真・東方夜伽話

eraudon21

2010/10/08 20:41:33
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eraudon21

紺菜

 








 一体、今からなにが始まるの?

 目が覚めてから私の頭の中を漂う疑問は答えらしきものを掠めることすらなく、いまだ堂々巡りを続けていた。

 前の席から身を乗り出したイナバが、眉間に皺を寄せて目を凝らし、扇状に広がった札の上を左右している。
 勿論、彼女に札の内容は見通せていない。

「……これ」

「ふふーん、残念♪」

 カードを一枚引き抜いた途端、因幡は勝ち誇った笑みを浮かべて広げていた手札を畳んで引っ込めた。
 イナバは手元に残った札に苦り切った表情を浮かべ、皺が消えることはなかった。
 手札に加えて念入りに切り出す。

「どうぞ」

「これ」

 因幡と同じく扇状に開いた手札を見えないように小人に差し出し、ずんぐりとした顔も良く判らない奇妙なそれは呆気なく一枚抜き取った。
 小人は手札を整理して、同じ数のものを二枚場に捨てた。
 イナバの表情は苦り切っていた。

「どうぞ」

 今度は小人が私に差し出してくる番。
 さっきまでは私の隣にいた永琳が小人から手札を引いていたが、一足早く上がっていた。
 見ているだけで暑苦しいほど着込んだ小人から、私は手札を一枚抜いた。

 クラブの7。
 私は手札の中にあった同数のダイヤと一緒に場に捨てた。

「この様子だと、次に上がるのは輝夜になりそうね」

 残った二枚の手札を見て、余裕の表情で見守っていた永琳がくすくすと笑う。

「まだ判らないですよーお師匠様。なんたって、私は幸運を呼ぶ兎ですからねー」

「そ、そうです。勝負は終わってみるまで判りません」

「わからない」

 余裕綽綽であったり威勢を張ったり余り意図の感じられないそれぞれの声を聞きながら、私は二枚にまで減った手札を繰り返し切り続ける。
 幾つか異物こそ混じっていたものの、それは私が知っているかつての日常を思わせる、なんでもない光景に映っていた。

 なんなの、これは。

 トランプとかいう札を用いたゲームに興じている間も、私の胸に生まれたこの違和感が拭い去られることはなかった。



 始まりは唐突だった。

「姫様、姫様! 朝ですよ!」

 眠っていた私の耳にイナバの声が飛び込んできた。

「朝です、朝ですよ! 起きて下さい姫様!」

「う、うぅん」

 唸り声を上げて毛布の中にもぞもぞと頭を引っ込める私に、イナバは問答無用とばかりに毛布を剥ぎ取り、未だに半分以上まどろんでいた私を浴室まで引っ張り出した。

「歯を磨いて、顔を洗って、身支度を整えてくださいね。寝過ごす所ですよ!」

「むぐぅ~」

 いつになく積極的なイナバの勢いに圧倒された――というわけではなく、単に眠くて私は言われるがままに身支度を整えた。
 冷たい水で顔を洗って、用意された手拭いで顔を拭いているうちに、ようやくイナバの態度がおかしいことに気がついた。

「どうかしたのよ。私の部屋まで起こしに来るなんて」

 そんなことは一度もなかった。
 朝食を届けに来ることは数回あったけれど、私がまだ寝ている時点で部屋に入ってきたりすることはなかった。
 らしからぬ遠慮のない態度も含めて訝しく眺めていると、イナバはきょとんと不思議そうに目を丸くした。

「姫様。ご主人様から聞いてないんですか?」

 イナバがあの男を主人と仰いでいることくらい知っている。
 そしてイナバが心酔しているあの男は、不気味なことにあの一件から私の前に姿を見せていなかった。
 あの後部屋に訪れたのは永琳で、報復もなく今に至っている。
 相変わらず部屋のドアには鍵がかけられたままだったし、永琳たちの態度も変わらなかったので死んだとは思い難かった。

 それを訊くのも怖かった。
 私自身理由のわからない殺意(溜め込んでいたものがふとした拍子に吹き出したのだと今は思っている)に駆られたこともあったし、私がしたことに永琳たちがどういう反応を見せるかわからないというのもあった。
 決定的な亀裂が走るのではないかという恐怖感と共に、ほぼ丸一日まんじりともしない時間を過ごした。
 イナバが見せる妙な態度は、ひょっとしてあの男の意趣返しに加担しているのではないかという不信感に結びついた。

「……なにをよ」

 手拭いを返して心持ち距離をとる。
 そんな私に気がついた様子もなく、イナバはにっこりと笑った。

「今日は皆でお出かけなんです」

 イナバの言葉は、私の疑念をこじらせるに足る内容だった。



 そして私は今、外にいる。
 外と言っても奇妙な車の中だ。
 牛が引くでもないのに走り出す大きな箱型の乗り物で、幻想郷の外はこれほど科学が発達しているのかと不覚にも感心してしまった。
 二人ずつ並び、最後尾から私と永琳、因幡と小人、イナバとあの男という配置で、この車を走らせているのがあの男だった。

 私はちらりと視線を向ける。
 座席の背もたれから黒髪と後頭部の一部だけが見える。
 車の手綱(ハンドルとかいうもの)を握っているためトランプには参加せず、じゃかじゃかと鳴り出す陽気な音楽に合わせて口笛を吹いていた。

 あの男が一体なにを考えているのかわからない。
 イナバに連れ出されて、初めて目にした広間で男はおにぎりを握っていた。
 すでにイナバも永琳も姿を見せていて、大皿に並べられたおにぎりを食べたり海苔を巻いていたりした。

『起きてきたな。さあ、揃ったとこで腹ごしらえだ。しっかり食っとけよ』

 男は私が刺したことをなじるでもなく、何かを企んでいるような含みもなく、手についた米粒を口で摘みながらおにぎりを勧めてきた。
 部屋から出した意図も、外出する理由も判らないまま、私は空腹を覚えて目の前のおにぎりを頬張った。

 この男は一体なにを考えているの?

 一日捨て置かれていたことも含めて、私はすっかり疑心暗鬼に陥っていた。

「ひーめーさーま」

「え?」

 視界いっぱいに因幡の顔が埋め尽くす。
 背もたれに前のめりになって、私の顔を覗きこんでいた。

「もう充分切ったでしょ? 早く引かせてくださいよー」

「え、ええ」

 考え事に没頭していた私は、二枚だけ残った手札を慌てて差し出した。
 数字と絵柄が描かれた札を裏から見つめて、因幡がひょいと一枚抜き取る。

「ふふん。揃い、っと。これで私が先に上がりね」

 因幡が場に手札を捨てて、手持ちは一枚。
 イナバが引けばその時点で上がりだ。

「……条件は同じはずなのに」

「残念♪ 私ってば素の運も良いの」

 肩を落とすイナバに、得意げに笑って因幡が抜けた。

 そんな一場面。
 私が部屋の中でこの理不尽な扱いに怒り、恐々としている間もこんなやりとりが交わされていたんだろうか。
 仕草や態度に無理矢理隷属させられ、抑圧されているような緊迫感も鬱屈もなく、和気藹々とゲームを楽しんでいた。
 ひょっとしたら、永遠亭で暮らしていたときよりも和やかなのではと思えるくらいに。

 彼女らの振る舞いに不自然さを感じないのは、男が口出ししないためなのか。
 因幡が座席に戻り、再び陽気に口笛を吹いている男の後頭部が覗いた。
 私はそれを盗み見るようにじっと見つめていた。

 男の目的はなんなのか。
 好きにさせているのは、この男の意志に沿っているからだろう。
 楽しげに遊ぶことが男の意志?
 まさか。
 悪辣で外道で狂気的。
 裏で一体なにを考えているのか。
 新たな疑問が加わって、私はますます疑心暗鬼に陥るばかりだ。

 男の後ろ頭をじっと見つめているうちに、私の方も視線を感じた。
 きょろきょろと目だけを動かして、どこから向けられているものかを悟った。
 車の一番前の座席には、天井から小さな鏡が下がっている。
 そこに私を見つめる黒い双眸が映っていた。

「……」

 ぎっと睨み返す。
 鏡の中の目が細められ、笑ったのが判った。
 警告を伝えたときの無感情さも、軽薄で好色ないやらしさも、狂気に似た敵意も感じさせない。
 目だけで軽く笑い返して、視線を前方へ戻していた。

 この男は一体なにを考えて、私たちを連れ出すような真似をしたのか。
 その疑問がずっと頭の片隅にこびりついていた。

「どうぞ」

 私の思考が遮られる。
 私の前に札を差し出す小人の声で、これも私の疑問一つだった。

 初めて見る相手だが、男の仲間だろうか。
 その割にはイナバたちとも馴染んでいる。
 男と比べて明らかな敵意や下心も感じさせない。
 私と同じかそれよりも背が低くて、子供のような背丈しかないのに横に膨らんだ奇妙な人物だった。
 そもそも人間ですらないのかもしれないけど。

 外は暑いというのに頭の先から指先までもこもこになるまで着込んでいて、見ているこっちの方が暑くなってくる。
 害意は感じられない喋り方は、どこか幼く感じる。
 生まれて言葉を覚え始めたばかりの赤子か、稚気の抜けない妖怪に似ている。
 後は一言喋るたびに声が全く別人に変わるくらいだろうか。
 素性の知れない奇妙な小人だった。

「……」

 じろじろと改めて小人を観察して、手札を抜いた。
 数は合わなかった。

「あといちまい」

「お、もうちっとじゃねぇか。次で抜けたら三位入賞だぞ。鵺も頑張れ」 

「うん!」

 男が口を挟むと、鵺という名の小人はドスの利いた低い声で嬉しそうに応じた。
 声がころころと変わるので態度と一致しない場合もあったが、これはそういうものなんだろうということで納得しておいた。
 小人に向けられた声援に、その隣の座席に座るイナバは不服そうに頬を膨らませた。

「……ご主人様、私は応援してくれないんですか」

「してるよ。常に心の中で頑張れ、負けるな、相手を血の海に沈めてでも出し抜け! って熱烈に応援してる」

「あの、できればもうちょっと、穏やかに応援して欲しいです……」

「はぁーあ、鈴仙ってば何も判ってないわねぇ。勝負事なんだからそれくらいの心構えもなくて勝てるわけないでしょ。ねぇ、お師匠様?」

「そうね。付け加えるなら、冷静な観察力と情報収集も必要かしら?」

「かしら」

「うぐ」

 永琳も、因幡も、鵺も、肩を落とすイナバでさえ、どこか楽しそうに見えた。

「……」

 私だけが楽しみ切れずに、のろのろと札を切っては慣れないゲームを繰り返した。

「お。見えてきたな」

 ゲームに身が入らなかったから余計に、男の呟きをすぐ聞き取れた。

 顔を上げると、窓の向こうが真っ青に染まっていた。
 空ではないと一目でわかっていたけれど、まるで空が地面を覆ったようだと思った。

 海だ。
 一目でそれだとわかった。
 川や湖などとは比べ物にならない広い海原が彼方まで続いている。
 月にある豊かの海と同じように見えて、どこか違う。
 私にとって、海とは生きものが存在しない穢れの象徴でしかなかった。

 それが何故、これほど輝いて見えるのか。

 違いなどわかる。
 日の光を浴びて反射しているだけ、などでは絶対にない。
 生命に満ち溢れているからだ。
 穢れを極端に嫌い生の不浄を拒絶し、清廉だけを求める月の都ではこの美しさを再現できない。
 自ら落とされた地上で初めて知った、清濁入り混じったどんくさい美しさだ。

 地上は美しい。
 それは定められた命が放つ、美しさでもあった。

 私が窓に張りついているように、永琳もイナバたちも鵺も海に視線を向けていた。
 言葉を失う私たちに、あいつの陽気な声が聞こえてくる。

「さぁて、目的地は目の前だ。夏といったら海。照りつける太陽、焼けた砂浜、押し寄せる波、どこまでも続く水平線。今日一日存分に海を楽しもうじゃないですか皆さん」

 なにが目的で外へ連れ出されたのかは相変わらずわからない。
 どこへ向かっているのかはわかった。

 月から見下ろすあの青さ。
 それが私の目の前に広がっていた。



xxx  xxx



 話は少し以前に遡る。
 と言ってもほんの昨日の話なんだけれど。

 ご主人様と師匠の関係を勘ぐりやきもきしていた私たちだったけれど、少し雨に濡れて戻ってきたご主人様が言った。

『明日はみんなで出かけるとしようか』 

 そんな言葉と一緒に分厚い本を手渡された。
 様々な形と模様をした水着が載っているカタログだった。

 私服選びに似たようなものを渡されていたから、どうすれば良いかすぐに判った。
 欲しいものを鵺さんに伝えておけば、どこからともなく調達してきてくれる。
 水着のカタログが渡されたという事は、水着が必要になる場所に出かけるんだろう。
 私は胸の中でわだかまっていた嫉妬も忘れて、頭の中は明日の事でいっぱいになっていた。

 自分でも現金な話だなとは思う。

 てゐはなるべく人気のない所がいいって主張していたけど、私もそれは同意した。
 出来れば人いきれの中で揉まれるのは避けたい。
 落ち着いた場所でゆったりと過ごしたい。
 何より、二人きりになれたりしたらいいなって思ったりもした。

 ま、まあ、てゐも師匠も鵺さんも姫様だって連れて行くという話だったから、以前ドレスを着て大人っぽい空気の漂うお店に連れて行ってもらった時とは違うんだろうけど。
 むしろ遊園地に連れて行ってもらった、あの時みたいな感じの場所なのかな。
 賑やかで騒々しくて、少し怖い思いもしたりしたけど、とてもロマンチックな一日を過ごせた。
 それなのに、ああ。
 お店に連れていってもらった時は、どうしてあんなにみっともない姿を見せてしまったんだろう。
 せっかく二人っきりで過ごせたのに。
 ……最後は、とても優しくしてもらえたけど。

 目的地は秘密にされたまま、どこに連れて行って貰えるのか期待に胸を膨らませていた所為か、夜になっても中々寝付けなかった。
 ついで言えば、カタログの水着選びもすごく迷った。

 これまで迷う事は多かったけど、迷う事が楽しいと思ったのは始めてだった。
 そして、私たちはご主人様の運転で――また荒っぽい運転になるのではないかと思い出して不安なったりしたけど、陽気な音楽がそうさせたのかとても安全な運転だった。
 私たちはどこに向かっていたのかが判明した。



 海。
 真っ青な海。
 砂浜を舐める潮騒。
 揺れる海面と白く泡立つ波。
 途切れる事無く続いている水平線。
 海が、私の視界いっぱいに広がっていた。

 砂浜と地面を隔てる頑丈そうな堤防から、身を乗り出してその光景に見惚れていた。

「なんだか、不思議な匂いがします」

 潮風に吹かれて、私はくんくんと鼻を動かした。
 なんと言えばいいのか、色々なものが混じり合ったような独特の香りだ。

「磯の匂いね」

 と、隣に立っていた師匠が風になびく髪を押さえていた私に教えてくれた。

「磯ですか」

「そう。地上という広大な器に収まった海という生命のスープ。その匂いよ」

「はぁ」

 私は今まで余り海には興味を持ったりしていなかった。
 月では不浄とされていたし、そういった経緯から余り近寄ったりする機会もなかった。
 私にとって、海とは無臭で寒々しくて冷たい死そのものだった気がする。
 けれど今はどうだろう。
 真っ青な空から降り注ぐ光を浴びて海面はきらきらと輝き、絶え間なく押し寄せる潮騒の音すら活き活きとしているように聞こえた。

 私が月で抱いていた印象とは、まるっきり真逆の光景だった。

「まだまだ甘いわね鈴仙。月がどうだったか知らないけど、地上の海は一筋縄じゃ行かないわよ」

 と、堤防の上によじ登ったてゐが仁王立ちになり、得意げな顔で笑っていた。
 そう言えば、この子は地上生まれの地上育ち。
 地上との縁が多い分、こちらの海についても私より詳しいのだろう。
 感嘆の余り声を失う私と違って、感慨に浸ったりもしていない様子だった。

「一筋縄じゃいかないって?」

「厄介な生き物もいるってことよ。うっかり入ったりしたら、皮を剥かれてひどい目に遭うわよ」

 そんな物騒な事を口にした。

「お、脅かさないでよ」

「本当よ。私も一度不覚を取って経験済み。海にはフカっていう尖った歯をした魚がうようよいるのよ」

 尖った歯をした魚と言われて、私はネズミのような歯をした魚を思い浮かべてみた。
 それがうようよと湧き出すように現れ、よってたかって生皮を剥がしていく。
 なんて恐ろしい生き物なんだろう。

「あんまり鈴仙怖がらすんじゃねーの」

 自らの想像に息を呑んでいると、背後から呆れたような声が聞こえた。

「こんなとこにフカなんて出ねーよ。もっと南の、あったかい場所までいかねぇとな」

 車を空き地に停めていたご主人様が、鵺さんを連れて近づいてくる。
 ご主人様は外出にあたりいつもと違う格好をしていた。
 だぼついたシャツ(アロハと言うらしい)と膝上までしか裾のない短パン。
 日差しを避ける為か大きな麦藁帽子とサングラス。
 サンダルを引っ掛けるように履いていて、なんというか、とても――

「どこに出しても恥ずかしいチンピラね」

 私が頭の隅っこでこっそりと思っていた事を、てゐがあっさりと代弁していた。

「あぁん?」

 などと低く返して、ご主人様はずらしたサングラスの奥から睨むような眼差しを覗かせる。
 態度や仕草も含めて、どうしてこれほど似合ってしまうのか。
 深く考えない事にしておこう。

 火花を散らすご主人様とてゐの間を、後からやってきた鵺さんがあっさりと横切り堤防に取りついた。

「海! 海!」

 両手を挙げてとてもはしゃいでいる。
 ご主人様もてゐも、無邪気なその態度にすっかり毒気を抜かれてしまったようだ。

「砂! 砂!」

「ん、ああ。砂だなぁ」

 ぴょこぴょこと跳ねて砂浜を指差す鵺さんに、ご主人様は苦笑いを浮かべて顎を撫でた。
 いつまでもこうしてただ眺めて過ごす訳ではなく、私たちは堤防の石段を降りて砂浜へと移動した。
 さくさくと焼けた砂を踏み、適当な場所でご主人様が足を止めて振り向いた。

「あっちに見えるのがシャワー室と、あと更衣室。俺は先に準備しとくから、鈴仙たちはあそこで着替えてきな」

 ご主人様が指を指した方角には、それらしい小屋が並んでいた。
 他にも幾つか露天のような建物があったけれど、人の姿はない。
 外はいつも人間の姿で溢れ返っていたのに、砂浜に下りても不思議なくらい人っ子一人として見当たらなかった。

 それに、準備と言っても何を準備するんだろう?
 私たちは元より、ご主人様も荷物らしい荷物もなく全員手ぶらでここまで来たのに。

「着替えろったって、なにも持ってきてないんだけど?」

 疑問を代弁するてゐに、ご主人様は不思議な行動をとった。
 ぼんやりと佇んでいた鵺さんを、後ろからぺしんとはたいた。

「くちゅん」

 はたかれた鵺さんの頭がかくんと前に傾いて、雀の鳴き声にも似たくしゃみをした。
 どさっとバッグが一つ落ちてきた。
 鵺さんの顔から。

「ん。これ着替え。中身は昨日選んだ水着一式」

 目を丸くする私たちに、ご主人様は何事もなかったように砂の上に落ちたバッグを拾って差し出してきた。
 受け取った後も、今目にした事が信じられない。
 立ち尽くす私の視界にすっと影が差した。

「水着姿が今からすげぇ楽しみ」

 囁くように言われて、私は思わず後ずさっていた。
 不意をつかれて、そのままキスされてしまいそうな程顔を近づけられていたから。
 ぱくぱくと魚のように口を開け閉めしている私に、ご主人様はへらりと人の悪い笑みを浮かべた。

 私の背後でくすくすと笑っているのは、師匠の声。

「悪戯好きね」

 師匠だけは鵺さんの顔からバッグが出てきた事にも動じていないようだった。
 奇術の域を軽く超える真似をして見せた当の鵺さんは、帽子を被り直して何事もなかったように佇んでいる。

「それじゃあお言葉に甘えて。力仕事は男の子に任せましょうか」

「ひっひっひ。期待に胸膨らまして張り切るとするかね」

 師匠に促されて、私たちは狐につままれたような気分で更衣室へと向かう。

「くちゅん」

 さくさくと土を踏み鳴らして進む内に、背後でまたあの妙に可愛らしいくしゃみが聞こえた。
 ちらりと肩越しに振り返ると、鵺さんの前に妙に長い物干し竿のような物が転がっていて、ご主人様がそれを拾い上げている最中だった。

 元々正体の良く判らない不思議な相手だったけれど、ますます良く判らなくなってしまった。
 ずっと以前、ご主人様が悪ふざけするようにお菓子の袋を鵺さんの顔に押し込んでいた事があったけれど、あれはこういう事だったんだろう。
 私にもどういう事かは判らなかったけれど、鵺さんはそういう事が出来るんだという事で納得した。

 確かに、人間というよりは妖怪寄りの見た目だったし。
 温厚――というより子供そのもののような無邪気な性格だから、怖いという感覚はやっぱりなかった。

「ふふん。期待を上回らせて目ぇひん剥かせてやる」

「勢いの余り、彼の心臓を止めてしまわない程度にね」

 意地悪く笑うてゐに、合いの手を入れる師匠も楽しげだ。
 私も、二人がどんな水着を選んだのかまでは知らないので気になる。
 でも一番気になるのは、ご主人様の反応だった。

 目的地に着いて早々驚いてばかりだけど、ここでご主人様を驚かせないと。
 昨日、カタログに並んだ水着とにらめっこをして、散々頭を悩ませて選んだんだ。
 ちょっぴり冒険もした。
 楽しみにして貰っているなら、驚いてくれるといいな。

