真・東方夜伽話

頽廃秘封倶楽部:参

2011/10/05 21:45:36
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頽廃秘封倶楽部:参

かづき

※「頽廃秘封倶楽部:弐」からの続きとなっております
 オリジナル設定とか事前にいろいろとご注意くだされば幸いです






















気が付くと、そこには見知らぬ男の姿があった。

見知らぬ、というのはもちろん単なる比喩表現であり、今更私が彼の顔も知らないなどということはあり得ないことだったが……しかし、そのとき私の眼の前にいたのは、私が少なからず同じ時間を過ごす中で抱いていた印象とは、余りに掛け離れた人物だった。
硬く冷たい床の感触を、鈍く痛む背中と後頭部で感じながら……私の脳は早くも、ああ、よく言う『人が変わったようだ』という表現はこんなときに使うのだろうな、などという逃避的な思考に走り始めていた。





記憶は、少しだけ時を遡る。










/////////////////////










人工の灯りが照らす、すっかり通い慣れた夜道を歩く。
建造物のシルエットで直線的に切り取られた夜空を見上げてみても……雲に覆われているのか星明りの見当たらないそこから、時刻や座標を読み取ることは、私には出来ない。










/////////////////////










人身事故で狂ったダイヤの所為で、予定よりも数十分遅れで駅のホームに滑り込んだ電車から、ドアが半分と少し開いたところで真っ先に飛び出して。私は、勝手知ったる駅舎を駆け抜けて、混雑のピークを過ぎた改札を出る。
屋根が途切れたところで小雨が降っていることに気が付いたが、まぁこの距離なら走っていってしまえば問題ないだろう、と判断し、折り畳み傘を取り出すことなく、鞄を頭にかざして歩道を走ることにした。



傘を差した人影と幾度かすれ違いながら曲がり角をいくつか過ぎる。雨に濡れて光る、既に施錠された大きな門扉の横に設えられた小さな扉を潜ると、目指す建物はもうそこにあった。

「……はぁ、っ……」

本当に、電車で通うには最高の立地だな、などと余計なことを考えながら研究棟に辿り着いた私は、軽く走ったおかげで少しだけ乱れた呼吸をエレベーターの中で整えてから……ほとんど音も無く開いた分厚いドアを潜って、私自身の足音以外には音らしい音の聞こえない通路を辿り、その研究室のドアをノックした。
入りなさい、と、中から聞こえた抑揚に掛ける低い声を受けて、ドアノブを捻る。専門書や研究データをまとめたファイル、雑多な機器の類など、物の数と量は多いものの、全体としては整理整頓の行き届いた、もう随分と見慣れてきた部屋の景色が眼の前に広がった。

「失礼します、教授、遅くなりました」

私は姿勢を正して一礼し、事務椅子に腰掛けながら皺が寄った印刷物の束と睨み合っている、その部屋の主に挨拶をする。
霊魂、未確認生物、異世界……その他諸々の超常現象に関する、未だ発展途上の研究分野における第一人者。宇佐見教授、その人である。

「………」

挨拶を投げ掛けた私には視線のひとつもくれず、眼の前の文字列の読解に意識のほとんどを注ぎ込んでいる彼の顔を……見慣れてはいるが、しかし親しみの類は微塵も、ほんのひと欠片も感じられない冷たい印象の顔を見つめながら、その傍らに歩み寄る。
遅刻を咎められる様子が微塵も無いのは、事前に電話応対の女性を通じてダイヤが乱れた旨を伝えてあったお陰か……あるいは、私がほんの数十分遅れてやって来たことなど、そもそも眼中に無いということだろうか。

「………」

まぁ、どちらでもいい。いつも通りの、愛想も何もあったものではない対応だが……私は何も、ここへお客様として招かれてきたわけではない。やるべきことがあるから、呼び出されたに過ぎないのだ。

そう。私が今ここに居る理由はただ1つ……眼の前で、顎に手を当て眉間に皺を寄せ、体重を預けた事務椅子の背もたれを軋ませながら脳内で高速の思考を駆け巡らせている大先生の研究に助力する為。ただ、それだけだ。
ここ最近、彼が特に力を入れているらしい研究テーマ。それは、この世の様々な場所に当たり前のように存在しているが、しかし、常人には極めて稀にしか観測できない、とある事象。
私達が世界と呼称する場所と、その隣に寄り添うように存在する異世界とを隔て、そして同時に繋ぎ合わせる役割をも担う……境界、その発生と揺らぎ、そしてそれが及ぼす影響についてである。

