真・東方夜伽話

けがれんこ

2017/02/14 22:45:27
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けがれんこ

蛮天丸

蓮メリろりねちょ。


 宇佐見蓮子は淵に立つ。

 稲荷神社の参道から少し外れて、森の隣にある祠。その軒先から見上げると、空には重苦しい鉛色が広がっていた。参道からは、急な雨に慌てるおとなたちの声と足音が響いている。時折小さいこどもの声も混じる。
 十歳の蓮子はこの街が嫌いだった。退屈なおとなになりたくない、でも弱いこどものままも嫌だ。彼女はいつもどこかへ逃げ出そうするけれど、十歳なりにこの街を出ることはできなかった。かろうじてできるのは、こうして街の喧騒から逃げて、祠の下で息を潜めることだけ。
 つかの間の通り雨は見えないカーテンとなって、蓮子を喧騒から隠す。ワイシャツの中に溜まる湿気を感じながら、彼女は大きく息をついた。この雨が止んだら今度はどこへ行けばいいんだろう。

 不意に背後から猫の声が聞こえた気がした。驚いて振り向いたが、祠の中には小さな神棚以外に何もない。なんだろう。足音を忍ばせて祠の裏にまわって、すぐに蓮子の瞳が開いた。
 そこにいたのは、蓮子と同じ背丈の女の子だった。けれど、その姿は遠い国で精緻に作られた人形のようだった。透ける金の髪、紫陽花色の淡いワンピース、その奥に隠された遠く白い肌。そして、空を深めた碧い瞳。少女はその碧色の目から零れる涙を、白く小さな手で何度も拭っていた。
「おかあさん」
 涙混じりのかすかな声。蓮子の胸がしんと痛んだ。
「どうしたの」
 気づけば、彼女に声をかけていた。金髪の少女は涙を拭って蓮子に顔を向けた。綺麗な顔、と蓮子はもう一度思う。澄み切った碧い瞳がまた蓮子の胸をしめつける。
「あなた、だれ」
 金髪の少女はしゃくり上げながらそう尋ねた。目元から新しい涙が零れ落ちる。蓮子は彼女の隣に立ち、ポケットから水色のハンカチを取り出した。
「私のことよりも、ほら」
 少女は弱々しくそれを受け取り、目元を拭った。それでも涙は途切れ途切れ零れる。
「おかあさん、って言っていた」
 少女の体がかすかに震える。
「おかあさんと離ればなれになっちゃった?」
 少女は首を弱々しく縦に振った。蓮子は続けて訊いた。
「傘、持ってる?」
 今度は小さく首を横に振る。
「私も。でも、通り雨みたいだからもう少ししたら止むよ」
 また少女は首を縦に振った。蓮子もそれ以上の言葉が見つからず、黙って祠の裏にある森を見ていた。少女のすすり泣きと雨の静寂が溶け合って祠を満たす。
 少女はこんな古く小さい所に似つかわしくない空気を纏う。それでいておとなの間にもいられない。母親とはぐれただけで泣いているのに。そう思うと、かたちにならない感情が蓮子の胸を満たした。淵に並んで一緒に立つ、弱々しい彼女への思い。
「私、宇佐見蓮子」
 自然に蓮子は自分の名前を告げていた。少女は目元を腫らしながら、蓮子の顔を見た。
「小学四年生でこの近くに住んでいるの。だから、ここのこと、すごくよく知ってる。あなたのお母さんもすぐに見けられるよ」
「本当?」
「大丈夫よ。ね、あなたの名前は?」
 祠の屋根の隙間から差す光が少しばかり明るくなる。
「マエリベリー・ハーン」
 蓮子は彼女の声を頭の中で反復した。
「不思議な名前」
 いつの間にか、少女の涙は止まっていた。彼女のしゃくりあげる間隔も広がる。彼女はハンカチを蓮子に返した。ハンカチから知らない花の香りがした。
「あなたと同じ、十歳。ロンドンから、来たわ」
「ロンドン。やっぱり日本人じゃないのね。でも、すごく日本語が上手」
「お母さんがしゃべれるから」
 また彼女の瞳にじわりと涙が浮かぶ。蓮子はそっとハンカチで彼女の目元を拭った。
「ね、ロンドンってどんなところ?」
 蓮子は微笑んで尋ねる。
「私、写真でしか見たことがないの。というより、この京都から出たことないわ。箱庭娘だから」
 つまらない冗談だと蓮子は自分でも思う。それでも、少女の薄紅色の唇が柔らかいかたちに変わる。
「ロンドンはつまらないところよ。霧ばっかりで、人も少ないの」
「そうなの? よく写真で見るあの時計塔は?」
「あれはもう化石。全然動いていないもの」
「二段バスは今でも走っているの?」
「そうね、でも観光客が全然いないから、おじいちゃんおばあちゃんの足になっているだけよ」
 淡々と語られるモノトーンの街は、それでも蓮子の心をこの鈍色から連れ出してくれた。
「マエ、ル、リベル、さん?」
「え?」
「あなたの名前、のつもり」
 碧い瞳は少しの間きょとんとしていたが、すぐに彼女の笑い声に合わせて軽快に転がった。
「私、メリーって呼ばれてるわ」
「そう、じゃあ、メリー」
「なあに」
 素敵な響きだと蓮子は思う。メリー。甘く滑らかな口当たり。
「この京都はどう?」
「すごく、不思議な街」
 彼女の視線が蓮子から離れ、森の奥へ移っていく。
「閉じられた場所なのに、色々なところへ通じる綻びが見えるもの」
 ぽつりと雫が蓮子の鼻を打つ。顔を上げると、いつの間にか雨は止んでいた。濡れた土の匂いが立ち上る。少女は一歩祠から離れた。
「止んだみたい」
 そして、蓮子に振り向いて微笑む。
「ありがとう。少しの間だったけれど、楽しかった」
 薄い蒼混じりに、彼女は手を振って蓮子のそばを通り過ぎていく。蓮子の喉から小さく声が漏れる。
「お母さん、探さなくていいの?」
「あなたと話してたら、少し元気が出たわ。大丈夫、心配しないで」
 そうして彼女はくるりとスカートの裾を綺麗に回して、祠を離れて音もなく人ごみの中へ溶けていった。
 彼女の瞳の碧さが、蓮子の目の奥から離れなかった。そして、彼女が見えると言った、綻び、その響き。気づけば、蓮子は自分から人ごみの中へと飛び込んでいた。