 そんな期待と少しばかりの緊張。
 砂を踏む足取りが自然と軽くなっていた。

 そんな私たちの後から少し離れて、姫様が不機嫌そうに歩いていた。



xxx  xxx



 ざくざくざく。

 穴を掘っている。

 ざくざくざく。

 深い縦穴。

 ざくざくざく。

 穴を掘っているとふと思う。

 ざくざくざく。

 埋まるならここがちょうど良い。

 ざくざくざく。

 俺は穴を掘っている。

 ざくざくざく。

 自分が入る墓穴を掘っている。






「ねえ」

 集中が途切れた。
 というよりも、今の今まで頭の中だけ全く別の世界に飛んでいた。
 気がつきゃ砂浜に脚まですっぽり収まる穴を掘っていた。

 顔を上げて、炎天下の肉体労働ですっかり汗が滴る顎先を撫でる。
 呼びかけてきたのは鵺だ。
 さっき吐き出したクーラーボックスにちょこんと座って、無貌を俺に向けていた。

 かさばる荷物は全部鵺任せにしておいた。
 幾ら家族も安心して乗れるミドルクラスバンのアイシスだろうと、俺を合わせて六人もいるとかなり手狭になっちまう。
 移動は疲れる上に、車酔いでもされると堪らんので出来る限り楽にしたかった。

 ビーチパラソルに人数分のチェア、シートに中身満載のクーラーボックス。
 浮き輪も含めた遊び道具各種。
 タオルだの日焼け止めだのこまごまとした物も必要になるし、それなりにでかい物も要る。
 いざ海水浴ともなりゃ、自然と大荷物になっちまうのである。
 全部まとめて座席一つ分で片がつくならそれに越した事はなかった。

 おかげで鵺がどういうもんなのか知られちまった訳だが、そいつは考慮の上だった。

「まだほるの?」

「もう掘らねーよ」

 俺は握っていたシャベル(これも鵺に用意させた備品だ)を砂浜に突き刺し、穴の中から這い出る。
 パラソルを固定するだけだってのに、随分無駄に掘り下げちまったもんだ。

 レイセンたちはまだ戻ってこない。
 女の身支度ってのはとかく時間がかかるもんなんで気にしない。
 穴掘りに夢中になってるとこを見られたりして、言い訳を考える手間暇がかからない分ありがたい。
 おつむの心配をされるのはこっちも精神衛生上よろしくない。
 ともあれ、パラソルをおっ立てる下準備はこれで良しだ。
 
「ビールくれ」

 先に労働の対価を求める事にした。
 というか一応帽子も被っておいたけども、炎天下の中穴掘りにいそしんでてよくもまあぶっ倒れなかったもんだ。
 汗を流し過ぎて咽喉がひりつくほど渇いていたんで、ひとまず水分補給から。

「はい」

 手渡されたアルミ缶を受け取って、プルタブに指をかける前に手元と鵺を見比べた。

「ノンアルコールじゃねーの。これは清涼飲料水の類であって、ビールじゃねぇよ」

 ビールテイストだってきっちり明記されている部分を指差し説明した。
 発泡酒くらいならまだいけるが、ここまできたらはっきり言ってコーラの方がマシだ。
 同じノンアルコールなら、いっそホッピーでもくれよ。

 が、俺の訴えにボックスの上に座った鵺は頑として首を横に振った。

「だめ」

「なんでよ?」

「よっぱらうから」

「少しくらい酔わせろよ」

「はくからだめ」

「さいですか」

 ご覧の通りだ。
 頑固っつーかなんつーかね。
 結局アルコールの匂いが苦手ってだけなんだろうよ。

 こっちがごねた所で、鵺が首を縦に振ったりするのは有り得ない事くらい知っている。
 その程度は付き合いも長い。
 ここは素直にノンアルコールで我慢するとしよう。
 炭酸の抜けるプシって小気味良い音の後、五〇〇ml缶の中身をぐびぐびと遠慮なく呷った。

「ぐぇっぷ。案外良く出来てるじゃねぇの。気分を味わうにゃちょうどいいな」

 半分ほどを一気飲みして、溜まった炭酸をげっぷで吐き出し濡れた口元を拭った。
 咽喉が渇いてたからってのもあるだろうが、ちと過小評価してたかも知らん。

「飲むか?」

「鵺のぶんあるからいらない」

 と、鵺はひょこりとボックスから降りると、中から氷水で存分冷やした瓶を一つ抜き取った。
 誇らしげに見せ付けてくるそのラベルを一目見て、俺は思いっきり肩を落とした。

「子供のビールじゃねぇか……」

「しゅわしゅわ。鵺、おとな」

 炭酸が飲めるって辺りが境界線らしい。

「あけて」

 が、栓は空けれねぇらしい。
 キンキンに冷えたビンを受け取って、俺はビンの底を砂浜で叩いた。
 中からの圧力でぽんと栓が抜けた。

「ほらよ」

「すごい、すごい!」

 ちょっとした裏技だが、意外とウケた。
 俺は苦笑い浮かべて残ったノンアルコールを飲み干して、再び設営に戻った。

 見渡す限り人っ子一人見当たらないプライベートビーチ。
 あらかじめボスに融通をつけて貰う約束だったんで、鬱陶しい外野は一切なしだ。
 逆に言えばパラソルやらチェアやらこっちが持ち込まねぇと、だだっ広いだけの砂浜。
 俺がしっかり整えないと気分が出ねぇ。

 開いたパラソルの支柱を穴に突き立て、掘り返した分せっせと埋めて固定する。
 まっさらな砂浜に二本のパラソルを立てて、人数分のチェアを用意し終えた。
 シートの四隅は荷物を置いて重り代わりにする。
 おかげで随分海水浴の雰囲気が出てきた。

「お疲れ様」

 近づいてくる足音と一緒に背後から声がかけられる。
 お仕事の最中、できる限り更衣室側に背中を向けていたのはこの瞬間の為だ。
 なんせ水着姿である。
 直前のぎりぎりまで我慢してから拝んだ方が、ありがたみも増すってもんだ。

 永琳の労いの言葉から一拍間を置いて、俺は背後を振り返った。

 こうきたか。

 数歩離れた所に永琳が立っている。
 勿論水着姿で。
 永琳は外出した時に自分で水着を選んでいたんで、俺もどんな感じなのかは一目見ている。
 が、服にしろ水着にしろ、身につける物ってのは中身が伴うと全く印象が異なるのである。

 青のワンピースタイプだが、布面積はかなり大胆だ。
 脇腹には縦にスリットが、臍の辺りなんてぱっくり開いて挑発的。
 身体のラインがはっきりと見て取れる中、乳とくびれと太腿が際立っている。
 腰から斜めに巻きつけたパレオもいい塩梅だ。
 花が刺繍されている布地が赤基調になっている辺り、配色を普段着と合わせたんだろう。

 大人の色気をむんむん漂わせた永琳の水着姿に、労働に勤しんだ俺も報われた気がした。

「いいね」

「ありがと」

 しみじみと呟いた俺に、永琳は微笑を返した。
 モデルの中に紛れたって遜色がないってのに、気取った態度や仕草も見せないのがまたいい。
 自然体で佇む水着姿の永琳は、普通の海水浴場ならまず十人中十人を振り返らせていただろう。
 俺が全部独り占めってんだから、これほど贅沢な話はなかった。

「いつまでも鼻の下伸ばしてるんじゃないわよ」

「いって」

 見惚れて立ち尽くす俺の脚を、てゐの奴が蹴ってきた。
 腰のひねりも加えられた中々のミドルキックだった。

「満を持して出てきてやってるんだから、私にも言うことがあるでしょ」

 これっぽっちも悪いと思っちゃいない態度で薄っぺらい胸を反らし、ふんと鼻を鳴らした。

 てゐのチョイスはベーシックな白のセパレートだ。
 肌の露出が少なく、上には袖がついててシャツに見えるし、下は腿の半ばまで覆ったスパッツに見える。
 はっきり言って、水着というよりこういう服だと言われればそう見えない事もなかった。
 色気にはちと遠いが、実は水着の機能性を考えると実に良い。
 露出が少ない分紫外線と日焼け対策になるし、保温性の面でも二重丸だ。

 幾ら暑かろうが海の中に入れば自然と体温が落ちる。
 身体を必要以上冷やさないという点で見れば、実に良く出来た代物なんである。
 そこまでしっかり考えて選んだのかどうかは疑問だが、健康第一を掲げてるだけはあった。

 色気は永琳とは比べるべくもないが、てゐにはてゐで健康美ってもんがある。
 一〇〇〇歳以上だなんだと言ってるが、その小さな身体から瑞々しい生命力が溢れていた。

「随分魅力的になっちまって。かわいいよ」

「……ふん。いまさらおべんちゃらなんて説得力ないのよ」

 そっぽ向いてむず痒そうに鼻を掻いたりして、照れ入る横顔が愛らしい。
 いつもの売り言葉に買い言葉の雰囲気から少し外しちまえば、目標を見失ったてゐの勢いがくじける。
 こっちも判ってやっていた。

「悲しいね。俺の素直な気持ちを受け取ってくれねぇとは」

 そういった駆け引きもあったし、俺の本音でもあった。
 どうしてこんな小っ恥ずかしい脳の作りになっちまったのか。

 夏だから。
 海だから。
 理由なんてなんでもいーや。
 些細な理由の一つ二つで楽しめるんなら、それが一番だ。

「うっさいなぁ」

 てゐは悪態をつきながら、くっと顎を引いた。
 陸の上に入るってのに、潜水でも始めたかのように息まで止めちまった。
 丸みを帯びた輪郭を突つきたくて仕方なかったが、突つき過ぎると意固地になるのでぐっと我慢。
 普段のノリでがつがつぶつかるのも良からぬ事を企んだりするのもいいが、稀に軽く突ついた時が一番可愛い顔を見せた。

 困って口元を撫でる不利をしつつ笑みを解していると、やたらめったら自己主張の激しい視線を感じた。
 輝夜だった。
 あんまり前に出ようとしないんで目立たなかったが、一度目に付いたら大いに目立つ格好で、不機嫌そうに俺を睨みつけていた。

 輝夜は、なんと言うか。
 西瓜だった。
 いや、水着が。
 水着なんだが西瓜だ。
 勿論、胸の方は関東平野だ。
 西瓜が採れるのを考えたら、鳥取砂丘の方が例えが良かったか?
 でも、まあ、平野だよなぁ。

 平野は平野でこれから開拓していく楽しみがあるし、すでにたわわと実をつけているなら収穫する喜びがある。
 こういうのはどっちが上か下かって言うより、今はどっちの気分かって話だ。

「う~ん」

 手を口元から顎へと移して今の心境を判断していると、輝夜の目つきがますます険しくなった。
 じろじろと舐め回す視線がよろしくなかったのだろう。
 でもまあ、思い浮かんだ疑問にゃ他にもう一つ重大な問題があったんで、嫌がられようがじっくりと観察するしかなかった。

「それって子供用じゃね?」

 流石にベビーじゃなかろうが、キッズかジュニアにありそうなグレコタイプ。
 いわゆる赤ちゃんから幼児までのお召し物だ。
 模様は見た通り西瓜柄で、上が種付きの果実で腰から下は緑の生地に黒の縦じま模様入りで皮の部分。
 頭に被ったキャップも皮の部分で、某国民的アニメのED姿を掻き立てられる。
 なんか親子連れで来てる三歳くらいの幼児とかが着てそうな格好だった。
 サイズは輝夜の身体に合わせてあるから、ピッチピチだったりはしないんだけどね。

 俺が疑問を口にすると、輝夜は食って掛かってきそうな勢いで一歩踏み出して――すぐに開きかけた口を閉ざした。

「……好きに言えば? 用意されていたのがこれしかなくて、暑いから着替えただけよ。貴方に見せるためではないわ」

 憎まれ口を叩くが、あの突っ込み甲斐のあるぶっ飛んだキレはない。
 歯切れが悪く、居心地悪そうにしながら敵意だけをぶつけてくる。
 言外に、お前が用意したのがこれだったんだろうと言わんばかりだ。

「そいつぁ悪ぅございましたネ、お姫さま」

 輝夜の分を選んだのは永琳なんだが、泥を引っかぶるのは慣れている。
 ヒステリーを起こさずこうして更衣室から出てきてくれただけでも御の字、って事にして大人しく引き下がっておいた。

 一応、永琳には視線で抗議しておいたが、俺たちのやり取りに苦笑を浮かべるだけだった。
 お姫さまの機嫌をこれ以上損ねない為にも、俺は視線を移す。

「で。鈴仙の姿が見当たらねぇんだけども、まだ着替えてんの?」

 愛してやまない兎ちゃんの姿がない。
 夏らしいイベントと、基本穴倉にこもりがちなんで一括ストレス解消、そして一人俺祭り開催という趣旨がある。
 俺にとって、レイセンからのご褒美は何よりの肝だ。

 きょろきょろ見渡す俺の視線に、一同は揃いも揃って振り返った。
 視線が集まっているのは永琳だが、その永琳自身も肩越しに振り返っている。

「レイセン、指名よ」

 含み笑いを浮かべた永琳がひょいと一歩横にずれると、

「わっ」

 レイセンが前のめりになってたたらを踏んだ。

 考えるよりも先に身体が動いた。
 一歩踏み出て身体を支える。
 レイセンの方も倒れ掛かった勢いでそのまましがみついてきた。

 手から直接伝わる感触は、間違いなくレイセンの柔肌だ。
 掴んで支えているのは二の腕だが、緊張の為か幾分固い。
 それでも適度な贅肉は充分柔らかいと感じられて、そういや二の腕の柔らかさっておっぱいと似てるとか何とか、眉唾な話を思い出したりした。

「――ひゃっ」

 何やら奇妙な悲鳴を上げて、レイセンは俺を押しのけるようにして後ろに跳び退った。
 押された俺は尻餅どころか体勢を崩す程でもなかったが、全力で拒絶されたみたいでそれなりにショック。
 触り方にちょめ心が入り込んでいたかも知らん。

 というか。

「なんで隠れてたの?」

 俺は永琳の背後に隠れていたレイセンに訊ねた。
 レイセンは肩を抱いて身体を縮めてしまっている。
 なんとか隠そうとしている割には肩やら脇やら腿やら露出面が広いんで、なんとなく理由は判らないでもなかった。

「そ、それは」

「ねーねー。なんで隠すのー?」

 答えはおおよそ判りながらも、俺はレイセンの周りをぐるぐる回る。
 俺の視線に対して常に腕でかばった正面を向けるレイセンだが、どれだけ隠そうとしても隠れ切るもんじゃない。
 首や腰で結んだリボンの形や、明らかに露出した肌に視線を這わせた。

 みなまで言うな?
 冗談キツイぜ。
 こういうのはみなまで言わせるのがいいんじゃねぇか。

「そ、そういう目で見られるからっ」

 顔を真っ赤にしたレイセンからの反撃。
 羞恥心をなんとか怒ってごまかそうとする表情に満足して、俺のちょめ心も少しばかり引っ込んだ。

「そういう目で見るなって言う方が無理。もっと見せて」

 それはそれとして、立ち姿でじっくり見たいってぇ欲望は別口です。
 
「水着だし下着じゃないから恥ずかしくないよ。さあ、思い切ってぽろっとお兄さんに見せてごらんさい。さぁさぁ!」

 周囲から呆れたため息やら苦笑なんかが聞こえてくるが、俺はとっても執念深いので簡単に諦めたりはしない。
 急かす俺に、レイセンが涙目で睨んできた。

「ご主人様は、服着てるじゃないですか」

 そう来ると思ってましたよ。

「そうだったね。じゃあ脱ぐよ」

 あっさり切り返すと、レイセンは言葉を失った。
 俺は気にせず見ている前でアロハを脱ぎ捨て、短パンに手を掛ける。

「えっ」

「ちょ、ちょっとぉ!」

 制止する声も聞き流して、ずるっと短パンを降ろした。
 砂浜落ちた短パンから足を抜いて、一同を見回した。

「下着じゃねーから恥ずかしくなんてねーですヨ?」

 男の場合わざわざ更衣室で着替えるまでもなく、あらかじめ履いておけばそれで済む話だ。
 レイセンの挑発に見せかけた牽制に、腰振る蒸れ場でもって返す。

 この日のために用意した、真っ赤に燃え上がるファイアパターンのブーメランだ。
 勃起したら一発でアウトな代物である。
 その一歩間違っただけで危機一髪な感じが堪らん。

 お兄さん、見られたって興奮出来るんですよ?

「ほーらもっこりですよー」

 きゅっと尻を締めて魅惑の腰使いで迫ってみた。
 レイセンは尻餅をつくほど驚いた様子で、ついで呆れられた。

「……なんだか、隠れてた私の方が馬鹿みたいな気分になりました」

「楽しむなら馬鹿になるくらいでちょうどいいの」

 尻餅をついたレイセンに手を差し出して、俺の手を素直に握ってくれた。

「ほんと、馬鹿ですね」

「でもあんまり馬鹿馬鹿言うと本当の馬鹿になるから手加減してネ」

 ぐいっと引いて起こす。
 立ち上がったレイセンはもう恥ずかしがらずに――ちと照れは残っているようだったがさっきみたく隠したりはせずに、むず痒そうに耳の先っぽを揉んでいた。

 レイセンは、実に刺激的な水着を選んでいた。
 セパレートのいわゆるビキニ。
 ちなみに布地がなくて紐だけとか申し訳程度の三角形で覆うとか、そういうのはマイクロビキニだ。
 きわどいのは良いが、そこまでいくと逆に引く。
 いや、引きはしねぇか。
 チラリズムから純粋な性欲にシフトしちまうだけだ。

 レイセンもさすがに紐を水着と言い張るレベルには達していないようで、ホルターネック式を採用したらしい。
 上下ともに爽やかな青で、チラリズムと欲情の間をちらほらと行き来する絶妙な匙加減。
 これはトップがやや大きめなのに対して、ボトムの布面積の少なさからくる配合なんだろう。
 サイドで括って固定するタイプってのも、そそるものがあった。

 引っ込み思案で臆病な上に未だに恥じらいを忘れられない、そんなレイセンが少しばかり背伸びした姿が目の前にあった。

「ど、どうですか」

 本心では隠したいんだろうが、精一杯感想を求めてきた。
 言うべき言葉なんて決まりきっている。

「似合ってる。可愛いよ」

 歯の浮く台詞も気障ったらしな言い回しも必要なかった。
 思うがまま浮かんできた言葉に、真心を込めて贈った。

「……はい」

 レイセンは前髪の奥に目元を隠して、くすぐったそうに口元を緩めた。



xxx  xxx



 ご主人様の前に出るのが急に恥ずかしくなったりしたのは、周囲と比べて私が選んだ水着が明らかに小さかったりしたからなんだけど、怖気づいてしまった私をあっさり解きほぐしてしまった。
 男の人であるご主人様自身が誰よりも際どい水着だったから、驚いたり呆れたり。
 変な心配は無用でしかないと見せ付けられて、却って楽になった。

 そんな経緯を経て、海水浴が始まった。

 てゐは海に余りいいイメージがないからと波打ち際に寝そべり、泳ぐ気配はなかった。
 湿った砂をこねながら鵺さんと一緒に何かを作り始めている。
 鵺さんは一人(?)水着に着替える事もなく、海に入ろうともしなかった。

 姫様は相変わらず不機嫌そうで、側には師匠がいる。
 師匠に促され、渋々と浮き輪に空気を入れたりしていた。
 姫様はやはりご主人様や初めての外出に警戒しているようで、終始居心地が悪そうだった。

 そして私は――

「レイセン、顔上げて。しっかり呼吸しながらバタ足」

「はぷ、はっ、はい」

 ご主人様の指導の元、泳ぎの訓練を受けていた。

 当然だけど、私に海で泳ぐ経験なんてなかった。
 大体は流れの弱い川の浅瀬でしかなくて、水に浸かったりするのは日々のお風呂くらいだ。
 泳ぎ始めてすぐ、思っていた以上に勝手が違っている事に気がついた。

 まず、海だと波がある。
 波は考えていた以上に力強くて、体勢を上手く保てない。
 それに何より海の水は塩辛かった。
 波で体勢を崩すと息継ぎが難しくなって、その度にしょっぱい水を口の中に含んでしまう。
 息継ぎと一緒に吐き出そうとすると、泳ぐのが疎かになってますます姿勢が崩れてしまう。
 自分でも初めて気がついたけれど、どうやら私は泳ぐのが下手だったみたい。

 浅瀬で四苦八苦していた姿を見かねたご主人様が、慣れるまで手取り教えてくれる事になった。
 なんだか申し訳なくも思ったけれど、すぐにそんな気遣う余裕もなくして、必死に泳がないと沈んでしまうという恐怖に駆られていた。
 ご主人様が補助として両手を握っていてくれなければ、今頃水底に沈んでいたかもしれない。
 その心配をするだけの余裕もなく、差し出された両腕につかまって海水をばしゃばしゃと蹴立てていた。

「まだちょーっと身体が硬いかな。手足をしっかり伸ばして、力を抜く感じで」

「でも、はぷっ、波、きつく、ぅぷ」

 喋る度に飲みそうになる塩水を吐き出して、必死に答えた。
 波に揉まれていて姿勢を維持するだけでも四苦八苦なのに、力を抜けだなんてそんな無茶なと言いたくなる。

「いいよいいよ、無理に答えなくても。ちょこっと頭の片隅にでも置いといてね。だーいじょぶ、手ぇ離したりしないから」

 ご主人様に言われるまま、私はとにかく沈まないようにバタ足を続けた。
 海面に近いからか海水は思ったよりも冷たくなくて、けれど日に当たって火照った肌には気持ちが良い。
 沈まないように、沈まないようにと念じながらご主人様の誘導に沿って泳ぎ続ける。

 あれ?

