真・東方夜伽話

くらやみのくも/THOUGHTLESS

2011/12/08 19:03:03
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くらやみのくも/THOUGHTLESS

夜麻産

 ※注意

 ヤマメ×キスメ

 独自解釈・俺設定・捏造
 東方二次創作注意
 モブキャラやや多め

 ヤマメ注意

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 しんどい系です 部屋を明るくして心に余裕を持って用法容量を適切にお読み下さい
 実用性はお察し

 ※注意終了











 かつてあったこともこれから起こることもたいした違いはない。けれどもすべての望みは星のように遠く過ぎ去り、時間だけが轟々と瀑布のように自由落下していく。水橋パルスィは川面に脱力して浮かび、月を見上げていた。雲のない夜。星灯りが強すぎ、粒子状に散った光が世界を覆い尽くしている。
 死体を演じていても、肉体は生存を求めている。かつて自分を破壊した土地から逃げ続け、幾度となく夜を越えるなか、パルスィはそのことを強く感じ続けていた。人間に失望し、妖怪になり、それからどうする? 妖怪に失望し、人間になり、また人間に失望する? 結局はなにもかも、繰り返しの一コマだ。変わるべきは世界ではなく、自分だ。それがわかっていた。だが本当は、それが失望ではないこともわかっていた。
 私はもう、妖怪になっているのだ。手のひらを夜に掲げて、そう思った。思おうとした。



 蜘蛛の脚が樹木を薙ぎ払い、夜の山を進んでゆく。がちんがちんと金属の叩き合う音を響かせながら、歩くだけのことが戦争のような騒音になる。巨大化するにつれ、蟹のような甲殻を纏うようになった八本の脚はもうほとんど鎧だ。かつて誰かが最悪に想像したとおりの、土蜘蛛の姿がそこにあった。
 滝の瀑音が真下に聞こえるところで、キスメは身を捩った。四肢はまるで動かず、鬱血する直前の青黒い色に染まっていた。黒谷ヤマメは巣に攀じ登り、おもむろにその少女を見下ろした。

 「これはまた。人間かね。きれいな蝶々でもひっかかってりゃ儲けものだと思ってたけれど、うまくいかないものだねえ。まあ、せいぜいゆっくりしておいきよ。そうなったら、もうおしまいだから」

 爛れて沈むような声が耳に届いた。響くというより、溶け落ちていくような声音だった。キスメは必死に眼を見開き、宵闇のなかでその声が発信された場所を見ようとした。巨岩のように、信じられないほど大きな蜘蛛の、頭胸部の真上にちょこんと乗っかっているシルエット。
 ヤマメはぐらりとからだを傾け、擬態の、人間の部位をその少女のまえまで持っていった。「ふうん」品定めするように上から下まで視線を泳がすと、少女はますますきつそうに身を捩った。「やめときなって」糸がより複雑に絡まり、粘性の、飴のように伸びる部位が衣服に染みついた。「おしまいだって言ってるだろ? ぶざまななりをさらすんじゃないよ。気が向いたら取って食ってやるから、大人しくしとき。首が絞まって、窒息したら、糞尿を垂れ流すはめになるよ」

 んふ。とヤマメは含み笑いしてみせた。キスメはどうにかしてその化け物の視線から逃れたく、けれどそうすることもできず、ぽかんと開いた口から震える吐息をいったりきたりさせた。

 「あたしはここで、おまえがくたばるのをじっくり観察してることにするよ。それともさっさと、らくにしてほしいかえ? 尊厳死のほうがお好み? まあ、どっちでもいいけれど。……妖怪をまのあたりにするのは初めてと見える。ふるふると、可愛らしく震えて。怖がらなくてもいいだろう? わざわざこうして、人型の部位で話してやってるんだからさ」

 未知のものに対する普遍的な、根源的な、原初的な怖れに、キスメは全身が狂ったように引き攣るのを止められなかった。目のまえの、女の姿をしていることさえ吐き気を催すような化け物が、そうやって人語を話すことがまったく信じられなかった。倫理の、壊滅的な出会いだった。黒衣を纏った、蒼白の肌をした女。煌くような鮮やかな黄金色の髪は、異邦人を連想させた。床に臥せった病人のように暗い眼をしていたけれど、愉しそうな、気だるそうな、曖昧模糊とした表情を浮かべる様は、夜明けの猫のようだった。
 滝の水飛沫が星灯りだけを頼りに宝玉のように輝いている。それがちりちりと断続的に飛び散り、人間を百体は確保しておけそうな蜘蛛の巣を、うつくしく装飾している。そうした、命の危機などまるで知らないところで幻想的な風景のなか、女の左手がおもむろに後頭部に伸び、金髪を縛っていた紐をぱっと解いて投げ捨てる様は、いっそ神々しくさえキスメには思えた。ざらり、と髪が外套のように広がり、その女の胸から上を、檻のようにまばらに隠した。

 「おまえのなまえは?」

 女は指先を蛇のようにもたげ、キスメの胸に突きつけながら言った。それは呪術のような強制力のある命令だった。彼女はほとんど反射的に応えてしまっていた。

 ――傷女。

 戦慄く唇をどうにか読み、ヤマメはなんとなく察しをつけた。「しゃべれないのかえ?」

 キスメは頷いていた。

 「のどにおおきな……傷があるね。それで……きずめ、ぃや、きすめ、かい? へええ。まあ、短い短いあいだだろうけど、仲良くしようや、キスメ。あは。キスメ、なあ、キスメ?」ヤマメは指先を滑らせ、キスメの喉を撫でた。不気味なほど整った爪先が光芒を引き摺って傷を描いた。「膀胱がすっかり緩んじまうくらいとびきり素敵な怖れ。……一夜だけの、一夜きりの、あはは。最期のアヴァンチュール。あたしの姿が見える? あたしの声が聞こえる?……まぬけなチビすけが!! おまえはこの蜘蛛の巣に魂ごとすっかりひっかかっちまったんだよ!!」

 そこでヤマメはありったけの金切り声で笑う。絶叫のように、がくがくと震えるキスメの耳元で。



 身を切り刻む冷気のなか、星熊勇儀は注意深く息をついた。肉の裏側で肺が収縮し、膨張する、その細やかな動きを感じ取れるほどに集中しきっていた。が、どうにか気持ちを抑え込み、平静になろうと努めた。 なにもかもをしくじった感覚がある。誤った選択肢を選び続け、どうしようもない領域まで入り込んでしまった実感が。もうどうしようもなかった。けれどすべてを放棄することができない以上、それでもまだ選ばなければならなかった。行き着くところまで行き着いても、まだ。

 「他になにかいい道があったとは思えない。結局はこうなってしまうんだろう、私は」
 独白を聞く者はいなかった。握り締めた拳だけが熱かった。
 「すまない。本当に。本当に……」



















 『1 高射式』










 獲物を罠にかけようとして張った巣ではなかった。
 気の遠くなるような小春日の午後、匂い立つような緑樹の合間、暇に飽かせて縒り合わせた糸。まさかこのような、死人の纏うような白装束の、妙な娘が落ちていようとは。ヤマメはおもむろに夜に沈んだ空を見上げた。人里はあまりに遠い、山の深奥。どこからどう落ちてきたのか、見当もつかなかった。
 死骸を流せば河童どもに罵られるだろう。土蜘蛛が、河を汚して。よくも盟友を。とはいえそういうことも、ヤマメにとってはどうでもいいことだった。

 「ふふん」

 鼻を鳴らして、その娘の真上に脚をかざした。月灯りが落とす影に埋もれ、その表情が強張ったところがうまく見えなかった。ヤマメは自分のからだ越しに擬態を乗り出し、ふたつの眼を凝らした。蜘蛛と人型の合したように変貌したこのからだは、ときにひどく不便になる。複眼でないせいで、視野が狭い。
 鋼のように硬い糸にがんじがらめにされ、脚の先端よりも小さな人間は、あまりにも容易い標的だった。あまりにも無力な餌だった。頬にそおっと触れてやると、質量の違いから、それだけでがくんと首が回った。あそぶにしてもしんどそうだ、とヤマメは思った。少女は、人間の桁から見てもたぶん、相当にちっちゃなほうだった。



 暴れようとすればするほどきつくきつく糸が食い込んだ。肌の色が赤を越えて黒ずみ始めていた。キスメはそれでもどうにか動こうとした。崩落していくばかりで如何ともし難い力を掻き集めてもどうしようもなかった。
 浅く小刻みに何度も息を吐いた。吐いて、吸った。喉の古傷にまで糸が縛りつけられ、呼吸器官はもう限界近くまで細くされていた。蝿のようにか細い呼吸しかできなかった。酸素を追うように息をした。酸欠のめまいと、恐怖から、唇はもう蒼白くなっていた。
 蜘蛛女の。あるいは女蜘蛛の。蔑み、弄ぶような薄い笑みに見下ろされ、意識が張り詰めた。がくがくと頬が震えた。蜘蛛女の表情はいかにも薄っぺらかった。見せつけるような吐息が白く凍っていた。キスメは髪に絡みついた粘性を捻じり切るように首を曲げ、必死でその化け物から目を逸らそうとした。

 「こっちをみなよ。かわいいこ」

 ヒトガタの部位が降りてきた。人間の指がキスメの髪を掻き分け、その下の頭皮を掴んでぐいと引っ張った。道具を扱うような無雑作で、乱暴な手つきだった。糸と髪が絡み、何本かがさらさらと抜け落ちた。直接的な痛みを頭に覚え、キスメは息を呑んだ。
 覗き込むような至近距離。あからさまに観察するような目つきに晒され、キスメは眼を泳がせた。女の向こう、視界いっぱいに蜘蛛のからだが広がっていた。強い月灯りを背景に、全身に影を落とし、それだけで空が覆い尽くされたかのように。ざらざらと広がる長い金髪が千の針のようにキスメのからだを撫ぜた。
 動かないからだを、動かそうとした。どうしてもどうにもならないことを承知で。女の視線を全身に、火のように感じた。かっとからだが熱くなるのがわかった。

 「声がでないとふべんだね。でも、どんなさけびをあげても、どっちみちこんな山奥じゃだれにもとどかなかっただろうけどね。あたしとしちゃ、反応がなくてさみしいよ。悲鳴をあげることもできないのかえ?」

 ヤマメの手が放るようにキスメの頭を解放した。糸がしなり、キスメの視界が激しく揺さぶられた。唇の合間から隙間風のような音が漏れた。
 額に湿っぽい感触を感じた。最初は汗だと思った、すでに腋の下や背中に厭な感じのする水滴が染み出していたから。けれどすぐ気持ち悪くなり、鼻の線を伝うその粘つきから、すぐに血だとわかった。掴まれたときに爪に傷つけられ、皮膚を裂かれていたのだった。キスメはひどく焦った。それが致命的な部分まで達しているかどうか、自分で確かめられなかったから。腕はもうまったく動かなかった。

 「ああ……なんだ。人間のからだはすぐにきずついてしまうね」

 ヤマメの頭が近づき、キスメは思わず眼を閉じて全身を竦ませていた。直後に、生温かい感触が額を這った。おぞましい鳥肌が立った。恐る恐る瞼を開くと、すぐ眼前に舌舐めずりする女の顔。その唇が出来損ないの紅を塗ったようにまだらに濡れていた。
 唇を戦慄かせ、キスメは魅入られたように眼を離せなくなった。ヤマメはもう一度キスメの顔に舌を寄せ、垂れ落ちる血を啜った。

 「悲鳴をあげてごらんよ。そうやって金魚みたいにぱくぱくしてるだけじゃなくてさ。でないとつまらなくてしかたがない」

 熔けるような甘ったるい、猫撫で声。キスメは歯を食い縛り、その奥から荒く息を吐いた。それでも声など、どうやっても出るわけがないのだ。ヤマメはつまらなそうに腕を掲げた。

 「こういう風にしても?」

 五指がそれぞれ別の生き物のように動いた。首からゆっくりと撫で回され、キスメはぞっとした。首筋が強張った。
 着物越しの重い感触。つうぅっと氷の上を滑るように指が伝い、爪の先が鎖骨をなぞった。そうしているあいだ、ヤマメの眼はキスメの眼をずっと見つめていた。次第に涙ぐみ始める幼い瞳。頃合を見て、ヤマメは胸を乱雑に鷲掴みにした。
 ひゅうっと喉が変な風に軋み、辛い吐息が出た。成長期特有の、じんと炙るような痛みが走り、ただもう反射的に身を捩っていた。糸が腕のように全身を拘束し、動けなくとも、からだは正直に動こうとしていた。痛みばかりが増した。

 「ふうん。せいのわりにはあるものだ」
 キスメは割れるほど強く歯を噛み締めた。
 「くやしいかえ? でも、悲鳴はでないわけだ。みうごきひとつ、とれないわけだ。あは。とても哀しいねえ?」

 頭のなかが白熱した。飾りのない嘲りに胸が煮立った。こいつは。この化け物は。……
 糸を食い込ませながら、腕をむりやり動かした。その女の腕を掴もうとした。ぎりぎりとますます強く糸がしなり、肉を越えて骨まで触れるほどかと思った。どうにかして、肘の辺りに触れることができた。が、それ以上力を篭められなくなった。回線が切れたように、ただ添えることができただけだった。
 力が入らないのに、感触は鋭敏に伝わった、指の先から。その女の冷たさ。気味の悪いほどの腕の細さ。

 「剥ぎ取れる? ほら、がんばれ。むりだろうけれど」胸を掴まれたまま声が落ちてくる。わざとらしく励ますような声音は、楽しんでいる証拠だった。愛玩動物扱いだった。屈辱に、背筋が怖気だった。「血管が塞がって、まっさおになってるよ。おまえのてのひら。ああ、可哀想に。こんな真夜中に、こんな山奥で。どうしてこんなところまできたんだい、まぬけめ、人間は人間のすみかをうろついていればいいものを」

 慈しむように、犬の頭を撫でるように手のひらが胸を這い回った。心臓を掴まれているような不安感に頭が痛くなった。身を捩っても逃げられないのだ。そいつの肘に添える手のひらはもう役立たずのように痺れ、感覚がない。着物越し、その女の指の感触が五つ、時折あばら骨にまで至った。
 丁寧に、執拗に、動きが続いた。声の出せない、自分の荒く細く短い吐息だけが耳に届いた。女はじっとこちらの顔を真っ直ぐに見下ろし、いやらしくにやけさせた表情を、笑みだけでどうしてそんなにヴァリエーションがあるのかと思うほどころころと変えながら、長く長く続けた。

 「――ぁあ。夢中になっていた」
 どれくらい経ったのかわからないくらい経って、やっと腕が離れた。刺激が離れ、キスメは水面から上がったように息の塊を吐き出した。女はしげしげと自分の手のひらを見つめて、
 「やっぱり、他人の乳房をいじるのはおもしろいなあ。彼女はちっともさわらせてくれないから……」
 ぶつぶつと呟きながら、掌を開いたり閉じたりした。

 もうすこしさわらせておくれ。潤んだ瞳が言った。キスメはがあと叫んで――声にならない声で肺を潰して――腰を――付け根までがっしりと糸に絡められた脚を勢いよく持ち上げた。蜘蛛の頭部ごと降りてきた女の腹の辺りに、蹴りをかました。
 がらんどうの感触があった。裸足を上げたまま、キスメは困惑した。女はくくぅと含み笑いをした。

 「だめだよ、それじゃ。こっちは擬態なんだから。やるんだったら、こっちに」女の手のひらが自分の腰の下、蜘蛛の頭を叩いた。「――やらないと。まあどのみち、こんなちっちゃな足じゃ、なんにもならないだろうけどねえ」
 ゆうかんだねえ。こんながちがちになっちゃうほど、怖がってるくせに。女の唇がなめくじのように動く様から、眼を離せなかった。キスメはもう自分の心臓が破裂するんじゃないかと思っていた。

 蹴飛ばした姿勢のままで糸がきつく締まり、動けなくなっていた。女の腕が裾を割り、帯を解いた。白装束の前が開いた。素肌が夜風に晒され、全身が震えた。痛いくらいに寒かった。けれど恐怖に麻痺した頭は、それを辛いと感じることさえできなかった。
 きれいだね。かわいいね。場違いな褒めことばが漏れた。裸体を見られたことへの恥辱に、顔が熱くなった。無性に怒りを覚えることは、そうしたことばに虚偽を感じなかったことだった。この化け物は、とキスメは思う。私をこういう風に扱って、楽しんでいるんだ。人形で遊ぶ童女みたいに。

 頭を撫でられた。直後に胸元が開かれた。冷気に、乳房の先端が立ち上がっていた。女の指が五つ、続けざまに掠るように触れた。ぞわりと背筋が強張った。
 はああ、と堪能するような息が女の口から漏れた。うっとりと相貌を崩し、両手が両胸を掴み、弄んだ。逃げられないまま、キスメは首を振った。動くのがそこしかなかったから、必死で振った。眼を開けば女のからだの後ろ、大蜘蛛の巨大な八本の脚ががちりがちりと甲殻を触れ合わせ、小刻みに動いていた。その動きに合わせて、黒い夜に浮かぶ蜘蛛の巣の白い線がゆらゆらと揺れていた。



 指が満足するまで、ヤマメはキスメの胸を弄り回した。動けない体躯を必死に動かしてささやかな抵抗を示す少女のちっぽけな姿は、いかにも魅力的だった。実にそそる代物だった。
 腕のあたりに絡まっていた帯を投げ捨てた。滝壺まで夜を切り裂いて自由落下していった。キスメの眼が無意識にその様を追った。そこはあまりにも高かった、滝壺の波涛が遥か遠くに聴こえるほど。その瞳に刻まれる恐怖が順調に一段階ずつ増していった。
 もっとよく見たかった、その少女の表情を。近づいて、額を突き合わせた。キスメは眼を逸らそうとしたが、もうそれ以上動けば糸が喉を縊り殺す位置だった。ヤマメは自分の唇から恍惚とした吐息が漏れるのがわかった。

 「あたしはね、おんなの子がすき」とヤマメは囁いた。「ちっちゃな子供がいい。からだも、心も。だれかがまもってあげていないとすぐにぽっきり折れてしまうほどはかなくて、うまれたての小鳥みたいに疑うこともせずだれにでもひょこひょこついていって、ほんのすこし突っついてやればわんわん泣き出しちゃうくらい無防備なの。そう、とってもおんなの子らしいおんなの子がいいなあ」
 キスメの髪に指を差し入れ、引っ張って持ち上げた。頭皮への痛みにキスメの顔が歪んだ。
 「こうして蜘蛛の巣にまねきいれて、みうごきひとつとれないように四肢を縛りあげてねえ、ゆっくりと自分のたちばを呑みこませるの。絶望も失意もなにひとつ知らなかった瞳が、すこしずつ剥き出しの世界をしって、黒ずんでいくのをかんさつするのがすき。だいじなのは過程であって、結果じゃないのさ。一寸ずつめりめり両断されていく心のきわ。だれもたすけにこないってことが理解できたそのときに、あたしは耳元でそっとささやいてやるの。あきらめろ、って」

 ぺたりとヤマメの手のひらがキスメの顔に落ちた。キスメの喉がひゅっと鳴った。半分閉じた瞼に指の腹を押しつけると、ぽろりと涙が一滴零れ落ちた。手の甲でごしごしと頬のあたりを擦ってやった。埃に、日焼けした肌が黒く汚れた。

 「たよれるものがなにひとつなくなると、脆いものだよ。かんたんに意識をすっとばす。でも、あたしはそこでやさしくしてあげるの。かわいい子、かわいそうに。からだじゅう撫でまわしてあげる。肉のすじから膀胱まで、すっかり緩んでしまうまで」

 猫撫で声の甘く蕩け落ちるような響き。キスメは食い縛った歯の隙間から火のような息を吐いた。眼を閉じるようには、耳を塞げない。化け物のことばが意味を持っていること自体、ただもうひたすらおぞましかった。

 くすくすとヤマメは微笑んだ。ねえ、知ってるかえ? 指先が唇をなぞった。
 「蜘蛛がどうやってえものをたべるか。おまえたちのように、からだのなかで消化するなんてことはしないんだ。いちばん最初にどろっどろに溶かして、丸呑みにしてしまうの。蜘蛛の巣にかかった虫の、生き血を吸われてるようなばめんを、見たことないかえ? あれは吸ってるんじゃなくて、注ぎ込んでるのさ。こんなふうに――」

 ヤマメの唇が開かれ、その合間から、ひときわ尖った犬歯が見えた。が、見えたときにはヤマメの頭はキスメの首筋に落ちていた。なにも見えなくなったと思うと、いきなり痛みがきた。首を噛まれていた。
 ふたつの犬歯がふたつの穴を穿った。ぬめっぽい感触から、血が垂れているのがわかった。が、その途端にかっと熱くなった。

 なにかやられた!? キスメは顎を震わせた。得体の知れないものに対する警戒と恐怖が破裂しかけた。
 ちゅる、と舌が一瞬だけ首を這った。そして離れた。

 さあ、からだのなかに意識を集中させるんだ、とヤマメはキスメの耳元で囁いた。
 「あたしのものが血管のなかに入ってきたのがわかるだろう。ちがう温度が、皮膚のしたを流れはじめるよ。すぐに心ノ臓に届くよ。そこから全身にひろがるよ。ほら、まぶたは閉じとき。せっかくのきちょうな体験なんだから。ねえ、んふ、わかるだろう?」
 心底楽しそうに、ヤマメの指がキスメの腕をなぞった。わずかに浮き出た蒼白い血管を伝った。
 「これでからだの内側がすっかり消化されてしまうんだ。あたしに食べられるためにさ……丸呑みだよ、あとにはなぁーんも残りやしない。空っぽになってしまうのさ」

 そうとわかるほどからだの内側が熱くなった。愕然として自分の腕を見ると、宵闇のなかでさえわかるほど真っ赤になっていた。明らかに、尋常ではなかった。寒いはずなのに、汗が噴き出てきた。

 「どこまで話したっけ? そうそう、こうしてやると、すっかりみんな、あきらめてしまうんだ。やだやだやだって、むすめっ子のかわいい声で、わんわん泣き喚くんだ。おまえはそれでも声を出せないんだね、つまらない。でも、だいじょうぶだよ。ふしぎなことにね、だんだん気持ちよくなってくるんだ、からだのなかが空っぽになってくると」
 ほら、とヤマメの手が胸に触れた。先程より、そこは遥かに敏感になっていた。キスメは困惑した、まるで神経が剥き出しにされたような皮膚感覚に。冷たい風が吹きつけた。それに撫ぜられるからだの裡、きりきりと食い込む糸の感触までもが、ひどく甘い心地を腹から背筋にかけて呼び起こした。

 ヤマメはゆっくりと時間をかけるように乳房をさすり、揉みしだいた。分刻みに、感覚はますます膨張していった。キスメは下腹のなかに溜まる感覚をひどく気持ち悪く思った、が、それをどうしてもどうにかすることができなかった。ただ糸の内側で身を捩る以外にできることがなかった。

 「絶望と恐怖で、もうすっかりおかしくなってしまうんだ、だんだんにねえ。現実を見たくなくて、からだの感覚だけがほんとうのことになってしまうんだ。おとこは死にそうなほどの苦痛を浴びるとね、自然にからだが種を残そうとして、おちんちんから精を吐き出すらしいけど。似たようなものかねえ。こういうときにやさしくしてやると、おんなの子は、蕩けてしまうの」
 キスメは闇雲に唇を噛んだ。正気のままでいるために唇を食い破った。そこから流れる痛みを抵抗の地軸にしようとした。あら、いたそうだね、かわいそうだね、とヤマメはそこに優しく触れた。
 「かわいいものだよ。あんあん言っちゃって、愛撫するたんびにおまんこからぷしゃっと愛液を垂れ流しにして。最期にがんばって気持ちよくなろうとして、現実から逃げてしまうんだね。白目を剥いて、べろをだらんとだらしなく見せつけて。まあ、しかたないね。だって身動きひとつとれないまま食べられちゃうんなら、それくらいしかできることないもの。どきどきしてるのを、必死になって愛だか恋だかに置き換えようとするの。ばっかだねえ。ほれぼれするくらい都合のいい、まぬけたはなしだねえ」
 おまえもそうなるよ、すぐ。ヤマメは愛おしそうにキスメの顔を撫でる。

 「けどね。もっとおもしろいことになるの」耳を噛むように囁いた。「ぶたみたいな鳴きごえをだすくらいぼっとうしてるところでね、恐怖におかしくなって、それにしかすがれないようになっちゃってるところでね、快楽を根こそぎ、奪いとってやるんだ。きもちよくなれる神経を病気にさせてやるんだよ。なんにもかんじられなくなって、石みたいになってしまうように。すると、どうなると思うかえ?」
 夜の風がからだを撫で回した。キスメは爛れるようなヤマメの眼を見続けた。
 「なぁーんにもなくなっちまうのさ。なんでも言うことききますからかえしてください、きもちよくしてくださいって、自分から懇願しちゃうの。それだけしか考えられないおにんぎょうさんに成り下がっちまうの。どうしてここにいるのとか、どうしてこんなことになってるのとか、そういう疑問がぜんぶまっしろになっちゃって、もうすっかり思い出せなくなる。のうみそが漂白されてしまうんだね。そういうのが、かわいくってさ! あかんぼより従順だよ、あたしのことばだけ吸い取って、それにだけ従う奴隷になっちゃうの。
 まあそうなると誰も彼もまるっきり同じになっちゃってつまんなくなるから、そこで捨てるんだけどさ」

 顔を撫で回す指が唇に至った瞬間、キスメは歯を剥いた。なによりも先に盲目的な激憤が爆裂した。この妖怪が。この化け物が!
 その異様に細く長い指先を、キスメの歯が挟んだ。塩の味がした。そう感じた次の瞬間には、上顎と下顎が強い磁石のように互いを吸引していた。

 「あれ」

 力の限りキスメはその指を食い破ろうとした。声が出せていたならば、耳の鳴るような声を絞り出していただろう。眼まで強く閉じて、首の筋が痛むほど。どうにかできるだなんて考えもしない、ただもうひたすら攻撃的な反逆がからだを動かした。
 がん、と全身が跳ねた。……息が詰まり、力が抜けた。腹に鈍い激痛が圧し掛かった。ヤマメの、蜘蛛の巨大な脚が、キスメのからだを蹴飛ばしていた。

 「……はあ。いたた。びっくりしちゃった」
 血の滲んだ指をさすりながら、眼を見開いてはあはあと必死で酸素を取り込むキスメを、涙ぐんで見下ろした。とんだじゃじゃ馬だこと。勇姉が気に入りそうな子だ。そう呟くヤマメはやはり、楽しそうに笑っているのだった。

 「大丈夫かえ? いまので、内臓のひとつくらい、破裂しちゃってない?」キスメの頭を撫でて、やはり優しい声音で言う。「大人しくしときって、言ったのに。……人間のからだはすぐに壊れてしまうから、遊ぶのだって、たいへんなのに」
 まったく、難儀なものだね。言いながら、ヤマメは痛みに硬直するキスメのからだを撫で回した。ぺたんこな腹を伝い、その下へ。幼いところを守るちぢれ毛は、あまりにも薄かった。思案顔で、手のひらの腹を押しつけた。濡れ方は、さほどではなかった、けれどまあ、充分ではあった。

 「どうしようかねえ。ふうん……うん……まあ……」
 ねえ、ほら。ぺしぺしと平手がキスメの頬を叩いた。痛みに薄れていた意識を取り戻し、キスメはぼんやりとヤマメを見上げた。

 「おまえ。もう赤飯は食べたかえ?」
 眼が泳いだ。それでだいたい、ヤマメには察しがついた。
 「そうかい。じゃ……、んふふ。こんなになっても、おまえはひどく元気みたいだし」嘲るような笑みが、さらに一段階深みを増した。実に名案、と自分で酔っているような顔をしていた。「あたしのこどもでも産んでもらおうかね!」

 塗り篭められたような暗闇のなか。キスメの眼がいっぱいに見開かれた。















 パルスィは底に小さな穴の開いた釣瓶を手に下げ、山道を歩いていた。いつもヤマメがいるところに、ヤマメがいなかった。そこらじゅうに張り巡らされたいくつかの巣のどれかにいるのだろうと思い、適当な見当をつけ、そこを目指していた。
 手先の器用な彼女に、釣瓶を修繕してもらおうと思っていた。もともと鬼の使っていたもので、大雑把な連中であるために、通常のものより遥かに大きい代物だった。都にいた時分でも、こんなに大きな種類は見たこともないくらいには。小さな女の子くらいなら、すっぽり入ってしまうだろうくらいの幅と深さがあった。
 滝の下までやってきて、巣を見上げた。暗闇のなか、ヤマメの巨体が蠢いているのが辛うじて見えた。明らかにひとりで暇を潰しているときの動きではなかった。緑色の眼がそうした姿を捉えた瞬間、パルスィは予感のもたらす悪寒が全身に走るのを感じた。

 岩壁を蹴り、パルスィは跳ねるように飛んだ。



 蜘蛛の巣が撓んだのを感じた。キスメの顔に手をかけたまま、ヤマメは気だるげに振り返った。目前になにか大きなものが舞っていた。見えたときには、ぶつかっていた。
 軽い衝撃があった。ヤマメの人型の部位に弾かれ、釣瓶がバウンドした。糸に落ち、絡められ、すぐに動かなくなった。

 どうして釣瓶が降ってくるんだい。そう思ったとき、巣が一際大きくしなった。バランスを崩しかけた瞬間、粘性のない縦糸を伝い、緑色の影が大きな亀裂を描いていた。巣の端からヤマメの懐まで一息に駆け抜けていた。
 岩に岩をぶつけたような重苦しい音が響いた。ヤマメの頭が霞がかったようにぶれ、大きく傾いだ。
 血管が浮かび上がるほど強く握り締められたパルスィの拳が、もう一度振り上げられたときには、八本の脚をがちんがちんと響かせて、ヤマメのからだは巣の端まで後退していた。

 暗緑色の眼が動き、糸にがんじがらめにされたキスメの姿を捉えた。パルスィは嘆息した。厭な予感ばかりが的中するんだから、もう! 握り締めていないほうの手で頭を抱えた。

 「ヤマメ――」
 咎める声で鋭く言うと、ヤマメは屈託なく笑みを浮かべ、歓迎するように両腕を開いてみせた。
 「こんばんは、パルパル。そっちから会いにきてくれるなんてうれしいよ。ひさしぶりの挨拶が熱烈すぎて、いしきが飛んじまうかとおもった」
 「パルパル言うな」
 「いいじゃん。かわいいよ」
 そう言うと、パルスィに殴られ、青痣のついた頬にうっとりと手のひらを当てた。

 パルスィはキスメの前で屈み、蒼褪めたその顔を覗き込んだ。キスメには、また得体の知れない妖怪が自分をどうかするために現れたようにしか思えなかった。黒ずんだ激情と、からだのなかを駆け巡る熱い感覚で沸騰していた。声もなく表情のみで、緑色の眼の女に向かって狂犬のように唸った。
 「怒りがあれば正常よ」とパルスィは囁いた。見たところ、糸もまだ致命的なダメージを与えるには及んでいないようだった。ひとまずは大丈夫。パルスィは立ち上がった。

 「いっしょにたべる?」とヤマメ。
 「ぶっとばすわよ」
 「どうして邪魔するのかえ? あたしはかってに巣にかかった獲物をいじめてるだけだよ。そいつの所有権はあたしにあるとおもうんだけど。パルパルの妹かなにかじゃあるまいし」

 どうして、だって? 邪気の見えない問いかけに、パルスィは頭痛を覚えた。もうしかめていた顔をさらにしかめた。強く握りすぎていた手のひらに、爪が食い込んでひりひりと痛んだ。ぎこちなく指を開いて、そのなかを覗き込むようにした。
 妖怪の手だ、と思う。けれど見た目は、人間のそれと大して変わりない。なりそこないの鬼のからだは、純種の鬼に比べればひどくひ弱で、そもそもパルスィが人間だった頃と同じ程度の大きさしかない。

 「忘れてるかもしれないから言っておくけど。私はもともと人間」
 ヤマメはきょとんとした。「――ああ……そうだっけ? すっかりわすれていた」
 だってそんなにきれいだから。妖怪だって、パルパルほどきれいな子はそうもいないよ。ヤマメがそう続けると、パルスィは直接的な苛立ちが頭に紛れ込んでくるのを感じた。
 (こいつは口から出任せばっかり)