 黒い人山の中でも、彼女の香りははっきりとわかる。蓮子の視界の先に、少女の姿が見えた。彼女は入り口の鳥居の下に立っていた。蓮子も人波を潜り抜けて追いつく、その手前で足が止まった。彼女の前に男が立っていた。
「メリー。どこにいたんだ」
 少女が小さく肩を震わせたのが見えた。彼は携帯電話をポケットに突っ込み、少女に近づこうとする。彼女は首を振りながら後ずさりする。
「ほら、お母さんを呼ぶから、こっちに来なさい」
 蓮子の視界をおとなが区切る。少女が何か言葉を口にする。誰かの下品な笑い声がそれを塗りつぶす。それでも、蓮子は直観した。彼女はあの男を拒絶している。その瞬間、蓮子は鳥居に向かって飛び出していた。
「メリー!」
 少女と男が蓮子に振り向いた。二人だけではない、いろんなおとなたちが何事かと視線を向けていた。隔離の視線が蓮子に集まる。けれど、蓮子はまったく気にならなかった。彼女は少女に駆け寄り、その手をとって叫んだ。
「行こう!」
 少女は驚いた顔をしていたが、蓮子が手を引くと一緒に走り始めた。二人は人混みの中に飛び込んだ。男もしばらく呆気にとられていたが、すぐにその顔を歪ませて二人を追い始めた。けれど、おとなたちの下をかいくぐる二人に追いつくことはできない。