 不意に、何か壁を越えたように姿勢が安定した。
 私の身体を不安定に揺さぶっていた波が弱まり、とても泳ぎ易くなっている。
 川と比べて流れがない分余計に穏やかに感じられた。

 今までご主人様の手を握っていたのに、いつの間にか肩につかまって泳いでいる。
 ご主人様の腰くらいまでの浅瀬だったはずが、今は私と一緒で肩まで海水に浸かっている。
 バタ脚を続ける中、ご主人様は仰向きに手足を横に広げて泳いでいた。

 気になって振り返ってみれば、いつの間にか海岸が遠くなっていた。
 バタ足を止めてみたけれど、足が底に着かなかった。

 お、溺れる?

 背筋にひやっと寒気が走る私に、

「レイセン」

 ご主人様が名前を呼んだ。

「大丈夫、大丈夫。俺の目を見て」

 頬を強張らせる私に、ご主人様は柔らかく笑って瞳を指差した。
 言われるがままに見た。
 黒くて優しい眼差しを向けるその瞳。
 余裕を持った口調のおかげなのか、パニックに陥る事はなかった。

「身体の力を抜いて。リラックス。海面と水平になるようにして」

「は、はい」

「……うん。そう、上手いよ」

 正直言って上手く出来ているとは思えなかったけれど、不思議と私の身体は沈まなかった。
 勿論、つかまっているご主人様の身体も沈まない。
 すっかり弱くなったとはいえまだ波を感じる海面を、私はゆらゆらとたゆたっていた。

「どう、まだ怖い?」

「い、いえ」

 必死にバタ足をしている時は少し気を抜くとすぐ沈んでしまいそうだったのに、今は何もしていないのに浮かんでいる。
 それにご主人様。
 私がこうしてつかまっているのに全く沈む様子がなくて、まるで浮き輪だ。
 私の疑問を目線で感じ取ったのか、ご主人様はにこりと笑って答えてくれる。

「世の中には便利な事に立ち泳ぎってのがあってね。こいつを覚えるとその場に留まっていられるのよ」

 言葉の途中から、ご主人様の身体がどんどん浮き上がっていく。
 胸元近くまで海面に出てきて、危うく手を滑らせてしまう所だった。
 体勢を崩しかけた私の手をとって、ご主人様は平然と浮き続けている。

「凄い……」

 一人で泳ぐのさえ危うい私には、魔法でも使っているように思えてしまう。

「まずは水に慣れる事からかな。あとは海の楽しさと怖さを忘れない事。その三つをきっちり守っとけば、泳ぎなんて気がついたら身についてるもんさ。レイセンもこれくらいすぐ泳げるようになるよ」

 そういうものなんだろうか。
 まだ半信半疑ながらも、私も楽しめたらいいなと思う。
 海に来てから、ご主人様の笑みはいつもよりずっと開放的な笑みに見えたから。

「じゃあレイセン、立ち泳ぎから覚えてみようか」

「えっ……い、いきなり言われても」

「だーいじょぶ。やり方も実演するし、もし万が一溺れそうになったりしたらちゃーんと俺が助けるからさ」

「は、はあ」

 出来るかどうかは判らないけれど、ご主人様に促されてその通りに体勢を変える。
 今まで水平に浮かんでいた身体を垂直に直す。
 ご主人様に肘を支えられているのでいきなり沈みだしたりする事もなかった。

「じゃあ始める前に深呼吸。大きく吸ってー」

 指示に従って大きく息を吸い込む。

「吐いてー」

 息を吐き出す間も胸の奥がどくどくと強く鼓動している。
 
「はいも一度吸ってー」

 浜辺にいた時は磯の香りを強く感じたけれど、こうして海に入っていると麻痺したように感じられない。

「……はい、止めて」

 いよいよとなって不安が募り私が視線を向けると、たっぷりと空気を吸い込んで頬を膨らませたご主人様が愛嬌たっぷりにウインクした。
 ほんの少し不安が解れた。

 ここからどうするかは説明を受けている。
 ご主人様に身体が持ち上げられるのを感じて、私は脚をそろえて真っ直ぐ伸ばす。
 急に支えを失い身体が沈む感覚は、高い場所から飛び降りるのと似ている。
 顔が濡れる寸前に私は目を閉じた。

 全身が水に包まれたのが判る。
 反射的に海面を目指したくなる衝動を抑えて、身体が沈むに任せる。
 目を閉じているから海中の様子など判らず真っ暗で、周囲が驚くほど静かになっていた。

 息を止め、硬く目を閉じ、足元の水温がぐっと下がってきた辺りで、肩をつつかれた。
 
 ご主人様だろう。
 呼ばれている。
 私は恐々と目を開けて、海水が少し目にしみた。

 目元を擦ろうとすると手首が掴まれる。
 目の前にご主人様がいて、私の手首を握ったまま首を左右に振った。
 擦ってはいけないと言われているのが、なんとなく伝わってきた。

 ……?

 ぐいと身体を抱き寄せらると、額と額がくっつきそうな距離でご主人様がしきりに瞬きをしている。
 何をしているのか初めは良く判らなかったけれど、海水で目がしぱしぱする内に判って来た。

 擦らずに瞬きをしろ、という事なのかな。

 多分そうだ。
 意識的に何度も瞬きを繰り返している内に、少しずつ海水の痛みが和らいでいった。
 どういう理屈なのか判らなかったけど、涙だってしょっぱいんだからそれと同じなんだろうと思った。

 海の中でも目が開けていられるようになると、ご主人様は私から離れる。
 少し離れた距離から、自らの脚を指差す。
 ここに注目するようにという合図で、私は頷いた。

 ご主人様が立ち泳ぎを始めた。
 両足を交互に動かし、水を蹴るような動作。
 一蹴りごとにご主人様の身体が上へ上へと昇っていく。
 なんだか少し蛙の泳ぎ方と似ていた。

 四、五回のキックの後、ご主人様の身体はぐるりと宙返りをしてまた私のいる場所まで潜ってくる。
 魚のように、というのは流石に褒め過ぎなんだろうけど、泳ぐ姿には私のような硬さがなくいかにも慣れていた。

 海底にいた私を抱き寄せると、今度は上を指差す。
 一度海面まで戻るという事なんだろう。
 少し息苦しさを覚え始めていた私は何度も頷き、ご主人様の身体にしがみつく。
 ご主人様は海底を蹴って勢いをつけると、そのまま海面を目指していく。
 私も微力ながらバタバタと足を動かした。

「ぷはっ」

 顔を出すと真っ先に空気を吸い込んだ。
 海底付近は驚くほど冷たかったのもあって、冷えた身体が日差しと温い水温でじわりと温まっていく。

「見た? 今のが立ち泳ぎね」

「は、はい。見ました」

「よし。じゃあ練習していこうか」

「はいっ」

 海面でさっき見た脚の動きを真似たり、少しずつご主人様の補助を減らしたり、もう一度潜水して海面を目指したりと、立ち泳ぎの練習を繰り返していく。
 勝手が判ってくるに連れて、私の中にあった海に対する恐怖心や不安も薄れていっているのが判った。

 落ち着いてくると、周囲に目を向ける余裕も出てくる。

「じゃ、行くよー」

「はい」

 何度目かになる潜水。
 始めは脚を揃えたまま沈むに任せていたけれど、今はご主人様の手を取り一緒に下へ向かって泳いでいく。
 海の水は澄んでいて、かなりの距離を見通す事が出来た。
 水温の差はまるで見えない壁のようだ。
 海底には波の影響なのか綺麗な波紋が浮き上がっていた。
 今まで気がつかなかったけれど、あちこちに生き物(?)の姿も目についた。

 海面からだと揺らいで見通せない景色に見惚れている内に、いつの間にかもう海底だ。

 海底に泳ぎ着くと、ご主人様は私を、次に自分を、そして海面の順に指差した。
 私が先に泳いで、次にご主人様が、海面を目指すという意味なんだろう。
 頷きながら、海中でのやり取りもどこか楽しく思えて、私の口元からこぽりと少し気泡がこぼれた。

 ご主人様が離れてから、私は海底を蹴って海面を目指す。
 海底に映った波紋も綺麗だったけれど、下から見上げる海面もまた違った趣があった。
 きらきらと光を反射させて揺らめいている。
 目には見えない日差しを、海という鏡に映して見ているような。
 空が二つになったような。

「ぷはっ」

 そんな事を考えている内に海面を突き破っていた。
 どこまでも続く水平線と、青空に浮かんだ太陽。
 私の良く知っている空が、けれど今までにない広大さで視界を埋めていた。

 さほど待つ事もなく、続いてご主人様が顔を出した。

「レイセン、だいぶ慣れてきたね。動きが柔らかくなったよ」

「はい」

 ご主人様の言葉に答えながらも、私の視線は沖に向けたまま。
 視界狭しと広がるこの光景に見惚れてしまっていた。

「楽しくなってきた?」

 音もなく泳いできたご主人様に耳元で囁かれる。 

「はい」

 私は強く頷いた。

 海も空も真っ青で、彼方へと続く境界線が溶け合っているようだ。
 ご主人様と一緒に見たこの光景を、しっかりと憶えていようと思う。

 私は、いつの間にか一人で立ち泳ぎが出来るようになっていた。



 泳ぎ方が判ってきた私だけど、ご主人様の勧めで一度戻る為に砂浜を目指した。
 少し残念だったけれど、その理由は海から上がって良く判った。

 海から上がると一気に身体が重くなった。
 泳いでいる間は気がつかなかったけど、身体に疲労が溜まっていたようだ。

「海の中だとなんだかんだで浮力があるから気がつき難いのよ。身体も冷えるし、慣れてくると過信してまだまだいけると思っちゃう訳。で、足攣ったりすると。ね、怖いとこもあるでしょ?」

「は、はい」

 私は水滴を滴らせながら、チェアの上で横になる。
 照りつける日差しが心地良いと感じるくらいに、私の身体は冷えていた。

「それに、幾ら慣れても水中眼鏡がないとじわじわ目に来るしね。はい、目ぇ開けてー」

 横たわる私に、ご主人様が目薬を差してくれる。
 泳ぎ方を教えて貰った上に、砂浜に上がった後も甲斐甲斐しく世話をされて、申し訳なさと気恥ずかしさを同時に覚えた。

「はい、ぱっちり開けてね。お目目が真っ赤になっちゃいますよぉー」

「元々赤いですよ、私の目は」

「うん。だから綺麗なままでいて欲しいって思ってる」

「もう。口ばっかり上手いんですから」

「それは心外だね。俺、口だけじゃなく手も足も愚息もそれなりに上手く扱ってない?」

「……エッチです」

「知ってた? 男って一日の大半はエロい事考えて過ごしてるんだよ」

「そういう男の人が身近にいるから、知ってます」

 でも、その好意に甘える。
 開いた目に一滴ずつ目薬が落とされて、すっとした清涼感で目の中に残っていたしぱつきが押し流される。
 気持ち良かった。
 
「少しゆっくりしてから、また遊ぼうか」

「はい。いっぱい楽しい思い出作りましょう」

 二人で海に漂って一緒に水平線を見つめたりした、そんな思い出を。
 沢山。

 そうすれば、後になって思い出しても素晴らしい一日になるに違いなかった。



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 海を目の前にしても私の虫の居所は悪かった。
 いらだたせる元凶であるあの男はイナバを連れてさっさと海の中に入っていって、波打ち際では因幡が小人と一緒に砂上の楼閣を築いている。
 永琳が何やら用意を始めていたのでそれを手伝ったけれど、妙な器具を踏んで風船のようなものに空気を流し込んでも気休め程度にしかならなかった。

 やる事がなくなったから、堤防の側の日陰で膝を抱えて座っていた。
 
 つまらない。
 車の中で札を切っていた時も、大海原を目の当たりにした時も、地上の美しさを改めて認めてからも。
 なんだかもやもやとした気分が晴れずに、楽しめない。

「……」

 判ってる。
 素直に楽しもうとしないのは私自身。
 でも、外に連れてこられたからと言って楽しめる?
 自由を奪われてから自由に振舞えだなんて言われたって、今までよりも大きな伽藍が用意されただけ。
 私の待遇は何一つとして変わっていなかった。 

 ざしざしと砂を踏む足音が近づいてくる。
 あの男だ。
 沖まで泳ぎにいった後、砂浜に戻ってきている。
 傘の下で横になったイナバを残して、私の方に近づいてきた。

「ん」

 私の前に立つと何かを差し出してくる。
 金属で出来た竹筒のようなもの。
 表面には輪切りにされたオレンジ色の果実の絵が描かれて、水滴が浮かび上がっていた。

 それが何かを考える前に、ひったくるように奪った。
 なにを渡しにきたのか知らないけれど、受け取ればすぐ視界から消えると思ったから。

 男は私の態度に文句もつかずに、イナバたちの元に戻ることなく私の隣に腰を降ろした。
 手に残っていた金筒の蓋に指をかけて、ぷしっと小気味の良い音をたてた。
 筒の先端にある突起のようなものが、蓋代わりになっているらしい。
 私は手元のひんやりと冷たい金筒を眺めて、男から半歩分ほど身体をずらした。
 
 男は何も言わない。
 噴き出した白い泡をぼたぼたとこぼしながら、筒の中身を咽喉を鳴らして飲んでいる。
 中身は飲み物のようで、竹筒を利用した水筒のようなものなのだろう。
 引っ掛けやすい突起に指をかけて、ぐっと力を込める。
 ぷしっと空気の抜けるあの音が聞こえて、私の方は中身が噴き出す事はなかった。

 金筒を両手で握り軽く口をつける。
 ほんの少し酸味がある、甘い飲み物だった。

 飲み物を口に含んで初めて、私は咽喉を涸らしていたことに気がついた。
 浴びるように呷りたいという衝動をぐっと押さえ込み、一口ずつ含む。
 男の目を意識していることには、とっくに気がついていた。

「ぐえええっぷ」

 男の方は遠慮も何もあったものじゃない。
 下品なおくびを隠そうともせずに、ぐびぐびと中身を呷っている。
 品性が足りていないのは知っていたので、眉をしかめる程度で済ませた。
 私たちは言葉もなく、潮騒と押し寄せては砕ける波の様子をぼんやりと眺めていた。

 初めに口を利いたのは、男の方。

「つまらねぇかい?」

 そんなことを訊ねてきた。

 つまらないわけじゃない。
 楽しめないだけ。
 それで結果的につまらなくなってしまう。

「面白い冗談ね。当たり前でしょう? 私がどうして楽しめないか、自分の胸に手を当てて考えてみなさい」

 いずれにせよ元凶であるこの男に言われるようなことじゃない。
 睨みつけながら吐き捨てると、男は私の言葉通り胸元に手を当てた。

「心当たりがあり過ぎるな」

「判り切った質問などしないで。余計つまらなくなるだけだわ」

「手厳しいね」

 男は苦笑いを浮かべて、視線を正面に戻した。
 大雑把に海を眺めているようで、何を見ているのかまでは良くわからない。
 横目で男の反応を慎重に窺いながら、私は視線を下げていった。

 男の横腹を見つめる。
 筋肉の張った、それが男らしいというべきなのかごつごつとした身体つきだ。
 下着同然の格好で恥ずかしくはないのか、という常識は疑わない。
 元々この男に常識など備わっているはずがない。
 あるはずがないものを探してところで徒労に過ぎなかった。

 だが、あるはずのものがないのは何故なのか。
 どれだけ目を凝らしても、男の左脇腹に傷痕どころかその痕跡すら見つけられない。
 私は確かにこの男を刺した。
 首を絞められ、殺しあった。
 肉に突き刺さっていく気味の悪い感触は、まだ私の手にこびりついていた。

 おそらく、永琳の手を借りたのだろう。
 今の状況ではそれくらいしか考えられない。
 傷の一つ二つ跡形もなく消してしまうのはわけはないだろう。

 男は、まるで一昨日の出来事が一切なかったかのように振舞っている。
 傷を消して、忘れたかのような態度をとったところで、事実がなくなってしまうはずもないのに。

 余りに凝視していたからか、前を向いていた男が唇に金筒を当てて私を見ていた。
 私はその目を睨み付けなかった。
 男の行動が不可解で、ただその疑問だけを視線に込めていた。

 出血していた脇腹を見つめていたことは気がついただろうに、やはり男はなにも問わなかった。

「すっかり萎縮しちまって。逃げるのは諦めたのかい?」

 ただ、話題を変えてきた。

「くだらない」

 ふいっと顔を背けて笑った。

 諦めるはずがない。
 自由と力を取り戻したら、私はまず真っ先にこの男を血祭りに上げる。
 その意志は、未だに揺らぐことなくしっかりと根付いていた。
 ただ、外に連れ出されたからと言って逃げ出すつもりもなかった。

 復讐のためだけにこの男を毛嫌いしているわけではない。
 失ったものを取り戻すために、その障害を取り除くだけ。
 私が一人で逃げ出して、逃げ切れたとしても意味がなかった。

 それに判ったことも一つある。
 私は力を失いそれこそ小娘程度でしかなくとも、全く太刀打ち出来ないわけではないのだ。
 一度殺しあったあとも変わらず隙を見せるのなら、雌伏し機会を窺えばいい。
 手足をもぎ取られたような不自由さを感じていたけれど、私は今も尚、有限に定められたこの男ではどう足掻いてもたどり着けない境地にいた。

「ああ、なんだ」

 そうか。
 そうね。

「わかりきったことじゃない」

 私は今まで、どうしてこれほど取るに足らないことを気にしていたんだろう。
 一人でへそを曲げたりしていたんだろう。

 その場から立ち上がる。
 隣に座っている男に向き直る。
 見上げてくる視線を正面から受け止めて、私は不敵に笑った。

「貴方はせいぜい自分の首を心配してなさい。私と違って、替えが利かないのだから」

 地上に落とされ、迎えの使者を拒んでも尚私は地上で過ごした。
 それでも私は私だ。
 大罪を負っても穢れを纏っても、それだけは変わるはずがなかった。

 私は今まで変化を恐れていたのか。
 いいだろう。
 穢れなど簡単に受け止めて、逆に一片も残さずに飲み干してやろう。
 小娘と侮るこの男に、私との器の違いを見せつけてやろう。

 向かってくるものは鉄拳で粉砕せしめるのが私だ。
 いつまでもくよくよと思い悩むのは私らしくない。

 地上がどれだけ穢れていようと、美しいことと同じで。
 誰が、どんな理由で用意された料理であっても美味しいものは美味しいのと同様に。

「私をここに連れてきたことに後悔しなさい。いえ、むしろ後悔させてやるわ! それはもう全力で手を焼かせて、骨も残してやらないから覚悟するがいいっ!」

 さよなら今までの私。
 ただいま今からの私。
 私は、今まさに甦ったのだ。

 ぽかんと口を開けてアホ面を下げている男の前で、私は腰に手を当てぐびぐびと残りのジュースを飲み干した。

「ぷっは! 水分補給は完了よ。なにをこんなしけった場所にいるのかしら? 空はこれほど晴れているというのに」

「いや、ここにぽつんといたのはお姫さま――」

「私は海にいるのよ、海に! さあ下郎。今日はそのお姫様をたっぷり心が逝くまでエスコートさせてあげる権利をくれてやるわ! 泣き咽んで喜びなさい!」

「なにこの超上から目線」

「踏んで潰れる夏の虫とはこのことよ!」

「夏に限らず踏めば潰れるだろ。普通」

「テロップ!」

「……それはひょっとして、シャラップって言いたいのか」

「うふふ、海よ海。さーあ遊ぶわよぉ。手始めに浮き輪をして、海に入って、さらにかき氷とか食べてやるわ! 貴方はそこでいつまで腹出して浮かぶガマガエルのような顔を浮かべているのかしら? アマガエル程度には引き締めて私を遊ばせなさい!」

「どういう顔だっつーの」

 男はぼやきながらも、腰を上げて立ち上がる。
 強い日差しに手傘を差して、口元が笑みの形に吊りあがっていた。

 海の雄大さに罪などあるはずがない。
 せっかくこうして地上の海の前にいるのだ。
 悩んでいないで存分に楽しもう。
 どんな状況にあっても、楽しむ心すら失ってしまったのでは私ではなくなってしまう。

「ふふふ。あとになってゲロを吐かないことね。下郎だけに」

「もう少し言い方ってもんを考えろよ、お姫さま」

 不敵に笑いあう。
 こうした態度で向かい合うのも随分久しく感じられたが、すぐに忘れた。

「私を相手に、遊び心は充分かしら?」

「言うねぇ。お姫さまこそ俺に着いてこれるかな?」

 以前は池で代用しかできなかった海水浴を骨の髄まで楽しみ、この男を引きずり回してやるという気力で満ち満ちていた。



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 へぇ。

 私は砂浜から堤防のふもとを眺めて、内心ちょっと感心していた。

 姫様を上手く焚きつけられたみたいね。
 
 さっきまで沈んで膝を抱えていたのが嘘のように、今の姫様は活き活きとしていた。
 あいつがなにかを言ったのだろう。
 もっとも、姫様のことだからなにが引き金でやる気を出したのかまではわからないけど。

 ある種禊のようなものだと、私は考えている。
 私だって連れてこられてしばらくは不安や恐怖はあった。
 けれどそれをどう乗り越えるかは、私たちがなにを口にしたって相手が聞く耳を持たないと意味がない。
 私だって鈴仙の言い分をさっくり聞き流していたから、良く判った。

 連れて来られた時期が違う。
 状況だって変わってる。
 克服するには自分だけの力でするしかない。
 だから私は姫様には余り触れなかった。

 とばっちりを食いそうだって言うのもあったし、ただでさえ不機嫌なのに私が言ったところで余計いらいらさせるだけだ。

 だからそっとしておいたし、あいつが姫様のところに向かうのも止めなかった。
 ここで生きていくってことは、あいつとの距離を測るってことだから。
 それを善し悪しのどっちに捉えるかも含めて、姫様とあいつの問題だ。

