそういう状況』と言うことができるのだから。どんなものであるかはともかく、感情について確実な答えを出せる。
(失礼、なんだろうな)
 口に出さないとは言え、お嬢様にも咲夜にも、妄想するだけで余りに失礼だ。それでも――それでも。
 口づけを交わすときの咲夜の顔が思い浮かぶ。彼女はいつも、目を閉じていた。まるで、私の顔を視界から隠すように。
 情事の中での、吐息混じりな咲夜の声を思い出す。彼女の秘部に触れる前、彼女はいつも呼び方を変えるように乞うてくる。まるで、私を私でなくさせるように。
 不味いと自分で言いながらも、毎日咲夜が吸い、吐き出す煙。それは咲夜にとって、とても大事なものなんだろう。お嬢様から貰ったプレゼントと言えるくらいに。
 一つ一つの想起が、肺の後ろを刺す。心臓に、中から穴が空けられたかのような痛みと苦しみが集まり出す。なんだ、私は結局辛いんじゃないか。咲夜がはっきり何かをした訳ではなく、当然証拠になるようなことも一つとしてなく。それでも、考えるだけで苦しくなってしまうんじゃないか。
 それは、一人ぼっちの時間で唯一見つけられた、不確かな答え。
 私は、咲夜を誰かに取られたくない。取られると思っただけで、死に際にあるかのような苦痛を覚える。
 咲夜を誰かに、取られたくない。他の誰かとキスをして欲しくない。他の誰かに触れられて欲しくない。私以外の誰かを大事に思うことすら、ひょっとしたら耐えられない。私とだけキスをして、私の耳にだけその声で囁いて、私のことだけを考えていればいい。
 本当に叶ってしまったら、余計に苦しくなってしまいそうな欲。私は随分、醜くなってしまった。本当に叶えて欲しいのは、それでも咲夜に嫌われたくないということなのかもしれない。
「寂しいですよ、咲夜さん」
 ――そんなことを呟いてみても、咲夜が姿を現すことはない。相も変わらず、私は独り。
 どれだけ酷い気分であったとしても、きっと咲夜が隣に居てさえくれれば私は馬鹿みたいに元気になる。
 戻って来ない咲夜を思って、ばたりと背中をベッドに倒す。シーツからは、解ってはいたけどどんな匂いもしなかった。咲夜自身の匂いも、煙草の匂いも。この部屋が世界中のありとあらゆるものから隔離されてしまったような、そんな錯覚さえ覚えてしまいそうだった。
 一端感情が底まで落ちて、そこからふっと、自然に思考が切り替わる。そう言えばお土産として貰える筈だった分の軽食を受け取っていないなぁ、なんて。ワゴンにそれが載ったまま、咲夜は洗い場の妖精メイド達に預けてしまった。伝言もしていなかったようだから、今頃妖精メイド達が食べたか別の処分をされたか。
 貰えないと解った途端、紅茶と一緒につまんだスコーンのバターの香りが恋しくなる。あれは美味しかったし、咲夜の淹れた紅茶も美味しかった。お嬢様の最後の一言が社交辞令ではなく、本当にまたお茶会に誘って貰えることを期待しよう。
(寂しくても、お腹は空く)
 お腹が鳴る程ではないけれど、心の空洞とは別に腹部に不足感を覚える。
 先程まではあれ程悩んでいたというのに、今はもう食べ物のことを考えているなんて、やっぱり私はお気楽な性格をしているのだろうか。それもまた、悩むべき要素な気がしてきた。そして、こういうことを咲夜と話せたら楽しいのかなとも。
 ベッドの上の天井が、やけに高く感じる。そして、その高さが徐々に下がってきているように見えた。勿論気のせいか目の錯覚なのだろうけれど、低くなって私に迫る天井とリンクするかのように、柔らかな眠気が私を襲う。
(あぁ、寝ちゃう……)
 まだ咲夜と会っていないのに。瞼は意思と関係なく重くなって、それとは逆に頭の中に眩い光が差す。咲夜の痕跡を感じさせない部屋の中で、記憶の中の咲夜を私は「おやすみなさい」と抱き締めた。ふわりと、咲夜の香りがしたと思う。




 退屈に身を任せ、私は人里と妖怪の山の入り口を境する門を遠くからひたすら眺めていた。館から出る前の夜見たのは三日月で、昨夜見たのは上弦の月だったと思う。その間変わったことは特になくて、そして休暇終了の報せもなかった。
