真・東方夜伽話

My dear sister,

2016/06/07 13:38:08
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My dear sister,

あか

--まえがき--
気持ち届けばの続きとなります。
--以上まえがき--

「ホームステイというのも良いのかもしれないわね」

新年を迎えて少しして。突発的に催された宴席の中で、お嬢様はそう呟いた。
この宴会は主催者である神社の巫女曰く、『春を迎えたことへのお祝い』ということであったが、ほんの数日前にも雪が舞っていたこともあって、
いざ迎えたこの夜も当然の様にまだ肌寒く、寒さを和らげようと参加者の皆がお酒を片手に宴に参加していた。
勿論、お嬢様もその例に漏れない。普段よく飲んでいるのは私が作ったワインが多いけれど、今夜は持ち込まれていた様々なお酒をその体の中に流し込んでいた。
つい先程も、どこからか回ってきたらしい熱燗を一気に呷っており、顔は名前通りの色となっている。
普段なら、これ位酔っている時はもう頬が緩んでいるのだけれど、今日は目的があったからか未だに表情は硬く、
騒がしい喧騒の中心を落ちついた目で眺め、そんなことを仰っていた。

この、良いかもしれない、というのは、決してお嬢様自身がしたいことを指しているのではない。
この宴会に参加する以前から、もっと言えば年を越す前から、妹様のこれからの生活についてどうしなければならないのか……ずっと考えていたのだ。
妹様自身の努力、そして周囲の子の協力もあり、皆から恐れられて閉じ込められていた生活であった妹様も、
新年を迎えた今は部屋の外へ出て、屋敷の中を『一応』出歩けるようにはなっている。

そう。まだ問題は完全に解決した訳ではないのだ。全体的に見れば、妹様を苦手な子の数の方が圧倒的に多い。
その中にはさらに、とんでもなく苦手にしている子だって居る。だから、部屋から出る際にも事前に申告したり連絡したりしているのだ。
……実際は、ほとんど人通りの無くなる時間にしか申請もされないのだけど。たまに、お伴の子と二人で星や月を屋上からひっそりと眺めているみたいだ。
だから、次の目的はそんな妹様への制限の撤廃であるのだけれど……これがどうにも進展しない。

原因は至って単純だ。妹様を特に苦手としている子というのは、そもそも妹様からの直接的な被害を受けた子達。
大怪我を負った者が大半で……それ以上だって居た位だ。だから、それを記憶として持っている以上は、
恐ろしいと感じてしまうことについて全く不思議は無くて、仕方ないこと。だから……私もお嬢様も、何も手を打てないで居た。

そんな問題に悩んでいた年末の日。来客があった。
館にではなく、敷地内にある図書館に、であるけれど。やって来たのは二人の魔法使いだ。
片方は、妹様が今の道を進もうとするきっかけとなった魔理沙。そしてもう一人が、人形遣いのアリス。
どうやら魔法の研究の為に訪れていた様で。その二人がやって来ていることを耳にはさんだお嬢様は、
焦る様な顔で部屋を飛び出し、二人へと相談を持ち込みに行っていた。……今も、その後ろ姿が瞼の裏に浮かぶ。

泊まりがけで来ていた彼女達は、お嬢様が訪れる度に相談に乗ってくれた。
結果として、問題解決についての著しい進展というものは得られなかったけれど、方向性は定まった。
それは、館の外の第三者の力を借りること。館の中から評価を変えることにはもう、限界が来ていたからだ。
ただ、最後まで具体的な案を出せずに居て。年始を迎えてしばらくの間、お嬢様はそれで頭を抱えていた。
普段部屋の中では帽子をつけないけれど、考え込む間ずっと帽子を握ったり弄ったりするせいか、少しよれた帽子をいつも携えていて……何度、皺を伸ばし直しただろう。
今回の宴会は、そんな苦悩の中にやって来たお誘いだったから、とても有難かった。例年よりは随分と早くなってしまった春のお祝いの宴会だけれど、
これで少しでもお嬢様の気晴らしができるのではないか、と。そう思えたからだ。

「それは、家庭教師を選ぶのよりも難しいのではないでしょうか」

今回の宴会は、年明けから日があまり経っていないこともあって、宴席に持ち寄られた食事には正月の雰囲気がそのまま残っている物が多かった。
例えば、白玉楼はおせち料理。今回の宴会は通知から開催までの時間も極端に短かったため、普段は従者だけが担当しているらしい料理を、
主人も参加して手伝ったということを先程ちらりと耳に挟んだ。それでも、時間がかかるものは間に合わなかったのだろう。
卵料理が中心となって、ごぼうや黒豆等の縁起物がそれを囲むように並ぶ……そんな感じであった。
宴会の開始からしばらくの間、神社の巫女をからかって遊んでいた八雲の家からは、
そんな白玉楼の二人には用意することのできなかった手間のかかる物ばかりが持ち込まれていた。
色鮮やかで、幻想郷では珍しい品々も多々含まれていたが……実は出来あいの物を外の世界から調達してきただけだということを、少し前に本人が漏らしている。
結果として、完全に手作りで持ち込まれた八雲家からの品は、主人の式が用意したいなり寿司だけだった。
……もっとも、傍から見ると凄い勢いでそれは式のお腹に消えて行っている気がする。

「難しいかどうかなんてのは問題じゃあないよ。必要と感じたなら実現するまで。それだけのことよ」

そんなお嬢様がお酒の手を休めて今食べているのが、永遠亭の料理だ。こちらは……なんと呼ぶべきなのかを迷ってしまう。
言うなれば洋風にしたおせち料理だ。……おせち料理の様な、何かだ。創作料理、と言った方が正しいかもしれない。
そもそも連絡が届いたのも遅い時間だったのだろう。種類はそれなりにあったのだが、あまり数は用意されていなかった。
一方で沢山用意されていたのが、皆の視線をついつい攫ってしまう程に用意された御餅の山だ。
どうやら連絡が届く前から搗いていたらしい。ふくっとしていて、先程一つ頂いて来たのだけれど、
館の子達の頬の感触と良い勝負をしていた。沢山あるのだから余ったら夜食用に少し持って帰ろうと思っていたのだが……こちらも視線を向ける度に数が減っていた。

「しかし、その……誰も、乗ってくれるとは思えないのですが」

他にも山から下りてきた神様達や、何故居るんだと言いたくなるような閻魔達が居る。こちらは料理ではなく、飲み物の持ち込みだった。
なんだか不穏な銘のついた酒瓶から、味は良かれど匂いの少し独特な芋焼酎まで。色んなお酒が持ち込まれていた。
私達が今回持ち込んでいたのも、料理ではなくワインだった。理由は単純で、寒さがどうしても残るから、お酒と料理どちらが無くなるのが困るかを考えた結果だ。
見込んだ通り凄い勢いで持ち込んだお酒は消えて行って……先程、物珍しそうに私の持っていた瓶を眺めていた子へと最後の一杯を渡し終えて、既に品切れである。

「そうね。だから、誰も乗ってくれなかったら私はそれまでということね。けれど……まだ全員に聞いた訳じゃないわ」

宴会が始まってからしばらく経ち、皆が腰を落ちつけ談笑を始めた頃から、お嬢様は一人一人を回っては尋ねて居たのだ。
内容は勿論妹様のことで、家庭教師をやってはくれないか、ということでだ。初めは里で子供たちの教育を行っている者へと声をかけたのだけれど、
会話した時間は非常に短かった。その僅かな時間というのも大半は驚きによる沈黙だった位だ。返答は至ってシンプルで、

『子供たちの相手だけでも大変なんだ』

ということであったが……視線がやや俯いていたから、恐らくその後ろには妹様に対する得体の知れ無さがあったのだろう。
それは、仕方ない。そもそもお嬢様だって、そのことについては宴会が始まる前から気にしていたのだ。

「これまでに貰った色んな返答からして……日常的にあまり仕事をしていない相手の方が望ましい、といった所ね」

重ねた失敗を気にしてか、お嬢様はそう呟きながら未だに声をかけていない面々へと視線を走らせた。
初めの失敗の後に声をかけたのは、白玉楼に永遠亭……いざ何かがあっても対処できるであろう方達だったのだけれど、
やはり返答は同じような物だった。どちらも、返答をしたのが主人でなく従者ではあったけれど。

「かも、しれません」

ちなみに、相談を持ちかけた時、丁度吹いていた風に乗って聞こえたらしい言葉に興味を持った閻魔が、
先程まで遠目からちらりちらりと私達を見ていた。私なら引き受けますよと言わんばかりの素振りまで見せていたが……
流石にあの閻魔に面倒を見て貰うとなると後々面倒臭いことになりそうだし、何より妹様が想定している方向とは別の方向から発狂してしまうのではないか、
といった懸念があったために、お嬢様と目配せをした結果、私達は見なかったことにしていた。
半刻もしない内に流石に気付いたのか、そこからは頬を膨らませて、横に連れて居た仲が良いのか悪いのか分からない死神とお酒を勢い良く呷っていた。
……呷り過ぎて、今はもうぐったりとしているが。説法を頼んでも断られそうなくらい。

「貴女から何か気付いた点は?」
「もっと場を設けて周囲と遮断して喋った方が、はぐらかされずに話を進められるのではないでしょうか」
「圧迫的に感じられてしまうね。でも……良いか。それで下がるのは私の評価だ。フラン自身の評価じゃない」

そう言ってお嬢様が視線を私から宴会の中央の方へと向けた。
流石に月も高く登ってしまい、明日があるから帰ろうかという者達が少しずつ出てきそうな雰囲気が漂い始めて居た。
きっと、急がなきゃいけないと感じてしまったのだろう。お嬢様が僅かに下唇を噛んだのが視界の隅に映った。

「次、行くわよ」



その後は、竹林に住む独り住まいの蓬莱人や、山の上の神社……と、尋ねて行った。
けれど、結局誰もが苦い顔をして首を横に振るだけであった。少し前までは緊張とやる気で張りつめていたお嬢様の翼も、
今はもう力を無くしてしょんぼりと垂れていて。独りにしてしまったら溜息と共に膝をついてしまいそうな程で、
私自身が全然役に立てて居ないこともあってか、申し訳ない気持ちが胸の中でずんと重たかった。

「……次で、最後にしよう」

お嬢様が溜息と共に自身の頬を叩いて、独りごとの様な小さな声でそう言った。
お酒は段々と抜け始め、白さが戻りつつあった頬がまた少し赤くなって。一呼吸置いた後でお嬢様が向かって行ったのは、
山から下りて来ていた二人の神様だった。



~~



人付き合いって呼べば良いのか、それとも神付き合いって呼べば良いのか。
それは、未だに分からなくて……ひょっとしたら妖怪付き合いって言った方が正しいのかもしれない。

少し、前のことだ。山に新しい神様がやって来て、それから麓の巫女達がやって来て。
あの日に関わりができたから、私達は麓の神社の宴会にも呼んで貰える様になったんだ。遠く噂で聞いていた、博麗神社での宴会に。
それまで参加していた宴会は山の上の守矢さんの所の宴会だったから、集まってくる人達の差には驚いたっけ。
むしろ、人と呼べる人が何人居るのかと考えたくなる位だった。神社のはずなのに妖怪も居れば妖精も居て、神様も居れば悪魔も居る。
それどころか、死神や閻魔様まで居る。……一応は私達も神ではあるのだけれど、場違いなんじゃないかって思った位だ。

今日来ているのもそんな博麗神社の宴会だ。姉さんと二人で一緒になってその列に加わっている。
日頃から山の外の情報に疎かった私達にとって、この宴会というのは非常に貴重な情報源だ。
山に居て触れる機会のある他の情報源と言えば、本当に信用して良いのか困ってしまう新聞か、近所の方々とのお付き合い位しか無い。
里に買い物へと出かけることはあっても、毎日行っている訳でもなければ、都合良く新鮮な情報が手に入ることもそう多くは無い。だから、

『これは行かなきゃね!』

と、姉さんは宴会に呼ばれると、いつもそんな感じに目を輝かせていた。

『……食費も抑えられそうだし』

勿論、他にもそういう所があったから、というのもあるのかもしれない。

私は基本的にいつも姉さんの後ろをただ付いて行くだけだった。けれど、そんな私にも楽しみが無かった訳じゃない。
例えば、紅魔館住まいのメイドの十六夜さんが披露してくれる、種がどうなっているのか絶対に見せてくれない手品。
人形遣いのアリスさんが主に妖精の子達を相手に見せていたりする可愛い人形劇。そんな、山では見られない物が沢山あるからだ。
それに、楽しむ事以外にも、薬師の方がいらっしゃるから体調のこととか病気のことだって相談に乗ってもらえたりできる。
少し前に、そのことで一度相談を持ちかけたこともある。だから、何だかんだ私にとってもこの宴会というのは、とても楽しくて嬉しい催しだったのだ。
……まあ、楽しくない宴会というものを、私はそもそも聞いたことが無かったのだけれど。

「今日も賑やかねぇ」

宴会も段々と落ちついてきた頃、私の横に座っていた姉さんが頬に手を当てながらそう言った。
もう片方の手にはお酒の注がれた杯を持っていて、衣服と同じ位に赤くした顔でぼーっと宴の中心を眺めている。
宴会に参加すること自体には非常に積極的な姉さんだけれど、私も姉さんもあのメイドさんや人形遣いの方と違って披露するような物は何一つ持っていない。
だからいつも、端から宴の中心を眺めていることが多いんだ。それは、本当は寂しいことなのかもしれない。
でもお陰さまで、少し離れた所に居る私達には一気飲みをしろとか、そんな無茶振りが飛んできたりしないから、利点が全く無い訳でもなかったりする。
これがもう少し宴の中心に近かったりすると、主に鬼の方が中心となって無茶な一気飲みの勧誘が始まったりするんだ。
……今日も少し被害者が出ているみたい。ここの宴会はいつも面倒を見てくれる薬師の方がいらっしゃるお陰か、
毎度とは言わないけれど立てなくなるまで飲まされたり、飲んだりする方が居る。
実を言うと……私も一度だけあったりする。あの時は姉さんに迷惑をかけてしまった。

「そうだね」

盛り上がっている所から再び姉さんへと視線を移してそう返せば、少し丸まっていた背中が目に留まった。
あの時はこの背中を久しぶりに借りたんだ。とても温かかった。重たいって、言われたっけ。
そういえばあの次の宴会では私が逆に背中を貸すことになったんだ。姉さんが酔い潰れた訳じゃないんだけど、
ただ乗られたから、そのままおんぶして帰ったんだ。……やっぱり、温かかった。



「ちょっと、良いかな」

私達は宴会にお酒を持ちこんでいた。結構強さとしても匂いとしてもキツいお酒なのだけれど、それなりに人気があるのがちょっと自慢だ。
たまに、これがあるから呼んで貰えているんじゃないかって思うこともあるけれど……最近はあまり考えないようにしてる。
そんな、色んな人達から持ち寄られたお酒のお陰で談笑が進み、賑やかさがある程度落ちついてきた頃、私達は後ろから声をかけられた。
振り返ってみると、そこには普段話す機会の無い珍しい二人が立っていた。この辺りに住む者にとっては知らない者が居ない二人。
紅魔館に住む吸血鬼のレミリアと、その従者で手品が凄い十六夜さんだ。何で呼ばれたのか分からなくて、姉さんと二人顔を見合わせて、
何か悪いことをしてしまっただろうかと急いで思い返してみたけれど……何も悪いことはしていないはずだということに一応落ちついて。
少し戸惑いながらも、二人揃ってその言葉に返事をしたのだった。

「お願いがあるんだ」

私達はどちらも決して背が高いとは言えないけれど、そんな私達よりもよっぽどレミリアは小柄だ。
けれど、その体に凄い力がある事を知っているからか、いつもちょっとだけ大きく見える……気がしてる。
そんなレミリアから聞こえてきた声は、普段遠くで聞いていたやや高飛車な感じのそれとはまた違う、落ちついた声だった。
ただ、少し不安そうで……普段の宴会で得ていた印象とはまるで噛み合わなくて、私達は座って落ちつけていた体を二人へと向け直したのだった。

「何でしょう」

姉さんが口元付近まで上げていた杯を下ろし、そう尋ね返した。その言葉にレミリアはちらりと周囲の参加者を見て、

「できれば、あまり邪魔の入らない所で聞いて頂きたい」

と、小さく返した。その言葉に姉さんは小さく何度か頷いた後、持っていた杯を私の方へと差し出した。
……どうやら、待っていろ、ということらしい。一人で大丈夫なのかと目で訴えれば、ただ、にっと笑って姉さんは立ち上がって。
それから三人でするりと宴会の輪を抜けだして、影の方へと行ってしまったのだった。

すっかり姿が見えなくなってしまってから、姉さんが酷い目に会うんじゃないか……なんて、そんな不安が胸をきゅっと締めつけた。
口で言われた訳では無かったから、私も付いて行けば良かっただろうかって思ったけれど、それはそれで問題が無かった時に、
後で姉さんに文句を言われてしまうのは何となく分かってた。動くことのできないままに、仕方なしに消えていった影の方を見つめて。
それから、預かっていた杯から姉さんの飲みかけを少しだけ貰った。……甘い香りと味が口の中にゆっくりと広がって行く。
甘い割には少し強いお酒の様で、これなら不安や緊張も少しは解せるかなって思って、結局全部飲んでしまったのだけれど、
ただ視界がぐるぐる回る様になっただけで、やっぱり不安は他所へは行ってくれなかった。



影から三人が戻ってきたのは、空っぽになってしまった姉さんの杯に改めてお酒を注ぎ直して戻ってきた後だった。
姉さんは席を立った時と変わらぬ表情のままに私の横に腰を下ろすと、私の持っていた杯をそのままひょいと持ち上げて飲み始めた。
それから、ほうと息を吐いて空を見上げて。私がふと視線をずらせば、そんな姉さんの向こう側で、さっさといつもの場所へと戻って行くレミリアと、
こちらに向かって頭を下げている十六夜さんの姿が目に入った。

「ねえ、お姉ちゃん。一体どんな話だったの?」

頭を下げていた十六夜さんがレミリアを追う為に背を向けた後で、私は姉さんの耳元でそう囁いた。
空に浮かんだ雲を目で追っていた姉さんは私の方へと視線を向けると、

「わざわざ呼び出されて切り出されたお話だから、ここで言えるお話じゃないのよ。お家に帰ってからで良い?」

と、私をたしなめる様にそう言った。それもそうだと思ったから、私は素直に首を縦に振るしかできなくて。
私は少し前まで使っていた自分の杯へと新しいお酒を注ぎ直すと、姉さんと同じように呷ったのだった。

毎度この神社の宴会というものは、まるでお祭りの様に夜が更けた後も続き、長い時は朝まで続くことだってある。
けれど、私がさっきの話をずっと心配していることが姉さんにも分かっていたのだろう。
少しずつ人が帰り始めた頃、私の袖を引っ張ると、

「そろそろ、帰りましょうか」

と、そう言って立ち上がったのだった。



「そんなに重要なことなの?」

お家と神社までの距離は、回り道であったり、坂道や険しさもあったりするお陰で、歩こうとすると遠く感じるのだけれど、
空をひょいと飛んでしまうとあまり時間はかからない。そんな空を二人飛びながら、ゆっくりと帰っていた。
結局、姉さんは呼び出された内容についてあの後ずっと語ろうとしなかったから、これ位なら答えて貰えるんじゃないかって思ってそう尋ねてみた。
姉さんは愉快そうに笑って、首をゆっくり縦に下ろした。まあ、あんなことを言っておいて重要でなかったらとんだ拍子抜けではあるのだけれど。

「お家についたらちゃんと説明してくれるんだよね?」
「うん。でも、お家に着くまでは、ね?」

そんなことを言う姉さんの表情に少しずつ落ちついた気持ちを取り戻しながら、山にある小さな我が家へとやっと辿りついて。
鍵を開けて中に入る姉さんに続いて、後ろ手にドアを閉めて鍵をかけた。

「よし。じゃあ、穣子の部屋に行きましょ」
「う、うん」

……私の部屋?
何故だろう。何か特別な物でも置いてあっただろうかと、そんなことを考えている間に、靴を脱ぎ終えた姉さんはずんずんと家の中を進んで行った。
私も急いでそんな姉さんの後を追って、洗面所へと入った。手を洗う姉さんの後ろで順番を待っている間、姉さんの顔をずっと窺っていたのだが……
ちょっと機嫌が良いみたい。でも、私の部屋に行くまでは全く切り出すつもりは無いらしく、鏡越しに私のことを見て笑った後は、
すぐに手を拭いて出て行ってしまったのだった。何であんなに楽しそうなのだろう。どういう話題だったんだろう。
ワクワクする話題……とは、相手があの二人だからか、どうしても思えないでいて。
安堵と胸騒ぎが体の中でごちゃ混ぜになるのを感じながら手を洗い終えると、急いで部屋へと向かったのだった。

部屋へと入ると、私のベッドで足を伸ばして座っていた姉さんが、ポンポンとシーツを叩いた。
促されるままに姉さんの横に座れば、ベッドが小さな悲鳴をあげた。じっと姉さんを見つめれば、
姉さんは伸ばしていた足を引き寄せて、私の方へと向き直って。それから一度深呼吸すると、じっと私の目を見て話し始めたのだった。

「穣子。とっても大事なお話よ」
「うん。それはもう、分かってるから」

散々お預けをしておいてそれは無いだろうと思って促せば、姉さんは再び深呼吸をした後で私の肩をそっと掴んだ。

「お仕事の依頼だったの。明日の夜、このお家にお客さんが来るわ」
「お客って……まさかレミリア?」
「ううん。その妹の、フランドール」

……私はしばらくの間、何を言われたのかを理解できなかった。

「き、聞き間違いかな。誰だって?」

自分達の持ち込みのお酒と、姉さんが飲んでいたお酒。元から自分が飲んでいた物と、後から注ぎ直した物。
合わせると盃4杯のお酒は少なくとも体に入っている。だから、これはきっと酔った自分の聞き間違いだろうと、きっとそうに違いないと……そう、思って。
深呼吸した後で、改めて尋ね直したのだ。けれど、姉さんは冷静に私の目を見ながら、

「フランドール。レミリアの妹のフランドールよ。来るのは明日の夜」

そう、返したのだった。嘘だ、と、返したかった。春の初めには嘘をつく慣習があるとか聞いたこともあったから、それだと思いたかった。
でも、目を見て居れば嘘を言っているのかどうか位は、長年一緒に過ごして来たのだ。分かってしまう。

「フランドールが明日来るわよ。明日よ。聞こえてる?」
「な、何でそんな話になっちゃったの!」

聞き間違いじゃないことを認めたくなかったけれど、仕方ない。けど、けどだ。気が気でない。
家中のありとあらゆるものに油を撒いた後で火のついた爆弾を持ち込む様な物だ。
なんでそんなに大変なこと、決めてしまう前に私に相談してくれなかったんだ。
なんでそんなに愉快そうに、笑っていられるんだ。
ひょっとして私の見ていない所で……何か怪しい薬でも飲まされてしまったのだろうか。

「やっぱり驚いたわね」

姉さんがつん、と私の肩を指でつつき、愉快そうにまた笑って。
私はそんな姉さんの姿に納得いく物が何も無く、少し揺れていた姉さんの肩を掴むと、

「ちゃんと説明して」

と、そう尋ねたのだった。

「うん。依頼の内容はとっても単純。彼女を預かって、館の外の世界に触れさせること。まあ……彼女は日光が苦手だから、要はお泊まり会みたいなものね」

姉さんは笑うのを止めたかと思えば、今度は急に真剣な顔つきでそう言った。けれど、その一言にだって私にとってはまだ疑問が残る。

「館の外に出て色々見るだけなら、わざわざ預かる必要なんて無いんじゃないの?」
「そうよ」

私の言葉に姉さんは当然の様に首を縦に下ろした。

「じゃあ、どうして?」
「さあ、どうしてでしょう。穣子が思った様に、私も変だなって思ったのよ。だから、引き受けたの。勿論、理由はそれだけじゃないんだけど」

何で、『だから』という言葉が出てくるのだろう。

「面白そうだから。どこか胡散臭いから。レミリアさんや十六夜さんが来るんじゃないのよ。今まで会った人の数も少ないだろうあのフランドールが、なのよ」
「ひょっとしてお姉ちゃん、暇だったからそんな依頼引き受けたの……?」

なんで、ひと声かけてくれなかったんだろう。
自分の身にどれだけの危険が迫っているかって、分かっているんだろうか。考えているんだろうか。
分かっていないということはまずあり得ないのだけど、まだどこか微笑んでいる姉さんが、今はただただ不気味だった。

「そんなに怯えなくても良いのよ」
「根拠も無く安心できる訳ないでしょ!」

そう言うと、姉さんは頷いた。それからベッドへと背中から倒れ込み、天井を見上げた。
私は苛立つ気持ちを何とか抑えながら、そんな姉さんの姿を横目で見ていた。

「その通りだと思う。私だってそう思ったもの。ただ、あのレミリアの態度を見ていると……ね。
貴女は話の場に居なかったから知らなかっただろうけれど、押しつける様に頼んで来た訳じゃないのよ。力に、なって欲しいって。
面と向かって話したのは初めてだったけれど、そういう気持ちで話を持ちかけて来たってことはすぐに分かったの。
今なら大丈夫なはずだからと、そんなことも言ってた一方で、無理なら断っても構わないって言っていたわ。
だから、私はね。……確かに、どこかで何か突拍子もないことは起きてしまうかもしれない。
けれど、命にまで危険が及ぶようなことは無いんじゃないかって、そう思ったのよ」

まるで自身に言い聞かせるように姉さんがそう言った。でも、私からすれば……だから何だと言いたい位だ。

「あの悪名高いフランドールなのに?」

だって、悪評以外聞いたことが無いからだ。そんな私の一言に、姉さんは眼を閉じて長い溜息を吐いた。
怒った、ということはすぐに肌で感じたのだけれど、それは私だって同じだということを姉さんだって分かっているはずだ。
姉さんは閉じた目に疲れた様に指先を押しあてた後、ゆっくりと体を起こして。それから、私の両肩へと手を置いた。

「噂よ、それは。噂で人を判断するんじゃありません。穣子は彼女と話したことが無いでしょ?」
「人じゃない。吸血鬼だよ。……ねえ、本当は何か脅されているんじゃないの?」

悪評という物は、元になる話題が無いと、そもそも噂に付く尾ひれだってたかが知れている。
だから、本当にちょっと尾ひれがついた程度のまだ可愛い悪評なら、私だって姉さんの言う通りだと思う。
しかし、フランドールのはそうじゃない。ちょっと手痛い目に会うとか、そんな程度で済む噂じゃなかった。
凄惨たる噂しか聞いたことがないのだ。第一、そもそもこういう依頼のお話自体が、私達の所に来る訳が無いのだ。
私達に頼むよりも、よっぽど向いた相手が他に居るはずなのだから。
恐らく、私達の所に来る前にもっと力のある所にも話は持って行ったはず。いざって時があったら困るからだ。
それが誰にも引き受けて貰えずたらい回しにされた結果が、私達へのあの相談だったはずなんだ。
そして、受け入れられていないということは、つまり……皆その噂のことを信じているってことだ。

「……うーん。逆、かなぁ」

じっとりとした嫌な汗が額に滲んでいくのを感じながら姉さんを睨んでいると、姉さんはそんなのお構いなしと言わんばかりの顔でそう言った。

「どちらかと言えば脅しているのはこっちなのよ。私だって穣子が居るんだもん。貴女抜きで決めるべきことじゃないことは分かってた。だから、だからね?
色々こっちの出した条件を飲んで貰ったんだ。何があっても文句は言うな、とか。困ったことがあったら必ず支援すること、とか。まあ、そんな感じに色々ね」

……それは当然のことだと思う。

「だからね、穣子。理解して欲しいの」
「理解してもしなくても、明日来るんでしょ?」
「うん。泊まり込みよ。明日から、三日程ね。彼女には私の部屋を貸す予定だから、その間は一緒に居させて欲しい。
しばらくは貴女のベッドで……ちょっと狭くなっちゃうけど、一緒に寝させてね」

……本当、勝手なんだから。私がそう思って溜息を吐き出せば、姉さんはそのままベッドの端へと寄って毛布を被り始めて。

「来るの明日なんでしょ?」

と、私が尋ねた言葉には、

「気張って交渉したから、疲れちゃって……もう眠いんだもん」

欠伸混じりの声でそう返された。そのまま潜ってしまった姉さんを見ていると、また溜息が漏れたけれど、
何度溜息を吐いてみても、胸の中のもやもやした気持ちは一向に収まってくれそうになくて。
ずん、と重たくなった足を引っ張って部屋の灯りを落とした後で、姉さんの体を押し潰さない様にしながら私もベッドへと潜った。
……もう、心配ごとだらけだ。そしてもう、どうしようもない。姉さんを、信じるほかは。

「おやすみ」
「……おやすみ」



~~



「どうしてあれで良いと仰ったんですか」

明け方を館の外で迎えるなんてことは、吸血鬼の体を持つ以上は非常に好ましくないことだ。
それは、死のタイムリミットを迎えたと言っても全く過言ではない。それは私と同じ体を持つ者ならば誰を引っ張って来ても同じことだろう。
……尤も、同じ体を持っているのは私の他には妹しか知らないのだけれど。
太陽の光に対する具体的な対応策というのは無いわけでもないが、例えば日の光を浴びないようにする、と、そう一言で言ったとしても、
屋外で肌への太陽光を遮断するというのは思いのほか難しいのだ。光というのは思わぬ所から反射してくるものだから。
特に強く反射する鏡なんかは、屋外では咲夜の化粧用の小さな鏡以外まず見かけることも無いが、
波立たない水たまりや湖面等はその存在自体が十分に警戒すべきものになってしまう。
だからいつも、宴会に遅くまで居残るなんてことは私にはできなかった。
神社に泊めて貰えれば別の話だが……やはり、一番安心なのは館の中なのだ。

秋姉妹という呼ばれ方をされているあの姉妹。宴会ではいつも隅の方で穏やかな顔をしているから、きっと心の内も穏やかなのだろうと思い、
最後の相手として頼みに行ったんだ。結果、その姉妹……正確には姉の静葉嬢から約束を取り付けることはできたのだが、
その時に発した言葉を咲夜は許せなかったのだろう。既にほとんどの者が眠ってしまい静かになっていた館の廊下を二人で歩いていると、
咲夜が少しばかり怒りを込めた声でそう言った。

私が頼みに行った時、当然の様に話題はフランの安全性のことに移った。誰が貴女の妹さんの安全を保証できるの、と。そう彼女は言ったのだ。
勿論、その質問に私達は答えることができなかった。私達はどちらも身内だからだ。保証できる第三者は、居ない。
そういう意味では問われた時点で詰んでいた話ではあったのだが……至極真っ当な質問だった。

『できない、のね。じゃあ穣子に何かあった時、貴女はどう責任を取るつもりなの?』

それが彼女の次の言葉であり質問だった。質問だったが……彼女は私が言葉を返す前にそのまま続けて言った。

『もしものことがあったら、私は……。私が釣り合うと思うまで、その時はとことん責任を取らせるわよ』

微笑みながら、だ。実は、少し面食らった気分だった。私の勝手に抱いていた印象とのずれが原因なのは分かっていたが、
それでも……ここしばらくの間に貰った言葉の中で、一番薄暗い色の感情が込められた言葉ではあったと思う。

『何をされても構わないよ。ただ、それが私の体で済む範囲であれば、ね』

それが、私の返答だ。その時から顔には出さなかったけれど、咲夜がこんな調子なのだ。
流石に静葉嬢の目の前では何も言わなかったけれど、その後の宴会の中でもずっと私の斜め後ろで歯がゆそうな顔をしていた。

「咲夜。保証ができないことと、フランのことを信じられないことは、全く別の話よ?」

私があの時返した言葉の根拠が、これだ。本当は咲夜だって、私があの時どういうことを考えていたか位は分かっているはずなんだ。
ただ、万が一をやっぱり考えてしまうのだろう。私やフランの為に考えてくれていると思うとそれはとても嬉しいことなのだが……
咲夜にはもっともっとフランのことを信じて欲しいがためか、素直に喜ぶことができない。

「それでもあれは……」
「横暴とでも言いたいのかしら。あの条件、呑めなかったら私がどうなると思っている。膝を折っても頭を下げても私のプライドに傷一つ付きやしないよ。
けれど、あれでもし条件を呑まなかったら。つまりはフランや貴女達を信用していないと示してしまったら。私はその時点で主としての資格を失ってしまう」

足を止めて振り返り顔を見上げてみると、咲夜はまだ何かを言いたげで、胸のあたりまで持ちあげていた手をせわしなく動かしていて。
何とかまだ言葉を紡ごうとしていた。

「良いんだ。心配してくれてるのは分かってるからね。……さあ、もう夜が明けてフランも起きるだろう。
私の代わりに伝えておいてくれないかな。約束のことをね。ただ、条件だけは漏らさないでくれ」

私がそう言えば、少し間はあったけれど目を閉じ咲夜が頷いた。くるりと踵をかえして地下の方へと向かって行くその後ろ姿を見送って、
私も一人部屋へと戻った。帽子を椅子へと投げてベッドに倒れこめば、話が纏まった後に静葉嬢が言っていた言葉を思い出した。

『羨ましい』

と。予定や約束ごとを全て決め終わった後になって、そんな言葉を発したのだ。
独り言と言った方が正しいかもしれない。その言葉を発した時には、既に背を向けていたから。
……しかし。何が、羨ましかったのだろう。



~~



起きて早々、そわそわと慌てだしたのは姉さんだ。

「い、家の掃除に……ええと。食材も買って来なきゃ!」

悲鳴と言っても差し支え無さそうな声で、慌ただしく家の中を駆ける。
あまりに駆け回るお陰で、ある程度の掃除は日頃からやっているはずなのに、姉さんの靴下がまるでモップみたいになっていた。
私は昨晩交わしたはずの予定とかをまだほとんど知らなかったから、とりあえず掃除だけを引き受け、姉さんを買い出しへと送り出して。
必要になりそうな掃除道具を片っ端から準備していった。

今日来るのは一応、身分はお嬢様だ。私達二人が『まぁ良いか』という言葉で済ませてしまっていた様な、
そんな掃除具合ではとてもじゃないが恥ずかしくて迎えることはできない。……私達の部屋は特に、だ。
だから、私には掃除のしようが無い姉さんの部屋だけを残して、廊下から一室一室を巡り掃除して回っていった。
廊下が終わり、居間が終わり。そして、私の部屋が終わり。客間はそもそもお家に無かったから、その後は水回りに移って。
台所と、お風呂と……一つ一つ、片付けて行った。

朝早い内に送り出した姉さんだったけれど、結局お昼ご飯の時間になっても姉さんは帰って来なかった。
食材の買出しだけのはずだったのに、何をこんなに手間取っているんだろうと思ったけれど、それを考えても空き始めた私のお腹は満たされそうに無かったから、
二人分のおにぎりを拵えた後は、私は何も考えないようにしながらひたすら掃除を続けていた。
……ただ、水回りがすっかり終わって窓のサッシの掃除も終わって、物干し竿まで綺麗にしても帰って来ないので、
仕方なくカチカチになったおにぎりを姉さんを待たずに幾らか頬張って。それからは、滅多に使わない食器まで取り出して洗いだして……。
結局、姉さんが買出しから返ってきたのは夕方が近くなった頃だった。

「こんな時間まで何してたの!」

帰ってきた姉さんにそんな言葉を投げつけてみれば、肩で息をしていた姉さんはへとへとになった体を壁に預け、荷物を下ろして。
ひと息ついたその後で、荷物の中身を台所のテーブルの上に並べ始めたのだった。……全部、食材だ。何でこんなに時間がかかったんだろう。

「厳選してたら時間かかっちゃうし、途中で財布落としちゃって」

私の頭の中を読んだのか、姉さんはうんざりした様にそう言って廊下を進んで行って。
手を洗い終えた後は、壁にもたれかかったまま、ずるずると座りこんだ。私はそんな姉さんを尻目に並べられた食材を全部片付け、干していたコップに水を注いで。
立つ気力まで使い果たした様子の姉さんを引っ張り起こして、居間へと運んだのだった。

「財布は?」
「あった。ちゃんと、見つけたから。……あのお水、頂戴」

私の言葉に姉さんはポケットから薄くなった財布を取り出して、居間のちゃぶ台の真ん中へと置いた。
台所に置いていたコップと作ってあったおにぎりを持ってくると、姉さんはホッとした様に笑った。

「気が利くのね」
「これ、お昼ご飯だったんだけど」

ひと口ほど水を流し込んだ後で、おにぎりを口に運んだ姉さんがきゅっと眉を寄せた。どうやら、固かったようだ。
私も一つ口に運んでみたが、固さだけならまるで焼きおにぎりだ。しかも、中途半端にしょっぱい。……口の中が乾いてくる。

「ねえ、穣子」
「うん」

かちかち過ぎてもはや手にくっつくことも無いおにぎりを、姉さんは水で流しこんで。それから、私の名前を呼んだ。

「大丈夫?」
「……それとは関係無しに、来るんでしょ」
「それはそうなんだけど。……うん。大丈夫よ、きっと」



……姉さんは昨日、夜に来る、と言っていた。吸血鬼であるから、それが日没後の時間を指していることは勿論分かっていたのだが、
来るのが夜のいつなのか、ということは全く分からなくて。姉さんにふとそのことを尋ねてみたら、姉さんは驚きながら口元に手を当てていた。
どうやらそのことについては深く取り決めをしていなかったらしい。私は日没後ちょっとした位だと思っていたけど、
夜の帝王と言われる吸血鬼だから、ひょっとしたら深夜になる可能性だってある。苦そうな、失敗したという顔を姉さんはして。
だから、私達はとりあえず夕食だけは先に作ってしまって、後は来るのをゆっくり待つことに決めたのだった。

「……ねえ。なんで、館の外に学びに来るんだろう」

料理を始めたのは、日が半分ほど山の端に消えてしまった頃だった。

「そうねえ。たぶん、本当の目的はちょっとずれた所にあると思うの」
「……そうだろうね」
「とりあえず今日は肉じゃがにしましょ。あれなら冷えても美味しいから」



作り終わったのは、すっかり日が沈んでしまってしばらく経った頃だったのだけれど、
出来あがっていざ盛りつけようとした所で姉さんが苦い声をあげた。

「……館で食べて来てたらどうしよう」

鍋の中を覗き込みながら姉さんが溜息を吐いた。確かに、食べてくる可能性が無い訳じゃない。
何で昨日の話し合いの時に聞かなかったのだろうかと思ったけれど、色々必死になって別のことを交渉していたことを思いだすと……文句を言える立場じゃない。
それにもう、作ってしまった物は悩んだ所で仕方無いのだ。

それから少し経って、姉さんが一人分の肉じゃがを鍋に残してお皿へと盛りつけて行った。
結局、待てる所までは待ってみようということになったからだ。居間の小さなちゃぶ台に肉じゃがとご飯、そしてお味噌汁を並べて。
それらを眺めながら二人揃って正座して、件のお客を待ち始めた時には、一日中せっせと色んなところを巡ったらしい姉さんのお腹が空腹に泣き始めていた。

「……そろそろ、食べようか」

一応、残っていたお昼ご飯のおにぎりを食べはしたのだけど、どうやらそれが余計にお腹を空かせてしまったらしい。
緊張もあって二人して黙ってしまったお陰で延々と姉さんのお腹は鳴り続け、恥ずかしさに耐えきれなくなった姉さんがそう言った。
その頃にはもう、盛りつけたどの料理からもほっくりとした湯気は上がらなくなってしまっていた。

姉さんが崩していた足を正して、手を合わせた。ぱちり、と、その手が音を立てた時、丁度玄関の方からも物音がして。
それから家のドアを叩く音が部屋の中へと響いてきた。姉さんはパッと顔を明るくしたが、私の背中には冷や汗が湧いて垂れた。
姉さんが返事をして立ち上がり廊下へと走るその後ろで、胸に手を当てて深呼吸し、大丈夫だ、大丈夫だと強く言い聞かせて。
それから、居間の畳みの上を這って、そっと廊下の方を覗いた。

長い間座っていたこともあってか、姉さんはへろへろとした足取りで玄関に向かっていた。
やっと玄関に辿りついて、ドアの開く音が響く。目に入ったのは、二人。片方は昨日も姿を見たから分かっている。十六夜さんだ。
いつも通りの落ちついた様子だ。そしてもう片方が……フランドールだ。名前と噂しか聞いたことが無かったのだけれど、その噂通りの姿をしている。
やはり姉のレミリアと一緒で、十六夜さんと並ぶととても小柄に見えた。

それからは、しばらく話をしていただろうか。
閉まりきっていないドアから漏れこむ風の音が強いお陰で、何を喋っていたのかはほとんど聞きとることができなかった。
けれど、様子だけで言えば姉さんが里でたまにしている井戸端会議とあまりその様子は変わらない。
話相手である十六夜さんは手に少し大きな鞄を持っていて、どうやらあれがフランドールの手荷物らしい。
少しして十六夜さんは玄関にそれを置き二言三言述べた後、微笑んで頭を下げて、そのまま去って行った。

ドアが閉まり、ざわついていた風の音がぴたりと止み。それから、フランドールが改めて深く頭を下げていた。
……異様な光景だ。それに対して姉さんが笑って対応しているから尚のこと不気味な光景にしか私には見えなかった。

「宜しくお願いします」
「ええ。よろしく」

フランドールが姉さんの前で畏まっている姿を見ていると、姉さんが姉さんでは無い別の何かに感じてしまう。
姉さんの皮を被った……熊とか。いや、熊位だと吸血鬼には敵わないだろう。……何と、例えれば良いんだろう。

「ああ、履物は脱いで頂戴ね」

これから先のことを考えたくないが為の現実逃避も、フランドールが靴を脱ぐ音とか、衣擦れの音とか。
そんな、時間が止まらずにどんどん進んでいることを示す確かな証が、私のことを引っ張り戻す。
私の耳へと流れ込んでくるの音が段々と大きくなるのを感じると、背中がずんと重くなった。

「穣子、フランドールのご飯の用意お願い。私は荷物を置いてくるから」

顔だけ出していた私に姉さんはそう言って、そして去って行った。返事をして、立ち上がって。
台所へと向かう為に廊下に出た所でちらりと改めて玄関の方を見てみれば、丁度こちらを見ていたフランドールと視線が重なった。
冷や汗がじっとりと服に染み込む感触を覚える私に対し、彼女はただ静かに頭を下げた。……私よりも先に、だ。
その後はすぐに姉さんの後を追って去って行ってしまったけれど、噂に聞いていたような毒気を感じさせないその姿は、
彼女が去ってしまった後も私の瞼の裏にしばらく残っていた。……私にとっては、それ程に奇妙な姿だったんだ。



食事の為に三人で囲むには少し小さなちゃぶ台。いつもは姉さんと向かい合って座るのだけれど、
今日は私と姉さんが隣り合わせにぴったりくっついて座り、向かいにフランドールが正座する形となった。

「私が静葉で、こっちが穣子よ」

私達の食事は食器に盛ったまま放置していたため、誰が見ても分かる程に冷めきってしまっていた。
味噌汁なんかは混ぜたはずの味噌が完全に沈みきっていて、上の方がすまし汁みたいになっている。
一方で対面に座るフランドールのそれからは今、湯気が上がっていた。……私が今温め直したからだ。

「穣子です」
「フ、フランドールです」

そんな温め直しのお陰もあって、台所から流れてきた熱気が少しだけ居間を温めてくれていた。
しかし、先程この子の顔を視界に入れてからというもの、寒さも熱さも関係無しにずっと冷や汗は流れっぱなしで。
私がお尻の下に置いている自分の足だって、まるで膝から先に血が通っていないんじゃないかと思う程冷たくなっているのを感じてた。

一方の姉さんは、私の横で涼しい顔を浮かべたまま私達二人……と、ご飯交互に見ていた。
気合か何かで何とかしているのか、先程までこれでもかと鳴っていたはずの姉さんのお腹は今は押し黙っている。
そんな姉さんが横に居るからこそ、私も今はまだ大丈夫だと感じていられるのだけれど、
もしもどこかにふらっと行ってしまったなら。その時は……もう、叫んで逃げ出してしまいたい気分。
フランドールだって、今は丁寧な言葉で返してくれるけれど、これがいつ豹変してしまうのか。
した時は、一体どうなってしまうのか。噂で沢山聞いてはきたけれど、想像が追い付かなくて怖い。

「じゃあ、冷めちゃう前に食べましょう」

そんな姉さんの言葉に合わせて、私達と彼女は手を合わせた。頂きます、という短い言葉の後、箸を手にとるフランドール。
宴会の際もレミリアは普通に箸を扱っていたが、彼女にもどうやら経験はあるようだ。
僅かにぎこちなさが残っているけれど、きっと一度や二度じゃなく使う機会は沢山あったのだろうと思う。
これが肉じゃがでなく、おせち料理に並ぶ黒豆とか……それとか絹豆腐とかだったなら、ひょっとしたら大惨事になっていたかもしれないけど。

食べ方には問題無さそうだったフランドールだったけれど、落ちつきは無かった。
時折、怯える様にこちらを……というより、私をちらりと見ていた。
私の方はと言えば……ほぼ、見っぱなしだ。気になって気になって気になって気になって、仕方が無い。

「あの」

度々視線がぶつかる彼女が、ついに口を開いた。

「……やっぱり、怖いかな?」

左手に持っていたお茶碗をそっと置いて、握っていた箸も置いてそう言った。私に対してだ。顔も目も確かにこっちを見ている。
その言葉に心臓がぎゅっとなる感覚を覚えて、縦にも横にも首を振れず固まっていた。縦と横、どっちが正解なのか分からない。
外れを引いてしまったら、とんでもなく悪いことが起きそうな気がして……どう、返したら良いんだろう。
どんな言葉が良いんだろう。それを必死になって考えていたら、全く関係の無い昔あった楽しいこととか、そんな場面ばかりがぐるぐる頭の中を流れて行った。

「そう言ってたわ」

緊張していたせいで、どれだけの時間返答せずに居たのか私には分からないが、気が付けば姉さんが私の代わりに何事も無かったように答えてた。

「そっか」

その言葉にフランドールはすっと視線だけを落として。それから、ちらり、ちらりと食卓の上の料理を眺めて。

「自分でも、何となく予想はしてたんだけど……」
「そういう話はご飯の後でゆっくり、私の部屋で。ね?」

フランドールの返事を遮る様に姉さんがそう言って。二人はそれから黙ってしまった。
お陰で、私がごくりと口の中に溜まっていたものを飲みこんだ音が部屋の中に響いて。それから私やフランドールは止まっていた食事を再開したのだった。
私からすれば今の姉さんはとても変に映っているのだけれど……ひょっとしたら、それは彼女にとっても同じだったのかもしれない。



少しだけいつもより時間がかかってしまったが、フランドールの料理から湯気が消える前には皆食べ終えて。
私がひと息つけば、姉さんはぐっと立ち上がり、食器を洗うと言いだした。私は二人きりにされるのが怖くて、
手伝おうかと声をかけはしたのだけれど……

『貴女は家の中を簡単に案内して頂戴。終わったら、私の部屋で二人でお話してて』

と、きっぱり断られてしまった。振り返って彼女の方を見ると、背筋をぴっと正して彼女が私を見上げてた。
廊下に出て私が立つように促せば、彼女は私の少し後ろを静かに歩いて付いて来たのだった。

私自身は紅魔館の中に入ったことが無いから、内装がどんな風になっているかは全く知らない。
しかし、その外観自体は知っている。遠くから眺めたことがあるからだ。だから、それがどれ位大きいのかも分かってる。
それに比べてしまったら、私達の家というのは正直広くはない。むしろ、狭いのだ。
昨日、姉さんが私の部屋で寝ると言いだしたのもその為で、この家にはお客さん用の寛いで貰える様な専用のお部屋は無いのだ。
もしも訳あって泊めることになったとしても、普通は居間に眠って貰うしか無かったりする位。

「ここが、お風呂場ね」

勿論お風呂場だって、狭い。……フランドールはどうやら今日は館で浴びてきたみたいだ。私と姉さんはお出かけの都合とかあったから、朝に急いで浴びたきり。
今日は、もう使うことが無さそうだ。本当はちょっとだけ、浴びたい気持ちもあるんだけど。
きっと、紅魔館のお風呂は大きいんだろうなぁ。あれだけ沢山のメイドさんを抱えているんだし。そうでないと……大混雑だろう。
そう思うと、ふたりも並べばそれだけで狭さを感じるこのお風呂は何と……恥ずかしい。掃除の手間を考えるとこれ以上大きくてもあまり嬉しくは無いんだけど。

「うん」

そんな、必死になって関係の無いことを無理矢理考えて気を紛らわせる私に対して、彼女の反応というのは別段驚くでもなければ、馬鹿にするでもなく。
腕を伸ばしてもぎりぎり届かない程度に離れた後ろから、やや上の空のような感じの声を返してくるだけだった。

「次はこっち。……足元、気をつけて。こっちが私の部屋で、あっちがお姉ちゃんのお部屋。それから、この廊下を進んで行くとベランダに出られるんだ」

汗のせいで冷え切ってしまった背中。そして、立ち上がってしばらく経つのに、未だに冷たくびりびりとする足の感覚。
……気まずい。黙られてしまっても、話しかけられても、気まずい。なんとか笑顔を作って対応してみようとはするけれど、
顔が引き攣っているのは自分でも分かっているから、それを見せるのにも困る。

「お、お姉ちゃんの部屋行こうか」
「……うん」

だから、あまり振りかえらない様にして簡単な案内をしたのだけれど、流石に部屋が沢山あるわけでもなければ、凄い見どころがある訳でもなく。
結局、我が家の説明だけではすぐに会話の種も切れてしまって、私は姉さんに言われた言葉を思い出してそう言いながら振り返ったのだった。
ずっと、上の空のような返事をしていたから気になっていたのもあった。

フランドールは、俯いていた。彼女を見たのは今日が初めてだけれど、その表情がどんな気持ちを含んでいるのかは何となく分かった。
……泣きそうな、顔だった。泣きそうなのを堪えて、無理に我慢している。近所で遊んでいる妖精の子達も近い表情をするけれど、
その時に抱く様な微笑ましさは無かった。ただただ、ドキリとして。また、背中が寒くなった。

彼女に背を向けて、すぐに姉さんの部屋のドアへと手を伸ばして。もう片側の手でバクバクする胸を押さえながら、部屋に入った。
私に続き彼女が入って……彼女は、振り返ってドアを閉めていた。私が部屋の中央にあるテーブルの前に腰を下ろすと、彼女も向かいに腰を下ろした。
何度か静かに深呼吸してみたけれど、駄目だ。全然落ちつかない。そもそも、何故泣かれなくちゃならないんだ。泣きたいのは、こっちだ。

……お互い、だんまりだ。向かい合って座っているはずなのに、まるでお葬式の様に静まり返って何も言いだせない。
呼吸も止めてしまうと、食器の擦れる音と水の音が遠くからまだ聞こえていた。どうやら、まだ姉さんが来るにはちょっとかかるみたいだ。
うぅ、やっぱり無理を言ってでも代わって貰うべきだった。早く部屋に来て助け舟を出して欲しいのに。まるで茨の座布団に座らされている様な気分だ。

なんとか気分を紛らわせようと、部屋の中を見渡した。日頃より少しだけ整頓されていて、部屋の入り口にフランドールの荷物が置いてあった。
そうだ、これは泊まりがけなのだ。あまり考えては居なかったけれど、隣の部屋で寝るというのは実は相当危険なんじゃないだろうか。

「ごめん……なさい」

私の頭の中が色んな事で一杯になっている中、彼女が急に謝った。
その言葉に視線を彼女へ戻せば、まるで堰を切った様にぼろぼろと大きな涙を流しながら、俯いていた。

「わ、私はまだ何もされてないよ?」

何が原因か分からなくて、私は何とかそう返した。すると、衣服へはたはたと落ちる涙の音に混じり、
部屋の少し遠くから姉さんの足音と鼻歌がゆっくりと近づいてきて、そしてドアが開いたのだった。

「お待たせ……って、穣子……貴女、何泣かせてるの」

姉さんは部屋の中の様子に気づくと、顔をしかめながらゆっくりとドアを閉め、じっとりとした視線を私に投げた。
私はすぐにでも助け舟を出して貰えるものだと、そう思い込んでいたから……だから、そんな姉さんの反応を見て余計に混乱して。

「私は……何も」

そう、返したんだ。……変なことを言った覚えは私には無かったし。いじめていた訳でもない。
第一フランドールが相手じゃ、例え目隠しをしたとしても勝てる気がしない。それ位私には力が無いし、むしろ何故か謝られた位で。
姉さんは相変わらずじっとりとした目をしたまま部屋の奥にあったベッドへと腰を下ろし、私達二人を見下ろした。

「み、穣子お姉さんは何も悪いことはしてないですから」

何故私が悪いという雰囲気になっているんだろうと、そう思っていると、小さな声でフランドールがそう言った。
私に向かって謝りなさいという視線を体中が穴だらけになる程送りつけていた姉さんが、その言葉に彼女を見て。それから、長い長い溜息を漏らした。
……完全に悪役扱いだ。でも、本当に何もしていない。フランドールだって、そう言っている。何で泣いているのかはこっちが聞きたい位なんだ。

「何か至らない点があったなら、教えて欲しいな」

私も負けじと姉さんに向かって違う違うと視線を送り返したからか、
時間はかかったけれどやっと理解して貰えたみたいで、少し考え込んだ後に姉さんが私の代わりになって彼女に尋ねた。
その頃には私の方も少しずつ落ちつき始めていて……それから、フランドールが泣きやもうと今必死になっているのに気づいて。
胸の中に後味の悪いものを感じながら、私は目を伏せた。

「ちょっと、不安になって。……ここまで、怖がられているとは思って無かったから」

姉さんの問いに対して、間はあったけれどフランドールは静かに語り始めた。

ここに来る前から、怖がられているんじゃないかということがずっと不安だったこと。
怖がる私の表情を見て、昔酷い目に合わせた妖精の子達の表情を思いだしたこと。
これ以上怖がらせないようにするためにはどうしなきゃって考えて……何も、浮かばなかったこと。

「それと、もう一つ。これだけは言わなくちゃって思ってた。……私の噂は、嘘じゃないんだ。沢山、悪いことをしてきたから。
……だから、本当だよ。だから、怖がるのはむしろ当たり前で……だから、穣子お姉さんは悪くない……から」

最後にそう付け加えて。ぽつぽつと紡がれていた言葉はそこで終わった。

「穣子」

また沈黙が訪れようとした頃、姉さんがそう言って私を見つめた。

「貴女から何か、言いたいことは?」
「……怖がらないなんて、無理だよ」

本当は気の利いた言葉を言わせたかったんだと思う。でも、正直に答えた。
噂だけで判断するなって昨日の姉さんに言われたばかりだけれど、やっぱり昨日の今日でできる覚悟じゃない。
そして何より、彼女自身がその噂が本当だったのか嘘だったのか……もう、認めてしまったから。

……どうしろと。どうしろと言うんだ。そう、姉さんに視線で訴えたけれど、姉さんは顔をあげて天井を見上げると、顎の先を指先で掻きながら

「今は、どうなのかしら」

と、静かに言ったのだった。

「私も穣子も色んな噂を聞いてきたけれど、今の貴女が噂の貴女と同じだとは私には思えないの。
だからこそ貴女のお姉さんも貴女を推したんだろうって、私は考えてるんだけど」
「変わろうって思った時に、もうあんなことはしないって心に決めたの。でも、信じて貰えなくてもそれは仕方ないことだって……そう、思ってます」

姉さんの問いかけが私に対する遠まわしな説得に代わり、胸の中にずきりと来るものを感じはしたけれど、
それでも私はまだ、納得ができない。……そもそも、どうやったら自分が納得できるのかも分からない。
今の私にとってただ一つハッキリしていること。それは、何を言っても、言われても。それでもやっぱり……怖いことなんだ。

「そっか。……穣子?」
「何?」
「貴女は部屋で待ってて頂戴。どうせ今夜はもう寝るつもりだから。私ももう少ししたらお部屋に行くから」

私が頷けば、姉さんはごめんねと、口先だけを動かして応えた。



~~



小さなきっかけ一つで、忘れていたことを思い出す。
館で独り過ごしていた時に読んだ本の中には、そんなことがよく起こっていた。
例えば、昔の幼馴染のことを思い出したり。例えば、子供の頃に祖母に聞いたことを思い出したり。例えば、大切な初心に帰るためだったり。
お話の中でこれらのことが書かれたら、大体はこれから先に展開される何か素晴らしいことの前兆で、温かいもので。
私自身、機会として巡り合ったことはなかったけれど、ああ、こういうこともあるんだなって。読んだ時は羨ましく思ったんだ。

今日、山にあるこのお家まで咲夜に連れてきて貰って、玄関から遠くに穣子お姉さんの顔が見えた時、私はほんの一瞬だけ懐かしさみたいなものを感じたんだ。
慣れない感覚で、ほんの、ほんの一瞬だけはどこか、温かな感覚に思えたんだ。でもその顔は……その表情は。好意的な表情と言うには程遠くて。
怖がっているのを何とか隠そうとしている、そんな顔だった。……私は、この顔に見覚えがあった。
過去に、私の担当になってくれたメイドの子達は沢山居る。そのメイドの子達と初めて顔合わせをすることになった日、彼女達が見せていた顔。
それと、そっくりだったのだ。その事実にはすぐに気付いたけれど……私は、途端に怖くなったんだ。その表情が。その表情に、向き合うことが。

来る前から不安で胸はいっぱいだったけれど、私は今回のこのホームステイを通じて友達と呼べる相手が一人でも増えたら嬉しいなって、思ってた。
けれど来た時から……ううん、私が訪れる前から、もう既に怖がられている。その原因が噂にあるんだろうってことは、勿論分かっていた。
そしてその噂のほとんどが事実に基づいていることも、分かっていた。……私は、もっともっと印象を悪くしてしまわないか、それが怖かった。
一言一言の言葉を紡ぐのが怖かった。あの表情が、私が襲ってしまった時の妖精の子達の顔に、変わってしまわないか。

怖かったんだ。

「私ももう少ししたらお部屋に行くから」

静葉お姉さんがそう言った後で、穣子お姉さんは部屋を出て行った。もう、この時点で大失敗なんだ。
もっともっと私がしっかりして居れば、この場はもっと明るい場だったはずなんだ。穣子お姉さんは相変わらず私のことを怖がったかもしれない。
でも、私が泣きだして、そしてこんなことにならなければ。きっと、沢山お話ができたはずなんだ。私はことごとく、その機会を潰してしまった。

「貴女に伝えておきたい事が、二つあるの」

廊下を去っていく穣子お姉さんの足音が小さなドアの音と一緒になって消えた後、静葉お姉さんはそう言った。
座りなおしてお姉さんの方へと向き直って。それから見上げれば、お姉さんはにっこりと笑った後で、指を一本立てた。

「一つ目。困ったら、いつでも良いから相談して頂戴。私にでも良いし、穣子にでも良い。
あの子、怖がっているけれど、悪気とかそういのは無いの。だから、きっとあの子だって聞いたら答えてくれるはず。
時間は……かかっちゃうかもしれないけれど、でも、そうやってお互いのことを知らないと、きっといつまでもあんな風に思われたままになってしまうから」
「余計に怖がらせてしまわないか、不安なんです」
「難しいと思うけれど、あの子のこと、信じてあげて欲しい。きっと、分かってくれると思うから」
「……頑張ります」

信じる……か。

「二つ目。短い間一緒に住む訳だけれど、時間は私達の時間に従って貰うわ。勿論、遮光には努める。
けど、台所とお風呂場だけは……ちょっと日当たりが良すぎるから、そこだけはどうにもできないんだけど」
「大丈夫です」

私の言葉にお姉さんはゆっくりと頷き、それから今日初めて会った時に見せてくれた様な笑顔を浮かべた。

「それじゃあ、私も頑張って穣子をもうちょっと説得してみる。今日はゆっくり休んでね」
「迷惑をかけてしまって、ごめんなさい」
「あら。迷惑なんかじゃないわ。これは……穣子のためでもあるんだから。それじゃ、おやすみ」

……穣子お姉さんのため?
笑いながら言ったお姉さんの言葉の意味を考えている内に、お姉さんは立ち上がってもう部屋を出ようとしていて。

「おやすみなさい」

私は慌てて、消えていく背中にそう声をかけたのだった。



~~



カタン、とドアの閉まる音と、おやすみなさいという言葉が聞こえたから、姉さんがきっと部屋を出たのだろう。
あまりこの家の壁は厚くないから、薄い板一枚分しか挟んでいない隣の部屋で何をしているかはよく分かる。
流石に隣の部屋で何を喋っていたかまでは分からないけれど。

「入るわよ?」

小さなノックを二回鳴らし、そう言った姉さん。少し置いて、ドアを開けて静かに入って来た。
ベッドの上に腰を下ろしていた私に肩を並べると、少し体重を預けてきて。それから、私の体にそっと手を添えた。
それは、一呼吸か、それとも二呼吸か位の短い間だったけれど、姉さんは笑った。

「まだ、震えてるわね」
「……怖いんだもん」
「噂のこと本当だーって言われて、もぉーすっごい焦ったわ」
「……どうするの」
「どうもしないわ。私の考えはあそこで言った通り。私はレミリアを信じてるもの。だから、あの子も信じてる」

姉さんの囁く声。声まで少し震えてしまっている私と違い、穏やかで、そのお陰でこうやって寄り添って聞いていると、昔から安心するのだ。
守られていると言えば良いんだろうか。後ろに付いて行けば安心なんだなって、そんな気分にしてくれるから。

私には、昨晩から聞いてしまいたいことが一つあった。
尋ねる前に姉さんが寝てしまったから聞くことができなかったし、聞いてもはぐらかされたかもしれないことだけれど。
でも今なら。今の姉さんなら、答えてくれるはずだって。そう、思ったんだ。

「お姉ちゃん」
「なあに?」

呼びかけると、姉さんは顔を傾けて私の顔を覗きこんだ。

「怖く、ないの?」

それが私の聞きたかったこと。この質問の答えは何となくは分かってるんだ。きっと、姉さんも怖いって思ってる。その気持ちは零じゃないはずなんだ。
勿論、私よりは小さいかもしれない。でも決して、零じゃないのなら。そうだとしたら姉さんは首を横には振らないって、そう思ったから。
……勿論、聞きたかったことはこれだけれど、私が知りたいのはその先にある。私がこの質問で知りたいのは、姉さんがこの依頼を受けた理由なんだ。
目的が知りたいんだ。面白そうだったからと言っていた。それは、恐らく本当のこと。でも、それはきっと二番目や三番目の理由であって、
一番に思っていることでは無いはずなんだ。

「私だって、少しはね」

ほら、やっぱり。

「でも、それでも。あのレミリアがああやって頼んでくる限りは、きっと引き受けた」
「どうして?」

姉さんは私の肩に頭を載せて、小さな溜息を吐いた。

「二つ、大きな理由があるかな。でも、秘密にしておくわ。片方はとても簡単なこと。もう片方も、
貴女も少しは分かってること、かな。凄く凄く簡単で、とてもとても難しいこと」

寄りかかってくる体が少し重たかったから、私も姉さんの方へと少し体重をかけた。
頭の上に頬を重ねてみると、ほんのりと温かくて……冷えていた耳が心地いい。

「そんなに大切なことなの?」
「人次第かもしれないけれど、私は穣子に気づいてもらえたらなって。そう、思ってる」

姉さんの言葉はそこで途切れて。それから、長い長い欠伸が頭の下から聞こえた。
まだあまり夜遅いとは言えないのだけれど、きっと今日は色んなところを巡ったお陰で疲れているのだろう。

「眠る?」

私がそう聞けば、姉さんは私の顔を頭に載せたまま小さく頷いて、それからゆっくりと頭を持ちあげた。
温かさが去って行った肩口が急に寂しくなって、私が毛布を捲れば姉さんは亀の様にゆっくりと潜って行った。

「貴女はちゃんと、分かるはずだから」

そう言って姉さんはベッドの隅で背を向けて。灯りを落として私もベッドへと潜ると、少ししておやすみと姉さんの声が響いて。

「おやすみ」

……胸の中で、しっくりこないなぁと思いながら、私は姉さんに従ったのだった。



風の音が無い静かな夜というのは、眠りやすいからとても好きだ。……けれど、今日の夜はとても寒くて。
元々は一人用の毛布を二人で分けあって寝ていたのだけれど、どうしても覆いきれない部分が冷えてつらくて。
どうやら私も姉さんも、寝ながらこの一枚の毛布を奪い合っていた様で、私が目を覚ました時にはお互いに太ももから下に毛布は掛かっていなかった。
昨日は二人ともお酒が入っていたから寒さを感じなかったのかなって。眠たい目を擦りながら、私はそんなことを考えていた。

乱れていた毛布を整えて姉さんにかけ直し、予備の毛布を取りに行く為にベッドを出た。
最近は姉さんと寝ることは無いが、姉さんは寝ているととても強情なのだ。逆らい過ぎると……あまり寝相がよくなくなる。
予備の毛布があるのは、居間にある押し入れの中だ。ご飯を食べた後とか、雪が降った日とか。
ただ、ごろーんって、居間に転がりたいだけの時とか。そういう時に使うものだったから、あそこにあるんだ。
毛布自体のことを言えば、寝室の物に比べるとちょっと古くて薄くて、寒いのだけれど……でも、
きっと今よりはマシだろうし、もう寒さで起こされるのは嫌だったから。

姉さんを起こさないように静かに静かに部屋を出た。……床がとても冷たい。自然と踵が浮いてしまう。
でも、そんな廊下はカーテンをしっかりと閉じた私の部屋に比べて随分と明るい。丁度月明かりがベランダの方から入りこんでくるからだ。
カーテンを閉じていても、漏れた光が壁を反射しまた別の壁を照らし……お陰さまで寝ぼけていてもなかなか転んだりすることが無い。
今、どれ位の時間なのだろう。意識と無関係に出る欠伸に手を口へと運びながら歩き出せば、ふわりと風が髪を撫でた。どこか、戸締りをし忘れただろうか。
そう思って、風の流れてきた方向へと振り向いた。……どうやら、ベランダかららしい。疲れていたし、姉さんが閉め忘れたんだろうか。
代わりに閉めなきゃって。そう思って一歩踏み出してみて気付く。どうやら、カーテンも閉まっていない。
ベランダから漏れこむ光が少し明る過ぎたし、床と壁に変な模様ができていたからだ。見慣れない模様だ。
虹の端っこの方を切り取ってきた様な、淡くも鮮やかな色。色つきのガラス瓶でもベランダに並べていただろうか……と、
そう思ってふと視線を姉さんの部屋へと動かして気付く。姉さんの部屋のドアも、閉まりきっていない。
ということは。この模様の正体はフランドールの羽……?

私がごくりと唾を飲みこめば、少しだけ模様の位置が動いて。私は思わず、一歩下がった。
ベランダで何をしているんだろうって思ったけれど……姉さんが眠ってしまっている今話しかけるのは、やっぱり私には怖かった。

静かに向かった居間から毛布を急いで引っ張り出して、自分の部屋へと戻った。
あまり長い間離れていたつもりは無いのだけれど、先程までベッドの隅の方で毛布に包まって丸まっていた姉さんは、
いつの間にか、これは私のベッドだと言わんばかりの寝顔でベッドの真ん中に陣取って眠っていた。
とても愉快そうな顔で……私のベッドで今、一体どんな夢を見ているのだろう。……うーん、入る場所が無い。
仕方が無いからと、姉さんの首の下と太腿の下に手を差し込んで持ち上げた。

「ふぁあ!」

浅かったらしい眠りから覚めた姉さんが、驚きでそんな声を漏らした。

「もうちょっと奥に行ってよ」

私が声をかけると、眠たそうな目で私の顔を見つめ、それから私が持ってきていた毛布を見つめた。

「……ごめん、取っちゃてた?」
「うん。寒くて目が覚めたの」

差し込んでいた手を引き抜いたら、もぞもぞと姉さんは隅の方へと戻って行って。
私がベッドに改めて寝転がると、先程まで姉さんが居た所とはとても温かくて心地が良かった。
外に出ている間に相当冷えてしまっていたらしく、思わず身震いしてしまった位で。
姉さんは相変わらず私の毛布に包まったまま……というよりは、もう眠ってしまったのかもしれない。
私が枕に頭を埋めて息を落ちつけた頃には、既に穏やかな寝息になってしまっていたから。

……わざわざ居間まで起きて出て行ったのが原因かもしれないけれど、どうやら眠気が消えてしまったみたいだ。
だから、閉じた瞼の裏にさっき見た風景を思い返しながら、何であそこに居たのかを考えてた。私と同じで寒さで目が覚めたのだろうか。
でもそれなら余計に冷える外なんかに出る訳が無い。第一、姉さんのことだ。困ったらいつでもおいで、とか、恐らく言ってしまっている。
それに元々地下暮らしと聞いていた。風は無くても……たぶん、ある程度寒さには慣れてしまっているだろう。

じゃあ、何で外に出ていたんだ。ベランダに用事があった……とは、思えない。だって何が置いてあるか知らないはずだ。
そもそも洗濯物を干すのにしか使っていないし、珍しいものも置いてはいない。
目の前に広がる景色だって、少し傾斜がかかった土地だから僅かに広がっては見えるけれど、ただ木がずっと続いているだけ。……ここは、山の森の中だから。
朝を迎えてしまえば夕方まで陽のあたり続ける場所だけれど、それこそフランドールには縁が無いだろう。

……我が家が恋しくなった、とか?
だとしたら、どうなんだろう。それだったら、何だかちょっと嬉しい。こんなことを考えているのが姉さんに伝わってしまうときっと叩かれるけれど、
あの子が帰りたくなって、それで帰ってしまったら。もう、危ない橋を渡ることはきっと無いと思うから。
……ただ、私はまだ姉さんが気付いて欲しいって言ってたこと、何も分かっていない。
それが分からない内にあの子が帰ってしまったら、きっと残念そうな顔をするんだろうな。
そもそもホームシックになる原因があるとしても、それは私のせい……だろうし。

面倒だなぁ。と、そんな言葉が頭によぎった時、もぞりと動く音と一緒に温かな感触が背中に広がった。

「まだ、寒い?」

背中から囁く姉さんの声。お腹の前に下ろしていた腕に姉さんの手が重なって、きゅっと抱きよせられた。

「……ううん」
「こうしてて良いかしら。私は、こっちの方が温かいな」
「……うん」

おやすみと、心の中で呟いた。そしたら、少しだけ抱き寄せる手が締まった気がして……私も、考えるのを止めた。



~~



……もどかしい。もどかしい。
そんな気持ちで朝から胸が一杯になるとは思って無くて、昨晩眠ることができずにベランダで夜風に当たっていた割にはとても早く目が覚めてしまった。
……もどかしい。さっきから気になって仕方が無いことが一つある。
それは、太陽が昇り始めた辺りから聞こえ始めた鳴き声だ。窓の外から聞こえている。
この部屋の窓の外には小さな手すりがついているから、滅多に近くで見ることの無い生きた鳥がきっとそこには居るのだ。
見てみたい。でも、カーテンをめくることができないのだ。既にカーテンの裾から苦手な日光が見えている。
きっと開けてしまったら、目の前の光景を瞼に焼き付けるのと一緒に体まで焼いてしまうことになるから……もどかしい。
聞くことのできない私の気持ちを知ってか知らずか、ちゅんちゅんと鳴く声は段々と増え始めて居て、今はもうとても楽しそうに響いている。
もしもこれを地下でも聞くことができたのならば、きっと目覚めの朝というものはもっと気持ちが良いのだろう。
私はベッドに腰を下ろしたまま、そんなことを考えていた。

久しぶりの一人の朝だ。一人で着替えるのも、久しぶり。持って来た荷物から今日の分の服を出して、着替えて。それから部屋を出た。
廊下には、壁や床を反射して届く光の明るさはあるけれど、これ位の光は幸い私の体を焼くには至らない。
そんな廊下を、光の出所を一つ一つ確かめながらゆっくりと進んで、昨日ご飯を頂いた居間へと向かった。
昨日部屋へと戻った時には気付かなかったのだけれど、カーテンのある場所は全てきっちりと端まで伸ばされて居て、ほとんどの窓を綺麗に塞いでいた。
恐らくは昨日の夜に静葉お姉さんが丁寧に閉めてくれたのだろう。お陰で、とても助かった。
辿りついた居間はとても静かで、そしてかなり暗く、ちょっと寒かった。……そして何故か、押し入れも少し開いたままになっていた。

畳に腰を下ろした。館には和室が無いから、咲夜に和室で食事をする時はどうするかを教わった時、その説明はとても新鮮だった。
見た本の中にも場面としては何度か登場もしたけれど、実際に体験してみると、正座はとても足がつらかった。
膝は痛くなるし、足はびりびりしてくるし。お姉さんたちは痛くないんだろうかと思ってちらりと覗いてみたけれど、
静葉お姉さんも穣子お姉さんもどちらも正座を少し崩した様な姿勢で食べていて。
私も真似してみたらこれが結構気持ちがよくて、咲夜からはちゃんと正座して食べて下さいねって言われてたけど……私は、誘惑に勝てなかった。

昨日のお夕飯は肉じゃがだった。館では咲夜もよく作ってくれる。私も好きだし、お付きのあの子も好きだ。
あの子が言うには、館のほかの子達も、お姉様も好きみたい。……というか、咲夜の料理を苦手な子を探すほうがきっとあの館では難しいことだと思う。

昨日のことを思い返していたら、少し遠くからドアの開く音が聞こえた。
伸ばしていた足を急いで腿の下まで仕舞いこんでぴっと背筋を伸ばした。
……足音で何となく分かるのは、この足音は静葉お姉さんのものだってこと。少し鼻歌交じりで、そのお陰で分かったというのもあるんだけど、
歩く音に躊躇が無かった。それを聞いていて改めて勝手に居間に来ていても良かったのかと不安になったけれど……流石に隠れる訳にもいかない。

「あら、早いのね。おはよう」
「おはようございます」

静葉お姉さんは私を見つけるなり、目尻を落として笑いながらそう言った。後ろ髪に少し寝癖が付いていて、まだ少し眠たそう。

「昨日はちゃんと眠れた?」
「……あまり。でも、気持ち良かったです」
「そっか。まぁ、気楽にね。穣子が起きてくるのにはまだかかると思うわ。昨日、私の不注意で起こしちゃったから」

そういえばベランダに出て風に当たっていた時、誰かが廊下を通って行ったような気がしたんだ。
あれはひょっとすると……起きてしまった穣子お姉さんだったのだろうか。
勝手にベランダに出てしまっていたけれど、私は余計な不安を与えてしまわなかっただろうか。

「何か、仰ってましたか?」
「何でこんな仕事引き受けたの、とは聞かれたかな。……ああ、起きた時のことかしら。お姉ちゃんのせいで目が覚めた!って、怒られちゃった」

けらけらと笑いながら、お姉さんは陽のあたる台所の方へと出て行った。どうやら、朝御飯を作り始めるみたいだ。
もしもできるのならば料理を作るのを見ていたいのだけれど……咲夜に家を出る前に言われたのだ。
金属の反射で思わぬ所から光が当たることも考えて下さい、と。台所の日当たりはバッチリだ。
静葉お姉さんがあれだけ光の中で輝いて見えるのであれば、恐らく包丁が光を跳ね返したらそれはもっともっと凄い輝き方をするんだろうって。
起きたばかりの働いていない頭ですら理解できてしまう位だったから、私はいそいそと膝立ちになって、
部屋の隅の何も反射してこなさそうな所まで下がり、こちこちと音を立てている時計を眺めたのだった。



昨日も頂いたお味噌汁の匂いが部屋の中に段々と迷い込んできた頃、台所の静葉お姉さんが私の名前を呼んだ。

「穣子を起こしてきてもらえないかな」
「……大丈夫でしょうか」
「気にしない気にしない。ただ、ノックはちゃんとしてあげてね」

気にしないでと言われても、気にしてしまう。叫ばれないだろうか。驚いて怪我してしまわないだろうか。余計に、嫌われたりしないだろうか。
深呼吸しながら向かった穣子お姉さんの部屋。耳を澄ませてみてもとても静かだった。離れてしまった台所からの音がまだ分かる位だ。
静かに、ノックする。一度……二度。これで起きてくれるのなら幸いだからと、少し強めに叩いたつもり。
けれど、返事は無い。もう一度だけ同じように叩いてみたけれど、やっぱり反応は無かった。

部屋にお邪魔させてもらった。静葉お姉さんのお部屋とはまた少し違う匂いがする。
静葉お姉さんの部屋からしていた匂いをもう少し甘くしたような……どこか、覚えのある匂い。
食べ物の匂いの様な気がする。きっといつか食べた物の中に似た物があるのだろう。

「あの、穣子お姉さん」

あまり近づきすぎると目を覚ました瞬間に必ず驚いてしまうだろうと思ったから、部屋の入り口からそう声をかけた。
穣子お姉さんは壁の方へと体を向けていて、私にずっと背中を向けていたけれど、声をかけても規則正しく動く肩に変化は無かった。
気持ちよさそうに二枚の毛布に包まっていて、どうやら完全に夢の世界の様だ。
顔は私の側からは見えなかったけれど、きっと穏やかな顔をしているのだろうと思う。

そろりそろりと膝立ちになって近づいて、恐る恐る肩に手をかけた。……とても、温かい。
ということは、私の指はとても冷たいんだろう。だから、袖を少し引っ張って袖越しに肩に手を添えて揺すった。
しばらくの間は反応が無かったけれど、揺すり続けている内に

「う……うぅん」

と、眠たそうな声を漏らしながら寝返りを打って。少し疲れた様な顔がころんと私の前に現れた。
これは危ないと、急いでその場から離れて、それからまた改めて名前を呼んで。
やっと私の声に気づいて瞼を開いた時、私は部屋から出て居れば良かったと後悔した。

「うわっ!」

ゆっくり開き始めていた目を急に見開いて、お姉さんは飛び退いた。方向は、ベッドの向こう側へだ。
幸い壁にくっつけて置いてあるベッドだったから、ベッドから落ちることは無かったけれど……鈍い音がお姉さんの叫び声の後で大きく響いた。
お姉さんは後頭を抱えてうずくまって。……申し訳ない気持ちがずんとお腹の中を重くした。

「あ、朝御飯がそろそろできるそうです。……その、ごめんなさい」
「き、きが、着替えたら……行くから」

うめき声混じりの返答。その言葉に私はそそくさと部屋を逃げ出して居間へと戻った。
さっきまで座っていた場所で正座すれば、台所に居たお姉さんが愉快そうに笑っていた。

「思った通りになったわ」
「……あの」
「大丈夫だって。しばらくしたらちゃんと来るから」



~~



視界がぐるぐるし、頭ががんがんする。姉さんが起こしに来たのかと思って瞼を持ちあげて、姉さんの代わりにフランドールが目の前に居た時、
私は一瞬何が起きたのか分からなかった。危ないと思って頭を思い切り引いたら、壁に頭を打ちつけて……今も打ちつけた時の音が頭の中に響いてる感じだ。
打ったのは後ろ頭なのだけれど、鼻の付け根あたりまで痛みがじんじんと響いていて、彼女が部屋を出て行ってしまった後しばらく、私は枕に頭を埋めていた。
痛みが落ちついてきた頃恐る恐る自分の頭に触れてみたら、こぶはできていなかったけれど、触れた所は痛かった。
隣の部屋の音をあまり遮断しない割に、壁は結構固いのだ。……少し、うらめしい。

着替えを終えた後、居間へと向かった。いつも朝食に並ぶ味噌汁の匂いが廊下を出てすぐの所まで届いていた。
でも、まだ全部ができたという訳では無いようで、鼻歌交じりの物音が台所から響いてきていた。
いつも通りの朝の時間だ。……フランドールが居ることを除けば、だけど。

「おはようございます」
「……おはよう」

私が居間へと入ると、隅の方に彼女は座っていた。流石に日光が怖いようだ。
普段は夜にしか使わない灯りに頼りカーテンを閉じているお陰か、いつも見る朝の景色とはまるで違ってかなり薄暗く感じた。

ちらりと覗きこんだ台所には姉さんが居る。見た感じはもうそろそろだけれど、まだ少し時間がある……かな。
そんな姉さんの背中を見ながら、ちゃぶ台を挟んでフランドールとは反対側の所へ腰を下ろした。
ちらりと見てみると、彼女はどうやら私を見ていた様で、慌てて私から視線を逸らしてた。

「ねえ」
「は、はい」
「どうして変わろうって思ったの」

いつもなら朝の時間というのは姉さんがあれやこれや色んな話題を振ってくる時間である……のだけれど、今日の姉さんに全然そういう気配が無かったから、
恐らくは私に話をしろということなのだろうと思って。とりあえずとばかりに昨日の夜に聞けたことから話題を引っ張りだして尋ねた。
すると彼女は逸らしていた視線を戻して恥ずかしそうに笑った。……少し、嬉しそうだ。

「えっと、いっぱい、いっぱい理由があるんだけど……えっと。魔理沙って、知ってるかな」

魔理沙と言われて浮かぶのはあの白黒の子だ。私達が呼ばれたりするあの宴会に毎度と言って良い程参加しているから、
神社に用事があったりする人達ならば間違いなく知らない人は居ない。それに……守矢さん達が山にやって来た時、襲われたし。

「あの白黒の子でしょ?」
「うん。私が自分のこととか、周りのこととか。そういうのを考える様になった一番のきっかけは、魔理沙に会ったことなんだ」

そういえば初めて宴会に参加した時だっただろうか。姉のレミリアも過去に同じようにあの子に襲われたというお話を姉さんと聞いた覚えがある。
あの時から誰それ構わず何かあったら行ってるんだなぁって、そんな印象があの子には強い。……とばっちりだもんなぁ。
河城さんの所も、里の上白沢さんの所も。皆そう言ってたっけ。
私達が襲われた時だって、家のすぐ近所でいつも遊んでいる妖精の子達が先に巻き込まれて泣いてた。
たまにお話する子だったから泣き付かれて、泣き止ませるのには苦労した。
それから、怒った姉さんが様子を見に行って……帰って来ないから、私も後を追ったんだ。

「……そういうこともあるんだねぇ」

で、結局見事に二人とも巻き込まれたんだ。……だから、フランドールの言葉を聞いても、あまりそういうきっかけになりそうな子には感じられない。
でも、宴会ではそれなりに盛り上がりの中心とかに居たりする。こうして見ると、私は第一印象にかなり頼って相手を見ているのかもしれない。

「あの日は私が暴れた日で、初めて魔理沙に出会った日で。そして、負けた日なんだ」

あの霧雨の子はそこまで強いのか。確かに私達姉妹じゃ手も足も出なかったけど。
……思い返してみると、確かにあの子に勝ったという話も出てこない。噂ではあの巫女さんの方が強いらしい、とは聞いてるけど。

「魔理沙は私を怖がらなかった。知らなかったって言った方が正しいのかもしれないけど、嬉しかったんだ。
怖がらないで居てくれる相手も居たんだって。館はその……穣子お姉さんみたいに、皆が私を怖がるばかりだったから」

そう言って彼女は姿勢を正して、それから恥ずかしそうに笑ってた。

「暴れた後って、当たり前だけど怒られるし、また閉じ込められるの。でも、その日は違ったの。それを止めてくれた子が居たんだ。
私の世話をいつもしてくれている子。私は疲れて眠っていたから分からないんだけど、お姉様に直談判したらしいんだ。
私なんかのことを信じてくれて。……初めてだった。そういう子に、出会えたこと」
「……そう」

でも。私は、彼女の言葉にそんな言葉でしか応えることができなかった。私は彼女の話を聞く中で今まで聞いてきた噂の内容を思い返してたんだ。
彼女がいかに暴れてきたのか。彼女がいかに周りを傷つけてきたのか。そして、傷つけられてきた子とは、一体誰だったのか。
……そのほとんどは、妖精の子なのだ。それは、彼女のお世話をする子だったり、館で働いている他の子だったり。
被害者は様々だったけれど、私が聞いてきた噂のほとんどは、そんな妖精の子達から広まってきた噂だ。

だから、私は信じることができなかった。
一つ目は、虐げられてきた側の子が急にフランドールのことをかばうような言動をするとは思えないこと。
二つ目は……嘘をついていないように、今の私には見えてしまっていること。
自分の目が、耳が信じられなくなりそう。楽しそうで、悲しそうで、嬉しそうで。彼女の言葉と表情には、色んな気持ちが混じってて。

「たぶんね、どっちが欠けても駄目だったんだ」

私の頭の中の混乱を他所に、彼女は続けた。

「魔理沙に負けたこと。妖精の子が私なんかのことを信じてお姉様にかけ合ってくれたこと。
一日の内に沢山の驚きが重なって、久しぶりに沢山考えるようになって。それで、決心したんだ。応えなきゃって。……それから、かな」
「変わろうって思ったのが?」
「うん。変わらなきゃって、思った」
「穣子、ちょっと良い所で悪いんだけど」

少し遠い目で嬉しそうに話す彼女を眺めていると、台所から急に呼びかけられて。
思わずハッとなって台所の方へと意識を傾ければ、既に料理の音は聞こえなくなっていた。
どうやら料理は終わっていたらしく、居間へと運べということらしい。だから私は彼女の話を一旦遮ると、急いで台所へと向かったのだった。
姉さんは丁度皆の分のお味噌汁を注いでいた所で、私の方を一瞬だけちらりと見ると、ホッとした様に笑った。

そんな姉さんの傍を通り、用意されていた物を一つ一つお盆に載せていく。ご飯に、漬け物に……そして、納豆。

「納豆食べられるの?」
「お姉様も私も好きです」
「紅魔館の食事って納豆出るんだ……」
「咲夜が好きだし、なんか健康に良いからって。……昔は苦手だったんだけど」

私が運びだすと、姉さんが後ろから別のお盆に味噌汁を載せて運んできて。
ちゃぶ台から離れていた彼女は邪魔にならないようにと急いで部屋の隅まで引っ込んで、ぺっこりと頭を下げた。



「そういえば山の人達って、フランドールが来てること知ってるの?」
「ううん。ばれたら不味いって思ったから、昨日椛さんの所に寄ってちょっと買収してきたの。だから問題無いわ」

食べ始めて少しして。いつもなら外の景色を眺めつつ食べる朝御飯なのだけれど、今は生憎とカーテンで何も見えなくて。
だから何か話題は無いかと思ってそう尋ねてみれば、平然と答えた姉さんの言葉にフランドールが戸惑っていた。
……その様子を見て姉さんが少し誇らしげにしたりして。そうか、賄賂を贈ったのなら……心配は要らないだろう。

賄賂を贈ること自体は実は初めてじゃない。特に椛さんの所は何だかんだ昔から付き合いがあって、お酒とか、肴になりそうなものを持って行くと、
色んなところで便宜を図ってくれたりするのだ。例えば、農家から貰った物を一緒に運んでもらえたり、とか。そういうのも。

「不便をおかけして申し訳ないです」
「気にしないの」

姉さんが彼女の言葉に笑って返し食べ進めて。おっかなびっくりしている様子の彼女を見つつ、私も食べ進める。
怖さはやっぱり抜けきらないけれど、昨日と違ってご飯の味がちゃんと分かる位には私も落ちついていた。

「あの」
「うん?」

そんな食事が半分ほど進んだ頃。フランドールが食べる手を休めてそう言って私達を見つめた。
姉さんは味噌汁を啜っている最中で、くぐもった声が小さく返った。

「もし、もし良かったらなんですけど……何かお料理を教えて貰えませんか」
「……うん。良いけど、朝やお昼は無理ねえ」
「何か作りたい物があるの?」

唐突なお願いだったから尋ねてみたけれど、私の言葉に彼女は困ったような顔を浮かべた。……何だか、良く分からない。

「えっと。私、壊してばかりで何かを作るって経験が無くて。周りの子とか、咲夜とか。それに、お姉様とか。
何かお礼しなくちゃって思った時、いつも返せるのが言葉しかないんだ。だから、何か。……1つだけでも、返せる物が作れるようになりたいの」

お礼に、か。……うん?
十六夜さんだって料理はできるはずだ。というか、料理は私達以上に上手だろう。魚を渡せば魚料理を、肉を渡せば肉料理を、野菜なら様々な副菜を。
たぶんどんな物を渡したって綺麗に料理をしてくれる。それに教えるのだって上手なはずなのだ。
館の中で出す料理の統率とか、そういうのもこなしているはずなのだから。
何故館で教わろうとしないのだろう。……と、そう思って料理をしようとする姿を想像し、何となく分かった。
何も持って居なくても脅威なのに、包丁まで握っていたら。きっと周りの妖精の子達は落ちつかないだろう。

「となると、大量に作れる物が良いわね」

包丁を握って怖い顔をしている姿を想像していると、姉さんは愉快そうにそう言った。
その言葉に私もフランドールも姉さんの方へと向き直れば、姉さんは笑顔のまま続けた。

「いつかは館の皆に振る舞えたら嬉しいでしょう?」

私の視界の中で、フランドールは少し驚きながらもゆっくりと頷いた。
……大量、か。大量に作れる物ってなんだろう。そもそもあの館では一体毎日どれだけの食事が作られているのだ。
10人分や20人分で済む量とは到底思えない。そしてその域まで来ると、盛大な下準備無しでは一人で作るのもとても難しい。となれば……?