「………」

彼は普段、研究室に余り人を招かない。世間一般に広くは知られていないとはいえ、その道では大層著名な研究者である以上、助手というものがが居ないわけではないのだが……彼等がこの部屋を訪れるときは、まず研究室の内線電話で事前に連絡を取ることになっている。
研究に集中するために独りになりたいのか、あるいは、単に人に会うのが煩わしいのか。いずれにせよ、彼は他の実験室や資料室に赴く時を除いて、この建物の中での時間のほとんどを―――それは同時に、彼の生活時間のほとんどを占めているとも言えるわけだが―――この決して広くはない研究室で独りで過ごしている。
私は、彼の研究にとって有用であるということを認められた経緯があるので、こうして定期的にここへ通う形になっているが……それでもこの研究室にとっては、機器の稼動音だけが微かに響くだけの静寂こそが、常なのである。
私は特に続ける言葉も見つからない、というか見つけるつもりも無いまま、お気に入りの帽子を外して部屋の隅の机に放り……そしてまた、瞬きする以外は一時停止したように微動だにせず手元の文章を眼で追い続けているその姿を見やった。

「………」

こうして会う度に……いや、会うというよりは、姿を見る度に、とでも表現した方が正確か。とにかく私は彼について、宇佐見教授と呼ばれるこの男について、いつも、思うことがある。
この男からは、どうして……なんというか、人間の気配、とかそういった類のものが、一切感じられないのだろうか。
生物的に人間である、ということは、そんなことを頭の中でいちいち考えることすら馬鹿馬鹿しくなるくらい当たり前のことなのだが……この男が存在する場所からは、部屋の備品や計測機器や記録装置と同じ程度の、無機物的な気配や存在感しか、発せられてはいないように思える。
決して希薄ではないが、あるべき主張を欠いた存在感。動物であるにも関わらず、物質の気配を纏う、その異様さ。
皮肉を込めて言えば、その姿はある意味で……この男が研究している対象達と同じ、世間一般の人間達がよく知る日常の世界からやや乖離したような、そんな印象すら受ける。

いや……表現するとすればむしろ、その逆か。

そんな、計器類と同じ存在感しか纏っていないはずのものが……何故か寸分違わず人間の姿をして、人間と、私とまるで同じように生命活動を営んでいる。
その事実が、どうしようもなく……言い方は悪いが、不気味、に感じられるのかも知れない。





そして、そう。
そんな……おそらくは酷く無礼千万で、しかしきっと的を射た表現と自負してもいいであろうことを、頭の隅で考えていたのが原因だったのだろう。










「……そういえば」
「……っ、え……?」

私が……この研究室を訪れた助手達の手によるものであろう研究資料の束を手にしたところへ、不意に掛けられたその声に、思わず間抜けな声を上げてしまったことも。

「……少し……話が、あるんだが」

この男が、他者に、他ならぬ私に意識を向けながら言葉を紡いでいるという状況が、まるで現実味の無い夢のようなものに感じられてしまったことも。

「……コーヒーでも、飲むかね?」

その口から発せられた、夢のまた夢にすら思うことのなかった提案に……思わず思考を停止させ、言葉を失ってしまったことも、全て。










今まで、研究に関する事柄以外には雑談の1つも交わしたことの無かったその口から投げて寄越された……ありふれた日常の一部としてはふさわしい、しかしだからこそ、この場所と彼の人柄について知る者にとってはあり得ないくらいに突拍子も無い提案。
はい、とか、結構です、とか、その程度の反射的な言葉すら返せないまま、私はしばし硬直して……ようやく、返事とも言えないような曖昧な声を漏らしながら、こくりと1度だけ首を縦に振った。

「……そうか」

確かに言葉を発しているのに相変わらず静寂が続いているような、奇妙な感覚の中。私は、部屋の隅に置かれたコーヒーメーカーへ歩み寄る男の姿を、まさに超常現象を眼の前にしているかのような気分でじっと見つめたまま、手近な椅子に腰掛ける。
普段なら、この研究室を訪れた者がぼんやりと呆けることなどあってはならないことだったが、少し温くなっているのかあまり湯気の立っていないコーヒーに小袋に入った砂糖を溶かし、それを私に差し出して自分の席に戻るまで、彼にそれを咎められるようなことは無かった。