 きりきりと空気が張り詰めていた。パルスィの吊り眼には臨戦態勢の剣呑さが滲んでおり、背後のキスメの表情は白熱していた。冬の夜の凍りついた温度を越え、蜘蛛の巣の上は煮立っていた。
 もうひと睨みして、眼だけで近づくなと意思を投げつけ、パルスィは振り向いてもう一度キスメを見下ろした。闇雲に抵抗したせいで、糸は複雑怪奇な絡まり方をして、それ以上はどうあっても動かせない状態にまで悪化していた。

 「逃がすのかえ? もったいない」
 「うるさい」
 「巣にかかった獲物をたべるけんりは昔っからあたしらにあるじゃないか。なんにもおかしいことはないだろ。あたしからしてみれば、道理にさからったことをしてるのはパルパルのほうだとおもうのだけれど」
 「こんなちっちゃな女の子を、あんた――」
 「人間なんてみんなおんなじじゃないか。腹のなかにはいっちまえばさあ。パルパルは河のさかなをくうとき、こいつはちっちゃなおんなの子だから逃がしてやろうなんて、ちらっとでもおもうかえ?」

 パルスィは大きく舌打ちした。目の前で拘束され、なおも足掻こうと双眸をぎらつかせた少女の姿は、いかにも可愛らしかった。人間として生まれたパルスィの一部が、後付けの道徳を振りかざして叫び声を上げていた。そうしてパルスィ自身、そうした内なる声を無視してこの事態をやり過ごすつもりなど毛頭なかった。

 「あんたの言い分は正論だと思う……この山の妖怪みんなの代弁だと思う」ことばとともに吐き出された息は燃えていた。「この世界ぜんぶの道理だと思う……あの世の閻魔様さえ頷く道理だと思う……」
 「わかってるじゃん」
 「妬ましいくらい正しいことだと思う。間違ってるのは私のほうだと思う。だから私は仕方なく、この魔法のことばに頼ることにするわ。『てめえのツラが気に食わない』」

 パルスィは肩越しに振り返り、暗い眼をヤマメに向けた。池のように濁った緑色は揺るぎなかった。ヤマメは肩を竦めた。
 「そんなちっぽけなおんなの子を賭けて、緑眼の魔物さまをおこらせようとはおもわないよ。あたしとパルパルの仲じゃないか。そんなにきにくわないのなら、そっちの好きにしたらいいさ」



 パルスィはキスメの頬に触れようとした。波のように首が跳ね、小さな歯がその指先を捉えた。そうして力の限り挟み込んだ。
 構わずにその瞳を覗き込んだ。黒真珠が白く霞んでいた。なおも顔を傾け、ほとんど睫毛が当たるほどまで近づいた。そうして言い聞かせるというよりは注ぎ込むような声音で言った。「気をしっかり持ちなさい。内なる声に耳を傾けなさい。自分のからだがどうなってるか、わかるはずよ。喰らいついて落ちついてられるんだったらいくらでも噛んでなさい」

 冷水をかぶせられたようにキスメの眼が泳いだ。視線を強引に合わせ、意識を引き戻させ、パルスィはさらに言った。
 「消化液と媚薬の区別くらいつくでしょう。からだじゅう熱くなって、でも、それだけでしょう? 痛くないし、苦しくもない。からだの末端に意識を向けなさい。中心に向かって少しずつ辿りなさい。自分は大丈夫だって、きちんとわかるはず」
 ヤマメはつまらなそうに舌打ちした。「ちぇ」
 一瞬だけヤマメを横目で見やり、パルスィは上体を起こした。食まれたままの指はそのままに、キスメのからだを見下ろした。

 ヤマメの糸はあまりにも硬すぎ、粘性がありすぎた。虫ではなく人を捕らえるための罠。蜘蛛の糸を払うようには振り解けなかった。
 なにを考えるのも面倒だった。パルスィはさっさと片付けてしまうことにした。キスメの額に額を重ねた。キスメの眼が困惑に揺らめいた。
 「私はあなたになにもしやしない」言ってから、眼を強く閉じ、開いた。緑色の眼光が闇を引き摺った。「……妬ましい。くそ」

 またこのクソな気持ちをあてにしてる。パルスィは舌打ちした。いっとき、捻じれるような強い自己嫌悪が胸中を満たした。視界がぐらつくほど頭の芯が熱せられ、霞んだ。キスメの眼が再び警戒と怒りに濁った。

 「お。やるのかえ?」
 「あんたは黙ってろ……」
 「いいじゃないか。あたしはすきだよ。なんだ、ほねおり損のくたびれ儲けかとおもったけど、いいこともあるもんだ。あたしはここで眺めてることにするよ」

 そのように言われること自体、パルスィにとっては恥辱以外のなにものでもなかった。消し去りたい自分の一部に頼らざるを得ないこと、そのジレンマ、またそういう風にして自分を維持していることへのもどかしさ、それらが渾然となって思考を削った。
 唇を強く噛んだ。見下ろす少女の、無垢な怒りを孕んだ視線を辛く感じた。妖怪に向けられる悪感情が、他でもない自分に向けられていることに苛立ちを憶えた。そう、もう私は妖怪なんだ、と思った。なんでもないときにどれだけ自覚しようとしても大した反動をもたらさないその思いが、いま他者の視線を伴い、はっきりとした重みを得て自分に返ってきた。無性に、私は人間だったんだ、と叫びたくなった。この少女に向かって……私だって少しまえまでは、あなたと同じ人間だったのよ、と。そんな視線を向けられるいわれのない、生まれついての人間だったんだ。

 「ッ、」

 自ら流れゆく川に身を浸した記憶が脳裏をえぐった。それは他でもない自分の選択だった。自分がそういう風になることを選んだのだった。

 「パルパル?」
 「……。パルパル言うな」

 ヤマメの呼びかけに我を取り戻した。パルスィはゆっくりと深呼吸をし、記憶を振り払った。そうしてもう一度キスメを見下ろした。
 「ごめん。怖がらせることになる」



 口のなかで転がすような囁き声――「……妬ましい」
 パルスィはゆっくりと眼をしばたたかせた。キスメの胸に手のひらを置き、水面から息継ぎをするように天を仰いだ。キスメの視界に残酷なほどか細い喉元が曝け出された。手を伸ばせばそのまま手折れてしまえるかのような危うい印象を与える線をしていた。
 数瞬の静止があった。その直後、地表にダイヴするような速度でパルスィの首が戻ってきていた。キスメの顔の真上で止まった。表情が一変していた。
 パルスィの蒼褪めた顔。ひび割れる音さえ聞こえてきそうなほど食い縛られた歯。暗い双眸に濁った緑色の火を滾らせ、醜悪な憤怒の剥き出しにされた表情がそこにあった。なんら隠すことも偽ることもない、豹変した激情の塊と化していた。
 汚物を吐き出すような叫びが漏れ出た。「妬ましい、くそ……こんな小娘が!」

 キスメの眼にはパルスィのからだが一回りも二回りも膨らんで見えた。胸に置かれた指先が蛇のように揺らいだ。着物の生地に爪が立てられ、なんの造作もなく引き裂かれた。震えながら握り締められたところに布地が集まった。
 もう既に何度も一線を越えていたキスメの感情、原初的な恐怖とそれに抵抗するための激怒はまだそれでも細動した。際限のない狂気との境界線上で灰燼がなおも燃え続けた。今度は縛りつける糸に気を配る余裕さえなかった、首を絞める力が増すばかりなのを忘れて背中が跳ねた。完全に反射的な行動だった。が、パルスィはそれらを遮断するために手のひらでキスメの胸を強く押さえつけた。

 「動くんじゃない! 生きたければ黙ってろ! 還ってきたければ死体を演じてろ! 無力な小娘が、ただ眺めてる以外のなにもできないってこと、理解できてるでしょうが! ええ!?」

 振り下ろすようなことばがキスメの全身を打った。そこに篭められた切羽詰った響きが炸裂のように鼓膜を打擲した。が、キスメは声なき声でなおも叫びを上げた。口を大きく開き、歯を震わせ、心肺に許された限りの空気を吐き出していた。
 パルスィは腕を振り上げた。黙らせるために拳を握り締めた。理性と衝動のせめぎあい。それでも一度や二度殴りつけた程度でこの少女が黙り込むわけがないこともわかっていた。それまでの反応からそのちっぽけな少女がどういう女か理解し始めていた。名を知るまえからわかり始めていた。
 舌打ちし、拘束を解こうと振り乱される髪に指を差し入れた。そのまま乱暴に握り締め、顎を上げさせた。喉元に食い込む糸が曝け出された。

 「可愛い娘」おもむろに言った。「なんてちっちゃな娘。十二か十三か。人生の何分の一もまだ生き延びていない。おまえには未来しかない。過去らしい過去もなく、ただ開かれた前途以外のなにものも持っていない」さらに言った。「私とは大違い。まったく大違い。永遠に斜陽の生を引き伸ばされるばかりの私とは。若いおまえにはこれから先あらゆる悦びが待っている。私にはない。人間として受け止めることのできるあらゆる光が私にはない。残されたものを使い尽くして野垂れ死ぬときをただ待つだけのこと以外にできることがない。おまえにはある。暗闇の雲に覆われた道じゃなく、光耀に満ちた輝かしい未来がある。なんて無駄な私の人生。おまえは幸福だわ。本当に幸福だわ」なおも言った。「私はすべてのクソを手にして独りきりで壊れていった。壊れて、潰れて、おかしくなって、そうした者の辿る末路を余すところなく味あわされた。できる限りのことをしたのにそれが私を人間の出来損ないにした。鬼にさえなりきれなかった。何者にもなれなかった。おまえは違う。おまえは無限の可能性みたいな反吐の出ることばに包まれてる。くそ。くそ! 可愛らしい娘、おまえはきっと私と同じ失墜なんてしないのよね、だってこんなに可愛らしいんだから。この腐敗した水が心臓を侵してくような汚らわしい捻じり切られる痛い息ができない想いを抱くことなんてないのよね。私は未だに味わうことができる。おまえは本当に幸せよ。おまえはゲームに勝ったのよ。だってそうでしょう? この蜘蛛の巣に魂丸ごと引っかかってしまったのにまたこうして助かることができるんだから! まるであつらえたように私がこの場にやってきてしまったんだから! まるで私はおまえの引き立て役みたいに!――」
 
 緑色の眼光が重みを増した。右目が見開かれ、左目が細められた。般若の形相に醜く歪められた表情がさらに歪んだ。叩きつけるように手のひらが左目の周りを覆った。
 凍りつく夜の空気に白い呼気が混じった。猫のように折り曲げられた上体が発作を起こしたように上下に揺れた。連鎖的に始動する能力の際、緑眼の魔物が意識を覚ます。闇に棲む妖怪が人間のかたちを取るのと真逆の反応が起きる。人型をつくるパルスィの輪郭がぼやける。人間が妖怪のかたちを模倣する。
 一呼吸で肉体が膨れ上がる。表皮が爛れ落ちる。沼のように無数の気泡を伴って細胞が熔け崩れ、広がる。蜘蛛の巣全体を覆うほどに分裂する。内面の感情がそのかたちを外面に裏返す。





 化け物だった。





 傘状に広がった器官の下部、千の瞳が同時に動いた。キスメの姿を捉え、筋肉らしきところどころの部位が膨らんでは縮んだ。スライム状に変質した肉質がそのたびにぼこぼこと鳴った。
 キスメは生理的な激しい嫌悪感を覚えた。なによりただ、あらゆる倫理を越えて原始的な気持ち悪さを与えるためだけにかたちづくられたような生物だった。視界に入れているだけで吐き気を催すような輪郭と色合いだった。夜に紛れてそのほとんどが影に沈んでいるなかでさえわかった。
 そしてさらに深いところで、キスメにははっきりとわかった。視えた。声なきところで培われた幼い勘が告げていた。これは……こいつは……このかたちは。

 ヤマメがうっとりと呟いた。「つくづくおもうんだけど、ほんとにいい心のかたちしてるよ。パルパル」

 表皮を突き破って無数の触手が湧き出た。山を砕くような轟音を立てて、視界が霞んでくるような振動を立てて、断続的に産まれ、伸びた。月を掴み取ろうとするかのように一斉に上空へと伸ばされた。
 一番上まで伸びたところで、弾け、拡散した。その先端を真下に向けてうねりながら落下してきた。はっきりとその輪郭を捉えられなくなるほどのスピードで。

 どんな怖ろしい目に合っても瞼を閉じることだけはしなかったキスメも、もう、眼を閉じざるを得なかった。これで死ぬんだとはっきり思った。触手の先端が稲妻のように蜘蛛の巣へ降り注いだ。すべてが崩れ落ち、キスメはバランスを失った。精神の平衡さえも、ついに傾いた。















 「ひどいよ、パルパル。またいちからつくりなおしじゃないか。あーあ、せっかくのじしん作だったのに、跡形もなくなっちまった。糸だすのってあんまりすきじゃないんだよ……おしりがひりひりするもんだから」
 『うるさい』
 「いいんだけどさ。あは。でもその娘、きちんといきてるかえ? ましょうめんからパルパル見ちゃって、あたま、おかしくなってない? あたしは好きだけどねえ、人間には刺激的すぎるんじゃないかえ……」
 『……そんなやわな心構えだったら、あんたに遊ばれてたときにとっくに壊れてる。近頃は眼を見れば……大抵のことはわかるようになった。でも、なんなの? どうしてこんな山奥にこんな小さな子がいるの? だいたいこんなところに仕掛けられた巣に引っかかってるなんて……滝の上から身投げでもしないことにはありえない。自殺するような子には見えなかったけど』
 「でも、死装束じゃない。とちゅうで気がかわりでもしたんだろ。よくあることじゃないか、やってはみたけどおじけづいちゃったなんてのはさ。まあ、あたしは遊べればそれでじゅうぶんなんだけど」



 キスメは眼を覚ます。細く開かれた視界に、緑眼が映り込む。見えた瞬間、反射的に身を起こしている。
 パルスィに横抱きにされ、滝の真横、ちょっとした岩の出っ張りにいた。キスメが意識を取り戻したことに気づくと、パルスィは溜息をついた。どこまでも無愛想な表情でキスメを見下ろすと、不意に額に額を近づける。

 「これに懲りたんなら、二度と山にこないこと。わかってないなら忠告しとくけど、この一帯は妖怪の住処よ。私みたいなね……」

 キスメは自分の喉に手を当てる。糸の切れ端が指先にくっついた。もはや拘束ではなく、ただのゴミ屑に成り果てていた。両手も両足も自由そのものだった。
 この化け物に変貌した女がそうしたことがわかる。どうしてかわからないが、助けてくれたのだと。命を拾ったのだと。首を巡らすと、すぐ真上、岩壁に張り付くようにして蜘蛛女が薄笑いを浮かべて見下ろしていた。眼が合った瞬間に背筋が張り詰めた。
 ヤマメはおどけて手を振ってみせる。親しげな相手に向けるように。
 パルスィはそっとキスメを下ろす。キスメは立てず、腰が抜けて座り込んでしまう。そんな彼女に、パルスィは握手を求めるように手を差し出す。長い逡巡の末、キスメはその手を掴む。その腕を支点にからだを持ち上げ、震える膝を叩いてなんとか立ち上がろうとする。

 キスメの手を握ったままパルスィは言う。「水橋パルスィ。……私の名前」
 戸惑いの視線を向けるキスメに対して、ヤマメを示して言う。
 「黒谷ヤマメ。見ての通りの……あんたが思い知った通りのろくでなし。変態性癖持ちの色狂い。もちろん、私に比べれば可愛いものだけど」
 ヤマメは片目を瞑ってみせる。「つぎにあたしの巣に引っかかったら、つづきといこうじゃないか。ん?」キスメの眼に敵意が浮かんだのを認めて、パルスィに言う。「その子はキスメ、だってさ。ぷるぷるかわいらしく震えてるくちびる読んだだけだから、あってるかどうかは知らないけど」

 パルスィはキスメを見る。キスメは躊躇いがちに頷く。

 「わかった。キスメ」あくまで硬い口調のままパルスィは言う。打ち解けるつもりなどさらさらないとはっきりした意志が篭もっている。「名前を知れば、多少は恐怖が薄れるでしょう。未知の暗がりが少しでも照らされれば。でも、きちんと覚えておくこと。あなたが見た私はまったくもって、夢の幻なんかじゃないってこと」
 キスメは俯く。
 「見ただけで気を失ったって現実を忘れないこと。なにを血迷ってのこのここんな山奥にきたのか知らないけど、私みたいな妖怪はそれこそ山ほどいる。グリーンアイド・リアルモンスターなんかお話にならないくらい怖ろしい化け物なんてのは。この辺は特に……忌み嫌われた妖怪が集まってる場所なんだから」

 キスメは顔を上げ、パルスィを見つめる。確かに名を知ったことで恐怖が薄れているのがわかる。頭上の蜘蛛女にしても。が、それでもからだじゅうを走る震えは止まらない。呼吸が困難になるほどからだの節々が痙攣している。
 キスメの唇がなにかを言おうとしているかのように戦慄く。空気を震わせることなく、意思を伝えようと声をかたちづくっている。
 パルスィは顔をしかめてその動きに見入る。が、当然のことながらまったく理解できない。

 「……唇読むなんて魔法みたいなこと、私にはできないわよ」そうしてヤマメを見上げる。「ヤマメにはわかる? この子がなに言おうとしてるのか」
 「ごめんね、パルパル。心を読む能力じゃないんだから、技術にはげんかいってものがあるよ。その子がそんなにかくかくふるえてちゃ、読めるものだって読めないよ」
 「……でしょうね」
 パルスィは溜息をつく。



 「あなたをこれから人里まで送ってく」とパルスィは言い聞かせる。「こんなサーヴィスは二度はないから。運命ってやつに微笑まれたとでも思いなさい。でもそれは天気よりも気紛れだから、同じことがあったら今度こそあなたは食われる。理解してる? 実際にヤマメがあなたを脅した通りの道筋を辿る。こいつは息をするように嘘をつくやつだけど、嘘かほんとかわからないような嘘はあんまりつかない」
 「いつわるだけのあたまがないの」
 「黙ってなさい、あんたは。……こんな風に、からかうだけよ。だからあなたが虚だと判断できなかったことばはみんな本当のこと。いい? おチビさん。けどはっきり言って、食われてしまうほどこいつに近づいたほうがだいたい悪いと思ってる。私は」

 キスメは未だに悪夢のなかにいる。ぼやけた視線を泳がせて状況をどう受け入れるのが最善か迷い果てている。そんな少女の頬に手を添え、パルスィはなおも言い聞かせる。

 「そのままでいなさい。体験したことみんな、悪い夢だと思っておいたほうがいい」ヤマメに向かって――「人里まで行く」
 「あたしがのせてくのかえ?」
 ヤマメが首を傾げてふたりを見下ろすと、キスメはびくりとからだを震わせ、パルスィの陰に隠れる。
 「……私が抱えてくわよ。あんたは」
 「あたしもついてっていい? おんなふたり連れじゃ、あぶないだろ?」
 パルスィは気の利いた返答のひとつもできないほど疲れている。

 キスメを背負い、パルスィは山道を下りてゆく。ヤマメの巨体が樹木を薙ぐやかましい音を背負いながら。月のない夜に、あたりは真の闇に呑まれている。三人の眼の光――鈍緑、漆黒、紅金の三色だけが鬼火のように浮かんでいる。
 しばしば初冬の山の無愛想な乾風が吹きつけては去っていく。キスメはほとんど本能的に温かみを求め、パルスィの首に頬を押しつける。吐息の湿り気は一線をひとつ越えた者の強張りに染まっている。パルスィはそのことに強い罪悪感と、憤りを感じる。けれどそれ以上ヤマメを責めることもできないのだ、彼女はただ種の掟に従っただけなのだから。盲目の怒りに任せ、顔をひとつ殴り飛ばしてやるだけが精一杯だった。それだけの行為さえしばしば胸が痛んだ。

 深く物思いに沈むパルスィの背に向かい、ヤマメはおもむろに言う。「難儀なものだねえ。妖怪になりきれない妖怪ってのはさ」パルスィが振り返るのを待って続ける。「ろくに人間もくえやしない。勇姉のいいぶんじゃないけどさあ、いいかげん折り合いつけたらどうなの。いちばんくるしいのはパルパルだろうに」
 パルスィは沈黙を返答とする。
 「とっくに人間としてすごした年月よりもながく妖怪やってるのにさ。そんなちっぽけなおんなの子なんか、あたまからのみこんじまえばいいんだ。そうできるかたちになれるくせに。緑眼の魔物さまが」

 パルスィはヤマメから眼を外し、また山道を下りていく。ほとんど無心のまま脚を動かし続け、気がつくと、無意識の裡に口のなかでことばを転がしている。
 「大昔にはこの子みたいな女の子だったんだ、私だって……人間として生まれて、人間として育ったんだ。そういうことをみんな忘れろってなら、なにを……なにを覚えて、なにを軸にして……生きてけばいいってのよ。……ただでさえこんな……こんな……」



 怒れる触手の雨が巣が完全に破壊するまえに、ヤマメはパルスィに投げつけられた釣瓶を持ち出していた。随分と大きな代物だった、自分が弄ぼうとしていた少女の下半身くらいならすっぽり入ってしまうほど。底の部分にところどころ穴が開いていたものの、全体的にしっかりしたつくりになっていて、少し修繕してやればまだ十年は使えそうだった。ただそれは、大雑把で乱暴な鬼ではなく、人間が――水がいっぱいに注がれたこの大きな釣瓶などとても持ち上げられなさそうな人間が使えば、という前提つきではあったが。
 こいつをなおしてやればパルパルは機嫌をよくしてくれるかしら、とヤマメは思った。パルスィと敵対状態にあるのはヤマメとしてはまったくもって望むところではなかった。じんじんと心地良く痛む頬に手をやり、どうにかしてパルスィの機嫌を取る方法を考えた。考えついたのは、少女を背負ったパルスィにはとりあえず手を出さずにいるのが最善の策だろうということだった。

 ぶん殴ってくれるうちはいいけれど、相手にされなくなるところまでいくのは勘弁願いたかった。がちがちと脚の甲殻を鳴らして、樹木を薙ぎ倒すようについていっても、こちらのほうに注意を向けてもくれない。いまパルスィの関心はキスメを下山させることにばかり向いていて、背負った少女の体験したことに想いを馳せることに夢中で、自分のことは二の次になっているのだ。そう思うと、胸がひりひりするような嫉妬心に取り憑かれてしまう。

 (こんなちっちゃな女の子を、あんた――)
 そう自分に言ってのけたパルスィの瞳は義憤に燃えていて、実にかっこよかった。あんな奇跡のようなタイミングで現れたこと自体、できすぎていて、悪くないシチュエーションだった。ねがわくばこのおんなの子とあたしと、逆のたちばだったらなあ、と思わなくもないのだ。生まれてこの方守られる側に回ったこともないヤマメにとって、そうしたお姫様のような立場に置かれることは、ちょっとした夢なのであった。
 少女で遊び損ねたことよりもそっちのほうが残念だ。
 パルパルにぶたれるのはきらいじゃないけれど。青くなった頬をさすりながら少しうっとりする。殴れば殴るほど因縁が深まるというものだ。思い返せば、背中がぞくぞくして、蜘蛛のからだの関節が変な風にねじれる。だって、こんな姿かたちの化け物に拳を向けられるやつだって、そうはいない。そうすることができるというだけで、お互い、特別な存在なのだ。
 だから相手もされなくなって、ぶたれることがなくなるのは厭なのだ。ちょっかいを出したら、その分だけ反応を返してもらいたい。パルスィの色んな反応を試したいし、相応の関心を向けていてほしい。普通の妖怪として妖怪をやっていた以前はそんなこと思いもしなかったけれど、最近はなんとなく、自分のなかでだんだんと育ってきたそうした想いに気づくことができるようになった。パルスィと交流をかわすようになってから、元人間の人間味に触発されて、化け物の精神が変質してきた。つまるところ、まったくわかりやすく言ってしまえば、ヤマメはパルスィのことが大好きなのだった。

 ヤマメは不意に言った。「ねえ、パルパル。その子、重くないかえ? かわってあげようか?」
 キスメのからだが微かに揺れた。おや、とヤマメは思う。恐怖に喪神したふうになってると思えばどうやら、この子はしっかりふたつの耳で周囲の情報をキャッチしているらしい。
 「そう言ってくれるのは嬉しいけれど」とパルスィは言った。「あんたのことはまだ信用しきれてない、私は。少なくとも、この場においては」
 ヤマメはすっかり傷ついてしまい、つまらなそうに肩を落とすのだった。



 崖の真下に、人里の明かりが見えた。海面に映り込む星々のように。それでもまだ三人のいるところは完全な暗闇だった。
 「で、どうする?」ヤマメが言う。「しんせつに、この子を家までおくりとどけるかえ? どこにあるのかもしらないけどさあ。それで人里のなかにもぐりこんで……かんげいされるともおもえないけど」
 深く考えるときの癖で、パルスィは親指の爪を噛んだ。そうしてキスメを背中から下ろした。

 「おチビさん……」
 呼びかけても、まだ、キスメの目線は朦朧としていた。とても立ち上がって歩けるような状態には思えなかった。これだけの距離とはいえ、山道に放り出して、賊に襲われないとも保証できなかった。
 そこでパルスィの眼がヤマメの腹のあたりを見た。自分の持ってきた大きな釣瓶を、宝物のように抱えていた。

 「落としましょう」
 「はあ?」
 「この子を釣瓶のなかにいれて、糸で少しずつ下ろしてく。ざっと……百丈もあれば足りるでしょ」
 「釣瓶落としかい。いいけどさ。とちゅうできれても、しらないよ。この子がこわがってあばれたりしたら――」
 「どうしようもない罪人だってひとりだけなら蜘蛛の糸が切れることはなかった。ひとひとり抱えて飛ぶより、余程安全よ」

 パルスィに促され、疑り深い眼を向けたまま、キスメは釣瓶のなかに身を収めた。不動の沈黙を保ったまま目線をふたりのあいだに行き来させた。パルスィはキスメの頭を撫でようと腕を掲げ、が、その中途で自分がどのような者に見えたかを考えて思い留まった。もうなにをどうしても、自分たちとともにいてこの子が安心することなんてないだろうと思う。
 「信用しろなんて言わない。けど、あなたを食らうつもりだったら蜘蛛の巣にかかった時点でそうしてる。あんな醜い姿晒したりせずさっさと眼を潰してる。こんなまだるっこしい真似なんてせずに……」
 「まったくそのとおりだとおもうよ。けど、あたしにはあのパルパルがみにくいだなんてこれっぽっちも」
 「あんたは黙ってたほうがいい女よ。それは私も同じだけど、私は必要性があるから言ってる」
 「はいはい」
 「だから……」もう一度キスメに向かって、「せいぜい大人しくしときなさい。なにもしないのがなにかをするよりいいときも、たまにはある」

 取っ手に糸がくくりつけられ、釣瓶が虚空に曝された。糸はパルスィが持った。途端に風が吹きつけ、釣瓶とキスメのからだ、ふたりの心が不穏に揺れた。
 風が止むのを待ち、パルスィはゆっくりと糸を繰り出した。

 次第に離れていく無言の眼に向かってパルスィは言った。「二度と逢わないだろうから、この夜のことはきちんと忘れておきなさい」
 黒い双眸に真っ直ぐに見られ、パルスィは自分の醜悪な部位をすべて曝け出されてでもいるような気分になった。罪の一切を映し出す鏡のまえに連れ込まれたような感覚に陥った。多かれ少なかれ、子供の視線にはそういう能力がある。だからパルスィは、必死で手のひらのあいだを滑る糸に意識を集中させなければならなかった。そうしなければ千切れた糸から奈落の底へ自由落下でもするかのような気がした。
 そんな彼女の背中で、ヤマメは唇に爪を這わせた。「またあうきかいがあったら、つづきといこうじゃないか。たくさんかわいがってあげるよ」

 パルスィの背後で、蜘蛛のからだが巨大な浮雲のように揺れた。パルスィはただ牽制の目線だけを後ろに向けた。それだけでも充分な効果があり、ヤマメは顔の横で両手を広げて見せた。










 星の海のように見える人里へゆっくりと落ちていくあいだ、キスメは胸に両手を当てて深呼吸していた。飛んでいた理性が還ってくると、それを捻じ伏せるために感情を燃やした。鋭利な怒りだけがからだじゅうを満たしていた。
 一度体験したことならなんだって耐えられる、二度目以降は。キスメはそのことを知っていた。だから、次に行くときは小刀を持っていこうと思う。蜘蛛の巣に落下して、その粘性に引っかからない方法もだいたいわかった。あの緑眼の女が巣のどこを伝って自分のところまできたか、きちんと観察していた。

 風が吹きつけ、釣瓶が揺れた。……糸が長く伸びている分、振れ幅も広く、揺さぶられた。が、キスメの心はもうそこにはなかった。また山奥に向かって飛んでいた。




















 『2 報復式』










 感情を爆発させると三日は精神のどん底から還ってこれない。反吐が出るような気分に浸りながら、パルスィは川の流れに身を浸して浮かんでいる。冬の空の乾いた蒼を見上げながら。
 それは緑色の眼をした怪物で、ひとの心を嬲りものにして餌食にする。自分も他人もお構いなしに思う存分巻き込んで捻じ伏せる。そうした姿のまま初めて川面に映る自分を覗き込んだとき、パルスィは吐いた。胃のなかが空になるまで、空になっても黄色い胃液を吐き出し続けた。
 皮膚の裏返った人間を見させられたようなグロテスクな嫌悪感だけが浮かび上がってきた。なによりパルスィの心を穿ったのは、他でもない自分が、他の誰でもなくこの世界でただ自分ひとりだけがそのような姿をしているという事実だった。

 それでもまだ耐えられた……自分だけがその姿を知っているだけなら。いまはもう、少なくとも三人もの相手に余すところなく見られてしまっていた。ヤマメに勇儀、そしてあの……無言の少女に。人間に。



 キスメはただ生き延びるためだけに生き延びていた。少なくともその日がやってくるまではそうしているつもりだった。大通りに面した小さな路地に座り込み、行き交う人々を眺めていた。すると、同じような暮らしをしている仲間たちに呼ばれ、手を引かれて裏道に引き込まれた。
 迷路のような道を抜け、居住区の反対側までやってきた。おんぼろの長屋に、たくさんの人々が集まっていた。不穏な囁き声に満ちた群衆。キスメが仲間の少年を見ると、彼は大きく肩を竦めてみせた。
 「また、だってよ」

 大人たちの合間を掻い潜り、キスメは彼らが注目しているものの前まで進んでいった。腐敗臭がし、顔をしかめると同時に人垣を抜けた。視界が開いた。開け放たれた戸の裏側、室内は汚く黒ずんでいた。さらにその奥に、体格のいい男が壁に背を預けて座り込んでいた。
 男の頭は曲がるはずのない方向に曲がっていた。壁とキスしていた。見ることさえおぞましくなってくるような死に方をして、永遠に向けて旅立っていた。

 「やっぱ鬼の仕業なのかな。みんなそう言ってる」
 キスメと同じところまでやってきた少年が言った。キスメは振り返って彼を見つめた。彼はキスメの意図がわからないなりに、精一杯の予測を交えて話し続けた。
 「なんだかもう、この辺もすっかり危なくなっちまったな。おまえも気をつけろよ。おれたちがそばにいるあいだはいいけど、なんたっておまえ、悲鳴だって上げられないんだからな。おまえの親父さんも――」
 言いかけたところで、キスメの眼に危うい光が宿ったのに気づき、慌てて手を振った。
 「悪い。おれが言いたいのは、できるだけひとりっきりで動かないようにしようぜってことだ。このまえみたいにさ……おまえほんとどこ行ってたんだ? おれたちがどれだけ心配したか、わかってんのかよ? まあ、だから」

 少年が言い切らないうちに、キスメはもうその場に背を向けていた。



 「かんちがいがやたらと多いからいっとくけど、鬱はこころのびょうきじゃなくて、のうみその病気だよ。だからこころの持ちようでなんとかなるなんてたわごとには耳を貸さないで、さっさと認めてしまうことだ。そうしてしかるべき治療をうけるべきなんだよ」
 唐突に声が飛び、パルスィは唸り声を上げて悪夢から復帰した。川の底に足をついて立ち上がった。
 「あたしんところにくればさっさとどうにかしてあげるのに。友だちだろう? それとも、そうあたしが言うことさえパルパルはゆるしてくれないのかえ?」