 二人は走った。彼が追うのを諦めたことも知らずに。暗い雲の影が二人の背中に落ちてきた。その影とおとなたちの声から逃げるように二人は走り続けた。さっきの祠も通り過ぎて、縁を飛び越えて森の中へ。
 森の中に入ると濡れた土が足に重く絡みついて、やがて二人は走ることをやめた。肩で息をしながら後ろを振り返ったが、もう誰かが追ってくる気配は消えていた。
「ごめん」
 口を開いたのは蓮子だった。
「勝手に逃げたりして」
 もう一人の少女は震えながら首を横に振り、そして糸が切れたようにしゃがみ込んだ。無数の木々の暗い影が彼女の肩に染み込んでいる。
「あの男のひと――」
「言わないで」
 痛々しい喘ぎ声に、蓮子は開きかけた口を閉じた。森の沈黙が二人を包む。戻れない終着点に来たようだった。
 蓮子は空を見上げた。黒々と繁った葉のモザイクの向こうに、かすかに陽の光が現れているのが見えた。視線を下に向けると、あまり遠くないところにその光は落ちていた。
「メリー」
 蓮子は沈黙に切れ目を入れる。
「さっき、この街に綻びが見えるって言ってたよね」
 少女は首を縦に振った。
「この森の中にも見える?」
 え、と少女から声が漏れた。
「なんとなくだけど、向こうの明るいところが気になって」
 少女はしゃがみ込んだまま、顔を上げて蓮子の指差す方を見た。そして、もう一度首をゆっくりと縦に振った。
「どこか、私の知らないところに通じているのね」
 少女が「でも」と応えた。
「その先に何があるのか、私にもわからないの」
「入ったことはないの?」
 少女は首を横に振った。
「怖い、と思っていたから」
 こわい。シンプルで鋭いかたちの言葉はメリーのこころを綺麗に取り出していた。けれど、蓮子が思う光の先はメリーの言葉とは違う。あの光の先に、この退屈な街とは違う世界があるはずだ。
 蓮子はもう一度彼女の手をとった。小さくて冷たい指が、蓮子の胸を震わせた。やっぱり、彼女はここにいるべきじゃないんだ。
「あそこに行ってみよう」
 少女の瞳が蓮子に向けられる。その碧が揺らいでいた。
「こんな暗くて、苦しくて、怖い場所じゃないよ、きっと」
「でも、もし、何かあったら」
「大丈夫。私は月と星から、時間と場所が視えるから」
 蓮子は彼女の隣にしゃがみ込んで、その瞳を真っ直ぐ覗き込んだ。
「一緒に戻ってこられる。あなたの手、放さない」
 揺らいでいた瞳が、蓮子の瞳と交わる。揺蕩いの色が落ち着きを取り戻すのを、蓮子は確かに見届けた。そして。
「れんこ」
 メリーが彼女の名を呼んだ。細く透き通る声がピアノの弦のように胸を震わせて、蓮子の口から嘆息が漏れた。
「私の名前、覚えてたんだ」
 メリーは少し恥ずかしそうに微笑んだ。蓮子も微笑み返して言った。
「一緒に行こう、綻びの向こう側へ」

 光の射すところは奇妙に円く開いた空間だった。いくつかの新緑がしんと佇み、陽だまりの中で瑞々しい雨粒を葉に載せていた。その空間の真ん中に石の柱が刺さっていた。角がぼろぼろに削れていてほとんど朽ちかけている。雨が降ったばかりなのにその柱は乾いていた。
 蓮子とメリーは石の柱に近づいた。二人の背中から空へ乾いた風が吹き抜ける。蓮子が今まで感じたことのない空気に鳥肌が立つ。
「見える?」
 蓮子がメリーの手を握り直して尋ねた。
「ええ」
 応える彼女の声は陽の光のように淡かった。
「まだ、怖い?」
 メリーは首を横に振った。
「もう、怖くない、あなたとなら」
「よかった」
 蓮子はメリーと手を繋いだまま、石柱に手を触れた。そして、メリーに笑いかける。
「片想いかな。私、あなたを好きになれそう」
 はっとメリーは顔を上げた。彼女の潤んだ瞳に太陽が呑み込まれる。そこに映る自分の姿に蓮子は気づかない。今告げた言葉に、孤独な少女の胸が静かに貫かれることをわかっていない。メリーの唇が、何かを告げようと小さく開かれた。
 次の瞬間、鈴が鳴る。耳元で、背後で、正面で、頭上で。肌に触れるほど近くで、意識の及ばないほど遠くで。それはガラスのビー玉が綺麗に割れる音だった。その異様な響きに二人は思わず目を瞑った。中の栗色と紫の帯が、どこに行けばいいのかもわからないままに違う世界へと放たれる。その間に太陽は静かに姿を消した。

