真・東方夜伽話

さよならセックスフレンド

2013/04/07 14:46:48
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さよならセックスフレンド

SYSTEMA
※ 勝手な解釈がございます。
※ ふたなり描写があります。
※ 細かいこと気にされない方向け。
※ 以上をご理解くださいます方のみお進みください。


















0
 
「ちょっとだけくせっ毛なのね」
「うん」
「顔、見せて」

 真っ白なシーツに顔を埋めていると後ろ髪を押しやられて、雛と顔を合わせることになった。雛は微笑んでいる。
変な奴だ。川上から流されて来た河童に押し倒されたのに。

「その……ごめんね」
「素直でよろしい。一生懸命で可愛かったわ」
「うん」

 雛が綺麗すぎたことや、河童の連中から、いや、山全体から忌み嫌われている彼女が思いのほか好意的だったこと。
それに急に押し倒したのに怒らなかったこと。
そんな事が頭の中を巡り続けていたからベッドの上では『うん』だとか『ごめんね』以上の言葉を発することが出来なかった。
 鸚鵡の方がよく喋っただろう。
私の髪をもて遊ぶことに満足したのか雛はごろりと寝返りをうった。

「ねぇ。もしにとりが良ければだけど」
「うん」
「またここに来ても私は拒まないつもり」
「うん」
「天狗達は私が山に厄をもたらさないか見張ってるでしょう。それに見つかってこっぴどくやられるかもしれないけれど」
「うん」
「その時は私が傷の手当てをしてあげるわ」
「うん」
「ねぇ、私が今何を考えているかわかる」
「うん」
「私も貴女の考えていることが分かるわ。河童の連中に見つかったらどうしようかって恐れてる」
「すごい」
「眠そうね」
「うん」
「もう少しお休みなさい」

 私と雛が初めて体を重ねた時の会話がこれだ。

1

 もちろんこの関係はおおっぴらにできないものだと最初からわかっていた。
雛と交流していることが河童の連中に知られたら、河童という弱い種族に厄を持ち込んだという咎で山を出なければならないからだ。
雛の厄は怖い、そしてそれ以上に河童からはみ出し者として扱われるのが怖い。
そんな風に怖くて近寄れないはずなのに気がつけば雛の家に足を運んでいる自分が居る。寂しかったのだろう。
 隠さなければならない関係を続けていることからくる罪悪感や、恋人でもないのに身体を重ねるという関係のいい加減さを誰かに話してしまいたかった。
だけど怖くて話せなかった。答えを出せない自分に嫌気が差したこともあるけれど
 
「また来てくれたんだ」

 そう満面の笑みで言われてしまったらぐずぐずした言葉なんて何処かにすっこんでしまう。 
それに何も言わない雛を見ていると、これで良いのかとも思ってしまう。
 とにかくこの関係は曖昧な気持ちもろと私の中で完結していた。

 秘密の関係だから目立たないように雛の家で会う事が多かったけれど、雛が私の家を訪れてくれることもあった。
そんなときの彼女はあまり長居ができないからと言い、事を終えるとすぐに立ち去ってしまうことが常だった。
別れ際にはいつも抱きしめてくれたし「また来るからね」と優しく手を包み込んでくれる。
 そんな時は雛との幸せな未来を思い描く。
まだ公にできないけれど時間が経てばいずれこんな関係もどこかにすとんと収まって、その先からはまた二人で落ち着いた生活を始めるのだろう。

「何考えてるの? にとり」
「ううん。何でもない」

 こんな風にじゃれている間は少しだけ面倒な出来事から遠のくことが出来る。
それで幸せだった。
いや、幸せ過ぎたのかもしれない。
終わりは急に訪れた。

2

「にとりってセックスが下手ね」

 一拍おいて、私はネコの爪とぎ台になったつもりはないのだけど。とも雛は付け加えた。
その一言に頭がついていかず、事後の心地よい余韻が消えていく。
火をつけたばかりの煙草をぐじぐじと消して、雛が言った言葉の意味をしばし考えていた。

「煙草臭い」

 先ほどまで交わっていた時の雛は背中に爪を立てて、強く、強く私を受け入れてくれていたのに。
 鮮やかな緑髪の隙間から見えた上気した表情がとてもかわいくて、絶頂の瞬間の時も見とれていたのに。
 それなのにセックスが下手? 煙草臭い? 
棘々しい言葉通り、今の雛は見るからに不機嫌そうな表情を浮かべている。

 何かがおかしくなったのだ。
そう、見えないボタンの掛け違いが幾らか私と雛の間に生まれていて、それが私の知らないうちに限界点を突破したんだ。
気がつかなかったことを一気に取り戻すことはできない。こういうときに焦ると駄目なんだ、と自分に言い聞かせ深呼吸。
雛に焦っていると読み取られないように冷静に――ここ五年くらいで一番冷静に――返事をした。

「どうしたの、雛?」

 その言葉を聞いても雛の態度は怒気を含んだまま。状況は未だに向かい風。
 外では蝉がやかましく愛を歌っている。先ほどまではその声を何とも思わなかったのに今ではひどく場違いなノイズにしか聞こえない。
 
「もう一度言おうかしら? にとりはセックスが下手になったわね。それに話がおもしろくない。気が利かないセックスをする河童の相手をするくらい暇じゃないの」
「うええ」

 五年に一度の冷静さなんてものは雛の前では何の役にも立たなくて、思わず変な声が口からこぼれでた。
怒っているのかな? だけど心当たりがない。
何か言おうとしたけれどすべて喉の手前で止まってしまって、脊椎反射的に浮かんだ安直な言葉でその場をつなぐ。

「雛、大好きだよ」

 雛はむすっとしたまま何も言わない。ベッドの上の雛にそっと手を伸ばして、色白な腕をそっとつかんでこちらに向けた。
抱き寄せ唇を奪おうとしたけれど手のひらで拒否されてしまった。

「そうやって言葉ばっかり。こんな関係がいつまでも続くと思ってるの?」
「何で、どうして?」

 夏場の熱気が籠もる部屋の中で、雛の瞳だけが氷のように冷たくていっときその場の熱さを忘れたほどだ。

「ねぇ、雛ってもしかして怒ってる?」
「逆に聞くけれど、怒ってないように見える?」
「……怒ってる」
 
 私は混乱していた。
考えてもみてほしい。今まで私を受け入れていてくれた雛が突然拒絶の意志を示したらどうすれば良いのだろう。
雛はこちらに背を向けてもう片付けを始めている。その仕草も何処か刺々しくて話しかけると今までの厄を全部ぶつけられそうで怖い。
 
「何で愛想を尽かされたのか分からないの?」
「ごめん、本当に分からないんだ」

 本当に分からなかったのだ。今確かなことは、雛が怒ったような表情を見せていて、私が戸惑っているということだけ。
落ち着きを取り戻すために新しい煙草に火を点ける。
煙草の煙が雛の方に流れた時、雛はあからさまに嫌そうな表情を浮かべて、こちらをみた。まだ何か言葉を期待しているようだった

「雛って煙草が嫌いだっけ」
「嫌い」
 
 ため息を吐くと、雛はそっぽを向いた。

「呆れた。もう帰る。来ないで」
「え、それって」
「この関係はおしまいって事よ。これからムラムラしたら自分でどうにかするか、人里の売女にでも頼みなさい。このエロ河童」
「そう、そんな」
「知らない」

 そう言うと雛は窓から飛びさってしまった。さよならの一言もなかった。
彼女が畳んだタオル地のブランケット。雛の声。先ほどまでは気にならなかったじっとりとした暑さ。
網膜や鼓膜、それに肌から入ってくる情報が脳内で処理されず、頭のどこかに引っ掛かったままだった。
そのせいで私は蒸気機関のように煙草に火をつけては吸う作業を繰り返していた。
やがて少しずつ頭が働き始めた。悪いことが起きたのは間違いなさそうだ。ぼんやりとしていると、指の間から痛みにも近い熱を感じて思わず手を離す。
 
「あ、熱っ!!」

 指に挟んだままの煙草が根元まで燃えていたのだった。
転がった煙草はそのまま床の上を転がって近くの新聞の端に火を付ける。あわてて近くのコップの水を掛けて消火。

「一体なんなのさ……」

 濡れた床と、燃え尽きた吸い殻。

「どうしよう」

 遅れてやってきた不安。雛が居なくなるかもしれない。
私の生活の一部になっていた雛との交わりが消えてしまう。それは、私を受け入れてくれる人がいなくなると云う事。
どうにかしなきゃ元のひとりぼっちの生活に戻ってしまう。
 でも、何をしたら良いのだろう。答えが出なくて、しばらくその場から動けなかった。

3

 ベッドの上で横になっているだけで問題は解決しない。そう気づくまで少しばかり時間を要した。
上が物置になっている二段ベッドからやっとの事で抜けだして、まず私が始めたのは作業場兼、寝室の部屋の中の工具を片付け始めることだった。
 雛に「今度こそ部屋を綺麗に片付けるから」と言っていたのだ。雛が去ってしまった今となっては意味がないことだけれどそれでもやらずにはいられなかった。
 生活にも慣性が働いているのだ。
 改めて自分の作業場兼寝室を見てみるとひどく散らかっている事に気がつく。油臭いしほこりっぽい。重たい工具が危なっかしく積まれている。
 几帳面な雛もよく我慢してくれたと思う。
手始めに重たい工具をうんうん唸りながら持ち上げ、元にあった場所へと戻す。
 身体を動かし始めて五分もたたないうちに着ているシャツが肌にへばりつき、額から涙のように滴る汗が目に入ってくる。
塩辛い。そして何より暑い。
 誰かが私の家の屋根板でバーベキューでもしているのか疑ってしまうほどの暑さ。
窓の外から人通りは見えない、きっとこの暑さでへばっているか溶けて蒸発しているに違いない。こんな暑さの中で肉体労働なんかやってられない。
とにかく作業するのも馬鹿らしくなって、扇風機の前にどっかりと座り、風に身を任す。
暑さは冷静さを失わせるから、きっと雛もこの暑さでどうにかしてしまったんだ。
 それに私もどうにかしているのだ。雛はもしかしたら『またくるね』くらいのつもりで言ったのかもしれないじゃないか。
河童には解せぬ厄神ジョークを言い放って、それの説明もなしに雛が去ってしまい、くだらない行き違いで落ち込んでいるんだ。
こんな時は冷たいシャワーを浴びるに限る。そう決めこめば話は早い。

 狭い風呂場の扉を開くと大きな鏡が一枚あって嫌でも自分の裸を見ることになる。
自分の痩せた身体にはいつも驚かされる。薄い胸を見れば女らしいなんて言葉はどこかに引っ込んでしまうし、下半身に目をやるとショーツの膨らみが嫌でも目に付く。
両性具有の証だ。そんな自分を見ていたくなくて思わず目をそらす。
こいつのせいでいろいろと悩まされてきた。少し違うと言うことで何かと拒絶されてきた我が河童生であった。
悪い思い出はタールみたいに粘っこく身体のどこかにまとわりついてくる。
 蛇口を捻ると冷たい水が勢いよくタイルの上に流れ始めた。
 身体の傷なら治せるけれど心の痛みはそう簡単には癒せそうもない。せめて冷たい水が痛みを麻痺させてくれることを願って少しだけシャワーを強くした。

