真・東方夜伽話

eraudon22+23+後日談

2010/10/26 01:56:11
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eraudon22+23+後日談

紺菜

 









 さらさらざわざわ。

 笹の音。
 竹の音。
 風の音。
 こすれて流れる音。

 沢山の音。
 音をつたう。
 音をながれる。
 つたいながれてたゆたう。

 大切なもの。

「ちっ。この。抜けられた!」

 大切なひと。

「回り込んで! 頭を押さえるわよ!」

 ずっと見てた。

 さらさらざわざわ。

 音にまぎれる。
 音にすべりこむ。
 まぎれすべりすすんでいく。

 言われたもの。

 言われた通りにおいてきた。

 なのにいつもとちがってる。

「私たちから逃げようだなんてそうはいかないわよ」

「諦めなさい」

 どうして?

 わからない。

 わからないから教えてもらう。

 教えてもらうから。

「じゃま」

 しないで。

「ふん。邪魔はお互いさまよ」

「どうしても通りたいなら、私たちを弾幕ごっこで倒して行きなさい」

 弾幕ごっこ。

 知ってる。
 それ知ってる。
 けどやったことない。
 だから初めて。

「する」

 ちょっと、楽しみ。

「鵺、弾幕ごっこする」

 ゆらゆらゆれる笹の川。
 ぷかぷか浮かぶ鈴仙とてゐと鵺。

 みんなで一緒に弾幕ごっこする。
 


xxx  xxx



 昨日の遊び疲れも、朝までぐっすり眠ればすっきりとれていた。

 珍しくさっぱりと爽快な目覚めを迎えた私は、ばっしゃばっしゃと顔を洗う。
 火照った顔に冷たい水が心地いい。
 暑くもなく寒くもなく、季節をふと忘れてしまいがちだけど暑苦しい寝苦しいよりはずっと快適。
 つけ加えるなら、この気温を保ったまま朝陽とか浴びれるとさらに気分がよくなるんだけど。

 俗人たる下郎の住処となれば、そこまでの気配り心遣い雅に対する造詣を求めるのも酷というもの。
 今はこれで我慢するとしよう。

 顔についた水滴をふわふわの手拭いでふき取り、鏡を覗き込む。
 いつも通りの私の顔がそこに映りこんでいる。
 月の姫ともなれば肌も一級品。
 例え海辺で一日過ごそうとも日焼けやシミのあとなんて一ナノミクロンたりとも残らない。

 紫外線?
 はっ!
 この蓬莱山輝夜の肌を焼こうなどと、大雪山颪もいいところ。
 Ⅹ線も超電磁スカラー波もまとめて空間歪曲させてやるわ!

 地球上で最強たる証を確認したあと、いつぞやこの鏡を覗き込んで驚かされたことをふと思い出す。
 半眼になって見据え返してくる鏡に向かって、私は軽くジャブをシャドー。

「私は逃げも隠れもしないわよ。しゅっしゅ。いつでもかかってきなさいよ。しゅっしゅ」

 鏡の中でダッキングする私をしばらく眺めてみるが、私の行動から外れるような真似はしなかった。

 ふ。
 恐れをなしたようね。

 また勝利を重ねてしまった。
 私の栄光に自分自身畏怖しながら浴室を後にする。
 身支度も整ったし、そろそろイナバか永琳――あるいはあの下郎が私のために朝食を運んでくる頃合い。
 姫は慌てず騒がず座して待つのがその作法。

 ぐごぎゅるるるるるくきゅう。

「おい、下郎! ちょっとおい下郎! 姫がお飢えなさっておいでよ!?」

 私は閉じきったままのドアをバンバン叩いて文句を並べていた。
 盛大に訴えてくる腹の虫とともに。

「姫様はね、一日三食におやつをきっちり食べないと死ぬのよ!? 私が言うのだから嘘じゃないわよ! それはそうと今日のおやつはカキ氷を所望するわ! 名水を使った細雪がごとき氷に蜜をうんとかけたものを三〇秒で用意しなさい!」

 派手にドアを叩いてもしんと静まり返ったままなんの反応も返ってこない。
 聞こえるのは私の声ばかり。
 空腹もあいまって苛々を募らせた私は、いかにも握りやすいドアノブをつかんでガチャガチャとやった。

「誰の話を聞き逃しても姫の言葉を聞き逃すんじゃ――」

 不意に、私の身体が前のめりにつんのめった。

「ないわぶっ!」

 支えを失いそのまま顔から倒れ込んだ。
 ごちんと顔を打って目から溶岩が噴火した。

 鼻が!
 姫の高貴な稜線がっ!

「ぷおおおおおおおっ!」

 顔を覆ってごろごろと転がり悶えた。

 私の完璧な美貌にとって鼻が一ミリ下がるだけでも人類の大損失だというのに!
 もしやこれは、私の美しさを嫉妬する何者かの陰謀!?
 やらせはせん、やらせはせんわよ!

「ぷおおおおっ!? ぷおッ、ぷおおっ!」

 素早く起き上がった私は明後日の敵を威嚇する。

「ぷお?」

 身構えた私が目にしたのは見慣れた粗末な馬小屋がごとき光景ではなく、廊下に連なるドアの群れ。
 私が倒れ込んだ場所は、海に行く前にちらっと目にした部屋の外側だった。
 振り返ると今まで鍵のかかっていたドアは確かに開いている。
 鼻も痛むし相変わらず胃袋は困窮を訴えてきているから、今も夢の中というわけでもなさそうだ。

 痛む鼻を押さえてひとまず明後日の方向に向けていた敵意を飲み込む。
 鍵をかけ忘れた――などという単純な理由ではなかろう。
 かどわかして以後あの男が私への監視の目を緩めたことなどない。
 海に出ていたときでさえそうだった。

 私が一人になろうとするとあの男の視線がそれとなく向けられていた。
 あの男は離れている間は永琳が補い、常に監視の目が絶やされることはなかった。
 私とて遊びながらでもその程度は勘付いている。
 問題は、おそらくは昨日の海水浴をきっかけにこうして鍵を開け放つあの男の意図。
 なにを思い、私の行動を範囲を広げるに至ったのか。

「ふむ」

 それは今知らなくとも良い問題だ。
 私には文字通り永遠がついている。
 時間は果てしなく私の味方だ。

 そう。
 毛嫌いした穢れから目を背けず、真っ向から対峙するならば――私に負けなど存在しない。
 私が誇りを手放すことがない限り、勝利を供に連れ添っているのだ。

 ならばどうするか。
 決まっている。
 私をあの狭い馬小屋から解き放ったことを後悔させるまで。

「私の我侭、思い知るがいーっ!」

 そうと決まれば話は早い。
 突撃あるのみ!
 突撃、粉砕、大厄災よ!

 前日イナバに連れ出されて道順は知っている。
 道順に迷う必要すらない簡単な構造だ。
 私は広間に向かって粛々と歩みを進めた。

 粉砕すべきは下郎ただ一人。
 真の破壊とは目標をただ一点のみ破壊しつくす収斂された力そのもの。
 身のうちのたぎりを皮膚一枚隔てて押さえ込み、それをぶつける機会を得る。
 そのためには冷静な判断力を常に維持し続けること。

 いつか油断を見せたとき、その咽喉笛を食い破ればいい。
 月の姫たるもの、無論虫歯など一本もない健康丈夫な真っ白永久歯よ!
 永遠なだけに。
 永遠なだけに。

 重要な部分を反芻しつつ、私は廊下を出て広間へとたどり着いた。

 いた。
 探すまでもそこに下郎がいた。
 大人数で向かいあえる大きなテーブルに脚を放り上げ、イスの一つを傾けながら礼儀作法などとは程遠い格好でくつろいでいる。
 私の姿に一瞥も向けることなく、ぼんやりと天井を眺めたまま白痴のようにぽっかりと口を開けていた。

 きしきしと軋む背もたれを思いっきり引き倒してやりたい欲求に駆られたものの、むやみに突進したところですぐイスを引いて対応するだろう。
 さて、どんな罵声を浴びせてやろうかと思案しつつ、口を開く前に私の鼻は嗅ぎなれない異臭を嗅ぎとった。

 すえたような、焦げ臭いにおい。
 片眉をしかめて睨み据える。
 下郎を観察しているうちに、指に挟まれた細長いものからゆるりと紫煙が立ち昇っているのが見えた。

 これは、煙草……だろうか。
 永遠亭で吸うものなどいなかったし、月の都でも嗜まれるものではなかった。
 幻想郷の人里においていくらか普及はしているらしいが、あまり好ましいものではない。
 特にこの下品で粗野なにおい。
 私が座った眼差しを向ける前で、下郎は手元でくすぶる細巻きをくわえて、煙ごと平然と大きく息を吸い込んだ。

 じりじりと先端が赤く焼け、一拍遅れて口から煙を吐き出す。
 不快なにおいが広間に濃く広がった。

「……不健全なる肉体には、邪な魂が宿るとはよく言ったものね」

 私は袖をパタパタと扇いで濃度が増したにおいを遠ざけると、不快さを隠すことなく下郎を睨んだ。
 煙を吸い込んで吐き出すのもそうだけど、このにおいを気にも留めないなど私にはまるで理解できない。
 香炉から上がる香木が焼ける香りとは、比べること自体がバカバカしくなるほど質が違っていた。

「ろくに日の光も浴びずに、こんな穴倉にこもっているから根腐れてしまうのよ。少しは日の当たる場所にでも出てみなさい」

 この下郎の腐った部分が回復することなどあり得ないだろうし、この日陰者がたちどころに善人になるなどとも思っていない。
 単純に閉じ込められていることが嫌なだけだ。
 イナバたちは連れ出しているようだし、外に出れば出たで私もそれなりに楽しめる。
 私の言葉に、下郎はようやく反応らしい反応を見せた。
 といっても、私を横目にちらりと一瞥しただけで、返事のかわりにぷかっと煙を吐き出しただけだが。

 ああ、本当に忌々しい男だこと。

「遅かったな」

 ぷかぷかと煙を吐き出しながら、私の苛立ちを気に留めたようすもなく下郎は口を開いた。
 細巻きの煙草を口にくわえたまましゃべるという、随分器用な真似をしている。

 私は慎重に距離を保ち、向かい側に回り込んだ。
 対面には一人分の食事だけが用意されている。
 この場にイナバたちの姿か見えないのは、普段よりも遅い時間帯だからだろう。
 照明と腹具合に頼るこの環境では時間感覚も怪しいものだ。

「遅い? 誰に向かって言っているの。定刻になっても呼びに来ない貴方の落ち度を、さも私の手落ちのごとく言うのはやめてもらおうかしら?」

「へっ」

 私の威嚇を鼻であしらい、男は相変わらずだらけたままちびた細巻きを灰皿で押し潰した。
 すかさずもう一本新しい細巻きを取り出したのを、視線でけん制する。

「私の前でそのすえたにおいを漂わせるのはやめなさい」

 においに当てられるのもそうだが、服に染み付きそうで不快だ。
 それが火口箱なのだろう、手の中に収まる程度の銀色のなにかを手にしたままあいつは視線をこちらに向けた。

「俺が、お姫様の言葉に従う道理なんてあんの?」

「私は月の姫。貴方は地上の下郎」

「……なるほどね。承りました、と」

 男は火口箱の蓋を開け閉めし、金属が擦れあうある種耳に心地の良い音を奏でながら口にくわえた細巻きに火をつけなかった。
 相変わらず皮肉に吊りあがった口元に苛立ちが残らないでもないが、まだまだ許容範囲内。
 蓬莱山輝夜も気の長くなったことね。

 けれどこれで妙に静まり返っていることに得心がいった。
 朝食に起きだしてきたのは私が最後だったらしい。
 私が口をつける前に食事を済ませてしまうので礼に欠くが、礼の字を持たないこの男の影響が強く出ているのだろう。
 ここでの戦いは互いの影響力をどれほど浸透させるかに尽きる。
 永琳やイナバたちを失ったのはそういうこと。

 だが、私がこの男に染め上げられない限り戦い方は残されている。
 私から永琳たちを奪ったように、心に完全無欠などあり得ないと知った。
 ならばこそ、再び私の威光を知ら示し改めて心酔させるに至ればよい。
 私と下郎とで、この場に住む者にどれほど影響を与えることができるか。
 弾幕ごっこのような華美はなくとも、間違いなくこれは闘争。
 言うなれば平安の宮中でもあった、権謀術数を用いた武力に拠らない静かな争いだ。

 力を奪った私に対して力づくに進めなかったこと、一生後悔させてあげる。
 その首真綿で〆殺してくれるわ!

「自分の身の程を理解した上で、まだこの戯れを続けるつもりかしら? 言っておくけれど……貴方には億に一つの勝ち目もないというのに」

「戯れねぇ」

「私は、じゃれてきた子猫の首でもこきゃっといけるわよ?」

「命懸けかよ。大人げねぇよ」

「その台詞、千年前に言うべきだったわね! 言ったところで首を刎ねていたでしょうがね!」

「暴君極まりねぇ」

 席についても売り言葉に買い言葉を装い、私は相手の出方をうかがっていた。
 引き出せるものがあれば全て引き出す。
 私が下郎と二人きりになったときにしておくことはそれだ。

 無為な言葉を重ねて油断せしめ、少しでも多くの手がかり足がかりを手にする。
 永琳たちとの関係性、この男の出自、現状における不可解な点、なんでもいい。
 その材料を元に判断し、じわじわと影響力を強める。
 勝負に焦って直ちに決着をつける必要はなく、わざわざ下郎の土俵に登る必要はなかった。

 永遠を生きる蓬莱山輝夜として、この下郎の打ち負かせばいい。
 五〇年か、それとも一〇〇年か。
 その一〇倍をゆうに生きる私にとって、下郎の一生などまさしく須臾の瞬きに過ぎない。
 時間を味方にする私に敵など存在しないのだ。

 この数奇な境遇も気紛れな一時に過ぎないのなら、憂う必要などそもそもなかった。
 私が私であり続ける限り、何も変わりはしないのだ。
 いや、いくら環境が移り過ぎ変わったところで、私たる蓬莱山輝夜とは永遠にして不滅なのだ。
 誇りを自ら打ち捨ててしまわない限り、心まで穢されはしないのだと私は気がついた。
 
 ならばこそ、敵対者よ。
 永遠に続くこの無聊を一時でも慰められるのかどうか。
 私にもたらすものは敵愾心を越えることはないのか、それともその先があるのか。
 貴方という人品を見定めることに、私の須臾を費やそう。

 光栄に思いなさい。
 私の前でその位置に立ったものは、私の人生においても決して多くはない。

「さて下郎。貴方はいつまでそこで腸を抜かれ開かれたフナのように干されているつもりかしら? 姫が食事をしようというのだから、この場に永琳を呼ぶのが筋というものでしょう?」

 いずれにせよまずは影響力の地盤固めからだ。
 それには密接な関係を再び築くことにある。
 永琳にせよ、イナバたちにせよ、日々の会話を重ねることがまず第一歩。
 いつまで下郎との無為な会話を続けていても気が滅入ってしまうというのもあった。

 立場は変われど、私の知る顔が揃っていることは僥倖。
 気心の知れた永琳たちがいれば、私の心もいくらかは慰められる。

「一人で飯も満足に食えねぇの?」

「一人で全てをこなす必要などないのよ」

 私の才能を補うものたちで囲まれているなら、私は完璧であることに違いない。
 補佐を得ることもまた王者の気風だ。

「そりゃまた随分と贅沢なことで」

「諧謔は聞き飽きたわ。耳が食傷を起こしてしまいそう。イナバでもいいからこの場に呼びなさい。下郎手ずから振舞われる食事はこりごりよ」

 私の要請に、しかし下郎は従う素振りも見せずに指に挟んでいた細巻きをくわえた。
 睨みつけてけん制するも、下郎はもてあそんでいた火口箱の蓋を開き、火をともした。

「呼んでも来ねぇよ」

「あら。とうとう三行半を突きつけられたのかしら?」

「売った」

 ちりちりと先端を炙りながら呟いた言葉を、私は即座に理解することが出来なかった。



xxx  xxx



 よし。

 浴室にある鏡の前に向かって私は頷いた。
 潮風を浴びてぱさついていた髪も、今は以前の潤いを取り戻している。
 海水浴の後、すぐに大浴場に連れて行って貰ったのが良かったのかもしれない。

 どこも乱れたり跳ねたりしていないのをしっかりと確認し終えて、私の意識はポケットの中の膨らみに向いた。
 そっと取り出すと、出てきたのは一輪の赤い睡蓮。
 ご主人様から贈られたかんざしだ。

 べっ甲を加工して作られた花弁のすべすべとした手触り。
 ご主人様の贈り物にはただ物品を受け取っただけというだけではなく、その前後にある思い出もつき物だった。
 このかんざしから思い出せる思い出は――

『お似合いですよ。兎のお姫様』

「……」

 私を気恥ずかしさに染めるに充分だった。

 今までにご主人様との関係性が変わる機会は数多くあった。
 けれどその中でもこの睡蓮のかんざしを贈られた日は、私の記憶に新しくも大きな変遷を迎えたと言うに値する物。
 最後に残ったわだかまりを吐き出して、そしてご主人様の持つ過去に触れた思い出。
 名前まで捨ててしまった男の人の話。
 向けられる強い愛情の根拠が見えず、どこか不信で、不安を抱えていた私が、大きく一歩踏み込んだ日。

 私は手にしたかんざしを前髪に当てて、鏡の中を覗き込む。
 何気なく空いた手で後ろ髪を束ねつかんでみた。

 今まで別段容姿や服装を気に留めた事もなく、髪型一つにも気を配った事はなかった。
 けど、これからは少しくらいは気にした方がいいのかもしれない。
 髪を結った自分の姿を想像して、あの人はどんな反応をするのか夢想して、日焼けした肌がむず痒くなってしまった。

 持ち上げていた髪を急いで降ろして撫でつける。
 今までそういった事をしてこなかった私が、ある日を境に急にそんな真似をしだすには勇気がいる。
 海水浴に連れて行って貰ったその翌日に色気づくなんて、幾らなんでも露骨に過ぎる。
 ご主人様も含め、周囲から何を言われてしまうのか判ったものじゃない。
 そういうのは出来るだけ自然に目立たないようにして、小さな変化に気がついて欲しい。
 肌が海に焼けた今それをすると、首の白さが際立ってしまって目立つ事この上なかった。

 髪に当てていたかんざしをポケットに押し込み、私は慌しく浴室を後にした。
 あの人の気を引くような真似は、もう少し私が勇気を持てる日まで棚上げしておこう。

 まずは広間に向かって、多分今頃朝食の準備をしているご主人様か師匠の手伝いをしよう。
 ひょっとしたら昨日の遊び疲れが出て、珍しく今も眠っているかもしれない。
 だとしたら、私が朝食の用意をしよう。
 私だって家事がまるっきり出来ない訳じゃない。

 部屋を出て廊下を歩く足取りは自然と軽くなっていた。
 今日も一日が始まる。
 賑やかで穏やかな日常が繰り返される。
 平穏な日々を積み重ねていけば、いつかあの人の心の傷も埋められて、痛みに苛まれる事もなくなるんじゃないか。
 そんな私の願いも含めた想いが、今は強く胸の内にあった。

 廊下を抜けた私の目に、あの人の姿が飛び込んでくる。
 
「ご主人――」

 予想していなかった訳ではなかったので、元気の良い挨拶を送ろうとして、

「様……?」

 私は言葉を詰まらせていた。

 広間にご主人様がいる。
 食事の準備をしているならキッチンの向こうにいるのかと思ったけれど、気だるそうに椅子に腰掛けていた。
 それは何もおかしな事じゃない。
 そういう格好は部屋でも良くしていたし、普段からあまり行儀が良いとは言えなかった。

 強い違和感を感じたのは、嗅ぎ取った広間を漂う空気。
 比喩ではなく、煙たいほどに揺らめく煙の為だ。

 料理を焦がしているとか、そういうのとはまた違う。
 火元はご主人様の口元から伸びている煙草。
 ご主人様は煙草を吸っていた。

「……?」

 私の呼びかけが聞こえないはずはない距離なのに、ご主人様は広間に入った私を気に留めて視線を向けてくる事もなかった。
 ただ、気だるそうに口から紫煙を吐き出し天井に揺らめく様子をぼんやりと眺めている。
 大雑把に天井へと向けられた目は、まるで魂でも引き抜かれてしまったかのようだ。
 そんなご主人様の態度に戸惑いながらも、少しばかり反感を覚えないでもなかった。

 煙草は吸わないって約束したのに。

「あの、ご主人様」

 再び呼びかけて、ようやく視線が私に注がれる。
 特別きつくもなく、だからと言って優しいとも言えない、ぼんやりとした眼差しだった。

 なんだか、私を初めて見るような目。
 ご主人様が私との約束を破った事への不満を思わず飲み込んでしまった。

「ああ」

 沈黙を破ったのは、ご主人様の気だるいうめき声に似た声だ。
 黒い瞳に光が差したような錯覚を覚えた。
 視線を向けているものの私を見ているようには思えない――まるで何も見ていないかのような瞳に、意志の光が宿った。

「てゐ」

「……え?」

「呼んできとくれ」

 ぽつりぽつりと細切れにされたような言葉に、ひどく余所余所しい視線を向けられ面食らっていた私は、すぐに答えることが出来なかった。
 私の答えを待つ事もなく、ご主人様は視線を天井に戻すとくわえた煙草をちりちりと燻らせている。
 その場に立ち尽くし、様子のおかしいご主人様を凝視するばかりだった。

 あれだけ親しく接していてくれたのに突然手の平を返したような態度を見せられる不満と、何か怒らせるような真似をしてしまったのかという不安。
 そのどちらも口にする事なく、私は妙に渇いた咽喉を鳴らして言葉を吐き出す。

「お、おはよう、ございます……」

 間が抜けているのかもしれない。
 私はまるで見当違いな事を口走っているのかもしれない。
 けど、いつも挨拶だけは欠かさなかった。

 朝に出会えばおはようと、眠りに着く前にはおやすみと、ご主人様はいつも笑顔で私に言ってくれていた。

「……」

 私の挨拶に、返事はなかった。
 てゐを呼びに行けと言われて急かされる事はなく、けれど幾ら待っても挨拶が返される見込みも感じられない。
 まるで私の姿が見えていないように、ご主人様はぷかぷかと煙を吐き出している。
 愚図と思われるのは嫌なので――重苦しい沈黙に耐え切れず――私は目を伏せその場で回れ右をした。

「行って、きます」

 未練が私の口を突いて出た。
 私の言葉に何か反応が欲しかった。
 優しい言葉でなくてもいい。
 意地悪なからかいだったとしても、私の心を楽にしてくれただろう。

「……」

 ご主人様は言葉を返そうとはしなかった。
 肩越しに振り返って様子を盗み見ていても、ご主人様は上へと立ち昇る煙がくゆる様子を眺めているだけだった。
 重たい空気に押し流されるように、私は歩いてきた廊下を戻った。



 私は部屋で眠っていたてゐを起こし、身支度もそこそこに言われた通り広間へ連れて歩いていた。

「なによぉ、私まだ寝てたのに。急に起こして」

 てゐの機嫌は悪く、腫れぼったい目元をごしごしと手で擦っている。
 元々てゐの朝はそれほど早くない上、ろくに説明もしてないのだからむずがるのも当然だろう。

「う、うん。ちょっとね」

 あのご主人様の態度を私は上手く説明出来ない。
 元々気紛れな部分はあった。
 だから今回も何か私を――私たちを驚かせようと密かに企んでいるのかもしれない。

 それは本当に?

 口が重くなってしまうのは、私自身不安が強いから。
 約束を破られたから、というのも少しはあるけれど、それが全てじゃない。
 なんとなく、ご主人様と煙草という組み合わせに不吉なものを感じてしまうから。

『イナバか』

 ぞんざいな口調が脳裏に甦る。
 前触れもなく、まるで人が変わってしまったように暴力的になったご主人様との一幕を思い出していた。
 粗野な雰囲気を放つその姿は、身体を重ねる事にとっくに慣れていたはずなのに、見知らぬ男に組み敷かれて犯されるような恐怖感に、私は頭が真っ白になった。
 あの時の恐怖が胸の奥でざわめいている。
 だからあの時、私は名前を呼ばれたかった。

『何? 鈴仙』

 あの時と同じように、私の心配などなんでもないと名前で呼んで欲しかった。
 結局あの時何が理由でご主人様が豹変してしまったのか、理由は判らない。
 ご主人様は私との約束を守って煙草を吸う事もなく、変わらぬ愛情を一身に降り注いでくれたから。

 それは、果たして正しかったのだろうか。
 ご主人様が何故別人のように様変わりをしたのか、あの時踏み込むべきではなかったのか。
 直後でなくても、今までその機会は幾らでもあった。

 怖かった。
 だから先送りにした。
 心地良い日常に流されて、不都合なものから目を逸らしていた。
 その溜まりに溜まったつけが、ひょっとして、今日この日に――

「鈴仙」

 間近で呼ばれた声に、心臓が飛び出してしまうのではないかと思う程大きな鼓動を打った。

「どうしたのよ。顔色が真っ青になってるわよ?」

 足取りの重さにいつの間にか立ち止まっていたのか。
 立ち呆ける私をてゐが見上げていた。

「あ……うん。なんでもない」

「それがなんでもないって顔? 見え透き過ぎて嘘にもなってないわよ。なにかあったの?」

「……ううん。本当に、なんでもないのよ」

 ただの思い過ごしだ。
 悪い方へ悪い方へと考えが飛躍していく、いつもの悪い癖だ。

 だって、いつもと何も変わらない朝だもの。
 何の悪い前触れもない、楽しいままに過ごした一日の翌日。
 この先、一体どんな悪い未来が待ち受けているなんて言うの?
 今の生活を阻むものなんて何もないのに。

 何度も首を振って悪い予感を振り払う私に、てゐはぱっちりと大きな目をじとりと半眼にしながらも呆れたようにため息をついた。

「意固地ねぇ。まぁいいけど。そこまで言うなら訊かないけど、心配事でもあるんなら今日は貸しにしてあげよっか?」

 てゐはすぐに私への追求の口を止め、そんな事を言い出した。
 私とてゐの間で貸しとか借りとか口にする場合は、どちらがご主人様と――ごにょごにょ――するかどうかという事で暗黙の了解が通っている。
 色を好むご主人様が相手なんだから、ずっと愛され続けるという訳にも行かず、必然的にそうなってしまう。

「……うん」

 今でもだいぶ借りを作っているけれど、私はにやにやと笑うてゐの申し出に頷いていた。
 てゐの事だから大きく貸すつもりなんだろうけど、それでもいいと思った。
 今も胸の奥で捩れている不安が解けるなら、決して高くつく訳じゃない。
 ご主人様と話して、一緒にすごして、肌を重ねれば――お互いの温もりを伝え合えば、こんな不安なんてすぐに吹き飛んでしまう。

 今までだってそうだった。
 これからだってそうに違いない。
 
 私が警戒もせずに頷いたりしたからか、貸しを売り込んできたてゐの方が目を丸くしていた。

「驚いた。ヘタレイセンのことだからてっきり値切りから始めると思ったのに」

 む。

「な、なによぉ。ヘタレイセンって」

「そのままの意味でしょ」

 唇を尖らせた私に、てゐはあっさりと悪びれもせずに答えた。
 姫様が事あるごとに私の事を増長していると言ってくるけれど、それはてゐが一番じゃないかと思う。
 元々生意気で、私の命令も右から左で、おまけに遊んでばかりで私がとばっちりを受けてばかり。
 永遠亭にいた頃よりもあくどくなっている気がするのは、きっとごあの人の影響だ。

 波長が合うみたいだし、二人そろって私に意地悪するのが趣味だって公言するし。
 ああ……考えていたらなんだか段々腹が立ってきた。
 もやもやがむかむかになって、不思議な事に少し肩が軽くなった気がした。

「ほら、あいつが呼んでるんでしょ? 早く行くわよ」

「う、うん」

 てゐに促されて歩き出す。
 ひょっとして、私が気落ちしているのを見てわざと怒らせるような事を言ったりして、てゐは発破を掛けてくれてたんだろうか?

「なによ、人の顔をじっと見たりして。言っとくけど、私に鈴仙みたいなそっちの気とかないから」

「わ、私だって……ちょっとしかないわよ」

「あるんだ。せっかくだけどその気持ちは熨斗をつけてお返しするわ。引くわ」

「そ、そういう意味じゃないわよ!?」

 ないかな。
 てゐに限って私を励ましたりとか。

「これからは二人っきりになる時は注意しないとね。いくら私がか弱い兎でも、大人しく襲われる趣味はないしー」

「あのね……私だって相手を選ぶ権利くらいあるんだから」

 歩調を早めるてゐの後に続いて、私はため息をついた。
 
「じゃあ誰ならいいの?」

「それは、当然師匠とか――」

「お師匠さまー!」

「やめてっ!」

 師匠には敬愛とか思慕とか、そういうのであって!
 恋愛とかとはまた違う感情なのであって!
 言うなれば淡い恋心とか叶わない初恋というかとにかく見ているだけで幸せな性欲とは違う感情なのよ!

 脱兎のごとく走り出したてゐの背中を追いかけて、私は内心言い訳をまくし立てていた。
 今までずっと胸に秘めたまま表に出さなかったこの想いが、逃げ場のないこの場でばれたりしたら――
 い、いやぁ!

 私の追い足に必死さが加わり加速する。
 背中を捕まえ、そのまま有無を言わさず抱き上げた。
 足が床から離れてしまえば、幾ら逃げ足の速いてゐだって走る事もままならない。
 背後からしっかりと羽交い絞めにしたものの、てゐはじたばたと空中を掻くように暴れた。

「お、犯されるーっ!」

「人聞きの悪い事言わないの! 誤解されるでしょ!?」

 ましてや師匠に聞かれてしまったら、その後一体どんな反応が返ってくるか。
 想像するだけで恐ろしい……!

「むがっ。むががっ」

 ある事ない事を大声で叫びたてるてゐの口を手で塞ぎ、私は慌てて師匠の姿を探した。
 すでに廊下から広間に出ていたけれど、見渡す限り師匠の姿はなく、キッチンの奥で料理をしている様子もない。
 ほっと胸を撫で下ろして、ふと素朴な疑問に思い立った。

 師匠はどうしていないんだろう?
 普段なら私よりも早く起きて、ご主人様と一緒に食事の支度をしているか、あるいはご主人様よりも早起きなのに。
 今朝目覚めてから、私はまだ一度も師匠の姿を見かけていない。

「……あいたっ!?」

 私の疑念は手の平の痛みに割り込まれて掻き消された。
 てゐが噛み付いてきた。

「何するのよ!?」

「こっちの台詞よ!」

 噛まれた拍子に拘束を緩めてしまったから、てゐは素早く私の腕から逃れた。
 机を挟んで向かい合って、私を睨みつけてくる。
 てゐの方が先にあんな事を大声で吹聴しようとした癖に、痛い目に遭うのは私ばっかりだ。

「あんたねぇ、鈴仙はあんたの管轄でしょ! こっちは貞操の危機だったのよ? もうちょっと監督してなさいよ!」

 だというのに本気で怒っているてゐは隣でぷかぷかと煙草を吸っていたご主人様を味方につけようと加勢を求めている。
 私がご主人様の管轄だなんて――……違いないけど。
 けど人の事をまるで問題児みたいに、よりにもよっててゐに言われたくはなかった。

 ぼんやりと天井にくゆる白い煙を眺めていたご主人様は、私を指差しているてゐに視線を動かした。

「うるせぇよ」

 空気を弾く激しい物音がして、その物騒な音に私の背筋が伸びた。

 物音は私の向かいから。
 目の前で見ていたのに、何が起きたのかはにわかには理解出来なかった。
 いや、理解し難かった。

 つい今しがたまで私を弾劾していたてゐの姿が消えている。
 消えたのではなく、床に倒れ込んでいる。
 椅子を巻き込んで横倒しになって、小柄なてゐの身体は机の陰に隠れてしまっていた。

 背筋が凍りついたように固まっている。
 頭の中も同じだ。
 何も考えられない。
 広間の空気まで冷え冷えとして、それなのに身体からは汗が噴き出していた。
 妙に生温い汗に、凍っていた私の思考が解凍されていった。

 叩いた。
 ご主人様が、てゐを。
 唐突に腕を振って、てゐの横顔を手の甲で張り飛ばした。

 私の背筋を凍りつかせたのは、一番最初に聞いた肉を打つ生々しい音。
 打たれなかった私の驚きでさえこれ程なのだから、直接打たれたてゐの驚きと痛みは計り知れない。
 床に蹲って、ぴくりとも身動きしなかった。

 ご主人様とてゐは、傍目に見ていれば喧嘩のような口調をぶつけ合い、態度も殆ど喧嘩腰だった。
 てゐがちょっかいを出すのはしょっちゅうだったし、蹴ったり叩いたり暴力に訴える事だってあった。

 けど、ご主人様が直接暴力を振るった事は?
 少なくとも、手を上げる姿を私は見た事がない。
 性的な手段を用いる事はあったけれど、今のように打ったりする事はなかったはずだ。

 それはそうだ。
 ご主人様がてゐと同じように暴力で返せば、こうなって当然。
 見た目相当の腕力しかない今の私たちにとって、ご主人様とは男女の筋力差があり、目立たないけれど体格だって相応に備わっている。
 硬いビンの蓋を開けたり、重い荷物を持ったりする何気ない場面において、それを自覚する事があった。

「人が黙ってりゃあ、ぎゃあぎゃあとまあ喧しい事だな。えぇ?」

 テーブルの上に乗せていた脚を下ろして、ご主人様はのそりと席を立った。
 床に蹲るてゐを見下ろしている。
 ご主人様がてゐに見せる態度は、喧嘩腰ではあったけれど親しみを感じさせる余地も充分に残していた。
 それなのに、今の姿はそれとは似ても似つかない。
 傲然と、欠片の罪悪感もなく見くだしている。
 その視線は、ぞっとするほど差別的だった。

 まるで、人間がただの兎を見下ろしているような――いや、人間が他人の劣る部分を見出したかのような眼差しだった。

 てゐのお陰でどこかに引っ込みかけていた私の悪い予感が、嘲笑うように全身を覆い尽くそうとしていた。

「……この」

 今まで蹲っていたてゐがもぞもぞと起き上がり、口を開いたのもそこそこにご主人様に飛び掛かった。
 飛び掛ろうとした。
 てゐよりも先にご主人様が動いて、その広い手で顔を鷲づかみにしていた。

「なにを、このっ」

 捕まったてゐが暴れだすよりも早く、そのまま体格と膂力に物を言わせて突き飛ばす。
 てゐの小さな身体は並んだ椅子を巻き込みながら、広間の壁まで木の葉のように吹き飛ばされた。

「ぎゃうっ!」

 椅子が倒れるけたたましい物音に混じって、壁に背を打ち付けられたてゐの悲鳴が聞こえてきた。
 ご主人様は遠慮なく振るう暴力に酔うでもなく、あのひどく冷めた眼差しを向けたまま、床に転がった椅子を蹴飛ばしのそりとてゐに近づこうとしている。

「や――やめてっ」

 凝っていた咽喉から声が出た。
 それは誰が聞いても悲鳴だった。
 私の身体は考えるよりも先に動いていて、壁際で蹲るてゐに駆け寄っていた。
 更なる暴力の予感をひしひしと漂わせるご主人様との間に割って入っていた。

「やめて、下さい」

 割って入って訴えた私に、ご主人様は表情を変えた。
 優しい笑顔。
 いつも私に向けてくれていたあの笑顔を取り戻してくれたおかげで、私の不安もほんの少し解消された。

 けど、私の腕の中には呻くてゐの身体がある。
 ご主人様が突き飛ばした事実が消えてなくなったりはしない。
 咽喉を唾で湿らせて、足を止めてにこにこと笑うご主人様を見上げて訴えを続けた。

「ど、どうして。どうしてですか。どうして、てゐに、こんな真似を」

「どうして? 簡単な事だよ。余分なものは削ぎ落とすに限る」

 ご主人様の笑顔も口調もいつもと変わらない。
 けどその内容が私の頭に入って来ない。
 ご主人様はてゐに覆いかぶさる私を前に、手近な椅子を手繰り寄せて腰を降ろした。

「この機会に本命以外まとめて売り飛ばす事にしたのさ」

「え……?」

「これまでは愛情に順序付けをしてきた訳だけど、いつまでもふらふらと気を浮つかせてるっていうのはどうにも決まりが悪い。誰も彼も手を出して全員愛してるなんざ、どう聞いたって説得力が感じられないだろ?」

 だから、売る?
 ご主人様は、てゐを売るつもりなの……?

「そ、そんな。だって、今までも上手くいってたし。それに、売るだなんて」

 確かにご主人様の言う通り、愛する者は一人に絞る方が私にも理解し易い愛情の形だ。
 てゐや師匠と仲良くしている姿に、始めは私も嫉妬してばかりいた。
 けど、それはご主人様が人とは違った愛情の形を持っているだけで、破綻もなく過ごしてきた。
 危うくはあったかもしれないけど、それでも平穏無事にここまでやってこれた。
 それなのに、何故突然になって売るなんて?