 いくつもの返答の可能性ばかりが脳裏に浮かび、パルスィは困惑して溜息をついた。心を偽り、ことばをどうにでも操ることはできた。けれど本心を選ぼうとすると、ことばの群れは途端に亡霊のように無意味な張りぼてに成り果てた。
 なにが本心でなにが建前なのか自分でもわからない。ただ強烈な嫉妬心とそれを忌まわしく思う気持ちだけが残り、他の感情は腐った死体に成り下がってしまっている。

 「言いたいんなら……勝手に言えばいい。私はどうでもいい」
 「そうするよ。ありがとう」

 なにがありがとうなのか。刺々しい気持ちのまま思い、そう思ったことにさえ嫌悪がある。私はそういうことばさえ素直に受け入れられないでいる。まったく、精神のどん底に落ちていることにメリットなんてこれっぽっちもない。とっくに思い知っていることなのに。
 川から上がり、地べたの上に身を転がした。首の後ろを濡れた草がくすぐり、深い匂いが鼻腔を満たした。両手で顔を覆い、肺を空にする勢いで息を吐いた。

 「ねえ、そばにいってもいいかえ?」
 「勝手にすれば」
 パルスィは反射的に答えた後で自分の心を探った。随分と卑怯な物言いだと思った。来いとも来るなとも言わないのに、そういう風にして選択権を放棄してしまうということは、結局は来いと言ってるのも同然なのだ。ヤマメがそうしたいことを知った上でそんなことを口にしている。それは自分のなかに、いまこういう状態にある自分に、少なからずそうして欲しいという心があったからの返答ではなかったか。

 草叢を薙ぎ倒すようにして、蜘蛛の巨体が姿を現す。それが本体だというのに目線が咄嗟に人型の部位に集中してしまうのは、仕方ないことだろう。パルスィは遥か上方から見下ろされていた。目線を合わせようとすれば飛ぶしかないのだが、結局のところ、いまはそうした位置関係が一番落ち着くような気がした。

 「……そばに行ってもいいかなんて訊かないで。訊かれると厭になる。厭じゃなかったらなんにも言わない」
 「だって言ってほしかったもの」

 にこにこと屈託なく笑いながらヤマメは言う。パルスィはそうしたことば回しや仕草のすべてから、素直さと捻くれの矛盾した印象を覚える。正直な嘘つき。
 ヤマメに関して、パルスィはひとつ確かな認識を持っている。少なくとも彼女は偽らない。息を吐くように嘘をつき、嘘をつくということを隠さない。ことばでは嘘を吐き出し続けていても、結局真実ばかりを示している。それは結局のところ……どうなのか。決して嘘をつかない鬼の理屈で言えば、正直者なのかそうでないのか。
 無駄に思考の迷路に踏み込んでいる気がする。パルスィは首を振って上体を起こす。

 「お酒もらったんだ。勇姉に、さっき。いっしょにのみたくてさ」
 「姐さんに?」パルスィは怪訝な眼を向ける。「私は最近全然会ってないけど。もう近頃はずっと山奥の奥に篭もってるみたいだったから……こんなところまで出てきてたの?」
 「どっかの帰りだったみたいだけど」
 「……鬼退治の輩がめっきり減ってきて、他の鬼もみんな……地底に引っ込んじゃったのに。用事なんてなんにもないじゃない。お酒もらったって、それだけ? なんか言ってなかったの」
 「しらないよ。のむの? のまないの?」

 不毛な推測を打ち切り、パルスィは黙って右手を掲げる。



 地べたに座り込んだまま、パルスィは注がれた酒の表面をちびちびと舐める。未だ味わうことのできる悪意の奔流が遠ざかり、立てた膝に顔を埋め、湿った息を吐く。それでどうにか態勢を立て直す。
 すべては遠い過去の話だ。閉じた瞼の裏、闇を見据えながら自分に言い聞かせる。ただの少女だった頃の……人間の頃の……私はもう、妖怪になっているんだ。もう何度繰り返したかもわからない思考をまた繰り返している。私は妖怪だ、妖怪だと、無理矢理に意識に刻み込もうとしている。

 「あんたもほんと物好きよ」とパルスィは不意に言う。「私と飲んだって……私はいっつも自分と話してるだけなんだから、面白くもないでしょうに……あんたくらいよ、私のとこにわざわざお酒なんて持ってくるの」
 「ねえ、だってあたしだって友だちすくないもの。きづいてた? あたしに嫉妬してくれるのなんて、パルパルくらいのものだよ。だれがこんな下半身大蜘蛛のおんなとつきあってやろうなんておもうんだい?」
 なにか哀しいことを聞いたような気がして、パルスィは顔を上げる。が、ヤマメはあくまで薄っぺらな浅ましい笑みを浮かべて彼女を見下ろしている。
 「だって、ほら……おまんこからうえしかないもの。いくら気持ちよくよわせてその気にさせても、つっこむところがないわけだよ。だったら最初っから、きちんと穴のあるおんなとやりたいって思うもんじゃないかえ? あたしだってそうする」

 そういう物言いはきらいよ、とパルスィはぼそりと呟く。ほとんど口のなかで転がすようなことばに、けれども、ヤマメはきちんと反応する。
 「わかったよ。パルパルがそう言うなら、もうほどほどにしとくよ」

 パルスィはもう一度膝に頭を埋める。自分の言動がまったく一貫していないことに苛立ちを感じて。
 (気に食わないなら、近づけなければいいだけなのに)

 なにかしら理由をつけてはこの女を拒むことを拒んでいる。反りが合わないことで言えば、人間だった頃に築いたあらゆる関係と比べても一層際立っているのに。一応は貴族で、姫だった、それなりに交友関係もあった。けれどもちろん、こんなにあからさまな女はいなかった。この女に向けてそうするように、ひとを殴ったことだってなかった……直接敵意を向けることを怖れて、遠巻きに妬みを募らせるだけで……

 (ずるいな)
 と、自分について思う。パルスィはヤマメが自分に素直な意味での好意を持っているのをしっていた、ヤマメのほうでそうした態度を隠そうともしなかったから。要はそんな稀有な感情を、真正面から切って捨てるのが忍びないだけなのだ。煮え切らない態度をとって、それ以上遠ざけも近づけもしない。もしこれが違う立場だったら、ヤマメや勇儀がどういった対応をするのか、それを考えただけで、妬ましくなってくるのだった。
 その妬みが自己嫌悪を引き起こし、結局、悪循環ばかりが正常に作動する。
 こんな女なんだ、私は。私の心のなかは。酒を飲み干し、パルスィはまた自分とばかり話し始める。















 人間の踏み固めた道は存在しなかった。数日前と同じ獣道を辿り、キスメは滝の上までやってきた。日を空けたのは、また蜘蛛の巣が元通りに張っていないと、そこから先に飛び降りることができないからだった。数日前の目論見はうまくいった、ただ糸の粘性が予想以上だったのと、その主が実在したこと以外は。
 自分を人里まで送り届けた釣瓶を持ってきていた。その厄介な荷物を引き摺って藪を漕ぐのはきつい以上にきつかったが、実際にやってみれば、なんとかなるものだ。それと、今度は懐に匕首を仕込んできていた。人里の刃物屋で盗んできたものだった。それですっかりなんとかなるとは思わない、けれど最後の最後まで隠しておくことさえできれば、あのおぞましい女が『つづき』なるものを仕掛けてきたそのときに首でも胸でもなんでも突いてやるつもりだった。
 それに……またあの緑眼の女が助けてくれるかもしれない。蜘蛛女以上におぞましい姿になったところを見たとはいえ、少なくとも、蜘蛛女よりは話ができそうに見えた。妖怪にそこまで期待をかけるつもりもないが。ただほんの少し、気は楽になった。

 断崖絶壁の上から真下を見つめた。さらなる人跡未踏の山脈が視界に広がっていた。遥か向こう側の稜線は雪を抱いて真っ白になっていたけれど、こちら側はまだ、標高の関係もあって初雪もない。そして向こう側に行くためにはどうしても、ここを落ちていかなければならなかった。最短の道を辿るとすれば。
 眼を凝らすと、滝の横に蜘蛛の巣が元通りに張り直してあるのを見つけた。その瞬間だけあの蜘蛛女に感謝した。釣瓶に半身を収め、数度深呼吸し、決意を固め……キスメは地面を蹴った。
 小さなからだが虚空に舞った。



 ヤマメは別の蜘蛛の巣からその瞬間を見た。何気なく、本当に何気なくそちらのほうを向いただけだった。必死で眼を凝らさなければ見えない距離だったが、少なくとも、千里眼が必要なほど離れてもいなかった。
 滝の真横を小さなものが落下していた。なんだろうと思い、額の上に両手をかざして眼を細めた。重力に従って加速していくものを見極めるのは容易ではなかったが、それが巣に落ちると、巣全体が大きくたわんでその小さなものを受け止めた。
 上下に何度も波打ち、長い時間をかけてやっと止まった。それでも落ちてきたものがなにかはよくわからなかった。ただの落石かとも思った、けれどすぐに、そのなかからまた小さなものが這い出てきた。

 「なにかね……ありゃ……?」

 驚くべきことに、その小さなものは縦糸を伝って蜘蛛の巣を出ようとしていた。壁に向けて注意深く歩いていた。蜘蛛が自分の巣に引っかからないのはその移動に粘性のない縦糸を使っているからだが、その小さなものが蜘蛛だとは思えなかった。なによりさらに深く眼を凝らすと、落ちてきたのはどうやら釣瓶のようだとやっと見当がついた。
 最初はとても信じられなかった、同じ巣に同じ獲物が二度かかるなどとは。『つづきといこうじゃないか』なんてのは本当に他愛のない冗談だったのに。

 「キスメかえ……」

 なによりもまずただ純粋に困惑した。拾った命になにをしているというのか。自殺願望でもあるのかと思ったが、そうでない証拠に、糸に引っかからないためにふたつもの工夫をしていた。そうして蜘蛛の巣を着実に抜け出そうとしていた。だったら、と思う。このまえ引っかかってきたのも、ただ偶然と事故のなせる業じゃなかった?
 好奇心が湧き上がってきた。からだを起こして、八本の脚を動かし、岩壁に叩きつけた。紐で髪を簡単に結い、たったいままで寝転んでいた巣から出て行った。



 夕闇のつくる茜色の光がパルスィの半身に弾痕のような明暗を刻んでいた。倒木がつくる天然の橋の上から細い水流のゴルジュを見下ろしていた。そこにヤマメが樹木を薙ぎ倒しながらやってきた。
 「もっと静かに歩けないの? あんたってやつは」
 「そんなことはどうでもいいよ。おもしろいものが見れるかもしれないから、いっしょにきなよ」
 「このあたりにきてから、そんなものひとっつも見たことないけど」咄嗟に言い返していた、が、ヤマメの顔はこれまで見たことのない愉快そうな笑顔になっていた。「なんの話?」



 自分の触手が破壊した蜘蛛の巣が元通りになっているところを見ると、自分のなすことなど取るに足らないことだと罵られているように思えてくる。パルスィは顔をしかめた。そういう心境が、いつもなにかしら傷つくことを求めているこの心の仕掛ける単なるペテンだとわかってはいても。面白いもの? なにかもったいぶったように、蜘蛛の巣の中心に大きな釣瓶が引っかかってる以外は――

 「……あれってこのまえ、女の子を入れて人里に落としたやつよね? 下についてから糸を切って……そのまま放っておいたやつ……」
 「それがふしぎなことに、こんどは滝のうえからおちてきてここに引っかかってるわけだよ。どうおもう、パルパル?」
 パルスィは眼を泳がせた。「どうって」

 物理法則的な考え方をすればありえない。ヤマメのいたずらでなければ、どう判断しろと言うのか。ヤマメを見上げると、ちょこんと可愛らしく首を傾げてみせた。

 「おぼろげに見えただけなんだけど、なかからキスメがでてきたよ。あの女の子。それでいつもパルパルがしてるみたいに縦糸をつたって、でていった」

 つまりは糸に纏わりつかれないために釣瓶ごと落ちてきた、と。ますます当惑するしかなかった。それとは別に、ただ一度ひどい目にあっただけで糸の粘性の有無に気づいた少女の観察力には感心するしかなかった。あんな激情の狭間にいるようなさなかで……けれど……なぜ?

 「ねえ、あたしは言ったよね、パルパル。またあうきかいがあったらつづきといこうじゃないかって。でも、ほんとうに冗談のつもりだったんだけどねえ。だって同じ巣に二度ひっかかるやつなんて、よほどあたまがおかしくたって、ありえないもんだよねえ。こういうのってどうおもう? あたしはどう判断したらいいのかねえ」

 ヤマメのたわごとには無言で応え、パルスィはあたりを見回す。そこから岩壁をうまく伝えば、少女のからだでも再び地面に足をつけることくらいはできそうだった。人跡未踏の妖怪の地、確かに奥深くへ入り込むには、ここが一番手っ取り早いかもしれない。主不在の蜘蛛の巣さえあれば。
 でも……だから……なぜ? 『なぜ』。それが一番わからない。

 「キスメはなにを伝えようとしてたのかねえ、ほら、パルパルのほう向いてくちびるをぷるぷるさせてたじゃない、あのとき。いやあほんと、声をだせないってのはふべんだねえ、かんたんな意思疎通もできやしない――」
 「探すわよ」
 「ねえ、パルパル。いくらなんでも、いいひとすぎないかえ? にんげんの身を案じる妖怪なんて、みたこともきいたこともないよ。あ、河童がいたか。水辺のおんなってのはまったくつくづく――」
 ヤマメを見ずに、パルスィはぼそぼそと呟いて飛び始めた。「ここにはブラックホールみたいに忌み嫌われた妖怪が集まってる、私たちみたいに。なんとしても、連中に気取られるより先に保護しないと」
 ヤマメは嘆いた。「だめだあほんとに……惚れちまうくらいひとがいいんだから。誰よりもまっさきにばかを見るタイプのおんなだよ、パルパルってやつは……」















 枯れ枝の合間を縫い、陽光が降り注ぐ場所でさえ身を斬るように寒かった。日陰はもう凍りついていた。キスメは着物の上に幾重にも纏ったぼろきれを引き寄せ、できるだけ素肌とのあいだに隙間をつくらないようにした。風が入り込んでくると、がちがちと歯が鳴った。
 準備不足なのはわかっていた、けれど何十年かけても準備が足ることになるとは思えなかった。やらざるを得ない精神状態にあったからやったに過ぎないのだ。ひたすら獣道を辿った。意識を研ぎ澄ませ、ひとのものでない痕跡を探し続けた。

 心が萎えかけると、懐に仕込んだ匕首に手をやった。それだけでだいぶ励まされる思いだった。このままどこへも行けずにくたばってもいい、どうせ帰るところなどとっくになくなっているのだから。
 瞼の裏に刻まれた光景は静脈血のように黒かった。まさに黒い血が垂れ流されていた。



 「私は空。あんたは地上」とパルスィは言った。
 「はいはい」
 「見つけたらすぐに合図しなさい。なんでもいい。その辺に霊弾撒き散らすなり、ありったけの大声出すなり。私が見えてたら、私を病気にしたっていい」
 「どんな症状がおこのみ?」
 「知るか。もうとっくに病気みたいなものなんだから、なんだって構うもんですか」
 「ねえ、いちおう言っとくけど、パルパルはぜんぜん健康体だよ。あたしが言うんだからまちがいないって。なにかの病気だとしたら、じぶんを病気だとおもいこんでるところだとおもうよ」

 パルスィが飛んでいってしまうと、ヤマメは溜息をついた。見つかるわけないとおもうけど、どうせ。こんなにひろい山奥でさ、あんなにちっちゃなこどもを……
 とはいえ、パルスィがそうしたいと言うのなら、一応は協力してやる以外に選択肢はなかった。なんといっても、彼女のやることなのだ。他に急いでやらなきゃならないことがあるわけでもなし。

 「さぁて、じゃあ……どうするかねえ」

 当てずっぽうに探すのもつまらない。蜘蛛の巣から這い出て、壁にへばりつきながらあたりを見渡した。巣から抜け出て、さあ、あの少女はどうする?
 なんといっても、山のなかだ。ここまでくるのに、明確な道もない。人間のからだでは大変な急斜面を延々と登って、さぞかし疲れたことだろう。これ以上登るのなんてこりごり、足がへとへとでもうだめ、くらいには思っているかもしれない。そうした人間にとって、下り坂はもうオアシスのようなものだ。実際には稜線に出たほうが、方角もわかりやすくなるし、沢沿いが楽だからといって闇雲に下れば滝かなにかですぐ行き詰るのがオチなのだが。
 まあ、小さな女の子の考えることだ。ヤマメは谷のほうにからだを向けた。

 滝の下に行くと、獣道を探した。できるだけ楽そうなやつだ。藪を漕ぐ必要もないくらい明白な。行きかけて、なんだか視界が暗いような気がしてやめた。冬の寒さで、日陰を選ぶものか? 枯れ枝ぞろいの、日当たりがよいほうを進んだ。まあ、だいたい勘でしかないのだが。
 がりがりと蜘蛛のからだが樹木を押し分けて進んでいく。通った後は、大災害だ。空を見上げると、パルスィの姿はまったく見えなかった。反対方向を選んでしまったか。

 「んー。まあ、むだなことだとおもうけどさあ。アリアドネの糸もなしにさ……」

 愚痴りながら歩いた。きょろきょろと辺りを見渡しながら、一応は探している体裁を整えて。そうしていると、開けた沢に出た。白い岩の合間に、ところどころガラスのような輝きが見える。水面の透明な氷の下に、黒い水が流れていた。

 「このあたりを歩くのは、らくでいいねえ」

 巨体で山を進むのはいちいちからだじゅうに色んなものが引っかかって難儀だ。沢沿いなら楽なことこの上ない。それで、次は? 向かうのは上流か下流か。
 どちらに進むのが楽かといえばもちろん下だが、ここまできて、少女の目的はなんだろうと思い当たった。下山? だったらそもそもこんなところにくるわけがない。山奥へ? だとしたらいつかはまた登らなくてはならない。いつか……おっと! 見るからに楽そうな登り道があれば、ここで標高を稼いでおくのがベターじゃないか?
 ヤマメは上流に向かった。

 「土蜘蛛だァーっ!」
 「お?」

 叫び声が聞こえてきて、そちらのほうを向いた。水色の装束に、やたらと大きな頭陀袋を背負った少女の姿。見覚えのある河童だった。
 そうだった、川には河童がつきものだ。ヤマメはすっかり厭になってしまい、額に手を当てた。連中の住処に色んなものを垂れ流していた時期があって、この身は人間と同じくらい河童に嫌われている。だいたい連中は妖怪のクセして人間好きで、そんなやつらからしてみれば病気を撒き散らす土蜘蛛はもう敵でしかないのであった。

 別に怖れるような敵対者ではないので遊んでやってもいいが、変に相手して、保護者の天狗あたりがくるほうが困る。怖ろしく遠くからこちらを窺ってくる眼を持ってるやつもいるし、風より速く駆けつけてくるやつもいる。この河童の連れ合いは、だいたい気性の荒い面倒くさいやつらだ。こういう場合は、もうさっさと逃げるに限る。
 背を向けかけて、ふと思いついて口を開いた。

 「ねえ、河城や。この辺にずうっといたのかい。ちっちゃなみなれないおんなの子、こっちのほうにこなかったかえ?」
 「知るかァーっ!」
 「なんだ、全然はずれかい……」

 気落ちして、溜息をついた。それ以上相手にするのも不毛だと思ったので、後戻りすることにした。すると、足元になにか小さなものが落ちてきた。なんだろうと思って河童のほうを向くと、全力投球のフォロースルーの姿勢を取っていた。
 河童製の手榴弾が爆発した。



 切っ先のような茜色の光が視界に突き刺さり、パルスィは西の空を見た。黒雲がいままさに太陽を覆い尽くすところだった。世界が影のなかに沈むと、夜の気配が辺りを満たした。
 風の香りから、初雪の予兆を感じ取った。ほとんど秒刻みで冷え込んでいくような感覚さえあった。

 空はあまりにも寒かった、妖怪の身でさえ。口許を手のひらで覆い、そのなかを白く凍りつく吐息で埋めた。束の間の温かみは断続的に吹き荒ぶ強い風に掻き消されていった。
 この広い山脈のなか、ただひとりきりでいるだろう少女のことを思った。彼女がいま、どんな気持ちでいるのか想像するだけで心が引き裂かれるような思いがした。が、そう思う一方でひたすらクエスチョンマークを並び立ててもいた。どうしてキスメはこんなところにわざわざやってきたのか?



 自分がこんな目に遭っていることへの愚痴を口にしながらヤマメは歩き続けた。あのちっぽけな小娘がどう動くのか予想し続けながら進み、どうにも違う道を進んでいるようだと気づくと戻り、進み、戻り、進み、戻った。口も聞けない少女。無茶苦茶な感情を盾にして自分の下で暴れ続けた娘。うんざりするほど恐怖を刻んでやったはずなのにまた戻ってきた大ばか者。
 樹木を何本へし折ったのかわからなくなるほど往復した。ときにはスタート地点まで戻りさえした。そこから少しでも可能性のありそうな道を虱潰しに探した。
 内心、見つかるわけもないだろうと思っていた。パルスィへの義理立て以外のなにものでもなかった。それでもキスメの意図をできるだけトレースしようとし、きょろきょろとあたりを見回しながら探し続けた。

 途中、別の妖怪に出会ってものらりくらりの態度でやり過ごした。不審に思われても、大して交流のある者などいない。そんな相手にどう思われても構わない。それは相手にしても同じで、わざわざ好きこのんで土蜘蛛と関わり合いになろうとする者もいなかった。
 薄暗くなり始めると、自然、足取りも緩んだ。やる気も失せた。ただ機械的に首を回して眼を凝らし、なんら注意の向けていない視線を宵闇に配った。視界に少女が映ってもそれに気づくことさえできないような、散漫な意識しか残っていなかった。

 「だから、まあ、こうして見つけちまったのはほんとうに、なにかとてつもないものの思し召しかなにかなんだろうねえ。さがしものはいつでも、必要なときにでてくるものだ」
 足元さえ覚束ない闇のなか、呆れたようなヤマメの声が響いた。紅金色の爛れたような色の眼が、樹木の合間、狭く細い小さな空間を見つめていた。
 「おまえがどううごくんだろうと考えて考えて探してたときにはこれっぽっちも見当たらなかったのに、適当にうごいたとたんこんな簡単に見つかってしまう。ほんとうに、にんげんの考えてることなんかさっぱりわからん……とくにおまえみたいなのは……」

 最悪の事態に限って何度でも体験することができる。キスメはいま、その真理を身を以って味わっている。蜘蛛女の取ってつけたような人間の上半身を遥か遠くに見上げながら、鐘を鳴らしたような頭痛、後頭部を鈍器で殴打されたかのような吐き気を催している。呼吸はひどく細くなり、息苦しく、小刻みに繰り返すことしかできない。それらの症状は恐怖が引き起こしたものではなかった。ヤマメがこうして近づいてくるずっとまえから感じていた。
 無防備に横たわるキスメのからだに身を寄せ、ヤマメはおもむろに彼女を見つめた。
 「ふうん」
 腕を伸ばし、その小さなからだをまさぐった。抵抗らしい抵抗がなかった。糸が切れたようにぐったりとしたまま、虚ろな瞳を向けてきた。明らかに弱りきっていた。

 「障気ですっかり弱っちまってるじゃないか。こんなぬのきれを何枚もかさねて、冬のさむさをしのごうとしたのはわかるけれども、それだけじゃあだめだよ。……このあたりには、生きてるだけで毒気をまきちらすような妖怪があつまってるんだから。あたしみたいな、忌み嫌われてこんなとこまで追い回されてきたやからがさ」
 布地越しに腹を鷲掴みにした。柔らかい感触に指が食い込み、反射的にびくりと震えた。
 「あたしなんかまだいいほうだ。じぶんで病気を抑え込んでおけるんだから。そういうことだってろくにできないやつらがいっぱいいる。山の奥へいけばいくほど、空気は濁りきってる。みぃーんなそろって、勇姉をたよりにやってくるもんだからさ」

 キスメはゆっくりと眼を閉じ、開いた。それが返事であるかのように。自分のことばが伝わっているのかはっきりとわからず、ヤマメは苛立ちからキスメの額に額を押しつけた。至近距離から押しつけるように言った。
 「あたしのこえ、聴こえてるかえ?」
 また眼を閉じ、開いた。ヤマメはその瞳を睨むように覗き込んだ。ほんとうにめんどくさいもんだ、と思う。ことばにできなきゃなんにもわかりゃしない、こんな異種の娘のことなんか。意思疎通もろくにできやしない、なにかんがえてるのかさっぱり見当もつかない、そもそも心があるかどうかさえあやしいもんだ。

 キスメの腋に腕を差し入れ、そのまま上体を起こした。蜘蛛のからだの上。首に力が入らず、キスメの頭が仰け反った。乱暴に揺すって戻ってこさせた。
 キスメは見るからに際どい状況にいた。朦朧とした意識が眼の光を霞ませていた。自分の目の前に、蜘蛛の頭胸部を跨ぐようにして座らせ、少女の頬を手のひらで叩くように添えた。それでも反応はおぼろだった。糸に拘束されていたときのほうがまだ元気だった、と思う。そうした災難に自分から飛び込んでくるのだから、不思議だ。人間というやつは……
 目許を手のひらで覆って深く溜息。パルスィを呼びたいが、夜空を見上げても彼女がどこにいるのかわからない。懐をまさぐり、紙に包んだ粉末を取り出す。もともとはパルスィのためにつくった、からだの障気を抜き、調子を整えるための薬だった。彼女は元人間のために体質的に障気の影響を受けやすい。

 キスメの顔のまえに差し出す。「ほら」ぼんやりとした目線が返ってくる。「のみな。このままだと、なあ、わかるだろう? 死んじまうよ、おまえ。こいつもこいつで死ぬほど苦いけど、じっさいに死ぬよりはましだろう」
 紙が開かれると、夜の風の湿った流れに乗り、薬の濃密な匂いが漂った。キスメはそれをもろに鼻から吸い込んでしまった。あまりにも途轍もない匂いだった。咄嗟に復帰した理性が危機感を撒き散らし、束の間、キスメは完全に覚醒する。
 蜘蛛のからだにまたがり、あの女の目前で無防備な様を晒している状況。ヤマメの顔を視界に捉えると、キスメの顔が歪んだ。そうして最善の行動を選択した。差し出された粉末を、腕を振るって払い除け、ありったけの力を篭めてヤマメの口のあたりに自分の額を叩きつけた。

 鈍い音がしてヤマメの頭が仰け反った。
 「……いたい」
 助けようとして頭突きがくるのだからまったく割に合わない。かっと頭に血が昇り、ヤマメは咄嗟に膨れ上がった怒りの促すままキスメに平手打ちをかました。キスメの頭も仰け反った、が、振り子のように返ってきた顔はますます怒りで歪み、今度は指の白むほど強く握り締められた拳が飛んできた。
 自分ばかりが手加減しなければならない状況にヤマメは苛立った。本当に本当に腹の底の底からこのガキの首を捻り曲げて黙らせ、消化液で中身までどろどろにして吸い尽くし、残った残骸を丸呑みにしてそれで終わりにしてしまいたくなった。そういうことを実際にやってのけて、咎められる法などこの世のどこにも存在しない。妖怪の正しいあり方を否定されるいわれはない。
 が、けれども、そんなのは所詮クソ正義のクソ倫理でしかない。ヤマメはただパルスィに嫌われるのがイヤなのだった。怒りを封じ込めるために唸り、五度目に振られたキスメの拳を中空で捉えた。反対側の拳も押さえ込んだ。頭突きをされるまえに額に額をくっつけ、ぐりぐりと首を振って押しつけた。

 「おちつきなよ。おちつけよ。……おちつけっつってんだろうが、くそ。暴れるんじゃねえよ。なんだってほんとうにわざわざこんな苦労を……ちっ……おい、キスメ。……このガキ。……この……」
 キスメは怒り狂った猫が威嚇するように何度も荒い息を吐いていた。唸り声さえ出せないのか、ただ食い縛った歯の隙間を通る息だけが音となっていた。死にかけの闇雲さ。もういつ気を失ってもおかしくないだろうに、まだそんな反抗を示してみせる。感心するより、呆れた。



 しばらくそうしていた、キスメの体力が尽きるまで。障気に冒された少女のからだがそう持つはずもなかった。キスメのからだから力が抜け始めた。
 説得。自分のもっとも苦手とする行為のひとつだ。けれどもいまはそれをしなくてはならない。ヤマメは深呼吸して自分の怒りを抑えつけ、極力パルスィの顔だけを思い浮かべようとした。心安らぐ緑眼の色合い。
 いまにも倒れそうなほどキスメの抵抗が弱まると、ヤマメは彼女を解放して頭をがりがりと掻く。もう一度懐から薬の包みを取り出し、「ほんとだって。毒じゃない、薬だ。あたしは病気をまきちらす妖怪だから、そのぎゃくのことも少しはできるんだよ。……こいつをのまなきゃ、どのみちしぬよ、おまえ。じぶんのからだなんだから、じぶんでわかるだろう? ん?」

 キスメの虚ろな眼がヤマメを捉えた。ヤマメはその眼を覗き込み、その奥にあるものを読もうとした。霞んだ鏡のような色はひどく読み辛かった、唇を読むほうがまだマシだった。ことばがなければちょっとした意思疎通にさえそうした全力を要求する。
 キスメの顎に指を添え、引き寄せた。眼を細めてじっと見つめ、なんとかして心を視ようとした。相手の立場でものを考える機会などまったく持ったことのないヤマメは、頭が捻じ切られるような苦痛を覚えた。わかるわけないだろうが、と思考停止しかけて、パルスィの緑眼が睨んでくる光景を幻視してひとつ溜息。

 「どうしたらのんでくれる?」

 訊いたところで返事はない。無理矢理口を押し開こうとするとその瞬間だけ立ち直って指に噛みついてくる。こちらが諦めるとまた脱力して眼が霞む。
 どうにも、死にでもしない限り無駄な抵抗を続けるようだった。どうしろってのさ、パルパル? 恨みがましく心のなかで問いかけて、ふと思いついた。

 「ねえ、パルパルのこと、覚えてるかえ?」

 キスメの眼がかすかに反応した。良し。だったら――

 「そうだ。おまえの……そう、命の恩人だよ。そのことはきちんと、わかってるだろう? もっともおまえが……見目にふりまわされて、現実のこともおえなくなるような能無しだったら……パルパルのことはたんなるモンスターにしかおもえないだろうけれど」
 沈黙の裡にキスメの眉が寄せられた。これは無言の反論?
 「よしよし。それくらいのことはわかるようだ。彼女はねえ、あんななりだけれど、人間がすきなのよ。いや、人間嫌いでもあるんだけれど。そこんとこふくざつで……あー、まあ、愛憎半ばってことだ。で、おまえに関しては……明白だね。ひどく忌み嫌ってるじぶんの一部をさらけだしてまで、たすけてやったんだから。あー妬ましい」

 キスメの表情が思慮深く沈む。俯き、蘇る恐怖とともに記憶の河を横断しているのがわかる。ヤマメはなおも言う。
 「もともとあたしがこんなとこまでおまえを捜しにきたのも、パルパルがそう言ったからだよ。でなきゃ、あたしは徘徊性の蜘蛛じゃないんだから、巣からおちたえものになんて興味ないんだ。で、さらに言うと、あたしはパルパルのこと好きなの。あたしは三度の飯よりセックスがすきな色狂いの淫乱だけどねえ、百万回のセックスよりパルパルと一分でもだべってるほうが好き。彼女のためならなんだってしてあげたいと思うの。だからさあ、心底めんどくさいんだけど、パルパルがあんたをたすけたいっていうなら仕方なくたすけてあげようとおもうのさ」
 ねえ? と必死で頭を巡らすキスメの顔を引き寄せ、同意を求めるように首を傾げる。
 「だから、はー、もうやんなっちゃうんだけど、こういうのも。仲直りといこう? まあ直るだけの仲もないけど、敵対関係くらいは緩和しとこうじゃないか。あたしでなく、パルパルのためだよ。あんたにとっては命の恩人の。ほんとにめずらしいことだよ、おまえは運がいい……一度ならず二度もおなじひとにすくわれるんだから……」



 ヤマメはキスメをじっと見つめた。まったくの異種であるこの娘がなにを考えているのか想像するのはひどく骨が折れた。それでも、パルスィのことは信用できるだろう、と思う。なんといっても蜘蛛の巣を破壊し尽して拘束から解放しただけでなく、親切極まりないことに蜘蛛の糸を手繰って人里まで送り届けられたのだから。いくらでも喰らう機会があったにかかわらず、あのお人好しのパルスィは、遥か大昔、人間だった頃の倫理に従ったというのだから。
 それでもキスメがパルスィを信用しないというのなら、それはもう……上っ面の見目などに易々と騙される腐れ脳みそ、救いようもないばかたれ、いやばかたれと言うことさえ憚れるおぞましいクズだということだ。怒れる百の触手と千の緑眼、その裏側にあるものになど眼もくれない――