 まあ、あいつにしてはちょっと姫様に対して甘いっていうか、どこか遠慮してるような態度なのが少し気にはなるけど。
 気になるっていうか、ムカつくというか。
 私の時なんて一切遠慮しなかった癖に。

 お互い挑むように胸を反らして睨みあっている様子から視線を外す。
 今日一日は独り占めできないだろうというのも、なんとなく判ってたし。
 なんにせよ、楽しい一日が過ごせれば私に不満はなかった。

「大体こんなもんね」

 言葉は目の前にできあがったお城について。
 砂を集めて鵺と一緒に作ったものだ。

 濡れた砂を掻き集め、その上を乾いた砂で覆って、その作業を繰り返して作り上げた。
 私は土台になる砂を集めて、細かい部分はほとんど鵺が作っていた。
 意外だったけれど、鵺は器用だった。

「……これって、前行った遊園地にあったお城よね?」

「うん」

 タニシみたいな指をして、おまけに手袋もはめたままなのに、ちょっと変態並みの器用さだ。

「よく覚えてるわねー」

 私自身、あれだけ怖い思いをしたのに出来上がるまでそれとわからなかった。
 怖い思いをした分だけ、関係のなかったところは忘れてたのかもしれないけど。

「これは鵺のなかにあるから」

 呆れ半分、感心半分のため息をつく私に、鵺は相変わらずどこかとぼけたような口調で答えた。

 覚えてる、って言いたいのかしら。
 鵺との会話で要領を得ないのはよくある話。

「ま、いいわ。あとはてっぺんに棒を立てて完成ね」

「?」

 私の言葉に鵺は首をかしげた。
 表情は見えないけれどいまいち判ってない様子で、ひょっとしたらこのお城を作ってなにをするかまでは考えてなかったのかもしれない。

「棒倒しよ、棒倒し」

 お互いに立てた棒を倒さないように崩していくあれ。

「こわすの?」

 私の提案に、鵺は少し残念そうだ。

「壊すのよ。どうせこのまま置いててもいつかは崩れるし、潮が満ちたらすぐ持ってかれちゃうわよ。だったら遊びに使った方がずっといいでしょ?」

 こうして形になるとそれなりに感慨もあったけど、それはそれ。
 やっぱり出来上がったものを自分の手で壊すのだって楽しいのだ。
 いい出来だとは言っても砂の山なんだから、惜しくもないしね。

 それでも迷っている様子の鵺に、私は指を差して言う。

「棒倒しに勝ったらご褒美があるわよ」

 指に沿って視線を向けると、駆け出した姫様の後を追いってあいつがこっちに歩いて来る途中だった。

「あいつから」

「やる」

 鵺はあっさり頷いた。
 ちょろいもんね。

「俺の事指差して、またなぁに企んでんだ?」

 そんな取り引きがあったと知ってか知らずか、砂浜まで歩いてきたあいつが声をかけてきた。
 目の前で服を脱ぎだしてからというもの、いつ見ても際どい格好だ。
 中身も結構なキワモノだから仕方ないんだろうけど。

「大したことじゃないわ。気にしないでよ」

「きにしないで」

「鵺をあんまり悪い道に引っ張り込むんじゃありませんよ、と」

 私に同調する鵺に苦笑を浮かべながら、砂浜に出来たお城をひょいと覗き込んできた。

「おお、こりゃまた上手に出来たな。素晴らしい。二人に花丸をあげましょう」

「はなまる! いい子しかもらえない」

「よかったわね。それよりも、もう姫様を手懐けちゃったの?」

 空中の花丸に諸手を挙げて喜びだした鵺を流して、私はちらりと姫様の様子を窺った。
 今は姫様自身が空気を入れて膨らませた、浮き輪や船やフカの乗り物をそれぞれ手にとっては悩んでいる様子。
 あいつも姫様に振り返り、苦笑に深みが増した。

「まさか。勝手にやる気が出てきただけさ。ちーとも懐かない誰かさんが言いますかね?」

 誰が懐いてないって?
 あんたの方こそ良く言ったもんね。

 思い浮かんだその言葉は口にせず、呆れた眼差しを返しておいた。
 さすがにこの場でそのまま伝えるのは、私も躊躇ってしまうくらい恥ずかしかった。

「下郎! ちょっとおい下郎! 早くカキ氷の支度を整えておきなさい!」

「はいはいただいまー。ったく、わがままなお姫さまだぜ。ついでに人数分作るから。二人とも何味のシロップがいい?」

「イチゴ!」

「私レモン」

「イチゴとレモンね。了解。ま、それまで遊んでてくれ」

 そう言い残して、注文をとったあいつは鈴仙やお師匠からもシロップの味を聞きに歩いて行った。
 姫様の分だけ用意すればいいのに、マメな奴。
 大雑把に見えてそういう小マメな気配りも利くから、いつの間にか惚れちゃったっていうのもあるんだろうけど。

 背中を見送って、はっと我に返った。

 ほ、惚れてない。
 惚れたのはあっちなんだから。
 だから理由をつけてペットだなんて強がってるんだ。
 うん、そう。

「ねえ」

 はっ。

 気がつくと鵺が私を見ていた。
 正直目がついてるのかどうかさえ定かじゃないけど、視線を向けられているのが肌にひしひしと感じられた。

「な、な、なによ」

 心まで見透かしたような視線に怯んでしまい、思わず声が上擦っていた。

「ぼう」

 鵺が短く呟いた。

「な、なによ。私がぼーっとしてるって言いたいの?」

「ぼう」

 たじろぐ私に、やっぱりぽつりと呟いた。
 なにが言いたいのかさっぱり判らない私に、鵺は手の砂をぼふぼふと払い落としてからもう一度繰り返す。

「ぼう」

 ジェスチャーも加えられて、ようやく判った。
 棒。
 さっき私が言っていた棒倒しに使う棒のことを言ってるんだ。

「……私が探してくるから、あんたはここで待ってなさい」

「うん」

 このてゐ様ともあろうものが、みっともなくうろたえてしまうなんて。
 不覚。

 熱でぼけてたかもしれない。
 ちょっと頭を冷やすために、砂浜に木切れの一つも落ちてないか探すことにした。
 
 渇いた砂浜と泡立つ波が届く境を歩きながら、きょろきょろと見回す。
 ところどころに岩があったり、貝殻が落ちているくらいで流木とかは流れ着いていない。
 砂浜は入り江になっているのか奥まっていて、途切れた先にはごつごつとした岩と張り出した木々の緑が風で揺れていた。

 波打ち際よりも堤防付近を探した方が見つかるかもしれない。
 私はさくさくと焼けた砂を蹴散らして、階段を探しながら堤防に向かった。

 一枚岩を削りだしたのか継ぎ目のない堤防に沿って歩き出し、

「ん?」

 にょっきりと出っ張った部分を覗き込んだ拍子にそれを見つけた。

「……」

 砂の城に立てるには、少しものが大きかった。



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「なんだよおい、ここまで引っ張ってきて。お引越し中のヤドカリでも見つけたのか?」

「そんな生易しいものじゃないわよ。自分の目で確かめなさいよ」

「どぉれ……――」

「ね?」

「想像以上にドギツイなこりゃ。おい、お前ら」

「トン太です」
「チン平です」
「三波春夫でございます」

「頭に海草被って、体育座りで海を眺めてる経緯はなんだよ」

「僕ワカメ!」
「俺はコンブさ!」
「あちきは海ブドウでありんす」

「そりゃ海ブドウじゃなくてひじきだ」

「……で?」

「三人揃って、藻屑三兄弟!」
「鉄分ミネラル配合」
「いやいや、ちゃんと海ブドウ見つけてひじきだあああああ!」

「うるせぇ」

「答えになってないわよ」

「どうか聞いて下さいいいいぃ!」
「これが聞くも涙、語るも涙の海物語!」
「俺たちは……そう。マリンという名の大渦に飲まれちまったのさ……」

「体育座りしたまんま寄ってくんな」

「気持ち悪い」

「ひぃ! ロリっ娘に気持ち悪いって言われると破壊力がきっついわぁ!」
「でも蔑んだ目で見られてるとお股がむずむずしちゃう!」
「ふしぎ!」

「自家発電は大概にしろよ。面白おかしく聞いてやるから話せ」

「夏のビーチでナンパは入れ食いが鉄板」
「そんなふうに考えていた時期が」
「俺たちにもありました」

「江ノ島気分でふらついてきたら、ノルマンディーのオマハ・ビーチだった訳だな」

「むしろ猿の惑星ラストな絶望感です!」
「おにゃの娘のいない砂浜なんて夏の砂浜じゃない!」
「おろろ~ん! おろろ~ん!」

「とりあえずだ。ナンパする気があるなら、もうちょい水着にも配慮しろや」

「越中ふんどし、白!」
「六尺ふんどし、黒!」
「もっこふんどし、金茶!」

「「「俺たちがセクスィー!!」」」

「ふんどし締めてかかってるってか? やかましいわ」

「私でも引くわ」

「痛い! 足蹴にしないで!」
「ノリ突っ込みがヤクザキックとかなにそれひどい!」
「俺たちの妄想力が後ろ向きに火を噴くぜぇ……!」

「泣き寝入ってろ。言っとくが今日一日貸し切ってプライベートビーチだからな、ここは。部外者は早く失せろよ」

「だってさ」

「おお! あなたひどいひと! わたしにくびつれといいますか!?」
「どうか、どうか俺たちにおにゃの娘成分を!」
「見るだけ! さきっぽ見るだけだから!」

「うーわー……」

「必死過ぎて引かれるレベルだな。自分の胸でも寄せて上げてろよ」

「ブラじゃないよぉ~!」
「こ・れ・はっ」
「大胸筋矯正サポーターだよぉ~!」

「ほんとに寄せて上げんな」

「意味はわかんないけどアホだってことは伝わってくるわ」

「どうか、どうかこの通り! 哀れな子羊に一片の慈悲を!」
「荷物持ちからパシリまでなんでもやります! だからご一緒させて下さい!」
「なんなら足でも舐めさせて頂きます! えへっ、えへっ!」

「ちょっとぉ、これどうするのよ?」

「そうだなぁ……てゐ、ちょっと耳貸しな」

「……」
「……」
「ゴクリ……」

「……でだな……して」

「じゃあ……くらいに……」

「こ、これが悪魔と契約する気分か」
「もう流してるのが冷や汗なのか男汁なのか判らんよな」
「しっ。黙ってないとまた無理難題押し付けられるぞ」

「うん、それならいいわよ」

「よし、決まりだな。トンチンカァ~ン、さっきなんでもするって言ったよなぁ?」

「気をつけろ! あれは多重債務者を追い詰める血も涙もない取立て屋の笑顔だ!!」
「薄々判ってても、希望を見出してつい引っかかっちゃう!」
「そんな俺たちがやっぱりちょっと可愛い!」



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「      フ  ァ  ン  フ
    プ              ァ

  ッ                 ン

  ェ                   ウ

  テ                   ィ

  ス                   ヒ

   プ                 ッ

    ッ             ザ
       ェ  テ  ス  ッ        」



 なにこれ。



「ハーハービーツアライクスキィップスキ
 ゥ                ィ
 オ                |
 ズ  チューチュートレイン~♪  ッ
 |                プ
 ィ                ト
 リプィミクイテスイーァダラーァパザゥ」



 なに…この……なんなの?

 目の前の光景は筆舌に尽くしがたく、私は言葉を失ったまま立ち呆けていた。

 下郎が因幡に連れられて、堤防の片隅に向かったのがついさっき。
 浮き輪を身につけかき氷をしゃくしゃく食べながら眺めていると、なにやら見知らぬ男を三人連れて戻ってきた。
 挨拶もそこそこに縦一列に並んだかと思ったら、歌いながらこれだ。

 隣にいる永琳はにこりともせずにその様子を眺め、背後にいるイナバは三人組の奇妙な動きに怯えていた。
 私は意味が判らなかった。

 三人組の歌にあわせた不審な挙動が終わると、視界に下郎が割り込んでくる。

「はい。今のがトンチンカン提供で送るチューチュートレインでした、と」

 下郎の拍手――と言うよりも注目を集めるために打ち鳴らされた音に、思わず月まで里帰りをしてしまっていた私の意識が戻ってきた。
 手元に視線を降ろすと、かき氷がすっかり溶けてしまっていた。

「決まったな、俺ら」
「普段より雰囲気ハンサム一.五倍くらいにはなってたな」
「湧き立つ情熱で好感度がアゲザイルだぜ」

 三人組が顔を突き合わせてなにか言っているが、どうでもいいことだろうから聞き流した。
 下郎は私たちの反応を確かめるようにそれぞれ見回したあと、うんうんと納得したように数度頷いた。

「これがいわゆる賎民、小作人、下僕、家畜人と言われる類です。ぶっ倒れるまでネタをやらすなりパシリに使うなり、擦り切れた大根の尻尾みたくなるまでこき使ってやりましょう。いいですね?」

 異物感漂う三人組を理解するに辺り、下郎の言葉は実に容易な表現だった。
 生態が謎でも立場が明確なら対処もできる。

「うぉい!」
「とっておきのネタを披露したのにこの扱い!?」
「格差社会 ダメ 絶対」

「うるせぇ。ここは暴力社会だ。嫌なら息子を縦にちょっきんして二児の父にすんぞ」

「ひいぃぃぃぃ! は、ハサミですかぁー!?」
「息子だけは、手塩にかけて育ててきた息子だけは勘弁して下さい!」
「主に右手一つ、たまに左手で育ててきた大事な息子なんです!」

 下郎にすがりついては殴られている男たちの様子は、さながら獄吏にいびられる罪人のようだ。
 或いは地方豪族たちが囲う荘園の中で行われていた縮図か。
 人が人の上に立つ以上、いつの時代においても下が搾り取られて上は贅に富むという構図は同じなのね。

「あの。ご主人様」

 私が時代の変遷と抜け出せない本質に頷いていると、背後からおずおずと手が挙がった。
 イナバだ。
 態度こそ遠慮がちだったけれど、三人組に対しては露骨に冷め切った視線を向けていた。

「今からクーリングオフは出来ますか?」

 喰倫愚汚腐?
 なんだかわからないけどすごく禍々しい響きね。

 もたらされる喰倫愚汚腐に怯えたのか、下郎に取りすがっていた男たちが色めきたつ。

「そんな!? 僕たち欠陥住宅じゃないよ!」
「むしろ安心安全良質の三拍子揃ったお買い得物件だよ!」
「名前はトンチンカンです。どうか拾ってやって下さい」

「えー……」

 その場に土下座までして哀れっぽく訴える三人組に、イナバの目はどこまでもうろんげ。
 どちらが生殺与奪権を握っているかなど傍目に見ても明らかだった。

 イナバの言葉だけで大の男をここまで震え上がらせることができるなんて。
 そこまでのものか、喰倫愚汚腐。
 侮れないわね。

「まあ落ち着きなさいイナバ。賑やかなのもそう悪くはないでしょう」

 私は余裕たっぷりに口元に手を当てる。
 私の王者の風格に、イナバはぎょっとして様子で三人組と見比べると口に手を立て耳打ちしてくる。

「ひ、姫様。相手は素性も知れない男たちなんですよ? 何を考えていらっしゃるんですか」

「あら、何をそんなに慌てているの? あんなのは兎と一緒でしょ」

 イナバに合わせて小声でやり取りしながら一瞥すると、三人首は土下座したまま顔を上げて、地獄に差した光明を見つけたように顔を輝かせていた。

「おお……!」
「殺伐としたこの海に救世主が……!」
「シャレじゃなく本気で殺伐としてるからなぁ」

 一方イナバはますます目を剥き、罪人を捕らえた検非違使のごとく三人組がいかに悪辣なのかを訴えてくる。

「兎だなんて……あれはもっと不健全であくどくてさもしい別物です……!」 

 イナバが率直にここまで言うのだから、間違いはないのだろう。

「久々にワロタ」 
「こういう評価に甘んじてきたのは昔からなんだよな」
「過去と比べても大体合ってるから困る」

 こちらの密談が聞こえてしまったからか、わざと聞こえる声で話したのか、開き直ったイナバは三人組をじとりと睨みつけた。

「私、まだ忘れてませんからね。貴方たちがした事」

「……ボクタチカイシンシマシタヨ」
「……モウワルイスライムジャナイヨ」
「……デモロ-ションプレイニアコガレチャウンダ」

 本人たちも自らの悪性を認めているようだし。
 私はしばし考える素振りをしたあと、三人組の側に立つ下郎に視線を向けた。

「当然、このしつけの悪い獣どもの手綱は貴方がきちんと締めておくのでしょうね?」

「言われるまでもありゃしませんよ。起立っ!」

 下郎が突如大声を張り上げると、それまで砂浜に這いつくばっていた三人組がバネ仕掛けの人形のように跳ね起きた。
 添え木を当てられたように背筋を伸ばし、きびきびとした動作で横一列に並ぶ。

「宣誓っ!」

「我々、トンチンカン三名は!」
「締結された紳士協定に則り!」
「セクハラ行為は脳内に留める事を誓います!」

「海水浴心得っ!」

「おっぱいばっかり見ません!」
「触るなんてもってのほか!」
「以上を守ってエンジョイ&エキサイティング!」

「もし破ったらっ!?」

「罪には罰を!」
「死に至る罰ゲームを!」
「なんなりとお申し付け下さい!」

 宣誓と同時に片腕を上げたまま微動だにしない三人組に、下郎は鷹揚に頷いて見せた。
 思った以上に統率されていて、ちょっと驚いた。
 イナバなどいきなり絶叫を始めた三人組に気おされて、さらに数歩後ずさっていた。

「とまあ、こんな感じだ」

「なるほど。及第点を差し上げましょう」

 そういった驚愕は表に出さないよう、私は努めて落ち着いた声音で応えた。

「そういうことで、永琳。いいわよね?」

「ええ。短い間だけれど、よろしくね? 坊やたち」

 元々積極的な反対もしていなかった永琳は、あっさりと頷いた。
 味方が出来たとでも思ったのか、三人組は永琳の挨拶にがくがくと頷いた。

「イナバ?」

「……わ、判りましたよぅ」

 イナバも渋々と言った様子で、唇を尖らせながらも承諾した。
 因幡の方は今までのやり取りをにやにやと笑って見ていたから、三人組を連れてきた時点で反対のつもりはないらしい。
 それを証明するように、やはり底意地の悪い笑みを浮かべていた下郎と顔を見合わせて頷いていた。

 これで決は取れた。

「満場一致で賛成ってことね」

「イ    オオ    ウッ!」
「 ヤ  オ  ォ  ォ ッ!」
「  ッホ    ォォ  ッ!」

 裁決を下した私の言葉に歓声を上げると、その場で円陣など組んだ。

「どうするお前、お仕置きとかされちゃうんだぞ?」
「下品な話ですけどね……ふふ……想像しただけでおっきしちゃいましてね……」
「生きてたら報われる事もあるんだなぁ……くぅ、まだ泣かない!」

 この三人組が下心満載で、下手をするとお仕置きされるためだけに進んでいかがわしい真似をしてきそうなことくらい、私も見抜いている。
 見抜くまでもなく丸聞こえなんだけど。
 永琳がただで済むようなお仕置きを考えるはずがないし、三人組は友好的な笑みと捉えていたようだけど、あれは実験対象を見る目。
 因幡は下郎と一緒になにかよからぬ謀を企てているようだし、イナバは全力で回避するだろう。
 そして私は――

「これも私の口添えがあったからこそよ。言うなれば私の手腕が全て!」

「うおおおおおおっ!」
「カン吉ッ! 君の意見を聞こうッ!」
「Exactly(そのとおりでございます)」

 ちょうどよい具合に私を崇める下々の者が手に入った。
 前から思っていたけど、ここは私に対する扱いがぞんざいなのだ。
 ピラミッド構造の基部としては少しばかり目劣りする数だけど、少しずつ集めていけばいい。

 私という超絶アイドルを支える十把ひとからげとして、三人組の存在を許した。

「さあ愚民ども、私を称えなさい! 月の女神にて地上に舞い降りた月光天、この蓬莱山輝夜を褒めて褒めて褒めちぎるのよ!」

「か・ぐ・や!」
「か・ぐ・や!」
「か・ぐ・や!」

 姫たるものは、やっぱりこうじゃないとね。

「でも名を呼ぶ許しは与えていないわよ、この愚民どもがァ――!」

「ぶるああああああッ!」
「でたぁー! ドロップキックだぁー!? トン太くんふっ飛んだァ! どぉーですか解説のカン吉さん!」
「充分な助走と体重を乗せ、腰のひねりも加える事によって互いのウエイト差を感じさせません。ディ・モールト良し!」

 躾は初期に力関係を判らせるに限ると、すでに学習していた。






「頭数も揃ったとこで、ドキ☆ドキ☆ビーチバレー大会の開催です!」

「わー」

「トン太です。いきなり必要機材を集めて来いと無茶振りされました」
「チン平です。とりあえずネットは近所の漁師さんの物と思われる網を使用してます」
「ちょっと借りてるだけなんだからな! 通報するなよ! 絶対通報とかするなよ!」

「チーム割りについて恨みっこなし。トーナメント式勝ち抜き一本勝負。一五点でワンセット。二セット先取したチームが勝ち。サーブ権は先攻から順に五本ずつで移動。各自異論は? 俺はない」

「ないわ」

「私もないわよ」

「あるけど、心の広い私は勝ってから言うことにしておいてあげる」

「……大いにあります」

「「「ないでっす!」」」

「賛成三、条件付き賛成一、反対一。賛成多数によって本件を可決」

「あるぇえええ?」
「俺たちの意見が反映されてないよ!?」
「情報の開示を求む!」

「国連において常任理事国以外拒否権を持たないのと同じ理屈だ」

「参政権すら与えられてないのか。汚いなさすが大国汚い」
「封殺される声なき声に耳を傾けろ!」
「でも援助切りは勘弁な!」

「うるせぇ。世界地図から消すぞ。……はい、もう意見は出揃ったな? では皆さん各自優勝を目指して頑張って下さい。開始に当たって審判兼実行委員長からの挨拶です」

「みんながんばる」

「――じゃあ早速始めるか。一回戦のチームはコート上に移動。駆け足!」

 ルール説明も受け、準備運動と基本動作も覚えた。
 コートの準備も整ったので、開始時間までのわずかな時間を利用して間接をぷらぷらして解す。
 さっきまで肩を回していた下郎は、頭くらいのボールを指先に乗せて回している。
 二人一組のチーム分けの結果、何の因果率が働いたのか私は下郎と組むことになってしまった。

 思うところは多々あるものの、ひとまず目の前に勝負に集中することにした。
 何しろ勝負事だ。
 気の抜けていた今まではともかく、姫たる矜持を取り戻した私は、あらゆる勝負において常勝無敗であってしかるべきなのよ。
 輝夜・ザ・ビクトリーロードの始まりよ!