「……どう、も」

ようやく取り戻した声でそう告げながら私は、一体どういう風の吹き回しだろう、奇跡でも起きているんだろうか、などと非科学的極まりないことを考える。
私はしばし物思いに耽り、やがて思い出したように、思った通りやや温度の下がっていたコーヒーを口に運ぶ。口の中に、確かに感じる苦味。特別美味いと思えるようなものではないが、ともかく……こうして味覚が正常に働いている以上、やはりこの出来事は夢幻の類ではなさそうだ、ということを再認識する。

「……どうした?」

不意にこちらに向けられた視線が、じっとその姿を見つめていた私のそれとぶつかる。

「あ……い、いえ、その……どう、というわけでは」

私はしどろもどろになりながら慌てて視線を手元の黒い水面に落として……しかし、やはりどうにも落ち着かない気分が拭えず、再び伏せた眼を持ち上げる。
あまりに挙動不審だった所為だろうか、その視線は未だ真っ直ぐに私に注がれていて。
私はなんだかそこに、本来あるべき感情の断片、とでも呼べばいいのか……ともかく、人間らしさの片鱗のようなものを、久方ぶりに見出した気がした。




















が。

「……っ……?」

そこで私は、違和感に気付く。

「(あれ……今、これ……)」

私は思うところがあり、今度は視線から逃れる為ではなく、能動的に手元のコーヒーカップに視線を落とす。
揺れる黒い水面が蛍光灯の光を歪ませながら反射するのを、しばし見つめてから……私はもう1度、苦味と目の覚めるような薫りを口に含む。

「……ん……?」

そう。苦い。
コーヒー独特の、微妙な酸味はあるが……味として感じるのは、それだけだ。

甘さを、まるで感じない。

「………」

そういえば、私もこの研究室でコーヒーを飲んだことは何度もあるが、これまでブラックコーヒー以外を飲んだ覚えは無い。
いや……それどころか。

「……っ……っ?」

そもそも。
ろくに来客も無いこの研究室に……砂糖など、置いてあっただろうか?
そんなものを使っている研究員達の、そしてこの男の姿を、私は、見たことが無い。




















と。
私が、そのことに気付いた瞬間。

「……―――――――――ッ」

世界が、横様に回転した。




















/////////////////////










正直なところ……私はそのとき、彼女に会うのが、怖かった。
彼女の身に何が起きたのかを知るのが、怖かった。

私は……なんとなく、予感をしてしまったのだ。
彼女の身に何か、取り返しの付かないことが起きてしまったのではないか、と。
その所為で……彼女は人前に、私の前に、姿を現さなくなったのではないか、と。

少しでも落ち着きを取り戻そうと、散歩をするように少しずつ速度を落とす足取りに反して、鼓動はなおも早まってゆく。

私の馬鹿な勘違いなら、それでいい。
ただ私が、そんな下卑た想像をしてしまったことへの自己嫌悪に呑まれるだけで済むなら、それに越したことはない。

全ての予感が、根拠の無い妄想であってくれるよう願いながら……私は足早に、乾いたアスファルトの上を歩き続ける。










/////////////////////




















部屋の景色が、90度傾いて見える。
顔のすぐ右にあるのは、冷たい壁……ではない。これは、床だ。
右肩が、右腕が、右側頭部が、打撲による鈍い痛みを訴える。だが……それを擦ろうにも、腕が思うように動かない。微かに身体を持ち上げることすら、適わない。

「……ぁ……っ、っっ?」

私は……自分の身体が自由を失い、床に倒れて転がっているのだということに気付くのに、しばしの時間を要した。

「………」

視界の中に、艶の無い黒い革靴が、硬い床を踏みしめながら近づいてくる様子が映る。
それが、表面に刻まれた皺の数が数えられそうなほど近づいても、首を持ち上げることすら満足にできず。眼球だけを必死で動かして、なんとか横目に見上げた先には……よく知っているはずなのにまるで見覚えの無い、男の顔があった。

「……っ、ひ……?」

冷たい表情の裏から、熱く迸り私に向けられる、背筋がざわつくような感情や衝動の混合物。全身に纏わりつくようなその気配に、柄にも無いか細い悲鳴を上げてしまう。
意識だけははっきりしているのに身体が動かない、俗に言う金縛りに良く似た感覚の中……私は、ついさっき自分の中にひとつの誤解が生じていたことに気付いた。