「こう言っちゃなんだけど、そこらの馬の骨よりかはずっと狭量な自信もある。今まで拗れる事無くここまで来たんだ。だったらここで綺麗に終わらせるのがお互いの為ってもんじゃない?」

「そんなの……勝手じゃないですか。ご主人様が始めたんじゃないですか……てゐもここでの生活もようやく慣れたのに」

「そんなに驚く事かい? 俺は元々そういう人間だろ。俺が始めたからこそ、俺の手で終わらせるってね」

 私の抗議も軽く受け流して、ご主人様は顔を伏せた。
 垂れた前髪の向こうから、大きく吊りあがった口元が覗いた。

「ひっひ。ここでの生殺与奪権は相変わらず俺が握ってるってこった」

 咽喉を引きつらせるようなその笑い声。
 肩を震わせて笑うその姿に、私はご主人様の本気を感じ取った。

 ご主人様は冗談を好むけれど、扱う話題は選んでいる。
 こういった事まで冗談で言うような悪趣味さはない。
 このままでは本当にてゐが売られてしまう。 

「そんなの、そんなのおかしいですよ!」

 私はご主人様に掴みかかる形で訴えていた。

「だって、てゐですよ? ご主人様と仲も良くて、何も問題なんてなかったじゃないですか!」

 小生意気で、少し油断しただけで手ひどい目に遭わされて来た。
 それは私自身も良く知っている。
 ここに来ても振り回されてばかりで、うんざりする日もあったけれど――でも私は、決しててゐの事を嫌ったりはしていなかった。
 てゐがどこかに売られると聞かされて、それを聞き流して無視する事など出来ない存在だった。

 襟首を掴む私の必死の訴えにも、ご主人様は小首を傾げて私の必死さに困ったように眉を寄せる。

「わっかんないかなぁ。言ったでしょ? 問題がないから売るんだよ」
 
「こんな終わり方、あんまりじゃないですか!」

「じゃあどんな終わり方なら納得するのさ?」

 叫ぶ私に、ご主人様の言葉が咽喉元に突きつけられる。
 どんな終わり方なら納得するのか。
 考えたけれど、思考は揺らめくばかりで明確な形にならない。
 終わりなんて考えなかった。
 今の生活が崩れる事なんて考えもしなかった。
 だから咄嗟に答える事が出来ずに声を詰まらせ、私の勢いは著しく損なわれた。

「俺が決めた終わり方に納得できない訳だ。納得出来そうな終わり方と言えば、あれかな? 一生を添い遂げて布団の中で見送られて大往生、とか。そういう類?」

「……はい」

 見兼ねたように上げられた言葉に、私は頷いた。
 この日常が終わってしまう事に、それがどんな理由であれ納得は出来ない。
 納得せざるを得ない理由があるとして、それを受け入れねばならないとするなら今ご主人様に言われた事だと思う。
 頷いた私に、ご主人様は肩を揺すって笑った。

「なるほど。つまり俺はさっさとくたばれって事だ」

「そ、そんな!」

 露骨な物言いに私は拒絶した。
 安易に頷いてしまった事に軽い後悔を覚え、ご主人様の言葉を否定しようとする。
 そんな私に、矢継ぎ早に言葉が被せられる。

「そういう事でしょ。俺はただの人間。そっちは千年でも生きる妖怪。それどころか永遠不滅の蓬莱人までいるときた。どう考えたってお迎えが来るのはこっちが先さ。楽しませるだけ楽しませたら後腐れなく死ねって事だ」

「そんな、それなら――師匠に頼めば、きっと」

「俺を蓬莱人にするって? 笑えない冗談だな。生憎、俺は不老不死なんてものに興味はねーの。第一死ぬまで愛し続けろって? 途中で愛情を失ったら? 状況が変わったら? お前は私が死ぬまで愛し続けろ? それって無責任な言葉じゃね?」

 言葉を失ったまま、何一つ反論出来ずにうなだれてしまう。
 ご主人様はそんな私を眺めて、笑うでもなく首を軽く左右に振った。

「言っとくけど、どうやったって無理なんだよ」

 責める口調ではなかった。

「パイの大きさは決まってて、大人数で奪い合ってる。誰もが食える訳じゃねーの。全員が全員納得する終わり方なんてものはないし、どこかで誰が割を食う。そういうもんなんだよ」

 聞き分けのない子供に、あらかじめ決まりきった事を説明する大人のような――ひどくくたびれた老人のような諦観の滲む声だった。
 ご主人様自身、その覆しようのない絶対の理に揉まれて、すっかり疲弊してしまったような。
 深いため息を一つ吐き出した後、ご主人様にあったその奇妙に年輪を重ねた雰囲気は消え去った。

「それに、どっちにしたってもう手遅れさ」

 不穏当な言葉に私の背筋が粟立つ。
 ご主人様の瞳に宿った虚無が日常の崩壊を感じさせる。
 恐々と怯える私に、ご主人様は言葉を連ねる。

「永琳は捨てたしな」

「……え?」

 今、ご主人様はなんと言ったのだろう?

「傷物じゃ売りもんにならなくてね。だから捨てた。今頃どこにいるのか。ここよりマシかそれともここ以下か……まあ俺の知ったこっちゃない」

「じょ、うだん、なんですよね?」

「洒落や冗談で捨てただの売るだのと、幾ら俺でも言わねぇよ」

 ああ、そうか。
 やっぱりそうだ。
 ご主人様は私が思っていた通り、悪趣味な冗談を口にする人ではない。

 今この場だけ、もしそんな冗談を好む人ならどれだけ良かったか。

「まあそれと一緒なのさ。傷物同様孕むと売りもんにならねぇのよ。俺としちゃあ妊婦なんてこれほどいたぶり甲斐のあるものはそうそうないと思うんだが、そういう規則なんだから仕方ない。腹が目立ち出す前に売っ払うに限る」

「そんな……てゐが、もしも妊娠していたら……ご主人様の赤ちゃん」

「それが何? 売らない理由になんてなるの? 腹を痛めてまで生むのはそっちなんだから、精々しっかり育てて下さいよってだけだ。楽しんでたのは俺だけなんじゃねーんだからさ、一方的にツケをこっちに回すってのは筋違いだろうよ」

 涙が溢れた。
 立ち尽くす私の目からぽろぽろと涙がこぼれて止まらない。
 悲しい。
 てゐが売られてしまう事は悲しい。
 私にはもう止められない。
 私が色々な事を棚上げしてしまっている内に、この人は全てを決めてしまった。

 同じくらい、この人の心無い言葉を聞かされるのが悲しかった。
 愛する人の口から聞かされる冷たく無責任な言葉は、私を打ちのめした。
 人となりの温かさも持っていたはずのこの人が、まるで時間を巻き戻したような態度に戻ってしまっている。
 私を買い取ったと公言し、笑いながら叩き続けたあの時のような。

「そう嘆く事はねぇさ。なんせ結構な金が入るからな! それで新しい女を買って、幾らでも楽しめる。この世の中代わりなんて幾らでも利くし、金で買えないもんなんてそうそうねぇからな! そう悲観したもんじゃないさ、売られた先でそれなりに丁寧に扱われてよろしくやれるかも知んないよ? 世の中善人を気取って自分に酔う奴なんざごまんといるからな!」

 心が痛む。
 斬り裂き抉られるその痛みに、私は奥歯を噛み締めて耐えるしかなかった。
 ご主人様がげらげらと笑い続けるその前方――私の背後で、ぺっと唾棄する音が聞こえた。

 てゐだ。
 私が振り向いた先で、てゐが四つん這いに口元を拭っている所だ。
 突き飛ばされた拍子に唇を切ったのか、口元が赤く染まっていた。

「てゐ……」

 思わず駆け寄って、どう声をかけていいものか判らなかった。
 言葉を掛けられないまま小さな体躯に腕を貸し、てゐも拒まず腕を支えに立ち上がった。

 てゐはご主人様を今まで見た事もないほどの怒りを露に睨みつけ、唸った。

「くだらない芝居はやめなさいよ。いつまで続けるつもり?」

 てゐの詰問する口調に私は戸惑った。
 これが芝居だというのなら、どこからどこまでがそうなのか判らない。 
 或いは売られるという抗い難い現実を前にして、てゐは混乱しているのではないかと思った。

 どちらにせよ私は言葉を差し挟めずに、視線だけでご主人様に訴えた。
 ご主人様はどこか水を差されたように顔をしかめていたけれど、すぐに気を取り直したようににやりと笑った。

「……ひっひっひ。いつから気がついてた?」

「愛情に順序付けてきたけど、の辺りよ」

 てゐは答えて、口の中をもごもごと動かしてから唾を吐いた。
 床に落ちた唾は濃い血の色が混じっていた。
 私はそんな行儀の悪い行動を見せられても咎める言葉は出て来ずに、代わりに光明が差したような気がした。

 てゐは騙されなかった。
 これはご主人様が仕掛けた芝居。
 私たちを騙す為に仕組まれた、ひどく趣味の悪い冗談の類だったのかもしれない。
 流され易い私は簡単に騙されてしまったけれど、てゐは見抜いていたんだ。

「ご、ご主人様、幾らなんでもこんな冗談、悪ふざけに過ぎます!」

「このヘタレイセン!」

 涙を拭い潤んだ目で睨みつける私を制したのは、起き上がったてゐだった。
 制止というよりも、罵倒された。
 加勢したはずのてゐから逆に面罵されて、私は面食らっていた。

「いつまで現実逃避してるつもり!? しゃんとしなさいよ!」

「え、えっ?」

 目を白黒とさせて仰け反る私に、てゐは焦れったそうにぎりぎりと歯軋りした。

「こいつは、誰を残すか言ってないでしょ!?」

「……え?」

 誰を残すか。
 ご主人様の本命。
 それは――

「鈴仙、こいつはあんたも売るって言ってんのよ!」

 私、のはず……なのに。

 てゐの言葉が理解出来ずに立ち尽くす私に、乾いた音が耳朶を打つ。

「いやはや、ご明察。もうちっと引っ張れるかと思ったんだけどねぇ?」

「はん。思わせぶりなのよあんたは。あれだけ鈴仙鈴仙言ってた奴が、避けるように名前を呼ばないんじゃ語るに落ちるってものよ」

「きひ、ひひひひ! てっきり頭に血が昇って逆上せちまってると思ったら、その冷静な判断力。いいね。うっかり惚れ直しちまいそうだ」

「出来もしないことを口にするんじゃないわよ、この女衒!」

「そいつは憎まれ口にゃならねぇな。なんたって違いねぇからな!」

「……下衆がっ!」

 ご主人様とてゐの言葉は右から左に流れていった。
 信じられない。
 信じたくない。
 だって、この人は――

『俺にとっちゃお姫様だよ』
『レイセン。お、この感じ? レイセン』
『あんな無茶な飲み方するもんじゃありません。めっ』
『泣かないで』
『レイセン』
『大好き』
『楽しくなってきた?』
『楽しそうで何よりだよ』
『レイセン――』

 私を、全身全霊で愛してくれていたのに。

 私はその場で立ち尽くしたまま、愛されていた思い出を振り返るばかり。
 臆病な私が逃げ出してしまわないようにしっかりと抱き締めてくれていたはずなのに、私はいつ見放されてしまったんだろう。
 いつ、見失ってしまっていたんだろう。
 思い出せない。
 だって、何一つとして、理由らしい理由なんてなかった。

「やだ」

 だから受け入れられなかった。

「やぁですよぅ」

 この人に寄り添い、愛される事を受け入れ、私自身愛した。

「そんなの……やぁ。やだぁ」

 あの輝かしい日々を失ってしまったなんて認めたくない。
 認めてしまったら――私はこれからどうしていいのか判らない。
 私の居場所はこの人の側だけしかないのに、それを失ってしまったら、どこにも行けない。

「嘘、嘘ですよ。そんなの嘘ですよね? 嘘です。ご主人様、ご主人様ぁ! 私を捨てないで! 側に置いて下さいよぉ!」

「ちょっと!?」

 私はてゐの制止を振り切って、ご主人様に取りすがっていた。
 みっともなく、無様に。
 体面なんて気にしていられなかった。
 私に全てを注いでくれたこの人に、私も全てを注ぎ返す。
 それが私の今の生き方なのに、その生き方を否定されてしまったら見栄えを気にするなんて無駄だ。

「やぁ! いやぁ! なんでもします、私なんでもしますから! 苦しいのも痛いのも我慢します! エッチな事も文句を言ったり、貴方に逆らったりしません! 出来る事は……なんでもやりますからぁ! だから売らないで。私を捨てないでええぇっ!」

 恥も厭わず私はご主人様に縋りつき泣き叫んでいた。
 極度の緊張と激しい恐怖に私の咽喉が強張り、声はどうしようもなく震えていた。
 この無様な姿をてゐに見られている。
 それでもやめられなかった。

『レイセン』

 何度も耳元で囁かれた。

『レイセン』

 この人の温もりをまだ身体が覚えている。

『レイセン――』

 ようやく一緒に並んで歩き出せたと思ったばかりなのに。

「ご主人様ぁ!」

 全てを失ってしまうなんて、耐えられない。

 脚にしがみついたままさめざめと泣き続ける私の頭に、そっと何かが触れた。
 ご主人様の手の平だ。
 私が泣き止めずにいる時、ご主人様はいつもこの手で撫でていてくれた。
 こぼれる涙を拭ってくれた。
 血の通った、温かいその手。
 髪を優しく撫でられて、なりふり構わなくなった私の祈りが通じたんだと思った。

 私の頭を撫でていた手は、不意に強く髪を掴んだ。

「ぃぎっ」

 髪を鷲掴みにされて、しがみついていた脚から力づくで無理矢理引き剥がされる。
 強引に上向かされた顔を、あの人が覗き込んでいた。
 暗く、底冷えする黒い瞳が私を見つめていた。

「何勘違いしてんの? シラタキ女」

 ひどく憂鬱そうに吐き捨てられた。

「ほんとに俺がお前みたいな兎なんか愛してるとか思ってたの? 馬鹿じゃねーの」

 ――ご主人様の視線に晒されて、さらに情けない話だけど、私は激しい後悔の念に襲われた。

 心のどこかで、私は別ではないかという甘い打算があった。
 これほど必死になって訴えているんだから、ご主人様も考えを改めてくれると。
 けれど、私が一番だと言ってくれたあのご主人様の姿はない。
 見たままの力しか持たない私たちが相手でも、平然と暴力を以って訴える恐ろしい人間の男。
 私が恐怖するものがただ一人、目の前にいるだけだった。

 怖い。

 目の前にいるだけで身体が震える。

 怖い。

 この手で打たれる痛みがどれほどのものか。

 怖い。

 私はその痛みを知っている。

 怖くて仕方なくて、震えを収める事は出来なかったけど、逃げる事も出来なかった。
 この人の目の前から逃げ出しても、ここから抜け出せない事を、私はよくよく知っていたから。

「俺、言ったよね? 覚えてる? 一番最初に言ったよね、俺」

 髪を引っ張られて痛かったけれど、恐怖に射竦められて私は声を失っていた。
 私の沈黙に、ご主人様は心底呆れたようなため息をついた。

「今のお前は正気じゃない。見ず知らずの場所に閉じ込められて、毎日毎日弄られて、おかしくなっちまってるんだ――ってね」

 そう言われたのはいつだったろう?
 もう思い出す事は出来ない。
 けれど、一番最初――まだご主人様がご主人様でなかった時、見ず知らずの恐ろしい男に犯されていただけの日々の中で、そういう事を言われた様な気もした。

「はひ、ひひ、ひぃーひひひひひぃ~! これだよ、これ! これが見たかったのさ! 希望なんてもんを見出したところで手の平返して絶望に突き落とす! ひひひひ! いつやっても最ッ高の娯楽だぜ! これでこそ、今まで愚痴愚痴とくだらねぇ茶番を続けてきた俺の努力も報われるってもんだ!」

 涙する事も忘れて、私はただただ呆けて男の言葉を聞いていた。

「お前らはお姫さまを釣る為の餌だ。ひっひ。欲しい玩具が手に入ったからには、もうお古なんていらねーんだよ!」

 気がついてしまった。
 幸せな日常が崩れてしまったのではない。
 私は今の今まで騙され続けていた。
 この男の口当たりのいいまやかしの中で、自分が誰なのかも忘れてただいいように弄ばれていた。
 辛い事や苦しい事から逃れる為に、自ら進んで心を狂わせた。

「こっちが教えてやらねぇと騙されてた事も判んねぇたぁね。ほんっと、お前のおつむはおめでたいよなぁ!」

 私って、本当に駄目だ。
 嘘を嘘と見抜けないどころか、自分の立ち位置すら見失って。
 動物のように居心地のいい場所に寄り添っていただけじゃない。

 茫然自失とする私を、男はひどく邪魔そうに足蹴にして転がした。
 私は呆気なく床に転がって、起き上がる気力も湧いてこなかった。
 蹴られた痛みもどこか遠くて、気にならない。
 そんな事を気にしている余裕もない。

 ああ、なんだ。
 私は今までこんな事を嫌がって逃げようとばかりしていたのか。

 手荒く扱われているのに、拍子抜けするほど呆気ない。
 苦痛なんて大したものじゃない。
 裏切られる事に比べたら――心を欺かれる痛みの方が、よっぽど耐え難い。

「鈴仙……しっかりなさいよぉ!」

 てゐに引きずり上げるようにして揺さぶられるけど、私の首はされるがままにがくがくと座り悪く揺れただけ。
 何も考えたくない。
 今はもう何もしたくない。
 思考を手放して呆然と佇んでいた。

 虚無感に囚われるまま虚脱する私に、てゐは矛先を変えて怒り狂った。

「この野郎、ただで済むと思うな! お前の思い通りになるくらいなら、その首噛み千切ってやる!」

「ほ。おっかねぇ。威勢が良いのは結構な事だがよ」

 向けられた憎悪を伴った怒りに、男はおどけて肩をすくめた。
 生殺与奪権を握っているという自覚と、それを躊躇いなく行使する邪悪な笑みを口元に浮かべて、くいっと顎をしゃくった。

「背中も気をつけねぇとな?」

 てゐが振り返ったまま絶句した。
 私が振り向いたのは、その視線を追うだけのただの習性だろう。
 それを目の前にしても声が出てこなかったのは驚いた訳でもなく、驚く事さえ面倒になっていたから。

 私たちの背後にそれはいた。
 子供くらいの背丈しかない小人。
 横にぶくぶくと膨れ上がった、水死体のような体型の奇妙なモノ。
 目も鼻も口もない、ただ暗いだけの顔が私の視界一杯に広がっていた。

 大きな顔。

 私は恐怖も驚愕もなく、ただ当たり前のようにそう思っただけだった。
 音もなく佇んでいた小人の顔は、瞬く間に私とてゐを包み込んだ。
 真っ暗になって何も見えなくなった。
 私の意識は急速に遠のいていった。



 隙間風のような甲高い笑い声が聞こえた。



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「うふ! うふひひ、ひひひ! はぁーひはひはひひぃー! ほんっと、おめでてぇ奴だよ!」

「けふっ」

「ひひ、ひひひ! ひぃ~っひっひっひっひぃ~~~――げぶっ、ごぼへっ」

「吐いてる」

「吐いてねぇ。げへっ。咳き込んだだけだ。くそっ、咽喉に煙が絡みやがった」

「ぷしゅん」

「それはくしゃみなのか? お子ちゃまはこれだから困る」

「ぷしゅん」

「……わーったよ、消すからそんな目で見んな」

「ニェーイ」

「はぁ。いい性格してやがる。それはともかくご苦労さん。この場合毎度ありか? ま、いーや。ほれ寄こせ」

「これ」

「……$62,539ね。案外いかねぇもんだなぁ。セット価格って事でもちっと色付かねぇ?」

「つかない」

「さよか。じゃ、後はいつも通りによろしく」

「うん」

「なぁ」
「ねぇ」

「なんだよ?」
「なに?」

「……」

「……」

「お先にどーぞ」

「いいの?」

「漠然とし過ぎだっつーの。何がだよ?」

「全部」

「全部か」

「うん」

「全部終わったら教えてやるよ」

「うん。何?」

「俺のは……まあいーや。全部終わったらまた訊く」

「うん」

「じゃーな」

「いってきます」



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 下郎は仔細に渡って説明した。
 イナバたちを騙し、永琳を捨て去り、どれだけ手ひどく手の平を返したのか。
 今この場に、私一人しか居ないことをとうとうと並べ述べた。

「俺が何か、どういう仕事に就いてるのか、忘れてるんじゃありませんか? お姫さま」

 下郎はくわえた煙草をぴょこぴょこと侮るように上下させた。

「俺は女衒で、人買いだ。理由があろうとなかろうと人間だの妖怪だのを売り買いするのが生業なのさ」

 出会った当初に聞かされたことだが、今まで実感はなかった。
 人を売り介している現場を直接見たわけでもないし、私自身買われたと言ってもどういう手段で買われてきたのかその前後がすっぽりと抜け落ちていたからだ。
 本質的に敵であると見誤りはなかったが、能力の無力化や当人の性格ばかりに目が言っていて、敵の戦力を見誤っていたのか。
 下郎が用いる最大の戦力にして武器は、私たちを売り買いすることだ。

 唯一下郎だけが、敵も味方も作り出せるその術を握っている。
 私は味方を全て失ってしまった。

「永遠亭とやらでどういう暮らしをしてたか知らんが、ひょっとして昔と同じように暮らせるだなんて思ってやいましませんでしたか? ひひっ」

 思っていた。
 悔しいことにこの悪意に満ちた須臾を隔てる以前は、私はそう信じて疑わなかった。
 暮らす場所は異なれど、私を取り巻く者たちに大きな変わりはない。
 私の影響力が増せば、以前の関係を取り戻せると意気込んでいた。

 その甘い目算を、この下郎は最悪の手段で根こそぎにしてしまった。

「顔見知りを側を置く理由なんてのはな、後で仲を引き裂く為に決まってるだろ。きゃはは! 将を射るにはまず馬から、城を落とすにゃ外堀からって誰かに教えて貰いませんでしたか? 誰も教えちゃくれなかったんだなぁ。ざーんねーんでーしたぁー」

 下郎は舌を出しながら童子のように私を嘲り笑った。
 初めからこの瞬間だけを狙って、イナバたちに甘い言葉を囁き、身体を重ね、献身を尽くした。
 彼女らを裏切っておきながら、気に病むどころか楽しげに振る舞うその姿こそ、吐き気を催す邪悪と呼ぶべきものだった。

「さぁーてこの狭苦しい穴倉で、残ったのはたった一人のお姫さま。待っているのはろくに日の光も浴びずに交わり続ける不健康に爛れた日々! さぁーあどうしましょう! さぁーあ大変だ! 俺の匙加減一つでお姫さまの貞操がピンチ! でもだぁーれも助けてくれなぁーい。ひひ!」

 ふざけるような口調は私を怯えさせるためにやっているのだと判った。
 わかっていながら私は袖の奥に顔を隠した。

 これ以上この汚らわしく歪む顔を見たくない。
 目の奥からこみ上げてくるものを見せたくない。

 敵対するこの男にも、私はいつの間にか敵に足るだけの品格を求めていた。
 それこそが、私の従者たちをことごとくその手におさめた手腕と、愛情と呼ばれるものだと思っていた。
 敵と見定めた相手もまた、私と同じ矜持を支えに立つものとは限らない。
 甘い幻想に依っていたがために、これほど簡単な策にまんまと乗せられ痛めつけられた。

「あらら。泣くの? お姫さまってば泣いちゃうの? わんわんぴーぴー泣いちゃうんだ。いいんだよー、幾らでも泣いて。泣けるってのは最高の贅沢だからねぇ」

 すでに袖の奥で私の目は潤んでいる。
 涙を堪えるのに必死で、肩がおこりのように震えている。
 隠したところで見透かされている。

「でも、泣いたって運命は変わりませぇーん。待ってるのは不幸だけぇ。一人じゃなーんも出来ないお姫さまでちゅからねぇ~?」

 ここぞとばかりに憎らしい口調と態度で私を煽り立ててくる。

「お姫さまはここで俺に嬲り尽くされて、誰とも再会も望めませんでしたぁ、と。死ぬまで二人ぼっちだ。仲良くやろうじゃないの。ひっ、ひひひっ!」

 ある意味、この下郎の言葉の通りであった。
 私の安易さがこの結果を招いた。
 下郎の底を見抜けなかった私の目が曇っていたのだ。

「う、うう。うぐ、く。うううううううふふ」

 ならば、祝おう。
 己の未熟を笑い祝おう。
 私にはまだ成長の余地が残されているのだから。

「うふ、うふふ! あはははははははっ!」

 私は今にもこぼれそうになっていた涙を拭い、袖の奥に隠していた顔を露にし、腹の底から笑い上げた。
 大口を開けて、歯を見せて、押し寄せてきた絶望を笑いによって押しのける。
 全身から笑い声を上げて、私を責め苛む男の滑稽さを笑い飛ばした。

「愚かね! まったく貴方は手の施しようのない愚か者ね!」

 この男を私を苦しめるためにイナバたちを手放した。
 私だけを残し、私を選んだ。
 その選択が最良なものだと判断する男の愚かさを私は声を上げて笑った。

 あれだけ私を嘲笑っていた男の顔から、波が引くように笑みが消えていった。
 暗い悦びが静かに燃え滾っていた瞳が、今は冷たい石のように無機質に変わり私を見つめている。

「何がおかしい?」

「貴方は自ら手放したのよ。身の丈にあった幸福をそれと気づかずに捨ててしまったのよ!」

 訊ねてきたから答えてやった。
 手放したものがなんだったのか、私を苦しめて喜ぶという劣情の代償がなんだったのか、私は声高に教えてやる。

「身の程もわきまえず、私と釣りあうだなどというバカげた妄想によって、貴方の最良の未来は閉ざされた! 私をどれだけ閉じ込めようと、貴方はただの人間。これからどれほど生きるのかしら? 一〇年? 二〇年? 一〇〇年も生きられないでしょう? 私にとって見れば貴方の人生などほんの一幕の座興に過ぎない」

 この男は死ぬ。
 私が積み重ねる歴史に埋没して死を迎える。
 私の歴史に触れた人間のことごとくが死んでいく。
 私よりも先に。
 それが空虚に思えて、竹林深くに身を隠したこともあった。

「元々釣り合いなど取れていない。永琳はもとより、イナバが相手であろうと貴方は先に死ぬ! 貴方が人間という壁に躓き、乗り越えられないがために!」

 けれど、引き篭もることはやめた。
 わかったから。
 私が隠された歴史の中で隠遁していようが、限られた人間たちは変わらず歴史を紡ぎ続けている。
 私が目を離していようが、逸らしていようが、さまざまな者たちが生まれそして死んでいく。
 屋敷に踏み込んできた者たちも、巫女も、魔女も、吸血鬼も、亡霊でさえ死の概念からは逃れられない。
 同じ歴史を歩めるに足るには、地上にたった二人だけ。

 たとえ彼女らが先に死んでいこうと、私が残されようと、方々の歴史の支流に触れることは喜ばしかった。
 暗い宇宙に鏤められた星々の欠片のような輝きは、愛おしいものなのだと思えた。
 
 その瞬きが、永劫に輝く月を我が物にせんとしているのだから片腹痛い。

「貴方はつかんでいた。確かに輝きをつかんでいたのよ。分不相応ながらも貴方の手はイナバたちに触れていた。それを自ら手放した。せめて人となりに迎えられる最期を捨てて、一時の誇大妄想に流された結果が今よ!」

 この男が見せ付けたまぐわい。
 男女の愛という、私には不可思議な事象。
 目に出来る範囲での日常風景。
 間違いなく、愛情が通い合っていた。

 そもそも、何故かつての暮らしを想っていたのか。
 それは、ここでの生活が平穏へと向かっていたから。
 この男を中心にして物事は万事つつがなく回っていた。
 だから私がどれだけその流れに抗おうとも、中心となるこの男が乱さない限り立場が揺らぎはしなかった。
 回帰を望んでいたのは、その新たな流れを見出したからだ。
 永遠亭のように私が中心にあることを望まねば、或いは平穏に過ごすことができたかもしれなかったから。

 ありえたかもしれない未来は、この男が自ら砕いた。

「たった二人? 笑わせてくれるわ。貴方は一人よ!」

 私をどれだけ留めようとも、この男が先に死ぬ。
 それは厳然と定められた覆されないルール。

「イナバたちへの愛を自ら捨てた貴方に残されたものは、孤独とともに訪れる死だけよ!」

 限られた命同士、心を通い合っているなら――せめて幸福な結末も望めただろう。
 元々釣り合った歴史など存在していないのだとこの男が知っているなら、このような暴挙を仕出かす真似もなかった。

「貴方が私をここに閉じ込めるというなら、私は一〇〇年待ってここから出ましょう。一〇〇年で足らねば千年さえ超えて見せましょう。それからでも遅くはないわ」

 形あるものは滅ぶ。
 私を閉じ込める伽藍は風雨に錆びれて土に返り、それを待たずにこの男も塵と化す。
 それはわかりきっていることだ。
 虚しさに心すら風化してしまわないためにも、有意義な生き方を見出す必要があった。

 有意義な生こそが、人を人たらしめる。
 それは特別難しいことではない。
 考え方一つ、気まぐれのようなきっかけがあれば見つけることが出来るもの。
 それに気づけず、この男は考えうる最悪の選択をしてしまった。

「貴方がどれだけ汚そうと、私は私。蓬莱山輝夜は二人として存在しない。貴方が惨めな死を迎えてから、私は悠々と永琳を見つけ出し、イナバたちと再会してあげるわ。これは予言などではないわよ。決まりきった自明の未来。貴方の非道など蚊の一刺しにも劣ると知りなさい」

 私の心は少しばかり傾いていたのだ。
 この男がもたらす刺激的な日々に、ほんの少し魅力を感じていたのだ。
 良かれ悪しかれ、今まで見たこともない歴史を紡ぐこの男の生き方を、最期まで看取っても良いかとも頭の片隅で感じていたのだ。

 だが今は、哀れみはあれど輝かしさは感じられない。
 未だ人はその愚かさから脱却できていない。
 この男が言っていたように、取り巻く環境が様変わりしただけでどこまでも愚かだ。

 永遠に生きる私は誰のものにもなれないのだと、千年の時空を隔てても理解出来ないのだから。

「可哀想な男。寄る辺なきものは貧困に喘ぐものより哀れよ」

 私は男の愚行を笑い飛ばしたあと、悠然と構えて食事を始める。
 必要はなくとも日々の食事は数少ない娯楽だ。
 男に敗れないためには、心身ともに万全に整え備える必要があった。
 固めの細長いパンに野菜や肉を挟んだものにむしるようにかじりつき、私は対面に座る男を改めて眺めた。

「どうしたの? 貴方の願いは叶ったのよ」

 表情を失ったまま、固まったように身動きせずに私を眺め返している。
 指に挟んでいた煙草の火はとうに消えていて、長い灰がぽろりと落ちた。

「いつものように笑ってみなさい」

 蝶よ花よと育てられた小娘と、自ら袋小路に行き詰った愚かな男の戦いは、こうして火蓋を切ったのだ。



xxx  xxx



 夜闇に浮かぶ月を背負い、私は竹林の海原へと弾幕を撃ち続ける。
 着膨れした小人は、笹の海面をさざめかせて滑るように私の弾幕を避け続けていた。

「ふっ!」

 銃口を見立てて構えた指先を斜めに振り下ろし、直列する弾幕から刃の曲線を描く。
 小人は跳ね上がるように大きく弾んで、連なった弾幕から上へと逃れる。
 目標を見失った弾幕は笹の葉を撃ち抜き、さながら水飛沫のように緑が舞い散った。

「てゐ!」

「まっかせて!」

 私の背後から飛び上がったてゐの手には、すでにスペルカードが握られている。

「お釣りはいらないわ、取っておきなさい。兎符『開運大紋』!」

 てゐの手から投げ放たれたスペルカードが中空で静止し、符の角が取れて丸く膨らむ。
 風船のように膨らんだ符は唐突に弾けて、いくつもの丸い弾幕に分裂した。
 大小無数の丸い玉は、何もない虚空を弾んで不規則に跳ねながら、小人の周囲を囲う。

 攻撃的な弾幕は持たないけれど、てゐの持ち札は逃げる空間を押さえて追い詰める意味では抜群だ。
 野兎のように跳ねる弾幕に気を取られ、小人の戸惑いが雰囲気で伝わってきた。

 相手の動揺を突いて、私もすかさず追い討ちをかける。
 構えた指鉄砲に中指を添えて、狂気のトリガーをその目に宿す。
 一時的に赤い狂気に染まった世界に於いて、私の重ねた指にしっかりと符が挟まれていた。

「波符『赤眼催眠(マインドシェイカー)』!」

 視界を染めていた狂気が、赤みを帯びた光とともに小人へと収束する。
 同時に放った前面を埋め尽くす弾幕は、てゐのスペルカードと合わせて空間を制圧していく。

 幻視による虚実入り乱れた私の弾幕と、てゐのしたたかで予想し難い弾幕。
 掟破りの二重弾幕、避けられるものなら避けてみなさい!

 上空を取った私たちの弾幕を前にして、小人はしばらく呆然と見上げていたかと思うと、不意にぐにゃりと身体が歪んだ。

 うっ……気持ち悪いっ!

 歪んだとは文字通りの意味で、寸胴のようだった体型が搗きたての餅か型から押し出したところてんかといった具合に、間接や生き物の構造を全く無視して不定形にうねっていた。
 くねくねと奇妙な動きで、細長く伸びた身体は弾幕の僅かな隙間をすり抜けていく。
 ざっと局所的な豪雨に見舞われたように竹林がざわめいた時、小人は元の体型に戻って何事もなかったようにちょこんと中空に浮かんでいた。

「もう終わり?」

 老人のようにしわがれた声で、子供のように小首を傾げる仕草。
 奇妙さばかりが先に立ち、相変わらず捉え所がない。

 けれど、全く歯が立たない訳じゃない。

「?」

 小人は自らの肘の辺りに顔のない貌を向けて眺める。
 肘に親指ほどの穴が開いて、そこから夜闇よりも濃厚な闇が漏れ出している。
 避け損なった一発が射抜いていた。

 腕を完全に貫通していたのにダメージを与えているように見えなかったけれど、それなら直撃を負わせるだけの話。
 私もてゐと同じく攻撃的なスペルカードばかり揃っている訳じゃない分、空間制圧にかけてはそれなりのものだという自負がある。
 狂気と幸運を備えた私たちが二人掛りで挑み、勝てない相手だとは思わなかった。

 圧倒的な攻撃力で押し潰すのではなく、逃げられない状況を作り上げて確実に追い込む。
 点ではなく面による制圧。
 この戦い方で間違っていない。

「この程度で終わりだなんて甘く見られたものね。まだまだ、貴方には特別の狂気を味わってもらうわ」

「二人掛かりの上にこの台詞、なーんかこっちが悪者みたいよねぇ」

「茶化さないの!」

 どっちの味方のつもりなのよこの子は。

 斜め背後に浮かぶてゐの言葉に調子を狂わされながらも、油断なく正体不明の小人の動向を窺う。
 破れた穴に指を突っ込んでいた小人は、私たちに手の平を向けてきた。

「つぎは鵺の番」

 肘の穴から漂い霧散していた闇が、整えられた水路のように腕を伝って集まりだす。
 にじるように腕を這って手の平に集まった闇が、一枚の符に姿を変えていった。

「来るわよ、鈴仙」

「ええ」

 スペルカードを向ける小人を前に、私は今一度身体を緊張で引き締める。

「転符『チェンジリング』」

 スペルカードの宣言とともに、私の周囲を暗い闇が覆った。



 相手の手の内があらかじめ判っていれば、それだけ勝算も高くなる。
 それは弾幕ごっこに於いても同じで、勝敗を分ける比率はきわめて大きかった。

 小人は牽制の大玉を幾つか飛ばした直後に、手の内に浮かんでいた闇色の符を握り潰す。

「転符『チェンジリング』」

 その途端私の周囲を闇が覆い、晴れると今までとは異なる位置に吐き出される。
 位置関係を入れ替える事で弾幕との距離感と目測を狂わせる。
 直接的な攻撃力ではなく、相手を幻惑し撹乱させる。
 小人はある種、私たちと似た特性を持っていた。

「喪心『喪心創痍(ディスカーダー)』」

 闇に包まれる直前とは異なる位置から襲い掛かってくる大玉を危なげなくかわして、私はすかさず反撃を加えていた。
 発動と同時に高速弾が小人を襲い、スペルカード宣言に固まっていた腕を撃ち上げた。

 被弾するとパキンと甲高いが空気を叩く。
 小人の持ち札を幾つか割り砕いた音だ。
 一撃で致命傷を負わせる有効打はなかったものの、私たちは着実に追い込んでいた。

 そうなる理由は、こちらが多勢というだけではない。
 てゐは一度、この小人のスペルカードをその目で目の当たりにしていた。

「ふふん。油断一秒後悔一生ってね。残念だけど、その手は通用しないわよ」

 私はてゐの口から、その特性がどういったものなのかあらかじめ聞いている。
 直接目にしたのは今が初めてだけれど、知っているのと知らないのとでは大違い。
 例え幻惑されたとしても、てゐがもたらす幸運は有効に働く。
 弾幕がたまたま直撃を逸れていたり、位置をすり返られたが為に偶然小人の死角を狙えたり。
 回避に大きな意識を向ける事無く、私は即座に攻撃へと転じられる。
 勝ち誇って胸を張るてゐの側で、私は小人を慎重に狙い定めた。

 私はもうすでに三度小人に直撃を負わせている。
 その内二度の喪心創痍(ディスカーダー)は手札を壊すのが目的で、確かに威力そのものは低い。
 けれど一度は花冠視線(クラウンヴィジョン)を当て切った。

 優勢なのは明らかにこちら。
 相応に小人の衣服が千切れ、破けたあちこちの裂け目から闇が細い煙のように噴き出している。
 それなのに、小人は全く痛みを感じていないのか慌てる事もなく平然としている。
 どこかしら遊んでいるような余裕まで感じられた。

「すごいすごい」

 手袋の指が幾つか欠損した手を叩き、小人はぼふぼふと気の抜ける音をたてた。
 敵対して二人掛りで襲い掛かっているというのに、敵意も悪意も感じられず純真無垢に遊ぶ子供のような態度。
 ひどくやり難い。

 けど、そうも言っていられない。
 ここでこの小人を押さえる事が、私たちの役目なのだから。

 この小人の実力は未だ判断がつかないが、こちらだってまだまだ余力はある。
 てゐだって本気になってない。
 まだ私たちの方が有利だ。

「つぎ、鵺の番」

 小人はぼろぼろになった手の平を一度ぼふんと打ち合わせると、その手をゆっくりと広げていく。
 スペルカードの宣言が始まる。

「雑踏『Z・A・P』」

 開いた両手の中から一枚の紙切れが表われた。
 てゐからは聞いていたのはあの位置をすり替えるものだけで、これは初見だ。
 身構える私たちに、小人はそれを両手でつかむと無造作に引き裂いた。

 直後、私の頭の中にざりざりと雑音が混じった。

 幻聴?