「漬物、かしらねぇ」

姉さんが呟いた。確かに漬物であればそもそも一度に食べる量も少量だから、人数がある程度増えても何とかなるにはなる。
問題なのは今季節的に漬けられそうな野菜は種類自体が割と少ない。どちらかと言えば夏の方が選択肢は多いのだ。
冬物も一応あるにはあるのだけれど……。

「まあ、後々考えましょう。料理の経験も無いでしょうし、簡単な物からまずは慣れて行かないとね」
「包丁も持ったことないです」

……やっぱりだ。とりあえず、振り向きざまに刺されないようにしないと。

「それに漬物も色々あるから、ねえ」

そう言って姉さんが顔を向けたのは我が家の台所だ。その視線の先は……漬物が沢山保管されている場所。
結構匂いがするからきっちり閉じられる場所へと入れてある。我が家でも沢山漬物は作るのだ。
というか、漬けるなりしないと日持ちしない。豊作の祈願で農家から貰ったり、収穫祭で貰ったり。
貰う数が数になると、私や姉さんの胃袋にも限界があるから、大体は漬けたりおすそ分けしないといけないのだ。
まぁ、にとりさんの所にだったら胡瓜を持って行けば代わりに家具の修理をお願いできたりするし、
椛さんの所だったら色々困った時に融通が効く様になるから、そういうことで困ったと感じたことは少なかったけれど。

「……考えて冷めてしまう前に、食べましょうか」



皆で朝御飯を食べ終えた後、慌ただしく家のドアを叩く音が響いた。
朝食の後片付けをしていた私と、食後ゆっくり休んでいた姉さんとフランドール、皆揃って音が聞こえた玄関の方へと視線を向けた。

「あら、こんな時間なのに」

手が離せない私に代わり、姉さんが立ち上がって廊下へと駆けていく。
姉さんが間延びした返事をした後はドアを叩く音も無くなり静かになったけれど、ドアが開くのと同時に聞こえてきたのは、

「朝早くから申し訳ありません」

という、聞き馴染みのある声。……椛さんだ。急いできたのか、やや溜息混じりで疲れていて、そして焦る様な声。
私も洗っていた物を置いて廊下へと顔を覗かせれば、膝に手をついて肩で息をする椛さんの姿が眼に映った。
その肩を支えている姉さんは、私を見るなり飲み物を催促して。顔を引っ込めると急いで洗いたてのコップに水を注いで持って行ったのだった。
邪魔をしてはいけないと思ったのだろう。フランドールは私の方を見つめていたけれど、相変わらず黙ってじっとしていた。

「はい」

私の差し出したコップに少しへろへろになりながら椛さんが手をかけ、そして一気に飲み干した。
相当冷たかったはずなのだけれど、まるで気にも留めていない様だ。……急いで来たせいか、ひょっとしたらちょっと暑いのかもしれない。

「ふう。あの、例の子はもう来ているんですよね?」
「ええ。呼んできた方が良いですか?」
「いえ……あぁいや。やっぱり呼んで貰っても良いですか」
「……もし込み入るようでしたら、どうぞ中まであがって下さいな」

飲み終えたコップを私にひょいと差し出して、椛さんがぐっと立ち上がって。それから提げていた刀と盾を下駄箱の脇へと置いて家へとあがった。
私は片付けを再開するために台所へと戻って、洗いかけの食器に手を付けた。背中越しに届いてくる声を聞いていたが、
どうやら初対面らしい客人同士がお互いに挨拶をしている様だ。……椛さんはあまり怖くないみたい。この中だと私だけ、なのか。

「それで、今日はどうなさったんです?」
「文さん、この年末年始は取材に回らずに溜まっていた事務なり山での行事に引きずられていたので平和だったんですが、それが終わってしまったんです」

文さんというのは、信憑性はさておきこの山では大事な情報源である新聞を書いている記者だ。
天狗でもあり、それなりに山での地位もあるのだけれど……天狗としてもそちらの姿の方が、彼女の姿より文字を追う機会の方が多い私達には馴染みが深い。
先日の宴会には来ていなかったけれど、普段催される大体の宴会には参加していて、あっちやこっちに飛びまわっては話を聞いたり振ったりしていた。
……大体の方はそれに迷惑そうに受け答えしていたけれど。

「あらあら、お疲れ様です」
「これはどうも……いや、問題なのはその後なんです。また取材に戻るって話なんですけど、久しぶりなのでネタ探しに躍起になってるんですよ」
「……あぁ、だから我が家は注意しないといけないと」

何故迷惑だと思われているかと言えば、取材のしつこさにある。強行的なんだ。
さらに、真面目に取材に応えてもそれが紙面にどう反映されるかというのは全く別のお話で、
普段の紙面から漂うどことない胡散臭さが相まってしまって……そんな扱いをされている。

「格好のネタですから。私の方も黙っていたことがバレてしまうと、後が怖いんです」
「分かりました。もし彼女を連れて出る時がある際にはまた改めて連絡に伺います」
「はい。穣子さんも、お願いしますね?」
「う、うん。分かった」

ちらりとこちらを見て確認をとる椛さん。上司が上司であるからか、きっちりしてる。
けれど私がどう答えるかなんて、たぶん聞く前から分かってて。私が言葉を返し始めたその後すぐにはもう、頷いてた。
そんな中、フランドールが不思議そうに椛さんを見つめていて。その視線に気づいた椛さんが首をかしげながら尋ねた。

「何か、ご不満ですか?」
「……私のこと、怖くない?」

私としてはやっぱりか、という質問だった。それがフランドールにとって強く興味を惹くことだって知ってるから。
そういう気持ちを揺さぶってしまったのは確かに私なのだろうけれど、私だってわざとそういう風に仕向けた訳じゃない。
隠すのが下手なのは、お互い様なんだ。

「何も」
「どうしてですか」
「静葉さんが怖がっている様に私には見えないので」

椛さんの言葉に皆の視線が姉さんに集まった。
姉さんはただ穏やかに笑ってはいたけれど、視線が集まったこと自体は恥ずかしかったのか、少しだけ耳が赤くなっていた。
でも、昨日の夜に私は聞いている。全く怖くない訳じゃないってこと。勿論、ここでそれを口にするつもりは無いけれど。

怖くないって言われて嬉しいのかなぁって。そう思って姉さんからフランドールへと視線を移せば、
こっちを見ていた彼女と思わず視線が重なって。すぐに視線を逸らしてしまったけれど、言いたそうなことは何となく分かってしまった。

「何か、問題が?」

椛さんのそんな一言は、私が丁度洗い物を終えた頃に発された一言で。
私が答えるべきか悩んでしまったけれど、私もフランドールも答えられなかったから、丁度視線の合った姉さんに全部説明を任せたのだった。



「……なるほど」

姉さんと二人でご飯を食べたりお茶を飲んだりする時に使うこの小さなちゃぶ台も、四人で改めて囲んでみるととても小さいんだなぁって。
姉さんが説明してくれている間に台を見つめてずっとそんなことを考えていた私だったけれど、説明が終わった後に短く発されたその言葉に顔をあげた。
……三人とも私を見てた。気まずくて、また台へと視線を下ろして。
さっき拭いたばかりのそれは部屋の灯りを跳ね返し、台の丁度向こう側に座っているフランドールを映してた。

「怖がること自体は何も不思議じゃないと思いますけど」
「でしょ?」
「けど、その場その場の相手の気持ち位は酌むべきじゃないかと私は思いますね」

肩を持ってくれる様なことを言ったから乗っかれば、ちょっと語気を強めてそう言われて。
姉さんの説明が始まる前からなんとなく私が責められるということは予想していたのだけれど、やっぱり納得がいかない。
万が一の危険があることが分かっているなら、それに対して警戒するのは当然のことだと思うし、
そういう時にその場その場の判断に頼るというのも、とても危ないことだと思うから……。

「穣子さん」

落ち込んで見えたのか、私を見つめて椛さんが柔らかい声を出した。

「もしも、噂を聞いていなかったら。貴女は怖がったりした?」
「ううん」

このお話はそもそも姉さんが決めたことだったから。だから、いつも色んなことを姉さんに任せてきた私は、
たぶんいつもと同じように過ごして迎えていたと思う。

「噂を聞く前と後では変わることも沢山ありますけど、逆に変わらないこともあるんです。それは、分かりますか」

変わるのは私の意識。考え方。そして、受け取り方だから。だから、変わらないことというのは勿論私のことじゃない。

「フランドールそのもの」
「うん。もっと言えば、この子の危険性については全く変わらない」
「それ位、分かってるよ」

分かっていたって、私はもう聞いてしまった側なんだ。噂が頭の中に残っていた限りは、
例え一年先であっても、十年先であっても。きっと、警戒したはずだと思う。
そうしなきゃって思うし……私はそうやって過ごして来たのだから。



~~



「今頃、どうしてるだろうかねぇ」

少しだけ眼の下を黒くしたお嬢様が、ベッドの上でそう呟いた。妹様を昨晩送り出して以降、ずっとこの調子だ。
宴会から戻ってきた時にはあったはずの余裕も、送り出した後はすぐに無くなってしまっていた。
やんわりとそのことを尋ねてみれば、頬を赤く染めてしまったけれど……きっと誰だって、家族を送り出す時にはこんな心配をしてしまうのだろう。

私はそんなお嬢様の表情にはとても良く見覚えがあった。夏先や春先……もしくは、秋の実りの時に、
妖精の子達が長い休暇を求めてくることがある。昔住んでいた場所の友達に会いに行ったり、ただの気分転換だったり。
そこには色んな理由があるのだけれど、そういう子達を見送る館のほかの子達がする表情にとてもそっくりなのだ。
少しだけ羨ましさを含んでいる所まで、そっくりで。

「きっと朝食を始めた頃ではないでしょうか」

私は少しだけ眠たい眼を擦りながら、お嬢様にそう答えた。

「眠って良いんだよ?」

お嬢様の視界には入っていなかったのだけれど、擦る音は聞こえてしまったらしい。
そんなことを言ったお嬢様だったけれど、昨日の朝からまだ眠れていない私と違い、そもそも宴会の後から一睡もしていないお嬢様の方が本当は眠たいはず。

「後でそうさせて貰います」

懐から取り出した懐中時計を見つめた。私とお嬢様が朝食を済ませてからもう長い針が半周分程進んでしまっている。
今日の朝御飯は……久しぶりに、失敗した。私としてはお嬢様にしっかりと休んで欲しくて、私自身も体を休めたかったから、
摂ると眠くなると聞いていた甘めの物を朝食にしようと考えて、フレンチトーストを作ったのだ。
実は、フレンチトーストは体に悪いんじゃないかって思う程甘くなりがちだから、普段はあまり作らない。
それに加えて、今日は疲れていたこともあって、味見をしなかったのだ。そのまま部屋に二人分運んでしまって。
お嬢様と一緒になって食べ始めたら、お互いが咥えたまま固まってしまう程に甘かったのだ。
食後少し経たないと御茶を要求しないお嬢様も、今日は食事中に催促してきた位だ。
たぶん甘いもの好きな妖精の子に渡して食べさせたとしても、よっぽどお腹を空かせている子でなければ苦い顔をしただろう……。

そんな風にして大量のお茶で飲み下した結果として、私もお嬢様も睡眠は摂らなきゃいけないはずなのに、
眠れそうで眠れない様な、中途半端な状態にお互いになってしまっていた。

「咲夜、初めてお菓子を作った時のこと、覚えているかい?」
「私が、ですか?」
「ああ。私は覚えているよ。ずっと昔のことだけれど、焼き上がりの時間がとても楽しみだったんだ。
こういう味になってくれるんだろうなって、不安混じりの頭の中で、想像を膨らませながら時間が経つのを待つのがね」
「私は、味以前に炭になっていやしないかって、それが心配でした」
「そうか。……今、そんな感じの気分なんだ。上手く行っていないのではないかと心配しつつも、
和気あいあいとしているあの子の笑顔を想像するのが楽しくてたまらないんだよ」

……その気持ちは、分からないでもない。似たような言葉は妹様のお世話係の子も見送った後で言っていたのだ。
彼女は今、地下ではなく陽の当たる部屋で眠っている。きっと久しぶりの日向ぼっこだろう。こっちはお嬢様と違ってまるで心配している様子が無かった。
ひょっとしたら、やせ我慢なのかもしれない。でも、今日のお昼は夜勤明けの子と遊ぶと言っていたから、きっと大丈夫だろう。
そしてそれはたぶん……妹様についての広報活動の一環でもあるんだろうし。

「お嬢様はどちらだと思いますか?」
「……すまない。あまり頭が回らなくてね。何のことだい?」
「実際に、上手く行っていると思いますか?」

私の言葉にお嬢様が笑った。

「いいや。上手く行っていないだろう。でも、上手くやろうとはしていると思う」
「……私も、頭が回らないようで、その」
「きっと今はまだ駄目だろうさ。でも、挫けそうになっても諦めたりはしないはずだよ。上手くやるさ。フランなら、ね。……咲夜」
「何でしょうか」
「寝るわ。おやすみ」
「では、私も失礼します」



~~



穣子お姉さんがやり取りしている間、私はずっと肩身の狭い思いだった。
どう口を挟めば良いのか全く分からなくて、助け舟が欲しくて静葉お姉さんの方を見つめてみても、ただ笑い返してくれるだけで。
椛さんの方は……穣子お姉さんと話をするのに夢中で、そもそもこちらに気づいてもくれない。
気まずさで正面の穣子お姉さんを見つめることはできなかったけれど、磨かれた台越しに何となく見られているのは分かる。
怯える様に怖がっていた昨日に比べればそれは進歩のはずなのだけれど……私は溜息を吐くこともできず、じっとしてた。

「ああもう。だから、頑張るつもりでは居るんだってば!」
「いいや、この際だからそういう臆病な所はきっちり直しましょう!」

でも。段々と穣子お姉さんと椛さんの会話は言い争いになり始めていて。これだけは絶対駄目だと分かっているんだけど、泣いてしまいそうで。
だから、何とか気を紛らわせなくちゃって思って、部屋の中をちらりちらりと見まわした。
閉じ切ったカーテン。漏れだす光。壁に、柱。静葉お姉さん。押し入れ。……穣子お姉さん。
何か、気の紛れるものは無いだろうか。台所に、灯りに……椛さん。尻尾。……尻尾?
……尻尾だ。は、生えてるのかな。それともあれは、飾りなのだろうか。よくよく見てみると、僅かに動いている。私の羽と一緒みたいだ。

白くて、厚くて。ふわっふわだ。そういえばいつもお世話をしてくれるあの子が、そんな感じの掃除道具があると言っていた。
埃を取るのがとても楽らしい。ただ、道具から埃を取るのが大変らしいけれど……あの尻尾も、埃を集めてしまうんだろうか。
集めてしまったらどうするんだろう。お風呂に入ると、悲惨なことになりそうだし。

……そんなことをしばらく見つめながら考えていた。
気が付いたら、先程まで聞こえていたはずのお姉さん達の大きな声は聞こえなくなっていて。
慌てて私が顔をあげれば、三人が私の方を見つめてた。

「……ごめんなさい」

私の言葉に穣子お姉さんが長い溜息を吐いて、椛さんが笑って。静葉お姉さんは……何故か、やや上機嫌で。

「まあ、何とかなるでしょう」

そんな椛さんの一言が、その話題の締めの言葉になった。



それからしばらくは、静葉お姉さんと椛さんが話をしていた。
話題は……実はあまり良く分からなかった。どうやら昨日椛さんにあげた物のお話らしい、としか。
美味しかったという言葉も聞こえたから、きっと食べ物なのだと思うけど。ひょっとしたら、昨日食べた肉じゃがなのだろうか。

「そういえば椛さん、今日のお仕事は?」

そんな会話も一区切りした所で、ふと静葉お姉さんがそう尋ねた。
その言葉に慌てる様に椛さんが部屋の中にあった時計を見つめ、凄く気まずそうな顔をした。

「これで失礼します。長居が過ぎました」
「また是非いらして下さい」

静葉お姉さんの言葉を背中で受けながら急いで玄関の方へと走り出した椛さん。お仕事の最中にここに寄ったのだろうか。
美鈴と同じような仕事なのかな。それとも、咲夜のに近いのだろうか。思い返してみると、あまり話せなかったなって、改めて感じた。

椛さんが帰ってしまった後、静葉お姉さんは小さな溜息を吐いた。
さっきまでの笑顔とは違って、ちょっと困った様子だった。

「すっかり忘れてた。文さんのこと」
「どんな方なんですか?」
「そうねぇ……あまり人の話を聞かない割に凄く聞きたがりで、自信家な感じの少し迷惑な新聞記者といった所……かしらね」
「天狗になってるような感じの方、ですか」
「そうねぇ。……そんな感じねぇ」

そう言って静葉お姉さんが笑い、穣子お姉さんは苦笑いして。
……失礼なことを言ってしまったかと思って、それ以上は聞くことができなかった。



「そういえば、椛さんはお姉さん達のお友達とは違うのですか」

それからは三人で御茶を楽しんでた。いつもお伴の子に作って貰っている紅茶とはまるで違う匂いで、淡い黄緑色。
小さな茎の様な物が水面に突き刺さるようにしながらふわふわと漂っている。
紅茶とはまた違う苦さだけれど、不思議と砂糖は欲しくならない。飲んだ瞬間は苦いのだけれど、その後にゆっくり甘さがやってくるからだ。
そんなお茶に体を温めて貰いながらふと思ったことを尋ねてみると、

「友達よ?」

と、静葉お姉さんは笑いながら答えてくれて、膝立ちで部屋の中をのそのそと歩き始めた。
行きついた先は……今朝、少しだけ開けっぱなしになっていた押し入れだ。どうしたのかと思えば、その中から小さな本を取り出して台の上へと置いた。
開かれた本の1ページ1ページには写真が挟まっていて、日付やどこで何をしてる時のものなのかが、写真の横に書いてある。
とても綺麗な字。そして、とても古い頃のからあるみたいだ。

「……ほら、これ小さい頃の穣子と椛ちゃん」

はらりはらりと一枚一枚ページをめくっていた静葉お姉さんだったけれど、ふとあるページで指を止めると、その言葉と共に一枚の写真を指さした。
少し小さな写真。私が覗き込むと、穣子お姉さんは恥ずかしそうに顔を背けた。

川の写真だった。写真自体はやや褪せていて、何故か写真の一番下辺りが白くぼやけていて何も見えない。
小さな静葉お姉さんや穣子お姉さん、そして椛さんが写っていて、その内の穣子お姉さんと椛さんが水をお互いに掛けあって遊んでいた。
……心なしか、今よりも穣子お姉さんが……少し、丸く見える。

「椛ちゃんねぇ、鼻も耳も良くてねぇ。昔は山で見つけた色んな食べ物を持ってきてくれてたのよ。ほら、だから穣子もこんなになっちゃってて。丸いでしょう?」
「あーもう。言わなくても良いでしょ!」

ちょっと、羨ましかった。私は、川の中でこんな風に遊んだこと無かったし……できないから。
それに、私は誰かと日常的に遊んだことだって……いや、一方的な遊びしか、してこなかったから。
そして、楽しく遊んだことを記録として残してきたことも、無い。

「……フランドールちゃん?」
「可愛いですね」
「でしょー。もう穣子ったら片っ端から貰った物食べちゃって。誰に似た食い意地なのかってあの頃は思ったわ。
ちなみにこの写真を撮ったのがさっき言ってた文さんね。まだ撮影に慣れていない頃でねぇ。写真の下の方が白くなってるでしょう。それ、文さんの指なの」

そもそも私の館には写真を残す道具が無い。私達がその道具で写るのかどうかも良く分からない。でも、良いなぁ。
私がもし写真には写らなかったとしても、その時居た風景を切り取って残すことができるのなら。
お伴の子と一緒に旅行した時に、あの子だけでもそこに写っていてくれたのなら。
私が写らなかったとしても、それはきっと思い出の一つになってくれるはずだから。
ひょっとしたら、お姉様に聞けば写るのかどうかは分かるのかもしれないなぁ……。

「そういえばさっき、友達かどうか聞いていたけれど、どうかしたの?」
「何だか親しそうな割には余所余所しく見えたので……何となく、なんですけど」

友達同士ってあんな風に話すのかなって。私が想像していた物とは、ちょっと違ってたから。

「うーん。友達なのは確かなんだけれどね。そうねぇ。私達は一応、彼女達に守って貰っている所があるから、かな」

……そっか。私は館を出てくる時、ちゃんと美鈴に挨拶しただろうか。いつもお伴の子と喋る時の様な、
そんな口調で喋ってしまっていなかっただろうか。そもそも私は日頃の感謝を言葉にしていただろうか。

「まあ、遊ぶことはほとんど無くなってしまったわね。あの子、忙しいから。もう最近は……たまに、今日みたいな感じに会ってお話をする位なの」

お姉さんはそう言いながら、ページをまた一枚ずつめくり始めた。
覗き込みながら一枚一枚見ていたが、ほとんどの写真でお姉さん達は一緒になって写ってた。
お姉さん達と他の誰かが一緒になって何かをしていたり、二人だけだったり。
遊んでいるだけじゃなくて、焚き火をしてる姿とか、何故か揃って木を蹴っている姿とか。……良いなぁ。



~~



姉さんが何故か私が今よりも少し太っていた頃の写真ばかりを見せ続ける。何でだろう。可愛いってさっき言ったからだろうか。
それとも、今の私に対する当てつけなのだろうか。……姉さんから見て今の私は、可愛くないのだろうか。

思い返してみると、昔はよく可愛いって言われてたんだ。主に、椛さんから。貰った物を食べている時にいつも言われてた。
確かにその言葉は嬉しかったんだけど……実は、本当に欲しかった言葉はその言葉じゃ無かったんだ。
私は、可愛いと言われるよりも、綺麗って。そう言われてみたかったんだ。
今まで、誰にも言って貰えたことが無い。その言葉を貰うのはいつも姉さんの方だった。
私にはそれが、いつも羨ましいなって。……そう、思ってた。

「沢山あるんですね」

写真を見せてからというもの、フランドールの表情は少し変わった。たぶんそれは姉さんだって気付いている。
目の前にある写真を食い入る様に見つめてはいるけれど、どこか心は少し遠い所にいるような、そんな目を彼女はしていたから。
羨ましそうな目。きっと、彼女にはこんな思い出の物が無いのだろう。ずっと地下で過ごしてきて、ずっと色んな物を壊し続けてきた彼女だから。
その目を見れば見る程、どこか可哀そうにはなる。けれど、心の中ではまだ彼女のことを許せない。

椛さんは私のことを臆病だと言った。それは間違っていない。確かに私は臆病なんだ。

「穣子、新しいお茶をお願いしても良いかしら」
「うん」

姉さんの言葉に台所へと立って、少し冷めていたお湯を沸かし直しながら、眩しい窓にもたれかかった。
臆病なのはそんなに悪いことなのだろうか。非難されなければならないことなのだろうか。
確かに臆病だから損をしたってことは沢山あった。でも、危ない橋を渡らずに済んだことだって無い訳じゃない。
私は十分釣り合ってると思うんだけどなぁ……。

台所から姉さんとフランドールの話声が聞こえる。どうやら写真は私が痩せ始めた頃の写真へと移ったみたいだ。
少しだけ寂しそうな色に変わった姉さんの声に、私も昔を思い返してた。

私が痩せようと思ったきっかけは、本当にただ単純だった。
私は姉さんみたいになりたかったんだ。綺麗だって、言われたかったんだ。
私にとってお姉ちゃんという存在が、憧れに変わった時で。
そして……私が臆病になってしまったのも、あれが……原因で。



『おいで』

いつもの笑顔と優しい声でそう導く姉さんの声を、あの頃までの私は毎日の様に聞いていた。
いつも姉さんの背中を追いかけまわして、姉さんの作るものを食べて、姉さんの腕の中で眠る。
とても幸せな時間をずっと過ごして来たんだ。家の外では椛さんを始め、姉さんの友達や知り合いから良くして貰ったりして。
私の身の回りは、大賑わいをする様なことは無かったけれど、寂しいなんて思ったことは一度も無かったんだ。
ただそれは、正確に言ってしまえば、どういうことが寂しいことなのかを考えたことが無かったからなんだ。
私には寂しくなるような経験が無かった。いつも穏やかで、いつもちょっとだけ賑わいがある。そんな環境に、ずっと居たから。
とてもとても永い間、私はそれを考えなくて済んでいたのだから、とても幸せな環境だったんじゃないかって、私は思う。

そんな私が寂しさについて考える様になったきっかけは、私達のお家のすぐ傍に鳥の巣ができた時のこと。
家の窓から目を凝らせば、何とか見える位の位置にそれはあった。私達が巣の存在に気づいた時には、既に巣の中の小鳥たちは大きくなり始めていて、
しばらくしたら巣立ちするんだろうなぁって分かる位にはもう成長していた。

巣立ち。それ自体はとても喜ばしいことだったし、実際その時の私も姉さんに向かって、

『いいねぇ』

なんてこと、言ってた記憶がある。姉さんはいつもの笑顔を私に向けて、うんって。そう言ってたっけ。
あまり近くで見たりすると怖がるかもしれないからと、いつも遠くから眺めているだけだったけれど、
巣を見つけてからは、毎日良く見える所に寄ってはちょっとの間見守るのが私達姉妹の日課になっていたんだ。

いざ飛び立つ日を迎えたのは、夏の始まりの頃だった。雨上がりの日だった気がする。
少し蒸した感じの日だったから、姉さんと一緒に薄着をして川遊びに行った日なんだ。
その帰りに、丁度飛び立つ所を見たんだ。いつもより、ずっと遠くから。
私も姉さんも、しばらくはその姿を目で追ってたなぁ。近くの木に登って、ずっと。

勿論その日を境にして見守るという習慣は私達の間から無くなった。……姉さんを除いて、だ。
姉さんも外に出て巣を眺めることは無くなったけれど、たまに窓からちらりとその方向を見ていることに私はふと気付いたんだ。
その時の姉さんはやっぱり笑っていたのだけれど……どこか、私にはいつもと違う笑顔に見えて。
何でだろうなって。そうやって考え始めたのが、きっかけだった。

考えて、考えて。
段々と理由を把握して。それから、姉さんが物憂げな表情をする瞬間はいつなんだろうって、少しずつ興味を持つ様になった。
朝に姉さんの腕の中で起きてから、夜一緒に眠りにつくまで。いつも一緒に居る姉さんの顔色を窺うことが増え、頭の中で色んなことを考える様になった。

そんなある日。いつもの様に椛さんから美味しいものを分けて貰った時に、ふと気付いたんだ。今思い返すと寂しい一つの事実。
それは姉さんのことではなくて、私のこと。……私には、姉さんを通さずに知り合ったり、友達になった相手が一人も居なかったってこと。
皆が皆、姉さんが連れて行ってくれた先で知り合った相手だった。
いつも背中を付いて行っていただけの私だから、新しい土地に一人で踏みこんだことだって……無かったんだ。

けど。その時の私はそんな姉さんに対して感謝の気持ちを抱いてた。
友達が居なかったから、頑張って増やそうとしてくれていたんだって。いつも連れて歩いてくれていたんだって。
それも確かな一つの事実だったから。明るいことばかりだったから、その頃の私はとっても前向きだったんだ。

『お姉ちゃんを引っ張り回せる様になろう!』

って。そんな目標をその日の内に立てたりした位だ。でも、何をすれば良いのかなあって、思ってしまって。
考えに考えた結果、とりあえず姉さんを目指そうって思ったんだ。……お腹についていた肉を、つまみながら。
椛さん、とっても残念がってたっけ。その日を境に持って来たものを私がパクパク食べ無くなったから。

『病気?』

って、そう聞かれた覚えがある。今思うととても失礼なひと言だと思うけれど……確かに、急に食べ無くなったらそう疑っても仕方が無いとも思う。

後は、運動しなきゃって思って。結構がむしゃらに色んなことに挑戦した。でも、動いたら動いたでお腹は凄い勢いで空いて行くんだ。
勿論姉さんは私が口に出していたから、痩せたいという気持ちを知っていたのだけれど、でも毎日のお夕飯には必ず山盛りのご飯が置いてあった。
当時の私は何を食べると太って行くのか知らなかったから、毎晩出されるその誘惑に抗うことができず……というか、
抗う必要があったことにも気付かず、いつも最後まで食べてしまっていた。姉さんも同じ量を食べていたから、疑いもしなかった気がする。

私がそんなことを始めたということは、姉さんや椛さんを通じてすぐに周囲の方に伝わって行った。
やれ河城さんには泳ぐのが良いよと勧められ泳ぎを教わったり、
やれ鍵山さんには踊るのが良いわと勧められ踊りを教わったり。
……この方達も勿論姉さんを通じて知り合った人たちだったけれど、ああ私は恵まれてるんだなって。やっぱり、思ってたんだ。

春と夏はご飯。秋と冬はそれに加えてお芋までしっかり食べていた私だから、実際に痩せ始めたのは一年回って春先になった頃。
空を元気な妖精が楽しそうに叫んで駆けて行った辺りからだ。今年も元気だったな、あの子。
いつになく凄い勢いで翔けて行ったのを覚えてる。瞬く間に見えなくなってしまった位だ。

痩せて嬉しかった私だったけれど、一方で残念がったのが椛さんだ。

『摘まめなくなっちゃったね』

って。お腹周りを撫でられながら言われたっけ。その言葉がどんなに嬉しかったことか。
でも代わりとばかりに今度は二の腕を……思い返してみると、日常的にどこかを摘ままれていたような記憶がある。
そうだ。いつも摘ままれる一方だったんだ。やり返そうと思って走って追いかけても私には追い付けたことが無かったから。
今度もしもゆっくり話す機会ができたなら、仕返ししてみようかな……。

『よく頑張ったわねぇ』
『どんなもんよお姉ちゃん!』

姉さんからの反応はそんな感じで。褒めて貰えたのが嬉しくて堪らなくて、あの時はもう有頂天で。
すぐ迎えた夏は、もう水着を着るのが楽しみで仕方が無い季節になっていたんだ。



……そんな、私と姉さんの関係が変わり始めたのは、その年の秋口だ。
少しだけ、私の体に今までにはあまり無かった変化が現れ始めたんだ。あまり伸びないでいた背が少しずつ伸び始めたのだ。

『お腹のお肉が育つのを邪魔してたのかな?』

と、椛さんにちょっと小馬鹿にされたのを覚えてる。
当時は姉さんと椛さんの背が同じ位で、私だけ頭一つ分程小さかったから。だから、自分で言うのも変とは思うんだけど、神様からの贈り物だと思って喜んでた。
あの時一人だけ喜んで無かったのは……姉さんだけだった。少し暗い顔の姉さんにどうしたのかと尋ねたら、

『……私のお下がりで何とかできなくなりそう』

って、苦笑いをしながら言われてしまったんだ。

私はその時はそれで納得してしまったけれど……本当は違う理由があったんだってことは、後で知ることになった。
同じく後で知ったことで言えば、その時に椛さんは姉さんの異変に気づいていたらしい。

私は、季節が変わる度に姉さんと背比べするようになった。当時の私は成長は喜んで貰える物と、当然の様に思っていた。
だからその背比べをするのが楽しみで、背比べの後は必ず台所で牛乳を飲んでいる姉さんを見るのが好きだった。

その、数年後の秋だった。私の背が、姉さんのそれに追いついたのは。

『ついに追いつかれちゃった』

って、残念がった姉さん。私はとても気分が良かった。姉さんと同じ容姿にはならなかったし、料理の腕とか気遣いとか。
そういうのは姉さんにはまだ負けていたけれど、やっと姉さんと肩を並べることができたって、そう思ったからだ。
私の中で、お姉ちゃんという存在が姉さんという存在に変わった瞬間だったのだ。

今度は一体何で追い付こうか、とか。そんなことを色々頭の中で描き考える喜び一杯の私。
でも、一番したかったことは凄く単純で。私はそんな姉さんと、

『これからは、姉さんと並んで歩けるね』

一緒に、隣で過ごすことで。私がその時言った言葉は、私の新しい決意表明でもあったんだ。
……実を言うと、そんな感じのことを言ったはずだ、ということしか覚えていない。
その一言は何気ない一言でもあって、そして何より。……その言葉を聞いた姉さんが泣きだしてしまったから。

成長を喜んで貰えていると勘違いしていた私だったから、最初は嬉しくて泣いているのかなって思ったんだ。
けれど、姉さんはその後でそのまま泣き崩れ、手で顔を覆ってしまって。とんでもなく鈍かった私にでも、
ようやくそれが嬉しくて泣いているんじゃないと分かった時には、もう姉さんは声をあげて泣いていたんだ。
私はそもそも泣くような経験がほとんど無い幸せの毎日だったから、姉さんの泣いている姿というのはそれまで見たことも無くて。
だから、姉さんのそうやって泣く姿は……姉さんが姉さん以外の何かになってしまった様で怖かったんだ。
怖くて、怖くて。私は傍に居たけれど、姉さんに触れることもできなかったし……触れて良いのかも、分からなかった。

私は、それからのことをあまり覚えていない。気を失っていたのか、完全に忘れてしまったのか。それも、良く分からない。
でも気が付いた時には目の前に椛さんが居た。何度も頬を叩かれていたらしい。
椛さんのことに気が付いた後で、段々と頬は痛くなって。その時にはもう、部屋の中には姉さんの姿は無く、家の中も静まり返ってた。

『寝かせて来たよ。……大丈夫?』

抱きしめながら、優しい言葉をかけてくれた。

『私の言ってること、分かる?』

でも、私は何も答えられなかった。大丈夫では無かったし、何が起きていたのかも分かっていなかったから。
私には覚えが無いことだけれど、腕の中で抱かれている間、私はとても暗い表情をしていたのだそうだ。
それでも、抱いてくれていた……。それまでに遊び疲れたりして椛さんにおんぶをして貰ったりする経験は何度かあったのだけれど、
そうして貰ったのは初めてだった。



その日は、初めて椛さんが手料理を振る舞ってくれた。
正直に言うと、あんまり美味しくなかった。姉さんの味に舌が慣れていたのとか、私が泣いていたのとか。
もっと言うと、椛さんが私達の様子に少なからず動揺していたのとか。そんな、沢山の理由はあるんだけれど。
私は椛さんと一緒に食べたのだけれど、用意して貰った食事は二人分しか無くて、姉さんの分は後で作って持って行くからって、椛さんは言ってた。

私はご飯を食べた後、とても眠くなって。部屋に連れて行って貰って、眠ったんだ。
椛さんが言うには、隣の部屋に居たらしい姉さんと一緒でベッドに入ってすぐに眠ってしまったらしい。
その日は椛さんも泊まってくれたのだけど……迎えた次の日の朝は、その時の私にはとても不思議で……そしてつらい朝だった。

最初に起きたのは椛さんらしい。それから、姉さんが起きて。私が起きたのが最後だったそうだ。
私が居間へと向かう頃には椛さんの作った朝食が出来あがっていて、私が居間へと入った時には既に二人とも座ってた。
姉さんは元気が無く、椛さんはから元気で。それでも、二人は会話してた。主に椛さんが頑張って話題を振っていたんだけど。
そして私が腰を下ろして、三人で手を合わせて。

いつもの言葉を、言おうとしたんだ。

たったひと息吐く間もなく言えてしまうその言葉。毎日三度は言っていた言葉。それが口から全く出せなかった。
口は動いていたはずなのに、声を出せなかった。二人が言った言葉が耳に入り、慌てて必死になって声を出そうとしたら……とても怖くなってしまって。
なんとか声を出すには出せたのだけれど……言葉にもならなかった。自分で自分の声を疑った位だ。

二人がこっちを見た。その日初めて見た姉さんの顔は、目元がとても赤かった。
焦って、もっともっと必死になって声を出そうとして。でも、やっぱり何も言えなくて。
息をし忘れてるのかと思って思い切り吸いこんだりしていたら、今度は呼吸がどんどん早くなって止められなくなって。何が何だかって、感じだった。
幸い、そういう風になってしまって止められなくなった時の対処法は、椛さんが知っていたから……苦しい思いはしたけれど、止めて貰えた。
結局その後の私は、自分の体に起こったことが怖くて、何も食べることができなかった。
箸を握ることもできなかった。震えて、お茶が入った湯のみすらまともに持てなかった。
結局あの時は、椛さんに代わりに飲ませて貰って……そして、部屋に連れて行かれたんだ。



~~



ぴぃぴぃと、台所からとても高い音が響き始めた。お湯を沸かすというお話だったから、きっとあれは沸いたことを知らせる音なのだと思う。
そういう物があると本で読んだことがあるからだ。……実際に聞いたのは初めてだけれど、早く火を止めてと言わんばかりの、
とても焦らせる音だなあって。聞きながら考えていた。

「穣子、沸いてるわよ?」

私と静葉お姉さんが話す声なんかよりもずっとずっと大きな音は、しばらく待っても止まなくて。
静葉お姉さんが不思議そうに台所の方へと顔を向けそう声をかけた。けれど、返事は無い。
それからお姉さんはすぐに立ち上がると、台所の方へと入って行って……音が止んだ。

「大丈夫?」

座っていた私の位置からは丁度陰になっていて、どちらのお姉さんの姿も私の位置からは見えなかったけれど、
静葉お姉さんが穣子お姉さんにかけたその一言はしっかりと聞こえた。

「少し、休んでくる」
「……うん」

とても小さな声だ。さっきまであったはずの元気がまるで全部抜けだしてしまった様な、消えてしまいそうな声。
すぐ隣にある台所のはずなのに、何だかとっても遠い場所に居るかのような気さえした。
その言葉のすぐ後に穣子お姉さんがフラフラと台所を出て行って、少しして、静葉お姉さんが台所から心配そうに顔を出した。
視線は去って行った穣子お姉さんを追っていたけれど……すぐに見えなくなってしまったのか、俯いて少し長い溜息を吐いた。

「ねぇ、フランちゃん。ちょっと、待ってて貰って良いかな」

静葉お姉さんは私を見ると笑いながらそう言って、私が返事を返す前にもう追い始めてた。
見せてくれた笑顔は今まで見てきた笑顔とは違うどこか寂しげなもので、何の返事もできずに独り取り残された私は、
台の上に残されたままの写真の一枚一枚を手にとって眺めた。
そこには小さかったはずの穣子お姉さんが段々と大きくなって、静葉お姉さんにぴったりくっついて並んでいる姿が写っていた。



しばらく返って来なかった静葉お姉さんが再び居間へと戻ってきたのは、
庭に居たのであろう鳥たちの声がすっかり聞こえなくなってしまう程に時間が経った後だった。
静葉お姉さんは、去る時に見せていた笑顔のまま、私の傍に腰を下ろした。

「ごめんなさいね」
「何かあったのですか」

私の問いかけに静葉お姉さんは台へともたれかかると、置いてあった写真を一枚手に取った。
少しの間それを見つめ、それからこちらに差し出した。既に一度目を通した写真であるけれど、受け取って改めて眺めたのだった。

「ずっと昔のことなんだけどね」

静葉お姉さんが小さな溜息を吐きながら、少しだけ俯いて。
無理矢理胸の中の言葉を絞り出すように、小さな声を響かせた。

「一時期、穣子は私と話せなくなったことがあるの。……私のせいでね」

静葉お姉さんから溢れだす穣子お姉さんの話題も、静葉お姉さん自体の声も。どっちも明るくて穏やかな物ばかりだったから、
少し苦しげに告げられたそんな話に私は耳を疑った。

「その話は、私が聞いても良い話なのですか」

尋ねた言葉に、静葉お姉さんは頷いた。それからまた立ち上がったかと思えば、台所へと向かって行って。薬缶を一つ持って来た。
どうやら少し前に作ったお湯らしい。淹れて貰ったお茶は……まだ少し温かかったけど、沸かしたてとは言えないほどには冷えていて。
飲みやすくはあったのだけれど、緊張しているのもあってか背中は少し寒かった。
静葉お姉さんは私のすぐ隣に腰を下ろして、さっきまで使っていた自身の湯のみに新しく注ぎ直し、ゆっくりと飲んでいた。

「私はずっと、あの子の成長を見守りながら過ごしてきたの。さっきまで見せていた写真の通りに、ね。
毎日が幸せだった。前を見たら馴染みの顔があって、後ろを振り向けば笑った穣子が見上げてて。寂しい気持ちなんて、感じたことが無かったの」

お姉さんの細い指先が湯のみの縁をゆっくりと撫でる。
止まっているんじゃないかと思う程小さな動きだったけれど、湯のみの中のお茶はふるふると揺れていた。

「そんな私が色んな物をあの子と一緒に見ながら過ごしてきて、一つだけ。怖くなったことがあるの。
それはね、一人ぼっちになってしまうこと。もっと言えば、取り残されることを……怖がる様になったの」

一人ぼっち、か。私は大体いつも一人ぼっちだった。けれど、その寂しさや怖さは……実はあまり感じたことがない。
一人ぼっちでいることがつらいことだと感じるようになったのはごくごく最近のこと。
お世話をしてくれるあの子と一緒に過ごすようになって、日々の生活に幸せな気持ちが湧いて溢れだした頃からだから。
それに私はすぐに、そんなつらい場所から助けて貰えたから。だから一人ぼっちであることにほとんど悩まずに済んだんだ。
でも、何となくお姉さんが言いたいことは分かる。どんな状態なのか自体は……容易に想像ができてしまうことだったから。

「それと丁度近い時期にね、穣子がちょっと変わったの。椛さんからあまり食べ物を貰わなくなったり、
泳ぎや踊りを教わりに行ったり。痩せたいのって、そう言ってたわ。そんな姿を私も椛さんも温かく見守ってた。
でも、ある日ね。私に漏らしたある言葉で、私の中に不安の種がふっと芽吹いたの。……あの子は、私の様になりたいって。そう言ったの」
「好かれていたということだと思うんですけど」
「うん。本当にその言葉の通りだと思う。でも、その時の私は……焦ってたんだ」

そう言ってお姉さんがページをめくり、また新しい写真を幾らか取ってこちらに向けた。
まだ穣子お姉さんが小さくて丸かった時に撮られた、穣子お姉さんと椛さんと、そしてもう一人知らない誰かが川で泳いでいる写真。
そしてまた別の知らない誰かと、一緒に手を繋いで踊っている写真。……段々と見せられる写真の中の穣子お姉さんは、静葉お姉さんの背に近づいていた。
最後に静葉お姉さんが私の持っていた写真へと手を添えて。

「今は後ろで笑ってくれている穣子が、いつかは私の横に並んで笑って。そして、その後に追いこして、どこかに行ってしまうんじゃないかって……ね」

静葉お姉さんが湯のみの中身をゆっくりと飲んで。それから少しだけ目元を押さえて溜息を吐いていた。

「椛さんに相談したの。そしたら、置いて行かれたりなんかしないよって。大丈夫だよって。そう、励まされた。
でもね、駄目だった。寂しいことにそれまで縁が無かったから、耐性が無かったんだ。毎日が怖くて……ごめんね。少し、ぬるいね」

お姉さんが空の湯のみを置き、またお湯を沸かしに台所へと立った。大丈夫ですって、そう言いたかったのだけれど、
何だか泣きそうな顔で言われてしまったから、私は結局その言葉を呑みこんだ。しばらくお姉さんは台所に居て、
またお湯が沸くまでの間、居間へと戻ってくることも声をかけてくれることも無かった。



「お待たせ」

少し前に聞いた、焦らせるような音は鳴らなかった。どうやら鳴り響く前に火は消したらしい。
新しいお茶を淹れて戻ってきたお姉さんの顔は少しだけ明るさを取り戻してはいたけれど……それを見た後で、
何か私は良い言葉をかけるべきだったんだって……後悔した。

「うん。これなら、大丈夫」

お姉さんがひと口恐る恐る飲んだ後、そう呟いた。私も新しいお茶を貰っていたけれど、とても恐ろしくてそんな真似はできない程に湯のみが熱い。

「椛さん、優しいからね……度々励ましに来てくれたのよ。建前は日によって様々だった。美味しそうなものを見つけた、とか。
お魚が大量に採れたから、とか。色んな理由を作っては私達のこの家に来てくれていたの。そんな、ある日……」

そう言ってお姉さんは顔をあげると、近くにあった部屋の柱に顔を向けた。
そこには何も飾って居なかったはずだとは思いつつも視線を向ければ、所々その柱に傷がついていることに気づいた。

「季節ごとにね、あの子と背比べしてたんだ。あの子の背が急に伸び始めた頃からね。お互いの成長をあの柱に刻んでいたの。
あの柱の傷は、全部その傷。……測り直す度に、段々とあの子の背が私の背に近づいていた。そしてついに並ばれる日が来て。あの子が私と同じ位置に傷をつけたの」

お姉さんは持っていた湯のみへと視線を戻し、また少し飲んでから目を閉じた。

「貴女はいつも、レミリアさんのことをなんて呼んでいるのかしら」
「お姉様、です」
「そっか。私は、あの子からお姉ちゃんって呼ばれてたんだ。それが、その背比べの後でね、初めて姉さんって呼ばれたの。凄く、嬉しそうに……ね。
お姉ちゃんが姉さんに変わっただけの、たったちょっとの違いなんだけど……それが私の中でずっと溜まってた不安を、わーって……揺さぶっちゃって。
堪え切れなくて、泣いてしまったの。泣いてすぐ、駄目だって思ったんだけど、止めようにも止めることができなくて。焦ったら声まで出て。大泣きしちゃったの」

頭の中が一杯で、ついには何も考えられなくなってしまって、と。消えそうな声でお姉さんが続けて。
ずっとすぐ横に居たのだけれど、何だかその時はお姉さんが少しだけ小さく見えた。

「丁度その日は椛さんが来てくれた日でね、何だか様子がおかしいって気付いて、お家の鍵をこじ開けてそこの廊下から飛び込んできた。
私はその時もまだ泣きやんでなくて、そのまま椛さんに部屋に運ばれたんだ。……私は自分のことでいっぱいいっぱいで気付いていなかったけれど、
穣子は声も出さずにぎゅっと目を瞑って部屋の隅にじっとしていたらしいわ。椛さんが駆け付けた時にはもう夜になってしまっていたんだけど、
私はもうその日は何もできそうになくてね。椛さんに代わりにお夕飯を作って貰ったんだ。……穣子ちゃん、ちゃんとお夕飯食べたから。
だから、今は安心して休んでって。穣子を部屋で寝かしつけて貰った後で、私の部屋を訪れた椛さんはそう言ってた。
その後は……ずっと椛さんの腕の中で泣かせてもらった。声は、出さなかったんだけど。疲れ切って私が眠ってしまうまで。ずっと居てくれたの」

きっと静葉お姉さんにとっての椛さんが私にとってのあのお伴の子なんだろうなって、お姉さんの言葉を耳で聞きながらそう考えてた。
貰っていた熱いお茶に恐る恐る口をつけ、唇の先を焼きながらも少しだけ飲んで。つらそうに口を閉ざしていたお姉さんの言葉の続きを待った。
お姉さんは持っていた湯のみの中身をまたひと口飲むと、湯のみを台へと置いて溜息を吐いた。

「……次の日の朝にはね、結構気を持ちなおしていたつもりなの。目元はとってもひりひりしていたんだけどね。
椛さんが朝食を作ってくれて、三人でこの台を囲んだんだ。それでさあ食べようってなって。……あの子が、急に取り乱したの」

そう言ってお姉さんは急に自身の服の胸元へと手を伸ばすと、生地が皺になる程にぎゅっと握った。

「こんな感じに胸元を押さえて。それから口を僅かに動かしたと思ったら、変な声を出して。目を見開いたと思ったら、凄く……息を荒くしちゃって。
初めて、見たんだ。全力疾走してもなりそうにないほど、とっても早い呼吸。正直ね、私は何が起きたのかも良く分かって無かった。
椛さんが落ちつかせて、それから部屋に運んで行くまで。私はずっと、見てるだけ。……ずっと、手の中に箸を握りしめてた」

過去に何度か、見たことがある。妖精の子達が私の目の前で異常な呼吸を繰り返すその姿。そのほとんどが、私が暴れていた時だ。
恐怖とか不安が行き過ぎるとああいう症状を起こすんだって後になって知ったけれど……今思うと、あの子達の幾らかの子も声を出せなくなっていた。
悲鳴もあげられなくなってしまって、とても小さくて意味も無い音を無理矢理……助けを、求めるために出していた。

「私、どうしちゃったのって。部屋に連れて行かれた穣子が椛さんにそう言ったらしいわ。はっきりとね。
だから問題は無さそうって思ってまた居間へと連れてきてみれば、また声が出せなくなってしまって。
私が居ると喋れなくなってしまうんだって気付いた時には……私はまた、泣いてしまってた」

今思うと、私のお世話をしてきた子達と穣子お姉さんは少し似ているんだ。もっと言ってしまえば、今門を守ってくれているあの子達と。
原因は少し違うけれど、今の平穏を願っているし、それを大切なことだと思ってる。

「気が気でないような日を過ごした。それから、椛さんの提案であの子に手紙を書いたの。落ちついて読めるように。
私は感じてたことや恐れてたこと、全部書いた。その最後には、好きなように呼んで欲しいと、そう添えてね」

お姉さんが再び湯のみに口を付け……そして置いた。
カタンと乾いた音が部屋の中に響き、そんな中でお姉さんは袖を持ちあげて目元に押し当てて。
気分を落ちつけるためなのか、少しの間は短い溜息を何度か繰り返してた。

お姉さんが言いたいことというのは何となく私には想像ができていた。
まだ半日の付き合いしか無いとはいえ、お姉さん達が話す様子はしっかりと見ていたし聞いていたから。
穣子お姉さんはずっと、静葉お姉さんのことをお姉ちゃんって呼んでた。……きっと、姉さんと呼んで貰ったことはあれ以降一度も無いのだろう。

たぶんそれは、怖いからだ。
また静葉お姉さんを傷つけてしまうんじゃないかって、そんな不安がきっと穣子お姉さんの胸の中にあるんだろう。
そしてそのままずっと長い時間を過ごして来たから、消えない不安が怖さに変わってしまっているんだろう。
……ひょっとしたら、穣子お姉さんが私を怖がり続けているのにもこれが関係しているんだろうか。

「手紙を渡してちょっとしてからね、穣子とはまた普通に喋ることができるようになった。
でも、あれ以来ね、あの子との間に透明なのに厚い壁を……ずっと感じてるの」

私がお姉さんの方に向き直れば、お姉さんも体をこちらに向けて私を見つめた。

「もしも、貴女にお願いできるなら。その壁を壊してくれたらな……って」

長い時間生きてきて、壊して欲しいとお願いされたのはそれが初めてだった。



~~



ベッドの上に寝っ転がって大きく息を吸い込んだ。……少し、姉さんの匂いがする。一緒に眠ったり、おんぶして貰ったり、並んでお酒を呑んだり、じゃれついたり。
そんなことは昔と同じくできるようになったはずなのに、未だに私は怖いんだ。また姉さんを困らせてしまわないか。また、泣かせてしまわないか。
それだけはもうしたくない。泣いている姉さんを見るのは、嫌なんだ。

今でも昔のことを思い出すと胸が苦しくなる。その時のことを思い出してしまうと、一緒になって手紙のことも思い出すからだ。
喋ることが上手くできなくなってしまった私への姉さんからの手紙。その内容を思い返せば思い返す程に、
あの時泣いていた姉さんの顔を思い出してしまうから……。

手紙を持ってきてくれたのは椛さんだった。部屋で姉さんからの手紙を差し出された時、
部屋で独り落ち込んでいた私は怖くてその手紙を受け取ることができなかった。見てしまったら引き返せない様なことが書かれていないだろうかって。
そう、思ってしまったから。見かねた椛さんは姉さんの名前をぼそりと呟き、そして謝って。
椛さんは姉さんからの手紙を代わりに開くと、しばらく黙ってその手紙を読んでいた。

『私は、穣子ちゃんにはこれをちゃんと読んで欲しいな。怖い様なことは、書いてないよ』

読み終わった時、部屋の隅で震えていた私の肩を抱いて、椛さんはそう言いながら私の手に手紙を握らせた。
でも、それでも私にはやっぱり怖くて。結局代わりに読んで貰ったんだ。いつもよりゆっくりした声で、静かに読んでくれた。

『ごめんね』

そんな言葉から始まった姉さんの手紙。
いつか私が姉さんを追いぬいてどこかに行ってしまうんじゃないかと思うと寂しかったこと。
背も伸びてきて段々と迫ってくるだろうその日を感じるのが怖かったこと。
正直に、書いてあった。

けれど。

手紙に書かれていた姉さんの言葉は、私のことを無理に気遣った様な、あまり姉さんの普段使わない言葉も混じってた。
勿論何を伝えたかったのかは分かっていたけれど、まるで他人に宛てたような……そんな気さえする手紙だった。
姉さんが呼ばれ方を気にして泣いてしまったことは、手紙の最後に書いてあった。私にとってのあの呼び方は、親愛の気持ちだったんだ。
やっと横に並べる喜びと嬉しさに、少し大人びた気持ち。そんな気持ちを、あの呼び方の中に込めていたつもりだった。

『……穣子の好きなように、呼んで欲しいな』

椛さんが最後にそう言って手紙を閉じて、また私に握らせて。

『今開けそうに無かったら、それで良い。けれど、大事に持っておいて』

って。椛さんはそう言って、私の頭を撫でた後は部屋を出て行った。私は……結局その時開こうとはせず、すぐにそれを机の引き出しへと押しこんだ。
その日の椛さんはそれから手紙の話題を持ちあげることは一度も無くて。私や姉さんに代わってご飯を作ってくれた後は、お家に帰ってしまった。



結局、私が改めて手紙を開いたのは……その日の深夜だった。

『ごめんね』

声に出して読んだのを覚えてる。でも、そうやって読んだのは手紙の最初のその言葉だけだった。
そこから先は、とても読みづらかった。本当に姉さんの字だろうかと疑いたくなるほど、分かりづらい文字になっていたから。
まるで震える爪先でなぞった様な、そんな文字。読めない訳では無かったからそのまま読み進めたけれど……読めば読むほど、読まなければ良かったと後悔した。

私は、姉さんのずっと後ろに居た。だから、日頃姉さんがどんな字を書いているのかを分かっている。
晴れたって、雨が降ったって。風邪を引いたって、その日のご飯がどういう訳かとても不味くなってしまったって。
それでも姉さんの書く字が変わったことは、一度も無かったんだ。
いつも、綺麗な字を書いていた。だから……だから、その綺麗な文字を書けなくしてしまったのは、私に責任があるんだ。
私のせいなんだ。私が気遣えなかったから。気付けなかったから。あんな呼び方を、思いついてしまったから。
そう、全部私が悪いんだ。私は姉さんの変化だって見ていたはずなんだ。私はずっと、後ろに居たのだから。

読み終わってまた手紙をしまいこんだ時、私は部屋の外から姉さんに呼ばれたんだ。話がしたいからって。
聞いてくれるだけでも良いって、付け足す様にそう言われて。私が部屋のドアを開けると、姉さんは焼いて来たらしいお芋を手に持っていて、

『食べよう?』

って。無理に作った笑顔で私を迎えた。……つらかった。

『うん。居間に行こう。……お姉ちゃん』

あの呼び方は、二度と。二度と姉さんの前で口に出さない。
私がそう誓ったのは、その時のことだった。



ベッドの上で休んでいると、コンコンと、とても控えめなノックの音が部屋に響いた。
姉さんも私を気遣っている時にこんなドアの叩き方をするけれど、それが姉さんのものじゃないことはすぐに分かった。
そういう時の姉さんは、ノックと一緒に必ず私の名前を呼ぶからだ。

「起きていらっしゃいますか?」
「……うん。どうしたの?」
「お昼ご飯は、食べられそうですか?」

フランドールの言葉が廊下から小さく響く。
……妙に、遠慮がち。遠慮がちに喋ること自体は昨日から変わらないことだけれど、さっきまで聞いていた声よりも随分と、沈んでいる。
たぶん私がこういう風になってしまったから、姉さんが理由を幾らか話したのだろう。

ちらりと時計を見た。昔のことを思い出している間に随分と長い時間が経っていたらしい。
ずっと天井を見上げていたつもりなのだけれど、ひょっとしたら眠ってしまっていたのだろうか。……その割には、何だかとても疲れてる。

「大丈夫だって伝えて」
「……はい」

私の言葉に素直に従って、彼女の足音はその返事の後でゆっくりと遠ざかって行った。
お陰ですっかり静かになってしまった部屋の中で、頑張って姉さんの笑顔を思い出してみる。
期間で言えば瞼の裏に焼きついてしまったあの泣き顔よりもずっとずっと長い間見てきたはずなのに、
その思い出した顔にいつも納得ができないでいる。今でも姉さんは笑ってくれるけれど、やっぱり何かが違うんだ。
何かが、違うんだ。でもその何かが分からない。思い出せない。それが、つらい。

ベッドから起き上がって、休むために閉じていたカーテンを少し開いた。
ずっと暗かったから眩しく感じたけれど……目が慣れて見えた景色はまるで私の心の中みたいだ。
どんよりしてて、少し雨も降りそうな薄暗さ。……降りて行って、大丈夫だろうか。
思い出したせいで私がこんな風に落ち込んでしまうと、決まって姉さんも私を気にして段々と調子を崩すのだ。
心配してくれることは勿論嬉しいんだけど、情けなく、そして恥ずかしくて……何より、重荷になってると感じて、つらい。

あれ以来、姉さんの悲痛な顔を見ることは無かった。本当の笑顔も、見ることが出来無くなった。
でも。私は、それで良い所も悪い所も釣り合っているって、そう思うんだ。

……臆病、か。



~~



「どうだった……かな?」

私が穣子お姉さんと話している間、静葉お姉さんは部屋のドアを少し遠い所から見守っていた。
穣子お姉さんの部屋の前を離れると、すっと手招きして呼び寄せた後、とても小さな声で私に向かってそう尋ねたのだった。
さっきまでと比べたら随分と表情は戻ってきたけれど、まだ少し暗い様子で、あまり他の誰かの笑顔に触れたことの無い私でさえ、
これが作った笑顔だってことが分かる程の痛ましい笑顔を何とか作ってた。

「食べられるそうですけど……あまり元気は無かったです」

静かだからきっと聞こえてしまうだろうと、私はお姉さんと一緒に居間まで戻ってからそう小声で伝えた。
その言葉にお姉さんは腰を下ろしてゆっくりと膝を抱えて、落ち込んだ顔をその膝へと載せた。
気の利いた一言、何か一言、と考えてみるけれど、中々良い言葉は出てこない。
だから、私は眼に入った出しっぱなしの写真を急いで手にとると尋ねたのだった。

「写真を撮ってるのは……えっと」
「それなら記者として働く前の文さんよ。どうかした?」
「さっきから思ってたんですけど、随分沢山撮って貰ったんですね」

少し前に私が聞いた文さんというのは、近寄ると面倒なことが起こる上に天狗みたいな方だ、ということ。
でもそんな方にこれだけの枚数の写真、期間で見てもとてもとても長い間の写真を撮って貰っている。私には……あまり仲が悪そうには見えないのだ。

「うん。色々撮りまくるのよ。で、周りにたまに配ったりして回るの。記者として色んな記事を書くようになってからは数がとても減ってしまったけれど。
……今思うと、そうね。あれは私達に顔を覚えて貰う為だったのかもしれないわね。文さんのこと、気になるの?」
「いつかお伴の子を連れて館の外をおでかけしたいんです。景色や人を沢山撮っている方なら、良い場所とか詳しいのかなって思って」
「確かに知ってると思うけど、もしもそんなことをしたとしたら……そうねぇ」

私の言葉にお姉さんが立ち上がり、ちょっとだけ前屈みの姿勢になりながら、

「見返りに私の取材にも応じて頂けるんですよね?」

と、声色を変えてそう言った。たぶん、文さんという方の真似なのだろうと思う。けれど、似ているのか似ていないのか私にはよく分からない。
だから笑うべきなのだろうと思ったけれど、どこかタイミングを逃してしまった様で、私はただ、ぽかんとした顔でそれを見てしまっていた。
もしもここに日頃の穣子お姉さんが居たのなら問題無く返せていたのだろうけれど、結局私はまた静葉お姉さんがしょんぼりした顔で腰を下ろすまで、
丁度良さそうな返事は浮かんでこなかった。

「……まぁ、そんな感じのことになると思うから。あまり、お勧めはできないかな。たぶん貴女程の有名さがあると、文さんずっと付いてくるだろうから」

それはちょっと困る。できるならゆっくりとのんびりと見て居たいし、何より一緒に行くあの子に迷惑をかけたくない。
勿論、要らないちょっかいを出されても私が守ろうと思えば守れるだろう。
でも、あの子はそんな騒ぎを起こすような真似は絶対に反対だと思うし、私だって騒ぎを起こしたい訳じゃない。
それに騒ぎを起こした時に迷惑を被るのは館の皆だ。……そんな責任、私の背中には重すぎる。

「今はまだ春が始まったばかりだからあまり見える物は無いんだけれど、この山だって秋になると綺麗な色に染まるのよ?」
「お姉さんは秋さんでしたね」
「うん。貴女と貴女のお姉さんが吸血鬼なら、私と穣子は神様だからね。私がもみじの。穣子が豊穣の神様なんだから!」
「……椛さんと何か関係が?」
「うーん。ううん。同じ音だから全く無い訳じゃないけど、私のは紅い葉っぱって書く方の紅葉。
椛さんは木に花と書く方の椛。紅葉は綺麗よ。風に踊る赤い絨毯が山に広がるんだから」

赤い絨毯か。……館のも赤い絨毯だ。でも、風に踊ったりはしない。
もしも風に踊ったりしていたら、きっと掃除の子達が毎日泣きながら掃除していると思う。
ひょっとしたら窓に釘を打ちつけているかもしれない。

「お姉さんも綺麗だから羨ましいです」
「あらあら」

お世辞でも嬉しいと、静葉お姉さんは続けた。
勿論お世辞で言ったつもりではないのだけれど、私の言葉にお姉さんはちらりと視線を動かして、穣子お姉さんの部屋の方を見ていた。

「どうかしましたか」
「ううん。ちょっと穣子が羨ましくて。あの子、いつも皆から可愛いって言われてるの。でも、私はまだそんな風に言われたこと無かったから、ね……」

可愛い、か。写真の中の穣子お姉さんは確かに元気に笑っていて、少し……ふっくらしてて。綺麗と言うよりは可愛いという言葉の方が言い易い。
こんなことを面と向かって言ってしまうと冷たい視線を浴びる羽目になってしまうのだろうけど。
……良い笑顔だ。私はまだ、ここに来てから穣子お姉さんのこんな笑顔は見たことが無い。
もしも見ることができたなら、きっと穣子お姉さんが変わって見えるんだろうなって。

「お姉さんは可愛いと言われたいですか」
「そうね。いつかは、そう言ってくれる相手が見つかれば良いなって。でも、それはずっと後で良いの。色んなことが片付いた、その後で。……ね?」

そう言って穣子お姉さんが笑い、ぐっと伸びをした。……少しは気分転換に貢献できたのかな。

「さて、私も少しずつ元気が出て来たから、お昼ご飯作らなきゃね!」
「写真、まだ見てても良いですか?」
「良いですとも。好きなだけ、見てて良いから」



お姉さんが料理を作っている間、私は台にあった写真を時間の流れに沿って並べ直していた。
穣子お姉さんの見た目の変化に合わせて、と言った方が正しいかもしれないけれど……こうして見ると、
変化があるのは穣子お姉さんだけじゃないことに気づく。静葉お姉さんや椛さんだって、
穣子お姉さん程じゃないけれどちょっとずつ大きくなっていた。よくよく見てみると、
古い写真の中で静葉お姉さんが来ていた服を新しい方の写真の穣子お姉さんが着たりしていた。
どうやらお下がりの服みたいだ。私は……まだ、毛糸の帽子しか貰ったことが無い。あの帽子はとても柔らかくて温かいから、
とっても寒い日のためのとっておきだ。初めて着けた日は、お伴のあの子と外に出た日。
……妖精の子達はどうなんだろう。ちっちゃい子から大きい子まで居るけれど、皆で衣服のやり取りとかしているんだろうか。
大きくなって着られなくなったりしたら、他の誰かに譲ったりとか。それとも、成長よりも先に生地が駄目になってしまうだろうか。
あの子達は私と違って働いている。いくら作る咲夜の腕が良かったとしても、擦り切れてしまったらどうしようもない。

ちらりと写真から自分の体へと視線を移した。……よくよく考えてみると、私もあの妖精の子達の服を着ようと思えば着られるのだ。
羽を出す為のスリットは彼女達の服にも私のと同じように開いている。逆に考えればあの子達に私の服を……いや、駄目だ。
私の姿を見るだけでも怖い子が居る内には、できることじゃない。余計な恐怖心を負わせてしまう。

「まだ、見てたの」

ぼーっと考えていた所で、急にそんな言葉が頭の中に入って来て。慌てて視線を持ちあげると、
いつの間に部屋から戻ってきたのか、向かい側に穣子お姉さんが座っていた。少し疲れた様子ではあるけれど、
さっき私が見た時に比べればちょっとだけ元気を取り戻していた。

「色んなことが見えてくるなって、そう思って」
「……お姉ちゃんから何か、聞いた?」
「……昔のことを、少し」

正直に答えると、穣子お姉さんは目をふせて。私の声が聞こえたのか、台所から静葉お姉さんが恐る恐るという様子でちらりと顔だけ覗かせた。
それに気づいたのかどうかは分からないけれど、穣子お姉さんは一度長い溜息を吐いて。しばらくの間、目を閉じて何かを考え込んでいた。
台所からはその時既に、お肉の焼けた時の様なじゅうじゅうという良い音が響いていて、少しして覗いていた静葉お姉さんも顔を引っ込めて
料理の方へと戻って行った。それからすぐに穣子お姉さんは顔をあげた。……どうやら、静葉お姉さんには聞かれたくないみたいだ。
穣子お姉さんが少しだけ身を乗り出したので私も改めて座りなおしてちょっとだけ顔を近づければ、

「あんまり、そのことに触れて欲しくないの」

と。小さな声で穣子お姉さんは呟いて。

「思い出したくないの。だから……そっとしておいて欲しい」

そう続けた穣子お姉さんに私は妖精の子達の姿を重ねていた。



お昼ご飯はハンバーグ……の、様な物だった。
焦げていない部分はハンバーグよりもずっとずっと白っぽく、所々葉野菜の緑色や、玉ねぎのとろけた茶色が薄く透けて見えている。
静葉お姉さんが言うには豆腐を混ぜ込んだハンバーグなのだそうだ。……見た目だけだとお豆腐にハンバーグを混ぜた様にも見える。
ハンバーグ自体は館でも咲夜の得意な料理としてお手製の物が並ぶけれど、こんな風に作られた物は初めてで、しばらく私はじっと眺めてた。
ソースも館の食事とは違う。咲夜のだと、赤いトマトの色が残るどろりとしたソースなのに、
こっちはソースの下のハンバーグが透けて見える程に色が薄く、とろんとしていた。
館ではホットケーキを食べる時や特定のお菓子を食べる時にしか見ないけれど、ソースじゃなくて蜂蜜だと言われた方が納得できる気がする位だ。

「特製のあんかけよ!」

と、静葉お姉さんが笑い、並べたのは……箸だ。いつもハンバーグはナイフとフォークで食べていたから、ちょっとだけ違和感がある。

「いただきます」

お姉さん達の声が揃って響いたその後で、私も続けてそう言った。お姉さん達はすぐに食べ始めたけれど……見た目はとても熱そうで。
私は先にご飯を貰いながら、お姉さん達が食べる様子を窺っていた。あんかけの料理を食べた経験は、決して多いとは言えないけれど、全く無い訳じゃない。
咲夜が忙しすぎて疲れ切ってしまった時とか、病気で料理ができない時とか。そういう時は門の方の仕事を休んで美鈴が厨房の指揮をとったりするから、
ごく稀にではあるけれど、食べられる機会があるんだ。傾向としては、今と同じように冬でのみ、だけれど。

あんかけ料理というのは凄い。荒れて居た頃の私の部屋に届く料理は普通冷めきってしまっている。
けれど、そんな中で稀に届くそういうあんかけだけは、熱いと思うことは決してなかったけれど、冷めきっていた訳でも無くて。
温かい料理がお部屋に届くようになってからはまだそういう機会が訪れないけれど、きっと……できたてというのは、とんでもなく熱いだろうことは予想できていた。

食べ進めるお姉さんに倣ってハンバーグを割って行った。
いつも食べるハンバーグと比べて表面だけは少し硬く、ぷりっとした感触が箸から返ってくる。
割って開いてみると、もうもうと湯気がのぼったから、恐らく私の考えている通りに熱いのだろう。
しかし、ちらりと見たお姉さん達は普通に箸を運んでいたから、私も決心して少し小さなひと口分を頂いた。
けれど、口に入れた瞬間に思い出したのだ。……さっき、静葉お姉さんが沸かしたてのお湯でお茶を飲んでいたこと。

「あふ!」

そして、戸惑った。

「あふぁ!」

館なら、凄く熱い食べ物を間違って口に運んだとしても、吐き出せる。見ているのは一緒に食べてくれるあの子だけだから。
あの子だってそうするし。けれど、ここは館じゃない。出すなんてとんでもないのだ。
水は……水は、無い。そうだ、お味噌汁。そう思って手に取ったお椀は……決して解決しないことを手のひらに感じる熱から悟った。

結局、気合いで無理矢理飲みこんだ。噛めなかったからひと口そのままを。
多少小さめに割っていたのが唯一の幸いなのだろうけれど、周りの時間の流れがとてもゆっくり見えてしまう程、喉が焼けるような感覚を味わった。
喉元を過ぎれば熱さを忘れるなんて言葉があったけれど、とんでもない。喉を通る時には滅茶苦茶に熱いことに違いは無いんだ。

「お、お水取ってくるから!」

静葉お姉さんが箸を置いて急いで台所へと駆けて行き、残された穣子お姉さんが何とも言えない様子で私を見つめていた。
とんでもなく、恥ずかしい。けれど、それどころじゃなかった。息を整えようとして胸の中に溜まっていた息を吐きだすと、
口から湯気でも立つんじゃないかって位に熱い空気が体の中に広がって、喉元を過ぎたはずの物は今度はお腹でとんでもない熱を感じさせている。
急いで戻って来た静葉お姉さんから冷たい水を貰って急いで流し込んだけれど……お腹の奥の熱は中々冷めてはくれなかった。
それもやっと落ち着いて改めて溜息を吐いた頃には、お姉さん達も一緒になって溜息を吐いていた。

「熱いよ?」
「……はい」

今更ながらに穣子お姉さんに指摘された。もう少し、早く言って欲しかったなぁ。
再び箸を取ったお姉さんを見つつ、私も箸を手に取りなおして。つん、と舌先で上あごを撫でてみた。
どうやら皮は剥げずに済んだみたいだ。飲みこめる物で助かった。もしもこれが溶けたチーズとかだったら。
飲みこめるか以前に、そもそも私は座ったまま耐えることができていたのだろうか。

「猫舌だったのねぇ」

猫舌だなんて、思ったこと無かった。でもこれで猫舌なら……きっと、館の中に居る子達の大半は猫舌になるんじゃないだろうか。
何とか我慢できる熱さとか、そういう風にはとても思えなかった。

「椛さんも猫舌ですか?」

ふと思い立って尋ねてみると、二人は揃って天井の方を見上げ……頷いた。

「そういえばそうねえ。いつか焼き立てのお芋で舌を焼いてたと思う」

……焼き立てが熱くない訳が無い。あれは、慣れてしまえる熱さなんだろうか。
厨房の子達はいつもできたてに触れている訳だけど、彼女達はどうなんだろう。
味見はしっかりするという噂だから、ひょっとしたら耐えられるのかもしれない。
私も厨房でできてすぐの物を急いで食べてたら、慣れてしまうのかな。今でも十分お伴の子が急いで持ってきてはくれるのだけど。

「まあ、ゆっくり食べましょう?ハンバーグに足が生えて逃げ出すなんてことは無いんだから」
「はい」

私にそう語るお姉さん達は、喋る間もまるで問題無いと言わんばかりの早さでひょいひょいと食べ進めていた。
私がまた食べ始めるまでの間に既に半分位食べ終わっていて、急がなくても良いとは言われたけれど、
片付けを手伝うことがこの時間の私にはできないから、息で冷ましながらできる限り急いで食べて行った。

幸い、口の中の痛みはすぐに引いてくれたお陰で、味が分からないなんてことにはならずに済んだ。
いつもの館で食べていたハンバーグと違って、じゅわっと口の中に広がる物はあまりないけれど、とってもぷりぷりとしてて……噛んでいてお腹が膨れてくる。
お豆腐自体の味もそこまで強くないお陰で、中に入っている野菜の味も分かりやすかった。しかし、だ。食べていて気になって仕方が無いことが一つある。

「あの、これは洋食なんでしょうか。それとも、和食でしょうか」

私の一言に二人の食べ進める手が止まった。考え込んだ二人を見て、その間にこっそりと食べ進めていく。
少しして穣子お姉さんは洋食と答え、静葉お姉さんは和食と答えた。……結局、どっちなんだろう。

「ハンバーグ自体は洋食でしょ」
「でも材料は和食寄りだもん」

ここがこうだから洋食だ。そこはそうでもこの部分は和食だ、と。しばらく二人で言い争って。
……私には、とても良い仲だと思うのだけれど。



「御馳走様でした」

結局、決着はつかなくて。どっちでも良いじゃないかということで話は終わった。
二人はどこか釈然としない様子だったけれど、そのお陰で食べ終わりの時間は一緒になって、ほっと一息。
量は館で食べる量と同じ位なのに、何だか今の一食は二人分食べた時の様な気分だ。
噛むことが普段より多かったからじゃないか、と静葉お姉さんは言っていたけれど、それで変わってしまう物なんだろうか。

そんなことを考えながら、穣子お姉さんの淹れてくれたお茶を片手に食後の一休み。
やっぱり館で普段飲んでいるお茶に比べるとずっとずっと熱い。ここが台所のすぐ傍だというのはあるけれど、
こんなにも違うんだなって、改めて思った。

「初めてでも作りやすそうな料理って何があるかしらねぇ」

静葉お姉さんがぽかんと天井を見上げながら、そう言った。

「お味噌汁」

同じく、穣子お姉さんも天井を見上げ、そう言った。
私も見上げようとしたけれど……手に持った湯のみの中が全く減っていない今、ぼーっとして零したりしたら間違いなく手と太ももが大惨事だ。

「十六夜さんがきっと下ごしらえは手伝ってくれると思うし、肉料理が簡単だと思うんだけど」
「包丁も触った事無いんだから、怪我しないようなのが良いんじゃないの」

……今更になって、お料理の経験が無いことが恥ずかしくなってきた。
こういうことになるのなら、せめてお伴の子に頼んで勉強用の本を調達しておくんだった。

「よし。穣子、今晩の夕食は任せるわね」
「……私が教えるの?」
「だって帰るのは明日なんだから、今日しか無いじゃない」

私が会話に混ざる前に、トントン拍子で話は進んで行って。いつの間にか、今晩教えて貰えることが無事に決まったみたいで。
穣子お姉さんはしばらく静葉お姉さんにじっとりとした視線を送ってたけど、少しして諦めたように長い溜息を吐いて、がっくりと頭を下げた。
……良かった。引き受けてくれて。

「で、結局何を作れば良いの」
「任せちゃ駄目?」
「どの食材を使っても良いなら」
「うん。無くなったらまた揃えれば良いんだから。……疲れてないならで、大丈夫だからね?」
「……大丈夫だから、気にしないで」

静葉お姉さんはそんな穣子お姉さんの様子をしばらく窺っていて、最後にそう尋ねた。穣子お姉さんは目を伏せたまま返して。
ちょっとだけどんよりとした空気が居間に広がった。

「よ、宜しくお願いします!」

何とか、そんな雰囲気を消そうと思ってそう叫ぶと、二人はしばらくきょとんとしていたけれど、少しして笑ってくれた。



~~



お嬢様の部屋を出て自分の部屋へと籠り、ベッドに頭を埋めること……どれだけ経ったのだろう。
知りたくなかったから時計は見なかったけれど、かなり長い時間全く眠りにつけないでいる。
勿論、もう体は眠りたがっている。けれど、瞼の裏には色んなことが浮かんでいて目まぐるしくて……それで、眠れないのだ。

妹様が泣いている所とか、暴れているところとか。果ては、預けた先のあの姉妹がお嬢様を襲っている姿だとか。
私が信じないといけない立場だと分かっていても……やっぱりどこか不安で。あの姉妹の家から帰ってきてすぐはまだ平気だったはずなのに、
目や手の届かない所に行ってしまうとこんなにも不安になってしまうのかと思うと、他のメイドの子達にも示しが付かないから姿を見せられたものじゃない。

寝る前に出したお昼ご飯の指示の後、少し騒がしかったのを覚えてる。
かなりざっくりとした指示しか私がしなかったのが原因だろう。特に最後に向かった厨房はメニューしか伝えなかったから……。
きっと、てんやわんやだっただろう。今頃皆は食事を……いや、もうとっくに食べ終えた後だろうか。

……眠れない。眠りたいし、眠らなければならないのに、眠れない。
どうにかして無理矢理にでも眠る方法は無いのだろうか。一応、医務室まで出向けば睡眠薬があるにはある。
怖い話とか怖い夢とか。そういうもので眠れなくなってしまった妖精の子達用の物だ。……昔は怖い思いをした子に配っていた物でもあるのだけど。
あれを服用すれば恐らく私もすぐに眠れるのだろうが、あれは一旦服用すると中々目が覚めないのだ。
私のことがいざ必要になった子が出てきた時に困る。誰かに強烈に頭を叩いてもらう……のは、
任命された側の子にとってもキツいだろうし、私自身に何か変な症状が後に残ってしまっては元も子も無い。
協力して貰うにしても、もっと平和的な解決方法という物は無いんだろうか。

魔法はどうだろう。パチュリー様に頼めば、きっとどうにかできるとは思う。
でも……たぶん眠るにも起きるにもそのどちらも力を借りないといけないだろうから、あまり好ましくは無い。
せめて眠りに入る所までで良い。そう思ってふと瞼の裏に映ったのは、いつもパチュリー様の横に居る彼女の顔だった。
少し前に一緒に眠って貰う機会があったけれど、あの時はとても気持ち良く眠ることができたんだ。とても、久しぶりに。
そうか、添い寝して貰えば良いんだ。……いや、頼むのはあまりにも情けなくは無いだろうか。
眠れないから横で子守唄を歌って欲しいと願い出るのと大して差も無さそう。

でも。眠れないのだから、仕方が無い。そう、仕方が無いことなのだ。
それにあの子に頼めば……きっと、黙っていてくれるだろうから。



着替えを済ませた後、パジャマを入れた袋を持って図書館のドアの前に立った。
中途半端に意識が遠のいているお陰でフラフラするし、ドアも何だか歪んで見える。
そんなドアを叩いて中のの様子を窺ってみるけれど、集中力が足りないせいだろうか、中から反応があったのかどうにも私には分からなくて。
一度深呼吸した後で、私は静かにドアを開けたのだった。

ドアの向こうの図書館は廊下より少し明るく、思わず私は目を閉じた。
元々は本棚を照らす為に用意されている光なのだけれど、暗い所ばかりに居たからか、それでも今の私には眩しかった。

「あら。眠ってるって聞いてたけど」

かなり遠くに居たパチュリー様と、そのお付きの子が私の方を見ていた。
既に私が寝ようとしていたことが伝わっているということは、きっとお昼ご飯の時に妖精の子の口から話が出たのだろう。

「ええ。あの、パチュリー様。彼女の力をお借りしたいのですが」

ご飯の直後は流石に本を読む手を休めるパチュリー様だけれど、もう既に手には本、その本の横には読み終えたらしい本が数冊。
更に反対側には緩く湯気をあげる紅茶のカップが置いてある。……ひょっとしたらお昼ご飯よりも夕食の方が時間としては近いかもしれない。

「後で返してくれるなら構わないわ」

パチュリー様はそう言って読んでいた本へと視線を下ろし、背もたれへと深く体を預けた。
横に居た彼女はこっちを見て微笑んで、私の傍まで歩いてくると、

「相談事ですか?」

と、そう小さく尋ねて来たのだった。私が頷けば彼女は私の肩に手を添えてゆっくりと歩きだして。
私はそんな彼女に導かれながら、彼女の部屋に向かったのだった。

彼女は部屋につくとすぐに私をベッドに座らせた。
体力が無いことや瞼をあげる気力が無いのを分かってくれたのか、部屋は暗いままにして貰えて。
私が持ってきていた袋を床にそのまま置けば、彼女は私のすぐ横に腰を下ろした。

「凄くお疲れの様ですが、ひょっとしてこの前の特訓ですか?」

眠いのは伝わっていたみたいだけれど、生憎とそうじゃない……ような、そうであるような。
心構えは全く違うのだけれど、やって貰うこと自体は大して変わらないかもしれない。

「変なお願いになるんだけど」
「ああ、眠気覚ましですか?」
「ううん、その反対なの。眠りたいんだけど眠れなくて。もし良かったら……添い寝して貰えないかなって思って」

恥ずかしさをできる限り押し殺して、冷静に言ったつもりだった。
けれど彼女は何を思ったのか、自身の額と私の額に手を当てて悩む様な声をあげた。

「とても眠そうに見えるんですけど……何か、悩んでいらっしゃるのでは?」
「妹様のこととお嬢様のこと、かしらね。それが気になって、気になって。眠らないといけないのに、眠れないのよ」
「それで、他のことで頭を一杯にしておきたいと、そういう訳ですか」

私が頷くと、彼女は額に当てていた手でそのまま私の頭を撫でた。
眠れない疲れのせいか、心地良さよりも頭を揺さぶられる気持ち悪さが勝ってしまいそうで、善意のはずなのに申し訳なく思えて。
私は床に置いていた袋を持ちあげると、その中に入れてきていたパジャマを取り出した。

「それなら私も着替えておきましょう」
「貴女、この後まだ仕事をしないといけないでしょう?」
「そうですけど、あっちの生地の方が柔らかいですから」
「……ごめんなさいね」

私が立ち上がれば彼女も立ち上がり、真昼間のはずの暗い部屋の中、私達は着替えて行った。
私は脱いでいる所を見られたくなかったから時間を止めてしまったけれど……少し、ずるいかもしれないなって思った。

着替え終えた服を部屋の中にあった椅子の上へ置かせて貰って、ベッドにお尻を落ちつけた。
彼女の方はと言えば、私に対してもほとんど恥ずかしさを出すことなく、するりするりと着替えて行って。
着替えを終えてベッドに乗ったかと思えば、そのまま枕のある所まで膝立ちで歩いて行って、置いてあった枕をぽんぽんと手のひらで叩いてた。

「寒くはありませんか?」

彼女の手に導かれるがままにベッドに入り、枕に頭を埋めさせて貰った。
同じ枕を使っているはずなのに、日頃の使い方が彼女と違うのだろうか、頭の沈み方は全く違った。
新鮮だなって。そんなことを思っている内に彼女も私の隣へと入った。

「大丈夫」
「そうですか。……ぎゅーっとしても、寝られそうですか?」
「うん。……前はそれで、気持ち良く眠れた気がするから」

遠慮がちに聞いてきた彼女だったけれど、私はもう耐えきれなくなって彼女の方へと体を寄せていた。
やはり、良い匂いがする。ただ、私も色々と気持ちの整理がついた後だからか、以前の時の様に変に惹きこまれる様な感覚に襲われることはもう無かった。

彼女の手が私の頭の後ろへとまわって、そっと引き寄せられて。
顔が柔らかい胸元へと埋まって行くと、布越しではあるのだけれど、冷えていた体が急にぽかぽかとしてきて。
ああ、こんな感じだったなぁ、なんて。そんな安心感を覚えた。

「秘密にしておいて欲しいのだけど」
「ええ。でも、後でパチュリー様には少し説明しますよ。……静かに眠りたいからこの部屋に来た、とでも」
「毎回面倒なことに巻き込んで、ごめんなさいね」
「気を遣わなくて良いんです。今はただ、ゆっくりお休みください」

私が眼を閉じると、頭に添えられていた手は背中へとまわって。
それからゆっくりと彼女の手がリズムを刻んで。聞こえているはずの彼女の声は段々と遠のいて……私は、考えるのを止めた。



~~



「お願いだから包丁をまな板がある方以外に向けないで!」

夕方が近くなると、穣子お姉さんと静葉お姉さんは居間の台の上を片付けて、台所から持ち込んだ調理器具を代わりに並べ始めた。
まな板に包丁、ボウルにおたま。そして……何だか長いお箸。食事に使っていたお箸の3倍近い長さがある。
とてつもなく食べづらそう。でもここにあるということは、食べる時じゃなくて料理で使うのかな。

そんなことを頭の中で整理しつつ、私はお姉さん達の反対側に座って手ほどきを受けていた。
ほんのちょっと前までは、静葉お姉さんに包丁の握り方を教わってて、今は穣子お姉さんに扱い方について口酸っぱく言われている。
私が包丁を持ってしまうと余計に怖いのだということは勿論分かっては居るんだけど、
その一方で昨日とは違ってずっとずっと落ちついてくれていることが今はただ嬉しい。

「他のことをする時はちゃんとまな板の上に包丁を置いて。不安定な置き方は駄目。良い?」
「分かりました」
「それで、今日の献立は何なの?」

静葉お姉さんはすっかり調子を取り戻した様子で、終始穏やかに笑っていた。
後はお任せしますと言わんばかりに寛いで居て、今は押し入れから出されていた写真を整理し片付けている所だ。

「おやこどんにする。鶏肉、早いうちに食べないと。それと味噌汁。出汁はもう先に作ったから」
「そうねえ。それ位で良いと思う」

おやこどんか。……おやこどんって、何だろう。鶏肉を使うもの?
……どん、どん。この響きはどこかで聞いているはずだ。あれは、そうだ。美鈴が咲夜の代わりに作ったマーボー丼という奴だ。
あれはマーボー豆腐を載せているから確かそう呼ばれている。だからきっと、おやこ丼というのは親子を載せるのだろう。
鶏肉だから……雛の肉、かな。

「見たことも無さそうね」
「そ、その。無いです」

穣子お姉さんに指摘され、ぼーっと考えていたことを頭の中から急いで追いだした。ちょっと、嫌な光景でもあったし。

「親子丼というのは、鶏肉と卵を使うからそう言ってるだけよ」

それを、鶏肉と卵丼と呼ぶのは駄目なんだろうか。

「そんな目をされても困るんだけど」

親子関係にあるのは分かるんだけど、言われただけで分かる料理名じゃないなぁって思う。
まるで、きつね饂飩やたぬき饂飩みたい。あれなんか完全に騙しに来てるもん。きつねもたぬきも、どっちも載って無い。

「まあ名前はどうでも良いの。ああ、そうだ。ご飯も先に炊かせて貰ったわ。
紅魔館でどんな規模で炊いているか知らないし。だから、もしも館で作るなら十六夜さんに直接教えて貰った方が良いと思う」
「わ、分かりました」

そんな会話を続けている内に、台所から漏れこんでいた光が消え、急に部屋の中が暗くなった。どうやら、日が沈みきった様だ。
静葉お姉さんが待っていたと言わんばかりに立ち上がり、部屋の灯りを点けた。……昨日やって来た時と同じ明るさだ。

「じゃ、作るよ。とりあえずそのままおいで」

そう言われ導かれて、初めて入った台所は……未知の世界だった。
部屋の片隅を見れば、色んな野菜が積んであったりぶら下がっていたり。お酒の瓶が置いてあったり。
穣子お姉さんが開けた戸棚には、黒色の液体や黄色い液体なんかが詰まった瓶がずらりと並んでいる。
火元と思しき所には、一つの液体の入ったお鍋が置いてあって、お鍋の向こうにはきっと味付けに使うのであろう白い粉なんかが入った瓶が並んでた。
まるで、魔法の実験みたいだ。

「凄いですね」
「……何が?」
「その。何て言えば良いのかな。作るって感じがします」

少しの間穣子お姉さんは訝しむ目で私を見つめ、少し広めのスペースのある場所へと立つと、ひょいひょいと材料を並べ始めた。
食事の時に台にも置いてあった醤油の小瓶、黄色い液体の入った少し大きな瓶、お酒の瓶、白い粉の瓶に……瓶だらけで眼がまわりそう。
それから、卵に、しわしわになった椎茸に、玉ねぎに、鳥のお肉、葉野菜。

「全く分からないです」
「この部屋の物の中には、幻想郷に無いものもあるからね。一部は守矢さんとか、八雲さんの所から頂いた物だから」
「こちらの黄色い瓶は何ですか」
「これはみりんって言うの。他に分からなそうなのは……そうね。あれは砂糖で、こっちの野菜は大葉。
中途半端に余ってた食材で丁度良かったから入れることにしたの。それで、これが干した椎茸」

知り合いが多くて、羨ましい。……そして、結局名前を教えて貰いはしたものの、イマイチ何だか良く分からない。帰ったらちゃんと調べないと。

「和食ってねぇ、だしってものを先に作ることが多いのよ。色々種類があるんだけど、今日はお肉だから椎茸を使うわ」

だし。いつも一緒に食べるあの子が言う、だしが効いている、のアレなのだろう。

「お野菜なら鰹節、後は昆布とかも使うの。どっちもここじゃ手に入らないから、こういうのは八雲さんの所から頂いてるわねぇ。椎茸は家で干してたんだけど」

そう言うとお姉さんは何故か出した椎茸を片付けて、それから既に置いてあった鍋の方へと歩いて行った。

「お味噌汁でも親子丼でも使うから、お水の量は大体これ位。……覗いてみて頂戴。
正確な量は測って無いから、もし気になったら十六夜さんに教わるべきかもね」

促されるままに覗きこんだお鍋。真上から覗きこむと、お鍋の縁にくっつく様に椎茸が隠れてた。
しおしおとした感じは既に無くなっていて、いつも見る椎茸にかなり近い。

「鰹節や昆布だと出汁を作るのにかかる時間は少ないんだけど、干し椎茸を使う時って時間がとにかくかかるの。
その代わり、入れて放置するだけで出汁が取れるから、仕込み自体は一番楽だと思うけどね」
「この量をどっちにも使うんですか」
「そう。まあ、出汁を作らなくても料理をしようと思えばできなくは無いから。ただ、結構味は変わるかな。だから、作れるなら作るべきだと思う」

どうやって覚えたら良いんだろう。椎茸の個数は見れば分かるのだけれど、
お水の量は……えっと。お味噌汁で使うのだから、少なくともお椀が三杯分は必ずあるのだ。
あとは、ぐらぐらと火にかけている間にも湯気になってどこかに行っちゃうから、もう一杯分位は余分にある。
だから、少なくとも四杯分。……お鍋の中の量はお椀四杯分よりもずっと多いから、だから親子丼ではこの量から四杯分程度は差し引いた量を使うんだな。

私が首を縦に振るとお姉さんは手を洗いだした。私も一緒になって洗ったのだけれど、これが結構気合いの要る作業だ。
お風呂なんかと一緒で、洗い流す度にどこか力が抜けてしまうから。

「それじゃ、まずは玉ねぎね」

お姉さんが持ちあげ、手渡して来た玉ねぎ。
普段から結構食べているはずなのに、ずんとした重さを感じる。
ぱさぱさの手触りで、手のひらの上で転がしているうちに皮がぼろりと剥がれた。

「剥くんですね」
「そう。剥いて。で、剥いだのはこっちに入れてね」

そう言われて剥いて行く玉ねぎ。初めて剥くのだけれど、どこまで剥けば良いのだろう。
茶色い部分はすぐに無くなってしまったけれど、何だか剥こうと思えばどこまでも剥けてしまえそうだ。

「その位で良いよ。で、もう一回手を洗おうか。下ごしらえは手を綺麗にしないと」

ま、また手を洗うのか。

私が手を洗い直す横で穣子お姉さんはボウルに水を張り、剥いた玉ねぎを沈めてた。
何のおまじないかと思っていると、お鍋の中にあった椎茸もひっつかんでそっちに移して。
それからボウルを持ってそのまま居間の方へと運んで行っていた。……少しして鶏肉も運んで行って。

「あら、こっちでやるのね」
「こっちなら、包丁が落ちた時の心配しなくて良いもん」

……なるほど。

穣子お姉さんが居間で待っていたので私も手を拭いて居間へと入ると、お姉さんはまな板の上に椎茸を並べ始めた。

「まずは椎茸を切ります。さっきお姉ちゃんに教えて貰っただろうけど、包丁は押し付けただけじゃ切れないから、
奥や手前に動かして切るのが普通なの。……こんな感じ」

そう言って、置かれていた椎茸をゆっくりと刻んで行った。とん、とんと気味の良い音が響いて、
1つ1つが小指の先っぽ程の大きさになって行って。それから包丁を渡され、私も挑んだ。
左手はこの形でここに……と、頭の中で呟きながら、お姉さんの真似をして切って行く。
お姉さんが立てていた様なとん、という音は出なくて、何だかちょっと擦れる音。まな板を切りたい訳じゃないんだけど。

「残りの椎茸も全部同じ位に刻んで。終わったら、こっちに入れて」

差し出された新しいボウルへと、切り終えた椎茸を移していく。……ちょっと、指の間から零れてしまいそうな位にちっちゃく切っちゃった。

「うん。じゃあ次は玉ねぎ。……時間経ってないからしみると思うけど」

しみる?