「いいこと下郎。足を引っ張ったら即、その焼けた肌に氷ぶつけてやるわよ!」

「地味だが確実な嫌がらせだなおい」

 対するはイナバと――ええと、三人組のうち真ん中にいるっぽいの。

「鈴仙ちゃん、勿論優勝狙っていくからね! ボール拾っていくからどんどん打ち込んでね!」

「……」

「凹むから無視とかやめてっ!」

 見る限りチームワークはなきに等しい。
 一回戦突破は余裕ね!

「輝夜、怪我で済む程度に頑張りなさい」

「鈴せーん、相手があいつでもヘタレてるんじゃないわよー」

「M・P・O! M・P・O!」
「MPOはマジで、ポロリを、大いに期待の略です。M・P・O! M・P・O!」

 外野で飛び交う声援や野次を聞きながら、私は腰をかがめてじっとこっちを見据えてくるイナバの視線を受け止めた。

「イナバ、随分息巻いてる様子だけど……まさか、この私に勝てるとでも思ってるのかしら?」

「……姫様のその自信は、一体どこから湧いてくるんですか」

「自信? わかってないわね。そんなものは下から少し這い上がったつもりになって、勘違いから身につくものよ。真の実力者は当たり前として常に満ち溢れているものなのよ」

 湧き出さねば身につかず、いつか枯れてしまうような紛い物ではない。
 私自身が王者たる証!

 鼻で笑って流した私に、イナバは口元をぐっと硬く締めた。

「遊びでも常に勝ち続けられると思っているなら、大間違いです」

 あらカチンときたわぁ。

「言うじゃない。イナバの癖に」

「そろそろ、姫様も身の丈を知った方がいいと思いますよ?」

「ぎりぎりぎりぎりぃ」

「うふふふふふふふふ」

「チン平ですが、コート内の空気が最悪です」

「おっかねぇ」

 最近随分と鼻持ちならなくなったイナバと睨みあう中、子供用滑り台(これも三人組がどこかから調達してきた)の上にちょこんと座っていた小人が手を挙げた。

「はじめー」

 気の抜けるような飄々とした声を合図に、ドキ☆ドキ☆ビーチバレー大会が始まった。

 序盤からもちろん、こちらが着々とポイントを積み重ねた。
 向かい側の二人の動きは明らかにぎこちなく、下郎のサーブを打ち込むだけで面白いように点が入っていった。
 イナバはまるっきりの初心者だし、三人組の真ん中のも決して上手い訳ではない。
 下郎のサーブを受けたあとも、連携が噛み合わなかった。

 何もしないまま勝つなんて、まさしく王者の余裕。
 楽でいいわ。

 なんて思ってたんだけど、五本目でサーブが入れ替わってから流れも一緒に変わってしまった。

「ほれ、上げるぞ」

 と、相手陣営から飛んできたボールを危なげなくトスする下郎。
 山なりの曲線を描くボールの動きを目で追って、ネット近くで待機していた私はタイミングを合わせて跳んだ。

「んんんんん~~~!」

 ぶんぶんぶんぶん。

「んんんんん~~~!?」

 ぶんぶんぶんぶん。

 振り回す私の両手はボールにかすりともしないまま、着地。
 それとほとんど同時に、待ち構えていたイナバが跳んだ。

「えいっ」

 ボールがネットを越えた瞬間打ち返してきた。
 私の真正面に。

「えっうぎゃっ」

 勢い良く打ち返されたボールは私の顔面に直撃した。

 目から火がッ!
 高貴な鼻がっ!
 メテオがフェイスにストライクッ!!

「つぉおおおおおおおっ!」

 顔を押さえて砂浜を転げ回る私。

「あー……モロにいったな。審判、タイム」

「みとめる」

 のた打ち回る私の耳に、一時中断の声が聞こえてきた。

「ちょっとイナバ、貴方私に恨みでもあるの!? 亡き者にでもする気!? 五年は寿命が縮んだわよ!」

 氷水で冷やされた手拭で顔を押さえて、私はイナバに文句を言った。

 よりにもよって姫のご尊顔にボールをぶち当てるなんてなにを考えているのよ!?

 イナバはネットを隔てた向こう側で、居心地悪そうに答えを詰まらせていた。

「……別に憎くて当てた訳じゃないですよ?」

 なんなの、今の間は。
 
「これが世に言う下克上ね。覚えてらっしゃい、同じ目にあわせて月の表面みたくしてやるから! うぎぎぎぎぎぃ~!」

「そうかっかすんなよ、お姫さま」

 歯軋りして睨む私に諌めるような口を利くのは、よりにもよってあの下郎だ。

「まぐれ当たりって奴だよ。鈴仙、スパイクの時目ぇつぶってたからな。ありゃ本人もどこに飛ぶか判ってねぇよ。勝負の最中に頭に血を昇らせたら、勝ち負けどころか楽しむ事も出来やしねぇぜ?」

「ええい、貴方はどっちの味方のつもりよ!? 高貴で無敵な私と小賢しい下郎チームの一員なら、ルールの隙間を縫った卑怯で灰色な手段を用いて私を全面的にサポートするのが道理というものよ!」

「へー。ふーん。そういう風な目で俺を見てたのか。お姫さまよ、無敵なら顔面ブロックくらいでつぉおおおとか言うなよ」

「月とすっぽんよ!」

「……ただの間違いか自虐ネタなのか、判断に苦しむとこだな。まあ、なんだ。そもそもお姫さまがちゃんと打ってたら顔面に貰う事もなかったんじゃねーの?」

「うぐっ」

 痛いところを突いてくるじゃないの、この下郎。 

「届かないものは仕方ないわ!」

「胸張って言うな。判ってるのにどうして前に前に出ようとするかね?」

「月の姫に、後退の二文字はないのよおおおっ!」

「どこの聖帝だよ」

 大げさにため息をつく下郎。
 向かいでは三人組の真ん中のが早くも勝ち誇った顔で笑っていた。

「ふははははぁー! なんと脆いチームプレイか! チン平とバニバニ鈴仙ちゃんチームの敵ではないわ!」

 あいつあとで殺す。

「チーム名は鈴仙・優曇華院・イナバと三人組-2です。間違えないで下さい」

「あ、はい」

「それとサーブとレシーブ以外は何もしないで下さい。それ以外は何も求めてませんから。いいですね?」

「すいません、調子乗ってました」

 ざまぁ。

 イナバに冷たくあしらわれてしゅんとする真ん中の。
 多少溜飲は下がったものの、勝負の方はこのままだとジリ貧に変わりはない。
 けれど、私は後ろに下がるつもりはなかった。

 もちろん、私だって勝ちたい。
 けどただ勝つだけでは――それも楽だと思ったりもしたけど――意味がないのだ。
 勝つからは過程にもこだわって、なにより一度もボールに触れることもできなかったなんて、格好悪くて仕方ないじゃない。

「ま、もちっとトス上げる場所考えてみるわ」

「ふん。初めからそう言えばいいのよ」

 足を引っ張るなと言っておきながら私が足を引っ張っている事実に、そんな憎まれ口しか出てこなかった。
 
「はじめー」

 小人の声でビーチバレーを再開する。
 すぐに、イナバたちの動きに乱れがなくなっているのが判った。

 イナバたちは役割分担を決めている。
 サーブを打つのもレシーブするのも真ん中ので、イナバはスパイク係に終始している。
 ミスを極力減らして、失点を少なくする戦法だ。
 あと、イナバはスパイクを打つとき本当に目をつぶっていた。
 さっきの顔面直撃は本当に故意ではなかったらしい。

 こっちは下郎がトスを上げて私がアタックを狙うのだけど、私の手が届く位置だと低すぎてネットにひっかかってしまう。
 下郎はほとんどのボールを拾い上げてくる。
 勘がいいのか相手の動きから読んでいるのか、予測が抜群に上手いのだ。
 一緒のコートにいるとよくわかるんだけど、相手が打とうと構えた時点で動き出している。
 まるでボールの軌道があらかじめ目に見えているかのようだ。
 ただ、イナバの目を閉じたままアタックはかなり読みづらいらしい。

「経験者の方が型にはまってる分却って読み易いんだが、素人は加減もセオリーもねぇから何するか判らん。鈴仙の球筋はさっぱり読めん!」

「……」

 力強く豪語する下郎に、私は悪態一つ出て来なくなってしまっていた。
 すでに一セット取られてしまった。

 イナバたちは安心感が出たのか動きに余裕があり、私はどんどん追い詰められていく。
 なりふり構わず勝ちにいけばいいのか。
 かといって、それは下郎任せにするということ。

 永琳やイナバたちなら頼っていただろう。
 けれど誰にも増してこの男に任せ切りにして頼りたくないと思う。
 そもそも任せっ切りに向上心を失ってしまったがゆえに今の事態を招いた。

 ビーチバレーなんてただのお遊び。
 勝っても負けても根本的な状況が変わるわけじゃない。
 負けるのが嫌だから、その感情だけで最大限有利な手段で競えばいい。
 けど、こだわりたい。
 だって、もし今ここでこの男に任せ切りにして、それでも勝ってしまったのなら。

 私は、いてもいなくてもいいってことになってしまうじゃない。
 それは嫌。
 嫌だ。
 絶対に!

 巡ってきたサーブ権、ここを落としたら負けてしまう。
 下郎と位置を入れ替わり、私は手にしたボールを凝視して咽喉を鳴らす。
 もう一点たりとも落とせなかった。

 頬を伝う汗の感触を意識しながら、

「作戦ターイム」

 唐突に下郎が声を上げた。

 作戦タイムなんてルールになかった。
 さっきは私の顔面直撃があったからタイムが取れたんだろうけど、作戦タイムなんてありなの?

 一同の視線が、滑り台の上で三角座りをしていたゲームの審判に集まった。

「みとめる」

 気の抜ける声で、あっさり認可が下りた。

 私の全身からどっと汗が噴き出した。
 全てとは言えなかったけれど、身体から緊張感が抜けていくのを感じる。
 自分でも気がついていなかったけど、口の中がすっかり渇くほど汗を流していた。

「いやー、一セット先取で勝ちにしときゃ良かったかね。長引くと倒れるわこれ」

 と、下郎は負けそうだというのに相変わらず気楽な調子でコートを離れて、中によく冷えた飲み物が入った箱をずるずると引っ張ってきた。

「遊びでぶっ倒れちゃつまらん。ま、のんびりやろうや」

 中身を取り出すとひょいひょいと投げ渡していく。

「あ、ありがとうございます」

「へぇ、気が利くじゃない」

「ありがとう。頂くわ」

「オレンジ!」

「あれ? 俺らにも回ってきた?」
「絶対お前らは氷が溶けた水でも飲んでろとか、海水がたらふく飲めるぞとか」
「鬼畜な事言われると思ったのに」

「お前らは後で飲んだ分足しとけ」

 三人組もあわせて全員に配ると、私の分なのだろう、二本の金筒を手にして歩いてきた。
 私は生唾を飲み込もうとして、咽喉が渇いてるため空咳が出た。

 作戦タイムだなんて言っておいて、たんに咽喉が渇いただけだったのか。

「ほれ」

「……っは」

 受け取った金筒の蓋を開けたところで、

「まだ飲むな」

 男が鋭い声を発した。

 思わず顔を上げる。
 軽薄で陽気なだけだった表情が引き締まり、真剣な顔つきで私を見つめていた。
 この顔つきは知っている。
 私を揶揄し苛立たせる顔でも、私を怯えさせ恐怖を植えつけた顔でもない。
 今まで何も知らなかった私に、見せつけるという形で愛とはなにかという疑問を想起させた顔。
 イナバたちに向けていた顔に近かった。

「一気に飲むとバテる。座り込んだら尚更だ。一口ずつ、口の中で転がしてから飲むんだ」

 私の前でしゃがみ込むと、そんなことを言った。
 私はひんやりと冷たい金筒を手にして、飲み物を一気に呷りたい欲望に駆られながらも、ぐっと堪えた。
 雰囲気の変わった男の態度もそうだったけれど、周りの様子を見ていて変化に気がついた。

 というよりも、永琳だけが違っていた。
 周囲ががぶ飲みしている中、今まさに男が言ったように少しずつしか口にしていない。
 元々涼しげでそれほど汗もかいているように見えなかったけど、永琳の行動と男の言動の一致は、私をいつもより冷静にさせた。

 つい傾け過ぎてしまいそうになりながら、言われた通り口に含んでから舌で転がした。
 含んでいるだけで、口の中全体に染み渡っていくような感覚。
 集中し過ぎて忘れていただけで、身体はからからに乾いて水分を求めていた。

 男もちびちびとジュースを飲みながら、砂浜にさらさらと指を滑らせていく。

「人体の仕組みが判った所で現在の状況だ。得点は4-9。一セット目は11-15。勿論こっちが押されててリーチ二歩手前」

「……」

 顔を上げて少しきつめに睨みつけた。
 そんなことわざわざ言われなくてもわかっている。
 私の視線に、けれど男は淡々と状況の整理を続けていく。

「向こうの得点源は鈴仙。こっちは俺のサーブでも点を取れちゃいたが、今は充分拾われるようになってる。つまりこっちにゃ有力な得点源がない」

「なによ、皮肉でも言いたかった? それとも、私に引っ込んでろとでも言いたいのかしら?」

 少しずつ水分が補給されて、私の言葉に毒舌が戻ってくる。
 けれど、この男はそう言うと思った。
 勝つことを目的にするなら、それが正しいのだと内心思ってもいたのだ。

「まさか。今まで通りお姫さまが前に出てスパイカー」
 
「へ?」

 けど、男はそれと全く逆のことを言ってきた。
  
「それしかねーんだって。第一、お姫さまが後ろに下がってどうすんの。的確なトスとかレシーブでアシストとか無理だろ?」

「……うん」

 率直に訊ねられて、余りにも皮肉のない言い方に、私は悪態すら忘れて素直に頷いてしまっていた。

「ただしそれは向こうもおんなじ。鈴仙の得点源は野郎のアシストあっての事。サーブに着いて来れるようになったんで、その分左右に振って走らせてやった」

 男はちらりと振り向く。
 視線の先で、三人組の真ん中のはその場に座り込んでいた。
 飲み物はもうとっくに飲み干してしまったらしく、足元にくしゃくしゃになった金筒が落ちていた。

 私たちは視線を戻して再び向かい合う。

「お姫さまのサーブも結構利いてるぜ」

「私が? ……どうして。ネットに引っかかったりしたのに」

「けど相手のコートにも届く事もあるだろ? 嫌なもんだぜ、こっちに来るかどうか判らない、予測し辛い球ってのは」

 そうだ。
 この男もついさっきそんなことを言っていた。

「役割分担してる分、鈴仙はスパイクからレシーブに意識が切り変わり難い。一セット目の内七点、二セット目の三点は鈴仙の近くで落ちた分だからな。後はラインオーバー。つまりどうあっても野郎が拾って上げるしかない訳だ」

「や、やけに具体的ね……ひょっとして、全部見てたの?」

「ああ。勝負事なんてのは、先に相手の癖や性格を見抜いた方が勝ちだからな」

 私は自分のことだけで精一杯で、周りにまで目を向けている余裕などなかった。
 その間に、この男は注意深く相手を観察しながらゲームをしていたのだ。
 それと感じさせず、ただ楽しんでいる風を装いながら。

「という事で、まず野郎を切り崩す。やっこさん、もう半分勝ったつもりでいる。五〇〇mlをがぶ飲みした上に、ああまで座り込んでちゃ相当足に来るだろうよ」

「ひょっとして、貴方狙ってやったの?」

「当然。世の中ただより高いものはないってね。卑怯で灰色の手段で全面的にサポートしてみたのさ」

 にっこり笑いながら毒入りの食事を渡す、この男の腹黒さは健在だ。
 腹が立って仕方なかったはずのその性格が、今はなんて頼もしく感じられるんだろう。

「サーブ権はこっちから。とりあえず適当に相手コートに放り込んでやるだけでも、相当ガタが出るだろうよ。失点プラスに得点源も危うくなってくる訳だ」

「でも、そのあとの反撃はどうするの? サーブならイナバも打つし、私だと拾えない」

 いくら相手の得点源を揺さぶったところで、こっちは得点源がないまま。
 それでは勝てない。
 男は人差し指を立ててちょいちょいと招いた。

「それに関しちゃ秘策があってね。ちょい耳貸し」

「?」

 秘策という単語に、私は目の前にいる男の素性も忘れて素直に耳を寄せていた。
 男がそっと口元を寄せて、その秘策を聞かせた。

「……そんなことするの?」

 内容を聞かされて、私は思わず目が点になっていた。
 男は今まで浮かべていた真剣な表情を崩した。

「面白そうだろ?」

 心底楽しそうな笑みだった。
 幼子が笑うようなその笑みに私は呆れて、次いで思わず声を上げて笑いそうになってしまった。

 面白そうか。
 確かに。
 確かにそれは大切な理由だ。

 勝つか負けるか判らないのなら、全力で賭けた方が面白いくなるに決まっていた。

「いいわ。乗ってあげる。光栄に思いなさい? こんな真似を許すのは、未だかつて他に誰もいないのだから」

「恐悦至極にございます」

 苛立たしい慇懃無礼な口調も、どこか違って聞こえるから不思議。
 全く。
 面白いという理由は実に大切で、罪深いものね。

「はじめー」

 綿密な作戦会議を交わしたあと、小人から三度の気の抜けた声。
 けれど、それは私から必要以上に緊張も抜かず、がちがちに固まるでも脱力するわけでもなく、自然体のままサーブを打つことができた。

 男が言っていた通り相手の動きは明らかに鈍っていた。
 サーブを打ち込むだけで足が追いついていない。
 私もネットに引っ掛けないようにだけ気をつけて、五本中四点がこちらに加えられた。

 得点は8-10でほぼ横ばい。
 さあ、ここからだ。

「準備はいいかい?」

「無論よ」

 ボールを相手陣営に渡した男に応じて、私はネット際で腰を沈める。
 直前までやることは一緒。
 トスが上がるまで待って、しっかりとボールを見ること。
 ボールを手にしたイナバを見据えて、私はただそのときを待つ。

「――えいっ」

 イナバの掛け声と一緒にボールがこちらのコートに飛んでくる。
 アンダーハンドサーブは安定している分勢いは弱い。

「そらっ」

 男は楽々とボールの下に潜り込んでトスを上げた。
 真っ青な空に飲み込まれていくような、今までにない高いトス。

 真打の登場よ。

「行くわよ」

「よし来い」

 トスを上げたあと、男は素早く体勢を整えている。
 落下地点付近で片膝をつき、両手を組み合わせて駆け寄る私を待ち構えている。
 私は歩幅を調整して駆け寄ると、そのままの勢いで片足を男の手の平に、両手を肩に掛けた。

「跳べっ」

 ぐんっと一気に私の身体が押し上げられた。
 助走と踏み台、さらに男自身の力も加わって、私は普段の二倍近い高さまで跳んでいた。

 私は明らかにジャンプ力が足りなかった。
 ネットを越える高さだとボールに手が届かず、手が届く距離だと相手コートに入らない。
 それを一挙に解決する方法がこれだ。

「それっ」

 ゆっくりと落ちてくるボールを、私は相手コートに目掛けて打った。
 平手で叩くのではなく、親指の付け根の部分を意識して叩くように。
 男の助言を守ってスパイクを打った。

 着地したとき、今まで以上の衝撃に私の膝が折れ、そのまま尻餅をついてしまった。
 けど当たった。
 今までろくにかすりもせず、当たってもネットに引っかかってばかりだったのが、初めて相手コートまで届いた。

「あうとー」

 こちらの秘策を見せ付けられ、反応もできずに呆気に取られている中、小人の声が聞こえた。
 ボールはラインを越えていた。
 秘策を用いたスパイクは、残念ながら得点には繋がらなかった。

 でも、なんだろう。
 楽しい。
 男の手を借りて跳び、スパイクを打つ。
 たったそれだけのことなのに、すごく楽しい!