4

 シャワーで濡れたままだった髪が乾く頃には、外には夕闇が居座り始めており、窓からは凪いだ風が流れ込んできていた。
昼間は暑い妖怪の山も夕暮れ時になると空から涼しい風が吹き込んでくる。
 扇風機の風量を一つ下げて、氷が溶けてぬるくなったお茶を飲んだ。
山に住んでいる頭の良い妖怪は暑い日には夕方から活動し始めるようにしている。私もそろそろ外に出よう。
 部屋にいたって何も解決しそうにないのだから。
 それに、文にカメラの修理を頼まれているからその部品を探さなければならないのだ。
雛のことはさておき今の私にはやるべき事がたくさんある。悲しんでばかりはいられない。
 そんな言い訳を引っさげて、河童の里を歩き回る。この異常な暑さにもかかわらず河童バザーは繁盛していた。
よくわからない大型工具から、ネジだけを売っているお店までもが立ち並ぶ小さな通り。
土埃舞う中を哨戒が終わった天狗の群れがどこに飲みに行こうかなんて話しながら通り過ぎる。
 ずいぶんと賑やかなこと。
威勢の良い氷菓子売りの声が飛び、涼しい風鈴の音があちこちで鳴っている。
 雛は河童どころか他の妖怪からも忌み嫌われているから、この河童バザーの賑わいすら知らないだろう。連れて行けば良かったなんて今更思う。
一通り見て回ったけれど文に頼まれていたカメラの部品は見つからなくて、私は行く当てを無くしてしまった。 
遠くに出来た積乱雲を黄色く照らす夕日の中で、河童バザーはぽつぽつとお開きが近づいてきている。
私の生活は一変したのに皆は同じように過ごしているのが何とも不思議だった。
 全く収穫のない一日だった。雛の事は何も解決していないし、その上頼まれ事だってまともに出来ていない。

 帰ろうかという時になって、ひしめく人妖の中に見覚えのある姿を見つけた。
一人は一本下駄で颯爽と歩いている烏天狗。射命丸文。どうして文が河童バザーにいるのだろう。
もう一人は金髪で金色の瞳の少女だ。茜色のロングスカートを身にまとう秋静葉。
 こちらは文の陰に隠れている。私に気がついているのか分からないから人混みの中でも分かるように大きく手を振ると彼女たちも小さく手を振って応えた。

「にとりさん、こんばんは。カメラの修理はどうですか?」

 文は自前の団扇で顔を扇ぎながら話しかけてきた。

「悪いけれどあれはまだ時間がかかるよ」

 まだ材料すら見つかっていないし、それにあのカメラのレンズを磨くのにまだずいぶんと時間がかかるだろう。

「そうですか……。あのカメラじゃないとどうも調子が狂っちゃっていけないので、なるべく早く修理をお願いしますね」
「文の撮り方だとあのレンズじゃないと難しいだろうね」
「ごもっとも。明るくて、望遠が効くレンズじゃないと、この私の仕事についてこれませんからね」
「特注品だからまぁしばらくは待っててね。そういえば静葉は買い物に来ていたのかい?」

 文の背中に隠れるようにして話を聞いていた秋静葉はぴくっと身体を動かして話し始めた。

「う、うん。その紅葉の準備とかって実は時間がかかったりするし、それに標高が高いところは紅葉になるのが早いから」
「そうなんだ。今年もきれいな紅葉が見えると良いな」

 通り一遍ありきたりな挨拶のつもりで言ったのだけど、静葉はとても嬉しそうだった。椛のように尻尾があったら振っていそうなくらい。

「任せて! 今年一番の紅葉はにとりに届けるから」
「ありがとう」

 会話が終わる頃には静葉の固い表情もすっかりほころんでいた。

「それにしても、暑いね」
「ええ、今晩も熱帯夜ですって」

 静葉も文も暑い空気の中を歩き回ってもうたくさんといった様子だった。
みんなこの逃れようのない暑さでうんざりしている。私は雛のこともあったからなおさらうんざりしている。
 そんな気分転換には、酒が良い。

「じゃあさ、文も静葉もちょっと飲んでいかない? 冷えた麦酒がおいしいと思うんだ」

 不快指数がうなぎ登りのこの季節に、ぴったりの提案は断られるはずもなく、二つ返事で彼女達も行くことになった。
私たちは三人で近くの居酒屋へ向かう。珍しい集まりだけど、気分転換にはうってつけだ。ついでにこの二人に、雛との出来事を話してしまいたいと思った。この二人とは付き合いも長いから、口の堅さは信用している。
それに話してしまえば、雛との関係を戻す突破口も見つかるだろうし。
少なくとも一人で部屋にいるよりは、生産的なはずだろうし。

5

 店内は薄暗かった。
 むき出しになった梁は燻されて黒くなっており、そこにぶら下げられた電灯が店内を鈍く照らしている。
窓の外から吹き込む夕凪が天井の風鈴に当たる度、ちりんと涼しげな音を立てて揺れる。
いつもなら涼しく感じられるけれど、あいにく店の中は河童、河童、時折天狗で覆い尽くされていてその暑苦しさの前では涼しい音なんて効果が無い。
 この店にはたくさん席が有るのに、空いたテーブルは一つも見当たらなかった。

「すごく混んでますね、にとりさんどうします」

 文は言葉遣いこそ丁寧だけれど、態度は気怠げで噂どおりの文だった。

「とは言っても、この店が一番空いているんだよね」

 そんなことを入り口のあたりで文と話していると、静葉が服の端をくいくいと引っ張ってきた。

「にとり、見てあそこの席、あれ椛じゃないかな?」

 静葉の指さす方にはテーブルに腰掛ける哨戒天狗の姿があった。太い木の柱に隠れるように座っているから分からなかったけれど、その姿には見覚えがある。銀髪で刀を提げて少し疲れが漂う背中から見て間違いなさそうだ。

「椛!」

 椛はぴくりと耳を動かし、こちらを振り向いた。

「これは、これは大所帯でにとりに、静葉さん、それに……」

 椛はこちらを一瞥すると、文を見て少し嫌そうな表情を浮かべる。そういえばこの二人は仲が悪かったのだ。とはいっても今更引き下がる訳にもいかない。

「余所の席は空いてなかったんですか?」
「ご覧の有様だよ。椛、悪いけれどここに座っても良いかな?」
「にとりの頼みとあらば仕方有りませんね……」

 椛が近くから空いた椅子を一つ持って来て、近くの店員に麦酒とナスとオクラと大葉の天ぷらを注文する。間もなく料理と酒が運ばれてきて宴会は始まった。

6

 煙。

 ひと筋の煙が灰皿から立ちのぼっている。煙はときおり空中で迷ったかのように旋回して、また上昇をする。そのうねりは龍を思わせた。
灰皿から生まれた龍も光の当たらない闇を通り抜けるあいだは姿を消し、大げさで湿っぽい恋の歌を流すスピーカーの前で再び存在をはっきりとさせた。
けなげに天井へと向かい昇っていた龍も流れ込む夕風には勝てなかったらしく、天井に行き着く前に散り散りになってしまう。そんなものなのかもしれない。
煙草は目の前のテーブルの上で未だにくすぶり続けている。
 酒の勢いもあってか、雛と私の関係について皆に話したのだけど、皆固まったままで反応がない。

「この話は、絶対秘密にしておいてね。河童たちから閉め出されるとこれからやっていけないんだ。
ところでみんなどうして黙ってるの? 何かおかしいのかな?」
「「「全部おかしい」」」
「うええ」

 その場にいた全員からの容赦ない返事におかしな声が出て一時的に店の中の視線を集めてしまった。
居心地悪そうに相席しているのは私を含めて四人。居酒屋に出会う途中に出会った静葉と文。そして寡黙な椛。
雛との美しい思い出に対して肯定的な反応もいくつか返ってくると思ったのに、案外皆冷たい反応だった。

「にとりと雛が手を繋いで山を歩いている所なんて見かけたことがありませんけれど」
「だって、雛の家に行ってそれで、ご飯食べて、話して、セックスして、家に帰るだけだったし。それに光学迷彩を着けてたから
 雛の家に向かう私を見つけた奴なんて居ないよ」

 そう言うと椛は信じられないと言った表情でこちらを見つめる。

「付き合えば良かったんじゃないですか?」

 と、文。

「河童も大変なんだよ? 河童の連中は雛の厄が苦手なんだ。
 だから私が雛と付き合うなんて言ったら、研究のための材料の仕入れが難しくなるんだ。
 それに体の相性だってよかったんだよ? すごく楽しかった。なんで雛に嫌われたのかわからないや。ねぇ文、これって終わってしまったのかな?」
「にとりさん、貴女は自覚していないかもしれないですけど、それ結構最低ですよ。終わるも何も始まってもいない駄目な関係じゃないですか」
「そこまで言わなくても良いじゃないか。ねぇ静葉どう思う?」

 今度は返事がなかった。静葉は顔を青ざめている。
沈黙がいたたまれなかったのか椛は「急にそら豆の天ぷらが食べたくなりましたね」なんて言いつつ居酒屋のメニューがどこに行ったのか探している。
 何処かで手違いがあったのか、結局タニシの唐揚げが出てきて、静葉が小さく悲鳴を上げた。
彼女の頭の中はタニシのことでいっぱいなのだ。私の話なんてどうでも良いのだろう。

「この前、にとりさんったらさんざん私におのろけを聞かせていたのにもうこのざまですか。
私はにとりさんが誰かと正しい関係を持っていたものだと思っていましたから、何も言わなかったのに。相手は、彼の厄神で、その上身体だけの関係なんて」

 皮肉混じりの言葉を言うと、文はグラスの酒を飲み干した。

「そんなこと言われたって。そうだ! 文、これは記事にしないでね」
「しませんよ、痴話げんかは犬も食わないって言いますし。そういえばここも何故か犬の匂いがします」

 そしてちらりと椛の方を見た。椛も視線に気がついたのか、とげとげしい視線を返した。
この二人は本当に仲が悪い。ひとしきり見えない火花を散らして二人はやっと視線をそらした。

「にとり、本当にそんなことしたの? 天狗の社会なら、首に入れ墨を打たれてもおかしくない」

 そんなこと作り話の中だけの話かと思っていたよ、と椛はやっとの事で口にした。
普段は誰かの悪口なんて言わない真面目な椛にまでそんなことを言われるとさすがに返す言葉に困ってしまう。

「やっぱり変なのかな」
「変ですね」

 静葉も何か話そうとしていたけれど喧噪の中で彼女のか細い声は忽ちかき消されてしまった。
結局静葉はそれ以上言葉を紡ごうとせず、諦めたような表情で窓の外を眺めただけだった。いかにも静葉らしいなと思った。紅葉を司る神がやかましいはずはない。
 一方やかましい文は飲んでいたグラスを机に音を立てて置いてから話し始めた。

