真・東方夜伽話

宇佐見蓮子の闇

2013/11/18 00:36:28
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宇佐見蓮子の闇

しずおか

宇佐見蓮子の病み

 ♯宇佐見蓮子




 キャンパス内のトイレの、洗面台に一番近い個室に入っていた。用を済ませてドアを開けようとしたとき、私は聞き捨てならない言葉を耳にした。

「精神医学科の金髪の女の子知ってる?」
「知ってるよ。外国人で目立つから他学科でも有名だもん。皆口を揃えて可愛いって言うし」
「うん。まあ可愛いんだけどね。でもあの子、結構危ない性癖があるらしいよ」
「えーなになに?」
「友達が言ってたんだけどね、あの子男の告白を全部断ってるんだって。しかもいっつも女の子と一緒にいるらしくてさ。だから女の子しか興味ないレズだってもっぱらの噂なの」

 私は神経を集中させて外からの声に耳を傾けた。心理学科の金髪の女の子と聞いて、メリーのことを言っているのだとすぐに気が付いた。こいつらはメリーのことをレズだと言っているんだ。
 拳を握りしめてドアに叩き付けたくなった。
 でも私にはそれができなかった。私の心の奥で生まれた感情がその拳を下ろさせた。

「女の子と一緒に寝て襲っちゃうらしいよ」
「うわー。さすがに引くわ」
「あんまり仲良くしてると襲われちゃうかもって噂が立ってるんだって」
「なにそれこわーい」

 いい加減なことを言うな。メリーは――女の子を襲うようなことはしない。それはずっとメリーの傍にいる私が一番分かっている。メリーはそんな人間じゃない。

「いつも一緒にいる子とはもう何回もやってるらしいよ。二人でホテルに行くんだって」
「そこまでするとさすがに気持ち悪いねー」

 そこで女の子たちはトイレから出て行った。私は個室のドアを静かに開けて外に出た。 鏡を覗くとひどく複雑そうな表情をした自分の顔があった。

 メリーは女の子を襲わない。メリーはきっと、そんな人間じゃない。
 そう鏡の中の自分に言い聞かせた。




「お待たせ蓮子」
「……うん。遅かったわね」
「テスト後に教授に質問したら思いのほか話が長かったの。いい質問するねえ、実はねえ、それはこういうわけで、って感じで」
「いいのよ。普段は私が遅刻してるし」

 今日は前期試験の最終日だった。最終日までテストが続いたのは不運だったが、メリーも同じだったので予定合わせに苦労しなくて済んだ。
 テストが全て終わり、メリーは開放的な気分のようだった。一緒にランチを食べに行こうと提案してきた。

「うん」と自分にしか聞こえないような小さな声で返事をした。七月末の京都はうだるような暑さだった。

「蓮子は何が食べたい?」
「何も考えずに食べられるもの」
「麺類かしら。おそばとか」
 暑い日にはぴったりだし、すすっておけばとりあえず食べられる。いいかもしれない。
「うん。それでいいわ」
「それじゃあ定食屋かしら」

 頭の中はトイレでの出来事でいっぱいだった。他の思考を挟む余地がなかった。メリーとはそれから一言も言葉を交わさず、ただ黙々と猛暑の中を歩き続けた。五分もしないうちに背中に汗がにじんだ。黙々とメリーの横を歩き続け、いつの間にか知らないお店に到着していた。

 そこは京都にしては値段の安い定食屋だった。サラリーマンばかりではなくOLや大学生もいくらか見える。女子大生二人でもそれほど浮くような雰囲気ではない。メリーが金髪で美人でなければの話だが。

 先ほど名前も知らない学生が話していた内容が蘇ってくる。メリーが女の子を襲うなんて、本当にひどい噂だ。だけどそんな噂が立つのは、もしかしたら自分のせいではないかと思った。私がいつもメリーと一緒にいるから、メリーにそんな噂が立つのだ。

 そう思うと、店の中にいる人間が全員敵のように感じた。こいつらの中に私たちのことを陰で悪く言う奴が混じっているのだという確信が生まれた。急に視線が気になりだし、私は神経を尖らせる。

「蓮子はざるそばでいいわね?」とメニューを見ながらメリーが言った。
「うん。メリーは?」
「私は親子丼にするわ」

 頼んだものが運ばれてくるまで、私たちはお互いの試験の話をした。私はメリーの専攻である相対性精神学の難しい話を上の空で聞いていた。「蓮子はテストどうだった?」と聞かれたので私は「簡単だった」と答えた。
 私は無心にそばをすすった。ざるからそばを掴んでつゆにつけて食べる。単調作業の繰り返しだった。そこに意識的な動きは介入しない。
 先に食べ終えた私はメリーが食べ終えるのを待ちながら先ほどのことを思い出していた。もしかしたら別人のことだったりしないだろうかと、淡い期待をした私はメリーに質問してみた。

「ねえ、メリーの学科に金髪の女の子っている?」
「私以外に? 見たことないけど」

 やっぱり、あいつらの言っていた金髪の女の子はメリーのことで間違いなかった。メリーの人間性について根も葉もない噂を信じていたあいつらのことを思うと様々な感情がこみ上げてくる。

(ねえ、あれ、あの二人、また一緒にいるよ)

(うわ、マジで。気持ち悪いね)

 私はハッと驚いて店内を見渡した。しかしこちらを見てこそこそと話す者はおらず、皆各々の食事に夢中だった。

 気のせいだったのだろうか。

「どうしたの蓮子。今日は何だか変よ。明日から蓮子が心待ちにしていた夏休みじゃない」
「うん。ちょっとね。嫌なことというか、気になることがあってね」
「どんなこと? 夏休みの予定なんかじゃなくて?」
「違う。ここでは言いにくいから外で話すよ」
「でも外は暑いわよ」

 メリーは日本の暑さが苦手だとよく言っていた。確かに外国と比べると湿度が高いから、慣れていないメリーには辛いだろう。

「じゃあ私の部屋まで来てくれる?」
「喫茶店とかじゃだめなの?」
「うん。人目につかない、二人だけの場所がいいの」
「それなら私の下宿でもいいわよ。ここからなら近いし」
「それはだめ」
「どうして?」

 私は理由を説明できなかった。説明しようとなると、とても長い話になると思ったからだ。

「だめな理由も後でちゃんと話すから、今日だけは私のお願いを聞いて」

 気づけば私は瞳を潤ませていた。メリーは黙って手を組んでいたけど、やがてやれやれといったふうに嘆息した。それから「わかった」と言って立ち上がった。
 私たちの動きに周囲が敏感に反応したように思えた。お会計をするときにも鋭い視線で刺されているような気がした。振り返って店内を見渡すと、誰もが食事やお喋りに夢中で、私たちのことなど気にも留めていなかった。

 私は自分の神経質に辟易した。



 定食屋から自分の部屋までは三十分ほどで到着した。中は京都の猛暑に蒸されて高温になっていた。すぐさまエアコンのスイッチを入れた。
 冷蔵庫から麦茶を取り出し、氷を入れた二つのコップに注いだ。メリーは暑さにやられたのかリビングの椅子に座ってテーブルに突っ伏していた。