「立てるかい?」

 男が私に歩み寄ってくる。
 差し出された手を何の忌避や嫌悪もなくつかまることができた。

「ちょっと足が痺れたけどね。さすが月の姫、なんともないわ。さあ、反撃開始よ。どんどん打ち込むからどんどん上げなさい!」

「オーケー。底力を見せてやるか」

 本格的な反撃を開始した。

 命名、月面式超電磁スパイクによって五本中三点をもぎ取った。
 勢いに乗る私たちに、イナバたちは困惑と疲労が重なってリズムを乱していた。
 男の意地悪なサーブでとどめを刺して、初の一セットを奪い取った。

 そして迎えた最終セット。
 月面式超電磁スパイクの回数を重ねるごとに、男もタイミングやトスの位置、私を放り上げる力加減も修正が加えられていく。
 私も跳ぶときに自ら膝を屈伸させたり、ボールのどこを打てばいいのか、着地姿勢の勝手もわかり安定していった。

 イナバたちもリズムが乱れたものの、なんとか立て直そうと持ちこたえ続ける。
 三人組の真ん中のもとっくに足に来ているはずなのに粘り続けた。

「くっ、しぶといわねぇ」

「私も、負けたくないんです」
 
「ここが俺にとってのアラモ! 今倒れる訳にはァァァァいかんのだああアァァ!」

「へっ。そういうの嫌いじゃないぜ」

 サーブとスパイクの応酬が続き、お互い僅差のままボールがコート間を飛び交った。

 そしてとうとう。

「ふんっぐ!」

 私のスパイクが相手コートに突き刺さった。

「おわりー。こっちの勝ち」

 小人の宣言で白熱した勝負は終わりを告げて、それとほとんど同時に私はコート内で座り込んでいた。
 月面式超電磁スパイクは結構体力を使う。
 何度も何度も放り上げられて、さすがに疲れた。

 それでもイナバたちに比べればまだましな方で、向こうは精魂まで尽き果てた様子だった。
 私はネットを張ったポールを頼りに立ち上がり、イナバの元まで移動した。

「まったく、イナバの分際でてこずらせてくれて……」

 一度崩れたら一気に崩壊するかと思ってたけど、粘りに粘った。
 慣れないレシーブで拾う場面もあれば、体勢を崩しながらもスパイクを打ってきたりもした。
 何度も砂浜の上を飛び込んでたりしたから、すっかり砂まみれになって横たわっている。
 私は腹だたしくも睨みつけてから、手を差し出した。

「見直したわよ。意外と根性あるじゃない」

 にやと笑って見せる。
 イナバのことをずっと知っていたつもりでいたけど、知らなかった一面を見れたのがなんだか嬉しかった。

「ひ、姫様こそ」

「私は元々すごいのよ」

「……そうですね」

 苦笑を浮かべてつかまってきたイナバを引き起こした。
 その私たちの向こうでは、男同士で似たようなことが行われている。

「よぉ。随分とまぁ熱くなりやがって。らしくねぇんじゃねーの?」

「俺は……今までずっと不都合な現実から逃げてきた。もう充分逃げた。ここらで踏み留まろうと思っただけさ」

「へっ。トンチンカンの癖に慣れねぇ真似しやがって」

「だな。負けちまったが、今の気分は悪くない」

 三人組の真ん中のは手を借りずに立ち上がり、砂も払わず右手を差し出した。
 下郎はその手をしっかりと握り、にっと口端を吊り上げた。

「そりゃあそうだろうよ。後ろから散々鈴仙の尻を舐め回すように見てたもんなぁ。えぇ?」

 疲労感と解放感に包まれて、お互いに称えあっていた場の空気が変わった。

「充分追いつけるってのに、これ見よがしにダイビングしやがって。そんなにローアングルから覗きたかったか。あ?」

「……あ、いや。その。こっ、心得には抵触してまてんよ?」

 真ん中のは握った手を抜き取ろうとするけれど、がっちりつかまれていているのかびくともしない。
 イナバはいまさらながら、両手で胸元とお尻をさっと隠した。

 急に白けた空気と視線が集められる中、下郎はにっこりと笑って訊ねる。

「そうだな、見てただけだもんな。ところで鈴仙が口つけた缶ジュースは美味かったか?」

「それはもう! レロレロ舐め尽くして一滴残さずあっ」

 間抜けな男が口を滑らせたときには、下郎は握った手を支点に腕を取り地面に組み伏せていた。
 目にも止まらぬ動きで言い訳を口にする暇も与えず、仮に言ったとしても聞かなかっただろう。

「ゴミを捨ててくるからついでになんでも言いつけてね、だぁ? 気が利く振りを装ったつもりだろうが、てめぇの魂胆なんざ見え見えなんだよ間抜けが! 逃げ癖の前にその変態嗜好をどうにかしやがれってんだ! 手癖の悪ぃ野郎は腕ひしぎだ!」

「ギ、ギブギブ! マジ入ってる入ってる!」

 腕を捉えて身体を後ろに倒す。
 間接の構造上曲げられない方向だ。
 身体を起こそうにも、胸元は下郎の足でしっかりがっちりと固定している。
 私の目から見てもあれは振り解けない。
 仰向けになって悶える姿は、逆さまになって起き上がれずにもがく亀に似ていた。

 砂浜を叩いて降伏を訴える男の周りに、今まで観戦していた残りの二人が集まってきた。

「断りもなく抜け駆けとな?」
「メチャゆるさんよなあああ」

「お、俺たち、親友だよな!?」

「でも裏切り者には死を。だよな」
「ドゥー・ユー・アンダスタン?」

 痛みのためか恐怖のためか、もがく男の顔から血の気が引いている。
 これからなにが起きるのか、予測することは実に容易かった。

「やれ」

「てめええええっ、俺たちもチラッと考えはしたけど出来な――敢えてしなかった事をををっ!」
「ああん! ああん! ああん!」
「あの世で俺にわび続けろオルステッドーーーーッ!!」

 下郎の一言で、ひっくり返ったまま首を引っ込めることも出来ない亀の顔面に、二人の男が怒りの連続スパイクを打ち込んでいる。
 ボールが肉を打つ鈍い音と醜い怒りの声と悲鳴を聞きながら、私は隣で落胆していたイナバの肩を叩いた。

「野良犬に噛まれたとでも思ったほうがいいわよ」

「……はい」

 イナバは肩を縮めてしゅんとうつむくのであった。

 主犯は気が済むまで顔面スパイクのあと、腫れ上がった顔だけ残して生き埋めの刑に処された。



 不届き者に制裁を加えた後も、ドキ☆ドキ☆ビーチバレー大会は続く。



「ようやくね。さあ、愛らしい因幡素兎とその下僕チームの出番よ!」

「ふごふごっ」

「ギャグボに鼻フック標準装備たぁ、トンだけに豚か。何考えて海水浴に持って来たんだ」

「かつてない無様さね」

「……」

「やべてっ。鈴仙ぢゃん、これ以上砂を盛らないでっ」



「待たせたわね」

「ぬうううん! ミスター・オリンピア日本代表! ただし上半身のみの術ぅ!」

「きもっ!」

「ぶふっ」

「ちょっと野暮用って言うから何かと思ったらドーピングか。スポーツマンシップ糞くらえか」

「八意永琳と実験生物チームね」

「……」

「死゛ぬっ。鈴仙ぢゃん、息出来ないと死゛ぬからっ」



「ちょっと鵺、あれってありなの!?」

「あり」

「ありはありでも、なんでもありだな」

「あら。元々備わっているものに少し手を加えただけで、投与は少量よ?」

「ブッ壊すほど…………シュートッ!」

「むしろ大量投与でどうなるのか見てみたい気もするわぁ」

「……あれ以上は辛いです」

「ごべんださい~ごべんださい~もうじまぜんんん~~~」



「必殺、兎符『開運大紋』風スパイク!」

「ぶふっ♪」

「因幡に思いっきり踏み台にされてる割には、妙に嬉しそうね」

「オリンピア・トォォォォォスッ!」

「はっ」

「ぐおっ。永琳のスパイクは視覚的にクるものがあるな。ボールが三つに見えちまう」

「ご主人様、加算しました」

「あーるー晴れたー ひーるー前にー すーなーはーまに埋めーられるー」



「健全なる肉体には健全なる魂が宿るぅぅぅ! 無ゥ駄無駄無駄無駄ぷしゅううぅぅぅ」

「あらいけない。時間切れのようね」

「うへ。萎んだ風船みてぇだ」

「……海に流してしまいたいです」

「古事記にそんな話があったわね、確か」

「おわりー。こっちの勝ち」

「途中リタイアで勝ち抜きね。ん~、さすが私。素でも充分ついてるわよ」

「ぶふ、ぶふふふふ」

「ジリジリ ジーリージーリー 日差しに焼ーかーれー
 ムレムレ ムーレームーレー パンツが蒸ーれーるー」



「今の内に負けておいて良かったかもしれないわね。跳ぶ度に胸が痛くて」

「あ、それ判ります。肩も凝るんですよね」

「ふーん。大きいと大きいで大変なのねぇ」

「ち、ちくしょおおあああああーっ!!」

「幾らなんでも畜生はねぇだろお姫さま」

「てめっ。折角のデカメロン天国だったのに、この根性なしがぁ! もうちょっと頑張れよっ!」
「そんなだから、惜しい人(笑)とか言われるんだよ!」
「HEEEEYYYYァァあァんまりだァァアァ!」



「姫様が相手だし、たっぷり手加減するウサ」

「あらそう? 猛禽の目をしておきながらよくも言ったものね、因幡っ」

「ぶふぶぶふふふぶぶ。ぶっふふふふぶ!」

「積年の恨みを晴らしてやる。覚悟しやがれ外道だぁ? 終わったら苦痛を与えてやる」

「ふふ。楽しそうね」

「……師匠、私には凄く険悪に見えるんですが」

「なあ、今の俺って妖怪首置いてけに襲われた後っぽくね?」
「じゃあ俺ぬっぺっぽう!」



「喰らいなさい因幡! タイプ・ルナティック! マスドライバァ―――ッ!!」 

「ぶっふん♪」

「ふふん、甘い甘い。兎符『因幡素兎』風スパイクッ!」

「いてぇ! なんで地面跳ねてから俺を襲ってくんだよ!」

「あのー、師匠。私たちスペルカード使えませんよね?」

「手首のスナップを利かせてスピンさせているみたいね」

「あの豚野郎、姫様のスパイクもらって悦んでやがる」
「KO・RO・SE☆ KO・RO・SE☆」



「これでとどめよ! 下郎、三倍の力で私を放り投げなさい!」

「どうなっても知らねぇぞ……おぅりゃ!」

「た、高い!?」

「ぶふっ!?」

「――あら」

「あー……」

「あうとー」

「俺の逆だな」
「技名はボラーレ・ヴィーアだな」



「死ぬかと思ったけど、案外そんなことなかったわ!」

「輝夜、いきなり動くと首が取れるわよ」

「姫様、私は突っ込みませんからね……」

「無茶するわー。私でもついてけない」

「では皆さん、楽しい楽しい処刑のお時間です。ブゥーメラン ブゥーメラン ブゥーメラン ブゥーメラン」

「い、いやぁ! 艶かしく腰を回しながらもっこり近づけてこないでぇぇ!」
「ワカメで縛った後でヒデキ責めだぁ! 試合に負けても怨恨はきっちり晴らす! 歌が上手いのがなんかちょっとムカつくな!」
「ブーメランって言いたいだけちゃうんかと」



「これ、優勝しょうひん」

「……なにこれ。水着じゃない」

「すくーるみずぎ」

「ちゃんと名前入りだぜ?」

「さんかしょう」

「あら。私たちにも?」

「でも、これ……」

「どれも同じものよね。あ、かぐやって書いてある」

「そりゃ当然。前日に全員分用意しておいたからな。俺が」

「あんたの趣味かぁ!」

「失敬な。水着とくりゃある意味こいつがお約束なのさ」

「全員スクール水着装備だとぉ……!?」
「アリだー!」
「やっべ。おっきしてもこの身体だと良く判んね」



「着るか着ないかはそれぞれですもの。記念に頂いておくわ」

「……こっちの方が、まだ恥ずかしくないかな」

「あー、なんかどっと疲れたわ」

「私の名前、平仮名で書かれてるんだけど。なに、ディスってるの? 月の姫をディスってるの? ほあっ、ほああああっ!」

「はいはい。じゃあ昼までちっと間があるから、各自で自由行動な」

「かいさんー」

「ただし、そこの人外共は後片付けだ。拒否・逃亡の際は怪しい研究機関に売り飛ばす」

「そういうオチですか……俺は人外じゃないのになぁ」
「人間以下って意味だろ。いい加減鼻フック外せよ。ついでにここから引っ張り出して欲しい」
「人間になりたぁーい」


 こうして、ドキ☆ドキ☆ビーチバレー大会は終わりを告げたのであった。
 かしこ。



xxx  xxx



 お昼までの自由行動を言い渡され、私は更衣室の隣に併設されているシャワー室にいた。

「ん……ふぅ」

 蛇口から出てくる冷たい真水を浴びて、火照った肌に張りついた砂を払い落とす。
 ビーチバレーですっかり汗と砂まみれになってしまった。
 汗を流すならそのまま海に入れば良いだけかもしれないけれど、ちょっと人目を避けたかった。

「……ぅう、ちくちくする」

 激しく飛んだり跳ねたり倒れこんだりしてしまったものだから、水着の内側に砂が入ってしまっていた。
 普段服の下に隠れて刺激されない所だから、余計に気になって個室でシャワーを浴びていた。

 流石に人目のつく場所で水着を直すのは気が引ける。
 ましてやあの三人組もいるんだし。
 まさかもう一度出会うとは思ってなかったけど。
 試合に集中している間は気にならなかったけど、やっぱり、男性からの露骨な視線を向けられるのは苦手だ。

 さっきはちょっと油断してた。
 飲み終わった缶を舐めるとか、そういう事をされるのにショックだった。
 師匠もてゐも姫様だって、上手くあしらっているのに。

「はぁ……」

 真水のシャワーを止めて、私は大きなため息を一つ吐き出した。

 私って、ひょっとしたら騙され易い性格なのかもしれない。

 いつもの悪い癖が出て憂鬱になってしまい、しばらく個室を区切る薄い壁に寄りかかっていた。
 せっかく楽しい思い出作りに連れてきてもらったのに、こんな顔をしてたらご主人様に悪い。
 いつだって、あの人は楽しませようと張り切ってくれているんだから。

 気疲れもあって、壁に寄りかかってしばらくそのままでいた。

 不意に、勢い良く扉を開ける音が聞こえて背筋がぴんと跳ねた。
 物音に驚いて振り返るけれど、私のいる個室じゃなかった。
 鍵はちゃんとかけている。
 どうやら隣に誰かが入ってきたらしい。
 蛇口をひねるきゅっと金属が擦れる音の後に、ざっと水滴が降り注ぐ音が続いた。

 ひょっとしたらあの三人組の誰かかもしれない。
 私は息を殺して、壁に耳をそばだてた。

 ざあざあと土砂降りの雨音と、遠い潮騒が耳朶を打つ。

「……くそっ」

 それに、小さな悪態が混じった。
 少し聞き取り難くはあったけれど、この声を聞き間違えたりしない。

「ご主人様?」

 私は壁越しに呼びかけていた。

「ん? レイセン?」

 相変わらず水音はとまらなかったけど、聞き取りにくかった声が明瞭になった。
 多分、壁際に寄ったんだろう。

「どしたの」

「ご主人様こそ」

「いやー、お姫さまにしてやられてね」

「姫様に?」

 私がシャワー室に入る前は、両腕を振り回して襲い掛かる姫様を、ご主人様が腕一本で押し留めている最中だったのに。

「かぐやの奴、後で文句を言うとか言ってたろ?」

「……そう言えば、そんな事言ってましたね」

 薄い壁越しに聞こえてくる声には、苦笑いに似た響きが混じっていた。

「男女ペアにしたのが許せんとか言って、俺の海パンの中に砂入れやがった」

「うわー……」

 あの、ご主人様の際どい水着の中に?
 下手したら引っ張るだけで切れてしまいそうだし、何より、その。
 中身が色々見えてしまう。
 ただでさえ布面積が少ないのに、姫様も思い切った事するなぁ。
 多分思いついたまま即行動して、深くは考えてないんだろうなぁ。

「それでこうして砂を落としに来てるって訳」

「なんだか、その……すみません」

 姫様がしたことなのに、何で私が謝っているんだろう?
 でも、とても申し訳ない気分になったのも本当。

「いいっていいって。それで、レイセンはどうしてここに?」

「あ、えぇと。私も……ご主人様と同じ理由です」

「ああ、はいはい。なるほどネ。動き回ってたからねぇ。ちくちくむずむずするんだよなぁ、これが」

「洗い流してみると、ほんのちょっとなのにね」

「身体は異物に正直だからネ。目だって、砂粒一つ入るだけで痛いし、我慢出来ないでしょ? それと一緒」

「そうですね」

 私は、薄壁一枚隔ててご主人様との会話を楽しんだ。
 ほとんど世間話みたいなもので、なんでもない会話。
 けれどちょっと不思議な感じもした。

「楽しそうで何よりだよ、レイセン」

「ご主人様こそ。子供みたいに嬉しそう」

 ご主人様の声がいつもより弾んで聞こえる。
 私の方もいつもよりも砕けた口調がぽろりとこぼれる。

 雰囲気が似てるからだと思う。
 お互いに顔を見せず、レース越しに話したあの時と。
 
 鬱々としていたのが嘘のように、くすくすと笑い声が洩れてきた。
 やっぱり一人になってしまうと駄目だ。
 誰かがいれば、その雰囲気に引きずられて自然と笑える。
 怖い事や嫌な事もあるけれど、なんだかんだで、ここは優しい人たちに守られている。
 ご主人様を始め、てゐも、師匠も――姫様だってそう。
 月から逃げ出してきた私にとって、奇跡のように居心地のいい場所になってしまっていた。

 なんだか嘘みたいだ。
 ご主人様と出会ってからまだ一年も過ぎてない。
 一年前は存在も知らなくて、今のような会話を楽しめるなんて全くの慮外だったのに。
 ここでの暮らしは時間の密度が濃かった。

 優しい気持ちに浸っていると、耳朶を打つ雨音がきゅっと止まった。

「それじゃ、お先に」

「あ……」

 そうだ。
 ご主人様はシャワー室にたまたま立ち寄っただけ。
 用が済めばここから出て行ってしまう。
 この優しい雰囲気がするすると抜けていってしまう。

「あのっ」

 私は、それが名残惜しかった。

「ん?」

 きぃとドアが軋む音とほとんど同時に、ご主人様の不思議そうな声が返ってきた。
 私は、風のように指の隙間からすり抜けていくその空気を、どうしても引き止めたくなってしまった。

「こっちに来ませんか?」

 焦っていた私は、そんな事を口走っていた。

 さぁ、さぁと潮騒の音が聞こえる。
 ドアが閉まる音は聞こえてこない。
 私は今何を言ったのか。
 省みるに充分な時間、沈黙が続いた。

「えーと。結論から言えばオーケーなんだけどさ」

「……」

「話だけじゃ済まないと思うよ?」

「……はぃぃ」

 蚊の鳴くような声しか出てこなかった。
 幾ら壁が薄いとはいえ、この声が届くかどうか不安になるほど。
 潮騒は遠く、胸の鼓動ばかりがうるさいほど聞こえてくる。

「じゃあ、お邪魔する」

 けれどご主人様は聞き逃したりはしなかった。
 短くきっぱりと言い放った後、こんこんと軽くドアをノックされた。
 私はもう真っ赤になりながら、かんぬき式の簡単な鍵を外した。

「や」

「……」

 本当に、ご主人様は入ってきた。
 招いたのは私なんだけど。
 個室で、間違いなく一人用のシャワー室はすぐ手狭になる。
 私もご主人様も水着を着ていて、さっきまで同じ格好でボールを追ったりしていたのに、視線をどこに向けていいのか判らなくなるほど恥ずかしかった。

 短い挨拶の後、私に向けられる言葉はなかった。
 私は何を言えばいいのか判らなかった。
 とてもさっきのような雰囲気に浸っていられる状況じゃなかった。
 どれだけ名残惜しくて掴んだ気になってみても、私の手から滑り落ちてしまっていた。
 咽喉が渇いたような錯覚に、私は何度も口の中の唾を飲み込んだ。

 意識していなかったけれど、こんな密室で二人になっていると嫌でも判る。
 ご主人様の身体から発する体臭。
 海の匂いと、日に焼けた匂い。
 それらが混じり合った匂い。

「ひ、日焼け……してますね」

 私は未だに視線を定められず、どこに向けた所で浅黒い肌が視界に飛び込んできた。

「サンオイルとか塗ってないからね」

 ご主人様が穏やかに答えた。
 それだけで心拍数が上がってしまう気がする。
 会話だけでこれほどどきどきしてしまっていたら、触れたりしたら一体どうなってしまうんだろう。
 私の心音がご主人様の耳にも届いているんじゃないかと心配になった。

「話、する?」

 体内の血の循環が早過ぎて、さっき真水のシャワー浴びたばかりなのに頭がかっかと茹ってしまったよう。

「話も、します」

 血迷っているっていうのは、今の私の事を言うんだろう。

「じゃあ、何からしよう?」

「……触って、いいですか?」

 こんな場所で、人目につかないと言っても薄い壁一枚、天井には青空が広がっているのに、ここでご主人様と触れ合いたいと思っている。
 セックス、したいって。

 私は痴女になってしまったんだろうか?