「もう一度確認しますけれど、にとりさんと雛さんは恋人同士じゃ無いんですね」
「そう……だね。好きだって言ったことは無かったし……」

 それなのに、こんな関係をしていたんですか、と矢継ぎ早に言葉は紡がれる。 

「うん……、そうだね」
「にとりさん、そう言う身体だけを伴った堕落しきった関係って何て言うか知っていますか?」
「何て言うの?」

 人差し指をぴんと立てて、紅潮した顔で文は言い放った。

「セックスフレンド!」

 沈黙。皆の反応が薄かったのが気に入らなかったのか、文は再びグラスの酒を傾け始めた。
私は再び煙草に火を着けた。
独りになりたいときに煙草を吸うのだ。たとえこんな喧噪の中でも煙草を吸っている時間は自分だけのもの。

「それはさておきどうしたら良かったのかな」
「雛さんはその中途半端な関係に嫌気が差したんでしょう。もうどうしようもない過去の話です、はい終わり」
「それじゃあ、告白して、ずっと居ればいいの?」
「そうですよ、きっと貴方には出来ないでしょうけれどね。何の覚悟も無いへなちょこですから」 

 艱難辛苦を乗り越え、何とか繋げてきた関係をセックスフレンドなんて言う簡単な言葉にまとめられてしまうのは、少々癪に障った。そのうえ、へなちょことは。
そんな言葉じゃ表せない程、深い関係があったと思っているのに。

「ねぇ椛。セックスフレンドだって。ひどいと思わないかい」
「どうでも良いです」

 そう言って、再び椛は手元の酒に再び手を伸ばした。

「『恋は錠前屋をあざ笑う』だとか何とか言っていませんでしたっけ? 恋に落ちたら種族だとか関係ないとかも聴いた気がします」

 文は意地の悪そうな表情をしながら話しかけてきた。
 確かに言っていた。相手は雛だとは言わなかったけれど、確かにそんなことを文に向かって言い放っていた気がする。
今の私にとっては自分の愚かさを証明する言質以外の何物でもなかった。恥ずかしくなって、帽子を深く被り直す。
それを見てきまりが悪くなったのか文は麦酒を飲み干した。

「はぁ」

 誰からが吐いたため息がその場にゆるゆると漂って、しばしの間沈黙が続いた。もう、面倒くさくなってきた。
目の前のグラスの中には何もかも忘れさせてくれる魔法の液体が満ちている。

「おかわり」

 そう言って格別濃い酒を注文した。やかましい店内だから一度では店員が気づかなくて、何度か叫んだ気がする。
運ばれてきた酒を一気に飲み干し、また「おかわり!」何度か繰り返す内にグラスの中の液体が減る速度が遅くなる。それが止まった瞬間に急に意識が遠のいた。

「そういえばにとりさんって下戸でしたよね」

 という文の言葉が居酒屋で聞いた最後の言葉だった。

7

 ―――すき――――
 
 そんな声が夢うつつの中で聞こえてくる。
誰かの声だというのはわかるのだけど、あいにく私の脳はタールのように蕩けているから何が何だか。
意識をそちらに向けようとしても、酔った頭は言うことを聞いてくれない。
 
 ――――じゃあ。私はこの辺で――――

 声が途切れた辺りでだんだんと意識が戻っていく。
ゆっさゆっさと上下に身体が揺れているのは、誰かの背中にしがみつきながら運ばれているからだろう。
それに身体にまとわりつくような熱気からして今は外にいるのだ。どうしてここにいるんだろう。わからないや。
酔いのせいで失った理性を呼び戻してくれたのは、おぶってくれている文の声だった。
 文は心底うんざり、といった調子でにとりさん、と話し始めた。

「あの、にとりさん? 発情してるんですか?」
「なんで?」
「いや、その背中に、ああもうめんどくさい。何で勃起しているんですか!」
「ごめん、その文の羽みたいにうまく仕舞えればいいのだけどね。こればっかりは仕方ないよ。宿命さ」
「その台詞全然格好良くないですよ。このツケはいつか払ってもらいますからね」

 それから文に背負われたまま、夜の山道を下っていく。山の天気は変わりやすく、先ほどまで穏やかだった空にはごうごうと強い風が吹き荒れている。
辺りは真っ暗になっていてよく見えない。こんな中じゃ、文でさえ私を背負ったまま飛ぶなんて芸当は出来ないだろう。

「にとりさんは、雛さんのことが好きなんですか?」
「好きだよ」
「それを本人に言って、付き合おうと言えばだいたい解決したと思うんですが」
「そうかな、雛の気持ちが分からないからなんとも。雛はあれで良かったのかもしれないし」
「それならあの分離器とかいうぐるぐる回るのに雛さんを掛ければ分かるかもしれませんよ」
「そんな酷い事しないよ」
「機械屋は何でも理詰めで解決しそうですが」

 そう言って小さく文は笑った。

「何というか、雛の心の中って読めないんだ」

 雛の心は全く読めない。それは複雑すぎて理解が出来ないと言うより、雛の心があまりにもガラスのように透き通っていて、心の在処が掴めないからかもしれない。
 彼女を見ていると、自分たちの心というのは日々の生活の中で溜まった塵の集まりか何かかと錯覚してしまうくらいだ。
例えば、特にみんなに嫌われているのに河に流されて来た妖怪を介抱したり、そいつが文句を言おうが笑顔で送り返したり。その上、厄を集めたりして処理する。
 並の神経じゃできないと思う。私なら一日で投げ出すだろう。雛は苦しくないのだろうか。心配しても彼女はいつでも笑って過ごしていた。

「仰るとおり分からないです。なぜにとりさんみたいな妖怪を相手にしようと思ったんでしょうか。
 全く不釣り合いですよ。雛さんは美人過ぎますし、彼女は慎み深い。それに対して貴女みたいな馬鹿と」
「そこまで言わなくても」
「冗談です。それでもああいう笑顔を貼り付けている人って言うのは基本的に信頼しません。必ず裏があると思うんですよね」
「そんなこと無いよ。雛のそんなところ見たこと無いもの」
「それも含めて分かってないんじゃないですか。にとりさん。自分の見ていたい姿がその人のすべてではありませんよ」

 それじゃ、と言って乱暴に玄関口に下ろされる。尻餅をついた拍子で再び酔いが回ってきて。半分脱げた長靴を履き直す。

「それじゃあにとりさん、またカメラが直りそうになったら連絡してください」
「うん」

 そう言うと、文は少しだけふらつきながら飛び去っていった。
玄関を開く。昼間の熱を残したままかと思っていたら案外寒い。それもそのはずで雛が開けた窓がそのままだった。
雛が開けた窓を閉めようとしたところで、再び意識は途切れた。

8

 翌日の始まりを教えてくれたのは、蝉の声と濡れたシャツの粘っこい冷たさだった。
酔って学んだことが三つ有る。
酔っていたら何があっても眠りにつけるという事と、朝方に汗びっしょりのシャツで寝ていると寒いという事と、こんな馬鹿みたいな事を笑ってくれる人はもう傍には居ないと言うことだ。

9

 再び日が照り始めていた。このままだと蕩けた気分で一日を過ごすことになるだろう。沈んだ気持ちを紛らわせようと目的もなく出掛けることにした。
いつもなら川の下流にある雛の家に向かっているのだけれど、「もう来ないで」という拒絶の言葉を思い出して立ち止まる。
玄関口でどこに向かおうかと思案している私を容赦なく太陽は照らし、身体に残ったまともな神経をすり減らし続ける。すべて太陽のせいだ。
涼もう。それなら川の上流あたりが良い。
 上流に向かうにつれ渓谷は深くなり巨岩、奇岩が増える。凛とした空気があたりに漂っていて、思い切り空気を吸い込んだ。
水量が少ない中州では、木が生い茂っていて、所々に出来た水たまりに光が跳ね返って青々とした緑に光の模様を落とす。
 そんな中でひとり石に腰掛け河の流れに足を濡らすとまともな気分になれるようだった。
川の上流の方が水は澄んでいるから好きだと雛は言っていた、だけど私が上流に行くと河童達が厄を嫌がるだろうし行けないとも言っていたのだった。
 河童思いな彼女が言っていたとおり何匹かの河童たちが轟々と音を立てる小さな滝の下で楽しんでいる。無邪気だと思う。
あの河童たちに雛との関係をばらしてしまえば、少しくらい気は紛れそうだろうけれどそうなったら山を出るしかない。
川の流れを見ていると、雛との出会いを思い出す。

雛。

 私が酔っぱらって下流に流された時に、雛が介抱してくれたことが始まりだった。
酔って焦点が合わなくなった視覚が鮮やかな緑の髪、血に染まったかのような真っ赤なリボン、そして人形のように白い肌を映し出したときは驚きのあまり声が出なかった。

「まだ、頭が痛い?」
「う、うん、もう大丈夫だから」

 例の厄神様に関わってしまった。一刻も早くここから逃げないと、と思ったのだけど、

「ずいぶんと、厄が溜まっているようだけれど?」

 雛はベッドから起きようとする私を無理矢理ベッドに押しつけて、身体に異常がないか心配してくれている。怖がらせないようにしているのか出来る限り距離を置いている。
「厄神にはあまり近寄らない方が良い」と皆が口をそろえて言っている事が頭をよぎった。河童内での「あまり」はほとんどの場合「絶対」ということだ。
ルールを破れば集団という頭のない巨大な魔物に踏みつぶされて死ぬ。
私は自身が両性具有のせいで、そもそも何度も魔物に踏みつぶされていて、その上またこんな厄に出会ったことで半分あきらめ始めていた。もう何でも来いと。
雛に初めて会ったとき哀れみを感じた。この子もきっと悲しい思いをしているのに違いないから。

「ねぇ、河童さん? 何かあるんでしょう。お話ししてくれないかしら?」

 私にとっての秘密とは、自分が両性具有であることだ。
自分が両性具有だと打ち明けた相手は雛だけじゃなかった。これまで出来た友達以上恋人未満の相手に何度も話した。
 今度こそはわかってくれるだろう。なんて甘い期待はこれまで何度も裏切られて来た。
でもこの人なら、こんなに嫌われている人なら私の事を話しても問題ないだろうと思ったのだ。
川の流れのように止めどなく溢れ出す愚痴に半分溺れながら、私は話し続けた。雛は私のその悩みを笑うこともなく、また奇異の目で見ることもなくちゃんと話を聞いてくれた。

「それは、大変だったわね」
「私は変なのかな」
「いや、そんなことないわ。大丈夫」

 嬉しくて、嬉しくて、抱きついて、そのまま押し倒した。

 雛は拒絶をしなかった。ただただ「寂しかったのね」と慰めてくれた。優しい言葉と共に抱きしめてくれた。
雛は厄神という難儀な仕事を引き受けているのに、世間擦れしたところもなく、どちらかと言えば情け深い性格だった。
そんな優しさを知っているのは、私だけ。皆にもっと雛の良いところを知って貰えば良いのにと言ったことがあるけれど雛は