「暑い中を歩かせてごめんね」
「いいのよ。蓮子にあんな目をされたら断れないもの。それよりも私は蓮子の話が気になるわ」

 メリーは前置きなくその話に持ち込もうとした。しかし私はあの出来事について冷静に話せるほど頭が働いていなかった。考えがまとまっていなかった。それに、メリーにこの話をすること自体が私にとって辛いものであった。
 何も言いださない私をメリーは咎めようとはしなかった。黙って麦茶をちびちびと飲んでいた。怒っている様子もなくただ私を待ってくれているようだった。外では私の思考を邪魔するかのような大音量でセミが鳴いている。
 十分ほどして決心した私はようやく口を開いた。

「メリーのテストが終わるのを待っていた私はふとトイレに立ち寄ったの。そこで私はこんな話を聞いたんだ」

 トイレで聞いた話をできるだけ正確にメリーに話した。メリーは徹頭徹尾無表情でそれを聞いていた。一度も相槌を打たなかった。話し終えてからも表情を変えずに黙ったままだった。

「メリー? 何とも思わないの?」
「あら、まだ言い残したことがあるのかと思って黙っていたのよ。例えば、その時蓮子はどう思ったのかとか」

 鋭い視線が私を捉えた。そう。確かに私は私自身の思いについてまだ何も語っていない。ただ、それは非常に口にしにくいことなのだ。

「そのことで思いつめることがあったから、わざわざ二人きりで話をしようって言ったんでしょう」
「私は……」と言葉を出そうとする。しかしそれは喉まで出かかっているのに、そこから先には頑なに出ようとしなかった。自分の思いを口にするのが嫌だった。それは決して綺麗な感情ではなかったから。
 するとメリーはテーブルの上に置いていた私の手にそっと自らの手を重ねた。

「大丈夫。私は蓮子の思いをちゃんと受け止めてあげるから。怖がらなくていいのよ」

 メリーの目はまるで私の心の中を見透かしているようだった。メリーの言葉が、出かかっていた私の言葉を引き出してくれた。

「私はあいつらの話を聞いたときに、メリーはそんな人間じゃないって思ったわ。メリーはレズなんかじゃないし、女の子を襲うようなことはしない。だから私はあいつらに怒りを覚えたわ。個室から飛び出して殴ってやろうとも思った。でもできなかった。私は――」

 そこで言葉を切り、メリーの反応を窺った。メリーは私の言葉を一言たりとも聞き逃すまいと前のめりになっていた。

「私は否定したくないと思ってしまった。メリーにそうあってほしいという願望が私の中で生まれたの。メリーは女の子が好きで、男に興味がなくて、レズだったらいいのにって。ここで出て行ってしまったらメリーがそういう人間じゃないって認めてしまうことになる。それだと私の願望は叶わない。だから私は個室から出ていくことができなかった」

 重ねられていたメリーの手から少しだけ力が加わった。

「ごめん。少し休ませて」

 テーブルに顔をつけて倒れた。メリーの手はびっくりするくらい熱を持っていた。
 心の内にある負の感情を吐露するのには、非常にエネルギーを消費する。それも本人を前にしているならなおさらだ。
 頭の中はぐちゃぐちゃで何一つ考えがまとまらなかった。さっき話したことすら、メリーにとっては支離滅裂な内容だったかもしれない。

 息苦しい。気持ち悪い。さっき食べたそばが出てきそうな気配を感じた。
 顔を上げるとメリーは心配そうな目をこちらに向けていた。私の手を握る力はさきほどよりも強くなっていた。

「ゆっくりでいいのよ。蓮子のペースでいいから、心の中の思いを確実に言葉にするの」
「うん……」

 メリーの慈しみあふれる優しい声は吐き気をいくらか緩和してくれた。けれど、胸はまるで燃えているかのように熱い。喋るたびに、呼吸をするたびに、肺や気管が焼けただれていくようだった。言葉の一つ一つが熱を帯びていた。
 メリーが立ち上がって私の背中をさすってくれた。「辛いなら横になる?」と言われたので、たどたどしい足取りで寝室に向かい、畳の上に転がった。押入れからメリーが枕を出してくれた。

「ありがとう」

 メリーは返事をしなかった。代わりに枕元に正座し、私の手を両手で包み込んでくれた。やっぱりメリーの手は温かくて熱かった。

「ごめんなさい」
「どうして謝るの?」
「私はメリーに悪いことをした」
「どんな?」
「私は、メリーの名誉を傷つけた」
「…………」
「メリーはそんな人間じゃない。でもそんな人間だったらいいのに。そういった二つの相反する感情に板挟みになってジレンマに陥った私は、あいつらに反論しなかったことでメリーの名誉を傷つけ、自分の願望を守ったのよ。私は最低の人間。保身のために友達を捨てたんだ」

 思いを実際に言葉にすると胸に秘めていたときよりもいっそう悲しみがこみ上げてきた。最低の人間。自分で自分にそう宣告した私は悲しみに堪えられず、目から涙があふれ出した。ぽたぽたと涙が畳に数滴落ちてシミができた。
 やがてメリーが静かに語り掛けるような口調で言った。

「蓮子は私のことが好きなの?」
「……うん」
「友達として好きなの?」
「……好きよ」
「じゃあ恋人としても好き?」
「……分からない」

 嘘をついた。私はメリーに対して友達に向けるそれ以上の気持ちを持っている。それは紛れもない恋愛感情だ。男が女に、女が男に向ける感情だ。

「蓮子は私のことを同性愛者であってほしいと思ったのでしょう。それはつまり、同性である自分の愛を受け取ってほしいという願望じゃないの。自分の感情に言い訳したり、隠したりしてはだめよ。素直に言ってしまいなさい」
「だめよ。そんなこと、できない」
「どうして?」
「それはきっといけないことなの。私がこの気持ちをメリーに伝えるということは。私たちは女だから」

 私たちはそういう関係になってはいけない。そんな強迫観念が私の中にあった。だからずっと気持ちを押さえつけていた。
 私が告白すれば優しいメリーはきっと受け止めてくれるだろう。でもそうなってしまうとメリーまで異端者だという烙印を押されてしまう。私のプライドとしてそれだけは許せなかった。自分の都合でメリーに汚名を着せるくらいなら、この願望は叶わなくてもいい。
 今の関係のままで十分だ。私はメリーのことが好きでメリーの傍に居たいと思っている。そしてメリーは友達としてだけど、ちゃんと私を傍に置いてくれる。この関係がベストなんだ。

「もしも私がこれ以上の関係を望んでしまえば、きっとよくないことになる。いいえ。既になっているわ。私がメリーにべたべたと引っ付いて行っているせいで、メリーはあんな根も葉もない噂を流されている。全部私のせいなの。私が」

 突然メリーは私の唇に指を当てた。もう喋らなくていいわと言いたげに首を横に振った。
 口を止められた私はメリーを見つめるしかできなかった。

「蓮子は他人の目を気にしすぎる傾向があるわね。でもそんなことは本当はどうでもいいのよ。他人がどう思おうが蓮子は蓮子なのよ。自分のことを過度に隠したり、よく見せようとしなくてもいいのよ。そのままの蓮子のことを受け入れてくれる人はちゃんといるんだから」