 乱れた意識を急いで束ね直し小人に向けると、あの特徴的な姿がまた歪んでいた。
 私の弾幕を避けた時のような、五体が伸びるとかそういった感じとは少し違う。
 なんと言うか、通信が遮られて映像が乱れるとか、そういった類と似ていた。

 頭の中の雑音と小人の歪みは連動しているのか、一際不快に乱れた後ぷつんと唐突に途切れた。
 その時には、空中に浮かんでいたはずの小人の姿まで忽然と見失っていた。

 移動したには速過ぎる。
 そういった素振りも見せていなかった。
 という事は、これは。

 一陣の風が吹いて、ざわざわと竹林がどよめいた。

「てゐ! これは幻覚」

 振り仰いだ私の目の前に――てゐの背後から、染み出すようにぼろぼろの腕がにょきっと生えてきた。
 手の平には、真っ黒な大玉が今にも弾き出されようとしている。

「伏せて!」

 間に合うのかどうかという不安を飲み込んで、瞳に力を溜める。
 ほんの一息の溜めが歯がゆいほどに惜しい。
 てゐは私の言葉だけで勘付いたのか、一目散に下へと逃れようとしている。
 空中から生えた腕はその動きを見ているかのように方向を修正する。

 大玉が衛星のような小玉を従えて撃ち出された直後、私の眼力が整った。

「長視『赤月下(インフレアドムーン)』!」

 眼力の解放直後、月夜が赤く凍結した。

「わわっ」

 直前まで迫っていた弾幕にてゐは咄嗟に腕を突き出し、なんの抵抗もなくするりと突き抜けていった。

「このっ」

 私は小人の腕があった辺りを弾幕で掃射する。
 銃弾に見立てた私の弾幕は虚空を穿ち、虚しく消失する。
 てゐを狙った腕はすでに消えていた。

「あ、あぶなっ。助かったわ鈴仙」

「油断しないで。これは、無敵って訳じゃないんだから」

 私の背後にぴったりとくっつくてゐに、警戒を促した。
 弾幕こそ無効化し、可視の波長がいじってあるので向こうからこちらの姿を隠す事も出来る。
 けどこちらから行動を起こせば姿も見えるし、何よりあの小人の姿が見つからなかった。

 びょうびょう。
 ざわざわ。

 風と笹のどよめきだけが不気味に私たちの周囲を取り囲んでいる。
 あの小人のスペルカードが幻覚の類なら、今こうしている間も私たちの周囲で機会を窺っているのか。
 姿が見えないものにどう対処するべきか。
 それは――

「てゐ、しっかりとしがみついてなさい。離れたら巻き添えを食うわよ!」

「りょーかい」

 背中に負ぶさるような格好でてゐがしがみついてきた所で、私は四肢をぎゅっと縮めて空中で丸くなる。

 姿が見えないのなら、広範囲の無差別攻撃が常套。

「幻爆『近眼花火(マインドスターマイン)』!」

 本来不可視の精神地雷が、私を中心にして四方八方へと広がり一斉に炸裂する。
 側にいる者は誰であろうと精神爆発に巻き込んでなぎ払う。
 例えあの小人の身体が私たちとは全く別の構造を持った生き物であったとしても、精神を持った生き物である事に変わりはないはず。
 あの小人が私たちの姿を側で探っていたのなら、一つでも地雷に触れた瞬間連鎖爆発を起こして散り散りに引き裂いている。

「……どう?!」

 一八の地雷の爆発が収まるのを待って、冷めた月夜に敵の姿を探した。

 びょうびょう。
 ざわざわ。

 相変わらず耳鳴りのように風と笹が騒がしく謳い、静けさとは程遠い夜空に浮かぶ。
 あの小人の姿はどこにも見えない。
 私のスペルカードで仕留めたとは思い難い。

「てゐは後ろを見張って、どこから来るか判らないわよ!」

 今も背後にしがみついているてゐから、返事はなかった。
 ぴったりと密着していたから、その理由がすぐに判った。
 てゐの手足はしがみついたまま硬く強張っていた。

 私はすぐに振り返って、呆然と空を見上げていたてゐの視線を追った。

「ど、どうしたの――」

 途中で言葉を失った。
 夜空を見上げて私たちは揃って絶句していた。

 空に顔が浮かんでいた。
 男がいた。
 女がいた。
 赤子がいた。
 子供がいた。
 青年がいた。
 大人がいた。
 壮年がいた。
 老人がいた。
 老若男女、一人として同じ顔などない群集が、全く同じ表情を浮かべて空を埋め尽くしていた。

 一体何人の顔があるのか見当もつかない。
 それどころか群集は今も広がり続けている。
 水の中に顔を突き込むように、中空にぽつぽつと顔が浮かび続ける。
 なんの感情もない能面が、まるで夕立前に入道雲が空を覆っていくように広がり、私たちを見下ろしていた。
 ただ見下ろしているだけではない。
 群集は口々に何かを喋り続けていた。

「びょうびょう」
「ざわざわ」

 私は気がついた。
 今まで耳にしていたのは風が吹く音でも笹の葉が擦れ合う音でもない。
 余りにも雑多過ぎてそれが声と認識出来ない、莫大なまでの雑音。
 その声だけで呆気なく押し潰されてしまいそうになってしまう。

 見上げている私たちの前で、雲がぞろりと流れた。
 風に流されるようでいて、それは意思を持ったようにそのまま真っ逆さまに落ちてくる。
 顔、顔、顔。
 顔の雨。
 くるくると回転する内に無数の顔はのっぺりと表情を失って、大小無数の弾幕へと変わっていく。

 それはもうすでに雨ではない。
 私たち二人目掛けて押し寄せてくる大津波。
 竜巻の先端のように尖って見えるのは、距離が開きすぎているからだろう。
 圧倒的な弾幕を前にして、私は――

 掛かった。

 決定的な勝機を見出した。

「てゐ」

「勿論」

 名前を呼ぶだけで良かった。
 それだけでてゐの方もすっかり心得ている。

「二兎追う者は」

 てゐは私の背を蹴った。

「一兎も得ず!」

 私はその反動を利用した。

 お互い一直線に全速力で笹の海原を疾駆した。
 全速で。
 全速力で。
 ただ真っ直ぐに突き進む。
 空気を割って飛び、しなやかにしなる竹林を跳ね、全速で真っ直ぐに。
 
 私たちを狙っていた弾幕の尖った先端が、二つに裂けていくのを見て取った。
 二つの竜巻が私たちを目指して降り注いでくる。

 ここが転機。
 勝負の分かれ目。
  
 もう随分近づいたからか、弾幕が押し寄せる轟音に自分の鼓動の音さえ聞こえない。
 だから聞こえるはずがなかったのに、それでも私の耳は確かに聞き取った。

「引っかかったわねアホが!」

 てゐの勝ち誇った罵声。

 その半瞬後に続く、

「神脳」

 私が知る中で最強のその声。

「『オモイカネブレイン』」

 流星のように、弾幕の雨雲より遥か上空から降下してきた師匠のスペルカードが発動した。
 二つに分かれた竜巻の中心で生まれたそれは、渦。
 海原に浮かぶものをなんであろうと全て飲み込んでしまう大渦だった。

 四本の光が竜巻を薙ぎ払い、渦が絡め巻き込んで、呆気ないほど簡単に吹き散らしていく。
 竜巻は見る間に勢いを失い、大渦の中に飲み込まれていってしまう。
 その渦の中心も一筋の流星によって貫かれ、全てが破綻した。

 竜巻と渦は互いに相殺し合って、無害な煌きへと変わった。
 まるで天の川から星の雫が滴るような幻想的な光景に、私は全てを忘れて見惚れてしまっていた。

 ――い、いけない。

 我に返った私はぶんぶんと頭を振って、束の間の天嶺を脳裏から無理矢理追い出した。
 見惚れてる場合じゃない。
 私たちの役目は果たしたけど、ここでぼんやりしてもいられない。
 私は高度を取って、深い竹林の目印を探し当ててそちらへと向かった。

 スペルカードの発動で一度勢いは止まっていたものの、それでも充分過ぎる高度から地面に激突した。
 その勢いは想像よりもずっと激しく、竹林の一角が抉り取られたようにぽっかりと開けている。
 しなやかな分頑強なはずの竹が藁のように裂け、衝撃の凄まじさを物静かに語っていた。

 師匠はめくり上がった地面に立っていた。
 手には愛用の弓が握られ、足元にはあの小人が仰向けに大の字になって転がっている。
 いや、地上に縫い付けられている。
 手足には矢が突き刺さっていて、あの一瞬にこれだけの矢をいつ番えて射ったのか、私の目では全く捉えられなかった。

 てゐはすでにその場にいて、師匠から少し離れた場所から状況の推移を見守っている。
 私も、その隣にそっと降りた。

 今の師匠の雰囲気は苛烈の一言に尽きる。
 私も近寄り難かった。
 
「言い残す言葉はあるかしら?」

 師匠は弓に矢を番えて、引き手を絞る。
 ぴんと張った糸のように細い弦が、きりっと冷たく鳴った。

 四肢を縫い付けられて、多分師匠の弾幕に巻き込まれたのだろう、衣服はぼろぼろの満身創痍になりながら、どこか気が抜けたようなため息を吐き出した。

「鈴仙、てゐ、永琳と、鵺。みんなで遊んだ」

 晴れやかな清涼と後ろ髪を引く名残。

「弾幕ごっこ、楽しかった」

 夢中になって遊び続け、いつしか遊び疲れてしまった子供のような声音だった。
 顔のない小人なのに、不思議と満たされた笑顔を浮かべているような気がした。

「そう」

 師匠の鋭い気迫が和み、切れ長の瞳が細められる。
 まるで我が子を見守る母親のような慈しみを小人に向けたまま、師匠は矢羽を番えていた指を開いた。

 射ち出された矢は音もたてずに小人の胸元を穿ち、元々丸かったその身体が手足の区別もつかないほど丸く膨張し、風船のように呆気なく弾けた。
 かろうじて衣服の形を保っていたぼろ布から溢れ出したのは真っ暗な闇。
 闇は師匠を覆って一瞬私の背筋を冷たくさせたけど、あっさりと月明かりに溶けて消えてしまった。

 後に残ったのは千々に破れた衣服の破片と、奇跡的に原形を残していたあのひれ付きの帽子。
 そして月光を浴びる師匠だった。

「師匠」

 私たちが駆け寄ると、振り返った師匠はにこやかに微笑む。

「ウドンゲ、てゐ。陽動ご苦労様」

「いえ……」

「軽い仕事ですよ、お師匠様。あいつ、まるっきり弾幕ごっこに慣れてなかったですもん」

 労いの言葉に恐縮する私とは対照的に、てゐは頭の後ろで手を組んで事も無げに答えた。

 そうだ。
 てゐの言う通り。
 あの小人は弾幕ごっこに慣れていなかった。

 手の内を多少知っていたのもあるけれど、それでももっと戦い方がというのがあったはずだ。
 なんというか、力はそれなりに備わっているであろうにまるで素人なのだ。
 二枚目のスペルカードにしてみても、あれだけの弾幕を操れるのなら、いっそ誘導する必要などなかった。
 広範囲に無差別に降り注いでいたりしたら、また別の結果になっていたかもしれない。

 第一、あの小人は最後の最後までこれを弾幕ごっこと思っていたのだろう。
 それは違っている。
 師匠とてゐと私の三人がかりで、弾幕ごっこにかこつけて倒しにかかっただけ。
 小人にその自覚があったのかと問われれば、最期の一刺しまで気がつく事がなかっただろう。

 その純真さを突いて倒した。
 後ろめたさは多少ある。
 けれど、この胸の傷もいつか忘れられるという確信もあった。

 私は元来、生まれ育った月を捨て去れる程に薄情なのだ。

「お師匠様、それなんですか?」

 いつの間にか地面に転がった帽子に視線を奪われていた。
 私は気を取り直すと、てゐの言葉を視線で追う。
 てゐが背伸びをしてまじまじと覗き込む先には、手の平にすっぽり収まるくらいの小さな瓶があった。

 中に何が詰まっているのか真っ黒なその小瓶を、師匠のたおやかな指が転がす。

「これは可能性よ」

「可能性、ですか」

 オウム返しに呟く私に、師匠は頷いて弓を肩に掛けた。

「そう。何ものかのなるはずだった可能性。未だ何ものにもならない可能性。だからこそ、何ものにでもなれる可能性」

「は、はぁ」

 なんだか言葉遊びをして煙に巻かれているようで、理解がさっぱり追いつかない私は気の抜けた声を洩らすばかりだった。

「だからこそ、こういう使い方も出来るのよ」
 
 そんな私たちに師匠は優しく微笑み掛け、小瓶の蓋を開けた。
 小瓶からにわかに大量の闇が噴き出して、霧散する事無くもやもやと立ち込めた。

「あ」

 煙が晴れるように月夜に照らされた時、そこには忽然と二枚扉が立っていた。
 本当にあっという間だった。
 ぴったりと閉じた扉で、後ろには当然何もない。
 扉だけが地面から生えたように立っている。

「……これは」

 その扉に、私は見覚えがあった。
 師匠もてゐも知っているはずだ。
 この扉がどこに繋がっているのか、私は見ただけで判ってしまった。

「さあ、行きましょうか」

 師匠が重たそうなその扉の蝶番に手を乗せた。

「はい、お師匠様♪」

 てゐはスキップでもするような軽い足取りでその後ろにつく。

 私は。

「……はい」

 二人に続いて扉の前に立った。

 あの場所へ。
 もう一度。
 あの人に会う為に。

「行きます」

 深く頷いた私に、師匠はにこりと微笑み扉を開けた。



xxx  xxx



 肺まで落とした主流煙が血中に取り込まれ、軽い眩暈と酩酊に似た感覚が全身に広がっていくのが判った。
 自室に戻った俺は、いつものように椅子に腰掛けて絶賛リラックスの真っ最中だ。
 
 酒煙草女の三大嗜好品の内、煙草を全面解禁してニコチンの酩酊感に酔い痴れる。
 ささやかな娯楽は重要な日々の糧だ。
 リラックスするならぶっちゃけ葉っぱの方が効果はあるんだが、依存心が高まるんで総合的にペケ。
 俺のことだから更なる快楽の為にシャブやコカやスマックまで手を出すに決まっている。
 薬をキメた薬物セックスは爆発力が凄いんだが、その分取り立ても半端ないんで使い所が難しかった。

 というわけで煙草で我慢。
 ぷかぷか吹かして目減りしたセブンスターを肺に落として、タールの重みに頭を痺れさせていた。

 すっかり空っぽになっていた俺の頭に、お姫さまがが糾弾する姿がおぼろげに形になってくる。

『可哀想な男』

「……ふふ」

『貴方の願いは叶ったのよ』

「うふ! ふふふ、ふふ」

『いつものように笑ってみなさい』

「うふふふふ! うーふふふふふふふっ!」

 床を足で叩き、込み上げてきた衝動のままに馬鹿笑いを上げる。
 お姫さまの反応は全くの予想外だった。
 手足をもぎ取って精神的達磨にしてやった時点で、お姫さまの額には屈服刻印が刻み込まれるはずだった。

 額に花咲く徒花が屈従の証。
 Lv1の蕾に始まり、Lv3で大輪に花開く。
 おつむがお花畑になっちまうんだから、皮肉が利いてて笑えちまう。
 とにかく俺の経験上、今朝のあの時点でお姫さまは膝を屈するものと思っていたんだが、結果は違っていた。

「はは、ははは! ひゃはははは!」

 おっもしれぇ。
 まだ足りねぇのか。

 こういうのは稀にある。
 数値の変動に伴った相応の反応しか返ってこないはずが、時に予想だにしない反応を返してくる事があった。
 
 そういうのが、堪らなく面白い。
 予想を覆されてままならない方が人生にも深みが出るってもんだ。
 予定調和など糞食らえ。
 思いもかけないアクシデントなら、俺はなんだって楽しめる口だ。

 それに、折角こうしてお膳立てを整えたんだ。
 あっさり折れちまっても楽しめない。
 あのお姫さまの高く伸びた鼻っ柱をへし折れるまで、あの手この手を使って辱めるだけだ。

 娯楽なんてものは面倒臭い方が却って長続きする。
 永遠の一時だなんて言われちまったんだ。
 その一時がどれほど長いかあの薄っぺらい身体にとくと刻み付けてやる。

「ひひ、ひーひひ。ひぃ~っひっひっひっ」

 俺の娯楽はまだまだ続く。
 行き着く先はまだまだ遠い。
 さぁ、これからも残酷に残忍に虫けらの手足を捥いで愉しむとしよう。

 そうと決まれば悪は急げ、善は滞れ。
 自室に引き篭もってリラックスしている場合じゃねぇ。
 半日過ぎてもう安全時間入りだ。
 ここからがお楽しみタイム。
 今まで意図的に避けてきた、真綿で包むように丁重に扱ってきたお姫様を、たっぷり手垢をつけて汚し尽くす。
 想像するだけで甘い期待が走り、全身が震えた。

 ようやく。
 ようやくだ。
 目の前にぶら下げられたご馳走にかぶりつける。

 美しいもの、清いものを穢すのは理由を問わない快楽だ。
 禁忌を犯すという意味合いでは、お姫さまはあのションベンくせぇ見た目と重なってまたとない素材で大変結構。
 千年も生きてる宇宙人だって言うなら、法にかすりも引っかかりもしねぇ訳だし、ここには誰にも文句を言う奴なんていやしねぇ。

 俺はすっかりちびた煙草をペッと吐き捨て、靴底でぐりぐりとねじった。
 さあお姫さま、残酷ショーの幕開けですぞ。

 ドアを開けてお姫さまの寝床まで一直線に続く廊下に出る。
 どこからともなく声が聞こえる。
 犯せと誰かが叫ぶ。
 犯せばもっと犯せと叫ぶに決まっている。
 尽き果てる事のない欲望の声は、俺の内なる声そのものだ。

 俺の欲望は留まる事を知らない。
 ぶくぶくと醜く膨れ上がって、それでも満たされない。
 いつだって飢えている。
 とっかえひっかえ愉しんで、ほんの少しでもこの渇きを癒している。

 俺は一体いつからこうなってしまったのか。

「……?」

 不意に視界が赤く染まり、眩暈を感じて俺の足が不安定にふらついた。
 よろめいた身体を廊下の壁に手をつき支える。
 心臓が不規則に鼓動している。
 乱れたリズムに生温い汗が滲み出る。
 不意に襲ってきた不整脈に、痩せ犬のように舌を出して呼吸を整える。

 俺の欲望は不滅にして不変。
 だがこの身体は残念ながら柔い上に期限が定められている。
 欲望に引きずられて早漏薬だなんだと体質をいじってきたが、当然の事ながら無害な代物で有ったりはしない。
 そもそも、普通に考えてあんだけザーメンぶっ放してるってのになんの代償も取り立てられないはずがない。
 ローソクの芯を導火線にとっ変えてる様なもんだ。

 えらい勢いで俺の寿命だかなんだかを削り取っている。
 後悔もなけりゃ今更色を忘れて生きたりはしない。
 定命は元々決まってるなんて言われたってぴんとこない。
 そんな曖昧なものの為に不味い草を食ったり面倒な習慣を続けるなんざ真っ平ご免だ。
 上手いもんをたらふく食って、好き勝手に生きてた方がずっと心と身体によろしい。
 不老不死なんてものを求めるのは、昔からお偉い人々と相場は決まってるもんだ。
 現状に満足のいかない貧乏人は、即物的に生きてる方がよっぽど健全だ。

 そういう見果てぬ夢を追っかけた者の末路ってのは、大抵録でもねぇ落ちがつく。
 偉い人にゃそれがわかんねぇんですよ。

 寺の鐘でも滅多打ちにしてたような鼓動が緩やかに収まり、眩暈や動悸もどこぞへ消え失せた。
 ぬるい汗を拭い取り、二、三度床を強く踏みしだく。

 よし。

 お姫さまを前にしてこんな無様な所は見せられねぇ。
 喜ばせるならぬか喜びだけだ。
 さあ、俺の迸る愛で散々にスポイルしてやろう。

 ひっひと咽喉を鳴らして、俺はかぐやの部屋へと向かった。






 それからどれほどの時間が過ぎたのか。
 正直思い出せないんだが、はっきり言ってどうでもいい。
 お姫さまのスカートをめくり上げて、尻の穴を舐め回してる方がよっぽど楽しかった。

 白い肌に色づいたピンクの花弁は、唾液で濡れて艶かしくもひくひくと蠢いている。
 菊だってのにピンク色とはこれ如何に。

 どーでもいい問答なんぞを頭の中で繰言しつつ、柔い尻肉を鷲掴みに左右へ広げ、尖らせた舌先で中心の閉じた入り口をくすぐる。

「……ふっ……っ」

 それにお姫さまは息を殺して耐えている。
 アナル責めを休めてひょいと尻の影から頭を上げてみると、肩を震わせながら指なんぞを噛んでいた。
 洩れそうになる喘ぎ声を必死に堪える姿は実に健気。
 あんまりにも可愛らしいんで、前戯一つにでもつい熱が入っちまう。

 窄まった尻穴に尖らせた舌を挿し入れる。

「……くっ…ぅっ…うぅっ……」

 舌にお姫さまの体温が直接伝わってくる。
 挿し入れた舌先がきゅうきゅうと絞られるようだ。
 二本挿しで小慣れるまで無理に使い込んでいないのもあれば、単純に体型の問題も有るんだろう。
 男を受け入れるには未成熟な身体つき。
 お姫さまの背徳感はすこぶるつきで、こうしてアナルを舐めるだけで股座がいきり立つ。

「……ふぅ…う……くぅ…んっ……」

 欲情に駆られて発情した犬のように犯したくなるが、俺の欲望はお姫さまの押し殺した喘ぎに宥められる。
 この身体は、一時の情欲に流されるのはもったいない。
 舌で、指で、あらゆる全身全感覚を動員して、この未成熟な身体を嬲り尽くしたい。
 押し戻される舌先を尖らせ、比較的圧力の薄い入り口で小さく出し入れする。
 強張った尻穴を、時間をかけて執拗に舌で解していく。

「あぅ……うん、っく……あぅん」

 徐々に甘く上擦っていくそのさえずりが、頭の芯まで痺れさせる。
 極上の媚薬そのもので、声だけでイッちまいそうだ。

 そのまま股間が噴火するまで舐め倒してやっても良かったんだが、程よく解れたアナルを前に声に撫でられて果てちまったんじゃもったいない。
 やり場のない性欲は正しく解消されてこそだ。

 たっぷりと唾液で濡らしたアナルから舌を抜く。
 ほんの少し開いた花弁は蜜で漏らすように透明の唾液を垂らして蠢いている。
 これって誘ってるよな?
 誘ってるな。
 誘われたら乗るしかねぇな。
 全くうちのお姫さまもすっかりエロい尻穴になりやがって。

 俺は充分盛り上がっていた劣情の矛先を定め、身体を起こす。
 長い黒髪が乱れる背中を押さえ、尻を上向きにさせると片手で窮屈なベルトを外す。

「ひっ」

 お姫さまもこれから何をされるのか気がついたのだろう。
 パンツをずり下ろして出てきた俺の男根を視界に納めて、鋭く息を呑んだ。

 察しがつく程度には犯している。
 もう何度この尻穴の具合を肉棒で味わったか。
 何度犯しても、いつでも初めての締まりと反応を見せる辺り、生粋の生娘といったところか。
 
 余計な言葉など要らない。
 甘い囁きは勿論、殴りつける罵声も締め上げる弄句も必要ない。
 犯す側と犯される側に自覚があれば、息を切らせて貪るだけでいい。
 肉体関係なんてものはそれだけで十分だ。

「いや……いやっ」

 逃れようともがくお姫さまの両腿に膝を乗せて動きを封じる。
 足掻く様子を眺めて悦楽に浸り、取り出したローションを逆さまに握りたっぷりと暴れん棒をデコレートする。
 情けを掛けてやってる訳じゃねぇ。
 たっぷりと滑りを良くしておかねぇとこっちも楽しめねぇだけだ。
 棹を扱いてローションを満遍なく伸ばし、余った分はお姫さまの尻に塗りたくっておいた。

 亀頭を尻穴にあてがいかるーく感触を味わう。
 お姫さまは逃れられないと悟ったのか、うつ伏せのまま息を整えている。
 呼吸を緩やかにがちがちに強張った身体から力を抜こうとしていた。
 身体を硬くしてちゃあ結局苦しいだけって判ってるのか、それとも順当に快楽の味を覚えているのか。
 どっちだっていい。
 どっちにしたって、俺はお姫さまのアナルを味わえるんだからな。

 タイミングは言葉にせずペニスの動きだけで伝えて、ピンクの窄まりをゆっくりと広げる。

「あがぁっ」

 きっつ。

 舌でほぐしてたっぷりローションを使っても尚、輝夜のアナルは狭かった。
 入り口がきついのがアナルセックスの特徴だが、それにしたって狭い。
 括約筋をよっぽど鍛えてでもいるのか、何度犯してみても生娘の使い心地だ。
 必死に押し戻そうとうねるのもまたいい塩梅だ。

 が、ほんの先っちょの挿入くらいで満足する俺じゃない。
 輝夜の細い腰を両手で固定して、虎の巣穴に潜り込む心境で腰を進めた。

「あっ、ぐっ、ああ、あっ、あんっ」

 きつきつの門を潜った先にあるのは、羽毛のように柔い肉壁。
 入り口が食いちぎりそうなくらい締まっていた分、とろけてしまいそうだ。
 俺の肉棒ってぇ異物を押し込まれてか、直腸が蠕動しているのが伝わってくる。
 アナルとは思えない絡み具合と、遠慮のない締め付け。
 前後の抽送で棹を扱かれているだけでも達してしまいそうだ。

「あっ、あんっ、あ、あはっ、ああっ」

 お姫さまはもう指を噛む事すら忘れて喘いでいる。
 身体は正直だ。
 もうアナルセックスの味はたっぷりとしつけてある。
 始めるまではどれだけ気高い淑女を気取った所で、肉棒を突っ込まれたら娼婦に成り果てる。
 直腸に収まった肉棒の当たり具合を余さず愉しもうと、腰を上げてくねらせ始めていた。

 心なんてものは肉体の奴隷だ。
 思考なんてのは肉体的感覚に追随するだけだ。
 どれほど素晴らしい感動も、求めて止まない愛情も、胸を潰す悲哀も、一瞬後には過ぎ去りて風化していく。
 留められるものなど何もない。

 だがまんざら悲観したもんじゃない。
 世の中は娯楽で溢れている。
 快楽に身を委ねて没頭していれば、煩わしいものから目を背けていられる。
 飽きたら次へ、そのまた次へ。
 浪費を重ねて食い潰していくのが人生だ。

「あ、ひい、あ、あはっ」

 身体の下で甘く喘ぐこのお姫さまを、骨まで砕いて髄液を啜るまで食い潰す。
 俺の選んだ結末に一片の狂いはなかった。

「あぐ、出て、あーっ、あーっ」

 ゆるくこってりと尻穴を犯しながら、欲望の塊を華奢な身体の奥に吐き出した。
 かぐやのしっとりと汗ばんだ乱れ髪は、香木でも焚いたようなとても良い香りを放っていた。



 曜日感覚も日数も忘れ、日々お姫さまを犯し続ける。
 絵に描いたような爛れた日々を、肉欲に溺れて過ごしていた。

「あっ、あ。あん、あっ、あっ」

 俺の腕の中でかぐやの嬌声が響き、部屋の中にこもる。
 汗と愛液と精液のにおいが充満するほど抱き続けている。
 ベッドで仰向きになったお姫さまが首を振り乱すたびに、汗が散る。
 お姫さまの体臭は不思議と甘く、立ち昇る香りが俺を包み込んでいた。

 処女を破ったのはいつの頃か。
 もう記憶にはないが、お姫様が健気な抵抗をかなぐり捨てて快楽に悶える程度には昔の話だ。

 反応はアナルセックスよりも遥かにいい。
 何せV敏感持ちなんだからそれも当然の話で、よろしい事に膣内の具合も逸品だった。

 吸われる。
 握られる。
 締め付けられる。
 柔らかく纏わりついたかと思えば、ざらりと擦られ、気合を入れなきゃ即昇天間違いなしの名器だ。

 煮ても焼いても食えなさそうな醜女が、いざ食ってみれば天衣無縫の天女だったってぇ話は良くあるが、外見も中身と釣り合ってるなら言う事はない。
 これだけのものを千年から眠らせて来たってんだから、全く罪な女だ。

「ひいっ、いん、そこ、ああっ。そこ、えぐ、って」

 どう見たって餓鬼の癖に、俺を底なしに引きずり込む。
 こっちに合わせて腰をくねらせては、俺の腕を握って嬌声に喘ぐ。
 そこがどこなのかなんて無粋な言葉はなしに、柔くざらつく肉壁を擦り上げる。

「いっ。あっ、あっ、あっあっ」

 小刻みに切れる吐息と上擦りする悲鳴。
 否応なくこっちも盛り上がっちまう。
 ベッドを軋らせて身体を弾ませ、後先考えずに腰を打ちつけた。

「あっあっあっ――あっ」

 跳ねていた肢体が弓なりに反って強張る。
 それと合わせて膣内が収束して締め上げられる。
 断続的に訪れる痙攣を膣内でも感じながら、忍耐力は堰を切って溢れた。

 射精する。
 お姫さまの中に欲望の猛りを吐き出す。
 亀頭の先で小突いていた子宮が、吐き出す精液を飲んでいるのが判る。
 尿道から吸い出される吸着力に、こっちの頭までおかしくなりそうだ。

「……馬鹿な顔」

 先にイッた分俺より早く余韻に浸っていたお姫さまが、腕の中から眉をしかめて見上げていた。

「その間抜け顔、もう少しどうにか出来ないかしら」

 先に絶頂の余韻から抜け出したってんで、ここぞとばかりに憎まれ口を叩いてくる。
 額に玉の汗を滲ませて、白い肌は赤みが差し、はだけた胸元から控えめに自己主張する乳房を僅かに弾ませて。
 この期に及んで僅かに優位に立とうとしている時点で、涙が浮かぶほど微笑ましい。
 俺の身体の下で喘いでいる時点で、優位に立つも何もありゃしねぇってのに。

 俺は余裕綽々の笑みを返して、尾を引く余韻と尿道どころか睾丸から吸い出されたかのような射精感を咀嚼した後、その生意気な口を利く唇にむしゃぶりついた。

「んっ、この。んむ、ちゅっ」

 口づけから逃れようと顎を引くが、両腕を押さえつけて組み敷くお姫さまに逃げ場所などありはしない。
 ささやかな抵抗感に劣情を煽られて、硬く閉じた唇に遠慮なくしゃぶりつく。

 硬く閉じたお姫さまの唇は、天の岩戸だ。
 称え宥め脅しすかして中に引き篭もったお姫さまを外へと誘い出す。
 舌と唇を使い、言葉は使わずにそれをする。

「……ん」

 抵抗が徐々に薄れてくると意志を宿していた瞳も茫洋にとろけだす。
 閉じた岩戸は柔らかく解れて隙間が生まれて、俺の舌を受け入れる。
 唾液と一緒に舌を吸い出し、口の中で掻き混ぜる。
 正体をなくした声音は体液が絡み合う音に紛れて千切れていく。
 誇りも矜持も千切れて溶けて、後に残ったのは覚えた官能にまどろむ女の顔。

 月から地上にすってんころりと落っこちてきた、可愛い可愛いお姫さま。

「ん……っぷは」

 唾液だけじゃ足りないんで肺の中の空気もたっぷりと吸い上げてから、唇を離した。
 本来桜色の唇が唾液で濡れ、照明の具合も合って赤く染まっている。
 吸ったり舐めたりむしゃぶったりしてたんで、濡れた唇から垂れていく雫が俺とお姫さまのどちらの涎なのかも判らない。
 息を切らせていたお姫さまの瞳に僅かばかりの意志の光が宿り、俺を睨んだ。

「私が、貴方のことを好いたとでも思っている?」

 そんな事を問われた。

「身体を許して…幾度となく犯され…繋がって……私の好意が得られたとでも思っている……?」

 どうかな。

 答えなど見つけられない。
 視ているのはただの数値。
 破瓜を迎え、快楽刻印が身体に刻まれ、桁外れに加算されていく欲情の数値。
 俺の行動を舵取りするだけの0から9までの数字の羅列に、特別な意味などありはしない。
 俺は数字なんて信じちゃいなかった。

 俺は瞬き一つで視界を切り替える。
 目に飛び込んできたのはお姫さまに元々備わった特質、素質。

 【恋慕】

 後から焼き付けた烙印。
 こんなものはただの言葉で、何の確証にもならなければ証ですらない。
 俺は言葉なんて信じちゃいなかった。

「少しでもそう感じているのなら、飛んだ思い上がりよ」

 お姫さまは先に答えた。
 訊ねた時から答えが決まっている質問の類だったんだろう。

「だって、私にも貴方を好いているかどうかだなんてわかりはしないもの」

 日を追い重ねて知識を得た厭世の賢人のように。
 この世の混沌も知らない無垢な童女のように。
 彼女は俺の目の前で笑っていた。

「ただ、この痛み……快楽……体温。貴方がもたらすものを感じていると、私は……生きている気がするの」

 生きている実感。
 もしこの一〇と五にも満たない見た目の小娘が、言葉通りに千年の時空を経てこの場にいるとしたら。
 千年という時間の長さが如何程のものか、俺には推察する程度しか出来ない。
 死に見放されて永劫の牢獄で過ごす少女。
 不老不死など、どう考えた所で無間地獄そのものだ。

「血生臭くて……理不尽で……ぬくい」

 お姫さまの手が俺の腕に触れる。
 手を合わせればそのまますっぽりと収まりそうな小さな手の平だ。
 何かを掴み取るには不向きな、華奢で儚いその手を強く意識する。

「獣のように私を貪って……あはっ……わかるわ…私の中で、また大きく、なってく」

 僅かな意志の光は貪欲な快楽によって塗り潰される。
 俺の腰に脚を絡めて固定すると、幼い身体を自ら前後させる。
 男をとろかす肉壷は複雑にうねり、俺に勃起を促していく。

「難しい話は終いよ……いつものように、なにも考えられ失くして……」

 気高い神秘も尊い清流も、濁流に呑まれて消えていく。
 覚えた快楽を試行錯誤し繰り返すだけの無為な日々。
 どれだけ清貧の聖人が世の中でもてはやされようが、泥を被って浅ましく生きる俺たちがその後に続く事はしない。
 暖衣飽食が全て整った遠くから喝采を浴びせるだけで、衣服一枚食い物一つとして差し出す真似はしない。
 贅沢に生きれるならその上で胡坐をかく。
 白河の、清き流れに住みかねて、もとの濁りの、田沼恋しき――ってね。

 泥の中をのたうち生きて、何も残せず死んでいく。
 愚物の生き方としちゃあ全く以って正しい。

「ん……いっ、そこ……えぐって」

 休めていた腰の動きを再開する。
 温かい泥の中に沈み込むように、未熟なまま老成した少女を貪る。
 或いは俺以上に貪欲な欲望に応える。
 それが俺の生き方で、選び取った悲劇がこれだ。

 清く気高かったお姫さまは地に堕ちて、今や官能の虜。
 これが、悲劇でないはずがない。
 俺は一抹の寂寥感を胸の奥にしまい込み、目の前に少女の肉体を抱く。
 怒りも悲しみも憎しみも愛しさも、全て肉欲が攫って忘れさせてくれる。
 そういう煩わしいものは、いつか忘れてしまった時に思い出せばいい事だ。
 
 乞われるままに二戦目に突入して、俺は体位を変えた。
 お姫さまを抱き起こし、俺が逆に仰向けになって主導権を手放す。
 俺の上にまたがって、お姫さまは求めるがままに腰をくねらせる。

 いい眺めだ。

 肩からずれ落ちた単衣。
 乱れに乱れた服装から覗く白い肌。
 紅潮した乳房が弾み、恥じ入って隠すように身体を覆う黒髪。
 帯はすっかり緩んだもののかろうじて腰に引っかかった袴の奥では、くぐもった水音が淫靡にぬた打つ。
 お姫さまの動きに合わせ、時折外して突き上げながら、俺はうたた寝に似たセックスをゆったりと愉しむ。

「はっ、はっ、はっ、はっ――」

 お姫さまは俺の胸元に手をつき、その狭い膣内から余す所なく快楽を得ようと一生懸命に腰を振っている。
 弾むたびに揺れる黒髪。
 乱れていく単衣。
 誘われるようにその胸元に手を伸ばす。

 胸は薄くて乳房は貧しい。
 だが決して何もない訳じゃない。
 かすかに肉の柔らかさと膨らみを感じるのは、少女とはいえ女を主張しているからなのか。
 それとも単に俺が揉み倒したからなのか。

「ひ、ひぃん、やぁっ、おっぱい、いじっちゃ……ぁんっ」

 その先端の桃色をいじってやると、甘い声で鳴いた。
 腰の動きを止められずに囀るこの姿を見る為なら、大きいか小さいかなんてのは実に些細な問題だ。
 欲望が刺激されて興奮してくると、ゆったりした繋がりでは満足出来なくなってくる。
 小刻みに腰を上下させて、委ねていた主導権を奪い返しにかかる。

「あっ、あっ、あっ、やっ、私、攻め、あっ、いい子に、あっあっ、して」

 いい子にしているからご褒美だ。
 遊ばせていた両手で張りの強い乳房を揉み、いじり、撫で回す。
 リズムを狂わせこちらが与える快楽に馴染ませていく。
 お姫さまは勤勉な事に尻を打ち付けてリズムに合わせてくる。
 まるで乗馬だ。

 俺を乗りこなすにゃあちと早い。
 
 浮かんだ想像に口元を緩めて、躾の悪いじゃじゃ馬はまたがった騎手を悪戯半分に揺すって遊ぶ。

「ひっ、あっ。こらっ、この。私が、する、のっ。おっ、あっ」

 握った主導権を離すまいと、お姫さまは俺の腕を握ってすがりつく。
 振り落としそうで振り落とさない加減を見極めて、下から幼い身体を突き上げる。
 飛んで跳ねて弾んでたわむ。
 乗馬を真似て遊ぶのも楽しいもんだ。

「やっ、あっ、あぅ、うう、うぅ~っ」

 が、俺は乗馬に適した大人しい馬なんてものとは程遠く、有り体に言っちまえばただの種馬だ。

「あっ、ああ、ああっ、あーっ!」

 せり上がってきた精液を留める事もなく吐き出し、お姫さまは牝馬の嘶きのように甲高い悲鳴を上げた。

「また、あ、またぁ……出し……んっ、きもちい……」

 天井を仰いでかくかくと揺れるお姫さまは、恍惚と表情を蕩かせ余韻に浸っている。
 生で膣内射精される事に悦びを覚えている。
 ついこの間まで生娘だったってのに、男の味を知った途端これだ。
 千年男の侵入を許さなかった処女地を耕された上、種まで植え付けられて悦ぶ。
 化けの皮を剥がしちまえばこんなもんだ。

 千年も暇がありゃあ性教育の一つもしとけば良かっただろうに。
 誰も教えちゃくれなかったんだろうなぁ。
 だからこうして、官能を知った途端発情したただの牝に成り果てる。

 俺は上体を起こすと、涎まで垂らしてすっかり正気を失ったお姫さまの緩んだ口元に吸い付いた。
 唾液を舐め取り吸い上げている内に、俺の唇を吸い返してくる。
 意図があってしてる訳じゃなく、単に反射行動なんだろう。

 繋がったままお姫さまの唇を味わう。
 桜の香りに似た甘い体臭がほのかに鼻腔を漂った。

「うめて」

 飽きる事無く唇を吸っていると、呼吸の合間にため息のような言葉が洩れた。

「私の空白を、貴方でうめて」

 乱れた髪を撫でつけ、長い口づけを答えに代えた。






 お姫さまをたっぷりこってりと堪能して、俺は部屋を後にした。

 バイタリティは溢れてるんだが肉体的には華奢だ。
 俺につき合わせてたらそれこそぽっくり逝っちまう。
 息の根は止めない程度に、けれども前後不覚に陥る程度に攻め上げて、生かさず殺さずねっとりレイプが基本だ。

 今頃ベッドで夢の中。
 勿論体液まみれになった身体はきっちりと手入れしておいた。

 眠ってる間に悪戯したいというちょめ心を押さえ込んでのこの奉仕。
 俺とあろうものがいつの間にやら一級ボランティアだ。

 ま、精液まみれで転がしといたらまたぞろ俺の命を狙ってくるだろうしな。
 やられたらやり返すが本能な俺に、口実を与えちゃいけない。
 うっかりハードコアに突入しちまったら、度が過ぎるに決まっていた。