「そんなものよ」

 と、彼女なりに満足しているようだった。
そんな雛が大好きだった。どんなことがあってもいつでも優しい。どれだけ辛くても、笑っている。
やりきれない思いも彼女の前では太陽の下の雪のようにすぐに溶けてしまうんだ。
雛と出会ってから、私は毎日鏡(知り合いの河童から貰った半分割れたやつ)の前で髪を梳かすようになったし、せっせと夜遅くまで作業をすることをやめたりもした。
むろん雛に一番の笑顔を見せるためだったりもする。
次は自分の部屋――部屋の中の物が自由意志を持ち始め、あちらこちらに勝手に歩き出したかのように物が散らばった部屋――の片付けをしようとしたときに私たちの関係は終わってしまった。

「また今度は、紅葉でも見に行きたいね」
「そんな現場仲間の河童達に見られたら、貴女おしまいでしょう?」
「そうかも……」
「寂しいわね」
「うん」

 発明がしたくてその言葉に甘え続けていた。発明は一人じゃ出来ない。仲間内で知識を交換しあって、少ない材料を分け合ってやりくりしている。その輪から外れてしまえば何も出来なくなる。

10

 川の傍でうつらうつらとしていると遠くから、にとり、にとり。と呼ぶ声がした。雛の声はこんなに通る声だっけ? 細くて、時々揺れるような声色だった気がするけれど。
声のする方を見ると、空から舞い降りてくる白狼天狗の姿が見えた。椛だ。

「にとり。こんなところに居たんですね」
「やぁ椛、仕事は良いの?」
「今ちょうど終わったところです。こんな炎天下なのに引き継ぎに時間がかかっちゃって、汗だくになったので水浴びでもしようかと思ったんですよ」

 言葉通り椛の額はじっとりと汗ばんでいる。

「にとりの部屋みたいに、いつでも汲み上げた水を浴びられたら不自由しないんですがね。ところでにとりは何を?」
「ん、いや、ちょっとした気分転換さ」
「ああ」

 あのことね。と言ってから椛はしばらく黙り込んだ。またもや蝉の声がその場を支配し始めていた。
椛はしばらく頭上の楓を見てから、こじれた空気を戻すかのように話し始めた。

「よし! にとり、泳ぎましょう」
「え?」

 服が濡れるといけませんね、と言って椛は上着を脱いだ。引き締まった上半身はサラシ一枚で包まれている。
筋肉が薄く貼り付いた腕で私の腕を掴み、そして椛は清流に向かってずんずんと歩いて行った。

「え、そのままぁ!!」

 ざぶん。という水の音に声はかき消される。こぽこぽという水泡の音が数秒続き、捕まれていた腕をふりほどき水面に顔を出した。
椛は近くの浅瀬でほどけかかったさらしを巻き直そうとしている。

「たまにはこうして泳ぐのも悪くはありませんね」
「あー、椛のせいで煙草がびしょ濡れになっちゃったじゃないか」

 胸ポケットのファスナーを閉め忘れていて、そこに入れていた煙草はぐずぐずに溶けている。

「にとりって余り川で泳いでいないでしょ? 煙草の匂いがします。私、その匂いあまり好きじゃないんですよね」
「ああ、ごめんね。狼も大変なんだよね。そう。椛の言うとおり川には来てないけどさ。椛だって理由は知ってるでしょ?」
「例の厄神ですか。川に来られないほど熱を上げていたみたいですね」

 椛が蹴飛ばした水が顔にかかる。

「そう。雛もひどいよね。そんなに好きだったのに訳もなく振るなんてさ。まぁ私もひどかったけれど」
「ひどい人にひどいことをする貴女はもっと質が悪いと思いますけれどね」 

 椛の声のトーンは低くなり、表情はいくらか怒気を含んでいる。加えて軽蔑の表情を浮かべられていたら私は立ち直れなかったかもしれない。
やはり自分がしてきたことはそんなに非道かったのだろうか。返す言葉もなかった。返事をしようとしたところで、椛の姿が見つからない事に気がつく。

「椛? あっ! おおぉぉぉ!?」

 足首をぐいっと掴まれその場でバランスを崩す。気がつけばまた水の中。
もがきながら水面に顔を出すとびしょ濡れで髪から水をしたたらせる椛が笑いながら立っている。

「今のは冗談ですよ、そういうずれたところもありますが、にとりは良い人です」

 屈託のない表情で椛は笑う。どうやら彼女なりの励ましなのかも知れない。真に受けちゃうなんて自分らしくもない。

「それにしてもにとりは泳ぐのが苦手ですね。私ごときに引きずり込まれちゃうなんて。これぞ河童の川流れ」
「ほう」

 上手いことをいったつもりなのか、得意げな表情だ。
 河童として、水に生きる種族として、これは挑戦と受け取って良いだろう。すぐさま水面に潜って、今度は椛の足を掴んで水中に引きずり込んだ。
水が透き通った川の底をすれすれで泳ぐ。時折水面に戻り、また水中旅行へ。
 息継ぎをしながら、騒ぐ椛。

「あ、ちょっとにと……うわあっ!!」

 椛もあまり泳ぎ慣れていないのかもしれないし、溺れられては困るから岸の方に近づいた辺りで手を離した。
岸に上がってからの椛は空気のありがたさを確かめるように深呼吸をしている。 

「やはり河童には勝てませんね」
「椛は犬かきしかできないかも知れないけれど、河童は平泳ぎもクロールも潜水もお手の物なのさ」
「何ですかそれは」

 袴の裾を絞りながら椛は笑った。久しぶりに河童らしいことをして、どんよりとした気分もずいぶんと紛れたけれど久々に動かした体が悲鳴を上げている。
 適当な木陰で休もう。びしょ濡れの服から滴る水が熱を帯びた河原の石の上に黒い筋を残し、すぐに蒸発して消えた。木陰は涼しかった。
 暑い空気が漂う中で吹き付ける微風が、みずみずしい椛の髪の毛を揺らした。
 椛が髪を靡かせる姿をはいかにも狼と言った様子で見入ってしまう。
文明社会から自然に戻っている時の椛は綺麗だった。逆に椛が文明や組織の象徴である帽子を被ると、どれほど元気でも疲れが見えるのだった。
もっとも本人は自分の事は何の取り柄もない普通の哨戒天狗だと信じていたし、鹿の方がよっぽど綺麗だとこぼしていたけれど。それでも彼女は綺麗だった。
 そんな彼女と何の変哲もない私が話せるのは将棋を指しているからだ。将棋が無かったらここまで仲良くなれなかっただろう。

「一局お相手をして頂きたいのですが」

 白狼天狗は怖い奴ばかりかと思っていたから、河童相手に敬語を使う椛をみて私は驚いたんだっけ。
そのうえ椛は性格も温厚で人望も厚い。そこに付け入る輩も居るけれど、それを「仕方ない」の一言で済ませられる強さもある。
出会って話すうちにそんな事も分かってきた。

「水の中って綺麗なんですね。にとり、今度泳ぎ方を教えてくれませんか?」
「良いよ、まぁかせといて!」
「そういえば、夏みかんがあるんですが、どうですか?」

 そう言って、盾の下から夏みかんを一つこちらに投げてよこした。

「ありがとう、頂くね」

 口に放り込んだ夏みかんから甘酸っぱい香りがいっぱいに広がる。疲れた身体に染み渡るようだ。
しばらく二人でもぐもぐと食べ続けた。
半分くらい食べてしまった時に不意に椛は話し始めた。

「この前の居酒屋で話してた時、にとりのことをすごいなって思いました。あれだけ自分の思いを持てるなんて。にとりは、雛さんと居て楽しかったですか?」
「今思うと我が河童生最良の時だったよ」
「そうですか。私はそう言う色恋沙汰には疎くて。いろいろと話を聞きたいです」
「なに? 椛も好きな人でも居るの?」

 ん、まぁ。と言葉を濁しながら椛は頷いた。

「それはどんな人なの?」
「一言で言い表せないですね」
「じゃあ、その人のどんなところが好きなの?」
「それは言わなきゃだめですか?」
「うん、聞いてみたいし」
「えっと、その。秘密にしておいてもらえませんか?」
「もちろん、河童の口は堅い事で有名なんだ」
「あはっ。そうですか。すごく女らしいところ、ですかね」
「女らしい?」
「そう、一見強がっているように見えても。どこかすごく繊細な部分を持っているんです」

 木漏れ日を手で追いかけながら、椛は話を続けた。

「でも、相手がとても綺麗でか弱いから、がさつな自分が似合うかちょっと分からなくて」
「そういう凸凹な関係ほどお互いの良いところ見つけやすいと思うんだ」
「そうですか?」
「もちろん喧嘩も多くなるだろうけれど」

 それは嫌ですね、と椛はつぶやいた。

「どうしたら相手が喜ぶんでしょうか」
「んー。相手と一緒に過ごしてあげることが大事じゃないかな?」
「なかなかそう言うことを言い出しにくくって。いつも相手から来るんです」

 きっかけが自分から作れないから困るんです。

「そう言う時は西瓜でも持っていけばいい」
「西瓜?」
「そう。ただ持っていくだけじゃだめで、一緒に西瓜を食べませんかって言うんだ」
「ほうほう」
「いいかい西瓜を持って行くんじゃなくって、西瓜を食べる時間を持って行くんだよ。西瓜を食べながら何でも話したら良い。美味しいものを食べながら喧嘩するような奴は早々居ないから」

 これは雛の受け売りだ。

「なるほど。それにしても何で西瓜?」
「夏みかんだとすぐに食べ尽くしちゃうからね。二人がゆっくり食べることが出来て、この季節だとおいしいもの、つまり西瓜になる わけ。ごちそうさま椛、蜜柑美味しかったよ」
「どういたしまして」
「振られちゃったから、話半分で聞いておいてね」
「いえ、十分参考になりました。私もその人とのこじれた関係を直したいんです。今は上手くいかないけれど」
「上手くいくさ」
「うん。覚悟はしたんです。もう後悔はしたくないですから。また上手くいったらにとりにも知らせようかと思います」

 椛は立派だ。ちゃんと覚悟を決めてる。
 西瓜を何処で調達しようかと話す椛はとても嬉しそうだった。
まじめな椛だって恋をしている。意外だったけれど彼女には私のような思いをして欲しくない。
他人事だけど彼女の恋が叶うようにと願わずにはいられなかった。
 