そこにあったのは確かに、生物らしさ、と呼んで差し支えないものではあったが。
それは決して……人間らしさ、と呼べるような代物ではなく。

「………ッ」

私が目の当たりにしたそれは、私が錯覚したものとは余りにも掛け離れた……動物の、雄としての、本能だった。





私の見知らぬ姿へと変貌を遂げた男は、爪の先で床を浅く引っ掻く程度のことしか出来なくなった私の傍らにしゃがみ込んで、横向きに倒れこんだ私の身体を転がして仰向けにする。
ひゅる、ひゅるとか細い呼吸を繰り返す私を見下ろすその顔には……何か、抑え難い衝動を寸でのところで辛くも抑え込んでいるかのような、余裕の無さが感じられた。

「……は、ぁ……っ……」
「……っ、く……ぁ、ぁぁ……?」

頬に、手が添えられる。湿った吐息が鼻にかかるくらいに、その顔が……今や機械とは似ても似つかぬ、醜い感情に支配されていることがありありと感じられる顔が、近づく。血走った眼から注がれる視線が首筋に絡み付いてくるようで、酷く気分が悪くなる。

「な……っ、ぁ、っ……ッ」

そして。
その不快感に、私が思わず顔を顰めた、次の瞬間。





「ん、ぐっ……?」

視界が、更に急激に接近した男の顔に多い尽くされる。

「ん、ぶっ……っ、ッッッ……~っ、ッッッッッッ!!?!?」

信じられないことに。
男は……その唇を、私のそれに、重ねたのだ。





何が起きたのか解からず、私はしばし視界の半分を男の黒い髪に覆われたまま硬直する。いや、実際は、身体を硬直させられる程度の自由すら残されてはいなかったのだろうが、少なくとも私の意識の中では私の身体は凍りついたように、錆びついたように、時を止められたように動きを失っていた。

「ん、ぐ……っ、っっっ、ぐ、ぅっ……!!?」

数拍の間を置いてようやく、自分が何をされているのかを理解し……そしてその状況に、先ほどまでの不快感を数倍に濃縮したような、身の毛がよだつ程の生理的嫌悪感を覚えられるだけの余裕が生まれる。
しかし、だからといってそのときの私には、押し付けられる滑り気を帯びた唇を拒む力も……更に、無遠慮に唇を押し開いて割り込んでくる舌の侵入を制止するだけの自由も許されていたわけでもなく。私はしばし、粘ついた水音を至近距離で聞きながら、熱く蠢く舌に無抵抗に口内を荒らされ続ける。

「ぶ、ぁっ……っ、け、ほっ……」
「……は、ぁぁ……」

実時間にしておそらく数秒、体感時間としてはそれよりも遥かに長く続いた、接吻などとは死んでも呼称したくない望まない接触が、ようやく終わる。私は咳き込み、口の中に残った味と感触と不快な臭いを追い出そうとするが……乱暴に吐き捨てようと思った唾は、半開きの口から流れ出すようにして、だらしなく床に滴り落ち小さな水溜りを作るばかりだった。

「……げ、ぇっ……っ、ぅ、ぇ……」

私は、男の指に顎を持ち上げられた格好のまま……揺れる視界の中に映る男について、身体とくらべれば随分とマシな動きをする頭で思考を巡らせる。





何だ。
一体、私に……この男に、何が起きている?

多重人格障害、催眠術、洗脳、薬物による錯乱、霊魂の憑依による意識の乗っ取り。
そもそも……この男は本当に、宇佐見教授なのか。寸分違わず同じ外見をした、別の誰か、何かという可能性は無いのか。
いやそれ以前に、根本的な問題として……私が見ているもの、感じているもの全てが、果たして現実であると言い切れるのか。目の前にあるものが夢、妄想、幻覚の類ではないということを、それを見ている私自身が証明する術などあろうはずもない。

脳裏に、自分の身に降り掛かっている、信じ難い事態の原因と思しきものが羅列されてゆく。
まるで……眼前の事象を何としてでも否定しようと、躍起になっているかのように。私の思考は考え得るあらゆる可能性を、解の候補として弾き出してゆく。





……が、しかし。

「……っ……」

私は……すぐに、気が付いてしまった。
自分が既に、真実に気が付いている、ということに。

「………」

ああ、そうだ。違う、そうじゃない。
そんな、極めて稀で非現実的な事象に、事の原因を求めるまでもない。
そのことに……私はとっくに、気付いているのだ。





何も今、私の眼の前では、超常現象の類のような特別なことが起きているわけではなくて。
単純に……この男が、隠していた本性を曝け出した、というだけの話。
これが、この男の正体であった、と……ただ、それだけの話だったのだ。