「まずは要らない部分を切る。ここね」

そう言ってお姉さんが切り落としたのは、私も今日見るのが初めてだった髭みたいな部分だ。
それから尖っていた方も切り落として、どん、とまな板の上に置いた。

「まず縦に半分に切って」

そこから先、お姉さんは口で指示をするだけだった。お姉さんに従って刃を当ててみると……思ったより、固い。

「真っ直ぐ下にじゃなくて、手前か奥に斜めに切り下ろす感覚で良いの。さっき椎茸にやってた様に」

ちゃんと指導をされていたはずだけれど、つい忘れてしまっていて。
意識して動かしてみると……うん。問題無く切ることができた。

「で、切った断面をまな板に寝かせて……そう。じゃあ右端から薄く切って行って」
「ど、どの位薄ければ良いんですか」
「そうね。刃の厚さの3倍位が目安だけど、厚すぎなければ多少変わっても問題無いから」

3枚分、3枚分。そう思って切って行くのだけど、刃を当てた部分は良くても、切り下ろした先で1枚分の厚みになったり、5枚分の厚みになったり。
真剣に考えれば考える程とてもゆっくりした動きになってしまい切りづらくて、考えないで動かせば切りやすいけれど、厚さが全く揃わない。
そしてなんだか……眼が痛い。びりびりする。鼻もちょっと痛い。

「玉ねぎは目に来るのよ。水にちょっとの時間浸しておいて急いで切ればあんまり気にならないんだけど、
今日はどっちも足りないから。仕方ないと思う。まあ、こういう食材なのよ」

穣子お姉さんが解説しながら袖で目元を拭いていた。
私は包丁を持っているからとてもじゃないけどそんな真似ができない。たぶん、穣子お姉さんが怖がるから。
だから眼を細めて、涙が落ちるのを感じながら我慢して切って行った。

「……終わりました」
「じゃあ次、鶏肉。こっちはひと口分の半分位に切って頂戴」

これなら楽だ。大きさの指定も細かくない。そう思って皮に刃を立てると……玉ねぎ以上に切りづらい。
皮が滑るしぐにっとしている。刃を前後させれば切れるのは切れるけど、何だか切って行くごとに切りづらくなっている気がする。
それでも最後まで頑張って切り終えると、お姉さんはスライスした玉ねぎの山と椎茸の山を半分ずつ位になる様に二つのボウルへと分けていて、
その片方に鶏肉を載せていた。……たぶん、鶏肉を入れた方が親子丼用なのだと思う。

「はい、最後に大葉」

そう言って取りあげられた最後の食材。
切るのかと思って包丁を持てば、穣子お姉さんは首を横に振って、そのままぶちぶちとちぎり始めた。
私も習って残りのをちぎったけれど……鶏肉よりよっぽど楽だった。

私がぶちぶちとちぎり大きさを揃えている間、穣子お姉さんは包丁を持って台所へと向かっていった。
どうやら、洗っているらしい。ということは、もう使わないのかな。

均等にちぎり終えた頃、穣子お姉さんは帰ってきた。今度は置いてあった食材の入っていたボウルを持って手招きして。
二人、また台所に入って手を洗った。……予め綺麗な手袋をいくつか用意していたら、何度も手を洗わずに済むのかなぁ。

「じゃあ、これ」

洗い終えると、お姉さんが渡して来たのは一つのスプーンだった。でも、普段使うスプーンじゃない。
半球状で、とてつもなく食べづらそう。少なくともこれでアイスは食べたくない。でも何に使うかは、見た目で分かった。
内側に線が入っていて、どれ位の量なのかが分かる様になっている。これがきっと、噂の計量スプーンという物だと思う。
私が握るとお姉さんはフライパンを一つ取り出した。

「今日は三人分だから、そうねえ。全部4杯ずつかな。それじゃ、まず砂糖をその大匙で4杯測って、このフライパンに入れて」

砂糖。少し広めの口の瓶の中へと差し込んで、引き上げる。もの凄い山盛りになってしまって、慌てて揺すって減らして。
頑張って山盛りにならないようにしながら、慎重に運んで行った。私はてっきり砂糖は砂っていう字も付くしサラサラしている物だと思っていたけど、
現実は違うみたいだ。なんだかぎゅっとした塊になっているものが多い。石糖とか岩糖とか言われた方がまだちょっと、しっくりくる。

「次が醤油。で、味醂ね。全部同じ量で良いから」

砂糖に比べれば醤油はとても楽だった。だって、小さい瓶に入れられていたから。問題はみりんだった。瓶が重たい。
零したら大惨事だ。だから、慎重に。そう思って入れようとすると、手が震えて。零れないように零れないように入れていると、思う様に入れられない。
結局、ちょっと少なめの4杯に、最後僅かに入れた5杯目を足すことになった。

「うん……まぁ、適当で良いから。じゃあ次はこっち。お匙はもう良いよ」

手渡されたのはお玉。これ以上何を入れるんだろう。

「こっちのお鍋から……2杯。そのフライパンに移して頂戴。ちょっと位少なくても良いよ」

あぁ、お出汁か。……ちょっと味見してみたい。でも、それは我慢しよう。今度作る時に試してみれば良い。

「良し。じゃあフライパンを少し揺すって混ぜて」

お姉さんの指示に従いながら、持っていたフライパンをぐるぐると回すと、塊みたいになっていた砂糖が段々と細かくなって消えて行った。
最初は白と黒と黄色に染まっていた中身も、私が手を止めた時にはお昼に食べたハンバーグのソースみたいな色に変わってた。とろーんとは、していないけど。

「そしてこれを入れる」

お姉さんは取り分けていた親子丼用のボウルを持つと、持っていたフライパンの上にそれをひっくり返した。
野菜とお肉が三人分入っただけなのに、フライパンの重さはぐんと増えて、思わず私は両手で支えた。

「じゃあ、そこに置いて残りのボウルを持ってこっちにおいで」

……今度は、お味噌汁か。



~~



適当で良いと思うんだけどなぁって、思わず呟いてしまいそうになることが何度あっただろう。
包丁を扱う時は勿論真剣になってくれた方が確かに私は助かるのだけど、お陰で何だか凄い勢いで時間が経ってしまって行っている気がする。
フランドールの調理の様子を姉さんは遠くから笑って見てくれているけれど、目は既にお腹が減っていることを訴えてきていた。

「全部入れて良いよ」

だから手早くやらなくちゃって、そう思って。
この作業はやらなくても問題無いかなって思ったものをどんどん消しながら、真剣な彼女に指示をして行った。

「で、火にかける。……火はこの位で。後は煮立つまでゆっくり」

包丁を扱う時はいくら真剣でも心配だったけれど、もう包丁は使わないし片付けてしまったから、もう怪我の心配は無い……はずだ。
あるとしたら火傷位だけど、そんなことはまずありえないだろう。お昼ご飯で懲りているはずだから。

私の指示の後、フランドールは少し長めの溜息を吐いた。……かなり緊張しているみたいだ。
これからが一番大変なのに、もう疲れが顔に出てた。冬で、火もまだ大して使っていないのに額に汗まで滲んでる。

「ひ、一休みできますか?」
「うん。煮立ったら火を弱くして、少し待ってお味噌入れて。それでお味噌汁は終わりだから」

私がそう声をかけると、とぼとぼと台所を出て、居間に入ってすぐの所でべしゃりと座りこんだ。

「どう?」

と、姉さんが声をかける。

「もっと勉強してくれば良かったって思いました」

そんな声が彼女から返るのを聞きながら、私も火元を眺めつつ台所の壁に背を預けた。

私はいつも姉さんと一緒だったから、例え姉さんに常に料理を任せていたと言っても、ずっと作る所は見ていて。
だから、私にとってはそれが勉強の代わりだった。そう思うと、全く知らない所から作るというのは、覚えることだらけでとても忙しいのだと思う。

地下でずっと過ごしてきていると噂にも聞いていたけれど、一体彼女は普段何をしていたんだろう。
常に妖精の子をいじめていたとしても、朝から晩までということはあり得ないだろう。たぶん、フランドールにだって飽きるということがあるはずだから。
じゃあ逆に……一体何ができたのだろう。お裁縫は、針とか、危ないことに使われるからきっとさせても貰えなかっただろうし、料理だって包丁や火を使う。

もしも私が自分の部屋に閉じ込められて、入り口も満足に使えず、窓も無くなって。
部屋を出るのに使えそうなものを全部奪われてしまったら。私だったら、何をするのかな。
部屋にあるのはベッドに机に……後は着る物しかない。何も、できそうにない。僅かにある本を読む位だろうか。
でも、本なんていつかは必ず終わりが来てしまう。けれど、それでも何度も何度も読み返すしかないのかもしれない。

あの子には、お世話をしてくれる子が居る。噂にだって聞いていた。勿論それは、被害者としてだけど。
きっと食事や着替えを運ぶ役回りだったんだろうなぁ。となると、唯一新しい情報とかを外から持ってきてくれる訳か。
だから、その子に当たってしまっていたんだろうか。一緒に居られる時間を長くするために。逃げられないように。

「私はお風呂の面倒を見てくるわね」

考え込んでいたら姉さんがそう言うのが聞こえ、私は考えていた風景を頭の中から追いだした。
……ちょっとだけ、陰鬱な気分。



「それじゃあお味噌を入れる」

お鍋の中身が煮立って少し経ってから、私は彼女を呼んで調理を再開した。
どうやら姉さんと話している内にかなり疲れが抜けたようだ。呼ぶとすぐに戻ってきて、手を洗ってた。

「肝心な量だけど味噌によっても違うから、味見しながら確かめるのが基本よ」

私の一言一言に首を縦に振る彼女にお味噌と匙を手渡した。
私が初めて作った時には姉さんはどの位の量って全く教えてくれなくて、熱い味噌汁を何度も味見してやっと覚えたんだっけ。
でも彼女は猫舌だし、それは……厳しいだろう。

「でもそうね。この味噌なら目安は4杯かな」
「さっきと同じですね」
「たまたまよ。それにあれは親子丼のだし。……うん。その位で良いよ。かき混ぜて溶かして」

私の言葉に一瞬だけ匙で混ぜそうになって、慌ててお玉に持ち替えてた。
……私だとそのままやってしまう。匙に付いたお味噌がどことなく勿体無いからだ。
姉さんは彼女と同じように持ち替える。だから、いつも私が調理をする時は口酸っぱかった。

「いつもの色になりました」
「今日は無いけど、もしも豆腐を入れるなら、こうやって混ぜた後ね」
「最初に入れないんですか?」
「混ぜている内にぐっちゃぐちゃになっちゃうからね」
「そっか」

初めての時、私はそれでぐちゃぐちゃにしてしまったからね……。

「じゃあそのままもう少し火にかけておいて。それで完成だから。次は親子丼の続きね」
「あの」
「うん?」
「大葉はお味噌汁には入れないのですか?」
「入れても良いんだけど、あれは親子丼用なの。最後に入れるから、まだ居間に置いたままで良いわ」

ちゃんと材料のことは覚えてくれているようだ。……まぁ、味噌汁に入れても良かったんだけどね。
今日は具がかなり少なめだ。覚え切れなくなって貰うのも、包丁を扱う時間が延びるのも困るから。

「じゃあフライパンを火にかけて。火は煮立ちそうになるまでは強めに。そこからは、弱めにするから」

彼女に指示を出しながら、ちらりと窓の外を眺めた。既に月は顔を出し、雲がかかっている。
朝見た時も曇っていたけれど、少し雲が厚くなったように思えた。雪は降らないだろうけれど、雨は降りそうだ。
明日のお洗濯は中止かなぁ。それとも、室内で干すか。

「ご飯、盛ろうか」

棚から出していたしゃもじを手にし、彼女をお釜の前まで呼んだ。
丼は見た事無いんじゃないかと思っていたのだけれど……軽量スプーンとかと違って、目にしても全く驚いた様子が無い。
ひょっとして紅魔館にも丼はあるんだろうか。

「しゃもじはちゃんと水で濡らしておかないと、凄いくっつくからね」

釜の蓋を開けた。もわりと立ち上る湯気。良い匂い。そして熱い。フランドールが思わず一歩下がってた。

「ほら。量は普段食べるより多めね」

……普段どれだけ食べているのかを私は知らないけど。
お釜の内側へと手を突っ込むのは少しつらいらしく、最初はゆっくりやっていた彼女だったけれど、
途中からかなり急ぐようにご飯を盛っていた。今日は元より三人分しか用意していないからそれを均等に分けるだけではあったのだけど、
たぶん館で作る時はここが一番苦労することだろう。人数が増えれば増える程、
均等に分けるというのは難しいから。……たぶん、十六夜さん頼り。

「で、できました」
「じゃあ、親子丼の続きね。もう火は通ってるみたい。だから、お玉持って。で、少しフライパンを傾ける。それでお玉一杯分、汁だけ掬って頂戴」
「お、お味噌汁の方へ移すんですか?」
「違う違う。さっきの丼の方に、均等にね」

小さいお玉なのに両手で支える彼女。混乱していたから、説明して。あたふたする様子を横から見守ってた。
こうして見ていると、椛さんの問いかけが頭の中に蘇ってくる。もしも噂を聞いていなかったら、どうなのか、と。
……私の答えは、変わらない。姉さんが連れて来たのだから、信じると。明日聞かれたって、明後日聞かれたって。来年、聞かれたって。私はそう答えるだろう。
だって、姉さんのことを信じているから。信じ続けて来たから。

怖いと感じるのは、彼女の噂を知っているからだ。彼女だって噂のことは肯定してた。
けれど。でも。本当にこの子がやったんだろうかって、そう思う気持ちも……零じゃない。
姉さんだって、昨日の夜にはそう言ってた。今のこの彼女は、噂と同じとは思えない、と。でも、私は怖いんだ。万が一を考えると、怖くなるんだ。

矛盾、しているんだ。結局私は、姉さんと噂のどっちを信じているんだろう。
姉さんを信じているつもりなのだけれど、考えれば考える程、底なし沼に足を取られた様な気持ちになる。
いけないと思って首を横にぶんぶんと振ると、私が指示した作業を彼女が止めた。

「な、何か不味かったですか」
「う、ううん。ごめん。関係無いから。気にしないで」

どっちも、信じている。……それじゃ、駄目なんだろうか。

彼女がお玉を置いた後、新しいボウルに卵を割って入れて貰った。
初めての割にはとても上手に割っていたけれど、最後の一個は集中力が途切れたのか、
卵のかけらがボウルの中にも飛んでって、頑張って菜箸で拾っていた。

「普通、卵料理ならこれをしっかり混ぜて均一にするんだけど、卵でとじたりする今日みたいな料理なら、そこまで混ぜ切る必要は無いの」
「どうしてですか?」
「うーん。どう説明すれば良いのかな。こういう料理ならそっちの方が美味しいの。慣れてきたら、混ぜ切ったのも作ってみると分かると思う」

とはいえ、彼女は作ったことが無いのだからどれ位混ぜれば良いかなんて分かる訳が無い。
だから、そこは私が代わりになって溶いた。どうすれば混ぜやすいのか、どうすれば零れないのか。
それができる限り見える様に。……彼女は、ずっと真剣な目でボウルの中を見てくれていた。
最後に、居間にあった大葉を彼女に取って来て貰って、混ぜ込んだ。

「これで大丈夫。後はフライパンにこれを全部入れるんだけど、火は弱火ね。卵に火を通すと段々と固まって行くんだけど、
固まりきるまではやらないで、7割位固まってきたら、おたまで具と一緒に丼の上にあげるの。均等にね。準備は良い?」

彼女が首を縦に振るのを確認して、彼女が持ったフライパンへと卵を流し込んで行った。
もともとフライパンの中にあった水分と混ざり、今までとは違う激しい音がして。
彼女は少し驚いていたけれど……楽しいみたいで、ゆっくりフライパンを揺り動かしていた。

彼女がフライパンの番をしている間、私は居間にあった荷物を急いで台所まで引き上げさせて、流しの方へと片付けた。

「こ、これ位ですか」
「うん。それ位で。じゃ、ご飯の上にかけていって」

割と曖昧な指示だったけれど、その指示に従って動いてくれた彼女のその一言の後で、頑張って最後の仕上げをして貰った。
……やっぱりというか、少しだけ偏りができてしまったけれど、初めてなら上々だ。最後にお味噌汁を三人分用意して、また手を洗って。
居間へと出来あがった料理を運び込むと、待ってましたと言わんばかりに姉さんが微笑んだ。

「おつかれさま」
「……有難うございました」

姉さんの一言にフランドールが頭を下げた。疲れたみたいだったけれど、頬は緩んでた。

丼を並べ、箸を並べ。そして、お味噌汁と冷たい水入りのコップを並べ。
三人揃って手を合わせた時には、昨日のお夕飯の時間と同じ位の時間になってしまっていた。



~~



「図書館に居るから、何か大事な用事がある時にはすぐに教えて頂戴」

部屋の外に居たメイドにそう声をかけ、暗い廊下を進む。
窓から見た外は、太陽こそ既に沈んでいるものの、そろそろ雨を降らせようかと言わんばかりの空模様で、
とてもじゃないが風に当たりに外へ行く気にはなれそうにない。……第一、それ以前にとてつもなく眠たくて仕方が無いのだ。
咲夜と別れて以後、ベッドに頭を預けて眠ろうとはしたものの、頭の中に延々とフランの顔とあの姉妹の顔が浮かんでばかりだった。
全く眠れなかったというとそれは嘘になるのだが、これ位しか眠れていなかったのかと思う程、時計の針は進んでいなかった。

胸一杯の深呼吸をすれば、遠くから美味しそうな匂いがした。……夕食の時間の様だ。
正確にはそれが終わった後の時間なのかもしれない。夕食前であればすれ違うメイドの子達がそわそわしているのを見ることができるのだが、
廊下ですれ違う子は皆、どちらかと言えば満ち足りた顔をしていた。

図書館へと辿りついた。まだ夜も始まったばかりであるから、
廊下は妖精の子達が何とか困らずに生活できる程度にしか灯りは用意されていないが、読書をするための場所であるここはそれよりも少し明るい。
本棚の方は……廊下よりも暗く、ギリギリ背表紙の文字が追える程にしかついていないが。寝る時の私の部屋より少し明るい程度だ。

「パチェ。少し、時間を割いて貰いたい」

ここには館の中の他のメイドの子よりもよっぽど優秀なパチェの使いの子が居るからか、
私がいつも読書に使われているテーブルに着く頃には、既に温かなお茶が用意されていた。が、生憎ここに来た目的はパチェに眠らせて貰う為だ。
気遣いは有難いのだが、飲むときっと眠りづらくなってしまうだろう。けれど、用意して貰っていた手前、ひと口に飲み干した。

「眠って無いの?」

私が話しかけるまでずっと本の文字を追っていた彼女が、私の顔を見た後で目を細めてそう言った。
眠り足りないのは事実だが、全く眠っていないという訳でもない。だから、首は横に振って置いた。

「どうにも、浅くてね。だから魔法の力で眠らせて欲しいんだが、時間の都合はつくかい?」
「お安い御用だけど……いつ起きたいの?」
「何も起きないなら朝まで。……何かあったら、ここに来るようにメイドの子に言ってきてしまってね」

だから、簡単に起こせない様になってしまうのはちょっと困る。

「良いわ。部屋に行きましょう」

読みかけの本へと栞を挟み、パチェが大きく伸びをして。

「片付けておいて。それから、私も寝るから。後は自由にして良いわ」

と、横で愉快そうに笑っている子へとそう告げると、本を持ったままパチェ自身の部屋に向かって歩き出した。
私もその後に続いて、図書館の中を進んで行って。あまり入る機会の無い彼女の寝室へと入ったのだった。



~~



「いただきます」

姉さんの声にフランドールの声、そして私の声。少しバラバラではあるけれど、皆がそう言って、ほかほか湯気の丼を手に持った。
ご飯と出汁は私が代わりに用意していたとはいえ、フランドールにとっては初めての料理であるからか、
その言葉の中にすら興奮を隠し切れていない彼女は、言い終わった後もしばらくの間は嬉しそうに丼を眺めてた。
完全に意識が丼に行ってしまっているのか、顔は緩みっぱなしだ。まだひと口食べる所か、料理中に味見だってしていなかったのに満足げで。
……姉さんはと言えば、そんな彼女に最初のひと口目を譲りたいらしく、箸こそ握っているものの、未だ手をつけずに笑ったまま彼女の方を見ていた。

「……食べて、良いんですよね?」

フランドールが箸を手に取り、それから私達を見て。
未だに私達がひと口も食べていないことに気づいたのか、不安そうに言った。

「記念なんだからひと口目、食べてみたら?」

姉さんの言葉にフランドールはごくりと喉を鳴らして。熱々の丼へと視線を戻すと、ひと口摘まみあげ、ふっと息を吹きかけ……そして頬張った。
熱さに眉間に皺を寄せて。でも、すぐに眉尻は落ちて。最後はすっと目尻も落ちた。……どうやら、満足なようだ。

「私達も頂くわね」

その様子を楽しげに見守っていた姉さんもひと口。私も、ひと口。
味噌汁があるから少し大きめに椎茸を刻んで貰ったけれど、予め味噌汁用は味噌汁用に、親子丼用のは親子丼用に切り分けた方が良かったなって、
ちょっと思ったりもした。でも考えていたままの味がちゃんと口いっぱいに広がったから、そこは安心した。
……まあ、材料も調味料も我が家のものだから、当たり前と言えば当たり前のことなのだけど。

「うん。問題無いわね。どうかしら。初めての料理は?」
「帰ったら、お世話をしてくれる子とお姉様に頑張って作ろうと思う」
「きっと喜んでくれるわよ。環境が変わるから練習は必要になるだろうけど、良い経験になると思うわ」

姉さんが彼女に向かってかけた声に、頬を緩めたまま空中をぽーっと見つめていた彼女は私達の方を見て笑い、穏やかな声で返した。
具の少ない味噌汁を飲みながら、何となしにレミリアが食べている姿を想像してみる。
……丼を手に持ってかきこんでいる所は想像しきれなかったけれど、何となく笑って食べてそうだ。……妹の彼女がそうやって食べるのだから。



それ以降、食事の間で喋ることは無かった。フランドールが完全に夢見心地になっていたから、
声をかけるのがあまりにも無粋なことなんじゃないかと思った結果だけれど……余程、嬉しかったらしい。
食べ終わった後でさえ、しばらくの間は丼を手に持っていた。

「私と穣子でお夕飯の片づけはやっておくわ。お風呂、もう少しで準備できるから、是非最初に入って頂戴な」

楽しげに見ていた姉さんが、食器を纏めながらそう言った。
フランドールは慌てて持っていた丼も運びやすい様に重ね直し、首を横に振った。

「わ、私は最後でも」
「貴女は客人なんだから」

けれど姉さんは笑顔で一蹴し、それからちらりと私を見た。……目が何かを訴えている。何か話したいことがあるのだろうか。
だから私もとりあえずとばかりに深く頷くと、少し迷ってはいたけれど、彼女も一度頷いて、頭を垂れた。

「それではお先に頂きます」
「……ああ、そうだ。最初だから底の方がとても冷えてるのよ。だから、混ぜて貰う必要があるんだけど……熱かったらお水を足して頂戴ね」

廊下の方へと向かって行く彼女に姉さんがそう付け足した。
……何となくだけど、私達が入る頃には相当温くなっている気がする。椛さんを過去に招いてお泊まり会をした時は、そうなったから。



フランドールがお風呂場へと消えた後、私と姉さんで台所の片付けを始めた。

「貴女も、疲れてるなら……休んで良いのよ?」
「だから、大丈夫だって」

彼女が居なくなった途端に妙に心配そうな声を姉さんは漏らした。私は、大丈夫だ。
というか、慣れてしまっているんだ。昔はあの日のことを思い出す度にずっと塞ぎこんでしまっていたけれど、
今は……少し経てば、ある程度は気分も落ちつくのだ。いつまで経っても慣れないのは、むしろ姉さんの方で。

「そんなに気にしないでよ」
「う、うん。……いや、でも」
「良いの。大丈夫だから」

私がそう言うと、肩を落としてお皿を洗いはじめた。強く言うのは気が引けるのだが、姉さんは一度始まると結構長いんだ。
たぶん、今夜寝る時だって。気にしないでと幾ら伝えたって、気にするんだって。分かってはいるんだけど。
……私の行動の一つ一つが重りになっているんじゃないかって思うと、私自身気がとても重くなってしまうから。

片付けが終わった後は、朝食の味噌汁用の出汁の準備をして。それから居間で二人、お茶を飲み始めた。
舌は熱いのが苦手だった割に体の方は熱くても大丈夫だったのか、最初は少し慌ただしい音が聞こえていたお風呂の方も、もうすっかり静かになっている。
姉さんはぼーっと時計を眺めて……会話も無く、ただコチコチという時計の音だけが響いてきていた。

「……お姉ちゃん」

日頃だったら黙り込むことの少ない姉さんだから、居た堪れなくなって呼んでみた。
すると笑顔をぱっと取り戻してこちらに振り向いたけれど……呼んだだけだと分かると少し気まずそうな顔をして。

「ごめんね、つい」

と。私が何を考えているのかは伝わっているらしく、そう小さく呟いた。

「……何か話したいこと、あったんじゃないの?」

ふと、フランドールにお風呂を勧めた時のことを思い出して、そう尋ねた。
そうすると姉さんは私の方へと向き直って、ちゃぶ台に少し体を預けながら言った。

「貴女の中で彼女の評価はちゃんと変わってるのかなって思って。貴女、料理の感想も言わなかったから」

確かに言ってない。思い通りの味がそのままできていたから、気にして居なかった。

「料理は問題無いよ。でも、だから彼女がどうっていうのは、違うと思うんだけど」
「私はここに居たから見えなかったけれど、貴女の目からは色んな物が見えていたと思うの」
「うん」

それは、その通りだ。
元々料理をする前から抱いていた、頑張ろうって気持ちだってそう。
料理をしている時の、真剣なまなざしもそう。
出来あがった時、食べた時。そして食べ終わった時の、満足そうな顔だってそう。
全部、確かに私は見てる。でも。私は、言ったはずなんだ。

「それでも、一日二日でできる気構えじゃないよ」

私の中の色んな気持ちが色んなところで矛盾してるのは分かってるんだ。でも、それでも。
仕方ないという言葉で許してはいけない程のことなのかな。
だって、態度で示して変わるのなら。口で言って、変わるのなら。

私が毎度、大丈夫だと伝えているはずの姉さんは……。



~~



お風呂場に入って最初に思ったのは、広いなってことだった。
穣子お姉さんに案内された所の一つではあるのだけれど、あの時は気が気じゃなくて、あまり見ていなかった。
勿論、妖精の子達が使っているお風呂場に比べるととても小さいのだろうけれど、私がいつも使っているのに比べれば……とっても、のんびりしている。
本当に私が独りで使っても良いのかなって、そう思ってしまった位だ。

でも。お風呂場がのんびりとはしていても、決して油断はできない。
何故かって、お湯がとっても、とっても……とってもとっても熱いのだ。尋常じゃない位に熱い。
とてつもない量のお茶でも淹れるのかと思う位に熱い。さっき、確かめる為に一瞬だけお湯の中に手を入れたのだけれど、未だに手が真っ赤だ。
底の方が冷えているから混ぜてと言われたけれど、そこまで混ぜるとなると少なくとも肘まではお湯につけないと無理だ。

我慢か、水を足すか。選択肢は二つしか無い。でも、できるなら水を足すなんてことはしたくない。
たぶん、足した後で混ぜるとなると、温くなってしまうからだ。このお風呂は元々お姉さん達が用意してくれたもの。
きっと、この状態で混ぜてできる温度がお姉さん達の好みの温度なのだと思うから。だから、それは害したくない。

悩みに悩んで、我慢しようと心に決めた。でも、できるならちょっとだけでも楽をしたくて。
そう思って、私は洗面器に冷たい水を汲んだのだった。勿論、足す為じゃない。腕を冷やす為にだ。
予め冷やしておけば感覚も少しは鈍くなるはずだから、きっと僅かな時間は耐えられるはず。
その僅かな時間にいかに底の冷たい水を引き上げられるかが勝負だ。

「ふぅ」

一度、深呼吸をして。それから冷やしていた腕を引き抜いた。冷えにじんじんとしていた腕にふわっと一瞬熱さを覚えた。
急いで洗面器の中の水を捨てて、思い切り浴槽の中へと洗面器ごと腕を差し込んだ。……何とか耐えられる。と、そう思っていられたのはほんの短い間だけだった。
混ぜようと思って腕をお湯の中で動かしたら、途端に腕に火でも付いたんじゃないかって位に熱さを感じた。
でも、また腕を出して冷やして再挑戦する勇気は私には無くて。必死に何も考えないようにしながら、底の冷たい水を汲みあげて行ったのだった。

ぐるぐると、ぐるぐると。二の腕から先しかお湯に浸かっていないのに、額に汗をかいた。
でも、段々と耐えきれない温度では無くなって来ていて。しばらくずっとかき混ぜていた。

最初はとても冷たかった底の方も、水面近くも。どっちもそれほど温度が変わらなくなった所で腕を引き抜いた。
赤かった腕がもっともっと赤くなってて、両腕を前に出してみると誰が見ても分かる位には赤く、じんじんしてた。
そのまま両腕をお湯に差し込んでみると、使っていなかった手だけが熱く感じた。……慣れって凄い。
たぶんこれを毎日繰り返して行くと、冷やさなくても問題ないんだろうなぁ。

ホッとした気分になりながら、洗面器でお湯をすくって。
冷えっぱなしだった体に少しずつ、気をつけながらかけて行った。
冷え切った背中にかけた時は思わず飛び上がりそうになったけど……疲れもあったからか、慣れると妙に心地が良かった。

体を洗い終えて浴槽に体を沈めた時には、もうへとへとだった。
けれど、浴槽はとても大きくて、そんな私を包みこんでくれているようで。足を伸ばして首を縁へとのせてみても、普段と違い首が痛くなったりしない。
この位の大きさのお風呂だったら、お伴の子と一緒になって入っても、お互いに今よりはよっぽどゆったりできるだろう。



とても静かだった。普段なら、浴槽に浸かってじっとしていても、上の階の音が僅かに聞こえてきていた。
それに比べて……ここは、本当に静かだ。たまに外の風の音とかは聞こえるけれど、
このまま何時間も居ると、独りだということすら分からなくなってしまいそう。

「そうだ。のぼせる前に出なきゃ」

そんな事を考えながらぼーっと見上げていた天井。ふと、いつも一緒のあの子の顔が浮かんで、この前のぼせたことを思い出して。
慌てて見返した自分の体は、既にどこを見てもピンク色に染まっていた。……ちょっと、手遅れかもしれない。
浴槽の縁に手を突いて立ち上がると少しめまいがした。でも、この前の時よりはマシだ。まだ、自分の足で立てるから。
浴室を出ると、冷えた空気が体をさっと包んで、思わず身震いした。私は近くにあったタオルを慌てて一枚引っ張り出すと、
そのまま浴室に戻って、体を急いで拭いたのだった。

とても、静かだった。拭き終わって服に袖を通し始めた時、家の中に誰も良無いんじゃないかって思った位。
私はてっきり、穣子お姉さんと静葉お姉さんが色々お話してるんじゃないかなって思ってたんだけど。
ひょっとしたら二人とも、もうお部屋の方に行ってしまったんだろうか。

「お風呂、有難うございました」

居間へと戻ると、静葉お姉さんが居た。声を聞いた静葉お姉さんが私の方へと振り返って笑った。
どうやら、穣子お姉さんは居ないみたいだ。たぶん、お部屋に居るのだろう。

「どういたしまして。……顔、真っ赤ね。我慢せずに水を足して良かったのに」
「い、いえ。気持ち良かったですから」

少しフラフラだったけれど、静葉お姉さんの反対側へとゆっくり腰を下ろすと、入れ替わる様にお姉さんは立ち上がり、台所の方へと駆けて行った。
……どうやら、お水を汲んで貰えたようだ。確かに、今はちょっと欲しい。とても喉が渇いていたから。

「はい」
「有難うございます」

うん。……冷たい。さっきまでとても熱いお湯と格闘していたせいだろうか、まるで氷みたいに感じてしまう。
ちょっとだけ感覚がおかしくなってしまっているみたいだ。

「穣子お姉さんは、お休みになられたんですか?」
「え……えっとね。ちょっと、私が怒らせちゃって。今はお部屋に居るの」

私が入っている間に何かあったのか。

「貴女のせいじゃないから大丈夫よ」
「力にはなれそうですか?」
「今回のは……私自身の問題だとおもうから。だから私が頑張らないといけないことなんだと思う。
でも、そうやってずっと引きずってるから、いけないのかも……ね。いつも、考え出すと気が気じゃなくて」

すっかり綺麗にされた台に体を預け、肘をついて重たそうに頭を抱えたお姉さんはそう言って溜息を吐いて。
どうにかできないかなって思うけれど、頭の中にはお昼に聞いたお姉さんの言葉が残ってた。
そっとしておいて欲しい、と。確かに言われたんだ。でも、静葉お姉さんからは、二人の間の壁を壊して欲しいと。

私は、穣子お姉さんのお願いも、静葉お姉さんのお願いも。どっちも、守りたい。
どうしたらそれが叶うのかなって。ぼーっと、お姉様の顔を思い浮かべながら考えてた。



~~



うっかり、口を滑らせてしまった。
やっと、フランドールの傍から解放されたって思って、気を抜いてしまった。

『お姉ちゃんだって変わってないじゃない』

って。そう、言ってしまった。……凄い顔してた。まるで、不味い言葉を言ってしまった時の自分自身の顔を見ている様で。
私は、思わず居間から逃げ出した。胸に手を当てると、まだ心臓がうるさく鳴っている。

「馬鹿」

胸に抱きこんでいた枕に、思わず呟いた。半分は自分へ。半分は、姉さんへ。お互いに何が不味い言葉なのか、気付いているはずなのに。
知っているはずなのに。なんで、私は言ってしまうの。こんなことじゃ、いつかまた同じ過ちを繰り返してしまう。
また、姉さんを泣かせることになってしまう。……ああ、もう。

「……馬鹿」

本当に、そう思えて仕方なくて。焦りばかりがこみ上げて行った。



自分へのいら立ちが、ようやく溜息に置き換わった頃。また部屋にノックの音が響いた。……フランドールだ。姉さん、また何か言ったのか。

「静葉お姉さんが、お風呂を先にどうぞ……だそうです」

ノックした音も、発した声も。どっちも遠慮がちで……そして、落ち込んだ声だった。

「うん。分かった」

私が返事をすると、彼女はすぐにドアから離れて行った。けれど、居間の方へと戻る様子は無く、すぐ隣の姉さんの部屋へと入って行った。
姉さんの部屋の方から、蝶つがいの音とドアの閉まる音が聞こえてしまった後で、ベッドから起き上がり着替えを引っ張りだして。
溜息と共にお風呂場へと向かうと、部屋の方へと向かおうとしていた姉さんと廊下でばったり鉢合わせた。

「さっきは、ごめんね」

そんな姉さんの声が、私の言葉よりも一歩先に出て。私は、出しかけていた言葉を飲みこんだ。……言ったのは、私なんだ。

「……だから、気にしないで」

もやもやとする胸と頭の中。私は姉さんにそう返し、何も考えないようにしながら横を通り過ぎ洗面所へと逃げ込んだ。
すぐに入り口を閉め、衣服を脱いで。言葉で背中から追われてしまう前に、浴室の中へと飛び込んで。

『何をやってるんだろう』

抱え込んだ頭の中で、自分の声が何度も何度も繰り返される。何って……自分でも分かってる。
とても馬鹿げたことをしているんだ。いっそ、怒ってくれればどんなに楽なことだろう。
いつもいつも、ああいう時に限って姉さんが見せる顔は、寂しげで、切なくて。

思い出した顔をかき消す為に、洗面器を取ってお湯を思い切り被った。冷えた体には相変わらず熱すぎると思うけれど、今の自分には丁度良い。
何も、考えたくない。少なくとも、お風呂を出るまでには忘れて……少しでも明るい顔をしておかないと、姉さんがまたつらい顔をするだろうから。
私が、それをさせる羽目になってしまうから。悪い意味で、姉さんとのそんなやり取りに慣れてしまった自分が、どこか恨めしい。

体を洗って湯船へと体を落とし、首の付け根までお湯に浸かって。とびきり大きい溜息を吐けば、水面がぶるぶると震え、
代わりとばかりに温かく湿った空気が体の中を満たして行く。目を閉じて息も止めれば……どうやら、雨が降り始めたらしい。
地面や家の周囲の木々を叩く水の音が、お風呂場の窓から聞こえてきていた。

『そっとしておいて欲しい』

私がフランドールにかけた言葉。本当に、そうだろうか。私は、何とかしたいんだ。こんな姉さんとの関係は。
嫌なのは、姉さんのつらそうな顔を見ること。そして、これ以上関係がこじれること。本当は誰かに助けて貰いたいんじゃないか。
例えば、椛さんとかに。……いや、椛さんからはもう十分すぎる程手は借して貰ったのだ。

もしも。フランドールに、あんなことを言う代わりに手助けして欲しいとお願いをしていたのなら、彼女は引き受けたのだろうか。
それは、何となくだけど。想像することができた。たぶん、きっと。引き受けてはくれたと思うんだ。
その過程でどんな無茶なことをしてしまうかとか、そういうことは別にして……怖いけれど、全く信じられない訳でもないんだ。
ひょっとしたら、一生懸命に手助けしてくれようとするんじゃないかって。
短い間だけれどずっと傍に居た彼女を見ていたら、根拠は……無いのだけれど、何となく、そう思えてしまうんだ。

でも。
それでも。

やっぱり、私には怖いんだ。



~~



穣子お姉さんがお風呂を浴びに向かう為に部屋を後にしてすぐ、静葉お姉さんはやってきた。
……やって来た時から、お姉さんはずっと落ち込んでいた。さっきから部屋のベッドにまるで置物の様にもたれかかったまま、動かない。

「これ以上、嫌われたくない」
「嫌ったりはしてないと思います」

出てくる言葉も、会ってすぐ見せてくれていた明るさとはとてもかけ離れた言葉ばかりだ。とても、後ろ向きで。
どことなく……本当はあまり深くも覚えていないのだけれど、昔の自分を見ている様な気持ちだった。
だから何か、手助けしなければと思う気持ちは胸一杯にあるのだけれど、
何もできないことに屈して悪いことばかり繰り返して来た私だから、お姉さんを持ち上げることも慰めることも上手くできないで居た。

私は、お姉さん達を見ていて分かったことがある。一つは、お互いがお互いのことをとても大事に思ってることだ。
見ていると、羨ましさを感じてしまう。でも、だからこそ、お姉様の昔抱いていた気持ちについて改めて考えられる様になった気がする。
たぶんだけれど、きっと今頃も私のことを心配してくれているんだろうな。……いや、それはずっと昔から、か。

二つ目は、ずれていること。……気持ちって、言えば良いのかな。
お姉さん達は、お互いに話をする時はお互いに顔を見ているし、笑いあっている。会話が破たんしている訳でもない。
でも。何か違うんだ。その何かというのが、静葉お姉さん自身が言っていた壁という物の正体なのだろうけれど……私は、
お互いがお互いに真っ直ぐ見ていない様な気がしてる。体は向かい合っていても、心はお互いにどこか少しそっぽを向いているというか。

最後の一つは、静葉お姉さんのこと。朝に椛さんのお話の中にもあったけれど、確かに私に対して穣子お姉さんは臆病だ。
一方の静葉お姉さんが私に対してまるで動じないから、椛お姉さんは穣子お姉さんのことばかりを言っていたけれど、
ただ単に、それは静葉お姉さんがたまたま私をそこまで怖がらなかったというだけの話で……本当の所は、
より臆病なのは、静葉お姉さんなんじゃないかって思うんだ。

一人ぼっちになるのが怖いと言っていた。いつか、置いて行かれるんじゃないかって怖がっていた。
たぶん、穣子お姉さんが私を怖がる以上に、静葉お姉さんは穣子お姉さんと離れてしまうことを怖がっている。
きっと、私のことだって本当は怖くない訳じゃないんだ。でもそれは静葉お姉さんにとって重要じゃないだけで。
静葉お姉さんにとって重要なことはただ一つ、穣子お姉さん自身のこと……それだけなんだって。

「静葉お姉さん」
「うん」
「穣子お姉さんは、お姉さんを嫌いになることは無いですよ」
「どうして、そう言いきれるの?」

腕に預けていた顔を少しだけあげて、静葉お姉さんが返した。

「お姉さんは、穣子お姉さんが嫌いですか?」
「ううん。そんな訳ないわ。穣子は大事な、ずっと一緒に居た……私の妹だもん」
「それは、穣子お姉さんだって同じなはずですから。心の方ではどこかすれ違うことがあっても、
いつもお互いのことをずっと見て過ごして来たのは確かだと思うから。だから、それは信じても良いことだと思う」
「でも、怖いの。本当にそうかなって。小さなことでも疑い始めてしまったら、止めることができなくて」

ふと、一つ気になった。

「昔、穣子お姉さんとお話しできなくなった時にお手紙を書いたってお話でしたけど、手紙以外ではあの日のこと、ちゃんとお話したんですか?」
「ううん。怖くて聞くことができなかった。手紙のことも、あの日のこともね。ただ……ただね?」

お姉さんがゆっくりと体を持ち上げて、膝立ちになってテーブルの所まで歩いてきて。
泣きだしそうな目を抑え、途切れそうになりそうな声を何とか絞りながら続けた。

「あの子はずっと、大丈夫って言ってくれる。気にしないでって言ってくれる。
それが、堪らなくね、つらいの。……分かってるんだ。あの手紙、上手く行かなかったって」
「それでも、お互いにまたお話ができるようになったのは事実なんじゃないですか」

私の言葉にお姉さんは首を縦に振った。
手紙の陰で、椛さんとか色んな人の助力がきっとあったのだろうけれど、決してそれだけじゃないはずなんだ。
根幹にあるのは、穣子お姉さんも静葉お姉さんも、そのどっちもが持ってる、お互いへの気持ちのはずだから。

手紙のこと、穣子お姉さんに確かめた方が良いのかな。
思い出したくないから触れないでって言われたけれど、その手紙の頃からお互いの関係がずれ始めたのは何となく分かったから。
後は、どうやって切り出したら……。

「やっぱり、羨ましいわ」

ふと、静葉お姉さんが言った。
何だろうって思って、慌ててここしばらくのことを思い返して。行きついたのは、可愛いって言われたことがないこと……位しか。

「貴女達、姉妹のこと」

私の様子を見て、静葉お姉さんがそう付け足して、ちらりと時計へ目を走らせた。

「うん。ちょっと、元気出てきた。ありがとう。私はそろそろ穣子の部屋に戻るわ。もし何かあったら、遠慮なく部屋に来て頂戴。……おやすみ」

私とお姉様のこと?
と、そう思っていたら、お姉さんはそのまま立ち上がり部屋を出て行ってしまって。
一人ぽつんと取り残された部屋の中で、天井を見上げて考えた。私からすれば、お姉さん達が羨ましいんだ。
すれ違う所はあっても、姉妹同士の繋がりを感じることができるから。
勿論それは私とお姉様の間にだって無い訳じゃないけれど、よっぽど強く繋がっている様に私には思えるから。

どうやら、風向きが変わったみたいだ。降っていた雨が窓に当たり音を立てている。
思えば、久しぶりの雨だ。雪じゃないということは、ひょっとしたら昨日よりは温かい夜になるかもしれない。
そう思いながら窓辺へと立って、閉じられていたカーテンを開いてみた。……真っ暗だ。
流石に月が出ていないと、映るのは部屋の光のお陰で反射して見える自分の顔位で。私はそんな薄く曇った窓ガラス越しの自分をずっと眺めてた。
室内の温度のお陰でかなり白っぽくなっていて、顔の細かな部分は分からない。

眺めることしばらくして、ふと、窓ガラスに変な模様があることに気づいた。
指でなぞった様な落書きの痕らしく、人差し指の太さ位の曲線がうっすらと浮かび残っていた。
何度も何度も、この窓ガラスに落書きをする機会があったんだろうか。

線と線が繋がろうとしている場所はちょっと分かりづらかったけれど、そうでない部分は線で追いやすくて、何となく、なぞってみたんだ。
簡単な線は真ん中から下の方と、一番上の方に多かった。どうやら上半身が描いてあるみたいだ。
胸から上辺りの服の様子と、顔の輪郭の様な物が浮かび上がったから。
一度人の形だと分かると、分からなかった線も何となく予想ができてきて、少しずつ残りの線も繋いで行った。

顔の輪郭に、上半身。頭に、首に、顎。
服の形からすると、穣子お姉さんが着ていた服にとってもそっくりだったから、この落書きの絵の正体は穣子お姉さんを描いたものなんだと思う。
鼻は描いて無かったけれど、それぞれ一本の線だけで描かれた目と口は、笑った顔を表していた。
私のお部屋には窓が無いから、こういう遊びができるというのはちょっと羨ましい。
館だと窓ふきも掃除でやることになるから、妖精の子達でもたぶんこういうことはあまりできないんだろうなぁ。
……そもそも、最後に私が絵を描いたのはいつのことだっけ。

持ちこんでいた鞄を開いて、中からノートを取り出した。
日記を書く習慣も無ければお絵かきをする習慣も無い私に、お付きの子が持たせてくれた。
あの子のお下がりで、既に半分位は使われた後の物だ。元々はメモ帳として使っていたみたいだけれど、
そんなメモとメモの間に混じる様に、お絵かきの跡なんかも残っていたりする。私よりもずっと上手だ。

ページを一枚一枚捲り、何も書かれていないページを探しだし、今日のお夕飯のメニューを一番上に書きこんで。
覚えている内にと、親子丼と味噌汁の作り方を書いて行った。順序は忘れる気がしないのだけれど、分量だけは分からなくなってしまうのは困るから。
まだ、正確なお水の量とか、ご飯の炊き方とか、出汁の作り方とか。そういうのは分からないままだけれど。

材料をまとめ、作り方を書き始めた頃、指がじんと痛くなった。
文字を書くのも久しぶりだからか、指に変な力が入ってしまっていたみたいだ。
でも、力を抜いて書くと上手く書ける気がしない。……もう既にへにゃっとした変な文字なんだもん。

書かなきゃって思うことをずっと書いていると、一枚では収まらずに二枚目へと割り込んだ。
でも、元々一枚にまとめるつもりで書いていたから、書き終わった時には8割位空白ができてしまって。
そうだ、絵を描こうって。そう思ったんだけど、手持ちにあるのは黒の一色だけ。それに、上手く描く自信は無い。
材料は描けるかもしれないけれど、親子丼をどう描けばいいのか分からないから。
だから、私はさっき窓でなぞった穣子お姉さんの絵を余った所に描いたのだった。
それでもまだ余白ができたから、頑張って静葉お姉さんも描いてみたりして……。

やっと描き終えてノートを閉じた時には、少しだけ風向きが変わったのか、雨の音は少しだけ収まっていた。
恐らく、この様子だと明日も雨なのだろう。太陽も隠れる位の雲がもしも残っていたら、朝の景色を見ることができるだろうか。
鳥の声は今日と違って聞こえないかもしれないけれど、きっと昨日の夜とは違った景色が見えるんだろうなぁ。
文さんという方のことを考えると、残念ながら私には出歩くことができないけれど、いつかは傘を手にこの雨の中もお伴の子と一緒に歩けたらなって思う。
その願いが叶うのが、どれだけ先のことなのか。それは、私には見当がつかないけれど。

そろそろ寝ようと思って、部屋の灯りを消した。
ずっとカーテンを開きっぱなしだったことを思い出し窓へと歩けば、先程まで笑い顔だったはずの穣子お姉さんの目に大きな涙が溜まっていて。
見ている内にぽろり、と、零れて行った。……今頃、穣子お姉さんは何をしているだろうか。



~~



ぽたぽたと、私の体を伝って落ちた水滴が湯面に小さな波を作る。
時計程正確ではないけれど、規則的にできあがるその波を見ながらぼーっと考えていたのは、お風呂から出た後のことだ。
私は、姉さんに何て言えば良いんだろう。私は身勝手な言葉を返しただけで、そもそも姉さんに謝ってすらいないんだ。

気にしないで。……何度、この言葉を姉さんにかけたんだろう。
両手の指の数じゃ足りない位は既に言ったんだ。でも、姉さんは気にする。気にしてしまう。

『だって、お姉ちゃんだもん』

って。そう言ってたっけ。勿論嬉しかった。そして、つらかった。
あの問題は、私が抱え込もうと思えば抱え込めるはずなのだ。ずっと、蓋をしていられるはずなのだ。
姉さんの肩に荷を背負わせなくても過ごせるはずなのだ、と……そう、思っていた所もあるから。
でも、実際はどうだろう。私はいつも、抱え込み切れずに思い出しては塞ぎこんでいた。

「はぁ」

風向きが変わったらしく、窓に打ちつけていた雨の音は少し遠のいて、お陰で自分の吐いた溜息の音が浴室の中でうるさく響いた。
たぶん、ずっと吐いていたのだろうけれど、今更抑えたり数えたりする気にはならない。今頃、姉さんはどうしているだろうか。
それ自体は、何となく分かっている。ずっと傍で見て来たからだ。姉さんは今頃、悪いことを何もしていないのに落ち込んでいる。
ベッドの中で、壁を向いて、枕を抱いて。まるで置物の様にじっとして、思い出したように溜息を吐いて。しょんぼりとした目をして。
気にしないでって、そんな姉さんの背中を見る度にそう言ってきた。それ以外の言葉を、当時の私は思いつかなかったから。今だって、そう。

浴槽の縁に手をついて立ち上がった。あまり長居はしていられないんだ。
長風呂をすればする程に、変な気負いをして姉さんは落ち込むし、何よりこのお風呂に次に入るのが姉さんだからだ。
既に少しお湯も冷め始めている。風邪を引くには程遠い温度だけれど、熱めのお湯の方が姉さんは好きだから……早めに譲っておきたい。

浴室から出て髪の毛を拭きながら、洗面台の鏡を眺めた。今は鏡を通してほぼ全身を見ることができるけれど、
ずっと昔はこの鏡越しに見えていたのは自分の顔だけだった。……正確には、自分の顔と姉さんか。あの頃は姉さんが髪の毛を拭いてくれていたから。
櫛を通すのも、髪を切って整えるのも。全部、姉さんにして貰っていたんだ。そっか。昔はそもそも、一緒に入ってたんだっけ。
私が少し大きくなって、二人揃って入るのが無理になってからは、別々に入る様になったけれど。



「お風呂、空いたよ」

自分の部屋に戻ると、姉さんは窓から外を眺めていた。
すぐに振り向いて笑い、頷いて。それから着替えを纏めて出て行こうとして、私は慌てて姉さんを呼びとめた。

「さっきは、ごめんね」

この言葉も、何度言ったんだろう。

「ううん。穣子の言ったこと、間違ってないと思うから」

この言葉も、何度貰ったんだろう。

「そういう意味じゃないんだけど」
「良いの。私が気に障ること、言っちゃったんだから」

姉さんはただ、首を振って。それからすぐに部屋を出て行った。まともに謝ることも私はできないのかって思ったら、居た堪れなくて。
部屋を出て行った姉さんを追って、廊下で姉さんの肩を捕まえた。……普段、こんなことしないからか、少し怯える様に姉さんが私を見た。

「あれは私が悪いの。お姉ちゃんじゃない。だから」

気にしないで。……またそう言いかけて、言葉を呑みこんだ。

「……だから」

でも、替えの言葉をやっぱり私は持ってない。

「良いの」
「良くない。だから……気にしないで」
「……お湯、貰ってくるわね」

捕まえていた手を姉さんは両手で優しく包んで、ただただ笑って。
……そのまま、行ってしまった。手をまた伸ばそうかとも思ったけれど、もう、言葉が浮かばなくて。
一人、部屋に戻った。カーテンが開きっぱなしで、部屋の灯りに反射して自分の姿が映ってた。
近づいて、外を眺める。雲はとても厚いみたい。この様子だときっと明日も雨だろう。

ふと、窓ガラスを見てみると、さっきまで落書きでもしていたのだろうか、何か描いていた様子が残っているけれど、
その上を荒っぽくぐしゃぐしゃに消してあって……私には何が描いてあるのか、分からなかった。
カーテンを閉じて、部屋の灯りを消して。それからベッドへと入った。やっぱり、先程まで姉さんが使っていたのだろう。
まだ少しだけ、温もりが残っている。枕にも残っているから、きっと抱きこんでいたんだろうなってすぐに分かった。
私も、そんな姉さんに倣って胸元に抱いて寝っ転がって。じっと壁を見つめながら……溜息を吐いた。



お風呂から出た姉さんが部屋に戻ってきたのは、私の髪の毛もすっかりと冷めきった頃だった。
横になっている内にうとうととしてしまい、どれ程時間が経ってしまっていたのか分からないけれど、
お風呂を出てずっとベッドの中に居たから、たぶん明日の朝、髪の毛がとんでもないことになってしまっているだろう。
けど、そんなのは……どうでも良い。櫛でいくらでも直せるから。

「もう寝ちゃった?」

心配しなきゃいけないのは、姉さんのことの方だった。……私は、姉さんに背を向けたまま動かず、そのまま寝たふりをしていた。
だって、何を話せばいいのか分からない。本当は、謝りきれずに心の中に漂ったままのもやもやとした気持ちをどこかにやってしまいたいけれど、
今またごめんと切り出したとしても、さっきの様になってしまう気がするから。
たぶん、逃げられはしないけれど、はぐらかされて、姉さんが悪い様な雰囲気になって……それは、嫌。

姉さんはそれっきり何も言わなかった。ただ、部屋に持ちこんだらしいタオルで髪の毛を拭いている音だけは聞こえていた。
私の机にお尻を載せているらしく、ぽたりぽたりと姉さんの髪の毛から垂れたらしい水の音が、その辺りから聞こえてきている。
どうやら、あまり拭かない内に部屋に来たようだ。ぼーっとしばらくその音を聞いていたけれど、どうやらタオルを洗面所まで置きに行くつもりは無いらしい。
水気を含み重たくなったタオルを机の上へと置く音がして、それから姉さんは静かに歩いてきた。そこで、ふと気付く。私、ベッドのど真ん中で寝てる。
……でも、姉さんは何も言わなかった。何もしなかった。急に居なくなったんじゃないかって位静かになったけれど、僅かにベッドが揺れる感触はあった。
真剣に耳を澄ませると、割と近くに呼吸の音もある。ただ、毛布を引っ張られた感覚だけは全く無いから、たぶんベッドに入れてはいないんだ。

それきり、どれだけ待ってもまた言葉をかけてくれることは無くて。気まずくなって、寝返りを打って振り向いた。
姉さんは床へと座り、ベッドにもたれかかっていて、腕を枕にじっとしてた。濡れた髪の毛は見えるけれど、ここからだと顔は見えない。
私がとん、と肩に手を置くと、姉さんは私の手に自身の手を重ね、顔を持ち上げた。

「風邪、引くよ?」

私の声に、ただ……笑って。もぞもぞと動き始めた姉さんと一緒に、私もベッドの端の方へと寄った。
端っこはとても冷えてたけれど、お風呂あがりの姉さんが居るのだから、きっとすぐに温かくなるだろうと、そう思ってまた目を閉じた。
けれど、背中に抱きついてきた昨日の夜とは違って、今日の姉さんはただくっつくだけで。何も……言ってくれない。

「お姉ちゃん」
「うん?」
「……おやすみ」
「……うん。おやすみ」

何か、不味いということは分かっていても、良い言葉は胸の中に残って無かった。



~~



とっても小さい音だったけれど、ドアの閉まる音が確かに聞こえたから、静葉お姉さんはお風呂から上がった様だ。
ひょっとしたらあのまま思いつめて、お風呂から出た後も居間でじっとしていたりするんじゃないかって心配だったけれど、
たぶん気分も持ち直して来たのだろう。……音が小さかったってことは、たぶん穣子お姉さんはもうお休みになったんだろうな。

静葉お姉さんは、これからどうするのかな。私はもう、あの時のことをちゃんと話した方が良いって思ってる。
お互いの誤解とか、思い違いとか。お互いに何が心配で、何が怖くて。どうなりたいのか、どうしたいのか。
そういうことを、ちゃんと話した方が良いと思うんだ。とりあえず、今のままは良くないんだ。
だって、お互いに無理をしてる。無理な意地でお互いが妥協して、少しずつ少しずつ……悪化している。
もしいつか、私とお付きのあの子みたいに、何気ない一言でお互いのことを疑ってしまったら。たぶん、次はもっともっと悪化してしまう。
第一、私とあの子が喧嘩した時、あの時は私達は2人だけじゃ無かった。とても近い所に咲夜が居た。ご飯を運ぶ時間になる度にお世話になってた。

お姉さん達には椛さんが居る。本当は、他にも親しい人が沢山居るんだろう。けれど、毎日会っている訳じゃない。椛さんだってたまに寄る位らしいし。
だから、今度もしも何か悪いことが起きてしまった時、前の時の様に椛さんが駆けつけてくれるとは限らないんだ。

「何とかしなくちゃ」

そう思いながら、ぐるぐると回る頭の中で何かできないかと考える。
けれど、考えようとすればする度に頭の中に言葉が蘇る。

『そっとしておいて欲しい』

そんな、穣子お姉さんの言葉。この一言が、とてもとても重たい。何もしないまま何かを変えるなんて、そんなの無理だ。
私は神様じゃない。……神様はお姉さん達の方だ。私は、吸血鬼だもの。

ベッドに体を横たえて、天井を見上げた。昨日はカーテンの隙間から月明かりがふんわりと入っていたけれど、流石に雨だとかなり暗い。
完全に真っ暗とはなっていないけれど……どこか、独りで自分の部屋に居た頃の様で懐かしく感じる。
お世話をしてくれるあの子は今頃、何をしてるんだろう。一人で自分の部屋で眠っているのかな。
それとも、お友達のお部屋にお邪魔して一緒に眠ってるだろうか。ひょっとしたらまだ、起きてるのかな。

天井にあの子の姿を思い浮かべた。あの子ならこんな時にどんな助言をくれるだろう。
……1つずつ何とかしましょうって言いそうだ。私の時がそうだったから。だとすると、どうなんだろう。

目的はお姉さん達の間にある壁を壊してしまうことだ。これ自体は、静葉お姉さんだけじゃなくて、穣子お姉さんもきっと望んでいることのはず。
必要なのは、お互いにあの日のことをちゃんと話しあうことで、それにはそういう場を設けるのが必要で。
けれど、私の所に門の子がやって来たのと同じで、いきなり話し合うのは無理だから……だから、それには二人に心の準備をして貰わないといけない。

準備をするように説得できるだろうか。静葉お姉さんは、頑張れば首を縦に振ってくれると思うんだ。
そもそも、この関係を何とかしたいと言いだしたんだし。問題は、穣子お姉さんの方。どうやって説得すれば良いんだろう。
思い出したくなくても、思い出して貰わなければ話は進まないから、簡単じゃない……よっぽど、無理に近いことだと思う。
もしも簡単に説得で心を開いていたのなら、たぶん椛さんがそれを試していたと思うから。

もし、心の準備が整わないままに挑んだら、どうなるだろう。その時は静葉お姉さんがどれだけ頑張れるか、になるのかな。
けれど、もしも静葉お姉さんが頑張れなかったら。先に穣子お姉さんの気が参ってしまったら。また自分の呼吸を抑えられなくなってしまったら。
そうなってしまっては、いけないんだ。その時は、静葉お姉さんだって危ないのだから。

「うーん」

本当は、時間をかけてちゃんと考えたいけれど、あまり時間が無い。
私は明日の夜には帰ることになっているからだ。たぶん、咲夜が夜に迎えに来る。
その時までには考えて、行動しておかないと。……でないと、きっと後悔してしまうから。



~~



「レミィ、起きて。朝よ」

そんな声と一緒に揺すり起こされ瞼を持ち上げると、ぼやけた視界の中に映ったのは、ベッドの上で正座した寝間着のパチェの姿。
日頃の服とほとんど差は無いのだけれど、絡まったり引っかけたりしたら面倒なリボンはこちらには付いていない。
風邪をこじらせたり、重たい喘息の発作を起こした時とかのお見舞い以外では見る機会があまり無いからか、新鮮に感じる一方で、やっぱり違和感がある。

「まだ眠り足りないなら、もう少し眠っておく?」
「いや、起きよう」

パチェがここに来て最初の頃は、日頃の服と同じようにこの寝間着にもリボンが付いていたんだ。
それが無くなったのは、いつもパチェの面倒を見てくれるあの小さな悪魔がやってきた頃で、そして二人が仲良くなった頃で。
確か、一緒に眠っていたらあの子の髪の毛が絡んでしまったんだっけ。どうしようもない部分を少し切ったらしいが、それ以降はこんな簡素な服だ。

「そんなに私の格好が珍しいかしら」
「ああ。そう思う」
「……とりあえず、昨晩は誰も来なかったわ」
「そうか」

ということは、今頃はまだフランもあの姉妹も無事なのだろう。思えばあの山には他人の都合お構いなしの天狗が居るのだ。
ノリが良い所もあるからそこまで嫌いという訳ではないが、もしも山で何かあったのなら、それこそ深夜だろうが真昼間だろうがお構いなしに尋ねてくるはずだ。
しかし……知らせが無いのは良い知らせという言葉はあるものの、本当はちょっと気になっている。
今夜に帰ってくる予定であるのが一応の救いかもしれない。気になってしまう限りは、たぶんまともに眠ることはできないのだ。

「助かったよ」
「構わないわ。ただ、もう少し早く相談に来るべきよ。あんなになるまで我慢する位なら」
「いや、私の我慢なんてのは、今までのフランに比べたらちっぽけな物だよ」
「それは……そうかもしれないけど」

……相談しろ、か。

「なあ、パチェ」
「うん?」
「私は、相談を持ちかけるのには不向きな相手なのか」

私の質問に眠そうな目を開いて、パチェはじっと私の顔を見て。それから愉快そうに笑った。……相談するなら早めにしろと言ったのはパチェ自身なのに。

「少なくとも、それなりに慕われているわよ。でなきゃあんな数の子達が貴女の所に集まったりしないでしょう。
だから、そうね。持ちかけられないのはたぶん、貴女に持ちかけるよりも向いた相手が居るからじゃないかしら。
それか、貴女に言うには恥ずかしすぎるのか。……たぶん、そのどちらかね」

確かにこの館には何でもできる咲夜も居れば、何でも知っているパチェが居る。そういう意味ではパチェの言う通りなのだろう。
でも、それで満足したくないんだ。……したくても、できないんだ。私は本当に主としての役目を果たせているだろうかと、それが心配で仕方が無くて。
たまには、誰でも良いから頼って欲しいなって。そう、思ってしまうんだ。

「胸張ってれば良いのよ」
「……分かった。ありがとう」

私の言葉にパチェが溜息を吐きながらも、微笑んで。それから私はベッドを降りた。
体の芯まで温まらせて貰っていたお陰か、ベッドの外は少し寒かったけれど……我慢できなくは無い。

「私はもう少し寝てるわ」
「ああ。おやすみ。助かったよ」

再び毛布を被るパチェを尻目に、静かに部屋を出て。一人戻る自分の部屋への道は……誰にもすれ違うことが無く。
私は部屋の中の椅子へと腰を下ろすと、背もたれに体を預けたのだった。



~~



姉さんは何も言わなかった。そしてもう、眠ってしまっている。
普段だったら大抵はいつも話しかけてくれるからか、少し不思議で……お腹の中が、ずんと重たい感じがする。私には無理してる様に見えるからだ。
けれど、これがもしも私の言っていた、気にしないでという言葉を実践した結果なのだとしたら、私はどうすれば良い。私は……つらい。

私は姉さんに無理をして欲しいんじゃないんだ。私のことを気にすると止まらなくなってしまう姉さんに、そんなことを気にせずに笑って欲しい。
でも、気にしないように頼めば、そうあろうと無理をしてしまうのなら……一体どうやれば、姉さんに背負わせずに済ませられるの?

何度も何度も巡る考えの中、ずっと見上げていた天井。雨音はかなり静かになっていた。
やがてカーテンの裾から黒に代わって青さが部屋の中へと薄く広がって行くのを見て、どうやら朝になってしまったことに気づいた。
どうやら、眠れなかったみたいだ。けれど不思議と、眠気は無い。

静かに部屋を抜け出して、廊下に出た。薄暗かったけれど、廊下の奥から入り込んだ僅かな光でどこに何があるかは分かってた。
そんな廊下を進み、やって来たのは台所。冷たい水を喉へと流し込みながら、お鍋とお釜の準備を始めた。勿論、朝御飯を作るためだ。
とにかく何かをしてさえ居れば、つらいことを考えずに済むからなんて。そう、思ったから。

昨晩の片付けの時にお鍋に水を入れて干し椎茸を放り込んでおいた。覗いて見てみると、かなり元の椎茸の形に戻っている。
そんなお鍋の中から取り出した椎茸に、大根に玉ねぎ、人参。そして昨晩使いきれなかった鶏肉に……と、ぱっと眼に入った食材をとにかく持ってきて、洗った。
夜中の冷えのせいもあってか、鶏肉はかっちかちで、水も触っていたくない位冷たくて。
私はまな板の上に鶏肉を載せると、ひたすらに細かく細かく刻んで行った。別に、物凄く特別にひき肉が欲しかった訳じゃない。
手間がかかるから。何も考えないで済む時間が作れるから。ただ、それだけの理由で。
ガツガツとまな板の音を響かせてしまうと二人が起きてしまうから、それだけを気をつけて切って行った。

鶏肉はひき肉に、椎茸はみじん切りに。玉ねぎは……眼が痛くなったから、少しだけはみじん切りにしたけれど、
残った大半はただただ薄く切って行った。大根と人参は桂剥きだ。昔はとことん苦手だった。
姉さんは雑談しながらでも剥けるのだけれども、私には今でもそれは無理。喋らない時でさえとんでもなく集中しないといけないのだ。
……だから今はそうやって考えないで済むのがとても嬉しい。

剥き終えた大根に塩を塗して、丸めて隅の方へと転がして。それからお肉に味付けをする為に醤油と味醂を取り出した。
ふと、生姜もあれば良いかななんて思って。何となしに取り出した物ですり下ろしてみると……ちょっと、想定よりも作り過ぎてしまった。
まあ、いいや。余ったら余ったで他の物に使えば良いのだ。

醤油に味醂、そしてすり下ろした生姜を混ぜ合わせ少しずつ鶏肉に加えながら捏ねて行く。
そこまで来て昨日のお昼ご飯がハンバーグだったことを思い出したけれど……思い出さなかったことにした。
どうせ作るのはハンバーグじゃない。あまり深く考えて作り始めた訳じゃないけれど。
捏ねに捏ねて、ペタペタとして来た所で、玉ねぎや椎茸も加えて。そこで、ひと息ついた。
そろそろいい加減に何を作るのかをはっきりと決めておかないと、訳の分からないものを作ってしまう。
正直姉さんと二人だけで食べるのなら良いのかもしれないのだが……生憎とフランドールも居る。一応、お客様には違いない。

とりあえず、このお肉は大根に合わせよう。余りそうなのは人参に、玉ねぎの薄切りに……大根が少し。
全部味噌汁に入れられるから、入れられるだけは味噌汁へ入れて、残りはサラダにでもしてしまおう。
それならば余った生姜も活かせられるはず。

転がしていた大根を水で洗い、広げた。少し柔らかくなったみたいだ。よくよく見てみると……ちょっと厚さがまばらでみっともない。
でも、広げるからそう思うのだ。丸めてしまえば部分的にちょっと厚かろうと関係は無い。
大根の水気を拭いながら、代わりとばかりにさっき作ったペタペタのお肉を薄く塗り広げる。
それから、くるくると巻き物の様に巻いて行って、元々の大根の太さに近くなった所で一旦切って。そしてまた広げては塗って、巻いて、切って。
ロールケーキの様に巻いた塊を6つ作った。最後の1個がちょっと大きくなってしまったけれど……まあ、フランドールにあげておけば誰も文句は無いだろう。

新しいお鍋を取り出した。普段お味噌汁を作るのに使ってる鍋より、ちょっとだけ小さいお鍋。
指一本分程のお水で満たして、欠けのあるお皿を一枚、逆さにして沈めた。これは昔、私が手を滑らせて割ってしまったお皿だ。
そしてその上に、本当は対だったはずのお皿をもう一枚、向きを正して重ねて。
……里で売っていた蒸し器が我が家にあれば、こんな面倒なことをしなくても良いのだけれど、
これで代用できてしまうからか、姉さんは店先でじっと眺めたりはするけれど頑なに買おうとはしない。実際、買っても置く所は無いんだけど。

蒸し器の準備を整えてから、残った食材を全部刻んで行った。味噌汁用のは大きく切って、サラダ用のは細かく。
そこで初めて時計を見たのだけれど……まだ火を通すには早すぎる様だ。冷めた料理や焦げた料理を食べて欲しい訳じゃない。
準備が先にできそうなのは、ご飯位だろうか。

お米を研ぎ、お釜の準備をして。しばらく待って、火を入れて。
私が居間の畳の上に転がった時には結構な時間が経ってしまっていたけれど、それでもまだまだ、いつもの朝食の時間は遠い。
冷たい畳の上で耳を澄ませれば、お釜にかかる火の音と僅かに降る雨音だけが聞こえてた。

「何やってるんだろう」

思わずそう呟いたけど、返してくれる相手は居ない。



灯りをつけていない居間にも少しだけ明るさが分かるようになってきた所で私は作るのを再開した。
どちらのお鍋も火にかけて、蒸し器のお皿の上に先程巻いた大根を解けないように並べて行った。
こっちはもう、後はただじっくり蒸すだけだ。火加減は調整しないといけないけれど、中身は放っておけば良い。

お味噌汁の準備も始め、残っていた材料でサラダも拵えて。余っていた生姜の汁にごまとごま油、少しの砂糖とお醤油を足して混ぜ合わせて。
……ちょっとごまが強くなってしまったけれど、ドレッシングもこれで構わないだろう。

お味噌汁のお世話を始めた頃、二人は降りてきた。……姉さん、やはり早いうちに眼が覚めていた様だ。
まだ眠そうな眼をしているフランドールの横で、いつもの笑顔を振りまいている。

「おはようございます」
「おはよう」
「あら、作ってくれていたのね。ありがとう」
「早く眼が覚めちゃったからね」

本当は眠れていないだけなんだけど、私は姉さんにそう返した。食べ終わった後は少し怪しいかもしれないけれど、未だに眠気はやって来ないのだ。
どうせならお昼ご飯を食べた後、夕方までの間をずっと眠っていたい。そうしたら、その間は何も考えずに済むから。

蒸し終えた大根を取り出して、お皿に溜まった汁に味付けに使った調味料と片栗粉を混ぜて。
……結局昨日のお昼ご飯と被ってしまうけれど、大根の巻き物はあんかけにした。

お味噌汁に、あんかけに、サラダ。最後にご飯を運び込んで、食卓を囲んだ。
姉さんは相変わらず笑ってる。フランドールは……大根のあんかけをずっと見てた。

「こ、これは何ですか」
「大根だけど」

丸めてはいるのだけれど、大根であることにも気付いていないらしい。
十六夜さんなら凝った物を作りそうな気がしていたのだけれど……案外、そうでもないのかな。
それとも人数分の桂剥きをする気には流石になれないのだろうか。1個でも大変だし。
もしも全員分用意するとなると、どれだけの時間がかかるのやら。

「中身は鶏肉で、ちょっと野菜で味付けしてる。他は……そうね。大体昨日使った調味料と一緒よ」

視線はずっと料理に釘付けだったけれど、彼女はゆっくりと頷いた。

「頂きましょうか」

ずっと彼女の方ばかりを見ていたからか、なんだかとても久しぶりに聞いた気がしてしまう様な、そんな姉さんの声を聞いて皆で手を合わせた。
それから、何度となく言ってきた言葉を口を揃えて言ったのだった。



「ほとんど同じ材料なのに、結構味が変わるんですね」
「そりゃあ、材料は同じでも分量や調理の仕方が違うからね」

昨日初めて料理に挑戦していたこともあったからか、フランドールは熱心に料理のことを尋ねてきた。その度に、こうやって作ったんだと一つ一つ説明して。
何とかそれで場を持たせていた。普段は喋る姉さんが、今朝は食べ始めて以降ずっと喋ろうとしなかったからだ。
フランドールも、たまに姉さんの方をちらりと見ていたけれど……どうやら、不思議に思っているのは私だけじゃないみたいだ。
反応があるとすれば、フランドールや私の言葉にたまに小さく頷く位で。

「これ、私にも作れるのかな」
「桂剥きさえできれば後は楽だからね。できなくても、薄く切ってミルフィーユみたいに重ねても似たのはできるかな」
「白菜のだったら、似た物を食べたことがあります」
「そうそう。あれと大体一緒だから」

ずっと二人で喋っていたこともあって、一番先に食べ終えてしまったのはやはり姉さんだった。
お茶の準備をしてくるわね、と。ただ、それだけを言い残して姉さんは台所へと歩いて行って。
私もフランドールも、会話は続けながらも視線は完全に姉さんの方を追っていた。

「何か、あったのですか」

姉さんの姿が完全に見えなくなって、台所から物音がし始めた時、とても小さな声でフランドールは私に尋ねた。
……私には、首をかしげることしかできなかった。勿論、心当たりはある。けれど、そこまで昨日、私は強く言ってしまっただろうか。
むしろ、ほとんど伝えられなかったと思っている位なのに。それとも、私は他に何かやってしまっただろうか。

フランドールが食べ終わり、そして私が食べ終わって。三人分の食器を重ねた所で、姉さんがお茶を盆に載せて戻ってきた。
湯のみから、熱々の湯気が立ち上る。フランドールは湯のみの熱さからか、台の上へと置いたままだったけれど、
姉さんは早速とばかりに飲み始めていた。私も飲もうとしたが、沸かしたての様で少し熱い。

お茶で場を濁せるようになったからか、いよいよ会話が無くなって。外の雨の音と啜る音だけが響いていた。
カーテン越しに入る光はそれほど明るくなってはいないが、音は少しだけ小さくなったから、これなら夜までには弱くなるだろう。

「……あの」

そんな、静かな居間の中で。居た堪れなくなったらしいフランドールが口を開いた。



~~



お姉さん達の様子は朝から変だった。穣子お姉さんは何だかぐったりとしているし、静葉お姉さんはほとんど喋らない。
穣子お姉さんに何かあったのか尋ねてはみたけれど、どうやらお姉さんにも良く分からないみたいだ。
ただ、穣子お姉さんも変だとは思っているみたいで、何かある度にちらり、ちらりと、静葉お姉さんのことを気にしていた。
ご飯の間でさえ少なかった会話は、お茶を皆で飲み始めてからいよいよ無くなって。居た堪れなくなって、

「あの」

と、私が声を出した時、二人が揃って私の方をじっと見つめた。
私には、言いたいことがあった。それは勿論、昨日の夜に考えていたこと。話し合いの場を、設けること。
しかし、直接言い出すことはまだできそうにない。静葉お姉さんの様子、おかしいし。
だからせめて、足りない時間を作るための第一歩だけでも踏み出さなきゃって思って、切り出したのだ。

「今夜、私のお家に来ませんか。私、まだお礼……できてないですから」

穣子お姉さんは驚いた。飲みかけだったお茶でむせ込んで、しばらく、俯きがちに視線が泳いでた。
静葉お姉さんの方は、じっと私の眼を見つめて……それから、笑った。

「お邪魔でないのなら。貴女のお姉さんにも色々お話したかったから丁度良いわ。……穣子は、どうする?」
「私は……」

湯のみを置いた穣子お姉さんは、しばらくの間は気まずそうに私と静葉お姉さんを交互に見ていたけれど、
結局首を縦にも横にも振らなかった。爪の先でかりかりとスカートを掻きながら、俯いて。

「う、うーん」

と、悩ましげな声を落ち込んだ様子で漏らしたのだった。……私はてっきり、すぐ断るだろうなって思ってた。
きっと、穣子お姉さんが私の誘いを断って、それから静葉お姉さんが改めて誘ってくれるだろうって、そう思ってたんだ。
初めての時に私のことをあれだけ怖がったから。今だって怖がられていることにはかわりが無い。
……だから、余計に心配になった。やっぱり昨日の夜、お姉さん達と別れた後に何かがあったんだ。

「私は、穣子お姉さんにも来てほしいです」

駄目押しで、もう一声。私の言葉に視線が重なって……それからゆっくりと首を縦に下ろした。
思わず、ほっと溜息を吐いた。ただ……何だか、余計に落ち込んでしまったように見える。

「夜にいきなり訪ねても大丈夫かしら」
「ほ、ほら。私達は吸血鬼だし……夜型、だから。本当のことを言えば、お昼よりは都合が良くて」

私は元々地下で過ごしていたこともあって、太陽とか月とかあんまり関係無く、昼夜逆転して……妖精の子達と同じだけれど、
お姉様は何か起きた時とかじゃないとそんな眠り方はしないから。たぶん、今日だってそうなんだと思う。
流石に真夜中に連れて行ったら、お姉様も咲夜も困っちゃうと思うけど。でも、それは私が咲夜に後で謝れば済む話なんだ。
第一そんなことは全く重要じゃないんだ。大事なことは、この二人の関係を、取り戻すことだから。
それに、まだこれは終わりじゃない。これで時間は稼げたと言っても、明日の昼までしか持たないかもしれない。
だから、今の内にもっともっと、考えなくちゃいけないんだ。

次に考えなきゃいけないことは、どうやって静葉お姉さんを手助けするかだけれど、それにはお姉様の力を借りるつもりでいる。
ずっと自分のことを考えてこなかった私と違って、きっと今のお姉さん達のことを理解できると思うから。頼めば……きっと、手伝ってくれると思う。
今頃、何をしているだろうか。今頃は……同じようにご飯を食べているだろうか。

「出発までに雨が止むと良いわね」

静葉お姉さんがそう呟いたけれど……穣子お姉さんは俯いたままで居た。



持っていたお茶を皆が飲み終えた後、お姉さん達は食事の後片付けを始め、私は部屋に戻った。
昨晩使っていたノートを取り出して、全く使われていないページを2枚探して剥ぎ取った。
1枚は咲夜宛ての、もう1枚はお姉様宛ての手紙だ。ただでさえ、あまり時間がある訳じゃない。
加えて、もしもお姉さん達を連れて行ったら、きっと二人とも忙しくなって、私と二人きりになって相談する時間は取れないかもしれないから。
だから、紙の上でも伝えられそうなことを、一つ一つ書いて行った。

静葉お姉さんのこと。穣子お姉さんのこと。お世話になったこと。助けて欲しいと、願われたこと。
お姉さん達がそれぞれどう思っているのか。今、どんな状況か。どういう所で力を貸して欲しいか。
そんなことを、一つずつ。一つずつ……。

咲夜宛の手紙、そしてお姉様宛の手紙を書き終えた後、ふとまた一つ思いついて、丁度開いていたページを剥いだ。
最後に書いたのは美鈴への手紙。ひょっとしたら、館の中に居る時間が増えるかもしれないから。
だから、門の子達にそのことを伝えて欲しいってことと、日頃の感謝を。
本当は、感謝の言葉は私の口から言うべきことなのかもしれないけれど、またそれはちゃんと時間が取れる時にするつもり。

全ての手紙を折りたたみ、ポケットへと差し込んだ。今の内に準備できそうなこと、他には何があるだろう。
たぶん伝わっているとは思うけれど、静葉お姉さんには私の意思を改めて口で言っておくべきだろうか。
……穣子お姉さんはどうしよう。こっちは後で、お話する時間を貰おう。怖がっている私で効果があるかは分からないけれど、
不安なのは分かっているから。せめてどこかで、元気づけられるなら。そう、ありたいから。

少し、お姉さん達の様子がおかしいのが気になるけれど……今迷って居ても、仕方が無いんだ。



~~



パチェと別れた後の自分の部屋で、私は机に向かっていた。外は雨。カーテンを閉じた部屋の中は薄暗いが、
普段使う機会の無い赤蝋燭を灯した机の傍は本が読める程度には明るく、私は普段握る機会の少ないペンを片手に手紙を書いていた。
夜になったら迎えに行く咲夜にお願いして、あの姉妹へと渡して貰う予定の手紙。中身はこの館への招待状だ。
最初思い立ってこの手紙を書き始めた時は、紙面上で謝辞を伝えるに留めておくつもりだったのだが、
いざ書き始めると色んなことについて書きたくなり、文の量が多くなって止めたのだ。
どうせいつかは改めて礼をしなければならない。しかし、会う機会があるのは不定期の宴会だ。
それは、礼儀に欠ける。……だから、招待状として送付してしまえば二度手間にもならずに済む。

普段手紙のやり取りをする際は、余程重要な物で無ければ咲夜に代筆させていたこともあってか、
最後に沿える自分のサインがなかなか気に入らず、何度か書き直しこそしたけれど、お昼前には無事に手紙に封をすることができた。
蝋燭の火を消し、片付けて。とりあえずのひと息。手紙を書き始める直前に朝食を食べたからお腹は空いていないが……紅茶が一杯欲しい。
普段ならもう咲夜が運んでくる時間なのだが、たぶんまだ眠っているのだろう。無事に眠れているのなら何よりだ。日頃は、あまり休まない子だから。

椅子から立ち上がり伸びをして、部屋の入り口のドアを開けて。
私は近くに居たメイドに紅茶の準備をする様に言い付け、ついでとばかりに美鈴を呼ぶように頼んだのだった。



「おはようございます」
「おはよう。……すまないね。寝ていたとは知らなかった」

寝ぼけ眼の美鈴が部屋にやって来たのは、お茶の準備が終わった頃。
今日の夜、咲夜が迎えに行く時の時間帯は一人で門番を務めるということは予め知っていたものの、
今日の朝まで門番をしていたということまでは知らず……眼が眠りたいことをかなり訴えてきている。

「妹様のことですか」
「外れてはいないが、少し違う。今フランを預かっている二人の姉妹が居るだろう。あの姉妹に館への招待状を出す予定だから、
そのことを他の門の子達にも周知させておいて欲しい。勿論、知らせるのは夜に番をする時で構わないから」
「ふぁい」
「それだけよ。……起こしてすまなかったね」

本当は一緒にお茶をしながら少し話をしたかったのだが、どうやらそれは無理そうで。
何とか今だけは眠るまいと目元を擦る美鈴に戻る様に伝えると、ふらふらと部屋を出て行ってしまった。
閉まるドアを見送って、溜息を吐いて。仕方が無しに独りで始めたお茶の時間。
二人分のお茶を用意して貰ったこともあって、ポットの中身は独りで飲むにはかなり多い。
美鈴なら結構飲むんじゃないかと思ったから日頃よりも増やして貰ったのが、かえって仇になってしまった。
いっそ、部屋の外に居る近場のメイドの子でも引っ張りこもうかと思い立ち上がれば、ふとドアの向こうで気配がして。
ノックの音が二度ほど響いたその後で、招き入れたのだった。

「おはようございます」
「おはよう。どうかしたの?」

ドアの向こうに居たのは、いつもフランの世話をしてくれている子だった。何やら難しそうな顔……というか、寝て無いなこの子は。
眼の下が真っ黒だ。眠気という物を超越してしまったのか、朗らかさの様な物まで漂っている。

「眠れなかったの?」
「お嬢様のことを考えると、つい。でも、眠気は今はもう無いので良いんです」

……それは非常に良くない。体に。

「レミリアお嬢様」
「何かしら?」
「お嬢様を外に連れ出して散歩する場合、どの範囲まで行って良いものでしょうか」

どの範囲まで、か。あまり考えたことが無かったな。

「そうね。少なくとも山や里はしばらく無理ね。パニックになると困るから。だから、そうね。何かしら組織が出来あがっている所へは連れて行けそうにないわね。
今預かって貰っている先は山だけれど、あれは咲夜の力を借りたお忍びだし。それ以外の場所なら、問題無いんじゃないかしら」
「ですか。それなら、大丈夫そうです。一緒に回る所を考えていたもので」

散歩……いや、デートの計画か。きっと良い気分転換になるだろう。ただ、そもそも私にはあまり経験の無いことだから、助言のしようが無い。
そうか。そういう意味では、私なんかよりずっと先までフランは進んでいるのだな。

「他に要件は?」
「今の所は無いです。今夜、お戻りになるんですよね?」
「そうよ。……要件が無いなら、一つ私の命令を聞いて貰うわ」
「何でしょう」
「今すぐ眠りなさい。どうしても眠れないなら、図書館に行って私の名前を出してパチェを頼りなさい。良いわね?」
「それは、どうしてもですか」
「二度言うつもりは無いわ」

たぶん、私なんかよりよっぽど心配してくれているのは分かっているんだが、こんな姿を帰ってきたフランが見たら、とても心配するのは眼に見えている。
緊張の糸が解けた後で疲れに負けて倒れられてしまっても困るし、いくら言い方がキツくなろうとも休ませないと。
もし倒れてしまったら、私の立場が無い。

「分かりました」
「よろしい」

……少し、フランが羨ましい。



~~



「少し、部屋で休んでくる」

居間へと戻ろうと思って椅子から立ち上がり、ドアの前まで来ると、丁度居間の方からそんな穣子お姉さんの声が聞こえた。
休む、ということだったから少しだけ気が引ける所はあったのだけれど、私は話をする為にそのまま部屋を出ると、
穣子お姉さんのお部屋の前で、じっと待った。やってきたお姉さんはさっきと同じように俯いて居て、
私が部屋の前に立っていることにすら全然気づいていない様子で。手が届く程の距離になってやっと気付いて、肩をびくりとさせて。
それから、何かを言おうとして……言葉を呑みこんでた。

「今、お話できませんか」

小さな声で尋ねてみれば、俯いたままお姉さんは小さく頷いた。
少しフラフラになりながらも部屋に入って行ったお姉さんに続いて、私も部屋にお邪魔したのだった。

穣子お姉さんがベッドに座り、私は机の前にあった椅子に腰を下ろした。
何故か、タオルが一枚置いてある。昨日のお風呂上がりに使ったものだろうか。……かちかちに乾いてる。

「さっきのお話、断られるんじゃないかって思ってたから、嬉しいです。ちょっと、驚きました」

私が見詰めたお姉さんは、私を見ようとはしなかった。けれど……何故か、今は私を怖がっている様に見えなくて。
どこから切り出して良いか迷っていた私は、とりあえずさっきの居間での話を引きあいに出したのだった。
その言葉にお姉さんはちらりと見て、そしてまた眼を伏せて。……さっきから、何かを言いたそうにしている。
けれども、どうやら口から言葉が出てこないみたいだ。ひょっとして穣子お姉さんが言っていた症状かと思ったけど、
どうやらそれも……ちょっと、違う。何だか焦っているみたいだ。

「何か、あったんですか」

お姉さんは、きゅっと口を閉じて。それから、僅かに首を横に振った。
髪の毛が揺れたから分かったけれど……もしもそれが見えていなかったら、振れたのかどうかも分からない程とても小さな動きで。
視線は、ずっと太ももの上に置かれた自身の手元に落ちていた。

「何だか、分からなくなっちゃったんだ」

下ろしていた膝を抱え、そこに頭を埋めて。お姉さんはゆっくりと話し始めた。

「私は、お姉ちゃんに気を使って欲しくないんだ。無理して欲しく無かったから。昔から、そう何度も言ってきた。気にしないで、って。
……でもね、もしも気にしないようにするのも、気にするのも。結局全部お姉ちゃんが無理をしてしまうとしたら。私は、何て言えば……良かったのかな」

小さな声で自分自身に確かめる様に語り、そして長い溜息を吐いて。

「お風呂の後からお姉ちゃん、おかしいの。……たぶん、私もおかしいの。お互いに、そう思ってると思う。
何だか、どう声をかけて良いのかも分からなくて、もう、私は頭がいっぱいで。
お姉ちゃんを困らせたくないのに。全部、何をやっても、失敗してる気がして。自信が、全部消えていく」

俯いていたから目元は見えなかったけれど、ちょこんと出た鼻や表情は私の位置からでも見ることができていた。
……全く、笑っても無ければ、怖がっているでもなく。ただただ、つらそうに、悲しそうに。きゅっとした口元が何とか言葉を紡いでた。
言葉の調子は変わらなかったけれど、涙は……出ているみたいだ。鼻の頭が少し、濡れている。

「そんなに悩んでしまうのを止めることは、いけないことなのですか」

私が言葉をかける間に、鼻先に溜まった滴がぽたり、ぽたりと落ちていった。
ハンカチは持っていただろうかと思ってポケットへと手を重ねてみたけれど……生憎寝起きで忘れていて、
先程書いた手紙以外は何も入っていなかった。既に使ったらしいタオルなら、ここにはあるんだけど。

「お姉ちゃんに一日も早く、普段の生活を取り戻してほしかったの」

零れ落ちる涙をそのままに、穣子お姉さんは続けた。

「でも、それは穣子お姉さんにとっての非日常だと思う。そうなってる限りはきっと、静葉お姉さんだって非日常の毎日だと思う。
けど、穣子お姉さんが静葉お姉さんを心配するのも、静葉お姉さんが穣子お姉さんを心配するのも。どっちも、大切な気持ちで、大切なことだと思う。
だから、一度機会を設けて、触れないでいたことに手を伸ばして話し合った方が良いと思うんです」
「……手紙のこと、ね」
「……うん」

私が返事をすると、穣子お姉さんはしばらく黙りこんで。それから長い溜息が部屋の中に響いた。

「一つ、正直に答えて欲しいことがあるの」
「うん」
「さっきの朝御飯での提案、そのことに関係があるんじゃないの?」

お姉さんの言葉に思わずドキリとして。返答に戸惑っていると、

「……やっぱり」

と。お姉さんは静かに呟いた。

「お姉さんのお願いが守れなくて、ごめんなさい」
「ううん。もう、良いの。……お姉ちゃんは貴女の言葉に喜んだ。あれはきっと、貴女がそういう考えを持って言ってたことを分かったからだと思う。
だとすれば、それは……お姉ちゃんが望んだことだから。望んでいたのなら……たぶんいつか、それが例え今日でも明日でも無かったとしても。
いつかは必ず思い出すことになるから。だから、もう……良いの」

少しだけ顔を持ち上げて、ぐっと袖で目元を拭って。また、溜息を吐いた。

「もしもその話になったら。頑張ってみる。聞かれたことは、全部答えようと思う。
けど。けど、もしもね。それでも、駄目だったら。……いや、何でも無い。……頑張るから」
「何か手伝えそうなことがあったら、私でも……他の館の子でも、お姉様でも咲夜でも良いから。お手伝いさせて下さい」
「……うん」

お姉さんは確かに頷いて。それから、抱えていた膝をベッドの上へと伸ばして、横になった。

「ごめん、一方的に話しておいて悪いんだけどさ。ちょっと、疲れちゃった。少し、眠らせて」
「今のお話が、私の話そうとしてたことでしたから。……おやすみなさい。ご飯の時に、また来ます」

そのままゆっくりとお姉さんは枕へと頭を埋めた。毛布をかけようともせず、じっとして。

「お姉さん」
「うん」
「……ありがとう」

慰めれば良いのか、それとも応援すれば良いのか。どっちが良いって判断が付かなかったから。
だから、私が今言いたかったその言葉だけを伝えて。私は部屋を後にしたのだった。



私が居間へと戻ると、静葉お姉さんは押し入れの前に座っていて、写真を挟んだ本をまた取り出して眺めてた。
写真の隅を指のお腹の部分でゆっくりと撫でていて……どうやら、私のことに気づいていなかったらしく、私が声をかけるとびくりと肩を震わせた。

「穣子お姉さんは少し眠られるそうです」
「そう。……やっぱり、あの子は昨晩寝て無かったのね」

私の言葉に穣子お姉さんは眼を細めながら呟いて。
それから持っていた写真をそっと本に挟み直してた。

「静葉お姉さん」
「うん?」
「館に行ったら、穣子お姉さんとあの日のことについてお話してみませんか」

考えを打ち明けようと思って。本を片付け終わるのを待って私がそう切り出すと、
お姉さんはこちらに向き直った後に私のことをじっと見つめて。それから、ゆっくりと頷いた。

「そのつもりで、誘ってくれたのでしょう?」
「分かってたんですね」
「貴女、あの時私の眼を見たから。それで、きっとそうなんだろうなって。覚悟は、決めてるわ」
「……はい」