 長い躊躇の末、キスメはおずおずと口を開いた。ヤマメはにっこりと笑った。
 「そうだよ、それでいい。このヤマメさんは信用できなくても、パルパルは信用にあたいするというわけだ」
 ちょこんと覗いた小さな歯、そのあいだに慎み深く収まる真っ赤な舌に向かって、薬の粉末を放り込んだ。

 キスメの顔が思いっきり歪んだ。
 薬はあまりにも苦すぎた。まさにこの世のものとは思えない代物、仰天するほどのまずさだった。その味だけで虚ろだった意識が殴打され、飛びかけ、反動で戻ってきた。キスメは舌を口の外に出して頭を振り、ぺっぺと唾を吐いた。

 「ああ? なんだね、おい。せっかくのみこみかけてたものを」

 とても飲み込める代物ではなかった。キスメは恨みがましい眼をヤマメに向けた。ヤマメはむっと顔をしかめた。

 「情けない娘だ。それくらい我慢できないのかえ?」

 もうひとつ包みを取り出すと、キスメは明らかに動揺し始めた。口許に近づけようとするヤマメの腕を掴み、押し退けようと力の入らない抵抗を示した。
 ひとつ障害を乗り越えたと思えばこれだ! ヤマメは額に青筋を浮かべた。忍耐を要求してきたから忍耐を示してやったのに、現実というやつはそれでもまだまだ忍耐を要求してくる。なけなしの精神はとっくに底をついているというのに、状況は欲深い詐欺師のように、まだ財布をひっくり返して財産を根こそぎ掠め取ろうとしてくる。

 「……くそったれ、めんどくせえ……」

 我慢の限界というやつだった。ヤマメは薬をキスメの口ではなく自分の口に放り込んだ。キスメの怪訝な顔がこちらに向いたが、構わず、口内で粉末と唾液を混ぜ合わせ、撹拌させた。そうしてキスメのうなじを掴んで引き寄せた。
 唇が重なり、キスメの眼がいっぱいに開かれた。
 うなじを掴む手に力を篭めると、痛みからキスメの唇がわずかに開いた。そこに舌を侵入させた。咄嗟の反応から、力の限り噛みつかれた。構わずにさらに押し込んだ。キスメの首が反り返り、喉が上がった。















 キスメの首は小枝のように細かった。そのまま腕に力を篭めれば容易く折れてしまいそうなほど。
 懲りずに拳が飛んできた。中空で掴み取り、捻じ曲げると、逆側の拳が振ってきた。絡め取る腕が足りず、そちらは無視するしかなかった。何度も肩を、同じ場所を叩かれ、さすがに痛くなってきた。痛みが怒りに変わるにつれ、うなじを掴む手の力が過剰になり始めた。
 唇を合わせたまま、キスメが咳き込んだ。構わずに粉末と混ぜ合わされた唾液を注ぎ込んだ。無理矢理飲み込ませる。口内に擦りこむように舌を動かし、苦味の向こう側の苦味が鼻から抜けた。

 「――っ、っっっ、っ……」

 声のない喉の蠕動、その奥へ、舌を。色気もなにもありゃしない。噛み千切ろうとする歯の動きは、より強く首を掴むことで掻き消えた。指の跡が赤く肌に残った。
 キスメの膝が跳ね、蜘蛛のからだとの結合部、臍のすぐ横を打った。根の張った大樹のようにびくともしなかった。闇雲に振られたキスメの指が、ヤマメの結った髪に差し込まれた。引っ張ると、ひとつに纏めていた紐が千切れた。ばさり、と針のような髪が一斉に解けた。

 唇の合間から、唾液が垂れて零れ落ちた。顎を伝い、滴り落ち、密着している胸元に。口内から溢れていた。息が詰まり、喉が上下に動いた。
 ヤマメは飲み込まざるを得なくなるほど注ぎ込んだ。肺に送り込まれるべき空気さえ根こそぎ奪いつくすほど。抵抗が弱まると、舌を巻き込むように舌を動かした。蛇のように歯の裏側を蹂躙した。

 「ん、んっ……ぐ、ぐぅううう」

 ごくん、ごくん、と連続してキスメの喉が動いた。ヤマメは唇を離した。きちんと飲み込んだか確かめるように半開きにされた唇と、その奥を覗き込んだ。

 「さいしょから我慢してのんどきゃいいものを。いやがるもんだから、この娘は」

 茫然と見上げてくるキスメを冷たく見下ろした。ショックを受けているというより、弱りすぎて反応が追いついていないのだった。闇雲な抗い方も、嫌がっているというよりもほとんど本能的な忌避だった。
 薬は、半分は喉の奥に注がれ、もう半分は零れた唾液と一緒に顎から落ちていた。半分で充分、というわけにはいかなかった。みたびヤマメは薬を取り出した。キスメの眼が機械的にヤマメの手を追った。

 「もうひと袋いくよ。あんたがきちんと飲みこめなかったのがわるい。こんなのがもういやだったら、あたしの言うことをきくんだ。おとなしくあたしにしたがうんだ。わかったかえ? あたしだってこんなのそう何度もはごめんだよ」
 わかってるのかわかってないのかわからない反応しか返ってこなかった。
 「おまえを助けるためにやってんだ。いい加減わかれ。いいかえ? おまえを、たすけるために、やってんだ。なんどでも言ってやる、このばかたれが、おまえをたすけるためにやってんだ」

 弱々しくキスメは頷いた。
 うなじを鷲掴みにしていた手を離し、ヤマメは薬を口に含んだ。キスメを見下ろしたままぐちゅぐちゅと口内で唾液とかき混ぜた。さすがのキスメも、もう抵抗する様子もなかった。ぼんやりと鳥の雛のように口を開けたまま大人しく待っていた。
 それでも反射的にまた殴られるのはうんざりだった。開いた両手で、キスメのだらんと垂らされた腕の、首と同じように残酷なほどちっちゃな両手首を掴んだ。

 口のなかで薬が充分に溶けたところで、心のなかで溜息をついた。
 (はあ)

 疲れ切っていた、さすがに。大人しくしてるよう願いを篭めて、キスメの額に口づけした。意思が通じたかどうかは知らないが、キスメのからだから強張りが多少和らいだ。
 そのままの流れで唇を合わせた。
 掴んでいる手首がぴくんと跳ねた、が、握り締めて抑えつけるとそれで動かなくなった。今度は噛みつかれたりもしなかった。また飲み込めないほど溢れさせて薬を無駄にしたくなかったので、少しずつ唾液を注ぎ込んだ。なにしろこれで三袋目なのだ、まったく鬱陶しいことに。

 「……く、……く、……」

 またなにか不意に暴れだす兆候があればすぐ身を引くつもりで、ヤマメはキスメの眼を見続けた。睨むように返ってくる視線。そこからことばを読むのはまったく尋常でない労力を要したが、少なくともうっかり殺してしまわないよう必死で手加減しながら殴るよりは楽だ。
 その眼も、次第に強い眠気に襲われたかのように、急速に光を失っていく。
 体力などもう限界だろうに。なんといっても一日中山を歩き回り、障気に冒され、ありったけの力で以って抵抗してきたのだから、この小娘は。子供はもうおねむの時間だ。ヤマメの口から薬がなくなる頃には、キスメはほとんど半眼になっていた。

 ヤマメは唇を離し、キスメの頬に手を添えた。
 「さいごだ。のみこめ、くちのなかに残ったぶんを、ぜんぶ」
 わかったのかわかっていないのか。けれどもこくんと頷いてみせたキスメの唇に指を這わせ、唾液をぬぐいとり、そのまま唇のなかに押し込んだ。頬の内側も、歯の裏側もぬぐった。そうして舌の上に乗せた。
 「ほら。……これでおわりだよ」

 半開きのままだった唇が力なく閉じられ、ヤマメの指を食み、吸った。そうして数拍のあと、ようやく、なんとか、飲み込んだ。細い喉がひときわ大きく上下した。
 ヤマメは指を抜いた。泡立った唾液が糸を引き、けれど、すぐに切れた。キスメの首にまで滴り落ちた。

 もう完全に限界を越えていたのだろう、終わるとキスメの頭が落ちた。ヤマメの胸元に飛び込むかたちになり、そのまま、すぐに寝息が立てられ始めた。
 ヤマメはぐったりと溜息をついた。















 地べたで眠ると気分が悪くなる。けれど巣は遥か遠く、戻るには時間があまりにも遅すぎた。それにもうさっさと眠ってしまいたかった、キスメを相手にしてひどく疲れていたから。
 キスメを背中に回した――と言うのはあまり正確なことばではないが、眠らせたまま人型の部位と背中合わせにした。蜘蛛の脚を広げ、休む体勢を取っても、人型の部位は地面に対して垂直なままだ。

 夜空を見上げた。枯れた樹木の隙間から、星のない暗闇が見通せた。パルスィは見当たらなかった、もういつ雪が降ってきてもおかしくはなかった。
 首を仰け反らせると、キスメの首と触れた。ふと、そうしていると体勢的にひどく楽だということに気づいた。ちょうどいい背もたれだ。

 「ん……」

 ヤマメは首を揉み、大きく欠伸をする。そのまま指先でからだの線を伝い、衣服越しに乳首を撫でる。人間のからだもときには役に立つ……蜘蛛のからだよりかは自分を慰めやすい。うっとりと眼を閉じ、しばらくのあいだそうしている。眠気がやってくるまで。



 朝がくると粉雪が舞っている。ヤマメはうっすらと眼を開ける。既に地表は白く化粧をつけている。
 背もたれにしていたキスメは消えていた。が、雪のお陰で足跡がはっきりとわかる。がしゃがしゃとからだを動かして追っていくと、ほんの数分もしないうちに見つかる。

 「おんしらずめ。にげだしたって、また障気に呑まれるのがおちだろうが。よけいな手間をかけさすんじゃないよ」
 キスメは俯く。ヤマメはじっくりと彼女を眺める。反省してる……で、いいのかね?
 「帰るよ。……ここでうろうろして、きにくわないやつとばったり遭うなんてごめんだよ。パルパルだって心配してるだろうしねえ」

 蜘蛛の頭をもたげ、人型をキスメのまえまで持っていく。手を差し伸べる、が、緩やかに振られたキスメの腕がその手を払い除ける。
 キスメの唇が順繰りにかたちを変える――『あ』『り』『が』『と』『う』
 そうして首を振る。ヤマメはその先のことばを推測する。「でも、放っておけ――かえ?」
 キスメは頷く。

 ヤマメは腕を組む。ふうん。やっぱりどうにも、この小娘ははっきりとした目的を持ってここまでやってきたらしい。なにからなにまで詰めが甘いけれども。でも、目的? このあたりには人間の好むような餌も財宝もありゃしないけれど――
 「なにしにきたんだい、キスメや。こんなところにさ……」
 キスメの眼が泳ぐ。ヤマメは舌打ちをしかけ、やめる。代わりに大仰に腕を振るってみせる。
 「命のおんじんにさえ話せないようなおはなしかえ? なんともまあ、ふざけたこともあったもんだ。おまえを気絶させて、また人里まで落としてやるのがいちばん楽なんだろうけど、そうしたらどうせもっかいくるつもりだろう? 土蜘蛛と緑眼の魔物にそうぐうしても、へこたれなかったくらいだからね。けど、なんどきたっておまえの目的は果たせやしないよ……いちどならず二度もだめだってことは、もう根本から前提がくるってんだよ」

 キスメは口を開きかけ、閉じる。むっつりと黙り込む態勢を取る。そんな彼女の顔を掴み、ヤマメは自分のほうに引き寄せる。
 「言えよ。どうにかなる話だったらどうにかしてやるから。ほんとにおまえは……運がいいよ。あたしはパルパルに余計な荷物をしょってほしくないだけだ」
 そこで不意に声が軋む。
 「……パルスィはさ、自分の心でいっぱいいっぱいなんだよ、もう。他人の心まで背負う余裕なんかありゃしないんだ。でも自分の心がどれだけ厄介かしりつくしてるから……そのせいで少しでも……他人の心をほんの少しでもしょってやりたいだなんてお節介焼くんだ。散々痛い思いをしたからこそ、他人の痛みまで簡単に想像できちまって。他人の痛みを自分の痛みにすることができちまって」そこで一度口を噤み、数拍置いて続ける。「……それはそれは残酷なお話だ。優しいってのは……優しい当人にとっては……」

 その声には得体の知れない迫力がある。それまで向けられたどんな脅しのことばよりも脅しに満ちている。キスメは不意を衝かれたようにヤマメを見上げる。
 次の沈黙は長い。至近距離での二対の眼がどんなことばよりも明白な光を持って行き来する。キスメの眼はヤマメに向けられ、ヤマメの眼はここにはいないパルスィに向けられている。キスメはヤマメのことばではなく、その眼を見、ヤマメのパルスィに対する想いが本物かどうかを見極めようとする。
 キスメは長い時間、考え続ける。この異種の考え方を理解しようとする。



 やがてキスメはヤマメの胸を押してからだを遠ざけ、おもむろに口を開く。唇が短い音をかたちづくる。
 『お』
 『に』

 懐から匕首を取り出し、鞘を抜いて抜き身を掲げてみせる。
 『ほ』
 『う』
 『ふ』
 『く』

 ――鬼。報復。

 ヤマメが黙ってそのことばの意味を考えているあいだに、キスメはさらに口にする。

 『ち』
 一度口を閉じ、おなじかたちをもう一度。

 ――父。















 鬼退治がやり遂げられると鬼は首級を奪われる。返り討ちにしたとき、勇儀は首級ではなく得物を持ち去ることにしていた。剣、槍、弓、薙刀、その他諸々。死体と違って腐らないのがいい。いつしか、住処はそうした残骸でいっぱいになってしまっていた。
 鉄の錆びた匂いが立ちこめている。夥しい数の砕けた刃がつくる山のなか、勇儀は白い岩に腰かけ、祈るように眼を瞑って俯いていた。無敗の証。それはその分だけ別の誰かが死んだことの逆説的証明に過ぎない。ときの流れに移ろい、勇儀にとってそうしたものはもはや誇りになってはくれなかった。

 いまやどこにいるのかもわからない四天王の仲間たち。地底に潜ったものの、まるで纏まりのつかない同胞たち。使者の震える声が告げていた。楔がいる、と。地底の都が自分を必要としている。だが……けれど……それは――



 ヤマメは額に手を当て、天を仰ぐ。まるで細菌感染のように厄介ごとが広まっていく。
 鬼、報復、ねえ。ヤマメはさらに溜息をついた。もう十年以上まえからこのあたりに鬼なんてひとりきりしかいないのだから、それはあのひとのことなんだろうけれど。詳しい事情なんて知ったこっちゃないけれど、ああなんてこった、勇姉にまで飛び火してしまった。

 「やな感じだ、ほんとに」

 背に乗せたキスメにあてつけるように、わざと聞こえるように呟く。勇儀の住処は山奥のさらに奥、ちょっとした永久凍土まである凹地。キスメを連れて、ヤマメはそこへ向かっている。事態がどう転ぶかなんてわからないし、想像しただけで頭が痛くなる。
 パルスィに知らせたくはなかった。空からキスメを探し続けている彼女を放っておくのは悪いけれど、この娘の目的が勇儀だとわかったいま、それをパルスィに教えるのはますます悪いような気がした。また余計な荷物が――それもとびきりめんどくさいものが増えてしまう。パルスィのことだから、また勇儀のことで、必要以上に悩んでしまうに違いないのだ。
 できることなら、この子のことは勇儀に任せてしまえばいいと思う……結局のところ、それが一番頼もしいのだから。

 懐から薬を取り出し、キスメに差し出す。「障気がますますこくなってきた。もういちど、のんどきな」

 背中越しに示された薬を見、キスメは顔をしかめる。薬と、ヤマメの後頭部、無雑作に纏められた髪の先端を交互に見つめる。そうした逡巡をなんとなく感じ取り、ヤマメは振り返る。
 飲めっつって――と言いかけながら、彼女の眼を見つめる。ことばを紡がない以上、そこしか意志の現れる箇所がないのだ。とはいえ明白なことばよりも遥かにわかりにくい眼の色を読み取るのは、それこそ艱難辛苦の代物で、ヤマメはただ見るだけのことに全力を費やさざるをえなくなる。
 (まったく、とことん異種だよ、こいつは……ひょっとしたら、人間なんかよりもずっと)

 ヤマメは呆れて言う。「……あのなあ。おまえがきちんとのんでくれりゃ、あたしもいちいち口移しなんぞしなくてすむのだけれど」
 言うと、キスメはむっとしてヤマメの手から薬を掠め取る。ほとんどやけくそのように口に含み、ぎゅっと眼を閉じ、全身全霊を賭すようにして飲み込む。何度も食道に唾を送り込んで、この世のものとは思えない苦味を屈服させようとする。

 まあ、この娘に関してわかったことがひとつある、とヤマメは思う。どうやら負けずぎらいらしい、死ぬほど。思い返せば糸にがんじがらめにされていたときも、最初に薬を差し出したときの反応も……
 喰らいつくように殴られた頬に手を添え、疲れたように息をつく。パルパルにぶたれるのは嬉しいけれど、このチビすけには厭なものだ。なんといっても、色気がないんだから。



 傷のように深く刻まれた沢沿いを歩いている。ヤマメは不意に手を顔の横に掲げ、ひらひらと振る。わかりにくいボディー・ランゲージ。キスメは蜘蛛の背を伝い、彼女の背中まで行く。
 「沢の向かいがわを見てみな。声をだすんじゃないよ……いや、へんな反応をするでないよ、っていみでだ」

 キスメは示された方を向く。はっと息を呑む。木立の隙間、自分たちと並走するようにして、ひとつの影が動いているのがわかる。
 明らかに人間などではない気配。が、獣ですらない。キスメはヤマメに対するものともパルスィに対するものともまた違う、邪悪な感覚を覚える。
 「勇姉――鬼とあうまえに食われたくなけりゃ、あたしに口裏をあわせておくことだ」とヤマメは囁く。「ああいや、だから、あたしのいったことにへんな反応をしなけりゃいいんだ、要するにさ。おにんぎょうさんみたく、すました顔でつんとしていることだ。生き延びるためにはじっとしてなきゃならないなんて奇妙なことだけど、おまえ自身、いっかい体験してることだね。パルパルの触手が、いなづまみたいに落ちてくるなかでさ」

 瞬きひとつ打つあいだに、影はヤマメの前方、進路に立ち塞がるようにして姿を現している。ヤマメは立ち止まらず、けれど速度を落とし、もったいぶるように進んでいく。キスメは眼を凝らす。木立の暗がりのなか、辛うじて影の姿を捉えることができる。
 一見、なんの変哲もない人間のように見える。袖に鮮やかな紫の刺繍の施された黒ずくめの着物に、腰まで伸びる長い黒髪を無雑作に束ねている。地面をうっすらと覆う雪を踏む病的に細い裸足。十八でも三十でも通用するだろう、年齢の読みにくい、中性的な顔立ち。胸元の膨らみでどうにか女だとわかる。吊り上がった眼にはもう敵意以外のなにものも浮かんでいない。

 「ただそこにいるだけで」ヤマメはキスメに言う。「そこらじゅうに毒をまきちらす女だ。トリカブトの妖怪だってみんないってるけど、ほんとのところは誰もわかっちゃいない、当人でさえ。なにをきっかけに能力が発動するんだかまるで予測がつかないんだから、タチがわるい」まあできるだけ息をしないでおくことだ、と忠告して、「どれくらいタチがわるいかっつったら、あいつはその毒でじぶんの旦那も、じぶんが腹いためて産んだ子も殺しちまったくらいだ。それで結局どこにもいられなくなって、ふらふらとこんなとこまでやってきたんだよ。まあ語源的ないみでの未亡人みたいなもんだね」
 キスメはヤマメを見つめる。その眼は硬く強張っている。突然提示されたエピソードが本物かどうか疑っている。ヤマメはおどけた調子で腕を開いてみせる。
 「もともとの住処じゃないのに、このへんにやってきた妖怪って、みんなそんな感じのやつばっかだよ。あたしにしろパルパルにしろ、さ。でもあたしあいつきらいなんだ。パルパルは障気にあんまり強くない体質だってのに、あいつだけでこのへんの障気が一割り増ししてるから。おかげできがるに勇姉にあいにいくこともできない」

 キスメはヤマメの背中に隠れるように、無意識に彼女の装束の裾を握っている。
 ヤマメは女を見下ろして言う。「やあ」
 女は鼻をひくつかせ、あらぬ方向を見て言う。「人間の匂いがする」

 「そうかえ?」腰のあたりを掴んで強張るキスメの手をさりげなく叩いて――「あたしにはわからないけれど。気のせいだろう。だいたいおまえ、このごろにんげんに近づいてもいないくせに」
 「あの吐き気のする匂いを嗅ぎ間違えるものか。その娘はなんだ」
 「あたしの新しい……あそび相手。かわいいだろう? 釣瓶落としだよ。あたしの巣におっこちてきたんだ」
 女の眼が訝しげに細められると、ヤマメはキスメのからだを抱え、肩に顎を乗せてにんまりと笑ってみせる。キスメは咄嗟に振り上げかけた拳を腹の上で必死に抑え、硬直する。
 「勇姉にあいさつさせとこうと思ってさ。あそこにいるんだろう?」

 女は片手を腰に当て、もう片方の手の甲で口許を覆う。その眼の色に敵意に加えて疑心が混じる。「ご執心の橋姫はどうした」
 「パルパルね。彼女がどうかした?」
 「私は貴様を信用しない。貴様は話にもならん女だ。橋姫が手綱を取っていたからまだ見逃していたものを、橋姫が離れたのなら――」
 「そういう風にチェックされてるなんてしらなかったよ。いつからこの山に住むのにあんたの審査が必要になったのかえ?」
 女は苛立たしげに前髪を払う。「橋姫はどこだ?」
 「あたしだってパルパルになかよくしろって言われなきゃ、あんたと話そうなんてかんがえもしなかったんだよ」

 音速で空気が張り詰めていく。キスメは背中の感触から、ヤマメの苛立ちをダイレクトに感じ取る。ほとんど正対するように見下ろしている女の剣呑さも。敵対するふたりのあいだに放り込まれたかたちになり、自然に息を呑み込んでいる。
 ヤマメは行ってしまおうとする。が、脚が轟音を立てて土をえぐると、女は左腕を大きく横に突き出してみせる。行かせまいとする明確なボディー・ランゲージ。

 「おまえ」女はキスメを見て言う。「どこの生まれだ。どうしてここへきた?」
 「この子のおいたちがあんたにどんな関係があるのさ?」
 「私はそいつに訊いているんだ」
 「この子はしゃべれないよ。そういう妖怪なんだ。文句があるなら、釣瓶落としなんてものをつくりだした姿のみえない偉大なクソに――」
 「何度でも言うがな、貴様はまるで話にならん女だ。貴様がいるとまるで奇跡みたいに話が進まん。ふたりで話す、そいつをこちらに寄越せ。言の葉がなくともそのほうがまだマシだ」
 「この子はあたしから離れないよ。なんといっても」

 キスメを後ろから抱きすくめたまま、ヤマメの指が百足のように動く。キスメのからだの線を伝い、右手は頬を包むように、左手は襟の合間から差し入れられ、直に胸を揉みしだく。着物が内側から押し上げられ、指のかたちにくっきりと盛り上がる。
 「もうすっかりあたしの虜だもの」

 キスメは硬直する。千の虫に体表を走られるような不快感が身を灼く。肌をさするヤマメの指先は剥き出しの神経に触れるような感覚を送り込んでくる。
 ヤマメはにんまりと悪意に満ちた笑みを浮かべてみせる。女はこれ以上ないほど顔をしかめる。「下劣な下衆が」
 「あたしが下衆だったところであんたにゃなんの関係もないだろうが。それともなにかい。勇姉にあうことさえいちいちあんたの許可がいるのかえ? いつからあんたは勇姉のお目付け役になったんだい」
 「纏わりつく塵を払うくらいの厚意に同意がいるとは思わん。子連れで油断させておいて背中からぶすりなんてのは人間どものよく使う常套手段だ。くそ、しかしなんだってさっきからこんなに臭ってくるんだ? 土蜘蛛、まさかと思うがその娘、人間ではなかろうな?」
 「なにを好んで人間のむすめっ子がこのヤマメさんと一緒にいるってんだい。よおくみてごらんよ、この子はなんにも縛りつけられちゃいないだろうが……逃げようとおもえばいくらでも逃げだせる……あたしはほんと、ただ勇姉にあいさつぐらいはさせとこうと思っただけなんだけどねえ」

 ヤマメに首の下をさすられ、キスメは自分の息が勝手に深まっていくのを感じる。腕の拘束は確かに緩い、が、むしろそこから逃げ出さないために全力を要する事態になってしまっている。爛れるように喋り続けるヤマメの口から漏れる吐息が耳を撫ぜる。くすぐったさ以上にただ苛立つ。

 女は指先で銃口をつくり、自分のこめかみに当ててみせる。「脳味噌に病をけしかけて操り人形にする――くらいのことは容易くできる女だ、貴様は。そんなちっちゃな女の子にさえ」
 「疑り深いもんだ。そういうことをして、あたしがなにか得するんだったらやってあげてもいいけどねえ、ちょっとかんがえればわかるだろうが。なんにもなんないって」
 「現実はいつだって予測の外側からくるものだ。このところ是非曲直庁のクソどもが頻繁にやってきている。例えば、そう、連中に唆されて――なにかくだらない報酬と引き換えに星熊様を失墜させて――」
 「はあ?」
 「連中はなんだってやる。職業倫理なんてものをとっくに捨ててしまってるんだからな。説明責任を果たすために善良な者をスケープゴートにするくらいのことはいくらでも考えつきそうなものだ」
 ヤマメはことばを返すまえに少しだけ考え込む。が、結局はただことばを返すためだけに返す。「……三十枚の銀貨なんかよりも勇姉のほうが好きだよ、あたしは。あんた、じぶんできづいてないのかえ? 相当にまぬけてるほど、疑心暗鬼のはりぼてにとりつかれちまってること」
 「なにもかも手遅れになるよりマシだ」

 無意識的なものにしろ意識的なものにしろ、ヤマメの指先は無雑作に動き続けている。思考が深まると、余計に慌しく波打つ。
 「……ッ……っ」
 キスメはたまらずにヤマメの肘のあたりに触れ、首を捻じって彼女を見上げる。
 「……ああ、すまなかった」

 「私はただ星熊様に余計な目に遭ってほしくないだけだ」女は明白な苛立ちを含んだヒステリックな声で言う。ほとんど叫ぶようなものになっている。「このところ……なにもかもがおかしくなってきている気配がある。空気がざわめいている。信頼に値する者など一握りもいない。どうして橋姫が貴様をこう野放しにしておくのか、私にはまったく理解できない」
 ヤマメもまた忍耐の限界にきている。「パルパルはかんけいないだろうが……くそ……勇姉だってそうだ。あたしがなにをするにも、どこへ行くにもなにかしらの許可がひつようときたもんだ。いつからこの山はそんなに窮屈になったんだい、いつからあたしは監視つきの飼い犬に成り下がったんだい」
 「信用がなければ行動を制限されるのは道理だろうが。完璧な常識だろうが。土蜘蛛というやつはそういうこともわからんと見える。橋姫に免じて、今すぐ背中を向ければそのまま帰してやるがな、もしそれでもまだ押し通るというのなら……私も容赦はしない……!」
 「おっと、こいつはどぎもを抜かれたね。すっかり格上づらときたもんだ」ヤマメはひどく耳障りな声で高らかに笑う。「道理。常識。か。ふううううん。アハハっ」

 全身を震わせ、ひとしきり笑うと、蜘蛛の巨体が動く。女のまえまで爆音のような足音を伴ってゆく。そうしてどこまでも暗い、燃えるような声で囁く。
 「道理。常識。つかいふるされたつまんないいいぶんだよ」邪気なくにっこり微笑んで――「ちんぽ咥えた口がなにを言うかとおもえば、それはなんともイカくさいザーメン塗れのまっしろな言の葉だった」

 女の髪が逆立つ。烈火のような怒りを眼に、唇が剥かれ、食い縛った歯が骨の軋む音を立てる。



 毒と病が広がるよりも先に、ヤマメの頬が高い音を立てていた。
 対峙するふたりの女が硬直するなか、キスメはヤマメの腕を振り解き、その場の誰も反応できない速さでヤマメに平手を打っていた。
 「……キスメ、」
 ぜんぶ台無しにしてくれて、このガキ、とヤマメが罵るまえに、キスメは蜘蛛のからだを蹴り、甲殻に覆われた脚を伝って地面に降り立っていた。

 キスメは女の真正面から彼女を見上げた。腕を振るえば容易に仕留められる距離に、女は、そうであるがためにキスメへの攻撃を躊躇った。あまりにも近い距離、キスメがどう見ても人間であることはすぐにわかった。やはりこの土蜘蛛は、と女がヤマメを見上げるまえに、キスメは深々と頭を下げていた。

 「どういうつもりだ?」
 女が問いかけると、キスメは頭を上げ、女を真っ直ぐに見つめた。瞳はわずかに濡れていた。唇を噛み締め、明白な罪悪感を顔に浮かべていた。
 謝罪。女がようやくそのことばに思い当たると、キスメはまた無防備なまま頭を下げた。斬首刑のように首の後ろを晒して。

 女は沈黙し、ヤマメを見上げる。ヤマメはすっかり疲れ切ってしまい、肩を竦めてみせる。キスメの率直な行いに、敵意は跡形もなく霧散していた。こんな小さな子供に私はなにをむきに……女もまた、溜息をついた。
 「……顔を上げろ」
 仕方なく言うと、キスメはまた顔を上げた。無言の眼。真っ直ぐな子供の瞳に、ことば以上に明白な感情を見つけ、女は長いことそれを見つめる。

 「土蜘蛛」キスメから目線を逸らさずに言う。「結局、なにが目的なんだ? おまえじゃなく、この子のことなのか?」
 ヤマメは投げやりに答える。「どうぞおさっしください」
 「……」

 見つめ続けると、キスメはまた頭を下げ始める。
 「いいよ、わかった。私も言い過ぎた、すまない」
 「まったくだよ」
 「うるさい」
 「こっちこそごめんよ。なぐられてもしかたないね」
 「……咥えてたのは旦那のだけだ」
 「あたしだって見てわかることは見ればわかる」

 疲れ切った溜息が重なる。ひどくわかりにくい冗談の応酬で戦は幕を閉じる。
 女はキスメの肩に手を置き、顔を上げさせる。
 「ひとつだけ善意から忠告しておく、娘。こんなろくでもないやつとつるんでるんじゃない」
 そうして毒気を抜かれたような顔で穏やかに微笑み、背を向ける。

 「連れていってやる。こい」
 「いいのかえ?」
 「よく考えれば、どうせ、貴様ごときが星熊様になにかできるわけがないんだ」

 キスメは迷い迷い女の後に続く。が、ふと思い出したように振り返ると、ヤマメに向けて毒々しい視線を送ってみせる。ヤマメは肩を竦める。

 「はいはい」女に向かって――「……そうだ、ねえ」
 「なんだ」
 「訊きたかったんだけどさ、なんだってそんな勇姉のまわりでうろうろしてるんだい、あんた。というかそれ以前に、なんだってこんなとこまでやってきたんだい?」
 女はばっさりと答える。「星熊様がそういう質問をしないでいてくれるからだ」

 ヤマメは後頭部をがりがりと掻く。そうして呆れたように呟く。「……まあ、そうだろうねえ。結局みんなおんなじ、か」



 女を先頭に、ヤマメを殿に、見通しのない樹木に覆われた山道をゆく。不意に頬に冷たいものを感じ、キスメは空を見上げる。
 とうとう雪が降り始める。薄いものから厚いもの、重いものから軽いものまで、雲はあらゆる灰色に満ちている。凍える風が吹き、キスメは纏ったぼろきれを引き寄せ、ちょっとした衣服の隙間から忍び寄ってくる冷気をシャットダウンしようとする。
 女は不意に振り返り、そうした仕草をするキスメを見る。なんの前触れもなくキスメの後ろ襟を鷲掴みにし、キスメの表情に困惑が浮かぶよりも先に、ヤマメに向かって投げつけている。