この男を突き動かしている衝動は、何も、今日初めて降って湧いた代物ではない。
その種は……私を含めた周囲の誰にも気付かれることなく、ずっと、この男の胸中に眠っていたのだ。





「……っ、はぁ……はぁ、っ……!」

その解に行き着き……腹の底が抜けて身体の中身が全て落ちていくような、絶望的な錯覚に襲われる私の眼の前で。男は額に汗を浮かべ、まさに昂ぶった獣のように余裕の無い凶暴な表情を浮かべながら、私に迫る。

「……ゃ……っ、ぁ、ぁっ……」

悲鳴を上げようにも、喉から搾り出されるのは蚊の鳴くような微かな音だけで。そんなものでは威嚇も牽制も出来ようはずもなく……男はしばし上から下まで舐めるように私の身体を観察した後、引き攣ったように不自然に曲がった指で、私の胸に掴み掛かった。
骨張った硬い指が、決して大きくは無い胸の膨らみにブラウス越しに食い込む。遠慮も容赦も、まして優しさなど微塵も無く、ただ身勝手にその感触を味わうような乱暴な接触。強く握られた乳房が、ずきり、と痛むが……それに伴い漏れ出た呻き声には、何の力もありはしない。
ただ情欲に駆られて浅まく嬲るその手付きに、愛情の類は一切感じられない。その眼はおそらく、私という人間ではなく、私の肉体だけを凝視していた。
やがて……男は更に息を荒げながら、小刻みに震える指を胸元のボタンに掛ける。カリ、カリと指先がボタンの淵を引っ掻く微かな音が繰り返されて……たったそれだけのことで隠そうともせず苛立ちの色をありありとその歪んだ顔に浮かべた男は、ボタンとボタンの間に無理矢理両手の指を捻じ込んで、力任せにそれを左右に引き裂いた。繊維の切れる音が立て続けに響いて、小さなボタンが方々へ弾け飛んでゆく。

「……っ、ぅ、ぁ……っ……」

無力。あまりに、無力だ。
私にはもう、どうすることも出来ない。
晒された下着姿の胸元に、更に乱暴に掴み掛かる、じっとりと汗ばんだ掌の動きを感じながら……私は深い絶望に、恐怖に、打ちひしがれる。



「……っ、ぁ……」

誰か。
誰でもいいから。
お願いだから……誰か、助けて。



頭の中で、顔も見えない誰かにそんなことを懇願する。そんなものに縋る自分が、またどうしようもなく情けなくなった。
もちろん……その祈るような想いが、この絶望的な現実に何らかの影響を及ぼすなどという超常現象が、奇跡が、起こるはずもない。私が呼ぶ『誰か』など、今、ここには存在しないのだから。

「っ、あ゛……ひ、っっ!?」

私は、突如胸の先端に絡みついた感触に、思わず自分でも情けないくらいに怯えた声を上げる。
胸の先端を、その突起の周りを……ついさっき、私の口内を荒らし回ったものが、這い回っている。
まるで、粘つく唾液を刷り込むようなその感触に……私は、否応無しに予感してしまう。自分の身体を好き放題に弄ぶ男の蛮行が、行き着く果て。この身体に向けられた、獣のような性的欲求が……理性を失くした男を、どんな行為に駆り立てるのか。
背筋が、ぞっ、と寒くなる。

「ゃ、あぁ……っ……!」

その予感を裏付けるように、男の行為は段階を経て着実に、私の最悪の想像へと近づき始める。舐めるだけでは飽き足らず、男は私の胸の先端を吸い、前歯で甘噛みする。もう片方の胸は、相変わらず湿った掌に蹂躙され続ける。

そして。
まさに文字通りの、男の魔手が、とうとう……その場所に、迫る。

「ひぃ、っ……!」
「……っ……っっ、はぁっ……!!」

胸元を離れ、臍と脇腹をゆっくりとなぞり、スカートの内側に隠れた太股を1度大きく撫で回してから……硬くざらついた感触が、私の両脚の間に、割って入る。
男の瞳に宿る欲望の炎が、にわかにその薄汚れた光を強くした気がした。