「もちろん、私もその中の一人よ」とメリーは言った。やさしい笑顔だった。
 メリーの言葉は私の胸にゆっくりと落ちてきた。それはとても暖かくて、心地よい響きだった。

「それでも、だめなの。噂を本当にしてしまったらあいつらの思う壺だから」
「本当かどうかは私たちにしか分からないわ」
「メリーはそのままの私が好き?」
「好きよ」
「じゃあやっぱりだめよ」
「どうして?」
「もしメリーと寝たら、私はそのままの私じゃなくなるから」

 私は暴漢のようにメリーの服をはぎ取り、身体中を乱暴な手つきで触り、そしてメリーの身体を壊してしまう。そんな妄想が私の頭の中では流れ続けていた。メリーの身体に欲情する自分、そして乱暴されて虚ろな目で動かないメリー。

 私がメリーに向ける感情は確かに恋愛感情だと思う。だけど、この衝動の源が一体どこなのか、私には分からなかった。何故だか分からないのに、メリーを無性に壊したくなる。ぐちゃぐちゃに犯したくなる。そういった感情を私は胸の内でずっと隠し持っているのだ。
 これも恋愛感情の内の一つなのか。人を好きになるということは、その人を壊したり犯したりしたくなるということなのか。それとも私がただ一般人と比べて狂っているだけで、この感情は個人的なものに過ぎないのか。どっちなんだろうね。メリー。私にはさっぱり分からないよ。

 自分の負の感情について考え込んでいると、また吐き気が戻ってきた。
 悲しくもないのに私の目からは大粒の涙が溢れてきた。
 涙は私の視界を揺らし、メリーの存在を曖昧にしていった。

「これは教授が授業中の雑談で言ってたのだけれど」

 唐突にメリーは子どもに語り掛けるような優しげな声を出して言った。

「ある男性は、二十歳ごろから妄想癖が激しくなった。ホームで電車を待っていると、後ろから押されて電車にひかれる妄想が浮かび、電車に乗ると、たまたま痴漢現場を目撃して痴漢犯を捕まえて女性に感謝される妄想が浮かび、青信号を進んでいると、信号無視の車が突っ込んできて自分をひく妄想が浮かび、人込みの中にいると、正面からナイフを持った男がすれ違いざまに自分の心臓を刺してしまう妄想が浮かんだ。彼女ができると、その彼女を押し倒して無理やり犯そうとする妄想も浮かんだ。意識的か無意識的かは分からないけど、その妄想癖は数十年続いたそうよ。でもね、数十年間の妄想の山は、たった一つさえ現実には起こらなかったそうよ」

 メリーは私の頭を撫でながら、遠くを見る目で続きを口にした。

「現実に起こらないと分かっているからこそ、妄想は広がっていくの。その人に理性があればあるほど。そんな妄想は現実ではあり得ないという常識や観念が大きければ大きいほどね」
「……」
「そのままの蓮子は理性的で、そうじゃない蓮子は野性的だと自分では思っているようだけれど、私が思うに、その二つはどちらも紛れもない蓮子自身なんじゃないかしら」
「意味が分からないよ」
「私は蓮子になら何をされてもいいわ」

 突然メリーの目つきが細くなった。鋭い視線で私の深いところまで見つめてきているような気がした。私は心を見透かされている気分になり、目を逸らした。

「やめてよ。もう考えたくない。このままでいいの。メリーがずっと隣にいてくれたら、私は……」
「蓮子なら大丈夫よ」
「何が」

 メリーは返事をしなかった。先ほどと変わらず私を見ながら微笑んでいるだけだった。私は重い頭を抱えながら起き上がってメリーの正面に座り、対峙した。
 メリーの言葉はさっきから支離滅裂だ。何が言いたいのかさっぱり分からない。一定の形を持たずに空を漂う雲のようだ。
 そしてメリーのそんな言動は、私を一層辛くさせるだけだった。メリーが引いてくれれば、私は諦めるのに。彼女は一歩も引こうとしない。私がメリーに近づけば、同じようにメリーも私に寄り添ってくる。私が離れようとしても、メリーは私を追いかけてくる。

 突き飛ばしてほしい。今この場で。もしくは電車を待つホームで。あるいは踏切で。下りの階段でもいい。

 離れてほしくはない。でも、これ以上近づきたくない。近づいてはいけないの。

「大丈夫って何よ。いい加減なこと言わないでよ……」
「蓮子は少し理性的すぎる。理性に殺されるなんてバカらしいじゃない」
「……そこまで分かっているなら、どうして私の思う通りにしてくれないの? ねえ言ってよ。私に一言、『気持ち悪い』って。それだけでいいから。いつまでも宙にぶらぶらと浮いたままじゃ、いつか我慢の限界が来るわ」
「理性の崩壊?」
「ええ。そのとき私は暴漢のようにメリーを襲うのよ」
「私は蓮子に何されてもいいってさっき言ったわ」
「それ、私が男だったとしても同じように言える?」

 微笑みを一瞬鈍らせたメリー。その表情はだんだんと無に近づいていた。

「男だろうと女だろうと、蓮子は蓮子でしょう」

 その言葉で私は決心がついた。それ以上進んではいけないことを示す柵を私はとても軽い気持ちで飛び越えていった。
 何という感情に起因するのかよく分からないこの衝動を、実行してやろうと思った。
 メリーは何をされてもいいと言った。

 だから私はメリーを思うがままにしてやると。

 そう思った。


 犯してやる――。


 私はとてもゆっくりとした動きでメリーに近づいた。メリーは無表情のまま私の目をにらみ続けていた。
 たんすからスポーツタオルを一枚取り出し、私はメリーを押し倒した。メリーの腹に馬乗りになり、抵抗させないように両腕を頭上で交差させ、手首をタオルで縛った。

 メリーの目は何も訴えていなかった。既に犯されてしまった後のようにも見えた。怯えも、恐怖も、怒りも、不快すらも、その目からは受け取ることができなかった。
 首元のリボンを解き、メリーのお気に入りであろう、紫のドレス風洋服のボタンを外し上半身を露出させる。
 ゆるやかな曲線を描く肩口にはブラの肩紐。メリーのふくよかな胸は黒のブラに覆われていた。肌は絹のように白く滑らかだ。
 私はお腹から順に手のひらをメリーの身体に這わせた。おへそからくびれた腰へ、そして脇から胸へ。すべすべとした感触が生々しい。マシュマロに触れているみたいだった。

 でもこれはマシュマロじゃない。
 メリーの身体。メリーの肌。
 私が大好きなメリーの――。

 ブラ越しに胸を軽く撫で、さらに上っていき鎖骨に触れたとき、それまで無表情で声一つ出していなかったメリーが初めて反応した。

「んっ……」

 鎖骨が弱いらしい。私は後でゆっくりと攻めてやろうと思った。
 両手は首を撫でながら進み、メリーの頬に達した。しみやしわは一つもない、綺麗な肌だった。メリーの小さな顔は私の手の中にすっぽり納まってしまいそうだった。