 今はまだ、その時は来ちゃいない。
 甘ったるい夢想にどっぷりと浸けて歪ませてやる段階だ。

 しんと静まり返った殺風景な廊下を歩いて、肩を震わせる。
 お姫さまの言葉が甦ってきて、つい思い出し笑いが浮かんでいた。

 それにしても、また随分と下らねぇ理由もあったもんだ。
 生きてる気がする?
 好きかどうかも判らない?
 そりゃそうだ。
 自分の中に答えがなけりゃ、後は他人に求めるしかなかろうよ。

 だからって、見ず知らずの男に犯される理由がそれですか。
 下らねぇ、下らねぇ。
 だがこっちにとっちゃ好都合。
 というよりも、知ったこっちゃねぇってか。

 お姫さまが何を思ってるかなんて、どーだっていい。
 こっちは抱ければそれでいい。
 汚らわしいだのなんだのと騒いでいたお姫さまが、性に溺れる姿が楽しいだけだ。

 純白無垢の新雪を、思うが侭に踏み躙る。
 そんなサディスティック且つ独占欲を存分に満たす悦び。
 お姫さまが反発しようがどーだっていいが、依存し擦り寄ってくるに越したこたぁない。
 自分好みに染め上げてやったって判り易い成果だ。

「ふふ、ふひひひ。ひぃ~ひっひっひっ!」

 堪え切れずに足を止めて笑う。
 手に入れた。
 俺はようやく手に入れた。
 俺が欲しくてしかったものを、ようやくこの手に掴んだ。

「かぐやは俺のもんだ! 誰にも渡さねぇ、俺だけのもんだ! ひゃははははっ!」

 宣言とともに哄笑する。
 笑い、笑い、笑って――

「はははははははぐっ」

 咽喉が詰まった。

「おぐっ、ごぼっ、おおおげええええっ」

 吐いた。
 猛烈な吐き気が咽喉を越えた瞬間、胃がひっくり返って中にあったものを全部吐き出した。
 身体をくの字に折り曲げて、とてつもなく苦い液体を吐き出して、それでも嘔吐感は止まずに眩暈がした。

 ぱちぱちと目の前で光が爆ぜている。
 凍えるような悪寒に全身が震えている。
 床に這い蹲ってごぼごぼと咽喉を鳴らす。
 不意に訪れた霍乱に、獣のように這い蹲って耐えた。

「げっ、げぇっ。げっ」

 口の中に残る苦い胃液を唾とまとめて吐き捨てる。
 ひゅうひゅうと咽喉を鳴らして額に浮かんだ脂汗を拭った。

「――くそがっ」

 四つん這いのまま這いずって壁際に移動する。
 背中を預けて、未だにちかちかと瞬く目元を手の平で覆う。
 汗に濡れた手の平がぬるったるくて気色悪い。
 またぞろ吐き気が襲ってきやしねぇか恐々としながら、乱れた息を整えていった。

 ぐったりと壁にもたれて身体を休めながら、言葉通り湧いて出てきた吐き気を分析する。
 突然の身体の不調に、思い当たる節は幾つかあった。
 終わりが近いか?
 いや、そりゃまだ当分先の話だ。
 まだまだ節度を保って淫蕩に耽っているだけで、致命的な欠損は迎えちゃいない。
 という事はあれか。
 あれだな。

「まーだ良心なんて残ってやがったか」

 ぽつりと呟いた繰り言はそのままの意味で、自分自身驚きだ。
 となりゃあこれは鬼の霍乱か。

 壁をごつごつと頭で叩いて、ぼんやりと天井を見上げる。
 悪党が無闇に勝ち誇ったりするから痛い目を見る。
 高笑いは負けフラグってのはマジだな。
 全く以って笑えねぇ。

 むっつりと顔をしかめて、不意に襲った吐き気の正体を眺めた。

 俺はかぐやを愛していた。
 本当に、心の底から愛していたんだ。
 あの子の未来の為なら踏み台になってもいいと思ってた。
 実際そうなった。

 だから、未練がましく同名のお姫さまに娘の姿を重ねている。
 一目見てぴんと来た。
 有り得ないくらい似過ぎていた。

 お姫さまが俺の思うかぐやなのかどうか。
 親らしい事なんて何も出来なかった。
 忘れられてたってしょうがない。
 ろくでなしの父親だった。
 同名の別人だと鼻で笑って居直れなかった。
 ろくに触れる事すら出来なかった。

 蓬莱山輝夜が俺の愛する娘なのだと、今でも心の底から言い切れなかったし、否定するのも難しかった。

 忘れるはずがなかった最愛の娘なのに、俺の想い出は色褪せて区別がつかなくなっていた。
 その罪悪感を塗り潰そうと必死だった。
 必死になって細かい違和感を集めた。

 娘ではないと。
 似通った誰かだという確証が欲しかった。

 その確証は、今になっても得られてはいない。
 かぐやなのか輝夜なのか。
 娘なのか別人なのか。
 定かでないまま俺は肉体関係を持ってしまった。

 俺は正真正銘の下衆だし、まあ大概の悪徳に順応出来る。
 ただ、一個だけどうしても受け付けないものがあった。

 近親姦だけは無理だ。

 うっかりかぐやを手に入れたなんて口にしちまったから「うぇっぷ」全身全霊全細胞が拒絶した。
 記憶の中の輝夜が全てかぐやとすり替えられちまって、ゲロった訳だ。

「悪党も人並の親ってか」

 ひひ、笑っちまう。
 笑っちまうが、俺は憎悪も愛情も知る人間だったってこった。

 取るに足らない会話を交わすだけで楽しかった。
 真っ向から寄るなって言われちまった時は笑うしかなかった。
 腹をぶっ刺されて反射的に殺意スイッチが入っちまったが、あの時つくづく思ったね。

『ぐるじ、いよ』

 俺にゃ輝夜は殺せねぇって。

 海水浴に繰り出して、勢いを取り戻したのは正直うざくもあったんだが、ほっと安堵してもいたんだ。
 すっかり塞ぎ込んじまっていた輝夜が、太陽のように笑うのを見て。
 かぐやの笑顔と重なっちまったから。

 結局俺は親である事は捨てられなかった。
 娘の幸せを願って、今も願い続けていたんだと知っちまった。
 昔から言うのと変わらない。

 わんぱくでもいい、たくましく育って欲しい。
 丸大ハム。

 いや、ハムはどーでもいい。

 まあわんぱくで逞しいっつーか、厚かましい程だったんだが。
 っつーか色々とアグレッシブ過ぎんだろ。
 椅子でドタマかち割ろうとしてくるわ、濡らした手拭いでシバこうとするわ。
 大体人を刺す時にフォークを使う奴があるか?
 そういう時はナイフの方だろ、普通。
 今でもたまに部屋ん中でシャドーしてやがるし。
 なぁーにがしゅっしゅだ、ちゃんと見てんだぞ。

 俺はなんだかしんみりしてんだかうんざりしてんだか良く判らねぇ気分になって顔を覆った。

「……ろくな想い出が出てこねぇ」

 一体誰だ育てた奴は。
 親として物申すぞ畜生。

「はぁーあ」

 無性に無残な気分で落ち着くと、重たいため息を吐き出した。
 息はすっかり生臭くはあったものの、吐き気はすっかり引っ込んじまっていた。
 俺の親馬鹿加減に、とうとう不調からも呆れられちまったのかもしれん。
 嬉しいよりも情けなくって泣けてくる。

 輝夜を手元に残したのは、結局それが理由だ。
 確証が欲しかった。
 かぐやではないのだと。
 同時にこうも思った。
 輝夜がまさしく俺の愛した娘なのだと。

 どうしようもない矛盾にけりをつけたくて、いつまで経っても確証が得られない。
 輝夜をただの別人と見るべきなのか、愛娘と見るべきなのか。

「ひっ」

 俺はそんな臆病風に吹かれて竦む自分を嘲笑った。

 やる事やっておいて、今更娘だなんて片腹痛い。
 どう足掻いたって俺は父親にはなれないし、その役割だって自分で捨てている。
 ああ、なんて未練がましい野郎だ。
 ケツもまんこも処女を奪っておいて、今更父親面したいだなんてお笑いだ。

 輝夜を手元に残して二人きりの時を過ごしている間に、欲望のタガが外れた。
 元々歯止めが利くほど俺のおつむのネジは閉まっちゃいない。
 男女が同じ屋根の下で暮らせば、出歯亀野郎の思う通りになっちまう。
 こうなる事は判り切っていてそうしたんだから、別の道なんて有り得ない。
 輝夜にかぐやを重ねたまま、出来なかった親の役目を果たすなんて未来は存在しなかった。

 虚しい。
 悲しくも辛くも寂しくもないが、ただ虚しい。
 誰も誰かの代わりになりはしない。
 勝手な思いを押し付け投影して、果たせなかった後悔の憂さを晴らす事しか出来ない。

「……かぐや」

 それでも。

「なぁ、かぐやよぉ」

 どこかで。

「友達は出来たか?」

 もう俺には見つけ出せないが。

「今、笑ってるか?」

 どこかの空の下にいるのなら。

「悲しくて泣いたりしてないか?」

 願わずにはいられない。

「……幸せか?」

 どうか。

「どうか、お願いします」

 神様。

「あの子を幸福にして下さい――」

 何度祈っただろう。
 何度願っただろう。
 何百回、何千回――何万回。
 数える事も忘れるほどに祈り願ってきた。
 虫のいい話だってのは重々承知の上で、それでも俺は神にすがった。
 すがれるものが他になかった。

 己の無力さを呪って祈るたびに、頭のどこかからこうも返されるんだ。 
 そんなに子の幸せを願うなら、自分でやれってな。
 俺が幸せにしないでどうするんだって、ケツを蹴っ飛ばされる。
 ごもっともな意見だ。 

 祈って叶うような世の中なら、誰も苦労なんてありゃしねぇ。
 こんな血塗れの手を合わせた願いが届いた所で、神様も娘もいい迷惑だ。
 押し付けがましい願いなんざなくたって幸せになろうとするし、向こうも知ったこっちゃねぇだろうしな。

「ぃよっと」

 すっかり吐き気も引いて、これだけぶちまけたってのに気分もすっきりと晴れた。
 俺は壁伝いに身体を起こして、盛大にぶちまけたゲロを眺めてうんざりする。
 自分のもんだろうが他人のもんだろうが、ゲロの後片付けってどうしてこう気が滅入るのかしらん。

「後だな、後」

 うがいして顔を洗って、一息ついてからだ。
 まさかお姫さまにこの後始末をつけさせるわけにもいかねぇし。
 やらせたが最後ゲロを投げつけてきそうだ。

 スカトロを教えるにはまだちと早い。
 出来ればそういう日が来なけりゃこっちも有り難い。
 お兄さん基本はなんでもいける口だけど、ノーマルに越したこたぁねぇのよ?

 ただしアナルセックスはセーフ。
 明日はまたアナル周りをたらしこんでやるか。
 ピンクの窄まりを舐めた時のあの恥じ入る顔は、ただのセックスにゃ浮かべねぇもんだし。
 恥ずかしい?
 辱めてるんだから当然だっての。

 人の親って化けの皮を剥ぎ取って、明日も明後日も悪党らしく生きるとしよう。
 それ以外の生き方なんてねーんだし。

 大切な想い出は、誰の目にも留まらない宝箱の奥深くにしまい込んで。 

 俺は俺を取り戻すとジャケットをはたいて自室に向かう。
 さっさとお口くちゅくちゅモンダミンしちまおう。
 こんな生臭いにおいを漂わせてちゃ、千年の恋もシベリア送りだ。
 不平不満をぶちぶちとこぼしながらも、かったるくだらだらと過ごすばかりが我が人生也。

「なんて――」

 な。

 俺の背中を何かが強く押した。

 一瞬視界が真っ白に染まった。

 何故か足元の床が目の前にせり上がってきた。

 何が起こったのか判らないまま、俺の身体は前に向かって壁になった床に激突した。

 床だった壁って言った方が正しいのかこの場合?

 どーでもいー事を考えながらぺたぺたと触って壁=床の感触を確かめた。

 どーってこたぁない床だ。
 いや壁か。
 どっちでもいいけど。
 いや、良くねぇ。
 立ってるんだか倒れてるんだか判らねぇ。
 ん?
 倒れてるのか俺?

 混乱は収束しないまま、ショック状態に陥っているのだと判った。
 これは、あれだ。
 押された訳でも突き飛ばされた訳でもましてや飛び蹴りを食らった訳でもねぇ。
 背後から撃たれた。
 そうか。
 俺は撃たれたのか。

 その瞬間、俺の思考はぴたりと整頓された。

 ついにこの時がやってきた。
 俺の人生最大の、この瞬間が。

 俺はぶつかっていた壁、もとい倒れ込んだ床を爪でがりがりと引っかいて、痛む身体をよじらせた。
 俺の背後に立っていたのは、俺が良く見知った顔が並んでいた。
 忘れようったって忘れられるはずがない。
 これから何が待っているのかなんて、考える必要すらなかった。

 運良く即死は免れた。
 さあ、残った命を全力燃焼させよう。
 今がその時だ。

 さーて皆さんご静聴。
 とっておきの喜劇の始まり始まり。



xxx  xxx



「よ、よう。へへ。ご機嫌麗しゅう皆様方」

「てゐ」

「はい、お師匠様」

「後になさい。まずは輝夜を連れてきなさい」

「部屋は変わってねぇぜ? 前と同じごぼっ」

「喋るなクズ。うっかり踏み潰したくなっちゃうから」

「てゐ」

「……はぁーい」

「ごぼっ、ごへっ」

「――さて、私たちがここにやってきた理由。もう判ってるでしょう?」

「……へ、へへ。そりゃもう。勿論。お、お姫様だろ? 当然。ひひ、お、俺ぁ一度だって手を上げたりしてねぇぜ? 泣き喚いても尻の一度だって叩いてねぇ。だから、な?」

「だから?」

「そ、そんな目で見るなよ、なぁ。お、俺を殺るのか? まさか……だよな? へへ、へへへ」

「……」

「なんとか言ってくれよ。これは仕方なかったんだ。なぁ、判るだろ? 判ってくれるさ。俺の事情も永琳なら――」

「気安く名前を呼ぶな、下種」

「ひっ」

「そちらの事情など私の知った事ではないわ。貴方がこちらの事情を省みなかったのと同じようにね」

「……ひ、ひひひ。違う、違うんだ。なぁ? 違うって事くらい判るだろ? こ、こっちはただの人間、そっちは全知全能な蓬莱人様だ。俺みたいなか弱い生き物を踏み潰して、喜んだりはしないだろ? しねぇよ。しないさ」

「そうね。この場に囚われていた頃ならいざ知らず、今の貴方は取るに足らない塵芥に等しいわね」

「だ、だからよぉ、俺一人――いや、一匹くらいお目こぼししたってさ、その。なんの支障もないだろ? なぁ」

「ええ」

「ひ、ひひひ。そうか、そうだろ? そう言ってくれると思ってたぜ! だ、だったら」

「けれど、この子が貴方に話があるようだけれど?」

「……」

「……ま、待て。待ってくれ。そんな目で俺を見ないでくれよ」

「言葉遣い」

「へ。え?」

「馴れ馴れしいですね」

「……あ、ああ! 気分を悪くしちまっ――いや、しましたか? へへ、へへへ」

「何がおかしいんですか?」

「……」

「何か言ったらどうです?」

「い、苛めないで下さいよぉ、ねぇ? ほら、俺ってか弱いただの人間ですよ? 月の兎様にとって見たら取るに足らない相手ですよ?」

「そうですね。もっとも私は元月の兎で、今は永遠亭で暮らす地上の妖怪兎ですけどね」

「……そ、そうでしたね。へへっ」

「ただの兎を大喜びで苛めていたのはどこの人間でしたっけ?」

「わ、悪い奴もいるもんだ! お、俺は、その。ほら、改心したって言うか、悔い改め――ぎゃっ!」

「た・し・か。何度も何度もお尻を打ったりしましたよね?」

「ぎゃん! ぎゃう、ぎゃんっ!」

「泣いても、叫んでも、お願いしても! その人間は聞き入れたりしてくれなかったですよね!?」

「やめ、ぎゃ! ぎゃひっ、ひぎっ! おねがっ、ぎゃん!」

「目隠しして! 叩いて! 辱めて! 何度も! 何度も!」

「すびば、ぎゃぃん! すびまぜん、ぎひぃ! 俺が――私が悪っ、がひっ! 悪かったで、いぎぃぃ!」

「ウドンゲ」

「……っ」

「気は済んだ?」

「……」

「ひ、ひぃー、ひぃーっ」

「一度殺して生き返らせてからもう一度殺してやりたい気分です」

「その価値もないわ。その塵芥には。良く見てみなさい」

「やめてくれぇ、蹴らないでくれぇ。ひぃー。腹が、腹を撃たれてるんだ。ひぃーっ」

「……ほんとですね。哀れで無様で見苦しいです」

「その下郎には、関わり合うだけ時間の無駄よ」

「姫様!」

「ふぅ、全く。貴方たち来るのが遅いわよ。特にイナバ! 屋敷に戻ったら月に代わってお仕置きね!」

「そ、そんな!? 私だけなんてひどいですよぅ、姫様ぁ~」

「頼れる上司がいてくれて私も安泰ウサ♪」

「てぇ~ゐ~。貴方はいつもこういう時だけ立場を強調して。私の事、体のいい身代わりくらいにしか思ってないでしょ!」

「そんなことちっとも思ってウサ」

「思ってるのか思ってないのかどっちよ!?」

「ウサ」

「答えにもなってないわよ!」

「あら、仲がいいわね。それじゃあ二人とも私の実験に」

「全部こいつのせいです」

「こい――!? あ、貴方ねぇ!」

「イナバとは、いじめることと見つけたり!」

「姫様も妙なものを見つけないで下さい!」

「ああおかしい」

「し、師匠ぉ~」

「はいはい、そんな目で見ないの。要件を済ませた事だから、帰りましょう」

「えぇ~。いいんですかお師匠さまぁ~? 私、あのうじ虫はここで踏み潰しちゃたいですよぉ」

「ひっ、ひぃ! ひぃぃ! ひいぃぃ!」

「あら駄目よ。汚いでしょう?」

「えんがちょするわよ、そんなものを踏みつけたりしたら」

「うげ。はぁーい」

「ふふ。良かったわね。貴方は残された時間を――後六三八〇〇秒、気が済むように使いなさい」

「ひ、ひぃ?」

「貴方の余命よ」

「な、なんでっ」

「何故? 貴方なら良く判るのではなくて? 残された時間を知らせて置いた方が、残酷だからよ」

「ひ……ひぃー! 嫌だ、嫌だぁ死にたくないぃぃぃ! なんでもします、なんでもしますぅ! だから助けて下さいぃ!」

「そう。お願いしてみたら? 私にその気はないけれど」

「か、輝夜。輝夜様ぁ!」

「須臾に等しい余命ね。死は逃げないわ。楽しみなさい」

「て、てゐぃぃい!」

「ぷっ。ざまぁみろだわ。うじ虫に名前を呼ばれるなんて気分悪ーい」

「嫌、嫌だぁ! 死ぬのは嫌だぁ! 鈴仙、俺を助けてくれぇ! 助けて下さい鈴仙様ぁ!」

「……苦しみ悶えて死ねばいい」

「やめてくれ、やめてくれええぇ! 嫌だあああ! 行かないでくれえええ!」

「――さて。帰ったらとりあえずイナバたちをワンランク上の兎にスキルアップよ。具体的にはスペルカード持ちになるくらいまで」

「あの、姫様。それって滅茶振りなんじゃあ……」

「……あの進化薬を試してみましょうかしら」

「もちろん最初は鈴仙からですよね♪」

「えっ」

「待ってくれ、待ってくれ! 助けて、助けてくれ、なぁ! せめて病院に、なぁ! 病院に連れて行ってくれ! 俺死にたくねぇよ!」

「警備を担当してるんだし……妥当な線ね。きっと顔が増えたり手が生えたりして面白いことになるに違いないわ!」

「面白くないです!」

「あら。幾ら進化薬と言っても顔が増えたりはしないわ」

「あ、あの師匠? 手が生えるのは……?」

「……」

「師匠! 私の目を見て下さい!」

「もう妖怪を捕まえたり出来るなんて思わない、足を洗う! 悔い改めた! 奴隷商人糞食らえ! なあ、聞いてくれ、聞いてくれよ!」

「まあまあ鈴仙。手が増えたりした方がインパクトがあるし」

「有り過ぎよ!?」

「耳が長いんだし、ちょっとくらいいいじゃない。減るものじゃないんだし」

「関係ない上に増えてますよ!?」

「大丈夫よ。一緒に一週間死んだように眠り続けるお薬を処方してあげる。目が覚め時には終わっているわ……運が良ければ」

「今運良くって付け加えませんでしたか師匠!? 終わってるのは進化なのか私の命なのかどっちですか師匠!」

「助けて、お願いします! お願いですからぁ! 鈴仙――鈴仙、レイセンンンン!」

「……」

「レイセン、レイセン! 嘘じゃない、嘘じゃないんだ! 忘れた事なんて一度もなかったんだ! レイセン、愛してる! 愛してる! 一度だけ、一度だけでいいんだ! あの薬で、塗ってくれりゃ後は勝手に俺がするから、嫌だ嫌だ嫌だ嫌だレイセン俺を見捨てないでくれえええ!」

「……はぁ。すみません、ちょっとだけ」

「そう。姫様?」

「許すわ」

「物好きねぇ」

「このままにしておくのも、気分悪いですから」

「は、ひ。ひひ、レイセン。なあ、レイセン。信じてた、信じてたよ俺。レイセンだけは最後に俺を味方してくれ」

「それ、やめてくれない? 気分が悪いから」

「はひ? あ、ああ。するする。なんだってするさ、レイセンの言う事なら俺はなんだって」

「人間にその名前で呼ばれるの、気持ち悪いの」

「……へ? だ、だって、だってさ、これは、レイセンがそう呼べって」

「イライラするなぁ、もう」

「ぎゃんっ!」

「その名前で私を呼ぶなって言ってるの」

「ぎ、ぎひぃ、いぎぎぎぎっ」

「愛してる? 気持ち悪い」

「やげへっ、やべで、そこ傷口、うぎぎぎぎっ」

「泣いてすがってしがみついてきただけでしょ。それなのに忘れもしないでいつまでも愚痴愚痴愚痴愚痴」

「やべろぉ、やべでぇ、えげっ」

「早く死んでよ、もう。出来るだけ静かに」

「いぃ、いぃー……ぎひぃー……」

「いい気味」

「……んっだよ畜生……俺がどれだけ貢いだと思ってるやがるんだよぉ」

「あー?」

「上等な部屋! 美味い食い物! 今まで俺がどれだけお前らに金掛けてきてやったんだと思ってんだよ!」

「逆切れね」

「そう。これがそうなのね」

「うっわ、さいてー。私でも引くわ」

「細心の注意を払ってよぉ! 娯楽だって用意してやってよぉ! 毎日毎日面白おかしくしてやったってぇのによぉーお!? それがこれか! この扱いかよ!? レイプくらいがなんだってんだ? 人殺しよかずっと軽いだろうがよ!」

「……うるさい」

「第一そっちだって充分楽しんでたんじゃねぇか! えぇ!? ご主人様ぁとか言って寝床に潜り込んで来たのだって、俺ぁ一度だって強制した覚えはねぇぞ!?」

「……黙れ」

「ペットになりたいっつーからペットにして、愛して欲しいっつーから愛してやったんだろうがよ! 散々腰振ってたのもそっちの意志だろうが! お願いを聞いてやったらこれか!」

「黙れよ」

「目のつかねぇ所で生きてくだけだろうが! それの何が悪い? たったそれっぽっちも許せねぇのか!? 罰でも食らえ! 地獄に落ちろ化け物どもが! そん時ゃ地獄の鬼のちんぽでもしゃぶって媚びてるんだろうがなぁ!」

「黙れって言ってるのよっ!」

「ぎゃいん! ……ぎひひひ! そうさ、地獄に落ちるのさ! ごぼっ、お前ら全員地獄に落ちろ!」

「黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ」

「ぎひぃ! きひひひ! ひひひひ! 良かっただろ、えぇ!? 今の内に男を誑し込めごへっ。誑しの技は身についただろぉ!? ぎぎぎぃぎぃひひひ! 今度は地獄の鬼か! それとも閻魔様か!? ぎっ、なめなめぺろぺろご主人様ぁって擦り寄ってペットにでもして貰えはぎっ」

「黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ!」

「ほんっと、早く死になさいよ」

「ウドンゲ、てゐも。よしなさい。死に際の戯言よ」

「時間の無駄がこれほど似合う相手もそうはいないわ」

「か弱い人間を甚振った罪は一体どれほどのものかねぇ!? ぎゃひ! ……精々泣いて慰め合ってお互いの腐れまんこでも舐め合ってろよ! ぎぃ~ひっひっひ! お似合いだぜぇ牝豚が!」

「その前に自分の清算を済ませる事を考えた方が良いでしょうけど?」

「蓬莱人の私たちが死ぬはずがないんだし」

「ま、私も後千年くらい生きてみよっかな。それだけ時間があればやり直しなんて幾らでも利くし?」

「……そうですよね、馬鹿馬鹿しい。一〇〇年や二〇〇年は軽いですし、閻魔様のお説教さえ我慢すればどうすればいいのかも判りますし」

「……ひ? な、なんだよ、なんだよそりゃあ。卑怯じゃねぇか! 不公平じゃねぇか!」

「下郎。一ついいことを教えてあげるわ。世の中は元々不公平に出来ているものなのよ」

「ず、ずりぃ」

「死ぬ前に理解できたのだから良かったでしょう? ではさようなら。最後の最後まで本当に見下げ果てた人間だったわ、貴方」



「ひ、ひ? ま、マジで? ほんとに俺を見捨てていくのか? そ、そんな事しねぇだろ? ほんとはやせ我慢なんだろ? す、素直になれよなぁ! 人殺しになりたいなんて思っちゃいねぇんだろ?」



「待て、待てよ! 俺が悪かった! 言い過ぎた! 謝る、謝るよ。だからなぁ見捨てていくなよなあああっ!?」



「死ね死ね死ね死ね死にたくない死ね死ね死ね死ねもっと生きたい死ね死ね死ね死ね死ねちくしょうちくしょう俺の人生死ね死ね死ね死ね死ねなんだったんだ死ね死ね死ね死ね」



「死ね死ね死ね嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ死にたくない痛い痛い痛い死ね死ね死ね死ね痛い痛い畜生なんでだよどうしてどうして死ね死ねどうしてどうして死ね死ね死ね死ね」



「死ね死ね死ね死ねなんで俺が死ね死ね死ね死ねあああ怖い怖い怖い死ぬ死ぬ嫌だ死ね死ね死ね死ね死ね」



「ああああ怖い怖い死ね怖い怖いあと何秒? 何秒で俺は死ぬ? 死ね畜生畜生死ね死ね死ね畜生畜生ちくしょう」



「嫌だ嫌だ嫌だ怖い怖い怖い怖い怖い死ね怖いなんでなんでなんで俺が死ぬ怖い怖い怖い俺が死ぬのになんでなんでなんでなんで」



「助けて助けて助けて助けて死にたくない助けて助けて誰が誰か助けて死にたくないよ助けて死ぬ怖い助けて助けて」



「誰か誰か誰か誰でもいいから助けてお願いします」



「嫌だ嫌だ嫌なんだ」



「怖い」



「寂しい」



「誰か助けて」



「行かないで」



「俺を置いて行かないで」



「お母さん」



「お父さん」



「もうしません」



「ごめんなさい」



「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい」



「――……」



「生まれてきてごめんなさい」






































 














 どれほどこうしているのか、忘れるくらいに時間が経った。

 両手の爪は剥がれ落ちている。
 扉は赤く染まっている。
 ここまで這いずってきた分、廊下にも赤い這いずり跡が残っている。
 爪が剥がれても扉を掻き毟り続けた結果、指先の肉が卸し金で摩り下ろしたように削れている。

 ほ、骨が見えてるー。
 ギギギ。

 力尽きて倒れ込み、後は死を待つばかりごっこをしていた俺は、結局暇になったんでその場にごろんと転がった。
 腹を撃たれても寝返りくらいは打てる。
 超痛ぇけど。
 死ぬほど痛ぇけど。
 それでもまだくたばっちゃいない。
 永琳先生のお墨付きだから、もうちっとしぶとく生きてられる。
 死亡確定しちまったけどな。

 残された時間は後わずか――って程でもないのか。
 第一、六〇〇〇〇秒ってなんだよ。
 せめて時間で割ってくれりゃあピンと来るものを、全く永琳は最期の最期まで意地悪だな。
 秒だから六〇で割ってええと一〇〇〇分になるから……。
 一日?
 半日くらいか?
 この状況の余命としちゃあ微妙な所だが、蹴るわ小突かれるわ踏みつけられるわする前の話だから、色々と目減りしてるんだろうなぁ。

 結局てめぇの寿命を正確には知れなかった訳で、まあその方が精神衛生上都合もよろしい。
 てめぇが死ぬまで指折り数えて後幾つってのも、それはそれで新鮮だったろうけど。
 惜しい事したかもしらん。

「最期の最期までこれかよ」

 自分の未練がましさに嫌気が差すでもなかったが、まあ後悔なく笑って死ねるなんてのは俺にとっちゃ見果てぬ終幕だ。
 無様に泣き喚いておっちぬ方がらしいっちゃらしい。
 そう、笑っちまうほどお似合いの最期だ。

「……うふ」

 というか笑っていた。

「うふ、うふふふ! うっふふふふ、ふふふ! ふひひひひひひ、ひゃっひゃっひゃっひゃっひゃっ!」

 誰もいなくなった扉の前で、俺は一人馬鹿笑いを上げた。

「ひぃーひっひっひっ! 何あれ! 何あの無様な最期! 命乞いして逆切れして、見捨てられると必死に縋りついて、お母さんお父さんときたもんだ!」

 笑いの波は収まらない。
 無様で惨めに死んでいく最期の命乞いを、残酷に笑い飛ばした。

「最後の最後でごめんなさい? 生まれてきてごめんなさいときた! 馬っ鹿じゃねぇの馬っ鹿じゃねぇの!?」

 指が削れた手でバン「いてっ」バン「いてっ」と床を叩いて、それでも我慢出来ずに手の平を叩きつけ「痛ぇよボケ!」おおすまんすまん。
 俺ちょっと反省。

「ぎゃはははははぁーはっはぁ! こぉの間抜けがぁ! 好きたい放題やってきておいて、死に方を選べるなんて思ってたのか糞が!」

 気を取り直して嘲笑う。

「全くお似合いだ、お似合いだぜ! 罪の重さなんて全く正気か? 馬鹿じゃねーの? 平等な命なんてこの世にあるものかよ!」

 てめぇの死をせせら笑う。

「もう忘れちまったの? 脳細胞死にすぎじゃねぇの? てめぇはグラム一〇円の豚肉にも劣るこま肉だろうがよ! ぶっ殺した所で罪に問われるものかよ!」

 狼藉の限りを尽くして生きた悪党の末路を罵倒する。

「道を歩いて虫を踏み潰した程度、靴の裏を見て嫌な気分になる程度だろうよ! 罪の意識なんてあるものかよ! ひゃははは!」

 名前も戸籍も素性も無くした誰でもない屑に、ありったけの悪意をぶちまけた。

 後はもう笑う。
 笑い続ける。
 とびっきりの喜劇の一部始終を演じ、観覧した俺は爆笑の海に飛び込んだ。

「ひぃーひひひひ! きゃはははは! あひゃひゃひゃひゃひゃひゃ――びゃぷっ」

 で、吹いた。
 笑い過ぎて胃がひっくり返って、なんかついでに血流が逆流とかしたらしい。
 グレートムタもかくやっていう見事な血煙を吹き出していた。

「おべっ。げっ、ぺっ」

 口の中に残った血痰やら血の塊やらを続いて吐き出して、笑いの虫はようやく収まった。
 というより水を差されたみてぇで冷めた。

「はぁーあ」

 笑った笑った。
 とんだケチがついて不完全燃焼ではあったがそれなりの満足も得られたんで、いつになく俺の心は平穏に満ちていた。

 言い換えれば、それはがらんどうの虚無感だ。
 見栄も外聞もかなぐり捨てて、全力で生き残る為に無様に命乞いをした。
 あっさり見捨てられた。
 後に残るものは何もない。
 打ち捨てられた不毛の荒野で、風だけが吹きすさぶような平穏。
 生き物を拒む自然は荒々しく冷酷無比だが、住む者がいないならそれはそれは日々平穏に過ぎて行く事だろう。

 寂しくも悲しくも苦しくも無い。
 居心地のいい我が家に帰り着いた懐かしさがあった。
 俺はこの感覚を知っていた。

「そういや、二度目か」

 予定調和は糞食らえだが、一度や二度なら我慢出来る。
 たまに帰る家の懐かしさってのは、一、二度は繰り返さねぇ味わえねぇからな。
 三度となれば我慢出来ず、四度目となれば全力阻止だが。

「ふぅ」

 削れちまった両手の指を組み合わせ、血塗れになった胸元に置いて、血生臭いため息一つ吐き出した。
 居心地の良い平穏に身を委ねる。
 極楽浄土のような静けさ。
 天国のような平和。
 この世の全てから隔離された安定。
 誰もいない。
 俺しかいない。
 その俺も直に死ぬ。

 ああ、これほど穏やかな気持ちは久し振りだ。

 瞼を閉じればこのままあっさり逝っちまえそうだが、そうは問屋が卸しません。
 最期の一秒まで洩れなく斑なく隙間無く、たっぷり苦しんでから死んでつかぁさい。
 折角わざわざ急所まで外してもらって、即死し難く生き残り難い腹を撃たれたんだ。
 ショック死しなかった事は褒めてやろう。
 おめでとう、もっと苦しんで死ね。

「ひひっ」

 俺は嫌いな相手は死んでも嫌い抜くのが信条だ。
 平穏が訪れたと言っても、やっぱり死者に鞭打つ性格に変わりはないのねん。
 お兄さん、狭量ですから。
 少ない余命をどう有効活用していたぶり倒してやろうか。

 その算段を組んでいると、

「……よぉ」

 俺しかいなかった空間に俺以外の誰かがいるのを見つけた。

「鵺」

 顔のないぷくぷく膨らんだ小人。
 俺の傍らで、見た目の割りに相変わらずの存在感の薄さでぬぼーっと立ち尽くしていた。

 足音や気配は勿論、俺がもたれる扉からどうやって入ってきたのか。
 というより初めからここにいたのか?
 ま、いーや。

「いるんなら助けろよ。せめて振りだけでも」

「ごめん――なさい」

 鵺の奴は珍しく深刻な声音でぽつりと呟いた。
 そういう反応を返されちまうと、却ってこっちが困る。
 恨み言ってよりも、とりあえず挨拶の延長でお約束の言葉を投げかけただけだ。

「ばーか。間に受けてんじゃねーの。冗談だよ、冗談」

 最期の直前で颯爽と助けの手が入る。
 俺には全く似合わねぇ。
 そういうスマートな展開は俺の喜劇にゃ必要ない。
 もっとこう、独善的で吐き気を催す糞悲劇にあってしかるべきだ。

「……」

 鵺は言葉に詰まったのか、単に俺の言葉が理解不能だったのか、困ったように口ごもった。
 ま、お子ちゃまにはまだまだ早い話だわな。

 ふと気づいたんだが、俺も俺でいい感じに棺おけに片足を突っ込んでいる訳だが、鵺の奴も大概だった。
 ミキサーにでもぶち込まれたみてぇな格好で、ほつれたり破れたりしてる服の隙間からあちこちもやもや闇が立ち昇っている。
 やっべ、ちょっとラスボスみてぇでかっこいいかも。
 満身創痍に違いはねぇんだが。

「ひでぇざまだなぁおい。こっぴどくやられたか」

「……う、うん」

 この世の中、女を怒らせちまう程怖いこたぁねぇからな。
 おっかねぇおっかねぇ。

「ま、鵺のいいとこは怒り狂う般若が相手でもきっちり生きて戻ってくるとこだわな。大変よろしい。花丸をあげましょう」

「わ、わーい」

 削れた指先で中空に花丸を描いて見せると、鵺は諸手を挙げて喜んだ。
 花丸にしちゃあやけに反応が薄いっつーか、棒読み加減な気がしてならん。
 なーんか余所余所しいし。

「……」

「……?」

 これはあれか。
 もっとご褒美寄越せって催促か。
 ったくもう誰に似たんだか。
 図々しくなる一方ですよ?

 あ、俺に似たのか。

「しょうがねぇなぁ。判ったよ。ほら、ご褒美やるからこっちゃ来い」

「?」

 わざとらしく小首なんぞ傾げながら(やべぇ。高等スキルを身につけようとしてやがる)ひょこひょこと寄って来る。
 普段なら顔に突っ込む所なんだが、お互いこうぼろぼろになっちまってるとなぁ。
 ショートカットするか。

「ほれ」

 ずぶりと鵺の胸元の闇に遠慮なく手を突っ込んだ。

 あ、くそ。
 指痛ぇ。
 マジ痛ぇ。
 五体満足の頃と同じにはいかねぇなぁ。

 とはいえ鵺の前で泣き言はよろしくねぇ。
 男の子はやせ我慢が花道としっかり教え込まなきゃいけねぇから。
 鵺を相手に見栄を張るのが、俺のライフワークの一つだしな。

 指の先っちょを失って感覚まで馬鹿になってきてんのか、なんか随分触り心地が違う気がする。
 もっとこう、いつもはどぶの底に溜まったヘドロみてぇな感触なんだが、なーんかふにゃふにゃしてる。
 これはこれで触り心地はいいんだが、なんか妙に暖かいし。

 うわぁ……鵺の中……すごくあったかいなりぃ……。
 ってか?
 やっかましいわ。

「あれ? あぁれ? っかしぃーなぁー」

 目的のものが中々探り当てられねぇ。
 しょうがないんで残った左手も動員して(痛ぇのに)鵺の肩を掴んで抱き寄せると、遠慮なくまさぐりまくった。

 ショートカットのつもりがコースアウト?
 そういう落ちっすか?
 というか鵺の中身の構造経路は俺も良く判らんからなぁ。
 顔から腕を突っ込んで大体届く位置が、目安で胸元くらいっつーか。
 いや、まあ鵺の縦に潰れた身長からいったら、正確には股間辺りまでか。
 ……そっちかよ!

「……」

「わーりぃ悪ぃ。初歩的なミスって奴」

 鵺はなんか無言のままぷるぷる震えたりしてた。
 適当に笑って誤魔化すと、改めていざ突入。
 ぐにゅと指先をぬえの股座に

「きゃあ!」

 ビンタされました。

 なんかこう平穏な荒野に一瞬白い暴風が吹き荒れた気がした。
 不意打ちに横っ面を引っ叩かれた俺は何度も瞬きして、瞼の裏側に焼きついた火花をこそぎ落としていく。

 ……きゃあ?
 きゃあってナニ。
 というか鵺の奴、割りと瀕死な俺を遠慮なく引っ叩きやがった。

「殺す気か!」

 マジで洒落にならんのだぞ?
 お兄さん死ぬよ!?