 響きが収まると世界は夜に包まれていた。蓮子が先に、おずおずと目を開いた。そして、彼女は大きく息を呑む。
「メリー!」
 蓮子がメリーの手を振る。メリーも恐々と瞳を開く。それに合わせて、彼女の目が丸くなっていく。彼女の身震いが掌を通して蓮子にも感じられた。
「綺麗」
 メリーの口から漏れた言葉は、最後には嘆息へ変わった。
 世界の何もかもが変わっていた。月と星が煌々と薄い紫色の空に踊る。蛍のような白い光が宙に遊び、かすかに水晶の音色を奏でる。何よりも彼女たちの心を奪ったのは、暗い森がすべて淡い光を放つ水晶に変わっていたことだった。細く頼りない木の枝も、ふてぶてしく根を張る大樹の幹も、すべてが透き通っていた。それが月と星の光に照らされて煌めく。
 蓮子の胸は痛いほどに高鳴る。首筋から頭にかけて、何度も切ない電流が流れる。彼女たちの指先の毛細血管が同じ鼓動を刻んだ。二人のため息が色づいた。
 どこにでも行ける。メリーとなら、きっとこの世界の果てにも。蓮子はそんなことを思う。そして、同時に思う。この光景はメリーとの秘密の約束なのだと。その秘密の約束をずっと二人だけの、色褪せないものにしたい。
 蓮子の指がメリーの指を求めて絡み合う。指の欲望は腕へと伝わり、腕から四肢へと広がる。
「メリー」
 手を繋いだまま、彼女と向き合った。水晶の世界を背にした彼女は、今までのどの彼女よりも綺麗だった。髪の色も瞳の色もワンピースの色も肌の色も、彼女のすべてがこの景色の象徴だった。蓮子は彼女に顔を寄せた。メリーの吐息が耳に溶けていく。そっと柔らかな肌に頬が触れると、それだけで頭も溶けそうだった。メリーがよろめいて石柱に背を預ける。蓮子はメリーと鼻を触れ合わせながら告げた。
「好きになれそう、じゃなかった」
 そして、蓮子の幼い唇がメリーのそれと重なる。
「好きだよ、メリー」
 口づけは深遠の隙間を開き、彼女たちは容易く境を踏み越えていく。水晶の光が増し、鎖と楔に繋がれていた彼女たちはするりと体を透かしていった。

 潤ったメリーの唇は蓮子の肌に溶けて、メリーの瞳は蓮子の瞳に吸い込まれる。蓮子は何度もメリーに口づけを重ねた。息が切れても、数え切れないほどに。メリーの片手が救いを求めて蓮子の首にまわされる。少女の肉体の接触は過電圧となり、二人の頭を焼き切る。蓮子の唇はやがてメリーの細い首筋へ渡った。湿度がメリーの体を震わせる。腰と尻をかきむしる手にも、奇妙な背徳感がかけずり回る。言葉は灰となってかたちにならない。
 蓮子の手がメリーの秘所に触れると、かすかな湿り気があった。メリーは膝から崩れ落ち、蓮子の首にすがった。跳ねる吐息がますます蓮子の頭の中をかきまわす。透き通る彼岸花が首を傾げた。蓮子はメリーのワンピースを脱がせた。彼女の白が空を呑み込む。蓮子はメリーの胸に己の手を重ねた。固さの奥にある柔らかさは、メリーの暗喩だった。そして、メリーの手を自分の胸に導いて、同じように自身の比喩を伝える。蓮子は再びメリーに唇を重ねた。心臓はどこかで勝手に壊れてくれればよかった。
 蓮子の指が、聖所に忍び込んだ。吐息は絡み合いながら、水晶をゆっくりと吸い込んでいった。そのたび、メリーの瞳の光が複雑な色になる。蓮子の髪が長くなる。蓮子は口の端を上げて笑う。その笑みに対する肯定は喘ぎ声に塗られる。メリーの乳房が柔らかさを得て、蓮子の指を奪っていく。蓮子の顎の線が丸から綺麗な二次曲線へ変わる。花の香りが強くなる。指はメリーの奥まで届き、メリーは蓮子の指を拒絶しながら、奥へ奥へと誘い込む。蓮子の胸にも膨らみが生まれる。メリーの髪は腰に届くほどの長さになった。
 とうとう水晶がメリーの感覚と繋がった。そして、指を通じて蓮子の脳髄へ届いた。蓮子の指で景色が大きく震える。そのうちに、その世界のあらゆるものの震えが止まらなくなった。メリーの喉からはもう声さえ出ず、短い吐息が瞬発的に漏れるだけだ。許されざる一線を、蓮子は本能的に越えたいと願い、指を折り曲げてその願いを押し込んだ。途端、メリーの身体が弓なりにしなって。