 この場所を選んだのに理由はない。出立の朝から気の赴くままに歩いて、最初に疲れを感じて休んだのが、この辺りだったというだけ。それから結局、お誂え向きに一本だけ生えた大木を拠点にして時間を潰していた。
 余りに時間があるものだから、周囲数百歩の範囲にある植物の配置、小石の位置まで覚えてしまった。それくらいに退屈ではあるものの、別段寂しさを覚えなかったことが救い。
 何日か前、お嬢様に言われた言葉を思い出す。
『それは貴方がどこに居たって同じように生きられるからよ』
 そのときは実感がなかったけれど、しかしどうやらそれは真実だったようだ。この数日間は、紅魔館の門番をしているときとそれほど変わらない。周囲に妖精も妖怪も人間も見当たらないという静けさに最初は違和感を覚えたけれど、今となってはすっかり慣れて、風の音で充分に思うようになっている。
(そう言えば、昨日はやけに眠かった)
 まるで、この日々が始まる前、三日月が昇っていた夜そうだったように。運動をした訳でもないのにこれ程眠くなるとは変だなと思いつつ、しかし何もしていないからこそ眠くなったのかもしれない。退屈だから寝る、なんて発想が今更湧くとは、私の身体は随分鈍い。
 折角の休暇だ。誰にも文句を言わせず眠れる限り眠り続けるという時間の潰し方も悪くはない。あと一週間それを続ければ、確か満月になる筈。もしもそこまで私の休暇が続くようなら、そのときには宿替えを試みてみよう。
 今までは何故かこれ以上足を伸ばす気になれなかったけど、満月の光を浴びれば多少は元気が出るだろう。満月は、妖怪である私にとって、特別な月。
 そしてその次の月は、私の恋人でもあり、紅魔館のメイド長である彼女の名にも冠された十六夜だ。その月を、特等席で見てみるのも悪くない。そうしたら、咲夜と一緒に居る気分になれるだろうか。
 門を見下ろしながら寝返りを打つと、ちりんと涼しい音が聞こえた。誰か訪問者でも来たのだろうかと思ったが、それは私の懐に仕舞われた小さな麻袋につけられた鈴の音だった。その小袋は紅魔館を出るとき妖精メイドに手渡されたものだった。曰く、お嬢様から預けられたもの、と。『困ったときに開けなさい』という言伝付きでもあった。
 恐らくは、休暇中のお駄賃とやらだろう。結局それが必要になる機会がなかったので、肌身離さず持っていた割にすっかり存在を忘れていた。
 この数日間、思えば私は何も考えていない。麻袋のことも、咲夜のことも、そしてあれ程悩んでいた筈のことも。無我のような無思考で何十時間も過ごせるとは、いっそ笑えてしまう。
 そしてその瞬間。今まで滞っていた思考が堰を切ったように溢れ出す。数日間分の全て、ではない。溢れるように押し寄せてきたのは、咲夜とのことだけだった。いっそ月の方の十六夜でいいから一目見たいと思う程、私は急に咲夜への恋しさを感じた。
 バケツの水をひっくり返されたような、それは寂しさで。ティースプーン一杯分の涙が頬を伝っていることに私は気付く。
(寂しいというのは、『困ったとき』に含まれるのだろうか)
 やけに冷静な思考で、縋るように懐の小袋を取り出す。皮紐が軽く結わえられていて、その紐の先の鈴がまた、ちりんと鳴った。私は紐を解いて中身を覗く。
 中にあったのは、小銭でも紙幣でもなく、見慣れた緑の箱と、これまた見慣れたマッチの箱だった。
 煙草と、マッチ。もし私が食うに困ってこれを開いていたなら、尚更困ることになりそうだ。しかし、今この状況では、余りに適切すぎるか、或いは皮肉が過ぎる。
 あのお嬢様は、一体どのような運命を見たのだろう。そんなことを思いながら、煙草とマッチを取り出した。これを売って金にしろ、ということでなければ、『一服して冷静になれ』という意味なのだろうか。
 元々喫煙の習慣のない私にとって意味があるかは解らないけれど、少なくとも退屈凌ぎにはなるかもしれない。立って、服についてしまった草を払い除ける。すっかり私の住処にしてしまっている大木に、私は背中を預けた。
 私は記憶の中の咲夜の所作を真似して、煙草の箱から一本取り出し、吸い口を軽く潰して唇に挟む。火をつける前から香りがして、クセはあるがそれはそれでいい香りに思えた。