「メリー。好きよ……」

 馬乗りして両手を拘束しながらの告白に自分自身がぞくぞくしてしまう。私は今からメリーの身体を犯すんだ。そういう実感が胸の中で膨らんだ。

「蓮子はこんなことがしたかったの?」
「え?」

 興が冷める言い方。メリーは驚くほど冷徹な声を出した。

「好きな人の両手を縛って馬乗りになるのが、蓮子がずっと理性で抑えてきたことだっていうの?」

 冷徹なのは声だけではなかった。さっきまで何も訴えていなかったメリーの視線から、明らかな負の感情を感じる。

「蓮子の憧れた恋人っていうのは、こんなに下劣で汚らしいものだったの?」

 メリーの最後の言葉を、私はどうしても聞き捨てならなかった。反論するよりも先に私は両手をメリーの首に添えた。

「どうしてそんなことを言うの? さっきまで私の気持ちを理解してるような口調だったのに」
「蓮子は私をどうしたいの?」

「殺したい」と私は言った。

 殺したい。こんな憎たらしいことばっかり言うメリーなんて、死んでしまえ。
 私は頭がおかしくなっていることを自覚していた。狂っている私を、もう一人の私が背中越しに見ていた。暴走と制御と自覚の中で私は動いていた。
 両手に少し力を加える。気管や血管を絞めるには少し足りないくらいの力。でもメリーにとっては圧迫感のあるものに違いない。
 このまま力を強めていけば、メリーは死ぬ。きっと抵抗しない。白目を剥いて身体から一切の力が抜けていくのだ。
 苦痛に歪むメリーの顔が愛おしい。私だけに見せてくれる、私だけのメリーだ。

 そのまま苦しんで死んじゃえばいいんだ――。

 メリーがいなくなれば、私はもう悩まなくて済むのだ。問題解決じゃないか。
 私は首を絞める力を強くした。メリーの眉が少しだけ動く。徐々に力を強くしていくと、メリーの表情が苦痛に歪んできているように見えた。それでもメリーは抵抗しない。私を跳ねのけたり、縛られた両手で私を殴ろうともしない。
 苦しそうな表情なのに、目だけは別の生き物のように動いていた。メリーの目は私に何かを伝えようとしているかのようだった。
 それはとても哀しそうだった。身内の訃報を受けた時のような、冷たくて色彩の失われた目だった。
 その目に私は私の一番深いところを見透かされているような気になった。宇佐見蓮子という人間の最奥にある『何か』を見ている。

 やめてよ。

 そんな目で見ないでよ。

 私がとても哀しい人間みたいじゃないか……。

 メリーは指の圧力が分散するように首を左右に動かす。そうはさせまいと私はメリーの額を左手で押さえ、右手一本で首を絞めるために少し前に体重をかける。力を入れる部分を一点に絞った。
 完全に人を締め殺すことを考えた動きだった。メリーはいよいよ呼吸が苦しくなってきたようで、小さく身じろぎをし始めた。

「メリー。返事をしてメリー。ねえ」

 私は力を緩めないようにしながら、メリーの顔に精一杯近づいて言った。
 相手を征服したかのような快感がたまらない。しかし快感と同時に頭と胸を強く締め付けられるような強烈な罪悪感が湧き上がってきた。

 このままじゃだめだ――。

「あ……く、が……」

 言葉の切れ端だけがメリーの口から漏れる。返事ができないのは私が一番分かっている。私が首を絞めているんだから。
 メリーはあと何分持つんだろうか。もう5分もすれば意識を失うのだろうか。
 私が縛ったメリーの両腕はメリーの頭上で交差されている。手首が縛られているとはいえ、固定しているわけじゃないから腕を動かすのは可能なはずだ。本当に苦しくなったら両腕で私を殴ることだってできる。そもそも下半身は拘束していないし、私の体重程度じゃ馬乗りになったところで身体をよじって逃げられそうなものだ。
 しかし、何故かメリーは抵抗する力を持たない幼子のように、黙って首を絞められ続けている。身じろぎもすぐにやめてしまった。ただゆっくりと死に近づいていっている。
 徐々に弱々しくなってきたメリーの目は未だこちらを見つめ、何かを訴えかけようとしている。

 寝室は世界が終わった後のように静かだ。稼働しているはずのエアコンの音すら聞こえない。

「どうして抵抗しないの。ねえ。早く抵抗してよ。メリーってば。はやくしないと。メリーが……」

 メリーが死んじゃう――。

 脳内でメリーが窒息死する映像が流れる。私に何かのメッセージを送り続けていた目がやがて虚ろになり、チアノーゼが起き――唇が青紫色に染まり、それが顔全体に広がっていく。身体がびくびくと痙攣を始め、そして全身から力が抜けていくのだ。

 私が『この手で』メリーを殺してしまうんだ――。

 メリーは本当に死んだように動かない。唯一見開かれている目だけが、メリーが生きていることを私に教えてくれる。鼻も口も眉も、腕も足も身体も、メリーは動かさない。私が呼び掛けても返事をしてはいけないと命じられているかのごとく無言を貫いている。

 こんなの、楽しくなんかない――。

「ねえ、ねえ、ねえ、メリー、メリー、くっ、ねえってば……」

 いくら呼んでもメリーは抵抗しなかった。すると突然私の背後にもう一人の私が現れた。
「手を離しなさい」ともう一人の私は言った。

 私はもう一人の私に反論しようとしたが、いくら口を開いても声を発することができなかった。

「自分のことは自分でなんとかするしかないのよ」ともう一人の自分は言った。

 私はいつの間にか泣いていた。泣きながらメリーの喉の骨に親指を強く当てた。何が悲しくて泣いているのか分からない。目から溢れた涙がメリーの肩や首や顔にぽたりぽたりと落ちていった。

「うう、うううう……」

 泣き始めると手が震えて上手く力が入らなかった。だらりと指先が首から離れ、そのまま畳に手をついた。手が離れてもメリーは呼吸を荒くすることもなく、私に罵声を浴びせることもなかった。苦しそうにしていた表情が、一変して微笑みに戻るだけだった。

「だから言ったでしょう。蓮子なら大丈夫だって」とメリーは母親のような優しい声で言った。

 メリーは起き上がって馬乗りになっていた私の下から抜け出した。そして私の背中に腕を回して身体を密着させた。私が縛っていたはずの両手は知らないうちに解かれていた。
 背中をポンポンと優しく叩いてもらうと、私は感極まって涙が止まらなくなった。止めどなく溢れてくる涙がメリーの肌を濡らした。
 メリーは何も言わずに私の身体をいつまでも抱きしめた。体温を共有し、まるで一つの身体になったような錯覚に陥るくらい強く抱いてくれた。小さい頃、お母さんに抱かれたときのことを思い出した。
 言いたいことは山ほどあるのに、口から漏れるのは嗚咽ばかりだった。たまにせき込んではまた泣いてを延々と繰り返した。
 メリーは髪を撫でてくれた。今までメリーがしてくれたスキンシップの中で最も幸せを感じた瞬間だった。