「ゃっ……ゃ、めぇっ……ぅ、ぇ、っっ……っ、っっ!!?」

狂気染みた男への恐怖の所為か、あるいは単なる時間経過の所為か……痺れた奪われた舌が、ようやく少しは意味のある言葉の断片を紡ぐことが出来る程度の自由を取り戻す。しかし結局、その程度で何が変わるわけでもない。この絶望と恐怖をアウトプットする道具が働きを取り戻したところで、それを伝えるべき相手が存在しないのであれば何の意味も無い。
私の呻き声など届くはずもない、仮に届いていたとしても耳を傾けるはずのない男は……とうとう、抵抗することも出来ず震えるだけの私のそこに、彼女以外の誰にも許したことのないその場所に、触れた。

「っ、ぐっ……っ、あ、あ゛っッッ!?」

最初に、ぐり、と下着越しに無理矢理指を捻じ込もうとするような乱暴な圧迫感があって。次いで、皮が引き攣るような痛みが襲う。
当然のことだろう。愛する誰かにされるわけでもない、ただただ気色が悪いだけの胸への刺激が、愛撫や前戯の類と同じ役目を果たせるはずもない。
しかし、まるで濡れも解れもしていない私の秘所を、男はなおも乱暴に圧迫し摩擦し続けて。そして……私に、自分が求めている女としての反応が期待できないことにようやく気付いたのだろう。
男は……自分の人差指と中指とを、第二関節まで口に含み、唾液を塗す。





「……ッ……―――――――――!!!」

ぬと、と糸を引いて口から吐き出された……生暖かく、唾液特有の不快な臭気を放つ潤滑液に塗れた、2本の指。
それを、つい数秒前まで続いていた寒気のするような行為と結びつけて考えてしまうのは、きっと自然なことで。そして……男の行為は、その恐ろしい予感を決して裏切らなかった。





おそらく自由に声を出せていたとしても叫び声すら上げられない程に、私が深く恐怖し、言葉を失って沈黙する中。
そこに愛があれば、本来私の内側から溢れていたであろうものの代用品として、男自身の唾液を纏った指が……何の準備も整っていない、私の秘所を押し開き、貫いた。
再び、多少の唾液程度では騙しきれない痛みが、下腹部から頭までを突き抜ける。

「ぎ、っっ……あ、ああ、ぁっ、んぐ、ん゛んんっ……ッ、ッッ!!?」

ようやく、喉から悲鳴らしい悲鳴が漏れるが……すぐさま、身体の内側でのたうっているのとは別の指が、私の顔を覆ってそれを力で押さえ込んだ。かろうじて浮かせていた頭がまた硬い床に押し付けられて、後頭部に鈍い痛みが走るが……それも、下腹部の痛みと不快感の前では吹けば飛ぶ程度の些細なものだ。

「い゛っ、んぶ、ん゛ん゛んんんん……っ、んぐ、ぅっ……!!」

男の指は、ぎちぎちと私の内側の肉を引き攣らせながら、抵抗感などお構い無しに内部へと押し入ってくる。関節が無理矢理に曲げられる度にぐに、ぐにと形が変わり、それがまた新たな痛みを生み出す。
しかし……男の指に犯されながら、私は自分の秘所に、微かな変化が現われ始めたのを感じる。ほんの少し、錯覚かと思うほど微かにではあるが……蹂躙される内部の痛みが、緩和され始めている。

痛い。苦しい。気持ち悪い。吐き気がする。
そんな最悪の感覚の渦とは裏腹の……女としての、反応。
まさか、と、悪寒を伴う絶望的な予感が背筋を凍らせる。

「ん゛っ……ッ、ッッッ……!?」

しかし……無論、私の心身がこの状況に順応し始めたなどということは、まかり間違ってもあり得ず。
それは単純に、この身体が異物の侵入に対抗する手段としての反応、私の意識とは別に働く純粋な防衛反応だった。

「……っ、は、っっ……」

自分でするときのように、湿りはしない。ただ最低限、男の指の侵攻に対する苦痛を和らげ、可能ならばそれを追い出す為だけの滑り気。

だが、しかし。
それが……盛った獣のように理性を失った男の眼に、そのままの意味で映るはずもない。

「……は、っ、ッッ……は、あっ……!」

差し込んだ指を微かに濡らすその感触に、男が、微かに口の端を歪める。
それを合図にするように……私の中でただでさえ無遠慮に暴れていた指の動きが、激しさを増した。
何かをこそぎ落とそうとでもしているかのように、曲げた指先で肉の壁を引っ掻き。侵入と後退を繰り返しながら無理矢理捻じ込むように手首を回し、滅茶苦茶な動きで辺り構わず私の中を動き回る。
望まない刺激は更に苦痛と嫌悪感を喚起し、しかしそれが、愛液という名前で呼ぶのも躊躇われる、防衛反応としての分泌物を過剰に滲ませて。その反応を自分の手腕によるものと勘違いし気を良くした男は、なおも刺激を強く、激しくする。