 歯を剥いて食って掛かる俺に、鵺の奴は俺から距離を取って息まで切らしていやがる。
 一体なんだってんだ。

「え、えっち!」

 罵られました。

「えー……」

 この反応、マジでえーなんだが。
 え、なに。
 ひょっとしてそういう方向性に育っちゃった訳?
 うそん。

「いや、あのな……俺は鵺にご褒美をやるだけであってな」

「最低」

 あ、グサっときた。
 なんかこう面と向かって罵倒されるよりも、ぽつっと呟かれる方が却って効くなぁおい。
 おお鵺よ、ブルータスとは何事か。

「あー、もう。いいよいいよ判りましたよ。不精した俺が悪かったよ。いつものようにやるから、な? ほらご褒美」

 転がってた椅子の陰になんぞ隠れたりして、まるっきり小動物化しちまった鵺をしつこく手招いて呼び寄せる。
 根負けしたのかおずおずと俺の側まで戻ってくる鵺。
 シマリスじゃねーんだからよ。

 で、いつもの如く顔面に腕をずぶり。

 ずぶ――ずぶり?

 ずぶりといかねぇんだが。

「はて?」

 指先で探ってみるが、温かくて柔らかい感触。
 あー……ひょっとして上がってきてたのか。
 なんだ、ご褒美の言葉で察してた訳だ。
 それならそうと先に言えよ。

「ほーらご褒美だ。なんならこのまま吸ってもいいんだぜ?」

 後はいつものようにご褒美。
 触れた指先をちゅぱちゅぱと舐められて――

「痛ぇだろ!? ほんとに吸うな!」

 伊達で爪が剥がれたり指先削れたりしてんじゃねぇぞ!?
 ご褒美終わり!

「ひ、ひどい……」

 慌てて手を引っ込めてふうふうと息を吹きかける俺に、打ちひしがれたような鵺。
 ひどいのはどっちだよ、ったく。

「あーぁ、少ない余命を削って漫才かよ。人をからかうのも大概にしねぇと食っちゃうよん?」

「ご、ごめんなさい」

「冗談でーす。謝られると立場がねぇ」

「うぐ」

 鵺をからかいつつ手足を放り出してリラックス。
 見ての通り重症っつーか重体なんで、安静にしとかにゃあならん。
 残った余命を出来る限り延命しつつ、最後の瞬間を後延ばし。
 助かる見込みもなく生きれば生きるほど辛くなってくるんだから、生き地獄だ。
 安楽死よりかはそっちの方がずっといい。

「……」

「……」

 鵺は喋らない。
 だが意味のある沈黙だってのは判る。
 言葉を投げかけなくたって、なんとなく言いたい事は伝わってくるもんだ。
 そういう幻想をいつまで経っても捨て切れないから、裏切ったり裏切られたり理解したり理解出来なかったりするんだけどね。

「なんか、訊きたい事があるんじゃねーの?」

 いいの?

 いつだったか、レイセンとてゐを売り飛ばした時に鵺はそんな事を言っていた。
 全部終わったら答えてやるとも言った。
 このままくたばるのを待つにしてもそこそこ時間は残っている。
 話し相手がいりゃあそれに越したこたぁなかった。

「……」

 目は口ほどにものを言う、ってか。
 視線がじっと向けられているのを肌に感じながら、俺は血が渇き始めている唇を舐めた。
 口の中はもう、唾液なのか血なのかも良く判らない程ぬめっていた。

「いいのかどうかって訊かれたらな、いいに決まってるんだよ」

 出入り口の扉にもたれかかり、俺は広間をぼんやりと眺めた。

「あの二人にも言ったけどよ、俺が始めたんだ。俺が終わらせなきゃなぁ」

 ちょいと寄り道するつもりで愛情ごっこを始めたら、いつの間にか馬鹿馬鹿しい家族ごっこになっちまってて、気がついた時にはのめり込んじまってた。
 俺が愛情なんてものを抱いてたのかは知らん。
 ただ、妙な未練は残さないように全身全霊を上げて愛そうとはした。

 だけどそいつは紛い物だ。

 愛情は結果が実らなきゃ嘘だ。
 幸福な結末が待ってなきゃ意味がない。
 どんな不幸も吹っ飛ばす、問答無用の大団円。
 愛あらばこそ人を救うなら、ハッピーエンド以外はお呼びじゃねぇ。

「どうして?」

「じゃねぇと、いつまで経ってもやり直せねぇだろ」

 けりをつけるってのはそういう事だ。
 過去の汚点は綺麗に塗り潰す。
 そうすりゃ心機一転やり直せるし、上手くすれば男を誑かす手管にだってなる。
 トラウマなんぞをいつまでも引きずってちゃ中々やり直せねぇ。
 被害者による加害者への復讐。
 それこそ罪と罰の原点だ。

 やられたからやり返した。
 それでOK無問題。
 物事の正しい流動って奴ですよ。
 罪に軽い重いがあるもんか。
 傷を負った痛みは当人以外判りゃしねぇーんだもの。

 その辺りを懇切丁寧に説明してやったが、果たして鵺の奴判ってるんだか判ってないんだか。
 基本的にアホの子だからなぁ。

「どうして?」

「ここに居たって幸福なんてねぇんだもの」

 幸福ってのは何か。
 恋愛? NON.
 結婚? NON.
 出産? NON.
 育児? NON.
 円満? NON.

 NON NON NON.

 生涯だ。

 生きてる間がどれだけ幸せだろうと、死に方が悪けりゃ全部台無しになっちまう。
 生まれたんだからどう死ぬかってだけ。
 けどここじゃあ死に方が選べない。
 自由がない訳じゃない。
 余地がないんだ。
 なんせ実際に試した。
 八方塞で出口がなかったんだから。

「愛情のある生活、いいね。なんでもない日常の繰り返し、悪くないぜ。泣いて笑って喧嘩して最後は仲直り、いいよいいよ。やがて結ばれる愛の結晶、素晴らしいハレルヤ!」

「……なのに、どうして?」

「飽きちまうからだよ」

 輝かしい日々は当たり前になる。
 黄金色の感動はメッキが剥げ落ちる。
 求めてやまなかったはずの至宝は、ガラクタになって積み重ねられていく。
 夢の島はゴミの島だ。

「飽きたらろくでもねぇ事になるしなぁ」

 重要なのは、俺は煮ても焼いても生でいっても糞野郎って事だ。
 飽きたらどうするかなんて決まってる。
 楽しみ半分暇つぶし半分に、愛した者をこの手でばらばらに切り分け腑分けするに決まってる。

 数値なんて信じちゃいない。
 言葉なんて信じちゃいない。
 欲望だけは信じていた。
 物事を悪化の一途へ辿らせると信じていた。

 輝夜を抱いたのは飽きたからだ。
 かぐやの面影を重ねて見守る事に飽きちまったからだ。
 輝夜を手放したくなかったってのもあるが、旗印として利用出来るってのもあった。
 奪い返すものがあれば、永琳たちだって本気で殴り込んでくる。

 で、この復讐劇は綺麗に幕を閉じてかくも見事なハッピーエンド。
 メデタシメデタシだ。

「……」

 この喜劇の舞台裏を語ってやったが、鵺の奴は案の定納得した感じじゃあなかった。
 重苦しい沈黙は到底すんなりと受け入れているようにゃ思えない。
 ま、鵺にゃ割を食った役回りしか用意出来なかったんでそりゃそうだろうが。

「鵺よ。蜘蛛の糸って、知ってるか?」

「……」

 物を知らない鵺は当然のように首を左右に振った。
 細かい点は省いてかいつまんで説明してやる。
 なんのこたぁない話だ。
 地獄に落ちた悪党は、仏の慈悲にすがってもその悪性故に地獄へ逆戻りって笑い話。
 因果応報を地でいく話だ。

「悪党は無残な目に遭って苦しみ続けました。判り易くっていいだろう?」

 判り易くてすっきりする話が好きだ。
 判り難くてもやもやする話は嫌いだ。
 善良な者が報われる話が好きだ。
 正直者が馬鹿を見る話は嫌いだ。
 最後は正義が勝つ話が好きだ。
 悪党がのうのうとのさばる話は嫌いだ。

 御伽噺くらい、そういう正しい帰結を求めたい。
 現実の世の中には悪徳がちと蔓延り過ぎている。

「だからこれでいーんだよ」

 俺は主人公じゃない。
 あてがわれる役は小悪党ただ一択。
 だから小悪党なりに夢を見た。
 ありもしない幻想を求めた。
 手に入らない事くらい知っていた。
 役目を終えたら舞台を降りるだけだ。

「……幸せは?」

 ん?

「幸せは?」

 鵺は俺を指差していた。
 俺が幸せかどうかなんて、またえらくどーでもいい事を訊くもんだ。

「あのなぁ鵺。俺が幸せかどうかって言うのはな、余所の幸せとは関わりがないんだ」

 レイセンの幸せ。
 てゐの幸せ。
 永琳の幸せ。
 輝夜の幸せ。
 それらに俺の幸せは含まれていない。
 単純な話だ。

「俺に出来るのはな、ここから幸せを祈り願う事なんだよ」

 俺では幸せに出来ない。
 誰も幸せに出来ない。
 ここにいても幸せは望めない。
 だったら早く手放して、外の世界で幸せが待っている事を祈る方がよっぽど建設的だ。

「愛は祈りなんだよ。言葉が違おうと、目や肌の色が違おうと、人間か妖怪かなんてどうだっていい。古来から、ずっと続けられてきた愛情だ」

 連れ添うだけが愛情じゃない。
 幸せを願って身を引く事だって愛情だ。
 信じて託す事も愛情だ。

「だから幸せになると信じて祈るんだよ」

 世界に愛を。
 無限の愛を。
 愛に満ちた素晴らしい世界になって欲しい。
 どんな下衆だって生きてりゃ一度くらいは祈ったはずだ。
 善い世界になって欲しいって。 
 例えそれが身勝手な欲望から出てきたもんであろうと、幸せを夢想する権利だけは保証されていた。

 世界が相手となると荷が重いから、せめて身近な人々の幸せを祈ろう。
 どうか幸せになってくれ。
 この身勝手なもんが、結局は俺が許せるぎりぎりの範囲だ。

 誰も傷つけないし誰も不幸にしない。
 たった一つの冴えた愛情だ。

 どこかの誰かと幸せになればいい。
 連れ添う役目は俺じゃない。
 なのに未練がましくてだらだらと引っ張っちまった。
 家族ごっこに没頭して引き止めちまった。
 だから手ひどく手の平を返してやった。
 中途半端にしこりなんて残しちゃいけなかった。
 別れ際の優しさなんて見せ掛けだけの言い訳だ。
 屑は屑のままでいた方が相手だって遠慮なく憎める。
 未練なんて一切残らないように、与えられた役割の通りに演じて、望んだままの結果になった。

「見たか? 俺に向けるあの虫けらを見るような目。後悔も何もあったもんじゃない。大成功だ。心の傷は時間が癒してくれる。時間だけはたっぷりあるし、メンタルケアもばっちりだ」

 憎まれっ子は憎まれてなんぼだ。
 憎まれるのはとっくの昔に慣れっこで、今更何人増えたところで屁でもねぇ。

 もう俺がやる事は一つだけ。
 出来る事はたった一つ。
 ここで後腐れなく死ぬだけだ。

「な? だからこれでいーんだ」

 じっくりと忍耐強く説明して、流石にちと息が切れた。
 口元を拭おうとして、俺の両手はもう動かなかった。
 身体の痛みがいつの間にか消えている。
 それは無くなっちまったんじゃなくて、感じなくなったんだろう。
 意外ともったがこれはいよいよお迎えが近づいてきてるのか。
 俺の身体はゆっくりと死滅していこうとしている。

 恐怖はなかった。
 思い通りの結果になったし、鵺に話していい暇潰しになった。
 もちっと俺を苛め倒してやりたかった所だが、全てを満たせる訳じゃないんで良しとしよう。

「……鵺?」

 視線を動かすと、鵺が泣いていた。
 声も出さずに泣いていた。
 肩を震わせしゃくり上げ、俯き加減に下がった帽子の唾から濡れた雫が伝い落ちていた。

 鵺って泣くんだ。
 初めて知った。
 どこに鵺が泣くような要素があったのか。
 俺の自己満足に巻き込まれて巻き添え食って、ズタボロにされちまった辺りか。
 そりゃ泣くわな。

「泣くなよ。生きてりゃいい事あるって」

 少なくともくたばるよか幾らかいい。
 くたばる奴にざまぁみろって言えるから。

 が、鵺の奴は一向に泣き止む気配がない。
 なんとも気まずいもんだ。

 気まずい静寂と鵺の女みてぇな泣き声を聞きながら、動けない不自由さからか口寂しさが強くなった。

 どうせ借りを作って踏み倒すんだ。
 厚かましかろうが余裕だ。
 迷惑ついでに最期のお願いって奴を頼む事にした。

「なぁ、鵺。煙草持ってねぇ?」

「…っ…っ…」

 鵺はしゃくり上げながらぶんぶんと首を左右に振った。

 ねぇのかよ。
 そりゃ残念。
 手が動く内に指でもしゃぶっときゃ良かったぜ。

 最期のお願いはあえなくぽしゃった。
 鵺は泣き止まない。
 さて困った。
 非常に気まずい。

「ま、いーや」

 だから俺も訊ねよう。
 鵺に答えた後は、俺が訊ねる番だって言ってたしな。
 話でもしてりゃあこの居辛い空気も少しは紛れるだろうし。

「なぁ鵺よ」

 俺は前々から感じていながら、今の今まで訊ねてこなかった疑問を口にする。

「俺が売った奴らって、どこに連れてってんの?」

 売った奴隷がどこに連れて行かれるのか、俺は全く知らなかった。
 それっぽい事を口にゃしてたが、全部俺の想像ってだけ。
 売り買いを鵺が手引きしてるってだけで、ひょっとしたら食ってんじゃねーのと思ったりしてた。
 売った後の反響なんて耳に入ってこないし、外部発注もないしな。

 簡単な素性はこの目のおかげで読み取れるんだが、どこから来てどこへ行くのか。
 実の所、俺はさっぱり判っていなかった。

 俺の質問に、鵺はしゃっくりを堪えて袖で目元を擦る。
 宥めるような深呼吸を繰り返して、唾を飲み込む音が聞こえてきた。

「迷いの竹林」

 ……は?

 鵺の意外な答え。
 てっきり悪趣味な好事家か、俺と似たような人買いか、どこぞの脂ぎった成金親父を想像してたんだが。
 それともそういう名前の娼館か何かなのか。

「私たちは、迷いの竹林に運ばれました」

 急に、鵺の滑舌がなめらかになった。
 今まで良くて片言を組み合わせるか、漠然とした言葉しか扱えなかったのが、何の前触れもなく普通に喋り出していた。

 急成長?
 まさか。
 ありえねぇ。
 というかこの声と喋り方――

 ぽかんと口を開けて呆ける俺の目の前で、鵺の形が歪んだ。
 元々形なんてあってないようなもんだが、TVのチャンネルをいじったように歪んで、見慣れた小人の姿があっさり消え去った。

 その向こうにいたのは。
 鵺の皮をかぶってたのは。

 俺が愛した臆病で泣き虫な月の兎だった。



xxx  xxx



 私が波長を操り幻覚を解除しても、あの人はしばらく呆然としていた。

「あー……」

 どこか穏やかにも見える呆けた表情のまま、唸るような声を洩らす。
 瞳に力はなく虚ろで、私に向けたまま動かさない。
 意味を持たない声は場を繋ぐ為で、言葉が出て来ないのだと容易に判った。

 私も、どう声を掛ければいいのか言葉を見つけられないでいたから。
 ひどく迷った後、あの人は言う。

「こんにちわ」

 何気ない挨拶を投げかけられた。

「兎のお嬢さん」 

 その呼び方は、手を伸ばせばすぐ届く距離にいながら、決定的に別たれた深い溝を感じさせた。

「……こんにちわ」

 私はぐすっと鼻を鳴らして、なんとか挨拶を返すので精一杯だった。
 少し気を緩めるとすぐに涙がこぼれだしそうになる。

「訊いてもいいかな?」

 唇を噛んで堪える私に、あの人が――ご主人様が私に訊ねた。
 私は嗚咽を飲み込んで小さく頷いた。

「なにが起きてるのかな? ちょっと理解出来ない」

「それは――」

 ひび割れた言葉で私は答える。

「幻覚を見せていた……んです」

 師匠があの小瓶から創り出した扉を潜って、私たちはあの見知らぬ場所へと戻ってきた。
 そして、私は部屋から無防備に出てきたご主人様の波長をいじり、今までずっと幻覚を見せ続けていた。

「……ああ、そうなんだ」

「はい」

「それって、いつからの話なのかな」

「赤い光を、感じませんでしたか?」

 私が狂気を植えつける時、相手は赤い光として認識する。
 光の速さで脳に到達し、あるはずのない情景をあたかも現実のように認識させる。
 私は今まで自分の持つ力がある程度強力だと思っていたし、自負もあった。
 けれど、今日ほど怖いと思った事はなかった。

 ご主人様が泣き叫び惨めに命乞いし、自らを呪い、そしてひどく悲しい愛情を秘めていた事すら、全て騙して曝け出してしまった。
 目を合わせるという、ただそれだけの事で。

「……ああ、うん。そうだね。眩暈がしたかと思ったけど、そうか。あそこからだったのか」

 ご主人様の声は穏やかだった。
 今となっては私がした事を全て理解しているはずなのに、私を責めるでもなく、敵意も感じられない。

 どうしてですか。
 どうして。

 ご主人様の目に映っていた幻は、決して良いものじゃなかった。
 むしろ悪夢のような体験を過ごしたはずだ。

 それなのに、どうして――

「あれは幻か」

 そんなに嬉しそうに笑うんですか。

 空っぽになってしまったような声音は、諦め切った穏やかさばかりが漂っていた。
 どう声をかけるべきか悩んでいる間に、私を横切ってずいとてゐが前に出た。

「まんまと化けの皮が剥がされたわね」

 柳眉を逆立てご主人様をきっと睨み上げる。

「たかだか人間のくせに図に乗るからこうなるのよ。いい気味」

「全くだ……ざまぁねぇ」

 てゐが剥き出しの敵意を放つのに対して、ご主人様はだらりと首を濡らして緩やかに笑うだけ。
 その口元を粘っこい血が伝って床に落ちた。

 ご主人様の状態は、控えめに言っても致命傷だった。
 左肘、右肩、左膝、右足首、そしてお腹。
 計五本の矢が身体を貫通して、長い廊下の突き当たりにあるご主人様の部屋のドアに、磔のように縫いつけている。
 身動きは勿論倒れる事すら許されない。
 足元には溢れ出した血溜まりが出来て、口元は吐血で真っ赤に染まっていた。

 私の幻覚は正気を奪い、師匠の矢が命を奪い去ろうとしている。
 けれど、てゐを見下ろすご主人様の瞳は柔らかく平穏だった。
 磔にされているのに、その眼差しはまるで――誰かの罪を肩代わりして自ら磔刑を受け入れた殉教者のよう。

 てゐはこの場に戻ってきた直後からずっと不機嫌だ。
 ぎりと歯を軋らせて、ますます眦を吊り上げる。

「いつもの減らず口はどうしたのよ。今なら冥土の土産くらい貰ってやるわよ?」

「冗談はよし子さんだぜ、兎の小嬢。こちとら尻の毛まで毟られちまって鼻血も出ねぇ」

 てゐの売り言葉にご主人様の口元が皮肉げに吊り上がり、かつての諧謔が戻った。
 かと思った瞬間、ご主人様はてゐから顔を背けてひどく胸の悪そうな咳を繰り返した。
 口から飛ぶしわぶきは赤く、咳が収まってもぼたぼたと鼻や口から血が滝のようにこぼれ落ちた。

「あー……駄目だな。見ての通りだ」

「このっ――根性なし!」

「すまんな」

 てゐの怒りはなんとなく察しがついた。
 私が持て余しているものと同じ感情を抱いているから。
 ご主人様を――この人を、憎んでいいのか愛せばいいのか判らない。
 憎もうとしても憎み切れず、かつてのように無邪気に愛する事が出来ずに、こうして敵味方に分かれてしまった。

 ご主人様の元を離れてしまったら、私たちの行き場は永遠亭しかない。
 私たちの困惑も後ろめたさも取り合わずに、師匠は以前通りに振る舞った。
 だから私たちはそのまま元の関係に収まって――その時点でご主人様は敵になってしまった。

 敵同士という関係性に、ある意味ふりだしに返ったと言うのに、私もてゐもただ憎いだけの敵に向ける目じゃない。
 あれだけひどい真似をしたのは私たちが憎めるように、重荷にならないようにという配慮で、この人は死のうとしているのに私たちの幸せだけを祈っていた。

 ひょっとしたら、今も祈り続けているのだろうか。
 きっとそうなんだろう。
 だって、何もかもを失った者が、こんなに優しい目を誰かに向けるはずないもの。

 てゐは何度も悪態を浴びせようと口を開いては、言葉を咽喉に詰まらせている。
 握り締めた拳の上げ所を見つけられないでいる。

 てゐは大きな目をいっぱいに見開いて睨み続けた後、言葉もなくくるりと振り返った。
 私の目の前を通り過ぎて、ご主人様の前から立ち去っていく。

「なぁ」

 それをご主人様が呼び止めた。

「とどめを忘れてないか?」

「……お生憎さま。私がわざわざ手を下すまでもないし、放って置いても勝手に死ぬでしょ。あんたを喜ばせるような真似はごめんなのよ」

 足を止めはしたけど、てゐは絶対に振り返ろうとしなかった。
 肩を震わせ、押し殺した声音で、握り締めた拳からは血の気が失せて青白くなっていた。

「そうか。それもそうだな……場所は前と一緒さ」

「小さなお世話よ!」

 てゐは怒り肩のままずかずかと廊下を引き返して、ドアの前に――姫様が使っていた部屋の前に立った。
 てゐがノブに手をかけた時、一呼吸を飲み下してご主人様を一瞥した。

「じゃあね」

「ああ。ばいばい」

 それっきり。
 たったそれっきりの短い別れの言葉を交わして、てゐはドアを開けると部屋の中にするりと姿を消した。

 再び訪れる静寂。

 私と話している間も、てゐとの決別の間も、何をしていなくともご主人様の命は流れ落ちて失われていく。
 残された時間は少ない。
 話したい事はそれこそ山のように積みあがっている。
 私たちに行った非道への怒り、真意を汲み取れなかった後ろめたさ、割り切れないままの疑問。
 何から話せばいいのか判らない。

「兎のお嬢さん」

 迷った立ち尽くすばかりの私に、弱々しい声音が投げかけられた。

「小嬢だけだと大変だろうから、手伝ってあげた方がいいんじゃないかな?」

 背後から聞こえる言葉には、早く立ち去れという意図が見え隠れしていた。
 邪険に扱われているのではなく、それは優しさを悪意で包み込んだ言葉なのだというのが、今の私には判った。

「……姫様を運ぶのなら、てゐ一人でも大丈夫ですよ」

 以前の私は、ずっと言葉通りにしか受け止めていなかった。
 ご主人様が何を考えているのか理解などせずに、自分に都合のいいところだけを抜き出していた。
 だから、手の平を返された時に裏切られた、騙されたと強く感じたのだ。

「だって、私たちは妖怪なんですから」

「……そう。そうか」

 それっきり言葉が途切れた。
 ひどく胸に閊えたご主人様の席の音以外、しんと静まり返っている。
 一度は途切れた会話は、すぐに再開される。

「兎のお嬢さん」

 そんな呼び方をされるのは嫌です。
 いつも、初めから私の名前を呼んでくれたじゃないですか。
 レイセンって、二人きりの時はいつもそう呼んでくれたじゃないですか。
 それなのに、どうしてそんな他人みたいな呼び方をするんですか。
 だから答えません。
 名前を呼んでくれないなら、ご主人様と口を利いたりしません。

 そんな気を緩めると口から滑り出てきそうになる言葉を、ぐっと奥歯で噛み潰した。

「……」

 口を固く噤んだままの私に、背後から少し困ったような雰囲気が伝わってくる。

 知ってる。
 なんて我侭で自分勝手な言い分だ。
 ご主人様の元を離れて、こうして敵同士になってしまい、私は自分の意志でご主人様から誇りを根こそぎ攫い盗った。
 この人の事だから、真意は絶対に知られたくなかったはずだ。
 それだけでなく、有無を言わさず命まで奪おうとしている。

 なのに、私はまだ未練がましくしがみついている。
 この人をご主人様と――そうとしか呼べないからと自分に言い訳までして、一緒に過ごした時間を想っている。
 もうどうにもならないなんて判っているはずなのに。

「勝手な事を訊くんだけどさ」

 いつまでも話そうとしない私に、ご主人様が口を開いた。
 私は制止する事も出来なかった。

 口を開いた瞬間膝を折って泣き喚いてしまいそう。
 この人の不器用で優しい祈りを潰してしまったのだから、せめて虚勢だけは張ろう。
 無口な殺人者として振る舞った方が、今更口当たりのいい言葉を並べるよりもよっぽどいいだろうから。
 ご主人様は凄惨な役回りに愚痴も言い訳もせずに演じ切っていた。
 だから、せめて私もこれくらいは演じないと。

「仲直りは……ちゃんとしたかい?」

 その決意をぐらつかされる。

「許して貰えたかい?」

 か細い声に胸が突き上げられる。

「大丈夫……お姫様だって判ってくれるさ」

 どうして。

「ここであった事は、全部俺に命令されてした事だ」

 私は貴方を殺そうとしているのに。
 その誇りを無残に踏みにじったのに。
 一身を捧げた貴方に、私は何も返そうとしなかったのに。

「お嬢さんにはなんの罪も責任もないよ」

 何故、貴方はそんな私を気遣ったりしているんですか。

「気に病む事なんて、何一つないよ」

 知っています。
 貴方はひどい人。
 平気で誰かを踏みにじる人。
 決して誰かを許したりしない人。
 私を売ると言い切った時、本気で嘲笑っていた。
 でないと私を騙せないから。

「ぅぐふっ」

 それなのに、どうしてそこまで人を愛せるんですか。

 嗚咽が洩れた。
 私の薄っぺらい決意なんてあっさりと土台から崩れ去った。
 激しい自己嫌悪に襲われながら口を開く。

「……本当に、そうでしょうか」

 このまま黙り続ければ、多分私は後悔の念に押し潰されてしまう。

「ああ、そうさ」

 ご主人様の言葉が私の不安を散らす。
 そういう不安を確かに抱いていた。
 幾ら以前の通りに師匠が振舞っていたって、姫様の裁量次第では裏切り者。
 以前の通りに暮らせるのだと、誰かにそう言って欲しかった。

 満身創痍のご主人様からそう言われて、のうのうと安心してしまっている自分に嫌気が差した。

「……何度謝っても、許される事じゃないですよ」

 私は許されたいと思う反面、罰せられたいという矛盾を抱いていた。
 私は罰せられたい。
 あれほど怖かったはずの罰が欲しくて堪らない。
 心地良さだけに浸って悲しい決意を見抜けなかった自分の落ち度を、誰かに罰して欲しい。
 この甘えた弱さが二度と頭をよぎらないよう、私など――言い訳も思いつかないほど酷い目に遭ってしまえばいいんだ。

 ささやかで、優しくて、何よりも空っぽな声が途切れて、代わりに呆れたため息が一つ聞こえた。

「何を言ってるんだか……それって、相当みっともないよ?」

 そっちこそ何を言ってるんですか。
 みっともないのはどっちですか。
 磔にされて今にも死んでしまいそうなのに。
 みっともなく殺されようとしているのは貴方の方なのに!

「許した後も何度も謝られてきたりしたら、許した方だって気まずいよ」

 声を上げる事も出来ず必死に立ち尽くすだけの私に、あの人は言った。

「ごめんなさいって頭下げて、許して貰えたらありがとう。それだけでいいんだよ」

 叫びたい。
 喚きたい。
 この人の身体にすがりついて泣き叫びたい。
 でもそれは駄目。
 それだけは駄目。

 私は再び永遠亭で生きる事を選んだ。
 それしかないと思って、師匠たちからも捨てられてしまったら私はもう死ぬしかなくなる。
 月にも地上にも、本当にどこにも行き場がなくなってしまう。
 そういう必死さと、受け入れてもらった喜びは嘘じゃない。
 師匠からウドンゲと呼んでもらえた事に、私は心底有り難味を感じた。

 なのにここでまた浮ついてたりしていたら、本当の裏切り者じゃない。

 くらくらと眩暈がする。
 少し傾いただけでそのまま倒れてしまいそう。
 ちゃんと二本の足で立っているのに、ぐにゃぐにゃと床がたわんでいる。

「幾ら目を背けた所で、その疚しさからは逃げられないよ」

 皮肉にも、私の脚を支えたのはご主人様の突きたてるように鋭い言葉だった。

「誰も救ってはくれない。惨めで無様な生き方から掬い上げてくれたりはしない。ここに居て何か変わったかい? 何も変わってなんかいないよ。ただ、以前よりぐっと不幸になった分、幸福の幅が広がって見えただけだよ」

 愛されたい。
 救われたい。 
 幸せになりたい。
 そんな私の本心を貫かれたような気がした。

 ご主人様は咽喉に詰まったのか何かを吐き出すように、凝った咳をした。

「言っとくけど、どう足掻いた所で無理なんだよ。どこに居ようと、誰であろうと、どれだけ時間があった所で。その心の疵は一人で一生抱えて生きていくしかないんだよ」

 矢に射抜かれて磔にされているこの人の言葉に、私は胸を射抜かれて串刺しにされてしまう。 

「臆病者には臆病者の生き方がある」

 私は反論など出来ない。
 どこまでも臆病で、傷つく事を怖がって、こうして破局を迎えてしまった。
 もし私に少しばかりの勇気があれば、傷つく事を恐れず踏み込んで居れば。
 不毛だと判っていも考えずにはいられない。
 愚痴っぽくて言い訳がましくて未練たらしい。
 私はそうやって生きてきて、今になってもそれは何一つ変わってなんていなかった。

「惨めだろうと、情けなかろうと、強い者の陰に隠れておっかなびっくり生きていくしかない。どれだけ強く見せ掛けた所で、心の疚しさを拭えないなんて自分が一番良く判ってる事じゃない?」

「……やめて」

「それでも、今までなんとかやってこれただろ? その生き方が臆病で無様であっても、全部忘れて放り出したりはしなかったじゃないか。少しでも良くしようと足掻いて頑張ってきたじゃないか」

「やめて。やめてよ」

「それを一番良く知っているのは自分自身じゃないか。その自分を褒めてやらずに、一体誰が褒めるんだい?」

「もうやめてよ!」

 私は、とうとう我慢し切れなくなって叫んでいた。

「もううんざり。うんざりよ! 恨みを捨てられないくせに! 何もかも嫌って憎んでいるくせに! いつも、いつだってそう! こういう時に限って、いつもいつも綺麗事を並べてばかり」

 そんな貴方の言葉が、余計に私の胸を抉る。

「貴方の方がよっぽど酷い目に遭ってきたのに! 私よりずっと未練は強いのに! 貴方がここでした事が全部おままごとなら、誰よりも貴方が一番続けていたかったのに! ずっと傷の舐め合いをしていたかったはずなのに!」

 汚辱に塗れ、狂気を孕んだ憎しみと共に生きている。
 その生き方を強制されて、他の何も選べなかったのに。

「どうして……どうして!」

 振り返った私が見たものは、眠たそうに瞼を下げて、口元の微笑みを絶やさない、見間違うばかりの平穏な死相だった。

「勘違いしちゃいけない。人生を他人と比べても意味はない。あんなものはね、同情を買う為のお涙頂戴話でしかないんだよ」

 他者への愛に一生を捧げた聖人のような穏やかさで、仇敵の息の根を止めても尚憎み続ける復讐者の言葉を吐き出した。

「俺が今まで生きてきた道と、ここでの振舞いに何の関わりがある? 全く関係がないし、何の原因もない。むしろ悪い。八つ当たりもいい所だ。どういう生い立ちがあったとしても、それで兎のお嬢さんを踏み躙って良いなんて理由にはならない。俺が何をしてきたか、今も忘れたりはしてないだろ?」

「……」

「カエルの子はカエルなんだよ。どこの誰とも知れない強姦魔の子だって、そりゃあ許されたら生きてく事は出来るんだろうけどね。俺自身が強姦魔になってたら同情する必要なんてない。犯罪者の息子だから犯罪者なんじゃない。犯罪に手を染めるから犯罪者だ。そうだろ?」

「……でも、それは。貴方を追い詰めた人たちがいたから」

「やられたからやり返した。その後さらにやり返されるのが当然だよ。誰も殴られて黙ってたりはしない。どっちが先にぶっ倒れるかってだけ。と言うか――お嬢さんは俺を追い詰めもしてないし、そもそも関わろうたって関われない。俺が生まれた世界とお嬢さんが暮らす世界は、それくらい遠いって事は知ってるよ」

「……でも、でも!」

 私は必死に否定した。
 かぶりを振って、髪を振り乱して拒んだ。

 予感があった。
 この言葉を受け入れてしまったら、なかった事になってしまう。
 この人に愛されて、この人を愛したあの日々が。
 何気ない日常を繰り返し、甘く爛れた蜜月を経て、心の大部分を占めた一人の男の人との暮らし。
 全部、なくなってしまうから。

「貴方はそれしか出来なかった! 全てを奪われた貴方は、奪い返すしかなかった! それが貴方の憎しみで、恨みで、愛情でもあった! 貴方は確かに私を愛してくれた! 誰がどう言おうと、それだけは絶対に――」

「鈴仙」

 駄々をこねる子供のように激しく喚く私に、彼は初めて私の名前を呼んだ。
 今まで兎のお嬢さんだなんて余所余所しい呼び方をされていた私にとって、その声を聞き逃せるはずもなく、言葉を失うほど嬉しかった。

「俺は鈴仙を$2.500ってはした金で買った」

 その沈黙を埋めたのは、冷たく尖った言葉の白刃。
 どんな鋭い刃物よりも深く、私の胸を穿った。

「いいかい? 良く聞くんだ兎のお嬢さん」

 絶句する私に、愛する人は言う。

「愛は金で買えないんだよ」

 我が子に教え諭すように優しく、一番最初の過ちに冷徹な裁定が下された。

 言葉を失ったまま、もう言い募るだけの言葉が見つからない。
 それは極当然の通念で、常識で、この人は居直りもせずに罪だと厳しく断罪した。

 これ以上、私はなんて声をかければ?
 何を伝えれば、彼の罪の意識を取り除ける?

 私が自分自身の惨めさから逃げられないように、この人も犯した罪から逃れられない。
 逃げるどころか、真っ向から向き合っている。
 そんな彼に、逃げ込む場所を探してばかりの私が何を言えるというんだろう――

 立ち尽くす私に、彼はひどく疲れたため息で沈黙を破った。

「ここであった事、全部忘れちまいな」

「全部、ですか……?」

「そう。全部。一切合切。何もかも」

「そんなの、どうやって……」

 忘れられるはずがない。
 良い面も悪い面も強烈なこの人を、どうすれば忘れられるというのか。

 私の疑問に、彼の表情が変わった。
 うつむき加減に垂れていた首がひょこりと起き上がり、うーむと腕の自由があれば顎でも撫でそうな雰囲気で唸った。

「ここを出たら……そうだな。まずは酒でも一杯引っ掛けて、次は甘い言葉の一つでも吐く優男を捕まえて……あー、好みの問題があるなら優女でもいーや」

 軽口でも叩くような軽薄な口調。

「で、楽しい一時を過ごしたらさっさと寝床に入って――まあ寝床に入ってからが一番盛り上がるとこなんだけども」

 ひっひと咽喉を鳴らす好色でいやらしい笑い方。

「目が覚めた時には一日が始まってる。なんの問題もなく日々は続くよ」

 辛辣なまでの真摯な黒い瞳。

「それで全部忘れられる。綺麗さっぱりだ」

 在りし日の姿で、全てを闇に葬れと言われた。

「そんなの――」

 出来っこない。
 出来るはずがない。
 あの日々を忘れて生きるなんて、身体の半身をもがれて生きていくようなものだ。

 だって今思い出しても、想い出は眩いばかりに光り輝いている。
 この人と過ごした時間は、木漏れ日が差す心地良い陽だまりなのだから。
 それをあっさりと捨て去ってしまえと言われた事で、却って私の軟弱な心は奮い立った。
 私が永遠に続いて欲しいとさえ願った日々が、その程度の事だと悪し様に言われたようで腹が立った。

 私の中で、今までずっと張り詰めていたからなのか、何かがぱちんと弾ける音を聞いたような気がした。

「まだまだ異論反論はあるって顔だね」

「と、当然です!」

 困った表情で苦笑を浮かべるご主人様に、私はごしごし目元を擦って叫び返した。

 なんだ、そうか。
 敵になってしまったからって、私はなんで遠慮なんてしていたんだろう。
 敵として相対したからこそ、私がこてんぱんにしてしまわないで誰がするって言うの。
 目の前が霞んでいるのは悔し涙だ。
 きっとそう。

「なんですか、人が黙って訊いてたら言いたい放題。臆病者? そんなの貴方に言われたくないですよ!」

 気がついた時にはもう叫んでいた。

「大体、私が甘い言葉の一つや二つで満足するとでも? 私ってそこまで尻軽に思われてたんですか? くるくるパーにしますよ!?」

 今の状況も関係もこれから何が待っているのかも忘れて、私は怒鳴っていた。
 いきなり豹変したりしたからか、ご主人様は反論する事も忘れて、目を丸くしてぽかんと私を眺め返している。
 その間の抜けた顔が癇に障って、そもそも誰の所為でここまで悩んでいるのかと余計腹が立った。

「いいですか、その顔の横についた耳をよーく大きくして聞いて下さいよ? 私が好きなのは! 甘いどころか痒くなるくらい気障ったらしい台詞を、一〇回でも一〇〇回でも耳元で聞かせてくれて! 悲しい時は何も訊かずに抱き締めてくれて! して欲しいけど口に出来なくて恥ずかしいのを察してくれて! それから――ごにょごにょ――な時にキスがとっても上手い人!」

 好きな人のどこが好きなのか。
 それを声高に叫んだ。
 声が大きいだとか、当人の目の前だとかそんな事は考えていなかった。
 好きな人を好きだと言う事が、恥ずかしかったり耳目を気にして引っ込めたりしていいはずがないんだから。

「私が好きな人は、そういう人なの! そんな事、貴方が一番良く知ってるくせに! 意地悪な部分は余計なのよ! そんなぽかーんとした間抜け顔して! ちゃんと判ってるの? 私をまた馬鹿にしてるつもりなの!? 貴方に言ってるのよ、貴方に!」

 勢いに任せて湧き上がって来た感情をそのまままくし立てて、流石に息が切れた。
 はぁはぁと肩で呼吸を繰り返しながら、あの人はそんな私を口を開けたままやっぱりぽかんと眺めていた。
 それを見ても私の口から文句が飛び出てこないのは、溜めに溜め切っていた鬱々とした感情を、全部吐き出してしまったからだろうか。

 嘘。
 これで全部だなんて。
 こっちはまだまだ言い足りない。

「なーにが祈りですか。人の気も知らないで! いつもいつも勝手で、言い出したらちっとも聞かなくて! よりにもよって愛はお金で買えない? 勿体つけておいて今更? 今更!? 買えないならサービス特価で売ってあげますよ!」

「……いや、あの。安売りするのはお勧めしないけど」

「自分は思いっきり安売りしておいて? どの口でそんな事言えるんですか!? 言わしてもらいますけどねぇ、貴方浮気性過ぎるのよ! 女の子と見れば鼻の下を伸ばして、見境なしですか!?」

「あー、そのぉ……片手の指で足りてる間はセーフじゃない?」

「アホですかっ! 私の気持ちも知らないで……! てゐや師匠といちゃいちゃしてる間、私がどれだけ耐え忍んで我慢してたか!」

「……言うほど我慢してたようには見えなかった気がするけど」

「黙らっしゃい!」

「うお、黙らっしゃいってリアルに言われちまった」

「つるぺたロリがいいのか、それともグラマーがいいのか、どっちですか!? 在るか無しかのどっちかなんて、好みまで極端なんですよ! どうして程々に収まらないんですか!」

「結構ひどい事言ってない?」

「姫様にまで手を出して……多数決でアウトですよ! 判ってるんですか!?」

「いや、うん。それを言っちゃあいけないと思うんだ。後、俺って結局お姫さまに手ぇ出してなくない?」

「それは本当でしょうか。果たして本当に、姫様に手を出していないと言えますか?」

「いや、だって俺が見てたのは幻覚で」

「本当に? 一切? 肌に触れてもいなければいやらしい目で見る事すらなかった? 姫様を性の対象として一度たりとも思いもしなかったと、神様仏様天地神明真心に誓って言えますか?」

「……そこまで言われると」

「ほらぁ」

「したり顔でほらって言われても。ひどくね?」

「ひどいのは貴方の性癖です。女癖の悪さです。猛省して下さい」

 私たちはまるで口喧嘩でもしているよう。
 レース一枚を隔てた直後のあの時に巻き戻ってしまったような感覚。
 私もこの人も、目の前の現実を全て無視してこの雰囲気に身を任せていた。

 私はこの人と喧嘩をしたかったんだ。
 対等の立場で喧嘩をしたかった。
 喧嘩をしなかったら、仲直りする事も出来ない。
 言いたい事を言わずに嫌われる事ばかり怯えていたけど、もっともっとぶつかっていけば良かった。

 そんな自分の本心を、最期になってから気がついた。

「うーん、話は尽きないけど、ここでお終いにしようか」

「なっ。逃げるんですか? それとも勝ち逃げするつもりですか! そんなの許さない!」

 もっと続けていたい。
 この口さがない口喧嘩に、待ち受ける未来なんて忘れて没頭していたい。
 けど、この人は終わりを告げた。
 怒りと興奮を持て余した私に、顎をしゃくって促した。

「勝ち逃げってのは悪かぁないけどね、後ろ」

 後ろ?