 私はただ、抱きしめてほしかっただけなんだ――。

 それなのに私は、メリーを犯そうとしたり、殺そうとしたり。狂い切ってしまっていた。歪んでしまっていた。
 私の中には二人の人間がいる。二面性があるというほうが正確かもしれない。メリーのことが好きな私とメリーのことが嫌いな私が私の中には住んでいる。理性的な私はメリーのことが好きで、そうじゃない私はメリーのことが嫌いなのだ。

 メリーを壊したいという感情は、『メリーのことが嫌いな私』の感情だ。

「ごめんなさいメリー」

 私がメリーに投げかけることができる言葉はこれしかなかった。

「ごめんなさい」
「それ以上、言わなくていいわ」

 メリーは耳元で、ともすれば聞き逃してしまうほど小さな声で囁いた。

「それ以上言わなくていい。言えば蓮子はまた苦しむことになるわ。だからいいの。そんなことは。蓮子はもう十分に代償を払ったのよ。もう幸せになる権利を得たのよ。だからいいの。頑張らなくていいの。そのままの蓮子でいいの。何も考えずに、蓮子のしたいようにすればいいから」

 いくつもの言葉が落ちてきた。そのどれもが柔らかく優しく、私の胸を撫でていった。
 代償を払った――。私が今まで苦しんできたのは全て代償だったのか。苦痛と幸せは等価交換だとメリーは言っているのだろうか。

「腕のタオル、簡単に解けたわよ。縛った時から既にゆるかったの。それに、首にだって全然力が入ってなかった。きっと蓮子の中の理性がそうさせたのね」

 行動は狂気じみているのに、その状態でも私は理性を発揮し続けていたというのか。理性的な私が無意識のうちにそうさせたのか。

「蓮子はそういう人間よ。初めて夜を共にするそのベッドの上でさえ、きっと蓮子は理性を以て自分を律しているのよ。今回だって、『本当はこんなことをしてはいけない』って理性では分かっていたのよ」
「だから抵抗しなかったというの」
「ええ」
「メリーは私を信用しすぎよ。私だってとち狂って人を殺しそうになることもあるのよ」
「そんなことできないくせに」

 私は言い返す言葉を持っていなかった。メリーの言う通りだと思う。私は人を殺しそうになっても、それ以上進むことはできないんだろう。首に手をかけるのが限界なんだろう。

 全ての行動が理性によって抑えられているのだ。

「私ってすごくわがままじゃない?」と私は俯きながら言った。
「そうかしら」とメリーは首を傾げた。
「私はメリーのことが好き。この世で一番愛してる」
「うん」
「でも私はメリーに見返りを求めてしまっているの。私がこれだけ愛してるんだから、メリーにも私のことを愛してほしいって思っちゃうの。勿論、強要なんてしない。本当はしたいけどしないわ。私はこれだけ苦しんでるんだから、メリーも同じように苦しんでほしいって思っちゃう。どこまでも自分本位で、他者の気持ちが理解できないの。自分は世界中の誰よりも劣っている気がするの。それを周りにいる皆が笑っているの。妄想が頭の中に延々と流れて、その妄想の中でのみ私は賞賛されて、そこで必死に自我を保っているの。ねえメリー。私何かの病気だと思うの。精神的な疾患だと思う。メリーの専攻にこんな病気聞いたことない?」

 まくし立てるような言葉の連続に対し、メリーは少し考えて答える。

「統合失調症かしら……。断言はできないけれど……」

 やっぱり私はおかしな人間なんだ。狂ってるんだ。そりゃあそうよね。普通の人は好きな人を殺そうとはしない。

「人格障害は病気ではなく個性よ」とメリーは言った。
「でも私は狂ってる」
「それが蓮子の本当の姿なのよ。いいえ、蓮子だけじゃない。この世の中でうわべを上手く取り繕って社会生活を円滑に過ごそうとしている人間は皆、偽物の姿なのよ。蓮子は狂ってなんかいない。普通の女の子よ」
「ほんとに?」
「うん」
「毎日夜になると死にたくなるの。メリーを見るとメリーの裸が頭に浮かんで、私はメリーを犯そうとするの。メリーの苦しそうな顔を見て私はにやりと笑うの。そしてだんだんメリーも私と同じように狂ってきて、私たちは狂ったまま一生二人で過ごすの。でもこれは私の妄想。妄想が溶けると、目の前にはいつだって狂っていない正常な現実があった。皆ちゃんと規則正しい社会生活を送っていた。この世で狂っているのは私一人だけのような気分になった。私一人だけが別の次元にいるみたいだった。ねえメリー。これでも私は狂ってないって言える?」
「狂ってないわ。蓮子は普通の女の子よ。長所も短所もある普通の女の子」
「私も普通になりたい。そこらへんを歩いている普通の仲睦まじいカップルになりたい」
「なれるわよ」
「できれば相手はメリーがいい」

 また嘘をついた。メリーじゃないとだめだ。私は、メリー以外の人と一緒になるなんて考えられない。メリーだけが私を理解してくれる。そんなメリーのことが『私は』大好きだ。好きで好きで愛しくてたまらない。狂ってしまった私を認めてくれるのはメリーしかいない。

「メリーじゃないとだめなの」と私は言った。
「私でよければ」

メリーはそう言って、もう一度抱きしめてくれた。
 私は再び心地よい暖かさに包まれた。





 ♯マエリベリー・ハーン





「私の中には二人の宇佐見蓮子がいるの。メリーのことが好きな宇佐見蓮子と、そうじゃない宇佐見蓮子。私の中ではずっと二人が戦っていた」
「でも蓮子は勝ったのよ。誰だって蓮子のように弱い心を持っている。蓮子は自分自身の弱い心に勝ったのよ」

 蓮子はうまく理解できていないような目をしながらも「うん」と頷いた。

「蓮子はおかしくなんかない。人間は皆正常な部分とおかしな部分を持ち合わせているの。野性的な部分と理性的な部分があるの。イドとスーパーエゴよ。互いが引っ張り合いをしていて、蓮子はその中心で引き裂かれそうになっていたの。でも蓮子のイドは抑制された。野性的本能を抑えつけたのよ」

 今度は蓮子は何も返事をしなかった。代わりに背中に回していた腕の力を強めた。
 外のセミは何かの祝福でもするかのように大合唱を続けていた。エアコンのファンが回り始める音が聞こえ、涼しい風が肩に当たった。
 耳元で言葉を交わしあっていた私たちは身体を少し離して視線を合わせた。蓮子の目には不安と哀しみが写っていたが、少しだけ希望も含まれているように見えた。

「私はメリーが好き」
「うん」
「メリーにもっと近づきたい。私の中に入ってしまうくらい近づきたい。そのまま一つの同じ身体になってしまってもいいくらい。メリー、かわいいよメリー。それに綺麗な身体……。メリーに触れたい。舐めたい。ねえメリー、キスしてもいい?」