「どうぞ」

「……っ」

 促されてしまうと欲求が強まる。
 そろそろと手を伸ばす。
 日に焼けた肌の感触を感じたいと、胸元にそっと添えていた。

 手の平の向こう側から、体温と鼓動が伝わってきた。
 日に焼けているからなのか普段よりも熱くて、鼓動は恨めしくなるくらい落ち着いていた。

 触れたおかげで、却って視線が安定した。
 私の手の甲越しに、胸の奥に収まっている心臓を見つめている。
 とんとん、とくとく、とんとんとん。
 あの、優しいリズムを意識した。

「……」

「ん」

 何も言わず背伸びした私に、ご主人様は期待した通りキスで応えてくれた。



 どうしよう。

「はぁ、んっ、んは、あっ」

 どうしよう、気持ちいい。

「あっ、あ、そこ、あ……ぃっ」

 外でしてるのに、こんなに気持ちいい。
 薄いドアの向こうにはてゐも師匠も姫様も、それどころか鵺さんや三人組までいるのに。
 気持ち良くてやめて欲しくない。

「はっ、はっ。ん、んぅ、っく、ぅぅんっ」

 私は今にも嬌声を張り上げてしまいそうになりながら、奥歯を噛んで堪えていた。
 ご主人様はその場にしゃがみこんで、ぴちゃぴちゃと舐めている。
 喜んでもらえるかなと悩んで選んだ水着を横にずらして、私のあそこを舐めてる。
 舌がうごめくたび、曲げられた指先で擦られるたび、腰が小さく跳ねてしまう。

「ちょっと潮の香りがする」

「や、ぁんっ」

 鼻先や口元を溢れ出した私の愛液で濡らしながら、ご主人様がそんな事を呟いた。
 恥ずかしくて仕方ないのに、吐息が当たるくすぐったさに背筋がぞくぞくする。
 拒むつもりなんて全然ない。
 何気ない一言にさえ身体が感じ取り、恍惚に震えた。

 どうしよう。
 今の私、間違いなく痴女になってしまっている。

 ご主人様の頭を抱いて、それどころか自ら押し付けていた。
 愛液と唾液ですっかりふやけて柔らかくなってしまった陰唇を横からぐにっと広げられて、音をたてて吸われた。
 指がその奥の膣口に潜り込んで、入り口の上の方を撫でられた。

「ひぃっ」

 咽喉から甲高い声が洩れてしまった。
 ご主人様の唇と舌と指は、私が感じる部分を知り尽くしてる。
 気持ちのいい急所を的確に押さえて、けれど我を見失うほどの快楽に溺れないように加減もされている。
 いつものようにされていたら、とてもではないけど声を我慢したり出来ない。
 その加減がもどかしく、充分に身体を動かせない不自由さもあった。

 それなのに、気持ちいい。
 いつもとは全然違う。
 仰け反る際視界に映る空の青さに、解放感が刺激されてるのだろうか。

「んっ、んっ、んっ――んん~~~っ!」

 絶頂に達して身体が強張り痙攣する。
 硬くなった腿で、股下に潜り込んでいるご主人様の顔を挟んでいる。
 判っているけれど、ぎゅっと締め付けたまま上手く力を抜けなかった。
 
「――……ん、ふ、はふぁ」

 びりびりと痺れる絶頂感が終わり、強張っていた身体から一気に力が抜けていく。
 壁で背中を支えて、ようやく立っていられる。
 意志とは無関係の部分で、膣内に残る主人様の指をきゅうきゅうと締め付けているのが判った。

 私の身体は、なんてエッチになってしまったんだろう。
 ううん、身体だけじゃなく心まで。
 身も心もこの人の手で染められてしまった。

「うくっ」

 収縮と痙攣が収まった膣内から、ぬるりと指が引き抜かれる。
 ご主人様は私の股下から顔を抜いて膝を伸ばす。
 自然と、私は目の前の肩に腕を伸ばしてつかまっていた。

「ん、ん~」

 首にかじりついて、いつも奪われてばかりの唇に私の方から吸いつく。
 ご主人様が言っていた通り潮の香りがして、ぬるぬるとぬめる液体はちょっと酸っぱい。
 私の愛液の味だ。
 嫌悪感よりもご主人様の唇や舌の柔らかさを味わいたいと、何よりキスをしたいという単純な欲望の方が強かった。

「んっ……こら、レイセン。ちょっと待っ」

 身体と顎を引いて逃れようとするご主人様に、私の方は引かれた分求めていく。
 制止する言葉も行動も消極的だったから、本気で嫌がられている訳じゃないと判った。
 背後の壁に預けていた体重をご主人様の身体へと移して、舌を差し込んで絡める深いキスをした。
 くちゅくちゅと濡れた音をたててキスをする内に、ご主人様のささやかな抵抗もなくなり私の身体を抱き締めてくれた。

「――っはあ」

 呼吸も忘れるほど吸い合って、息苦しさから口を離した。
 お互いの唇から糸のように細い唾液が繋がり、蜘蛛の糸のように呆気なく切れた。
 粘った糸を引くのは唾液だけでなく、私の愛液を口の中で混ぜ合ったりしていたからだろう。

「ふううぅぅ……」

 大きめのため息と一緒に、日に焼けている為かいつもより頼もしく感じる胸元に寄り添った。
 濡れた唇をぺろりと舐めてから、ちょっと不満げな目でご主人様を見上げる。

「どうして、逃げようとしたんですかぁ」

 肩を指先でつついてぐりぐりとする。
 本気じゃないと判ってはいたけれど、それはそれでやっぱり不満に思う。
 唇を尖らせる私に、ご主人様は苦笑を浮かべてがりがりと頭を掻いた。

「いや、さっきまでクンニしてた訳だし。嫌がるんじゃないかなーって」

「ご主人様だって、私が口でした後も平気でキスしてくるじゃないですか」

「俺が平気だからレイセンだって平気だ、とは限らないだろ?」

「そんな事気にしてたんですね」

 私が今まで気がつかなかっただけで、今までずっとそうして来たんだと思う。
 我侭で自分勝手に見えて、細やかな気遣いが出来る人だ。

「遠慮とかして貰わない方が、私は嬉しいです」

 首筋にちゅっと音を鳴らして口付けする。
 ご主人様はますます苦笑に深みを見せて、私の顎の輪郭を指でなぞった。

「追々慣れるよ」

「はい」

 抱擁したまま、キスや軽い愛撫を愉しむ。
 青天井から斜めに差し込む陽射しか気温の所為なのか、狭い個室の中は汗ばむ熱気に包まれていた。

「レイセン、脱いで見せて」

「……はい」

 お互いの肌と体温をたっぷりと愉しんだ後、ご主人様の身体から離れて腰の結び目に指をかけた。
 絶頂の余韻は再び甘い疼きに変わっている。
 結び目を解いて、脱ぐというよりも外した水着を、ご主人様の手がさっと攫って壁にあるシャワーの首に引っ掛けた。

「下は洗い流した砂が落ちてるからね」

「ご主人様は気が利き過ぎです」

 互いに苦笑した後、ご主人様はもう一度膝を折ってしゃがみこんだ。
 恥ずかしかったけど、見たがっているだろうから私はそっと脚を開いた。

「レイセンも日に焼けてるね。水着を脱いだら良く判る。綺麗だよ」

「んっ」

 指で触られてもそうだけど、言葉で褒められると尚更嬉しい。
 嬉しくて、恥ずかしくて、堪らなくて、入り混じった感情が胸の中をぐるぐると回る。
 手を胸元でぎゅっと握り締めて感情の流れに重石する私に、ご主人様は日焼けを逃れた肌へと顔を近づけてきた。

 ご主人様の指が伸びて、濡れた私の陰唇を左右に開く。
 くちゅっと淫靡な音を響かせ、閉じかけていた肉裂を広げられるのが判った。

「レイセンのここ、真っ赤になってる」

「ん、い、言わないで……っ」

 熱気に浮かされてなのか頭がくらくらした。
 腰を突き出す格好になった私に、ご主人様は右手の人差し指と中指で陰唇を広げたまま、左手で包皮に隠れていたクリトリスを剥き上げた。
 ご主人様はその肉芽目掛けて息を吹きつけてくる。

「や、やぁんっ」

 敏感な分それだけでむず痒くなってしまい、私は背をよじった。

「い、悪戯しないで」

「ご免ご免。つい、ね」

 ご主人様は不意打ち気味に、剥き出しになったクリトリスをぺろりと一舐めした。

「っ!」

 咽喉の奥から溢れそうになった嬌声をぐっと飲み込んで、肩を揺すって笑うご主人様を睨んだ。

「……楽しんでません?」

「実は楽しんでる」

 悪びれた様子もなく舌を出して笑うご主人様を、私は握り拳でこつんと叩いた。

 たっぷりと私の下半身を眺めた後、次はこちらだと言わんばかりにご主人様の手が背中に伸びる。
 背中のホックが外され、隠されていた胸元がめくり上げられる。

「ふむ。内側にパッドが縫い付けてあるから、ズレないようになってる訳だ」

 ご主人様が言っているのは水着の事で、めくった水着を物珍しそうに眺めている。

「良く、出来てますよね」 

 デザインは大胆だけど、そういった細かい所までしっかりと作られていた。
 勿論、パッドのおかげで大きめに見える効果もあるというのが、カタログの説明書きにも載っていた。
 流石に師匠並とはいかなかったけれど。

「だね。実のとこ、ちょっと不安もあった訳ですよ」

「不安、ですか?」

「そ。遊んでる時にズレたりしたら大変じゃん? 他人のハプニングなんて知ったこっちゃないけど、身内となると話は別だからねぇ」

 ブラジャー型の水着から手を離して、下から手の平で支えられるように乳房を揉み上げられた。

「日に焼けた肌に、真っ白なおっぱい。乳首も綺麗なピンク色。可愛いレイセンのおっぱいは、他の男に見せたくないってね」

「……ご主人様以外の男の人に、見せたりしませんよ」

 ご主人様を誘ったりして、私は痴女なのだろう。
 だとしても、ご主人様以外の男にこの痴態を見せたりするつもりなんて毛頭なかった。

「じゃあ安心だ」

 ご主人様ははにかんで、私の乳房にキスをした。
 幼子に返ったようにちゅうちゅうと胸を吸っているご主人様に、私は愛おしさを感じて普段されるように黒髪を撫でつけた。

 狭いシャワー室の中でお互いに体勢を整えながら、楽な姿勢を模索していく。
 私は片脚を上げ、その膝裏をご主人様が持ち上げて支えてくれている。
 腕はご主人様の首に回して、壁にもたれた。

「……先っぽ、ちょっとはみ出てる」

「ここだと遠慮が要らないからね」

 ご主人様と一緒に下を覗き込み、顔を合わせてくすくすと笑い合った。
 際どい水着がズラされてペニスが取り出される。
 もうなんの準備も必要ないほど、硬く反り返っていた。

「いくよ」

「うん」

 セックスが始まる。
 濡れて開いた膣内に、ご主人様のペニスが入ってくる。

「ん…んん……ふ」

 ゆっくりと膣壁を擦り、引かれるとくびれた雁首がひだを掻いていく。
 ご主人様の腰の動きは穏やかで、激しくされていたら私は声を押し殺していられなかった。

「んっ、ふっ、気持ち、んっ。気持ちいい、です」

 充分な愛撫で濡れていた私の膣内が、ご主人様のペニスで擦られるたび、にゅくにゅちと濡れた音をたてているのが聞こえる。

「俺も。レイセンの中、温かくて、柔らかくて、吸われてる。気持ちいいよ」

 飽くまでこうして身体を重ねても、馴染むことはあっても飽きる事がない。
 
「おちんちん、好き、好きぃ。気持ちいい事、好きぃ」

「レイセン、可愛いよ」

 抱かれるのも好きだし、褒められるのも恥ずかしいけど好き。
 体温を感じるのも、穏やかな心音に耳を澄ませるのも。
 この人と一緒にいるのが、私は大好き。

 濃厚な時間の中で、この人と沢山の思い出を作っている。
 これからも作っていこう。
 後になって思い出して心が温まる、幸福を。

 情欲からくる傷の舐めあいが、いつか掛け替えのない宝物に変わるまで。
 弱々しく蹲ったりしなくてもいいように、心に負った傷が癒える事を祈って。

「あっ、ん、声、声が、出ちゃう……から、吸って。口を、吸って」

 私の懇願に、ご主人様は応えてくれた。
 舌を出して迎えて、私がお願いした通りに唇を覆われると口を吸われた。
 口の中に溜まっていた唾液も、咽喉からこぼれる喘ぎも、吸い上げられていった。
 声を押し殺す必要がなくなって、ご主人様の動きに合わせて自分でも腰をくねらせ、快楽を貪っていた。
 舌を絡め合って、鼻で呼吸をしながら激しさが増していくセックスに酔った。

「んん~~~~~~っ」

 私が絶頂に達しても、ご主人様は声を余さず飲み干してくれた。

 程なく、ご主人様は呻き声一つないまま私の膣内に射精した。
 温かな精液が、私のお腹の奥にまで届くのが判った。



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 潮風が吹く。
 海の匂いを絡みつかせた強い風が、羽織った上着と腰のパレオをばたばたと煽った。

 堤防の上から、眼下に広がる砂浜を眺める。
 パラソルの傍では、輝夜が膨らませた鮫のボートを抱え、てゐを追い掛け回している最中。

 あら、転んだ。

 砂に足をとられたのか倒れ込んだ輝夜に、てゐが引き返してきたかと思うと、すかさず両手で砂を浴びせ始めた。
 浅瀬でふざけて水を掛け合う様子に似ていなくもなかった。

「熱っ、あっっつ! 因幡ぁー! 貴方、姫様に向かってなんて真似をするのぉー!!」

「傲慢なだけじゃ、いつか姫様扱いもされなくなりますよーだ!」 

 砂まみれになりながらも起き上がってきた輝夜に、てゐは舌を出して脱兎する。
 輝夜はすっぽ抜けた鮫を拾って、全くめげた様子もなくその後ろ姿を追い始めた。
 すっかり生気を取り戻していた。

 そんな様子から、ちらりと個室が並んだシャワー室を一瞥。

「しょうのない人」

 二人とも個室からまだ出てくる様子はなく、私はくつくつと咽喉の奥で笑った。

「ねえ、貴方もそうは思わない?」

「今に始まった事ではありません」
「……」
「……」

 肩越しに背後を振り返る。
 そこには彼が連れてきた三人の男たちが立ち尽くしている。
 彼に言われ設営の後片付けをしていた男たちだ。
 一人には戯れに投薬したが、副作用も切れて今は元通りの姿に戻っていた。

 三人とも目は虚ろで、口を開けっ放しにぼんやりと空を眺めていた。
 忘我喪失して立ち尽くす男たち――その背後にいるものと向かい合った。

「そうね。変わった部分も多いけれど、本質は同じまま」

「……」
「だからこそ、今も繰り返しているのです」
「……」

「繰り返している? だからこそ首輪を付けている、の間違いでなくて?」

「……」
「……」
「まさか。首輪を付けた上で、手綱も握っているのです」

 男たちは代わる代わるに私の言葉に答えた。
 慇懃な言葉遣いを用いてはいるものの、余り友好的には聞こえない。
 私自身も言葉遊びのように会話を繰っているだけ。
 相手も端末を用いた接触だけで姿まで見せるつもりはないようだ。

 これは、お互いに威嚇しているだけ。
 
「貴方と私が出会っても、喜び合う間柄ではないものね。それとも、再会を抱擁で迎えてくれるのかしら?」

「……」
「愉快な冗談を口にするようになったものですね」
「……」

 私が吐き出した嘆息を、潮風が攫っていった。

「そうね。つまらない冗談はやめにしましょう」

 いつまでもこうして威嚇を続けていた所で仕方がない。
 本題に入ろう。

 私は堤防に腰掛けて、顎に手を当てた。

「私と取り引きをするつもりはないかしら?」

「……」
「……」
「……」

 男たちの眼球がぐるぐると乱れ、不規則な動きを見せた後私に定められた。
 沈黙から、私の真意を測っているのが窺い知れた。

 絡み合った私たちの視線までは攫い取れずに、びょうびょうと潮風が吹いていた。
 絵に描いたような青空から、燦々と太陽が輝いていた。

「いいわよ」

 人気のない、まるで作り物のような海岸で、私たちは取り引きを交わした。



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「あはは、待て待てー♪」

 濡れた砂浜に足跡をつけながら、先を行く背中を追いかける。

「捕まえてごらんウサー♪」

 砕ける波を蹴立て、波飛沫が飛び散る。

 波打ち際で、私は因幡を追い続けていた。
 嫌がらせに抱えていたサメはすでに投げ捨て、身軽な姿で全力疾走。
 策略通り因幡を波打ち際に追い込んで、波に足を取られがちになったぶんだいぶ差が縮まってきた。

「言ったわねぇ、よぉし」

 第一部のトランプ・デスマッチ、第二部ドキ☆ドキ☆ビーチバレー大会と不覚を取ったけれど、主人公たる私が三度目の正直で勝利する御伽噺だったのよ!

 ロック・オオオオオオオン!
 ここが天下の分け目よ因幡あああぁぁぁっ!

「そぉおおおおおおおいっ!」

 残り僅かな差を詰めるため、波を蹴立てる足に狙いを定めて飛びついた。

 勝った!
 第三部完ッ!

 目前に迫った足首を抱え込み、

「よっ」

 私の手が届く前にひょこっと姿を消した。

「ば、馬鹿なぁ――ッ!」

 目標を見失った私の手は空を切り、姿勢制御もままならないまま濡れた砂浜に正面からダイブ。
 べっちんとうつ伏せに倒れ込んだ。

「……」

 ざぁ、ざぁと波が打ち寄せては私の身体を撫でていく。
 顔を上げると、ぼたぼたと海水を吸った砂がこぼれ落ちるのがわかった。

「古今東西、馬鹿なと言った悪役が勝った試しはないわよん♪ そこで波に打たれて反省するウサ!」

 捕まえる寸前でジャンプして逃れた因幡は、憎らしく舌を出してそのまま走り去っていった。
 その背中を見送った私は、顔を砂浜に戻して波に打たれていた。

 ……いいもん。
 四部五部六部と続くからいいもん。

 感動巨編姫様物語を夢想した。
 そんな永遠の一欠けらが剥がれ落ち、頭上から声が降ってくる。

「なにやってんの」

 私は周囲の濡れた砂を顔へ掻き寄せ、声に答える。

「土座衛門ッ!」

 須臾を埋める間。

「縁起でもねぇ上に地味だなぁおい」

「平安の巷において大流行よ! 砂浜に出れば一つや二つ転がってるって話なんだから!」

「そんな錆び付いた流行忘れてしまえ」

「誰に命令しているつもり!? 口の利き方に気をつけないとなんか光って目ぇ潰すわよ!」

「発光すんのか。ホタルイカじゃねぇんだからよ」

「私の後光に恐れおののきうぶうぶぶぶぶ!」

「いつまでも泣いてねぇで顔を上げようや。マジで溺れる前に。な?」

「馬鹿ねがばごぼ! 泣いてなんかいなごぼぼ! 海水が目にしみただけでちょっとほんとに痛いわよ!? 砂が入っぐばば!」

「あー、擦るな擦るな。全く手がかかるお姫さまだな」

 下郎は私の身体をひょいと小脇に抱えると、ざぶざぶと海の中に入っていった。

 もしかして――

「はーいどぼーん」

 やっぱりかぁ!

 ぽいっと浅瀬に放り込まれた。 



「よくも騙したなあああああああっ! 騙してくれたなああああああああっ!」

「騙すも何もねぇよ。前振り無しに放り込んだだけで」

「馬っ鹿じゃねぇ~~~のっ!? または阿呆か!?」

「ぶはは! まるで貞子だ!」

 私が海から上がったあとも、下郎は悪びれた様子もなくげらげらと笑っていた。

 殺す。
 きゅっと〆て殺す。

「今ので堪忍袋の緒がア・リトルカットされたわ。今こそ封じられた私の力を解放するときね。月って海と相性がいいのよ雰囲気的に!」

「漠然とした根拠しかねぇのか」

「よぉしそこになおれ。私の本気を見せてあげるわ! 指先から溢れる気合だけでその海パンまでびりびりにしてやるわよ!?」

「ちんこ見せるぞ」

「下郎相手に本気を出すのも大人気ないわね。今は目こぼしして差し上げましょう。一呼吸するたびに私の心の広さを感謝してこれから生きていきなさい!」

「ブゥーメラン ブゥーメラン」

「こっちくるな!」

 卑猥に腰を回しだした下郎から足早に離れる。
 これは逃げているわけじゃない。
 そう、明日に向かって進撃しているのよ!