膝立ちになって綺麗になった台まで歩いて行くお姉さんを追い、私も反対側に腰を落ちつけて。
お姉さんがちらりと穣子お姉さんの部屋の方を見たので、私はさっきの穣子お姉さんとのやり取りについて話そうかと思ったけれど……
余計な心配ごとが増えてしまうかもしれないから、出そうな言葉は飲みこんだ。その代わりに、

「たぶんだけど、お姉様も相談に乗ってくれると思うんだ。私は……どちらかというと、穣子お姉さんと同じで妹だから。
ひょっとしたら同じ姉って立場じゃないと分からないお話が出てきた時、きっと私より分かってくれると思う」

せめてもの励ましにと、考えていたことを告げたのだった。

「貴女のお姉さんには、相談より先にお礼を言わなくちゃね」
「……本当は、こちらがお礼をしなければならない所なんですけど」
「良いの。とても、前進できそうだから。やっと、動き出せた気がするから。……さて、フランドールちゃん」

今頃、お姉様は眠りに入っているのだろうか、なんて。
そんなことを頭の中でぼーっと考えていると、静葉お姉さんが私の名前を呼んで。

「今日のお昼ご飯のことなんだけど」

時計の方を眺めながら、お姉さんはそう切り出したのだった。



~~



「咲夜を見かけなかったかい?」

朝食の時間はまだ静かだが、昼食や夕食前の時間帯というのは、食べざかりなのか、それとも単純に食べるのが好きなのか妖精達の声で館の中は騒がしくなる。
大体は、期待に胸を膨らませる声だ。私の部屋は食堂や厨房からは距離を置いた位置にあるのだが、それでも聞こえるのだから、
きっと厨房のすぐ近くや妖精の通りの多い通路は今頃とんでもない騒がしさになっているのだろう。

「少し前に起きて来たそうで、今頃は厨房に居ると思います」

そんなことを頭の片隅に考えながら、私は部屋を出てすぐに居た子を捕まえて咲夜のことを尋ねたのだった。
そうか、今起きてきたのか。沢山眠れているのなら良いのだが。

「少し話がしたいから、厨房での指示が終わったら部屋に来るように伝えてくれ。
……そうだな。部屋に私のだけじゃなく、咲夜の食事も持ってくるようにも併せて伝えて」
「分かりました」

ちょこんと頭を下げて、メイドの子が足取り軽く厨房の方へと駆けていく。
……ひょっとしたら、あの子もまだご飯を食べて居ないのかもしれない。とすれば、しばらくは帰って来ないだろうな。
まあ、あの子が戻るよりも先に咲夜が到着するだろうから、困ることにはならないだろうが。

部屋へと戻り、愛用の椅子に腰を下ろして天井を見上げることしばらく。
足音も何も無しに、コンコンという音が急に部屋の中に響いた。心臓にあまり良くないから止めて欲しいと伝えてはいるが、
きっと呼びだしたから急いで来たのだろう。……音の立ち方のお陰で絶対に咲夜だと分かる意味では助かるのだが。

「入って頂戴」
「失礼します。……何か、ありましたか」
「ええ。それは昼食でもしながらゆっくり話しましょう」

てきぱきと進む食事の準備を眺めつつ、椅子に座ったまま深呼吸した。
美味しそうな匂いが胸一杯に広がると、いつもどこか安心する。
たまに突拍子もない料理や、日を跨いでまで似たような料理がこれでもかと並ぶ、なんてことも無い訳ではないが、
何となく匂いだけでその日のご飯の雰囲気が分かるのは、嬉しいことだ。

「こちらは豚肉と白菜のミルフィーユ、トマトソース和え。こちらは、人参とじゃが芋、それにアスパラガスとチーズを豚肉で包み焼きした物です」

向かいの席に腰を下ろした咲夜が、ちょっとだけ手を伸ばして説明してくれた。
後残ってるのは、ご飯にお味噌汁……じゃない。これは、豚汁か。

「豚尽くしね」
「仕入れで手違いがありまして、豚肉の在庫が圧迫しているのです」

咲夜の説明を聞きながら、二人揃って手を合わせる。
ずっと昔はこんな習慣なんて無かったのだが、宴会に参加するうちに自然と周りからうつってしまった。
館で働く他の子達もするから、その習慣について改めて学んだ結果でもあるのだが。

「頂きます」

こんなことを言ったりもする。独りで食べる時は、口からは出さないのだけど。

「食べながらで聞いて頂戴な」
「はい」

一応とばかりにナイフとフォークも用意されてはいるのだけれど、手に取ったのは箸だ。
咲夜が箸で食べ進めるからというのが第一の理由で、洗い物を増やしたくないと思うのが第二の理由。
食後の時間に散歩目的で厨房の方まで足を伸ばした際、つらそうな顔で洗い物をしているのを見ているから。
だから、両方半端に使うということはしたくないのだ。使うなら、箸の日は箸。フォークの日はフォーク。
勿論、私が使わなかったとしても、提供したものとして改めて洗われることにはなるのだろうが、
それでごく僅かにでも皆の負担の軽減に繋がるのなら、私はそれで良い。

「まずはお願いしたいことが二つ。……辛いわね、このミルフィーユ」

最初に説明を受けた豚肉と白菜のミルフィーユ。随分と層が重ねてあり、トマトのお陰もあって、赤と白と薄緑の大きな塊みたいになっている。
箸でも十分に割れてしまう程柔らかくなっているが、元からひと口用に切れ目が入れてあり、お陰で食べやすい。ただ……黒胡椒がかなり強い。
元より匂いで多少なり予想はしていたのだが、分かっていてもパッと吹き出す汗を止めたりなんかは私には流石にできない。
こういう季節になるとこういう味付けも増えたりするのだが、今日は一段と強い気がする。

「今日は雨だったのもあって、外回りの子が寒そうにしていたんです。それで少し温まる物を、と」

その言葉にちらりとカーテンの方を見た。相変わらずカーテンから漏れこむ光は暗いままだ。
意識を向ければ、まだ雨音も聞こえている。ただ、雨自体はかなり弱くなったみたいだ。

「そうか。夕方には止みそうだね。迎えの時間は決まっているのかい?」
「ええ。お夕飯を食べた後に伺ってくれると助かる、と、あちらから要望がありました。
日頃あの方たちが食べている時間についても伺っているので、私はそれに合わせて出発します」
「その迎えに行く時に、私が書いた手紙を渡して欲しい。館への招待状だ」

肉巻きの方は……こちらもひと口大に切ってある。ただ、ミルフィーユにしろ、この肉巻きにしろ、その一口の基準というのは咲夜が基準だ。
勿論私にだって、ひと口で行けない訳ではない。ただ……割と、頬が盛り上がるのだ。
何故か、そんな食べ方をすると咲夜が嬉しそうに見てくるから……あまりやりたくない。非常に食べづらくなるのだ。
何となく、どういう気持ちで見ているのかもその姿の中に見え隠れするのが、つらい。
勿論気持ちも分からなくは無いんだ。私だってフランがそういう食べ方をしてたら、同じ顔をしそうだから。

「そのついでに、妹様のことについて……ですか」
「ええ。だから、そのことについては館の子達にある程度の説明をしておいて頂戴。いざ来た時の為にね」
「畏まりました。もう一点というのは?」

……ひと口で頬張ったらやっぱり見てきた。咲夜は、自身の表情に気づいているんだろうか。

「手紙を渡すのが1つ。皆への伝達で1つ。その2つだよ。門の子には美鈴から伝えるように頼んである」
「失礼しました」

こっちには黒胡椒が入っていないこともあってか、味はチーズが強く、やや甘い。
ミルフィーユの方もトマトのソースのお陰で甘みが無いわけでもないが、噛んでいる分にはこちらの方が少し落ちつく。

「ところで咲夜。ちゃんと、眠れたかい?」

ふと昨日のことを思い出して、顔を見れば明らかなことではあったけれどそう尋ねた。

「ええ。少し、眠り過ぎてしまいましたが。お嬢様も無事に眠れた様ですね」
「いいや。私はパチェの力を借りたんだ。やっぱり、心配は心配でね」
「……そうでしたか」

確かに、今日は珍しく長く眠っていたみたいだな。まあ、あれだけ眠らずに居たのだからその反動なのだろう。
私だって寝入りこそ魔法の力を借りたが……起こされなければ今もまだベッドの中に居たのだろうから。

「フランと一緒に居てくれるあの子も眠れて無かったみたいだ。少し前に、ここに来てね。……ちゃんと眠れと指示したのは初めてかもしれないな」
「昼食の準備に入る少し前に図書館の方へと向かうのを見たのですが」
「……そうか。やっぱり私と同じで自力じゃ眠れなかったんだろう。私が言ったんだ。眠れなかったらパチェを頼れって」

とりあえず、眠ろうとしてくれているのなら問題は無いだろう。後でパチェに改めてお礼を言わなくちゃならないな。
きっと私の名前を出せば眠らせて貰えると思うのだが、あまり良い気持ちはしないだろうから。
色々落ちついた後日にでも改めて伺おう。

「そうでしたか。なら、大丈夫でしょう」

その言葉に私も頷いて、ほっくりと湯気あげる汁をひと口。黒胡椒で辛くなっている他の料理とは違い、
こちらは味噌の味で甘いからか、ちょっとほっとする。ただ、刻んだ葱が入っているのが……勿論嫌いでは無いのだが、気になってしまう。
何が気になるかと言えば……歯のことだ。食べながら話をする時には結構、気になるのだ。
思いのほか、気付きづらい。しかも決まって、牙の脇につくのだ。笑われて気付いたことも、過去にはあった。お陰で対処法を覚えはしたが。
対処法というのは簡単で、一時的に避けて食べるのだ。極稀にこれでもかと葱が入っている料理が出てくることもあるが、今日は違う。
そんなに沢山入っている訳ではない。だから、避けて食べ進めておいて、最後に流し込むのだ。

ただ、本当はこんな対処法は使いたくない。咲夜としては、一緒に食べることを本来は想定していたはずなのだ。
だから、料理に注ぐ気持ちを無碍にしているみたいで。例えとても短くても、もしも咲夜と同じように時間が止められたのならって。
そんなことを思ったりもする。

「あちらも今頃、昼食でしょうか」
「そうだろうね。……あの姉妹は、香水を使っているのかは知らないが、傍に居ると毎食お芋を食べてるんじゃないかと思ってしまうね」

冗談のつもりで私が言うと、少しだけ咲夜の顔つきが真剣になった。

「私が送りに行った時が丁度夕食前だったんですが、どうやら肉じゃがの様でした」
「本当に毎食お芋だったりしてね」
「流石にそれは、無いと……思うんですけど」

今頃あの子は何を食べているんだろうか。あちらで一つでも何か、好きな料理が増えてくれると嬉しいんだが。
その時はきっと、こんな物を食べたんだって教えてくれるだろうし、咲夜もそれを真似た物を作ってくれそうで。
ちょっと、楽しみにしている。元々は周囲からの評価を変えて、怖がっている妖精の子達の気が少しでも休まる様にと思って始めたことだが、
今はそこまでの物を得られなくても、フランもあの子達もほんの少しでも気分転換ができればそれで良いじゃないかって、そう思っている。
……そもそも、評価が変わって行くのは副産物みたいなものなんだし。

「あの」
「なんだい?」
「お夕飯のことなんですが、グラタンで良いでしょうか。何だか、お芋が食べたくなったので」
「まぁ、私は構わないよ。パチェ達も喜ぶだろうしね」

……果たして、この冬何度目のグラタンか、もう分からない。
両手の指の数まではちゃんと数えていたが、それ以降は……数える気を無くしてしまったのだった。



髪の生え際に薄らと汗がにじむ。そんなお昼ご飯を食べ終えて、そのまま二人と揃ってお茶の時間にして。
汁物を食べたはずなのに、どこか渇いてしまった喉を二人揃って潤していた。

黒胡椒がかなり強かったせいか、お茶の味はかなり大雑把にしか分からなかった。
正直な話、ただのお湯どころか冷たい水でも良い気はしていたのだが、咲夜の作ったお菓子を楽しむ分には、お茶の方が都合の良いことが多い。
大体お菓子が甘くなるからだ。その理由の大半は皆の好みがそちら寄りだからであろうが……お陰で、少々苦めのお茶がいつもありがたく感じる。

「ふぅ」
「……御疲れですか?」
「少し、ね。あの子が今夜無事に帰って来たのなら、今夜はゆっくり眠れそうだが、まだ……ね。
そうだな。今夜は寝る前にお酒でも飲んで、ゆっくり休むのも良いかもしれない」
「分かりました。そちらの方は、準備しておきます」

私ももう少し、長く眠らせて貰うべきだったのだろうか。まあ、それも今夜までの辛抱……のはずだから。
そう。夜までの、辛抱。



~~



遠のいていた意識が戻ってきた時、相変わらずベッドの中は姉さんの匂いがしていたけれど、
薄暗かったはずの部屋の中は、カーテンから入りこんだ光のお陰で明るくなっていた。
どうやら雨は眠っている間に止んでしまったみたいだ。けれど、部屋の中に入る光は何故か少し赤い。
これは、夢なのかなって。そう思ったけど……眼を擦ってみて感じる心地よさと僅かな痛みが、夢じゃないことを教えてくれた。……どうして、赤いんだろう。

体を起こし、かすむ目を時計に向けて……飛び起きた。昼の時間をとっくに過ぎていた。
既に針は夕方を指していて、急いで開けたカーテンの向こうでは、雲間から何とか顔を出した夕日が、山の端へとかかろうとしていた。

確か、フランドールはご飯の時にまた来ると言っていたはず。そう思って、部屋を出て居間へと向かうと、カーテンを閉じ切った暗い部屋の中、
ちゃぶ台に寄りかかって眠っていた。……姉さんは、居ない。ちらりと台所を覗いたが、夕食と思しき物の準備こそされているものの、
こちらにも居ない。お風呂場も、同じ。準備だけできている。姉さんの部屋にも、ベランダにも。やっぱり居なくて。
不安になった私は、眠っていたフランドールを揺すり起こした。

「……すみません。眠ってしまって」
「良いんだけど、お姉ちゃん知らない?」
「えっと、椛さんの所へお話をしに行くって言ってました。夕方には戻るそうです……けど、まだ帰って無いですか」
「うん。……そっか。椛さんの所か」

相談に行ったのかな。それとも単純に、留守にするからかな。私も少し、椛さんと話しておきたかった。
昨日は少しキツく言われたけれど、何だかんだ、相談を持ちかけたらいつもちゃんと応えてくれるから。
大丈夫かな……って。きっと、私がそう尋ねたら、大丈夫って笑ってくれるんだろう。

少し、心細いな。

「あの、お昼ご飯なんですけど、すっかり眠ってしまっていたので、その。ちゃんと眠って貰おうってことになりまして」
「……そっか」

ちゃぶ台の上に置き去りだった急須を持ち上げた。中身はあったのだが、すっかり冷えてしまっていた。
新しいお茶を淹れようと台所へと入って、お湯の準備をしてみれば……どうやら、夕食は鍋らしく、
温め直せばすぐにでも食べられるという所まで準備は終わっていた。夕食の後に出発するからか、
炊かれていたご飯は既におにぎりへと形を変え、覆いをしたお皿の上に並んでいて。お釜も既に洗われていたが、それなりに乾いてしまっている。
姉さんが出発してからは結構な時間が経ってしまっているのだろう。



「飲む?」
「頂きます」

新しいお茶を淹れて戻ると、フランドールはまた、うとうととしていて。
私が腰を下ろしてからやっと気付いたらしく、私のひと声にはそう返してた。

しばらく、お互いに何も言わなかった。彼女の方はずっと俯いて何かを考え込んでいて、
私は……思い返してた。昨日の夜のこと。お昼のこと。朝のこと。そして、彼女が来た日のこと。
彼女が来た日の夜に、姉さんは私に気づいて欲しいことが二つあるって、そう言っていた。
あの時引き合いに出していたのはレミリアのお話。頼み方がーとか、言ってたっけ。

一つは、何となく分かったんだ。それは同じ姉という共通点を持っていること。
でも、もう一つは分からない。妹の……フランドールや私のことで悩んでいるってことが二つ目、なのだろうか。
いや、それだったら姉さんは、姉だからと一括りにしてしまうだろう。
後一つは……何なんだろう。

「ただいまー」

玄関でドアの開く音と同時に、そんな姉さんの声が家の中に響いた。

「おかえり」
「おかえりなさい」

靴を脱ぐ音が聞こえて……廊下を歩いてくる音からすると、少し機嫌が良いらしい。鼻歌まで歌っている。
そのままの足取りで洗面所の方へと向かって、手を洗って。居間へと戻ってきた姉さんは私の方へと顔を向けると、

「ちゃんと眠れた?」

と、そう言って笑ったのだった。私が頷けば、姉さんも頷いて……鼻歌を歌いながら、そのまま台所へと行ってしまって。
どうやら、夕食の準備を始めた様だった。日はまだ沈み切っていないけれど、今日は早めに食べてしまうらしい。
お風呂に入ったりしなきゃいけないこともあるからだろう……と、そんなことを考えていると、向かいに座っていたフランドールのお腹が小さく鳴った。
恥ずかしかったのか、顔は平然としていたけれど、耳は少し赤くなっていて。私は黙って、空っぽになっていた彼女の湯のみへとお茶を注いだのだった。

台所から聞こえていた姉さんの鼻歌は、再開された料理の音ですぐにかきけされた。
姉さんの様子が知りたかった私は台所へと向かい、使うと分かっている食器を棚から取り出しつつ、ちらりとその背中を眺めた。
……ちょっと、ホッとする。椛さんが元気づけたのか、それともフランドールがそうしたのか。それは、分からないけれど。
胃のあたりにずんと来ていた重さは、ちょっとだけ消えてくれた気がした。

ちゃぶ台の中央を開け、小さな取り皿が一人に一つずつ。湯のみも、一つずつ。
恐らく姉さんが座るであろう所と、フランドールが座っている所の間へと作り置きのお握りのお皿を置いて、
今は空っぽの取り皿へとそれぞれの箸を置いて行って。そこまですると、台所から姉さんの声が響いた。

「真ん中あけておいて。後、危ないから入り口から離れてて」

毎度毎度、お鍋の時にかかる声。勿論のことながら、この声をいつも聞く時には既に準備は終わってしまっている。
だから、大丈夫ととりあえず返した後、私もフランドールも、ずっと座って待っていた。

少し古い文さんの新聞を下敷きに鍋を置いて、姉さんが少し疲れた様な声を漏らしながら腰を下ろして。
三人揃って手を合わせた。……どうやら姉さんも相当にお腹が空いていたらしい。手を叩く音で誤魔化していたが、お腹の方から何か聞こえた様な気がした。
ちらりとお鍋の中を覗き込む。葱に豆腐に鶏肉に……鍋だったことは知っていたのだが、具までは確認していなかった。何だか、やたらと種類も量も多い。
三人分だからかと思ったけれど、それにしても多い。ここに更にもう一人、椛さんを連れて来たって満足に食べられるだろう。

「使わなきゃいけない食材全部入れたのよ。だから、ちょっと多いけど。でも、皆お昼ご飯抜いてるから、何とかなるでしょ」
「食べて無かったの?」
「……お夕飯を早めにする予定だったの。本当はもうちょっと早く帰ってくるつもりだったのよ。
でも、椛さんを探すのにかなりの時間を使っちゃってね。あちこち飛んだからちょっと冷えたし、疲れたわ」

そう言いながら早速と言わんばかりにお玉を手にとって。お鍋の端の方で塊の様に積み重なっていた白菜の層を剥ぐように攫ってた。

「もう、遠慮しないでどんどん食べちゃって。お腹が膨らむよりも前に食べきらなきゃいけないから」

どうやら、作り過ぎは自覚しているらしい。



「お鍋をこうして食べるのは初めてです」

一通り皆が取り皿へと好きな物を取った所で、フランドールが嬉しそうにそう言った。
……それは、一緒に食べる相手が居なかったということだろうか。それとも、鍋料理自体をそもそもやらないのか。
はたまた、地下までお鍋を運ぶのは面倒だから、独りだけいつも違う料理だったのか。ちょっと、分からない。
とりあえず、レミリアが一人で鍋をつついている姿は想像しづらかった。
フランドールのは……目の前に居るからか、ああ、こんな風になるのか、とすんなり受け入れてしまえたけれど。
彼女は、白菜をかなり多めに取っていた。

「白菜、すきなの?」

そう、私が尋ねてみれば、

「うん」

と、笑いながら首を縦に下ろしてた。

「冬になると美味しいし。いつも一緒に居る子とも話したけど、大根とか、白菜とか。甘くて美味しいから」

なんて。そんなことも言っていた。
……どちらかというと、野菜よりもお肉とかばかり食べてそうな印象があるんだけどなぁ。
勿論今見てもお肉を食べていない訳じゃないんだけど。

「あ、でも。大根おろしはまだちょっと、苦手で」
「辛いから?」

大根おろしか。昔は何であれが良いのか私にも分からなかった。
椛さんが魚を採ってきたりすることもあったから、焼き魚を食べる習慣は結構多かったし、今でもあるのだけれど、
椛さんが毎度毎度すり下ろしてはちょんと載せるのを理解できなかったんだ。
魚臭さが消えるとか、さっぱりするとか。そういう理由で載せる人は居たけれど、私は魚臭いと感じたこととか無かったから……。
今でも、そんな風に思ったりすることが無い。でも、無いなら無いで、何だか寂しい気はする。
私が作るようになってからも、私自身がすり下ろしたりするし。

「辛いのも嫌いじゃないんだけど、辛いのにも色々あるから、その」
「芥子とかも駄目な感じ?」
「あまり得意じゃないんだけど……えっと。おでんの大根には、芥子をつけて食べるから……うんと、何て言えば良いんだろう」

言葉にはできてなくても、何となく言いたいことは分かる。
私も同じような物だからだ。つけて食べたい物は私にはハッキリしていて、それ以外にはあまり合わせる気にならないんだ。
おでんの他には精々、納豆位だろうか。他に食べる機会としてあったのは……昔、八雲さんが持ち込んだ、蓮根に合わせた物位。

「昔の穣子みたいね」

一人黙々と食べ進めていた姉さんがそう言って、次の具をまた攫いつつ笑った。
確かに、そこだけを見るとそうかもしれない。

「いろんな物が料理できるようになったら、たぶん今よりももっと沢山の物が食べられる様になるんだと思う」
「それも、一緒かもね」
「そう、かもね」

フランドールが新しい具を攫いに行って、ほくほくと食べ進める。満遍なく具を取ってはいるけれど、やはり相変わらず白菜が多いみたいだ。
……でも、鍋を覗いてみると、白菜はあまり減った様な気がしない。どんだけ入れたんだ。私も二杯目を貰ったけれど、
まだ夕食が始まったばかりなんじゃないかと思ってしまう位には沢山残っていた。

「ささっと、食べちゃわないと……ね」

そんな姉さんの声が、小さく響いた。



「い、十六夜さんが来るまでにお風呂入ろうと思ったんだけど、無理かしらねぇ」

最初は楽観的に食べていたフランドールも、少しして焦る様に食べるようになって。
三人でやっと鍋の中身を片づけた時には、すっかり皆動けなくなっていた。

「ごめんなさいね。いけると踏んだんだけど」
「入れ過ぎ」
「だ、大丈夫です……」

最後まで頑張ったのは勿論姉さんだ。最後の方はたった一つのお握りを相手するのにも、時計の針が一文字分動いてしまう程には固まっていたけれど。

「私が洗ってくるから、二人はお風呂に……もし、入れそうなら」
「……少ししてから」
「……ちょっと今は無理そうです」

三人それぞれ壁の方へと場所を移って、背中で壁にもたれかかってじっとしていた。
今は流石に入る気がしないというか、入れる気がしない。動きたくないのだ。
恐らくは、座っているよりも立ち上がっていた方がお腹の負担は少ないのだろうけれど、立ち上がる気力すら、思い切り削げ落とされてしまってた。
姉さんでさえ、口では洗い物をすると言っているけれど、さっきからぴくりとも位置は動いていない。

そんな中、コンコンという音が玄関から響く。姉さんが顔を青くして、はい、と短く返事をしてよろめきながら立ち上がって。

「どうしよう。来ちゃった」
「私も行きます」

焦る様にそう言っていた。後を追う様にフランドールも立ち上がって、先に廊下へと出た姉さんを追って行った。
……私は動く気がしなくて、ずっとそのままだ。

玄関のドアが開き、十六夜さんの声が響いて。少しの間風の音も聞こえていたけれど、ドアの閉まる音と共にそっちの音は消えて行った。
しばらくの間、姉さんと十六夜さんが話をしていた様だけれど、あんまり大きな声でなかったことに加えてお腹に血が集まっているせいか、
まるで会話は頭に入って来ない。少しして姉さんが戻ってきて、また壁に寄りかかる様に座って。
そこからはフランドールと十六夜さんが、少しの間言葉を交わしてた。

「ちょっと待って貰うことにしたわ」
「……うん」

姉さんは小さな封筒を一つ、貰っていた。差出人は……恐らくレミリアだろう。
封筒の背には、赤く、もりっとした紋様が張り付き封がしてあって、姉さんはそっと剥がそうとしていたけれど、
上手く剥がすことができず、結局割れてしまっていた。中には小さな紙が一枚入っていて、しばらく眺めていた姉さんは、

「あらあら」

と、そんな声を漏らしつつ手紙を畳み、封筒の中へとまた戻していた。

「この手紙も持って行かなくちゃ」
「何だったの?」
「招待状よ。館へのね。お礼をするって。……他にも、ちょっと書いてあったけど」

そこまで話した所で、お邪魔しますという声が玄関から響いて。
フランドールと、十六夜さんが部屋へと入ってきた。……何だか、宴会場で見るより少しだけ小さく感じる。

「事情は大方飲みこめたのですが……体調の方は、大丈夫ですか?」
「ちょっと休んでからでも大丈夫ですか?」
「ええ、勿論です。もしよろしければ、洗い物を代わりにやっておきましょうか?」
「流石にお客様にそれは……と、言えたら嬉しいんですけど、お願いしても良いですか」

姉さんがそこまで言うと、十六夜さんはにっこりと笑って一礼して。そして、消えた。
勿論、それが十六夜さんお得意の時間を止める力なのは分かっているけれど、
普段使う分には止めたとしても物を隠したり出したりする位でしか見ないからか……あんまり心臓に良くない。
消えるのならまだ良いかもしれないけれど、もしもここが例えば真っ暗な部屋の中で、急にパッと出て来たのなら。
ひょっとしたら、びっくりしてお腹の中身を戻してしまうかもしれない。

十六夜さんと一緒に消えた食器やお鍋達だったけれど、消えた後に音はしなかった。
ただ、何事も無かったように十六夜さんがそのまま台所から戻ってきて、ただ、笑って。
それからフランドールの横まで歩くと、並んで座ったのだった。

「ありがとう」
「いえいえ」

姉さんの言葉にも、やっぱりただ笑って答えるだけで。相変わらず……不思議な人だった。



~~



咲夜は迎えに行ったっきり、中々戻って来なかった。
送り出す時は山の天狗に見つかると困るから、フランを連れて行くのにも時間を止めていたこともあって、
帰ってくるのがとても早かったのだけれど……もう、その時よりも3倍近い時間が経っている。
まさかフランの身に何かあって、それで帰って来られないのではないかとも思ったが、それならそれで既に何かしら報告しに戻ってきてそうな気がして。
何だか妙に落ちつかなくて、私は門の詰め所の中でじっと待っていた。
フランが戻ってくる関係上、門の子達のほとんどが詰め所の中へと戻って来ていて、今は美鈴が皆の代わりに外に居る。

『帰ってきたらノックしてお知らせしますよ』

と、一言聞いてはいるのだけれど……その音が響く気配はまだしない。

「はふっ」

代わりとばかりに響いてくるのは、メイドの子達から発せられるそんな声だ。
今ここに居る子達は館から運ばれてきた熱々のグラタンを食べている所で、見ただけで躊躇う様な湯気を放つじゃが芋や玉ねぎ達と格闘中だ。
かなり躍起になって食べている。別にグラタンは逃げる訳じゃないんだが。……その一方でやけに静かになっている子達も居る。
単純に、その格闘に負けた子達で……口に水を含んだまま、じっとしてた。

「お嬢様はもうお夕飯は召し上がったのですか?」
「ええ。皆よりも先にね」
「そうでしたか」

その静かな子達と同じ様に、私も玉ねぎに負けた訳だが……その痛みももう引いてしまうという位前に食べたのだ。
咲夜が急いでいた関係もあって、日が沈んだ直後位だったろうか。私が食べ終えてすぐに咲夜は行ってしまったから、
ひょっとしたらもう今夜はお茶を飲むことは無いかもしれない。お酒は、準備してくれているみたいだが。
ちなみに、今私が座っているテーブルの向かいには、まだ手をつけられていないグラタンが一つある。勿論、それは美鈴のものだ。
先に食べて構わないと伝えはしたのだが、

『これが仕事ですから』

と……私が主なはずなのだが、そう言ってそのまま門番をしに行ってしまっている。お陰で時間が経てば経つほど、申し訳無さで一杯になってくる。
中身のじゃが芋や玉ねぎは、ここに居る皆の様子からまだ熱々なのが分かっているのだけれど、
流石に表面のチーズからはもうほとんど湯気があがらなくなってしまっていた。

『いざとなったら暖炉で温められますから、大丈夫ですよ』

とも言っていたが……それは、何だか違う気もする。



やっとノックの音が聞こえた時には、周りの皆はすっかり料理を食べ終えてしまっていた。
皆、緊張を紛らわせるために小さい声でひそひそと話をしていたためか、そのノックの音は小さいながらも良く響いて。
皆がその音にぎゅっと口を閉じたのだった。

「じゃあ、失礼するわね」

そう残してドアを開けると、美鈴が眼の前に立っていて。すっと手を差し出すと、小さな手紙を私にくれたのだった。

「妹様が戻って来たのですが、件のお客様も一緒にお越しになられてます。こちらの手紙は、妹様からお嬢様にと。急いで読んで欲しいそうです」

そう言われ、折りたたまれていたその紙を開いた。……とても久しぶりに、フランの書いた文字を見た気がする。

「……ふむ」

とりあえず最後まで読み終えて、持っていた手紙をポケットの中へと差し込んで詰め所を出た。
どうやら美鈴も手紙を貰っていたらしく、詰め所のドアのすぐ横で読んでいて、咲夜にフラン、そして客人の二人は風から隠れるように門の傍へ立っていた。

「おかえり。事情は分かったから、とりあえず館へ皆あがって頂戴。咲夜は応接室と客室の準備をお願い」
「もう、全て準備できてますわ」
「なら良いわ。さ、行きましょう」



そもそも館に招待する輩が居ないというか、来る輩はそもそも招待していないというか。
そんな関係もあって、日頃滅多に使うことの無い応接室。使うことが無さ過ぎて、実は私自身この部屋の勝手があまり分かっていないのだが、
私達姉妹に客人の姉妹が腰をかけて休むには十分な大きさのソファがここにはある。
部屋の隅には暖炉もあるが……火がついているのを見た記憶が数える程しかない。

「突然夜にお邪魔して申し訳ありません」
「あら、ここは吸血鬼の館だから心配無いわ。真夜中は他の働いてる子達が困るだろうけど」

謝る静葉嬢。この前話していた時の様な、敵意の様なものはもう全く感じ無い。
やはりあれは、横に居る妹の為に無理に作った物だったのだろう。

「今回はありがとう。急なお願いを引きうけてくれて。フランも良くして貰えたようで何よりだ。
ここに来た理由はさっきフランから手紙を貰ったから、多少は把握しているよ。しかし、今から何かをするにはもう遅いし、
それや挨拶は明日に回すとして……今日はゆっくり休んでくれ。咲夜に部屋を用意させてある」
「お世話になります」
「部屋の外にメイドを待機させておくから、必要な物があれば言い付けてやってくれ」

……と、ここまでの私の対応は手紙で大方フランからお願いされていた内容だ。
どうやら咲夜にも手紙は渡してあるらしい。あちらには、二人が別々の部屋になるようにして欲しいだとか、そういうことが書いてあるみたいだ。
そしてここからの私の役目は静葉嬢のサポート、ということみたいなのだが。

「では、案内しますわ」

咲夜が二人に笑いかけながらも私にちらりと視線を向けて。私が頷けば咲夜も僅かに頷いた。
招かれた二人が咲夜に連れられて部屋を後にしてから少しして、横に腰を下ろしていたフランドールが口を開いた。

「いきなりでごめんね」
「それは構わない。招待状も出した相手だからね。でも、あの手紙だけじゃ分からないわ。だから、貴女の口から改めて説明して欲しいんだけど」

フランは小さく頷いて、改めて私の対面に座りなおすと、静かに語り始めたのだった。



楽しいことは、私が思っていた以上に沢山あったようだ。泣いたりも、したそうだ。
フランの口から溢れだすお話の端々に色んな気持ちが混じりこんでいて……そこに偏りのあった昔を思い出す。
自分本位で動いていた、少し前までのこの子のこと。

この子と話をした経験は無かった訳じゃない。むしろ、回数はそれなりにあったのだ。
そんな会話の中にも喜怒哀楽の感情が漏れだすことは別に珍しく無かった。
ただそれは全て、フラン自身がどうだったか、というお話ばかり。他の誰がどうなっていようが、そういうことはどうでも良かったのだ。
フランにとって重要なことは、フランのことだけ。分かり易いと言えば、とても分かり易かった。

「それでね。静葉お姉さんは、穣子お姉さんにいつか、置いて行かれるんじゃないかって。そう思うのが怖かったみたいなんだ。だから……」

そんなフランが今は、自分以外の誰かのことを気にして、悩んでいる。この前に会いに行った時は私の心配までしてくれたっけ。
望んでいた事ではあったのだけれど……本当、見えない所で成長してくれている。もっともっと成長してくれるのなら、どんなに嬉しいことだろうか。
……けれど。そんな会話の話題にあがる静葉嬢と同じように、置いて行かれるのではないかと思う気持ちも、私は確かに持っている。

ただ、私のそれは十分に抑えられた気持ちだ。それを支えているのは、この子を締めつけ続けた罪悪感だ。
私はこの子の成長を妨げていた張本人だ。元凶だ。その事実は、ずっと変わらない。
とても永い間、止め続けていたのだ。そして、その止まっていた成長の歯車を回したのも、私では無かったし……ね。
だから、成長して欲しいと願う気持ちも、根っこにあるのは姉としての思いだけじゃない。そんな、罪悪感もあるから。

最後には私を超えて欲しいんだ。いや、超えるのは分かっている。少なくとも、こんな酷い事ばかりしてきた私を……。

「……で、穣子お姉さんの方は……お姉様?」
「うん?」
「……ううん。何でも無い。それでね……」

静かに続く、フランの言葉。今の私にまで気を使ってくれているのか?

「……だから、私の力だけじゃ足りないって思ったんだ。それで、お姉様の力を借りたくて一緒に来て貰ったの」
「分かった。できる限り何とかしてみようとは思うけど、穣子嬢の方はフランに任せるよ。怖がられているとは言っても、話は通じるのだろう?」
「うん。ちゃんと、応えてくれるから。だから、頑張る」

本当はもう、抜かれてしまっているのかもしれない。



フランと一緒に応接室を出ると、すぐの所で咲夜が待っていた。

「ありがとう」

見つけたフランが咲夜にそう声をかけ、咲夜がにっこりと笑った。

「階を分けて二人をそれぞれの部屋に案内しました。穣子さんが下の階の方へ、静葉さんは上の階の方にいらっしゃいます」
「分かった。静葉嬢には今から少し話をしに行くから、飲み物を頼むよ」
「あ、私も穣子お姉さんと話をしてくるから、お願い」
「畏まりました」

厨房の方へと向かった咲夜を見送って、二人でしばらく並んで廊下を歩いた。
何か考え事をしているのか、フランは俯いたまま話そうとはしなくて。いよいよ階段の所までやって来ると、私の方へと振り返った。

「お姉様」
「うん?」
「……いつも、ありがと」

そんな言葉を残して……すっと、行ってしまって。私はその言葉に何も返すことができないまま、ただ背中を見送った。
ありがとうと言われても、私は……何ができてきたのだろう。そんなもやもやとした気持ちがこみ上げてくるのを感じながら、私は階段を上ったのだった。

私が静葉嬢の部屋へと辿りついた時、幸いまだ部屋から灯りが漏れていた。
どうやらまだ眠りについては居ないらしい。お陰でノックするのはとても楽だった。

「はい」
「私よ。入っても良いかしら」
「どうぞ」

小さな返事にドアを開け、後ろ手にそっと閉めた。
静葉嬢は……どうやら着替えをしたその後の様で、先程見た赤色の服では無く、オレンジ色の温かそうなパジャマに身を包んでベッドの上に座っていた。

「少しお話をしたいのだけど、疲れては無いかしら」

部屋の真ん中にあるテーブルを指してそう声をかければ、彼女はにっこりと笑って立ち上がって。それから、椅子へと腰かけた。
私もその対面へと座ると、早速とばかりに切り出した。

「この前は断りづらいお願いの仕方をしてしまって、申し訳無かった。そして、ありがとう。
まだ全部をあの子の口から聞けた訳じゃないけれど、良い経験になったみたいだ。あの子の成長を感じられることが嬉しいよ。
……さて。そのフランから、貴女が妹さんの成長を怖がってたって事を聞いている」
「すみません。招待されたのに、こんな状態で」
「そんなことは気にしなくて良いんだ。私にだって、無い気持ちじゃないんだよ。私の方はただ、成長して欲しいって気持ちがたまたま勝っていただけさ」

私の言葉に、とても長い深呼吸の音が聞こえて。それから静葉嬢は口を開いた。

「正確には、成長が怖かったんじゃないんです。成長した後で、置いて行かれるんじゃないかって。そう考えるのが、怖かったんです。
勿論、いつかは私を追い抜くんだろうなって思う気持ちはあったんですが……でも、いざ。あの子が私と視線を並べた日。
あの子に、初めて……姉さんと呼ばれた日。私は、耐えられなかった。恐れていた日が急に間近に迫った気がして、怖くなって。それで、泣いてしまったんです」

ぽつぽつと語る静葉嬢。確か、そもそもこの問題を解決したいと願い出たのも、フランによればこの静葉嬢らしい。
宴会で見ていた姿から考えれば、それなりに仲の良い姉妹にしか私には見えなかったし……あれが演技であったとはとても思えない。

「私の心の弱さが原因ではあるのですが、それまで私はあの子の前で泣くことが無かったものですから、ショックだったみたいで。
しばらくは私と向き合うのも怖がっていました。私の前だと何も喋れなくなってしまったり、パニックになって過呼吸を起こしたり。……とても、つらかった」

そもそもなんでフランは彼女のお願いを聞こうと思ったのだろう。
初めて会った相手だったからか、それとも初めて手助けして欲しいとお願いされたからか。
沢山理由はあったのかもしれないけれど、急いでどうにかしようと手紙まで用意したのだ。
たぶん、この短い時間の間に沢山のことを考え、悩んだのだろう。

「だから、文字で気持ちを伝えたりして。結局は、それを機に何とか喋ることはできるようになったのですが、
私の気持ちを知ったあの子は、あの日のことを全部、自分一人で背負いこもうとしたんです。原因は私の至らなさなのに。
あの子がそのことで塞ぎこむ度に、私は……何も、してあげられなくて」
「そして、気にかければかけたで、妹さんが気にしてくれるなと、貴女に言う訳ね」
「はい。その言葉を受けるのが、つらいんです。私には無理です。気にしないなんて……そんな」

その言葉を最後に、静葉嬢は口を閉じ俯いた。……さて、どうやって背中を押したら良いものか。
考える為に眼を閉じれば、部屋の外で僅かに台車を引く音が響いて。その音が止んだ所で、一度手を叩いてみた。
パン、という音に静葉嬢が驚いて肩を震わせ、私の方を見つめ……それから、テーブルの上を見つめた。
どうやら、音はちゃんと廊下まで伝わったみたいだ。いつの間にか、ほかほかのココアが二つ置いてある。

「頂いても、良いのですか」
「勿論だとも。好きなように飲んでおくれ。もしもまだ飲みたかったら、用意させるから。……それで、
貴女はそんな妹さんとの間に壁を感じてて、その壁が無くなって昔の日常を取りもどせたらと、そう思ってるということで良いのかしら」

かなり熱いはずのココアをひと口飲んだ後で、私の問いかけに彼女は頷いた。
閉じた口元に少しだけココアが残ってて、落ち込んだ顔が余計にしょんぼりとして見える。
……昔と同じように、か。穣子嬢が一人で全てを無理に抱え込もうとして、気にして欲しくないというからには、
恐らくは穣子嬢も同じことを考えているのだろう。関係が拗れてしまったことをお互いがお互いで認識していて、
お互いがお互いに責任を全部背負いこもうとして。今が、恐らくその結果なのだ。……良い仲じゃないか。
結果が伴わなかったことは悲しいことかもしれないけれど、お互いがお互いのことをちゃんと思いやっていないと、そんなことはまず起こらない。

だから。この姉妹が今までやってきたことを否定してはいけない。フランからはこの関係が長く続いているらしいと聞いている。
その長い間もお互いのことを考え、思い続けていたのなら。形はどうであれ、それはきっと大切な日常の一部だったはずなのだ。
もしもこれを否定してしまったら。そんな前例を作ってしまったなら。次に何かあった時に、またお互いにつらい思いをすることになる。

「貴女も、妹さんも。なんで全部責任を負いたがるのかしら」
「原因は私です。それに、穣子は……良かれと思っていた訳ですから」
「妹さんの方は、それで貴女が悩んでいる姿を見るのがつらかったからでしょうね。気持ちは褒めたいけれど、そのやり方は非常にまずいと思う」

私の言葉にココアの色が未だに残る唇をきゅっと噛んで、静葉嬢が私を見つめた。

「どういうことでしょう」
「責任を完全に一人で負いきることって、とっても難しいことよ。勿論、不可能とは言わないわ。でも、仮にね。
貴女が今回、無事に一人で責任を負うことができました。めでたしって。そうなった日が来た後のいつの日にか、
今度は妹さんの方が原因で何か大きな問題が二人の間で起こってしまった時。妹さんはどうすると思うかい?」
「私と同じこと、するでしょうね」
「うん。それも、気持ちは褒めたいし、上手く行ったらたぶんそれは素晴らしいことだとは思う。でも、でもだ。
もし上手くいかなかったらどうなると思うかい。無理して背負いこもうとして、それでも耐えられなかったその時のこと」

私へと向けられていた彼女の視線が、すっと逸れた。
きっと、分かってはいるんだと思う。貴女が妹を思えば思う程。妹が、貴女を思えば思う程。

「きっと、耐えられないならもっと無理を重ねるよ。それで駄目なら、もっともっと重ねる。
……たぶんそれは、私だってそうしてるよ。だから、どこかで折り合いをつけた方が良いんじゃないかな。
1割だけでも。1分だけでも良い。妹さんの背中を、借りると良い。そしたら次に妹さんに何かあった時も貸しやすいだろう?」
「……そうかもしれません」

もっと言えば、そんな割合も曖昧で良いんだ。相手が無理なら、自分がもうちょっと背負えば良い。
まだ耐えられそうなら、背中を押して顔を立てれば良い。曖昧なら、黙っていてもそれはできるのだから。
それに、こっちの方がこの姉妹にとっては楽なはずなんだ。この姉妹がやってきたのは責任の所在のなすり合いじゃない。
奪い合い、だったから。だから、その手を少し緩めるだけで。もっと言えば、お互いがお互いにこの方法で良いと納得しさえすれば、それで終わりなんだ。
問題は……フランの方が今、どんな説得をしているか、だ。あの子も、お付きの子とはそう言う関係を築けていると思うから。
だから心配は無いと、思いたいんだけど……。



~~



「これが……」
「そう。これが、お姉ちゃんから貰った手紙。……持って来たんだ」

中々上手く切り出すことができずに、咲夜から差し入れられたココアを二人で飲みながら、
昔のお姉さんのことを話している内に、話題は静葉お姉さんの呼び方のことに移った。
ことのきっかけとなった、お姉さんの呼び方。静葉お姉さんからお話は聞いたのだけれど、あの時でさえお姉さんは落ちつかない様子だった。

お姉ちゃんか。それとも、お姉さんか。
ほんのちょっとの言葉の違いだけれど、きっとお互いに色んな意味があったんだろうなって。
私はまだ、お姉様としか呼んだことないけれど……私もいつか、呼び方を変える日が来るのかな。
その時は何て呼ぶんだろう。自分でも、あんまり想像がつかない。

「読んでも良いのですか」

そして話題が呼び方へと移った所で穣子お姉さんが取りだしたのは、その手紙だった。
静葉お姉さんから送られた、呼び方とか悩みについて書いてあるらしい手紙。

「何となくだけど、ね。貴方なら、分かってくれそうな気がしたんだ。何で、私がお姉ちゃんって呼んでるのか」

そんな、穣子お寝さんの寂しげな声を聞いて。本当に開いて良いのか戸惑ったけれど。
目の前できゅっと唇を噛んだ顔を見るのはつらくて、私は差し出された手紙を受け取って、開いたのだった。
……ごめんね、という言葉から始まっていた。が、そこから先を読み進めるのは、少し難しかった。
とても、字が震えている。お姉さん達のお家にあった写真を挟んでいた本には、日付とか、誰と何をしていた時のものか、とか。
そんなことが綺麗な文字で書かれていたけれど……恐らくはあれが静葉お姉さんの本来の字なのだろう。

と、するなら。これは……本当にお姉さんの字なのだろうか。
少なくとも、こんな文字を書いている姿を私は想像できなかった。
もしも書いているのを横で見ていたら、落ちついてって。間違いなく、そう声をかけると思う。

「読める?」
「……何とか、読めます」
「うん。私もそうだった。じゃあ、もう一つ聞くよ。日頃、お姉ちゃんがどんな字を書いてると思う?」

お姉さんが持っていたコップから、カリカリと爪の音が響く。

「それが、私の呼び方一つでこうなったの。それでも……それでも呼び方を変えたいって……思う?」

首を、横に振った。……どうしよう。説得しにきたはずなのに、立場が逆になってしまった気がする。
でも、でも。否定できない。私はお姉様の文字を見る機会なんて滅多にないけれど、もしも私が原因でこんなにも文字が荒れる程憔悴してしまうのなら。
流石に、考えてしまう。もしもそうならずに済みそうであるのなら、それで良いじゃないかって。……そう、考えてしまう。

「呼び方でこれだけ変わったのに、接し方まで変えてしまったら……ということですか」
「うん。もう、泣いて欲しくない。無理して欲しくない。だから、少しでもそういう思いをさせてしまうなら。……もう、使いたくない」

重たい溜息が、穣子お姉さんから漏れて。熱くてまだ半分も飲めていないココアの匂いが、ふっと舞った。

「でも。お姉ちゃんは、変わろうとしてる。終わらせたいって思ってる。だから……変えなくちゃいけないの」

きゅっと自身の肩を抱いて、心細そうな声で穣子お姉さんは言った。目線はどこか遠く、まるで自分に言い聞かせるように。
ここに椛さんが居たのなら、きっと穣子お姉さんの肩を抱いて励ましていたのだろう。でも、私には……できない。
まだ、怖いって思われていることに違いは無いはずだから。……でも、励ましたい。

「本当は、分かってるの。きっと昔の様には決してなれないってこと。私はお姉ちゃんの怖いものを知ってしまったし、泣き顔も見てしまった。
それが頭の中にある以上は無理なんだって。もしも記憶を消せたなら、違うのかもしれない。……その時は、貴女とも普通に付き合えてたのかもね」

消え入りそうな声でお姉さんが続けた。確かに言う通りかもしれないけれど、そんな方法は間違ってるってことは私にだって分かっている。
そもそも、それは一人の記憶を消しただけでは駄目なんだ。お互いでも足りない。お姉さん達の周りには色んな人がいて、
色んな関係の中で過ごして来たのだ。例え、その周囲の皆の記憶を消したとしても……完全な元通りは、無理だと思う。
たぶん、お姉さんだって分かってて言ってるんだ。

「貴女はそう思ったこと、無かったの?」
「私は、悪い部分も知ってもらった上で認められたいです」
「……強いね」
「ううん。ただ、初めてお伴の子に認めて貰えたって、そう思った時。とっても嬉しかったんだ」
「……そっか」



~~



フランが部屋を出てきたのは、私と静葉嬢の話が終わって半刻程の時間が経った頃。
心配そうに様子を見に来た咲夜から新しいココアを一杯貰って待っていたのだが、随分と体は冷えてしまった。
客が来ているということで廊下は静まり返っていたが、相当小声で話をしていたのか、二人がどんなことを話していたのかは私には分からなかった。
ただ、あまり上手くいかなかった様だ。フランは使い終えたらしい二つのコップを持っていたが、とても落ち込んだ顔をしていた。

待っていた私に気づいて顔をあげ、声を出そうとしたその口を手で制して。
静かに、二人並んで廊下を飛んだ。やって来たのは厨房だ。……待っていたと言わんばかりの様子で咲夜が出迎えてくれた。
既に夕食のお皿洗い等は終わったらしく、妖精の子の姿は無い。フランが居たから、そこは助かった。

咲夜に洗い物を任せ、私とフランは奥の小さなテーブルへと腰を落ちつけた。
腰を下ろした椅子が仄かに温かいから、恐らくは先程までここに咲夜が座っていたのだろう。

「こちらの方はある程度何とかなりそう。そっちはどうだったのかしら」
「……中立の立場に立って説得できればなって。帰るまではそう思ってたの。でも、穣子お姉さんの話を聞きながら、
自分だったらどうなのかなって考えてたらね。……それが、とても難しくて。背中を押す様な言葉も、見つけられなかった。
分からないでもないなっていうか、自分でもそうするかもって、そう思ってしまう所とかあって。強く、言えなくて」
「具体的には何の話だったんだい?」
「静葉お姉さんが出した、手紙のお話。私、さっき読ませてもらったんだ。……とっても、字が震えてたんだ。
呼び方を変えただけでそれだけ変わってしまう。付き合い方まで変える時が来たらどうなるかって、穣子お姉さんは心配してる」

手紙のこと、か。静葉嬢との話の中では全く触れなかったな。
……ひょっとして私は見当違いな背中の押し方をしてしまっただろうか。
てっきりお互いの責任の所在が問題なのかと思ってたが。これは、どうしたものか。
もう眠る様子だったし疲れた様子も見えたから、流石にまた戻って話すのも忍びない。

「私の方は、お互いに責任を負おうとしてるその姿勢の是非について話してたんだ。それしか、話せていないとも言うがね。
だから、手紙の方の話は、また明日……朝の食事は皆で普通に摂って、その後にでも時間を作って話しておこうと思う」
「そっか。私もそっちは、言ってないや。……他に何か、言ってなかった?」
「何も。既に寝る準備を進めてたから、長い時間引きとめる訳にもいかなかったし、そのまま切り上げてきたんだ」

洗い物を終えた咲夜が、新しい椅子を傍まで持ってきて腰を下ろした。
……やっぱりこの季節の洗い物は堪える様だ。手が少し赤くなっているけれど、温かそうにはとても見えない。

「明日の予定はどの様に組みましょうか」
「この館で普通に過ごして貰おう。少なくともお互いに気負い過ぎなのは分かってるからね。最終的に場を設けるにしても、まずは少し落ち着いてもらわないと」
「畏まりました。……ところで、一応の確認ですが、今夜のお酒はいかがなさいますか」
「あー……いや、今夜は止めておくよ。すまなかったね」

お酒、か。無事に片付いたら一人じゃなくてあの二人も交えてみようか。
あの二人の好みは……確か、宴会には芋焼酎を持ちこんでいたな。たぶん、この館にはストックが無い。
というかそもそも、この館にあるお酒のほとんどはワインだ。ワインは……大丈夫だろうか。
たぶん、穣子嬢の方は大丈夫だろう。あんな帽子をしていて芋焼酎を持ちこむのだ。苦手ではないはず。
……いざワインが苦手だったなら、その時に改めて咲夜に何か用意させよう。

「よし。今夜はここまでにしよう。咲夜、明日の準備は任せるよ。フランは話し合いの場をどう設ければ良いか、少し考えておいて欲しい。
私にはまだ分からないことがあるからね。こういうことをしておきたいってことが見つかったら、その都度教えて頂戴」
「……うん」
「そこまで心配しなくても良いさ。元より仲が良い姉妹なんだから。それは、貴女自身がその目でちゃんと見て来たのでしょう?」

励ますつもりで言いはしたものの、さっきからずっと考え込んでいて反応が薄い。
相手の気持ちを理解しようとするようになったのは諸手を振って喜ぶべきなのだが……相手の気持ちに飲まれてしまっているのだろうな。
けれど、それは大事な一歩のはずだから。

「きっと、一度真面目に言葉を交わす、それだけで解決すると思うから。じゃあ、また明日。先に眠るわ。おやすみ」

そうやって、成長するのだから。



~~



心の中にある整理のつかない気持ちにもやもやとしたまま、地下への階段を下りて自分の部屋へと向かう道。
誰も居ないのかと思う程に静かだったけれど、そっと自分の部屋のドアを開けてみると、廊下に僅かな光が漏れこんで。
思わず、ホッとした。帰る所に相手が居るというのは、何と安心するものなのだろう。
ひょっとしたら先に眠っているかもしれないと思って、そのまま静かに開けて覗きこめば、ベッドの上に腰を下ろし、彼女は笑っていた。

「お帰りなさい」
「うん。ただいま」

時間が時間であるからか、既に彼女はパジャマに着替えてた。私が返事をすれば、そのまま走って来てぎゅっと抱きついて。
咲夜から貰った温かいココアを飲んでいたはずの体が、もうすっかり冷えてしまっていたことに気づいた。
私がいつもこの服でどこが冷えるのかを熟知している彼女だからか、脇の下に手を差し込んでがっちりと抱きついて……動けない。
でも、心地よかったから……しばらくの間、私も彼女に抱きついていた。

「着替えても良いかな」

うたた寝しそうな位まで心地良さを貰った後で私がそう言えば、彼女は愉快そうに微笑んで。
それからパッと離れると、私の手を引っ張ってベッドへと座らせたのだった。このベッドも、久々の感触。
彼女の横で服を脱ぎ始めれば、彼女はただにっこりと笑いながら私を見つめていて。
ひょっとして、また裸で……いちゃいちゃしようってことなのかなってそう思っていたら、どうやらそれは違うらしい。
私が脱ぎ終えると、彼女はさっとベッドの中へと手を差し込んで、一式のパジャマを取り出した。

「温めてたんです」
「そっか」
「期待しました?」
「……ちょっぴり」

彼女に手伝って貰いながら、袖を通して行く。さっきの彼女の体温と同じ位だったし、少しだけ皺がついていたから、
きっと彼女はこれを抱いてずっとベッドの中に居たのだろう。着替え終わった所で彼女に抱きついてみると……顔が綻んでた。
そのまま二人でベッドに倒れこんで、ただただぼーっと見上げた天井。部屋の中にある蝋燭の炎が揺れているせいだろうか。
風の音も無く静かなせいだろうか。それとも、単純に、この子が横に居るからだろうか。
ほんの数日お姉さん達の所で御世話になっただけなのに、何だか妙に懐かしい。

「もうお休みになられますか?」
「うん。でも、ちょっと聞いて欲しいことがあるんだ。……もぐろっか」

優しく囁いてくれる声にそう返し、いそいそとベッドに潜った。やっぱり、ちょっと温もりがある。
真ん中から少しでも外れると途端に冷たくなってしまうけれど、それにもどこかホッとする。
彼女は部屋の灯りを少なくして暗くした後で、私を追ってベッドに潜った。
小さな欠伸を漏らしたその頭を撫でて、体いっぱいに抱きしめる。
……この子にはちょっと寒いかもしれないけれど、まだまだ温かさが欲しかったから。

「お世話になった方々がいらっしゃってるんですよね?」
「うん。仲の良いお姉さん達なんだけど……お姉さん達の間で問題があって、何とかしたいなって思ったんだけど、私には力不足だったから。
お姉様とか、咲夜の力を借りたら何とかできるかもしれないって、そう思って。お願いして来て貰ったんだ」

冷えてずきりと痛んでいた膝を、彼女が足の間へと取りこんで。段々と温まって行くのが心地良いのだけれど、温度差からか、じんと痛む。
私が知っている数少ない心地いい痛み。これ以外はと言えば、この子がたまにやってくれるマッサージ位だろうか。
掃除をしたりするのはこの子で、私は基本的にベッドの上でごろごろしているばかりだから、
本当は労わないといけないのはこの子の方なんだけれど、未だに力加減をどうすれば良いのか分からなくて、代わってあげることができないでいる。

「お二人の仲が難しいことになっていると、咲夜さんから伺ってるんですけど」
「仲は、良いんだよ。ただ、昔あった出来事をね、お互いに自分のせいだって思ってしまって。
それで、お互いに全部責任を背負おうとしてて。相手に無理して欲しくないからって思いとか、相手のことが大切だからとか。
色んな思いがあるんだけれど、その思いのせいでお互いが無理をして……お互いが潰れそうになってしまってるの」

それから、一つ一つを彼女に伝えていった。実際にどんなことが起きたのか、お姉さん達がお互いのことをどう思っているのか。
どうして私が力になろうと思ったか、二人のことを今どう思っているのか。
……黙って聞いてくれていたけれど、抱きついてくれていた手はまるであやす様に、私の背中をとんとんとゆっくりしたリズムを刻んでいた。

「……それで、何だかもやもやしてて。どうしたら良いのかなって。中立に立って、お姉さん達の仲を取り持てたらって思ってたんだけど。
でも穣子お姉さんの話を聞いているとね。……私もそうするんじゃないかなって、そう思う所があって」

彼女への説明が終わる頃には私の体温はすっかり彼女と同じ位になっていて、お互いにぎゅっと抱いていたはずの体は今はただ肩がくっつくだけ。
私が息を止めてみると、静かに上下する彼女の肩をすぐ近くで感じることができる。

「それはきっと、お嬢様が穣子お姉さんの気持ちに応えたいって想いの現れだと思いますし、同じ妹だからだと思うんです」

確かにそれは、そうなんだ。応えたい。応えられるなら、どこまでも。館に来て欲しいという私の誘いにも頑張って決断してくれた。
それに、怖いと言っていた私にだって、気持ちを理解してくれるだろうと思って貰えたからこそ、あの手紙も見せて貰えたんだって思ってる。
返して言えば……もうこの館の中で穣子お姉さんを支えられるのは、静葉お姉さんに頼りきれない今、私しか居ないんだ。

「だから、私はそういう共感はちゃんと立場として示して良いと思います。お互い深く触れることができないまま過ごして来たのなら、尚更です。
不安な気持ちをもっと不安にしないために。例え慰めでも、同じ気持ちを持つのは大事なことだと思いますから」
「うん。ただ、静葉お姉さんのこともあるから、できる限り中立で頑張るけど、それも考えておく」

肩で触れていた彼女の感触がふっと遠のいて、毛布の引っ張られる感覚に彼女の方へと体を向けた。
彼女は私を見つめていて、毛布の下で私の手をぎゅっと握った。

「ここはお嬢様のお部屋だから、今は良いんですけど……もしも、そのお姉さん達を支えたいって思ったなら。
笑顔で、支えてあげて下さいね。つらい顔や、悲しそうな顔は駄目ですよ?」
「そんな顔、してた?」
「……はい」
「……気をつける。ありがと」

彼女の言葉に何とか笑顔を作ってみて。それから目を閉じた。
お昼に少し眠ったからか、あんまり眠ることができないかもって思ってたけれど……安心感も、疲れもあったからだろうか。
すぐにふわりとした眠気が襲ってきて。漏らした欠伸に笑う彼女の小さな笑い声が聞こえた。
僅かにずれ落ちていた毛布がそっと首元までかけられる感触を感じて、お礼とばかりに手を握り返して。

「おやすみなさい」
「うん。おやすみ」

あのお姉さん達が無事に眠れているか心配しながら、私も眠らせて貰ったのだった。



~~



フランドールが部屋を出ていった後、すぐに灯りを落としてベッドに体を投げ込んだ。
何も、考えたくなかったからだ。眠ってしまえば、変な気持ちになることも無いだろうって。そう思ったから。
でも、無駄だった。当たり前だ。私は今日ずっと、眠っていたのだから。

体を預けていたベッドは、とても気持ちが良かった。お家のベッドよりもとっても厚いし、柔らかさも違う。
それに、温かい。枕だって、頭を預ければ耳の後ろがすぐ心地よくなるほどにすっと沈む。
もしも昼に眠っていなかったのなら、今頃は多少悩んでいても眠れたのだろうけれど……今更後悔しても遅いというのは自分でも分かっていた。

寝返りを打ってぼーっと部屋の中を見つめる。この館は窓もしっかりと作ってある様で、
少しだけ風が吹いているのはカーテンの向こうに揺れ動く景色のお陰で分かるのだけれど、ほとんど音をあげることも無く、
あったとしても気にならないほどの小さな音を立てるのみで……とても静かで。
そのお陰で、私は心細かった。ここには、私しか居ないんだ。誰も、何も。私の気を紛らわせてくれるものが無い。

だから、眠れないなって気づいた時から、自分の膝を抱いてじっと心音を数えてた。昔、数えるなら羊だと言われたけれど、
眠れる気が無いのを自分でも分かっているせいか、数える様な羊がそもそも浮かんでこなかった。
けれど、それも何百と数えている内に飽きてしまって。私は数えるのを止め、天井だけをただ眺めた。

見慣れない天井。私の部屋と比べると、天井も高いし壁までの距離だって遠い。お陰で、自分がとても小さくなった様な感覚がある。
このお部屋に来るまでに沢山の妖精の子達とすれ違ったけれど、あの子達もこういう部屋に住んでいるのだろうか。
恐らくは一人部屋ではなく、幾らかの子達で一つの部屋を共有しているのだろうけれど……それでも広そうだ。

そんなことを考えながらじっとしていると、廊下から小さな音が響いてきて。気になって体を起こした。
誰か、来たのだろうか。そう思って耳を澄ませてみたけれど……不幸にも、その音は一度響いた後は聞こえてくることがなく。
気になってベッドを抜け出した。一歩、一歩。慣れないスリッパに足を差し込みドアへと近づいて、そっと耳を押しあてる。

「……それじゃ、おやすみ」

すると、そんな声がドアの向こうから小さく聞こえた。これは……レミリアが言っていた、部屋の外に待機させている子達か。
私がここに居るからこんなに遅いのにまだ働いて……それで、交代の時間になったのか。
そしてまた、小さな音が響いた。さっき聞こえた音だ。どうやら、椅子の音らしい。

ドアを、開けた。本当は特別な用事があった訳じゃない。けれど、耐えきれなかったから。

「何か、御入り用ですか?」

どうやらドアの脇に椅子を置いていた様で、彼女は立ち上がってこちらを見上げた後、そう言って首をかしげた。

「少し、話の相手をして欲しいのだけれど……そんなこと、お願いしても大丈夫かな」

私の言葉に驚いた顔をして、それから笑って。ちらりちらりと周りを見渡した後で、小さく頷いて。
私がドアを少し広めに開けば、彼女は一礼して部屋へと入ったのだった。

テーブルの上に置かれていた蝋燭を灯してみると、灯りの光は思いのほか遠くまで届かずに、テーブルの周りだけをただ淡く照らした。
さっきフランドールと話していた時にも使っていたテーブルであるが、改めて二人で座ってみると、頭の半分ほど、フランドールの時よりも頭の位置が低かった。
見下ろしていた時には気が付かなかったが、かなり背の低い子である様だ。立っている時はあんまりそういう感じがしなかったから……恐らくは、靴のせいだろう。

「ごめんね。変なお願いを押しつけて」
「いえいえ」

彼女は何だか上機嫌だった。廊下よりも部屋の中の方がずっと温かいからというのもあるかもしれないが、
それ以上にどこか、愉快そうだった。何か変な物でも体にひっつけたままだっただろうかと自分の体を見まわしたけれど、
別に何もついていない。どうやら、違うようだ。……にしても、何を話したものだろう。
心細さにとりあえず呼んだのだけれど、一体何を話せば間が持つのか。
急いで考えて頭に浮かんだのは、さっきまで話していたあの子のことだった。

「フランドール……さん、について聞きたいんだけど、良いかな」

フランドールの名前が出た瞬間、びくりと彼女は肩を震わせたけれど、少しの間を置いて彼女は頷いた。

「直接お世話をすることが無いので、私の分かる範囲でなら大丈夫です」

そっか。館がそもそも広いんだ。彼女達一人一人、役割が皆違うのだろう。
この子が日頃何をしている子なのかは分からないけれど……たぶん、この子が今ここに居るのもこの子のお仕事の一環なのだ。

「貴女は彼女のこと、どう思ってるの?」

フランドールと会った日のことを思い出し、尋ねた。私が聞いていたフランドールの噂。
その噂での被害者はいつもこの子達だった。そして、フランドール自身が噂を本当のことだと認めてた。
……もう、フランドールのことを疑っているつもりは無いのだけれど、一応。
何故か、気になってしまうんだ。たぶんそれは、私の中で彼女への怖さが未だに抜けきらないからなのだろう。

「うんと……昔はとても怖かったけど、今は……うーん。まだ、ちょっと怖いです。でも、昔ほど気にしなくなりました。
ここ最近は妹様が原因で怪我をする子も居ませんし、何より、最近はかなり丁寧なんです」

……丁寧?
確かに、初挑戦した料理は丁寧だった。私も人のことは言えないけれど、とても緊張していたし、真剣で。
配膳する所までずっと真剣な様子だった。……いや。真剣だったのはずっとか。私が気づかなかっただけで。
ここに来ようと誘った時も、泣いたあの夜も。ずっとずっと、真剣だったのだ。

「丁寧って?」
「まだ館の中にはとても怖がる子達が居るんです。恐らく妹様が居たので出会ってないと思うのですが、門の所に居る子達です。
いつも、お外の見回りをしてるんですけど。門の担当とはいえ、休憩のために館の中に戻っていることもありますから、
最近の妹様はただ部屋を出るだけでも事前に連絡をくれるんです。例えば、ここからここまでの時間は、こういう用事があるから館の中のこの辺りに居ます、とか」
「色んな噂を聞いてたんだけど、それって本当かな」
「私は館の中に居るので外で流れている噂はあんまり分からないです。でも、たぶん本当のことだと思います。
多少、尾ひれは付いているかもしれませんが。ただ、今の妹様とはかなり違うと思います」

姉さんも、同じこと言ってたっけ。

「ねぇ。その根拠って、何なのかな」
「昔ほど、ピリピリした空気が漂わなくなったからです。何より、頑張って妹様を支えている子も居ますし」
「それが、お世話をしてるっていう子?」
「はい。今は、安全だよって皆にふれ回ってますね。彼女もお世話の担当したての頃は私達と同じで……いえ、私達よりも、妹様を怖がってました。
大体いつも被害が出るのは担当の子だったので。怖がるというより、怯えていたと言った方が正しいと思う位です」
「その子が変わった原因って、何だと思う?」

私の言葉に彼女は首をかしげ、俯いて。目を伏せて唸った。

「皆の、謎なんですよね。色々説明はしてくれるんですけど、皆納得できていないんです。
とんでもない怯え方をしてたのに、ある日を境に急に明るくなって、凄い楽しそうに仕事をするようになりましたから。
あ、でも。一つだけ。これだけは確かだって皆が分かってることがあります。……あの子は、妹様のこと大好きですよ。
最初は気でもやっちゃったんじゃないかって皆で噂してましたけど……真剣に、好きなんだと思います」

従者の恋、か。恐らくはお互いに思い合っているのだろう。
フランドールもその子のことを話す時、とても嬉しそうだったのを私は覚えている。

「お客様の方はどうでしたか?」
「……私は、怖かった。噂でしか知らなかったし、今回のお話は私の知らない所で決まったこともあって。
ただ、そうね。貴女が言っている様に、噂と違うのは認めなきゃいけないなって思うんだ。ただ、怖いのは相変わらずで」

私の言葉の一つ一つに、彼女は小さく頷いていく。恐らく、ここに居る沢山の妖精の子達の方が、
フランドールのことについては悩み、考え、色んな所でお互いに支え合って来たんだろうなって。
そう思うと……ちょっと、羨ましいなって思った。結局、恐ろしい環境に居ることに変わりは無いけれど、
心の拠り所をお互いに持ち合うことができるのは、良いことには違いないから。
……逆に、恐怖も伝染しやすい、というのはあるかもしれないけれど。

「この館にある図書館のお姉さんが、怖いものは怖い。それで良いんじゃないかって、そう言ってました。仕方ないことだって。
ただ、自分の信頼している相手が信じているのなら、信じても良いんじゃないか……みたいな感じで。私も、同意見です。
私はそのお世話をしてる子とは特別仲が良い訳じゃないですけど、館の雰囲気が変わったのは事実で、私は今のこの雰囲気が好きですから。それに」
「それに?」
「最近のお嬢様はとても嬉しそうですから。そういえば、この前パーティがあった時に言ってました。
相手のことをその時その時でちゃんと見てあげられるようになりなさいって。その時は、えっと。皆には好きな子は居るのかーとか。
そんな話題だったんですけど、たぶんあれは……妹様のことを言ってたんじゃないかなって。今振り返ってみて思うことですけれども」

あのレミリアも、そんなことを言ったりするのか。思えば、誰かと話している所を見たり、聞いたりすることは宴会ではあるけれど、
私は直接彼女とは話したことが無かったから。普段の様子とかは想像ができないんだ。あの十六夜さんがついているから、
言葉通り済む世界の違う様な生活をしてるんだろうなって、思ったりはしてたけど。

「そう。でも、万が一を思うと怖くなったりしない?」
「門の子達がそう言ってますね。あの子達は、直接被害を受けてきた側の子達ですので。そのこともあって、お嬢様は今回の一件を企画したと私は伺っています。
門の皆が安心できるための判断材料が増える様にって。でも、そんなお嬢様や咲夜さんとか。後は、お世話係の子もそうですけど、
ここ数日はとても落ちつきの無い感じでした。もし万が一、何か起こったらどうしようって。そう感じて眠れなかったそうです」

彼女は近くの水差しへと手を伸ばし、伏せて置かれていたコップへと水を注いでいった。
……温かくは無さそうだ。勿論、お茶でもさっきのココアでも、頼めば温かいものを持ってきてはくれるのだろうけれど、
そうするとまた私は一人になってしまう。だから私は差し出されたコップを受け取りひと口貰って。
乾いてしまったらしい喉を潤す正面の小さな子を見ながら、ぼーっと、十六夜さんが迎えに来た時のことを思い返してた。
……特別、疲れていた様子は無かったんだけどな。洗い物までしてくれたし。……お風呂の後片付けまでしてくれた。

「私だって、やっぱり万が一は考えるんです。友達が倒れてしまわないか。友達が居なくなってしまわないか。
他の皆も同じことを思い、そして思われていたんだと思います。でも、そんなのはもう、止めにしたいです。
幾ら心配しても万が一はあくまでも万が一です。そして、起きる時は起きるんです。勿論、心配していれば確かに対策は早いかもしれません。
けれど、そうしないと対策ができないようなら。私達が、もっと強くなれば良い。いや、ならないといけないんです。
いつかはこんな悪い習慣を乗り越えなきゃならないって、皆分かっていたはずなのですから」

コップの中身を半分程飲んだ彼女はそう言って俯いて。長い溜息を漏らした。


「私より、よっぽど貴女達の方が強いのかもしれないわね」
「それは、無いですよ。私達はまだ、実践できていないんです」

違う。そうじゃない。彼女達と私の間には、決定的に違うものがある。
確かに彼女が言った通り実践はできていないかもしれない。実際にフランドール自身と面と面で向き合っていないかもしれない。
でも、問題自体には向きあってるんだ。私は違う。私は問題に触れないことで過ごして来た。
逃げてきたんだ。避け続けて、過ごして来た。……姉さんから。

「私達からすれば、実際に妹様と暮らして見せたお姉さん達の方が、よっぽど凄いです」

それだって、私が望んで起こした結果じゃない。
姉さんがレミリアのお願いを聞き入れた。ただ、その結果なのだから。



そろそろ交代の時間がやってくるということで、その子との会話はお開きとなった。
次の子にも相手をして貰う様に話をつけましょうかと、別れ際にその子は言っていたけれど、それは断った。
少しだけ、疲れてしまったからだ。だから、ただ眠るとだけ伝えて。
私はコップに残っていた僅かな水を飲みほして、また独りになった部屋の中、ベッドに入りなおしたのだった。

色んな言葉を貰った後だったけれど、私は結局姉さんのことを考えるのはまだ怖かった。
だから、フランドールがやってきたこの数日のことを思い返してた。

彼女が泣きだした時、言っていた。ここまで怖がられるとは思って無かったって。
そういう意味では、私は彼女にとっての万が一だったんだ。私は、そんな彼女と触れ合うことを拒んで。
早く帰ってくれればと思っていた位だ。そんな私なのに、それでも彼女は何とか接して見ようと頑張っていた。
勿論、場の雰囲気を悪くしない為というのもあったかもしれない。けれど、それ以上に頑張っていたのは、分かってた。

過去のことに触れて欲しくないと私が言った時も、あの子は一度、素直に従った。
後々になって結局触れることにはなったけれど、それはいつかは向き合わなきゃいけないことをあの子が分かっていたからだ。
私が言った言葉を忘れていた訳じゃない。覚えていた上で、それが必要だと思ったからだ。
……私が今ここに居るのだって、そう。

ここに誘ってくれた時、お礼ができていないからと言っていた。
私は、彼女に何をしてあげられたのだろう。私は彼女をただ泣かせただけじゃないか。
料理は確かに教えたけれど、あれは姉さんが私に任せたからだ。私から名乗り出た訳じゃない。
私は……何も。何もしていない。何もしてあげられていない。

「ごめんなさい」

ここに彼女は居ないのに、私は気づけばそう呟いて。
瞼に溜まる物を枕へと押しつけたのだった。



~~



「咲夜さん。そんなに悩んでどうしたんですか?」

厨房の一角。山の様にある食材の前に一つ椅子を置いてぼーっと眺めていると、早起きをしてきたらしい厨房の子がエプロンを取り出しつつそう囁いた。
悩んでいたのは今日の料理をどうするか、だ。あの二人とお嬢様の昨晩の夕食は鍋だった。
片付ける時にちらりと見た料理のゴミを見るに、鶏肉に大根、それと白菜が使用されたことは確認済みで、
他にも椎茸やお豆腐の様な物、葱の様な物が鍋の中にあったのは確認していた。後は、おにぎりか。

「おはよう。今日の献立のことよ。お客様もいらっしゃるからね」

戸棚を開けた訳ではないが、見える範囲にあった調味料の種類や配置を考えると、洋食よりも和食の方が食事の機会としては多そうな感じだった。
美味しそうな漬物の匂いもしたから本当は色々と知りたい所だったのだが……流石に失礼だから見ては居ない。何を漬けていたのだろう。
他には、一昨日の晩に親子丼が作られたこととか、干し椎茸のこととか。
そういうことが妹様からの手紙に書いてあったから知っているけれど、やっぱり情報不足だ。

「貴女ならどうする?」

着替えを終えた彼女は、厨房でお湯を沸かし始めていた。恐らくはこの子自身の、そして後から来る皆の分のお湯の準備なのだろう。
そんな彼女に声をかければ、火の加減を調節した後で私の方を見て、愉快そうに微笑んだ。

「とても出来たてにこだわった物とか、とても手の込んだ物とか。そういうのがお客様にとっては紅魔館に来たんだって感じがするのではないでしょうか」

……私の力を使って、か。普段通りと言えば普段通り。それで良いか。
少なくともあまり朝食はお腹に入らないだろう。昨晩訪ねた時は食べすぎでとても苦しそうにしていたから。
だから、作るとすればあっさりとしていて、手の込んだ物か、出来たてか。昨晩の館の夕食はグラタンだから、チーズ系やクリーム系はしばらく避けたい。
それに、お嬢様はたぶん朝食の時間を利用して色々お話する予定だろうから、あまり口の周りが汚れる物も向きそうにはないだろう。
同じ理由で、食べるのに注意力が必要なのも外さなければ。とすると……何が残ってくるのだろう。

「主食はパンね」
「焼き立てですね」
「飲み物は昨晩にはココアを出したから、果物のジュース」
「蜜柑が余ってるのでそれで大丈夫かと」

私が悩んでいる間に緑茶の準備を進めていた彼女だったけれど、私がココアの話をしたからなのか、
いそいそと急須を片付けてココアの準備をし始めた。……緑茶に比べたら相当な手間なのに、朝から頑張る子だ。
そんな彼女の対面の椅子へと座り替え、改めて食材を眺めた。

「パンに合わせるのは卵にしましょう。茹で卵に、そうね。後はソーセージも焼いておこうかしら。卵もソーセージもスライスしておいて、
いざとなったら即席でサンドイッチが作れる様に。野菜も細かめに切ったサラダにしましょ。それで、食後に少し置いてから紅茶……かしらね」

頭の中で量と味付けをおさらいして。……頑張ってお湯に溶かそうと躍起になっている彼女を見ながらしばらくして。
何とか出来あがったココアを貰った。時間が少し経った割にはまだまだ熱い。味見を本来の意味でも違う意味でも沢山するからか、
厨房の皆は熱い物でもすぐにぺろりといってしまう。たまにチキンレースの様に熱い物を食べたりして競う子も居る位だ。
ただ、玉ねぎ関連の食事にだけは開催されたのを見たことが無い。

食材の準備を終えて、厨房の子が全員集まった所で食事の内容を伝え、パンの生地の準備が終わった所で向かったのは、
日頃は使う機会の無い小さな食堂。ここを使って食事をするのは、パチュリー様と一緒にご飯を食べたりする時位で、
普段使うことはあまり無い。その為か、綺麗にはしてあるものの……いつも、どこか寂しい。
もう少し暖かくなれば庭のお花を花瓶に挿しておけるから心強いのだけれど、この季節ではそれもまだ難しく、
かといって造花を挿すにしても、それはわざとらしくてお嬢様が好まない。

唯一助かることは、この部屋には窓が無いことか。
それはお嬢様が陽の光を浴びない為であり、会議室としても利用することを目的としているからだ。
だから、照明だけは少し他の部屋に比べて数も種類も違う。卓上の灯りに壁の灯り、そして天井の灯り。
準備は大変だが、ちょっとした比率を変えるだけで雰囲気を変えられるから……今回はそれで凌ぐことにしよう。



食事の準備が八割程終わった所でお嬢様の部屋へと向かった。
部屋の前の廊下へと着いた時には、着替えを手伝っていたらしいメイドの子が部屋から出てきたのが見えたから、もう既に起きては居たようだ。
私の方へと向かって頭を下げ、お嬢様の服を抱えて去って行く子の姿を見送った後で静かにノックすれば、

「おはよう。準備はどうだい?」

と、ドアを開けたお嬢様が、前髪を指先で整えながら笑った。
妹様が無事に昨晩帰って来たからか、どうやら眠るのには困らなかった様だ。

「ほぼ終わってます。後は皆さんに起きて頂いて、小食堂の方へとお越しいただければいつでも始められます」
「そうか。じゃあ私はあの姉妹を起こしてくるよ。咲夜はフランの方を起こしてきてくれないか。フランの従者の子も連れて来てくれ」
「かしこまりました」

そのまま私の横を通り過ぎ、あの姉妹達が居る部屋の方へと向かったお嬢様を見送って、それから向かった妹様の部屋。
こちらも既に起きているようで、地下の廊下を歩いている時から、二人の声が僅かに漏れて聞こえてきていた。
私がノックをすれば妹様が応え、少しして従者の子が代わりとばかりにドアを開けた。
……こちらはぴったり着替え直後の様だ。着替え終えたばかりの服の裾を直している。

「おはようございます。朝食の準備ができましたので、今日は上の小食堂の方へお越し下さい」
「この子も一緒に連れて行きたいんだけど、良いかな。紹介できたらって思ってるんだけど」
「勿論です」

私の言葉に妹様がホッとした様に笑い、一方のお付きの子の方は、どこか落ちつかない様子で。
どうやら、珍しく緊張している様だ。他の妖精の子達からすれば、たぶんお客様の前の方が妹様の前に居るよりよっぽど楽だろうに。

「あ、そうだ」
「妹様が上の階へといらっしゃることはもう既に通達済みですので、ご安心を」
「……ありがとう」
「それではまた後ほど。私も最後の仕上げがありますので、お先に失礼します」
「うん。すぐ行くよ」

そう言って笑う二人を見送って、ドアを閉めて。
時間を止めて来た道を戻りながら、ちらりと客室前の廊下を確かめた。……早い。お嬢様がもう二人を連れて廊下に出ている。
恐らくは先にお嬢様達が着いて、後を追う形で妹様が入る形になりそうだ。



「おかえりなさい」

厨房へと戻り時間の流れを元に戻せば、ほとんどの料理が出来あがり直前の状態で整えられていた。
私の指示していたことが終わって暇だったのか、皆口元にココアの髭を生やして寛いでいた位で。

「ありがとう。仕上げ、させて貰うわね。終わって場所が空いたら、他の皆の分の食事作りお願いするわね」
「はい!」



~~



静葉嬢と穣子嬢を連れて入った小食堂。……ふむ、フラン達はまだ来ていないようだ。

「久しぶりにこの部屋を使うわね。さ、かけて頂戴」

咲夜も準備中の様で、部屋には居ない。用意されている食器からして和食ではないから、恐らくはパンだ。
となれば、咲夜のことだから……恐らくは焼き立てのパンが大量に出てくるだろう。食器の数からして、
肉料理と野菜……片方はサラダだな。今日の朝食にはスープがないらしい。

「緊張しますね」
「しなくて良いわ。妖精の子の目がある訳じゃないからね。それに、今日も二人にはゆっくり過ごして貰う予定だから、今気を張っても仕方ないわよ?」

静葉嬢は多少固くなっているが、概ね昨日の夜と様子は変わっていない。
ただ、昨日は別々の部屋にした穣子嬢が今日は一緒に居るからか、やはり少し気になるようだ。
穣子嬢の方は……こっちは、何だか迎えに行った時から既に様子がおかしかった。
どこか、意識が遠い所にあるというか。ちゃんと返事も返ってくるし会話もしていたのだが、
完全に頭の中で違うことを考えている様だ。食堂に入り腰を下ろした今でさえ、ぼーっとした様子で照明を見つめていた。

「フランが来るまでもう少しあるから、そうだね。穣子さんに聞きたいんだけど」
「……はい、何でしょう」
「この前は貴女抜きで色々決めてしまって悪かったわね。貴女の口から、フランについての……感想とか、頂けると嬉しいんだけど、良いかい?」

私の言葉に穣子嬢が顔を曇らせ、それにつられる様に静葉嬢の方も焦る様な顔をした。

「それは……お答えするのは、また後ではいけませんか」
「構わないさ」
「……申し訳ないです」

……やはり、どこか上の空だ。



やっとフラン達がやって来た時には部屋はしんと静まり返っていて、フランは謝りながら私の横へと腰を下ろし、
更にその横にお付きの子が座った。咲夜の姿は見えなかったのだが、とりあえず居ると信じて、手をぱちんと叩いてみた。
……どうやらドアの後ろには居るみたいだ。ふわりと目の前に湯気が上がったかと思えば、皆の目の前に料理が置かれていた。

メニューはにらんだ通りだ。それぞれの目の前にパンはあるけれど、
足りない人はここから取ってと言わんばかりに真ん中にバスケットが置いてある。
どれも焼き立てとはいえ、しばらくしたら冷えるだろうから、その時は改めてこれを焼いて貰おうか。

「いつ見ても凄いですね」
「この館の皆の自慢だからね。さ、食べましょう」

私の声に皆が揃って手を合わせた。フランと食事をするのは物凄い久しぶりのことなのだが、
どうやら食事の前に手を合わせるのはこの子にとっても習慣になってしまっていた様だ。
恐らくは横に居る彼女の影響なのだろうが……目に見えない所で変わって行っているんだな。

いただきますの声に合わせたその後で、皆が思い思いの物に手を伸ばしていった。
……私だけが飲みもので、他は全員パン。私だけか。起きた時から何も飲んでいなかったのは。

「そうだ。あのね、この子が私の話してたお世話をしてくれる子なの」
「この度はお世話になりました」

その言葉に姉妹の二人が顔をあげ、その子の方を見た。静葉嬢は微笑み、穣子嬢は……ただじっと、見つめていた。
それから二人がお互いにちらりと目配せをして、その後で静葉嬢が口を開いた。

「私が秋静葉で、こっちが妹の穣子です」

その言葉に穣子嬢が頭を下げ、それから小さな深呼吸をした後で言った。

「秋穣子です。後で、貴女に聞きたいことがあるんだけど、良いかな?」
「はい。私に答えられることなら」
「……ありがとう」

あの子に用事があるのか。となれば、それはきっとフランの話題なのだろう。
しかしわざわざ前もって確認を取る程のことなのだろうか。この食卓では言い出せそうにないこと、なのだろうか。
さっき返答を渋ったのにも関係しているのか。……そもそも、一体何をさっきから考えているのだろう。



「あの、レミリアさん」

ほくほくの香り良いパン。丁度いい具もあるから本当はサンドイッチを作りたいのだけど、誰もそうする気配が無い。
いかにもそれ用だと言わんばかりに切れ込みが入ったパンもあるし、そういう目的にも応えられそうな、
いかにもな切り方をした野菜やソーセージもあるのだが……誰もやっていないと、しても良いのか不安になってしまう。
だから仕方なくそのパンを避けて、様子見で違うパンから食べていると、ふと穣子嬢が私を呼んだ。

「何だい?」
「レミリアさんも、後でお話できませんか」
「分かった。食後のお茶の時間にでも聞こう。……この子が先の方が都合が良いかい?」

言葉を一つでも聞きもらすまいと、静葉嬢の方はさっきから視線を同じ所へと落としたまま、ずっと口元にパンを当てていて。
私がちらりとフランの方を見ると、視線に気づいたフランが私を見て小さく頷いた。
……たぶん、任せても大丈夫だろう。

「できればレミリアさんからで」
「そうか」

私の方から穣子嬢に言わないといけないことは他に無かっただろうか。
フランは昨日の夜、上手く説得できなかったと言っていたな。確か、手紙のことが話題にあがったのだ。
本当ならこれからの食後の時間で静葉嬢の口から聞く予定だったのだが……それはしばらくお預けになりそうだ。

一通り食べ終わり、背もたれに各々が体を預ける様になった頃、咲夜がお茶の道具と一緒に入ってきた。
紅茶の様だ。お茶菓子は……楽をしたな。久しぶりに見るラスクだ。パンの形自体は先程まで食べていたどれとも違うし、
ラスク自体からも紅茶の香りが漂ってくるから、恐らくは別に焼いたのだろう。
たぶん、今頃は少し余った部分を厨房の子達が食べていたりするのだろうな。

ちらりと見た時計。昼食まではまだたっぷりと余裕がある。私は穣子嬢の方と話をして、その後は穣子嬢がフランの従者の子とお話をして。
恐らくはその間にフランと静葉嬢が色々と相談するだろう。しかし、そうだとしても昼食までには時間が余りそうだ。
何か、できることはあるだろうか。一応、図書館の二人にも話を通しておくべきか。
客が来ていること自体は妖精の子達から間違いなく伝わっているのだが……いっそ、昼食に呼ぶのもありか。
パチェは分からないが、一緒に居るあの子なら昼食中の話には困らないだろうし。
いざとなったら、前に咲夜から話を聞く時にお世話になったあの魔法も……考えておこう。

「穣子さん」
「はい」
「さっきの話は、この部屋でも構わないかしら」
「……はい。一対一で話せるなら、どこでも」



皆がお茶を飲み終わり、部屋を出ていった後。改めて咲夜にお茶を淹れなおして貰った。
お茶菓子はもう無いが、ゆっくり話すことになりそうだから、無くても問題は無いだろう。多少、甘めに作って貰えたようであるし。
咲夜が部屋を出ていく時、そっと部屋の隅にベルを置いて行ったから、恐らくはもうドアの後ろにすら誰もいない。

「さて。話を、ということだったけど」
「……凄く、失礼なことを聞く様なのですが」
「構わない。その代わり、さっき私が尋ねたことも後で答えてくれたら助かる」

私が答えると穣子嬢は顔をあげてじっと私の目を見つめ、

「万が一起きたらどうしようって。そう思うと怖いことって、レミリアさんにはありますか」

そう静かに尋ねて来たのだった。
怖いこと、か。勿論無い訳じゃない。ただ、あまり大っぴらには言いたくない。特に、館の子達の前では。
パチェとは近い話をしたこともあるのだけど、あれはパチェとの関係が主従の関係じゃないからこそできたことだ。
それに私の考えているそれは、万が一という言葉では本当は片付けることができない。
恐らくは、必ずいつか迎えることなのだ。これからの生活で様々なことが変われば別の話かもしれないが、
今の生活をもしもずっとずっとこれから先も続けていくならば。それは、必ず起きること。そう。私が怖いのは……



~~



「怖いことって、レミリアさんにはありますか」

私の尋ねた言葉に、レミリアは口を閉ざし、背もたれに体を預けた。深呼吸したのか、音こそしなかったけれど、その肩が一度大きく上下して。
しばらくは考える様に視線をカップへと下ろしていたけれど、ドアの方を一瞥した後で、ゆっくりと首を縦に下ろしたのだった。
それから、置かれていたカップを手に取って、ゆっくりと口をつけて。口先をただ潤わせる程度に傾けて飲んでいた。
……恐らくは、口に出して言いたくは無いのだろう。だってそれは、弱点でもあるのだから。

「一つ、先に答えておく。私が今考えているそれに万が一というものはない。必ず、将来的に起きるのが分かっていることでね」
「どうやっても避けられないということですか」
「いいや。私が恣意的に周りを巻き込めば、避けられるかもしれないし……それでも避けられないかもしれないが、どの道私はそういうことをしたくない。
少なくともこのまま行けば、必ず迎えることだと思っている。私はね、フランと二人きりになる日が怖いのさ」
「……苦手、だったんですか」

私の言葉に口の端だけを僅かに持ち上げて笑い、首を横に振った。

「それは勘違いだ。私が怖いのは、他に誰も居なくなってしまうことさ。君は昨日、この館に入る時に美鈴と門で出会っただろう。
それより前は、お家で咲夜に会っただろう。この館には他にも、私の友達のパチェや、彼女を慕う子。それにもっと沢山の数の妖精の子達が居る。
そんな皆が居なくなってしまう日が怖いということさ」

それは寿命かもしれないし、病気かもしれない。以前はフランが原因で多かった怪我かもしれない。と、小さな声で続けて。
逃げる様にまたカップへと口をつけて。それから長い溜息を漏らしていた。あまり、得意な話題では無い様だ。
それでもまだ、私は聞きたいことを聞けていない。

「何か、対策しようとは考えませんでしたか」
「この館には医務室がある。十分な環境が整ったのは永遠亭の助力を受けて以降だが、ある程度の病気や怪我はそこで何とか解決するんだ。
病気に怪我。その二つは私が注力すれば、かなり改善できると分かっていたからね。でも、寿命はそういうものではない。勿論吸血鬼化すれば、
本来の寿命より延びる子は沢山居るだろう。しかし、私は皆の生き方を縛るつもりは無いからね。私は好きに生きて欲しいんだ。
だから、そもそも皆を死ぬまで囲う気も無いよ。花嫁修業が終わったから帰りたいとか、友達と過ごしたいから帰りたいとか。
もしもそういう時が来たのなら、それで良いと思っている。寂しくは……なるんだけど、ね」
「宴会で見るのとは随分と違うんですね」
「そうかい?」
「もう少し、我儘で。……それで、悪魔みたいな感じかなって思ってました」