 振り返ると、そこに師匠が立っていた。

「こわーいお姉さんがさっきから睨んでるんだよ」

 ご主人様の声はどこか遠くから聞こえてくるようだった。
 すぐ背後に立っていた師匠に、冷え冷えとした眼差しで見据えられ、それだけで私の胸の奥はきゅっと縮まった。
 真っ赤に燃え上がり大火となっていたはずの闘志が、しゅんとあっさり鎮火してしまう。

「ウドンゲ」

「は、はい」

「てゐは輝夜を連れて離れたわ。貴方も戻りなさい」

 有無を言わさない強い口調だった。
 従わないと命の危機すら感じる永久凍土のような冷たさに、私の四肢はすっかり凍りついてしまった。

「そうそ、もう行きな。弟子はお師匠に逆らうもんじゃないよ」

 そんな私の背中をご主人様の言葉が押す。

「いつまでもこんなとこにいたって、もう何もありゃしないんだから」

 最後までだ。
 最後までこの人は皮肉っぽくて、軽薄で、自分を嫌い続けていた。

「……それで、いいんですか」

「ああ。いいよ」

 私は結局、この人が自らを呪い続ける怨念を解かす事もほぐす事も出来なかった。

「お嬢さんのおかげで寂しくなくなったしな」

「……うそつき」

 私はこの人が好きだったけれど、嫌い。
 最期に優しい言葉を掛けてくれたりするこの人の事が、嫌い。
 優しい嘘で私を綿毛のように包むこの人が、大嫌い。

「貴方なんて、大っ嫌い」

 嫌いになろう。
 だって、私に嫌われる事を、この人は望んでいるんだから。

「ん。ばいばい」

 素っ気無いあっさりとした声を背後に聞いて、私は歩いた。
 弓を携えた師匠とすれ違い、開け放たれたままの空っぽの部屋を横切り、一直線に続く廊下をまっすぐに。

 でもね。
 嫌いはするけど。
 私はもう永遠亭のイナバだから、貴方と敵にしかなれないけど。
 絶対に忘れてなんてあげない。
 いつまでもいつまでも忘れずに覚えていよう。
 悲しい生い立ちを背負わされて、全てを憎んで、それでも必死に誰かを愛そうとし続けた人間の男がいたのだと、私はずっと覚え続けて生きていく。
 私は、とても未練がましい性格なんだから。

 ここに戻る時にも潜った扉に手を掛けて、振り返った。
 あの人は磔にされたまま、やっぱりどこか優しく笑って私を見送っていた。

 私の恋は無残に幕を引いて、これから待っているのは罰という名の、多分愛。
 苦しくて、悲しくて、思い出すたびに胸を締め付けられる。
 そんな愛情に満ちた思い出が残った。

「さよなら」

 仲直り、したかったな。

 私は後ろ髪を引かれながらも、身を投げ出すように扉を潜った。

 堪えていた涙が、沢山こぼれた。


xxx  xxx



 どうしょうもないし、どうにも出来ない。
 今の俺は、クソガキの手に落ちた昆虫採集の虫けら同然なんだもの。

 だから兎のお嬢さんがどれだけ願っても願いは叶えられない。
 大抵のわがままは聞く気でいたが、今の俺じゃせいぜい、弱い虫けらのままぷちっと潰す快感くらいしかやれるもんがない。
 それを受け取り拒否されちまったら、もうどうしようもなかった。

 あとはこわーいお姉さんと二人っきりってぇ、正直天国なんだか地獄なんだかよく判らん状況だけが残されてた。

 何が怖いって、この有様だってのにちっとも痛みを感じない事だ。
 矢に何か細工を施したのか、手足と腹をぶっすりいかれて痛くも痒くもねぇなんて。
 こいつはそうそう体験出来ない恐怖だ。

 俺は眼前にそびえる恐怖の源を見上げた。

「こんにちわ」

「……」

 あっさり黙殺された。
 冷ややかに見下ろされて、それだけでもう死にたい。
 が、幾ら早漏野郎だからって命まで三擦り半ってのは頂けねぇ。
 ちっと気合を入れ直し、ごぼごぼと血の塊を吐き出して言葉を続けた。

「遅かったじゃねぇか。目の色変えてすっ飛んでくると思ってたんだけどなぁ……」

 予感は初めからあったんだ。
 裏で糸を引くとしたら永琳しかいない訳で、それを知っててここじゃないどこかへ捨てた。
 輝夜に対する並々ならぬ執着心を鑑みれば、それこそ朝を待たずに殺しに来るだろうと思ってたんだが。

「私用を片付けていたのよ」

 答えの代わりに矢でも飛んでくるかと思ったが、永琳は俺の言葉に答えてくれた。
 思わせぶりな内容に、そりゃなんだって当然聞き返す。
 聞き返そうとした。
 荘厳で乾いたメロディが、俺の言葉を遮った。

 ワルキューレの騎航。
 聞き間違えるはずがない。
 よりにもよってこのタイミングでだ。

 ジャケットの裏ポケットからジャカジャカ鳴り響く派手なメロディに、俺は思い切り顔をしかめた。
 どうやって取れって言うのよ。
 無視を決め込もうか思いあぐねていた俺に、永琳がつかつかとえらく呆気なく歩み寄ると、ジャケットの裏に押し込んでいた携帯を抜き取った。

「どうぞ」

「どーも」

 携帯を開いて通話ボタンをオンにした上、ご丁寧な事に両腕が潰れた俺の耳元まで当ててくる。
 永琳に携帯の使い方なんて教えるんじゃなかったぜ。

 声を聴いた瞬間逝っちまうんじゃねぇかと怯えながら、通話口に声を乗せる。

「俺です」

『はぁい、ごきげんよう。私の犬』

 殺してぇ。 
 第一声からご機嫌だ。

 日常会話や世間話でも底冷えするねちっこい声に、独特の甘ったるさが絡んでいる。
 酔った者が放つ独特の呂律の甘さと、向こう側からは何やら賑やかな喧騒まで耳に飛び込んでくる陽気さだ。
 俺はこれから地獄のフルコースだってのに、飼い主はどんちゃん騒ぎか。
 勢い余って咽喉笛を食いちぎってやりてぇ。

「……ボスが犬っころに何のご用でございましょうかねぇ。こっちは今立て込んでる真っ最中なんですが?」

『ほほ。あら厭ねぇ、せっかく私が構っているのに邪険にするなんて。振られて八つ当たりでもしているのかしら?』

 押し殺した声音で、めらりと腹の底から湧き上がった殺意はちっとも隠さずに訊ねたが、あっさりと逆襲された。

 お構い無しだ。
 薄々判っちゃいたけども。
 素面でも手がつけられないってのに、酒の入ったボスに何を言っても通じるはずがない。

「……」

『図星?』
 
 モテないのはほっといてくれ。

「あれですか。俺をからかい殺すのが目的ですかいね?」

『ふふ。それも楽しそうだけれど、違うわ。必要ないと思ったけれど、貴方に言っておく事にしたのよ』

 それは多分間違いなく不必要だ。
 酔ったボスが言う事なんて、磔が生温く感じてくる。
 実際、妙に生温いてめぇの血に濡れていた。

「嬉しくって涙がちょちょぎれますよ。この世の日輪たる我が麗しのボスから、下僕にどんなお言葉が頂けるんでありやすかねぇ」

『貴方の目の前にいる女と取り引きをしたの』

 俺は視線と意識を携帯から永琳にちらりと移す。
 永琳は俺に携帯を差し出したまま彫像のように身じろぎすらしなかった。

「そいつぁご機嫌でございますな。何を売って何を買ったのか、卑しい犬っころにお聞かせ願いやせんかね?」

『私が何と引き換えに、何を得たのか。貴方が知る必要はない――と言いたいけれど、教えてあげるわ。貴方の命も売ったの』

 前門の虎、後門の狼たぁこの事か。
 どこを見渡しても味方がいねぇぞどういう事だ。

『思っていたより高く売れたわ。それで嬉しくて、ついね』

 なにがつい、だ。
 絶対狙って俺に連絡を入れてきたに決まってる。
 まさかとは思うが、俺の命をかたに入れて呑んでるんじゃないだろうな。

「そりゃあ何よりです」

 裏腹の言葉を返す俺に、携帯の向こうからボスのくつくつと笑う声が聞こえてきた。

『そういう事だから、私の為に死になさい』

 お代官様のお慈悲も裸足で逃げ出す言葉に、思わず身体に残った血が沸騰するような錯覚を覚えた。
 平穏とは程遠い感情の荒波に揉まれて、返答一つ返すにもひどく苦労した。

「……イエス・マム」

 くそ、死ぬ。
 くそ、ああ畜生。

 言葉にならない悪罵が渦巻いて、正直これが心の内声なのか口を滑らしているののどっちなのか判らなかった。

『私の用件は終わり。後はそちらで楽しみなさい? ふふ、ああ美味しい』

 最後の言葉は俺に向けられてすらいなかった。
 通話が一方的にぷちっと切られる。
 俺の堪忍袋の尾はとっくにぶちぶちと切られていた。

 趣向は理解した。
 要するに、俺の最期はボスにとって酒のつまみ代わりだ。
 酒肴だけに。 
 何上手い事言ってんだ殺すぞ。
 絶対いつか殺す。

 元々身動きがとれねぇ格好になってたが、それでも怒り心頭にピクリとも身動き出来なくなっちまっていた。
 激しい怨念を抱く俺に、背筋が凍るほどに涼しい永琳は、差し出していた携帯を折り畳んで俺の裏ポケットに差し込んだ。

「勘違いをしてもらっては困るけれど、この悪趣味に付き合って遅れた訳ではないわよ」

「……」

 八つ当たりと判っちゃいても、虫の居所は最悪なんで永琳を睨みつけてしまう。
 俺の命を買って殺す事にゃ変わりない。
 例えそれが正しい権利であったとしても、命を奪われる憎しみに変わりはないもんだ。

 愛も憎悪も一時の感情だ。
 無条件でどっちか一つだけに傾いてブレないんじゃあ、ただの機械だ。
 蜘蛛の糸に出てくるカンダタだって、感情一つで踏み潰そうとした蜘蛛を見逃す程度の愛情は持ち合わせていた。
 人間は機械ほど正確でもなけりゃ完璧に撤し切れもしない。
 愛していたのも憎んでいるのも一緒くたのまま、状況にあわせてどちらかが強く表に出てきただけの話。
 何がしたいかなんてその時々の気分や状況で幾らでも変わってくる。
 気紛れな愛憎につき合ってる内に、こうなっちまったってだけの話だ。

 一〇〇%完全にてめぇを制御し切れる人間なんて、つまんねぇと言うよりも不気味なだけだ。
 俺でもそこまで人間をやめちゃいねぇ。

 一度表に出てきた感情は、中々奥に引っ込まない。
 ぎろぎろと無言で睨みつける俺に、永琳は苦笑を浮かべて衣服の胸元を開いて、その奥から何かを取り出した。

 指輪だ。
 本当に胸の谷間に挟んでいやがった。
 巨乳だからってそこに入れておくのはどうなんだ。

 永琳の大真面目にとぼけたセンスのおかげで、凝った憎しみがちょっとばかり紛れてくれた。

「それぁ、俺が贈った奴か」

「ええ」

 エンゲージリング。
 特別立派で成金趣味の指輪でもなけりゃ、縁日の屋台で売ってるような粗末な代物でもない。
 指輪としちゃあ並で、買った当人だって材質は良く知らねぇ。
 銀色だから銀って訳でもねぇだろうし、日付やネームを刻むなんて洒落た加工が施されてるわけでもねぇ。
 味気ないくらいのただの指輪で、そういう物をかつて俺は彼女に贈った。

「これは貴方に返すわ」

 本格的に三行半を突きつけられて、頑固な汚れよろしく残っていた俺の憎しみがげんなりと萎えた。
 俺は永琳と式を挙げた訳でも籍を入れた訳でもなく、キチガイじみた執着心による不明瞭な口約束と、物の弾みのような生殖行為からくる当たり前の結果があっただけだ。
 繋がりを示す物なんてのは、今の今まですっかり忘れ去っているほどに緩くて曖昧で締まりがない。
 離婚だなんだと大騒ぎにもならず、見苦しく足掻く必要もない。
 元々あってなかった物が切られたところで、痛くも痒くもないんだから。

 ただまあ、こうして過去の安っぽいセンスをこうして目の当たりにされちまうと、無残な気分にされちまう。
 がっくりとうなだれる俺の胸ポケットに、永琳は指で摘んでいた指輪をすとんと落とし込んだ。

「ついでに煙草取ってくれねぇ?」

 セブンスターはまだ残ってるだろうし。

「禁煙していたでしょう?」

「最期の一服くらい見逃してくれよ」

 唇を尖らせる俺に、永琳はいかにも仕方なさそうに苦笑して、ポケットから煙草を取り出してくれた。
 くしゃくしゃになったソフトパッケージから皺のついた細巻きを取り出して、俺にくわえさせてくれる。
 きんと澄んだ音をたててジッポの蓋を開けると、火をつけて差し出してくる。
 俺は首を伸ばしてすぱすぱと煙草の先をけぶらせた。

「――うぷ」

 煙を灰の奥に落とし込んだ瞬間、つっかえた。
 げろっと血と一緒に煙草を吐いちまう。
 びたびたと床の血溜まりを広げて、呆気なく消えちまった。

「あーぁ」

 ままならねぇもんだな。

「だから言ったでしょうに。諦めなさい」

 未練たらたらに血溜まりに落ちた細巻きを見送ってると、俺の吐血をいち早く察していたのか、浴びるどころか跳ねも届かない場所まで離れた永琳が呆れたため息を一つ洩らした。
 煙草とジッポが元の場所に戻されて、間近から俺を軽く睨みつけた。

「体調管理の自覚が足りないわよ」

 たしなめられる。
 それなら吸わせた永琳はどうなんだと言いたくなってくるが、吸ったのは俺の意志だ。
 めっ、とでも付け加えられそうな物言いに反感はあったものの、大筋で認めざるを得なかった。

「けっ。いつ死ぬとも判らねぇ悪党が、健康第一な生活を送ってどうなるってんだ」

 生憎、永琳の言葉と俺の方針とは真逆だ。
 明日の日銭を心配するくらいなら、今日使い切る。
 でなけりゃ早漏薬なんざに手を出さないし、身体のあちこちいじったりしねぇ。
 大体、それに手を貸した永琳が言えた義理じゃねぇ。

「人を種無しにしたのは永琳だろうが」

 今日を生きる俺にとってみりゃあ、ガキを作っても重荷になるだけだ。
 育てられる当てもない。
 だから種無しにした。
 永琳にお願いして乗り気にさせちまえば、大抵の事は実現可能だ。

 長く楽しみたかっただけだ。
 ぶっ放す精子が生きてようが初めから死んでようが、射精に変わりはねぇ。
 ガキが出来るってデメリットがなくなるんなら、生で膣内射精が一番気持ちいい。
 快楽を長引かせたかっただけで、自分じゃどうにも出来なかったから永琳に片棒を担がせた。

「バランスを取っただけよ。あの異常な射精量になんの手も打たなければ、すぐに臓器不良を引き起こしているわ」

 首が回らなくなっちまうまで借金漬けになるとこを、現実的で返済可能なローンを組んでくれたってとこか。
 借金が消えてなくなる訳じゃねぇけど。

「腹上死でぽっくりなんて、贅沢な安楽死じゃねぇか」

「いつまで経っても強情な子。言ったでしょう? 自覚を持ちなさいと。残される者の事を考える年でしょうに」

 残される者?
 そんなのはいない。
 いたとして――それがあの兎のお嬢さんたちだと言うならお笑い種だ。

「知った事かよ」

 引きずる?
 忘れられない?
 よくも言えたもんだ。

「ああ、知った事か。どいつもこいつも……まるで初めて会ったような面で見やがって。もう何万回繰り返したと思ってるんだ。こっちは罪悪感で胸焼けしそうだってのに、殺した当人は殺された事も忘れてけろっとしていやがる。わざとやってるなら気を遣う義理はねぇし、本当に忘れちまったんなら――」

 忘れちまってた方が幸せだ。
 俺の目が届かないとこで幸せにでもなっちまいやがれ。

 愛し切れなかったのは結局それだ。
 憎み切れなかったのも同じだ。
 どれだけ憎んでも、殺しても、愛しても、幸せな結末を望んでも。
 こっちがどんなアプローチを仕掛けたって、また会う頃にはリセットされてまっさらだ。
 何の成果も上がらないし、形に残るものは何一つとしてない。
 これほど虚しい事はない。

 ただ一人の例外だった、永琳を除いて。
 記憶も形もしっかりと残して、永琳は俺の前に現れた。

「……今のは愚痴だ」

 だからと言って、永琳と幸せな道を歩もうってのはそりゃ無理だ。
 一番最初のツケが残ってる。
 蓬莱人だからって水風呂に沈めるは絞め殺すわ死姦するわ、好き放題してきた。
 今更愛してるなんて言っても手遅れなんである。

 昔の俺はそこんとこが判ってなかった。
 今の俺は違いの判る子なんである。

 口にしたところでどうしようもなくて、俺は俺のまま生きていくしかない。
 だから愚痴だ。
 永琳はそんなものを素面で聞かされたってのに、嫌な顔一つせずに微笑みかけてきた。

「ええ。だから聞いてあげる。まだ永遠を生き始めて間もない者の言葉ですもの。先を行く者として、愚痴くらい聞いてあげるわよ」

 全く。
 その優しさに、いっそ狂いたくなってくる。
 俺に向ける眼差しだって気に食わない。
 無機質で冷たくて大の男だって震え上がらせる切れ長の目をしていながら、まるで子供の成長を見守る親の目だ。

 永琳がそういう眼差しを浮かべるのを、俺はずっと隣で見てきた。

「ああそう。だったら行きがけの駄賃ついでに言ってやる。あんたと一緒にすんな。殺したとこで次の日の朝には平然と生き返ってるあんたと、俺を一緒にするな」

 大体不老不死なんて存在自体が馬鹿げてる。
 殺しても死なない、死んでも生き返るなんてのは悪夢を通り越して笑えてくる。
 夢物語でもなく、目にし触れられる不死者なんて存在は、ただの人間から見れば化け物だ。

「永遠なんてものは、人間の手が届かないものだ。届いちゃ行けないし、イカれ野郎の頭の中だけで収まってなきゃいけないものだ。殺されたら死ぬっつーの」

 生き返る訳じゃない。
 刺されたら死ぬ。
 殴られたって死ぬ。
 病気でも死ぬ。
 俺はまだまだ人間だ。

「俺は死んでも殺しても生き続ける蓬莱人なんて化け物じゃねぇ。殺しても死んでも、良く似た別人が生きてる。永続じゃなくって連続なのよ。永久不滅の固体じゃなく、記憶を共有したクローンがわんさといる。どっちも馬鹿げちゃいるが、後者のほうがよっぽど人間らしくて現実的だ。お判り?」

「それが、貴方の永遠への処方箋なのね」
 
 愚痴り出して止まらなくなってしまった俺に、永琳は隙間を縫うようなタイミングで口を差し挟んだ。
 目を細めて、形のいい顎に指を添える姿は馬鹿な後輩の成長具合を見定めているようにも見える。
 俺は思い切り口元を歪めた。

「永遠じゃねーってぇの」

 そんな悪夢に見そうな事は言わないでくれ。
 これから先食い潰していく人生に果てがないなんて、流石に俺でもどうしようもない。
 終わりがないのが終わりだなんて洒落にもならん。

「……愚痴は終わりだよ」

「あらそう」

 盛大なため息を吐き出した俺に、永琳の方もあっさりとしたものだった。
 これ以上促す事も俺の考えにケチもつけない。
 この距離感を保つ事が長続きの秘訣だった。

 目にしているものの決して触れられない、手の届かない存在だ。
 そういうものとは節度と距離を保った付き合い方ってもんがある。
 近づき過ぎて手に入れたと錯覚した前任は、やっぱり手の施しようのない馬鹿だった訳だな。

 化けの皮を剥がされて、まんまと思惑を覆された。
 欲望の赴くままの肉欲は、面影よりも儚く消え去った。
 象の群れに踏み潰される虫けらよりも容易く、命は奪われる。
 絶縁状を突きつけられて、最期の愚痴まで吐き出してすっきりしちまった。

 やり残した事はもう少ない。
 全てやり切った時が俺の最期だ。
 先細りしていく未練を感じながら、俺は末期の会話を続けた。

「鵺は……どうなった」

 一向に姿を見せないのでどうなったのかは予想に難くないが、一度くらいは訊いとかねぇと人情味に欠ける。
 あれでも一応付き合いは長いんだ。
 永琳の答えが正しかろうと間違っていようと得られないとしても、訊くのはタダだしな。

「死んだわ」

 永琳の答えはあっさりとしたものだ。
 偽りには感じなかったしその理由もない。
 嘘だと否定する気にもなれず、ただ鵺が死んだという事実だけを理解し受け入れる事が出来た。
 
「そうか」

 悲しくはなかったし苦しくもなかったから、当たり前の短い感想だけを呟いてそれで終わりだ。
 薄情と言うなかれ。
 言われなくたって知っている。
 けども、目の届かない場所でくたばっちまったら俺にはどうする事も出来ない。
 ただの人間一人が加わった所で、鵺の死が回避出来たとも思えない。
 傘やチャリをパクられたって、現場に居合わせなければ地団太を踏むだけ。
 喚いた所で奪われた物が帰ってこなけりゃ虚しいだけだ。
 奪われる事に対して過剰防衛な俺だが、見てない所、手の届かない場所の事はどうにもならんのである。
 だからそれ以上の感想はなかったし、鵺の事は一気にどうでも良くなった。
 
 やる事はどんどん減っていく。

「なあ」

「なにかしら」

「ここに連れてこられて、俺を見て、どうして続けようとなんてしたんだ?」

 それなりに疑問はあった。
 永琳に前任との記憶があるなら幾らでも俺を殺る機会はあったはずだ。
 実際過去を忘れて楽しくやっていた俺の記憶を呼び戻す、なんて真似をしたのは永琳だ。
 今なら確信がある。
 鵺に突き刺さっていた矢は永琳のもので、矢毒を仕込んでいたのだろう。

 だったら、だ。
 始める前に終わらせる事だってできたはずなんだ。
 どうして今になってとも思うし、そんな回りくどい真似までして俺の家族ごっこに付き合ったりしたのか。
 何か目的があるのだろうかとは思っちゃいたが、ずっと訊かずに済ませていた。
 だって、聞いちまったらそこでこの生活が終わりそうな気がしたんだもの。

 ようやく口にした疑問に、永琳は虫も殺さぬあどけない微笑みを浮かべた。

「あら、簡単な事よ。味方のままでは出来ない事があるでしょう?」

「……輝夜の事だってのは、まあなんとなく判るが」

「正解よ。輝夜は貴方が察した通り、箱入り娘に過ぎない。幾ら稀有な力を有した蓬莱人とはいえ、完全ではないわ。この先どのような現実が待っているか判らないもの。ここでの苦難は現実で転ばない為の杖、と言った所かしら」

 つまり何か。
 お姫さまの味方じゃひどい真似は出来ねぇから、敢えて俺の側についてたって事か。
 で、お姫さまが悩んだり苦しんだり窮地に陥ったりしているのを観察して、いざ事が起きた時の為の対処法にすると。

「貴方が輝夜に恋焦がれている事も、激しい罪悪感を連想している事も知っているわ。度が過ぎると私の方が我慢出来そうになったから。そういった意味でも、貴方は最適なのよ」

 見ず知らずの馬の骨が好き勝手絶頂に振る舞うよりかは、俺の方が永琳にとっても管理がし易い。
 前任の記憶を重ねて持ってたら、それが自然と虐待のブレーキになる。

「じゃあ何か。俺がお姫さまに娘の姿を見出している事も含めて、永琳の手の平の上で踊ってたのか?」

「実験にしても、質の良い結果を求めたいでしょう? 思っていた通り、貴方は良く踊ってくれた。輝夜の心を壊さない程度に締め上げてくれたわ」

 ひでぇ。
 典型的なマッチポンプじゃねぇか。

「用済みになったから殺すのか」

「私が始めた実験ですもの。私の手で終わらせるのが筋でしょう?」

 ぐぅの音も出なかった。
 笑って言い切りやがったよ。

「……まあ、今まで理解不能だった事が色々と納得出来たよ」

「そう。良かったわ」

 ほんと、永琳はおっかねぇ。

「……」

「まだ言いたい事はあるかしら? 結果的に私の実験に協力してくれたのだもの。この際全て聞くつもりだけれど?」

 ぽかんと間抜け面になった俺に、永琳は平然と促してきた。
 俺が割り切れない過去に頭を悩ましていた事も、面影追っていた事も、その身体に溺れていた事も、全部実験だと言い切られちまったらいっそ清々しい。
 ついでに、俺が全て吐き出しちまったらとどめを刺すつもりだ。
 永琳は未だに片手から弓を手離そうとはしなかったし、輝夜に狼藉を働いた汚点はきっちりと消した方が座りもいい。
 何食わぬ顔して以前の立場に戻るんだろうよ。

「安心したよ」

 ほら見ろ、兎のお嬢さん。
 罪悪感なんてくだらねぇもんだ。
 気づいちゃいないだろうが、陰に寄り添っているのは正真正銘の大悪党だ。
 これならなにがあろうと安心だろ。

 そこにあのお嬢さんが気づくのかどうか、正直これから先どれだけ長生きしたって気づきそうにないんだが、俺はとっても安心だ。
 輝夜のついでであっても、永琳は二人もしっかり守ってくれるだろうし。

「やっぱりこう……同じ場所で暮らしてるんだ。仲が良い方がいいもんな」

 俺みたいなぽっと出の新参が立ち入る隙間なんてなく、いがみ合ったりしていない方がいい。

 参ったな。
 本当にこの世の未練がどんどんなくなっちまう。
 自然と項垂れちまう。
 痛みはないが、それでも手足と腹にやがぶっ刺さってる事に変わりはねぇ。
 景気よく吐血したり垂れ流してるしている内に、段々気が遠くなってくる。

 寒い。

 凍えるほどではないが、手足の末端から肌寒くなっていく。
 体温と一緒に血が流れて出ていってるんだから、この調子だとそう遠くない時間で俺は冷たい物言わぬ骸になるんだろう。
 喋るのも段々面倒になってきていた。

「他には?」

 後はどんな未練があったっけか?

「まだあるかしら?」

 ああ、まだあった。

「かぐやは……俺の娘は、どうなったんだ?」

 とっておきの未練だ。
 家族ごっこを始めていた理由の一つがそれだ。
 記憶を戻されちまったからと言うのもあるが、いつの間にか――輝夜を手元においてからは、それが大半を占める理由になっていた。

 かぐやがどうなったのか。
 俺の記憶の中では永琳に託して、そこから先は知る由もない。
 ここには娘の未来はなかった。
 だから託して任せた。
 生きてここから出るには、俺が売るかそれとも息の根を止めるかしかない。
 俺は娘を売りに出せるほど薄情じゃないし、その勇気もない。
 自分から手離す事がどうしても出来なかった。

 だから、永琳に殺してもらった。
 俺が死ねばこの場に繋ぎ止めるものは何もない。
 ま、矢を一発食らった後、やっぱり一人で死ぬのに耐え切れなくってそりゃあ惨めに泣き喚いたんだけどな。
 それでもまあ前任はくたばったし、永琳は娘を連れてここから出て行ったし、俺は娘の幸福を祈っていられた。

「いないわ」

 永琳の言葉を聞くその一瞬前までは。

「私と貴方との間で、娘が生まれたという事実は存在していない」

 理由など判らんしどうだっていい。
 けど、生んだはずの永琳が言うならそういう事なんだろうな。
 だってほら、娘の話題だっていうのに永琳はこんなに冷たくて無機質だ。

「ああ、そう……」

 胸の中身を根こそぎごっそりと掻き出された気分。
 希望を失われてみるのは絶望じゃあない。
 虚無だ。
 すがっていたものなど存在すらしていなかったという事実に、楽しい妄想は終わりを告げた。

「それならいいや」

 もういい。
 やり残した事など何もない。
 愛した娘のいない世界になど未練はなかった。

「殺してくれ」

 死ぬまで待つまでもない。
 ただ死を待つだけのこの時間でさえ耐え難い無駄だ。

 全身の力を抜いて、それでも磔にされていた俺には崩れ落ちる事も許されなかったが、項垂れたまますぐにどうでも良くなった。
 終わりにしてくれ。
 何もかももうどうでもいい。

「ええ」

 永琳の事務的な声は俺にとって天啓のごとく耳に届いたが、それもすぐに風化して崩れ去った。
 こうなったら後は一刻も早く死んでしまいたかった。
 きりっと弓の弦が軋む澄んだ音を耳にして、冷然と死を告げるはずのそれが、慈愛に満ちた赦しの響きを伴って聞こえた。

 絶対的な死の予感を前にして、ほんの一呼吸の沈黙があった。

「前を見なさい」

 後はもうくたばるのを待つだけだった俺に、永琳は番えた矢ではなく声を射掛けてきた。 
 まだ続くのかと内心うんざりしながら、諦めに取り憑かれた俺の身体は何の反応も示さなかった。

「男の子でしょう?」

 付け加えられたその一言。
 その一言に一体どんな魔法が備わっていたのか。
 心から先に死滅していく俺の身体が、何故か動いた。

 前を見た。
 目の前に弓を構える女が一人立っていた。
 とっくに尽き果てたと思っていた疑問が湧いてきた。

 俺はどうして永琳に惚れたりしたんだろう?

 相手は誰でも良かったし、とっかえひっかえ楽しめた。
 それなのに、何故永琳を選んだのか。
 問うまでもなく答えは出てきた。

 美しかった。
 本当に美しいと思った。
 俺は罪深さにいじけて、斜に構える生き方しか出来なかった。
 永琳は罪と向かい合って尚、気高く向かい合っている。
 罪の大きさに歪む事無く、どれだけ汚辱にまみれても、穢しても、決して越えられない壁というものを感じさせられた。
 自己嫌悪と越えられない壁を見せ付けられて、打ちのめされるのが常だった。

 だが、永琳と共に過ごした時間は、俺の薄汚さで惨めにつまされるだけではなかった。
 別の感情も確かに抱いた。

 ああ。
 本当に、永琳は――

「……かっこいいなぁ」

 その美しい強さに、俺はひどく憧れてもいた。



 鋭く風を切る音と、堅い鏃が頭蓋を抉る音を、俺は同時に聞いた。






























 ――ん?

 頭上では小鳥が囀り、足元では花々が咲き誇る。
 木々のこずえが風に吹かれてざわめいている。
 ぽっかりと浮かんだ白い雲と、降り注ぐ心地よい陽光。

 そんな場所で、俺は一人で立っていた。

「あー……」

 言葉が出てこない。
 俺はもっと別の場所にいたはずだ。
 もっと別の場所で、ろくでもない事になっていたはずだ。
 いまいちよく思い出せないが、そんな気がした。

 が、そんな片鱗さえも感じられない。
 手足を払って、そこに何か物足りなさは感じたものの、結局思い出せなかった。

 目の前に広がる絵に描いたような平穏な風景に、俺は言葉もなくただ阿呆のようにぼけっと突っ立っていた。

 はて。
 おかしいな。

 納得は出来ない。
 何に納得出来ないのかも良く判らない。
 寝惚けてもいなけれぱ、現実を見誤るほど妄想に浸る趣味もない。
 なんとも座りの悪い居心地の悪さにここがどこなのかを確かめることも忘れて、俺は一人で物思いにふけった。

 その俺の横を、小さな人影がさっと通り過ぎていった。
 自然と目で追っていた。
 ぱっと視界に飛び込んできた、少し癖の強い黒髪が強烈に俺の印象へと焼き付けられた。

「あ」

 その背に声をかけた時には、もう黒髪は緑の奥に隠れてしまっていた。

「お、おい」

 俺は反射的に追いかけていた。

 鬱蒼と生い茂る森の中、というほどじゃないが、それなりに木々が生えて緑豊かな場所だ。
 勘だけで邪魔な茂みを蹴立てながら、見失った黒髪の行方を追った。

 唐突に、視界が開けた。

 程よく木々がまばらになった地面には、テーブルが一つちょこんと置かれている。
 取り囲むように配置された四つの椅子。
 当然のようにそれぞれ腰掛けている少女たち。
 殆どが少女たち、って口にしたらなんか命の危険に襲われそうな気がした。

 さっき俺の傍らを走り抜けていった黒髪の少女。
 紫色の長い髪を背もたれに垂らす少女。
 目も冴えるような鮮やかな銀色の三つ編みを揺らす――少女?
 木漏れ日を浴びて力強い光沢を放つ黒髪の少女。

 ちょうどお茶会でもしている所に出くわしたのか、テーブルにはポットと茶菓子が並べられている。
 面識のない全くの初対面なはずなのに、彼女らは揃いも揃って見覚えがあった。

 どこであったのか。
 俺は彼女らの名前も知っていたはずだ。
 だが思い出せない。
 咽喉元まで出掛かっているのにこれっぽっちも出てこない。

 そんな俺に気づいていないのか、彼女らはお茶会を楽しんでいる。
 茶菓子を手に取り、カップを傾け、怒って笑って拗ねて呆れて、表情豊かに何かを話し合っている。
 俺のいる所では話の内容までは聞き取れなかったが、彼女らがさぞかし賑やかに楽しい一時を過ごしているのは、見ているだけで充分に伝わってきた。

「なあ」

 俺は声をかけた。
 声は届く事無く、俺に気づいたものはいない。
 彼女らはとても楽しそうだ。
 俺もあの輪に加わりたいと思った。
 どうでもいい話題で盛り上がって、美味いコーヒーと茶菓子に舌鼓を打つ。
 そんな幸せな時間を過ごしたかった。

 話してみれば案外簡単に思い出せて、相手だって俺の事を知っているかもしれない。
 そんな気がする。
 例えそうでなかったとしても、彼女らに受け入れてもらう為にはどうすればいい?
 そんな事は簡単だ。

「俺も」

 仲間に入れてくれと言い掛けて、途中で声を飲み込んだ。

 名前も知らない彼女らの輪に、どうやって加わる?
 前に出て名乗ればいい。
 自己紹介なんて全国共通の基本的な挨拶と一緒だ。
 たったそれだけで、見知らぬ誰かと知り合いになれる魔法のような言葉。
 誰でも使えるその魔法の言葉を口にあげようとして、はたと気がついた。

 俺の名前って――なんだったっけ?