 蓮子はタガが外れたように饒舌になり、私への愛情をひたすらに語っていた。抑圧されていた感情が一気に溢れ出したようだった。
 私は蓮子の問いかけに対して何も答えなかった。代わりに目を閉じ、顎を少しだけ前に突き出した。それを肯定の合図だと蓮子が受け取ってくれることを期待した。

「ん……」

 唇が重なったとき、蓮子が震えているのが分かった。何かが怖いのか、あるいは感極まっているのか、目を閉じている間は分からない。数秒経って唇は離れた。
 目を開けると蓮子は泣きそうになっていた。でもそれは哀しみや恐怖といった感情ではないように見えた。きっと感動しているのだろう。

「今度はメリーからして」と蓮子は言い、その泣きそうな目を閉じた。

 数秒かけて覚悟を決め、蓮子の唇に自分の唇を重ねる。唇を押し付けながら蓮子の髪や背中を撫でていると、時おり蓮子は身体をビクッと震わせた。

「んんっ――」

 唇を離す直前、一際強く唇を押し付けると同時に蓮子の首筋を指で撫でると、蓮子は可愛い声を出して脱力してしまい、唇が離れると私のほうへ体重を預ける体勢になった。
 私の胸にもたれかかったまま肩を軽く上下に揺らす蓮子。顔も耳も真っ赤だった。荒くなった呼吸音が艶めかしく聞こえてくる。

 少し顔を離してみると蓮子の顔はすっかりとろけてしまっていた。だらしなく舌を口からはみ出させたままこちらを見ている。

「メリー、私気持ち良すぎてどうにかなっちゃいそう。それに幸せな気持ちも加わってもう何が何だかわかんない。好きな人とのキスってこんなに気持ちいいんだね」

 蓮子はもしかしたら敏感な部類なのかもしれない。キスだけでこんなになるのは少し異常な気もする。蓮子の中で何かが感情や感覚を増大させているように感じる。

「本当は私、レイプなんてしたくないの。私は愛されている実感が欲しかっただけなの。私はこの世で誰かに必要とされていて、いらない子なんかじゃないって確信したかった」

 ただ呼吸をしているだけなのに、蓮子の呼吸音に混じって艶めかしい吐息が聞こえてくる。蓮子は私の胸に頭を押し付け、とろんとした上目遣いでこちらを見つめた。

「今すっごく幸せ。人生のすべての幸せをこの瞬間に味わってるみたい。もう死んでもいい。終わったら死んでしまってもいい。この後の人生に幸せなことが一つもなくていい。だから、一生分の幸せを私にちょうだい。一生分のメリーを、一生分の快楽を、一生分のメリーの愛を私にちょうだい……」

 蓮子はまるで別世界を見ているかのような視線をこちらに向けている。言葉もどこか支離滅裂だ。

「キスはね、もっともロマンチックな愛情表現なのよ」と蓮子は言った。
「特に唇を重ねるキスは愛の象徴。人間だけが行う愛の形なの」
「まるでお伽話のお姫様みたいなことを言うのね」
「私何かおかしいこと言ってる?」
「言ってない。すごく乙女チックなだけ」
「変じゃない? 頭おかしくなってない? 狂ってない?」

 夢を見ているようにおっとりした表情を見せたかと思うと、一変して今度はとても不安そうな顔をする。まるで二つの人格が交互に蓮子の身体を支配しているようだ。

「狂ってないわ」と私は頷いた。しかしその言葉だけでは拭いきれなかった不安がまだ目に残っていた。私は蓮子の顎をすっと持ち上げ、愛情表現であるキスをした。

「……もう一回」と蓮子は不安げな目で言った。私はまた唇を重ねた。

「もう一回……」
「ん――」

「もう、一回」と蓮子は泣きながら言った。

 それから蓮子は何度も何度もキスを求めた。唇が重なるたびに蓮子は肩を小さく震わせ、まぶたからしずくをこぼした。私は蓮子が満足するまで、蓮子が求めるがままにキスを続けた。
 もう何十回目だろうかと思う頃になって蓮子はようやく要求を止めた。やはり蓮子は泣いていた。私は蓮子の身体を抱き寄せ、子どもをあやすように頭を撫でてあげる。

「これはね、悲しいんじゃないのよ」と蓮子は私の耳元で言った。

「キスをされるたびに私はメリーの愛情を感じてるの。愛されてるって思えるの。だからこれは嬉し涙。嬉しくて嬉しくてたまらない、けど私はその感情を言葉にすることができない。この涙は私の感情の代弁者なの。嬉しい、嬉しいって言いながら私の元を離れていくのよ」

 蓮子はファンタジー小説の一節のような言葉を口にした。蓮子は顔をぐちゃぐちゃに濡らしながら、それでも嬉しそうに笑っていた。二面性のある性格が一度に表出しているような感じだった。

「嬉しいのに、嬉しいのに胸が苦しいの。悲しくて辛くて死にたいときみたいに胸が痛むの」
「それは強い感情が生まれたときにそうなるのよ」
「でも私は本当は悲しいのかもしれない」

 私はもう一度蓮子にキスをした。後頭部に手を添え、優しく包み込むようなキスだった。

「悲しい?」と唇を離して言った。
「ううん」と蓮子はすぐに首を振った。

「じゃあやっぱり嬉しいのよ」

 蓮子は自分の感情を確かめるように自身の胸に手を当てた。その上に私は自分の右手を重ねる。蓮子の心臓が激しく鼓動を打っているのが分かった。

「心もちゃんと嬉しいって言ってるのよ」
「うん」

 私は蓮子の胸に右耳を近づけ、その声を聴こうとする。生命の象徴である「ドクンドクン」という音がはっきり聞こえた。その音は本当に意思を持って発せられた声のようで、リズムを刻みながら私に何かを訴えかけようとしているように思えた。

「ごめんねメリー。寒いでしょう」

 蓮子の熱を帯びた手が私の背中を撫でる。そういえば蓮子に服を脱がされた時からずっと下着姿だったと今更になって気づいた。私はお気に入りのあの服を着用し、改めて蓮子と向き合った。

「この先はいいの?」
「うん。だって私は男じゃないから、メリーとセックスはできないよ」

 その言い方は少し寂しそうだった。愛する人と深く交わることができないのが残念というのが蓮子の本音だろうか。

「いいのよ。肉体的なつながりなんて、ほんの一瞬だけだもの」
「そう」

 何をするでもない、沈黙が私たちの間に流れた。蓮子の視線は私を捉えて離さない。同時に私も蓮子の目を見つめた。
 日本人らしいくりっとした二重と、その奥に潜む吸い込まれそうなほど黒い瞳。この瞳は今まで何を映してきたのだろう。
 蓮子は目を閉じて俯き、自らと向き合うように黙り込み、しばらくしてからこう言った。

「ごめん。やっぱりもうちょっとしたい」
「わかったわ」

 蓮子は私の身体にすり寄ってくると、その細長い指の先で私の頬に触れた。感触を確かめるように肌を撫でると今度は首へと進んでいく。肩も、胸も、腰もお腹も、順番に撫でていく。太腿も、ふくらはぎも、くるぶしもかかとも、そこにあるという存在を確認するように一つ一つ触れていった。もう一度上に戻ってくると、今度は私の長い髪を手で梳いた。