私の言葉に愉快そうにレミリアが笑った。かなり失礼なことを言った気がするのだけど、何故か嬉しそう。……良く分からない。
宴会で見る時はもっと、きりっとしてて。どこか、刺々しくて。落ちついてるけど、気が張ってる様で。
でも、今は……違う。見た目相応でもなければ、刺々しくも無く。ほんの少しだけ、柔らかさに近いものを感じる。

「合ってるよ。私は我儘な悪魔さ。そもそも、悪魔ってどういうものだと思っているんだい?」
「例えば、悪いことを考えている人に力を貸し与えたりとか。それとか、えっと……望まれた力を貸す代わりに大事な物を奪っちゃうとか」
「まるで本の中にでも出てきそうな感じね」

……だって、思い浮かんだのがそれしか無かったんだ。
元々悪魔だと聞いていたから、そういうイメージが強かったと言った方が正しい位で。

「まあ、構わないんだけどさ。それは別に外れている訳じゃないだろう。悪戯好きな妖精の子達へ衣食住を与えているのは事実だし、
その代わりに彼女達の大切な時間を労働に変えて貰っている訳だからね。……随分と話がそれてしまったが、質問に対する答えはこれで良いかしら」
「はい」
「じゃあ次に私から、もう一度。聞かせて貰おうか。あの子と過ごしてみて、どうだったか」

さっき先延ばしにして貰った質問。そうして貰ったのは、まだ私の頭の中で考えが纏まりきっていないからだ。
だから、レミリアに尋ねたんだ。私が知りたかったことは、怖いことに向き合っているかということ。
聞く前から何となく分かってはいたことだけれど、彼女も昨晩話した妖精の子と同じ。そして、フランドールと同じ。
……ちゃんと、問題に向き合っている。

「最初は、怖くて堪らなかったんです。でも、今は。……羨ましいです」

眉尻をゆったりと下ろし紅茶を楽しんでいたレミリアが、私の言葉に眉尻を持ち上げた。
不思議そうに私を見つめ、それから愉快そうに笑う。……確かに、変なことを言ってしまったかもしれない。
でも事実だ。今は、羨ましく感じてる。やっぱり怖いことには変わり無いのだけど、羨ましいことに違いは無い。
フランドールだけじゃない。あの妖精の子も、レミリアも。私には羨ましいんだ。

「今の彼女が噂とは違うってことは、見ている間に何となく分かっていたんです。ただ……そんな彼女の姿を信じることはできなかった。
流れている噂で、どんなに恐ろしいのかを私は聞いていたから。彼女がそれを肯定したから。そして、私が臆病だから」

レミリアはただ、じっと私を見つめていた。先程までカップを持ち上げていた手も下ろし、両の手をテーブルの上に重ねて。
まばたきこそしていたけれど、首を縦にも振らなければ横にも振らず。睨まれてはいなかったのだけど、少し怖い。

「それでも、実際にあったこととして振り返ってみると……彼女は、ずっと真剣だった。
私と話すのにも頑張って話題を振ろうとするし、料理を教えた時だって。とても、丁寧だった」

礼儀や作法なんて、私には分からない。大体こういう物だろうと思う程度でしかない。
でも、真剣であるとか、丁寧であるとか。そういうのは礼儀にも作法にも関係無く、分かることで。
私が見たそういうフランドールの姿は、例えそれが本当は演技であったのだとしても……私にはそう見えたことに違いは無い。

「会話の中で、私達二人の過去のことが話にあがった時、私は彼女にその話題に触れて欲しくないことを伝えました。
最初は、素直に従ってくれた。でも、私達がいまここに居るのは、そんな彼女がそれでもどうにかしなきゃいけないって、思ってくれたから。
謝られたの。お願い守れなくてごめんなさいって。……私は、そもそも好意的に接することすらできていなかったというのに。それでも……」

そう。私は何もしてあげることができなかった。酷く、一方的な付き合い方だった。
それでも、そんな私にでも。あの子は真剣に考えてくれて。

「昨日の夜、独りになった後。ここの妖精の子と話をしたんです。その子も、彼女も。そして貴女も。
皆、ちゃんと問題に向き合ってて、前に進もうとしてて。それで、気づいたんです。私はそもそも、進もうともして無かった。
向きあってもいない。あの日、お姉ちゃんを泣かせてしまった日から、結局私は弱音を吐く以外何も、していなかったって……」

悔しさと情けなさで視界が曇り、溶け。
真っ直ぐにこちらを見ていたレミリアの顔が歪んだ。

「だから、羨ましいんです。……怖いけど、羨ましい」

袖を持ち上げて、目元に押し当てて。少し荒れ始めた息を何とか戻そうと、少し大きな溜息を吐いた。
……本当は、羨ましい理由はそれだけじゃないんだ。

「そうか」

口元に指先をあて、視線をカップへと下ろしてレミリアが呟いた。
私が羨ましいと思うもう一つの理由がこれなんだ。フランドールとでさえ、指折りで数えられるほどの期間しか過ごしていない。
まして、目の前のレミリアは、顔は知っていても……話す機会を得られたのだって、昨日や今日のお話。
それほど私との間に距離があるにも関わらず、なんで私のために色々と考えてくれるのだろう。
私達姉妹のために動いてくれるのだろう。私は、私このことでしかほとんど動けないし、考えられないし、考えないのに。

「二つ、言わせておくれ」
「……はい」
「まず一つ目。弱音を吐くことは絶対に悪いということは無い。見栄えや聞き触りは悪いかもしれないが、独りでは持て余す問題なんて世の中には沢山あるんだ。
そういう時でも他者の力を借りずに独りでやりきろうとするのは、殊勝な心がけだと思う。けれど、必ずしもそうあるべきだとは私は思わないよ。
そして二つ目。弱音を吐くことしか、というのも間違いだ。貴女はお姉さんの笑顔を守ろうとしたのだろう。その為に色んなことを考えて、してきたはずなんだ。
確かに結果は伴わなかったかもしれないが、だからといって過程まで否定するものじゃないよ。……気持ちは、分からないでもないがね」

レミリアがまた紅茶へと口をつけ、そしてカップを置いた。乾いた音が小さく響く。どうやら、飲みきってしまったようだ。
私の方は、まだ残っている。初めは持ち手の所まで熱さを感じていたけれど、今はもう薄らとした温もりしか感じない。
それでも最後のひと口と思い私も飲みきれば、僅かに体に熱が広がった。

「まだ何か、聞きたいことがあるかい。無ければ、あの子を呼んでくるよ」
「怖さって、どうしたら無くなるでしょうか」
「知ることだと思う。正しい知識をつければつけただけ、要らぬ邪推はしなくて済むから。……フランのことかい?」
「はい」
「それなら私に聞くより、これから呼ぶあの子に聞いた方が早いよ。あの子が一番怖がらないんだ。……私よりも、ね」

そう言うとレミリアが立ち上がった。私が頭を下げれば、そのままテーブルをぐるりと回り、すぐ眼の前までやって来て。
……背が低いから、私は座っているのに目線があまり変わらない。そんなレミリアは、懐から一枚の布を取り出すと、
膝もとで重ねていた私の手へとそれを握らせた。……ハンカチだ。ちょっと、あたたかい。
私は自分の顔が見えていないのだが、ひょっとして酷い顔をしていただろうか。
そう思って、差し出されたハンカチで目元を改めて拭って。ハンカチを下ろして再び前へと顔を向けた時には、既にレミリアはドアの所まで行ってしまっていた。

「あの」
「また、お昼に」

そのまま振り向く事も無く部屋を出ていくその姿を、私はただ見送って。
私は濡れてしまったハンカチを畳むとポケットの中へと差し込んだ。



部屋に先程会った妖精の子が来たのは、時間が結構経ってから。
彼女は台車を一つ引っ張って来ていた。どうやらお茶のお代わりを持ってきてくれたみたい。
部屋に入り私に一礼すると、慣れた手つきで空っぽの私のカップを満たしていって。
レミリアと話をした時はテーブルを挟んで座っていたけれど、彼女は自身のお茶も用意すると、さっきまで姉さんが座っていた私の横の席へと腰を下ろした。

「改めまして、フランドールお嬢様のお世話係です。よろしくお願いします」
「こ、こちらこそ……よろしくお願いします」

先に頭を下げられて、こちらも慌てて頭を下げて。初めてフランドールに会った時のことを思い出す。
あの時も私は、先に頭を下げられたのだ。

「お話があるということでしたが、お嬢様のことでしょうか」

にこやかに笑い、ちょっとだけ前屈みになりながら彼女は笑った。
この子に聞きたいのは、フランドールとは関係無い……とは言わないけれど、フランドールのことじゃなくてこの子自身のことだ。

「貴女のことを是非聞きたくて」
「私ですか?」
「ええ。貴女も、フランドールさんが怖かったのよね?」

私の言葉に笑顔が少し崩れ、苦笑いで彼女が答える。

「……はい。今は違いますよ?」

たぶん、同じような質問は何度も受けて来たのだろう。昨日聞いたあの妖精の子だって知っていたことだし。

「うん。他の子からそのことは聞いたから、それは知ってるの。私が知りたいのは、貴女がどうやって怖さを克服できたか、なの。
私はまだ、あの子のことが怖い。怖いけど、あの子は……色々してくれるから、何とか……したくて」

本当は、その何とか、というのも良く分からない。ただ、今のままじゃいけないってことしか分からないんだ。
私は彼女に何ができるのかも良く分かっていないし、そもそもまだ私は……あの子のことが怖い。

「うーん」

彼女が唸り、似合わない皺を眉間へと寄せて彼女が俯いた。
私はその間に貰っていた紅茶へと口をつけていたのだけれど、さっきよりも少ししょっぱい。
顔は拭いたつもりなのだけれど、口の周りへと垂れた物が残ってしまっていたのだろうか。

「私は別に克服しようとして克服した訳じゃないんです。凄く言い方は悪いですけど……その、化け物扱いされてたことは御存知ですよね?」
「……噂で、ね」
「たぶん、お嬢様もその噂については否定しないと思いますので。……それで、私も勿論お世話係になった当時はそう思っていた側です。
本人の目の前では言いたくないですが。ただ、ある日。お嬢様と、外からいらっしゃった……えっと、魔理沙さん、
という方だったと思うんですけれども、その方が闘った後のお嬢様の姿を見た時に、思ったんです。ああ、お嬢様も私達皆と同じなんだなって」

フランドールが言っていた、あの日のことか。
でもフランドールの話では、あの時はまだ変わろうとする前だったはずなんだ。
変わろうと思ったのは、あの日魔理沙に会ったことと、あの日この子が彼女のことを信じたこと。
それが重なったのが大きかったという話だったから。

「同じっていうのは?」
「お嬢様だって笑うし、お嬢様だって疲れるし、おんぶすれば重いし、温かい。そんなことです。
こうやって口で言ってしまうと凄く当たり前のことなんですけど、その当時の私にとってはそれはとても大事なことだったんです。
私だって、友達と遊んでいる時には笑います。沢山動きまわれば疲れるし、そんな友達を背負って帰る道は重くて気だるかったし、温かかった。
確かに、力とその荒れた時の性格を見れば化け物かもしれない。でも、同じ所が全く無い訳じゃないって分かったことは、大きかったんです」

彼女もひと口紅茶を飲み、それから短い溜息を吐いて続けた。

「それは、とても当たり前のことで。でも、当時の皆からすれば全く当たり前じゃないことでもあって。
だから、私は知りたくなったんです。噂と違う所があるんじゃないかって。皆の知らない顔が、他にも本当はあるんじゃないかって。
それが、私がお嬢様に一歩近づくことができたきっかけだと思います。お嬢様のことを真っ直ぐに見られるようになってから、
色んな表情を私は見ました。笑う顔、悲しむ顔、ふくれっ面に、具合の悪そうな顔も。
……皆は見たことがないかもしれないけれど、でも、皆が持っている顔をお嬢様も持っているんです」

彼女の声を聞きながら、フランドールの顔を思い返す。
確かに、表情は思っていたよりもずっと豊かだった。ぎこちない表情もあったりしたけれど、笑う顔も確かにあって。
……でも、心なしか、思い出す彼女の表情のほとんどは、申し訳なさそうな……そんな顔。
そのほとんどは、私に向けられていた顔。怖がっていたから、見せた顔。

「この館の中で私しか知らない顔だってあるんですよ。その顔は今は私が独占していますけど、いつかは皆に知って貰うつもりです」
「……笑顔?」
「ええ。笑顔です。笑顔にも色々あるじゃないですか。楽しさが出ている顔に、喜びが出てる顔」
「貴女が知ってるその顔は、どんな顔なの?」
「言葉にすると難しいんですけど、嬉しそうで、穏やかで、今のその瞬間を楽しんでる顔……でしょうか。どこにでもありふれた顔で、それでいて私しか知らない顔です」

それは、満面の笑みというものではないのか。
それとはまた、違うのだろうか。

「そうしている内に好きになったってことかしら」
「御存知でしたか。その通りです。だから、怖さを克服しようとしてした訳じゃないです。強いて言うなら、相手をちゃんと知ろうとした、ただそれだけです」

知りたいって興味が重要なのだとしたら。私は、彼女の何を知りたいのだろう。
パッと浮かんでしまうのは……何故、私や姉さんにあれだけ手を貸してくれるのか。それが、一番知りたいのかもしれない。
溜息を吐いてカップを持ち上げると、いつの間にか空っぽになってしまっていたらしく、
傾けても唇すら潤わなくて。改めてまた彼女へと注いで貰った。
……もう、変な味はしなかった。本当はちょっとだけ、甘いお茶だったらしい。



~~



「そう。あの手紙はそんな風に読まれていたのね」

お姉様が穣子お姉さんと話をしている間、私は静葉お姉さんが泊まっているお部屋でずっと話をしていた。
内容は勿論手紙のこと。穣子お姉さんから許可を得てはいなかったのだけれど、手紙自体のことを怖がっている訳じゃないって分かったから、
そこは共有しておかなくちゃって、そう思って。咲夜に淹れて貰ったお茶で体を温めながら、そのことを伝えていた。

「うーん」

私の言葉に静葉お姉さんは眉間に皺を寄せて唸って。しばらくの間、カップの持ち手を指先で撫でていた。

「あまり、自信が無いの。泣いちゃ駄目だって思っても、あんな風になってしまった私だから。次も似たことが起きた時、どうなるのか……」

大声で泣いてしまったと話では聞いた。私も沢山の子を泣かせてきたけれど、声をあげて泣かれたことはほとんど無い。
声を出す前に私が暴力を振り撒いたり、そもそも声を失ってしまったり。
私のそれは、怖さが原因のものばかりで、悲しさで泣かせたのは少し前にお伴のあの子に一度あったっきりだ。
あの時だってほとんど声は出さなかった。出さなかったけれど、それでさえ私は落ち込んだんだ。

私だって、これから先あの子を泣かせない自信なんて無い。
泣かせてしまった後で落ち込まない自信も無い。
たぶん誰にだって、そういう自信を持つことは出来ないんだ。

だからせめて、それならば。私はそれ以上に喜べるものであの子を楽しませられたらって思ってる。
あの子には喜べるものが与えられたら良い。他の子には、安心できる何かを。
だから、そう。必要なのは無理や無茶な約束なんかじゃなければ、我慢でもない。受け入れて、先に進むための気持ちだと思うから。
ただ、そういうのはお互いが気を許せていることが前提で。たぶん、私と門の子達の間だと……きっと、成立しないのだと思う。
だからこそ彼女も言ったのだ。一つずつ、何とかしていこうって。

「それは、受け入れて貰うしか無いと思う。だから話し合いの時にちゃんと話して、知って貰うべきだと思う」

お互いに知り、そして知って貰おうとして。やっとそこからが第一歩なのだ。
長い道のりでも、決して諦めてはいけないし、諦められない。

「ねえ、フランちゃん」
「はい」
「……ありがとう」
「まだ、無事に終わって無いです」
「そうね。でも、私の胸の中にそう思う気持ちが今あることも確かな事なの。大事なのは結果だけじゃない。積み重ねた過程も、とても大事な物だから」
「……はい」

私自身にも言えたことかもしれないわね、と、静葉お姉さんは小さな声で続けて。それから手に持ったカップを口元で傾けた。
私も、ひと口。今頃、お姉様達は何を話しているのだろう。ひょっとしたらお姉様の話は終わって、あの子ともう話をしてるんだろうか。
話し終えたら終えたで、お姉様はこっちの部屋に来そうな気がしていたのだけれど、他に用事でもできただろうか。

静葉お姉さんと話を続けていると、小さなノックの音が2度響いて。二人揃って返事した。
お姉様ならすぐに入ってくるだろうと思ったけれど、ドアは開く気配も無く。
静葉お姉さんの代わりに出てみれば、呼ばれていたはずのあの子がドアの傍に立っていた。

「どうしたの?」
「えっと、お嬢様に伝言です。穣子さんから。……後でお嬢様の部屋に来たいそうです。私は、穣子さんの部屋で待ってます」

愉快そうに微笑んで。それから、中へ居た静葉お姉さんに向かって深く頭を下げて。
彼女はそれだけを言い残すと、背中を向けて帰ってしまった。私の部屋か。何か、大事な話だろうか。
お姉様、そしてあの子と来て私だから……内容は、何なのだろう。

「穣子の方で何かあったの?」
「うんと、私の部屋に行ってみたいらしい、ってお話みたいで」
「そっか。……穣子のこと、よろしくお願いします」
「う、うん。頑張ってくる」

私が部屋を出ようとすれば、静葉お姉さんも立ち上がってついてきて。てっきり、お姉さんも私の部屋に来るのかなって思ったけど、
どうやらお姉様に会いに行くようだ。この部屋に来なかったということは自分の部屋に戻っているか、
他には図書館辺りなのだろうと思うけど……きっと他の妖精の子達ならどこに居るかは把握しているだろうから、探して迷うことはたぶん無いだろう。

静葉お姉さんと別れ、辿りついた穣子お姉さんのお部屋。ドアをノックすると、すぐにドアは開いた。
ずっと待っていてくれた様で、穣子お姉さんもさっき呼びに来てくれたあの子も、すっと出てきて。
二人の間で何か面白い話があったのかは分からないけれど、何故だか二人とも少し笑っていた。

「ごめんね。急に変なお願いして」
「う、ううん。ただ、あんまり見る物は無いと思うんだ。……地下室だから」
「ほ、ほら。私の家には地下室無いし……あと、少し話がしたいの」

三人並ぶと一番小さなあの子を真ん中にして、並んで進むとても静かな廊下。
カーテンのお陰でほとんど日が入っていないが、外が明るいのは分かる。
どうやらすっかり晴れたらしい。換気の為に行き止まりの廊下の窓が少しだけ開いていたが、カーテンがはためく様子も見えないから、
恐らくは風もあまり吹いていないのだろう。今日も、お姉さん達の家では鳥が鳴いていたのだろうか。

地下への階段を下りる所になって、穣子お姉さんはぴたりと足を止めた。
何か、見るものでもあっただろうかと思って振り返ったけれど、ただただ下る階段を眺めていて。
私が首をかしげれば、視線に気づいたのか、急いで穣子お姉さんも下りてきた。

「足元、気をつけてね」
「うん」

少し、緊張しているみたいだったから、ちょっとだけゆっくり降りて。何を話さなきゃいけないかなって考えながら、
長い廊下を進んで行った。何故か、お喋りなあの子も、穣子お姉さんも。ほとんど会話を切り出す様なことはしなくて。それが私には、少し不安だった。

私の部屋へと辿りつき、お姉さんを招き入れた。穣子お姉さんには食事に使っているテーブルの椅子へと腰をおろして貰って、
あの子がその対面に座り、私はベッドの上へとお尻を落ちつけた。穣子お姉さんはしばらく部屋の中を眺めていて。
あの子の方へと視線を向けてみれば、丁度こちらを見ていた彼女がにっと笑って、両手の人差し指を唇のそれぞれの端へと持って行った。
声は出さなかったけれど、『えがおで』と言っているみたいだ。……そんなに変な顔をしてしまっていただろうか。

「……うん。頑張ってみる」

それから、穣子お姉さんが急にそう言って、それを聞いたあの子が

「はい。私はこの階の廊下の途中にあった部屋に居ますので、何かありましたらお呼びください」

その言葉を待っていたかのように笑い、返した。そして私の方へと向き直って頭を下げると……出て行ってしまって。
気がつけば良く分からないままに、部屋の中は私と穣子お姉さんだけになっていた。

「変なことをお願いする様なんだけど」

少し遠くから聞こえるドアの開く音、そして閉じる音。
合わせて2回の音が聞こえた所で、穣子お姉さんは真面目な顔でそう言うと、椅子をこちらに向けて座りなおした。

「貴女のことを、教えて欲しい」

お姉さんは一度、長い深呼吸をした後で。そう、静かに言ったのだった。



~~



「何でも良いの?」

私がいきなり変なことを言ったせいで、少し混乱した様子のフランドールだったけれど、
私がじっと待っていると、少しして落ちついてそう返したのだった。

「うん。もし見つからなかったから、こっちから聞くから」

話自体は何でも良かった。話題自体だって、別にフランドールのことに限る必要も無かった。
フランドールの主観の入った言葉が聞けるのなら、それだけで。……これは、さっきまで話していたあの小さな子の提案だ。
この部屋に来て、実際にどういう所に閉じ込められ、育ったのかを知ってみたりして、そうやってフランドールと触れる機会が増えれば、
少しでも何か、私を変える物があるかもしれないからと。

「き、聞きたいことがあるなら答えるよ!」

生憎、フランドールにとっては急な話題だったから、内容は定まらなかったみたいだ。
当たり前と言えば当たり前かもしれない。ずっとこの部屋に居たら、恐らく話題というものにはとても苦労するはずなのだから。

決められなかった彼女と違い、私には聞きたいことはもう決まっていた。
本当は最後に聞けたならと思っていたことだけれど、どうせもう、いつか聞くことになるのなら。
それなら今聞いたとしても変わらないだろうと思って。私は深く息を吸って気分を落ちつかせると、

「貴女はどうして私にそんなに優しくできるの?」

と。そう尋ねたのだった。フランドールは瞼を落とし、悩む様な声をあげて。
しばらくの間、目を閉じたまま考え込んでいた。……なんて失礼な質問だとも思うのだけど、
聞いておかないと、前に進めなくなりそうな気がして。静かに彼女の返答を待った。

「お世話になったからって、答えたいんだけど……たぶん、それ以外のことで、だよね?」
「うん」
「お姉さん達のお家に行くって決まった時、叶えば良いなって思っていたことがあるんだ。それは、何だと思う?」

叶えば良いと願っていたのなら、それは恐らく今のこの環境じゃ叶わないこと。だとすれば、それはとても簡単だった。私も、近い悩みを抱えているからだ。
それは、友達を作ること。与えられた関係じゃなくて、自分で拓いた関係を持つこと。
私が、未だにできないでいること。彼女にとっても、制約からとても難しいこと。

「それは、私のお姉ちゃんとの間にだったら、きっともう叶ってると思う」
「そうだったら、嬉しいんですけど。でも。私は……穣子お姉さんともそういう関係になれたらって思ってたし、今でも……友達になって欲しいから」

彼女はそう言って、膝の上に載せていた手をきゅっと握りこんだ。
部屋の中を照らす灯りが僅かに揺らめいているせいか、何となく震えている様に私の目には映る。

「そう答えてくれると思ったから、もう一歩。もう一歩先のことを、聞かせて欲しいの」
「もう一歩?」
「なんで、私なんかを友達にしようと……思えたの。私は、あんなに貴女を怖がった。貴女に優しく出来た訳でもないのに」

椅子から立って、勝手だけれど、私もベッドの上にお邪魔して。彼女に倣って正座して、向き合った。
……彼女は、困惑してた。私だって、怖かったから心臓はバクバク鳴っていた。
ただ、それ以外の感情も胸の中にあるのが確かだったから。だから、聞かなきゃって。そう思ったんだ。
失礼だとも勿論思った。けれど、そうしてでも……進みたい。知りたい。分かることができるなら、分かりたい。

彼女は、しばらく私を見つめたまま黙っていた。怒ってしまっても仕方ない。
本来友達という関係は、お互いに自分の利益を計算し合うような関係では無いはずだから、
そもそもこの質問自体が良い質問じゃないんだ。それは、私も頭では分かってる。
ただ、聞きたくて仕方が無かったんだ。

この子の、言葉で。



「この前、パーティがあったんだ」
「……うん」

長い沈黙の後で、彼女は小さな声で答えた。恐らくそれが、昨晩妖精の子から聞いたパーティのことなのだろう。

「その日の夜遅くにね、門の担当をしてくれる子が私に会いに来たんだ。昨日、お姉さん達と一緒にこの館に来た時、
あの赤髪の美鈴しか居なかったから分からないかもしれないけれど、本当は門の担当の子達って一杯いるんだ。
でも、その門の子達って、私がその……被害に遭わせた子達なの。だから、門を通る時とか、地下から上がる時とかは事前に連絡するんだ」

それは、昨日の子も言っていた。彼女はそれを丁寧と言っていたけれど、たぶんそれは彼女が直接的な被害を受けたことが無いからなのだろう。
もしも受けた子からすれば、それはしてくれないと困ることでもあるだろうし、

「もしも、連絡せずに私が門に行ったなら。たぶん、皆パニックになると思う。私が、直接手にかけてしまったから。……それは、仕方ないことだと思う。
私は、彼女達を逃がさなかったんだから。……たぶんね、そんなあの子達と会話をする時間がちゃんと私から取れる様になるのは、
とってもとっても……とっても先のことなんだと思う。ひょっとしたら、来ないかもしれない」

そう。恐らくはパニックになってしまうから。たぶん、私が以前なってしまったのとは程度が違うんだと思う。
私の時は、別に命の危険では無かった。精々、恐ろしく息苦しくなったり、喋れなくなる程度で済んだから。まだ、動こうと思えば、動けたのだから。
そしてパニックは、伝染する。私が起こした時は、姉さんに飛び火した。椛さんが居てくれたから良かったけれど、
本当は椛さんだって相当に困っていたはずだし、たぶん、つらかっただろうと思う。私一人を何とか普通の状態に戻すのにさえあれだけ苦労したのだから、
一人増えただけでも大変なはずで……まして、一人や二人で済まない彼女の場合には、たぶんどうしようもない状態になっているんだ。
だから、そう。仕方ない選択で、妥当な選択だったんだろうと思う。事前に連絡することは。

でも、それは大変な問題を一つ作ってしまっている。
レミリアが言っていた様に。そして、さっき部屋を出ていったあの子が言った様に。
怖さを無くすための第一の手段がお互いを知ることだとすれば、それは恐らく今まで以上に厄介な壁になってしまったはずで。
彼女自身が言った様に、延々とお互いの間の溝が埋まらない可能性だって、恐らく小さくは無いんだ。
もっとも、そういう問題があるということを教えてくれたのは、さっきまでアドバイスをくれていたあの妖精の子で。
私はそんな話を彼女から聞くまで、そんな問題なんて考えたことも無かったのだけれど……。

彼女は、だから私が居るんですと、そう言って笑いかけてくれていたけど。
私にはその笑顔が……とんでもなく、寂しそうに見えたんだ。

「他の妖精の子だって、今の私と会話することはほとんどないよ。たぶん、話せなくは無いけれど、長続きしないと思う。……だから、かな。
怖がっていてもちゃんと私の話を聞いてくれたり、一緒にご飯を食べてくれたり、色々なことを教えてくれたことは、とても嬉しかったんだ」

そんな話題の後で話題にあがったのは、レミリアの依頼の目的と、その理由だった。
レミリア本人から直接は聞かされていなかったらしく、昨晩話をした妖精の子と同じくらいにしか彼女はその理由を知らなかったけれど、
あの子はあの子なりに考えて、教えてくれた。
それは、彼女自身の力の限界。……私が力不足だから、と。寂しげに言っていた。
たぶんそれは間違っていないのだろうと思う。今までずっとこの子のために動き続けてきた彼女自身の言葉だから。

ぽつぽつとフランドールが言葉を紡ぐ。……良い子だってことは、もう分かってるんだ。
この子がどんな言葉をこの先に紡いでいくかも分かるし、それが彼女自身の心を痛めるのだって分かってる。
けれど、どうして。私は……彼女に対する自分の心の内を整理できないのだろう。

「今だって、お姉さんは私の目の前でちゃんと聞いてくれてる。怖いって言ってたはずなのに、それでも目の前で聞いてくれる。それじゃ……駄目?」

信用はしてるんだ。だからこそ手紙だって見せたのだ。
でも、それでもどうして、怖いと思う気持ちだけは消えてくれないの?
どうして、消えないの。フランドールじゃなくて椛さんだったら。山で会った他の人だったら。
たぶん私は安心して今笑って居られただろうに、どうして笑顔も返すことができないのだろう。
胸の中でもやもやと湧いて、漂うこの不安。

「駄目だとは……」

思わない。けど……

「私は……その」

何も、言えなくて。時間だけがいたずらに過ぎていく。そんな沈黙が駄目だとは分かっていても、このもやもやを他所へと運んでくれる言葉が出てこない。

「穣子お姉さん」
「……わ、私は!」
「今は、無理しなくて良いんだよ。だから、いつか。ずっと先で良いから。いつか……友達になって欲しい」

私は……。



~~



「どうすれば良いのか、分からないの」

穣子お姉さんは小さく首を横に振って、つらそうにそう漏らした。

「私は貴女を信用してる。だから手紙だって。今の貴女が噂と違うんだってことも、そうなんだろうって思ってる。
貴女が私やお姉ちゃんの為に色々考えてくれたことも、動いてくれたことも感謝してるし、貴女だけじゃなく貴女のお姉さんにだって。……なのに。
それでもまだ貴女のことが怖いの。いつか……いつか、変わってしまうんじゃないかって。噂の様なことが起きるんじゃないかって」

それは、分かっているんだ。別にお姉さんに限らなくても、他の子だってそうだと思うから。
でも私が頷いて返せば、穣子お姉さんは何度も首を横に振って。

「釣り合ってないよ。貴女は一生懸命になってくれる。励ましてくれる。……でも、私がそうじゃない。私は、何かを尽くした訳でもない。なのに……」

そう言って自身の体を抱きしめて、お姉さんは俯いた。
僅かに覗く、きゅっと噛みしめられた下唇が痛々しい。

「お姉さん。……あのね、釣り合うとか釣り合わないとか、そういう気持ちで友達になって欲しいんじゃないんだ。
ただ、一緒にこれから先も色んなことを話したり、何か一つでも一緒に楽しめるものが見つかったら良いなって。それだけだよ?」

それに、怖いとか、臆病とか言っていたけれど、私からすればお姉さんはよっぽど勇気を持っているんだ。
そもそもこの部屋に自分の意思でやって来たのは、パーティの夜にやってきたあの門の子を除けば、お姉さんしか居ない。
私からすれば、二人目のお客さんで。そして、あの時だってあの子はお姉様に縋りつきながらだった。
ベッドから少し離れたテーブルで、会話をするのがやっとだったんだ。
けれど、お姉さんは一人で。そして私の目の前に居る。私と話をするために、自分から選んでここに居る。

「だから、今を急がなくて良いんだよ?」

私の言葉に、やっぱりお姉さんは首を横へと振った。なんで、無理をしようとするのだろう。
今友達になって欲しいと願うのが駄目で、後でゆっくり考えて欲しいというのも駄目で。
よっぽど友達になりたくない……所までは見えなくて。そして、私のことを考えてくれているのは確かなことで。

引いて駄目なら、押してみれば良いんだろうか。なんとか怯えられない範囲で、ほんの、ほんのちょっとだけ。
そう思って、私は少しだけお姉さんに近づいて、ぐっと片手を伸ばした。握手のつもりの、私の手。
しばらくの間、お姉さんは固まっていた。俯いていたから顔は見えなかったけれど、見えてはいるみたいで。
伸ばし続け、少しぷるぷるしてきて……それでも伸ばしていたけれど、段々私の方も居た堪れなくなってきて。
駄目、だったかなって。そう思って手を下ろそうとすれば、下ろしかけた指先をきゅっと、握られた。

「あのね」

穣子お姉さんが、ちらりと顔をあげた。

「私はいつか……貴女の気持ちを裏切るかもしれない」
「それでもお話する機会が増えるのなら、私は嬉しいもん」

今はこの部屋に居ないあの子が、一歩一歩ですよ、と頭の中で囁いて。深呼吸しながら、握られていた手にもう片方の手をゆっくりと重ねた。
初めて触れた指先。とても冷たくて、とても震えていて。でも……何より、逃げないでいてくれる。
きゅっと握られていた手は段々と弱くなってしまったけれど、私の手のひらを受け入れてくれている。

今はただ、それだけで。



~~



「あら、用事があったならその子を走らせて呼んでくれれば良いのに」
「いえ、少し前に来た所ですから」

図書館に事情を説明しに行った帰り道。昼食までは時間があるからと、自分の部屋への廊下をゆっくり歩いていた。
私が呼んだ客人が居るということもあってか、妖精の子の姿は廊下のそこかしこにあるものの、かなり静かだ。
勿論、袋小路になった廊下や、客人が居る部屋からはかなり遠くの廊下ではいつも通りであるのだが。
そんな皆を見ながら自分の部屋まで戻ってくると、ドアの前で静葉嬢が私の部屋つきの子の前で話しこんでいた。

「そうか。どうしたんだい?」
「少しお話ができればと思って。お時間、頂けませんか」
「ええ」

私の言葉に傍に立っていた子が急いでドアを引き、小さく頭を下げた静葉嬢と一緒に部屋へと入った。
どうやら、既にシーツは取り替えられた後の様だ。今朝脱いで私がベッドの隅に重ねていた服も消えている。

「さ、かけて頂戴」

ベッドから少し離れたテーブルへと彼女を誘い、座らせた。咲夜と並んで立っている時は彼女の方がやや低く見えたのだが、
座っていざ見上げてみると、顔の位置はあまり咲夜と変わらない。恐らくは履いている靴の影響なのだろうが……。

「私はてっきりまだフランと話していると思ってたよ。何か、あったかい?」
「穣子の希望で……フランドールちゃんの部屋に今は三人で行ってるんです」

フランの部屋に、か。私がさっきあんなことを言ったからだろうか。怖いと言っていたから、気持ち自体は嬉しいのだが心配だ。
急いで無理をしてまでやる必要は無いことなのに。私の後にフランのお世話係の子と話していたはずだから、
そちらから持ちかけられたのかもしれないが……いや、希望の出所が穣子嬢であるのなら、関わりはあっても……違う、か。
あの妖精の子が居るのであれば任せていても大丈夫だろうが、恐らくはそれでも心配になったから静葉嬢はここまでやって来た、という所だろうか。

「心配かい?」
「……少し。何だか、穣子が色んなことを急いでいる様に感じて。元はと言えば私のせいではあるんですけど、あの子……どうでしたか」

フランの指示もあって、あまり二人が衝突しない様にと部屋も分けたのだけれど……そうか。
お互いに何があったかはほとんど知らないままなのだな。フランや私を通じて多少なり相手のことを伝えてはいても、
直接何かを話す時間があんまり無いから。大丈夫ではあると思うが……とりあえず、独りきりにさせるのは良くないのかもしれない。

「恐らくだが、フランに対する恐怖心を無理矢理乗り越えようとしてる、という所じゃないだろうか」
「あの、レミリアさん。私はどうすればいいんでしょう。何だか、混乱して。何を頑張らなきゃいけないのか分からなくて」
「違う。頑張らない様にして欲しい。朝食の時にも話したが、今日は休むための一日だ。気楽に構えておくれ」

今気張る必要は無い。そもそも明日を予定している話し合いにだって、それは必要無い。
気張り続けてきた生活を止める為の話し合いじゃないか。……とはいっても、心配してしまうこと位は分かってる。
それは私や咲夜がここ数日間体験したことでもあるからだ。しかしまぁ、頭の中でそういうことを悩み続けてきた期間は、きっと彼女の方が多いから。
そう。だから、考えたり苦労すべきは頼られている側の私や、フランなのだ。

「気負うのは結構なことだがね、決別の為の話をするんじゃないんだよ。これからも一緒に歩くために話すんだろう」
「それは、そうなんですけど」

それでも考えてしまう。それは、分かっている。他に何もすることが無ければ、そうなってしまうのは当然のことなのだから。
ちらりと見た時計。まだもう少し、昼食までには時間があるようだ。けれど、この程度の時間を潰すのは、そう難しい話じゃない。
話題なんてものは探せば幾らでも出てくるものなのだ。

「……優しいんですね」
「……妹さんにも、悪魔らしくないと言われたよ」
「うん。私も、何となく」

……悪魔というものは一体世間からどう思われているんだろうか。
悪魔にだって、やりたいことも在ればやりたくないことも在って、好きな食べ物があれば嫌いな食べ物があって。
家族を持っている者もいれば、教育に携わる者だっているだろう。

「私は、私がしたいと思うことをしたいだけさ」
「レミリアさんのしたいことって?」
「こうあるべきじゃないかと思うことを、そのままやることだよ。簡単に言えば、我儘を押し通すこと、かな」

実際は、見通しが甘かったりその考えを上手く貫き通すことができなかったから、今のフランの境遇が産まれている。
私の背中を今押して、そして支えているのは、そんなあの子の為に立ち上がってくれた子や他の皆の力だ。
私が我儘を貫けるのは、彼女達あってのこと。……私独りで、できることではないのだ。

私は、そんな彼女達に何をしてやれるのだろう。
というか、私は彼女達に何をしてあげなければならないのだろう。
私は本当は彼女達の為に何かをしなければならないはずで。……ときどき、そんなことがふっと不安になる。

「やっぱり、羨ましいです」
「宴会の時にも、言ってたわね」
「私は妹の為に何かしなきゃって思ってても、貴女と違って動けなかった。妹と向き合うことを、避けて来たから。
だからね、羨ましかったの。あの日お願いされた時、私は……私は、助けて欲しかった。勇気が欲しかった。……言えなかったけれど」

静葉嬢が目元に袖を当てたのを見て、そっと懐に手を伸ばしたが……空っぽだ。
求めていた愛用のハンカチはさっき穣子嬢に貸したっきりだ。代わりに拭けそうな物は……見当たらない。
予備のハンカチを取りに行くにはいささか遠すぎる。あるのは精々、ベッドにある枕位だろうか。

「私がフランドールちゃんに相談を持ちかけたとき、とても真剣に聞いてくれました。それから、色んなことを一緒に考えて貰った。
私と穣子の間を頑張って取り持ってくれて。本当、貴女もあの子も……優しくて。羨ましくて。……ごめんなさい」

流れ始めた涙の量が増え始め、彼女は慌てながら袖で拭って止めようとして。
でも、昂ぶってしまっているらしく、涙が止まる様子はまるで無く。彼女は一度謝るときゅっと口を閉じた。
私は席を立って、そんな彼女を引っ張ってベッドへと無理矢理座らせて。ぎゅっと引っ張られ皺になっていた袖を離させて、代わりに枕を握らせた。

「……レミリアさん」
「うん?」
「濡れたら、困りませんか」
「困るのなら渡さないさ」

私の言葉に彼女が顔を埋め、そんな彼女の横で私もベッドに体を投げた。
背中が少しだけ跳ねて、ゆっくりと温かさが広がって行くのを感じて。私が大きく伸びをすれば、僅かにベッドが上下に揺れて。
ふと横を見てみれば、彼女も枕を抱きこんだまま横になっていた。

「妹さんにも似た様なことを言われたよ」
「妹ですから」
「私もね、貴女が羨ましい。たぶんフランだって、妹さんのことが羨ましいと思う。自分達には無いなって思う物は、そう見えてしまうからね。
でもね、重要なのはそうやって見えた物だけじゃないんだよ。自分達が自然と持ってしまっている部分にも、大切な部分は絶対にあるんだ。
よっぽど仲が決裂しているのなら別かもしれないがね、貴女達はそうじゃない。たぶんフランも言うだろうがね、貴女達は繋がりがちゃんとあるんだから。
毎日ご飯を一緒に食べて……寝る時は別かもしれないけれど、一緒の時間を過ごしている。私なんか、今朝の食事があの子との久しぶりの食事だったんだ」

彼女は黙って聞いてくれていた。肩が激しく上下したりしていないから、
何とか平静は保っているみたいだが……顔を隠されてしまうと涙がまだ溢れているかは分からないな。

「食べ物の好みも、正直知らないんだ。……そんなものなのさ。だからね、羨ましいよ。だから……もう少し、自信を持って欲しい」

私の言葉に彼女は小さく頷いた。それから、お互いに小さな溜息を吐いて。
私は、ゆっくりと目を閉じたのだった。



彼女の吐息が完全に元へと戻ると、部屋はとても静かだった。
私の体の中の音と、時計から響いてくるごく僅かな音、そして彼女の少し長い吐息の音。
それ以外には何も無く。お互いに息の音を止めたなら、誰も居ないんじゃないかと思ってしまえそうな程だ。
そんな中、またベッドが少し揺れて、枕の詰め物が少し動いた音がした。

「レミリアさん」

どうやら寝返りを打ったらしい。さっきより少しだけ、声が近い。

「何だい?」
「もし、もしも良かったら。一つお願いを聞いては頂けませんか」

私の頭から肩にかけてのベッドが深く沈み、目を開けた。
見上げてみると、彼女が私の近くで正座して、じっとこちらを見ていた。
腕の中の枕は強く抱きしめられたままで、くの字に曲がっている。

「神様が悪魔にお願いかい?」
「私から、貴女へのお願いです」
「良いよ。聞こうじゃないか。応えられるものは応えよう」

頷けば、彼女は一度深呼吸して。それから枕を横へと置くと、ぎゅっと握りしめた拳を膝の上に置いた。
ちらりと枕を見てみると、じんわりと滲んだ痕は残っているものの、涙は早いうちに収まってくれたみたいだ。
フランから聞いた話だと、一度泣きだしてしまうと中々止められないとのことだったが……。
ある程度はあれから抑えられる様になったのだろうか。

「今日、一緒に居て頂けませんか」

腫れぼったい目を私の胸元辺りに向けたまま、彼女が言った。
……独りだと色々考え込んでしまうから、というのは想像に易いのだが。

「……寂しくて、心細くて。不安で、落ちつかなくて」

そう、小さな声で続ける彼女。不安は仕方ない。落ちつかないのも、仕方が無い。
心細いなら彼女が今望んだままにしよう。しかし、寂しさは。寂しさはどうすればいいんだろう。
置いて行かれて、独り取り残されるのが嫌だって言ってたっけ。

「そうだな。じゃあ一つ言うことを聞いてくれるなら構わないよ」
「何でしょうか」
「今夜の食事が終わった後で、お酒に付き合っておくれ。元々は昨晩飲む予定だったんだ」

私の言葉に彼女はゆっくりと頷いて、そして私も頷いて。
そのままベッドの上でじっと休んでいた私達の元へと、昼食ができたことを知らせに咲夜がやって来たのは、
枕に付いていた涙の痕がすっかりと消えてしまった頃だった。



「フラン達は?」

朝も使った食堂へと着くと、パチェ達が既にやって来ていた。席は……朝に私が座っていた所の隣だ。
静葉嬢が二人を見るなり頭を下げて、それに対して彼女達も頭を下げた。
私も静葉嬢も朝の位置へと腰を落ちつけ、それからふと尋ねてみれば、二人とも揃って首を横に振った。

「そうか」

咲夜に連絡を貰った後、すぐに私達も部屋を出たのだが、廊下でも食堂の入り口でも咲夜にはすれ違わなかった。呼びに来た後すぐに居なくなってしまったから、
恐らくは厨房の方で準備しているか、地下に呼びに行っているかのどちらかだが……ここからの距離を考えたら、まずは私達よりも地下の皆を呼んでいそうで、
今から改めて呼びに行っているとは考えづらい。食事こそまだ運ばれていないが、食器は既に並んでいる。だから少なくとも一度ここには来ているはずだ。

「紹介しておこう。私の友人のパチュリーだ。その隣が彼女の使い魔の子だよ。普段は少し離れた図書館の方に居る」

今回の昼食の内容は、どうやら和食の様だ。箸は何故か置かれていないものの、湯のみがそれぞれの席に置いてある。
離れた所に急須も用意されているから、恐らくは緑茶を作るのだろう。

「パチュリーよ。よろしくね」
「お邪魔してます。どうぞよろしくお願いします」

頭を下げるパチェ達を見ながら、背もたれへと身を預ければ、やっと廊下から足音が聞こえた。
音からすると、どうやら二人の様だ。とすれば、お付きの子は置いて来たのか、それとも後から来るのか。
そう思ってパチェ達から入り口へと視線を向ければ、扉の向こうに立っていたのは……咲夜と、お付きの子だった。

「フラン達は?」
「少し、遅れるそうです。先に食べ始めて下さいとのことでした」

何か、あったのだろうか。返事をちゃんと貰ってきているということは、荒れていないのは確かなのだが……それでも不安そうだ。
静葉嬢が居るからかなんとか笑顔を保っているものの、羽が少しそわそわと動いている。

「そうか。それじゃあ、咲夜。準備して頂戴」
「畏まりました。運んで参りますので、少しお待ちください」

そう言い残して出ていった咲夜。咲夜も少し不安そうではある。あまり重要なことではない……と思いたいが。
しかし中身を尋ねておかないと、余計に静葉嬢が心配してしまうだろう。藪から蛇だけは勘弁してほしいんだが。

「話しこんでいるのかい?」
「いえ。少し、気が昂ぶっていらっしゃった様で。……あ、穣子さんの方が、です。落ちついたら行くから、ということでした」

昂ぶっている、ねぇ。不安そうに言うからには、恐らくは泣いていたのだろう。
そしてたぶん、時間はかかれども無事に収まりそうなのだろう。落ちつくめどは立っているらしいから。

「そうだ、静葉さん」
「……はい」

とりあえずホッと息を吐けば、思い出したようにお付きの子は続けた。

「大丈夫だから……と。お嬢様と、穣子さんから」



~~



結び続けていた手を離して少しして、穣子お姉さんはぽろぽろと涙を落とし始めた。
けれど、肩を震わせることも、目を閉じることも無く……顔は確かに俯いていたけれど、今までで見たことの無い泣き方をしていた。
怒らせてしまったのとは違う。怖がって泣いているのとも違う。寂しさに泣いているのとも、違う。
嬉しくて泣いているとは勿論思えないし、とすれば……やっぱり分からなくて。
随分と小さく見えるようになってしまった肩口へと毛布をかけた後は、私はずっとお姉さんの前でじっとしていた。

そんな中やって来たのがお付きの子と咲夜だった。
どうやら、お昼ご飯が出来たみたいで。だから、また朝行ったあの食堂まで集まって欲しい、と。そう言っていた。
でも、とても連れて行けそうには無かった。未だ涙の溢れる目元は少し赤みを増して、
例え今すぐにぴたりと涙が止まったとしても、誰が見ても泣いていたのだと分かってしまうような顔になっていたから。

ドアの向こうに居るふたりにどう返答すれば良いのか困ってしまって、私はとりあえず一度穣子お姉さんから離れてドアを少しだけ開けると、

『後で食べに行くから、先に食べ始めてって伝えて欲しいな』

と、顔だけ出して伝えたのだった。ただ、勘が良いふたりのことだから、すぐに異変に気づいてしまって。
声には出さなかったけれど、大丈夫ですか?と、尋ねてきて。……本当は、ちょっぴりふたりの力を借りたかったんだけど、
私が返答するよりも先にベッドに居た穣子お姉さんが、

『大丈夫ですから、お先に食べ始めてしまって下さい』

と、言ったから。喉から出そうになった言葉は飲みこんで、ふたりを見送ったのだった。

それからずっと、またベッドの上で向きあっていた。
お姉さんはかけられた毛布の端を胸の前で両の手で掴んだまま目を閉じていて、相変わらず流れ続ける涙が顎先からぽたぽたと音を立てている。
これがいつも一緒に居るあの子だったのなら、きっと今私は肩口に手を置いて抱きしめていたと思う。
けれど、あの子ではない。怖がっているお姉さんだから。だから私は解いた後の手を持ちあげることができず、膝の上でじっと握りこんでいた。
もどかしさで胸が苦しくて、もしも椛さんを呼んで来れるなら今すぐにでも呼びたい気分だった。

流れ落ち続ける涙を見て、拭ける物を出さなくちゃってことにやっと気付いた時には、涙の勢いも少しだけ収まっていたけれど、相変わらず目は閉じたままで居て。
ポケットから取り出したハンカチをとりあえずと差し出してみたものの、そもそも気付いて貰えなくて。
声をかけるにも困って仕方なく、私はそのまま頬にハンカチを触れさせた。出来る限り柔らかく、だ。
……やっぱり驚かれた。開いた目が私を見た。しばらく、視線が重なって、そしてまた瞼が降りて。
僅かな間に溜まった涙がぼろりと頬を伝い、じんわりとハンカチに染み込んでいった。
毛布を握っていた手へと私の手を重ねてみると、掴まれていた毛布ははらりと落ち、
少し冷たくて、そして私よりも少し大きなその手のひらに、持っていたハンカチを重ねた。

「ありがとう」

と、小さな声でお姉さんが呟いて。私は乗り出していた体を引っ込めると、そのままベッドに寝転がったのだった。

少しして、ベッドが揺れて。隣を見れば、毛布を抱いたお姉さんも仰向けになって天井を見上げてた。
お互いに、何も言わなかった。まだお姉さんの目尻からは涙が落ちるのが見えていたし、
そしてそれをお姉さんがハンカチで拭っていたし。何より、少しだけ表情が柔らかくなったから。



「……顔、洗えないかな」

再びお姉さんが体を起こした時には、私は少しうとうととしていた。張りつめていた緊張が解け始めたせいなのだろう。
……お姉さんはゆっくり昨晩は眠れたのかな。私がお泊りしに行った時は、最初の日は色んな不安で胸が一杯で、あんまり眠れなった。
それ以前の数日はゆっくり過ごしていたからあまり疲れを感じたりはしなかったけれど、お姉さんは違う。
私を怖がりながら過ごしてきた日数が僅かでもあったのだから、たぶん……今は疲れだってあるんだと思う。

「う、うんと……奥にお風呂場があるから、そこでなら洗えるかな」
「借りても良い?」
「うん。タオルは入ってすぐの所にあるよ。あと……何か必要な物があったら、教えて」
「……うん」

お姉さんが奥の部屋へと向かってしまった後で、ぱちんと頬を叩いてみる。
じん、と痛い。あの子からは、明るい顔で居て下さいと言われたけれど、とても……とても難しい。
というか、無理だ。今のお姉さんが無理をしているのが分かっているから。だからこそ、なのかもしれないけれど……私には無理。
だからせめて私は私として、精一杯の頑張れる限りをやらなくちゃ。



お姉さんが奥の部屋から出てきた後で、私達はそのまま食堂へと向かった。
お姉さんはお客様だから本当は私が前に立って案内するべきなのだろうけれど、本来の食事の時間からはかなりずれてしまったから、
私はお姉さんに曲がり角は先に顔を出して貰って、ゆっくり進んだんだ。
食堂までの道で少し妖精の子達に出会ったけれど、幸い、門の子達は居なかったようで、それだけにただホッとしていた。

食堂へと着くと、部屋の前に咲夜が立っていて、こちらを見て胸元に手を当てて笑った。
それを見て、横のお姉さんが頭を下げて、私も下げて。それから導かれるままに食堂へと入った。
どうやら、もう皆は食べ終わっていたみたいだ。お姉様も静葉お姉さんもちらりと心配そうに穣子お姉さんの方を見て、それから小さな溜息と共に笑った。

「すまないが先に食べさせて貰ったよ」
「うん」
「御迷惑をおかけしました」

お昼ご飯はおにぎりだった様だ。私達二人分の席の所に、1枚の浅いお皿があって、やや大きめのおにぎりがそれぞれ3個ずつ並んでた。
その前には……どうやら咲夜が今準備してくれたのか、とても熱そうなお茶がふたり分と、ほかっとした湯気の立つおしぼりがふたつ。
手に取って拭いはじめれば、朝食をしっかり摂ったはずのお腹が小さく音を立てた。



~~



食堂の中で、お嬢様が主体になってのパチュリー様達の紹介が始まって。
とりあえず一安心だと思い、お茶の準備のために厨房へと戻る。
既に妖精の子達の方もお昼ご飯は終わったらしく、厨房の子達は皆、黙々と食器を洗っていた。

「お疲れ様」
「あ、お疲れ様です。どうでしたか?」
「無事だったわ。後は食事が終わって少ししたらお茶ね。……さて、お茶菓子をどうするかだけど、緑茶に合わせる物、何か案はないかしら」

とりあえずとばかりに洗い物をしていた子達へと投げかけてみれば、
皆せわしなく手元を動かしながらも、揃って首をかしげた。
皆も食べたばかりだからか、あまり考える意欲が湧かない話題なのだろう。
余った分は勿論皆のおやつに回すつもりではあるのだが、たぶん洗い物の後はおやつよりも飲み物の方が喜ばれそうだ。
そんな中でふと一人、洗いおえた食器を拭いていた子が呟いた。

「たくわん」
「漬物の?」
「結構、合いますよ」

皆がお皿を洗いながら奇異の目で見つめ、彼女がたじろいで。
せっかく出してくれた案だからと、独り時間を止め、漬けてある沢庵をひっそりと齧ってみた。
悪くは無い……のだが、それにしてもこのまま出すには少し忍びない。なんらかの形にはした方が良さそうだ。

「じゃあそれ採用で」

時間の流れを元に戻し、洗い終えたばかりのまな板を取り出して、まだ切り揃えられていない沢庵を乗せる。

「ついでに形の案はないかしら」

紅魔館を象徴できそうな形というのは、案外に単色だと難しいのだ。お嬢様的な物を作るのも、難しい。
楽にできるのはパチュリー様の頭のアレ位なのだが、切る時に力の入れ過ぎた下手な半月切りみたいになってしまいそうだし、
何よりそれはパチュリー様の所に出す時にすればいいことであって……今やるにはまた少し違う気がする。

「花をかたどるのはどうでしょうか」
「楽そうだけど、何の花にするか、ね。それにお茶受けだから料理とは違って量も少なめにしないといけないし」

だから、はなびら形に切って重ねていくことはできない。

「今来てるお客様はどんな方なんですか」

そんな中、沢庵の案を出してくれた子が鼻高々に胸を張りながら言った。
どうやら何か良い考えが浮かんでいるらしい。たぶんこれも分かってて聞いているのだろう。
今来ているお客の噂は、厨房に限らず色んなところで流れているから。

「秋の神様って所ね」
「ではナナメに切って切り口を大きくして、イチョウ形に切り出してみるのはどうでしょうか」

なるほど。それなら量も抑えつつそれなりな物が作れるはずだ。
しかし、イチョウか。だとすれば少し、黄色に着色した方が良いかもしれない。

「その案、使わせてもらうわね」

私が言えば彼女は誇らしげに胸を張った。……他の子は悔しそうだ。
そもそも案を出せなかった子も、出してくれた子も。皆少し頬を膨らませた後はがっくりと肩を落としてた。
別に良い案が出せなかったことを責める気は無いのだが、たぶん皆はそんなことで落ち込んでいる訳ではない。
ただただ単純に、

「咲夜さん……今日のおやつのことなんですけど!」

さも当然の権利のごとく、そんなことを主張しづらくなるからなのだろう。



~~



「少し、休んでくるね」

カラカラだった喉を潤し、お腹を満たしたその後で。私は一人先に、部屋に戻った。
顔を洗って涙の痕も消して来たのだけれど、疲れは体に残ってた。頭の中は……ほとんど考えることができない。
眠くは無いのだけれど、もしもこのままベッドに体を横たえたなら、そのままいつまでも時間が過ぎてしまうのではないかと思う位。

宛がわれていた部屋の前は、見る度に顔は変わるのだけれど、相変わらず小さな妖精の子が椅子を構えて座っていて、
私を見るなりさっとドアを開けた。……頭を下げると、嬉しそうに彼女も頭を下げた。
どうやら、もう変な顔にはなっていないのだと思うと安心だ。
顔を洗いはしたのだが、食堂で私はどんな顔をしていたのか。それが、少し不安だったから。

部屋に入って、椅子に腰を下ろした。閉じたカーテンのお陰で部屋の中は暗かったけれど、カーテンの裾からはほんのりとした光が差し込んでいる。
そんな中、私はテーブルの上にあった蝋燭へと火を灯し、その灯をじっと見つめて。
揺れながら光るその中に思い返してた。さっきの、彼女の部屋でのこと。

私が掴んだ彼女の指先は、ずっと氷でも触っていたのかと思う程冷たかった。
部屋に入った時ですら少し寒いと思った位なのに、それ以上に冷たくて。そして、少し震えてた。
掴んで少しして、ふっと掴んでいた彼女の指先から力が抜けて。それから彼女のもう片方の手のひらが私の手を包んだ。
不思議と、重ねてくれた方の手のひらは温かくて。……それから、すぐに掴んでいた指先も温かくなっていった。

『裏切るかもしれない』

と。そう告げた時。……いや、告げる前から。あの子は頬を緩ませていた。
申し訳なさそうな顔や、困った顔。そして真剣そうな顔の方が確かに見る機会は多かったけれど、
笑った顔というのも全く見てこなかった訳じゃない。けれど、その時に彼女が見ていたのは決して私じゃない。
姉さんや、椛さんだった。

でも。その時私が見た彼女は真剣な顔を崩すまいとしていたけれど、確かに私を見て笑ってた。
私の行動で、喜んだのだ。料理を教えたことでも確かに彼女は喜んだけれど、それとは違う。
居た堪れなさもあったとはいえ、これは私が選んだ私の行動だったから。頼まれて、やったことじゃない。
だから、かな。ほんの少し嬉しくて、それ以上に、むなしかったんだ。
私が彼女にどういう風に接していたか。それが自分でも分かっているから……。



じっと灯りを見つめていると、コンコンと入り口から音がして。私は慌てて吹き消した。

「はい」
「失礼いたします」

十六夜さんの声が響き、ドアが開いた。どうやら飲みものを持ってきてくれたみたいだ。
我が家じゃ押す機会も見る機会も無い台車に、見慣れたお茶の道具が置いてあって。
椅子に座って待っていると、ひょいひょいと十六夜さんは準備を進めていった。

「……大丈夫でしたか?」

湯のみに湯気立つお茶を注ぎながら、十六夜さんがちらりとこちらを見て。
かけられた言葉に頷けば、ホッと落ちついた様に笑って、私の前に湯のみ一つと小さなお皿をそっと置いた。
黒い小さなお皿の上に、何だか妙に透けているイチョウ……の様な沢庵。
薄く切られていて、もう少しお皿が大きかったら、模様かと思ってしまいそう。

「大丈夫です。でも……ちょっと」

私の言葉に十六夜さんは片付けの手を止め、ちらりとこちらを見た。

「混乱は、してるかもしれないです」
「お姉さんのことですか?」
「いえ。フランドール……さんのことで」

そのままゆっくりと歩いてきて、私の向かいに腰を下ろした。
立っているとどことなく背が高く感じるのだけれど、座ってみるとあまり目線は変わらない。

「何となくなんですけど、あの小さなお世話係の子の言ってたこと、分かった気がします」
「と、言いますと?」
「皆とかけ離れた存在という訳じゃないってこと。違う所は勿論あるけれど、同じ所も零じゃないってこと。
それはとても当たり前のことで、でも信じられなかったことで。私は信じようともしなかったけれど、今は信じられるかもって思ってる。
ただ、あの子が優しくしてくれればくれる程に……分かってしまった今は。とてもつらいんです。
自分自身はどうなのかなって。まるで彼女の体越しに鏡を見てる様な気分で。……私は、あの子の様に優しくなれる自信が無い」

手を伸ばして、湯のみを掴んだ。我が家で飲むのに比べれば、あまり熱くは無い。
ぬるい訳でもないけれど……お陰ですっとお腹の中へと降りていく。

「私は裏切るかもしれないと、あの子に伝えたんです。それでも、お話する時間は増えるから良いって。そう言われたら……つらかったです。
私は終わり方を気にしてる。どうなってしまうかばかりを、気にしてしまう。でもあの子は、そうじゃない。
あの子はつらい終わり方をしない為に、そこまでの一歩一歩をちゃんと見つめてるし、それで動いてるって。
……羨ましいです。私は逃げてばっかりだったから。あの子からも……お姉ちゃんからも」

十六夜さんは眼を閉じたまま聞いていて、たまに小さく頷いて。
私が話すのを止めると、背を椅子へと預けながら微笑んだ。

「でも、諦めた訳では無いのですよね?」
「それは……そうだけど」
「でしたら、きっと大丈夫です。世の中には手遅れとか、どうしようもないとか。そういう言葉もありますけれど、
思った瞬間というのはまだ案外どうにかなったりするものです。勿論そのまま時間が経てば、言葉通りになるでしょう。
しかし、幾ら時間があったとしても。諦めてしまえばそこで終わりです。返して言えば、諦めなければ、方法は中々潰えないものですわ」

それは貴女が時間を止められるから、じゃないのだろうか。

「もし、方法が浮かばなかったら?」
「私も少し前に、方法が浮かばず困ったことがありましたが、最後は正直に周りの子達と相談しました。
途中色んな気持ちを抱えることにはなりましたが……皆真面目に対応してくれて。何とか解決できました」
「そう、ですか」

十六夜さんが自身のお茶も用意し始めた所で、私は差し出されていたイチョウの沢庵を口へと運んだ。
とても薄く切ってあったため、へにょっとしているけれど……味は私のお家のとあまり変わらない。
思う所があるとすれば、ほんの少しだけ家で作っている方がしょっぱいかもしれない。

「穣子さんのお家も、色んなお漬物を拵えてましたね」
「農家の方に食べきれない量を貰いますから、そうしないと持たないんです。……ここでもお漬物作るんですね。あんまりそういう印象が無いんですけど」
「好きな子が居ますから。今日のこの切り方も、そんな子達の提案です」
「……平和ですね」
「ええ。……本当に。後はこれが完全に皆の心に定着さえしてくれれば嬉しいのですけれども」

実際は、上手くいっていない。それは知っている。
だからこそ私や姉さんがこんな所に居るのだ。私達は、館の外の存在だから。

「私は、何かできそうでしょうか」
「もう十分にして頂いているのですよ」

私はそうは思えない。私は、まだ何も返せていない。
あの子は釣り合うとか釣り合わないとか関係無いって言っていたけれど、私はそうは思わない。
少なくとも貰った分は、返したい。

でも、本当は返せるかどうかも怪しい。私は何を貰ったと言えば良いのだろう。
勇気とはちょっと違う。愛情も違う。同情ともまた違う。これだって、言うことができないんだ。
色んな物が混ざってたのか。それとも、私がその正体を知らないでいるのか。
……私にあるのは、ただ、貰ったという感覚だけなんだ。貰った物もハッキリしないのに、何を返せば良いんだろう。

「あの、十六夜さん」
「はい。お代りですか?」
「それもお願いしたいんですけど、その。十六夜さんは初めて友達ができた時というのは、どんな感じでしたか」
「友達、ですか」

私の一言に、十六夜さんは眉を寄せた。気がつかぬ間に私の手の内の湯のみにはお茶が満たされていて、
ふと見ると、沢庵も枚数が増えている。……さっきよりもちょっとだけ厚みがある。

「申し訳ありません。誰を友達と呼んで良いのか分かりませんので、その質問には答えかねますわ」
「じゃあ、自分のことについて真剣に考えてくれる相手が現れた時、どう思いましたか」
「先日、そんなことがあったばかりで。……そうですね。どことなく、申し訳無くて、でも嬉しくて、
それでいて恥ずかしくて。ただそれらはその場での思いで。後になればなるほど思ったのは、どう応えなきゃいけないのかなってこと……でしたね。
受けた優しさに私はどう、お返しをすべきなのかって。どう応えるべきなのかって。そんなことを、悩んでおりました」

十六夜さんがそう言いながら、眉尻を落として笑う。

「十六夜さんは、どうしましたか?」
「一人の相手を除いて皆にはゆっくり返すことに決めました。時間を止めることはできても、お礼をする時間は増やせないですから。
その一人の相手には、偽りも隠し事もやめて、ただ。真っ直ぐに。全部さらけ出しました。……迷惑をかけた、と言った方が本当は正しいかもしれません」

色んなことを打ち明けたのは私も同じ。
でも、十六夜さんと違って私のはまだ解決した訳じゃない。
怖さが完全に拭えた訳じゃない。姉さんとの仲が戻った訳じゃない。
あの子が怖がられなくなった訳じゃない。あの子から貰った気持ちを返すこともできていない。

私は大事なことをするためにここにやって来て、ここに居る。
私は何をしなくちゃならない。一番先に、何をすれば良い。

「でも。それで今がありますから。だから、貴女も。まだ手遅れとは思わないで、是非次の一歩を進んで欲しいのです」
「……合ってるのでしょうか。私のしようとしてることは。本当に、これで良いのかなって」
「それを決めるのは、進んだ後の貴女です。でも、進まない内は良かったとも悪かったとも必ず言えないのです。
ただ。ずっとずっとそれで動くのを待っていましたら、訪れてしまいますよ。本当の、手遅れが」
「……そうですね」

けれどそれでも。私は分からない道に進みたくは無い。
だったら、何ができるか。止まらずに進み続けるなら、少しでも分かることをしなければ。

私が、やらなくちゃいけないこと。

「そうだ。十六夜さん、お願いがあるんですが……」



~~



穣子嬢が部屋へと戻ってしまった後、私達は席を詰めて座り直した。
静葉嬢はフラン達を待っていた時と同じく動揺した様子で、一応は笑顔を取り繕っているが、手元ではきゅっと拳が握られていた。
そんな姿を見かねてか、大丈夫だよと、フランが笑う。……こちらは、嬉しそうだ。
真剣な顔ではあるのだけれど、ふっと気が緩んだ瞬間に満足そうな顔をする。
結局、穣子嬢が出て行ってしまった後も、フランは自分の部屋での出来事を話そうともしなかったのだが、
この分だと恐らくは良いことなのだろう。それは恐らく、穣子嬢の方にとっても。

しばらくして、咲夜がお茶と漬け物を持ちこんできて。
私が穣子嬢の様子を見てくるように咲夜に頼めば、すぐに咲夜は部屋を出ていった。
出されていたお茶を飲み始めると、いよいよ会話は無くなって、しんとした空気と、時折響くこりこりと砕ける漬け物の音、
そしてパチェが静かに本のページをめくる音だけになってしまって。
流石にどうにかしなきゃならないと思ったのか、フランがにわかに手を打った。

「明日って、どうすればいいのかな」
「そうだね。今の内にある程度予定を組んでしまおう」

決めるとしたら何を決めるべきか。場所と時間と準備が必要なもの位だろうか。
となれば時間が一番決めやすいな。明日の……朝か、昼だな。遅くしてしまえばしてしまう程、
心配し続けている静葉嬢の方が参ってしまう。そういう意味では本当は食前も避けたい所だ。
緊張で喉に何も通らない状況も好ましくない。でも、そう。準備も考えれば……

「明日のお昼前にしましょう」

私の言葉に静葉嬢が静かに頷き、その様子をそっとフランが見守ってて。
……更にその様子を世話係の子が見守っている。パチェは事前に私が話をしていたこともあり予想がついていたのだろう。
ちっとも動じる気配が無く、ただただ読み続けている本のページを1枚捲っていた。
更に横に居る彼女のお付きの子も、主が動じないこともあって、気ままに出されたお茶をゆっくりと飲んでいた。

「場所は?」

フランが首をかしげる。……都合が良い場所は二つある。
一つはこの食堂。もう一つは初めに彼女達を案内した応接室だ。
理由は簡単で、既に案内した場所であるからだ。下手に畏まった場にしたくない。
それに、いざ私達が何かあって立ち入った時、並んで腰をかけやすい所でもある。
どうせ話しあいが終われば昼食にすることも考えれば、ここで良いだろう。

「場所はここ。お昼より少し前にこの部屋で」
「私は、どうして居れば良いのでしょう」

静葉嬢が不安そうに呟く。
気負いする必要は無いし、どうしてても良い……と、返しても不安になるだけか。

「そうね。私と一緒に最後の調整って所かしら。話す内容のおさらいとか。他にしたいことはある?」
「……いえ、何をしなきゃいけないんだろうって思って」
「とりあえずはそんな所よ。次は、そうね。飲み物かしらね」
「飲み物?」
「ああ、話の雰囲気作りには重要さ。お茶だと多少親身になって話易いだろうし、いざという時にゆっくり飲んで考える時間を作りやすい。
鎮静作用が働く物だってある。一方ジュースとかなら、気軽さを出しやすい。そんな所だ」

そういう意味で個人的にお勧めしたいのはジュースなんだ。
気軽に構えられるなら気軽に構えて欲しいから。……でも、もうお茶を選ぶだろうことは分かっているんだがね。



どんな味のお茶が良いか。ミルクは日頃使うか。緑茶の方が良いのか。
そんなことを取りきめていると、コンコンとドアを叩く音がして。
静葉嬢が肩をびくりと震わせ、音のした方を振り向いた。……咲夜だ。

部屋に入ってきた咲夜は非常に穏やかに笑っていた。とても機嫌が良いらしい。
きっと穣子嬢の方で特別問題が無かったんだろう。……と、いうこと位は口で報告しそうなものなのだが、
何故か喋る気は無いらしい。皆の視線が集まった所でもう一度笑うと、すっと右手をあげて丸の形を作った。
それからすぐに人差し指を口元に立てて。そしてじっとフランの方を見た。

「フランドールお嬢様、少々時間を頂戴したいのですが、お越しいただけますか?」
「うん……お姉様、続きお願いして良い?」

フランが私を見て。それからちらりと、パチェ達や静葉嬢、お付きの子の方を見て。

「ええ。いってらっしゃい」

と、私が返すと、咲夜と揃って部屋を後にしていったのだった。

「……何があったんでしょう」

少しして、静葉嬢が呟いて。その言葉にパチェの横で静かにお茶を呑み続けていた彼女が顔をあげた。

「恐らく貴女の妹さんがドアの外に居たんだと思います。でなければ、咲夜さんは大体口で言ってしまいますから」

それには私も同じ考えだ。しかしすぐドアの近くに居たとして……何があったんだろう。
単純にフランを呼びだすだけなら、部屋で待機していてもおかしくない。
たぶん同じことを既に頭の中で考えているのだろう。フランのお付きの子も、首をかしげていた。
そしてパタンと音がして。パチェが閉じた本を置き、肘をテーブルへと載せるとちらりと時計を見つめた。

「少しとは言ったけど恐らく夕方まで戻って来ないわね」
「何か聞いているのかい?」
「いいえ。まぁ、夕方になれば分かるわ。勘だけどね。夕食には私達も呼んで頂戴。持ってきていた本も読みたい所を読み終えちゃったから、そろそろ戻るわね」
「あ、ああ。分かった。また何か頼みごとがあったら連絡するよ」

私の言葉にパチェが頷いて。それから手をつけずに置いてあった漬け物をひょいと拾い上げると、口の中に差し込んでそのまま出て行って。
慌てて彼女の横に居た子が本を拾って追いかけていった。……何か予想がついているのなら教えてくれたっていいのに。

「だ、大丈夫ですよね?」
「駄目だったら今頃手紙が置いてあるさ。テーブルの上にでもね。……さて、粗方決まったしとりあえず部屋に戻ろうか」

私の言葉に、独り取り残されていたフランのお付きの子が焦るように私を見上げる。

「わ、私はどうすればいいんでしょう」
「フランについてなさい。貴女の仕事でしょう。……まあ、そうね。大変なことになったら連絡頂戴」

私の言葉に何度も首を縦に振って。それからぱっと椅子を下りるとそそくさと追って行ったのだった。

二人で部屋へと戻る道。少し廊下は慌ただしかった。
洗濯物を取り込み始めた妖精の子が真っ白な塊を胸に抱きかかえ、あちらこちらから飛んできて、同じ方へと飛んで行くからだ。
向かう先にはアイロンをフォークやナイフよりも器用に扱う子達が待っていて、
衣服からシーツ、果ては新聞まで綺麗にアイロンをかけまくる。

「平和ですね」
「ああ。通り雨が降ったりするとあの子達は平和じゃなくなるがね。冬だと精々衣服が凍る位だし、見る機会もしばらく無さそうだけど。
興味があるなら見学でもしてみるかい。厨房以外は案内できるよ。外は……まぁ、日傘を持てば問題無さそうだしね」
「厨房は特別なのですか?」
「……あそこの担当の子達は、私達やさっき別れたパチェ達の食事だけじゃなく、この館に住む全員の食事を作るんだよ。
それはこの館の皆の楽しみでもある。手品の種を教えて貰うと楽しみが減るのと同じように、その日の献立を知ってしまうと、
その楽しみが減ってしまうだろう。だから、厨房の子と給仕の子達以外は基本的には入れないんだ。勿論頼めば別だがね。簡単に入れる様になるのは深夜位さ」

本当は他にも色々理由がある。一番大きいのはつまみ食い防止だったりする。
私はしないが、たまに我慢できない子がやってしまうらしい。……どうにも、一度やってしまうとやる側も癖になってしまうのか、
被害が慢性的に続いてしまうらしい。少し恥ずかしいから、あまり外には言えない。



客人を連れて歩いている、ということはすぐに妖精の子達の間で広まったらしい。
別に私は咲夜でもないし、そもそも査察に来た訳では無いのだが……何だか入る部屋入る部屋妙に張り切っていて普段通りでない。
格好をつけるのは構わないのだが、咲夜がフラン達につきっきりの今、あまり面倒なことが起きないと良いのだが。

「ここが我が館の……何と言えば良いんだろうね」

洗濯に掃除に備品置き場に……と、色んなところを案内した後で向かったのは、館の中の居住区画。
私の寝室からは少し離れ、日当たりは館の中で抜群に良い場所でもある。
カーテンが今は閉まっているから廊下は安全なのだが、一歩あの子達の部屋に入る時は注意しないといけない。
廊下は基本的に閉めるように伝えてはあるものの、部屋の中のカーテンまで閉めろとは言ってはいないからだ。
聞いた話では、夜勤明けの子達にとって眩しいながらも体に陽の光を浴びつつ寝るのは相当に心地良いらしいから。

「寝室……の様にも見えますけど、誰も使ってないのですか?」

そんな妖精の子達の部屋が並ぶ所からも少し離れ、少し離れた一角。
部屋の中にあるのはベッドが4つに、大きめの丸テーブル、そして椅子。……それだけだ。
私の隣で首をかしげる静葉嬢が言う様に、ここは一応寝室である。ただ、利用者は固定されていない。
貸し出し用の部屋なのだ。貸す相手は勿論妖精の子。

「メイド達が使っているよ。用途は……どう言えば良いかな。お泊まり会を開く部屋……が一番正しいかもしれないね。
この館のメイドの子達の部屋というのは、基本的に職場や役職で部屋を割り振っている。夜勤の子達の都合もあるからね。
だから、仲の良い友達とたまには過ごしたいという子も居たりするのさ。そういう子達の為に解放している部屋だね」
「そういう部屋があるのですね」
「昔は、別の使われ方もされてたんだ。机の上に薬や包帯が積まれ、怪我した子をここで纏めて治療したりもしていた」
「……フランドールちゃんの関係ですか」
「そう。この一角にはこれと同じ部屋がいくつかあるが、それでも一つのベッドに二人寝かせたりする必要がある程に怪我人が出てた。
この一角の端には医務室があってね。……あまり沢山の病気は診れないが、怪我を看る子達がいつも待機しているよ。今でもね」

だからこの部屋は憩いの場であり、病室。……沢山の子が心の傷を負った場所。
心にだけ傷を負った子は咲夜が守って。体と心の両方に負った子は、美鈴が面倒を見て。

……私は、何ができていたのか。

「……リアさん?」
「うん?」

気がつくと横に居た静葉嬢が私の顔を少し前から覗きこみ、じっと私の目を見てて。
慌てて昔の光景を溜息と共に追いだした。

「これからここをもっと明るいことに使えるようにするのが私の役目って所ね」

私がそう言うと彼女は微笑み、それから何度か頷いて。二人揃って部屋を出たのだった。



医務室を案内し、それからゆっくりと館の中を歩いて。最後の案内したのが共用で使われている方のお風呂だった。
……今は誰も使っていないらしい。脱衣所の中はがらんとしていて、静か。居たら中まで案内出来なかったからとても都合が良い。

「大きい……掃除、大変じゃないですか」
「大変だろうね。私はしたことが無いよ。……そもそも私はここを滅多に利用しない」
「……お風呂入らない主義です?」
「自室にあるんだ。とても小さいが、専用のがね。」

勿論それは吸血鬼という体の都合上何かがあっても良いように、なのだが、
流石に長い生活で慣れてきて、誰かが傍に居れば別にこっちのお風呂を利用しようと私には問題が無いのだ。
問題があるとすればそれは他の子達の方。私が居れば気が中々休まらないだろうことは簡単に想像がつく。
他にあげるとするならば……少しお湯の温度が熱いこと位だろうか。
あまり熱くないお湯の方が私は好きなのだが、沢山働いた妖精の子達にとっては、
少し熱めのお湯の方が疲れや寒さに効いてくれて嬉しいそうで。……だから、ちょっと温度が高い。

「生憎、客室には専用のが無いんだ。入りたくなったら事前に咲夜に知らせてやっておくれ。
そしたら貸し切りにしてくれるはずだから。……まあ、流石に何時間も占有されるとちょっと妖精の子達が頬を膨らますだろうがね」
「分かりました。……その時は、是非」

そして、ゆっくり廊下を回って自分の部屋へと戻った。
時間をかけて案内したつもりだったのだが、これでも夕飯の時間までやっと半分と言ったところか。



~~



「……咲夜、先に簡単に説明を頼めるかしら」

パチュリー様がそう呟いて、厨房の入り口から少し離れた奥の机に腰を下ろした。
その横に、パチュリー様のお世話をするあの子。そして穣子さん。……反対側に、私と妹様。
読みかけだった本にメモを載せたお陰か、二人は私達が妹様を部屋から引き抜いた後すぐに来てくれた。

「まずは先に、この部屋を防音して欲しいのですが。お願いできますか?」
「既にしてあるわよ。メモにそう書いてたでしょう。後、魔法で施錠してあるわ。誰かが入ろうとすれば分かる様にもしてる」
「ありがとうございます。……内容は、前々から相談に乗って貰っていた、妹様とメイドの子達の接点をどう増やすか、という事なんです。
しかし、直接姿を出すにはまだ耐性の無い子が多いのが事実ですから、中々施策取れずな状態が続いている、というのは御存知かと思われます」

穣子さんへの説明を兼ねて私が言うと、妹様を含めた私以外の全員が、小さく首を縦に下ろした。
……門の子の一件があったから、妹様自身もこの辺は十分に理解している様だ。
恐らくあのお世話係の子とずっと一緒に考えてきたことでもあると思う。

「そこで。今回穣子さんより提案がありまして。……説明、お願いしても良いですか?」

この部屋に最初に入った時からやや俯き気味だった穣子さんが顔をあげ、
それからゆっくりと頷いて。改めて皆の顔色を確認すると、静かに語りだしたのだった。

「今日は一つ、協力して欲しいんです。……漬物作りに」

そう。集まって貰ったのは、漬物を作るため。
妹様がこの方の家を訪れた際に言ったそうだ。皆に返せる物が作れるようになりたいと。
それで話にあがったのが漬物だったらしい。

「漬物よりもお菓子の方があの子達には喜ばれるんじゃないかしら」
「……私はあまりこの館のことに詳しくないですが、その問題の門の子達は、いきなり出されて食べるとは思えないんです。
だったら、日持ちしない食べ物には意味が無い。食べても良いかもしれないと思った時に食べる機会が簡単に作れる物の方が都合が良いと、そう思うんです」
「……そうかもね」

もしもお菓子作りをするのなら、実際の所、最大の問題は時間だったりする。
1個や10個で済むお話ではないからだ。精々飴玉が精いっぱいだろうけれど、
その飴玉ですら、ちゃんとした時間の流れの中で作ると全員分を作り終えた頃には途方も無い時間になっているだろう。
そういう意味では都合が良かった。一度に食べる量が少ない割に簡素に作れて、日持ちもする。
それに、一度仕込みさえしてしまえば、時間の管理は私の得意とする所。
本来なら長い時間を必要としていても、僅かな時間で妹様の手作りの品として完成させられる。

「で、具体的には何の漬物?」
「白菜の塩漬けです」
「……日持ちさせるって言ってたからもっと違う物かと思ってたけど」
「日持ちし過ぎても、門の子達には圧力になってしまうと思うので。気が付いたら消費されて、気が付いたらまた出来てる位の物がたぶん良いんじゃないかなって」

パチュリー様と穣子嬢が問答を繰り返す中、私は一人先に使われそうな道具の準備を進めてた。
妹様は話す二人や私、そしてドアの方へと視線を行ったり来たりさせながら、
椅子の上にただじっとして。……どうしていたら良いのか分からないようだ。
きっとここにあのお世話係の子が居れば落ちついていたのだろうけれど……彼女には今回席を外して貰っている。
彼女も、そしてお嬢様も。今回のこれは妹様からのお礼も兼ねているから。
だから、食べるその時までずっとずっと秘密なのだ。

「……それで、私を呼んだ本当の理由は?」

ひとしきりの問答が終わった後、パチュリー様がそう言って私を見つめる。
……本当の理由、か。無い訳ではない。先程お願いした防音の魔法等はオマケなのだ。
私がパチュリー様を呼んだ本当の理由は、力を借りることじゃない。パチュリー様にここで過ごして貰うことそのものにある。

「せめて読みかけでない本が数冊あったら嬉しかったんだけどね」
「……後でお持ちいたします」

秘密をすぐに見抜いてしまうからだ。隠し事が下手なつもりは無いのだが、
おおよそのアタリをつけて飛び出す言葉は、いつもわき腹当たりをむず痒く掠めていく。
本当は分かっていながら、わざと外しているんじゃないかと思うことすらある位だ。

……言わなくても伝わったらしいパチュリー様の横で、本を携えていた横の彼女が愉快そうに微笑む。

「貴女も手伝って貰えるかしら」
「あれ、私も何かするんです?」
「貴女は私のお手伝いよ。……館のおやつ作りと配達のね。あまり他の子にこの場所のことを意識させないようにしなくちゃいけないから」
「厨房で働いている子達はそもそもどうしているので?」
「あの子達はご飯の話題に関しては口が固いから、今日は皆部屋に返したわ」

そして可能な限り外出しないように、とも伝えた。
……ただ、その条件を逆手に取られて全員のおやつ要望を叶えなくてはならなくなったけれど。
流石に今日全部作ったりしたらお夕飯が食べられないから。だから、それは日を改めながら少しずつ実施して行こうと思う。

「そうでしたか。……それで、何を作るんです?」

彼女の言葉に、ポケットに挿しこんでいたメモを開く。実はまだ決まっていないのだ。
頼まれたおやつはかなりバラバラで、キャンディやチョコレートの様な小物に始まり、
ケーキやプリンといった、配り回るには中々難のあるものもある。
最近仕入数を誤った豚肉のことを思い、肉まんという注文を沈黙の末に唱えた子も居た。
……小さな声で、本当は蜜柑が食べたいとも言っていた。

「何が良いのかしらね」

妹様のお漬物は夕飯にお披露目予定だ。つまりお夕飯も和食になる。
お昼ご飯だったおにぎりは具はそれなりに用意してみたものの質素であることにはかわり無いから、
出来るなら肉類も野菜類もバランス良く皆が摂れる物にしたい所だ。
……となると、豚肉ね。

でも、ここ数日かなりの頻度で豚肉が続いている。余っているから仕方が無いとはいえ、
豚肉を食べることに疲れてしまう様な事態はぜひとも避けたい所なのだ。
出来る事ならさっぱりとした味付けに持って行きたい。

「……生姜焼きね」
「お、おやつに生姜焼きですか?」
「いや。今夜の夕食を先に考えてたのよ」
「そうでしたか。では、お腹が膨れるものよりは舌の上で楽しむ物の方が良いかもしれませんね」

彼女の言葉に頷いて、急いでメモの中身を洗いだす。
この中で都合よく条件を満たせそうなのは……キャンディか、チョコレート。
キャンディは先日振る舞ったばかりだから、チョコレートとしようか。

「じゃあひと口チョコレートとしましょう」
「はい。それなら私も配りに行きやすそうですから助かります」



作る物を決めて材料の準備をお願いした所で、パチュリー様に読みたい本のリストとおおよその位置を書いて貰って、
急いで図書館へと調達に向かった。最初にメモを渡した時に読んでいた本と似た本が数冊、同じ本棚の別の本が数冊。
そして、お漬物のことを書いた本が一冊。……ひょっとしたら作るのに興味があったのだろうか。

メモの中の本を全て揃えてみると、流石に抱えて運ぶには少し重く。
仕方なしに台車を取りに戻るしかなくて。台車置き場まで行ってみると、
何故か妖精達が集まって何かを話しているようだ。……時を止めているからか、何を言っているかまでは全く分からない。
でも、多少愉快なことのようだ。少し楽しそうな表情で、やや得意気で。

「……でね、何だか二人で色んなところ回ってるから。もしもまだ来て無いなら、びしっとしてたら良いことあるかもよ!」

物影に隠れて、時間の流れを戻してとりあえずで聞いてみると……成程、たぶんこれはお嬢様のことだろう。
話の内容からすれば恐らく案内をしているのだろうが、ひょっとしたら厨房にもおいでになるかも。
それは非常に不味い。バレてしまっては意味が無い……訳でもないが、驚きは演出できない。
ここは少し、妖精の子達に頑張って貰おうか。

「貴女達」

皆がびくりと肩を震わせこちらを見た。……が、それっきり慌てる様子は無い。
恐らく今日やるべきことを大方片付いている子なのだろう。
全くの暇という訳では無さそうだが、幾分か余裕はあるようだ。

「はい。何でしょう」
「お手伝いを一件お願い。厨房前廊下の掃除。暇そうな子とか他の所の廊下掃除の子をあと数人加えて、すぐに開始ね。
作業自体はゆっくりでいいから。でもせめてお嬢様がお見えになった時位はテキパキ動いて頂戴。良いわね?」
「お夕飯の時間までに終われば良いんですか?」
「ええ。灯りと窓。特に、カーテンの裏とか。怪我はしないようにね」

窓掃除をしている時は基本的にお嬢様は近寄らない。
……天気次第では意味が無いのだけれど、よっぽど厨房に用事が無い限りは
幾らでも迂回できる道だから。だから、きっと大丈夫なはず。

「咲夜さん。……おやつは倍が嬉しいです」
「倍は、無理ね。でも一番先に出来たてホヤホヤを食べさせてあげるからそれで勘弁して頂戴」



妖精の子に指示を飛ばした後、厨房の前が塞がってしまう前に時間をまた止めて。
重ねっぱなしだった本を急いで載せて厨房への道を戻る。
……少し寄り道もしてみたけれど、お嬢様は今は付近の廊下には居ない様だ。
これならもしも厨房に向かっていたとしても妖精の子達の掃除の方が先に始まるだろう。

厨房へと戻ってみると、丁度皆がエプロンをつけていた。
妖精の子達がいつもつけている物だから妹様にはサイズ的に合っていたのだけれど、
残りの二人がつける分にはちょっと小さくて。急いで私の部屋から予備を運び込んだ。

「ただいま戻りました」
「あら……ああ、とても助かります」

お菓子作りの準備を始めていた彼女が本と私を交互に見ながら満足げに笑い、
パチュリー様は積まれた本を見て少しだけ満足げな溜息を洩らし。
もうひとつの予備のエプロンを穣子嬢へと渡せば、彼女はただ頭を下げてそれを受け取った。
お漬物作りの案を出した時からそうだったが……あまり、喋ろうとしない。
ずっと何かを考えている様で、そちらのことで頭がいっぱいなのかもしれない。

「それじゃ、とりあえず夕方までに仕込みをして頂ければと思います」
「はい。……道具、お借りいたします」

ちらりと妹様の方を見てみると、どうやら私と同じようにじっと穣子さんの方を観察していた。
こちらもこちらで少しおかしいと感じているのか、少しだけ首が横に傾いている。
少しして私の視線に気づいたのか、じっと私の目を見て頷いた。

「それでは、作り始めましょう。困ったことがあったら遠慮なく申し付け下さい」



妹様側の机と、私達側の机。お互いに作業を始めてみると、妹様の素直な声が向こう側から聞こえてくる。
玉ねぎと違って白菜は目が痛くならないから楽だ、とか。塩は本当にこんなに使う物なのか、とか。
たぶん思った矢先から口に出ているのだろう。
私の横で作業をしている彼女も同じ言葉を意識して聞いている様で、その一言一言に愉快げな笑いを小さく漏らしている。

「お菓子作りをしたらきっと砂糖の量で大騒ぎですね」
「そうね。実際その日使う砂糖を一か所に集めて見せてみると、皆おやつを食べづらくなるでしょうね」
「でも……我慢してると食べたくなるんですよね」
「まあうちの子達はちゃんと消費するから心配要らないわ」

消費もするし、皆それなりに自身の体調を気遣ってくれる。
そうしないと重労働した時に体が持たないのもあるのかもしれないが、
お陰でパーティとかの特別な行事以外で無理をする子はまずほとんど居ないのだ。
パーティの後には流石にお腹周りについたと嘆く子も居るけれど、
そういう子達は集まって何か催したりしてせっせと落とそうと頑張ったりもするし。

「チョコレート、どの位の大きさにするんです?」
「ひと口サイズよ。丸型のね」

丁度口にすっぽりと収まる位が好きだ。噛まずとも肌の温度で溶けていくチョコレートだから、
口の中に放り込んだまま少しのんびりできる位が私には丁度いいし、
少しの間甘さに支配された方が、夕飯さっぱりしたものを提供するには楽だろう。

「一応材料の用意を頼まれた分量でしておいたのですが……砂糖、こうして用意してみると山盛りですけど……足りないですよね?」

普段からパチュリー様と自身用にお菓子を作ったりするからか、頼んだ分量が普通の組み合わせでないことはすぐ分かるらしい。
実際、彼女の言っていることは正しい。普段より砂糖は少なめに頼んだのだ。大体半分程の量しか無い。
でもこれで良いのだ。理由はとても簡単で、

「ホワイトチョコにするから、これで良いの」

生クリームをどんどん足していくからだ。彼女に用意させなかったのも単純な理由。
同じ量を使っても作る度に味が変わるから。だからそちらは私が都度用意するつもり。

「そうでしたか……うん?」
「どうかしたかしら」
「さっき準備する時にちらりと見た感じ……そっちも足りないと思いますけど」

そう言われてとりあえず材料を置いて確認に行ってみると……なるほど、本当に僅かしかない。
それでも十人分位ははある訳だが、全員分には到底足りなかった。
ただ、飲用の牛乳はある。時間を操って無理矢理人数分再確保するのもできなくは無いが、
そこからさらにまた人数分のチョコを作ったり、味気の薄い牛乳を沢山増やしたくは無い。

「牛乳とバターはあるから、それで代用するわ」
「バターミルクチョコですか」
「まあ、そんなところね」
「……砂糖に牛乳にバター。夢の共演ですね」

……お菓子の鉄板材料なんだけどね。



混ぜなきゃいけないものを二人で頑張って混ぜる横で、もう片方のテーブルを眺めた。
すると二人はテーブルの前には居らず、流しの方へ並んで立っていて……どうやら白菜を洗っている様だ。
妹様が流水を苦手としていることをどうやら察してくれたらしく、洗っているのはほとんど穣子さんで、
妹様はひたすら水気を切ってお皿に盛っていた。一枚一枚を分けてはいても細かく刻んではいないからか、
もう何皿分ものこんもりと盛られた白菜が横にずらりと並んでいる。