 そしてマッチを身体の内側に向けて摺る。ぼう、と音を立てて火が上がった。一瞬でその火は小さくなって、消えてしまわないようにゆっくりとその火を口元に近づける。最初は上手く火が移ってくれなかったけれど、軽く息を吸うと、煙草の先端が赤く染まった。
 同時に、煙が口内に入り込む。咲夜の隣で吸っていたそれよりも当然刺激が強く、匂いはマシに感じた。そして、なんだか変な懐かしさも覚える。これが咲夜の愛した味か、と思ってはみたものの、やっぱりそれは不味かった。苦いし、口内の水分が奪われていくようだ。
 確かこの煙をもっと深くまで吸い込むんだったか、と私は思い出して、煙草を口から離し、更に一息吸い込む。
 喉元、そして肺が、病に侵されたように苦しくなった。何故こんなものを態々吸うのだろう、と私は素直にそう思って、さっさと煙を吐き出した。吐き出す時も、やっぱり喉が苦しくなった。まるで、叶わない恋をしているようだった。
(幻も見えないし、ね)
 私の吐いた煙は冬の陽射しの中をもくもくと立ち昇っていった。そこには、ご馳走も家族の優しい顔も天国も、そして咲夜の横顔すらも見えない。
(ああ、空気が美味しい)
 改めて吸い込んだ自然の空気が、薄く味がついているように感じる。こっちの方が煙草よりも余程美味しいだろう。先程までは、何も感じなかったけれど。
「あら、こんなところに不良外国人」
 ――そんな声が、遠くから聞こえた。
 慌てて声の方向を見る。そこには、誰も居なかった。
「馬鹿ね。こっちよ」
 今度は、向いたのとは反対側から声が聞こえた。そして、今度こそそこには声の主。
 十六夜咲夜が、そこにいた。
「咲夜、さん」
「随分探したのよ。まさかと思って門の周りを歩いてみたら、こんなところに居たなんて。貴方がワーカホリックだったとは知らなかったわ、美鈴」
「ほ、本当に咲夜さんですか。幻とか、夢じゃなくて」
「残念ながらマッチ売りの少女は架空の話よ。私が何度も試したもの」
 銀色の髪。私よりも低い身長。細い身体にはメイド服。携えているのは、一つの大きなバスケット。蒼の瞳が、私を見つめていた。幻ではない咲夜が、現実の私を見上げていた。
「早速で悪いけど、私にも一本貰える? 貴方が私の部屋でぐーすか眠っているのを見て以来吸う気が失せちゃって、置いてきたの」
 夢を見せてくれる人もいないしね。咲夜はそう言って、重そうなバスケットを木陰に置いた。
「あの、私達結構久しぶりでしたよね」
「だから言ったじゃない。悪いけど、って。私だって貴方が煙草を吸えたことに驚いてるんだから、おあいこってことにしてくれないかしら」
「咳き込みはしませんでしたけど、不味かったです」
「でしょうね」
 咲夜は、くすりと笑った。その顔は間違いなく、私が愛するものだった。
「……あー、っと、咲夜さん。この煙草の残り全部差し上げても構いませんが、幾つか変な質問をさせていただいても?」
「あら、随分会話が上手になったわね。どうぞ? 貴方が訊いてくれることならば、何だって答えて差し上げますわ」
 今度の笑顔は、冬の太陽のような、素敵な笑顔。
「咲夜さんが、キスをするとき必ず目を閉じるのは何故ですか?」
「本当に変な質問ね。決まってるでしょう、恥ずかしいからよ。もう一度同じ質問をしたら、貴方の額にはナイフが刺さるわ。答えてはあげるけど」
 やはり、そうだろうな。不思議と、咲夜の当たり前の答えが、当たり前に受け入れられた。
「じゃあ、咲夜と呼ばせるのは」
「特別感。喧嘩売ってたりする?」
「いいえ、驚くべきことに、全く」
「そう。私が照れないと思ってるなら少しお仕置きをしてあげたいところだけど、質問はこれで終わり?」
「あと一つ……いえ、あと二つだけ」
「私が煙草を止めないのは、止められないから。不味いけど急に恋しくなるのよ。貴方にもいつか解るわよ。それとも、もう理解できてるかしら」
「いいえ、これが一本目です。それと、質問が一つに減りました」