11

 それから数日が経った。

 雛が居なくなった分だけ一日の時間が延びてゆき、いたずらにシャワーと扇風機の前を行き来するような生活が続く。
雛と過ごした時に過ごす暑さは二人にとっては単に楽しむための出来事の一つでしか無くて、雛さえいれば何処でも笑って過ごせたのだ。雨の日も、冬の日も、風の日も、こんな日照りの日でさえも。
そのうち時間が経てば体が独りに慣れてゆだろう。そんな事を独りでぼんやり考える。ぬるくなった白桃の缶詰をほおばっていると次第に空が曇ってきた。
 ここ数日頑張りすぎた太陽も、ここに来てスタミナ切れになったらしい。山の天気は変わりやすいから、そのうち涼しい雨が降るだろう。
雨の音を聞きながら作業すれば少しは捗るかもしれない。窓の外を見ていると文からカメラの修理を頼まれていたことを思い出した。
 河童のバザーに向かい、やっとのことで透明なガラスを手に入れた。
雨音に耳を傾けながらお椀のように窪んだ砥石にガラスを擦りつけ、磨いていく。単純な作業だが奥が深い。
 少しくらいなら雛のことを忘れられそうな気がして夢中になって磨いた。
 
12

 その日は何枚か割れたレンズが出来ただけだった。それでも独りの時間をやり過ごせて私は満足していた。
 懐から煙草を取り出し火を点ける。
外から流れ込んだ涼しげな風に煽られた煙が部屋の中で渦を巻いている。今夜は快適に眠ることができそうだ。眠たくなるような静けさが、部屋の中に降りてくる。
 二本目の煙草をもみ消そうとしたとき、また、誰かが玄関のドアをノックする音が聞こえた。
 文だろうか? それとも椛だろうか? 大穴狙いで雛に掛けてみる。
そこに立っていたのは予想外の人物。

「こんばんは、にとり。今、お邪魔しても良いかしら?」

 返事に少しだけ時間がかかった。

「静葉?」

 外に立っていたのは秋静葉だった。彼女は傘を持たずにここまで来たのか茜色のスカートは濡れている。

「どうしたの? 幽霊でも見たような顔して」
「い、いや。なんでもない。ところで静葉、身体が濡れてる」
「ええ、雨に降られちゃって」

 神様は風邪を引かないなんていう話を聞いたことがないから、まずは上がって貰おう。

「濡れたままだと、身体に障るよ? こんな汚いところでも良かったら上がっていって」
「ありがとう。それじゃあお邪魔するね」

 落葉させるときに樹を思い切り蹴り飛ばしているのに、こんな時だけは礼儀正しいね、と伝えると静葉はばつの悪そうな笑みを浮かべた。
静葉はタオルを受け取って、椅子に腰掛けるとしばらく何か考えているようだった。やがて話し始めた。
 秋はまだ始まっていないけれど、順調に準備は進んでいる事。
今年は雨の日と晴れの日の割合が良い按配だから、豊作になるだろう事。云々。
 一通りありきたりな話題を出し尽くし、しばし沈黙が生まれる。

「その、この前にとりが酒場で話してた事なんだけど」

 と静葉は切り出した。

「今、にとりって恋人が居ない訳よね? やっぱり寂しい?」

 静葉も椛と同じように私を慰めに来てくれたのかもしれない。
良い機会だからと思って、今の自分の気持ちを振り返ってみることにした。レンズを磨いている間は雛のことを考えなくても良いけれど、やっぱりまだ寂しい。

「うん。とても寂しいよ」 

 しばらく続いた沈黙が気まずくて近くの煙草を咥えて火をつける。くゆらされた匂いが辺りいっぱいに広がる。そして吐いた。
煙が部屋の隅に流れた頃になってようやく静葉はこちらを見据えた。真剣な眼差しだ。

「私じゃだめかしら?」
「え……」

 はっきりとした口調で静葉は続ける。

「もしにとりが私と居れば、河童たちにも嫌がられることはない。にとりだって発明を続ける事だって出来る」

 何も言えない私に向かってさらに一言。

「私はにとりが好きです。付き合ってください」

 静葉に対しては、悪い感情は抱いていない。
彼女は雛のように派手では無い。だけど彼女は静かで素朴な綺麗さを纏った純粋な神様だった。静葉、しずは。
こんなだめな私を好きになってくれた人が目の前にいるのに、雛との事がまだ頭の中に残っていてすぐには返事が出来そうにない。

「すぐには返事が出来ない。ちょっと今混乱しているから。色々考える時間が欲しい」

 我に返ったように、静葉は慌てだした。
 
「そうよね。急に変なこと言っちゃってごめん」
「いや、そんなことはないよ。静葉、返事は明日にしても良いかな?」
「うん。待ってる」
「じゃあ。明日のこの時間に来てくれたら返事をするよ」
「うん」

 それじゃあ、と立ち上がって玄関に向かう途中、静葉は立ち止まり目をぐしぐしとこすっている。
ウェーブのかかったボブの金髪も揺れた。

「にとり、ちょっと目にゴミが入ったみたい。見てもらえないかしら?」
「うん、ちょっと待ってて」

 静葉に近づき、金眼の瞳をちらりと見る。どこも変わった様子が無い。

「どっちの目が」
「よく見て」
「うん」

 次に瞬きをした瞬間、軽く唇同士が触れあっていた。

「っ、静葉?」
「ごめんね、こんなの卑怯だよね」

 目を潤ませる静葉。動けない私。

「――気にしてないよ」

 実際は静葉の紅潮させた頬や楓の髪飾りのせいで頭の中が真っ白になっていただけだった。
目を伏せていた彼女が、上目遣いに微笑んだ。

「にとりって優しいのね。ありがとう。それじゃあまた」

じゃあね、と言って静葉は去っていった。唇の感覚に気を取られて家の扉が開きっぱなしだと気がつくまで五分を要した。 

「はぁ」

 安堵のため息を吐くと、その場にへたり込んでしまった。震える手で自分の唇を触れると、僅かに湿っている。

「静葉、か」

 言葉も煙草の煙も部屋の中を漂って、やがて消えていった。

14

 静葉の言うように、私は発明を続けたい。そしてそんな私の傍で笑ってくれている人が居れば、これ以上ない幸せだろう。
 静葉。私にはもったいない位の神様だ。そんな彼女が私の傍に居てくれる。
自分の発明を捨てて雛の元に向かうか、静葉と付き合って発明を続けつつ幸せを感じる日々を続けるか。 
選択肢が急に目の前に現れて戸惑っていた。そのせいで身体はどこまでも疲れているのに一睡も出来ない。
 選択肢があると云うことはそれだけ恵まれた環境にあるのだ、なんて昔の偉い人が話していたことを思い出す。
それにしたって、こんなにも幸せだなんて気がつかなかった。

15
 
 朝目が覚めても、昼の暑さをやり過ごしても、夕凪に身体を冷ましても静葉への返事は決まらない。
夜が来るのが怖かった。イエスかノーか伝えるだけなのに、その答えすら出てこない自分は頭が凄く悪くなったみたいだ。
静葉と楽しく過ごすか、雛に戻るか。どちらが良いのだろう。
妖怪の山がてっぺんから夜の深みに沈んでいく。夕日が沈み、その後の小暮が消えかかった頃に静葉はやってきた。

「こんばんは、にとり」
「こんばんは、静葉」
  
 何処かぎこちない挨拶を交わすと静葉は椅子に腰かけてこちらをじっと見た。私の言葉を待っているようだった。
今一度、頭の中でこれからの日々を思い描く。
色づいた楓のトンネルを彼女と歩いている姿が頭をよぎった。指を絡めて手を繋いで、夜が明けるごとに静かに秋に染まっていく日常を彼女と過ごす。
朝起きれば静葉が傍に居て、金色の髪をなでて小声で話をする。それは、今の私にとって何よりも足りない、素朴で暖かみのある生活だろう。それなのに。まだ雛と過ごした日々が私にまとわりつく。

「静葉、色々と考えて見たんだけど、まだ答えが出ないんだ。静葉のことは好きだよ。だけどまだ雛のことが頭の中に残ってて」

 今感じていることをそのまま伝えた。静葉はうん、うんと頷いて何かに納得している様子だ。

「そっか。それは残念……にとりは、まだ迷ってるのね」
「うん」

 静葉は小さくため息を吐いた。昨晩いろいろと考えてたんだけど、と静葉は切り出した。

「もう迷うくらいなら、雛の元に向かった方が良いんじゃないかなって私は思うの」
「どうして」
「だって、にとりの心の中に有る天秤の片方には雛が乗っていて、もう片方には私とか、これから造るかもしれない発明品が乗ってるのよね」

 静葉は部屋の中を見回した。 

「この部屋の中にあるたくさんの機械や、道具の重さが私の方には乗っているの。それでもにとりの心の中で天秤が行ったり来たりしている」

 昨日はずるいことをして惑わせたりしてごめんね、と静葉は謝った。

「でも私と雛だけで天秤に掛けたら、勝てるはず無いもの」
「静葉……」

 精一杯の笑顔。だけどその裏で静葉は泣いている。やがて静葉は懐かしそうに話し始めた。

「私って秋以外は取り柄がない神様だから天狗に馬鹿にされてた事があって。大変だったときがあったの。でもある日からぱたりとそういうのが無くなったわ。
理由を調べてたらにとりが椛に言ってくれた事があったわよね」

 昨年の夏くらいに確か下っ端の天狗達が静葉をからかっていたから椛に言ってやったのだ。そのあと静葉にお礼を言われたんだっけ。

「その後ありがとうってにとりに言ったら「気にするな」って笑ってきゅうりをくれたでしょ? 
 二人で川辺に腰掛けて、にとりは最近の発明品が失敗したとか、ロケットが河童の里の近くに墜ちてこってり絞られた話をおもしろおかしく話してくれたから嫌な気分も全部晴れちゃった。
 あの時のにとりがとても頼もしくて
 楽しくて
 優しくて 
 大好きでした」

 この部屋だけ、妖怪の山から切り離されたように静まりかえっていた。

「にとりは、まだ雛のことが好きなのよね?」
「うん……雛は私の事を分かってくれた人だから」
「それなら良かった」
「でも、もう関係を戻せるか、分からないんだ」
「にとりには、もっと格好良くいて欲しいから。だから、後悔しないで。私は貴女のことが大好きだから、幸せを願ってる」
「静葉、おかしいよね、私ったらぐずぐずしてるからいつもこんな風になっちゃうんだ」
「私もよ。ちょっとおかしくなっちゃったみたい」
「静葉?」

 静葉の肩が細かく震え始めた。

「今日は泣かないって決めてきたはずなのに……。お願い、涙よ止まって」

 静葉は、声も上げず肩を震わせて泣いていた。
顔を押さえていてもこぼれ出る涙は白熱球の明るい光の元で照り輝いている。また一つ何かが始まっていつの間にか終わってしまった。

もう何も考えたくなかった。私は静葉の涙を見たそのときから、狂ったようにレンズを磨き始めた。
 
16

 レンズ作りは材料をただ基準器通りに磨けばいいだけの簡単な作業だ。それに今は私を惑わせるもの何て誰も居ない。雛も、静葉も傍に居ないのだ。

「また失敗だ」

 一人きりになってしまえば上手く行くと思ったのに幾つもの仕損じ品が出来上がった。
その度材料を調達せねばならなかった。このままだと文に前もって修理代金として受け取っていたいた額に納まりそうにない。
 レンズ作りの期間が延びそうだと言うことと、少し予算を追加しても良いかどうかを文に確かめなければならない。
夕方の河童のバサーが終わり文の家に重い足取りで向かう。着いた頃には文の家の窓からは暖色の光が漏れていた。