「そちらはどうでしょうか」

と私が声をかけてみると妹様は振り返ってにっと笑い……首を少し横に傾けた。
どうやら全体の工程まではまだ聞いていないようだ。とりあえず楽しそうなのは確かだ。

「そろそろ洗い終わります。容器は頂いたものを使う予定なのですが……重りはどうしようかなって」

穣子さんが代わりに答えたが、確かに重りはまだ用意していなかった。
重り……使って貰う容器の大きさがそもそも大きくない。1つ1つは精々白菜3つ分位だ。
だから1つの容器あたり……ちっちゃな妖精の子の半分の重さに少し満たない程度の物があれば丁度良い。

しかし丁度良いものはあっただろうか。あまり遠出して持ち込みたくは無いが……と、考えて、
ふともう一人の存在を思い出した。ちらりと見てみると、丁度今本を読み終えたらしく、じっと眼があった。

「……構わないけど、重さを指定されないと出す物も出せないわよ」
「では、10㎏と5kgの物を後で容器の数だけお願いいたしますわ」

私の言葉に一度頷いた後で、ちょっとだけ苦い顔をパチュリー様が見せた。
たぶん……重さを指定されてもそれ相応の測りが無いと中々作れないだろう。
まあ大体でその位の重さであれば良いのだ。お菓子の材料と違って、多少分量が変わったとしても大差は無い。
一応後で体重計でも持ちこんでおこう。

そんなことをしている内に二人は洗い終え、妹様はうきうき顔で白菜を積み直し、
一方の穣子さんは……どうやら一緒に使いたい食材がまだ他にもあるようで、食材置き場の方へと進んで行っていた。
どうやら目当ての物は簡単に見つかったらしく、手のひらに載せてすぐ戻ってきた。

「これ、使って良いですか?」
「ええ。入れ過ぎでなければ大丈夫ですから」

唐辛子だ。館では夏を中心に仕入れている。……主には食材ではなく、保管のためだ。
それなりに虫除けになってくれる。ここは保管する量も量だから、食材の保管方法は重要で。唐辛子は主にお米の保管の為に使っているのだ。
お米に一旦蛾が湧くと、全員総出で一粒一粒調べる作業をしなくてはならなくなるから。
……あれは途方も無い作業だ。もうやりたくはないし、やらせたくもない。

勿論食材にも用いることはあるのだが、夏だとあまり喜ばれない。
食べている間はそれなりに喜んでくれるのだが、美鈴以外は皆膝丈か、それより長いスカートだから。
……とにかく食後1時間から2時間が蒸れるそうで。特に廊下掃除の子達は昼過ぎに少しうんざりした顔をしていたりする。
一方の冬に出してみると、これはこれで喜んでくれるのだが、
好んで食べられる子と少しでも辛さの度が超えると苦手な子は結構ハッキリしていて、
彩として僅かな量を使うこと以外はほとんど稀だ。

「これ、輪切りね。後、一回触ったら顔とか触っちゃ駄目だから」

もう少し使いやすい食材だったら嬉しいのだけれど。



~~



「不思議ね」

静葉嬢と二人、椅子ではなくベッドに腰を落ちつけてしばらく。
することが尽きてしまった今、お昼寝でも良いんじゃないかと思い始めた頃、横の静葉嬢が呟いた。
視線は部屋の灯りに向かってただ真っ直ぐと伸びている。ただ、少々瞼は落ち気味だ。
少し前に涙を流していたから、ひょっとしたら疲れているのかもしれない。

「落ちつくのに、落ちつかないの」
「……どっちだい」

彼女が目元を擦り、それからゆっくりと背をベッドに預けていった。

「どっちも。……ただ、気はほんの少し、楽になった」
「その言葉が聞けるのなら私も少し安心だね」

声のトーンを変えず、彼女は続けた。……恐らくは、こちらに気を遣っているのだろう。
気が休まっているというよりは、精神的な疲れで落ちついてきただけに私には見える。

果たしてどうしたものだろう。
そう思って色々と考えてみるものの、物は全然浮かんでこない。
館の外を案内して余計な体力を削らせたくないし、チェス等の暇つぶしはルールを覚えるまでに時間がかかる。
そもそもそういった遊びを好むかどうかも分からない。
だからと言って、今ぐっすりと寝かせてしまうときっと夜に眠れずに困る。
明日の朝いよいよという時にちっとも頭が回らなかったら意味が無い……。



「お呼びですか」

だから私は美鈴を部屋に呼んだ。挨拶を済ませて居なかったから、というのが理由ではあるが、
単純に何気ない話題が欲しかったのだ。……私はそういう物にはあまり詳しくない。
妖精の子達の会話を耳にすることは沢山あるのだが、そこまで皆と会話しないがためか、
本当に大きな出来事か、よっぽど些細なことか。大体その二つしか話題としても手に入らないのだ。

相変わらずノックもせずに入って来た美鈴。
じっと見つめると、部屋に入りきった後で気まずそうに頭を下げた。

「お邪魔しております」
「この度は妹様がお世話になりました。私、門番の紅美鈴です」
「いえいえ。今はこちらがお世話になっておりますので……。私は姉の秋静葉です。もう一人妹がお世話になってまして」
「穣子さん、ですね」
「……はい」

美鈴は私が促した椅子に座って挨拶を済ませた後、ポケットに手を差し込むとぱっと一枚の紙を取り出した。
とても見覚えがある紙。私がフランから渡された手紙と全く同じ紙だ。

「お客様のことは妹様より聞いております。手紙で、ですが。……思えば、妹様からは初めて頂いたかもしれません」

手紙という言葉を聞いてか、隣の静葉嬢の肩がぴくりと動く。
一瞬美鈴の言葉を遮ろうかとも思ったけれど、恐らく暗い話題にはならないだろうからと、口を閉じた。
何かに感づいたらしく、美鈴が一瞬こちらの目を見たが……小さく頷くと、少しホッとした様に笑ってた。

「久方ぶりの手紙でした。最後に貰ったのはいつでしょう。そんなに昔のことではないですが、妖精の子からの物でしたね。
結構くれるんですよ。たまに読み返すこともある位で。……読んでいると、書いた相手の気持ちが入ってるなぁって。いつも思うんです」

私はあまり手紙を貰ったりはしないが、貰った文面からそんな感想を抱くこと自体は多い。
言葉では楽しそうでも、字面が少し寂しそうだった時とか。
何か、変なことを企画しているな、とか。ただの業務報告なのに妙に楽しそうだったりする時とか。
気になって調べてみると、言葉として出てこなかった色んなことが分かったりする。
恐らくそれはこの姉妹にとっても同じ……特に、穣子嬢は強く感じていることだろう。

「食べ物のお話。花のお話。景色のお話に恋のお話。色んな子がくれますから、色んなお話に満ちています。
……でも。そんな彼女達のお手紙、とても共通する点があるんですよ。お嬢様は御存知かと思いますが、何だと思います?」
「……恥ずかしがり、ですか?」

確かにそれはあるかもしれないが、そうじゃない。

「確かに手紙をくれる子の大半はそうかもしれないですね。でも答えはもっともっと単純なことです。
ただ、手紙を読まないと分からないことなんです。書かれた言葉を音として聞いていても、こればかりは分からないと思います。
……書いている子が、同じなんですよ。言い回しや言いたいことは沢山分かれているのに、文字の特徴はいつも一緒なんです」

そう。それは、文字を書ける子と、書けない子の存在。
文章にはできずとも単語を並べる程度なら書くことに問題の無い子、読むことは出来る子は沢山居る。
しかししっかりと書くことのできる子は、とても数が少なく貴重な存在なのだ。

彼女達の仕事は大きく分けると大体二つ。一つは館の外に向けての文章作成。
もうひとつが、妖精の子達皆の相談役になり、その内容を記録すること。
それは愚痴だったり、悩みだったり。また逆に、楽しいことだったり、企画の相談だったり。
後に振り返って見直す為の資料を作るのが役目なのだ。美鈴が受け取った手紙も、言わばそんな彼女達が仲介し、作成された物の一つ。

「丸っこい文字を書く子。楽しそうなことは少し文字が膨らむのに、悲しそうな話題になると途端に小さな文字になる子。
物凄いきっちりと手紙を折る子。縦書きの紙を好む子。色んな子がいます。色んな手紙を受け取って、
『ああ、また書いたのはあの子なんだな』って思える瞬間があって。……どこか、ホッとしてしまうんですよね。
この手紙をくれた子だけじゃなく、その子のことも見えて来ますから」

そう言って美鈴は手に持っていた手紙を開き、目尻を落とした。

「これ、凄く嬉しかったです。妹様自身が書いた物ですから、妖精の子達の様に二人の姿を重ねてみることはできません。
でもこの手紙には貴女にお世話になっていた時の喜びと、悩みと。それと、私なんかへのお礼に、謝罪。
色んな感情が満ち溢れてて。……普段話すことが無いものですから、とても安心しました」
「そうね。それは私も同感だったわ。一緒に居る子の話を聞いていると、行動を起こすことに臆病になっているんじゃないかって思えてたのだけど。
ちゃんとそれが前に進むための一歩を踏もうとした証にもなってて。まだぎこちないけれど、ちゃんと考えてる。……そう思ったよ」

そう言うと美鈴が手紙の表面を撫でて笑う。

「お嬢様宛ての手紙の方は、この数日の楽しかったできごとと、悩みの話が最初から最後までぎっしり載ってましたね」

私宛の手紙を読んだのか、と、ふと思ったが、読むことができた機会はフランから私宛の手紙を預かった直後だけだ。
しかもすぐ直行して私の所に来ている……はず。読む時間があったとは思えない。

「見ようと思ってみた訳じゃないですが、お嬢様宛ての手紙の中身は全部、この手紙の中に書いてあるんですよ。
……妹様、案外筆圧が高いみたいで。光を近づけるとこの手紙に痕が見えるんです。」
「あまり感心しないわね」
「光に照らす前から、多少の文字は見えてたんですよ。……『嬉しかった』って書いてあったから、とても気になって。
料理、教わったみたいですね。いつか食べられるのかもって思うと、待ち遠しく感じますね」

そこまで言うと美鈴は手紙をまた畳んで大事そうに仕舞って。
それからじっと私の横の静葉嬢の方を見た。しばらく黙ったままだった静葉嬢は、少し俯いたまま、何も無い所を眺めていて。
しばらくして私や美鈴の視線に気がついたのか、慌てて顔をあげて笑う。

「親子丼と、お味噌汁。初めての様でしたから簡素な物だったけれど、とっても真面目に作ってましたよ。
……私は傍で見ていただけですが、穣子の言うことを凄い真剣に聞いてて。……本当、良い子ね」
「あの、静葉さん」
「はい」
「貴女が妹の穣子さんに宛てた手紙のこと、まだ引きずっていらっしゃるんですよね?」

急な美鈴の言葉に、静葉嬢が苦笑いを浮かべて……小さく頷いた。

「割と頻繁に、あの日の夢を見てしまうのです。私が手紙を書いている瞬間、私が泣いていた時の穣子の顔に、次の日の朝のあの子の様子。
目が覚めたらいつも胸をギュッとされてたような感覚になる。……いつも、いつも」
「……私は、良かったと思いますよ?」

美鈴の言葉に思わず背中がひやりとする。
ちらりと静葉嬢の方を横目で見てみると、訝しむ目で美鈴のことを見ていた。

「あの手紙のこと、ですか」
「正直に、書いたんですよね?」
「はい」
「じゃあ、内容も込められた気持ちも本当のことでしょう」
「それは……そうですけど」
「込められた気持ちはその手紙の中にその時のまま固定されていますが、読む側の気持ちはそうではありません。
少しずつ、変わっていく。意識して変えようとすると、それは難しいかもしれないけれど……でも、不可能じゃない。
それは大切な事実で。……そして、妹様に対する私達の心の支えです」

そう。いつかは変わるだろうと信じているから、打てる手を打って行きたいんだ。
次の一歩、また次の一歩。さらにもう一歩。恐らく、一番それを実践しているのはフラン自身なのだろうが、
あの子自身の今が、そんな方法の確かさを教えてくれる。

ただ……それはとてもとても、心には負担のかかる方法でもある。
幾ら耐えて進んでみても光が見えない時。むしろ、余計に足元が見えなくなってしまった時。
前に進めているのかどうか分からなくなった時。そもそも自分の足が動いているのかさえ分からなくなってしまった時。
一度心の中でそう認識してしまったら、真冬の大雪の様に冷たく重い雪をずっとずっと背負い続けることになる。

そして不思議と、足が動いているのかは分からなくなるのに、
諦めて足を止めた瞬間は自分でもよくよく理解できるのだ。ついに止まってしまった、と。
誰にだってそういう時はいつか来る。ただ、大体は皆、傍に誰かが居てくれるのだ。
本当に独りであるということは中々に稀で。決して隣には居なくても、近い所に誰かが居る。
問題は、本人がそれを気付けない場合があること。

「……そうなれば、嬉しいんですけど」

小さな声で、静葉嬢が呟く。

「諦めないことが一番大切ですが、受動的でなく能動的なことも大事ですよ」
「私だって頑張って……きた、つもり……なんですけど」
「私が言いたいことは、妹さん以外のことについてです。手が回らなくて受動的になってませんか。
例えば、普段でかけないような所におでかけしましたか。最近食べた一番美味しいご飯は何でしたか。
何か新しい発見をしましたか。そんな感じで、とても楽しめたこと。……あるのなら、問題無いのです」

だからこそ、気づくために視野を広げないといけない。
本人にできないなら周りの力で何とかすればいい話で。

そしてそれは今の私の役目で。



~~



「……これ、少し大きくありませんか?」

漬物を重ねては刻んだ赤い輪切りのものをまぶし。また、新しいのを重ねてはまぶし。
ちょっとずつで良いからと言われたから……ちょっとずつ、まぶしていく。
ちゃんと重ねていく枚数を数えてからまぶし始めれば良かった。どれ位入れれば良いのか分からない下の方は、結構多いのかもしれない。

「量の調整が甘かった物で、最後の一つはちょっと盛ったんです」

そんな私の正面で、違う容器に穣子お姉さんも同じ作業をしてる。
……そしてそのすぐ真横に咲夜が立って、出来たてらしいチョコを差し出していた。
少し、と穣子お姉さんは言ったけれど、結構大きくて。口に入れることはできるけれど、噛み砕くことは少し躊躇ってしまいそうな大きさ。
結局咲夜は、持っていたチョコレートをお姉さんの口が開いている内に差し込んでた。
手が塞がっていたから、仕方なしにぱくりと頬張っていて……口は閉じているけれど、まだあそこにあるって分かる位に頬が盛り上がっている。
この前のパーティの夜にも、私はこんな顔を見た様な気がする。

「はい、妹様も」

そして私も貰う。こっちは他のと同じ大きさ。それでも結構大きいけれど、頑張れば噛み砕く位はできそうだ。
ただ、そうしなくてもゆっくりと溶けていくのを感じるから、できるならそのままじっとして居たい。

皆が皆、口にチョコを入れると、誰もしゃべることが出来無くなって。
休もうと口に出していった訳じゃないけれど、そのまま腰をかけて休憩することになった。

チョコの中の方はあんまり固まっていなかったみたいで、
口の中でほろりと半分くらいに分かれると、とろんとした感触が口の中一杯にゆるゆると広がって行って。
ほんのりと甘い。作る様子や材料を遠めにちらりちらりと見ていたから、もう少し甘くなるのかなって思ってたんだけど……。
でも、思って口の中に溢れる物をこくん、と飲みこんでみると……ふっと息と共に抜けていく空気がチョコと牛乳の香りで甘くなって、
鼻の中をくすぐっていく。

そんな感覚をぼーっと楽しんでいる内に、気がつけばチョコは口の中から無くなっていて。

「どうです?」

咲夜から差し出された水入りのコップを両手で受け取った。
時間を止めたのだろうけれど、どうやら咲夜も食べていたみたいで。
ほんのりと、声と一緒にチョコの香りが舞っている。

「……ん」

やっと穣子お姉さんも飲みこむことができたみたいで。
ひと口で全部喉の奥に押し込んだのか、少し苦しそうな顔をしたけれど、飲みこんだ後は笑ってた。

「こんなに大きいの久しぶりに食べたかも」

穣子お姉さんの方は、咲夜なんかよりよっぽど濃く匂いがする。
たぶん私も同じようにチョコの匂いがしているんだろうけれど、自分では……ちょっとしか分からない。



「パチュリー様、これ、ここに置いておきますので」

皆が飲み物でひと息つくと、咲夜がふっと居なくなり……少しして、抱える程の台を持って帰ってきた。
隅の方に小さく黄色い丸印、それを囲むようにトゲのような緑色の三角印が沢山書いてある。
太陽の絵にも見えるけれど、色がおかしい。何を指しているのか良く分からない。
表面には目盛が書いてあるけれど……針じゃなくて数値の方がぶるんぶるん咲夜の腕の中で振れていた。
これが噂に聞く、体重計というものだろうか。

「うん。後で借りるわ」

咲夜がその小さな台を座っているパチュリーの傍の床に置いて。
それからバスタオルをぽい、と敷いていた。……うん、恐らく体重計だ。
いつもお世話をしてくれるあの子から何となく聞いたことがあるが、
この台に乗って見てみる数値は気にしていると毎日が非常に楽しくないらしい。
私は別に、あの子が太ってるとは思わないんだけどなぁ。

後で、乗ってみたい。あの子とはどれくらい差があるんだろう。
他の皆と私で、どれだけ違うのだろう。
この前二人で屋上に上がった時、あの子はとても着こんでた。
あれ位着て居たら……同じ位には近づくんじゃないだろうか。

そもそも。重たいというのはどの辺りからを指すのだろう。
私はあの子に乗られても重いとは思わない。身動きとれないほど重かったら困るけれど、
ほんの少し動くのに困る位なら、ああ、ここに居るんだなって思えるから。
……色々と片付いたら、少し怠惰かもしれないけれど。あの子と少し、ベッドの上に転がりたい。

「それでは配ってきますね」

パチュリーの傍にいつもいる彼女と咲夜がチョコを配りに部屋を出て行って。
私はドアが開く時だけ、物影に隠れてた。開いたドアが再び閉まる頃には、おやつのことに気づいた妖精達の楽しげな声が聞こえてきて。
どうやら相当楽しみだったみたいだ。自分の部屋で遠く聞いていた騒ぎ声よりももっと大きくて、でも和やかで。

……いつか、私もああいう風に配りに行けるようになれたなら。
その時は顔を合わせて、あんな和やかな声を聞けるのだろうか。

「さて、10kgと、5kgだったわね」
「はい。恐らくそれで足りると思います。……塩に強い物を、お願いできますか」
「そうね。変に溶けだしたりしても困るから、魔法はかけないと」

穣子さんの言葉にパチュリーは何度か頷いて。それから台の前にしゃがむと、胸元から小さな石を取り出した。
流石にそれはそんなに重くないだろうと思ったけど……そもそもそう使う物でもないらしい。ただ、握ってた。

「……何にしようかしらね。白菜だから……そうね。白菜っぽいもの」

何かあったかしら、と、しばらく唸る様に考えてて。私達は傍で見ていたのだけれど、しばらくして何か思いついたように顔をあげると、
パッと握らせていた石を光らせて……何も無い所から透明な丸い物が急に現れた。とても、大きい。
卵みたいな形だけれど、小さなクッションの上に載せたら占いごっこができそうだ。でも、水晶やガラスとは少し違うみたい。
そしてそのままパチュリーが手をかざしたかと思えば、透明感はふっと消えて薄緑色の塊になった。

「翡翠、ですか?」
「そう見える様に防護魔法を施した、ただの炭素の塊よ。使い終わったら焼いて捨てられるし、それなりに頑丈だし。安全よ」
「確かに白菜の色に近い様な……遠い様な。どちらかというと、キャベツ?」

そう言われると妙にテカテカとしたキャベツの置物の様に見えてくる。
所々少し入った白っぽいラインが、余計にそれを際立たせて見える。
もう少し白色が多くて、片方だけ白かったら白菜っぽいのかもしれないけれど。

「……良いのよ。何となくそれっぽければ」

最近、キャベツ食べてないなぁ。

「問題なのは重さよ。重さ……11kg。少し重いみたいね」
「これ位なら別に問題無いと思います」
「じゃあそうねぇ。もう片方のは円形の板状にでもしましょうか。蓋をしてるとはいえ、出来る限りは均一に重さが掛った方が良いのでしょう?
「そうですね。1か所の隅だけに偏ると、もう片側の方が駄目になったりしてしまうので」

最後に食べたキャベツは何だっただろうか。
サラダの千切りだっただろうか。主食で食べたのは、甘いトマトで煮込んだロールキャベツだったと思う。
……あれは美味しかった。作れるようにはなりたいのだけれど、とても皆の分を作れる気がしない。
お姉様に振る舞う位ならできるようになれるかもしれないけど。

「……いっそ後で処分する必要が無いお皿にしようかと思ったけど、5kgのお皿なんてとても用途が無いわね」
「重すぎますからね。たぶん洗うのも厳しいかと」
「まあ、もう片方のと一緒で燃やせるようにしておけば良いのよ。置いてたらかさばるし、処分できないのは困るし。
床に置くことにはなるだろうけれど、お皿の形にしておけば重ねられるから、とりあえずは咲夜も楽でしょう」

そう言ってパッと、またパチュリーが透明な塊を作りだした。
でも今回は最初からお皿の形をしているのがハッキリと分かる。
そして手をかざすと……真っ白なお皿になった。

「……今後はちゃんと5kgね」
「持ってみて良いですか?」

穣子お姉さんが尋ね、パチュリーが頷いて。
それから両手を添えて持ち上げようとして……笑ってた。

「一生こんなお皿触る機会無い気がします」
「私もそう思うわ」

いつもお夕飯で見るのよりは少しだけ大きいお皿だけど、本当に少しだけだ。
とてもじゃないけれどそんな重さがあるようには私には見えない。



テーブルの上で漬け続ける訳にはいかないからと、厨房の奥の管理用の部屋に容器を運ぶ。
……と言っても、運んでいるのはほとんどパチュリーの魔法の力。重いし数が多いからと、ひょいひょい運んでくれて。
全部運びきった所で、お皿とキャベツめいた物をそれぞれの容器の中に下ろしていった。

「沢山ありますね」
「ここは漬物だけじゃなくて保存食も管理してるの。これだけの妖精の子達が居ると、いざ食べ物が無くなった時に困るから。
勿論、無くなってもこれだけ数が居れば幾らでも探索に行けるのだけど……それはレミィが許可しないわ」
「困るから、ですか」
「そう。困るからよ。周囲も、館もね。そういう時ってそもそも周囲にも無いことが想定されるし、
労力に見合っただけの物が手に入るかは別だし。その一時しのぎが後に悪影響を与える可能性もあるからね」

そのままパチェはひょいと部屋から出て、さっきまで使っていた椅子へと腰を下ろした。

「そして何より。確実に信用が落ちる。この館から信用が無くなれば無くなる程、
ここに居る妖精の子達は生活は危うくなるの。勿論それは私達も含めて、だけど。
その時は今まで以上に、咲夜にとても強い負担をかけることになるわね」

胸に、ぐさりと来る。私はあの子達の生活を直接おびやかしてきた。
良くない噂の種であったことも、間違いじゃなく。確実に館の信用も奪ってきていたはずで。
あまり考えないようにしてきたけれど、私はどれだけの物を周りから奪い、壊して来たのだろう。
考えてもそれが戻る訳ではきっとないのだけれど、見落としたまま私は進んでしまわないだろうか。
ちゃんと、背負わなきゃいけない物を全部見つけただろうか。

そもそも。……私は今、楽しんでいて良いのだろうか。
他にしなきゃいけないことがあるんじゃないのか。門の子達のこと。あの子のこと。館の皆のこと。お姉さん達のこと。
本当に何か差し迫ったことが起きた時。私はちゃんと動けるのだろうか。

「フランドール」

名前を呼ばれ、顔をあげる。
すぐ近くに腰を下ろしていた穣子お姉さんが、じっと私を見ていた。

「……後片付けしましょう」



~~



初めは咲夜さんと分かれてお菓子を配る予定だったけれど、
お互いに誰に配ったのか分からなくなってしまいそうだということで。結局二人で配って回ることになった。
行く先行く先で、咲夜さんを見つけた子達がどこかよそよそしくも真っ直ぐにこちらに向かってくるのを見ては、
咲夜さんは満足げな息を漏らして。私はその横で、すぐに空っぽになる手提げのかごの中身を補充していた。

「はい、あーん」

あからさまに妖精の子のひと口よりは大きいそのチョコレート。
咲夜さんはそれをぐいと妖精の子達の口の中へと差し込んでいく。
膨らんだ頬のお陰でお礼も言うにいえず、とりあえずとばかりに頭を下げてにこにこ笑いながら去っていく彼女達。
不思議と、皆一様に噛み砕こうとはしない。……私も、でしたが。

「……あら」

チョコレートが残り半分を切った頃。廊下でとぼとぼと歩くメイドの子に出会った。
……妹様のお世話係の子だ。ちょっと厚着をしていて、がっくりと肩を落としている。

「どうしたの」
「お嬢様、見ませんでしたか。どこにも見当たらなくて。部屋も図書館も屋上も、見て回ったんです。他の妖精の子達に聞けないし……」

彼女の言葉に咲夜さんが何度か小さく頷いて。それから一瞬私の方を見た。
どうやら私の口からは何も言わない方が良さそうで。とりあえずとばかりに持っていたチョコを差し出した。

「忘れ物をしたらしいから、穣子さんと妹様をさっきお家まで送ってきた所よ。出たり入ったりを繰り返すと門の子の負担になるから、
今回は私が黙って連れて行ったのよ。夕方にまた迎えに行く事になっているわ」
「……んふ。んふぃんふふ……」

何を言っているのか分からない。でも首を縦に振っているからこんな嘘でも一応信じて貰えたようだ。
本当はまだ館の中の厨房に居るはずなのですけれども。それから一度大きく頭を下げた後、彼女はとぼとぼと歩きだした。
向かった先は……地下へ下りる道がある方だ。恐らくは妹様の部屋か自身の部屋へと戻るのだろう。

「咲夜さん」

その寂しそうな背中を見かねて横に居た咲夜さんを呼んでみれば、ちらりとこちらを見て頷いて。

「……ごめんね。お願い」

と。俯いて答えた。
騙してしまっていることを気にしているのか、それから何かを言おうとして……そのまま口を閉ざして。
私も一度頷くと、咲夜さんも一度、頷いてた。



持っていたチョコレートの引き継ぎを終えて、さっき別れた彼女を追いかける。
途中から飛んで翔けていたのか、地下の入り口へと辿りつくまで彼女の背中を見ることはできなかった。
……久しぶりに地下へと降りる。僅かな灯りを頼りに壁伝いに下りていると、
がちゃん、と。下の方からドアの音が聞こえて。とりあえず入れ違いにはならずに済んだ様だ。

階段を降り切り、耳を澄ませながら廊下を進む。
彼女の部屋は確か……途中の監視用の部屋だったはず。かなり長い間、入った覚えがない。
前に入った時は何があっただろう。ベッドに、服の替え、そして大量の蝋燭に、包帯に、縫い針。

妹様の担当をする子は今まで全員、この部屋に住んで来たのだと聞くけれど、
暗い所が苦手な子にとってはとてもつらかったことだろうと思う。
蝋燭だけが視力の支えだったのだから。消えた時は寂しさと、心細さと、怖さ。
そのたった3つの物で、体も心も一杯になってしまうと、いつか聞いたことがある。
……お陰で、使われている蝋燭はどれも長い。
あまり明るくはないが、最低限の明るさをとても永い間灯してくれる。

ドアをノックすると、すぐに彼女が嬉しそうな顔でドアを開け私を見て……苦笑いを浮かべた。

「どうなさいましたか」
「少しお話がしたいのですが、お部屋にお邪魔しても良いですか?」
「え、ええ。狭いですけど、良いですか」

導かれて入らせてもらった彼女のお部屋。……ほとんど昔のままだ。家具の配置はまるで変わらない。
大量にある蝋燭の替えや包帯の束なんかも、昔の位置のままに積まれていた。
完全に違う場所が一か所だけある。それが部屋の一角にあった机だった。紐とじの本を解いたのかと思う程に、大量の紙が机を覆っている。
視線に気づいたのか彼女は慌てて机に飛び付き、紙を纏めて。ぐいぐいと机の奥の方に積んで行った。

「あちらは?」
「あれは……その。お嬢様と外にお出かけをする時の、場所決めの資料です」

少し恥ずかしそうに呟く彼女。ほんの少し覗き込んで見ると……かなりバラバラではあったけれど、
季節ごとに巡れそうな様々な場所のことが書いてあった。私が行ったことの無い場所もある。
どうやって調べたのかは分からないけれど、思い出した先から付け加えていったような走り書きのメモも多い。

「デートですか?」

からかい半分で尋ねてみると、彼女は耳を赤くして……ゆっくりと頷いた。

「お嬢様に色んなことを楽しんでほしいとか、色んなことを知って欲しいとか。そういう気持ちもあるんですけど。何と申しましょう」

そう言って彼女はまた苦笑いを浮かべ、そして目を逸らした。
どうやら恥ずかしい気持ちだけじゃなく、後ろめたい気持ちも強い様だ。
チョコレートを渡した後の去り際や、つい先日眠れないとパチュリー様を頼ってきた時の様子からすれば……
恐らくは妹様が居なかった寂しさと、居るはずの妹様と一緒に過ごせない気持ちが心をきつく挟みこんでいるのだろう。

「貴女はどんなことをしてみたいんですか」
「……一緒に居たい、です。でも、お嬢様がやらなきゃって思ってやってることは、ちゃんと応援しなきゃって思って。
お嬢様が色んな物に触れれば触れただけ、私の時間は減ってしまうかもしれない。だからでしょうか。ただただ、一緒に居たいんです」

……恐らく妹様のこと。たぶんこの子のこういう気持ちにはとっくに気づいているはず。
さっきまで見ていた妹様の最近の態度や性格からすれば、きっと既にその気持ちに対して何かしらの答えも返しているのだろう。
思えば、少し前にもこんなやきもちを私は見た気がする。

「昨晩はご一緒にお休みになられたんですよね?」
「はい。ずっとあのお客様のことを気にしていらっしゃいました。それと……」

彼女がちょこんと唇を尖らせ、頬を膨らませた。

「……抱きしめたら、ほんの、ほんのちょっとだけですけど」

紙風船の様に、ちょっと押しただけで空気が漏れ出そうなその頬が、ほんのりと赤みを増していく。

「知らない匂いがして。何だか、悔しかったです。それが悔しくて。悔しくて。でも、ほんのちょっとは……嬉しくて」
「そっか」
「……だから、お姉さん」
「うん?」

嬉しいとも言いつつも顔は悔しそうな彼女が、ぱちぱちと張った頬を叩き、ゆっくりと長い溜息を吐いて。
私をじっと見上げると静かに続けた。

「何か、とっておきの方法をご存じないですか」
「とっておき、ですか」



~~



皆へとチョコを配り戻ってみると、既にお漬物の準備は終わっていた様で、
妹様も穣子さんもパチュリー様も。全員揃って椅子に座って帰ってきた私に振り向いた。
私はてっきり外を出歩いている内に体に変なものでもくっつけてしまったのかと思い、
ちらりと自分の服を見まわしてみたけれど……特別何もついてないし、乱れてもいない。

「どうかさないましたか」
「……貴女が戻るのを待っていたのよ」
「私を、ですか」

何か私はすべきことを見逃していただろうかと思い部屋の中を見回したけれど……体重計はちゃんと持ち込んだし、使われた形跡もある。
作っていたはずのお漬物もちゃんと用意した場所に運んで貰えたみたいだし、むしろ私が残していったチョコ作りの後片付けまでやってくれている。
片付けてくれたのは……妹様か。エプロンの裾に少しチョコレートがついている。

「あら、そういえばあの子は?」
「妹様のお世話係の子とお話中です。しばらくは戻って来ないかと。
とりあえずあの子には穣子さんと妹様は二人で一旦忘れ物を取りに戻った、という風に伝えております。嘘にはなってしまいますが」
「それで良いんじゃないかしら」

何を取りに戻った、ということまでは決めていないけれど……そこは大丈夫だろう。
大事なことはお夕飯の時間まで妹様のことがバレないこと。これが最優先なのだから。

「ところで、私に何か御用でしたか」
「簡単。……厨房から出られないのよ。お漬物の仕込みは終わったんだけど、妖精の子達がずっと廊下で頑張ってるからね」

……うっかりしていた。あの子達にはゆっくりとお夕飯前までを目途に掃除するように頼んである。
ほぼほぼ仕事が終わった子達ばかりが集まっているのだ。そのまますぐに食堂でお夕飯を食べるために
このままずっとお掃除を続ける可能性だってある。

「失礼しました。止めて参ります」
「怪しまれても困るから止めなくて良いわ。その代わり、私達をそれぞれ運んで貰えないかしら。私は図書館。妹様とお客さんは、……どこが良いのかしらね?」

個人的にはお付きの子の所まで妹様を連れて行きたい。
しかしそれでは……穣子さんが独りになる。今お付きの子の相手をしている彼女を代わりに穣子さんの所に送り出せば、
多少の話相手にはなるかもしれないが、あまり長続きはしないだろう。
恐らく今一番会話を持たせられるのは妹様。次点は……お嬢様だろうか。

ちらりとパチュリー様を見つめる。
すぐに目があって……少しして、やれやれと言わんばかりの表情を私に見せたけれど、一応頷いてくれた。

「そうね。まあ、順当に考えたらお風呂かしらね。漬物の匂いはまだしなくても、他の匂いがもしも体に残ってて、そこからバレてしまったら意味がないし」
「……お風呂、ですか」
「あら。裸を見られるのは苦手?」

パチュリー様の言葉に穣子さんが苦笑いをした。……どうやら私と仲間の様だ。
お嬢様を始めとして、その辺りにおおらかな子が多いからか、自分が変なのかとふと疑ってしまうこともあるけれど……
うん。私だけじゃ……

「温泉には行くので慣れてはいますけども」

……私だけなのかなぁ。

「それなら、行きましょう。いっそ咲夜も来る?」
「私は、ほら。お夕飯もそうですけど、作って頂いた漬物を仕上げる役目もありますから」
「それもそうね。……じゃあ、とりあえずお風呂場まで。後で着替えも運んでおいて頂戴」



時を止めた世界の中で、一人ずつ脱衣所へと運ぶ。
パチュリー様は背負う機会もよくあったのでどれ位の重さかというのは分かりきっていたのだが、
一番先に運ぼうとした妹様の体は……やっぱり慣れない。
そもそもお嬢様をおんぶする機会が滅多にないせいだろう。背の高い妖精の子とほとんど変わらない位だ。
そして……ほんのりとした野菜の青臭さに、チョコの匂いもする。
鼻の利く子だったら、確かに何か勘付いてもおかしくは無い。

ただ。

妹様をおんぶして本当に気になったのは、重さでもなければ匂いでもない。
肌の冷たさだ。体全体じゃない。膝がとても冷たいのだ。
足を靴下で大部分覆っているとはいえ、元々のスカートがかなり短めであるからか、
まるでわざと冷やしたのかと思う程に冷えている。お嬢様と違って、妹様の部屋は
地下にある分室温もかなり低い。……寒くなかったのだろうか。

脱衣所へと運びきった所で、妹様を椅子へと座らせた。
あんまりべたべたと体を触るべきではないのだが、一応膝から先も確かめてみる。
ふくらはぎはちょっと温い。脛は、やや冷たい。くるぶしから先は……膝と同じ位だ。
靴下がキツすぎるということは無さそうだから、単純に冷えから来るものなのだろう。
生地を厚めの物に変えれば多少マシになるだろうか。

二人目を部屋へと運ぶ前に、ちらりと覗き込んだ浴室。
浴室の人払いを改めてする必要は無さそうだ。誰も使っていない。
脱衣所も忘れ物の類は見当たらないから、これなら貸し切りの看板を表に置いておくだけで誰も入って来ないだろう。

……パチュリー様を運ぶのはとてもいつも通り。
体を魔法で多少は保護しているのだろうか。膝は冷えてはいるものの、妹様程ではない。
ただ触れてみて分かる感覚として、肩凝りを起こしていそう。
まあ。これは私が何もしなくても、いつも一緒に居るあの子が何とかするだろう。
……そうだ。あの子。
良い方法を知っていないだろうか。他人に裸を見られても、あんまり恥ずかしくならない方法。
とても聞きづらいけど、何か良いアドバイスを貰えそうな気はする。
今度、聞いてみようかな。

最後に穣子さんを運ぶ。……おかしい。やっぱりお芋の匂いがする。
今朝とお昼にお芋のメニューは無い。昨晩やそれ以前に食べていたとしても、
もう残っているとは思えない。とすれば、お芋の匂いそのものがこの方の匂いなのだろうか。
そして、見た目より少しだけ重たい。美鈴よりは随分軽いけれど、パチュリー様より少し重い。

背丈で見るとあまりパチュリー様とは変わらないのだが……じっと意識を集中させてみると分かる。
思いのほか、引き締まっているのだ。特に腰回り。感触からして、お腹と背中は結構鍛えられている。
太腿もそうだ。ひょっとしたら普段から重たい物を持ち上げたりしているのだろうか。
いや、そうだとしたら腕辺りも引き締まる。何より、重たい物を持ち上げていたらもっと分かる物がある。
この背中のとても柔らかい感触。これはパチュリー様とあまり変わらない。美鈴とは違う感触なのだ。
……羨ましい。



「うわっ……あー……これは、慣れないですね」
「頼む前に目を閉じておくと良いのよ。まあ、機会がないでしょうけど」

全員を椅子に座らせた状態で時を戻すと、パチュリー様を除いて二人ともびくりと肩を震わせた。
私には経験がないけれど、一瞬にして目の前の景色が変わるとやっぱり驚くらしい。
私にとって近い驚きは何だろう。お酒で酔い潰れて、気がついたら変な所で寝ている時だろうか。
経験自体はとても数少ないけれど……自分の部屋に居たはずなのに、気がついたら違う場所というのは心臓に悪い。
一番心臓に悪かったのは、明らかに妖精の子達用の毛布がかけられていたことだった。
とんでもなく恥ずかしかった。予備の物だったから、誰がかけてくれたのかも分からないままで。

「では、私はこれで。またお風呂から上がられた頃を見計らって参りますので」
「ええ。着替えはよろしくね」
「勿論。それはまた改めて。どうぞゆっくりとお寛ぎ下さい。ただ……どうかのぼせないように」

あの時は皆の前でちらりちらりと姿を出してみて、反応する子を探したのだけれど……
いたずらを常日頃からやっていた子ばかりだったからか、それともとても気を使ってくれていたのか。
結局夜を迎えても分からなかった。あれからはしばらく、お酒を控えたりして。
……そうだ。お嬢様のお酒のこと、ちゃんと聞いておかないと。



~~



美鈴は交代しないといけないからと、部屋を出ていったその後で。
静葉嬢はベッドに寝転んでいた。……どうやら、貰った言葉が効いている様だ。
視線は天井の方を向いてはいたが、色々と思い起こしているのか、ぴくりとも視線が動かない。

「まあ、思い返すのも自由だがね。それで頭を一杯にしてしまわないことだよ」
「……ねえ、レミリアさん」

相変わらず天井を見つめたままの彼女が私を呼ぶ。
表情こそ平静を保っているが、声は落ち込んでいた。
すぐ手が届く程の距離なのに、声だけでぐっと離れてしまった様に感じてしまう程。
目を閉じ、じっと聞いてみると……息使いは少し荒く、焦りと混乱を無理矢理吐き出した様な溜息まで聞こえる。

「うん?」
「何も、見つからないの。あの日から、私があの子以外のことで費やした日々なんて。
それに、積極的にあの子の為にって、行動したことも。私は……私はね、頑張って来たって。
心の奥では思ってたけど。本当は、何もしてないんじゃないかしら。誰かにこの関係を早く終わらせて欲しくて、
皆の気遣いにすがって。……それだけしか、ないんじゃないかしら。
けれど。今私がしなきゃいけないことは、そんな過去を見つめ直すことじゃない。
今から進む道のことを、考えなきゃいけない。ただ、ただね?」

そこから彼女が教えてくれたことは、私にはとても聞き馴染みがあった。
門の子達が、あの配置に着く前に。教えてくれていたこと。すがる様に、訴えていたこと。

寂しくて、
心細くて、
怖い。

「レミリアさんは、今日。……本当に、傍にいてくれますか」

私は、一度も。あの子達のその悩みに答えられたこと……。

……いけない。そのことで頭を一杯にしている場合じゃない。
私がすべきことは何だ。フランから頼まれたことはなんだ。
私は任されたんだ。然るべきがあるのなら、然るべく。

「貴女がそう望む限りは、傍に居るわよ。その代わり、夜は相手をして貰うわ」
「……お酒、ですか」
「ええ。……まぁ、少しだけ、だけどね」



夕方が近づいて、部屋は段々と暗くなった。
カーテンを元々閉めているからか、一旦日が沈み始めるとほとんど夜と変わらない。

「灯りはいるかい?」
「いえ。……ただ、少し寒いです」

寒い……だろうか。確かに館の中でも冷えやすい部屋かもしれないが、
フランが過ごしている地下や、ましてこの姉妹が住んでいる山に比べれば、ずっとずっと温かいはず。
今日も、今まで見てきていた服装とそこまで大差はないのだから……ああ、そうか。
今まで見て来たのは全部宴席。大体お酒が入っているんだな。

「ベッドを貸すよ。少し入ったらどうだい。私のとっておきだからね、寒くは無いと思う」
「……私、レミリアさんはてっきり棺桶で眠るものだと思ってました」
「まあ、吸血鬼としてはそっちの方がっていうのはあるんだけど。棺桶で眠ると問題が二つあるんだよ」

ベッドの端まで体を寄せて、静葉嬢がベッドに潜って。
話すには遠いからと、私も彼女の傍へと腰を下ろし直した。
お尻が少し冷たいが……やはり、まだそこまで寒いとは感じない。

「かたいから、ですか」
「うん。身動きは取れないし、あまり棺桶の中に物を入れられない関係上、背中や腰、肘なんかに結構来るんだ。
特に冬が困る。冷え症で足が冷えても、体を丸める訳にはいかないからね。冷えると余計に痛いんだよ。痕も付くし。それが一つ」
「もう一つは?」
「寒いのが嫌、かたいのが嫌なら、どうすると思う?」
「棺桶の板を厚くするとか、中をちょっと広めにして毛布を敷き詰めるとか」
「そうそう。私もそうしたさ。……そうしたら分かったんだがね、外の声が聞こえないんだ。
緊急の時にはとても困るんだよ。本当に緊急な時というのは、ドアから教えてくれるんじゃない。
館を飛び出した妖精の子が、そこにある窓に向かって叫ぶんだ。……助けてって」

寝ていない時だと、それはよく聞こえるんだ。雨の日や、風の日だと聞き取りづらくはなるけれど。
それでも、ちゃんと聞こえるんだ。助けを求めるその声は、短ければ短いほど緊急で。

「それで」

それで、ベッドにしたんだ。と。私がそう言おうとすると、彼女が私の腕をひょいと掴んだ。
温かな手だ。指先は……ほんの少し冷たいが。

「……冷えるかい?」
「レミリアさん。……レミリアさんも、入りませんか」



温かな毛布とさらさらのシーツに挟まれて見上げる天井。
枕は彼女に使って貰い、私は自分の腕を敷きこんだ。
ずっと入っていればまた違うのだが、入りたては少し冷える。
咲夜に言うとその度に怪訝な顔をされるのだが、私はこの瞬間が好きだ。一旦の寒さを感じた後は、温かいだけだから。

「寒いなら、温かい飲み物でも運ばせようか」
「ううん。ありがとう。……少し、眠っても良いかしら」
「ああ。ゆっくり休むと良い。時間になったら起こすけれども、それまでは寝たい内に寝ると良い」

私の言葉に彼女が頷いて、抱いていた枕を私に突き出した。
……とても温かい。やわっこい湯たんぽの様だ。

「返さなくても良いわ。貴女が使って頂戴」

彼女は一度首を振ったけれど、それでも促すと、頭を少し持ち上げて。私はぐっと枕を押し込んだ。

「ゆっくり、おやすみ」



……彼女が話すのを止めた後、暗かった部屋はもっともっと、暗くなって。
ドアの隙間から零れる廊下の光の方が明るく感じられる様になった頃。
私は隣の彼女に袖を引かれた。

「まだ、冷えるかい」
「さっきより、少し」

彼女の言葉に思わず額に手を伸ばしたが、熱は無い。むしろ、ひんやりとしている。
それから首元に手を伸ばしたが……こっちは温かいな。耳の下も腫れたりはしていない。
だから恐らくは風邪ではない。……さっきから傍に寄る様に促しているのは寂しいから、なのだろうか。

「私も少し冷えるよ。今夜はもっと、冷えるのかもしれないね」
「一緒に、いてくれるんですよね?」

確認のために改めて話題を振ってみれば……まるで察したかのように彼女はそう返した。

「ええ。貴女がそう望むなら。……ただし」
「夜は一緒に、ですよね」
「それもあるが。一つ、条件を追加したい」

私の言葉に、彼女が笑う。

「悪魔が、一度出してお互いに呑んだ条件を変えてしまうのですか?」
「ああ。だが、私だけが条件を増やしたのでは不公平だからね。貴女からも何か一つ、提示してくれないか」
「うーん。……先にその条件を聞きたい、かな」

それは、困る。私は元々条件を追加するつもりなんてないのだ。
彼女が今何を欲してるのかを聞きだして、私はそれに対してお互いに何も気苦労のしない要求をぶつけて納めたかっただけだから。
けれど、彼女が先に言わなければならない絶対的な理由は何もないし、言い出したのだって私だ。
だからそこは……もう、言われてしまったら諦めるしか無い。ただ。……そんなことを予見しないまま言う私でもない。私は悪魔だ。
例え順番を違えたとしても、言い様でどうにでもなることを知っている。

「駄目、かしら」

私の気持ちを知ってか知らずか、駄目押しに彼女がそう言って。内心ホッとした気持ちを感じながら、

「いや、構わないよ。こちらから言い出したことだからね。……そうだね。私の出したい追加の条件は、
貴女自身が今欲して止まない物を教えて欲しい、ということさ。妹さんのことを抜きにして、貴女自身が欲しているもの」

そう伝えた。これで、私の要求の答えと、彼女の追加条件。合わせて二つの情報が手に入る。
そんな私の要求に、彼女は私から目を逸らして背中を向けた。

「今私が欲しいもの、ですか」
「そう」

悩む様な声はあげなかったけれど、彼女は長い間背中を向けたまま黙っていて。
休むとも言っていた手前、私はそれ以上言葉をかけることができなかった。

それからしばらくして。お夕飯の準備が整ったことを、妖精の子が教えに来てくれた。



~~



図書館のお姉さんに教えて貰ったとっておき。
それは、妹様の服を借りること。戻ってくるのと同時にベッドを飛びだし、戸惑う所に抱きついて、
後は野となれ山となれ大作戦。普段できないサプライズを行える点では完璧である。

「……良いわよ。とても、とても似合ってるわよ」

しかし、誤算だった。
地下のお嬢様の部屋の中で待っていれば、最初にドアを開けるのは当然お嬢様だと思っていたから。
だから、ドアの開く音と同時にベッドを飛びだして、着地するその一瞬でそれが咲夜さんと分かった時。
私はもう、頭が真っ白になっていた。着地した瞬間、私の心の中にあった何か大切な物が、
氷を押しつぶしたかのような音と共に砕けた様な気がしてしまったほどで。
……咲夜さんの方はと言えば、最初は驚いてキョトンとしていたけれど、途中から物凄い温かい目に変わってた。

「だ、誰にも言わないでください。お願いですから!」
「言わないわ。……それより、足、大丈夫かしら。今凄い音したけど」

気がついたら後ろから抱きあげられ、飛び出したばかりのベッドに座らされて。
借りていた妹様の靴下を、ずりずりと咲夜さんは引き下ろした。
何のことだと思ったけれど、咲夜さんの手と靴下の布地がくるぶしへと掛った所で、
びりりとした痛みが体の中を駆けあがった。

「……捻挫ね。ほら、こっちに曲げると」
「ああああ!」

分かっているなら何故やるんですか!

「反対側の足は大丈夫そうね。……どうしましょうか。夕食なんだけど」
「今日はとても早いんですね。お嬢様は……こちらには来そうにないですかァアアアアー!」

そして何故返事の最中に曲げるんですか。ぷらぷら揺らすんですか。押してみるんですか!

「結構行ってるわね。骨は大丈夫みたいだけど。これじゃあ飛んでても痛いだろうから、湿布と包帯ね。」
「ほ、包帯までつけると流石にお嬢様に心配されてしまいます」
「……さっきみたいな叫び声、妹様が聞いたらもっと心配するでしょう。だから、巻くわね」

確かにそれはそうかもしれないけれど、と。そう言おうとした時には既に、湿布も包帯も足首から下を包むように巻かれていて。
咲夜さんは私の服に手をかけていた。横には既に普段の服が置かれている。靴の代わりとばかりに用意された、妙にふかふかしたスリッパも。
……誰がこのスリッパを普段使ってるんだろう。私の足より大きい。

「松葉杖も要る?」
「いえ、……大丈夫です」

袖口から引っ張られ、されるがままに服を脱ぐ。

「で、何故妹様の服を着てたの?」

そして手渡される服。いつもはちょっと温めてから袖を通すから何とも思わないのだけれど、
こうして出されたばかりの服はやっぱり冷たくて。思わず身震いした私に咲夜さんが思い出したようにそう言った。
あまり、説明はしたくない。名目はお嬢様をびっくりさせて、あのお客さんのことでいっぱいいっぱいな頭の中に
私がどっかり座りこもうってことではあるのだけど……その先を言うと、単にお嬢様とベッドの中で今夜楽しく過ごす為で。

「サプライズを企画したつもりだったんです。失敗してしまいましたけど」
「……やるなら、お夕飯の直後に急いで部屋に戻って、それから着替えた方が良かったでしょうね」

そう言われれば確かにそうなのだけれど、図書館のお姉さんのあの案を聞いたあの後。
気になって、気になって仕方なかったのだ。お嬢様の服を抱きしめる事はこの冬何度も何度もあったけれど、
袖を通したことは一度も無くて。この服に袖を通して、ベッドの中に籠ったら。
本物とは違うけれど……お嬢様に包まれる様な感覚になれるかなって。そう思ってしまったから。

試したくて試したくて。……結局待ち切れなくて、やってしまって。
さっきまでベッドの中でずっと独り楽しんでいたのだ。ベッドへと潜ってみると、
何だかとてもいけないことをしている様な気分もあって。

「楽しそうね」
「い、いやその。……楽しかったです。咲夜さんはやってみたことないですか。美鈴さんとかの服で」
「私にはぶかぶかだったわよ」
「……やってたんですね」
「……秘密ね」

じっと見つめていると、咲夜さんも恥ずかしいのか、耳を赤くして。
それからぐいぐいと、私に服を無理矢理着せようとした。

「ちょ、ちょっと痛いですって」
「お夕飯で皆を待たせているから急ぐのよ。ほら!」



準備を済ませ、食堂へとたどり着くと、皆椅子に腰をおろして待っていて。
私は急いで空いていたただ一つの椅子に飛び乗った。

「お待たせしました」

お夕飯も和食の様だ。箸だけが各自の席の前に置いてあり、手の届く位置に小さな醤油指しが置いてある。
今夜は何だろう。風の噂で豚肉の仕入れ量を間違えた話を聞いたから、恐らく豚肉を使ったものだろう。
そしてお昼はあっさりとしていた。だから、夕食のこれは……それなりに油っこさがあるはず。
ただ、お客さんがあまり元気な様子ではないとの話も聞いている。特に、レミリアお嬢様の傍のあの方は。
だから、さっぱりした味付けも狙っているはずで。
となると、何だろう。

「ふぅ」

考えていると短い溜め息が聞こえて。ふと顔を向けるとお嬢様と目があった。
にっこり笑ってくれたけれど、やっぱりお客さん達のことで頭が一杯の様で。
ただ、お陰で私の足には注意が行っていないみたい。……どうせなら、このまま見つかってしまうまで黙っておこう。

それからちょっとして。食堂の前で別れた咲夜さんが、料理を運んできた。
ご飯にお味噌汁。それにお漬物。そして今夜の主役は……生姜焼きか。
豚肉への飽きを懸念しているのか、思いのほかいつもより豚肉は少なめで、ちょっと玉ねぎが多い。

「もし必要であればお代りもありますので」

ぼそりと、咲夜さんが運び終わった後で呟いて。それから、頭を下げて……お嬢様の方を見て笑う。
対するお嬢様も、咲夜の方を見て一度頷いて。また、さっきの溜息が聞こえた。
どうやら発表することがあるみたい。見ていると、ばっと立ち上がり……胸の前で両手を合わせて。

「……いただきます」

少しの間押し黙った後、ただそれだけを言ってまた座って。……何だろう。

「いただきます」

結局、皆も一度首を小さく傾げた後、お嬢様に続いてそう言って。私も急いで手を合わせて。
それから、目に入ったお味噌汁を啜った。体を冷やしていたつもりはないのだが、先程の着替えのせいか、
ひと口飲む度にお腹の周りがポカポカとして。……ふっと肩の力が抜けるこの感覚。たまらなく好きだ。

お腹の中の熱い空気を吐き出して皆の方を見てみると、皆食べだしは結構偏っていた。
レミリアお嬢様は私と同じように味噌汁を飲んで小さな溜息を漏らす一方、
パチュリー様も、図書館のお姉さんも、そしてお嬢様も皆漬物を頬張っていた。
お客さんの二人は……どちらも生姜焼きに手が伸びている。熱々の湯気がもうもうと出ているのだけれど、
まるで関係無しの様だ。熱いという素振りすら見えない。あまりにさくさくと食べ進めているので、
湯気じゃなくて冷気なのかと錯覚してしまいそうな程。あれ位の勢いで食べられるのは、
厨房でいつも料理をしている子達以外に見たことがない。

食べた後、また独り部屋に戻ってお嬢様の服を着るかどうか。
そんなことを悩みながら食べ進めていると、ふっと、お嬢様の視線やお客さんの視線、図書館の二人の視線が私に集まった。
一瞬、変なことを口走ってしまったかと思って急いで口を閉じたが……流石に今日はそこまで疲れてはいない。何も口から出ていないはず。
……それでも集まったままの視線に、慌てて自分の服を見まわし、口元を拭ってみたが……何も無い。
じっと見つめていたお嬢様に視線を重ねてみれば、お嬢様は恥ずかしそうに視線を逸らして……でも、またこっちを見た。

「な、何かついてますか」
「ううん」

……ちょっとして、パチュリー様達の視線が外れ。それからお嬢様とお客さんの視線が外れ……と思ったら、
今度はレミリアお嬢様の方にじっと視線が集まって。口に食べ物を運んでいたレミリアお嬢様がぴたりと固まる。

「……」

とりあえずとばかりに、箸の上にのったままだった白菜を口へと運び、食器を置いて。
それからじっと皆を眺めた後、私を見つめた。何だ、と言わんばかりの顔なのだけれど、それは私も聞きたい。

そういう気持ちを込めて改めてお嬢様を見つめると、ついに決心したのか、一度長い息を吐いて。
それから改めて立ち上がると、小さなお皿を一つ。自身の前から手に取って、机の真ん中の方へと差出した。
……先程までお漬物が載っていたお皿。模様は少し違うけれど、私の前にもお嬢様の前にも。そして皆の所にも置いてある。

「今二人が食べた白菜のお漬物……どう、かな」
「どうって?」

どう、と言われても。普通に白菜のお漬物だった。
強いて違う所があるとすれば、普段の味つけよりも少し濃い……うん?

「ひょっとしてお嬢様が漬けたのですか?」

お泊りしている間に料理を教わったと言っていたから、とりあえずとばかりに聞いてみれば、
少しだけ耳を赤くした後、笑って頷いた。そうか。これが、お嬢様の手料理……手料理?
なんで、漬物なのだろう。なんというか……地味な、ところ。
お客さんの所では親子丼を作ったと言っていたし、お味噌汁の作り方も教わったとか。
もっと華のある感じの食べ物でも良かったんじゃないだろうか。それこそ、生姜焼きみたいな炒め物でも、
同じ白菜を使った汁物でも、切り揃えやすい根菜を使った煮物でも。色々できたとは思うのだけど。

「美味しかったですよ。でも、どうしてお漬物を作ってみようと?」
「一番、都合が良かったから、かな。このお漬物ね、他の子達のお夕飯にも出して貰う予定なの。
作ったのは、日頃のお礼なのだけれど、ほら、例えば門の子とか。私が作った物が喉を通らないってなった時にね?
その料理が食事の主役とかだった場合に……寂しいかなって思って。だから、選べるように。咲夜の普段のお漬物も一緒に出して、
選べるように。それが理由、かな。本当は、私が沢山作れないのもあるんだけど、ね」

そうか。皆に出すためだからか。
だとしたら、確かにこういうの以外無理なのかもしれない。
普段の料理だって、咲夜さんに加えて厨房の子が頑張るから何とかなっているのだ。
まだ慣れていない料理で全員分の食事を用意しようとしたら……結果は明らかだ。
私が横で手伝ったとしても、苦労はまるで変わらないだろう。

「もう少しで妖精の子達の方の食事も開始いたします。……私が居ると圧迫感を与えかねないので、
取り仕切りについては厨房の子達に任せました。後で報告を受ける予定ですので、結果はまた後ほどお伝えにあがります」

一歩前に出て補足した咲夜をちらりとレミリアお嬢様が見て。
それから、思い出したように手を打った。

「報告は後で楽しみにしておくよ。ところで咲夜。後でお酒を部屋に運んでおくれ」
「かしこまりました」

お酒、か。日頃飲まないから、いざって時にも私はあまり飲めなかったりする。
周りには強い子も弱い子も沢山居るし、たまに集まってお酒を飲んでる子達もいるのだけど、私には基本的に休みの日が無いから。
次の日に残すことはあまりしたくはなくて、パーティとかでも乾杯の1杯の他はほとんど手を伸ばすことが無い。

そして、お嬢様もお酒は飲んでいない。そもそも、地下へは持ち込みが禁止だったのだ。
勿論それは、お嬢様が荒れていた時からの名残。お酒を飲んで暴れたという話を聞いたことは無いのだが、
そもそもそういう状況を想定したくなかったから、なのだろう。

しかし……あまりお酒には強くない方なのは確かだ。
ひょっとしたら私より弱いかもしれない。一度、咲夜さんがお酒入りのお菓子を持ちこんだことがある。
入っている量はごくごく僅かなのだけれど、顔を赤くしていたのが記憶の片隅にあるから。
今思い返してみるとあの時の妹様は抱きしめたら全体的にあったかそうだった。
とても当時の私にはできそうになかったけど。

いつか、テーブルを挟んでお酒を飲みあう日が来るだろうか。



~~



お姉様も、あの子も。
本当はもうちょっと、驚いてくれるのかなって思ってた。
二人とも、説明した後は、静かに首を何度か縦に振っただけで。それからはただただ、微笑んでて。
また感想を聞いてみるのは……私には恥ずかしかった。

自分で食べた分には……思いのほか、館の味に近かった。
材料も調味料も館の物だったから、というのはあるのかもしれない。
一度準備をした後の面倒を全部咲夜が見てくれたからというのもあるかもしれない。
けれど。全く同じという訳じゃ無かった。ほんのちょっと、味が濃かったんだ。

でも。私はなんでそれが分かったんだろう。
咲夜が漬けた白菜のお漬物、過去に食べたことがあるから。……それは確かにそう、なんだけど。
頻繁に食べていた訳じゃない。お夕飯が和食になることもどちらかと言えば珍しい方だし、
それに、お漬物だっていつも同じとは限らない。名前の割に噛むとじゅわっとする梅干しや、
お昼に食べた沢庵だってそう。色々、あるんだ。

だから。いつもの味とは違うって私が分かった理由は、根っこにあるのはとても単純で。
たぶんきっと……全部同じ味だったんだ。何年も、何年も。

この前は、お味噌汁を作って。親子丼を作って。
今日は、お漬物に挑戦して。……まだ今の内なら、作り方が頭の中にしっかり入っているし、
作った時こうだったなって記憶があるから。また作ろうと思えば作れるだろうけれど。
でも。……前回と同じ味になるとは、とても思えないんだ。

私は野菜を切るのがあんまり得意じゃない。
大きさだってバラバラで、……火を通す時だって、通ったかどうかの確証が持てないでいる。
私がどんなに頑張って、前回と同じことを再現したとしても。
きっと、何か違う別のものになるんだ。

咲夜や、厨房の子達。たぶん、ずっとずっと、今まで本当に沢山の料理を作ってきたんだ。
同じ料理だって、何回も、何回も。それが、私が食べて覚えた咲夜の味で、妖精の子達の味で。
私も、ずっとずっと……ずっと作ってみたら。いつか、私の味として分かる物ができるのかな。

……それには一体、どれだけの時間がかかっちゃうのかな。
たぶん、とても気の遠くなる様な時間だとは思うけれど。
そういう物ができたら嬉しいな。別に、お料理に限らなくても良い。
それで恐れられさえしなければ。

「後でお酒を部屋に運んでおくれ」

ふと、お姉様の声が耳に届いて、顔を向けると……どうやら今夜はお部屋で飲む様だ。
あの様子だと、恐らくは静葉お姉さんと飲むのだろう。静葉お姉さんの方は、落ちついたんだろうか。
ずっとお姉様に任せきりだったから心配だったけれど……今は、幸いにも穏やかな顔をしている。
目線はちょっと遠い所を見ているみたいだけど、咲夜が入れた食後のお茶をゆったりと飲んでいた。

そんな、皆の食後のお茶が無くなった頃。
お姉様は立ち上がって伸びをして。それから、一緒に立った静葉お姉さんと一緒に部屋を出ていった。
ドアを閉める時、ちらりとこちらを見て。それから、にっと笑って。

「御馳走様」

と。言ってくれたのだけれど……どう返せば良いのか分からないまま、ドアは閉じてしまった。



こち、こち、こちと。時計の音が静かに進むのを聞きながら、私達は咲夜に二杯目のお茶を貰いつつ、静かに待っていた。
勿論、妖精の皆のお食事が終わるのを。ただ、緊張して待っていると時間は全然進んでくれないみたいで、
私は持っていたカップをにじりにじりと回しながら、何度も何度も時計を見返していた。

やがて、カップの中のお茶は湯気も立てなくなり……熱さも、段々と無くなって。
ぐいとひと息に飲みほして、カップを置いた時。足音が廊下から聞こえてきた。
ごくり、と息を飲むのと一緒に、私は席を立つと、とりあえず入り口からは見えない場所へと隠れた。
念のため、と思ったのだけれど、皆は苦笑いしてた。

コンコン、と。小さなノックの音が響き。
咲夜が静かにドアを開ける。どうやら、部屋に入ってくるつもりは無いらしい。
話を聞くためか、すぐに咲夜は廊下へと出て……それから少しして、戻ってきた。

そそくさと席に戻って椅子を引くと、咲夜がぴっと、指を二本立てた。
指には小さな紙が挟まれている。どうやら、メモを受け取ったみたいだ。

「結構、特徴的な結果だったみたいです。……では、読み上げます。
まず、実施の方法。……厨房の子任せだったのですが、配膳時に本人に確認を取り、分配する形式を取ったようです。
妹様のお漬物を選択された子は全体の二割を少し上回る程度で、妖精の子達の仕事分担で傾向が現れたそうです」

二割、か。……ちょっと嬉しい。もっともっと少ないと思ってた。
それこそ、片手で数える位しか居ないんじゃないかって。そう思ってたから。

「一番選択者が多かったのがお嬢様の給仕、雑務担当。次点が洗濯係」

お姉様の担当の子は話を振られる可能性があったからだろうか。
……洗濯の子達はなんで選んでくれたんだろう。まるで、接点が無いのに。……接点が無いからだろうか。

「逆に、一番少なかったのは……門の子達だったみたいですね」

そこは、聞かなくても分かってたけど……うん?

「……居た、の?」
「二人、だったそうです」
「……そっか」

居ないと思ってた。ひょっとしたら、地下にやってきた子だろうか。
でも、一人だ。もう一人は、一体誰だろう。

「次に、感想を残してくれた子達が居たそうで、その感想が載ってますけど。……これは、何とも」
「良くなかったの?」

静かに読書していたパチュリーが、本へと視線を向けたまま静かに聞いて。
咲夜がその言葉に苦笑いしてた。

「いえ。ほとんどの子が、ほとんど同じ様な感想だったみたいで。……皆が皆、『思ったより普通だった』と、そう言っていたみたいです。
ちなみに、門の子からは……回答は得られてないようです。完食はされてたみたいですが」

良かった。変な味って言われなくて。でも、当然か。お姉さんの教えてくれた分量だもの。
面倒を見てくれたのは咲夜だし、パチュリーだって手伝ってくれたし。
あれだけ漬けたからもしも余ってしまったらどうしようって思ったけど、
これなら……少しずつでも食べてくれる子が居るだろう。

「良かったですね」

と、あの子が微笑んで。ぐっと頷くと、視界の隅で穣子お姉さんが小さな溜息を吐いた。

「うん。穣子お姉さんも、ありがとう」
「……お漬物は、約束してたからね。とりあえず、食べてくれる子が居たみたいで良かったわ」
「また今度、何か教えてくれませんか」

私の言葉に、ゆっくりと頷いて。
それから手を持ちあげて口元を抑えると、小さく欠伸した。

「……お姉さんは昨日の夜、ゆっくり眠れた?」
「昨日は……ほら。私、昼まで寝てたからね。でも今日はゆっくり眠れそう。お姉ちゃんに……」

お姉ちゃん、と言った後、穣子お姉さんは黙りこんで。
それから少しして、首を横に振った。それから一度大きく深呼吸すると、

「姉さんに伝えたいこと、決まったから」

と。……そう、言ったのだ。私は静葉お姉さんではないけれど、心臓がドキリときて。
思わず止まってしまっていやしないかと、胸に手を当ててしまった。
気が付けば、部屋中の皆が穣子お姉さんを見てた。
……パチュリーすら、本から視線を移してて。

「明日は、よろしくお願いいたします」

そう言って、穣子お姉さんは頭を下げて。
誰も、何も言えないままに、お姉さんは部屋を後にした。



「……自棄では無いみたいだったし、大丈夫よ」

と。すっかり静かになってしまった部屋の中、パチュリーが言った。
……本当に、そうなのだろうか。自棄じゃないなら、良い。でも、今日のお姉さんは……泣いたりもしてたから。
自棄ではなくても無理はしているはずなんだ。きっと。
ひょっとしたら支えなくても良いかもしれない程度の無理かもしれない。
けれど……心配でたまらないのだ。

「妹様」
「う、うん」

パチュリーの横にいつも居る子が、私を呼んだ。
考えるのを止めてぐっと顔をあげると……自分の心臓の音が体の中大きく響くのが聞こえてくる。

「……一つ。余計なお世話かもしれませんが。穣子さんの心の内は私にもパチュリー様にも分からないです。
分かるのは妹様だけで、それは穣子さんにとっても分かっていることです。
だとしたら。ああ言われた時、今している様な不安な顔を見せてはいけません。……笑って肯定してあげるだけでも、お互いに安心できるんですから」

そう言われて、思わず自分の頬に触れる。……かちかちだ。
同じことは昨日の夜、あの子にも言われた。
……言いたいことは、分かる。とても良く分かる。自分がそうされたら嬉しくなるだろうって、分かるから。
でも。

「……難しいよ」
「そう。とても難しいことです。だから。せめて明日初めて穣子さんと会う時は、ね?」
「……うん。今日は、私も休もうかな」
「静葉さんのことは、お嬢様が何とかしてくれるでしょう。きっと」

うん。きっと、何とかしてくれるはず。
でも。……様子がおかしかったのは確かだ。
私なんかと比べたら人見知りもしなさそうだし、何よりお姉さんの家に居る時はあれだけ喋っていたのに。
さっきのお夕食ので聞こえたのは、いただきますとごちそうさまのその2つ位だ。

本当は、今とても不安定な状態なんじゃないかって。
働いて欲しくない勘が、ずっと頭の中でそう囁いていた。



~~



静葉嬢は夕食の食べ終わりの頃から様子がおかしかった。
顔は出来る限りの平静を保っていて、見つめれば笑顔を返すのだが……
太ももに載せた膝の上で自身の手のひらを爪で何度も掻いていた。血が滲んでしまうのではないかと思った位だ。
だから私は食後早々に静葉嬢を部屋に連れ帰った。本当はフランのサプライズのことが気がかりだったのだけれど、
そっちは咲夜が必ず後で答えてくれるはずだから。ぐっと気持ちは飲みこんだ。
一応、部屋を出る前にせめてもの感謝を伝えたつもりではあるが……私はまともに感想も言っていないな。
味をあまり深く覚えていないのもある。正直な所、言われるまで分からなかったのだ。
何より食べ終わっていた後だし。まあ、まだ残っている雰囲気はあったから、また後日貰うとしよう。

「飲むつもりのお酒はワインなんだが、赤も白もどっちもある。好みはあるかい」
「レミリアさんはいつもどっちを飲むんですか?」

部屋に帰ってくると彼女はまたベッドに乗って、私の問いかけに笑う……しかし、
最初にこの館に来た時に見せてくれたのと同じ位の笑顔なのに、鈍い私ですら分かってしまうほど、
その顔に元気は無い。作られた笑顔だ。
唯一の救いは、楽しもうとして居ない訳じゃないことか。
私の言葉にも返してくれるし、何より笑おうとはしてくれている。

こういう時、パチェの横にいつも佇むあの子が居れば、色んな面白い話にしてくれるのだが。
残念ながら私にはそういう力は無い。それはずっと昔、館内パーティの挨拶で経験済みなのだ。
笑わせようと思うと、どこまでも上手くいかない。あの時は何故か無駄に自信もあったりした分、落ち込んだ。
だからもう、挨拶では言いたいことしか言っていない。

……いつも飲むワインか。どちらもそれなりに飲むのだが、
私が答えるとそのままのワインを持ってくることになるだろう。
それはできるなら避けたい。私は静葉嬢の好みを知らないからだ。

「宴会なら赤、独りなら白かな」
「……何か、変わるんですか?」
「……独りの時は、部屋の灯りを落として月明かりだけにすることが多いんだ。
手元があまり明るくない上に、ボーっとしてることも多くてね。案外、零してたりする」

良くないことだと分かってはいても、酔った勢いでベッドに飛び込むせいで、零した汚れが拡散して……
次の日シーツを替えに着た子が、ベッドの前で茫然としていたこともあった。
……何を考えていたのか自分でも分からないが、ワインの瓶を抱いたまま眠っていたことさえある。

だから基本的には、独りの時は白ワインを飲む。
まあ、白ワインの時はそれはそれで、零した物に変な解釈をされて面倒な目にあったが。

「では、白をお願いします」

彼女の言葉に、部屋の外で待機していた妖精の子を呼ぶ。
恐らくずっと廊下で待機していたのだろう。入ってきた子の鼻先が少し赤い。
ただ夕食は食べてきた様だ。ほんのりと、お夕飯の匂いがする。

「グラス二つと白をお願い」
「畏まりました」

夕飯のことを聞いてみたい気持ちにもなったのだが……気持ちは抑えた。
こういうのは後日に聞いた方が面白いのだ。たぶんこれが一日経って。一週間経って。
それからゆっくり聞いてみれば、きっと皆から面白い感想が聞けるだろう。



「……曇りみたいですね」

お酒を運んできて貰った後、カーテンを開いてみた。
部屋の灯りついたままで、外のことをまるで知らなかったこともあったのだが……どうやら雲が月にかかっているようだ。
同じ空を見て、ベッドの上で残念そうに静葉嬢が呟く。

「ああ。曇り、だね。風も少し出てきているから、ひょっとしたら月が顔を出すかもしれないが、今日は代わりにこっちを使おうじゃないか」

だから、代わりにテーブルの上の燭台に火を灯して。そして妖精の子にお願いして他の灯りを消して貰った。
頭を下げて部屋を出ていった子を見送って、届けて貰った瓶へと手を伸ばす。
……やや冷たいな。あまりお腹に優しくは無いかもしれないが、眠る前に何か温かな物でも頼んでおこうか。

テーブルをベッドの傍へと寄せて、ワインを注いだグラスを手渡した。

「良い匂い」
「それじゃ、ゆっくり飲もうじゃないか」
「はい。……頂きます」

グラスを小さく揚げ、お互いにひと口。

「この味で飲めそうかい?」
「大丈夫です」

それなら良かった。……が、どうしたものか。
独りで居る時は月や揺れる蝋燭だけで延々と飲んで居られるのだが、
二人で居るとなると、何も話さないという訳にもいかない。何より、先程の静葉嬢の様子を考えれば、
あまり独りで深く考えさせるような時間は、今は与えない方が良い気がする。

「私が欲しい物は何かって、そう仰ってましたね」

急に振られた話題に何だと思ったけれど、それは私が食事の前に尋ねたことだった。
結局あの時、彼女は何も言わなかったのだ。

「いっぱいあるんですけど。欲してやまない物、でしたね。そういう意味だと、物にはならないかもしれないです。
こうなりますようにって。そういう願いなら。物じゃなくて願いならあるんですけど。……難しいですね」
「それでもいいさ。でも……そうだね。何となくだけどこういうことかなって思う所はある」

私の言葉に彼女がこちらを見て。私は持っていたグラスの中身を飲み干した。
私が促すと彼女も飲み干して。空になったグラスにまた私は注いでいった。
……二人で飲むと減るのも早い。まだ少ししか飲んでいないのに、もう瓶がかなり軽くなってしまった。

くるくるとグラスを回し、彼女が口をつけるのを待って。飲み始めた所で尋ねた。

「寂しい。もっと言えば、それを伝えるのが怖い。けれど、解決したい。そんな所じゃないかね」

私の言葉にぴたりと飲む手が止まって。ゆっくりと口からグラスを離すと、

「八割位、正解です」

と。小さな声でそう答えた。……八割か。どっちの意味だろう。
私が言ったことのどこかが間違っているのか。それとも、全体像が見えてないのか。

「残りの二割は?」
「……言えたら、私はこんなことで悩まなかったでしょう」
「言わないで解決するなら私は構わないよ。でも言わないと解決しないなら、言った方が良い」

グラスの縁を撫でながら、彼女が歯がゆそうな顔を見せる。顔色も少し赤くなった。
どちらかと言えば元気がない表情ばかり見て来たからか、少しだけ健康的に見える。
お酒の力を借りるというのはあまりしたくはないのだが、私が受け止められればそれで良いはずだ。
何より、私は任されたのだ。フランに。応えられる限りを応えなくてはならないし、
応えられる限りを応えたい。フランを、私の妹として扱ってくれたのだから。

できることは限られているかもしれないけれど。



元々大きな瓶で用意していなかったこともあって、1つ目のお酒の瓶はすぐに底を尽き、グラスの中身も無くなった。
用意していた蝋燭も終わりが近づき、ちらつく炎に変わってしまったこともあって、
妖精の子に次の瓶の用意をお願いすることはしなかった。ただ、代わりに静葉嬢用の客室の枕だけ運んできて貰った。
グラスをテーブルの上へと運び、ベッドの上へと横たわって。足だけを温かな毛布の上へと転がせば、
横の彼女は天井を見上げながら溜息混じりに

「貴女みたいだったら、良かった」

と。そう漏らした。……私だって、そう言いたい。
私だって貴女と同じように引けないほど真面目にフランのことを考えていたら。
そもそも、フランがこんな状況に陥らなかったかもしれない。その可能性があったことを、分かっているから。

じりり、という音と共に蝋燭の炎が終わりを迎えて。
ちらりと彼女の方を見てみると、彼女も同じように私を見ていた。

「どうするかい?」
「……入っても、良いですか」

ぽんぽんと、ベッドを叩いて彼女が答えた。私が頷くと、彼女はのそのそとベッドの中へと潜って。
私もその横にお邪魔した。

「ねえ」
「はい」
「8割が正解なら。その8割を解消するのにどうしたら良いのかね」
「……私が、レミリアさんにお願いしていたことです」
「傍に居て欲しいというあれかな。でも、私がここに居ても感じるのだろう。
本当は、もう少し踏み込んだ所にあるんじゃないかな。ひょっとして2割の答えはそれかい?」

私の言葉に静葉嬢がきゅっと口を閉じ、目を逸らす。
思い立って、手を伸ばして静葉嬢の腕辺りに触れてみた。
腕は温かいが、手のひらの方に向うに従って段々と冷たくなっている。
指先が冷たいのはさっきまで冷たいグラスを握っていたからとしても……あまり体温の高くない私からしても、冷たい。
緊張のし過ぎだ。こんな所で気力を使ってどうする。大事なのは明日だろうに。

「相手が、欲しいんです」
「うん?」
「私は……依存できる相手が欲しい。依存されるのでもいい」
「依存、ねぇ。もっと良い言葉はありそうな気がするわね」

私の言葉に彼女はただ、首を振っていたが……その後は息を詰まらせ俯いて。
私は彼女の背中へと手を回すと、ゆっくりと体を引きよせた。

依存、か。したいというのは、まぁ分かる。この館の妖精の子達は、どちらかというとその傾向があるからだ。
されたいというのは、どうだろうか。あまり深くは語らなかったが、咲夜はこちらの傾向なのだろうか。
どちらにしろ分かっているのは、傍に誰かが居ることを欲している。
安心感を求める相手や、共感を求める相手として。

「レミリアさん」

私の名前を呼び、そして何かを言いかけた唇。
引き寄せた腕を少し締めて、薄い胸を彼女の顔へと押し付けて。色々喋ることは、我慢して貰うことにした。
パチェ程の柔らかさがあれば良いんだが……かたいと痛いかもしれないな。

「それが、残りの2割かい?」

静かに頷く。

「分かった。言いづらい所をありがとう。……苦しくはないかい?」

そしてまた、頷いて。私はぴったりとくっついた彼女の頭を撫でた。



~~



お嬢様にお漬物の結果を報告しようと進んで居た廊下。
いざ部屋へと辿りついてみると、普段ならドアの傍にある妖精の子用の椅子がかなり離れた所に置いてあった。
腰をおろしている子はいつもの子なのだけれど……ちょっと様子がおかしい。
声をかけようとしてみると、私に気づいた彼女は急いで人差し指を口の前に立てた。
それから、彼女は私がやってきた方の廊下を指さすと、そろりそろりと椅子から立って、私の方にやってきた。

「どうしたの?」

小声で尋ねた私に、彼女はもう一度人差し指を口の前で立てた上で、

「……大事なお話をしている様子でした」

と。さらに小声で返した。

「良い方の話かしら。それとも悪い方の話かしら。介入はしなくて良い?」
「判断しかねます。でも、介入はしちゃだめです。……咲夜さんでも通せません」

それだけ言って、そろりそろりと、彼女はまた椅子の方へと戻って行って。

「何か、悪いことがあったら呼んでね」

私が静かにそう声をかければ、彼女は静かに頷いた。



歩いて厨房まで戻ってみると、閉まりかけていないドアから水の流れる音がする。
どうやらお皿洗いの真っただ中の様だ。かちゃりかちゃりと、食器の当たる音も聞こえる。
中へと入ってみれば、皆が流しに立ってお皿を洗っていた。

「お疲れ様です」
「ええ。貴女達も。今日は急なお願いをして悪かったわ」
「いえいえ。……珍しい物を最初に食べられて何よりです」

私の言葉に独りの子がそう返し、皆が笑う。
話を切り出したのは夕食の準備をする直前だが、皆手際よく進めてくれた。
元々知ろうとしていたのは、何割の子が食べてくれるかだったのだが……
結局、どう宣伝すれば皆が食べてくれるか、どうすれば色んな情報が採れるか。それぞれが考えて、やってくれた。

ただ、お陰で皆疲れてしまったようだ。
いつもなら、この時間はそろそろ片付けも終わり、お茶でも淹れて談笑している頃なのだが、
厨房の真ん中のテーブルには、食器の山がまだ幾らか置かれていて。
その山を整理しながら、私も食器洗いの列に加わった。

「お嬢様達は、喜んでいらっしゃいましたか?」
「ええ。まぁ、食べてから伝えたからかしら。嬉しそうだったけれど複雑な顔もしてたわね。
妹様の方は……そうね。ホッとしたって感じだった。誰も食べてくれないんじゃないかって。そんな心配してたんだと思う」

私の言葉に、何人かが頷いていた。……それは妹様だけじゃなく皆心配していたんだ。
妹様が仕込んだ後、私は時間をかけて仕上げもして、味見だってしてる。
けれど、この館の皆にとって、そんなのは些細なこと。それこそ、作るのに妹様が関わったのか、そうじゃないのか。
その事実の方が重要なのだから。
でも。それが周知の事実だったからこそ、ここの皆は協力的で、

「本当、助かったわ」
「明日のお菓子は期待してますね!」

そして、いつも通りで。私が頷けば、皆がパッと顔を明るくしてくれた。

「ええ。明日はお客さんにとっても大事な日だからね」

しかし、一体何を作ろうか。
皆が食べてくれそうで、あのお客二人の好みに反しそうになく、数が用意できるもの。
できれば、多少時間を置いても食べられる物が良い。
作ったは良いが、出すタイミングが無いということもあるかもしれない。

「ババロア。ババロアにしましょう」
「みかんゼリーだと作るのが楽ですよ」
「タルト……また、近いうちに食べたいです」

近くに居た妖精の子達が小さな声で耳打ちしてくる。
ずるいという言葉もちょっと遠くの子達から聞こえてくるが……あんまり決めかねていると、
次から次に要求が増えてしまいそう。それはそれで応えるのも楽しいのだけれど、
とりあえずは場を落ちつかせるために何かに決めなくては。

「タルトはまた今度にしましょう。ババロアとみかんゼリーならどっちかしら」

そう言った私の言葉に、遠くに居た妖精の子がパッと手を挙げた。
ハッとなった他の妖精の子が一瞬遅れて手を挙げたけれどもう遅い。

「ババロアの蜜柑ソース!」

……交えて来たか。でもそれも良いかもしれない。
ババロアは結局の所味付けをどうするかが問題になるし、蜜柑ゼリーは単純に蜜柑の消費量が多い。

「それ、採用ね。さぁ、もうちょっとで後片付けも終わるから、皆もうひと頑張りお願いね」
「はい!」

うん。良い返事。



洗い物を終えた後、乾いた食器を仕舞った。
パチュリー様に作って貰ったお皿と置物も、1組が不要になったので洗って乾かしたが……
こちらは地震が来ると怖いので、棚へは入れずにお皿と置物を重ねて厨房の隅の床に置いておいた。
そんなことをしている内に、妖精の子がせっせと皆の分のホットミルクを用意して、
私も皆が集まっている中央のテーブルに腰をかけた。
洗い物の最中は疲れが見えていた様子だったけれど、もうこの後には何も無いからか、皆の羽も少し元気そうに見える。
回されてきたコップを片手に、机にもたれかかって飲んでいると独りの子が私の方を見た。

「咲夜さんはこの後まだ何かあるんですか?」
「そうね。……貰った報告をお嬢様に伝えようと部屋に向かったんだけど、追い返されちゃったから。
今の所は特別予定が無いわね。もう少ししたらお客さんの妹さんの方、そっちに眠る前の飲み物を聞きに行く位かしら」

強いて他に挙げるとするならば、門の子達の様子を美鈴から確認する位だろうか。

「では、今日はもうお休みに?」
「ええ。明日も早いし……妹様も戻ってきて落ちついてきたら、ちょっと疲れがね」
「朝、早いうちにお手伝いが要りますか?」
「ううん。大丈夫。いつも通りで良いから。貴女達も今日はゆっくり休んで頂戴」

一人、また一人と、飲み終えた子が廊下へと消えていく。
お風呂に行こうと周りの子を誘う子もあれば、既にお夕飯前に浴びたのか、もう眠るという子もいる。
皆、空っぽになったコップを置き、そして最後の一人が皆のコップを集め、流しの方へと駆けていく。
……この子は既に浴びた側の様だ。ほんのりと、厨房の物とは違う石鹸の香りがする。

「後はお任せ下さい」
「ええ。それじゃ、おやすみ」
「おやすみなさい」

衣服を整え、厨房を出て。廊下から外を眺めた。風が少しある様で、半分ほど月が見える。
明日は晴れるだろうか。この季節、皆が着こむ分洗濯物自体は増えるのに、乾くのは夏よりも遅いから、
できるなら晴れて欲しい。あまり、お嬢様には嬉しくないかもしれないが。

廊下を進み、やって来たのは食後すぐに戻ってしまった穣子さんにあてた部屋。
部屋の前で待機していた子は……眠かったらしい。本来膝かけで渡してある布を器用に体に被せ、眠っている。
ここまでして眠りたいのならいっそ毛布を取ってくれば良いのにと、そう思った位だ。
……どうやら、この様子だと、何も無かったのだろう。
寝てて聞いてませんでした、なんてことが無ければだけど。

そろりそろりと近づいて、目の前にしゃがみこむ。
だらしなくも、ぽかんと開いた口からは心地良さそうな息が漏れている。
指先で顎を掬い、そっと閉じさせてみたが……1分も経たない内にまたぽっかりと開いた。

開いては閉じさせ、また開いては閉じさせ。
幾度となく繰り返したが、それでも起きる気配がない。口も閉じようという気も感じさせない。
……どれだけ長い時間その口と格闘していただろう。
これはもう起こした所で何も変わらないだろうと思い、時を止めてその子を抱えあげて。
部屋へと運ぼうと思って廊下の角をちらりと見ると……妖精の子がじっと角からこちらを見ている。
慌てて懐の時計を見てみれば……交代の時間を迎えていた。

その子に近づいて、一応視線の方向を確認したが……確実にさっきまでの私とこの子が居た位置を見ている。
となれば、完全に見られてしまったのだろう。見つけた時は顔の半分位しか見えず表情も分からなかったが、
近づいてよくよく見てみると、押し殺した半笑いをしている。確実に悪いことを考えている顔。
きっと、明日にでもおやつを要求してくるだろう。

でも。それは私が何も言わなかったらの話。

抱えあげていた子を彼女の部屋のベッドに転がして、来た道を戻って。
未だに廊下の陰で覗き込んだ姿勢で止まっている彼女の真後ろへと立った。
抱きかかえていたお陰で乱れてしまった衣服を整えて、時間の流れを元に戻す。
見えていたはずの私達が急に消えてしまったからか、彼女はびくりと肩を震わせて。
それから彼女は、油を差し忘れたぜんまいの玩具の様にぎこちなく振り向いた。
互いの視線が重なり、彼女が固まって。……額に冷や汗が滲んでいる。

「図書館にこんなことを書いてる本が有ったわ」

彼女も、さっき運んでいた子と同様に膝かけを持参していた。
……よく見れば二枚ある。寒がりなのだろう。
私が声をかけると、彼女は膝かけにぎゅっと爪を食いこませて、私を見上げた。

「な、何でしょうか」
「『貴女が何かを見ている時は、同時に向こうからも見られている』んだって。そう、書いてあったわ。貴女は何を見たのかしら?」
「……な、何も見ておりません」
「そう。ならば、向こうにも貴女は見えて無かったかもね。……交代の時間まで、寝ちゃだめよ」

ぶんぶんと彼女は首を縦に振り下ろし、そそくさとさっきの子が寝ていた椅子へと向かって行って。
怖かったのか、持っていた膝かけで頬冠りしてしまった。あまり脅すつもりは無かったのだが……一応、後で飲み物でも差し入れておこう。

館の中をぐるりと巡って、灯りのある部屋を数えていく。
常に灯りがある医務室や門の詰め所を除いてしまうと、吸血鬼の館といえども夜中になるに従って灯りの数は減って行く。
しかし、日が変わってしまう程では無いからか、夜更かしをしている子達もちょっと居る様だ。
壁にも他の誰かにもぶつからずに済みそうな程度のぎりぎりの明るさを保った廊下に、
彼女達の部屋からの灯りがぽつぽつと漏れだしている。

静かだ。
お客さんが来ているからという事実は確かにあるのだが、昨晩に比べてもずっと静かだ。
毎日これだけ静かであったら、早朝勤務の子達は大喜び……もとい、ぐっすり眠れるだろう。

館を一周して、再び妹様達の居る小食堂へと足を運ぶと……既にパチュリー様とお付きのあの子は居なくなっていた。
残っていた妹様と、お世話係の子がパッと振り返る。二人とも、待ちくたびれたと言わんばかりの顔をしていた。

「お待たせいたしました。お部屋まで、お戻りになりますか?」

私の言葉に二人が頷いて、止めた時間の中でお部屋まで運んで。
……念の為、お世話係の子の足の包帯の締まり具合を確かめ直して。
二人をそれぞれベッドへと座らせた所で、時間の流れを元に戻した。

「……ありがと。お姉様、何か言ってたかな?」
「いえ。取り込み中で会えませんでしたので、詳細は明日伝える予定です」
「何かあったの?」
「大事な話をしている様子でした」
「そっか」

私の言葉に妹様が何度か首を上下させて。
それから一度溜息を吐くと、じっと私を見上げた。

「ねえ、咲夜。今日は、ありがとうね。……今日も、かな」
「いえいえ。……その言葉は、厨房の子達に伝えておきます。さて、明日も早いですから、今日はゆっくりとお休み下さい」

お世話係の子を見ると、視線が重なって。彼女はそれから小さく頷いた。
ちらっと、ベッドの上に置き去りにしていた妹様の服に視線を送ると、じんわりと顔を赤くしたけれど、もう今日はああいう真似をしなさそうだ。
ただ、片付ける様子も無いから、きっと後で何かに使うのだろう。ちょっとヨれていたから、まさか明日の着替えにしたりはしないだろうけど。

「おやすみ」
「おやすみなさいませ」

私もそろそろ、休む準備をしなくては。



~~



「狭かったでしょう」

眠る前に一度お湯を浴びたいとのことで、大浴場を静葉嬢の貸し切りにしようかと思ったが、
彼女自身がそれを拒んで。使いたいと言いだしたのは、普段私のみしか使わないお風呂だった。
妖精の子ですら狭いという位に小さいのだから、彼女にとっては当然もっともっと窮屈なはずだった。

「……はい。思ってたよりも、ちょっと」
「浴場で浴び直すかい?」
「いえ。ありがとうございました」

バスローブは私の物を貸したのだが、こちらもサイズは大問題だった。丈が足りていない。
私にとっては少し大きめであり、脛辺りまで覆って温かい物なのだが、膝が出てしまっている。
そして一番問題なのは……スタイルの違いだ。何だか虚しさと恥ずかしさが同時にこみ上げてくる。
私が着る分には部屋の中を歩き回ろうが椅子に座ってしまおうが、肌蹴ることはない。
十分に生地が足りているからだ。私のバスローブだし。

「……あまりまじまじ見られると恥ずかしいのですが」

だが、胸の差か、明らかに着方に余裕がない。
両腕をぐっと真上に挙げただけで……盛大に生地がずれてお臍とか全部見えそう。
いつぞや冬の宴会で神社を訪ねた時に、霊夢が半纏なるものを身につけていたが……バスローブというよりはあれに近い。
あれがただ水をしっかり吸う生地になっただけ。スタイルの差でここまで変わるのか。

「すまなかった。……ついでだ。私も浴びてくるよ。必要なものが出てきたら、廊下のメイドを捕まえて頼んで頂戴」
「はい。……ちょっと休ませて貰います」
「眠かったら寝てて構わない。その時は灯りを消しておくれ」