 壊れた。

 幻想の叫びが己のかたちを失った。メリーの意識の霧散が水晶を砕く。木の幹も無数に繁る葉も、揺れていた草の葉も、すべて。その音は二人には聞こえなかったが、破滅の叫びは確かに存在していた。刹那が数刻になる。
 やがて、メリーの体の緊張が解けた。蓮子の指を締めつける感覚も失われた。蓮子は指を引き抜き、視線を上げる。砕けた水晶の欠片が宙を漂い、月の光の中で無数の色を映し出していた。そして、蓮子は自分の膝元に横たわるメリーに視線を落とした。メリーが意識を取り戻す。もう、彼女の体は少女のものではなかった。無数の色を呑み込んだ金色の瞳。確かな色と輪郭と、濡れている女性としてのそこを、蓮子は明確に理解した。
「私、メリーを、犯したんだ」
 その言葉が引き金だった。今までの躊躇いが嘘のように、水晶の欠片が二人をめがけて降り注ぐ。欠片は刃となり、二人の服を裂き肌を裂く体中を痛みが走り抜けていく。それは現実のものではない、耐え難い痛みだった。。凄絶な雨音が鼓膜をも裂こうとする。蓮子は声にならない叫びを上げた。彼女の体の下で、メリーも叫び悶えていた。
 痛い、痛い、いたい、いたい、いたい――!
 激しいノイズと痛みに押しつぶされる二人を、月だけが冷たく照らしていた。その月が、明滅する蓮子の思考へ静かに問いかける。どうして、あなたたちが傷つけられるのかわかる? 好きな人と幻想的な風景に出会って、好きな人と交わっただけなのに? 残酷でしょう、こわれものたち。

 どれほどの時間が経ったのか、蓮子にわかるはずもなかった。いつしか水晶の雨は止んでいた。あたりには月と空白と、そして血だらけの二人だけが残されていた。世界からは風も音も花の匂いも消えていた。メリーが一度大きく咳き込んだ。彼女の姿は、もう見るに堪えないほど無数の深い傷に満たされていた。
 蓮子の瞳から、血の混ざった涙がこぼれ落ちた。彼女はほとんど声にならない掠れ声で尋ねた。
「痛い?」
 メリーは小さく頷いた。蓮子はもう一度、尋ねた。
「怖い?」
 メリーは首を横に振る。そして、震える腕で体を起こし、蓮子の胸に頭を預けた。
「あなたとなら、怖くない」
 メリーの呼吸を乳首に感じる。弱々しく、今にも消えそうな生命。儚く美しい彼女を傷つけたことの後悔と、それでも蓮子に寄りかかる彼女の体温。だから、涙が止めどなく溢れる。胸から嗚咽が漏れる。
 わかっている、私はあの問いの答えを本当は知っている。これは罰で、啓示なんだ。たとえ今、彼女を犯さなくても、いつかたどり着いてしまう未来の、そして私が彼女に求める罪の重さの。その報いはこの痛みでしかない。それを私は怖いと思った。この痛みを抱えて生きていくなんてできるはずがない。それなのにメリーは言った。私とならこの痛みも怖くないと。だからこそ、よけいに、苦しい。
「ごめん、メリー」
 蓮子はメリーの頭をかき抱いた。
「私、無理だよ。こんなに、あなたを傷つけて、どこかへ行こうなんて、言えないよ」
 メリーが顔を上げて、その金色の瞳をそっと蓮子に預けた。
「私は、だいじょうぶ、よ」
 その瞳は無数の色を抱えながら、それでもどこまでも澄んでいるように見えた。蓮子は首を振って叫んだ。
「嫌だ、綺麗なあなたが、こんなに傷つくなんて!」
 だって、私が穢したから。だって、私があなたを独り占めしたかったから。そう告げることが蓮子にはできなかった。こんなときに嘘をつく自分はどこまで身勝手なのだろう。
 私は自分の場所から逃げようとしただけだ。私は綺麗なメリーがいて初めて知らない世界に踏み込めた。そこが綺麗で魅力的で無垢なところだと信じていたから。でも、それは幻想。そんな自分が自分で幻想を穢した、それがいつか訪れる現実。
「綺麗な、私」
 メリーが力なく蓮子の言葉を口にした。
「穢れのない、私」
 彼女の瞳から、金色の雫が一筋こぼれ落ちた。彼女の腕が蓮子の腰を撫で、それから弱々しく蓮子を抱きしめた。彼女の中にあるはずのないものを確かめようと、何度も。短い嗚咽がメリーの喉からも漏れた。けれど、蓮子は応えられない。首を横に振ることしかできなかった。