「文、居るー?」
「はい? ああ、にとりですか」

 暑さ対策のためか文は下着にワイシャツだけという姿。目のやり場に困ってうつむいてしまう。

「で、何ですか? 発情したけれど、相手が居ないからお願いしますとか言うふざけたお願いならお断りですが」
「そんなこと言わない!!」
「それじゃあ要件は?」
「あの、カメラのことなんだけど……」
「ああ、虫が入ってくる。にとりさん、中に入って下さい」

 文は眉をひそめると立ち止まったままの私を引っ張って部屋に連れ込んだ。

「全くこの暑さには参りますね、にとり」
「うん、そうだね」

 部屋の中で文はかかとの高いスリッパを履いて歩き回り、奥から戻ってくると酒を乱暴に手渡してきた。
いつもの商売用の笑顔は見当たらなかった。
 
「その、飲むつもりは無いんだけど」
「気を利かせたつもりなのですがね。私の酒が飲めないのか?」
「いや、そんなつもりは無いよ……頂くね」

 文は満足気に頷くと氷が入ったグラスにブランデーを注いで飲み干した。
真似て飲むけれど、飲んだ瞬間に食道から胃で燃えるような熱さを感じてむせる。
 消毒用のアルコールみたいで不味いけれど、不機嫌そうな文にそんなこと言ったら何と言われるやら。

「それで、何の用ですか?」
「ああ、カメラの修理なんだけど、その思ったより時間が掛かりそうでさ、今月中に渡せるかちょっと分からないんだ
あと、少し修理代が足りないから、この間渡して貰った金額だけじゃ足が出ちゃう」
「ああ、そんなことですか。それなら別に急ぎませんし、足りなかった分のお金はあとで払います」
「理解があって助かるよ。ありがとう」
「どういたしまして。さて、最近ネタが日照りで紙面が埋まらないのですよ」

 気がつけば文は手帳を開いている。酔っても記事のネタを探すなんて頭が下がる。

「にとりさん、何か面白い話とか有りませんか? この間の居酒屋の時のような話でも構いませんから」

 そう言って文はペン先を舐めた。
あの日から本当にいろいろな事が起きたから、実のところ居酒屋で何を話したか危うく忘れかけていた。

「面白くない話なら、有るけれど」

 面白くない話、とつぶやきながら文は手帳に書き込み始めた。

「続けて下さい」

それから、昨日の晩に静葉が我が家に来て、結局私が断ったことを伝えた。

「静葉さんといる方が私には良さそうに思えますが、ま、他所のことですからね」
「うん。もういいんだ」
「なんだか元気がありませんね」
「いや、よくよく考え直してみたら結局私が悪いんだろうし。迷惑をかけちゃうから、暫く籠もろうって思ったんだ。静葉も泣いちゃったのに何もしてあげられなかったし」

 ひとりでに乾いた笑いがこぼれた。

「もう、恋とか愛とかうんざりだよ。本当にいいんだ」

 文はグラスに残った酒を一気に飲み干した。そしてメモをしない手帳をぱたんと閉じた。

「にとりさん」

 事もあろうにこんな事態になっても私は『殊勝な心がけですね』だとか『それは、大変でしょう』なんて言葉が出てくるのを待っていたんだ。

「その話、凄くどうでも良いです」
「えっ?」
「どうでも良いって言ってるんですよ」

 文は、手帳を机に投げつけた。相当酔いが回ったのか目が据わっている。これは私の感想ですが、と話を切り出した。

「にとりさん、貴女の中の一大事は別に大したことじゃ無いんですよ? 失恋しようが三股をひっかけようがそれは記事にすらならないんです。なぜだか分かりますか?」
「……分からない」
「そうですか。にとりさん、人里に行ったことは?」
「何度か」
「たくさんの家が建っていませんでした?」
「建ってたね」

 文はうんざりといった具合で「いいですか」と言ってからこちらに向き直った。

「あの家の数だけ、家族が住んでる。その数だけ夫婦が居る。愛だ恋だ囁き合った元恋人たちが居るわけです。
 そしてその数の何倍も終わった恋がある。つまり、色恋沙汰なんて供給過多のありふれた代物でしかない。それなのに皆さんご立派です。
 そんな数を前にして何も行動を起こさずにいる河童の話なんて本当にどうでも良いんですよ。
 特ににとりさんみたいに自分の中で自己完結して悦に浸っているような場合なんて、本当にどうでも良いんです。
 なんで私に向かってそんなくだらない事を一大事のように伝えるんですか?客観的に見てそんなの蝉の抜け殻よりもどうでも良い代物なんですが。
 いや全力で恋をしている蝉の方が千倍も立派です」

 文は吐き捨てるように言い放った。

「にとりさん、雛さんと関係を戻したいんですよね?」
「うん」
「静葉さんが泣いてた時、何か励ましました?」
「いや……してないね。何を考えてるか分からなかったから。それに私は雛のことで、頭がいっぱいで」
「それじゃあ、雛さんが今どんな気持ちで過ごしているかとか考えたことは?」

 本当に情けない話だけれど、そんなこと考えたことが無かった。

「無い……かも。だけどわたしは雛の事が好きだったし――」
「その、『私は』とか『自分は』とか言うの止めた方が良いですよ」
「だって自分の事すら分からないし、他人の事なんて分からないもの」

 言い返した言葉が文の逆鱗に触れたのか、まくし立て始めた。

「にとりさんはまだ自分の話を重要な話だと思っているようですね。
 悲しんでいる人の傍で頷きながら、心のなかでまだ自分の事が最重要事項だと考えている。
 まずそれを克服したほうが良いですよ?
 雛さんの気持ちすら考えたことが無いのに、自分の事ばかり考えて。それで上手くいくと願うなんてなんて舐めているでしょう? にとり。
 あんたみたいな阿呆で、無気力で、退屈で、自意識過剰なバカが世の中で叫ぶから鬱陶しいんですよ。この馬鹿」
「な、な」
「もう一度言いましょうか?『馬鹿』」  
「そこまで言わなくても……」
「ここまで来て、まだ自分のことばっかり考えているんですか?」
「雛の事だって考えてたよ!!」
「じゃあ、貴女は彼女の何を知っているというのです? 彼女がどんな思いであなたの元を訪れていたのか想像したことは?
 何も知らないでしょう。自分のみたい物しか見なかったくせに。考えたいことしか考えなかったくせに。
そのくせ失ったら大声でわめく。にとりみたいなバカは謝罪もしないし、自分の過ちから学ばないし同じ事を繰り返すでしょう。だから馬鹿って言うんですよこの馬鹿!!!」

 相当酔っているとはいえ、ひどい。

「私は私なりに考えてるの。ひどいよ。帰るね」
「とっとと失せなさい!!」

 文の家を去ってからもまだ文の罵声が耳に残っていた。
山の中を歩いて帰れば少しは頭が冷えてまともに考える事が出来るだろう。
ろくに明かりがない夜道。足下なんて当然見えない訳であちこちつんのめりながら歩くことになった。
文は雛がどんな思いで私の元を訪れていたのかをぼんやりと考えていた。雛はどうやって私の家まで来ていたのだろう。
 木々が多い山の中とは言え、哨戒の天狗に見つかったらさぞかし大事になったはずだ。そのうえ、蛇なんかに噛まれたらどうするんだろう。山犬には凶暴な奴だって居る。
そんな中あちこち木々に引っかかって、息を殺して歩いたりして心細かっただろう。それなのに、私は彼女に何か心配する言葉を掛けたことがあったのだろうか。
「大丈夫?光学迷彩貸そうか?」
くらい言っても良かったのに。
文が言うように雛はどんな思いで山の裾から妖怪の山の中腹までやってきたのだろう。薄暗がりの時もあったけれど、昼間にも訪れてきてくれたこともあった。
もしかしたら、哨戒の天狗にどうしてもと頭を下げて来てくれていたのかもしれない。
――私みたいな厄神が妖怪の山の土を踏んでごめんなさい。だけどそれはあの河童の為なのです。
 そんなことを自分のために言ってくれたのかもしれない。心がちくりと痛んだかと思うと、次の瞬間には激しく痛んでいた。
雛は何も言わずに訪れ続けてくれたのだ。視界が滲んで立ち止まる。

「本当に、幸せ過ぎたのに何してたんだろう」

 後悔は涙となって溢れ出し、とどまることを知らなかった。私は馬鹿だ。雛がどれほど大変だったか考えたことすらなかった。
雛のことも静葉のこともまだ解決してないのにそのくせ答えを出すのが怖くて逃げていた。
だけど、どうしたらいいのだろう。今の私には何が残っているのだろう。何も残っていないんじゃないのか?
 手を伸ばしても虚空をつかむだけで、もう届かないのかもしれない。

17

 晴れの日が何日か続き、そのあと雨が降った。文と別れてからの数日間は何事もなく過ぎていった。
もし、何も知らない人から見れば私はいつも通りの河城にとりに見えるだろう。いつも部屋に籠もって、なにやら怪しい物を作り続けている変わり者。
文に怒られたあの日以来だれも訪問者は居ないからか、集中してレンズ磨きが出来た。一区切り付いたところで研磨剤まみれの平べったいガラスを取り出し、水で洗う。
 完璧な屈折率、完璧なレンズ。

「やった」

 ひとりの部屋で小さく声を出す。
立ち上がると少しふらふらする。窓の外では、太陽が小さくなっており「お疲れ様」と言っているようだった。
一夏をかけて仕上げたレンズの修理がやっと終わった。やっと終えることが出来た。
興奮冷めやらぬ私はそのまま煙草に火をつけた。
終わったんだ。 
何もかも。

 終わったあと最初に浮かんだのは雛の顔。私はまだ雛の事が好きなんだ、結局私は雛のことが好きで、好きになるための覚悟から逃げていたんだった。今更許してもらえないだろうけれど、だけどまずはごめんねって言わなくっちゃいけない。
 自分だけが、悲しいと思っていた馬鹿な私を許してください。
自分の事しか考えない馬鹿な河童を大事にしてくれていた最高の恋人だったのに気がつかなくてごめんなさい。そして大好きでした。
まずは謝りに行かなくっちゃ。
 気持ちの整理を兼ねて、この部屋の中を掃除する。数多の仕損じ品。何のために使うのかすら忘れてしまった道具類。オイルの缶。
 要らないものを全て部屋の外に出してしまうと一つの道具箱だけが残った。
 私の発明に必要だった物はこんなに小さな箱の中に収まってしまうのだ。自分にとって大切なものはすごく少ないのだ。
あと足りないのは雛だけだ。今なら雛に「愛してる」とも言えるだろう。それでだめだったとしても「さようなら」とも。
 ついでにひた隠しにしてきたこの関係も公にしてしまおう。「私と雛は、セックスフレンドでした」と。すべてが終わった今となっては河童のしがらみがなんだというのだ。
河童の里を出る自分はきっと惨めな姿をしているに違いない。
でもそれでいい。自分に嘘をついて、そのうえ雛や静葉まで悲しませたのだから当然だ。
 河童の里から出てしまえば、あとは雛と会うだけだ。そこで自分の気持ちを伝えよう。終わりは楽しい方が良い。
まずはこの間はさんざん馬鹿にしてくれた文の家に行ってから雛の家に向かおう。そこでけりを付ける。