彼女と入れ変わりで、お風呂場へと足を踏み入れる。
……思えば他には誰もここを使わないからか、部屋に入った瞬間に温かく感じるのは不思議なものだ。
本当にいつも使っているはずのお風呂だっただろうかと勘違いしてしまいそう。
浴槽を見ただけで一瞬で現実に戻ってしまうけれど、どうせなら毎日こういう思いをしたい所だ。

服を脱いで、小さな編みかごの中に放り込む……と、普段なら収まるはずの服が入らない。
かごの中を覗いてみると、既に静葉嬢の服が入っていた。
改めて触れてみると、生地は結構厚い。山の中に住んでいるからにはこの位で無いと寒いし、木や草が危ないのだろう。
私の服と彼女の服が混ざってしまわない様に、改めて私の服を入れ直して。
まだ温かいうちにと浴室に飛び込んだ。



一人で体を洗い終え、やっと湯船に体を下ろして。
力の抜け切ったからだを浴槽の縁に預けて、足を伸ばした。
……ほとんど成長しない私の体で、ほぼぴったりのサイズ。
溺れない為の処置なのだけれど、私は後どれだけこれに頼らなければならないのだろうか。
パチェ曰くは、『大浴場使ってメイドの子に背中流させれば良いのに』だけれど、
私があそこに居ると……後から入ってきた子や先に入っていた子達がくつろげなくなる。

まあ、良いか。一人で入る分にはもう慣れてしまっているし、この環境も悪いことだけではない。
部屋の奥にあるお陰でとても静かで、落ちついて考えることができるし、好きなタイミングでいつでも使えるのだから。
しかし今日は待たせてしまっているから、そこまで長居もしていられないか。
首の辺りが温まったら、さっさと出てしまわないと。

ゆっくり深呼吸して、体を沈めて。
顎から上のみを出して、髪の毛から落ちる水滴の数を一つ一つ数えていく。
……依存、か。

「一緒に居てくれて、依存できる相手。もしくは依存してくる相手」

どっちかで良いと言っていたが、どっちも叶えたいことだとして。
どういう関係だろうと考えたが、思い浮かぶ言葉というのはあまり多くない。
浮かばないよりはよっぽどマシなのだが、生憎と実体験が伴っていないのだ。
こんな感じで接すれば良いのだろう、というのも思いつくが、
本当にそれで満足するだろうか。私は何か変な所で曲解を産んで無いだろうか。

ただただ、それが心配になっていく。
お付きのあの子と親密になっている今は、私よりもフランの方がこの事にはずっと上手なのだろうな。
けれど、今更フランに引き渡す訳にはいかない。私に打ち明けてくれたのだ。
何よりこれはフランからお願いされたことでもある。

私は、私にできることをする。
しなければならないと思うことを、する。



深呼吸して立ち上がり、浴槽を出て体を拭いた。
いつも使っているバスローブへと袖を通すと、やはり私の体にはぴったりである。ふかふかで、水も良く吸う。
着終えた後で鏡に対して横向きに立ってみた。見慣れた光景ではあるのだが、肩口からお腹までほぼなだらかな一直線。
唯一膨らみだと感じられるのはもはや腰についた紐位なもの。
……見ていても落ち込むだけだな。

新しいタオルを1枚持って、寝室へと戻った。
灯りは何も残っていなかったが、静葉嬢がカーテンを開けたらしく、窓の近くがやや明るい。
ベッドで休んではおらず、先程までお酒を飲んでいたテーブルへと彼女は座って、月を眺めている様だった。
どうやらすっかり雲もどこかに行ってしまったようだ。

「待たせてしまったかね」
「いいえ。……こうやって月をまじまじ眺めるの、久しぶりな気がします」

彼女の真後ろへと椅子を置き、月明かりに輝く髪の毛へとタオルを重ねた。

「しばらくじっとしてて頂戴。……明日の朝大変なことになってしまうから」
「……ありがとう」

彼女は笑ったが、あまり元気がない。
私がお風呂でじっとしている間に色々また考えていたのだろう。

「寒くなかったかい?」
「……少し、寒いですね」
「その格好だもの。拭き終わったらベッドに行こう。風邪を引かない内にね」

相変わらず剥きだしの太ももを見て尋ねてみれば、彼女は少しだけ頭を下げて頷いた。

タオルを動かし、髪を拭きながら、私も月を見上げた。
雲は相変わらず早いが、しばらく月にかかることは無さそうだ。
空気が澄んでいるお陰なのか、随分と明るい。
そんな光を受けて輝く彼女の髪の毛は、根元はとても柔らかく、一方で先の方に行けば行くほど、癖があってちょっと固い。

「寝癖する方でしょ」
「……普段は、結構早く浴びるのでしないんですよ」
「そうか。明日の朝はしばらく梳かす時間が必要になりそうだね」
「たぶん、そうですね。その時はもし良かったら、道具を貸していただきたいです」
「構わないよ。私も使うことになるからね」



ゆっくり時間をかけて髪の毛を拭いて、重たくなったタオルを椅子の背にかけた。
彼女が立ち上がり、ベッドに向かい……ベッド前でぴたりと止まった。

「どうかしたかね」
「……これ、どうしましょう」

彼女が身につけていたバスローブの胸元をぴっと摘まんだ。
……それはもう、一つしかあるまい。

「寝ぼけてベッドをワインでベチャベチャにすることはあったけど、眠る前からベッドをベチャベチャにする趣味は私には無いよ」
「そ、そうですよね」

開けっぱなしだったカーテンを閉じ、バスローブを脱ぎ去って。
私は固まったままの彼女を横目に、ベッドに潜った。
恥ずかしいなら背を向けていようかと思ったが……ふと思い立って、完全に彼女の方に体を向けてみた。
そのまま彼女を見上げれば、暗い部屋の中でさえ分かる程、彼女の顔が赤くなっていくのが見えて。
ずっとずっと、塞ぎこんだ顔よりも健康的に見えた。

伸ばした手で手招きをしてみると、彼女は恥ずかしそうに私の背中側にある壁を指さした。
数秒、無視して見たが、彼女は指さしたままぶるぶると恥ずかしそうに顔を横に振って。
仕方なく望まれたままに背中を向けた。

じっと耳を澄ませてみると、彼女が戸惑いながらも小さなバスローブを脱いでいく音はハッキリと聞こえた。
袖を引き抜く音。体からすっかり外してしまった音。脱いだそれを、畳む音。……椅子にかけた音。
そして、こちらに向かって近づくその足音も。

彼女がベッドに入って。……そして動かなくなるまで待って。
それからゆっくりと振り向いてみると、すぐに彼女と視線が重なった。

「寒くない?」
「……寒いです」
「お勧めの温かく過ごす方法が3つあるわ。1つ目。追加の毛布を持ってきて貰う。
2つ目。追加のお酒を持ってきて貰う。3つ目。二人でどうにか温かくする」

回答の分かりきった質問を彼女に投げる。
彼女は顔を赤くした後、毛布から僅かに手を覗かせて、指を3つ立ててみせた。
顔だけは、もう既に温かそうである。
毛布の下に忍ばせた手を伸ばし、彼女の体……指を覗かせていた手に触れると、きゅっと彼女は身を縮めた。

「裸で寝たことはあるかね」
「……冷え症ですから」

確かに触れる体は冷たい。私が近づくと足も触れたが……少し前までお風呂に入っていたとは思えないほどに冷えている。
ただこれは、緊張もあるのだろう。少し、震えている。

「もっとこっちにおいで」
「……恥ずかしいです」
「あら。じゃあ肌も触れずにどうやって温まろうというの?」

私の言葉に彼女は……とても美味しそうな血の巡った顔をして。
それからにじりにじりとベッドの中で寄ってくると、私の胸へと飛び込んだ。
僅かに見える彼女の顔は、恥ずかしそうに目を閉じていて。私は露わになった肩口を抱き、毛布を首元まで引き上げた。
少しの間は落ちつきの無かった彼女であったが、きゅっと頭を抱きしめてやると、次第に落ちついて行った。

思えば、こうして誰かを抱きしめるというのは久しぶりだ。
というかこの館にはそういうことをする相手というのはほとんど居ない。
誰かの体に触れる機会も……精々、怪我した妖精の子をおんぶする位か。
体を密着させることにはかわり無いのだが、あの時とは随分と違う。
彼女は抱いていると段々と温かさが湧いてくる一方で、あの子達は……。

「レミリアさん」
「うん?」

随分と昔の出来事の様に感じてしまうそんな記憶を頭の隅へと片付けて、
胸の中で呼びかけた彼女へと視線を下ろす。目を閉じたままの彼女は、それっきり何も言わずにじっとしていた。

そのまま抱き枕の様に扱われることしばらくして。私の背中に回っていた彼女の手がゆっくりと私の背を動き、
生えていた私の翼に触れた。その存在に驚いてか、彼女はすっと手を引っ込めて……また触れて。
ちょっとの間は、翼の根元辺りを撫でる様に触っていた。恐らく彼女には珍しいものなんだろう。
この館であれば……むしろ、翼を持たない者の方が少ない位なのに。

私も目を閉じて、彼女の背中を撫であげる。
私が浴びている間に肌は冷えてしまった様であるが、芯の方は温かく汗もかいていた。

「くすぐったいです」
「不快ならやめておく……と、言いたいがね、冷えてるじゃないか。風邪を引いてしまうよ?」

漏れだした言葉に返せば、彼女の手が私の肩口に伸びた。……とても温かな手だ。
ちょっと前に入っていたお湯よりも熱く感じる。

「レミリアさんだって」
「……私の肩まで毛布を引っ張ると、貴女が埋まってしまうじゃない」

そう言うと、彼女は胸に埋めていた顔を離して。私が目を開ければ、すぐ目の前に彼女の顔があった。
随分とほかほかな顔をしている。私が首元まで毛布を引っ張り上げると、彼女は少し満足気な顔を見せて、
それからちょっとだけ体を持ちあげると……きょろきょろと何かを探し始めた。

「どうかしたかね?」
「時間を知りたくて」

部屋が暗いこともあって良く見えていないらしいが、私の位置から丁度見えているそれはまだ、日付を改めるには早かった。

「何か約束でもしてたのかい?」

そう言うと彼女はじっと私の方を見つめた。……私か?
何か、しなければならないことを忘れていただろうか。そう思って記憶を振り返ってみて……見つかったのはたった一つだけ。

「一緒に居る、という貴女との約束のことかしら」

彼女が小さく頷く。

「そうだね。約束は約束だ。日付が変わったらその約束は破棄するよ。だから、そこから先は私のしたいようにする。良いね?」
「……はい」
「……で、一応答えておくがね。まだ日付が変わるまでは時間があるさ。何か、今の内にしたいことや話したいことがあるのなら。
それは遠慮なく言ってごらん。応えられるかは別の話だけれど、応えられる物は応えてみよう」
「それじゃあ……」

そう言って彼女は、私の腕に手を這わせた。
……冷え症と言っておきながら随分と私より温かい手じゃないか。

「誰にも、言わないですよね?」

私が頷くと、彼女も小さく頷いた。
じゃあ、と。彼女は私の瞳をじっと見つめて。
ゆっくりと顔を近づけてくると、こつんと。私と額をくっつけた。

「時間を、忘れさせてくれませんか」

湿っぽい吐息が唇に触れ、彼女が私の手を握った。
何とか笑い返してみたが……これはどう受け取れば良いのだ。
私がからかった通りの方に進めば良いのか?
それとも、宥めて落ちつかせて、眠る方に引っ張るべきか。
……本当はゆっくり考えたかったが、そんなことを考える間にも彼女はぎゅうぎゅうと手を握ってくる。
じっと見つめ返してみれば、期待と諦めをごちゃまぜにしたような寂しげな微笑みが返ってきた。

「貴女は、私で構わないの?」

彼女はゆっくり頷いて。握っていた私の手を引っ張ると、自身の胸へと押し当てた。
……さっき抱きついていた時よりも、ずっとずっと早い鼓動が指先から伝わってくる。
彼女は何も言わなかったが……眼だけが、ひたすらに催促していた。

彼女の手が解け、自由になった指先で顎を掬う。
そのまま頬を伝い、唇に指先が触れると、彼女はぴたりと息を止めた。
どうやら催促する割には恥ずかしいらしい。でもそれで良い。
そっちが恥ずかしがってくれないと困る。私だって恥ずかしいのだ。
何年ぶりかも分からない。最後は誰としたんだっけ。……パチェか?
もはや何年と、指折りで数えられる年でもないかもしれない。

「どうして欲しいのかい?」

顔を近づけ額をつけて。鼻先を重ねてそう囁けば、荒れかけの呼吸がきゅっと止まり、
それから彼女は眼をとじた。……言いたいことは決まっていた様子だが、似合う言葉が見つからないのか、
何度かくぐもった吐息が私の口先を撫でた後、一度深呼吸した彼女が呟いた。

「レミリアさんが思い浮かべたこと、全部して欲しい……です」

その言葉を聞いて、急いで唇を奪う。……非常に困った。
好きなことを好きなようにやるのは大好きだが、相手が居る場合は……話が別だ。
嫌いな訳じゃないが、気になって仕方なくなるのだ。結局、相手が何を望んでいるのか。自分の行動は、それに寄与するか。
相手が私に対して苦手意識を持っているなら如何様にも合わせられるが、多少なりとも好意があるのなら。
求められた物に対して応えるという悪魔の本分を、守らねばならないのではないか。

「ふにふにしてるのね」

私が唇を押しこめば、彼女の唇はお味噌汁に浮かぶお麩の様に柔らかく潰れた。
けれど、ちょっと唇を引くだけで、赤い口先がまたひょっこりと形を作る。
今まで相手にしてきた他の誰よりも弾力は無かったけれど、恥ずかしがり屋の子の頭の様に、
ずっと撫でていたくなるような気持ちが段々と湧いてくる。

甘えたいという気持ちと、甘えられたいという気持ちの両方があると言いつつも、
受け身で抵抗する様子も無いのだから、恐らくは前者の気持ちが今は強いのだろう。
……唇ばかり突いていると、まるで親鳥にでもなったかのような気分だ。
体格だけ見ればよっぽど私の方が雛側に向いているのだが。

たまに漏れだす吐息からは、少し前に飲んでいたお酒の匂いが甘く漂う。
お風呂の力なのか、お芋の匂いは消えた……かと思いきや、ほんのりと汗からはその匂いがする。
この匂いは……赤い皮のあのお芋か。煮潰して甘いお菓子としてたまに並んだりする。
あれならフランにも作れるだろう。あのお芋、館の中で栽培しているのだろうか。

……いかん。余計なことを考えてしまう。
目の前のことに集中するとあまりにも恥ずかしい気持ちになるというのはあるのだが、
何をしたら良いのか本当に分からなくなってきた。

うん?

そうか。考えなきゃ良いんだ。

「……ちょっと待っててね」

ベッドを抜け出し、かけておいたバスローブを纏い直して。彼女を置いて部屋のドアへと翔ける。
ゆっくりとドアを開ければ、普段よりもちょっと離れた所で妖精の子が待機していた。
寒かったのかは分からないけれど、膝かけを頭に被り、器用に椅子の上で膝を抱えていた。
行儀はあまりよろしくないが……まあ、誰にも見られないのなら良いだろう。

「お願いがあるんだけど」
「は、はい」

私が声をかけるまでドアが開いていたことにすら気づかなかったようで。彼女は赤い顔を持ちあげて、彼女が立ち上がった。

「ウィスキー。熱い奴をお願い」
「どの位の濃さがお好みですか?」
「……そうね。割らなくて良いわ。それをグラス一つだけで良いから用意して頂戴」
「分かりました。すぐお持ちいたします」

彼女が膝かけをいそいそと椅子にかけて、廊下を翔けていく。
あの妖精の子を部屋に立ち入らせる訳にも行かなかったから、私はドアを開けたまま待つことにした。
ドアからベッドへと振り返ってみると、上半身だけを起こした彼女がじっとこちらを見ていて。
まだ寝ている様に促すと、ぽすっと、頭が枕の上へと落ちていった。



手のひらサイズのグラスに8分程入ったウィスキーは、小さなトレイに運ばれてやってきた。
恐らく作った当初は熱々だったのだろうが、ここに来るまでの間に少し冷めたのだろう。
思っていたよりもちょっとぬるい位の物が届いた。咲夜が見てたら怒りそうだが……今はこの温度位が丁度いい。

「ありがとう。……貴女、顔が赤いわ。体調悪いならちゃんと咲夜に伝えて休みを摂りなさい」
「いえ。大丈夫です。……ご、ごゆるりと」

彼女はそう言って、頭を下げた後は元居た椅子へと戻って行った。
私がドアを閉める頃には、また頭に膝かけを被って小さくなっていて、少し長い溜息を漏らしてた。

「お酒、ですか?」
「ええ」

ベッドの傍のテーブルにトレイを置いて、グラスを拾い上げる。
……舞う湯気の量は僅かなのに、匂いは舞う様に広がって。枕に頭を預けていた彼女が、体を横に向けてこちらを見つめた。

「風邪を引かないためさ。……貴女がああ言った以上、お酒に頼るまいとは思ったんだが。
肌蹴て冷えてしまうと興も醒めてしまうだろうからね。ほら、温かいうちにひと口飲んでごらんよ」

グラスを持ってベッドに腰を下ろせば、彼女がのそのそとやってきてグラスに手を添えて。
そのまま顔を近づけると、すっと口に含んで行った。しかし、とたんに眉間にぎゅっと皺が寄って。
彼女は口に含んでいた物をぐっと一気に飲み込むと、ぶるぶると顔を振った。

「私にはきついです」
「ああ。私にもきついさ。一気に飲もうとするならね。……私も貰うわ」

私もひと口。温かさは飲むのに丁度良いのだが、鼻から抜ける空気が重たく感じる程に濃く感じる。
お酒には弱く無いのだが、流石に一気に飲み下せば私も足には来るだろう。



バスローブを脱いでベッドに入り、彼女の横で毛布をかぶって少しずつ飲み進めていくと、
流石にグラス1杯であったから、すぐに無くなって行った。

「……温かくはなったんですけど、その。……私はさっきみたいなのが良いです」

最後の一口を口に含んだ所で、彼女はぼそりとそう言って。
私はベッドの傍のテーブルへとグラスを置くと、彼女をとん、と押し倒した。
お酒の力が強い様で、彼女はそのままぱたんとベッドの上に転がって。驚いた顔が私の顔を見上げる。
そのまま覆いかぶさり、唇を奪って。口の中に僅かに残っていたウィスキーをその唇の内へと流し込んで行った。
間はあったけれど、こくん、と、彼女の喉が動くのを感じて。それからゆっくりと唇を離した。

混乱していたのか、しばらくはきょとんとした顔を見せていたけれど、
私と目が合うと、赤かった顔を更に赤くしていった。……耳が美味しそうな色をしている。
顎を支えていた指先で頬を撫で、それから唇の上へと這わせていく。

「私が思い立ったことをして良いのだろう?」

そう言うと、彼女はちょっと悔しそうに顔を逸らしたけれど……それからぐっと頷いた。

「……続きを下さい」
「勿論だとも」

彼女に体を重ね、ほんのりと赤みを帯びた首元へと口づけする。
私そのものの種族のこともあってか、彼女は不安そうに身を捩って。
より露わになった首筋に、舌を這わせていった。
体温はとても高く、その肌の下ではっきりとした血の流れが私の舌の圧力を押し返そうと脈打っている。
……美味しそうだ。

「噛んだりしないわ」

彼女を、そして自分自身を落ちつかせるため、そう囁く。
彼女の体の強張りは消えなかったけれど、聞こえてはいるはずだ。

落ちつきを取り戻すまでゆっくりと口づけを続け、彼女が一度大きな深呼吸をした所で私は体を起こした。
お互いにお酒のお陰で汗はかいているらしい。ふっとお腹の辺りが一気に冷めるのを感じた。
彼女も同じ様で、開いていた腋を閉じ縮こまって。柔らかそうな胸が、きゅっと形を変えた。
……羨ましい。私にもあれ位の胸が欲しい。今の体格には合わないだろうが、もう少し欲しいのだ。
わざわざ肩や首を通さずとも、腋と胸で留めるドレスが着られる様になるだろうから。
今だと、ひっかける所すらない。

じっと胸ばかり見ていると、彼女が肌蹴ていた毛布をきゅっと握るのが視界に映って。
私は一度彼女の体から降りると、毛布をかけ直した。……こうすると恥ずかしさが減るのか、彼女がまたじっと私を見つめて。
私が笑いかけると、彼女はもぞもぞと毛布を鼻の辺りまで引き上げた。
お酒、ちょっと強かった様だ。私を見つめる視線が震えてる。

「お酒で目が回っているのなら、瞑ってても構わないから。楽にして良いのよ?」

そう言うと、彼女は体をこちらに向けてぶんぶんと首を振った……けれど、そうやって振っている内に余計に回ってしまったらしい。
少ししてぴたりと顔を動かすのを止めると、ちょっと細目になって。それからすっと閉じてしまった。

「うん。……それで良い」



彼女が体を休めている間、私は彼女の体をゆっくりと撫でて回っていた。
肩に、背中。太ももに、胸の間。そして足先。冷え症とは言っていたが、足も結構温まってきた。
くるぶし辺りはまだ冷たいが、膝の辺りまでくるとじんわりとした熱を感じる。
そんな彼女の体の上をゆっくりと回っていると……きゅっと彼女が体をよじった。
閉じていた目がうっすらと開き、また閉じる。

「くすぐったかったかい?」

触れていたのがお腹だったから何気なく尋ねてみたが、彼女は一瞬戸惑った様子を見せて。
何とか答えようと目を開けて私を見たけれど……恥ずかしそうに毛布に顔を埋めた。

「そこ、いつも……その。独りでする時に触れてる所だから、つい」

私自身お酒が回っているせいで、何をする時かと聞いてしまいそうになったが、
毛布から僅かに覗く燃えるような色の耳を見れば、言いたいことは何となく分かった。
ここは……お臍のちょっとした。股下まではまだ遠いけれど、彼女にとっての一つの性感帯の様だ。
そうか、こんな所が感じるのか。……自分の手で自分のお腹を触ってみたが、何ともない。
そんなことを試していると私のお腹に彼女の手が重なって、するりするりと肌の上を滑って。私がさっきまで撫でていた箇所でぴたりと指が止まった。

「ここを、こんな感じで」

彼女の温かい指先がほんの少し肌を押しこんで。指を肌の上に滑らせはせず、お腹の中身を揺らす様にふるふると動かしていく。
……が、特別気持ちいいという程のものではなかった。

「……私だけ、なんでしょうか」

勿論、気持ち良さが無いわけでもない。太ももの後ろ側とか、背中とか。
そういう所にやる分にはとても『気持ちいい』のには違い無い。
でも、私には彼女が感じていた方面の良さは……得られない。これじゃただのマッサージだ。

彼女がしてくれた動きを元に、彼女の体にもう一度試してみる。
……さっきと違って、今度はすることを期待していたのか、体をよじって逃げることはしなかったけれど、
のけ反って背中を浮かせた感覚は手のひら越しにも伝わってきた。
押さえた皮膚の内側からも、鼓動とはまた違う脈動を感じる。

「これ、気持ちいいの?」

毛布から鼻まで出して頷く彼女。自分では分からないからか、不思議な感覚だ。
ただ、そのお陰でとても嬉しいことがひとつ。……していてあまり恥ずかしくない。
お腹を撫でさすっているのと大して変わらないからだ。違うとすれば、指先に僅かに力が入っている位だろうか。

押す強さ、そして早さ。色々変えて彼女の反応を見てみたけれど、
どうやら力はあまり必要無いらしい。彼女が私にしてくれた時と同じように、僅かに指が沈む位が丁度良い様だ。
一方で早さは……どっちでも楽しめるようだ。ゆっくりしてみれば彼女は微動だにせず、
ただただ穏やかな顔で、たまにくぐもった吐息を漏らして。顔だけ見れば、頭を撫でられている子供にも近い。
逆に少し激しく撫でまわせば、目を開けようともせずぎゅっと体を強張らせ……這わせた指の下で彼女の中が蠢き、踊る。
改めて自分のお腹でも試してみたが、やっぱり分からない。

「昔からなの?」
「……昔はもっと、下の方ばっかり。普段は穣子が傍に居るから、知られたくなくて。
静かにできて、いざ急に穣子と鉢合わせても何とか誤魔化せそうな方法無いかなって試してたら……そこが気持ち良かったから。
それからはずっとそこ……かな」
「ばれそうになったことがあるの?」
「ううん。穣子がお出かけしている時とか、そういう時だけだったから。ただ、ばれた時のことを考えると凄く怖かったの」
「そうか」

お腹の中の熱さが消えない程度に緩く刺激しながら尋ねていると、
彼女はぐっと私に体を寄せて、くっついた。僅かな力でさえ形を変える彼女の胸を肌で感じながら、ふと思う。

「こっちは弄らないの?」
「……そっちはね、良いの。誰かにぎゅっとして貰ったりした時とか、逆にした時とか。
それだけで満足してしまうから。それに、見られたら言い訳できそうにないもの」

それもそうか。

「レミリアさんは、したりしないの?」

聞き過ぎたせいか、当たり前の様に彼女が返して。
逃げるようにちょっとだけ指の力を強めてみたけれど、
既に耳に入ってしまったからか……答えないことはできなかった。



~~



穣子さんの部屋の前。あの妖精の子もちゃんと起きている様だ。……ぎりぎり。
遠めに見ていると、頭がかくかくと揺れている。寝ちゃ駄目だという意識はある様で、
たまに目元を指で押さえたり、座ったままぐっと足を伸ばしたりしている。

「お疲れ様」
「……お疲れ様です」
「何もない?」
「何も、無いです」

改めて作り、運んできた二つのホットミルク。その内の片方を手渡すと、彼女はしばらくそれで手のひらを温めた後、
ゆっくりと飲んで行った。私が運んでいる間に多少冷めてしまったようで、飲むのにほとんど時間はかからなかった。
……少し、口の周りが白い。

「ありがとうございます」
「……交代まではまだあるから、もう少しの間頑張って頂戴」

私の言葉に彼女は頷き、それからちらりとドアの方を見た。
私もつられて見たが……本当に静かなものだ。寝ているかは別として、まるで物音がしない。
恐らくは既にベッドの中なのだろう。

「これだと朝が早そうです」
「そうね。……検討しておくわ。それじゃ、お願いね」

再び彼女が頷いて、差し出された空っぽのカップを受けとった。



残りの一つのカップを届けに、お嬢様の部屋の前までやってきた。
……前に来た時よりも更に椅子が離れた位置にある。
こっちは既に交代の時間がきているはずなのだが、代わりの子はまだ来ていないらしく、同じ子が椅子の上に腰を下ろしていた。
相変わらず様子がおかしい。

「交代の時間じゃないの?」
「……今日は私が独りでやります」
「何かあった?」
「少し前に追加のお酒をお届けにあがりました。それ以外は、何も」

小声で私が尋ねる間、せわしなく足を伸ばしたり縮めたり。
寒いのかと思ってホットミルクを差し出すと、彼女が苦笑いを浮かべた。

「本当に、大丈夫?」
「だ、大丈夫です。ただ、その。あの、お手洗い、行ってきて良いですか」
「……分かった。ここは預かっておくから、行って来なさい」

……そんなに我慢してるなら、交代の子に素直に代われば良かったのに。

「咲夜さん」
「うん?」
「凄く取り込み中なので、邪魔しちゃ駄目です」

彼女がびしっとドアを指さしてそう言って。
私が頷くと、彼女はすっと立ち上がってふらふらと廊下を飛んで行った。

代わりに椅子に腰かけて、ちらりと見たお嬢様の部屋。
……遠い。この位置は部屋の中から呼ばれても、まず気付けないだろう。
取り込み中、ねぇ。

しばらくすると、彼女が文字通りすっ飛んで返ってきた。

「……本当に交代しなくて大丈夫?」
「大丈夫です。……取り込んでる様子じゃなくなったら、交代します」
「確認してきましょうか?」
「駄目です。絶対に、駄目です」

……明日になってとんでもない爆弾になってたりしないかしら。

「分かったわ。無理はしないでね」
「はい。……大丈夫です」

本当にそうなら、良いんだけど。



二人の子から受け取った空のコップを台所の流しの隅に片付けて、
そのままの足で外に出た。……マフラーが欲しいとすぐ思ってしまう程に外は寒かったが、
ちょっと歩けば門の子達の詰め所である。
秋の終わりから春の頭頃までは、設置された暖炉のお陰で館の中より温かい。

詰め所の前はとても静かだった。
妖精の子の姿はなく、美鈴独りだけが、門に立っている。周囲の塀にも誰も居ない。

「見回りの子は?」
「……私が朝まで見張るので、今日は皆を寝かせておいてくれませんか」
「お夕飯のことで、悪いことがあった?」
「混乱はしてますね。どう振る舞えば良いのか分からなくなってきているんだと思います。
館の中の子達が少しずつ慣れていく一方で、自分達は全然慣れることができず、怖いままで。
今のまま振る舞っていると、今度は妹様からではなく皆から虐げられるんじゃないかって。そんなことを考えてた子まで居ました」

妖精の子達のことに関して普段は落ちついている美鈴が、
少し落ちつかない様子で一歩一歩、門の前を行ったり来たり。
お夕飯の後、ここに戻って来てから一騒動あったのだろう。

「……ここの子の苦労は皆知ってるわよ」
「ええ。そうなんですけど、心配にはなるんですよ。とりあえず、そういう考えが皆に伝染して落ちつかない様子でしたから、
少々無理矢理……静かにしてきた所です。ちゃんと一人一人が考える子達ですから、一度落ちつきを取り戻せば、
後は皆それなりに自分自身の答えを出してくれるはず。……明日の昼辺りを目途に、皆で集まって少し話し合おうと思います」

丁度、あのお客様の姉妹が話している頃だろうか。
あちらの世話もしなければならないけれど……あっちは妖精の子にも任せられなくは無い。
お嬢様も、妹様も居るのだし、きっとパチュリー様も場には参加してくれるはず。
であるならば、私はこっちの支援に来た方が良いのかもしれない。

ただ。

私が居る、ということ自体がそもそも邪魔になってしまわないだろうか。

「様子を見に来ても良いかしら」
「ええ。むしろ、聞いていてくれると私も助かります。少し、自信がないんです」

弱気なことを言うことがあったとしても、冗談めかして笑うのがいつもの彼女だ。
けれど、今は……それどころではないみたいだ。表情こそ明るいが、声がいつもよりずっと低い。

「私ができることがあるのなら、ちゃんと教えて頂戴ね」
「はい。……ずっとあの子達と一緒に居たせいで、私がどれだけ中立の立場で意見を述べようとしても、もう意味がないんです。
あの子達にとっての私への印象は、決して中立には居ないから。逆の立場で、咲夜さんがそうであるように。だから。……その時は、力を貸して下さい」

そう言って、彼女は一度長い息を吐いて。それから顔を叩いて気合いを入れた。

「ともかく、まずは明日です」
「そうね。……独りで見張り、大丈夫?」
「ええ。独りでも気張れば館の反対側だって手に取る様に分かりますよ」
「何かあったら、中にちゃんと連絡頂戴ね。独りで対処しないこと」
「勿論です。お客様もいらっしゃいますから」

……そうね。

「私は先に休ませてもらうわね」
「はい。おやすみなさい」
「おやすみ」

あのお客さんのことも、こっちのことも。
どっちも成功させなくちゃいけない。

私はちゃんと、皆の役に立てるのだろうか。



~~



口が堅そうだったから、聞かれたことには正直に答えてやった。
そもそも独りですることがあるのか。する時はどういう風にしているのか。
周りは気にならないのか。初めての相手はどういう相手だったか。
どうしたいか。どうされたいか。

答える間も絶えずにお腹に載せた手をゆっくりと動かしていたのだけれど、
段々と彼女の質問は、声が小さくなって行って。次第に止んでしまった。
……ずっと弱い刺激だったのだけれど、喋る余裕が無くなってきたらしい。

「止めた方が良いかしら。それとも、ずっと動かしてた方が良い?」

彼女は、何も返さなかった。ただただ、熱くなった体を弱い磁石のようにくっつけて。
止めて欲しいとは言われなかったから、私は彼女の顔を見ながらずっと、押しつけた指先を揺らし続けた。

……彼女は、自分が今どういう表情をしているのか、とか。
そういうことは気にならないのだろうか。私も初めて相手が居た時に言われ、その時には野暮だとも思ったのだが。
なるほど。実際に目の当たりにしてみると、いつまでも焦らし続けてしまいたい程に無防備な顔だ。
昔見たパチェは、もう少し澄ました顔をしていたけれど。

「……可愛い顔するのね」

私は、そう言ってしまいたい気持ちが我慢できなくて。そのまま耳元で囁いた。
……あまりにも自分の世界に浸っていて、少し置いてけぼりになっているのが悔しかったからというのもある。
彼女は驚いて目を開き、私と視線を交わらせて。それから枕を拾い上げると、ぎゅっと私の顔に押しつけた。

「隠すなら自分の顔にして頂戴」

顔を逸らしてそういえば、頬をぐいぐい押していた枕が引っ込んで、彼女の顔に落ちた。
息苦しくなるからだろう。口元だけは見えていて。私が指摘したにも関わらず、呼吸は荒く、口元は小さく空いたままだ。
思えばこの子はほとんど声を出さないな。部屋の外のことを気にしなくて良い点ではとても助かる。
そういえば、パチェも小さいか。一番声が大きいの……ひょっとして私か。

湧いてきた悔しさと、彼女の両手が塞がったのを良いことに、少しずつ手の動きを不規則にしてみた。
汗ばんでしっとりとした太ももが視界の端でうねり、お腹がぐっと持ちあがる。
本当は恥ずかしいことをしているはずなのだが、やはり、自分が分からないことに加えて、撫でているのがお腹なのもあって、
何だか犬を撫でているような気分で。しばらく、手を動かしながらじっと口元を眺めていた。
どこか、息の仕方まで犬っぽく見えてくる。舌は出てないけど。

彼女の足がうねり、体が持ち上がるたび、段々と枕はずれ落ちていって。
たまに一瞬顔が見えるのだけれど、隠すことで安心していたのか、さっきより緩んだ顔がちらりと見えた。
勿論本人も分かっている様で、すぐに枕で隠し直すのだが……。

いずれ彼女もパチェみたいな澄まし顔をするようになるのだろうか。そう思うとちょっと残念な気もする。
思えば、今は私が独占なのだな。この表情は。……と、そんな事を考えている内に、彼女の両足がぱちっという小さな音と共に閉じて。
荒く聞こえていた彼女の吐息がぴたりと止んだ。構わず手を動かしていると、私の手を押しのけようと言わんばかりに体が持ち上がって。
それから大きく、体を震わせた。撫でている間は気づかなかったが、すっきりした体つきの下に、
筋肉がしっかり付いているみたいで。がくがくと震えている間は、気合を入れた美鈴の様に、
ちょっとだけ肌が固くなっていた。……パチェはイってる間も色んな意味で柔らかいのにな。

「……ふ……ふぅぅぅ」

止まっていた呼吸がやっと再開し、彼女がゆっくりと息を吐き出して。
それから取り戻す様に大きく息を吸い込んだ所で、肌の固さは消えていった。

一呼吸、二呼吸。繰り返していくうちに彼女の吐息は落ちついて行った。
一方で、私が未だに手を置いたお腹は……肌の下が面白い様に蠢いている。
緊張したり、緩んだり。意思とは関係無さそうな早さで、それが不規則にずっと繰り返していて。
ゆっくりと撫でる動きを再開すると、歯車の壊れたおもちゃの様に彼女の体ががくがくと震えた。

「あの!」
「あら、キツかったかしら」
「いえ、その……。とても気持ち良かったんですけど」
「けど、どうしたの?」

彼女がもぞもぞと私の胸元へと頭をくっつけ、縮こまって。

「頭がズキズキします」
「すまない。無理にお酒を飲ませてしまったね」
「ううん。お陰で……あったまったから」

確かに彼女の体は随分と温まった。絡む足だって、先はまだ冷たいけれど膝から少し先位まではぬくぬくとしてる。

「もし背中が寒くなったら背中を貸して頂戴な」
「……こうしてる方が気持ちいいです」

少し肌蹴ていた毛布を整えて、そのまま彼女の頭を抱きこんで。
ちらりと部屋の時計へと目を走らせた。もう日付が変わってしまいそう。
しかし、どうやら気にする必要は無さそうだ。

「……うとうとしてきました」
「お酒も入って、体力も使ったんだ。眠気に任せてしまうと良いさ。もしも足りないのなら、また時間を設けよう」

私の言葉に、彼女はゆっくり頷いて。
それから私の胸へと小さく口づけした。少し、くすぐったい。

彼女の吐息が段々と長く、静かになり。
すっかり眠ってしまった後、ゆっくりと腕を緩めて彼女を枕に落ちつけて。
首の辺りまでしっかりと毛布をかけ直した。



~~



目が覚めた時、まだ朝にはなっていなかった。窓からちらりと見た外はまだ月が残り、山の端へと消えようとしていた。
流石に眠るのが早すぎたみたいだ。でも、時間としては……いつも以上に寝ていたみたい。
案外、疲れていたのかもしれない。ここ数日はとても目まぐるしい日々だったのだから。

部屋の中の水差しは空っぽだった。私が昨晩、全部飲んでしまったからだ。
……久しぶりに泣いたせいなのかもしれない。とても、喉が渇いていたから。

服を整え、ドアをそっと開けた。
担当の子は変わっていたけれど、やはりドアから少し離れた所に一人、椅子にちょこんと座ってた。

「おはようございます」
「おはよう。……何か、飲み物をお願いしたいんだけど」
「かしこまりました。すぐにお持ちいたします」

背は、随分と低い。レミリアやフランドール以上に小さい。
歩幅も……ちょこちょことしていたけれど、途中から飛んでいく分には結構早かった。
私があれくらい小さかった頃は、姉さんの後ろをついてばかりだったのに、
それに比べると随分とここの住人はしっかりした子が多い。
そういう風に育ってしまう環境なのかもしれないけれど……羨ましい。

部屋の中に戻って、ベッドに腰を下ろした。
相変わらず、どこに座っても柔らかいベッドだ。
これに慣れてしまうと、家のベッドが布を張った板にしか感じなくなるかもしれない。
……フランドールはどうだったのだろう。たぶん、相当に固かったはず。
思えば、あの日はベッドを出てベランダに居たんだっけ。

あの時は、何をしてるんだろうって思ったけれど、今なら何となくそれが分かる気がする。
彼女自身が言っていた様に、不安な気持ちでいっぱいだったのもあるだろうけれど……
恐らくは彼女も、私と同じだったのだ。自分の知らない所で、色んなことが決まって、
不安なままその状況を迎えて。上手くいかずに慌てたり、落ち込んだり。

そう。何事も上手くいくということなんて、無いんだ。
ただ、その逆も同じで。ずっと失敗し続けるなんてことも、無いんだ。
自分がそれに気づくことができるかも、掴めるかどうかもその時の自分次第だけれど、
きっかけも、チャンスも。本当はずっと、近くに転がってるんだ。



……あの子、戻って来ないなぁ。
ひょっとしたら何か手間のかかるものを頑張ってくれているのかもしれない。
お水を貰えればそれで良かったのだけれど。

準備に行ったであろう厨房へと向かうため、部屋を出て。
誰も通らない廊下を静かに進んで行く。この館は我が家とは違って、昼にカーテンを閉じて夜に開くからか、
昨晩は少し廊下が明るく感じていたのだけれど……朝を迎えそうな今、全てのカーテンは閉じられていて、
廊下はとても暗い。最低限の灯りは置いてあるけれど、長い廊下へと出ると、先はあんまり見えなかった。

厨房の前まで辿りつくと、部屋の中からは灯りが漏れだしていた。居るのは間違いない様だ。
しかし、ドアをノックしてみても……反応がなくて。私は少し待った後で、ドアを開いた。
昨日も訪れた厨房。基本的にここにはレミリアが来ないのだろう。カーテンは後ろが透ける様な生地で、
外からの灯りだけでも十分に明るかった。そして漂う……紅茶の匂い。慣れてない匂いだけれど、良い匂いだ。

「だ、誰か」

けれど。そんな厨房の奥から聞こえてきたのは、さっき話していた妖精の子のうめき声だった。
声のした方へと向かってみると……彼女は部屋の奥の壁にもたれかかって、じっとしていた。
私に気が付いて、安心と焦りを混ぜた様な顔をして彼女が見上げて……ぴたりと止まる。

「どうかなさったんですか?」
「……立てなくなってしまいました。床にお皿と……変なのが落ちてたので、拾おうとしただけなんです。そしたら尋常じゃなく重くて。腰が、その」
「痛めてしまったのね」
「声を出すと、腰に響いて助けも呼べなくて。……申し訳ありません。紅茶も冷めてしまいました」

彼女の傍には、昨日パチュリーさんが出したお皿と白菜の置物が転がっていた。
恐らく、あまりにも重たいから落ちることを考えて床に置いたのだろう。
けれど、置物はまだ良いにしろ、あのお皿がそれだけ重いなんてことは、たぶん誰にも分からないだろう。
ひょっとしたら、厨房で働くという妖精の子には教えてあるのかもしれないけど。

「今は紅茶よりも貴女の体よ。……ここ、医務室があるって聞いてるわ。場所を教えてくれるかな?」

彼女の前でしゃがみ、背中を差し出せば、ぐっと彼女が寄りかかって来て。
出来る限りゆっくりと立ち上がる。……床は相当に冷たかったようだ。
背中で感じるお腹周りは温かいのだが、膝から先が氷の様に冷たい。

「お手数おかけします」
「良いの。……さ、行きましょう」



医務室までは少し遠かった。ただ、『あそこです』と彼女に告げられると、そこはとても分かり易かった。
いつでも受け入れる準備のためなのだろう。灯りがしっかりとついていて、その光が廊下に漏れだしていた。
ドアの前に立つと、背中に乗っていた彼女が肩越しにドアをノックして。
それから少しして、中に居た妖精の子が、ドアを開けてくれた。

「何をしたの?」

中に入ると、ドアを開けてくれた子が一つのベッドを指さして。促されるままでに彼女をそこへと下ろした。
ベッドで頑張ってうつ伏せになる彼女を見てか、腰を痛めていることはすぐに分かった様で、
近くの戸棚を開いて湿布薬を取り出していた。

「厨房でお茶の準備。床に置いてあったものが気になって持ち上げようとしたら、思いのほか重くて……それで」
「なるほどね」

私は邪魔にならない様に部屋の隅に居たのだけれど、診ていた妖精の子に進められ、近くの椅子に腰を下ろした。
……何だか妙に暖かい。さっきまで彼女が腰をかけていたのだろう。

「連れてきて頂き有難うございます」

寝ていた子の服を引っぺがし、彼女が湿布をベタンと勢い良く貼り付けると、
古くなった蝶つがいに似た悲鳴が、ちょっとだけ聞こえた。
……見た所、永遠亭のあの兎さんが売ってる湿布と一緒の様だ。
私もたまに使うことがあるけれど、ほんのちょっと、剥がれやすいかなって思う。

「貴女が噂のお客様、ですね」
「姉共々、お世話になっております」
「こちらこそ、妹様を手厚くもてなして頂いて。有難うございました」

彼女はお礼の言葉を返しながら、傍のベッドに畳んで重ねてあったタオルケットを一枚手に取って。
ベッドの上の彼女へと被せていく。寒かったのか、もう一枚頂戴と、横になっていた子がねだって。
……面倒くさかったのか、畳んでいた全てのタオルケットを全部重ねてお尻の上に彼女が置いた。

「意地悪」
「じっとしてて。あとあまり叫んだり体捻らない。首もね。……湿布効き始めるまで待ってて」
「……うん」

諭すように彼女が囁き、小さな返事が聞こえて。
彼女は小さく頷いた後、一人で部屋を出ていった。

「申し訳ありません。御迷惑おかけして」

取り残された部屋の中、寝ていた彼女が歯がゆそうに唸る。

「困った時はお互い様ですから。……さっきの子は、ずっとここで働いているの?」
「はい。他にも何人か担当が居ますが……夜から朝は大体いつも彼女です」
「何か特別なの?」
「昔は妹様がこの時間に暴れることが多くて。医務室で、この時間の担当になりたい子が居なかったそうです。
それを彼女が一手に引きうけて、頑張ってくれてたんです。あの子のお世話になった子は、とても多くて。
今は妹様が落ちついたこともあって、この時間は一番怪我人も病人も出ない時間になりましたから。……だから、この時間は彼女が担当してます」

私の問いに彼女が答え、もそもそと近くにあった枕を引き寄せると、彼女はそこに顔を埋めた。
どうやら、疲れているらしい。ひょっとしたら交代の時間も近い頃だったのかもしれない。
あまり声をかけるのも悪いかと思って部屋の中を見回してみると……大きな本棚が目に留まった。

高さは私より少し低く、でも幅はベッド位あって。沢山の本が詰まっている。
応急処置の仕方や悩みとの向きあい方みたいな本が多い。どの本も何度も読まれた様で、背表紙は少しぼろぼろ。
至る所に付箋が張り付いていて、本の頭から覗いている。かなり勉強熱心な子の様だ。

一冊手に取って開いてみる。
解説書であるからか挿絵が多い。あまり見ていて気持ちの良い絵ではないけれど、
何だかどこをどう怪我しても対処できるような気がしてくる程、色んなことが書いてあった。
分かりにくい絵なんかは、彼女達自身が付け加えたのか、色んな絵のメモが挟まっていて。
決して読みやすいとは言えなかったけれど……恐らくあの子達の頭の中には、これらが刻まれているんだろう。



やがて、部屋の外から台車の音が響いて。さっき部屋を出た彼女が戻ってきた。
彼女が部屋に入ると、漏れこんだ風に乗って、紅茶の香りが部屋の中に溶けて。
彼女は、さっき厨房で見たティーセットを運び込むと、机の上に並べ始めた。

「彼女の役目の交代をお願いしてきましたので、こちらで少しお待ちくださいませ」

差し出されたカップを受け取りお礼を返せば、彼女は笑ってそう言って。
ぐっとカップを傾けてみれば、喉の奥を熱い物が駆け下りていった。
慣れのなさもあってか、緑茶以上に目が覚める気分だ。お茶をくれた彼女は、
自身の分も注ぎ、寝かせた子のすぐ脇に腰を下ろして。小さな手でゆっくりと飲み始めていた。

「一つ、伺いたいことが有るんですが」

半分程カップの中身を飲んだ所で、彼女が私を見つめてそう切り出して。
私と、ベッドに寝ていた子が揃って彼女を見た。

「妹様、どうでしたか。私は……未だに会うのが怖いのです」

言いづらそうにしながらも、彼女はゆっくりと続ける。

「私は妹様の世話をしたこともなければ、話をしたこともありません。
ただ、妹様がしてきたことについては、他の皆よりも知っているつもりです。
……だから、尚のこと不安なのです。最近のことを思うと、まるで嵐の前の静けさのようで。……怖いのです」

段々と声が小さくなる彼女は、そこまで言うと肩を落とした。
彼女が言いたいことは、分からないでも無かった。
というより、ほとんど同じことは私も思っていたから。いつかそういう日が来るんじゃないかって。
返す言葉に困っていると、ばさりとタオルケットが落ちる音が聞こえて。
音のした方を見つめれば、寝ていた子が背中から彼女に抱きついていた。

「……そんないきなり動くと痛めるから、今はじっとしてて」
「……うん。痛かったから、じっとしとく」

抱き付いたまま、背中の子が答えて。……ちょっぴり長い沈黙が、部屋を包んだ。
抱き付いた子は、ただただ申し訳なさそうな顔で。
抱き付かれた子は、ただただ切なそうな顔で。

この間お部屋で話した妖精の子は真っ直ぐに言っていた。私達がもっと強くなる、って。
あの子自身は、まだ実践できていないと言っていたけれど、本当はそれは違うんだ。
行動できることはとても大事。だけれど、本当に大事なのはその気持ち自体なんだ。
そもそもの気持ちの有り無しで、小さくても覚悟はできる。いざという時に、動くことができる。

「怖いってことは、仕方ないことだと思う。それを無理に無くそうとする必要なんて無いし……きっとそれは、無理をするだけ。
でも、きっと。貴女達にとっての恐怖って、昔に比べてほんの少しは軽くなったんじゃないかな。それだけ、心に留めておけば良いと思うな。
貴女達の様に、今はもうフランドールも一人じゃない。支えられる相手が傍にいる。
それにね。貴女達もフランドールも、今のこの時のことを心配しなくなった。これから先をずっと見つめてる。
たぶん、今まで以上に色んな兆しがお互いに分かるはずだから。……きっと、大丈夫」

私の言葉に、抱きついていた子が小さく頷いて。ちょっとだけ、抱きしめていた手が強くなった。
抱き付かれていた子は、俯いたまま……背中から回されていた手をそっと撫でて。
ゆっくりと頷いた後、あまり元気は無かったけれど、微笑んだ。

「付け加えて言うと。……そうね。私達のお家に来ていたフランドールのこと。
私、凄く怖かったんだ。噂はずっと聞いていたからね。でも、今はね。とても感謝してる。
貴女達のお嬢様にも、フランドールにも、そして貴女達にも。色んなことを見つめ直すきっかけをくれたから。
……私も、出来る限りは力になるつもりよ。貴女達、皆のね」



伝えられることだけ、伝えて。それから待つことしばらく。
部屋にまた一人の子がやってきて、頭を下げた。どうやら、交代の子の様だ。

「紅茶、ありがとうございました」
「いえいえ。……こちらも、ありがとうございました」



~~



目が覚めると部屋の中は真っ暗だった。
それが私にとっての当たり前だったのだけれど、ここ数日はお姉さん達の家で過ごしていたからか、ちょっと驚いた。
あの、朝が来たという感覚にさせてくれる増していく明るさ、そして鳥の声。
昨晩、私の胸の中に飛び込んだまま眠っているこの子が言うには、あれは雀の声らしい。
ふっくらしていて、この季節はお団子みたいに連なって木にとまっていたりするようだ。
もっと楽しみたいならお米を窓の傍にまいておくと良いと教えてくれたけれど、
生憎この部屋には自由なお米も……そもそも窓も無い。だから、遠い先の楽しみにすることにした。

鳥団子。団子になるのは恐らく寒いからで、お互いに暖を取っているんだろう。
だとしたら、かなり温かいんだろうな。川の字に寝るって言葉を本で読んだけれど、
きっとあれと一緒なんだろう。……端っこはとても寒そうだけれど、この子が言うには、
たまに羽を動かしてぶるぶると震える位で、大人しいのだそうだ。
取り合いも無く仲の良いそういう間柄というのは、羨ましいな。

もしも私が鳥だったら。私は、端っこに行かなくちゃ。
そうしたら、寒い所が一つ減るから。隣にはこの子に居て貰って。
……ふたりぼっちにならないようにしなきゃね。

胸の中で穏やかに眠っているその横顔に手を這わせる。
あまり温かくない部屋だからか、髪から覗いた耳は冷えていて、いつもより硬い。
ただ、お陰で私の手も少しは温かく感じて貰えている様で、ちょっとだけ満足そうな吐息が漏れた。
この子の寝顔を見ることは、一緒に眠るようになってからとても増えたけれど……今日は、深く眠っている。
たぶん、疲れが溜まっていたのだろう。色々心配させてしまったみたいだったから。

「いつか、ちゃんとお礼させてね」

そう、声をかけてみたけれど。反応もなく。
時間だけがゆっくりと過ぎていった。

お姉さん達の大事なお話まで、後どれ程の時間があるのだろう。
静葉お姉さんはどうなっただろうか。穣子お姉さんはどうしているだろうか。
……今日、私はお姉さん達を助けられるだろうか。

不安で、不安で。顔に出しちゃ駄目だとこの子にも、パチュリーのお付きの子にも言われたけれど、
やっぱり私には無理だ。隠そうと頑張っても、自然にはしていられない。
だからもう、あまり気にしないことにした。勿論、出来る限りはするつもり。
でも、私が本当にしなくちゃいけないのは、表情を隠すことじゃない。
どう二人をサポートするか、なんだ。だから、頑張らなくちゃ。……あまり、良い案は浮かんで無いけれど。

彼女が寝返りを打ち、私の体から少し離れて。
私はゆっくりと体を起こすと、部屋の中の時計へと体を向けて、目を凝らした。
細くて長い針の方は見えないけれど、朝にはなっているようだ。
今頃は外が青くなっている頃だろうか。……雀がきている頃だろうか。

「……起きてらっしゃったんですか?」

私が体を起こしたせいで、持ちあがった毛布に冷たい空気が入ってしまったみたいで。
目を覚ましてしまったらしい彼女がぐーっと伸びをしながら、私を見上げた。

「ううん、さっき目が覚めたとこ。……ごめんね、起こしちゃった」
「もう、朝です?」
「うーん、いつも起きる時間よりはずっとずっと、早かったみたい。まだ、しばらく眠ってても良さそうな位」
「……もうちょっと、良いですか」
「うん」

彼女の言葉に返事をしてまた寝転がると、彼女はすぐに胸元に飛び込んできた。
いつもなら遠慮がちにかかってくる体重も、今日はどこか重い。

お姉さん達の家で迎えた朝は色んなものがあったけれど、
一方でお姉さん達の家では無かった物が、この彼女の温かさ。
……ベッドの柔らかさもあるかもしれないけど、一番はこれだ。
これがもう寝なければならない時間で、その日しなきゃいけないことが何も残っていないのなら。
ずっとこの温もりの中に埋もれて居たい。



彼女の頭を抱えながらまどろんでいると、廊下の外からいつもの咲夜の足音が聞こえて。
目を開けてドアの方を見つめれば、しばらくしてノックの音が部屋の中に響いた。

「開いてるよ」
「おはようございます」
「おはよう」

仕事柄なのか、いつもならこの音にとても敏感に反応する彼女なのだけれど、
今日は気づいても居ないようだ。まだ、夢の中に居るらしい。

「……昨晩は遅かったのですか?」
「ううん。ただ、疲れてるみたい」

咲夜が彼女を見て、小さな声でそう言って。
私が返せば、ゆっくりと首を傾げた後、納得した様に首を縦に下ろした。

「足の怪我で満足に眠れなかったのかもしれませんね」
「そうかも。……もう少し、時間あるかな?」
「ええ。大丈夫です。朝食の時間になりましたら、再度参りますので」

私が頷いて返せば咲夜も頷いて。それからとてもゆっくりとドアを閉めて帰って行った。
廊下に響く足音も無く。……すぐに彼女の吐息の音だけの静かな部屋になった。

足の怪我、か。確かにあるかもしれない。
私にくっつくようにして眠っているけれど、怪我した足だけはこちらに寄せずに
離れたところに置いてあるからだ。足先が毛布から僅かに出てしまっているのだけれど、
それも気にならないみたいだし。

にしても、本当によく眠っている。……耳たぶやわらか。
温くて、すべすべしてて、ゆっくり脈打ってて。
次に咲夜が戻ってくるまで、どれ程の時間が残っているか分からないけれど、
この子とこうやって過ごしているだけで、胸の中の不安が少しずつ小さくなっていく。
それは、一緒に過ごすようになってから分かったことの一つだけれど、
とても不思議で、とても良いことで……とても嬉しいこと。

だからこそ。
お姉さん達にも、取り戻して貰わなくちゃ、ね。



~~



大惨事だった。
そもそも、咲夜が起こしに来るまで目が覚めていなかったし、
咲夜が部屋のドアを開けた時、私も静葉嬢も裸だった。
その上、私の髪の生え際にかかる重み……どうやら、髪型は二人揃って大爆発している。

咲夜はドアを開けてから何も喋らなかった。
一瞬きょとんとした後、とりあえずとばかりに微笑んで、固まった。
その後、ゆっくりと深呼吸して一言。

「お客様のお召し物、持って参りますので」

と。そう言い残して、部屋を後にした。私が視線をドアから隣の静葉嬢に移せば、彼女もまた、固まっていた。
こちらもまるで糊で固めた様な笑顔。幸い毛布のお陰であられも無い姿までは見せていないが……かなりビックリした様子であった。
それからゆっくりと置き物の様にベッドに倒れこんで。
……みるみる顔や体が赤色に染まって行った。

「……大丈夫かい?」

そう声をかければ、もそもそと彼女は枕を手に取り顔に被せた。
かなり恥ずかしかったようだ。

「気にしないことね。それより、髪の毛よ。早く何とかしないと朝食に間に合わなくなるわよ」
「髪、ですか」

そういって彼女が枕をどけて、髪の毛に触れる。……一瞬で目が覚めたようだ。
起き上がった彼女がこちらを見たが……見事に髪の毛が板のように固まっている。
どこかで見たことがある。美鈴がいつだったか作ってくれた、羽付きの餃子だ。
パッと見た限りではどこが毛先なのかも分からない。

私がブラシを握り、彼女には背を向けて座って貰って。
いざ、梳こうと思っても……頑丈だ。手を離したらブラシが刺さったまま浮いてしまった。
溜息を吐けば、ドアからノックの音が響いて。近くにあったバスローブを羽織り、代わりに出れば、
妖精の子がタオルを二つ持って立っていて……私の髪を見つめてた。

「お、おはようございます。咲夜さんの命令で蒸しタオルをお運びしましたが……」
「そう。……うん、ありがとう。使わせてもらうわ」

受け取ってドアを閉めると、ドアの向こうで少し戸惑う様な足音が響き、
それから去って行った。私もかなり変な髪型なのだろうが、生憎とどんな髪型までかは分からない。
タオルの熱い内に彼女の髪の毛を無理矢理包みこんで、私も自分の頭を包みこむ。
パチェと違ってお互いに髪の毛があまり長くないことは幸いだが、焼け石に水な気はしないでもない。
そして今は、それを気にしている余裕も、無い。

包みこんだ彼女の髪の毛を揉み、その感触を確かめ、タオルの熱が人肌程になった所で取り去った。
……何とかなりそうだ。ブラシも一応通るようになってる。後は、ただひたすら梳くだけだ。



「今日は、頑張れそう?」
「うん。……頑張ってみる」

彼女の髪が終わり、自分の頑固な髪と闘いながら尋ねてみれば、彼女は振り返って笑った。
まだ少し毛先が乱れている所もあるが、たぶん次第に落ちついてくるはずだ。

「レミリアさん。今日、私一人で頑張ってみたいな」
「隣に居なくても、大丈夫?」
「うん。……もし困ったら呼んじゃうかもしれないけど」

彼女がそう言うのなら止めはしないが、いざという備えは必要かもしれない。

「じゃあ近くのお部屋でゆっくりしてるわ。必要だと思ったら、気兼ねなく呼んで頂戴」
「ええ。……ねえ、レミリアさん。梳き終わったらで良いから、一つ。欲しい物が有るの」
「言ってごらん?」

そう言うと、彼女は人差し指をぴっと立てて。
それからゆっくりと唇に持って行った。

「もうひと押しの自信を分けて欲しいな」

梳く手を止めてブラシを放って。
彼女の顎先をぐっと持ちあげれば、彼女は眼を閉じ、私の肩口へと手を添えた。

とても、落ちついていた。
昨日も同じような事をしたけれど、その時とはまるで違う。
触れた肌から伝わる鼓動も、吐息も。毛先以外の何もかもが、落ちついていて。
何か私の行動がその一助になったのなら……これほど嬉しいことはない。

唇を重ねて抱きしめれば、彼女も私の背中に手を回し、ぎゅっとしてくれた。
お互い、未だに裸だということもあって随分と冷えてしまっているのだが、
不思議と重ねた所だけは温かくて。そして……彼女の匂いにも慣れてきた。

「相変わらず美味しそうな匂いね」
「……食べますか?」

恥ずかしそうな彼女の言葉が聞こえると共に、ドアの外で気配がして。

「良いね。でも……今度、また頂くことにするよ。咲夜が衣服を持ってきてくれた様だから、ね」

返した言葉に、彼女は顔を赤らめた後、頷いた。
その後、かなり遠慮がちなノックの音が二度ほど響いて、咲夜の声が聞こえる。

「お召し物お持ちしましたが……入っても大丈夫ですか?」
「ああ、構わないよ」

私の言葉にゆっくりとドアが開いて、まるで確かめるように顔だけを覗かせて。
静葉嬢がしっかりと毛布に包まっていたからか、ホッとした様にそのまま中に入ってきた。
私はてっきり静葉嬢に宛がっていた部屋に行っていたと思っていたのだが……いつの間にか、咲夜は外出用のマフラーを身につけていた。
肌の色からすればまだ館から出てはいないみたい。

「こちらに置いておきますので」
「ありがとう。……朝食の準備は?」
「滞りなく。私は、少し門の方まで。あちらも今日は話し合いをするそうですから。その、段取りの確認に」

門の子達が、か。
美鈴と会った時は特に何も言ってはいなかったが……恐らくかなり突発に決まったことなのだろう。
もしくは、私に報告しないでも済む程度の他愛ない物なのか。できれば後者であって欲しい。

「分かった。こちらは準備ができたら食堂に向かうが、それで良いかな」
「ええ。妖精の子達が既に準備したはずなので。私も、後で妹様と一緒に向かいます」

咲夜が一度、頭を下げて。それから部屋を出ると、足早に去って行った。



着替えを終え、静葉嬢と揃って向かった小食堂。
厚いカーテンから漏れた光が廊下の床を照らし、反射していた。
十分に廊下が明るくなっているお陰で廊下の灯りは全て消えており、
妖精の子達も皆朝を迎えたようで、賑やかな声が遠くから聞こえてくる。

「彼女達は、しっかりしてますね」

結局、食堂に着くまで妖精の子の姿が廊下の先に見えることはなかったのだが、
彼女はドアの前で、私に向かって微笑んで、そう漏らした。

「客人が居るとあの子達も張り切るから、余計にそう見えるかもしれないね」

私が返すと、ちょっとだけ首をかしげて。それからゆっくりと食堂のドアを開けた。
この食堂は窓が無いからか、部屋中が灯りに満ちていて……既に一人、穣子嬢が食卓についていた。

「おはよう」
「おはようございます」

彼女も静葉嬢と同じく、とても落ちついた様子だった。
ここに来た当初と比べれば、まるで別人の様で。……これが本来の物なのかは知らないが、
とりあえずはホッとしたと言った所か。これなら二人とも、ちゃんと朝食を食べられるだろう。
後は、フラン達とパチェ達か。パチェ達は席には居ないが、先に来ていたみたいだ。
昨日読んでいた本とは違う何冊かの本が、テーブルの上に無造作に置かれている。
私が読むとなると一日どころじゃ済まない量だが、あれだとパチェなら昼前には読み終えるだろう。
一応、この姉妹の話し合いが終わるまでは居てくれるみたいだ。私と一緒に別室で待機、かな。

「昨日はゆっくり眠れたかい?」

私の言葉に、穣子嬢はゆっくり頷いた。

「とても良く。こんなに長く眠ったのは久しぶりって思う位に」
「それは良かった。寒くは無かったかね?」
「お家よりは暖かかったです」

ちらりと静葉嬢の方を見れば、彼女は赤くした顔を逸らして。
私が席につくと、すぐに静葉嬢も腰を下ろした。
既に食卓の上は食器が置いてあり、まだ料理こそ運ばれていないものの、台車一台分転がしてくればすぐにでも食べ始められそうだ。



少しして、咲夜がフラン達を連れてやってきた。
マフラーはもう付けては居ない。フラン達を迎えに行く手前、変な勘ぐりをされたくなかった様だ。
その後ろには、厨房にでも寄ってきたのか、台車を運ぶ給仕の姿と、どういう訳か苦笑いを浮かべるパチェ達の姿があった。

「……何かあったかい?」

私の言葉にパチェがこちらを見て、ゆっくりと頷いた。

「ごめんねレミィ。私がちょっと不用心な物を作っちゃったから、怪我した子が出てたみたいでね。その後片付けをしてたの」
「怪我の具合は?」
「骨折や出血は無し。腰を痛めただけよ」

咲夜は……知っていたみたいだな。私が見つめると、大丈夫です、と、そう口を動かした。

「そうか。……とりあえず朝食にしようか」
「お嬢様。私はまだやることがありますので、必要な物がありましたら、メイドの子達に」
「分かった。終わったらまた来ておくれ」
「かしこまりました。では、ごゆるりと」

私の言葉に咲夜がそう言って。
すっと咲夜が頭を下げると、目の前の空っぽだった食器はいつの間にか全て満たされ、
ほくほくと立ち上る味噌汁の匂いが、鼻をくすぐった。
朝食に目を落としている内に咲夜は出ていってしまったが……あの様子、どうやらあまり芳しくないみたいだ。
今朝の内に、もっと突っ込んで聞いておくべきだっただろうか。



~~



お嬢様にお知らせすべきか迷ったが、伝えたら必ずあの食事の席を立つと思ったから、言わなかった。
門の子達の状態は、予想以上に悪かった。普段は活発な子が多く、詰め所の中は休む子も居るから賑やかとはいかないまでも、
明るい雰囲気がいつもここにはあるのだけれど……さっき訪れたそこは、誰も一言も喋らず、
それぞれが思いつめた表情のまま……ただただ、しんとしていたのだ。
外は今も美鈴が居て独りの見張りをしているが、詰め所の中の様子はほぼ分かっている様で、
疲れもあってか、こちらも辛そうな様子が顔色から漏れ出てきていた。

昨日の夜は、昼ごろに、と美鈴は言っていたけれども、
とても私にはそこまで妖精の子も美鈴も持つとは思えず、

『またすぐ戻ってくるから、その時に皆で話し合いましょう』

と、中の子や美鈴にそれだけを伝えて、朝食の準備を済ませてきたのだった。

私が門の所まで戻ってくると、美鈴は振り向き、頷いて。
それから二人で詰め所へと入った。
中の様子は相変わらずで……やはり、誰も言葉を交わしていなかった。

「お待たせ。……昨晩美鈴に少し聞いたけれど、皆色々心配しているみたいね。特に、それぞれのこれからのこと。
そのことについて、ちょっと話を聞かせて貰えるかしら。メイドの代表として答えられるものは答えたいから」

私の言葉に、皆は視線をきょろきょろと振り、お互いを見つめあって。
やがて一人の子が、すっと手を上げてこちらを見つめた。

「お願い」
「……2つ、あります。1つは、これから先もずっと、慣れることのできない私達が妹様の成長の妨げになってしまって、
それが原因で周りから非難されるんじゃないか、ということ。もう1つは……」

そこまで言って妖精の子が口籠って。視界の端に居た美鈴が、手を挙げかけたが……一応、言い出した手前、自分で言いたいらしい。
一度大きく深呼吸すると、小さな声で続けた。

「私達の価値って、なんなんだろうって。私達を追い出して新しい子を代わりに入れてしまえば、
妹様も出てきやすくて、良い環境になるんじゃないかって。……私達は、要らないんじゃないかって。そう考えると、辛いんです」
「その二つ、かしら。皆も同意見?」

彼女の言葉が途切れた後で尋ねてみれば、皆がゆっくりと首を縦に振った。
精神的に参って来ていたのか、美鈴も同様に首を振っていた。

……困った。最初の質問の答えはとても単純で良いのだけれど、
2つ目のはどうだろう。私は、彼女達を満足する答えを返せるのだろうか。
自身の価値は、果たして何なのか。私だって悩むのだ。今のこの立場になっても。

「まず1つ目のことについて。貴女達がもしも館の中の子の立場だったとして、今の貴女達を非難したいと思うのなら、そうするでしょう。
でも、非難する気はないのなら。あの子達もそんなことはしないわ。貴女達が館の中の子達のことを考える様に、あの子達も、貴女達のことを考えてる。
それに、貴女達をあの辛い役職にしたのは私なのだから。貴女達に非は無いの。それでももし、そういう非難があったら。その時は私を盾にしなさい。必ず、ね」

私の言葉に、喋っていた彼女が俯く。……あまり、良い言葉ではなかったか。
でも、非が無いことが伝われば、今はそれで良い。それだけは、分かって欲しいから。

「次は、2つ目のことについてね。価値って、私は2種類あると思うの。他の誰かが私達自身に見出す価値。もう1つは自分自身で思う価値。
たぶん貴女達がとても気にしてるのは、自分自身で思う価値だと思う。……これは、とても難しいわね。私だってずっと悩んでることなの。
そして一人一人違うものだから、私が教えてあげることができない。だから、一人一人が頑張って見つけて欲しい。
ただ。先に言った他の誰かが見出す価値についてなら、私は答えられる」

一つは、皆を守るためにいつも体を張っていること。
一つは、皆がお互いのことをより考える様になるきっかけになったこと。
妹様が過去の過ちを繰り返さないための鏡となっていること。
……私が思っていることを、ゆっくりと伝えていった。

「だから貴女達は、替えがきかない。……貴女達じゃないと、駄目なの。それだけは、覚えておいて欲しい」

私が言い終えた後、呼吸音以外に何も聞こえてこない重たい空気が流れて。
それから再び、同じ妖精の子が手を挙げた。

「私達は、これからどうすれば良いですか」
「いつも通りで良いの。ただ、それでも何か足りないなって思うのなら。
その時は美鈴でも私でも良いから相談して頂戴。出来る限りの支援をするわ。些細なことでも、何でも良いから」
「……何だか、とてももやもやします。少なくとも、今のまま、というのは駄目だと思うんです」
「貴女達は皆、優しいからね。でも今は、他の皆に任せてゆっくりして見て頂戴。
まあ、見張りだからそこは気張って貰わないといけないけど、まずは私達に任せてみて欲しいな。ちょっと、時間はかかるかもしれないけれど、ね?」

今思えば、パチュリー様にご同行して貰うんだった。
そろそろ助け舟が欲しい。妖精の皆の口から意見をちゃんと出させたいがためか、美鈴は黙りっぱなしで、
正直そろそろボロが出てしまわないかが自分でも心配なのだ。
今頃は皆、朝食を……いや、食べ終わってお茶の時間、だろうか。



~~



「……大丈夫だろうか」

今日の朝御飯。ひょっとしたらまた豚肉なんじゃないかと、心の片隅で思っていたけれど、チキンのソテーだった。
胡椒が強く、締めるようにレモンの汁がかけてあって。ちょっと重たかったけれど、体はぽかぽかとしていた。
ただ、食後飲むお茶は……もはや何を飲んでいるのか分からないような味になってしまった。

朝御飯の後少し皆で休んでから、姉妹とフランを残して食堂を後にした。
フランのお世話係の子は、まだフランの部屋でのお仕事が片付いていないらしく、怪我もあるからと先に戻って。
パチェのお付きの子は、お菓子を焼きたいからと、近くの小部屋の前で別れた。
お陰で待機用に用意して貰った部屋には、私とパチェの二人だけだった。

「どうでしょうね。何だか、二人ともちょっと雰囲気が違ったけど」
「うん。そこが、ちょっと不安でね。二人とも元気になったことには違いないんだが、いざ呼ばれた時に対応できるかが……何とも」
「良いのよ。呼ばれて、その時求められたことに正直に応えれば、それで」

部屋には長いテーブルが一つ片側に置かれ、もう片側は大きめのソファが一つあるだけ。
本当は小食堂を利用する客人用の荷物置きなのだが、今は水差し位しか置いてない。
壁がやや厚いお陰か、部屋は近いのに食堂の音も聞こえず、人払いをしているせいで廊下からの足音も聞こえてこない。
お陰で静かだとパチェは喜んでいたが……私も何か暇つぶしを持ってくるべきだった。

パチェはソファにゆったりと腰を置いて本を読み、私はそのすぐ脇でクッションに頭を埋め、天井を見上げていた。
非常に行儀の悪い格好であるが、幸い窓は無い。ここに来る者は皆ノックをするからまるで関係が無いのだ。
そんな中、一冊の本を読み終えた所で、パチェが本を置いてこちらを見下ろした。

「ねぇ、レミィ。昨晩は静葉さんとお楽しみだったの?」
「ん、まぁ。流れで。どうして?」

私が小声で返すと、パチェも気を使ってか、声のトーンを下げてくれた。

「……匂いがするから。本で、違う女の匂いがするって表現を見るけど、本当にそうね」

匂い、か。眠る頃になるともう匂いに慣れてしまっていたから、考えもしなかった。

「貴女が誰かと寝るなんて、久しぶりな気がするわね」
「そうね。最後はパチェだったものね。自分の匂いが奪われて嫉妬してくれてるの?」

そういうと、口元に手をやって肩を震わせながら彼女が笑った。
ちょっとだけ馬鹿にされてる様に感じるのだが、パチェだとあまり怒る気がしない。
こういう反応をするだろうなって分かっていた所があるからだろうか。

「私にはあの子がいるわ。でも、そうね。レミィと一緒にしてた頃が懐かしくて」
「あの頃からパチェには手玉に取られてた気がするわ」
「あら。違うわ。レミィが感じ易いのよ」

否定はしない。言うからにはそうなのだろう。
……と言っても、当たり前と言えば当たり前なのだ。
パチェを相手にする時はどんな時でも喘息が頭に過るから、思いきってすることができない。
一方でパチェはやりたい放題やってくる。……その差だと信じたい。

「ああ、そうだ。パチェ。一つ、内密で聞きたい」
「うん?」

パチェに近寄って、お臍の下辺りをふにっと押しこんだ。
凄く柔らか。……前より少しお肉がついた気がする。

「ここをさ、こう、ぐりぐりっとされて、気持ち良かったりする?」
「言いたい事は何となく分かったけど、私は……普段なら、ならないわね。あの子はこれがイける口らしいけど」
「普段なら?」

パチェが持っていた本を置いて、私の手首を包む。
朝御飯の後だったからか、あまり触れられたくないみたい。

「あの子が気持ちよさそうだったから、魔法でちょっと感度を上げて試したことがあるの」
「そう、それ。私にもかけてくれないかな」
「今ここでするの?」

私の言葉に目を細めて彼女が言う。流石に私はそんな破廉恥じゃない。
勿論、訝しむ表情含めてパチェの冗談だということは分かっているのだが。

「い、いや。後で良い。気になってたんだ。どういう風に感じるのかなって」
「へぇ。つまるところ、静葉さんはそっちの方なのね」
「……だから、内密に」
「分かった。じゃあ、後でかけてあげるわ」
「ああ。……ちょっとだけホッとしたよ。私が不感症の側なのかと思ったからね」

私の言葉にまたパチェが笑う。……今日は、よく笑ってくれる。
きっと私が持っている不安の大きさを分かっているからなんだろう。
それが杞憂かどうかは関係無くて。こういう時のパチェは、本当に心強い。
変な相談だって、乗ってくれるし。

「……どうなってるかねぇ」
「呼ばれないということは、どうにかなってるんでしょう。きっと」

私もそう、信じていたい。



~~



静葉お姉さんと、穣子お姉さん。その二人と一緒に私は食堂に残った。
朝食の休憩直後だったから、今はテーブルの上は何にもないけれど、お茶とかはまた後で纏めて運んでくるって言ってた。
お姉さん達は向かい合い、私は……穣子お姉さんの隣。朝食の時からだったけれど、二人ともまるで別人みたいだ。

穣子お姉さんは、暗い顔をしなくなった。
穏やかな顔と落ちついた顔が混じって……銅像にありそうな顔をしてる。
私の視線に気づくと、ぽんぽんと私の太ももを優しく叩いて笑って。
一方の静葉お姉さんは、穣子お姉さん程じゃないけれど、かなり落ちついた様子だった。
昨日最後に見た時は様子がおかしかったから、ちょっと安心。お姉様、昨日どんなことを話していたのだろう。

「私はここに居て大丈夫?」

私が問いかけると、二人ともが頷いて。
それから穣子お姉さんが背もたれに体をぐっと預けると、こちらを見て言った。

「話を始めるのは、お茶とかがきてから、かな?」
「う、うん。……でも気になって落ちつけないなら、もう始めても良いと思うんだ。静葉お姉さんの方は、どうかな?」
「私も言いたい事はちゃんと考えてあるから。だから、貴女が決めてくれると嬉しいかな」

だとすると、もう始めても良いのかな。
こういう進行をするの、お姉様ならきっと得意なんだけど、私には初体験で。
とりあえず自分の気持ちはずっとずっと、落ちつけておかなくちゃいけないはずなんだけど……うぅ、凄くドキドキする。

「じゃあ、始めよっか。……うんと、話し合いの場だけど何かを決めるって程強いものじゃなくて、
お互いがどう思ってるかってことをハッキリさせるのが、今回の目的……だと思ってるんだ」

進め方が拙いせいか、向けられる温かい笑顔がちょっとつらい。
私が言い終えると二人は頷いて。それから、穣子お姉さんが小さく手を挙げた。

「私は、後が良いな」

私が静葉お姉さんを見ると、静葉お姉さんは頷いて。
一度深呼吸した後で、じっと穣子お姉さんを見つめた。

「じゃあ、私から。私はこのまま、対応を変えるつもりはないわ。姉として思うこと。私が、私として正しい思うこと。
それはこれからも貫くつもり。ただ。……ただね、私がどれだけ正しいって思っても、それが一番良い選択かどうかって、
また別の話なんだなって。そう思ってる所はあるの」

静葉お姉さんが話している間、穣子お姉さんはずっと、視線を太もも辺りに落としてて。
たまに頷いたり、静葉お姉さんを見つめ直したり。遮らず、ずっと静かに聞いていた。

「これから先もたぶんあるんだろうと思う。直そうと思っても、直る物でもないと思う。だから、その時は穣子の目で見ておかしいかどうか、
ちゃんと伝えて欲しいな。本当は今までも伝えてくれてたと思うんだけど……どうか、お願い。それともう一つ。大事なのはこっちかも。
……私の心の弱さ。置いてけぼりにされるのが怖い。独りになるのが怖い。それは今もそう」

そう言って静葉お姉さんは、膝の上に置いていた手を持ちあげ、唇を撫でて。

「でもね、門番の美鈴さんに言われて気付いた。私は、自分で動こうとしてないの。
独りが嫌なら追いかければ良い。探せば良い。言ってしまえば簡単なこれだけのことを、ずっとずっと、しないままだった。
……それは、これからもうちょっと積極的になってみようと思うんだ。
だから……ひょっとしたらね、また前みたいに私が落ち込んじゃうこともあるかもしれない。
けれど、私の反応に怯えないで、貴女のしたいことをしてみて欲しいな」

静葉お姉さんの言葉が止まって。……終わりかな、と思ってちらりと静葉お姉さんを見てみると、
丁度目が合って。そして、頷いた。それから穣子お姉さんの方を見れば、やっぱり穣子お姉さんもこちらを見て。
……相変わらず、また私の膝をぽんぽんと叩いて、頷いた。

「言いたいこと、本当にそれだけ?」
「うん。これだけ、かな」
「分かった。私も、大体同じようなものかな。この子を見つめる度、鏡越しに自分を見ている様で……私も結局、
大事な時に何もしてない。問題に向きあいもしない。閉じこもって、とても狭い視野で物ごとを考えてる。
もう少し、自分を持たなきゃなって思った。だからそこは、出来る限り物怖じせずにしようと思う。
それだけ、かな。……私からお願いすることは特に……いや、一つだけ」

テーブルに肘をついて、穣子お姉さんがぐっと体を乗り出して。
静葉お姉さんはちょっとだけ首をかしげ、微笑む。

「好きに、やっていこうよ。気楽に、やれることから一つずつ、ね」

私が頷くと、二人がこちらを見て笑って。丁度そこで、コンコンと、ドアをノックする音が響いた。
私が返事をすると、妖精の子が一人、台車を引いて入ってきた。
この子は……私のことがあまり気にならないらしい。ちょっと一安心。お姉様の部屋の給仕の子だろうか。

「お茶とお菓子を持って参りました」

引きいれられた台車から漂ってきたのは、いつもの紅茶よりもずっとずっと甘い匂い。
ミルクティーみたいだ。匂いからすると、紅茶というより紅茶が入ったミルクに近い気もする。
お世話してくれる子もたまに作ってくれるのだけど、それよりもずっとずっと……ミルクが強い。
お菓子は、ババロアだ。かなり弾力が強いみたいで、スプーンでつついても、ぶるんと一度震えるきり。
こっちはほんのりと蜜柑の匂い。

妖精の子が頭を下げて帰った所で、三人で食べ始めた。
食べる機会はあまり多くない。どちらかというとプリンやババロア、ゼリーなんかよりもずっとずっと、
焼き菓子の方が見ることが多いからだ。たまにチョコレートとか、キャンディとか。
だから味は結構忘れてしまうのだけど、やっぱりこれも漬物と同じ。
ひと口食べると、ああ、こんな味だったって。

「他の妖精の子達も、皆お菓子を食べるの?」
「う、うん。そのはずだよ?」
「……良いわね」

お姉様の所にもたぶん今頃は運ばれてて、あっちも食べてるんだろうなぁ。



……先に食べ終わったのは静葉お姉さんで、その次に私で、一番最後は穣子お姉さんで。
思ったより量があったなぁって考えていると、静葉お姉さんがふと言った。

「ねえ……話し合いって、こんな感じで良かったのかな」
「言いたいことをちゃんと伝えられれば、それで良いと思うんだ。……お姉様も言ってたんだけど、
静葉お姉さんは穣子お姉さんのこと、穣子お姉さんは静葉お姉さんのことをちゃんと考えてる仲の良い姉妹だから、
本当は思ってることをちゃんと一度言葉にしてみれば、後はお互いで納得できるんじゃないかって。私もそう思う」

それに、今回のお姉さん達の争いは、責任の押しつけ合いじゃなくて、引っ張り合い。
お互いがちゃんと、肩の力を抜けば。私が考えてるよりもずっとずっと、お互いのことを知ってるのだから。
言葉に出せなかったことが有ったとしても、少しずつ伝わるんじゃないのかなって思う。

「ただ、もしも。それでも何だか足りないなって思うなら。……それはこれからの生活の中で、
お互いに聞いてみれば良いことなんだと思うんだ。決別の話し合いじゃなくて、仲直りなんだから。穣子お姉さんは、どうかな?」
「私は……正直分かんない。灯台もと暗しなのかもしれない。でも、貴女がそう言うなら。そう信じてみる。……言いたいことは、言ったもの」

私はてっきり、『姉さん』って言葉が出てくるのかなって思ったんだけど、
今は言うつもりないのかな。呼びかけの言葉だから、わざわざ今言う必要もないのかもしれないけど。

……こんな感じで良かったのかな……お姉様。



~~



門の子たちに四苦八苦していると、こんこんと、ドアをノックする音が響いた。
やがて入ってきたのは、厨房の子だった。どうやら、おやつを運んできてくれたらしい。

「……大事なお話の最中でしたか?」

空気の重さを感じ取ったのか、彼女は私を見つめそう言って。
私が中に入るように促すと、持ってきていた外用の台車をずるずると引っ張ってきた。
彼女がドアを閉めて少しして、部屋の中に蜜柑の香りがほんのりと広がって。
皆の視線がそちらに向かったのを見て私はふと思い立って。

「この子の話も聞いてみましょうか?」

私がそう言うと、厨房の子含め、皆がこちらを見た。
……厨房の子が、巻き込まれるとは思わなかったのか、不安そうな目で訴えてくる。

「な、何の話ですか?」
「ここにいる皆それぞれが持つ価値は何かってお話をしてたのよ。貴女は、貴女自身の価値って、なんだと思う?」

彼女がババロアとスプーンを配りながら、頭を左右にゆっくり振って唸る。
何度かしばらく台車と皆の間を行ったり来たりしていたけれど、
最後の一人に渡し終えたところでゆっくりと前に来ると、ひょいと一番手前に居た子のババロアを持ち上げた。

「蜜柑は、蜜柑自身の価値に気付いてるのでしょうか。私はそうは思いません。喋らないし、そもそも動かないですし。
でも、蜜柑の価値は何なのかって、周りの皆は分かってることだと思うんです。咲夜さんも、ここに居る皆も、勿論美鈴さんも。
それで良いんじゃないですか。自分自身で見つけられるのも大事かもしれませんが、それで見つけた価値って、
自分にとっての価値でしかないんじゃないでしょうか。……ここの皆が求めてるのって、そういう価値なんですか?」

彼女の言葉に誰も返せず、しんとした空気が部屋を包んだ。
それにまた彼女は唸り、一人の子をびっと指さすと、静かに続けた。

「蜜柑の価値って何だと思う?」
「甘い」
「じゃあ、次はその隣の子。他には?」
「手が汚れない」

厨房の子がどんどん指名しながら、いろんな子に答えさせていく。
風邪に良い。炬燵のお供。ジュースにできる。凍らせても美味しい。
皮で遊べる。……だんだんと、答えるのに時間もかかるようになってきたけれど、
色んな言葉を引き出してた。それがひと段落したところで、彼女は尋ねるのを止めて。

「じゃあ、次は私が厨房で皆のごはんやおやつ作ってる上で、どう思ってるか。
配りやすい。味付けに使える。痛みが判別しやすい。油汚れを落としやすい。
……たぶん、こういう意見って、実際にそういう機会がないと見えてこない所だと思うんだ。
私は、こういう蜜柑と一緒で、皆それぞれの価値って、いろんな立場でいろんな様に見えてると思う。
だから、自分の価値が何なのかって悩むのなら。聞いてみれば良いと思う。その人に求める価値も、見出す価値も。それぞれ違うから」

そう言って、彼女は話すのを止めて。
それからハッとなって、持ちっぱなしだったババロアを、門の子に返してた。

「……以上なんですけど、だめですか?」

誰も、何も返せなかったからか、厨房の子はまた不安そうにこちらを見て。

「貴女達から何か言いたいことは?」

私がそう門の子たちに振ると、しばらくして、皆首を縦に振っていた。
どうやら納得の糸口になってくれた様子。
……やっぱり人が変わると考え方は様々だ。
良かった。彼女を頼ることができて。

「それじゃ、私はこれで」
「皆も思うところあるみたいだから、私もこれで。美鈴、後は任せてもいい?」
「はい。お任せください」

……美鈴も、多少元気になったようだ。
あの子もあの子で、辛かったならもう少し早めに教えてくれれば良かったのに。



厨房の子と二人揃って詰所を出て、少しすると、彼女がじっと私を見上げた。

「無茶振りは良くないですよ!」

語気は強めるものの、ちっちゃな声で彼女が訴える。

「ごめんなさいね。でも、助かった。……とてもね」

私が返すと、彼女は何か言いたげなまま、耳を赤くして。
それからずいずいと台車を押し始めた。

「あれで良かったんですか」
「ええ。あの子たちの中でまた何か、答えが見つかったみたいだから」
「……ですか」
「館の中はどんな感じかしら」
「あのお客様達はうまくいっている様子でしたよ。さっき届けてきました」

そうか、あちらは上手くいっているのか。
ほっとして溜息を吐くと、横に居た彼女が笑う。

「お昼ご飯、そろそろ準備しなくちゃですね」
「ええ」

……本当に、ありがとうね。



厨房の前で彼女と別れ、私が向かったのはお嬢様の居るお部屋。
パチュリー様も一緒に居るおかげか、その途中でいつも横に居るあの子と出会った。
彼女は私を見つけるなりこちらに駆けてきて、私の目の前で立ち止まった。

「丁度咲夜さんを探してたんです。ちょっとお話がありまして」
「うん?」
「お菓子作りしてたんです。少し多めに焼きましたので、お嬢様やお客様達のお昼の紅茶時にどうかなって思って」
「あら、助かるわ。物はどういうの?」
「一口サイズのクッキーです。やや甘さ控えめで、プレーンなものを」

私が頷くと彼女がにっこりと笑って。
それから思い出したように人差し指をぴっと立てた。

「先ほどババロアを頂きました。久しぶりで美味しかったです。……クッキーは厨房にお届けしますね」

今日は妖精の子たち皆におやつを配ってあるから、もうお昼のは……無くても大丈夫だろう。

「分かったわ。私がもしも居なかったら、厨房の子に預けておいて」

私の言葉に彼女は頷いて、それから一度頭を下げると、背を向けて去って行った。
どうやら、図書館に戻るらしい。パチュリー様がお嬢様についている今、ひょっとしたら少し暇なのかもしれない。

お嬢様が待機している部屋へと行く前に、お客様がいる食堂の前を通って。そっと、中の様子を窺ってみた。
どうやら話し合い自体は終わっているようだ。話し声はするものの、食べ物の話とかが聞こえてくる。
ちらりと見た時計は……まだ、お昼時は遠いのだが、これからお嬢様がこの輪に戻っても問題は無いだろう。

私がお嬢様達がいる部屋をノックすると、パチュリー様が返事をして。
私がドアを開けると、二人ともソファに居た。パチュリー様は相変わらずの読書。
その膝を借りて……どうやら、お嬢様は眠っているようだ。

「レミィが必要になった?」
「いえ、話し合いが無事に終わった様子だということを、とりあえずお伝えに」
「そう。……起きたら伝えておくわ。ひょっとしたら疲れていたのかもね。結構深く眠ってるみたい。
久しぶりだから、もう少しこうやって枕をしておくわ。もしもお昼になったら、教えて頂戴」

パチュリー様のお腹の方へと顔を向けて眠っているせいで顔は見えなかったが、
ゆっくりと規則正しく上下するその肩を見ていると、どこか私も眠くなってきた。
ちゃんと休んだはずなのだが、さっきので疲れてしまったのもあるからか。
ちょっと急いでお昼ご飯の準備だけ済ませてしまって、私も少し、休もうかしら。

「かしこまりました」



厨房へと戻ると、既に妖精の子達は下拵えを始めていてくれた。
今日のお昼ご飯は、材料だけ決めておいて、お客様の様子次第でメニューを変えようと話していたのだ。
その材料は玉ねぎにレタス。そして……厚切りの豚肉。
最近になってやっと豚肉の量が減ったと思えるようになり、かなりホッとしている。

もしもお客様の様子が暗い感じだったら、豚肉はミンチにして玉ねぎと合わせ、一口サイズのミートボールに。
そうじゃなかったら、少し脂を削ってカラリと揚げて、玉ねぎベースのタルタルソース和えに。
レタスは彩と敷物だ。

「揚げ側でいいんですよね?」

先に戻っていた厨房の子が伝えたのか、既にタルタルソースは作り終えられていた。
とても大きなボウルに入れられていて……相変わらず、大容量の器に入れるとなんだか良くわからない物にしか見えない。
ソース自体は真っ白だけど、混ぜる玉ねぎは透明に近いし……以前は彩を良くしようと、
細かく刻んだパセリなんかも入れたことがあるが、あれは妖精の子達から不評だった。……歯にくっついたんだそうだ。
だからあれ以降はとてもシンプルに作ってる。

「ええ。ババロアを食べてもらったばかりだから、大量には食べられないだろうけれど、
それなりに重たいものでも大丈夫みたいだったから。衣はちょっと厚めにして、カリカリになる位揚げてしまいましょう」
「他はどうしましょうか」
「そうね……」
「お夕飯はどうするんです?」

一応、お客様が帰る日はまだ未定だけれど、いつ帰ってしまうかも分からなかったから、
今日のお夕飯だけはちょっと前から考えていた。できる限り団欒の時間を得られて、楽しめそうな食事。

「夕飯はお鍋を考えてるの。豚肉も追い込めそうだし、普段とは違う作り方をするつもり。
試作もあるし、夕方からはちょっと一人で作業するかもしれないわ。下拵えだけ手伝ってもらうかも」
「どんなお鍋です?」
「秘密。それなりに信頼している筋からの情報だから」

教えてくれたのは、この前館にやってきたあの魔法使い達だけれども。
とりあえず二人が作って食べた分には美味しかったらしいから。

「楽しみにしてます」

上手くできれば、良いんだけどね。

箸休めに使えそうな簡単なスープを追加で作るようにお願いして、ひと段落つけて。
時間になったら揚げ始めて、お昼ご飯を開始するようにお願いして。
厨房を出て時計を見てみれば……結構休むことができそうだ。



「で、こちらにいらした訳ですね」
「ええ。……ひょっとして、予定があったかしら」

それで、やってきたのは図書館だった。
今はパチュリー様がいない。お嬢様につきっきりだから。
そしてお客様はのんびりとしている。私はしばらく呼ばれることはない。

「いえいえ。お部屋、行きましょうか」

彼女はすぐに了承してくれた。
こちらはこちらで、お菓子作りに少し疲れた様子だった。
普段作るより多い量を作ったこともあるのかもしれない。

部屋へとたどり着くと、相変わらず彼女は着替えてくれた。
前開きのパジャマ姿。……私は既に誰とも出会わないのも分かってたから、パジャマでやって来ていた。
欲を言えば着替えるのが手間でメイド服でやってきたかったのだが、匂いに敏感な子がいるのは既に分かっていることで、
今日の場合は特に、パチュリー様にも気づかれないようにしなければならなかったから。

「それじゃ、今日はどういう風にしましょうか」
「……この前みたいに、ゆっくり休みたいの」
「じゃあ灯りは小さくしておきますね」

私が頷くと、彼女もゆっくり頷いて。二人でベッドに腰を下ろし、毛布へと潜った。
相変わらずここは静かな部屋だ。互いの吐息の音こそあれ、お昼なのにしんとした静けさがある。
そして……最近は慣れてきたけれど、いい匂いで。
何より、この暖かさがとてもとても、落ち着くのだ。

「毎度、ごめんね」
「咲夜さんも少しずつ慣れてきましたね」
「そうね。恥ずかしさもまだあるんだけど、それ以上に……心地いいのよ。ここ」

彼女が腕を伸ばしてくれたから、それを枕にさせてもらって。
ゆっくりと背中を預ければ、お腹に彼女の手が回った。
安心してしまったせいもあってか、すぐに眠気がやってきて。

「少し、休ませてね」
「はい。また、お昼に」

目を閉じれば、ぽん、ぽんと。彼女の手がゆっくりとお腹の上でリズムを刻んで。
それに誘われるように、私は意識を手放していった。



~~



「話し合いは落ち着いたかい?」

姉さんやフランドールと話していると、妖精の子が一人やってきて、お昼ご飯の準備が整ったことを伝えに来てくれた。
それから間もなく、近くの部屋に居たらしいレミリアと、パチュリーさんがやってきた。
部屋に入るなりレミリアはそう言いながら部屋の中を進み、姉さんの横の席に腰を下ろした。

「おかげ様で」
「それは何より」

私の代わりに姉さんが答え、レミリアが笑う。
パチュリーさんは持っていた本を誰にも手が届かなそうなテーブルの端へと積み上げると、
そんなレミリアの横に腰を下ろし、それから部屋の中を見渡して……しばらくして納得したように頷くと、一度短いため息を零した。

「どうかしたかね」

レミリアがその様子を見て、話しかける。
当のパチュリーさんは一度レミリアの方を見た後、鼻で笑った。

「咲夜もあの子もいないから、何かしてるのかな……ってそう思ってね」
「お菓子作り、してるんじゃないですか?」

昨日一緒に厨房に居た時のことを思い出してそう言ってみれば、
やはりこちらを見た後、笑って。それからゆっくりと首を横に振りながら、

「まあ、私の方もなんとなく想像はついてるけど……そうねぇ。今日のお昼の紅茶のお供はクッキーになるでしょうね」

そう言って一人納得していた。
……あまり話していないこともあるけれど、このパチュリーさんというのは良く分からない。
前々から、やたら読書が好きな人がこの館に居るというのは噂で聞いていたから、
すぐにこの人のことなんだって分かったけれど……たまにポンと脈絡のない言葉が飛び出してくる。
あの十六夜さんは、勘が鋭いからと警戒し、昨日は厨房に無理矢理引き留めていたから、
恐らくはそういう飛び出してきた言葉は……かなり的を射たものなのだろう。

それから間もなく、お皿や食器を持った妖精の子達がやってきて、
ゆったりと食事の準備が始まって。フランドールのお世話係の子も手伝いながら現れた。
部屋に入ってすぐ、私たちの様子を見てホッとした様で。
彼女は、ここが自分の席だと言わんばかりにフランドールの横に腰かけた。

「無事に終わった……んですよね?」
「うん。もう、だいぶん前にね」

彼女がやってきて落ち着いたのか、フランドールも安心したように笑う。
……本当、皆心配してくれるのね。

やっぱり、羨ましいなぁ。

「それじゃ、頂きましょうか」

結局、咲夜さんと、パチュリーさんのお付きの方は食堂にやってこないままに、お昼ご飯は始まった。
箸で持ち上げても欠片も歪まない程しっかり揚げられたとんかつ。まるで容赦が無いほどの
結構な量のタルタルソースと、濃い茶色のソースが絡まるようにかかってて、甘い匂いがふわふわしてた。
レミリアの一言で食事は始まって……各々気になっていたのか、とんかつへと手を伸ばしていった。
……すごい音だ。今誰が食べているのかハッキリわかってしまうほど、衣の砕ける音がする。

食べる音が凄かったせいか、皆喋ろうとはしなかった。
というか食べてる音がまるで会話の様にさっきからずっと響いてる。
一人でガリガリバリバリ音をさせるのは流石に皆恥ずかしいのか、
皆まるで計ったように手を伸ばす物が一緒だ。
誰かがスープを飲み始めれば、皆も揃って飲み始め、
誰かがご飯に手を伸ばせば、皆もこぞって茶碗を拾う。
そしてまた……バリバリ、ガリガリ。

「……おせんべいにタルタルソースは合うのかな」

ふと、フランドールが呟き……その一瞬、けたたましい音は一度止んで。
フランドールがバリバリと食べ進める中、皆頑張って想像したみたいだ。
私もその一人だけれど……かなり、難しい食べ物だ。醤油味の、でっかい堅揚げなら大丈夫かもしれないけど、
少しでも湿気ってたらあまり美味しくなさそう。

もしもつけるとすれば何があるのだろう。
そう思って記憶の中のありとあらゆるおやつにタルタルソースをぶちまけてみるものの、
何一つ良さそうな組み合わせが浮かんでこない。記憶にあるほとんどが和風のお菓子というのもあるが、
どうにか浮かぶにしてもそれはもうおやつの範囲を超えていて。ただの普通のごはんのおかず。
とても、難しい。

「そもそもおやつにタルタルソースをつけた覚えがないわね」

レミリアが返し、皆が首を縦に振った。

「そっかぁ」

と、その言葉にフランドールもそっけなく返していたけれど……ふと気づく。
恐らく彼女のこの呟きに意味は全く無かったんだ。ただ、そんな僅かな間に彼女はとんかつを素早く食べ進め……
気が付いたときには一人、とんかつを食べきってしまっていた。

衣の音は、未だに衰えず。どうやら皆うすうす感じ始めたみたいだ。
最後までとんかつを残していると、一人だけバリバリする羽目になると。
……そこからは、互いが互いを牽制しあうように食べ進めた。
でも、一口の大きさというものは皆違ったから、だんだんとその差は広がる一方で。
すぐに私と姉さんがフランドールに追いつき、そしてパチュリーさんが追いついて。

残るはレミリアと、フランドールのお世話係の子。
どちらも同じくらいに残っている。自分の食事に夢中で気づかなかったけれど、
いざじっと二人の食べる様子を見ていると……頑張って頬張る姿がほほえましい。
私の隣のフランドールがしている様に、ずっと眺めていたくなる。

「どこぞの音が消せるという妖精を雇いたくなるわね」

……あの子か。三人揃って悪戯好きの。
前に何度か会ったことがある。最初は悪戯をしかけてくる相手だったけれど、
姉さんがあれやこれやと餌付けした後は……まるで無害な子になってしまった。
この館は妖精の子だらけだから、あの子たちを雇っても違和感は無さそうだけれど……あまり素直に働く子達には見えなかったなぁ。

「……そんなに見ないでよ。恥ずかしいじゃないの」

生暖かい視線を身に受けて、レミリアがそう呟いて。でも、お構いなしに衣は相変わらずの音を立てる。
お世話係の子の方はもう、あきらめた様だ。もう覚悟を決めて普通に食事を楽しんでいる。
実際、このとんかつも不味い訳ではない。衣が厚い割には油っこさがそこまで無いし、
衣の固さとは対照的に中の肉は柔らかくて。ソースも非常によく絡む。
日頃はあまりこういう方面の物を食べる機会がないから、とても嬉しいのだ。

「咲夜め」

最後にレミリアがとても小さな声でそう呟いて。
最後の一片を、けたたましく食べていった。



皆で食べ終えた後すぐに、給仕の妖精の子がやってきて。
せっせせっせと台車に食器を載せて帰って行った。

「ところで、話し合いの方はどういう感じになったのか、聞かせてもらえないかな」

と。椅子の背もたれにしっかりと体を預けたレミリアが言ったので、
一緒に話を聞いてもらっていたフランドールが、代わりに説明していった。

「……なるほど」

その説明を聞き終えたところで、レミリアがそう言って首を縦に振った。
それからちらりと、私の方を見つめた。

「つまり、まだあの言葉は言ってないわけだね」

あの言葉、というのは勿論、『姉さん』のことだろう。
心の準備はとうに終わってる。ただ、言う必要がなかったから話し合いの中では使わなかったのだ。
ほとんどが、ねぇ、という言葉で済ませられたから。

「ここで練習と思ってさ。気楽にまずは一言、言ってみてはどうかね」

レミリアの言葉に、フランドールが私の方に手を伸ばし、ぎゅっと手を握る。
とても暖かくて、私も少しだけ握り返すと、彼女の手からゆっくりと力が抜けてった。

「私からもお願いしたいな」

姉さんも、レミリアに続けた。

……ふぅ。

深呼吸すると、まださっきのタルタルソースの匂いがして。
お腹にたまった空気をゆっくりと吐き出すと、頭の中で呟いた。
姉さん。……姉さん。大丈夫。言える。言うんだ。これが新しい一歩目だ。

けれど。

「……ぇ」

私が口を開けると、途端に誰かに首を絞められたように声が出せなくなった。

「……ぅ」

取り繕う言葉すら、言葉にならなかった。
さっと、沈黙が広がって。温かかった部屋の空気が、急に冷たくなったように感じた。
また、言えないままなの?
……だめよ。絶対だめ。絶対に、今取り乱しちゃだめ。
ゆっくり、ゆっくり。落ち着いて、少しだけ息をするんだ。
また前みたいになっちゃだめ。みっともなくたっていい。転んででも前に進まなきゃ。

フランドールの手が、きゅっと締まる。
目を閉じて、自分のペースを崩さないことにだけ専念して。

「大丈夫」

フランドールが、囁く。
そう。大丈夫。大丈夫。大丈夫。……大丈夫。

「……」

出ない。……出ない。
毛布で口元を押さえられたように。首を紐で絞められたように。
心臓を両手で握られたように。苦しくて、体が重い。
言えたじゃないか。昨日は、言えたじゃないか。
確かに姉さんの前じゃなかったけど、言えたじゃないか!