「どこにも行かないでほしい」
「行かないわ」
「ただ隣にいるだけでいい。それだけで私は救われるの。だから、いなくなるのだけは……」
「わかってるわ」

 蓮子はまた泣きそうになっていた。しかし絶対に泣いてはいけないと思っているかのように涙を堪えていて、固く閉じられた唇の端がぴくぴくと動いていた。

「私にとっては――いや、私に限らず全ての人間にとってもそうかもしれないけど、目の前や周囲にいる人っていうのは、その人自身を映し出す鏡なの。私は一般人の前では狂ってる。メリーは狂ってないって言ってくれるけど、それはメリーが狂ってない私を映し出してくれるからなの。メリーは一般人とは違う感性を持っていて、その感性という鏡に映る私は正常でいられるの。一般人が持っている感性――鏡の前では、私は気の狂った人間なのよ。メリーだけは私の狂ってない姿を映してくれる。それを見て私は安心するの。お前はおかしいと拒絶され、その狂った姿を見せつけられている日常から、メリーといるときだけは解放されるの」
「でも、どちらも宇佐見蓮子という同じ人間でしょう?」
「そう……だと思う。そしてメリーは私の正常な部分を拾い上げてくれる。私にもおかしくないところがあるんだって教えてくれる。他の人は誰も教えてくれない。メリーだけ。だから私の前からいなくならないでほしいの」

 私は返事の代わりに蓮子に微笑みかけながら頷いた。蓮子はその意味を汲み取ると、こぼれそうな涙を拭きながら無理やり笑った。

 人は集団の中で自分の立ち位置を知ることで自己同一性を獲得する。集団が違えば、人格が変わるということもあり得るのかもしれない。蓮子の同性愛という嗜好は一般に拒絶される。だから一般の集団の中にいるときの蓮子は拒絶される人間なのだ。そして私のような人間の前でだけ、『拒絶されない蓮子』が存在するのだ。
 蓮子の中に二面性があるわけじゃない。ましてや二重人格であるわけでもない。集団が、蓮子の周りの人間が、勝手に蓮子を作っているのだ。アイデンティティの確立されていない蓮子は、そこに二つの自分がいるように感じてしまうのだろう。

「私ちょっと疲れちゃった」

 蓮子はそう言うと私の膝に頭を勝手に下ろして横になった。そして子供がいたずらをするときのような目で私を見上げた。

「自分のことを話すとすごく疲れるの」
「否定されるのが怖いんでしょう」
「うん。だから、私がメリーを犯そうとしたあの時、もしメリーが抵抗していたら、私は自分を否定されたと思ったに違いないわ。そして逆恨みしてそのまま殺していたかもしれない」
「おっかないわね」

 私はこれっぽっちも怖くなさそうに言った。その言い方を気に入ってくれたのか、蓮子は私の膝の上でクスクスと笑った。

「やっぱり私にはメリーしかいないわ」
「それは光栄ね」

 蓮子は自分のブラウスのボタンを一つ外した。そして恍惚に満ちた表情で私を誘惑した。

「ねえメリー。私のこと、愛してくれる?」
「もちろん」
「じゃあ私に『セックスの真似事』みたいなこともしてくれる?」
「蓮子がそれで満たされるなら」
「うん。私は満たされる。メリーの手によってね。大好きな人に愛してもらって、私が果てたとき、私の空っぽの心がいっぱいになるの。セックスっていうのは、お互いがお互いを受け入れて、お互いの空白を満たすことなのよ」





 ♯宇佐見蓮子





 私はブラウスを脱ぎ、目を閉じてメリーへ唇を突き出した。それが始まりのサインになった。
 それから私たちはお互いの身体を触りあった。
 最初は髪から。そして上半身から下半身へ。敏感なところは後回しにした。
 他の部分を十分に愛撫してから、私たちはお互い胸をいじり、下着の上から秘部をいじった。
 快感の合間に愛情を感じながら、私たちは快楽に溺れた。
 私はメリーに言われて横にさせられ、下着を脱がされた。
 脱がされた下着の先は驚くほど濡れていた。