「あ゛、あ゛っ……ぃ、ッ……んぶ、っ……!?」

そして。
その、悪循環の果て。

とうとう……脳内に否応無しに映し出されていた最悪の場面に、現実が、追いつく。





覆い被さっていた男の身体が、1度私から離れ。
天井から部屋を照らす人工の光を背にしながら身を起こした男が……ベルトに、ズボンに手を掛けて。

そして……その、穢れた醜悪な欲望が、その具現が、眼の前に曝け出される。





もはや、悲鳴すら出なかった。
自分がみるみるうちに顔面蒼白なっていくのが見えずとも解かる程に、顔から一気に血の気と温度が引いていく。
苦痛と嫌悪感とでもう十分に流れ出ていたはずの冷や汗が、額から噴き出す。

「……ぁ……っ、ぃ、嫌、ぁぁっ……ッ……!?」

力の入らない首をぎこちなく左右に振りながら、おそらく私自身にしか聞こえないであろうか細い声が喉から漏れる。
男は、絶望の涙を浮かべて自分を見上げる私の両脚を、何の躊躇いもなく持ち上げ……男女が、愛の果てに営むべき行為の体勢を、無理矢理に、一方的に、力尽くで整えて。
そして、そこまでされても腕で押し返す程度の抵抗すら出来ない無防備な私の姿を、血走った眼で舐めるように見つめた後……ついさっきまで自分の指が埋まっていたその場所に、充血したグロテスクな肉の塊を触れさせる。
2度、3度と、滲んだ潤滑液を塗すかのように、硬く反り返ったその表面を下腹部に擦り付け。その先端を……私にとっては、身を貫く凶器にしか思えないそれを、狙いを定めるように私の入口へと押し付けて。





そして……男はついに、私を、犯した。





相手が男ではないとはいえ、他人と身体を重ねるのは初めてのことではない。
この身体も……既に、純潔ではない。

それでも私の身体は、男の侵入に対して……まるで初めてそこに物を受け入れたかのように、悲鳴を上げる。
引き裂かれるような、杭を捻じ込まれるような。この世のものとは思えない、意識すら消し飛ばされそうな激痛。
もしかすると、それは恐怖と絶望が私の脳に呼び起こした、本来は存在しない幻の痛みだったのかも知れない。



「――――――――――――ッッ!!!!!!」



肺と喉には、確かに叫んでいる感覚があるのに。
自分自身の声が、耳に届いてこない。
聞こえるはずのものが、聞こえない。










ただ1つ、聞こえたのは。





「……『   』……ッ……!!」





名前。

今、この場では聞こえるはずのない。
しかし……確かに聞き覚えのある、忘れようもない、名前だった。










朦朧とした意識の中、意思に関係なくガクガクと揺さぶられる景色が、少しずつ歪んでいく。

私のものではない、しかし私もよく知っている名前で、私のことを呼びながら……男がこの身に刻みつけ続ける苦痛から、逃れようとするかのように。
私の意識は少しずつ、あらゆるものを感じるその機能を、麻痺させてゆく。













/////////////////////










合鍵を使って足を踏み入れた、薄暗い彼女の部屋の玄関で私が最初に気付いたのは……サァ、という雨の日に似た水の音と、ほんの少しだけ湿度の高い空気だった。
靴を脱ぎ、恐る恐る部屋に上がる。私は、見慣れた短い廊下を数歩進み……右手のドアに向き直って立ち止まる。水音の源は、その先……バスルームから、聞こえているようだ。
少し視線を上げると、ドアの上部に設えられた曇りガラスの向こうに灯りが見える。

「……居るの?」

ほんの少しだけ震える声で、ぽつり、と呟くように呼び掛ける。返事は、無い。
水の音に掻き消されて、こんな小さな声では耳に届かなかっただろうか。それとも、灯りは付いていても彼女が中にいないということだろうか。
もしくは……居ても、返事が出来ない状況である、とか……。

「……っ……!」

我ながら最悪の想像が、脳裏を過ぎる。にわかに心臓が肋骨の内側で暴れ始めるのを感じながら、私はノックもせず、弾かれたようにドアノブを捻って脱衣所に踏み込む。
もう1枚、こちらは前面曇りガラスのドアを乱暴に開き、私は彼女の名前を、