 「寒そうにして。おまえの『遊び相手』なんだろうが。せめて凍えないように抱いてるくらいのことはしろ」
 「ずいぶんと気がきくもんだ」

 ふん、と女は鼻を鳴らす。そうして背を向け、また素足が歩き始める。
 「私の娘だって、生きていればそいつくらいの年頃だったんだ」















 「人間の匂いがする」
 「貴様の鼻は腐りきった卵みたいなものだ。私は少なくとも五年はそんなもの嗅いだ覚えもない。私とそこの土蜘蛛が一緒にいて、なんでそんなことを言われなくてはならんのだ。空を見てみろ。太陽も貴様だけは照らしたくないと言ってすっかり隠れてしまった」
 「……その土蜘蛛が抱いてる娘はなんだ」
 「まったく恐れ入るよ、貴様は本当にくだらん言の葉ばかりを口にする。いつでも私が貴様ごときのために存在すると思っている。そんな考えはその貧相な妄想のなかだけでしておくことだ、いつでも自分こそが浅ましいヒーローになれる幼稚な幻想のなかでな。その幻想のなかでは貴様もみんなから慕われる無敵の人気者というわけだ。まあ私やそこの土蜘蛛のような人種にとってヒーローなんぞはいつでも敵のなかの敵でしかなかったが」女は荒々しく腕を振り、凄まじい剣幕でことばを重ねる。「あれが人間に見えるのか、貴様の眼はとことん節穴だな。根元からくりぬいて睾丸でも突っ込んでおいたほうがまだ役に立つ。土蜘蛛の『遊び相手』だぞ、いったいどの世界の人間が好きこのんでそんなものに成り下がるというのだ。一秒の十分の一でも考えればわかることだろうが、能無しめ」気圧された妖怪に向かってなおも言い募る。「貴様ごときの相手をしてることほど不毛な時間もないな。こちらになにも寄越しやしないくせに私の貴重な時間ばかりを掠め盗っていく。まるで政治屋みたいに無駄なことばかりに精力を費やすんだ、貴様のような輩は! 他人を攻撃するまえにまず自分を棚から引き摺り下ろしてくることだ、最前線に自分のアナルを置く気概もないクセに知った風な口を聞いてるんじゃない、この役立たずの案山子野郎。おい、なにをそんな呆けて、七福神みたいな間抜け面を晒してるんだ。息が臭いんだから口は閉じておくんだ。放心するまえにまず背を向けろ、実に不愉快だ、いつまでその醜い不細工な顔面を私の視界に入れてるつもりなんだ? ああ、いいやめろやめろ、もう喋るなわかってるさ、ワンセンテンス以上の言の葉を紡ぐだけでも貴様の貧弱な頭じゃ熱暴走しかけてしまうものな。なあに安心しろ、別に無理させようなんて思っちゃいないさ、貴様の声を聞くだけでそりゃもう可哀想になってきて、思わず涙ぐんでしまうほどだもの。そうそう、実はな、貴様に頼みごとがあったんだ、聞いてくれるか? 今すぐ自分の寝床に帰って、日が暮れて昇るまでせっせとヒンズースクワットでもしておいてくれ。それこそがたぶん、貴様にできるあらゆる慈善事業のなかで一番、唯一、私たちのためになることだからな。まったく、貴様の優しさ、公平無私の慈愛には心から頭が下がるよ。おい、さっさと行くぞ土蜘蛛」
 「はいはい」
 「ん? なんだ貴様、驚いたよ、まだそこにいたのか。どうした、口を金魚みたいにぱくぱくさせて。私の声が聞こえてないのか、ええ? もしもーし? お・る・す・で・す・かー?……」

 そこで女は妖怪の耳に口を寄せ、なにごとか囁く。すべてが静止する。ヤマメが彼の横を通り過ぎると、そこでがくがくと膝を震わせ、達磨落としのように崩れ落ちる。

 唖然とするキスメを後ろから抱きすくめた姿勢のまま、ヤマメはにやにやと笑いながら呟く。「いけすかないやつほど、味方になるときゅうに頼もしくなるもんだ」



 しばらく行くと、女は立ち止まる。
 「星熊様の住処はすぐそこだ、娘。私はここで。さすがにもう、別の妖怪と鉢合わせするようなことにはならないだろうよ。私の口も店じまいだ」
 「うん、ありがとう。ずいぶんと助かったよ」
 「私はその娘に言ってるんだ、土蜘蛛」
 「つうやくをしてやったつもりだったけどねえ。あたしはこれ以上あんたの毒をみみにしなくてすんで、ほっとしてるとこだよ」
 「ふん。お望みとあらばいつだって聞かせてやる。だが橋姫だけは連れてくるなよ、妬ましいの一言だけで軽薄な毒なんぞ根こそぎ吹っ飛ばされてしまうからな。彼女にはどうやっても勝てると思えん」
 「あたしだって障気のかたまりみたいな女のまえに好きな子をつれてこようとはおもわないよ」

 女はキスメを見つめる。咎めるような目線が返され、鼻で笑って応対する。
 「なんにでも同情するんだな、おまえは。その純真な耳はちょっとした罵りを聞くことにさえ耐えられないというわけだ。だが、あいにくさっきのやつに対して謝罪のことばは持ち合わせてないんでな」そこでふっと息をついて微笑む。「……だが、まあ、なんだ。土蜘蛛をぶん殴ってくれたのを見たときは胸がスッとしたよ、一応、ありがとうと言っておく。私のためにそんなこと……ついでだ、さっきのやつのために、私もぶん殴っておくか?」

 不意に屈み込んで目線を合わされ、頬を差し出される。キスメはうろたえる。ヤマメに対するのと同じように女に対応できない。精神がそういう風に動かず、腕もだらんと垂らしたまま動かせない。
 女は微笑を深める。
 「……なんだ、『遊び相手』ってのは本当だったのか。まあ、遠慮なく手を出せるってのは特別なことだよな」そこで立ち上がり、背を向ける。「じゃあな」

 雪の白に覆われた樹海、女の姿はすぐに見えなくなる。キスメはしばらく茫然としている。そんな彼女を抱え上げ、ヤマメはまた後ろから抱きすくめる姿勢を取る。
 「あいつも言ってたけど、こっから勇姉のとこまではすぐだよ。心のじゅんびはできてるかえ? まあなにをどうしたって報復なんてできるもんじゃないけど、てきとうにあしらってくれるだろ……なんだいおまえ、てあしのさきまで真っ青に冷たくなって。あたしは病をどうにかはできるけど、うしなった体力まではどうにもできないよ」

 キスメが腕のなかで暴れ始める。さっさと進めという催促と捉え、ヤマメは仕方なく脚を動かす。小さな手の甲に手のひらを添え、握り締める。キスメはようやく大人しくなり、動かなくなる。
 密着状態でどうにか察知できる。不貞腐れた感情のささくれ。それでも心の眼を凝らさなければ気づけないほど小さく、緊張の強張りが芯にある。とことんわかりにくいむすめだ、とヤマメは思う。つくづく。



 錆びついた刃毀れ。地面に突き刺さった刀の柄に、うっすらと雪が重なっている。
 どうしてこんなところに、とキスメがあたりを見渡すと、そうした武器の残骸が至るところに残置されている。地表を最期の獲物に見立てるように、切っ先を向けて。戦意の墓場。背筋が薄ら寒くなり、キスメは眼を細める。
 少しずつ樹木のあいだの間隔が離れていく。やがて緑が完全に見当たらなくなる。そこだけ森林限界の高度に達したかのように、剥き出しの岩と土の転がる異質な景色になる。樹木の代わりに死んだ刀剣を地面から生やして。

 横たわった得物がつくる銀色の山を、雪が化粧している。勇儀はその頂に座り込んでいる。雲の細い隙間から送られてくる西陽に顔を向けて。一本角の下、彫像のような顔に謎めいた表情を浮かべて。白い影のなか、キスメはその背中を見つける。



 血の沼に崩れ落ちる男に向けて勇儀は言う。
 『見事』
 胸にふたつ、腹にひとつ、肩にひとつ、真っ黒な穴を開けられた父親が喘ぐ。
 『生まれて、初めて、聴いたよ、そんな、ことばは』



 勇儀は振り返る。暗闇がすべてを覆い隠し始める黄昏のなか、大小ふたつのシルエットが視界に飛び込んでくる。暗闇の蜘蛛。哀しいほど小さな人型。
 「ヤマメ……?」
 「こんばんは、勇姉。このまえはお酒ありがと。それで――」

 キスメの足元で錆びついた刃がぽっきりと折れる。針山地獄のような光景のなか、見覚えのある顔が夕闇のつくる影のなかに沈んでいるのが見える。はっきりと見える。セピア色に染まる精神を抱え、キスメは燃えるような息を吐く。
 耳に届く音という音が軋み、可聴域を越えた耳障りなノイズに変質する。鬼退治のこちら側と向こう側、刃の切っ先と拳の面だけが自由に行き来する境界を挟んで、キスメはようやくその場所に立つ。

 「なんていったらいいのか」
 とヤマメは言い、頭の後ろを掻く。そんな彼女を置き去りにし、キスメは勇儀に近づく。足元を埋め尽くす刃の隙間に注意深く足を置き、一歩ずつ進んでいく。

 キスメの顔が真横から突き刺さる西陽に照らされる。そこでようやく、勇儀はキスメの顔を見ることができる。時間差で訪れる記憶の回帰がある。腹に刻まれたひときわ大きな古傷が鼓動を伴って疼く。
 「あのときの娘か!?……」
 キスメは勇儀を見つめたまま答えもしない。石のように表情を固めたまま、足だけを動かして近づいていく。

 ヤマメは首を傾げてみせる。「ああ、やっぱりひとちがいじゃなかったんだね。この辺にゃ、もう……勇姉しか鬼なんていないからさ」
 「おまえさんが連れてきたのか?」
 「まあいろいろとね、事情があるようなないような。なにかしとかないと、この子しつこいだろうと思ったもんだからさ。あたしの巣を、いりぐち代わりになんども使ってほしくもないし」
 「……私の因縁で迷惑かけちまったみたいだね。すまない、悪かったよ」
 「あたしはいいんだけど。で、結局なんなの?」
 勇儀は向きを変え、沈黙を抱いてキスメを見つめる。

 キスメは熱病に浮かされたようになっている。刃を踏まないように足を動かしているために、足取りはひどく拙い、漂うようなものになる。冬山の乾いた清浄さのなか、空気のフィルターを突き抜けてすべてが剥き出しになっているかのような独特の視界。座り込んだ勇儀と、膝を伸ばして立つキスメの目線の高さはほとんど変わらない。それでもキスメは眼のまえの鬼に遥か頭上から見下ろされているような感覚を憶える。
 勇儀は皮肉な感情から微笑めいた苦い表情を浮かべる。何度かはあったことだ、憎悪の連鎖の一番先にこの身が置かれるなんてことは。それでも少なくとも、境界を挟んだ互いは平等だと思っていた。命を晒すところにある以上……それさえも叶わぬことだと気づいたとき、次第に、拳を振るうことにひどい虚しさを覚えるように……

 「いや」勇儀は己の思考を遮断し、首を振る。「違うな。結局……われわれはただフィールドが自分たちに不利に動いてきたから逃げ出したというだけだ。相手の戦術に言いがかりをつけて。……卑怯な手も姑息な手も、同じ手には違いないだろうに……対策に対策するのを怠けただけだ」
 「なんの話だい?」
 「いろいろと思うところがあるのさ、私にも。必要だったのは、たぶん、そう、枠だったのだと思うよ。一線から離れてみてなんとなくわかってきた、けれど結局、どういった枠ならよかったのか……答えが出せないまま……これが末路だ。地底に逃げるまえになにか……できたらと思ったが」

 キスメの懐から匕首が覗く。勇儀はそれを見、腹のなかに毒を仕込まれたような気分になる。こんなちっちゃな女の子が。自分の行いが招いた事態に反吐が出そうになる。

 勇儀は束の間眼を閉じ、記憶の闘いを辿る。「おまえさんの父親は……臆病者だった。一度目はなにもせずにただ逃げ出しただけだった。だが二度目は……おまえさんが背中にいた」匕首が鞘から抜き放たれ、銀色が網膜に焼きつく。「なにかのために容易く命を賭けてしまえるのが人間なんだろうな。からだに四つも風穴開けてやったのに、涙やらなにやらで顔中ぐしゃぐしゃにして、刀一本で立ち向かってきたものだ」重苦しく首を振った。「あんなタフな人間は見たこともなかった。子を……守るため、か」
 数瞬置き、ヤマメは不意に気づく。
 「……ああ。もしかしてあのときのことを言ってるのかえ、勇姉? はらに大穴あけて戻ってきたときの……あの傷はあたしがぬってやったんだっけね? でもあんたさ、あのとき――」
 勇儀はぴしゃりと言う。「ヤマメ」
 「……いいけどさあ」

 勇儀は立ち上がる。足元の刃の死骸ががちゃがちゃと音を立て、崩れる。夕闇を背負い、その姿は頭の天辺から足の先まで黒く沈んでいる。
 かつて対峙した多くの復讐者に対するのと同じように、勇儀はキスメが手を伸ばせば届く間合いまで近づいてくるのを待つ。彼らに応じたのと同じ対応を彼女にもする。衣服の裾を捲り、彼女の父親が刻んだ、右の脇腹から左まで一文字に突き抜けた古傷を曝け出してみせる。そこは他の多くの古傷と同じように、磨かれた砂州のような色合いをして皮膚が歪んでいる。

 「こいつがおまえさんの親父殿がつけた傷だ」硬い声音で――「やるとしたら、ここだろう。……思う存分、やってみるといいさ」

 キスメの手は震えている。手だけでなく、足も、歯も、からだの軸から揺れている。ただ眼だけが狂ったように滲んでいる。勇儀のまえまで行くと、匕首を抜く。小さな柄を両手で握り締める。そうして盲目的な激憤から闇雲に腕を振るう。
 金属質の耳障りな音が響く。根元から折れた匕首の刃がキスメの頬を掠め、放物線を描いて錆びた刃の地面に落ちる。周りとすぐに見分けがつかなくなる。その上を弱々しく降り続ける雪がゆっくりと埋めていく。
 沈黙の数秒。勇儀は後退りし、屈み込んで足元を探る。再び立ち上がったとき、その手に立派な刀を掴んでいる。錆びついても、刃毀れしてもいない、新品同然のものだった。切っ先のほうを持ち、柄をキスメに向けて差し出す。

 「そんななまくらじゃ、無理だろう。こいつを使うといい。妖怪の鍛えた正真正銘の業物だ。正しく使えば、岩だって斬れる代物だよ」

 折れた匕首を投げ捨てた腕がその刀を掴む。キスメは荒く息をつきながら数歩下がり、腹のまえで抱え込むように柄を握り直す。震える切っ先がもう一度勇儀の腹に向かう。焼けるような数秒の静止の後、キスメは全霊を賭して身を投げ出すように駆け出す。
 先程よりも、金属質の甲高い音は高く長く響き渡った。
 刀は今度は折れなかった。が、その切っ先は勇儀の傷に一寸たりとも食い込んではいなかった。蚊が止まるよりも浅く、その表皮で静止していた。

 「なあ、おチビさん。私はいつでも死ぬ覚悟はできてるよ、一応はな」勇儀は言い聞かせるように呟く。「鬼だからな。退治されても恨み言は口にしないさ。けれど、私を殺せないやつに殺されるわけにはいかないんだよ。それだけが資格と条件だ。
 ……こんなでかい傷をつけたおまえさんの親父殿が、どれだけ類稀な人間だったか、わかったかい? おまえさんじゃ私をどうにもできんよ。炒った豆、鰯の頭、柊の棘、なに使ったっておんなじだ」

 キスメは茫然と刀と古傷を見つめている。が、不意に歯を食い縛り、刀を引いて身を捩る。雪に食い込んだ小さな足が渦を巻いて回転する。全身を捻り、ありったけの、渾身の力を篭めた一撃が夕闇を斬り裂く。
 勇儀はなにもしなかった。
 結果はなにも変わらなかった。指が力を失い、弾かれた刀が落ちた。キスメは痺れる両手を茫然と見下ろした。無力感だけが胸の奥から湧き上がってきた。

 キスメは掠め取るように刀を拾い上げ、もう一度勇儀に切っ先を向け……そこで止まった。
 無駄だとわかってしまっていた。
 弾劾のことばを叫ぶことさえ、キスメにはできなかった。恨みの声は声にならなかった。ただ腕をだらんと垂らし、勇儀に剥き出しの視線をぶつけること以外できることは残されていなかった。勇儀は真正面からその視線に応じ、静寂の怒りをただ受け止めた。
 意思疎通もままならぬ異種の対峙。倫理も価値観も根本から交わらない時間。キスメの後ろで、ヤマメは眼を細めてその沈黙を見つめた。ほとんど手で触れられそうなほどはっきりした怒りと、哀しみが見えた。

 ヤマメはキスメを知っていた。少しくらいは。同じように、勇儀も多少は知っていた。そうしたふたりがそういう風にして向き合っていることが、ひどく不思議な感じがした。どっちの女も、全然、まったく、悪い女ではないのに。
 (なんだか、ね。ぶきような女どもだよ)



 不意にキスメが勇儀に背を向けた。刀を持ったまま弾かれたように駆け出し、ヤマメの横を抜け、訪れ始めた宵闇のなかに消えていった。ヤマメは擦れ違う瞬間にキスメの顔を見た。怒り狂った表情のまま、ほとんど零れ出さんばかりに眼の下に涙を溜めていた。

 勇儀は疲れたように言った。「ヤマメ。あの子を送り届けてやってくれないか」
 「言われなくてもそうするつもりだったよ。そうしなけりゃ、パルパルがかなしむだろうからね」
 「……パルスィはまだ人間に未練を持ってるのかい?」
 「人間っていうか、ちっちゃな女の子に、かな。……ねえ勇姉。あんたさ、あんとき、退治されかけてぼろぼろだったパルパルを背負ってたじゃないか。えんえんと逃げてきて……それで鉢合わせになっちまっただけなんだろ? 鬼退治のかえりうちっていうか、パルパルを守るためにやりあったんじゃないか。そのときからパルパルがこのへんで暮らすように――」
 「退けなかったのさ。あの男も、私も。でもそんなのはただの背景だ」
 「そうかい」

 ヤマメはキスメの去っていったほうを向いた。大気の匂いから、もうすぐ吹雪いてくるだろうと感じた。どこかへ消え失せるまえに捕らえておかなければなるまい。が、ヤマメはそこでもう一度勇儀のほうを向いた。

 「ねえ、ちかごろ是非曲直庁のれんちゅうがきてるんだって?」
 「ああ。同胞から地底に誘われて、どうしようか迷っている」
 「ふうん。いけばいいじゃないか。だってあんたがいなけりゃ、地底はむちゃくちゃだろう?」
 「……どうしてそう思う?」
 「是非曲直庁なんかに鬼が束ねていられるかい。となりとだって足並みをそろえもできない連中をさ。四天王でいばしょがはっきりしてるの、いまとなっちゃあんただけだろう?」
 沈黙を挟んで勇儀は頷く。「ああ。私しかいないだろうね」
 「望まれりゃ無視できないのがあんただ。それはあたしもわかってるし、パルパルも、この山にあつまってきたみんながわかってる。あんたがそうするんだったら、だれも引き止めやしないよ。ついてくやつばっかだろうね」
 「……そう言ってくれるのは嬉しい。それで、是非曲直庁にはいくつか条件を提示されていてね。その交渉でなんのかんのと……四天王が地底の統治に介入することを良く思わん連中もいるから」
 「ふうん。なにかあたしにできることがあったら言っておくれよ。そのへんにいると思うからさ」
 勇儀は心から言う。「ありがとう」















 ヤマメも去ってしまうと、勇儀は腰を下ろす。そうして訪れた夜を見つめる。
 雪が勢力を増し始める。次第に、風が嵐の領域に突入する。束ねるもののない長く伸びた金の髪が好き放題に乱れ、檻のように勇儀の姿を隠す。
 『鬼』は『隠』に通じる。あるいはそのように生きてこられたら、と思う。余計なものを背負いすぎたからだは自分の思い通りにすらならない。そのことが勇儀にはひどくもどかしく感じられる。

 それでも結局は、こんな風にしか生きられなかったのだ。正直者が馬鹿を見る。そんなことばで易々と生き方を変えることができないからこそ、正直者は馬鹿を見る。闇のなか、勇儀は死体のように頭を傾ける。その身を覆い隠すように雪が積もり始める。



 雪に足跡が消えるまえにと、ヤマメはキスメを追う。小さな後姿はすぐに見つかる。ぼろきれの下の白装束。そうして気がつく。キスメ、おまえ、ここへ死ににきたのかえ?

 「親父殿がころされたんだってね。それでそんな服しか残ってないのかえ? あるいはもう、すむ家さえなくしちまったのか」
 キスメは答えず、答えられず、あるいは答える気もないのか、背中を向けたまま歩き続ける。そんな彼女にヤマメはなおも言う。
 「まあ、こんな結果でよかったとおもうよ、あたしは。もしおまえがやりたいようにできてたら、この山のぜんぶの妖怪がおまえの敵になってたところだった。パルパルも、あのいけすかない毒女も、もちろんこのあたしも。とるに足らないガキでたすかったねえ?」

 立ち止まり、振り向いたキスメの眼は悪意に満ちている。漆黒よりもどす黒い怒りがある。が、いまのヤマメにはわかる……そうした感情の上にうっすらと諦めが乗っている。雪のように。
 眼の色だけでそれなりにわかることもあるもんだ、とヤマメは思う。が、不意に強い風が吹きつけ、顔のまえで散った氷の礫に、反射的に顔を背ける。

 「……こりゃ、ひとばんで一気につもっちまうね」

 頭胸部をもたげ、キスメのまえに擬態を落とす。後退りするキスメの腋に腕を差し入れ、抱え上げる。
 少女のからだは軽すぎ、小さすぎる。とても鬼と向き合うことなど適うものではない。それでもまだ彼女が生き延びているのは、結局、勇儀が己に向けられる敵意を見逃してやったからにすぎない。

 「そのことはわかってるだろう、おまえも?」とヤマメは言う。「わかってて、それでもここまでやってきたのは……そうせざるを得なくなるほど、心が無闇にうごいちまったからなんだろうねえ。でもそんなのは、大抵、どこにも到達できずにつぶされちまうもんだ。現実ってやつに……でもおまえはほんとうに幸福だよ。じっさいに鬼のまえまでいけて、まだこうして立っていられるんだから」

 いまだキスメが掴んでいる抜き身の刀を取り上げ、自分の上着の一部を引き千切って巻きつけ、鞘の代わりにした。そうして彼女に返した。

 「こういうので」ヤマメは刀を示し、キスメの手に握らせながら言う。「解決できることのほうがずっとすくないもんだ。ねえ、どうしてこのへんに、あたしや、パルパルみたいな妖怪が集まってきてるとおもう? 忌み嫌われて遠ざけられたやつらが。……あんたがころそうとした勇姉がここにいるからだよ」キスメの眼を見つめ、自分のことばが届いているかどうか確認しながらなおも言う。「勇姉は……あたしらを受け入れてくれた。そのでっかい背中に……ほかのれんちゅうとおんなじように、公然としりぞけ、正義のみかたづらして追い出そうとしたりしなかった。だれにどんな中傷くらっても、知ったことかってふんぞりかえって、力ずくで境界線の上に立っていてくれた。それってとっても得がたいことだよ、おまえにはわからないだろうけどさ……そんでそのことに、だれも文句をいえないんだ。なんたってそれをやってのけるだけの力があるんだから」

 キスメは刀を抱き締めるようにして身を縮め、ヤマメをじっと見上げている。真っ黒な眼が底のない穴のように深くなる。相手が曝け出していることを一滴残らず血肉に吸収しようとするかのように。
 ヤマメはふと、こんなことを口にしている自分を疑問に思う。どうしてこの取るに足らない小娘に訴えるようなことをしているのか。が、言いかけたことはもう喉の奥には返ってきてくれない。ヤマメはさらに言う。

 「赦せなんていわないさ。でもせめて、放っておいておくれよ。勇姉の眼をみただろう。おまえの親父殿をあやめたことについて、なにも……言い訳しなかっただろう。おまえの憎しみを受け止めただろう。それでじゅうぶんじゃないかえ?」
 ふたりのあいだをひときわ強い風が吹き抜ける。暗闇のなか、雪の結晶が真横に飛ぶ。
 「おまえはみごとに勇姉の古傷をえぐったんだ。じゅうぶんに復讐を果たしたとはどうしても思えない? おまえはゲームに勝ったんだ、そう思ってはくれない?」そこでヤマメは鼻を鳴らす。「……おもえなくてもいいさ。おまえの気持ちがわかるよ、なんて言わないけれど。どうせ異種だし。まあ、でも普遍的な感情ではあるさね。これだけは覚えておきな。どうしようもなくなってどうしようもなくなっちまうことだってあるんだ」

 そこでキスメのからだを回し、後ろから抱きすくめる。そうして山を降りるために脚を動かし始める。がしゃんがしゃんと甲殻が軋み、枯れた樹木が薙ぎ倒されていく。
 キスメは眼を閉じる。至近距離で向き合った鬼の顔は、あらかじめ想像していたものの対極にあった。晒された腹の飽和した傷口はその眼の奥まで侵食していた。表情はただ果てない哀しみに満ちていた。
 行き場を失った憎悪はどこへ行く? 刀を強く抱き締め、胸のなかで渦巻く黒ずみを見つめ続けた。こうした心は自分でもはっきりとわかるほど醜かった。パルスィが変貌したあの化け物そのものだった。



 「こりゃまずいね」
 ヤマメは呟いた。雪はもう完全に吹雪の領域だった。閉ざされた視界は五歩先さえ見通せず、もう立ち止まらざるを得なかった。

 自分ひとりならこのようなとき、もうその場で眠って夜を越す。全身が雪に埋もれてもなんの問題もない、妖怪なのだから。が、そこでふとキスメをどうするか迷う。身を覆うものは頼りない白装束にぼろぼろの布切れ、とてもこの寒さに耐え切れるとは思えない。
 もう随分とこいつ相手に労力を費やした。ここまですれば放っておいても誰も文句も言わないと思うのだが、パルスィの怒ったような哀しんだような顔が浮かんできて途方に暮れる。それに勇儀にもこいつを送り届けてやれと言われてしまった。
 しかしもうこの吹雪に加えて塗り込めたような宵闇で方角さえわからないのだ。いまからではとても人里まで行けるとは思えない。

 「こまったねえ、キスメ?」
 返事がないのに慣れてしまったのが癪だけれど、ふとそこで違和感に気づく。胸のまえに回した腕から伝わる鼓動が、随分と弱々しい。
 「どうした?」

 キスメのからだを回して正面から顔を覗き込んだ。真っ赤になった鼻の頭と頬、睫毛に纏わりつく雪の白。唇が血の気を失って真っ青になっていた。なによりその表情、連続した緊張と一度は障気に屈した事実に加え、目的を失った虚脱感からか、すっかり力が抜け落ちてしまっていた。
 おい、と呼びかけても反応がない。ヤマメは病気こそどうにでもできるがそこで失った体力までは操れない。

 「死ぬのかえ?」

 首を傾げて問いかけた。虚ろな瞳が闇に沈む。雪にすっかりそぼ濡れた衣服は重く、冷たい。
 キスメはゆっくりと眼を閉じ、耳から胸へ沈んでいくヤマメのことばを反芻する――死ぬのかえ?――自分の内面に問いかける。私は死ぬの?
 生き延びるただひとつの指標であった鬼の顔。報復は果たせなかった。刃を突きつけて気づいた、これから先どんなことがあっても、あれに致命傷を与えることはできないだろうと。なによりあの、人間以上に人間めいた哀しい眼。刃を持ってこちらに柄を差し出した瞬間にうっすらと翳りを含んだ唇。
 心が折れるより先に気づいた。持ち続けていた復讐心が途切れた。開いた傷口から止まることなく零れ続ける血の流れを眺めるような、どうしようもない感覚だけが満ちた。

 家族を失い、住処を失い、目的を失った。生き続ける理由はもうない。

 が、けれど――それでも……ただ無音のなかで自分の肉体に問いかける。心ではなく、心ノ臓に。
 緑眼の女の声が聞こえる……『気をしっかり持ちなさい。内なる声に耳を傾けなさい。自分のからだがどうなってるか、わかるはずよ。喰らいついて落ちついてられるんだったらいくらでも噛んでなさい』。
 抱き締める刀の柄を噛むと、さらに聞こえる……『消化液と媚薬の区別くらいつくでしょう。からだじゅう熱くなって、でも、それだけでしょう? 痛くないし、苦しくもない。からだの末端に意識を向けなさい。中心に向かって少しずつ辿りなさい。自分は大丈夫だって、きちんとわかるはず』

 眼を開いた。自分を喰おうとした蜘蛛女の顔が眼前にあった。いっそ無垢にさえ見える柔らかな表情。最初の邂逅、あのときの反逆心が蘇ってくる。鋼鉄のような糸に拘束されたまま、絶望を越えて肉体のあらゆる部分が吼えていた。心が折れてもからだが折れない。せめてまだ、そうした叫びに耳を傾けておいてやりたかった。

 キスメは首を横に振った。

 ヤマメはにっと笑った。「いいよ、わかった。じゃあ、できる限りのことはやってやろうじゃないか」















 稜線ほど風はないとはいえ、完全に無風というわけにもいかなかった。髪をひとまとめに結っている紐を千切ると、ざらりと胸の位置まで解け、好き放題に散った。
 凍るように冷たくなった衣服を脱いだ。すぐに一糸まとまわぬ姿になった。キスメが思わず身を引いて、頭胸部からずり落ちそうになるのを、腕を掴んで留めた。体力を失って眠そうに眼を細める顔に軽く平手を打って、現実に引き戻した。

 豊満にかたち良く実り、冷気につんと立ち上がった桃色の先端。視界に入ったそれらに、キスメは気圧されたように身を捩った。ヤマメはにやにやと笑みを浮かべた。「恥ずかしがってるよ、この子は。いちにんまえに」

 首筋にそっと触れた。体温まで凍りついたような温度に、キスメの肩が跳ねた。脱ぎな、と合図してやると、無防備に眼を泳がせた。けれど脱がないわけにはいかなかった、そうしているうちにも衣服に染みる水分はみるみるうちに体温を奪っているのだから。
 もう既に蜘蛛のからだを雪が埋め始めていた。ヤマメはキスメの頭から肩にかけて積もりかけた雪を払ってやった。腕を伸ばすと背が反り返り、そうした動きに忠実に乳房が揺れた。

 キスメは長く迷っていた。そうしているあいだにも吹雪は勢力を増し始めていた。
 「おまえはいつだって差しのべられた手に惑うんだね。またむりやり唇をうばってやろうか、ええ?」ヤマメは言い聞かせるように囁いた。風の音がうるさく、耳に口づけするほどにまで近づかなければならなかった。キスメは首をすくめて身を引いた。
 薬を含むように唇に指を這わせると、キスメはようやく頷いた。からだを開くと、それだけで途轍もなく寒かった。ヤマメのからだが防風壁になっているとはいえ。帯に触れる手は肘まで震えていた。
 かじかんで指を動かせなかった。溜息をついたヤマメの手が伸び、キスメの代わりに帯を解いた。あばら骨がくっきりと浮かび上がる小さな上半身が剥き出しにされた。残酷なほど震え始めるまえに、ヤマメはキスメを引き寄せた。

 キスメは息を呑んだ。「――、っ」

 ヤマメの指先が背骨を伝い、中途半端に脱ぎかけた着物を下げ始めた。袖はすぐに離れた。抱き締められたまま器用に襦袢まで脱がされ、雪の地面にはらりと落ちていった。
 ヤマメの首に冷たくなった鼻先を埋める体勢。密着した胸元の、官能的な膨らみ、ほとんど溶けるような柔らかみが直に伝わる。その先端の突起まで皮膚に触れている。状況をわきまえず強張るからだと心臓に、キスメは困惑した。



 キスメはヤマメの肩に鼻先を埋めたまま、恐る恐る見下ろした。腰の中ごろで、ヤマメのヒトガタは蜘蛛の頭胸部と溶接されていた。なにかそこだけ霧がかり、おぼろげになっているかのようにさえ見えた。意識が現実とそうでないものの境界を拒絶し、そこにあるものを見ないようにしているかのようだった。
 ひときわ強い風が吹きつけ、反射的にキスメはさらに身を押しつけた。背中に回され、腰を抱くヤマメの腕はまだ冷え切っていた。その温度に全身が跳ねた。

 「まあ、そのうちあったかくなるだろ、少しは……だめだったら、それまでのことだ」

 ヤマメの声が聞こえ、ぶわりと布が舞った。ヤマメの腕が自分のからだごと一緒に、ぼろきれを巻きつけていた。それだけでだいぶ風は凌げた。けれど余計に密着したようになり、吐息が彼女のからだに跳ね返って口許を包んだ。そこだけがいきなり冷えていった。

 「ああ、おまえのからだはあったかいねえ、キスメ? 子供のたいおんだ。……横になれないのはがまんしておくれよ、腰から真上にはえてるもんだからさ。正常位のできないからだってわけだ、不便だね」
 セイジョウイということばの意味はわからなかったが、ヤマメのからだは冷たかった。腰を捻じるようにして身を縮めた。ヤマメのからだとのあいだに収まる刀がひどく邪魔だったが、手放すことにひどく危機感を覚えた。匕首を失ったいま、キスメが頼れるのはもうそれだけだった。役立たずでも、心の拠り所だった。
 ヤマメにもそれがわかっていたのか、特になにも言ってこなかった。が、言ってこないという事実がひとつの重みとなってキスメの胸に圧し掛かった。
 気を遣わせているのか、この蜘蛛女に?