 名前がない。
 魔法が見つからない。
 名前を持たないものなんてこの世にあるはずがないのに、何故か自分の名前が浮かんでこなかった。

 ひどく焦った。
 家の前まで来ておきながら、鍵を失くした事に気がついたようだ。
 肌身離さず身につけて、失くす事なんてあり得ないはずなのにどこにもない。
 俺の名前が見つけられない。
 彼女らはまごつく俺の姿など見えていないかのように、楽しいお茶会を楽しんでいる。
 俺はどことも知れない場所の木の影から、指をくわえて見ているだけ。

「……」

 いや、違う。

「……」

 段々判ってきた。

「……ああ、そうか」

 これが正しい形なんだ。

 見れば見るほど羨ましくなってくる、仲良さげな少女たち。
 それは完成された幸福の形で、余計なものを付け加えたりしたらたちまち崩れて台無しになってしまう。

 なんだ。
 そうか。
 余計なものは俺だったんだ。

 それに気がついた時、俺は心底安堵していた。
 俺の声が届かなかった事。
 彼女たちに気づかれなかった事。
 或いは存在を無視してくれた事。
 そのおかげで、俺は幸福を目の当たりにしていられる。

 すがるように伸ばし掛けていた手を引っ込めて、俺は手頃な木の幹に寄りかかった。
 眺める。
 昼下がりに行われる少女たちのお茶会を、目立たない場所から覗いた。

 見ているだけで満たされた。
 触れる事も味わう事もできなくて、寂しくもなかった。
 強がってはったりばかり叩く俺だが、今回は本当に嘘じゃなかった。

 気がついたからだ。
 俺が手にする事が出来る最上の幸福は、この距離感を保つ事なんだと。

 自然口元が緩んだ。
 浅いひやかしの言葉は出てこなかった。
 彼女たちの様子を眺めていると、自然と頬の筋肉が緩んでしまう。

 だって見ろよ。
 あんなの楽しそうにしてるんだもの。
 見てるだけで幸せな気分になっちまう。

 巻き毛の少女が何やら素早く茶菓子をすり替えて、紫髪の少女が文句を言う。
 黒髪の少女が無理難題を吹っかけて、紫髪の少女は目を白黒とさせている。
 銀髪の……まあ、少女の短い言葉に、紫髪の少女は戦々恐々としている。
 会話は聞き取れないが、くるくると変わる豊かな表情と様子を見ていれば、何を言っているのかは容易に想像する事が出来た。

 うーん、なんて判り易い構図だ事。
 ほら、頑張れ頑張れ。
 一度がつんと言ってやらねぇと、いつまでもそのまんまだぜ?
 お、言うか?
 ……あー、やっぱ駄目かぁ。

 俺はこみ上げてくる笑いを忍ばせ、一方的なやり取りになりがちな紫髪の少女にこっそりと声援を送る。
 彼女は他の三人と比べて見るからに臆病そうで、なんだか妙に肩入れしたくなってくる。
 臆病なのはこっちもお互い様で、そうなるとつい感情移入しちまうのが人の情って奴だ。

 俺が惚れるとしたら、多分他の三人だろう。
 生き生きとした笑顔の割には、その裏に何かを隠してそうな巻き毛の少女。
 落ち着いた雰囲気を漂わせていながら、不意打ちに整った顔を綻ばせる銀髪の少女。
 どこからどう見てもいっぱしの令嬢のように見えて、所々に地がこぼれ出す黒髪の少女。
 三人ともそれぞれが魅力的だ。
 
 けれど誰か一人を愛せと言われたら、俺が選ぶのは紫髪の少女だ。
 目が離せないというか、頼りないというか、不安になるというか。
 誰よりもそんな印象ばかり受けてしまうからこそ、誰よりも幸せにしたいと思った。

 ま、余分に過ぎない俺からそんな事を思われたって、彼女も迷惑だろうが。
 だからと言って人の口に戸はかけられぬ。
 それと同じで見ず知らずの相手からどんな風に思われるてるのか、知らぬが花って事もある。
 見てるだけなんだから、これくらいは見逃してもらうとしよう。
 くつくつと咽喉の奥を低く鳴らして、兎の耳だなんていかにも物音に敏感そうな彼女に聞こえたりしないよう気を使い、笑い声を押し殺した。

 お茶会は盛り上がったままいつまでも続きそうで、俺の幸福も続いていく。
 覗くのが幸福だなんて変態臭いが、まあこの一時をぶち壊してしまうのよりはずっといいだろう。
 元々厚かましい俺はあっさり居直った。

 頭上では小鳥が囀り、足元では花々が咲き誇る。
 木々のこずえが風に吹かれてざわめいている。
 ぽっかりと浮かんだ白い雲と、降り注ぐ心地よい陽光。

 俺に気づく者は誰もいないまま、幸福なお茶会を見守った。

 

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 放った矢は狙い違わず命中した。
 手足と腹を射抜き、遺言は残せても生き延びる事の出来ない時間を与えた上で、とどめを刺した。

 矢は男の顔に命中している。
 項垂れていた顔を億劫そうに持ち上げた、その瞬間を狙って射った。
 黒く濁った瞳を――右目を正確に射抜いた。
 放った矢は眼球を貫通し、その奥の脳に到達し、堅い頭蓋も易々と穿ってドアに縫い付けた。

 射抜いた直後も、数秒は息があった。
 その数秒間は須臾と流れた。

 今はもう、ただの骸。
 物言わず、何も考えず、腐り果てていくだけの肉の塊。
 生は過ぎ去り死が訪れ、静寂だけが満ち満ちた。

 男に語り聞かせた言葉に偽りはない。
 私はこの肉の塊を――須臾が隔てる以前は確かに生きていたこの男を、愛してなどいなかった。
 輝夜の為に生かしていただけ。
 我が秘術を以って月と下界を隔てたあの一件以来、どこからともなく嗅ぎつけ永遠亭に踏み上がった闖入者と一戦を交えてから、つくづく思ったのだ。

 私たちは、決して無敵の存在であったりはしないのだと。

 だからこそ備える必要があった。
 弾幕ごっこという遊戯の範囲内ならば、勝ち負けや優劣を競うのも一興で済む。
 永遠に続く無聊を慰めるには格好の材料だ。

 だが、あの一件を境に悪意を持って永遠亭を訪れるものがいないとも限らない。
 だからこそ男を利用こそすれ、それ以外の感情を抱いたりはしなかった。
 永遠亭に目をつけた者の中に、弾幕ごっこなどという手段に拠らず、もっと卑劣で、唾棄すべき邪悪な手法を好む者がいないとも限らない。
 私が言うのもなんだけれど、周囲から少しばかり恨みや妬みを買い易いのだと自覚はしていた。

 ざっと想定した一四四通りの案の中で、目ぼしい手駒を全て奪われ、私自身も囚われになると仮定し実験を行った。
 物事に備えるならば、常に最悪の事態を想定するべきだ。
 利用出来る者はなんでも利用し、時に手駒をけしかけさえした。
 私自身が女になる必要があったからこそ、機会が巡ってきた時に迷わず奥歯に仕込んだ薬を飲んだ。

 いつ訪れるとも知らない機会を待つのだから、奥歯にあらかじめ薬を仕込んで置くなど使い古された手。
 良くあるのは、それが有効だと万人が認めているからだ。

 かくして実験は進み、私に様々な興味深い結果を残して、終了した。

 実験とはいえ輝夜に触れた男は息絶え、輝夜は元通り私の手元に戻した。
 手駒たちは身の振り方を弁えている。
 失ったものなど何もなく、実験の結果だけを有効に活用するだけ。
 手の平の上で踊り続けてやがて壊れてしまった駒になど、思う事は一つとしてない。

 地上に留まりたいと懇願した罪深い月の姫君の願いを叶えて以後、同胞を血染めに沈めてからは、私にとって輝夜以外の事に何の価値も見出せなくなった。 
 輝夜こそは我が罪。
 月の最高の頭脳だとと称えられ、逆上せ上がっていた愚かな私が生み出した、何よりも重い咎そのもの。

 輝夜は蓬莱の薬を舐めるという禁忌を犯した。
 禁忌を生み出したのは私自身だ。
 私が生み出した罪の生贄として地上に落とされ、永遠を彷徨い続ける罰を受ける少女。
 輝夜への不相応な罰が解かれ、荘厳なる月の都に再び迎える為に地上の粗末な都へ訪れた。
 再会を感激するはずだったのが、かつての教え子は涙で袖を濡らしたのだ。

『私は帰りたくない。地上で過ごしていたい』

 予想だにしない言葉だった。

 その瞬間から、私の罪が決まった。
 輝夜が望む全てを成そう。
 浄化された月の都から穢れた地上に突き落とされた後も、確かに生きた輝夜の願いを叶えよう。
 私自らが流罪にしておきながら、穢れなき都でのうのうと過ごした安穏に絶息を。
 輝夜に尽くす事が私の目的であり、その全て。
 斯くあるべしと定め、身命の置き所とした我が贖罪の日々。
 泥を被ろうとも罪に穢れようとも、それは全て私が浴びるべきだったもので、それまで輝夜が一身に浴びせかけられてきた不条理そのものだった。

 私は完璧ではない。
 万全の知識は膨大過ぎて、自らの足元を危うくする。
 かつて私が逆上せ上がっていたように。
 だからこそ実験が必要で、男は私にとって非常に都合のいい存在だった。

 そして私は新たな対処法を得た。
 これから役に立つのか否かは問わない。
 輝夜の為に役立てるだけで、不必要ならそれに越した事などないのだから。

 終わった実験など、結果に至った原因を解明する事はすれ、思い煩う必要などない。
 一つの実験が終わりを告げた。
 そこに感情を差し挟む余地はなく、また別の状況を想定しいずれかの実験を行うだけ。

 私にとって輝夜以外の全ての事象は、取るに足らない些事に過ぎなかった。
 
「……馬鹿ね」

 そう、確信していたのだ。

「笑って最期を迎えるほど、報われてもいないでしょうに」

 彼と出会うまでは。

 異性として男に興味を持った記憶は存在しない。
 暦から外れてどれほどの時間を生きてきたのか。
 そのような感情に振り回されていた頃とは、もはや永遠に等しい隔たりを重ねていた。

 個として永遠となった私には、もはや種としての永遠が失われていた。
 それこそが蓬莱の薬がもたらす呪い。
 永遠とは不滅という事。
 不滅とは完成という事。
 完成とは――拒絶だ。

 死を拒み生に偏った私たちに他者は必要とせず、あらゆる全てを拒む。
 幾ら男の精を胎に届けられた所で、実を結ぶ事などあり得ないのだ。

 ここで行った実験は、奇跡的な悪意とも呼ぶべき必然を引き起こした。

 身篭ったのだ。
 私が。
 蓬莱人として生殖から拒まれた私が、子を授かったのだ。 
 子を生むという行為は、母を知らずに生き続けるはずだった私に母性を芽生えさせた。

 妊娠し、日毎目立って膨らんでいく腹。
 子宮の中で寝返りを打つ我が子の息吹。
 お産、陣痛という今まで味わった事のない苦痛。
 かけがえのない歓び。
 何もかも初めて知る事ばかりだった。

 その実感をもたらした男の顔を真っ直ぐに見つめる。
 片目を貫かれていながら彼の死に顔は穏やかで、笑っているようにも見えた。
 私が射潰したその目で、彼が何を見ていたのかは定かではない。
 もはや語りかけても沈黙を守るのみ。
 あの口さがない諧謔が聞こえない事に、物足りなさを感じているのも事実だ。

 私は賢者などではない。
 賢者を名乗るには、私は余りに物を知らなさ過ぎた。
 子を慈しみ愛する事すら知らずして、賢き者とは。
 じつに笑えない冗談で、私はこれまでその生き方を由としてきたのだ。

 新たに知った自らの一面は、私には荷が重過ぎ持て余すほどのものだった。
 それを支えてくれた者はいたのだ。
 重荷によろめく私の身体を、倒れないようにしっかりと支えた者がいたのだ。

 胸の内に去来する記憶の欠片がただの感傷に過ぎないと、切って捨てるだけの強さを今の私は持ち合わせていなかった。

 吐き出した吐息はひどく重苦しく、まるで全身が鉛のように重く感じられた。
 床の血糊に足を取られそうになりながらも、彼の前へと歩む。
 残された左目は今も開かれたまま、何も映し出さなくなっている。

 いや。
 目の前に立つ冷徹な復讐者を装った何かを克明に映し、私はその瞼にそっと指を添えた。

 静かに目を閉じさせる。
 訪れた静寂に、発する言葉はすでになかった。

 私は未だ輝夜を第一に思っている。
 だからこそ彼の命を奪った。
 取り引きをしてまで――優先したのは輝夜だったが、彼を付け加えたのも事実だ。

 過去の事実から仮定を求める事など無為甚だしいが、これはただの思考実験だ。
 そう仮定した上で思う。
 もし彼があの場で全く別のものを求めたなら。

『殺してくれ』

 これが、或いは助けてくれだったとしたなら。
 私は全てを許しただろうに。

 時に、感情はあらゆる理性を覆すのだと、目の前で行き絶えた彼から教えられたのだ。

 やがて時間はこの思いすらも埋め尽くしてしまうだろう。
 私が抱くこの感情はやはり一時の感傷に過ぎず、いずれは忘れ去る事だ。

 だとしても、今はまだ明確に思い出せる。

「少し、疲れた」 

 むせ返るほどの濃い血潮の海で、徐々に失われていく温もりを指先に感じながら、私はひどく長い吐息を吐き出した。












 

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「……はぁ」

 ある程度の距離を歩くと、私の口から自然とため息が洩れてきた。

 ため息をつくのにも時と場所によって色々ある。
 呆れた時、憂鬱な時、ほっと一息ついた時。
 今のは緊張感と憂鬱から解放されて脱力した時のため息。
 人里から離れると、私はいつもこのため息をついていた。

 自分でもため息をつくのは多い方だと思う。
 永遠亭を出る時、迷いの竹林に入る時、出る時、人里が見えてきた時、いよいよ人里に入ろうとする時、一軒一軒回る時、まだ半分も回っていない時、ようやく半分まできた時、やたら癖の強い住人に薬の効果を説明しないといけない時、説明したのにまるで判ってない顔をされた時、人間たちが私を指差してひそひそと喋っているのを見かけた時、厄介な住人に絡まれた時――

「……はぁ」

 キリがないかな、これ。
 とにかく私は常日頃からため息が多かった。

 定期的に置き薬の補充に回って薬代を回収してくるのは私の仕事で、月にいた頃と比べて仕事量は格段に楽だ。
 付け加えるなら働かざる者食うべからずで、居候の身の私が食っちゃ寝生活なんて送れるはずもない。
 けれどやっぱり憂鬱なものは憂鬱だった。

 憂鬱にさせる仕事が一段楽したので、今はいくらか気分が軽い。
 背負った行李が物理的に軽くなっているというのもあるし、苦手な人里から遠ざかっているというのもある。
 これで迷いの竹林に入ってしまえば、殆どの人間とは出会う事もないし、その奥にある永遠亭ともなれば訪れる者だって極限られる。
 まあ、その分出会ったら出会ったで凄く厄介な人たちばかりなんだけど。

「……はぁ」

 あれ?
 足取りがいつまでたっても軽くならないな……。

 てくてくと歩いていたのが、いつの間にかとぼとぼと肩を落として歩いている事に気がついた。
 いけないいけない。
 こんなしょぼくれた格好で歩いているのを見られたら、なんて言われるか判らない。
 私だけならまだいい――いや、良くはないけど、いいとして。
 そのまま永遠亭の評判を落とすような悪い噂にならないとも限らない。

 人間は噂好きだし、集団で集まって何をするか判らないし、なんだか不気味で怖い。
 月にやってきたかと思うと旗まで立てて、自分の物だって言い出すような野蛮な生き物だ。
 なるべく関わらずにいたいというのが私の本音。

「はぁーあ」

 ……今ので何度目だろう。

 すっかり重苦しいため息に、自分自身なんだか疲れてしまった。
 思わず足を止めて、辺りをきょろきょろと窺う。
 人里からもすっかり離れて、静かな風景が広がっている。

 長閑で呑気で平穏そのものな、地上の風景。
 疎らに開いた彼岸花と蝉時雨。
 日差しはまだまだ強いけれど、木陰に入れば風で涼が得られる。
 夏がもう終わろうとしていて、気の早い秋がひょっこりと姿を見せようとしている。
 たまに空を妖精が飛び交い、もう少し日を重ねれば山から秋の神が降りてきてあちこちで実りをもたらし始めるだろう。
 そんな暮れ行く夏の一場面。

 もう少し歩けば竹が鬱蒼と茂る迷いの竹林にたどり着ける。
 そんな距離で、私はきょろきょろと辺りの様子を慎重に窺った。

 人影はなく、兎の影もない。
 聞こえるのは最後の夏を振り絞るように合唱している蝉たちの声だけ。
 私は少し道から外れて、苔むした大きな岩の側へと向かった。

 背負っていた行李を下ろして、中を覗き込む。
 中身は師匠から持たされた薬が大半だったけれど、人里から出てきた今はすっかり目減りしている。
 私は中をごそごそと探って、目当ての物を取り出した。

「うふ」

 笹の葉で包んだ中身は、人里の茶店で買ったお団子だ。
 勿論薬の代金に手をつけるなんて恐ろしい真似はしていない。
 私のお小遣いから買った物で、仕事の途中でつい見かけてしまったばっかりに頭から離れなくなってしまった。

 お団子は好きだ。
 甘くて柔らかくてまん丸で。
 私がため息ばかりついているのは、きっと甘いものが足りていないからね。
 うん。

 細く裂いた笹の葉が依り合わせて編まれた紐を解きながら、私はついつい周囲に気を配っていた。

 明確に禁止されている訳じゃないけれど、やっぱり買い食いは褒められたものじゃないし、居候の身でサボっているような気がしなくもない。
 だからついつい用心深くなってしまう。
 特にこんな場面をあの子に見つかってしまったら、一体どんな形で告げ口されてしまうか判ったものじゃない。
 けど、今日はどうしてもお団子が食べたくなってしまった。

 一度頭の浮かんでくると忘れられなくなってしまう事とかがあるけど、それがこれ。  
 勿論隠れてこっそり満腹になるまで食べるつもりはない。
 お土産のつもりで少し多めに買っておいた。

 でも、うちって大所帯だしなぁ。
 兎たちに配ったら最後全部食べてしまうし。
 姫様に知れたら独り占めにするだろうし、てゐは少しでも多く出し抜こうとするし、師匠だったら――目を放した隙に何かお薬が混入されてしまいそう。

 少なくとも、私の口に入る確率はぐっと目減りしてしまうだろう。
 薬が売れる以上に。

「……はぁ」

 居候の身でこんな事を思うのも不遜なんだろうけど、もう少し私の地位や立場が考慮されてもいいんじゃないかと思う。
 いつまで経ってもイナバ扱いだし。
 今度思い切ってストライキでも……

『ウドンゲ。意識を失うまで勤労意欲が幾らでも湧いてくるお薬と、幾ら働いても不平不満を言わなくなるお薬。どちらがいいかしら?』

 あ、やめよう。
 嫌な予感しかしない。

 包みの紐がいつまでも解けないのは、指先が震えていたから。
 月の最高の頭脳と賞賛を浴びた師匠は、天才だからなのか私の理解を越えた位置にいると感じる事が多々ある。
 強くて、頼り甲斐があって、安心出来る人だけど、新薬の実験に私を使うのは控えて欲しいと思う。
 口にすると後が怖いから、思うだけだけど。

 ……私、何でお団子を食べるのにここまで怖がってるんだろう?

 流石に自分の臆病さに呆れて、洩れそうになってきたため息を飲み込んだ。

 二本だけ。
 串二本だけならきっとばれたりしない。

 何度も自分に言い聞かせて、まだ少し震えが残る指で苦労しながら結び目を解いた。
 乾いた包みをかさかさと開いて、中から出てきたのは赤白緑の三色団子。
 まん丸の団子が三つ連なった定番の串団子だ。

 永遠亭でも良くお団子は食べている。
 お月見のお供といえば丸くて白い団子。
 けどそれは団子粉を捏ねて丸めただけのシンプルなもので、蓬を混ぜたり着色したりは難しいから殆ど口にする機会はない。
 うちの兎たちの器用さにも限度があるし、そもそもあまり我慢が利かないし。
 その点人里では当たり前に売られていて、お金さえ出せば美味しい串団子を口にする事が出来た。

「いつも働いている自分へのご褒美、という事で」

 だって師匠も姫様も殆どご褒美をくれる事はないし、あまり褒めて貰えないから。
 せめて自分だけでも褒めておこう。

「いただきまーす」

 私は岩に寄りかかって水筒代わりの竹筒をお供に、取り出したお団子をぱくりと頬張る。

「……んーっ!」

 外はふわふわしていて、中はもっちりと弾力がある。
 赤いのは食紅を使っているから、だったっけ?
 ほんのりと口の中に広がる控えめな甘さが心地いい。

 師匠や姫様やてゐより先に美味しい団子を味わってしまうのに気が咎めない訳じゃなかったけれど、たまにはこういう日があってもいいかな。
 美味しく甘いものを食べれば、仕事にも身が入るだろうし。

 もくもくと咀嚼し団子に舌鼓を打ちながら、私はささやかな幸せを噛み締める。
 ささやかで、平穏で、何気ない幸福。
 ともすれば当たり前に慣れ切って、幸せである事すら忘れてしまう実感。
 忘れてしまいがちなこの当たり前の日々を大切にしよう。
 実際、今の私は信じられないくらい幸せなんだから。

 月から離れてもうどれくらい過ぎたのか。
 こうして地上で暮らすようになってからも、後ろめたさや煩わしい事や、月にいた頃の方が良かったと思う事もある。
 けどそれは間違いで――地上に逃げてきた私に行く場所なんて他になくて、奇跡のような偶然で今の日常が成り立っている。
 運が良かっただけなのか、誰かの導きがあったのか、そこまで深くは判らない。
 けど、手にしたこの幸福をしっかり握り締めて、精一杯生きていこうと思う。

 団子一串で幸せを実感出来るなんて、我ながら安いなぁと思うけど。
 高くて中々幸せを実感する機会がないよりは、安上がりの方がいいかなとも思った。

 一串ぺろりと平らげて、一端竹筒の水で咽喉を潤す。
 熱いお茶といきたい所だけど、路傍の岩に寄りかかっている今は流石に贅沢かな。
 濡れた唇を拭って、思った以上に手の甲が濡れていたから私はポケットの中からハンカチを取り出す。

「……あれ?」

 ハンカチを抜き取った拍子にころんと何かが地面に転がった。
 私のポケットの中に一緒に入っていた物みたい。
 私は見慣れないそれに視線を移して、まじまじと見入った。

 かんざし……みたい。
 こういう身を飾る物は余り身につけないから良く判らないけど、そんな私でも一目で判った。

 赤い花細工は素人目にも丁寧な装丁で仕上げられている。
 材質は……うーんそこまでは良く判らない。
 葉の形からして、これは睡蓮の花かな?
 池や沼や、河川の淀みに浮かんでいるの目にする、有り触れた花。
 花弁一枚一枚が重ね合わせられて、緑色の丸い葉っぱもつけられていた。

 何気なく地面から摘み上げて、梢からこぼれる陽に当ててみる。
 きらきらと光を反射させて、赤く輝いているように見えた。

「へぇー」

 凄く綺麗だ。
 随分高そうな物で、全く見覚えがなかった。

 始めはかんざしの美しさに目を奪われていたけれど、眺めているうちに段々不気味に思えてきた。
 こんなものを身につけた覚えはないし、ポケットに入れた記憶もない。
 誰かが悪戯で入れたのかもしれないけど、悪戯にしては判り難いしちょっと意味不明だ。
 不安が胸をよぎると、綺麗に見えていたはずのかんざしも気味の悪い光沢を放っているように見えてくる。
 妙に精巧で高価そうなのも、私の不安を煽る大きな材料だ。

「……変なの」

 私は少し怖くなって、摘んでいたかんざしをぽいと茂みに投げ込んだ。
 かさっと小さな音がして、赤いかんざし名前も知らない草葉の奥に隠れた。

 勿体無いのかもしれないけど、身に覚えのない持ち物がなんだか不気味に思えるし、このまま古道具屋に持ち込むのもどうかと思う。
 身につけるなんて持っての外。
 見なかった事にして忘れてしまうのが一番だ。

 忘れてはいけない事と、早めに忘れた方がいい事がある。
 あのかんざしは後者だ。

 さ、いつまでゆっくり道草を食っていたら遅くなってしまう。
 門限が定められている訳じゃないけど、仕事は早めに終わらせておくに越した事はないし。
 永遠亭に戻ったら薬の代金とお土産を渡して、後は通常業務に戻ろう。
 私はいそいそと笹の包みを畳んで行李に戻し、その場を立った。
 外れていた道に出て、今後の予定を考えながら永遠亭目指して歩き始める。

 そろそろ、兎たちにもう少し啓蒙活動をしてみようかな?
 うちの兎たちは基本的に遊んでばかりだし。
 長老のてゐからしてああだから、致し方ないと今まで思ってきたけど、もう少し、こう、有能な兎が一匹でもいてくれれば違ってくると思う。
 だからと言っててゐが無能な訳じゃないけど、あの子は悪戯方面に有能な子だし、私の言う事を聞いてくれないし。

「はぁ」

 なんと言うか、直属の部下とか弟子とかがいるのは、ちょっと憧れでもある。
 私自身師匠の(あの月で最高の頭脳と謳われた、八意永琳師匠の!)弟子だと自認してるし、私の言う事を素直に聞いてくれる部下が欲しい。
 かなり切実に。
 本音を言うと――いざという時私の味方になってくれる相手が欲しい。
 本当に、切実に。

 永遠亭の警備担当で幹部という立場を貰っているのだけど、どうも名目より実際の地位はかなり下に置かれている気がしてならない。
 日常の端々から。

「……はぁぁぁぁ」

 特大のため息をついて、とぼとぼと帰路に着く。
 兎たちへの啓蒙活動は後にして、帰ったらまずはお茶の用意が待っている。
 お土産を用意したら、何はともあれ骨休めになるはずだから。

 これでも私、お茶を淹れるのは得意なのだ。
 お茶の葉の選定から蒸らしに茶漉し。
 永遠亭の一区画を借りて、密かに茶畑が作れないものか計画している。
 計画段階でまず大きな障害として立ちはだかるのが、一緒に暮らしている兎たちの存在があるけど。
 新芽を根こそぎにしてしまいそうだ。
 だからこそ有能な兎を取り立てて茶畑を担当させたいのだけど。

 私の野望はともかく、お茶を淹れるのにも色々とコツがある。
 これだけは例え師匠と言えども譲れない。
 あ、すいません言い過ぎました師匠ごめんなさい。
 でも師匠、お湯に混ぜるとお茶の味と香りがする薬を作ったりするのはちょっとずるいと思います。

 こほん。

 私は永遠亭でも師匠に次ぐ茶坊主なんだ。
 警備担当の幹部が胸を張るにはかなり間違っている理由な気がするけど、実際そうなんだからしょうがない。

「あれ? 涙が止まらない……」

 さめざめと泣いた。

 涙が止まってもぐすぐすと鼻を鳴らして、悲しいというより侘しい気持ちになってしまった。
 永遠亭に戻ったら温かいお茶を啜ってのんびりして、啓蒙活動はまた今度にしよう。
 とびきり美味しいお茶があるから、それを淹れよう。
 茶葉の風味を飛ばさないよう沸騰させたお湯に少しだけ水を混ぜて、じっくりと蒸らして、それから――

「それから……」

 何かあったはず。
 急須から湯飲みに注ぐ前に、茶葉を蒸らす前に、お湯を沸かす前に……そのくらいの段階で、何かする事があったはず。
 思い出せそうで思い出せない、咽喉に魚の骨が引っかかったような感覚にうんうん唸って頭をひねり、私はそれを思い出そうとした。

「あ」

 そうだ。
 思い出した。

『トデッラ ヒュヴァー カハヴィア』

 お茶が美味しくなるよう、その言葉を口にすれば

「――え?」

 魔法の、言葉。

「――」

 当然私は魔法なんて知らなくて、教えてもらうほど魔女や魔法使いたちとも仲が良かったりもしなくて、それは魔法というよりもおまじないの一種だ。
 それを私に教えてくれたのは。

『魔法を一つ、教えてあげようか』

 手の甲にふわりと誰かの手の平が重ねられた気がした。
 頭の中で魔法がきらめく。

『トデッラ』

「とでっら」

 脳裏で囁かれる声音に続いて、私はその言葉をそらんじる。

『ヒュヴァー』

「ひゅびぃあー」

 聞いた事もない言葉は、思い浮かびはしても口で発音するのは難しい。

『カハヴィア』

「かはびぃあ」

 けれどもなんとか似た言葉を紡ぎだした。

「……どうして」

 困惑する。
 混乱する。
 竹林に差し掛かった道の真ん中で、私は立ち尽くしたまま繰り返す。

「どうして」

 頭の中は疑問符ばかり。
 訊きたい事が多過ぎて、知りたい事ばかりで埋め尽くされて、どの疑問から考えるべきなのか判らない。
 疑問疑念まとまらない答えの断片がぐちゃぐちゃに交じり合って渦を巻き、その場から一歩も身動き出来なくなってしまった。

『それは魔法だからさ』

 答えには繋がらない、なんの解答にもなってない言葉がぽろりとこぼれ落ちた。

 その瞬間、頭の中が爆発した。
 本当になんの脈絡もなく爆発したように感じた。
 目の前が真っ白になって、何も見えなくなって、気がついたら地面が目の前にあった。
 私はその場にうつ伏せに倒れ込んでいた。

「――あ」

 思い出した。

「ああ、あ。あああっ」

 全部思い出した。

「あああああっ。あァああああ―っ、あぁああああっ」

 どうして忘れてしまっていたんだろう。
 良く悪くも忘れ難い、あれほど強烈な印象を放つ人の事を。
 同時に、私がついさっき何を投げ捨てたのか思い出した。

「はっ、うぐっ」

 頭が重い。
 手足が痺れる。
 胃の中がぐるぐると逆流して気持ち悪い。
 今にも吐き出してしまいそう。
 その拍子に内臓まで全部吐き出してしまいそう。

 私はふらふらと覚束ない足取りで――今の私にはそれが精一杯の速度で、来た道を戻った。
 剥き出しの地肌を踏み固めただけの道を大急ぎで歩いて、外れに転がる大岩を探した。

 見つけた。

 と思った瞬間、気が緩んだのか足がもつれて転んだ。
 立ち上がるのももどかしくて這った。
 地面を這いずり進んで、茂みの中に顔を突っ込んだ。

 ない、ない、ない。

 探しているのはあのかんざし。

 ない、ない、ない。

 睡蓮の咲いた赤いかんざし。

 ない、ない、どこにもない。

 冗談めかした仕草で贈られて、あの人から受け取った物。

 ない、ない、どこにもないんです。

 思い出したのに曖昧な私とあの人を繋ぐ、唯一のもの。

 どこ、どこ、どこに失くしてしまったの――

 土と葉っぱと折れた枝にまみれ、尖った枝に手や指をあちこち切りながら、それでも探し続けた。
 痛みなんて気にならなかった。
 焦燥感に衝き動かされるまま、両手で茂みの影を掻き分け続けた。

 枯れた葉っぱがいくつも重なった腐葉土をがさりと掻き出し、その拍子にころりと赤いものが転がった。

 あった。

 私はそれを掴んだ。
 二度と手放さないよう、自ら捨てたりしないように大切に握り締めた。

 未だに記憶がごちゃごちゃで、嬉しさと悲しさと憤りが交じり合っている中、私は四肢を折り曲げて丸くなる。

「ひっ、ひぐ。っく。へぐっ、ぅぐふ、ううううーっ」

 泣いた。
 涙がこぼれた。
 何度もしゃくり上げ、胸を突かれて私は号泣した。
 みっともなく声を上げて泣き続けた。

「うあああん。うあ、うああああん。うあああああん!」

 夏の終わりが兆しを見せ始める頃、私は茂みの中で丸くなり、今は亡き人を想って泣き腫らした。






 平穏が戻っていた。

 私にはとんでもない大事件だったけれど、だからと言って全員にとってそうだという訳じゃない。
 私が泣き暮れて戻ってからも、師匠は何があったのかは聞かなかった。
 まともな会話も出来なかった私はその日残っていた仕事や雑務を全部免除されて部屋に戻された。
 師匠が私を気遣ったりするなんて妙だ。
 そんな当たり前の事も思い浮かばずに、その日私は布団の中で泣き明かした。
 かんざしを握り締めて、幾らでも涙がこぼれてきた。
 そのままいつの間にか泣き疲れて眠ってしまった。

 目が覚めると、不思議なくらいすっきりとしていた。
 あれだけ泣き続けていたから私の涙は枯れてしまったのかと思って、ぎゅっと握り締めていたかんざしを見つめていた。
 私の考えを否定するようにぽろりと涙がこぼれたけれど、前後不覚になるまで泣き喚く事はなかった。
 私にはその暇がなかった。

 私は今日も師匠の部屋でせわしなく動き続ける。
 落ち着いてゆっくり見極めないといけない作業なのに、慌しく動いていないと間に合わないという地獄のような工程に忙殺され続けていた。
 私が乾燥した植物の根っこをすり鉢でごりごりと削って潰している間も、背後から容赦なく指示が飛んでくる。

「ウドンゲ、いの六番とはの七七番を用意なさい」

「はい師匠!」

「次はほの一四番を煎じて煮込みなさい。温度は八〇度。沸騰させては駄目よ」

「はい師匠!」

「煮詰め終われば全て混ぜ合わせて、水分を飛ばして陰干しになさい。半日置けば完成よ」

「はい師匠! その間休んでいいですか!?」

「半日あれば私が昨日教えた薬はいくつ作れるかしら?」

「四日分です!」

「では一週間分作りなさい」

「はい師匠! 身体は一つです!」

「頑張れば二つくらいには増えるわ。頑張りなさい」

「はい師匠!」

 師匠から言い渡された死刑宣告にも等しい作業量を頭の中でざっと目算して、多分日が暮れるまで休ませてもらえないなぁと、地獄の延長にため息をついた。
 ため息程度では済まない作業量で、兎の手も借りたいくらい忙しいのに、それでもどこかこの状況に慣れ始めている自分が怖い。

「確か、骨折に効く薬と打ち身の薬が目減りしていたわね。追加よ」

 そんな私のため息を聞きつけてか、容赦なく責め上げられた。

「はい師匠!」

 一も二もなく私は声を張り上げて、それは多分絶叫だ。
 追加もそうだけど、今取り掛かっている作業にしたってどこかでへまをすればやり直しになる。
 そうなってしまったら夜まで休めないどころか夜通し続けないと間に合わない。
 次々と飛んでくる師匠の指示に無条件で従いながら(無理です、出来ませんといった泣き言は一切聞き入れてもらえないから)、私は力のいる重労働続きで悲鳴を上げていた身体に鞭打った。



 私は、永遠亭の警備担当から外された。
 通告もなくいきなり師匠から言い渡され、目の前が真っ暗になった。
 けど、私には絶望する事すら許されなかった。

「今までウドンゲを曖昧な立場のまま置いてきたけれど、変える事にするわ」

 暇を申し渡された直後に師匠は言った。

「これからは私の正式な弟子として扱います」

 私はくびになったのだと思った。
 けどそれは違っていて、私は名実ともに師匠の(あの八意永琳の!)弟子になる事が決まったのだ。

 この時点で、師匠の言葉に甘い期待を寄せていた私は、やっぱり甘え根性がしっかりと染み付いていた。
 警備担当の任を解かれたのは、左遷でも昇進するからでもない。
 師匠の弟子は、他の事をしていては事実上不可能な作業量だったからだ。

 弟子の朝は早く、夜は遅い。
 無理難題と思える課題の数々をこなし続けて、息をつく暇もない。
 これで今まで師匠が一人こなしてきた事の一部なのだから、先の見通しがさっぱりつかない。
 そもそも先のことを考えている余裕もなく、目の前に積み上がっていく作業を片付けないと物理的に前が見えなかった。

 師匠が天才なのだから、弟子にも相応の技量が求められる。
 凡人である私は、それこそ寝る間も惜しんで必死にかじりついていないと、あっさり振り落とされてしまう。
 薬の調合はとにかく数を作って覚えるしかない。
 元となる原料、その分量、調合に費やす時間、混ぜ合わせるタイミング。
 全て私の身体に直接叩き込まれている真っ最中だ。
 今まで私は何気なく師匠と呼んでいただけで、師事を乞うていた訳じゃなかったんだと、奥歯が擦り切れてなくなってしまうくらい噛み締めていた。



「イナバ。起きなさいイナバ」

「う、ううん……?」

 身体を揺さぶられて、私は目を覚ました。
 目が覚めるまで、自分が眠っていた事にも気がつかなかった。
 自分の部屋ではなく、師匠の部屋でもなく、私は居間で突っ伏すように倒れ込んでいた。
 どうしてこんな場所で眠っていたのか記憶になく、もうすっかり日も落ちて辺りは薄暗く、行燈の明かりがぼんやりと部屋の中を照らしていた。

「あ……姫様」

 揺さぶっていたのは姫様で、身体を起こした私から離れて座卓に腰を降ろした。

「随分しぼられているようね。疲れているのは判るけれど、ここで寝ていては身体を壊すわよ? もう随分涼しくなってきたわ」

「え。あ、はい」

「疲れているのならお茶でも淹れましょう。身体は内側から温めるに限るわ」

「ええっ」

 私は思わず声を上げて驚いてしまっていた。

 姫様が私にお茶を淹れる?
 天変地異の前触れかもしれない。

 姫様が私たちに何かを振舞う――それ以前にお茶を淹れるなんて技術を会得している事自体驚きで、ちやほやされる事に慣れ切っている姫様は同性の目から見てもはっきり言ってだらしない。
 その姫様が、一体どんな気まぐれなのか。
 そんな不敬な事を思わず考えてしまっていた。
 姫様が優しいだなんて、師匠に優しくされるよりも得体が知れなかった。

「……」

「……」

 お茶を淹れると言った当の姫様は、正座したまま固まってしまった私を眺めて一向に動く気配がない。
 立ち上がる気なんてさらさらなくて、座卓にへばりついたお餅のようにだらしない格好で、おまけになんだか機嫌を悪くしたような据わった眼差しになっている。

 なんで私が睨まれているんだろう。

 見る見る不機嫌に表情を曇らせた姫様が、痺れを切らしたように口を開く。

「ちょっと」

「はい?」

「お茶は?」

「……は?」

「は? じゃないの。お茶を淹れてちょうだい」

 何を言っているんだろう、この姫様は。

「いや、あの。お茶を淹れるんですよね?」

「そうよ」

「どういう理由なのか知るのが怖いので詳しく聞きたくないのですが、疲れて寝ていた私を見かねて、姫様がお茶を淹れるんですよね?」

「ええ」

「……それが、どうして私がお茶を淹れる事になっているんですか?」

 初めからお茶を淹れなさいと言われたのなら、私もこれほど驚いたりはしなかったのだけど。
 いつの間にか私がお茶を淹れる事になっていたので、ちょっと理解出来ない。
 自分自身の言葉を疑いながら、自信なく投げかけた質問に、姫様は不思議そうに小首を傾げた。
 その後で、姫様は怒り出す所かなんだか気の毒そうな眼差しを向けられてしまった。

「何故私がお茶の支度をしないといけないの?」

 いや、いやいやいや。
 姫様が言った事ですよね?