「――――――っ!」



叫ぼうとして、しかしその前に、そこに人影が無いことに気が付いた。
湯気が立ち込める無人の浴室では、水音の主が引っくり返ったまま幾本もの細い水飛沫を何も無い空間に吐き出し続けているだけだ。
私は、頭の中に浮かんでしまった光景が現実のものにならなかったことに安堵し、そんな想像をしてしまったことへの自己嫌悪に苛まれながら……少し濡れるのを覚悟でシャワーヘッドを拾い、いつから出しっ放しだったのかわからないお湯を止める。

「……は、ぁ……」

脱衣所を出るとき、少し迷ったが……なんとなく心細いので、灯りは消さず、ドアも開けたままにしておいた。
そもそも玄関の灯りを点ければそれで済んだ話なのだが、そのときの私には……廊下の突き当たり、閉ざされた1枚の扉しか眼に入っていなかった。



その先には……彼女の寝室が、ある。










/////////////////////










私の体温で温み、私の汗でじっとりと滑った、硬い床の上。

幾度となく上下に揺さぶられながら、霞の掛かりゆく思考で、夢に想いを馳せるように考える。





何故この男は、私の母親の名前を知っているのだろう。
何故……もうこの世には居ないはずの、私の母親の名前で、私を呼ぶのだろう。





そして。
まどろむような不鮮明な意識の中……たっぷりと時間を掛けて、その問いに対する答えが浮かび上がる。
他ならぬ私自身が導いたその解は、至極単純で……どうしてすぐに思い至らなかったのかが不思議に思える程、あっけないものだった。




















ああ、そうだった

この男は……私の、父親なのだった




















私はそのときになって初めて、至極当然のことを悟った。
私が知っている姿が、父親の全てというわけではない。
まるで、そうプログラミングされているかのようにひたすら研究のみに時間と体力を費やす姿しか、私は知らなかったが……私の父親は、機械ではない。

あれも1人の人間であり……1匹の、雄なのだ。

至極、当たり前のことである。
でなければ……私など、生まれているはずもないのだから。










キィン、と耳鳴りだけが微かに聞こえる、錯覚の生み出した静寂の中。歪む視界に映る歪んだ男の顔が、さらにその歪みを酷いものにして。
覆い被さった身体が、ビクン、と震える気配があった、直後。

腹の底に……じんわりとした熱が、広がった。










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ドアを開いた先にあったのは、確かに見覚えがあるはずの部屋で。
けれど……私はそれを眼にした瞬間、その変わり果てた景色と記憶の中のそれを合致させることが出来ず、ほんの数秒間思考を停止させた。

背後から、ドアノブを握った私の形そのままに影を落としながら部屋に細く差し込む人工の光。
それが照らし出すごく限られた範囲だけを見ても……私には、部屋の中がまるで空き巣が荒らして回った直後のように乱雑に散らかっているということが理解出来た。

蓮子は決して、整理整頓を徹底するような几帳面な性格ではなかったはずだが……それにしても、この惨状はあり得ない。
明らかに……何か、日常ではないものが荒れ狂った、痕跡。

異常、異変……そんな不穏な言葉が、私の脳裏を過ぎって。





そして。
私はようやく、気が付く。

部屋の隅からこちらへ向けられる、視線。
かつて1度も向けられたことのない……怯えきった、その、視線に。





そして。
私が、何か声を発するよりも早く。
狭く暗い部屋の隅から私に向けて。





地獄の底から響くような悲鳴と、絶叫と……枕元に積み上げられた本の塔の一部が、投げ付けられた。










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気が付くと、そこには














     
毎度どうも、季刊「頽廃秘封倶楽部」です

と、書こうと思ったら半年近く経ってました
そういえば前回と前々回の間も半年近く空いてました
とりあえずお題決定までに書き上げられて良かったです

たぶん次で終わる、予定
失踪しない程度に頑張ります
楽しみにしてくださってるという奇特な方は、まぁその、気長にお待ちください
かづき
コメント




1.名前が無い程度の能力削除
相変わらずの頽廃っぷり。いいですねえ。
勿論毎回楽しみにしていますとも!
のんびり待っておりますので、作者さんのペースで書き上げてくださいな。
2.名前が無い程度の能力削除
読まなければよかった(誉め言葉
胸糞悪くなりました
3.名前が無い程度の能力削除
良い意味で陰湿な空気が生々しいです
犯される最中の嬲り方が細かく丁寧でぞくぞくしました