 やがて、メリーの腕から力が抜けた。蓮子の啜り泣きが浸す世界。その真ん中でメリーは蓮子に囁いた。
「空、見える?」
 蓮子はただ首を横に振るだけ。メリーはそれでも続けた。
「あなたの目、時間と場所がわかるって」
 それでやっと蓮子は空を見上げた。白く丸い月、その向こうの星。それらはもう、蓮子に何も告げない。蓮子は応えた。
「なにも、わからない」
 メリーはかすかに頷いて、右手を空に向かって伸ばし、傷だらけの手で月を包んだ。
 不意に世界が薄闇に染まった。星も光を失って氷の塊になる。その突然の現象は蓮子の理解の外にあった。ただ、彼女の視界から月が消えたことを認識しただけだった。蓮子の涙が止まる。
「何、したの?」
「偽りの月を、消したわ」
 メリーの右手が、地面に落ちた。蓮子はまた問いかけた。
「どう、やって」
「あなたの目が月に反応しないなら、この世界は偽りだから」
「なに、言っているのか、わからないよ」
 けれど、メリーは何も応えずに瞼を下ろした。いくつもの色をはらんだ瞳が沈黙に包まれた。メリー、と蓮子が弱々しく呼びかけた。メリーは息をついて、震える声で言葉を紡いだ。
「私のこと、好きって言ってくれて、嬉しかった。短い間でも、あなたに会えてよかった」
 メリーが目を再び開くと、その瞳は碧に戻っていた。そこから涙がこぼれ落ちた。彼女は口の端を緩めて、蓮子の胸に顔を埋めた。
「でも、私が、あなたを裏切ったのね」
「違う!」
 蓮子の叫びも、メリーの囁き声と変わらないほど弱々しかった。メリーは首を横に振った。
「いいの。今度は、私があなたに片想い、したい。少し先の未来で」
 メリーの体の膨らみが少しずつ失われていく。蓮子の腕が徐々に艶やかさを失って丸みを帯びていく。
「だから、水晶を、思い出に」
 彼女は自分の涙を、右手の甲でそっと拭い、その手を蓮子の左手に重ね、何かを手渡した。蓮子が手を開くと、長さを失った蓮子の指の中に透き通った珠があった。彼女たちを傷つけた水晶のような。
「蓮子」
 少女に戻ったメリーは最後に体を起こし、蓮子に口づけをした。
「また、会いたいわ」
 そうして、メリーの瞳が閉じられていく。少女の蓮子は彼女の名を叫んだ。自分で傷つけたひとの名前を、それでも失いたくないと。けれど、メリーが瞳を閉じると同時に、強烈な眠気が蓮子を襲った。今までのことを彼女の頭の中から洗い流していく。そのまま蓮子の意識は静かに消失した。