「……大丈夫」

フランドールの手が背中に回って、とん、とんと。ゆっくりリズムを刻む。
壊れそうになる呼吸の流れを何とか保って、ゆっくり息を吸って。……吐いて。
思えば、皆静かに見守ってくれている。視線が集中してそうで、怖くて目は開けないけれど。

私が息を落ち着けると、背中で優しく叩いていた手は止まり、
それからぎゅっと、暖かい感触が片腕と体を包んだ。

「大丈夫だよ」

前から、思ってた。フランドールは、隠し事が下手だ。
それはきっと、今まで必要が無かったからなのだろうけれど、どうしようもなく、下手だ。
大丈夫だと言ってくれる声は普通でも、寄せてくれた体は震え、高鳴る鼓動だって感じる。

でも。

大丈夫だって言ってくれる。それは、取り繕いの言葉で言ってるんじゃない。
この子自身が、不安でもそう信じてくれているから……言っているんだ。

目を開ける。顔を上げれば、皆が見ていた。
姉さんも、見てた。私が目を開けたせいか、皆緊張して息の音が静まって。
時計の音が一番うるさく感じる程に静かになった。
深呼吸して、ゆっくりとお腹の中身を吐き出して。

「う、うんと。……よし」

昔に比べたら、顔を見て喋られる分、ずっとずっと先に進んだのだ。
そして姉さんも、私のことを見て不安に耐えられるようになったのだ。
だから、大丈夫。もう、大丈夫。

「これからもよろしくね。……姉さん」

……言えた、はず。皆ただ何も言わず、私の方から姉さんの方へと視線を動かしたから、
ちゃんと、言葉にはなっていたはず。聞こえて、いたはず。
……ああ。やっと、終わったんだ。言わないと誓ったあの日から今日これまで背負い続けてきたもの。
やっと、置けるんだ。ホッと胸をなでおろすと、私を抱いていたくれた手が一度ぎゅっと締まった後、ゆっくりと離れていった。

「私からも、よろしくね。穣子」
「よし、これにて一件落着。……こういう時に咲夜がケーキをさっと出してくれれば良いんだが……一体お昼から何してるんだろう」

安心してか、愉快そうに笑うレミリア。
皆が皆、改めて体を背もたれに預けて。ひとしきり笑ったところでレミリアもぎしりと椅子を鳴らした。



~~



咲夜さんをからかうのは楽しい。
結構火が付きやすい割には冷めにくくて、それでいて手玉にし易くて。
本人にこんなことを言ってしまうと必ず大目玉を食らうのだけれど……そんな咲夜さんだからか、妖精の子達の信頼が厚いのだろう。

けれど。

変な方面でからかってはいけないのもまた、咲夜さんだったりする。
咲夜さんは考え込んでしまう。自力で解決できそうならその糸口をずっと探そうとする。
恐らくそれが災いしているのだろう。咲夜さんは、中途半端なことがない。
限りなく100に近いか、限りなく0に近いか。とても極端だった。

私はそれを勿論知っているはずだった。
先日の唇の一件があったから。そもそもこうやって添い寝をしたりするようになったのも、その一件があったからだ。
咲夜さんは抱き合うであるとか、そういう二人きりでの触れ合いとか。そういう所があまり強くない。
だからこそ、咲夜さんも治したいと思ってこういう場を望み、臨んでいる。真剣に。

そう。真剣だった。最初はとても緊張してて、あまり喋ろうともしなかった。
でも、最近は少し慣れてきてくれたのか、普段なら聞けないようなことをぽろりぽろりと話してくれる。
咲夜さんにしては珍しい、本当に取り留めもないことも多いのだけれど……聞いていると、どことなく安心するものだった。

そんな咲夜さんが振ってくれる小さな話題。
今日は……今朝見たこと、だった。

『お嬢様とお客様が裸でベッドに居たの』

と。とても小さな声で呟いた。
朝会った時には取り乱していた様子はなかったから、流石に行為中では無かったのだろう。
恐らくは本当に裸でいたところを見ただけ、なんだと思う。
きっと、忙しかったから今までそんなことを考える余裕がなかったのだろうけれど、
こうやって体をベッドに預けきってしまったからか、思い返していたらしい咲夜さんは、その後恥ずかしそうに毛布を引き上げてた。

『あれって、きっと。あれなのよね?』

咲夜さんの言葉に頷いて。
私がじっと咲夜さんの顔を覗き込んだら、咲夜さんは逃げる様に顔を背けた。

『ご興味があるのでしたら、少しステップアップしますか』

と。私が半分冗談で声をかけると……咲夜さんは、じっとじっと考え込んで。
暗い天井を見上げ返事を待っていると、彼女はこちらに向き直った後、指を一本だけ立てた。

『パチュリー様や、貴女を好きな妖精の子が許してくれる範囲で……教えてほしい』

そう言って、私に体を寄せたのだった。



私はしばらく、寝そべった咲夜さんの背中を引き寄せて、後ろから抱きしめていた。
これは前々から何度かやっていることで、最初の頃に比べて咲夜さんもずいぶんと落ち着いている。
抱き寄せていた手は今はお腹の上にあり、暖かさを私の腕を通して伝えてくれていた。

「咲夜さん」
「うん」
「心や体の触れ合い方は人それぞれだから、私は私の思うようにしか教えられませんが、それは良いですか」
「勿論。それを受け取る私だって、私の受け取れるようにしか受け取れないからね」

咲夜さんが寝返りを打ち、私の前に顔を見せた。
私が笑うと少し顔を赤くしたが、咲夜さんも笑った。

毛布の中で咲夜さんの肩からゆっくりと辿り、手の甲へと指を這わせる。
衣服越しではあるけれど、ここに筋肉があるんだな、とか。ここが柔らかいんだな、とか。
そういうのはとても分かりやすい。緊張もあるせいか、時折きゅっとなる。
触れた手を拾い、両手で包んで。胸の中へと引き寄せた。
咲夜さんの手が一気に強張って、ちょっぴり冷たくなったけれど……すぐに温かさが戻ってくる。

「私の鼓動は、感じられますか」
「うん。……いつも、いつも。貴女のはゆっくりしてるのね」
「そうでもないですよ。日頃はもうちょっとだけ、ゆっくりなんです」
「……そうなんだ。私はこの位の早さでしか、知らないわね」
「私が先に眠ってしまったら分かるかもしれませんね」

言葉を返しながら、握る手を少しだけ緩めた。
相変わらず咲夜さんの手は、私の胸の上。

「私は、よくパチュリー様と肌を重ねてます。それはもう、色んな意味で。
咲夜さんが今朝見た、お嬢様達が昨晩していたのであろうことも含めてです。それ以外にも、普通に一緒に眠ったり。
看病だったり。そして、ただただ触れたいときだったり。触れるていると色んなことがわかるんです。
例えば、知らない誰かが作った初めて見る料理。食材や香り、見た目でどんな味かを想像することはできます。
でも、本当に味を知ることができるのは、口に運んだ後のこと」
「百聞は一見に如かず、みたいなものかしらね」
「そうですね。そして大事なのはその次です。……一度そうやって味を確かめると、
もしも次に同じ人が同じ料理を作ったとき。初めのときよりももっともっと正確に味は推測できますし、
食べれば以前との違いが分かります。小さな変化に気づいていける様になるんです」

私が手を放すと、胸の上に載ったままだった手はゆっくりと離れ……毛布の端をちょっぴり引っ張り上げた。

「私は、そういう変化を見つけるのが好きなんです。書かれた内容自体は決して変わることのない本の山の中で働いているからかもしれません。
好きな人が花ならば、そういう変化は漂う風みたいなもので。色んなことを、その時その時で私に教えてくれるから」

咲夜さんが目を閉じたままゆっくりと頷いて。それから、不思議そうに尋ねた。

「じゃあ、なんで裸になるの?」
「ごもっともです。……そういう時は、実践してみましょう」

咲夜さんの言葉に答えながら、ぷちぷちと自分の服のボタンを外していと、。咲夜さんの顔がまた赤くなっていった。
でも、そんな咲夜さんはほっといて、とりあえず上に着ていたものだけを脱いでいって。
それからじっと見つめていると……咲夜さんも観念したのか、そそくさと服を脱いで。
やはり裸は見られたくないのか、毛布を頑なに肩口まで引っ張ったまま、じっと私を見上げた。

「お風呂場で何度かお会いしてるんですから」
「場所が変われば感じるものも変わるわよ」
「……その通りです。それ、すごく大事なことだと思うんです。お風呂で脱いでいるのは、そうせざるを得ないから。
でも、ベッドは違う。脱げば脱いだだけ、お体に障ります。特に今の季節なら、尚更です」
「それでも脱ぐ訳は……私も、少し知ってるのかもしれない」

私の言葉に小さくうなずきながら、咲夜さんがころんと仰向けになって天井を見上げた。

「この前、妖精の子と一緒にお風呂に入ったとき」
「熱いキスを交わしたと」
「う、うん。その時のことなんだけどね。ぎゅーっとされて心地よかったんだ。私が始めたのか、彼女が始めたのか。
今となっては不思議と覚えてないんだけど、それが普通だと思うくらいに、ぎゅっとしてたの。
あの時感じていた私の心地よさを、彼女も感じていたんだろうかって。そう思うと、少し嬉しくて。ちょっとホッとした」
「ホッとした、とは?」
「今のその瞬間だけは、皆と一緒の時間を過ごしてる気がしたから、なのかしらね」

……私が伝える必要なんて、無かったのかもしれない。

寝そべった咲夜さんに近寄ると、恥ずかしさか背中を向けられてしまって。
その背中にゆっくりと抱き着いた。……顔はあんなに赤いのに、肩から先はとても冷たい。
足も、私と同じ体温なのは太もも位までだ。

「あったかいわ」
「私が言いたかったことは分かってるみたいなので、今日はこの辺にしておきましょうか」
「……そうね。ねぇ、このまま眠ってもいいかしら」
「良いですとも。それが元々の目的なのですから。ゆっくり、お休みくださいな」

そう言って、体を重ねたまま目を閉じて。
段々と温かさを取り戻してくる体を抱きしめていると、急に咲夜さんが飛び起きた。
思い切り顔を押さえて、あたふたと何かを探してる。

「どうなされたので?」
「……鼻血出てきた」

そう言って振り返る咲夜さん。部屋の明かりを小さくしていたからあまりよく見えなかったけれど、
顔を押さえる手の平を伝い、手首の辺りが赤く濡れていた。
とりあえず何か拭く物は、と思ったけれど、近くにあったのは私達の脱いだ衣服のみ。
パチュリー様の部屋ならタオルを常備しているのだけれど……。

とりあえずとばかりに私の上着を渡すと、咲夜さんは首を振って、
結局自分の持ち込んでいた着替えのエプロンに突っ込んでいった。
……見た感じ、血が止まっていない。

「大丈夫です?」

はだけた肌に私の上着をひっかけて、クローゼットを漁りハンカチを取って。
未だにエプロンを顔に押し当てる咲夜さんに手渡した。

「ごめんね、後でちゃんと洗うから」
「気にしないで。……それより、止まりそうですか?」

部屋を少しだけ明るくしてそう尋ねると、咲夜さんは渡したハンカチの様子を確かめつつ頷いた。
ハンカチを押さえる手は、肘近くまで垂れた血が痕になっている。

「普段から出やすいのですか?」

私の言葉に咲夜さんは首を横に振り、空いた手で垂れた血を拭きながら、ゆっくりと背中を丸めた。

「気持ち良かったから、かな。気分が舞い上がってたの」
「……えっち」

そういうと咲夜さんは目を丸くして、固まった。
適当に笑って流してくれれば良かったのだけれど……しばらく咲夜さんは考え込んだ後、ゆっくりと顔を縦に振った。

「そうね。そうなのかも。……私は、知りたいもの。理解したいもの。
私が知らないでいたこと。その一つ一つを、ちゃんと理解して行きたい」

そう呟いたかと思うと、ふっと咲夜さんの姿が消え……またすぐ現れた。
顔を洗ってきた様だ。一応、止まったらしい。私の上着は……少し汚れてしまったようだ。

「もしもシミになってしまったら、頑張って新しいのを用意するわね」
「お気になさらず。まずはゆっくり休みましょう。……慣れるのも大切ですからね?」
「うん。……とりあえず毛布が気持ち良いから、このままの姿で休んでみたい。寒かったらくっつくかもしれないけど、そのときは、お願いね」
「勿論ですとも。ただ、私も寒かったら勝手にそちらに行きますので」

咲夜さんが頷いて、完全に頭をベッドに預けたのを確認し、また部屋を暗くした。
気を落ち着けようとしてたのか、とても規則的な長い呼吸を繰り返してて。
やがてそれも落ち着くと、毛布の裾を口元まで上げて、目を閉じていった。

私はただただ、じっと咲夜さんの方を眺めてて。
呼吸がいつもの寝息になったところで、そっと体を包んだのだった。



~~



穣子嬢が取り乱したときは、さっと背中に冷や汗が流れた。
……結果は無事だったんだけれど、落ち着いて背もたれに体を預ければ、あまり心地よくない感触が広がって。
思わずため息を吐いてしまった。咲夜なら、こういう時を好んでお菓子を出しに来るのがいつものことなのだが……
今日はどうやら様子が違うらしい。そういえば門の方に行くと言っていたか。結局あれは……無事に解決したのだろうか。
私がパチェの膝の上で目を覚ました時、咲夜に会ったと言っていたが、様子がおかしいとは一言も言わなかったから、
恐らく無事に事が運んでいるのだと思う。



結局咲夜が慌ててお茶とともにやってきたのは、お昼の休憩もひと段落し、二杯目の紅茶を妖精の子達にお願いした頃だった。
時間で見れば、昼食よりも夕食の方が近いであろう。何をしていたのかは言わなかったが……
後ろ髪がやや乱れ、その割には服は整っている。恐らく眠っていたのだろう。
昨晩は何かあっただろうか。……自分がしていたことは覚えているのだが、あまり部屋の外のことは分かっていない。

咲夜が持ってきたのはクッキーだった。
しっかりと焼かれ、全体は白い肌を見せているが角はやや茶色い。
甘さは控えめで、口の中の水分をすっと奪っていくのもあって、
紅茶を飲むのには丁度良かった。

「今夜の食事は何かな」

部屋の隅に佇む咲夜に尋ねると、一度首をかしげて微笑んだ。

「……初めてのものなので、出来次第ですわ」
「ヒントは?」

私の言葉に何故かパチェが反応する。

「鍋ね」

部屋中の皆がパチェを見つめたが、パチェは一度顔を上げた後、すぐに読んでいた本へと視線を落とした。

「……その予定です」

パチェが頷き、そして咲夜が頷いて。
静葉嬢がその様子を見て、くすくすと笑う。
穣子嬢も静葉嬢も、あの言葉を言い終えた後は、とても穏やかな様子だ。
お風呂で言うならのぼせるちょっと手前位の、ややぼーっとした感じもちょっとある。
色々気張っていたものがやっとひと段落ついて、その余韻の中なのだろう。
特に穣子嬢の方は、

「……ふぁ」

欠伸が出ている。そういえば少し朝が早かったとも聞いた。

「今日一番やらなきゃいけないことはこれで終わった訳だから、もう少し落ち着ける場所に行きましょうか」

そう言うと咲夜が頷いて、ふっと消えて。
……しばらくして戻ってきた。

「どうぞ皆様、応接室へ」



館の中をぞろぞろと歩く、というのは、思えばかなり久しい。
妖精の子達がそうしているのを見るのは多いのだが、
私の場合は精々、咲夜やパチェ位なもんだ。

部屋へ着くと、少しだけ家具の配置が変わり、珍しく火の点いた暖炉へとソファが向いていた。
点けたばかりとあって部屋はまだそこまで暖かくなかったが、
ソファの周りはほんの少しだけ懐かしい感覚に包まれていた。

「眠っちゃいそうね」

私はパチェと静葉嬢に、フランは穣子嬢とお世話の子に挟まれて、お互いのソファに腰をかけた。

「そうすると良いさ」

私の言葉に全員が頷き、咲夜は毛布を取り出して。
皆が胸元まで体を包めると、途端に部屋は静かになった。
誰もかれもが目を閉じて、ただ、暖炉の中で時折響くパチパチという音だけを聞いて。
気が付けば咲夜は居なくなり、部屋の明かりも、数が減っていった。
流石の本の虫のパチェも……読んでいた本を畳むと、そっと近くのテーブルへと置いて。
膝を丸めて小さくなると、その膝に顔を載せて少し長い息を吐いた。

一足先にお昼寝をしていた私と違い、皆ずっと緊張していたのだろう。
穣子嬢の息が寝息に変わったかと思えば、フラン、静葉嬢。そしてパチェも眠ってしまって。
独りになった部屋の中で、私はずっと炎を眺めていた。

応接室なんてめったに使わないし、ましてやこの部屋の暖炉を使う機会なんてほとんど無いのに。
なのに、この炎はなんだか最近よく見ている気がする。部屋の蝋燭なんかじゃない。
もっともっと、大きな炎。何処だっただろうかと記憶を巡れば、すぐに答えは見つかった。
門の詰所だ。なんだかんだ、最近はあそこに行く機会が増えていた気がする。
結局、朝の一件はどうなったんだろう。咲夜は何も報告してくれなかったが、無事に解決したのよね?

ぼーっと門の子たちのことを考えていると、肩口に暖かいものが触れた。
ちらりと見てみれば、眠ってしまった静葉嬢の体が傾いて、頭が私の肩に載っている。
……穏やかな顔だ。昨日は寒い寒いと言っていたけれど、今は、暖かいのだろうか。
今夜また改めて、尋ねてみることにしよう。



~~



「……これ、レタスですか?」

厨房の机にメイドの子達を揃えて、試作品のお披露目。
皆が皆、鍋の中身を覗き込んだ後、目を細めて。一人の子が私を見上げながら、そう言った。
私もこの前やってきた魔女二人組に聞いたときは、同じような反応をした気がする。

「そう。レタス。ほぼ白菜の代わりよ。他はそうね……食べてみましょ。とりあえず」

妖精の子達に返しながら、味見用の取り皿に皆の分を分けていく。
……もちろん自分の分もある。私自身初めての試みだから。

私が配り終えると、皆は手を合わせ、食べ始めた。
皆黙っていたが、白菜と違って食感の独特なレタスだからか、繊維を噛む音が少し聞こえる。
私も、一口。……葉は、良い。

「これ、太い茎は外したほうが良いと思います」
「タレは胡麻とか、おろしのポン酢、そのまま鍋のお汁でも良さそうですね」
「もうちょっと葉を煮込んだ方が」

いろんな意見が飛び交う。大体は同意見だ。
特に茎は……好き嫌いがはっきりしそう。味がそれなりに浸みてはいるものの、
大きい部分は噛みしめていくとレタスの主張がどんどん強くなっていく。
歯ごたえとしては面白いのだが、それ自体は小さ目の茎の部分だけで十分に得られそう。

「小さ目のレタスにしたほうが良いかもね」
「根本でばっさり切って、八等分くらいにして葉を解かずに丸ごと突っ込んで見ても良いんじゃないですか?」

そういうのもありか。



一通り、皆の意見が出揃った所で、時間を止めて試作品二つ目を作る。
とりあえず皆の意見を取り入れられるだけ取り入れてみた。
食べる側にとっては、味と見た目、香りに食感が揃えば食べる子は喜ぶが、この子たちはそれだけじゃない。
作りやすさもとても重要なのだ。いかに面倒を見ずに良いものを作るか。それが、結構前提にある。
勿論、面倒なものは面倒なもので仕込みもこの子たちは楽しくこなすけれど、
今回の品は初めてのものだ。……恐らく、全員に食べてもらった際にはそれこそもっといろんな意見が飛び交うだろうから。
だから今は、出来る限り簡素な方が良い。

二作目は、概ね好評だったけれど、

「もうちょっとパンチが欲しい」

とのことで。
これは、おろした生姜を少しお鍋に加えることで皆の合意を得た。



「……以上が作り方ね。それじゃ、調理開始ね」

レタスを用いること以外はほとんど和風だしの豚のお鍋だったこともあって、
皆すんなりと作り方は覚えてくれて。私が指示を出すと、皆が皆役割を決めてバラバラに分かれ始めた。
私もそんな輪の中に加わって、今日はみんなと一緒に調理。
皆がしたがらない水仕事を一つ一つこなしながら、ゆっくりと作っていった。

たまに時間を止めてちらりちらりと応接室の様子を窺うと、お嬢様だけは、薄目ながらじっと炎を見つめてて。
他は皆眠りについていた。……お客様達は相当、溜まっていた疲れが出ていた様子で。
二人とも頭や体を隣に預け、僅かに唇を開いたまま眠っている。
私が部屋を出たころに比べるとかなり炎は小さくなっていて。一応、薪を新たに足しておいた。



お夕飯の準備が整う頃には、厨房は随分と暖かく……というか、暑くなった。
お鍋自体に蓋はしてあるものの、立ち昇る湯気が少しだけ部屋の中を白くしている。
妖精の子たちも袖を捲り、鼻の頭に浮かぶ玉の様な汗をエプロンの端で拭って、
ひと段落つく度に窓際の風通しの良い場所で涼んでいた。

「そろそろ皆を呼んできましょうか」

頃合いを見計らって私が声をかければ、
皆合わせて返事をしたもののかなりお疲れの様で、ため息も交じって聞こえた。

廊下へと出ると、風は吹いていないものの、肌を撫でる空気が心地よさを通り過ぎて寒い位で。
ハンカチを取り出し、顔と首元を拭いながら、仕事の終わった妖精の子たちを探していく。
見つけた先から夕食のことを伝えるようにお願いして、私自身も1階から屋上まで、そして外へと伝えていった。
嗅覚が鋭いというか、今日は厨房の換気をしながらだったこともあってか、
お鍋だということ自体は既に皆に知れ渡っていた様子だった。

全ての妖精の子達に知らせた後で、厨房へと戻って。
随分と減ったお鍋の量に驚きながらも、お客様達のために分けておいたお鍋を手早く台車へと載せていく。
すると、一人の妖精の子が私の方に台車を持って駆け寄ってきた。

「図書館へ運ぶ分はどちらでしょうか」

図書館の給仕係の子。今日はパチュリー様はお客様達と一緒で……
でも、ああ。思い出してみれば、今図書館にはあの子一人だけがいる。
私が抜け出してきた時にはぐっすりと眠っていた様子だったから、恐らくは今も眠っているはずで。
……今日くらいは、多少のイレギュラーがあっても良いだろう。もともとお鍋も二人分ずつ作ってる。

「じゃあ、このお鍋をお願い。パチュリー様はお客様とお夕飯だから、これは貴女とあの子で食べて頂戴」

私がそう言うと、彼女がパッと顔を明るくして、もそもそと棚を漁り始めた。
……お茶の道具みたい。ここ最近はパチュリー様もあの子も図書館で食べないことがあったからか、
楽しめるだけ楽しもうとしている様だ。ちゃんとカップは3つあるみたいだけど。

「行ってきますね!」
「ええ。熱いから、気を付けてね」

相変わらず事故を起こしそうな速さで彼女は廊下へと飛び出していって。
それを見送った後で、私も台車を運び出したのだった。

小食堂の準備を整え応接室へと入ると、暖かさはまだ残っていたものの、炎はほとんど消えかかっていて。
ドアの音に気付いてか、お嬢様だけが首をひねってこちらを見た。

『できた?』

と、声に出さずに口だけ動かして、お嬢様が笑って。
私が頷くと、お嬢様も頷いて、両脇の二人を起こしていた。
……脇の二人から頭を預けられていた様で、身動きがとれなかった様だった。

「うん?」

先にパチュリー様が気づき、そして静葉さん。衣擦れの音に気付いて、妹様に穣子さんもゆっくりと上半身を起こした。
肩が軽くなったからなのか、お嬢様は両手をあげてグッと伸びをすると、ゆっくりと立ち上がって。

「お夕飯の準備ができたから、食べようじゃないか」

と、皆を促した。



私が先導させてもらい、ドアを開けて。
皆を小食堂へと招き入れると、お嬢様だけが廊下で立ち止まって。それから、私を手招きした。
何事かと思って身をかがめれば、

「門の子たちは大丈夫かね」

そう短く小さな声で聞かれ、ずっと報告してなかったことを思い出して。
手で小さく丸を作ると、

「そうか」

そう言って笑い、部屋の中へと入って行った。

私がドアを閉めるころには席順が決まった様で、
お嬢様と妹様がそれぞれ対面する形で真ん中となり、お嬢様の隣にパチュリー様と静葉さん。
妹様の隣にお世話係の子と、穣子さんが腰を下ろしていた。
私が3つ用意していた鍋の蓋を取り去ると、皆が一様に鍋を覗き込んだ。
普段のお鍋に比べて、ネギとは全く違う方面で緑色が強く出ていることもあり、
メインであるレタスにはすぐ気づいて貰えたようだ。

「作れるという話は聞いたことあったんですけど、試したことは無かったんですよね、これ」

静葉さんが腰を落ち着けながらそう言って、

「誰から聞いたんだっけその話」

覚えがあるらしい穣子さんが、その言葉に返事をしていた。
二人とも頭を抱え……しばらくして静葉さんが手を打った。

「あの白黒の……魔理沙ね」
「そうだ。宴会のときにそういう話をしたんだっけ」

……どうやら私の情報源と彼女たちの情報源は同じ様子。
あの子が作るお鍋ものはそれなりに評価があるからか、
改めてこの話を聞いてみると、ほんの少し安心感が湧いてくる。

「魔理沙さんのレシピではないですが、レタスの良さが簡潔に分かるように、厨房の子たち皆で考えたお料理となっております」
「豚肉の消費は、いい感じなのかしら」
「ええ。館のみんなの協力もあって、もうこれから先は急いで食べに走る必要はございません。
少しずつ、お魚や他のお肉を増やす予定ですので、ご安心ください」



食事が始まり、私は飲み物の瓶を携えて食べる様子を見守っていたのだが、
やはり気になるのはレタスの様で、とりあえずとばかりに芯の部分を皆ひょいひょいと拾っている。
最初口に運んだのはお嬢様。近い筋張った芯を噛みしめたとき、
レタス特有の苦さを感じたのか、きゅっと目元に皺が入った。

私が味見で食べたときは、筋を頬張ると吸い上げていたお汁が
じゅんと溢れてくるのがたまらなくて。同じ気持ちになって貰えたのか、口いっぱいにレタスを運んだあと、

「白菜とはまた違うね」

妹様がそう言って笑った。

「すっきりしたお鍋ね。静かな夜の屋外で、ちょっと場所を設けて食べたりする分にはきっと合うんじゃないかしら」

お嬢様も合わせて、そう言って。
アツアツの大きな豆腐をちょこちょこと箸で割りながら、口へと運んでいた。

「お天気の良い夜中に美味しいお鍋をわいわいと食べて、近くの温泉で汗を流してそれから帰る、みたいなさ……いつか、そういうことがしてみたいね」
「もしもそういうことで山をご使用になる際はぜひ一度、呼んでください。
山の中にいろいろと融通が利く知り合いがいるので、お願いしてみますから」

お嬢様が漏らした言葉に、静葉さんが笑う。
温泉か。私も好きといえば好きなのだけれど、お外で裸は……ちょっと考えられない。
どうせならこの館の敷地の中にあればいいのになって思う。そしたら、仕切りだって何だって自由にできるから。

「あの」

ふと、妹様のお世話係の子が、箸を置いてお客さんの方を見つめた。

「いつかお嬢様を連れて綺麗なものを見て回りたいのですが、もし、もしよかったら。お力添えをお願いできませんか」

……デートか。妹様は本当に言葉通りに受け取った様で、恥ずかしがる様子もなく嬉しそうな顔を浮かべて。
それを見た穣子さんが何度か頷いた後、

「是非とも」

と。そう笑って返していた。



皆が一通り鍋の中身を食べ終えたところで、
少し冷やしたご飯を入れて、ゆっくりと解していって。
ちらりとパチュリー様を見れば、面倒くさそうではあったものの、ふわっとお鍋が熱を持った。

「漬物も、お雑炊も、お味噌汁も。浸みこませて食べる料理って、和食には多いんだね」

和食は確かにその傾向が強いかもしれない。
洋食でも、ソースなんかに色々と溶きこんでいくことはあるのだが、
あれは、合わせて食べるのが主な用途で。浸みこませて食べる料理というのは、
普段目にしている料理の中では確かに少ないのかもしれない。

「出汁を取るっていう文化も、結構珍しいかもしれないわね」

静葉さんが呟き、それは私も思うところがあった。
この館はいろんな子がいるお陰で、沢山の種類の料理が並ぶ機会がある。
同じ料理にも好き嫌いを持ってたりするので色々味を変えては出したりすることがあるのだが、
調理担当の子達の中にも出汁を作る習慣の無い子は多かったのだ。

出汁を作る習慣ができるその要因は、皆様々だった気がする。
お味噌汁が好きだった、炊き込みご飯が好きだった、
おでんが好きだった、てんぷらが好きだった。
皆そういう、好きなものから入っていった覚えがある。
一番影響が大きかった料理は何だろう。揚げ豆腐だろうか。
ひたひたになるほどに浸かりきった衣。舌に載せるだけで溢れる甘い味。

豆腐は良い。調子を崩していても食べやすいし、料理する側の手間も少ない。
それに、竹林の薬師もそれなりに健康に良いと言っていた。

「洋食で漬けるといったら何でしょう」

ふとあがった静葉嬢の質問に、パッと記憶を辿ったか、
私が答えるよりも先に、パチュリー様が答えた。

「果物を入れたブランデーとかが近いかもね」
「オリーブも結構やるわね」

続けてお嬢様が答える。煮込む料理はスープ系をはじめ、沢山あるのだが、
冷やしながら浸みこませるものというのは、やや少ない。
館ではブランデーもオリーブ漬けも作るけれど、消費量はそこまで大量でもなかったりする。
妖精の子の中にもとんでもなくお酒を飲める子もいるけれど、そもそもの体格が私よりも小さいから……。

出来上がってきた雑炊を、ちびりちびりと止めた世界の中で味見して、
少しずつ味を整えていく。思いのほか、豚の脂がかなり溶け出していて、
お饂飩のほうが良かったのではないかとも思ったけれど……今更どうしようもない。次の機会に試すことにしよう。

配り終えると、皆お椀を手に取って……置いた。
やはりというか、とても熱いのは分かっているようだ。
……ただ、お客様二人だけは、そのまま食べ進めている。

「火傷しないの?」

お嬢様が不安そうに尋ね、静葉嬢が笑う。

「慣れちゃった、かな。昔から、熱々のものを食べたり飲んだりする機会が多かったから」
「……いや、そういう慣れとかで片付けられそうに無いくらい熱そうだけど」

雑炊を箸で掬ったお嬢様が、立ち昇る湯気に顔を引きつつ呟く。
今はどのぐらいの熱さだろう。熱々の玉ねぎよりマシで、チーズよりキツい位だろうか。
もう少量なら、少し息を吹きかければ何とかなりそう。
……ただ、お客様二人が全く息も吹きかけずに食べているからか、誰もそういう行動を取れずにいて。
皆、各々の箸の中をただただじっと眺め続けていた。

部屋の隅でその様子を眺めていると……意外にも一口目を食べたのは妹様だった。
まだまだ湯気を見るには早いと思う位だったが、待ちきれない様子で。
既に隣の穣子さんが半分近く食べてしまったのも影響したのだろうけれど、
一度長い息で冷ました後、すっと口に運んだのだった。

ぐっと眉間に寄った皺。口元に添えられた手。
手の脇からふっと現れては消える湯気。
火傷しそうなほど熱そうだけれど、どうやら我慢はできる程度の熱さの様で。
しばらく眉間に皺を寄せたまま食べていたかと思うと、
周りに聞こえる程の音を立てて飲み込み……湯気交じりのため息を吐いた。

「……熱かった」

ぼそりと呟く。言わずとも周りの見守っていた皆は理解していたことだろう。

「火傷したら味を楽しめないわよ」

お嬢様が返事をしたが……妹様はしばらくして、首を傾げた。

「そうなんだけどさ、何て言えばいいのかな。凄く、新鮮な感じがするの」

そう言って、隣に居たお世話係の子が頷く。

「厨房から地下のお部屋までだと、急いで運んでも運んでいる内に冷めちゃいますからね」
「うん。たまにかなり熱いのもあったんだけど、アツアツって、珍しくて。だから、楽しめるなら楽しめるだけ楽しんでみたいなって。そう思うんだ」

……そうだったのか。確かに、そうだ。その通りだ。
地下のお部屋と厨房の間には結構な距離がある。
どんなに急いだって、運んでいくうちに冷めてしまう。
私が時を止めたとしても、私が運ぶのなら結果はやっぱり同じ。

どうして今まで考えなかったんだろう。
いや、考えようとしなかったんだろう。
私は妖精の子達を引っ張っていかないといけないのに。

「まあ、貴女が良いならそれで良いわ。しばらくしたら珍しいものでも無くなるのだし。ね、咲夜?」

私の顔を見たお嬢様はそう言ってくれたけれど、
私はただただ、笑い返すことしかできなかった。



お鍋の中身がすっかり空っぽになると、皆背もたれへと体を預けて長いため息を吐いた。
お夕飯の前に少し眠っていたとはいえ、溜まっている疲れがあるのだろう。
既に用意済みのお風呂のことを伝えると、皆少し顔が綻んで、部屋を出ていった。

貸切のプレートを大浴場のドアに提げ、食べ終わった食器を持って厨房へと戻れば、
既に皆洗い物を始めていて、お鍋がこれでもかと積みあがっていた。

「お疲れ様」
「お疲れ様です」

まだ洗い途中のお鍋を見てみれば……綺麗に食べられているものの、所々麺の姿が見える。
こっちは雑炊と饂飩、両方用意していたようだ。

「強い要望があったので」

私の視線に気づいてか、お鍋を運んでいた子が笑う。
初めての料理であったけれど、楽しんで貰えたのなら何よりだ。

私も水仕事に加わってしばらくして、廊下から台車の音がして。
少しして図書館の給仕係の子が、入ってきた。
きっとパチュリー様が着替えを取りに戻ったから、お開きとなってしまったのだろう。ちらりと私の方を見ると、

「あともうちょっとだけ、時間欲しかったです」

と。満足さも不満さも両方入ったそんな顔で、彼女は笑った。



~~



久方ぶりに利用した大浴場。
普段の自室の浴槽に比べたら、これでもかというほどに大きいが、
掃除の手間を考えるとぞっとする大きさでもある。
流水が苦手な私やフランにとってはとてつもない苦痛だけあって、
そういうのを代行してくれる妖精の子が居ることには本当に頭が下がる。

「今日はゆっくり眠れそうね」

パチェが呟き、皆が頷いた。
皆、体を洗い終えて浴槽へとその身を預けてからは、
ほっとんど動こうとしなかった。

「そうだ、レミリアさん」

ふと名前を呼ばれ、天井から視線を下げれば、
穣子嬢が私の方をじっと見ていた。

「お借りしている部屋の暖炉なんですけど……あれ、使っても良いですか?」

……ああ、そうか。客間にはあるんだったな。あれ。
私の部屋は防犯上の理由でついていなんだけど。

「構わないよ。ただ、準備とかは妖精の子達に頼んでおくれ。火を使うからね」
「ありがとう。……初めて今日暖炉を利用しましたけど、とても良いですね。炬燵とはまた違う良さがあって」
「そうね。不思議と、じっと見ていられるのよね。あれ」
「私はさっき眠ってしまいましたが……そうですね。私もそう思います」
「寝っ転がりやすいラグや厚手の毛布なんかも言えば用意させるから。遠慮なく」
「何から、何まで」
「良い良い。道具は使ってこそのものだからね。必要ならマッサージ係として妖精の子を捕まえても良い」

私の言葉に一度会話が途切れ、
誰が発したかわからないやや間延びしたため息の音が、浴場の中を包んだ。

……本当に皆、お疲れの様だ。
明日の朝は少しだけ、遅めに起こして貰うように咲夜にお願いしておかなければ。
少なくとも、今日の様にはならないようにしておきたい。……そうだ。

「なあ、パチェ」
「うん?」
「頼んでいたあれ、後でお願いね」
「……あぁ、あれね」

私の言葉に返すなり、パッとパチェの手が光って。
……かけられたようだ。もうちょっと、こう。皆に見えないところでやってほしかったのだけど。

「今のは?」

フランのお世話係の子が、首を傾げてそう言った。

「そうね。血行がよくなるお呪いみたいなものかしら」
「良いですね、私も欲しいです!」

そう言うとパチェは笑って、また同じ光を放った。
お世話係の子は……しばらく足を曲げ伸ばししていたが、首を傾げていた。

「あまり、分からないです」
「あくまでもお呪いだからね。明日の朝には消えちゃう位、簡単なものだから。
さて、長風呂は体が余計に疲れちゃうし、私はお先に上がるわね」

そう言ってパチェが立ち上がり、横のお付きの子も立ち上がり。
……結局、皆立ち上がって、浴室を出ることになった。

脱衣所へと出ると、咲夜が用意してくれていたのか、人数分のコップと、
なみなみと牛乳の入った大きなボトルが1つ置かれていた。
瓶の周りには水滴がびっしりと張り付き、どうやらかなり冷えているようだ。

「こういうの、久しぶりです」

静葉嬢がボトルを一撫でし、その冷たさに眉を跳ね上がらせたが、
それでもちょっと嬉しそうで、さっそくとばかりに一杯注いで飲んでいた。

「これは、たまらないですね」

体をきゅーっと縮めながら、静葉嬢はそう言って、すぐに一杯を空にした。
けれども、流石に冷えることが頭に過ったらしい。
急いで体を拭き始め、楽しそうに衣服に袖を通しに行っていた。



皆着替え終えた後。髪はまだ拭ききらないままだったが、皆で並んでグラスを傾けた。
……すごく冷たい。直前まで雪の中にでも突っ込んでいたのかと思うほど冷たくて、
頭の片隅でウォーミングアップしていた睡魔が、驚いて逃げていく程だった。

「スッキリするね」

フランもそう漏らし、グラスの中身を空にして。
近くの椅子へと腰を下ろすと、余っていたタオルで髪の毛を拭き始めた。

袖を通すのは一番早いけれど、髪の毛を拭ききるのは一番遅いパチェを待って、
皆で脱衣所を後にすれば、窓から漏れこむ月明かりが廊下を照らしていた。
すっかりと晴れている。風は……少しあるが、これなら明日は少し暖かそうだ。

「私はこれで失礼するわね」

パチェの言葉に客人二人が頭を下げて、私が軽く手を上げると、
一度微笑んだ後、お付きの子と一緒に去っていった。
……その背中にちらりと本の名前が出てきたから、恐らくはまだ少し起きて本を読むのだろう。

地下へと続く階段の前でフラン達と別れ、そして客室の前で穣子嬢と別れ。
近くに居た子に客室の暖炉の準備をお願いして、自室へと戻った。
私の部屋の前には……何故か昨日の夜と同じ子が待機していた。
大概、一日交代なのだが。まあ、いい。

「少し飲むかい?」

私が尋ねると、静葉嬢は少し間を置いてゆっくりと頷いた。

「じゃあ今日は赤だね。貴女、グラス二つとボトルをお願いね」

私の言葉に妖精の子はドアを開けると、一度にっこり笑った後で廊下を駆けていった。

「やっぱり、ひんやりしてますね」

廊下よりはマシなのだけれど、暖房設備が乏しい私の部屋。
靴を脱いでひょいと上がったベッドの上で、寛ぎながら静葉嬢がそう言った。

「寒いかい?」
「……うん。ほんの、少しだけ。レミリアさんがパチュリーさんにかけて貰っていた魔法、私もかけてもらえば良かったかなって」

……それもそれで、楽しめたのかもしれない。
でも、別に彼女には必要のないものだ。既に楽しみ方を知っているのだもの。

「そうだ、レミリアさん」

私もベッドへと腰をかけると、彼女が近寄ってきて。
何か頼みたいことでもあるのかと振り向けば、彼女が私の肩に手を添えて……唇を塞がれた。
何事か、と思った時には既に顔は離れてしまっていたけれど、

「借りてたもの、お返しします」

と。そう言って彼女は微笑んだのだった。



月明かりに照らされた部屋で、二人そろってベッドに腰を下ろして。
届いたワインをグラスに注げば、水面が月明かりを跳ね返して壁に波打つ模様を作っていった。
静葉嬢は手の中に収めたグラスをくるりくるりと回して、
僅かに赤みを含んだ月明かりが返るのを楽しんでいて。それからゆっくりと飲んでいった。

「宴会の時にも貰ったことあるんですけど、美味しいですね」
「咲夜に言ってあげておくれ。喜ぶから」

私の言葉に彼女は頷いて、後ろ手をつくとまた再度、グラスを傾けた。
ほとんど音は聞こえなかったが、彼女の喉がゆっくりと上下して。
しばらくの間、鼻から抜ける余韻を味わっていた様だったけれど、ふとこちらを向くと、じっと私を見つめた。

「前から気になってたことがあるんですけど」
「うん?」
「血って、美味しいんですか?」

……割とよく、聞かれることだ。
新しく働くことになった妖精の子達は特に聞いてくる。

「美味しい血も、不味い血もあるよ」
「人によって違うのですか?」
「そうとも。人によっても、部位によっても違うし、体調だって影響する」
「では美味しい血とは、どういうものでしょう」
「本で謳われている通りさ。うら若き乙女の血、なんてのはよく見る表現だけど、そうね。
何て言えば良いのかしら。朝露残る早春の筍、とでも言えば良いのかしら。あったかい料理が美味しいとか、鮮度が良いと美味しいとか。
そういうどこか当たり前の様なことが、血にだってあるのよ。美味しそうな言葉が並ぶものは、大体美味しいわね」

まあ、筍は血と違ってかなり下処理しないと食べられないんだけど。

「そうでしたか。お礼に私の血、どうかなって思ったんですけど」
「……あら。嬉しいお誘いだけど、遠慮しておくわ。貴女に貰って喜べるものは他に一杯あるもの。
それに、お礼は既に貰ってるわ。自分の肌を易く傷つけるものじゃないわよ?」

私の言葉に静葉嬢は微笑み、それからグラスの中身を一息に飲み干した。
既にワインのボトルは空っぽで、私も自身のグラスの中身を飲み切ると、ベッドに寄せていたテーブルを遠ざけた。

「横になっても良いですか?」
「構わないよ」

寝間着の彼女は一度小さな欠伸をすると、そのまま毛布を持ち上げ体を差し込んで。
そして物言いたげに私をじっと見つめた。……どうやら、私も入れということらしい。
カーテンを閉じ、点けていた蝋燭を消して。
私が横にお邪魔すると、彼女は安心した様にそのまま私を抱きしめた。
……お風呂上りだったはずなのだが、静葉嬢の体はかなり冷えてしまっていた。よく拭かなかったのだろうか。

「あったかいですね」
「湯冷めしてしまったかね」
「ちょっとだけ。……レミリアさんは温かいわね。パチュリーさんの魔法、私もかけて貰えば良かったかなぁ」
「ああ、あれね」

パチェの魔法。皆の手前はああ言っていたけど、本当は全く違う魔法。
バカみたいな頼み方をしてしまったが……しかし、かけて貰ったは良いものの、効いている様な気はしない。
試した訳ではないが、衣擦れの感触だっていつも通りだ。

「レミリアさん……ありがとう」
「まだ終わった訳じゃないさ。私やフランは、貴女達の間にある壁を崩すことは手伝えるけど、
その壁を結局乗り越えるのは他ならぬ貴女自身よ。勿論、困ったらまた手を貸すけれど、踏み出すのも踏み越えるのも貴女の足よ。ね?」

うん、と彼女は小さく返事して。
『それでも』と。消え入るほどの小さな声が、聞こえた気がした。



抱いていた彼女の手がゆっくりと解けた後で、彼女の方へと視線を動かしてみれば、
僅かに部屋に漏れこんでいた光が彼女の瞳に反射して映っていた。
人差し指でそっと顎を持ち上げてみれば、彼女はそのまま目を閉じて。
唇を奪えば、ほんのりと頬が温かくなった。
顔色まではあまり分からないが、恐らく赤くしているのだろう。

「温めてくれるのですか?」
「結果的にはそうなるかもしれないね」

顎に這わせていた手をゆっくりと下げると、
彼女のパジャマに手が触れた。……こっちは私が肌を重ねていたこともあってか、少し温い。
改めて手で触れる分にはとても肌触りがいい。汗もよく吸いそうだし、ちょっと厚みがあってふかふかしてる。

そのまま袖を辿り、彼女の手に触れてみれば、きゅっと彼女が私の指を捉えた。
相変わらず冷え性なのか緊張しているのか、冷たい。手を握れば、彼女の口から満足げな吐息が零れた。

「……あったかい」

対する私の方は、少し寒い。手足は触れれば触れただけ体温を持っていかれて。
幸い体の方は温かくて、その柔らかさもあって……とても居心地がいいけど。
ずっとこの柔らかさに埋もれていたくなる程だ。こういう時は自分の体の小ささを得だと思える。
尤も、試す機会はパチェ位しかくれないが。

胸元に顔を埋めていると、彼女は握っていた手をゆっくりと解き、私の衣服に手をかけた。
脱がさせようとしてくれるが……いつの間にか汗をかいていたらしく、袖から腕を抜くのに苦労した。
それから彼女自身も服を脱いで。ぶるぶると震えながら、ベッドの隅へと服を追いやっていた。

手招きすると、彼女は嬉しそうな顔で飛び込んできて。
背中を預けていたベッドが、ぎしりと音を立てた。

「ほら、ちゃんと肩までかけなきゃ」

肌蹴た毛布を引っ張り上げて、寄せられた体を抱きしめて。
温い背中を、ゆっくりと指先で撫でていく。
くすぐったいのか、きゅっと背をそらし、彼女の顔があらわれて。
乱れた髪の毛に手を差し込めば、湿っぽい感触が指を伝っていった。



~~



「両手の指を組んで首の後ろに回してもらって……肘は胸の前でくっつけてください」

パチパチと、薪の爆ぜる音が響く部屋の中。
カーテンも閉じ切り、蝋燭も点けていなかったけれど、炎のお蔭で十分に明るかった。
暖炉の準備をして貰っているとき、ついでとばかりにレミリアが言っていた様にマッサージをお願いすると、
しばらくして妖精の子の代わりにやって来たのは、館にやって来た時に会った門番の方だった。
どうやら今日はお休みらしく、暇だから代わりに来たとのことで。
お食事の後らしい。……ほんの少し、お酒の匂いがする。

「こうですか」

簡単な自己紹介の後、すぐに始めましょうということになって。
ただ、寝転がるにはまだ部屋は寒かったので、先に簡単にできるストレッチをしましょうということで。
妖精の子に敷いてもらっていた暖炉の前のラグの上で、美鈴さんの指示を受けていた。
……背が高い。お互いに今は裸足なのだけれど、頭半分近く違う。

「そうです。……では、失礼して」

そんな美鈴さんが、私の後ろから腕ごと包むように抱きしめて、ぐっと体を持ち上げる。
洗濯板を使ったときの様な、聞こえては不味そうな音が首から背中にかけて鳴り響いて。
出の悪い財布の様に何度か上下に揺さぶられた。

「じゃあ次は、前屈いきましょう。」

持ち上げられていた体を下ろしてもらい、首から下が変なことになっていないか触って確かめつつ、
彼女に言われるがままに上半身を前に倒した。……昔からこれはあまり得意ではない。
体が固いつもりはない……ないのだが、周りの皆に比べると固かった。
姉さんも、椛さんも床には指先が届いてた。
にとりさんや雛さんに至っては指の付け根くらいまでつけることができてた。
……私は、くるぶしの上くらい。

「そこ、限界ですか」
「はい」

彼女が私の背中に手を置いて、僅かに力を入れて。

「それじゃ、そのまま深呼吸しましょう。ゆっくり吸って……吸い終わったら5秒待って、それからゆっくり吐いて……」

かけられる言葉に従って深呼吸を繰り返せば、
限界だと思っていった所でも、ほんのちょっとだけ楽になって。
彼女が押してくれなかったから伸びはしなかったけれど、体を起こす頃には膝の裏あたりは随分と楽になっていた。

「思えば妖精の子以外のストレッチを手伝うのは、久しぶりです」

ふと彼女がそう言って笑った。
門番だということを伺っているから、恐らくそれは門の子達なのだろう。

「門の詰所の中にもこういう暖炉があるんですが、よく妖精の子達が集まって眠ってたり、互いにマッサージしたりしてるんですよ」
「普段のお仕事、大変ですか?」
「常に誰かがしなければならないという意味では大変かもしれませんが、一度手につくと楽なものです。
基本的に、私達の役目はただの見張りで、いざって時も撃退よりも館内への連絡の意味合いが強いですから、そこまで危険なことはしていないのです」

立っているラグが温かくなってきたところで、私は仰向けになって。
美鈴さんは足のむこうへと腰を下ろした。

「門の子達、どんな感じですか?」
「仲間想いのいい子達ですよ。……妹様との関係で言えば、まだ壁は厚いですね。
妹様も門の子達もお互いがお互いを意識し過ぎているところもあるので、時間はかかりそうです。
ただ、お客様の様に協力してくれる方たちも増えましたから。いつかきっと打ち解けられる様になると思います」
「私は門の子達のことをあまり良く知らないですけど、私も思ってます。いつかはそうなると。
その為にできることは、手伝えるだけ手伝ってみたい。私はあの子に今回色々助けてもらったから」
「是非とも、よろしくお願いします。妹様のこと」
「こちらこそ、よろしくお願いします」



美鈴さんのマッサージは、足の指先から始まった。曲げたり、伸ばしたり、引っ張ったり。
いつか河城さんのところで見た機械のお手入れに似ていて、指の一本一本を確かめるようだった。

「関節周りを一通りやって、そこから筋肉の方を解していきますので」
「はい……お願いします」
「多少驚くことがあるかもしれないですけど、力は抜いててくださいね」

……驚く?
何を、と考えていると、美鈴さんが足先を支えてかかとをそっと掴んで、ゆっくりと引っ張っていった。
ぴんと伸びた肌。伸ばしきれそうなところまで伸びた後も、美鈴さんは引っ張って。
急にボコンとくるぶしの辺りで音がしたかと思うと、伸びていた足がもっと伸びた。

「こ、これ本当に大丈夫なんです?」
「大丈夫ですよ。これで思いっきり力任せに捻ったりすると、そりゃもう大変なことになりますけど。
あとは毎日やっても駄目です。捻挫対策なんですけど、しすぎても捻挫しやすくなっちゃうので」

ゆっくりと添えられていた手を元に戻して、美鈴さんが足を放して。
ちゃんと動くのかどうか試してみたけど……何ともない……はず。

「……信じてますね」
「ええ、お任せください。じゃ、次は膝いってみましょうか」

どことない不安はあるけれど、心地よさは確かにあって。
ぐっと伸びをすれば、暖炉の中でまた薪がパチンと鳴った。



「穣子さん」
「はい……あ、それちょっと痛いです」

膝が終わり、肩に首回りが終わり。
よいしょという声と共に、美鈴さんにうつ伏せになるようにひっくり返されて。
マッサージを続けていると、美鈴さんが思い出したように口を開いた。

「ちょっとなら大丈夫です。……今日はお姉さんとお話して、どうでしたか」

……どうだったんだろう。
言わないと誓ったあの言葉も、言える様になった。心の中は随分と楽になった。
ただ、なんだろう。

「不思議な感じです。色々背負っていたものを気にしなくて良くなって、たぶん本当に凄い幸せなことなんですけど……何といえば良いのか」
「達成感を感じない、といったところですか」

……そうなんだ。
あるのは、『終わったんだ』という安心感。確かにそれは、とてもとても強く感じてる。
でも、何かすごい感動があったかと言われれば……無い。
お風呂に入って汗を流すうちに、疲れが一気に噴き出して。
ある意味で言えば、お湯の中に居た時間が今日の中で一番心地が良かったとさえ思う。

背中と腕のマッサージを終えて、美鈴さんも私の横に寝転がって。
二人で炎を眺めながら、私は美鈴さんの言葉の続きを待った。
私自身、それは少し気になっていたのだ。
だから……こうやって暖炉を眺めて考えたかったのだ。

「それで良いんですよ。それは壁に突き当たってからの今日までの間、
そこには幸せもあって、大事な日々だったってこと。それが自身にちゃんとある証拠だと思いますから」
「……ですか」
「いつか振り返った時に、そう思えたらそれで良いのです」
「そうですね。そう思える様に、頑張らないと」

私の言葉に美鈴さんが笑う。

「その意気ですとも。……さて、それじゃ私はこの辺で」
「マッサージ、気持ちよかったです。正直ちょっと怖かったですけど」
「そういうものです。それでは、お休みなさいませ」



来た時と同じように、ご機嫌な様子で美鈴さんが帰った後で。
私は随分と小さくなった炎を見つめ、気になっていた最後の一つを考えていた。
それは、姉さんに言われたこと。気づいてほしいと言われた二つの内の、残りの一つ。

最初に言われた時は、それが一体何なのかわからなかった。
今は……今も分からない。ただ、今回のこのお付き合いで得たものは、とても大きかった。
噂だけで人を判断しちゃ駄目なこと。怖いと思っている相手とだって、心の中が通じれば友人関係を築けること。
他にも、色々ある。とても簡単で、難しいことと言っていた。
だとすると、噂だけで人を判断しちゃいけないことかなって思ったけれど、
レミリアのお願いを聞いている僅かな時間だけで姉さんが感じたこと、なのだ。
たぶん、大事なことではあるのだけれど、違う。
……難しい。素直に、お家に帰った時に聞いてみることにしよう。

……もう、姉さんは眠ってしまっただろうか。



~~



温めてくれるのかと問いかけてきたから、されることを期待していたのかと思っていたが……
彼女は彼女なりに何かを返したいみたいで。昨晩試したように私のお腹を戯れにまさぐっていた。
……そして、知ることになった。私はパチェの魔法を大きく勘違いしてた。
私は、パチェの魔法はすぐに効き始める類のものだと思っていた。いつも魔法をかけてくれる時がそうだったから。
でも、今回は違う。ひょっとしたらパチェなりの粋な計らいだったのかもしれない。
ふとした瞬間から、パッと火を灯したように体の中が熱くなって、お腹の中に伝わる感触が分かるようになった。
そして腰の骨から遠慮なしに駆けあがってくるくすぐったさにも似た気持ちよさに、思わず静葉嬢の手首を掴んでしまって。
恐る恐る静葉嬢の顔を覗き込めば、顔を真っ赤にしつつも嬉しそうな顔を浮かべてた。

「きょ、今日はこれイけそうですか」

くりくりっと指先を動かしながら尋ねられる。
が、されていると声が出せない。出そうとするととんでもない声が出そうだ。
パチェにされている時がそうだった。そして私は……声が大きい自覚がある。
無言で頷くと、静葉嬢の顔がどんどんと緩んでいって。
私が昨日やりたいだけやってしまったからなのか、以前パチェとしたときに見たようなどこか意地悪な顔に変わっていった。
彼女の手の動きが一旦止むのを待って、一度大きく深呼吸して。

「パチェに魔法で、感度を上げて貰ったのよ」

正直に、告白した。
パチェは感じなかった所でも感じられるようにするためにこの魔法を使ったとのことだが、
それは恐らく、パチェが独りだったから良かったのだ。
自制が効く。いざって時は自分で解くこともできる。それはとてもとても大切なこと。

私はもとより、おへその少ししたをぐりぐりして楽しむ方ではない。
どちらかというと、もうちょっと直接的に……することが多いのだ。
そっちの方が気持ち良いから。……パチェには『やっぱり豆が弱点』なんて冗談交じりに言われたこともある。
実際、その通りだ。

「そうだったのですか」

静葉嬢が納得した様に何度か首を上下させた後、じっと私を見つめた。
恐らくは、私も静葉嬢も、同じことを気にしている。
……それは、他の部分の感度のこと。

彼女の指の動きで気持ちよさを感じたのは、勿論元から想定していた中の感触のこともあるが……
押された肌の繋がった先である元から弱かった部位からでさえ、心地良さが流れ込んできていた。
指一本分くらいの距離はあるけれど……それだけ、感度を上げられている。

彼女は少し悩んだ後、私の顎先に口づけして、それからゆっくりと、首、そして鎖骨、胸の上……
体の上にどんどんと唇を重ねていった。幸い、お腹周り以外はあまり感度を上げられていない。
でも、彼女自身の頬の温かな感触も相まって、とても心地が良かった。

おへそ回りにそれが届くと……そもそも性感帯でも何でもないおかげか、
くすぐったさの方がちょっと強かったけれど、指で遊ばれていた所まで届くと、
さっきまで感じていたお腹の中の感触が僅かに蘇って。ちょっとだけ腰が浮いた。

「……私が最初に貴女に教えて貰ったときに抱いた印象とは違う感覚ね」
「どんな感じですか?」
「何て言うのかな。子宮の出口そのものが気持ちいいのかなって思ってたの。でも、そうじゃなくて……
出口のぷりっとした所が膣に擦れて、それが気持ちいいって感じ……かな」

だから、全く未知の感触というわけではなかった。
むしろ、パチェとしていた時の記憶が断片的に蘇ってくる程には、懐かしい感触でもあって。
思えば、中で楽しむなんて行為はもうずっとご無沙汰だったんだなぁと、しみじみ思った。

私の言葉に静葉嬢が笑い、それからゆっくりと顔を離して。
また指でゆっくりとお腹を捏ねていく。
私があんな説明をしたからなかのか、指先でお腹の中の様子を確かめながら、
私にとっての丁度良い場所をずっと探していた。

「なんだかお医者さんになった気分」
「そりゃあ、お医者さんごっこなんて言い方したりする位だもの」

刺激に少しずつ慣れ始め、何とか落ち着いて言葉が出せるようになった後で、
彼女が冗談めかしてそう呟いたが……昨日の私と違い、随分と恥ずかしいようだ。
行為そのものというよりは、私の顔を見て恥ずかしがっている。
変な顔をしているつもりはないが……彼女にとっては相手がいるというのがただただ新鮮なのだろう。
思えば昨日はほとんど顔を隠していたからか、目に入ってくるもの全てがそう映るのかもしれない。

元よりこのやり方については私よりも何倍も詳しい彼女であるからか、
弱い所も、弱い攻め方も。どちらもすぐに察したみたいで。
ただ、焦らしのつもりなのか……僅かにそこを少しだけ外して、私の様子をずっと窺ってた。

「私が初めてこのやり方で……その、独りでするようになったときね、調子の良い時と悪い時があったの。
感じたり、感じなかったり。日によって差があって。でも、続けている内に体が覚えてしまったのか、差はなくなって。
だから……レミリアさんもいつか魔法なしでここが気持ち良くなれるように、今のうちに体で覚えちゃいましょう」

……性感帯を開発しようというわけか。
まあ、それもそれで良いかもしれない。彼女と共有できることが一つ増えるのは確かだし、
今これが気持ちいいのも確かなことで。ただ、それまでパチェに毎度お願いしなくちゃいけないのが……悩ましいな。

積みあがった感覚で腰が跳ねるようになると、彼女は少しだけ手を弱めてくれた。
けれど、その弱めてくれた動きですら、別の攻め手に感じてしまうほどには、
既に神経が融けている様で。結局、ゆっくりとした手の動きの中で、久方ぶりの感覚を味わったのだった。
腰が自分の物じゃないかのように何度も跳ねて、大きく息をすれば、自分自身の汗の匂いと彼女の匂いが混じって胸の中に広がって。
彼女の胸へと抱きつけば、お腹に当てられていた手は離れ……ぎゅっと抱きしめて貰えた。

「湯たんぽみたい」

目を閉じて余韻を楽しんでいる中で、彼女の呟きが聞こえて。
少しだけ首を持ち上げれば、頬に彼女が口づけた。
私の方がされている側なのに、その唇がとても温かくて。
ふと思い立って彼女のお腹に手を添えれば、くぐもった声がその唇から洩れた。

ちらりと見上げると、すぐに視線は重なって。
恥ずかしそうに彼女が目を逸らして。
それでもじっと見つめれば、観念したのか、彼女が私を見た。

「待ちきれなかった?」
「何だか凄くいけないことをしてるみたいで……胸がきゅうきゅうして。……つい」

ちらりと、彼女越しに見た時計。まだ朝までは随分と遠い。
私も、そして彼女も。お昼寝を今日はしているのだから……多少遅くなっても構わないだろう。
明日咲夜がまた来るまでに整ってさえいれば、それで良いのだから。

「交代しようか」

私の提案に彼女はただただ、背中をぎゅっと抱きしめて。
私は目の前の赤い頬にゆっくりと口づけた。



~~



外の風は強く、雲はみるみる流れていって、すっかり月が出てしまった今は廊下は随分と明るかった。
夜の見回りをしてみれば、妖精の子にお願いしていた厨房前の廊下は綺麗に窓が磨かれており、
目の前に立てば私自身の姿がくっきりと映る位だ。昼間はカーテンを閉じているお陰で見ることは全くできないけれど、
とても身近で、かつ大事なこの館の調度品の一つでもある。

昨日見回りをした時と違い、かなり夜も更けてしまったためか、
既に妖精の子達も夜勤の子を除いてほぼ寝てしまっていて、どこを通っても館の中はしんとしていた。
あまりに静かすぎて、足音を響かせるのが勿体ない位で。私は久方ぶりに館の中を飛んでまわっていた。
穣子さんの客室のある廊下まで来ると……どうやら今日は寝ていないようで、妖精の子が月明かりの下、椅子に座っていた。
どうやら本を読んでいるらしい。恐らくは図書館から借りてきたのだろう。
目が疲れそうだからと燭台を一つ時間を止めて持ってくると、彼女は驚いて顔を上げた後、頭を下げた。

「お疲れ様です」
「異常は……無さそうね」

開かれた本は半ば程のページで……それなりに厚い。普段私が目を通す本に比べて、ちょっと文字は大きくて。
ただ……何も挿絵の様なものが見えなかったから、どんな内容の本かまでは分からなかった。
この調子ならば、恐らくは次の交代の時間まで居眠りをすることはないだろう。
ちらりとドアの方を見れば、ドアの下の隙間から僅かに揺れる灯りが漏れ出している。
どれ程の薪を頼まれた時に用意したのかは分からないが、恐らく暖炉の火がまだついているのだろう。

「咲夜さんはもう今日はお休みですか?」
「ええ。見回りが終わったらもう寝るつもり」

彼女の問いに答えれば、ホッとした様に微笑んで。

「おやすみなさい」
「おやすみ」

受けた言葉に返せば、彼女は持ってきていた本へと視線を落としたのだった。

階段を上がり、お嬢様の部屋の前に来てみると……今日もあの子が椅子に腰を下ろしてた。
特段することがないからなのか、頭の中で何か歌っている様で。
目はしっかりと開いているものの、頭がゆっくりと前後に揺れていた。
相変わらず、椅子の位置がドアより遠い。前に尋ねたときは取り込み中だから離れてた、とのことだったが、
何となく……今お部屋の中で何が起きているのかは分かってしまう。
今朝見た光景があるからだ。

しばらくすると彼女がこちらに気づき、来ちゃ駄目ですよと体でアピールして。
苦笑いをしながらただただ待てば、彼女は静かに駆け寄ってきて、

「取り込み中ですので」

と。分かりきったことを教えてくれた。

「まだ、かかりそう?」
「はい。……あのぅ、咲夜さん」
「お手洗いなら待っててあげるから、行ってらっしゃいな。今日も独りで番をするのでしょう?」

私の言葉に彼女は顔を赤くして、それからゆっくり頷いて。
スカートの腰よりちょっと下の部分を摘まんで持ち上げると、相変わらずのすごい勢いで飛んでった。
……あの子、私が来なかったらどうするつもりだったのだろう。

待っている間、何となしにその場で耳を澄ませてみた。
……けど、私には何も聞こえてこない。本当はもう眠ってしまっているのではないかと思う位、静かだった。
きっと、あの子が私よりも数段耳が良いのだろう。

ぼうっと天井を静かに見上げていると、彼女はすぐに帰ってきて。
穏やかな顔で私に一礼すると、ちらりとドアの方を見つめた。

「何か飲み物とか、いる?」
「いえ、大丈夫です」
「そう。……私は先に休ませて貰うわ。何かあったら起こして頂戴。それじゃ、おやすみ」
「おやすみなさいませ」

彼女は頭を下げた後、忍び足で椅子まで戻って。
それから静かに腰を下ろすと、来た時の様にただただゆっくりと頭を揺り動かしていた。



自室へと戻り、着替えを済ませて。
時計を見ながら、止めない時の中でどれだけ眠れるかを計算して、ベッドへと潜った。
……今頃、お嬢様は静葉さんとぎゅうぎゅうに抱き合っているのだろうか。
それとも、口づけをしてるのだろうか。あるいは、もっと先か。

もっと先って、一体何をするんだろう。
そもそも裸になってこう……いちゃいちゃするのは、図書館のあの子が言うには一つ踏み込んだスキンシップだ。
普段一緒に過ごすのでは分からない色んなことを改めて共有する場なのだ。
それは、理解できる。何となく、だけど。

でも、お嬢様と静葉さんは別に前から深い付き合いがあった訳じゃない。
……私とあの妖精の子との間もそんな付き合いがあった訳じゃないけど、
もっともっと、直線的というか。早かったというか。
一体何が、そこまで突き動かすのだろう。

まだ、分からないことだらけだ。私が知らなすぎるだけなのだろうか。
視野が狭いのは何となく自分でもわかってる。分かってるからせめて、目に映ったものだけはとにかく理解しようとしてきた……つもり。
つもり。結局、根本的には何も解決してなくて。何か大事なことを、分からないままでいる。

「どうすればいいんだろう」

そう呟いて、枕に顔を埋めた。そうすると瞼の裏には、図書館のあの子のことが浮かんでくる。
知らないことを尋ねるのと同じで、自分でどうしても見えなかった視野は聞いて広めるしかない。
しかし、穣子さんにも答えた通り……私には友達がいない。

そう呼んでいい相手というのは、誰なんだろう。誰かが誰かと一緒に居て……それを私が見て。
ああ、あの人達は友達同士なんだ、とか。あれはただの知り合いみたいだ、とか。
そういうのは何となく判断できるのに、自分自身だと、どうしても不安になってくる。

近いのは二人、か。図書館のあの子に、相談させてもらったあの妖精の子。
また今度、そのことを相談させて貰おうかな。何となく、笑われるとは思うんだけど。

そうやってでも、ちゃんと進まなきゃ。



~~



部屋の中に光が漏れこんで、目を覚ました。
……足が寒い。昨晩はずっと火が消えるまで暖炉に当たっていたせいか、
自宅で慣れていたはずのしんとした冷たさが、毛布から露わになった踝の辺りを突いていた。

ぐるりと寝返りを打って、部屋の中の時計に目を凝らす。
朝ごはんの時間まではまだ時間がありそう。……もう少しごろんとしてても良いだろうか。
たぶん時間になったら十六夜さんがお部屋に来るだろうし。
とりあえずは着替えだけ済ませておこう。

気負いするものが減ったからか、それとも昨日マッサージして貰ったからか。
あるいは、このベッドがとてもふかふかだからか。……ぼーっとしているのがとても気持ちが良い。
思い切り体を動かした後みたいに、頭の中が空っぽな感じで。ただただ、温かい。
後は、厨房で貰ったチョコレートみたいに、口寂しさが消えるものがあれば、
たぶん何時間でもここにじっとして居られるだろうって、そう思う位だった。



「おはようございます」
「おはようございます。朝食の準備、整いましたので食堂までお越しください」

十六夜さんが部屋に来たのは、昨日朝ごはんを食べ始めた位の時間よりも、ちょっと遅かった。
流石に朝とあって忙しかったのか、それだけを伝えてすぐに帰ってしまったが、
ふっと部屋に漏れこんだ風に交じってお味噌汁の匂いがして。
ああ、今日は和食なんだなって。そう思いながらベッドから立ち上がった。

廊下はカーテンを完全に閉めているお陰で部屋より薄暗かったが、
駆け抜ける妖精の子達のお陰ではためいて、たまに光が漏れこんでいた。
今日は天気が良いからだろう。どの子も手に沢山の衣服を持っている。
あれだけ洗濯してしまうと、どれが誰のものか分からなくなってしまいそうだ。
すれ違う妖精の子達からも、さっき十六夜さんが持ってきた匂いがしたから、
恐らくは既にメイドの子達の朝食は済んでしまったのだろう。

食堂へと着くと、既に図書館のお二人が席についていて。
近くで十六夜さんがせっせと食器の準備をしてた。
……あれ。数えても私とパチュリーさん達の分しかない。

「お嬢様達は……その。お湯浴みを先にしてくるとのことです」

視線が合った十六夜さんが、髪の毛を両手で摘まんで振りながら笑って。
それを見たパチュリーさんは、ただただ苦笑いしてた。

三人ならばと、席を近づけ、端のテーブルで始まった朝食。
お味噌汁にだし巻きの卵、切り干し大根の胡麻和えに、この前一緒に作ったお漬物。
一際目に入るのがお味噌汁で……匂いでお味噌汁と分かるから良いものの、
上から見ると味噌的な物が見えない位に色んなものが入ってる。
人参に椎茸、水菜に玉ねぎ、ごぼうまで。

「今日はやけに具沢山ですね」

パチュリーさんの横に居た方が呟けば、

「在庫の整理中なんです。豚肉もやっと片付いてきたので、次の買い出しのために。何かこういうものが食べたいって希望とかありますか?」

と、緑茶を用意していた十六夜さんが、笑って答えた。
……確かにあれだけの人数を召し抱えているのだ。
私も少し見せて貰ったけれど、姉さんとの二人暮らしからだと考えきれない量があった。
市場の倉庫なんじゃないかって思う位で。
あれだけあると、痛み始めの判断とか、その時どういう料理をするかとか。たぶんとても大変なのだと思う。
フランドールが言うには、妖精の子達も平等におやつを食べているみたいだし、
たぶんそれは食事にも言えたことで……とてもじゃないが、私には手におえそうにない。

「あっという間に春が来てしまうから、そうね。まだあと1回位はグラタンが食べたいわね。レミィが許してくれるなら、だけど」
「あ、あと咲夜さん。お菓子用に小麦粉と砂糖を分けて頂けると助かります」

加えて、こういう要望も叶えなきゃならない。

「大変ですね」

お味噌汁の具を飲み込んで私がそう言うと、十六夜さんはただただ笑って、

「それが楽しいのです」

と、返してくれた。



私達3人の朝食が終わって少しして。レミリアに姉さん、フランドールにお世話係の子が入ってきた。
十六夜さんからはお風呂に入っていたことは聞いていたけれど……のぼせるまで入っていたのだろうか。
皆揃いに揃って顔が赤くて、ちょっと疲れている。

「おはよう。遅れてすまかったね。朝食は……どうやら先に済ませてくれたみたいだね」

ぞろぞろと席についた皆のために、十六夜さんが急いで朝食の準備をして。
私やパチュリーさん達は食後のお茶を楽しみながら、せっせと食べ始める皆をただ、眺めてた。

席がバラバラだったこともあって、私の目の前はフランドールのお世話係の子で。
その横にフランドールが居て。こうしてぼうっと眺めていると、まるで妹や姪っ子ができたような気持ちになってくる。
とても、初めてフランドールを見たときには思えなかったようなことだけれど。
……ふと、お世話係の子の首元に目を向けると、花びらを散らしたような痕が幾つかついていた。

「首のその痕、どうしたの?」

ふと尋ねてみると、彼女はびくりと肩を震わせて。
それから苦笑いして、恥ずかしそうに答えた。

「お恥ずかしながらあまり寝相が良い方じゃなくて……その。恐らくは服のボタンとかの痕じゃないかと」

そういえば、この子はフランドールと一緒に寝てるんだっけ。
地下室、少し寒かったから……たぶんくっついて眠ってるんだろうけれど、
たぶんそうやってる内についてしまったのだろう。

「仲、良いのね」

私が返せば、彼女も、そしてフランドールも笑ってくれたけれど、
少し恥ずかしいのか、また顔に赤みが戻っていった。

皆、急いで食べていたこともあってか、昨日のお昼に比べてとてもとても静かな食事の時間で。
十六夜さんに用意してもらったお代わりのお茶を飲んでいると、姉さんが私を見た。

「そういえば、穣子。さっきお風呂の中で話し合ったんだけど」
「うん?」
「今日のお昼過ぎに、お家に帰ろうかと思うの。椛さんにも挨拶しておきたいし……文さんのこともあるから」

……あぁ、なんだかんだ長居させて貰ってるものね。もう、4日目なのか。
気が付けばフランドールが私達の家に居た時間より長くなってる。

「分かったわ。荷物纏めとく」

私も笑って返したけれど。……不思議と、名残惜しかった。



~~



朝食の後は、皆で応接室に集まった。
寒かったことに加えて、今日は天気が良かったこともあってか、早めに暖炉の準備をして貰えたようで、
空気を淀ませないために通気はしてあるものの、入った時から既に部屋の中は温かかった。
初めてここを使い始めたときと同じく、私の横にはフランが、向かいのソファには静葉嬢と穣子嬢が座って。
新たに運び入れて貰ったもう一つのソファに、パチェ達が腰を下ろした。

「まだ居ても良いのに、と言いたい所だが、確かにあの新聞屋のこともあるからね。
今回のことはまだあまり公にはしたくない。……というより、あまり周りに引っ掻き回されたくない。
まあ、先日の宴会のこともあるし、そもそも人の口に戸は立てられないから、いつかは知られることではあるのだけれど……ね」

私の言葉に静葉嬢も、そして穣子嬢も苦笑いした。
お互い、あれの扱いには苦労しているということか。
一応、フランから貰った手紙を見る限りでは友人とのことなのだけど。

「そのことに関して、一つだけ良いですか?」

咲夜に淹れて貰った甘い紅茶の入ったカップを置いて、静葉嬢が小さく手をあげて。
それから少しだけ間を置いた後、悩む様に続けた。

「どうか、口裏を合わせて欲しいのです」
「というと?」
「今回フランちゃんを十六夜さんにお家まで連れてきて貰いましたが、山の麓からは私達が伴って家まで案内した、ということにして頂けますか。
私達の住んでいる場所は……その。閉鎖的な風習が残ってまして。今回は友人に目を瞑って貰っているところもあるので、念のため」

彼女の言葉に私が頷くよりも先に、隣のフランが頷いた。
心当たりがあるということは、手紙の中にも出てきた彼女なのだろう。
彼女にはいつかは直接お礼しなければならないのだが、立場上、なかなか難しそうだ。

「この館のメイドに関しては、咲夜が連れて行ったことしか知らないから、そこは問題ないだろう。
詳細な説明を山から要求されたら、仰る通りに返しておくわ。咲夜、美鈴に伝えておいて」

静葉嬢達と、視界の隅の咲夜が頷く。
……せっかちだ。頷いたと思ったら咲夜の姿が消えた。後でも問題ないのだが。

「相変わらず、仕事が早いですね」
「……まぁ、あれは咲夜の特権みたいなものだからね」

……お、戻ってきた。どうやら伝えられたらしい。



「ねぇ、お姉様」

カップの中身が空になって、咲夜に新しい一杯を注いで貰っていると、
フランが私の方を見て、ぴっと指を立てた。

「お姉様は写真を撮ってもらったこと、あるの?」
「ええ。撮って貰ったというより、撮られた、と言った方が正しいけど。どうかしたの?」
「もしも、さ。周りに全部知られた時さ。……皆と一緒に写ってる写真、撮って貰いたいんだ」

フランの言葉にちらりと客人二人を見ると、二人とも頷いて。私も頷いて返すと、フランがホッとした様に笑った。
そうか。……これからは我が家でもアルバムを作るのも良いのかもしれない。いつか笑って読みかえせる様にするためにも。
ただ、あの新聞記者にお願いするのは気が引ける。恐らく河童にお願いすれば大浴場の体重計の様に用意して貰えるだろう。
あれよりはちょっと高くつくかもしれないが、ね。

「もしもその時が来たら。……私達にも一枚、頂けますか」
「勿論だとも」

きっと、妖精の子にも使えるようにすれば、あの子達も喜ぶだろうし。
……いつかは、本当に全員で撮ってみたいものだ。
たぶん、最初の一枚は、大切な記念になるだろうから。

とても、とても。



~~



「食べ過ぎたわ」

紅魔館でお昼ご飯を頂いた後、姉さんと二人でお家への道を飛んで帰っていた。
お昼ご飯は咲夜さんが腕を奮ってくれて……食べたいものをお願いしたら言った先からすぐに作って出してくれて。
調子に乗って私も姉さんも……というか、あの時食卓に居た皆、色んな希望を出して。
結果として……飛ぶのが少し苦しい位に食べてしまった。

「お夕飯、いらないかもね」
「そうね」

私達の荷物は、持って行った荷物と、小さな袋。
帰り際に十六夜さんが持たせてくれた。クッキーが入ってるらしい。
袋自体からも紅茶の匂いが少し漂っていて。今は食べる気がしないけれど、ひょっとしたらこれがお夕飯になる可能性はある。
袋は二つあって。一つは、椛さんに渡してくれとのことだった。

「ねえ、一つ、聞きたいことあるんだけど」

お腹をさすりながら飛んでいた姉さんに声をかけると、

「うん?」

やや気だるげに姉さんはこちらを向いた。

「フランドールが来た日の夜のこと、覚えてる?」
「……あぁ、あの2つの答え合わせ?」
「うん。一つは、同じ姉だから、でしょ?」
「そうよ。同じ妹に苦心する姉だから、ね」

冗談めかして姉さんはそう言った。
……どうやら、私が二つ目に悩んでいることは気づかれている様で。
姉さんはしばらく私の顔を見つめた後、続けてくれた。

「二つ目はね。真摯だったから、よ。真剣だった、と言っても良いわね。言われたら、納得するでしょ?」
「……それは、うん。宴会でもほとんど話したこと無かったけど、とても優しくて。真面目に話も聞いてくれた」
「大切なことなの。言葉にしてしまうと簡単になってしまうけれど、とても難しいことよ。
それでいて、親しい間柄だと当たり前に感じてしまうことすらある。だから、それが二つ目」

私が頷くと、姉さんはニッと笑って。
よいしょ、という言葉と共に抱えていた荷物を握りなおすと、お家の方へと向き直った。

「あの姉妹、似てるね」
「うん。私もそう思う」

結局、私は思い出せないままだった。
姉さんが昔見せてくれていたはずの笑顔。確かに、見てきたはずの笑顔。
相変わらず、どこか曖昧なままでしか、頭に浮かんでこない。
でも。今隣に居る姉さんが今見せてくれている笑顔が、本当の笑顔だってことは良く分かってて。

今はそれが、ただただ幸せで。
度々、紋切り型な挨拶で申し訳ありません。
読んで頂きありがとうございました。

登場人物が増えるととても大変になるということが分かった気がします。
自分の中の秋姉妹のイメージが固まってきたので、次よりは予期せぬ来訪者に戻ります。

--2016/11/04 追記--
やっと編集モードに入れたので後日こちらの作品の誤脱修正実施予定です。
咲夜さんのお話についてはまた別途作品として投下予定です。
が、が。恐らく投稿には時間がかかるものと思われます。
--2016/11/04 追記ここまで--
あか
コメント




1.性欲を持て余す程度の能力削除
『気持ち届けば』からの続きと言う事でワクワクしながら2日かけて読ませていただきました。長いはずなのにどんどんキャラクター達のやり取りに引き込まれて全く苦痛でない、いえ、とても幸せであったかい時間を過ごせたという気持ちで一杯になりました。
あかさんの描かれる紅魔館の住人のレミリア、フランドール、咲夜、美鈴、パチュリー、小悪魔(パチュリー様のお付のあの子)、妖精メイド(フランのお世話係)、(小悪魔が好きな子)、(厨房の子達)、)(椅子で待機する子)、(医務室の子、腰を痛めた子)、(門勤務の過去にフランから被害を受けた子達)、そして今作主人公の静葉と穣子。誰もが違う性格、感性、悩み、哀しみを背負い、それらを乗り越えていく過程に、その結果に何度も涙腺が緩みました。気になったことなのですが、今回で秋の姉妹の問題、フランの問題は少し解決したかもしれませんが、咲夜が(性的なところで)まだなんですよね。全作では「館のみんなが好き。だからキスをしたし、唇の感触を知りたかった。肌を重ねる事を知らない、裸をさらすのが恥ずかしい」という性的に未熟な面がまだ強いですよね。自作が霊夢とリリーに戻るそうですが、いつか咲夜のこの未熟さも解決するお話が読めるのかなあと、ゆっくりですが楽しみにしております。もちろん予期せぬ来訪者も大好きなので(恐らく春を迎える手前、あるいは迎えた後ですよね)、こちらも楽しみにさせていただきます。長文失礼しました。