 思い至った瞬間、キスメは刀を放り投げていた。ほとんど意地のような感情から。鞘代わりのぼろきれが解け、切っ先が蜘蛛の脚のすぐそば、雪に覆われた地面に突き刺さった。

 「……ふうん」
 ヤマメが鼻を鳴らした。また堪え難い皮肉がくるのだろうと思って身構える。が、それ以上ヤマメはなにも言わなかった。ただ回した腕に力を篭め、剥き出しの背中をさすってくるだけだった。



 夜は、長い。……死ぬほどに長い。陽が沈んでから陽が昇るまで。
 耳元で嵐の爆音が渦巻いている。そこが冷え切って千切れそうになる。からだの上げる悲鳴が促すまま、キスメはその部分をヤマメのからだに押しつける。もう既に意識は朦朧とし始めている。

 私はここで死ぬんだろうか、と思う。ぼろきれの隙間から風が吹きつけ、首から温度が奪われていった。そこにヤマメの手のひらが置かれ、風からの防壁になった。
 ぞわぞわと鳥肌が立つ、その指の細さと長さと、この女にこうした距離で無防備な姿を晒していることに。強い緊張と恐怖を覚える。
 それでも、その腕に敵意めいたものがないことはわかる。それだけ近い距離にいるからこそ、そういったことは感じでわかる。なんとなく。

 「まだいきてるかえ?」

 ひどく遠くから声が聞こえてきたように思えた。が、そのことばを放った口は耳のすぐ横にあった。蕩けるような吐息まで感じ取れるほど近かった。
 キスメは頷いた、つもりだった。ヤマメにはわからなかったのか、顎に指を添えられて持ち上げられた。ほとんど睫毛の触れ合うほどの距離で、眼を覗き込まれた。

 「ちゃんと見てないと、すぐどっかいっちまいそうだね。気づいたら死体になってそうでこわいよ」

 鮮やかな紅金色の瞳が言った。
 髪の明るい金髪といい、異邦人なのかと思う。ヤマメにしろ、パルスィにしろ。けれど黒谷? 水橋? 考えれば考えるほどわからなくなる。妖怪にそうした境界はないのだろうか。例えば自分も――仮に妖怪になったとしたら、この黒髪は青や緑になったりするのだろうか。
 詮無いことだ。

 眠くなってくることが自分でも危ういことだとわかり、眠気を追い払うために首を振った。
 深く息をついて目許を擦る。そうしているあいだにもずっと見つめられていた。眼を上げると見下ろす瞳のなかに自分がいた。
 手持ち無沙汰かなんなのか、頭を撫でてくる手を払い除けた。雪が一緒に散って、そこでぼろきれの隙間からの雪を払ってくれたのだと気づいた。
 そんなに私が死んで、あの緑眼の女に責められるのが厭なのかと思った。

 ぴたりとからだをくっつけられ、そこからようやくじんわりと温かくなり始めた。
 この蜘蛛も、そうしているともうまったく人間と変わりない。腰より下に意識を向けなければ、どこまでもどこまでも女らしいしなやかなからだ、脇腹の線を伝い背骨に沿ってくっきりとしたくびれ。折れそうなほどの強い曲線。
 時間に飽かせて、気がつくと執拗なほど見つめている。まるでそうした曲線そのものが引力を有しているかのように。

 「たいくつだね。せめて空がしらむまでは起きてなよ。死体とだきあってたなんてごめんだからさ」
 こちらだって意識のないまま好き放題触られてるなんてごめんだ。

 風が物凄い音を立てて渦巻くのを聞いている。
 父親が死んでから何度孤独の夜を越えただろう。
 浮浪児の仲間たちと身を寄せ合って眠っていても、気がつくと心の殺がれるような感覚が染み込んでいる。かつては手のひらにあった温かみは遠くへ去った。深く暗い井戸を覗き込むような虚無感ばかりが重みを持って胸にあった。
 冬の山の、見慣れぬ白い闇を見つめていると、遠くへ来てしまった、という実感が湧き上がってきた。遠く……遠くへ……見慣れぬ地へ。それは怖ろしくなってくるほど淋しい感覚だった。足元さえままならない、安寧から遥かに離れた、虚空に座っているような心地さえした。

 背中を軽く叩かれ、耳元で囁かれる。「だいじょうぶだよ、なんて言わないけどさ。まあ死んじまうまでは、そばにいてやるよ」

 むっとした。胸の虚ろさを見抜かれたようで。この女に対する第一印象を劣化させてしまうつもりなどさらさらなかった、拘束された自分を弄んだあの姿を忘れることなどできなかった。現にいまも、この女はにたにたと腹の立ってくるような笑みを浮かべているのだ。
 それでもこの女に縋らなければ夜を越せすらできないこともわかっていた。それがなんとも悔しかった。
 捕食者から庇護者へ。ふざけた話だ。害虫なのか益虫なのか、はっきりしてほしい。

 「――、……。――……」

 うとうとしていたかもしれない。
 雪はますます強くなってきていた。
 何気なく見下ろして、ぎょっとした。蜘蛛の脚が半分ほど雪に埋もれていた。ヤマメに眼を向けると、崩れた笑みを浮かべて肩を竦めた。

 「だいじょうぶだって……妖怪なんだから、これくらいでどうにかなるかい。むしろ風にあたんなくて、あったかいくらいだ」
 言ってから、不意になにかに気づいたように眼を虚空に向けて細め、
 「あ……なんだ。いま、なんとなくおまえの言いたいことがわかった気がしたね。眼を見るまえにさ……だからなんだって話だけど」

 なにか落ちてったような気がしたよ。ヤマメはそう続けて微笑んだ。
 というより、眼を見られて言いたいことがわかるほうが不思議だった、キスメにとっては。これまで、意思疎通などできなくて当然だったから。














 人肌はなんとも言えぬ心地良い温かさだった。
 ヤマメは身を捩り、キスメのからだがいい具合に収まるように動かした。隙間風がうまい具合に遮られるようにぼろきれを纏い、けれども、自分の頭だけは剥き出しになっているものだから顔中が熱いように痛かった。
 キスメはなすがままになっていた。けれどふと思い立ってよこしまな気持ちで唇に触れると、思い出したように腕を振るって払い除けるのだ。これだけ近いと、意図も易々と伝わってしまうらしい。

 哀しいほど退屈そうで、いまにも崩れ落ちそうなほど眠そうなのだ。
 眼が細められては見開き、細められては見開く。裸の温かみだけが命綱となる空間のなか、それさえも嵐のような吹雪にいとも容易く吹き飛ばされる。
 ちょっかいを出して、反応が返ってこなければ、心配でならなかった。ここまでくれば意地みたいなものだ。生きて帰してやって、こんな状況をもたらした姿の見えないなにかを嘲笑ってやりたいものだった。そうした思いとは別に、こみあげてくるものがあった。

 自分の巣に無様に引っかかっていた娘。闇雲な抵抗と、燃えるような瞳。一度生還したにもかかわらず、懲りずにもう一度釣瓶とともに落ちてきた向こう見ずな命知らず。
 不思議なやつだと思っていたのに、勇儀のまえから逃げ去ったあとには、その眼にひどく虚ろな諦めが積もっていた。騙されたような気がして、不快なのだ。命知らずの行いは、投げやりな諦めなんかでやっていいものじゃない。
 けれどこの吹雪のなかで、死ぬのか、という問いに、はっきりと首を横に振って応えた。まだ望みはありそうだと思う。望み?……自分でそういうことばを思って苦笑する。あたしはこの娘になにを望んでるんだか。
 まあ、おもしろそうではあるけれど。

 「なあ? キスメ」

 はっきりとしない呼びかけをして、頬を包むように触れた。蝿を追い払うように弾かれた。もう一度触れ、もう一度弾かれた。
 そうしている限りは眠らないだろう。そう思って何度も何度も繰り返していると、呆れられたのか、次第に抵抗が弱まり始めた。

 ぼんやりとした眼つきで、咎めるように見上げてくる。眠気を堪えるように眉根を寄せて、眼を覗き込み返される。自然に喉から笑いがこみあげてきた。やや強引に顎を上げさせて、くっつけているからだの面積をより広めた。
 眼の下に指を這わせた。キスメの眼がより細められる。ほとんど閉じているように見えるほど。意識が頬に添えられた手に移行した瞬間を衝いて、唇に唇を落とした。

 「――、」
 反射的に跳ね上がった腕は予測済みだった。手首を受け止めて、手のひらに手のひらを這わせた。次の瞬間には唇を離していた。

 驚いたような瞳の色。一方で、どこかとっくにわかっていたような色。睨み、身を捩って抜け出そうとする、けれどそんな動きはすぐに冷たい風に震えて落ちた。
 ゆっくりと表情が沈み、問いかける顔つきに変わる。夥しい緊張と冷気に、境界線も防壁も緩んでいた。

 「夜が明けるまで、たいくつだろう? ねむらないようにかまってやるよ。いいじゃない、そんなにひどいことはしないから」

 まあ、あんまり無反応だとすきほうだいされちゃうけれどね。耳元で口づけするように囁いてやる。持ち上げた両腕を盾にからだを遠ざけられる、けれどその外側は冬山の容赦ない吹雪だ。胸元に引き寄せて抱き締めてやった。寒さへの強張りは消えたが、別の強張りに肩が揺れた。
 慈しむように頭を撫でてやると、すうっと緊張が抜け落ちた。が、それもほんの束の間の話、緩慢な動きで胸を押して逃れようとする。無駄だ。種族差に体格差、それらを覆すにはキスメはもうあまりにも弱りすぎている。

 「みじかいあいだに色んなことがあって、つかれちゃったものねえ」

 眼を合わせようとしても避けられる。頬がまえに出てきたので、唇で触れた。ぴくりと胸に置かれた指が震えて、首が竦められ、顔を押されて離された。手のひらを舐めてやった。驚いたように手が離れ、もう片方の手がその手を覆った。
 唇に指で触れた。乾ききり、ひび割れていた。痛々しく血が黒くこびりつき、そこを擦り取ってやると、ピンク色の肉が覗いた。ちりっとした痛みにキスメが顔をしかめたところで、そこに舌を這わせた。

 身を捩り、腕で押される、ささやかな抵抗。今度は少し強引に出てみる。執拗に、何度も舐めた。猫が乳を啜るように、ちろちろと、小さく小さく音を立てて。そこについた唾液さえ、すぐに乾いてしまうほどの大人しさで、少しずつ。
 抵抗が少しずつ弱まる。が、時折ふっと思い出したように強くなる。そうした力の波が愛おしく思われ、ヤマメはキスメの反応そのものを愉しむ。
 ひび割れに、強く舌を捻じ込んでみた。息が詰まったように喉が軋み、胸の肉に爪を立てられて掴まれた。現実味の薄れるなかでの確かな痛み。キスメの眼が細められ、唇が苦しく歪んだ。

 「あは……ごめんね」

 幼子にそうするように、優しく優しく髪を梳いてやる。侮りからくるからかいでもある。キスメは嫌がって首を振り、ヤマメの腕に手を置く、けれど完全に拒絶しきることもできない。
 睨みつける眼に力がない。涙ぐんだ弱々しい瞳。ヤマメにとっては、そそるような表情にしか見えない。まったく、巣にかかった獲物でしかなかったあのときにそうした反応をしてくれたらよかったのに。ヤマメはひどく残念に思う……いまは食べるだけの獲物のように扱うわけにはいかないから。
 けれどヤマメは気づいていなかった、キスメがそうした反応を返すのは、ヤマメが彼女をそういう風に扱っていないからこその結果であった。けれどどのみち、キスメ自身も気づいていない。キスメはいま、この蜘蛛女の思うがままにされていることがひどく悔しくて、けれど、その悔しさもどこか緩やかに霞んでいるようだった。

 ほら、がんばってうごかないと色んなことされちゃうよ。ヤマメはキスメの脇腹のあたりをさすりながら言った。抵抗を促され、キスメは必死でヤマメから遠ざかろうとした。とはいえ本気でそうするにはあまりにも寒すぎた。また温かい懐へ抱き寄せられ、拒みきれなかった。
 キスメの息が細くなった。淡い泡沫のようにヤマメの胸元に留まった。ヤマメはキスメの顎を支え、撫でるようなキスをした。離れては落とし、離れては落とした。抵抗はかたちだけのものからどうにか本気を出そうとするものまで様々だった、けれど実際にヤマメを引き剥がすほど強く力の篭められたものはただひとつとしてなかった。
 熔けるような意識のなか、こんな風になってしまうものかとキスメは困惑した。伝わる肌の感触は怖ろしいほど心地良かった、そういう夢であるかのように。かろうじて流されるなと声を上げる心の一部で、眼を瞑らずにいられるようなものだった。眼を瞑ってしまえばどうなるかわからなかった、どこまでも埋没し、黒い穴のようななかを落ちていくような気がした。

 「とろけちゃって、まあ……かわいいもんだね。ざんねんだよ、そのまま食っちまうことができなくてさ。おまえはつくづく運がいいよ。安心できるじょうきょうにいれて……」

 眼を離せば本当になにをされるかわからない危機感からだろう、もうキスメは顔を逸らしてこなかった。小刻みに半開きの口から漏れる吐息を、何度かにわけて吸いにいった。甘ったるいにおいが鼻を抜け、ヤマメはうっとりと相貌を崩した。



 繰り返し繰り返して、キスメの甘い吐息が耳にこびりつくようになるまで続けた。
 なにやったって――それこそ魂まで犯しにいってももう抵抗もあるまい、と蕩けた表情を見て思った。ここまで恍惚とさせてやれば。さしあたり、そう思うだけでまあ満足だった。無意識に擦りつけてくる太腿のあたりは、仄かに汗ばんでいた。それ以外の水分もあった。蜘蛛のからだとの付け根が、キスメのもので濡れていた。
 それ以上、あんまりはっきりしたこともしないけれど。パルスィに怒られてまで、この娘にそうしたことをしたいとも思わないのだ。

 まあもう少しいじめてやってもばちは当たらないだろう、と思った。キスメ? と含み笑いしながら呼びかけ、水浸しの意識をこちらに向けてやった。

 「く、くっ……こんなになっちゃうのは、初めて?」

 言いながら、太腿に触れてやった。そのままわずかに動かしてやると、秘所が擦れて水音がした。すう、とキスメの眼から霧が晴れ、理性と冷静さが戻ってきた。
 自分がどういう状態にあるか正しく認識する時間が訪れる。この女のまえで、そんな風に拒みきれないでいること……きりがないほど溢れ出していること。かあっと頬が熱くなり、赤く染まった。悔しさと、それを軽々と越える恥辱が眼の奥から染み出した。

 ぽかんと開けた口を震わせて、茫然とヤマメを見上げる顔。その数秒後に、やっと無意識のなかで腰を擦りつけていたことにまで気づくのだ。ヤマメの見ているまえで、うつくしく表情が歪んだ。情欲と理性の狭間でぐらぐらと振れた。
 そうした混乱のなかにあるうちに、ヤマメは彼女の前髪をかきあげ、額に唇を落とした。背中に回した腕に力を篭めて、逃げられないように。

 「――っっ……、!……」

 キスメの全身が強張った。腹のあたりが強く蠢いた。その瞬間、キスメはふわりと軽く、よぎるような速度で、けれども確実に絶頂を迎えたのだった。

 「……ああ、なんだい。そこまで追い詰めるつもりはなかったのに。気をやっちゃったのかえ?」

 気絶――できたら――楽だっただろう。キスメは荒く息をつきながらも、そうしたことさえ許されないまま愕然と余韻に浸った。この化け物の……腕のなかで。認識すると、悔しさと連結したなにか抑えがたい感覚に、背から腹にかけてぞくぞくと痙攣した。
 ヤマメは困ったように頬を掻いた。
 (わかりにくい娘だよ、ほんっっっっとに。兆候もなくいきなり……)



 キスメはしばらく俯いていた。ぽろぽろと涙を零し始め、が、そうした顔を見られるまえにぐいぐいと手の甲で顔をぬぐった。後から後から出てくるので何度もそうしなければならなかった。
 やがて、やっと落ち着いてくると――まだ夜の明ける気配もなかった――ぐっと顎を持ち上げ、恥辱に満ちた表情のままヤマメを睨んだ。今度こそ本当に睨みつける眼だった。

 からかってやろうとヤマメが思うまえに、腕が振るわれていた。キスメの小さな握り拳が、ヤマメの頬を力なく殴りつけた。大して痛くなかったので、ヤマメは別に怒る気もなくキスメを見下ろした。
 予想外の二撃目が飛んできた。今度は充分に勢いの乗った拳だった。ごつん、とひどい音がして、ヤマメの顔が回った。

 「……いたい」

 もうやだほんとうにこの娘。うんざりしてキスメを見ると、なんと気を失って、ヤマメの胸に飛び込んできたのだった。
 色々な感情が飽和状態から爆発したらしかった。
 「……はあ」
 ヤマメは溜息をついた。
 寝たら死ぬなどというのは嘘っぱちの迷信だ。要は起きられなくなるのがまずいだけだ。寝息は健やかで、叩けば問題なく起きそうだった。あたしがずっと見張ってればいいか、とヤマメは思い、ぼろきれを剥いで頭だけ外に出した。

 白い闇に染まった夜空。パルスィはまだあたしたちを探しているだろうか、と心配した。















 一晩明けた山は白銀色に染まっていた。
 パルスィは黒い青空の下で地平線を見つめていた。雲が自分よりも下で流れている高度。昨日から、どれだけ低空で飛び回ってもキスメを見つけられない。それどころか、ヤマメがどこにいるのかすらわからなくなってしまっていた。吹雪の夜を越え、途方に暮れるような気持ちだけが加速し続けていた。
 「どこにいるのよ……」
 親指の爪を噛みながら目線を走らせ続けた。ひょっとしたら、もう……そんな最悪の想像ばかりが脳を支配する。常識的に考えて、あれほどの吹雪、あんなにちっちゃな女の子が夜を越せるとは思えない。パルスィは万に一つの可能性を探している。そうした捜索が正しく終えられた試しがなくとも。

 そこで不意に意志に反してからだが折り曲げられた。口許を手で覆い、咳き込む。濁った息が手のひらに溜まる。間を置かずに二度。さらに一……二……三度。
 思考の空白。最初はなにも考えずにスルーしようとした。が、そこから飛び去りかけていきなり気づいた。そのまま地面に降り立ち、雪原を見渡した。またからだが折れ曲がり、堪え難い咳を喉の奥からした。

 「ヤマメ……!?」

 能力の呼びかけ。腹の奥に気持ち悪さがあった。肺を病気にさせられていた。
 走り出し、より強く気持ち悪くなる方角へ向かった。次第に眩暈がし始めていた。手足が痺れ、吐き気を催した。心臓が不規則に脈打った。

 「ヤマメ!」
 叫び、探した。探し続けて、ようやく見つけた。

 ヤマメはぼろきれを纏い、人型の擬態だけを雪の地面から覗かせていた、正真正銘の人間のように。すぐになにかを抱いているとわかった。なにを抱いているのかもわかった。まさに奇跡だと思った。
 「パルパル?……ああ、ほんとにきてくれるなんて。しょうじきなとこ、全然きたいしちゃいなかったのに、ほんとにもうパルパルってやつは――」
 「キスメは!?」
 「……む。あたしよりこのちっちゃな小娘かえ? 妬ましい」

 ぼろきれを剥ぐと、裸の小さな背中が見えた。穏やかに上下していた胸のあたりが、吹き込む外気にぶるりと震えた。ややあって、キスメの瞼がひどく重そうに開かれた。
 ひどく驚いたようにパルスィは言った。「ヤマメ、あんた――」

 ヤマメはうんざりして溜息をついた。まあ、なんといっても状況がまずい。そのままだと間違いなく凍死していたとはいえ、裸で抱き合って。これでもそうとう我慢したほうなんだよ、パルパル? 餌が眼のまえにぶらさげられてたのにさ、ひといきに飲みこみたいところをぐっと抑えて。と言ったところで納得してもらえるとは思わなかった、普段の言動が言動だったから。またぶん殴られる羽目になるんだろう、キスメにも散々殴られて厭になっているというのに。パルスィに殴られるのは別に構わないが、なにより自分の意図しない怒りを導いてしまうのが不快なのだ。わざと怒らせて殴らせるように仕向けるのとは違うのである。
 ヤマメは心底疲れ切って、なだめるように言った。「ねえ、パルパル。かんちがいしないでほしいんだけど――」

 「お疲れ様。ヤマメ」
 パルスィはヤマメのことばよりも先に、ふわりと羽根のような微笑を浮かべ、彼女の肘にそっと触れて言っていた。
 「……え」

 まったく予測しなかったねぎらいのことばに、ヤマメはそれこそ殴られたように口を詰まらせた。困りきったように頬を掻き、ことばの意味を飲み込むまでぼんやりした目線を宙に向けていた。が、やがてパルスィが状況をきちんと正しく把握してくれたのだと気がつくと、ほんのりと頬を染めて俯いた。
 「……どうしてそんなこと言うの?」
 パルスィはぴしゃりと言った。「あんたがそういうことばに値する行いをしたからでしょうが」

 ヤマメはひどく照れ臭がって、キスメを抱き締める腕にいっそう力を篭めた。



 「自力で出れる?」
 「ごめんね、パルパル。ちょっと雪が重くてむり。疲れてるからさあ。ひとねむりしたら、なんともないと思うんだけど」
 「雪だけ吹っ飛ばすわ。あんまり動かないでね、細かなコントロールとか、苦手だから」
 「あは、ありがとお。でもさあ、ねえ、パルパル? 除雪用の触手なんてきいたこともないよ。そういうのってもっとこう、いかがわしいことにつかうもんだろ? ああもったいない……」
 「うるさい」

 パルスィはヤマメから二歩退き、外気の冷たさ以上に心を滾らせて呟いた。
 「……妬ましい」

 グリーンアイド・モンスターの百の触手が、濁流のように雪を薙ぎ払い始めた。



 結局のところ、どういう事態だったのか。人里へ向かう道すがら、パルスィが訊くと、ヤマメは困りながら話した。勇儀のことに話が及ぶと、パルスィは眉根を寄せて眼を伏せた。ありきたりな復讐譚、殺意の連鎖。
 「ねえ、パルパル。じぶんのせいだなんて思わないことだよ」パルスィの思考を読み、ヤマメは先に言った。「くだらない……こんなのはどこにでもあって、誰にでもあることだ。誰もじぶんのとこで止められなかったんだから、責任なんてのは誰にもおしつけられないって。でも、よかったじゃない。この子のことはこの子のとこで止まったんだから」うっすらと眼を開いたままぐったりとしているキスメを抱きながら続けた。「まあ、もう二度とこようとはおもわないだろ、キスメも……たぶんだけど」

 パルスィは蜘蛛のからだに座っていた。キスメに自分の服を着せ、裸同然で、人型の後ろで、軽く背を逸らして黒い青空を視界に入れながら。ひどく乾いた、寒々しい風が吹き抜け、静かに眼をしばたたかせた。
 虚ろな生。そんなつもりはなくとも、怒りは誰かに感染していく。いまだ手のひらに残る血のぬめった感触に、パルスィはそのことを強く感じ続けた。ありあまる嫉妬から身を滅ぼして、妖怪になり、そこからどうする? また何度でも身を滅ぼして……

 立ち上がり、ヤマメの後ろからキスメを見下ろした。黒い瞳は霞んでいたが、確かにこちらを向いていた。
 「私の声が聞こえる?」
 ヤマメが代わりに答える。「聞こえてるみたいだし、わかってるみたいだよ」

 パルスィ自身はキスメの眼からなにも受け取れなかったが、ヤマメのことばを信じることにして言った。
 「あなたには信じられないことだろうけど、私はもともと人間だった。あなたと同じように」鈍緑の瞳がかすかに瞬いた。「自分勝手な怒りから崩れ落ちて……妖怪になった。あなたも見た、あんな出来損ないの姿に……熔けて。そうして自分の起源を壊して、そこから腐ってくみたいに一族みんながんじがらめになって消滅してくのを、ただ眺めてた。怒りにはそういう力がある。人間らしい生を壊して、自分を自分でなくする。実のところ、私は妖怪でさえないのかもしれない。妖怪よりも人間よりももっとおぞましい……なにか」ことばにするのがあまりにも辛く、そこでことばを途切れさせた。が、無理矢理押し出すようにしてどうにか先へ続けた。「あなたの怒りに……もし……少しでも留めておける余白があったら、そこで留まっておきなさい。人間は人間らしく生きなさい、せっかく人間として生まれてきたんだから。これはせめてもの……先人からの忠告」

 それ以上はなにも言えなかった。が、それだけのことばでさえ中身が空っぽの張りぼてでしかないように思えた。なんの実も篭もっていない虚ろな代物のように。自分がひどく無意味な存在であるかのように思え、パルスィは顔を背けた。
 罪だけを映し出す鏡と向かい合ったような心地だけが残った。



 数日前と同じように、キスメのからだが釣瓶に収まり、糸をくくりつけられて虚空へ晒された。
 すっかり真っ白な世界となった眼下へ。キスメは人里を見下ろし、顔を転じて上のふたりを見やった。ヤマメとパルスィの姿を、最初の闇夜とは違い、ひどく静かな心地とともに見ていることに気づいた。
 それはただ単に弱った肉体のもたらす幻覚かもしれなかった。取り憑かれるように持ち帰ってきた、勇儀に手渡されたこの刀のせいかもしれなかった。

 結局また、生き延びた。同じことが二度も続けば偶然ではありえない。自分はつまるところ、あのふたりに食われなかったのだと。食われても仕方のないところへ飛び込んでおきながら。冬の強い風を感じながら、キスメはそうした現実が示す意味を考え続けた。現実とは思えない現実を何度も体験したせいで、精神はどこか、膿んでいるようだった。




















 『3 広角式』










 滝の横の巣には普段、あまり近づかない。もともと他の住処は別にあって、キスメが二度もかかったあそこは、気紛れにつくった暇潰しの一品でしかないからだ。そもそもキスメ以外に獲物がかかった試しなんかなくて、けれど、滝の飛沫がかかって遠目からでもきらきら光って見えるので、まあ、お気に入りの場所ではあった。
 そんな気はなかったのに、気がつくとあれから、最低でも日に一度は見に行くようになっている自分がいた。悪いときには二度も、三度も見に行った。その巣に誰もかかっていないことを見届けると、なんだかかすかに、がっくりきている部分があることが自分でわかっていた。

 だってまたキスメが引っかかっていて、放っておいたまま飢え死にしていたなんてのは、夢見が悪いもの。そう思ってはみるものの、二度とくることはないだろうとヤマメの聡明な一部はきちんと認識していたので、なんだかむなしいのだ。
 妙な感じで因縁がついてしまったので、自分の気持ちの対処に困る。忘れても良かったが、なんだか勿体ない気がした。すっかり雪山になってしまったあたりをがしがしと脚を動かして巡りながら、ヤマメはまたあの巣を目指していった。



 親を亡くし、家を失い――そうして街の片隅をさまよう子らをなんとかしようと働きかける組合があり、利口者からは偽善と嘲られながらも、心ある者たちのささやかな手はささやかな役割を果たしていた。
 以前から頻繁に手伝うようになっていた呉服商の女から、キスメは一着の着物を選べる権利を受け取った。それはこの思春期を迎える娘がいつまでも死者のような白装束を纏っていることへの、女の一種の義憤からもたらされるものだったが、キスメは代わりに黒いかんざしを選んだ。女主人は困惑しながらも、キスメを養女として迎え入れることを真剣に検討する程度には彼女のことを気に入っていたので、いっそう上等な、けれどもシンプルな玉簪を選んでやった。

 「近頃は本当に……なにかよくないものが入り込んでいるようだからね」かんざしを手渡しながら女は言った。「お向かいさんの実家でも、おかしな風に亡くなったひとが出たようだよ。おまえも気をつけるんだよ。できればこいつが、魔除けになってくれますように。いいかい、もっとウチに頼ってきてもいいんだからね。しゃべれなくたって、私らはおまえのことを心配してるんだからね」

 キスメは頷いた。が、内心、このかんざしが魔除けになってしまうのは困ると思ってもいた。



 空っぽの蜘蛛の巣。雪が結晶のように輝き、凍りついた滝の真横、差し込む光がパウダーのようにきらめいている。ヤマメは溜息をついて脚を畳んだ。キスメが引っかかっていないことよりも、引っかかっていないことで少しがっくりする自分の心そのものが鬱陶しかった。
 まったく、人騒がせなやつだよ。すっかり不機嫌になって愚痴を漏らし、パルスィのところへでも行こうかと思う。が、そのとき突然、巣がみしりとしなった。

 「ひゃあっ」

 またもや例の釣瓶が高高度からダイヴしてきていた。唖然として振り返ると、ぼろきれを幾重にも纏ってすっかり着膨れしてしまったキスメが釣瓶のなかから立ち上がり、蜘蛛の糸に足を乗せているところだった。

 「ま、また……きたのかえ!?」

 さすがにヤマメもびっくりしてしまい、ぽかんと口を開けてキスメを見つめた。キスメはむっつりと表情を引き締めたまま、粘性のない縦糸を軽やかに伝い――ほんの一度やったきりなのにすっかり慣れきったような様子だった――ほとんど跳ぶようにヤマメの傍までやってきた。そうしてその勢いを弱めないまま蜘蛛の脚を駆け登り、人型の部位のまえに立ってヤマメを見下ろした。
 無愛想に、目の前に手を差し出された。黒いシンプルなかんざしが鷲掴みにされていた。
 困惑してキスメを見ると、ぐいと胸元にかんざしを押しつけられ、無理矢理受け取らされた。

 「……なんだい……もしかしてお礼のつもりなのかえ?」

 むすっとしたまま反応が返ってこない。眼は硬い光を宿してひどく読みにくい。しゃべれないのだから反応で意図を推測するしかないのに、キスメがそんな風だからヤマメは溜息をついて頬を掻く。
 そもそも礼という発想に行き着くことがヤマメには意外だ。まあ確かに結果だけみればキスメの命を救ってやったも同然なのだが、あの夜、弄繰り回してやって殴られたのに。そもそも人間と妖怪、一度切れた縁を戻す必要性などなくて当然。放っておいても誰もなにも文句のひとつも言わないものを、まあ義理堅い娘というか。

 くいと顎をしゃくられ、これはさっさとつけろと促されているのか。なんとなく釈然としないながら、ヤマメは紐で縛った髪にかんざしを差し入れた。
 鏡などないので自分の姿が自分で見れない。似合ってるんだかどうか。が、キスメはこくんとひとつ頷くと、ぱっとヤマメのからだから身を躍らせて蜘蛛の巣に跳び下りた。

 「お……おいこら。キスメ、ちょっ」

 とん、とん、とん、と軽快なステップであれよあれよという間に巣の外へ。獲物を縛りつけるための糸がすっかり涙目。
 しっかりした地面に足をつけると、キスメはそこでヤマメに向き直った。右眼の下に人差し指を添えて、ちっちゃな舌を思いっきり唇のあいだから出してみせる。ことばなどなくてもはっきり伝わる、明確すぎるほど明確なボディー・ランゲージ。あかんべえ。

 このやろォ。ヤマメがいらっとくるなかでキスメはぷいとそっぽを向き、軽やかな身のこなしで帰ってゆく。ヤマメは後手に回ったままなにひとつ有効な手を打てていない。それが癪に障り、病気にでもしてやろうかと身構える。そこで蜘蛛の巣の中心にかかったままの釣瓶が眼に入った。