「入れていい?」とメリーが聞いたので、私は目を逸らしながら首を縦に振った。

 私のそこは、メリーの指をすんなりと飲み込んだ。メリーは中指を第二関節まで入れて、内部をおそるおそるいじり始めた。

「んっ――はぁ……」

 我慢できない吐息とともに吐き出される。メリーは私の声を聞いて徐々に指の動きを激しくした。

「ここがいいのかしら」
「ひぅっ! ひゃあ、そこはっ……」

 触られると妙にぞくぞくとするポイントを見つけられた。メリーはそこを重点的に攻める。指先が触れる度に私は小さな喘ぎ声を漏らす。

「んっ、あっ、そこはあぁ、……んんっ」

 ぐちょぐちょといういやらしい音が大きくなった。

「愛液がどんどん溢れてくるわよ。感じてるのね」
「ばかっ、言わないで……んああっ」
「気持ちいいんでしょう?」
「……」
「言わないのなら」

 メリーは指をもう一本追加した。
 メリーは中指と薬指を私の中に挿入した。二本の指がそれぞれ別々の動きをして、私の中を弄り回す。

「いやっ、それ、だめっ――やあぁ……んああ――」
「蓮子が言ったんでしょう? 私のことをめちゃくちゃにしてって。変態な蓮子さん?」
「ちがっ、へんたいじゃ……」

 まともに反論できないほど私の頭は気持ちよさでいっぱいだった。
メリーはだらしなく開かれた私の口に舌を挿入した。

 ちゅく、くちゅ、ちゅぱ。

 舌と舌が触れ合った瞬間、身体に電気が走ったような感覚に襲われた。

 メリーが私の舌の裏側部分を舐める。私は小さな悲鳴を上げることしかできない。
 さらにメリーは私の口へ唾液を送り込んできた。私はそれを舌の上で受け取る。

 これが、メリーの味……。

 溢れてしまった唾液が口端から垂れてしまう。メリーはそれを舐めとって再び私の口へ注ぐ。

「んはぁっ、めりぃ……はへぇ」

 私は唾液を口いっぱいに貯め、それを喉に送った。ゴクンという音が部屋に響いたような気がした。

「はあぁ……メリーの、おいしい……」

 メリーが挿入していた指の動きを一旦止める。そして微笑みながらこう言った。

「三本目、欲しい?」
「……」

 そんなこと、自分で言えないわ……。

「あらそう。じゃあこれもいらないわね」

 そう言って私は二本の指を蓮子の秘部から引き抜く。

「やだっ、抜かないで……」
「だって、いらないんでしょう?」

 引き抜いた二本の指にはねっとりとした愛液が絡みついていた。それを私にまじまじと見せつけてくる。

 やだ。それが欲しいの。メリーの指が……。
 
 顔から火が出そうなほど恥ずかしい。それでも私は我慢できなかった。メリーの愛を、メリー自身を、私は欲していた。
それが、私の中に入ることを、私は望んでいる。

「……欲しい。欲しいから入れて」
「何が欲しいの?」
「……三本目」

 その答えを聞いた瞬間、メリーは私の中に三本の指を挿入した。

「やっ、いっ、んああっ、はうっ」

 そんな、一気になんて、だめっ……。

 私が快感に喘いでいると、メリーは私の胸の頂点でピンと立っている乳首を口に含んだ。

「ちょっ、だめ、そんな、同時にっ……」

 舌先で硬くなった乳首を転がされる。さらにメリーは前歯を慎重に立てて乳首を甘噛みをした。

「んんっ、あああ、メリー、メリーっ!」
「乳首噛まれて感じちゃうなんて蓮子は変態ねえ」
「ち、がうもんっ、んあっ!」

 私は喘ぎながら必死に顔を横に振る。
 メリーは三本の指を束ねるようにして、私の弱い部分を一気に攻める。

 くちゃ、ぐちゅ、ずぷっ、ぷちゅ。

 上と下で同時に快感が襲ってくる。私の内部で何かが膨らんでいく。
 メリーは指を出し入れすることで中をこすりながら、指先では的確に私の弱点を突いていった。

「あああっ、メリー、メリー、わたしっ、もうっ……」

 その声を聞いてメリーは一度乳首を攻めるのをやめる。

「メリー……?」

 メリーは少し考え込むような表情を見せ、そして左手を私の秘部へ持っていく。

 いや、まさか……そんなっ。

 再び右手での挿入が再開される、その直後、今まで感じたことのない大きな快感が私の全身に走った。

「ーーっ! ああっ、んやあっ! あっ、ああ! それ、だめっ!」

 メリーは右手で挿入を続けながら、左手で私の敏感な突起をいじり始めたのだ。
 次々にやってくる快感に私は喘ぎ声を出すことしかできない。
 メリーが突起を爪で弾くと、私は腰を少し浮かせて感じた。三本の指は私の弱点を容赦なく攻め立てる。

 もう絶頂は目の前まで来ていた。

「メリー! メリーっ! きて――」

 私の中にきて――。

 突起を強くつままれる。私の中の膨らんでいた何かが破裂しようとする。




「好きよ、蓮子」

 ――っ!?

 その声が起爆剤となった。

「んあ、あああぁっ――!」

 全身に電流が走った。私の身体は数回、大きく跳ねた。背中をエビのように反らせ、腰が高く浮いた。

 視界がチカチカと点滅し、やがてブラックアウトした。

 太ももの筋肉が痙攣してびくんびくんと動く。腰も思い出したように数回跳ねる。

 気持ちよさのあまり、私は数秒、気を失った。

 意識が戻ったとき、私の中にメリーの指がまだ残っていることが感じ取れた。

 私はメリーの指を取り込んだ――。

 私は身体を痙攣させながら、荒い呼吸を繰り返していた。
 真っ暗だった視界が徐々に明るくなり、メリーの姿を映し出した。

「蓮子、好きよ」
「はあっ、はあ――メリー……んっ」

 白くぼやけた視界の中でメリーは優しそうに微笑んでいた。
 私はメリーに触れようと右手を伸ばす。そしてメリーの頬に触れることができた。

「メリー。メリー。私の大好きなメリー」
「ここにいるわよ、ちゃんと」
「うん。メリーはここにいる。ずっとここにいる。私のことを愛してくれる。私の中は今、メリーの愛でいっぱい」

 そう言って、未だに私の中に入っているメリーの右手を掴んだ。

「もうちょっとだけそのままでいて」
「うん」

 私の中は、メリーの指が入っていることを確かめるかのように、時折痙攣し、締め付けを強くした。その痙攣がなくなるまで、私はメリーを中で感じていた。
 引き抜かれたメリーの指は、私の愛液でびちゃびちゃだった。
 これが、メリーがくれた愛に対する私の答え――。

「満たされた?」
「うん。今人生の中で一番幸せよ。今すぐ死んでもいいくらい」
「もう死ぬ必要もなければ、悩む必要もないわ」

 そうね――。

 私は満たされた。心にぽっかり空いた空白にメリーが入っていったのだ。そしてメリーは私の一部になったのだ。まさに一心同体の状態。

「今なら自信を持って言える。どれだけ蔑まれようと、罵られようと、異端だと後ろ指さされようと、言える。私はメリーが大好き」

 私たちはお互いの身体を抱き寄せた。それは私にとって相手の身体であり、自分の身体でもあった。まるで感触を確かめるかのようにメリーの背中や髪や肩に触れた。

 私たちは交わることで、お互いの身体を取り込んだのだ。私の中にはメリーが、メリーの中には私がいる。もはや別人ではない。

 メリーの中にはいつだって私がいる。どれだけ離れていても、メリーという人間を構成するものの一つとして、私は存在し続ける。

 そして同じように、宇佐見蓮子という人間の中に、メリー……マエリベリー・ハーンという存在がいる。私の中にあった空白に、メリーが入ってくれた。そしてそれを埋めてくれた。

 だからもう何も恐れることはない。

 どんなときも、どこにいても、私の中にはメリーがいる。自然体な宇佐見蓮子を映してくれる鏡が、私の空白に埋め込まれたのだ。

 私はいつだって宇佐見蓮子でいられるようになったのだ。

「もう、何もいらないわね――」
「ええ。ずっと一緒なんて約束はいらない」

 身体を密着させるようにお互いの身体を抱いた。密着した私たちの胸では二つの心臓が別々に鼓動を刻んでいた。それはまるで、両胸に心臓があるかのように私たちを錯覚させた。

 まるで、私の右胸にメリーが、メリーの右胸に私がいるかのようだった。
初投稿です。しずおかと申します。
「よかった」と思える人が一人でもいれば、私にはそれで十分です。

メリー視点の続編書きました→マエリベリー・ハーンの闇

twitter始めました→ https://twitter.com/touhounijiss
ぜひフォローしてください。

11/21 追記
こんなにたくさんコメントを頂けるとは思っていませんでした。皆さんありがとうございます。
皆さんのコメントがとても励みになります。次も頑張って書こうという意欲が湧いてきます。

メリー視点で続きを書くかもしれません。
しずおか
コメント




1.甘々を好きにならせる程度の能力削除
良かったです! それぞれの心理描写が出来てて読みやすかったです.有り難う御座いました!
2.性欲を持て余す程度の能力削除
ただえっちぃだけじゃなく色々と考えさせられたお話。
ありがとうございました
3.名前が無い程度の能力削除
現代の京都に住む二人ならではのお話ですね。
これからの二人が荒波に負けないよう祈ります。
4.性欲を持て余す程度の能力削除
じっくりと読ませて頂きました。面白かったです!
次の作品にも期待!!
5.性欲を持て余す程度の能力削除
メリー側の心理が知りたい
6.性欲を持て余す程度の能力削除
とても面白かったです。
蓮子の感性も好きですが、メリーの受け取り方が特にツボでした。
7.性欲を持て余す程度の能力削除
エロいけどエロだけがメインじゃないのが素敵。蓮子が儚げで可愛い。