 ああ、私は本当に馬鹿だったんだなと、全身の力が抜けたような感覚。私は、咲夜の瞳を見つめ返した。咲夜は笑っていたし、私も少し、笑っていたと思う。
「咲夜さんが、世界で一番愛しているのは誰ですか?」
「決まってるでしょう。貴方よ。誰に何度同じ質問をされようと、私が私にそれを問おうと、私は淀むことなくそう答える」
 知ってました。そんな言葉を口から出す前に、止まっていた筈の涙が、もう一度私の目から溢れた。笑いながら泣くなんて、咲夜に何を言われるだろう。どんなに馬鹿だと言われても、私はそれに、笑える気がした。
「数日会わないだけで泣くなんて、案外情が深いのね。それで、質問は今度こそ終わり?」
「――はい。咲夜さんに訊きたいことは、もうありません。どうぞ」
 私は、緑の箱をそのまま咲夜に渡す。咲夜は一本を取り出した。
「あ、すいません。今マッチを出しますので」
「火ならもう、そこにあるのではなくって?」
 咲夜が指差したのは、私が一口だけ吸って指に挟んだままの吸い掛けの煙草。
「えっと」
「いいから。それを咥えて、動かないで」
 言われた通りにすると、咲夜が私の頭をぐっと抑えつけて、自分の頭の高さと合わせた。そして、咲夜の咥えた煙草と私の煙草の先端同士が触れ合い、私の煙草の火が少しだけ咲夜の煙草に移った。その間、咲夜は瞼を閉じていた。
「ふふ。初めてしたわ、こんなこと」
「……私も、です」
 少しだけ吸い込んだ煙草の煙が、私の口内に広がった。少量だったためか、或いは一口で慣れてしまったせいか、その味は先程よりもマシだった。
 そしてそれは、咲夜とのキスの味に、少しだけ似ていた。
「そう言えば貴方、休暇がいつまでか訊いた?」
「いいえ。咲夜さんが終了を告げに来たのかと」
「言ってなかったかしら、私も休暇中なのよ。それで、貴方と過ごそうと、ね」
「それは、光栄です」
「多分直ぐに一緒に帰還の令が下るでしょうけどね。せめてそれまでは一緒に居ましょうか」
「帰っても、一緒ですよ」
「知ってる」
 咲夜は私の横に。そして私は、咲夜の隣に。煙の見せる幻ではなく、近すぎて見えなくなることもなく。
「咲夜さん、愛してます」
「それも、知ってる」

 十六夜咲夜はここに居る。その手には、不味い煙草を携えて。
文中の煙草は実在する煙草で、その名もズバリ『ゴールデンバット』なるものです。旧くは芥川龍之介が愛煙したことでも知られています。
幻想入りしてるものなので両切りだし、ソフトじゃなくて箱です。
それと、これくらいの性表現でも夜伽話に投稿させていただいて宜しいのか不安です、もし薄すぎるとかでしたらごめんなさい。

幾つか言及したかったこともあります。
レミリア様の口調とか、パチュリー様は美鈴のこと割と気に入ってそうだなとか、真面目な話のつもりで書いたのにパロディやらを入れ過ぎたなとか、レミリア様が二人に休暇を与えた理由とか。
私の幻想郷の中での答えは私の幻想郷の中にあるのですが、皆さんがどう思ったのかを答え合わせできなくて非常に残念です。
いつの日か、私の幻想郷をそのまま誰かに見てもらえたらな、なんてことを思います。

ご読了、ありがとうございました。
(投稿者Twitter:https://twitter.com/wotanoshimi)
歩く楽しみ
コメント




1.性欲を持て余す程度の能力削除
なんでコメントがないんだ…
とてもよかったです。ところどころ不穏な空気を感じてビクビクしながら読んでいたけど、なんのことはない。最後まで読んでみれば、優しい世界の中でひとり、心配性で自分にあまり自信がない美鈴があわあわと不安がっているだけでしたね。言いたいことは色々あるけどまとまり無さそうなのでやめておきます。非喫煙者ですが、タバコを吸いたくなりました。最初はキャスターにしようかな。なんとなく、甘い香りなので。
2.性欲を持て余す程度の能力削除
掛け合いが特に好きです。静かな文章が綺麗ですね。ありがとうございました。
3.SYSTEMA削除
感想遅れました。
大変質感あるお話で好みでした。
アメリカの古い映画を観ているような懐かしい感覚に陥りました。ありがとうございます