  ◆

 宇佐見蓮子は縁に立つ。

 蓮子が目を覚ますと、そこは森の中に開けた空間で、陽の光が差し込んでいた。彼女は乾いた石柱を背にして、うたた寝をしていたらしい。不思議な夢を見ていた気がする。でも、その夢で起こったことを蓮子は何も思い出せなかった。空に薄い雲が切れ切れに漂っていて、太陽がその切れ目から顔を出していた。
 戻らなきゃ。不意に蓮子はそう思った。立ち上がって辺りを見回すと、誰かが通ってきたらしい獣道が見つかった。蓮子は足早にその道を駆けて森を抜ける。古びた祠を通り過ぎると、観光客で賑わう稲荷神社の参道に出た。おとなたちがあちこちへ無節操に歩き回っている。蓮子はその間をすり抜けて、神社の出口へと向かう。
 参道の始まりの大きな鳥居の下に、なじみのある人影が見えた。
「おとうさん」
「どこに行っていたんだ、蓮子。探したぞ」
 彼は蓮子の姿を認めると、大きくため息をついた。
「明日、東京に引っ越すっていうのに、心配かけるなよ」
 彼に駆け寄る蓮子の足が止まった。
「東京?」
 彼は呆れた顔を浮かべながら、蓮子に歩み寄った。
「まったく、本当に俺の話を聞いていなかったのか。前から言っていただろ。仕事の都合で東京に行くって」
 蓮子は後ろを振り返った。周囲を暗い山に囲まれた、退屈なおとなばかりの稲荷神社。ずっと囚われていると思っていた彼女の世界。そこから飛び出すことは蓮子が望んできたことだった。
 けれど、胸の奥に何かが詰まったように、蓮子は息苦しさを覚えた。
「ほら、蓮子、行くぞ」
 父親が蓮子の右手をとった。蓮子の体がぐいと引っ張られるそのとき、彼女は何かが自分の右手にあることに気づいた。
「待って」
 蓮子は右手を彼から引き抜いて、手のひらを開いた。そこには小指ほどの透き通った珠があった。太陽の光を浴びて、無数の色を蓮子に見せた。綺麗な宝石だと蓮子は思った。
 唐突に、蓮子の胸が激しく痛んだ。大きなものが、胸の真ん中から抜き去られたように。あ、と喉から声が漏れた。気づけば目から熱い雫がこぼれ落ちていた。
「どうして――」
 それ以上言葉は続かなかった。ただ、胸の苦しさに押しつぶされるように、彼女は声を上げて泣いた。まわりのおとなが驚いて彼女を見るのも、父親が困惑するのも、その苦しさの前にはどうでもよかった。
 とても美しい夢を見ていた。私はその中で大切な約束をした。でも、その約束のことも、夢で確かに抱いたはずの想いも、もうどこにもない。

 慟哭の中で、それでも蓮子はひとつだけ、確かに感じていた。
 どんな痛みを抱えても、もう一度会いたい。
 いつかまた、会える。

 水晶を、思い出に。



幼いこわれものは知っている。いつか、再び穢されることを。それでも。
蛮天丸
bantenmaru@gmail.com
http://twitter.com/bantenmaru
コメント




1.性欲を持て余す程度の能力削除
氏の名前を見つけて眠気ぶっとんだ。
なんてこった、彼女たちのスタートがこんなに美しく穢れたものだったなんて!(ひゃあ!)
このときの約束が紫を生んだのかだとか、意識がリンクしていたのかだとか、もうっ、妄想止まりません。
まあここは〝ここ〟なのでその辺への語りは控えまして、とても素敵でした、ありがとうございます。
自分は拾えましたが、もしかしたら薄いとの指摘があるかもしれません(精神上とはいえふたりの年考えたらかなり危なげなわけですがw)、まあその場合お気になさらずに。
再び氏の作品が読めて幸せでした、次があれば是非是非(ぶっちゃけ氏が書く爛れた関係がめっちゃ見たいのでっ……!)楽しみにしています。
2.FLAN削除
いい話です
これからも頑張ってください!
応援してます
3.梯子のぼり削除
面白かったですっ!