 「まちなよ、この悪ガキ。キスメ!」

 声を上げるとこちらを向く。ちょこんと首を傾げてみせながらも、なんとも不敵な無表情。二度の邂逅に一夜の触れ合いで、すっかり怖れが削げ落ちてしまっている。むかっときながら、ヤマメは脚の一本を動かし、釣瓶を巣から弾き上げた。鮮やかな弧を描いた釣瓶はヤマメのヒトガタのところに落ちてくる。指で取っ手を引っ掛けてくるくると回す。

 「あたしに礼をしたってことは、パルパルにもしなきゃならんってわけだ」
 当然の道理。キスメは黙って――いつも黙っているが――先を促す。
 「そしたらまた……ここにこなきゃならないだろうが。ええ?」

 言いながら、釣瓶を思いっきり投げつける。狙い違わずキスメの顔に命中。仰け反って仰向けに倒れ、釣瓶はその頭上に落ちる。
 ヤマメは金切り声で心底愉快そうに笑う。「まだすくなくとももう一度、こいつが要るだろうが! こいつがなきゃ、またさいしょみたいにこのヤマメさんに食われかけちまうだろうが! 遠慮せずにもってかえりなよ、この――この――」

 高らかな笑い声が飽和してしまい、最後まで言い切れなかった。腹を抱え、全身を捩りながらひたすら笑う。立ち上がったキスメは額に青筋を浮かべながら釣瓶を掴み、ついでにかき集めた雪玉を手にする。見事なフォームで投球された雪玉はヤマメの顔面にヒットした。

 眼に入った雪をごしごしと拭うと、もう、キスメの姿は消え失せていた。釣瓶ももちろん、そこにはなかった。



 蜘蛛の巣を介した二度の体験はキスメに多くの贈り物をしていた。得がたい経験というかたちで、思春期の少女に貴重な成長をもたらした。失望、臨死、発見、生存。本人の意思がどうあれ、人間という名でよく知られる混沌の塊がそうした機会を易々と見逃すはずもなく、キスメの内なる一部はそれらを着実に捉えて血肉としていた。
 二度とも釣瓶のなかに収まって人里へ送り返されたキスメは、今度は自分の足で雪の道を下り、障気に満ちた山を早々と背にしていた。場所によっては膝まで埋まる積雪をまるで苦にせず、釣瓶を引き摺りながらも鹿のような軽快さで駆け抜けていった。

 同じような景色が続くなかでもリング・ワンデリングを起こすこともなく、呪術師めいた勘のよさと観察力で突き進んでいた。なによりその姿には怖れというものがまるで感じられなかった。もはや蜘蛛の巣にかかろうとも釣瓶とともに落下しようともヤマメをまえにしようとも、一度経験したことならもう何度でも耐えられ、乗り越えられる。そうした信念が彼女の精神を岩のように堅牢なものにしていた。

 ヤマメは見晴らしの良いところで眼を凝らし、山を下りていくキスメの姿を見つめていた。その背中からそうした堅牢さを感じ取っていた。そういう風に成長するものか、と瞠目する思いがあった。ちっぽけで月並みなようにしか思えなかった小娘が……
 境界を潜り抜け、実際に生還してみせた人間。後退のネジを外した向こう見ずで怖れ知らずの女。キスメはまさにそうした人種の雛形に成り果てていた。



 ヤマメは巣から降り、住処へと帰る。なにか妙な満足感を覚えながら、その足取りはひどく軽かった。……少なくともあと一度は、あの小憎たらしいおんなの子がやってくるわけだ! そう思うと、腹の底から妙な感覚が湧き上がってくるのだ。
 (なんともめんどくさい話だよ、まったく)

 思いながらも、気がつくと、けらけらと声を上げて笑い出しているのだった。















 喋れないというハンデ以上に、キスメの発している存在感は浮浪児たちのあいだで確かな地位を獲得するようになっていた。
 仲間たちからしてみれば、一晩挟んでどこからともなく帰ってきた彼女の眼、以前は暗い衝動に満ちていた光が、いまやほとんど妖怪めいて輝いていることに気づかないわけにはいかなかった。それは二度の生死の境を潜り抜けて初めて得られる類のものだった。キスメ自身は認めてすらいなかったが、曲がりなりにも星熊勇儀と――鬼の四天王と真正面から対峙したことで形成された力強さだった。

 キスメは以前よりも仲間たちに溶け込んで時を過ごせるようになった。ことばを発せないことが、不気味さから、神聖さへと変異していた。どこへいても当然のように受け入れられるようになった。
 そうしたなかで、呉服商の女が彼女を養女に迎え入れようとしている――という噂についても、浮浪児たちは自分のことのようにキスメを祝福するのだった。キスメ自身は気の進まないように首を横に振るだけだとしても。



 仲間たちがキスメの周りに集まってきていた。そうして無言のまま手をひらひらさせてついてこいと示した。キスメは頷いてついていった。
 まじない師という触れ込みで街の片隅に住みついている老人が、橋の暗がりに身を隠すようにして座り込んでいた。痩せこけた頬を憂鬱に歪ませ、じっと自分の膝を見つめていた。子供らには格好のからかい相手で、普段は老人もそういう子らの相手を嬉々としてするのだが、その日は、まるで敗残兵のようにキスメが傍に行っても無反応だった。
 子のひとりがキスメを示しながら老人に言った。「なあ、爺さんよ。こいつにもおんなじこと言えるのかよ、なあ?」

 老人はそこでようやく頷いた。
 「当たりまえだ。おれはこの眼で見たこと以外は口にしないんだ」
 「嘘つけよ。だって――」
 「本当だ。おれはこの眼で確かに見たんだ」キスメを見て――「おまえの眼はまるで罪を映し出す鏡のようだが、そういうのを前にしたっておれには言えるんだ。おれは確かに、あの仲のいい家族をめちゃくちゃに殺した下手人を見たんだ」

 老人は数日前に起きた殺しのことを言っていた。このところ、人里で断続的に繰り返されている変死。呉服商の女も気をつけろと言っていたし、キスメ自身、二度目に蜘蛛の巣に落ちる前日、現場を眼にしていた。

 「そうだ、おれは隠形の術を知ってたからな、見つからなかったんだ。見つかってたら、巻き添いを喰らってたに違いない。けど一目見ただけでおれはもう、まるで心ノ臓を鷲掴みされたみたいに汗だくになっちまった。あんなに怖ろしい経験は生まれて初めてだ。しばらくはどこにも行きたくないんだ」
 「でたらめばっかり言うぜ、この爺さんは。まじないなんてできやしないくせにさ」
 「できるって言ったらできるんだよ。三十年もまえの話になるか、おれは大陸に――」
 「その話はいいんだよ、耳にタコができるくらい聞かされてるんだから。それよりもいまのことを話せよ」
 「鬼だ。あれは間違いない、あの家から出てきたのは血塗れの鬼だったんだ」

 キスメは顔をしかめた。

 「本当だ、疑うんじゃない。角があった、おれは確かに見たんだ」老人は人差し指を一本立て、角を模して額につけてみせた。「やつの腕はそれはもう真っ赤だった。いや、真っ黒だった。とにかく血の色だったんだ、あの家族の血に違いない。このところずっと続いてる殺しも、みんなやつの仕業なんじゃないか。もちろん断言なんてできないが、でも、それ以外なにが考えられるっていうんだ? なあ、傷女よ。おまえは信じてくれるか? いや、信じてくれなくてもいいさ、なんといっても事実なんだからな」

 キスメは瞼を閉じ、その裏側の闇を見つめた。勇儀の哀しい眼はいまだ網膜に焼きついていた。その腹の傷も。
 直観を信じるなら……だが……この老人のことばは……それでも……



 ヤマメは言った。「おかえり、勇姉」

 勇儀は顔を上げた。凍りついた沢筋の上に巨大な蜘蛛のシルエット、さらに見上げるとヤマメが妙に機嫌の良さそうな笑みを浮かべてこちらを見下ろしてきていた。

 「ちかごろよく出てくね。ちょっとまえまでは、あの剣の丘にこもりっきりだったのに。また是非曲直庁の小役人どもがきてたのかえ?」
 「ああ。どうにも話がすっきりしなくて、こうして何度も交渉する羽目になってる。こういうのは苦手なんだがね、正直……やつらの話はどうにも要領を得ない。もったいぶって……」
 「話がついたらすぐに地底へ?」
 「……どうしようかね。おまえさんはどうする?」
 ヤマメは頬を掻いた。「パルパルはいくとおもうけれど。あんたがいくんならさ。都にすませてもらえるって、ほんとうかえ?」
 「除け者にはしないさ」勇儀は頷いた。「忌み嫌われた者たちの境遇はみんな一緒さ。……鬼だけ都に住んで、その他はどこへでもなんて、道理に合わん」
 「あたしは都ぐらしは性にあわないからねえ。もしかしたら遠慮させてもらうかもねえ」

 勇儀は意外そうな顔をしてヤマメを見た。
 「それはつまり……地底へは下りないと?」
 「どうしようか」
 「おまえさんがそうしたいんならそうすればいいさ」そこで曖昧に微笑んだ。「私はてっきり、パルスィについていくとばかり思っていたけれど」
 「うん……」

 歯切れの悪い答え。勇儀は首を傾げながらも言う。「まだ話がまとまるまでには時間がかかりそうだ。なにせ回りくどい連中だからな。おまえさんはおまえさんで、ゆっくり考えておけばいいさ」















 いまだ下手人の足跡も掴めない連続殺人に、有志を募って結成した自警団が人里を警邏するようになった。鬼の仕業だとまことしやかに囁かれる声をまともに信じる者はいなかったが、それでも、青年たちの手には柊の枝に刺した鰯の頭が握られていた。彼らを見ると、キスメは父親のことを思い出さずにはいられなかった。一人娘の眼から見ても、臆病者だと罵られ続けた挙句女房にも逃げられた、あまりにも孤独な人生だった。彼の勇気を眼にすることができたのは結局、彼を返り討ちにした星熊勇儀ひとりだけだった。
 「少しでも怪しいやつを見つけたらすぐにおれたちを呼べよ」浮浪児たちの輪に向かって青年のひとりが言った。「おまえらときたらすぐ自分たちだけでなんとかしようとするんだからな。悪ガキどもめ。少しは大人を信頼しろっていうんだ」
 「信頼できないからこんなとこでうろうろしてんだよ、役立たず!」
 「それはそうだろうけどな、なにごとも日に日に良くなるってもんだ! おまえらなんかすぐに全員なんとかしてやるからな!」

 が、ひとりで出歩くのは控えよと言われたところで、キスメは少なくとももう一度山に行かねばならなかった。パルスィに礼をしなければならないのだ。妖怪に貸しをつくったまま放置しておくのは、あらゆる寓話で悲劇の温床となるものだ。なによりキスメ自身の気が済まなかったし、ヤマメに挑発されたこともある。
 パルスィに関して、ヤマメよりも恩は大きいと考えていた。なにせヤマメには一度散々弄ばれたのに引き換え、パルスィはそうしたときに助けてくれたのだから。それは要するに、ヤマメに贈ったかんざしよりも良き返しをしなければならないということだった。

 とはいえ――家も家族も財産もない身で、かんざし以上の贈り物ができるかといえば、それは蓬莱の玉の枝以上の難題だった。キスメはすっかり困ってしまい、物思いにふけているところを仲間たちに奇妙な眼で見られることも多くなった。
 寝床に隠してある巨大な釣瓶を見つめながら、あの蜘蛛女の癪に障る笑い声を思い返すのだ。……なんとかして彼女を見返すためにも、生半可なものを贈るわけにはいかないのだが。考えれば考えるほど、答えが見つかるようには思えないのだった。



 沢に張った氷はその下の水の流れを映し、夜空のように黒く見えた。パルスィは雪を踏んで陽溜りを横切り、氷の上にそっと立った。稲妻が走ったようにぴしりとひび割れ、崩壊する直前で静止した。そこで静寂を割るように声が響いた。
 「あぶないよ、パルパル。飛ばないまんまでそんなことするとさ。なにやってるの?」
 振り向くとヤマメの巨体が樹氷を押し分けてやってくるところだった。パルスィはまた足元の氷を見下ろした。

 「川を見てないと落ち着かないのよ。自分が何者かってことさえときどき忘れる。だって私はこれで――」足の裏で氷を軽く叩いた。「――妖怪になったんだから」
 「地底に川はあるかねえ」
 「なんの話?」
 「きいてないのかえ? 勇姉が地底のどうほうにきてくれって誘われてるの」
 「……初耳」

 突き出た岩に積もった雪を払い、そこに座った。空を見上げると、雲ひとつない黒い青空、凍った枝の合間を縫って陽光がきらきらと降りてきていた。気温が上がっているのか、そこかしこで氷のひび割れる音が聞こえてきた。

 「まあ、あたしもこのまえ聞いたばっかだけど。パルパルはどうするのかえ? もっともいちど踏み入っちまったら……そうかんたんには出てこられなくなっちゃうだろうけど」

 パルスィはその問いには答えを用意できなかった。どこへ行っても、どこへ属しても、最終的には同じ結果になるのではないかと思っていた。人間だった頃と同じく……身を滅ぼすほどの怒りに取り憑かれ、周りの関係性をずたずたにしてなにもかも台無しにしてしまうのではないかと。
 それは根っこに染みついた恐怖だった。こうして懐いた猫のように時折訊ねてくるヤマメについても、なにかと自分に心配りをしてくれる勇儀にしても、いつかはそうじゃなくなると自分に言い聞かせている一部があった。

 わかってるわよ、と思う。自分の性質については、うんざりするほど。あえて明るい調子でパルスィは答える。「行ってもいいし、行かなくてもいい。もう少し考えてみることにするわ。でもやっぱり姐さんについてくことになると思う」
 「ふうん。だったらさ、しばらく待っててみておくれよ。勇姉の話がいつまとまるかわからないけどさ、それとはべつに、なんかいいことありそうだよ」
 「え?」

 パルスィは振り向き、ヤマメを見つめた。いつも張りつけている薄っぺらな笑みとは違う、なにかひどく楽しんでいるかのような穏やかな微笑を浮かべていた。
 そこで、彼女のヒトガタ、頭の後ろでひとつに束ねている髪に、黒いかんざしが刺してあることに気づいた。パルスィは自分の髪に手をやって訊ねた。「どうしたの? それ」
 「似合うかえ?」

 なんとなく反射的に答えることがよくないことに思え、パルスィはいっとき沈黙し、じっくりと考えながらことばをまとめた。常日頃の黒茶系の装束と、そのかんざしの色は、どこも衝突することなく抑え目ながらも調和していた。そもそも蜘蛛の巨体にヒトガタという組み合わせに調和もなにもないのだが、それを差し引けば、パルスィの眼から見ても不自然なところはなかった。
 ヤマメは黒の色が似合う女だ。病的なほど蒼白い皮膚の色にしても、パルスィのよりは彩度の強い金髪にしても、黒はそれらをどんな色よりも引き立てる役目を果たす。例えば自分にしろ勇儀にしろ、同じ金髪といえどヤマメほど黒は調和しないだろうと思えた。
 パルスィはしばらくして言った。「黒が似合うのはいい女なんだってさ」

 直接的な答えとはとても言えなかったが、ヤマメは相好を崩した。



 「たまに思う。生まれたときから妖怪だったら良かったのに、なんて」
 パルスィは言った。その眼はヤマメではなく、己の手を見ていた。ヤマメは鼻を鳴らした。

 「パルパルがそんなことをいうのは初めてきくね。どうかしたかえ?」
 「別に。ただあんたとはもっと早くに知り合えてたらと思っただけよ」溜息をひとつ。「あんたは……余計な気を遣わなくて済む女だから。って言うとなんかないがしろにしてるみたいで厭ね、ごめんなさい。いまの私が……なんていうのかな……余計な記憶があるせいであんたとなんの打算もなしに付き合えないってことで」

 もともと人間だったからね、こういう姿がどうしても怖いのよ。蜘蛛の脚に軽く拳の面を打ちつけ、肩を竦めてみせた。かんざしが似合うかどうかについて、無意識のうちにヤマメの腰から下を除外していたことに気づいたのだ。そこもまたヤマメの一部であるのに。
 そこには自らの緑眼の魔物を認めたがらない心理が作用していたことにも、パルスィの聡明な一部は気づいていた。人間から妖怪へと化したのは、そうして変貌した自らに根ざすものだというのに。いまの自分はその魔物が人間の姿に化けているに過ぎない。心を司る妖怪の本体は、むしろ――

 「人間でなかったらよかったとおもう?」とヤマメ。
 「どうかな……いまは自分でもよくわからない」
 「妖怪なんかにならなきゃよかったって?」
 「半端者って自覚はある」
 「ねえ、パルスィ」

 ヤマメは声を硬く尖らせてパルスィを見つめた。パルスィは視線に強いものを感じながらも彼女を見上げた。ヤマメは厳しく眉根を寄せ、紅金色の眼に石のような輝きを宿していた。

 「あんたがそんなことを言うのがなんとなくわかる気がするよ。あんたは人間から妖怪になった、変り種のなかでもとびっきりの希少種だ。そういうのって滅多にあるもんじゃないし、それに……なにより……心のせいで変質したおかげでずうっと人間の心に囚われてる。心がふたつあるようなもんだ」
 蜘蛛のからだが傾けられ、ヒトガタが降りてくる。パルスィの眼の前で少女が首を傾げる。
 「あんたは他人に嫉妬はできるけど、自分には嫉妬できない。人間だった頃の自分にも、いま、妖怪の自分にも。あんたは自分が何者か、はっきりと知ってる女だ。しかもそれでもって、自分をひどく冷静に見つめられる女だ。いや、冷静とは違うね。あんたは他人に嫉妬して、他人を遥か上に見てしまう一方で、自分をどこまでも下に貶める。でもさあ、ねえ、それって果てしないことだよ」

 パルスィは一歩退き、軽く俯く。居心地の悪さを感じるのはその指摘が明白なものだからだ。眼をしばたたかせると、川のせせらぎが耳に聞こえる。水の流れに身を投じたそのときから鼓膜に張りつき、離れてくれない一定のリズム。

 「私ってそんなにわかりやすい生き方してる?」
 「あたしが見たパルスィの話をしてるだけだよ。あんたが見てるパルスィはどうだか知らない」ヤマメは両腕を広げてみせる。「ねえ、あたしらの遠い始祖の寓話は知ってるかえ? アルケニーの……地球の裏側みたく遠いところの話だけどさ」声の調子を変えて言う。「機織りだった彼女の……それこそ神々よりもずっと腕の立つ織り手だった女の。かいつまんで言えば、女神と織物勝負して……それはもう素晴らしい作品をつくってみせたのに、女神はその出来映えなんか目もくれずに引き裂いてしまったたんだ。どうしてかわかる? その作品が『不敬な』題材を描いたものだったからだよ」
 そこでヤマメの表情が変わる。常の、眼のまえにあるものを無条件に嘲る薄っぺらな笑みが浮かぶ。
 「神々どもに中指突き立てにいったのさ……でも、そんなのって大したことじゃない。だって全部事実だったんだから。連中はいつも事実を突きつけられて激昂する。寓話の続きはまだあって、自分の過ちを認めた彼女が自死するところまで続くんだけど、まあそれこそ作り話だねえ。歴史はいつでも勝ったやつが都合よく書くからね。自死したとすれば、せっかくつくったもんの出来映えに見向きもされないで上っ面だけ捉えられた、虚しさと悔しさからだろうね。
 あたしらの始祖は人間よりもずうっと先に表現の自由とかいうのを行使してみせたのさ。それもあの思い上がった役立たずのカミサマ連中に向かって。自由が明文化された法律みたいなので保障されてりゃ言うことないけどね、保障されてなくったって自由は自由だ」
 ヤマメの眼には病気染みた光がある。が、病を操るヤマメは彼女自身決して病に陥ることなどない。パルスィはその光に視線を引きつけられながら口を開く。「そう」
 「そうだよ」
 「それで?」
 「あたしはそのことを誇りに思ってる。そう、生まれ持った種族の誇りってやつ」ヤマメは拳で自らの胸を叩く。「肉の裏側をそういう血潮が流れてることに支えられてる。土蜘蛛でなくとも、そういう誇りを抱いてる連中はいくらでもいる。昔ながらの血脈持ちの妖怪なんかは特に」パルスィの胸に指を突きつける。「人間はどーお? あれだけ腐るほど数がいるのに、そういう誇りあるエピソードのひとつもないのかえ? あんたの血肉には川の流れ以外のなにものも残っていないのかえ?」

 パルスィは眼を閉じ、束の間、暗闇を見据えて言う――「……きっとあった」
 「あんたは元人間の妖怪だ。それでふたつの種族の悪いところを余すところなく味わってると言えなくもないけど、その逆のことだって言える。あんたは人間であったことに誇りを持つこともできれば、妖怪であることに胸を張ることもできる。生まれながらの妖怪のあたしとしては、人間に失望以外のなにも持ってない人間が妖怪になることだけは我慢ならないね。だってそんなやつ、妖怪になったところで、勝手に妖怪に失望してぐだぐだと文句を抜かすだけに決まってるんだ。まったく忌々しい……そんなやつを同族としてみなしたくもない。でもあんたは――嫉妬ってのは――失望とは違うだろ?」

 ヤマメはどす黒く笑みを深めて言う。
 「あんたは人間の心を持っているうえに妖怪の心まで持ってる。境界を越えて、そのどちらの側にも立つことができる。妬ましいことだよ、それって。どうしてそのことに気づかない?」



 パルスィと別れ、ヤマメは例の滝の横の巣に向かう。凍りついた巣の中心に釣瓶が引っかかっている。それを見ると、ヤマメはつい相好を崩してしまう。
 待ちくたびれてしまったのか、キスメは釣瓶のなかで眠っていた。ヤマメのからだが釣瓶に影を落とすと、キスメは素早く覚醒し、猫のような俊敏さで上体を跳ね起こした。

 「すっかりくつろいじまって。そのくせ警戒心だけはりっぱなもんだ」

 そういうことばを言い切るまえに、もうキスメはヒトガタの横にいた。むすっとした可愛げのない表情を向けて、なにかを言いたそうに口を開き、閉じた。

 「パルスィへのおれいは用意できたのかえ?」

 問いかけはしたが、キスメが手ぶらであることにもう気づいていた。寒さのために真っ赤になった小さな指先にはなにも握られていなかった。キスメはまたなにか言いたそうな顔をした。
 ヤマメは彼女の表情をさっと見通して、その瞳をじっと覗き込んだ。もうすっかり癖になってしまった、このひどくわかりにくい娘の心を読むルーチン。それで完全に読み切れるなどとはヤマメ自身思ってもいないが。

 「ふうん。つまりは……どうしたらいいのか見当もつかなくなって、とほうにくれちまったわけだ」
 そんでもって、このヤマメさんに相談しにきたわけだと。呆れたように言うと、キスメはますます不機嫌そうに表情を曇らせて頷いた。ヤマメはくすくすと笑ってしまった。
 「そりゃそうだね。なんたってあんたは、パルパルに二度もいのちをすくわれちゃったわけだから。そもそもあたしだって、パルパルに言われなきゃあんたを助けてやろうなんておもいもしなかったわけだし。かんざし程度のおくりものじゃ、割に合わないってものだ」

 けどねえ、なあ、キスメ。ヤマメはわざとらしく肩を竦め、内心の愉快な感情をひた隠しにして、しかめ面をしてみせた。キスメが怪訝な表情を浮かべたのを認めると、顔を背けて思う存分笑いたくもなってしまった。
 「あんたちょっと、妖怪のがわによりすぎちまってるよ。自分で気づいてないのかえ?」キスメの手を取って、恭しく掲げてみせた。「ふつうの人間は、こんなとこに何度も近づいてこないよ……おれいにいつまでも悩んでたりしてないよ。そもそもパルパルはおれいされたくてあんたを助けたんじゃないしね……それでもって、わざわざあたしみたいな」ぽん、と腰の下の蜘蛛のからだを叩いて――「――はんぶん大蜘蛛のばけものに相談しにこようなんて、おもいつきもしない」

 キスメは掲げられた自分の手と、ヤマメの顔と、ヤマメの腰から下を順繰りに見つめ、考え込む眼つきをした。数秒経って、自分の手がヤマメに握られていることにいまさら気づいたような顔をして、さっと手を引っ込めて後退りした。

 「そういう反応がそもそもまちがってるの。あんたいったい、いまどこに乗ってると思ってるの。あたしのからだの上だよ? 手を握る握らないの距離じゃないんだよ」
 にやにやしそうになる唇を無理矢理抑えているので、頬が痛い。ころころ変わるキスメの表情。反射的にからだから跳び下りたそうに巣を見下ろすけれども、ふと思い留まって頬を掻く。少し離れたところで射程距離には変わりない。
 だからね、つまりは。キスメの腕を取って引き寄せ、もったいぶってヤマメは言う。「おまえはすっかり、恐怖をかんじる器官が病気になっちゃってるみたいだね。それって致命的なことさ。きけんをきけんとも思わずに、なんにも考えられないまま飛び込んじまう。食う側にとっては、つごうのいいことだけど」

 自分のまえに無理矢理座らせて、ちょうど横抱きするような体勢になる。実際、そうした距離まで近づいても、キスメの眼にはなんの危機感も現れない。顎に指を添えてくいとこちらに向けて、そこでようやく腕が振るわれる。ぱちん、と乾いた音を立ててヤマメの手が払われる。
 まったくとことん生意気な娘だ、とヤマメは思う。最初に巣にかかったとき、びくびくしながらこちらを見上げていた顔には、多少は可愛げがあったのに。そう考えると、ヤマメはもう一度彼女を心の底から震え上がらせてみたくなってくるのだ。殺しはしなくても、その直前くらいなら、まあパルパルだって許してくれるだろう。なんといっても、この子の今後を考えての忠告――もちろん本心は遊びたいだけだが――というやつなのだから。

 「おまえ、まだじぶんが食われないと思ってるだろう? 勇姉とむきあってたときだってそうだ。あのひとがその気になったら、あのときだけで何百回も死んでたってのに、おまえはそのこともきちんとわかっていないとみえる」
 そんなことはない、とキスメの眼に抗議の色が浮かぶ。が、ヤマメはそれを無視してもっともらしく続ける。
 「いまだって……。あたしがそうしようと思えばおまえなんかひとくちに丸呑みできるんだよ。そこんとこ、ぜんぜんわきまえちゃいないだろう?」

 キスメの眼がじぃっとヤマメの顔を見つめる。その薄く血色の悪い唇に。最初に会ったとき、彼女が言っていたことを思い出している。蜘蛛がどうやって獲物を喰らうか……からだのなかに消化液を注ぎ込んで、中身を溶かして食べる。あのとき実際に流し込まれたのは媚薬だったようだが。
 一口に丸呑み? この口に? どう考えたって物理的に無理な話だ。怖がらせるためだけの与太話だと断じ、キスメは鼻で笑って立ち上がる。一跳びに蜘蛛の巣に降り立つ。

 「信じてないね?」
 キスメは自分の口に指を突っ込み、横に広げてみせる。
 「ああ……その口でどうやって食うんだ、って言いたいわけだ。まったくほんと、おまえらときたらすぐ見えるものにばっかり騙されるんだから」

 いいかい、みててごらん。ヤマメは言い、ヒトガタの腰、蜘蛛のからだとの付け根の部分に両指を添える。
 「ほおら。くぱぁ♪」

 キスメはかくんと顎を落とす。
 キスメのすぐ眼前。ヤマメの腰から下、刀傷のように、蜘蛛の頭胸部が真っ二つに開いていた。ヤマメ自身のヒトガタと同じくらいには長く。そこから中身が見えていた。ちょうど人間の口内を思わせる、柔らかそうなぬめりが見て取れた。剥き出しの色。ほとんどピンクに近い赤。キスメの見ているまえで、わずかに鈍く動く肉壁のひだ。

 このところ異形ばかり見てきたキスメも、さすがに唖然とせざるを得なかった。眼を点にして、食い入るように見つめてしまう。露になったそこのかたちはまるっきり女陰のかたちそのものなのだが、もちろんキスメはそれを間近で見たことがないのでそんなことはわからない。ただ、
 「ん……やだ。あんまりじっと見つめないでおくれよ、恥ずかしいじゃない」
 などとヤマメがのたまうと、ほとんど本能的に頬を染めてくるりとからだを半回転。なぜか高鳴る心臓に、口内をまじまじ見られれば確かに恥ずかしいかもと理由付け。
 驚いた。なにはともあれ、びっくりした。

 丸呑み。あそこに。改めて考えると、さあと顔から血の気が引く。確かに。確かに実際に見てみると、怖ろしくなってくる、かもしれない。てっきりヒトガタの口から食われると思ってたのに。ついさっきまで、私はちょうどあの真上に座っていた。

 「ねえ、わかったかえ? おまえなんか、一息に呑み込めるんだよ、あたしは」
 頭の後ろから降ってくる声に、キスメはこくこくと首が壊れたように頷く。背中から不意打ちを喰らったように、心臓がどくどくと全身に血を送り込む。吐息のような温かみをすぐ後ろから感じる。わかったから、とりあえず閉じてほしい。なんだか直視できない。
 「うんうん。いい子だね、キスメ。なまいきだけど、ちゃんとひとの言うことを素直にきくじゃないか。あたしもあんしんだよ、眼に見えるものがすべてじゃないって、きちんとわかっただろう?」

 ヤマメの声は心なしか上擦っている。そのように言われてしまうと、キスメとしては無性に反逆したくなってくるのだが、ヤマメは当たりまえの道理を口にしているだけだ。それがわかるので、ここは大人しく引き下がっておく。今日はもう帰ろう。
 とまで考えたところで、私なにしにきたんだっけと思考が迷走。すぐに気がつく、せっかくパルスィへの礼について相談しにきたのになんにもなっていない。が、そうはいってもタイミングを逸してしまったのも事実、ここは一時撤退が次善の策と判断し、釣瓶を回収するために振り向く。

 まだヤマメの肉は開いていた。眼前に留まっていた。
 「……んふふ」
 ぼんやりヤマメを見上げると、すっかり紅潮した暗い笑みがそこにある。眼をすっと細め、両頬に両手を当ててうっとりした顔。
 凄まじく厭な予感が背筋をよぎった。

 「おまえみたいなのは、一度思い知っておかないとなんにもわかりやしないんだ」キスメにというよりは自分に言い聞かせているような声。「だから、そう、これは教育。そのほうが身のためになるってもんだよ。ねえ、パルパル?」

 ここにいない女に話しかけている時点でおかしい。キスメは思わず後退りし、糸から足を踏み外しかける。視界がぐらりと揺れる。このところ急速に成長してきたバランス感覚を頼りに体勢を立て直す、が、実際に立ち直ったときには致命的な時間が過ぎている。
 頭に粘りのある露が落ちてきた。見上げると。ヤマメの開いた肉がすぐそこにある。
 「――アハっ。いただきます」

 上半身が熱いぬめりに呑まれた。
















 「――んんっ。っく」

 粘ついたものを詰め込むように、そこをしならせる。近頃めっきり人間を喰らうことなどなかったから、ずいぶんと狭くなってしまっている。それに大抵は、中身を全部ぐちゃぐちゃの液体になるまで熔かし尽くして、抜け殻のようになったものを啜るだけに使っていたから、固形を難なく飲み込めるようにはできていないのだ。すりつぶすための歯などない。せいぜい肉を合わせて擦り込んで、ぺたんこにするくらいだ。

 「く、っく、くっ……っっと」

 自然に、ヒトガタの顎が上がって、そこの喉も上下した。気管が塞がったように、軽く息詰まる。身悶えするように首を振ると、束ねた髪がゆらゆら揺れて、頬に軽く当たって離れる。
 何度か引っかかって、ぐいぐいと無理矢理押し込んで、息を止めたりぜえぜえ吐いたり、一苦労だ。夢中になっていた、唇の端から唾液が一筋、零れるほど。視界が水浸しになる。最後にひとつ、んんーっと長く低く唸って、ようやく全身をナカに収めた。ねばついた雫がぽたぽた垂れて、蜘蛛の巣の合間をすり抜け、凍った滝壺へと落ちていった。

 「――っは、アハハ! だいじょうぶだよ、ほんとに呑み込んだりしないから! てきとうなとこで、だしてやるよ。もうこんなことはこりごりだって思うくらいになったらねえ!」

 キスメのかたちにふっくら膨れた腹に向かって、高らかに笑いながら言い放つ。息苦しくなってくるくらいにいっぱいで、ゆっくりと味わうには余裕がなさすぎる。額に脂汗が滲んで、すっかり頭が熱くなっている。
 一息に言いたいことを言えず、息継ぎするように深呼吸をする。精一杯空気を飲み込もうと口を開く、けれど思った以上にきつく、充分に喉が動かない。必然的に、短い息を何度も吐いて、けれどそれ以上に吸えない。頭がぼんやりしてくる。けれどもなんとか、言おうとする。

 「思い知ったかい、キスメ!? なまいきなことばっかり言って……いや一言も口にしてないけど……すっかり舐めきった態度をとって! ねえ、どんな気持ちかえ、いま……あたしの……あたしの、ナカ、に……」
 声が細くなる。ああ、さすがにちょっとむりしすぎた、中身の詰まった固いものを丸呑みなんて! ごくりと唾を飲み込むのはヒトガタの喉で、腰の下から昇ってくるちりちりした震えに、全身が硬くなる。
 「――ナカに、いるんだよ、キスメ! わかるかえ!? あはっ、外よりはあったかいだろ、ねえ、あの夜もこうしてりゃよかったかもねえ! あの夜、ほら、おまえがすっかり弱っちまってさ、あたしの腕んなかで、っっっく、ぁ……あたしの腕のなかより、あったかいかも、ぁ、ねえ……!」



 濁流を真正面から受けたような心地が過ぎると、キスメはどうにか眼を開く。真っ暗でなにも見えない。かすかに口?の隙間から差し込んでくる光も、白いばかりで弱々しく、彩光の助けになってくれない。それでもしばらく経つと、どうにか暗闇に眼が慣れてくる。
 全身を取り囲むのは、のたうつ蚯蚓のような、ピンクに近い鮮やかな肉色。白く泡立つ液体がひっきりなしに分泌され、着物にまとわりついて、じっとりと染み込んでくる。生温い、中途半端な温かみ、そのくせところどころ焼けるように熱い。頭がどうにかなってきそうな、形容し難いこの濃密な匂いときたら! あの夜の恥辱の記憶、こいつの腕のなかのほうがいくらかマシだった!