17

「文、居る?」
「居ますよ」

 今度は庭の方から声が聞こえてきた。文は庭の奥のベンチで涼んでいた。

「冷房ばっかりだと足先が冷えちゃって。こうして暖まっているんですよ。カメラは直ったんですか?」
「あとは、文のカメラにレンズにはめ込むだけなんだ。明日にでも渡せる」
「そう、思いの外早かったですね」
「うん」

 風の音が、一時強まった。

「それで、にとりさんは何か言いたそうですね」
「うん、今から雛のところに行って、告白してくる」
「順番がおかしい気もしますが」
「分かってる。それに河童たちにも私と雛の関係を知らせるつもりなんだ」

 文は一瞬だけ驚いた表情を浮かべた。

「そんな事しても今更戻れるとも思えませんが」
「それも分かってる。文、今度カメラが壊れたら新しいのを買うと良いよ。私は雛と過ごす。
だから私には修理が出来ないかもしれないだろうから」
「そうですか」

 文は再び手元の本に目を落とした。

「文は、引き留めてくれないんだね」
「止めても行くくせに。行き倒れてミイラになってたら何処かに飾っておきましょう」
「飾るときには何て書くんだい」
「馬鹿の干物とでも書いておきましょう」

 さっぱりとした態度が少し寂しくもあった。いろいろとあったけれど文は良い奴だと思う。しっかりと私のことを叱ってくれたのだから。

 文の家から雛の家に向かう下り坂。いつも通りなのに一度立ち止まって、空を見上げた。
くらくらするような空の青色はいつ見ても変わらないだろう。その中で変わるのは自分だけだ。
たとえすべてが悪い方向へと進んだとしても選んだ選択を最良の物に変えていくのがこれからの生き方になる。
湖の近くで過ごすのも悪くないかもしれない。もしくは川の下流のあたりでひっそりとやるのも良いだろう。
 強めの日差しを浴びて居るとそんな前向きな気持ちが浮かび上がってくる。

18

 歩き出せば、すぐに河童の家並みは尽き、畑と雑木林ばかりになった。
小さな支流を渡って、また渡って。石を飛び越えて薄暗い森の中に咲く花を通り過ぎる。
強い風が陽炎を消し飛ばし、まっすぐに伸びる道の輪郭をはっきりさせる。道行く妖怪達に。

「じゃあね!」

 そんなふうに子供みたいに手を振って別れを告げ、相手のきょとんとした顔を見て笑う。これも見納めかもしれないと思うとなんだか感慨深い。
 今になって足取りが軽々となり、見慣れていた緑の色が鮮やかに見えるのも不思議だ。
工具箱を片手にあちこち歩き回っていたお陰で、ずいぶんと時間が経ってしまった。
 青々と茂る草の上を伸びた影が這っている。低くなった太陽に向かって歩いていると一人分の影法師が目にとまった。
沈んでいく低い太陽が逆光になってよく見えないけれど影の根元に居る誰かは立ち止まってこちらを見ている。

「にとり?」

 その声は静葉だった。当たり前の話だけれど、静葉はもう泣いて居ない元通りの静葉だ。
足下に工具箱を置いて、帽子を締め直す。ちゃんとしなくちゃ。

「静葉、今日も暑いね」

 もっと伝えたい言葉があるはずなのに、出てこない。

「にとり、この前は泣いちゃってごめんね」
「いいんだ。何も気にしてないよ」

 静葉の涙のおかげで私は自分の発明を捨てて、雛の元に向かうことを選んだ。

「このまま川を下っていくのね。雛のところに行くの?」
「うん。今度こそ雛に付き合ってって言いに行くんだ」
「そう……応援してるから。そうだ、また紅葉、渡しに行くね」
「うん。待ってる」
「河童の連中に雛との関係が見つかったら、もうにとりと会えないかもしれないわね」
「大丈夫、その時は光学迷彩でも何でもしてまた、挨拶に出向くよ」

 一時弱まっていた太陽の光がまた強まり遠くの方に蜃気楼を作った。

「にとりのそういうところ。嫌いじゃないわ」

 それだけ言うと静葉はスカートを風に翻しながら夏の眩しい光の中に消えていった。
一時振り返った気がしたけれど、その表情はよく見えなかった。

19
 
 雛の家は厄を集めやすい下流の川沿いにある。
あとは川沿いを下っていくだけの楽な道だ。そのあたりから雛の家にはうかつに近寄れないように見張りの天狗が配置されている。
適当なあたりで光学迷彩を付け、あたりと同化していく。元々光学迷彩なんかなくたって、自分を見てくれる人なんかいないのに。
なんて考えながら再び歩み始めた。広がった水面に夕焼けが映り込んで綺麗だった。今日もやり過ごせると思っていたのに。
 
「止まれ」

 そんな無慈悲な声が空から響いた。

「そこに誰か居るだろう? 姿を隠していたって無駄だ」

 普通の天狗なら、そのまま逃げおおせることも出来ただろうけれど、相手があの椛だから勝てそうにない。
椛は刀に手を掛けている。空中で止まって、光学迷彩のスイッチを切った。

「さぁ出てこいってあ、あれ、にとり?」
「椛、まじめに仕事してるね」
「にとり。なんだか嗅ぎ慣れた匂いがすると思ったら……」
「ばれちゃったか」

 椛ははぁ、とため息を吐いて刀を納めた。

「……雛のところへ?」
「これから「付き合ってください」って言いに行くところなんだ。そうだ。椛、どうだった西瓜作戦? 相手は喜んでくれた?」
「いや、まだこれからなんです」
「そっか、上手くいくと良いね! またご飯でも食べて話でもしようよ」
「ええ」
「私も、きっとだめだと思うんだけど。伝えるだけ伝えるつもりなんだ。振られたら、また飲もうね」
「にとり、伝えたいことがあります。雛は――」

 苦しそうな表情と共に椛の言葉が止まる。代わりに耳に入ってくるのは割れんばかりの蝉の鳴き声だ。
椛の髪が涼しい風に靡いてそれに見とれていた。沈黙が約数秒続いた。

「いえ、何でもないです。頑張ってくださいね」
「本当に?」
「本当に何もありません。さて、こんな熱い時間に哨戒しているのは私だけです。私はなにも見ていませんし、うっかりどこが天狗の縄張りか忘れてしまいました」
「椛」
「さぁ、待ってる人がいるんでしょう? 行きなさい」

 そう言って彼女は通してくれた。頑張ってねという言葉を添えて。再び陽が照り始めあたりがまばゆい黄金色に包まれる。
 夕暮れが近づいている。

20

 雛の家の玄関に立つ頃には考えを廻らせすぎて頭の中が混乱していた。そして深呼吸。この扉の向こうは可能性が重ねあわせの状態で存在している。
再び雛の家から出るときに私は笑っているかもしれないし。それとも涙を見られないように深く帽子を被っているかもしれない。
罵詈雑言を浴びせられて放心状態で出てくることだってあり得る。だが、結局のところ雛との何かが変わってしまうのは間違いない。
 それでも良い。元々何もかも捨てるつもりで来たんだから。

 自分の気持ちを伝ええればきっと雛だって分かってくれるはず。
 なんて自分を奮い立たせてみても足がすくんで立ち止まってしまう。失った先にある深淵が、最後の最後まで私に悪い夢を見せる。
扉のドアに手を掛けて立ち止まっていると不意に引っ張られて上半身がつんのめった。

「わ、わっ」
「やけに大きな流し雛だと思ったら」

 懐かしい声色だった。そして真っ赤でフリルが付いたドレスで視界がふさがれた。
その声が聞こえた瞬間に震えに襲われて、動くことすらままならなかった。

「ひな?」
「そう、雛です」
「本物?」
「ええ、本物の鍵山雛」

 様々な思いが鉄砲水のように押し寄せてくる。

「ひ、ひなごめん!!」

 その場で頭を下げて、雛の言葉を待つ。

「にとり。暑いから中に入って」

 雛についていき、部屋に踏み込む。居間のテーブルには瓶に詰められた洋酒と緑色のグラスが二つ。 

「なにこれ」

 最初に出てきた言葉を聞くと雛は満足そうに頷いた。
 
「にとりが来るまでずっとこうして貴女の分まで準備してたのよ」
 
 そう言って彼女はテーブルの向かいの椅子を指さした。
腰掛けるしかなさそうだった。そしてこれから雛に向かって終わってしまった恋に対して、愛していると言うのだ。文にも言われたようにありふれた供給過多の代物を、また一つ生み出そうとしている。

「にとり」

 頬杖を突きながら雛はせかす。

「私は雛のことを全然知らなかった。どんな思いで会いに来てくれていたのかとか、そんな雛が怒らないのはそれは当たり前だと思ってた。
だけど違った。雛は私に会いに来るために色々苦労していたんだ」

 いきなりこんな話をして雛はびっくりしているかもしれない。だけど。言わなくちゃ。

「それで?」
「もう逃げたくないから言うね。ねぇ雛、順番も滅茶苦茶だけど大好きだ。
 雛が居ないとき、雛の事を考えないで済むようにずっとレンズの修理をしてたんだ。だけど終わってみたら雛の事ばっかり考えてた。馬鹿だよね。
 自分の都合の良いことばっかり考えてたんだ。ねぇ雛、私は妖怪の山を出る覚悟だってある。
 だから傍に居て欲しいんだ」

 思い切って言ったのに雛は表情を変えずにいる。雛は表情一つ変えずにまた深くため息をついた。

「何も変わらないように見えるけれど」

 雛の言うように私はまだ何も変わっちゃいない。答えを出さずにここで出て行ってしまったら何も残らないじゃないか。
緊張をほぐすために胸のポケットに入った煙草に手を伸ばす。煙草を吸って独りになって考えるんだ。

 何を?
 