「私がお茶を淹れるのだから貴方が用意するのに決まっているじゃない。ほら、お茶の用意よ」

「は? は、はあ」

 決まっている事らしい。
 一体私の質問の何がいけなかったのか、話の進め方なのか、姫様の言葉にどんな真意が込められていたのか。
 そもそも姫様に言葉が通じると考えていた時点でおかしかったのか、なんだそれなら納得出来ますやだなぁもう疲れてるんだわ私。

 腑に落ちないなりに納得のいく結論を弾き出した私は、すぐにお茶の支度に取り掛かる。
 背後からすかさず姫様の声が追いすがってくる。

「棚の奥に一番いいお茶が隠してあるからそれを使いなさい。ああ、それと湯加減には気をつけるのよ。沸騰したままでは香りが飛ぶ上に湯飲みを持った時も熱いし、なによりふーふーしないといけないからね。私は少し温めの方がいいわ」

「はい姫様」

「お茶請けも欲しいわね。大福が残っていなかったかしら? 豆大福の皮に薄く塩を振ったものがおいしいのよ。なければ羊羹でもいいわ。適当にみつくろってちょうだい」

「はい姫様」

 注文が多いなぁと内心ため息をつきつつも、最近の生活の賜物なのか嫌な顔一つ浮かべずにはきはきと返事をする技能を私は身に着けていた。
 笑顔で仕事量を二倍近く増やされるよりも、姫様のお茶の用意の方がずっと軽い仕事だった。

 だから、私もあまり泣かなかった。

 お茶の支度を整えた私は、奇跡的に兎たちからの襲撃も逃れ、お茶菓子を用意して姫様のいる居間に戻った。
 姫様が所望していた通り豆大福が残っていたので、沸かした後に水を足して温めに調節したお茶とともに運ぶ。
 座卓にお盆を載せた私に、姫様はありがとうと感謝するでもなければ、遅いと文句を言うでもなく、

「ん」

 と小さく頷いた。

「いただきます」

 向かいに座って私が手を合わせている間に、姫様はひょいと掴んだ豆大福を頬張った。
 なんだか餌を貰う鯉のような食べ方だなぁ、と訊かれたら絶対にお叱りを受ける事を考えたりしながら、私は少し温いお茶ちびちびと啜った。

 障子の向こうから聞こえてくる虫の音と、しゅるしゅるとお茶を啜る音が絡んで伸びる。
 今にも宵闇に飲まれそうな赤い行燈の光と、火皿の上でじりじりと灯心が焼ける音。
 こうして姫様と二人きりになる機会の少なかった私は、なんだか不思議な気分でいながらも、穏やかな時間の流れに耳を澄ませていた。

「……なに? 人の顔をじろじろとぶしつけに」

 物珍しさがあったからかもしれない。
 私はつい視線を姫様に向けたまま、中々外せなかった。

「いえ。姫様が私に優しいお言葉だなんて、明日は雨なのかなと」

 色々と理解し難い点はあったけれど、私の身を案じる言葉は聞き間違いではなかったし。
 この場合、むしろ反動が雨程度で済めばいいんだけど。

「縁起でもないことを言うものではないわ。疲れているだけなのか……慎み深さを失っているわね、イナバ」

「はぁ」

 思わずぽろっとこぼれた本音に、姫様は座卓に頬杖をついて私を眺めてくる。
 怒った様子ではないがじっと見つめられて、私はなんだか緊張してしまう。

 睡蓮のかんざしを抱いて泣いた日以降、姫様とまともに顔を合わせるのは今日が初めてかもしれない。
 今までずっと師匠の弟子の仕事に追われて会う機会がなく、食事時に顔を合わせていたのかもしれないけれど、正直記憶が曖昧だ。
 束の間の食事時間は、活力となる栄養摂取と身体を休める貴重な時間だ。
 どれほど忙しく作業に追われていようと、師匠は食事の時間だけは必ず設けてくれた。

 忙しなさに追われ続けて、私はいつしかあの人の事を話題に上げる機会を失ってしまっていた。
 てゐはいつも通り悪戯に精を出す気ままな生活を続け、師匠からは課題の提示以外でゆっくりと話す事もない。

 てゐは、師匠は、姫様は、あの人の事をどう思っているんだろう。
 あの人のいなくなってしまった生活で何を思っているんだろう。

 今まで口に挙げられなかった疑問が、私の胸の中でざわめき始めていた。

 あの人から娘のように思われていた姫様。
 なるほど、思い返してみれば確かにそうかもしれない。
 あの人が時折見せていた親しげでありながら慎重に距離を測る接し方は、我が子に戸惑うどこか不器用な父親の姿を思わせる。
 私に向けられていた愛情とは違っていたけれど、あの人は確かに姫様も愛していたんだろう。

 今も記憶は色褪せない。
 忙しさにかまけている間は忘れられても、思い出そうとすれば色鮮やかにあの日々が甦ってくる。
 それなのに、その前後が曖昧であやふやのまま。

 ご主人様に別れを告げられ、私はあの場を離れて永遠亭へと戻った。
 今こうして屋敷で生活をしているのだから間違いはない。
 それなのにその間――どうやって屋敷に戻ったのか、元の生活に馴染むまでの過程が良く思い出せない。
 すっぱりと忘れ去って元の生活に戻れるほど、私は未練や後悔と付き合い慣れてはいない。
 実際に、今もあの人の事を忘れずにいる。

 妙に不自然だ。
 あの人と出会った事も、見知らぬ場所で過ごした時間も、なんだか切って貼り付けたような不自然さ。
 それが違和感として残っていたから、私は誰にも言えない。
 もしもあの人の事を話題に挙げて、てゐも師匠も姫様もまるで記憶になかったとしたら。
 私の狂言で終わってしまって、それこそ正気を失った妄想に過ぎないのだと言われるのが怖かった。

 怖がっているのが正気を疑われることなのか、あの人との想い出が砂上の楼閣のように崩れ去ってしまうからなのか、どちらかはまだ判然としなかった。

「イナバ」

「え。あ、はい」

 まただ。
 また悪い癖。
 一人で考え込んでしまい悪い方へと向かっていくこの悪癖は、一体いつになったら治るのか見通しが立たないまま。
 急に呼ばれてうろたえながらも、意味もなく畳に向けていた視線を姫様に向けた。

「明日は休みなさい。少し付き合って欲しいのよ」

「――へ?」

 予期しない申し出に戸惑う。
 姫様が私に何か用があるだなんて、それを直接口にするのは違和感があった。
 姫様の言葉は師匠を経由して伝えられる事が常だったのに。

「で、でも私、明日も師匠の手伝いが」

「永琳には私から言っておくわ。永琳も連れ出すから、当然なのだけど」

 師匠も連れ出す?
 どこに連れて行かれるんだろう。

「因幡も見つけておいて。あの子のことだから、勝手についてくるだろうけど」

「は、はあ」

 てゐの事を言っているようだ。
 姫様はそれだけを伝えると、立ち上がって伸びをした。
 どういう意図があっての事か一つ飛ばしに伝えられた私は、背筋を伸ばす姫様をぽかんと見上げるばかりだった。

「暖まったら今日は休みなさい。貴方の淹れたお茶、美味しかったわよ」

 そう言い残した姫様は、手の代わりに袖を振ると静々と居間から出て行った。
 姫様は高貴な生まれだから、俗世に生まれた私には何を考えているのか良く判らない所がある。
 労いの言葉に気が付いたのは、障子に映り込んでいた姫様の影が消えてしまってからだ。

 何気なく視線を移すと、お茶請けの塩豆大福が一つ残っていた。
 姫様はもぐもぐと良く食べていたように思うけど、一つだけ手がつけられないまま残されていた。
 手を伸ばして頬張ってみる。
 大福の柔らかい皮とぷちぷちとした豆のしっかりとした硬さ。
 塩はしょっぱいほどではなくほのかに広がる程度で、餡の控えめな甘さとよく馴染んでいた。

「……」

 私は一人、塩豆大福をもぐもぐと頬張り暖かいお茶を口に含む。
 お茶を淹れる時に、勿論魔法もかけていた。

「とでっら ひゃばぁー かはびぃあ」

 嚥下した後その不思議な響きの言葉をぽつりと口にしてみた。
 あれからどれくらい時間が過ぎたのか。
 今になっても、私の発音は耳にした記憶と違っている気がする。

「……中々、上手くなれないですね」

 ゆらゆらとたなびく湯飲みからの湯気が目にしみて、涙が一粒流れた。






 翌日、姫様の言葉通り私の仕事はなかった。
 代わりに姫様の外出に付き合わされる事になった。
 姫様ともなると徒歩で外出するというのは稀で、立派な牛車が用意されて私たちはその周りを歩くという形になる。
 牛車に乗っているのは勿論姫様で、周りを歩いているのは師匠とてゐ、そして私。
 時々もぅーと鳴く呑気な牛に任せて、姫様は気ままに散策を続けていた。

 連れ出された理由はこれだったのかと呆れると同時に、不思議に思う。
 ただの散策なら私たちを連れ出す理由があったのかどうか。
 不満を感じている訳じゃなく、妙に感じる場面がいくつもあった。

「とめて」

 歩いていると、しばしば牛車の上から姫様が制止した。
 私たちが牛の足を止め、姫様は籠の中から首を出すとしばらく辺りを見回す。
 何かを探しているようで、その実何を探しているのか判らない。
 訊ねてみたけれど、ちょっととか違うとか曖昧な言葉が返ってくるだけだった。

「行って」

 姫様の言葉で再び牛を歩かせ、どこに向かっているのかも判らない散策が続く。
 お屋敷を出てからずっとこんな調子だった。

 私は力強くもゆったりとした牛の歩みに合わせて、その手綱を握っている師匠の横顔を盗み見た。
 この散策が始まってから、黙々と手綱を引いて牛車を先導するばかり。
 姫様の意図も見抜いた上で何も言わないのか、姫様からの説明を待っているのか、冷たく整った横顔からはさっぱり読み取れなかった。
 余りじろじろと見つめていてはまた無理難題を課せられないとも限らないので、気づかれる前にそっと視線を外す。
 私の隣にはてゐがやっぱりのんびりと歩いていた。

 普段は放っておいても賑やかなこの子も、今は言葉少なにぶらぶらと歩いている。
 どこからどう見てもつまらなさそうに見えるけど、文句や愚痴の類も呟かずにたまにきょろきょろと視線を動かしていた。

「……なによ?」

 私と視線が合うと、垂れていた耳がぴくりと跳ねる。
 以前と比べて顔を合わせる時間はぐっと減ったけど、横柄な態度は相変わらずだった。
 それでも、沈黙を守る師匠や姫様と比べたら、てゐの方がずっと近しくて話しかけ易かった。

「機嫌が悪そうだけど、どこか痛むの?」

「べっつに」

 かわいくない態度だけど。

「……どうしてそんなに機嫌が悪いのよ」

 何が気に入らないのか、私に何か不満でもあるのか。
 師匠の本当の弟子になれたけど、てゐはちっとも羨ましく思ったりはしないはずだし、全く身に覚えがない。
 訳も判らずこう刺々しい態度を取られると、頭が痛くなってきそうだ。

 ため息を隠さずに訊ねると、てゐは私をじっと見つめた後にぽつりと呟く。

「鰹の叩きよ」

「――は?」

 思わず訊き返していた。

 かつおの叩き?
 それがてゐの機嫌を損ねている理由?

「置いてかれるわよ?」

 はっ。

 思わず足を止めてしまっていた私は、立ち止まって振り向いていたてゐの言葉で我に返った。
 急ぎ足で戻り牛車を引く牛に並ぶ。
 私はてゐがこぼした言葉の意味を尋ねるべく、斜め背後を歩くその顔を眺めた。

 さっきまで虫の居所の悪い表情ばかり浮かべていたはずのてゐが、今は何故だか笑っていた。

「意味は自分で考えなさい」

「……」

 かつおの叩きに何か意味があるんだろうか。
 そもそも、かつおってなんだろう。

 てゐの事だから、回答を放棄した時点で私に明かす真似はしないだろう。
 私の頭の中は、にわかにかつおの叩きとやらでいっぱいになってしまう。
 それにどんな意味が込められているんだろう。

「止まって」

 悩みながら歩き続けていた私の背後から、姫様の声が聞こえた。
 これまでどおりに牛車を止めて、かごに降りた御簾を上げて辺りをきょろきょろと見回している。
 何を探しているのか、私は考え事を一旦中断して、その視線を漫然と追いかけた。
 今まで視線が定められずにふらふらとさ迷うだけだったけど、姫様の黒い瞳が何かを見つけ出したのかぴたりと一点に向けられた。
 それは延々と続く竹林の、何気ない路傍。
 目を引くものがあるとすれば、雑然と生え育っている竹が交差しているところだろうか。
 育っていく内に上部が茂り重くなって、その重みでしなっているようだ。

 強いて上げるならそういう理由があるというだけで、探せば他にも幾らでもありそうなほど有り触れた景色に見える。
 姫様の注目を集めるには余りにも特筆すべき点がないように感じるけど。

「そこにしましょう」

 姫様は牛を牽いていた師匠を促す事無く、その場所で何かをするつもりのようだ。
 車から降りると、有り触れた路傍に立って私たちに振り返った。

「さ、イナバたち。お仕事の時間よ。車の中に荷物があるから運び出して頂戴」

 姫様は一体何を考えているのか。
 それは姫様でないと判らない事かもしれないけど、とにかく私たちは言われた通り、牛車に姫様と同乗していた荷物を運び出す事にした。

「お、重いですよこれ」

「鈴仙はそっち持って。私だと身長差で余計重くなるじゃない」

「そんな事言って、本当に重いのよ」

 何やら布でくるまれたやたらと重い物を、てゐと一緒に運び出す。
 私たちの姿を見かねたのか、師匠が声をかけてくる。

「それほど重いのなら、筋力が一時的に倍増される薬を上げましょうか?」

「……師匠、それ副作用とか出ませんよね?」

「大丈夫よ。後で数倍の筋肉痛になって返ってくる程度よ」

「平気です! 運べます、師匠!」

「そう。元気ね」

「ふー。おもーい」

「あ、ちょっとてゐ、放さないで。本当に一人じゃ無理だから、あ、あ、つ、潰れるぅ」

 危うい場面もあったものの、私たちは何とか布で包まれたものを運び出した。
 牛車から少し離れた路傍に移動するだけで息が切れてしまった。
 こんなに重い物をどうやって車に積み込んだのか不思議だったけど、多分兎たちが狩り出されたんだろうと思う。
 どすんと重い音をたてて地面に置いたそれを、姫様が結び目を解いてしゅるしゅると開いていった。

 中から出てきたのは、石だった。
 足元に転がっているような手の平に収まるサイズじゃなく、漬物石に使うほど大きくて丸い石。
 姫様は楕円形のその石を転がして、目をつけた場所に据えつけている。
 運び出したものの正体を目にして、余計に疲労感が増した気がした。

「あの……姫様?」

「しっ。今は話しかけないで」

 流石に理由を問いかけようとしたけれど、むべもなく禁じられてしまっては、配置にこだわる姫様を背後から見守るばかり。

 よりにもよって石だ。
 もっと別の物が出てくると想像していただけに、がっかり感もひとしおだ。
 わざわざお屋敷から運び出してきたのだから何か由来があるものなのかもしれないけど、どう見ても石は石だった。
 庭に転がっているか、もしくはさっき考えついた通り漬物を作る時に重石として使用するような何の変哲もない石。
 そんなものを運び出して、有り触れた路傍において、一体姫様は何を考えているのか。
 ますます判らなくなる一方だった。

「……これでいいわ」

 あ、終わったみたい。

 気の済む角度に落ち着いたのか、姫様は石から離れて額の汗を拭った。
 一仕事を終えたという仕草だけで、実際には汗一つかいていない。
 師匠がさりげなく地面に落ちていた布を拾って手早くまとめていた。

「見なさい、これがなにか貴方たちにわかる?」

 私たちに振り返った姫様は、地面に佇む石を指し示し、妙に自信たっぷりに胸を張った。

「……石?」

 私は答えた。
 それ以外になにがあるんだろう。
 石をよくよく観察してから答えた私に、姫様は腕を組み合わせて仁王立ちのポーズで深く頷いた。

「三点の答えね」

 ……三点かぁ。

 ぱっと出てきた数字なんだろうけど、得点の低さにへこんだ。
 うなだれる私の隣で、てゐが挙手する。

「はーい。うちで使ってる漬物石に見えまーす」

「一七点ね。確かに漬物石だったけれど、塩漬け野菜の蓋を押す仕事は昨日でクビにしたわ」

 うわぁ、世知辛いなぁ。

 わざわざクビにしたなんて表現を使わなくてもいいのにと思う。
 もし職場復帰するようなことがあれば、塩辛い漬物がさらに切ない味になってしまいそうだけど。

「ダメね貴方たち。ダメダメね。見たままの印象を述べているだけじゃないの。もっとこう、物事の内観と本質を見極めなさい」

 そんな事言われても。
 漬物石を牛車で運び出して路傍に置いたりするのは、ダメじゃないんだろうか。
 ダメにはならないんだろうなぁ。
 姫様にとっては。

 本質を見ろと言われても石の本質は石だと思う。
 見た目は石で本質は水だったりゴムだったりしたら大変な事になると思うし。
 じっくりと観察してみたけれど、長年使い込まれたから表面にでこぼこが少ないとか、そう言われればほんのりと漬物の匂いが香ってくるとか、そういう有り触れた事にしか気がつかなかった。

「し、師匠~」

 結局、黙って推移を見守っていた師匠に泣きついた。
 答えに窮した視線を向ける私に、師匠は手を顎に添えた。

「標ですね」

「そうよ」

 迷う事無く答えた師匠に、姫様はようやく満足げに頷いた。

「標って……道標の事ですか?」

「八点よ」

「……採点するのやめて下さいよぉ」

 しかも一桁だし。
 私の控えめな苦情を、姫様はさっぱりと黙殺した。

「もう少し大きい意味で捉えなさい。標とはどこどこへ向かえばいいと書かれているだけではないわ。なにがどこにあるかを、不特定多数の者に知らせる物。あるいは一部の者にしか意味を悟らせないもの。置いた者にとってのみ意味を持つ物。つまり」

 姫様は小脇の石をぺしんと叩いて、それがなんなのか具体的な説明を口にする。

「墓石よ」

「墓石?」

 それがなんなのか、私でも意味なんて判っている。
 死者を示すもの。
 寿命を迎え、あるいは何らかの理由で命を絶たれた者たちが眠っている場所を示すもの。
 墓標だ。

「下郎の墓よ」

 ……え?

 私は思わず顔を上げて姫様をまじまじと見つめていた。
 姫様は元漬物石だったその墓石を袖で拭うように撫でていた。

「墓といってもこの下に骸や遺骨が埋められているわけでもない。形だけの墓標。知らぬものが見ればただの石でしかないでしょうね」

 その石に向けられた眼差しは、昔日を思い返して懐かしむようでもあり、深い色合いの瞳からは様々な感情が込められているように見えた。
 姫様があの人に対してどんな感情を抱いたのか、私には測ることでしか知りえないことだ。

「けれど、私たちにとってこの石はあの下郎が存在した証であり、ただの石では片付けられないもの。私たちの過去と記憶、そして重ねた日々が集い宿る標よ」

 姫様の言う通り、あの人の亡骸が埋められているわけではない形だけの墓標に過ぎない。
 けど、これは確かにあの人のお墓。
 今まで記憶に残っていただけでしかなかったあの人の面影が、今確かな形を得て私たちの目の前にある。
 私は今まで忙しさにかまけてばかりだったのに、姫様はあの人を形だけとはいえ明確にしてしまった。

 でも疑問は残る。
 姫様があの人の事を覚えていたという事もそうだけど、それ以上に。

「あの、ひ、姫様?」

「なに?」

「姫様は、ご主――あの人を、弔うんですか?」

 墓を設けるとはそういう事になる。
 姫様はあの人と和解もしていなければ許していないと思っていた。
 だから私はあの人のことを思い出しても口にする事は出来なかったし、それを周囲に問う事も出来なかった。
 何せ、永遠亭の主人たる蓬莱山輝夜その人を虜にしようとしていたのだから。
 目に見えて反目していたし、あの人がどんな感情を向けていたとしても姫様には届いていないように思えていた。

「私とて、死者に鞭を打つほど非情ではないわよ」

 私の疑問に姫様はあっさりと答えた。

「誰かを許すために最も必要となるものはなんなのか、良く考えてみなさい」

 誰かを許す為に必要なもの。
 姫様が、あの人を許すこととなったその理由。
 私には判らない。
 私は今もきっと、あの人の事を許せていない。
 喧嘩したまま仲直りは出来ずに別れてしまったから。
 あの人との想い出は悲しくて、辛くて、恨みも抱いている。
 どうしてもっと踏み込んできてくれなかったのか。
 相談してくれなかったのか。
 理由を説明して、多分そうなれば私は迷ったり悩んだりしただろうけど、もしかすると違う結果があったのかもしれない。
 そんな未練がしこりとなって削ぎ落とせずにいた。

 答えられずに口を噤んでしまう私に、姫様は初めて目にする優しい笑みを浮かべた。

「それは時間よ」

「時間……ですか」

「考えるまでもないことだったのよ。私が蓬莱の薬を舐めて得たのは、不死の肉体でも不老の美貌でもない。全てを許容する器よ。私はこの世の全てを許せる時間を得たのよ」

 姫様は私に向けていた優しい微笑をそのままに、墓標にも示す。
 墓標を撫でる袖は労わるように優しく、見間違えるばかりの慈愛に満ちていた。

「だから許す。私の敵対者として存在した事、かどわかした事、私と関わった一人の男に問われる罪科の何もかもを、許して弔うわ」

 それは、それこそが、姫様の誇りなのだろう。
 蓬莱人として、それ以前に月の姫として生まれた者が今日まで積み重ねた矜持。
 それはむやみに振りかざすものだけはなく、厳かに広がる大海そのもの。
 私では辿りつけない境地に、姫様はこの小柄な身体のままでしっかりと立ち続けていた。

「永琳、聞いたわね?」

「はい。しかと耳にしました」

 師匠が恭しく頭を垂れ、姫様は続いて私たちを見た。

「月より地上へと逃れた迷い玉兎、レイセン」

「は、はいっ」

 黒い瞳に真っ直ぐと見つめられ、私の名が読み上げられた。
 ひょっとしたら初めて名前を呼ばれたのではないかという驚きと、その威厳漂う物腰に圧倒されながらも、私の背筋がぴんと伸びた。

「地上に侍る兎たちの長、因幡てゐ」

「――はい」

「今後もよしなに取り計らってたも」

「は、はい! 精勤に努めます!」

「って、鈴仙も言ってます」

 がちがちにしゃちほこばって緊張する私の隣で、てゐが意地の悪い笑みを浮かべて指差した。
 姫様は口元を袖で覆うと、ころころと鈴の音のような上品な笑い声を洩らした。

 私は気がついた。
 姫様はただあの人一人を許した訳じゃない。
 私まで許されている。
 あの人に与した事、姫様への仕打ち、投げつけた言葉、その全てを許してしまったんだ。

 寒くもないのに身体が震えた。
 感動で打ち震えたのだと思う。
 私は、なんて途方もない方に仕えているんだろう。

 月から離れなければ一生会う事もなかったかもしれないこの方に、私は出会っていたのだ。

 お仕えしよう。
 精一杯。
 姫様が示してくれたこの墓標に通おう。
 今はまだ許せないあの人を、いつか許せるようになるまで。
 あの人は最後の最後まで自分を許す事が出来なかったから、私があの人を許そう。

 それが、愛していると思い続けた私が出来る、あの人への手向けだと思うから。

 竹林をなびかせる風にとても清涼な香りが乗せられた気がする。
 それは私の心に巣食っている黒い何かを引き剥がしていくような、春を告げる一陣の強風のように感じられた。

「でも姫様ー、あいつって相当未練がましいから化けて出てくるかもしれませんよ? もしもひょっこりあいつが出てきたりとかしても、よきに計らえで済ますんですかぁ?」

「決まっているでしょう? それはそれ、これはこれ。目の前に出てきたなら話は別よ。まずは生まれてきたことを後悔するまで苦しめて、化けて出たこと自体がそもそもの誤りだったと思い直すまで地獄巡りをさせてやるわ」

 この風がさらっていったのは私の未練や心残りで――

「姫様、不老不死なんだからあの世とは相性悪くないですか?」

「地獄があの世にあるのなら、この世の地獄を見せましょう。ないのなら作ればいいのよ」

 私はかくも大きな方にお仕え出来て嬉し――

「もし彼が私たちの前に立つなら、覚悟をしないといけないのは私たちの方ですが?」

「永琳、どういうことよ?」

「彼が化けて出るという事は――まず彼岸で死神と閻魔を誑かし裁決を捻じ曲げ、送られた冥界で亡霊を唆し、その繋がりを持って隙間妖怪を篭絡し、最後に博麗の巫女を虜にする。目的が復讐なら、最低でもその程度は集めてやってくる事でしょう」

「……」

「あら大変。勝ち目が思い浮かばないわ」

「え、永琳! 助けて永琳! 匙投げないで永琳!」

「姫様、お師匠様、今までお世話になりました」

「真っ先に裏切り者が!? ここは主人の為に身を呈して盾になるか、もしくは地獄の果てまでお供するところよ!」

「姫様死なないじゃないですか」

「死ななくても痛いものは痛いのよ! かかる苦難は人数分、幸せは姫様に献上するのが正しいあり方でしょう!? やだやだー! 見捨てるのやだー!」

 ……。

 先ほどの威厳はどこへやら、すっかりいつもの姫様に戻ってしまっていた。
 およそ考えうる中で最悪の手段(子供のように地面に転がって駄々をこねる)をとっている姫様の姿に、私は特大のため息を吐き出した。

 月に、帰ろうかな。

 かなり本気で悩んだりした。
 かなり――いや、凄く見苦しい感じにじたばたと暴れる姫様を、師匠が宥める。

「姫様、ご安心を。私たちの役目とは、その状況を生み出さない事にあります。次善の策ならば幾らでも」

「……そ、そうね。その通りよ永琳! さすがよ! 私は全くもって疑っていなかったけれど!」

「姫様、お師匠様、今後も末永いお付き合いでお願いしまーす」

「因幡ぁー! 許す前にちょっと私のプロレスごっこに付き合いなさぁい!」

「慎んでご遠慮しまーす」

 さっさと逃げ出したてゐの後ろ姿を、姫様が長い裾を引きずって追いかけていく。
 飛べばいいのにと思わなくもなかったけど、まだあの場所で暮らしていた事の影響が残っているんだろうなと思った。
 色んな物を見て、音楽を聞いて、催し物を楽しむ時は、いつもこの脚で歩いていたから。

「あ、姫様ストップ」

「かつて都の大路を駆け抜けた暴走牛車とは私のことよ! その私が待てといわれて待つだろうか。いや待たなうおおおおっ!」

「落とし穴があるからストップって言ったんですけど。幸せ兎の言うことは聞いておくものですよ、ひ・め・さ・ま♪」

「……暗いわぁ――わぁ――わぁ――」

「あら、エコー」

「……はぁ」

 私はため息をつくのが多い方だと思うけど、これからもきっと直らないだろう。
 なんとなくそんな予感がした。
 ため息をつきながら、不安になったり不満を持ったり怒ったり泣いたり笑ったりして、これからも日常を過ごしていく。
 この大切な日常を守る為に、出来る事を精一杯こなしながら。
 あの人が羨むような日々を暮らしていこう。
 でないと、あの人はずっと化けて出てこないだろうから。

 会えないと判っていても、会えたらいいなと思うくらいは許してもらおう。
 だって、私はとっても未練がましいんだから。

 ため息をついてばかりだったはずなのに、いつの間にか私の口元は綻んでいた。
 頬を緩めていると、私の耳にからからと竹が擦れあう音が聞こえてきた。

「……鳴子の音?」

「あー、どこかの間抜けが私の落とし穴に引っかかったみたい。吠え面見にいこっと♪」

 いつもの悪戯のようだ。
 私は笑みに苦味が走るのを感じながら、スキップしていくてゐについていく。

「師匠、侵入者かもしれないので私も様子を見てきます」

「ええ。任せたわウドンゲ」

 師匠の微笑みに見送られて、私はてゐの背中を追いかけた。
 背後で姫様が怒鳴っている。
 てゐが振り返って舌を出す。
 師匠が宥めている。
 私は駆け足で竹林を進む。
 この二本の足で、どこまでも駆けられる気がした。

 私の幻想に過ぎなかった想い出は、こうして日常へと息づいた。









― eraudon『永遠編』 END ―




























































「くそっ」

 目を開けると同時に俺は悪態を吐き出した。

 またか。
 まただよ。
 嫌な世の中だぜ、ほんと。

 がりがりと寝癖のついた頭を掻きながら、俺は身体を起こして辺りを見回した。
 ながーい廊下と左右に並ぶドア。
 どこにでもありそうな、時代遅れのホテルフロアそのままな景色。
 左右対称に五枚ずつのドアに加えて、俺がもたれる一枚を加えて一一室。
 変わり映えがなさ過ぎて、脳みそまで黴ちまいそうだ。

「最っ悪だな」

 その場にぺっと唾を吐き捨てる。
 俺の口の中はいたって正常。
 血の塊を吐き出すこともなけりゃ、唾に赤いものが混じってたりもしない。
 俺の五体はきわめて良好。
 どこも欠けちゃいないし、足りなくもないし、後ろのドアに磔にされてたりもするはずがない。
 いつも通り。
 まっさらな俺の身体だ。

 身体にどこも異常はないが、精神的にはすこぶる絶不調。
 両脚を床に投げ出したまま、ぼんやりと天井なんぞを見上げてみる。
 とっくに見飽きちゃいたが、視ているものは別のものだ。
 記憶をざっと振り返ってる。

「……ひっ」

 咽喉が震えた。

「ひひ。愛は祈りか。ひ! 誰も傷つけない愛情か。けっ、笑えるぜ」

 感情を持った生きもんが、自分の抱えたもんをぶっ放さないで生きてどうするってんだ。
 随分とまたくだらねぇ結論に行き着いたもんだ。
 我が事ながら、人生を振り返ると笑えてくる。

 けれども残念無念。
 憎まれっ子はしぶとく世にはばかって無敵なのさ。

 あんなものはただの茶番で、茶番ってのはエンターテイメント。
 浪費する為にあるもんだ。
 俺はああいう生き方は全く以ってごめんなんだが、たまには善人面してみるのも悪くない。
 悪人面を通して悪党のままに生きて惨めにくたばるってのは、なんていうか、その。
 飽きた。

 俺は全く狭量で、誰かの不幸話なんて大好物なんだけども、そんな俺だからこそ自分の不幸な結末だって食い物に出来た。

 安っぽいドラマ展開であっても、演じてみると全く別物に見えるし感じ方も変わってくる。
 味も匂いも音も感触も感情も、何もかも全て揃ったバーチャルリアリティ。
 娯楽で、ゲームで、暇潰しだ。
 確かに願った幸福の形も、愛情も、俺にとっちゃ全部まとめてただの消費物だ。
 人生ほど楽しい暇潰しなんて他にはありゃしないさ。

「題して、愛に殺された糞野郎」

 主演、俺。
 脚本、俺。
 観客、俺。
 一人舞台無事完結、ってな。

 かくして前任はお役ご免で後任の俺登場。
 真っ白で狭っ苦しいキャンバスを自分好みに好き勝手塗りたくる訳だ。
 やってらんねぇ。
 そろそろ死んだら死んだままでいたいんだが、生憎そうは問屋が卸さない。
 ボスに出会っちまったのが運の尽きで、無限に続くこの日常に溺れないよう、必死に足掻いて苦しい呼吸をするしか術がなかった。

 狂ってないと生き切れない。
 正気でないと死に切れない。

 レイセン、てゐ、永琳、輝夜。
 それとついでに、いるはずのない、いたかもしれない俺の娘へ。
 ばいばい、さよなら、また明日。

 けれども俺にはその明日ってもんがやってこない。
 いつまでもここでぐるぐると回り続ける。
 だったらせめて、楽しく過ごそうってのが人情ですよ。
 飽きがこないよう、出来るだけ先延ばしに回りくどく。

「はぁーあ」

 夢中で没頭した遊びも、終わっちまえば虚しいもんだ。
 やっと終わったっていう達成感も、もう終わるのかって寂寥感も、全部まとめてリセットで一発。
 この世に神も仏もいやしない。

 柄にもなく無常感なんぞにひたってると、いつの間にいたのか俺のすぐ側にあいつが立っていた。
 ずんぐりむっくりとした餓鬼のようなちっちゃいおっさんのような、見慣れた奇妙なチビ助。
 俺は大仰に手を叩いて儀式を始める。

「よぉ! 景気はどうだい?」

「減った」

「そいつぁ世知辛いな。大変バッド。悪徳家業も不景気の荒波に揉まれてって奴か?」

「そう」

 けらけらと笑う俺に七色の声音で答えるあいつ。
 当の昔に名前なんざ判ってる訳だが、俺にとっちゃ必要な事だ。

「よっしゃ、ならここは不景気をふっ飛ばす景気づけが必要だな。よーし、いつものあれやろうぜ。いいな。いいよな? うんいいとも。さすがだぜ」

 どんな映画でもゲームでもプロローグってもんがある。
 それをすっ飛ばしちまっても始められるが、それはそれで味気ない。

「よし、お前はたった今から鵺だ。鵺な。鵺だぜ鵺。かっくいー!」

「鵺」

 ばしばしと鵺の肩を叩いてやる。
 俺と同じように殺されたはずの鵺は、死んだ事なんてすっかり忘れて、甲高い餓鬼の声で嬉しそうに繰り返した。

 名前は重要だ。
 在ると無しとでは大きく違ってくる。
 ここできっちり呪いをかけて括って置いてやらねぇと、あっという間に俺みたいに狂っちまう。

「これで普段の生活にも張りが出るってもんだな」

「うん」

「そんじゃ、こっちも早速お仕事と行きますか。ほれ、出して寄越せ」

 鵺が懐から二枚の紙切れを取り出し、俺はそいつをひったくった。

 お仕事に使うグッズと、お名前と、そのお値段が、いくらか項目が目減りしてつらつらと書かれている。
 ぺらりと捲った最後尾には、俺の所持金もしっかり記載されていた。

「おほ。頑張った俺に御褒美。ちょいと小金持ちだぜイェーイ」

「ニェーイ」

 軽くハイタッチなんぞしてみてテンションを上げていく。
 楽しむにはまず形からだ。
 馬鹿な真似は決してすまいと気取って冷ややかに眺めてるよりも、馬鹿になって踊ってる方がずっと楽しいもんだ。

「商売の前にまずは前祝いと行こうぜ? うちで食ってけよ。うんいいよ。OK。決まり。何食いてぇ?」

「オムライス!」

「ハンバーグにしようぜー」

「オムライス!」

「ちぇっ。わーったよ。だったらデザートもつけてやる。どうするよ! デザートがつくんだぜ!?」

「抹茶餡求肥巻き」

「おまっ。渋いな! ちなみにそれは生八橋って言うんだぜ?」

「……なまやつはし!」

「賢くなったな! 良かったな! じゃあ飯にするか」

 俺は立ち上がると鵺の肩をがっちり掴んで、つらつらと左右対称のドアが並ぶ廊下を歩いた。
 俺はくさくさとした気分で、鵺はひょこひょこと、二人で清潔感溢れる(味気ないにも程がある)広間へ向かった。

 まだまだ俺の楽しみは続く。
 まだまだ俺のハッピーは続く。
 まだまだ誰かが不幸になる。
 そんな日々が続いていく。
 張り切っていきましょう!



 誰か、俺を殺してくれないかしらん?
ここまでeraudonにお付き合い頂きありがとうございました。
鈴仙の愛が世界を救うと信じて。
紺菜
コメント




1.名前が無い程度の能力削除
ろくな死に方をしないだろうと思ってはいましたがいざ終わりを迎えると何か物悲しいものがありますね

後日談も首を長くしてお待ちしています
2.名前が無い程度の能力削除
結局badか
まあ仕方ないことだろうがどうにも最後の方に違和感ががが
いやとりあえず乙


後日談に期待するほかないな
3.名前が無い程度の能力削除
ああ、ついに終わりか……
予想してたとはいえ、この展開はキツいなあ
後日談も楽しみにしてます
4.名前が無い程度の能力削除
何という喜劇。
視点が変わると悲劇に変わるのだろうか。
後日談をお待ちしております。
5.名前が無い程度の能力削除
これで終わり・・・?
でも最後に違和感を感じるし・・・

後日談に期待が高まるなぁ
6.名前が無い程度の能力削除
罪を被った形になるんですね。えーりんはどうおもってるんでしょう?

前任者についてはまだ解決してない様に思うんですが、後日談で明かされるんでしょうか。
7.名前が無い程度の能力削除
小悪党は小悪党らしく死ぬのが美学か
とにもかくにも乙
8.名前が無い程度の能力削除
何か考えさせられるような終わり方だな、乙。
9.名前が無い程度の能力削除
BADEND・・・か
椛とは正反対だったな~
れいせ、いや因幡怖いよ~ガクブル
10.名前が無い程度の能力削除
紺菜さんのera世界はまだまだ奥が深いぜ・・・
エピローグを待たざるを得ない
11.名前が無い程度の能力削除
こいつは果たしてどこまでが本当かわからんなー
世界観が凄すぎて魅入りました、乙!
エピローグも楽しみ!
12.名前が無い程度の能力削除
待って待って待って!乙だけど、乙なんですけど、だけど!?
背筋が凍りっぱなしでした。ネチョなのに。後日談に超期待。
13.名前が無い程度の能力削除
覚えてる範囲で一箇所、回収されていない重要な複線があるな…
後日談はどうなるか。このシリーズ通して次にどう転ぶか全く想像が付かなくて楽しみです
14.名前が無い程度の能力削除
解せぬ。何かいろいろと解せぬ…!
後日談で腑に落ちたり余計にこんがらかったりするのが楽しみですわー
15.名前が無い程度の能力削除
おおっと、23が付け足されている
結局赤さん逝っちゃったか・・・
そうなるかなとは思っていたが・・・
16.名前が無い程度の能力削除
愛故に、か・・・。
誰かしらに何かしらの救いはあったんだと信じる。

さて、もう一周してくるか。
17.名前が無い程度の能力削除
とりあえずお疲れ様でした。
1話からいつ赤野郎が死ぬか死ぬかと思ってたけど、
予想以上の終わり方でしたね。
むしろ無敵に思えた鵺が、あっさり殺されたのに驚きだった。
18.名前が無い程度の能力削除
何でオカズを探しに来て号泣せにゃいかんのですか。
ありがとうございます。
19.名前が無い程度の能力削除
赤さん……ウッ……

全ては永琳の手のひらの上だったのか…永琳恐るべし。
20.名前が無い程度の能力削除
凄まじいですね…。所で、これは、23が後日談なんでしょうか?
21.名前が無い程度の能力削除
壮大な物語でした。
なんて感想を言っていいのかわからないくらい面白かったです。言葉が見つかりません。
この世界観が大好きです
22.名前が無い程度の能力削除
赤さんは滅びぬ、何度でも(ry
爽やかで最低で愉快な赤さんがどんどん好きになっていく。
でも掘られるのは勘弁な。
23.名前が無い程度の能力削除
最高でした
描かれる事は無いのでしょうし、そんな事があるのかもわかりませんが
何代も後の赤さんと改めて出会った永遠亭組の事を考えると少し切なくなりますね…
24.名前が無い程度の能力削除
我はここに真のカリスマを体現したる『姫』を見たり・・・!!>(罪)
はたしてこのera世界の正体がわかる日はやってくるのか?
我々は登り始めたばかりなのだ、この長いera峠を・・・!!
25.名前が無い程度の能力削除
赤さんの物語もこれで完結・・・か、読み返す度に要素が追加されてて、ほほーとなりましたが


別のカタチで不老不死な輝夜、えーりん、赤さん、鵺に救いはあるのだろうか・・・鈴仙の愛が世界を救うと信じて!