 しばらくはまったく茫然とするしかなかった。あまりにも突然、まるで異世界に飛び込んでしまったかのような唐突な出来事。喰われたという意識すらなかった。どこか緩い雰囲気のなかで行われた、戯れの延長。
 が、からだじゅうにまとわりつく粘り気が、ひどくべたつく皮膚感覚に訴えかけてきて――顔に得体の知れない液体がねとりとかかって、やっと、思考が現実に追いついた。

 ――こ、

 ぐぁっと頭に血が昇った。

 ――このヤロオ……!!

 闇雲に腕を振るい、肉壁を鷲掴みにし……怒りの感情の赴くまま、思いっきり引っ張った。



 「ひゃあっ」

 いきなりナカから刺激が奔り、ヤマメは反射的に甲高い声を上げた。紛れもなく、疑いようもなく悲鳴だった。音を吸う雪に覆われた岩壁の中途、それほど周りに響きはしなかったが、ヤマメはつい自分の声にびっくりしてしまった。
 抓られたような痛みの波、治まると、今度はじんじんと痺れだす。体外消化後、無抵抗な抜け殻だけを食んできた内部は、ヤマメの考えていたよりも弱かった。そして、

 「こ、こらっ、キスメ……おとなしくしときよ! 敏感なんだよ、そこ……デリケートなのっ、いつもは、とじてるんだから――ぁいたァっッ」

 腰の下をぽんぽんと叩きながら言う。言った直後に新しい痛みが降って湧いて、稲妻に打たれたようにびくりと背を反らす。蜘蛛のからだも同調して跳ね、キスメの分だけ少し開いた割れ目からぼたぼたと粘液が零れ落ちる。
 急所を思いっきり打たれたような痛みに、ヤマメは堪らず身悶えする。蜘蛛の脚が甲殻をがしゃんがしゃんと鳴り響かせて蠢く。巣の端まで、気づくと後退している。

 「いた、いたあっ、いたい、いたい、ぁー。うーっ。も、この……ひゃあん!」

 餅でも捏ねるようになかでキスメの腕が動きまくっている。それが感触でわかる。少しまえのキスメでさえ、糸に拘束されたときには闇雲に抵抗してみせたのだ。すっかり経験を積んで怖れ知らずになってしまっているいまや、そうなることは明白だったのに。ヤマメは迂闊だった自分を悔やむ、けれどそれ以上になんだかむっとしてくるのだ。
 こうなれば意地でも離してやんない! ヤマメは歯を食い縛り、内側から襲い掛かってくる刺激の波に耐えようとする。が、どうしても顎が上がる。唇が勝手に開いてくる。さらに、

 「ぁ、ああっ!! かみやがった、こいつ、かみやがった! なんて女だ、しんじらんないっ、ぁっ、ふあっッ!」

 腕を振るって効果が薄いと見るや否や、今度は歯を立ててくるキスメである。柔らかい、剥き出しの部分に牙を剥かれ、さすがにヤマメも危機感を抱く。下腹部が意思に反して跳ね上がる、自分を抱くように腕を回す。
 歯だけでなく、ぐりぐりと両脚が押し上げてくる。ヤマメは真っ青になって痛みに首を振る。ちょっと脅かしてやろうと思ったらこのざまだ、つくづく疫病神みたいな娘だ! 自業自得だとは、これっぽっちも思いもしないヤマメであった。



 刺激を与えると肉壁がぎゅぅうっっと締まってくる。四方八方から全身を押し込まれ、キスメは声なく呻いた。まるで乳房のように柔らかいので息苦しくはなかったが、次第に耐え難いほど熱くなってくる。
 そのうえ、このやたらと粘ついてくる白い粘液。雨のようにひっきりなしに湧き出し、ごぽごぽと溢れ出すくらいなのだ。まるで悪意でもあるかのように衣服の内側に溜まり、抜け落ちない。体温と同じ温かみのせいで、こちらを撫で回すヤマメの指が自然に連想され、キスメは必死で首を振って記憶を払い除けようとした。

 太腿のあたりにべとつくのが一番気色悪い。乳首のあたりでぬめつくのが一番心地悪い。暴れれば暴れるほど着物に染み込んで、べっとりと皮膚に張りついてくるけれど、もうそんなこと気にしてられない。思いっきり顎を開いて、食らいついた。逆に喰ってやるくらいの勢いで歯を立てた。

 「もっ、こらっ……いいかげんに、しなよっ!」

 くぐもった声が遥か彼方から聞こえてくる。いや、これ以上ないほど近くからか。耳にまで粘液が入り込んできて、まったく収拾がつかない。なんでもいいから早く出せ、とますます強く肉を噛んだ。

 「ひゃっ、ああっ!」

 悲鳴があるのだから痛いのだろうけれど、その分だけまた周りが収縮してくるので痛み分けになってしまう。どくんどくんと大きな鼓動まで聞こえてきて、伝わってきて、とにかくもう居心地が悪すぎる。
 肉の感触もなんともひどい。つややかで滑りのいい部分もあれば、まるで舌のようにざらついた部分もあり、どこもかしこも一定ではない。どこからも擦りつけるように押し込んでくるので、鬱陶しいったらありゃしない。口に近づけば噛む。手のひらに収まれば潰して捻じる。脚に寄ってくれば蹴飛ばす。そのたびに脈動して、とにかく、とにかく、気色悪い!

 腕が唐突に自由になり、とにかくできる限り強く振るった、その爪の先端が広くごりごり肉を削った。
 「ぃぎい――っ」
 ひときわ強く周りが閉じてきて今度こそ息が詰まりそうになった。出口だ、出口へ向かわないと。キスメは温かみを掻き分け、光の差し込む方へと這った。ほとんど、泳いでいるようなものだった。



 もぞもぞと、なかで動きまくるものだから、たまったもんじゃない。ヤマメは身を捻じって耐えようとした。意思に反してあそこがきゅうきゅう締まって、それでまたキスメが抵抗を激しくするので、まったく悪循環だ。
 両頬をかきむしるようにして、高く悲鳴を上げる。蜘蛛の巣から脚を踏み外し、真っ逆さまになる。

 「ぅ、うあっ……ひぃえっ、ぁあっ!」

 ががががががっ、と雪のついた岩壁に脚を立て、滑り落ちる。振動が全身に響き渡って腹の底まで重く染み渡る。キスメの感触が下腹部にいっぱいになって、感覚だけが尖っていく。
 地面に落ちきると、雪煙が舞った。氷の粒が散り散りになり、なにも見えなくなる。間違って思いっきり吸い込んでしまい、息さえも塞がれる。

 咳き込んで、かぶりを振った。呼吸がとにかく苦しくてならない。ぜえぜえ情けなく無様な息をしながら、ほとんど千鳥足にどこかへゆこうとする。だめだ。関節部が震えてどうしようもなくなって、その場に崩れる。巨体が接地し、また積雪が崩れた。その辺の樹木の枝に積もっていた雪がばさりと落ちる。また息が、息が……

 「っん、もおっ……! おとなしくしときって、ぁ、キスメぇっ」

 涙ぐむ視界にすべてを奪われる。それでも、キスメのからだが次第に濡れそぼってきて、段々とすべりがよくなってくるのがわかる。なんとか、楽になってくる。呼吸だ、呼吸を。ぬるぬると顫動する腹のなかに意識が集中してしまう。

 「ぬ、ぬれぬれ……」

 頭がぼーっとしてくる。
 次から次へと送られてくる痛みの波、渦、いっときが過ぎるとじんじんと痺れてぴりぴりする。閉まりきらない割れ目からぽろぽろと涙のように染み出し、溢れ零れる、粘液が雪を濡らし続ける。
 熱い、重いものが動く感覚。疼きがしつこく繰り返され、慣れてきたところにいきなり噛みつかれてもうわからない。
 キスメを脅かしてやろうなんて当初の目的は吹っ飛ばされ、いまは逃れるためだけに悶え苦しんでいる。鋭敏になっていく神経回路。自分を抱くように回した腕が胸を潰すと、そこから甘いものが流れ出した。

 「ぃ、ぎぃっ――っぁ、アっく。も……いいかげん、に、あきらめ、ひゃぁ……」

 収縮し続ける肉に対して、キスメは頑強な抵抗を続ける。締めつけを内側から押し広げられる。
 刺激が強すぎる、あまりにも強すぎる。
 喉が詰まって、背筋がぴんと伸びる。伸びて、反り返る。そこからまだ顎が上がって後ろに行こうとするので、視界に色の濃い青空が映りこんだ。太陽ばかりが呑気だ、こちらはちょっともういっぱいいっぱいだってのに。両手の指をいびつに絡めて、抑えようとするかのように下腹部に当てた。だめだ、感覚が余計に明白になるだけだ。指の先から伝わる振動、それがからだのなかにダイレクトにもたらされているのだと思うと、なんだかもう助け、助けて。

 「――っ!……」

 だめだ、これ以上は。くやしいけれども、ああもう、仕方ない。

 「っ、わかっ、ァ、わかった、わかったから! あたしのまけだ、降参、こうさァあああ、こうさん! ちょっ、ああん、も、あんたのかちでいいから、だすよ、だす! だから、は、ふァああああ……っん、くっ、もおっ、出すっつってんだからちょっとおとなしくしろお!」



 ことばと裏腹にあそこの締めつけは意思の外側にあるので、キスメにしてみればまったく意味のないうわごとでしかない。全然そんな動きが見られないので、キスメも抵抗をやめない。動けるだけ動いて、外へ這い出ようとする。けれどからだじゅうにぬめりつく粘液で滑る、とにかくぬるぬるに滑って思うように動けない。
 唇の合間を縫って染みこんできた白濁液はもう臭くてまずくてやってられない。げほげほと咳き込むとその拍子にまた新しいのが垂れてきてきりがない。口のなかに溢れて鼻につうんと抜ける。仕方なく一度飲み込んで――喉にいちいち引っかかるので苦しくてたまらなかった――歯の裏に残ったものをぺっと吐き出す。むかついたのでその辺を蹴飛ばし、もう一度蹴飛ばし、さらに蹴飛ばした。

 「あ、あ、あん! こいつ、この……ァあ、やめろ、やめろ! あたしがわるかったって、わるッっあ、ごめん! ご・め・ん! ごめんなさい! だから、も、噛むな! 蹴るな! 殴るな、抓るな! ひゃ……ァァア……」

 またきゅうっと締まってきた。嘘ばっかりついて、この蜘蛛女! キスメはまたすぐ眼のまえに迫ってきた肉壁に食らいつき、首を捻じるようにして噛み千切りにいった。

 「ァ……もっ、そんな、そんな……じんじんきちゃって、アアアア……」

 暴れては締まり、暴れては締まり。傍から見れば滑稽な、というよりオカシなヤマメの身悶えは、結局小一時間ほど続いたのだった。



 キスメの体力が底を尽き始めると、抵抗も弱まり、内側からの刺激も収まってゆく。ヤマメは初めて外界に顔を出した胎児のように息をする。顔を真っ赤にして、時折びくんと肩を痙攣させて。
 勝手に収縮を繰り返すナカの動きも、和らぐ。キスメのからだを外に出そうと、ようやく思い通りの顫動をしてくれる。割れ目からキスメの腕が覗き、すぐに頭も出てくる。彼女はもうぐったりとしてしまっている。

 全身を白濁液で濡らしたまま、夥しい数の糸を引いて、キスメは雪の上に落ちる。思い出したように咳を一度、二度、三度、四度。ぶるぶると首を振って意識をはっきりさせ、雪に顔面を押しつける。
 互いにすっかり満身創痍だ。ヤマメのヒトガタは蜘蛛のからだとの付け根を支点に仰け反り、霞んだ眼がぼんやりと青空を映している。スタッカートの息を吐く唇にいつもの悪態をつく力はなく、唾液を顎に伝わらせたまま半開きになっている。

 しばらく経って、ヤマメはようやく言う。「もう、ほんとおに……ちっともコントロールできない女だ、この、はぁ……ろくでなし……」
 キスメの暗い眼が重くヤマメを見る。そんなのはこっちの台詞だと言わんばかりに。両手を突っ張って上半身を起こし、袖でごしごしと顔を擦って粘液を拭う。
 「ぅうー……まだじんじんするよ、ひどい目にあった……やっぱり体外消化にかぎるね、踊り食いなんかするもんじゃない」

 キスメは座ったまま眼を閉じ、新鮮な空気で肺がいっぱいに満たされるまで待つ。そうして煮え立つ感情にそっと蓋をし、全身に力を溜める。やがていつも通りの活力が数分の一でも戻ってくると、そこで眼を開けて立ち上がり、蜘蛛の脚を伝って一息にヤマメのヒトガタまで駆け登る。
 まだぐったりしているヤマメの胸倉を両手で掴み、思いっきり頭を仰け反らせ、ぐっと息を胸の内側に留める。
 岩に鉄をぶつけたような音が響き渡り、キスメの頭突きがヤマメに炸裂した。

 「……いたい」

 額を押さえて涙ぐむヤマメ。キスメの額も真っ赤になったが、それ以上に表情が引き攣っている。への字に結ばれた唇からは、もし声が出せていたならありったけの罵倒が飛び出していただろう。
 キスメはぶんぶんと腕を振って明白な怒りを示した。まったくこんな、ひどい目に遭わせて。ちっとも流れ落ちない粘液の雫が飛んで、ヤマメは顔を背けて溜息をついた。

 とはいえ。……ヤマメのそんな性格、性質も、もうだいたいにおいてキスメの知るところだった。何度も会って、話して、コミュニケーションを取って。彼女の巣に落ちるのも四度目、もはや得体の知れない相手ですらなかった。こうしたことさえ、自分のどこか深い一部は予測していたことだった。あんな風に頭胸部が開くのは予想外だったこととはいえ。
 実際、キスメは、思ったよりは怒っていなかった。最初に弄ばれたときほどには。激情は喰われかけた命の危機に対してではなく、この勝手な女の、勝手さに対してだ。だからつまるところ、キスメは渾身の頭突きを一発見舞ったところで、怒りの波もすっかり収まり、満足してしまったのだった。

 実際にしてみるまで、そうした風に自分の心が動くとは思わなかったけれど、キスメは頷いて、ヤマメの胸倉を手放した。紅金色の眼が問いかけるように自分を捉えると、裾で手のひらを拭って、ヤマメの眼のまえに差し出してみせた。

 「……なんだい。仲直りってことかえ?」

 随分と話がわかるようになったものだ。キスメは無言で――いつも無言だけれど――催促するように右手をぐいと押し出した。
 ヤマメは苦笑し、その手のひらを握るかわりに、手首を掴んで引き寄せた。
 キスメの眼に困惑の色が浮かんだのを認めてから、囁いた。

 「つくづく懲りない女だね」

 もう一方の手でキスメの後頭部を掴んで、さらに引き寄せた。驚きに唇が歪んだところに、自分の唇を寄せた。
 キスメの眼が見開かれるのを認めて、ヤマメは眼を閉じた。
 ゆっくりと味わうように柔らかみを食み、はしたない音が控えめに立てられる。唇が合わせられたままさするように動き、深く、深すぎない、中途半端な位置で留まった。
 まだ下腹部が荒らされた直後の甘い敏感さが残るなか、そうしただけでも気持ちが緩やかに切り替わる。硬直するキスメの後頭部から、手がふわりと動き、五本の指が流れるようにうなじを這い、撫でる。
 ぴくぴくと反射的な動きを示すことに、満足感を覚え、ヤマメはそこで唇を離した。

 額を合わせたまま、ヤマメは喉を落とすように含み笑いをしてみせる。
 「……く、くっ……いい子だねえ、キスメ。ほんとうに、滑稽なくらい……」

 その誘惑するような声に我に返り、キスメはぱっと身を離す。先ほどまでの不躾な接触から打って変わって、意志とかけ離れたところでぞくんとくるような艶かしいキス。ああした直後のせいで、余計に……余計に感情がささくれだつ。回路が焼ける。
 かっとなって、激情が再動した。キスメは頬を深紅に染めて、自分でもなんだかわからない感情のまま、握り締めた拳を九十度の角度で振り下ろした。予備動作が大仰すぎるほどの代物で、いくらでも反応できただろうに、ヤマメは無抵抗に頭を殴られた。

 鈍い音がして、打った拳も、じんと痛んだ。

 「――ぁは。ありがとお……」

 うっとりと頬に片手を当てて、そんなことを言うヤマメである。なんでそんなことを言われたのかわからず、キスメは困惑の深い淵に落下していく。が、直後に気づいた。これで仲直り。つまるところ、そういうことだと。
 無性にもう一度殴りつけたいと思った。が、それ以上は、アンフェアになってしまうのがキスメにもわかるのであった。
















 べとべとはヤマメの服で拭った。当然の報いだ。
 蜘蛛の巣にまた攀じ登って、釣瓶を回収した。それでもまだ留まり、ヤマメのほうをじっと見つめていると、やっと向こうのほうで気づいた。

 「パルパルね。けどねえ、しょせんおまえみたいなのが、なにをお礼したって……。あんたにははかりしれないことだろうけどねえ、彼女はもともと貴族の娘だよ、それもとびきりの。そのまんまお姫さま。愛(は)し姫、ってねえ……わかる? かんざしよりちょいと値をはるもん贈ったって、なんとも思われないよ。
 それに、そういうのってまず、相手のほしいものを贈るものだろう? パルパルはなんにも欲しがらないよ。仙人みたいに欲をすててんだから……仙人なんかとちがって、ほんとうの苦悩からくる無欲だけどさ、パルパルのは」
 キスメは俯く。

 確かに、そういう雰囲気はなんとなく感じでわかる。姫も貴族もみたことさえないが、パルスィの纏う空気には、自分やヤマメにはないもので満たされている。気品? そういうことばが示すものはわからないが、パルスィにはなにか、そういったものを無理に捨てようとしている節がある。
 キスメは途方に暮れる。そんな彼女を見、ヤマメは唇に指を添える。実のところ、アイディアならある。なにせキスメよりずっと長くパルスィといるのだ。

 「まあ、おしえてやんないでもないよ」
 キスメはぱっと顔を上げる。
 「あたしたちみたいな能力持ちの妖怪にとって……能力のまんまに生きるのって、そう、理想みたいなもんだよ。ありのままにいられるんだから、楽なもんさ。おまえみたいな普通の女の子にはわからないだろうけど。たとえばあたしなんかは、そのへんに病気撒き散らして蜘蛛の巣張って、人間食いながら生きていければ幸せだし、このまえの毒女みたいなのだって、思う存分毒を撒き散らしたいっていつも思ってるもんだ。けっきょく、そういう風にして、居場所をなくしてこんなとこまでいきついたんだけどさ。
 パルパルもおんなじだよ。なんにも考えずに嫉妬したいのさ。でも、そういうじぶんをいちばん嫌ってるのもパルパルなんだ。トラウマになっちまってるから……。だけど、トラウマとかんけいのないところで、ほんのすこしささやかに……そう、彼女の心が痛まないくらいささやかに、穏やかに妬めれば……ほんのすこしささやかな幸せにはなるだろうよ」

 キスメが思考を巡らすのを待ち、ヤマメはさらに続ける。

 「ここんとこ、パルパルはじぶんの意に反した嫉妬ばっかりしてきた。だいたいおまえのせいで。緑眼の魔物のすがた、見ただろ? あれがパルパルの嫉妬のかたち。おまえを助けるために、したくもない嫉妬をしたの。そういうのって、ヤな気分にしかならないよ。濡れてもないのにおまんこに指突っ込んで、ごりごりやってるようなものだ。へったくそなもんさ。……ウウーッ、アー、もう! 想像しただけで気分悪くなってくるよ!」
 その品のないたとえには顔をしかめるしかなかったが、キスメはますますいたたまれなくなってくる。
 「だからまあ、要するに、嫉妬せざるをえないようにさせて、嫉妬させればいいの。それが贈り物。溜まり溜まったストレスも、いっぺんに嫉妬になって、はっさんするだろうよ。てきとうにガス抜きしといたほうがいいんだ、そういうのは。さて、それからだけど。パルパルに嫉妬させるにはどうすればいい?」キスメの胸に指を突きつけて――「かんたんだよ。パルパルだって女の子だからねえ。きれいで、かわいい、それもとびきり秀でたものを眼のまえに持ってってやればいい。そんでもって、それがそこらじゅうから――まあ、人里の人間どもが妥当かねえ――注目の的、羨望の対象になってるところを見せつけてやればいい」

 キスメはそのことばの示す意味を考えている。ヤマメはにっと笑みを浮かべてみせ、両腕を広げて自分を提示する。

 「アルケニーは、機織りの神に妬まれるくらい、とてつもない機織りの達人、その道にだれよりも精通した熟練の織り手だった。あたしも始祖ほどじゃないけど、蜘蛛だ、それなりに糸のつかいかたはわかるってものだよ。あたしがおまえを飾ってあげる。そんな地味な白装束じゃなく、美の神に妬まれるくらい、かわいくしてあげる。それでおまえは、ちょっとしたスターになる、と。まあ原型変わりすぎて誰だかわかんないくらいになるとおもうから、おまえ自身にあとは引かないだろうよ。で、パルパルに嫉妬をプレゼント。それでどう?」

 キスメは眼を泳がせる。

 「で、で。この作戦にはひとつ、条件があるわけだ」キスメはヤマメを見る。「この条件を満たさないと、ちょっとどうしようもないレヴェルのお話。ああ、そんな心配そうな顔をするんじゃないよ、ひとばんもあればこなせる、軽い仕込みさ。かんたんだよ。問題なのはあたしが、おまえのからだのサイズを、これっぽっちも知らないってこと」

 ヤマメは顔の横に手を持ってきて、握り、開き、握り、開いてみせる。

 「はかっておかないとねえ、じかに。頭のてっぺんから足のさきまで」
 別にどこもおかしな話ではない、が、キスメはその声音から激しく厭な予感しか憶えない。
 「なんだい、その眼は? 変なことしないかって、心配してるのかえ? もちろんするに決まってるよ、当然じゃない。代価だよ、だ・い・か」

 こちらに向けてくる視線に重さを感じ、キスメは後退りする。ただそうした眼つきだけで、からだじゅうを一巡り、撫でつけるような指遣いに犯されたような気分にさせられる。
 キスメのそんな反応に、ヤマメは心底おかしな気分になり、金切り声で高らかに笑う。

 「アハハ……まあべつにむりやりしようってわけじゃないから、安心しなよ! おまえがねえ、代替案をしめしてくれれば、そんなことする必要もなくなるわけだし。まあ、そんなことはどうせできないだろうけどねえ……おまえが、二度も命を救ってくれたパルパルになんにもお礼をしない、恩知らずだったら!」

 釣瓶を持ち上げ、キスメは蜘蛛の巣を後にする。もしヤマメの提示した策を選んだとして、なにをされるのか、脳の器官は勝手に好き放題想像し始める。すでにもう何度も、ヤマメには弄ばれている。それよりも、まだ……?
 膝が少し震えた。寒さのせいだと、思おうとした。

 そんなキスメの後姿に、ヤマメはなおも声を投げつける。「覚悟ができたら、またきなよ! あたしはずっとここにいてやるからさあ! ふふ、アハハっ…楽しみにしてるよ……いやなに、そんな大したことするわけもないさ、ただサイズをはかるってだけ、だからねえ!……くく、クククッ……ねえ、キスメ! また今度!……次はいつだろうねえ、いつ……!」

 無性にむかついてきたのでそのへんの小石を仕込んだ雪玉を顔面に投げつけ、反撃を受けるまえに駆け出した。ひゃあ、と悲鳴がかすかに聞こえた、気がした。



 それが大多数の意見によってやらなくてもいいことだとみなされたとしても、やらねばならないことをやらないでいることは記憶に黒い淵を残す。できるかできないかの問題ではなかった。鬼に報復など自分のような女にできるなどとは思わなかったし、それでもやらざるを得ない場所に立っていたからやったのだ。それと同じように、パルスィには、せめてなにか、小さなものでも返しておきたかった。
 そうしてまた誰かに貸しをつくり、返しにいき、その過程でまた誰かに……
 キスメは不意に、世界の構造を垣間見た気がした。そうしたことで連続する人生の流れめいたものを感じた。それが正しいことかどうかは別として……なにせまだ十年と少ししか生きていないのだから……

 「キスメ!?」

 驚いたような呼びかけが鼓膜を打った。振り返ると、見開かれた鈍緑の双眸、パルスィが唖然として突っ立っていた。ヤマメに会いにきたのだろうか。いっとき、間抜けに見つめ合う数秒が通り過ぎると、パルスィは眼を細めてこちらに近づいてきた。

 「どうしてあなた、またこんなところに――もしかしてまだ、勇儀に――」

 ほとんど口のなかで転がすようなことば。キスメの両肩に手を置くことで、ようやく問いかけの体裁を取る。もう違うのだと伝えるために首を振った。けれどそれ以上のことは伝えられなかった。
 困惑したようにパルスィは口を閉じる。ややあって、どうにか口を開く。どんな理由であれ、妖怪の住処にきてはならない。ましてなんの対抗手段も持たないような女の子が。

 「帰りなさい、すぐ。いますぐ! そうしたら、二度ときちゃだめ。わかった!?」

 ほとんどヒステリックなほど甲高い声だった。が、キスメが気圧されることはなかった、もっと怖ろしい目に何度も遭ってしまったから。そうであるがために、キスメにはパルスィの心が透けて見えた。まったく信じがたいことに、あんなに怖ろしい姿に変貌してみせたこの女は、心底、自分のことを心配しているのだった。なんの掛け値なしに。
 キスメはパルスィの眼を見つめた。……鈍緑色の眼の、奥にあるもの、そのさらに奥にあるものを見通すように。
 重く首を振った。それははっきりとした拒絶、拒否の仕草だった。パルスィは困惑を深めて手を離した。キスメは後退りし、今度は両手を重ねて腹に置き、深々と頭を下げた。

 パルスィは呻いた。「……っ、」

 それだけの簡単な仕草だけで、パルスィにははっきりとわかった。この娘にはこの娘なりの言い分があり、それを支える意志は、もはや鋼のように堅くなっているのだと。こちらを見つめる瞳に、人間が妖怪に対して持つはずの恐怖が抜け落ちていた。揺るぎなく、むしろ妖怪染みてさえいた。そうしたものは自分が人間だった頃にはまるで持ち得なかったもので、周りの人間にも、一滴たりとも見出すことのできなかったものだった。
 妖怪に接しすぎた人間。パルスィは危機感を覚え、なにかを言おうとした。明白な警告。が、それをことばにするまえにもうキスメは背を向けていた。兎のような軽やかな足取りで、足首まで埋まる雪の上を駆け抜けていた。茫然とするパルスィの視界から、あっという間に消えうせていったのだった。
 後編へ続きます。

 このヤマメは書きたい人間の理想形にいちばん近いかもしれない。
 そんな作者は病気。


 (12/18 追記)

 >>1様
 このヤマメは『こんなアイドルがいたら確実に追っかけになるねッッッッッ!!!!!』をテーマに書きました! 哀しいかなリアルではどこにも(ry

 >>2様
 異種百合流行れと念じているのですが哀しいかなちっとも増えません! 助けてください!
 リアルの世界も充分格好いいので自重しなくて済むなぁと思ったりしてます。現実は小説よりなんとやらですからっ

 >>3様
 前作の幽々子様があまりにもウブかったものでその大反動が(ry

 >>4様
 むしろパルスィが主人公です! 私が惚れてます! どうしたらいいですかと質問に質問で返(ry

 >>5様
 いやむしろ私自身こんな風になってしまってびっくりですどうしてこうなった。
 どうしてこうなったっ!?

 >>6様
 妖怪、人間、元人間という部分を強調しました。キスメは設定がまるで皆無に等しいので思う存分捏造しました! 原作で台詞がなかったのでもういっそ台詞なしでいいやと(ry

 >>名前が正体不明である程度の能力・夜様
 折り返し地点です、ご読了お疲れ様でした!

 >>8様
 ここに病院を建ててください(切実


 (6/1 追記)

 >>みなも様
 キャラを好きになっていただければ非常に作者得です……っ
 コメントありがとうございます! なにかしら残していただくだけでこちらの胸がいっぱいです!

 >>10様
 男前だけでなく女性的な魅力も出したいと思いつつも流れ的になぜかっ。
 私得な女性を書きたいと願った結果偏りすぎにっ!

 >>11様
 本当は短くまとめたかったりorz 毎度ながら長いわりにネチョ薄で申し訳ありませんっ
夜麻産
http://yamasannomemo.blog.shinobi.jp/
コメント




1.名前が無い程度の能力削除
もう 「ヤマメですか(笑)」 なんて言ったりしないよ
こんな醜く素敵で恐ろしくいやらしいヤマメを見せられたらね、言えない、ね
2.名前が無い程度の能力削除
貴方の描く異種姦はいやらしさとはまた違ったドキドキがあって面白いです。
それにしても、夜麻産氏の作品を読むと全てのキャラが魅力的過ぎて。ああ、こういう世界かっこいい、と思わずにはおれません。
3.名前が無い程度の能力削除
でろでろで、ぐちょぐちょで、妖怪的で、そして何と魅力的なんでしょうか
いやもう凄いです
4.名前が無い程度の能力削除
ヤマメちゃん変態すぎる…どうしてこうなった
確かにしんどい系だけど丸呑みシーンは笑っちゃったよ

ところでパルパルに惚れてしまったんですが
どうしたらいいですか?
5.名前が無い程度の能力削除
キスメの徹底した心の火にニヤニヤしている自分に、なんていうか、びっくりです。
あと、俺の知っている丸呑みとなんか違くてびっくりです。
6.名前が無い程度の能力削除
いつも楽しみにさせてもらってます。今回もまた良い・・・ヤマメの妖怪らしさとかパルスィの人間臭さがすごく好みです。
かつてここまでキスメにスポットがあたっている作品があっただろうか・・・!
7.名前が正体不明である程度の能力・夜削除
さて、次だな。
8.名前が無い程度の能力削除
全く作者は病気だぜ(褒)
9.みなも削除
この勇儀姉さんに一生ついていきたいです。

キズメに惚れました。

パルパルにも惚れました。

ヤマメ、エロすぎです。

あと、コメントにまとまりがないです。感動して書きたい事いっぱい。
10.名前が無い程度の能力削除
キスメの強さに惚れました。
というかキャラ全員が男前っていうか、格好いいので思わず惚れてしまいます。

いつものように感動させていただきました。
11.名前が無い程度の能力削除
長い……でも、言葉にできないくらい面白い!