 その時本当にくだらない考えが頭に浮かんだ。
 
 無謀で血迷った河童のヤケっぱちの最後の勝負。かっこわるいけれどこれしかない。胸ポケットに入った紙巻き煙草を手でくしゃくしゃに潰して、ゴミ箱に捨てた。
 
「ねぇ、雛、私は煙草をやめる。そしてその時間は雛の事だけを考えるようにする」

 言ってから本当に自分が馬鹿だと思えた瞬間だった。こんな所に来てまで煙草をやめる宣言なんて。
だけどそれまで涼しい顔をしていた雛の口元は綻び、一瞬口元を押さえ、そして声を出して笑い始めていた。

「私はにとりのそういう馬鹿っぽいところすごく好き。にとり。ありがとう。その言葉で十分よ。付き合いましょう。
 ここまで来て煙草をやめるなんて、ちゃんと我慢できる?」
「うん!」
「わかった約束してね」

 まだ笑いを抑えきれないようで雛の口角は緩んだままだ。

「でもにとりは今まで通りに発明をしていて欲しいかな」
「だけど、雛は河童たちから……」
「恋は錠前屋をあざ笑うって言うじゃない。そんな物どうにでもなるわよ」

 ねぇ、と雛は続けた。

「それじゃあもう一つお願い。みんなの前では恋人って、言ってね?」
「絶対約束するよ!」
「にとり。もう一つお願いがあるの。好きだと言って」
「好きだ」

 緊張のためか、かすれた声しか出てこない。

「もう一度言って」
「雛の事が大好き」

 満足げに笑うと雛はいたずらっぽい笑みを浮かべる。

「私も、にとりのことが好き」

 その言葉を聞いて、雛をソファに押し倒した。抱きしめた雛は、ぬくもりがあって、柔らかくて、優しい香りのする本物の雛だった。

「私も甘いのかしらね」

 ため息を吐いて雛は頭をぐしぐしと撫でてくれた。

「ねぇにとり、わたしとっても暇なの。何が言いたいか分かる?」

 物欲しそうに私を見つめる瞳。
彼女からセックスに誘うときは暇だといつも言っていたのだ。そんな大事なこと、忘れるわけがない。

21

 
 ついばむような口づけを何度か繰り返す。やわらかい雛の唇が重なり、熱く濡れた舌が忍びやかに這いこんできた。

「ん、んん」

 ぴちゃ、ぴちゃと唾液を交換していると雛の指が内股の上で這い回りはじめた。
神経が背中から脳髄まで一気に麻痺する。内ももから上に上がりそして私の秘所に触れる。

「こんなに硬くなってる」

 声色はどこまでも艶っぽく、服越しに股間のふくらみを上下にこすられた。
密着する身体を揺らす雛の腰使いは理性を溶かした。雛の吐息や腰使いそんな物が合わさって、気持ちが勝手に昂ぶる。
昔の体だけの関係を思い出して、少し後ろめたい心地もした。

「我慢できる? 河童さん」
「できないかも」

 そう言うと雛は、私のスカートを両手で摘んで捲り上げ、膨らんだショーツを足から外した。硬くなった肉棒が、跳ね上がった。

「相変わらずの変態ね」
「うん」
「リボンで縛っちゃおうかしら?」
「え」

 雛はそれを手でしごきながら笑った。

「冗談よ。だけど縛るかわりに、こんなことだってやってあげるんだから」

そう言うと雛は跪き、硬く張りつめた肉棒を口に咥え、ゆっくりと舌先でもてあそび始めた。
じゅる、じゅる。と水音と共に強い刺激が背中を走った。思わず腰が引ける。

「あっ、あっ、ああ」

 雛は上目遣いでこちらの反応を楽しんでいる様子で、髪を掻き上げる仕草を見ているとまたペニスが大きくなる。
私の先端が熱くなる。目の前がクラクラし始める。私の体内にたくわえられていた精液が雛の口を汚しそうになる直前に雛は咥えていたモノを離した。

「ここで出しちゃ勿体ないから」

ベッドから降りると雛は、私の前に静かに立った。切なそうな顔を浮かべてするすると服を脱ぎおろしていく。
そして、彼女に押し倒された。

「ん、久しぶりだから、いけるかな」

雛の身体はやけに冷たくて、その代わり雛の中は温かかった。
私の肉棒が深い雛の割れ目に出入りしているのだ。深く入るたびに雛の腰が逃れるように動いた。
それを逃すまいと、腰をつかんでゆっくりと腰から広がる快感に身を任せる。

「ん、はああ」

雛が締め付けに勝手に声が出る。今度こそは雛と心を通い合わせたセックスをしよう。

「にとり、好き、大好き」

 声が昂ぶる。体をふるわせながら、雛の足が硬直した。ひときわ高い悲鳴がその場に長く尾を引いた。
雛の中に温かい液体を遠慮なく放出した。
 
「大好きだよ、雛」
「私も、にとり」

 顔を赤らめながら見る雛の顔はこれから先忘れはしないだろう。
これから先に自分が嬉しかったことを思い出す時には必ず雛のことを思いだすだろうし。
 

22

 事後の余韻が、じっとりとその場に残っていた。
雛はもぞもぞと身体を動かし、シーツの中から顔を出した。

「にとりったら体も細いし、その上胸だってない。大きさだけは立派なのに、肝っ玉もちいさい」
「うう、意地悪言わないでよ」
「そういう、おかしな所もこんな遠回しに気持ちを伝えに来るところもにとりらしいかなって思う。まだ元気だけど、もう一回やる?」
「雛はやけに乗り気だね」
「ええ、にとりの「好きだよ」なんて台詞が言葉だけじゃないってわかったから」

 雛はそう言って目尻に笑いをにじませた。雛の肩に手を回して私を強く、強く抱きしめた。私はこれから雛のために煙草を止める。
その間は雛の事を一生懸命考えよう。私のすぐ傍で笑う恋人のことを考えよう。窓の外では秋の気配を纏った蜻蛉が飛び回っている。
 
 騒がしい夏が終わり秋の訪れと共に雛との新しい生活が始まる。
 


 
 ここまでお読み頂きありがとうございました。
 
※ よろしければ同作品集に投稿しました「片思いの島、あるいは消失点」もどうぞ。
   このお話とつながっております。

2013/04/14 19時46分 コメントにお返事
2013/04/17 21時01分 ちょっと宣伝





>>1.>>2様
 お読み頂ありがとうございました。
もう一つのお話をご用意させて頂きましたのでまたそちらもお読み頂けると少しすっきりするかもしれません。
構成力の向上に今後も努めます。
重ねて御礼申し上げます。
>>3様
 お読みいただきありがとうございます。
 正直コメントが付かないと思っておりましたので、一番作者が喜んでおります。
>>4様
 お読みいただきありがとうございました。
 仰るようにネチョと話の加減がまだ難しいです。(半年ほど前からの課題)
 今後とも精進いたします。
>>5様
 そのコメント! ナイスです!
>>6様
 お褒めの言葉ありがとうございます。
 なかなか読む方にもご苦労をおかけしたかと思いますが、そのお言葉でがんばれそうです。
 ありがとうございました。
>>7様
 こちらこそありがとうございます。
>>8様
 お読みいただきありがとうございました。
 凄く精神が淀んでいた時期だったのでそれが出たのかもしれません。
 まぁ何はともあれ読んだ時間が無駄じゃなかったと感じて頂ければ幸いかなと思います。
>>9様
 お読みいただきありがとうございました。
 機械屋さんって煙草吸ってそうなイメージが強いです。(偏見)
>>10様
 こちらこそありがとうございます。
 何かを感じてもらえたなら、それで十分ありがたく思います。
 翌朝が起きることが出来たか少し心配でしたが。。。
>>11様
 お読みいただきありがとうございます。
 やりかねませんねw 
 泣いて暮らすも一生笑って暮らすも一生。

>>12様

お読みいただきありがとうございました。
匂いが伝わったようで凄く嬉しいです。
にとひなに幸あれ。

>>13様
お読みいただきありがとうございました。
このお話と「片思いの~」含めて静葉が主役ですから、それが伝わってよかったです。
にとりは愛すべき馬鹿かなと、思います。でもとても好きです。

>>14様
ここまでお読みいただき誠にありがとうございました。
明日からもそのコメントでがんばれそうです。たくさんの人に読んでもらえて素直に嬉しいと思います。

>>15様
ここまでお読みいただきありがとうございました。
楽しんで頂けて何よりです。

>>16様
 お読みいただきありがとうございました。
これからも行ったり来たりで楽しんで行けたらいいなぁと思います。
ありがとうございました。
>>17様

お読みいただきありがとうございました。
にとひなはすばらしかったんだなぁとしみじみ。
>>18様

お読みいただきありがとうございました。
何のひねりもない話でしたが感じて頂いて幸いです。これからも頑張ろうと思います。
SYSTEMA
コメント




1.名前が無い程度の能力削除
こ・・・これで終わりか・・・?
序盤からぐいぐい引き込まれていっただけに、なんか最後の方の力尽きた感がなんとも。
結局雛がにとりを拒絶した理由とか、文がにとりにキレた背景とか、椛の恋の行方とか
いろいろ気になる点が残った感じ。
2.名前が無い程度の能力削除
と思ったら続きものだったでござるの巻
失礼しました。
3.名前が無い程度の能力削除
びびる位よくできてるぞこれ…腰が抜けそう。
ありがたや、ありがたや
4.名前が無い程度の能力削除
巧い話程ネチョが薄いって相反する問題があるのが悩みだよね
これもにとりの独白調の展開が面白かったけど、実際の雛との行為はやらないのかと不安に感じてしまった
5.名前が無い程度の能力削除
素晴らしい
6.名前が無い程度の能力削除
いいね、読み物としてかなり完成度が高い、面白い
それにしても久しぶりにコメした気がするなあ
7.名前が無い程度の能力削除
素晴らしい。ただただそれだけ。続くとか楽しみが増えましたわ。
8.名前が無い程度の能力削除
文体はしっとりしてるけど中身は荒れててワロタ
9.名前が無い程度の能力削除
素晴らしい。煙草なんて全く吸わないけれど、一本くらい吸いたくなるような重要なキーアイテムでした。
あとこれは夏に投稿したらもっと良かったかもしれない……。
10.名前が無い程度の能力削除
素晴らしいの一言に尽きる。深夜で寝なきゃいけないのに読み込んでしまった。
コメントを打つなんて、感動した時だけだからなー。
11.名前が無い程度の能力削除
良い話だった
にとりのキャラが喉元過ぎれば…に見えなくもないのが
一抹の不安だけど…
12.名前が無い程度の能力削除
河童の里の描写が生き生きしていて素敵でした
レンズを磨いたり煙草を吸ったりするにとりの、油っぽい部屋のにおいがするようで
にとひな幸せになれ
13.名前が無い程度の能力削除
やっべ、夜伽なのにエロとかどうでもよくなってたやっべ。
上手いなぁ、余計な言葉が出てこずにすんなりよめちゃって静葉ちゃんかわいい。文ちゃんイケメン。
タイトルどおりでしっぽりじゃないですがしっとりとしたとても良いSSでした。

肝っ玉が小さいにとりちゃんの金玉サイズはどれほどなのだろうか。
14.名前が無い程度の能力削除
素晴らしい。
15.名前が無い程度の能力削除
面白かったです。
16.名前が無い程度の能力削除
恋の悩みって相手の事を考えられるかどうか
簡単そうに見えて、見えてない時は見えないんだよなあ、としみじみと感じさせられました。

こんなに叱ってくれる友達がいるにとりはきっといいやつなのだろうなあ。

色々な思いをいただきました。面白かったです。ありがとう
17.名前が無い程度の能力削除
なんてこった…さり気ないにと雛で俺得だったわ
18.名前が無い程度の能力削除
これは素晴らしい
ここまでクオリティが高いのは中々見つからない