「お姫さまよー。向かうんならあそこに見える海の家な。いい時間で腹も減っただろーよー」

 背後からの下郎の声に顔を上げる。
 海の家とやらがどこなのか、建物の少ない砂浜では問いただす必要もなく一目瞭然だった。
 粗末なあばら屋だった。

「姫たる私を歓待するのにこんな潮風が吹き込む場所を選ぶなんてどうかしているわまったく……」

 ぶつくさと文句を呟きながら、もうすでに一同が集まっているあばら屋へと向かった。
 不満は多々あったが、空腹に勝るほどではなかった。

「夏に海水浴と来れば、バーべーキューが定番だよな。肉は牛、豚。厚切りのカルビとバラ。こいつを海老、帆立、しし唐、エリンギ、玉葱、トウモロコシなんかと一緒に串焼きにする」

「こっちのカボチャやニンジンやキャベツなんかは?」

「さすがてゐ、野菜に目ざといな。そっちは火が通り難かったり串焼きに向かなかったりなんで、別に焼く」

「ソーセージやピーマンもですか?」

「その辺りは鈴仙のお好みでね。材料は切り分けてるから、これに串刺して自分好みに仕上げりゃいいよ」

「タレは二種類あるから、好みで使うといいわ」

「醤油ダレと塩ダレの二種類、どっちも永琳お手製で味も絶品だ」

「おいしそう」

「ごたくはいいわ。姫が食事をご所望であらせられるわよ! 無礼講にしてあげるから遠慮なく運んでくるがいいのよ!」

「へいへい」

「うっひょおおお! 美味そおおお!」
「なんかこう、外で食う飯ってわくわくするよな!」
「海の家の不味いラーメン洗礼は回避だな!」

「おめーらの分ねーから!」

「Stand by me Stand by me――」
「俺らオワタ」
「赤いの、なんですぐ俺らハブるん?」

「飯までたかる気か? てめぇの食い扶持くらい自前で調達して来い。物さえありゃ俺が調理してやる。ほれ、餞別だ」

「……」
「……」
「五〇円玉一枚じゃん」

「それでサザエとイカとマグロの頬肉、買って来いよ。あ?」

「そんなに買える訳あ、はい。買って来ますから握り拳はやめて下さい」
「学生時代を思い出すのって辛いよな……どうする?」
「漁師さんに日本的外交手段で頼んでみようぜ」

「ついでにアワビか鯛でもちょっぱって来いよー」

 体よく三人組を追い払ったあと、下郎は手拭いを頭に巻きつけて給仕に回った。
 
 半分に切った丸太の中身をくりぬき脚をつけて、その上に網が乗せられたようなもの。
 くぼんだ部分には炭が満遍なく入れられて、所々が赤熱している。
 もちろん、火を入れているからには金属製なのだろう。
 夏の日差しとは違った熱気を立ち昇らせていた。

 どっさりと用意された食材を鉄串に刺して、網の上に乗せていく。
 肉の油や野菜の水分が滴り、じゅうじゅうと食欲を刺激する音が聞こえてくる。
 永琳がそつなく人数分のお箸と取り皿を配り、イナバはせっせと食材を鉄串に刺していった。

「お腹が空いたわよ! 飢え死にさせるつもり? 早く早くあと五秒で焼きなさい!」

 そういった作業が生まれながらに免除されている私は、座敷のちゃぶ台をばんばん叩いて催促した。
 こういうときの役割はあらかた決まっているようだ。
 私の他にも、因幡と小人は作業に加わらず食べる専門。

「姫様、せめて大人しくして待っていて下さいよ。てゐと鵺さんを見習って」

「あらなにその言い方。まるで私が難癖をつけるだけの無駄食らいだと言っているようじゃない」

「そこまでは……言いませんけど」

 野菜と肉を鉄串に交互に刺しながら、私の視線から逃れる。
 最近頓にイナバが辛口というか、僭越の度が過ぎてる気がするわぁ。
 やっぱりしっかりと立場というものをわからせておく必要があるかもしれないわね。

「それほど空腹なら、これを先に摘んでいなさい」

 と、弱肉強食と生まれながら厳然と存在する貴賎の差について思いを巡らせていると、永琳がざるを一つ差し出してきた。
 こんもりと枝豆が盛られている。
 茹でたばかりなのか湯気を上げて、振られた塩の結晶がじっとりと溶け始めていた。

 早速一つ手にとってみる。
 さやの腹に口をつけて、膨らんだ中身を押し出すようにして口の中に運ぶ。
 こりこりとした食感と、塩味の利いた味は素朴ながら癖になる。

「……あら(もぐもぐ)手慰みには(もぐもぐ)ちょうどいい(もぐもぐ)わね」

「あ、姫様。独り占めはなしですよー」

「枝豆うめぇ」

 手伝わない三人で、ざるに盛られた枝豆をもぐもぐと減らしていく。

「ビールもつけるか」

 下郎は苦笑を浮かべて、トングとかいう蟹の鋏のような器具で手元の串を裏返していった。

 ほどなく肉や野菜が焼けて、空だった取り皿が料理で賑わいだした。
 四角く、分厚く切られた肉は噛み応えがある。
 噛むと肉汁が溢れて甘辛いタレと口の中で混じる。
 ただ炭火で焼いただけで料理とはいいがたいのだけれど、待たされていたからか不思議と美味しい。
 唇をタレで汚しながら、私はいつしか行儀悪く、それでも串にかぶりつくのをやめられずにいた。

 咽喉の渇きを覚えたら、後から用意されたビールとかいう冷えた麦酒で潤す。
 地上らしい飲み口の粗い酒だったが、苦味走った味は串焼きにも枝豆にもあった。

「遠慮なくどんどん食えよー。余らしても勿体無いだけだからな」

 赫々たる際どい格好に上だけアロハを羽織った下郎が、焼きたての串や野菜やその他色々乗せた大皿を運んできた。
 串だけでなく、トウモロコシやおにぎりを炙ったものもある。
 今朝余った分を保存して持ち込んでいたらしい。

「やっぱりご飯にはお米がないとねー」

 箸で突き解しながら頬張る因幡の言葉に、私も賛成。
 表面がぱりっとするまで焼き上げ、軽く焦がした醤油の香りがぷんと鼻先をくすぐる。
 少し味が濃いので、白湯漬けにすると尚美味しいかもしれない。

「茹で上がったわよ」

 永琳が運んできたのは輪切りにしたトウモロコシで、私はすぐに手を伸ばしていた。
 かぶりつくと程よく甘い味が舌に広がる。
 口の中に残っていたタレや、焼きおにぎりの焦がし醤油の辛さがまろやかに柔らぎ、なんの味付けもなく湯がいただけなのが信じられない旨みに変わった。

「ご主人様もそろそろ食べて下さいよ」

 イナバの言う通り、下郎は専門的に焼き続けているので料理をほとんど口にしていなかった。
 日差しと熱気に当てられ何度も汗を拭いながら、たまに麦酒に口をつけているくらい。
 下拵えを終えたイナバも座敷に上がって食事に混ざっていたが、思い出したように手にした串を差し出した。

「はいどうぞ」

「おお、すまんね」

 差し出された串の、肉といわず野菜といわずに大口を開けてかぶりつく。
 いかにも下品な男らしい食べ方で、口の中でしばらく咀嚼したあと麦酒で流し込んだ。
 行儀の悪いその食べ方がひどく美味しそうに感じられるのは、私自身品なくこのバーベキューにありついていたからだろうか。

「ああ、口にタレついてますよ」

「いけね」

「待って。駄目ですよ袖で拭いたりしたら、汚れます」

 下郎の口元から垂れていたタレを、イナバは指先で掬い取る。

「これで綺麗です」

 笑ってその指を口に含んだ。
 下郎はその一連の動作を眺めたあと、麦酒を呷る。
 口元にいびつな笑みが浮かんでいたのを確認した。

 ……集合!

 私は一連の仕草と態度を網膜に焼き付け、脳内に散らばる私たちに召集をかけた。

「私たちを呼ぶなんて何事かしら」
「五つの難題を編み出して以来じゃないの?」
「いよいよ本気を出して世界を滅ぼす決意を固めたのかしら」

「私たちを呼んだのは他でもないわ。議題はこれよ!」

「人目も気にせずあけすけにぺろりですって?!」
「なんて禍々しい!」
「これは世界を滅ぼしている場合じゃないわね!」

「さすが私たちね、脳内を共有しているだけあって説明の手間も要らないわ。今回の議題もわかっているでしょう?」

「イナバがまるでいっぱしの恋愛巧者のような真似をしている!」
「主人である私を差し置いて、私にも出来ないような真似をするなんて」
「これは由々しき事態だわぁ」

「そう。何故なら――なんだか負けた気がするから!」

「そんなだから姫様は一〇世紀越えても処女のままなんですね、とか言われそうよ!」
「かつて平安時代をがっつんがっつん牽引したスーパーアイドルを捕まえてなんて不遜な」
「だからと言って真似をしたいとは思わないけど」

「そう、重要なのはそこよ。真似をしたいわけじゃない、けれど負けたくはない!」

「そのためにはどうすればいいのか」
「それが今回の議題ね」
「この誤ったヒエラルキーを正すためにも、私の地位向上のためにも必要ね!」

「というわけで、どうすればあのイナバの口から『さすが姫様。感服しました! あの赤いの〆て帰りましょう!』と言わしめるか、が本題よ! 私たち、考えるのよ!」

「……」
「……」
「……」

「さあ、この閉塞した状況を根底から覆す名案を披露なさい!」

「ちょっと待ってくれるかしら」
「何故私たちは悩んでいるというのに」
「考えもしない私がいるのかしら?」

「なにを言っているの。主体は私。なら残りの私たちはなんと言うか、仮初的なものでしょ?」

「誰が仮初よ。むしろ私こそが主体に決まっているでしょうに!」
「真意は精神の井戸の底へと隠し、誰にも触れさせないだなんていかにも神秘的!」
「同感ね!」

「私の癖に私の言葉に歯向かうと言うの? 蓬莱の玉が枝から落ちるくらい叩くわよ!?」

「こちらの台詞よ! 子安貝ぶつけるわよ!」
「仏の御石で文字通り仏送りがいいかしら!」
「火ぃつけてリアルに火鼠の皮衣にしてあげましょうか!?」

「生意気ね! 身の程を知るがいぃっー!」

「その台詞そっくりそのまま返してやるわ!」
「こんなだからいつまで経っても一人上手なのよ!」
「言ったわね!? 私以外に言われたこともないのに!」

 議論の場がにわかに紛糾し、主導権を奪うための勝ち抜き輝夜ロワイヤルが勃発した。

「このやろ……このやろ……」

「何ぶつぶつ言ってんだ?」

 はっ。

 頭の中で向かってくる私たちに蓬莱の玉をちぎっては投げつけていると、座敷に上がっていた下郎が私の顔を覗きこんでいた。

「なんでもないわよ見苦しい!」

 思った以上に近くに寄せられていた顔から、全力で後退して離れた。
 そんな私を下郎は眉を跳ね上げ訝しそうに見送る。
 座敷に手をついて身を乗り出していたその胸元に、因幡がするりと潜り込んだ。

「どーしたんですかー? 姫様。ひょっとしてさっきの鈴仙に当てられちゃったんですかー?」

 あらちょっとギクリときたわぁ。

「愚かな……姫様がそのような些細な出来事で思い悩むはずがあって? いや、ない!」

「へぇ~」

 言い放った私に、因幡は相変わらずにやにやと勝ち誇った笑みを浮かべていたかと思うと、突然ひょいと身体を伸ばした。
 私に視線を向けたまま、舐めたのだ。
 男の顎先を、ぺろりと。
 なにがついているわけでもないのに舌を出して舐めたのだ。
 私に見せつけるように。

「ん~、ちょっとしょっぱい」

 そんな感想まで口にしたのだ。
 私は目を皿のように見開き、ぽかんと痴呆のように口を開けて眺めているしかなかった。
 イナバの一件で紛糾までしていたというのに、因幡は軽くそれを上回って私の脳内の何かをぷっちんと切ってしまった。

「からかうんじゃねぇの」

「やぁん♪」

 髪をくしゃくしゃとやられて、因幡が下郎の胸下からするりと抜け出る。
 苦虫を噛み潰したような下郎の表情とは異なり、因幡は楽しげで声からはどこか艶も感じさせた。

「てゐにかかれば貴方も形無しね」

「……」

 永琳はくすくすと笑って缶からグラスに注いだ麦酒を手渡し、下郎は無言のまま泡立つ琥珀色の酒をがぶがぶと呷った。
 イナバはなにやらめらっとした目つきで因幡を見据えていた。

「貸し。忘れてないわよね?」

「……むぐぅ」

 なにか私のあずかり知らない理由でもあるのか、因幡の言葉でイナバはあっさりと俯いた。

 またこの流れだ。
 ついていけない部分で周囲が盛り上がり、私一人だけぽつんと置いていかれる感覚。
 海に来る直前、車の中にトランプで遊んでいるときもそうだった。
 遠くから楽しげな様子をただ眺めているだけ。

「……ふん」

 一種近寄りがたい異質な雰囲気が形成されていたけれど、私は鼻を鳴らしてちゃぶ台に戻る。
 これ見よがしなこの空気に染まってしまえば楽になれるのだろう。
 私にだって判っている。
 けれど、それはこの下郎との距離をも縮めることになる。
 私にはそのつもりはさらさらなかった。

 これは取捨選択だ。
 常にそれが差し迫り、強要される。
 全てを拒んでいたような過去は捨てた。
 けれども、受け入れ難いものは頑として受け入れずに拒む。
 下郎との距離感、そして関係性。
 私との間には常に溝があり、堀を築き、壁を作って敵対することはあっても、おいそれと中に招き入れる真似はしない。

 そう。
 くだらない話をしていても、海につかって戯れている間も、一時とてこの男に気を許したりはしないのだ。

 永遠を生きる私にとって、たまさかに訪れた須臾の中の敵対者が、この男だ。

 私は認めたのだ。
 敵対者という立場で、この男を私と同列に語ることを。

 私の視線に気がついた男は、鼻の下につけていた泡を手で拭って私を眺め返した。

「どうかしたか?」

「首でも洗って待っていればいいのよ」

 私の決意を知ってかただの売り言葉と捕らえたのか、男は言葉を返さずへらりと笑って肉を焼きに戻った。
 私はその背をじっと見つめていた。

 この悪ふざけのような時間にどのように終止符が打たれるのか。
 この男はどのような道程を歩み倒れるのか。
 永遠の中に生まれた須臾を、見過ごさずに見届けよう。
 それが、永遠を生きる者としての、有限の時しか生きられぬ者と触れた在り方だ。

 がぶりとかじりついた串肉の味は、粗野で大雑把で、それなのに堪らなく美味しかった。



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 食事の後片付けはあいつが請け負った。
 鈴仙だけでなくお師匠様も手伝いを申し出たけど、あいつはにこやかに――けれど頑として受け入れなかった。

 鈴仙たちは地上の海は初めてだから、思い出作りに専念しろって意味合いらしく、実際そう口にしていた。
 あいつは一度決めた事には意固地なくらいに頑固になる。
 結局、鈴仙もお師匠様も砂浜に追いやられてしまった。
 今は二人パラソルの下で、のんびりと日向ぼっこをしながら過ごしてた。

 姫様は後片付けなんて念頭にも入れてなかったから、ご飯を食べた後は波打ち際に一目散だった。
 飽きもせずに押し寄せる波に挑みかかっては押し戻されて、を繰り返してる。
 三人組は戻ってこなくて、鵺の姿はいつの間にか見えなくなっていた。

 そして、私は。

 海の家に引き返して、ひょこりと中を覗き込んでいた。

「終わったー?」

 私の呼びかけに、奥の簡単な厨房で調理器具を洗っていたあいつが顔を上げた。

「おう。もうじき終わるぜ」

 私はイス席と座敷を縫って奥まで行って、様子を確認する。
 あいつの言葉通りほとんど片付いていた。
 食器類はほとんど紙だったからそのまま捨てるようだし、お箸も塗り箸じゃなく使い捨てだった。
 鉄製の串はそれ用のケースに収められ、炭焼きしていた大物も中の炭を掻き出されて横向きに転がされて自然乾燥の真っ最中。
 あいつは狭いシンクで油のこびりついた網をごしごしと磨いていた。

「どしたよ。まさか手伝いに来たなんて言うつもりじゃないだろ?」

「それこそまさかよ」

 ちゃんと片付けの進み具合も見計らって姿を見せているんだから。
 話し掛けている間も手を休めないあいつの隣に立って、後ろ手に隠していたものをちょこんとシンクに乗せた。

 缶に入ったビールだ。
 箱の中の氷水につかって、きんきんに冷えてたのを一本。
 あいつはきょとんと目を丸くして、ビールと私の顔を何度も見比べた。

「なによ。鳩が豆鉄砲でも食らったみたいな顔して」

「いや。てゐが手土産を持ってきたってだけでも、充分驚きに値するなってだけ」

 反射的に足が出かけたけど、そこはぐっと我慢する。
 私自身そういうのは性に合わないなって思ったし、これもただの口実だったし。
 なんとなく、二人で話がしたいなーって思っただけ。

「私だってたまには人に幸せを運んできたりするのよ」

 がらんとしていた表からイスを引っ張ってきて、ひょいと腰を落ち着ける。
 手際良く片付けていくあいつの様子を眺めながら、ビールの缶をぷしっと音をたてて開封した。

「……おい。俺への手土産じゃなかったのか?」

「残り一本だったのよ。半分だけ譲ったげる」

 いつかの焼肉以後たまに晩酌することもあったから、この味は舌に馴染んでしまっている。
 しゅわしゅわとした苦い咽喉越しは、暑い中で飲むとなおさら爽快に感じる。
 ごくごくと飲みたいところを、一口で我慢しておいた。
 
「ほらー、早く済まさないと全部飲んじゃうわよ?」

「目減りしていく幸せか。世知辛ぇな」

 足をぶらぶらさせては一口ずつ飲んで行く私に、あいつはことさら急ぐこともなくそのまま網を洗い終えた。
 水滴を払ってから壁に立て掛ける。
 もうじき終わると言っていたのは本当で、洗い物はその網で最後だったようだ。
 手拭いで濡れた手を丁寧に拭く様子を、なんとなく眺めていた。

「ん」

「どーも」

 あいつは差し出した缶を受け取って、ぐいっと一口呷った。
 焼けた咽喉がごくりと鳴り、嚥下する様子が見て取れた。

「ぷっは。夏はやっぱりスーパードライだな。ビールがうめぇ」

「麦酒を冷やすなんて思いついたのは、人間にしては上出来ね」

 私が同意して頷くと、あいつは口元に残った泡を舐め取って再びまじまじと覗き込んできた。

「今度はなーに企んでるんだ?」

「あんたはそういう目でばっかり私を見過ぎなの」

 顔を寄せてきたところで、頬をぐにっと引っ張ってやった。
 目でも突いてやろうかと思わなくもなかったけど、それはしない。
 こいつとの間合いは前よりずっと判っていた。

 売り言葉を吹っかければ小憎らしく買い言葉を投げ返してくる。
 なにも言葉に限った話じゃなく、態度や行動にしてもそう。
 私がちょっかいをかけるとそれにあわせたちょっかいを返してくる。
 まるで鏡のようだ。

 だからちょっとその間合いから外れると、今までになかった態度や反応が見られると、私は知っていた。

 頬をつねくったりはせずにすぐ手を離した。
 このくらいで済ませておけば、寝床に潜り込んだ時のようにやり返してきたりはしない。
 あいつは私が摘んでいた頬を一撫でして、それだけで済ませた。

 ほら、やっぱり。

 私が思っていた通りの反応で、自然と笑みがこぼれてくる。
 あいつはそんな私を不可解そうに眺めて、すぐにつられて笑っていた。
 舌の根に残るビールの苦味が利き過ぎたのか、どう見ても苦笑いだったけど。

「ご機嫌だな」

「まぁね」

 いつものひねた言葉はなしで素直に応じた。
 そういう態度も、肩肘を張っていない分自然と出てきた。
 イスから動かない私に合わせて、あいつも表からイスを引きずってきて向かいに座る。
 前後逆にして背もたれにだらしなく寄りかかるあいつと、ビールを回し飲みした。

「部屋にずっと押し込まれてるのは息が詰まるけど、外はあれが多過ぎるからね。こういう広くて静かなとこだと息抜きになるわ」

 外に連れ出された時は、どこも人間でいっぱいだった。
 ただの人間だったらここまで辟易もしないのだろうけど、その内の何割か(或いはもっと)なんだか良く判らないものが混じってるかと思うとぞっとする。
 あれ――こいつがマネキンとか言ってたのがなんなのか、直接訊ねたことは一度きりで、何度も訊こうとは思ってない。
 素直に答えるとは思わないし、謎めいた言葉で煙に巻かれるのが関の山だ。

 だから、素直にこういう人気のない場所を選んでいることを喜んで、思う存分羽を伸ばそうと決めていた。

「おまけがついてきたのがあれだけど、騙す相手がいないと嘘つき兎としてはちょっと物足りないからね」

「機嫌を良くして貰ってるんなら、こっちとしても有り難い」

「ふぅーん。ほんとに有り難いって思ってる?」

「思ってるさ。機嫌を損ねると齧りついてくるからな。俺ぁ兎ってのはもっと大人しい生き物だと思ってたよ」

「それは残念。機嫌が悪いと齧るだけじゃなく蹴っ飛ばしたりもするのよ。何食わぬ顔でね」

「その内首まで飛ばされそうだな」

 軽口に乗って軽快な会話を楽しむ。
 これくらいでも鈴仙が耳にすると口が悪い喧嘩腰に見えるのかもしれないけれど、この程度の毒があった方が私には馴染む。
 こいつにしてみても、鈴仙の時とはまた違った態度が見れた。

 恋人とペットの差なのかも知れないけど、今はそれが気にならない。
 立場の差とか気にしても仕方ないって思うようになっていた。  
 一緒にいて楽しかったら、それでいい。
 もしも私に気を許して態度を崩したりすることがあったら、つけ込んでからえたら楽しいかな、程度に思っておくことにした。

「そういや、てゐの泳いでる姿見てねぇな。泳げねぇの?」

 適度な毒を織り交ぜた会話の中、唐突にあいつが話題を変えた。
 思いつくままに口にするから、突然話題が飛ぶのも慣れていた。

「泳げないわけじゃないわよ。たんに海にあんまりいい思い出がないだけ」

 海に懐かしさを覚えるけれど、同時に良し悪しも含めて色々な感情を含めたものが込み上げてくる。
 私と海は、意外と関係が深いのだ。

「そういやフカがどうのこうのって言ってたな。何かあったのかよ?」

「んー……ま、いいわ。思い出話したげる」

 からかう調子もなく素朴に訊ねてくるあいつに、私は少し昔話を聞かせることにした。

 洪水に流され沖の島で立ち往生してしまったこと。
 嘘で騙したフカを集めてその背を跳びながら渡っていたこと。
 凶暴なフカをあっさり騙したのがおかしくて仕方なくて、途中で我慢できずに吹聴してしまったこと。
 因幡の国にたどりつく寸前で、最後のフカにつかまり毛皮を剥ぎ取られてしまったこと。
 私自身の汚点とも言えることを、あいつに話していた。

 どうして自ら過去の失態を話してしまったのか。
 それは多分、思っていたよりずっと熱心に私の言葉に耳を傾けていたからだろう。
 茶々を入れるどころか口も挟まず、いつしか身を乗り出して私の話を聞いている。
 御伽噺に目を輝かせる幼児のようなその目に、私もいつの間にか乗り気になって、そこから続く大国様と八十神のくだりも話して聞かした。

「なるほどねぇ。俺が生まれるずーっと以前にそんな事があったとはねぇ」

「そういうことよ。だから地上の兎は大国様を唄って餅をつくのよ。特に私は大恩があるからね」

 なんだか妙に嬉しそうなその声に、私の方もそれほど悪い気分じゃなかった。
 渇きを覚えて缶を手に取り、最後の一口で咽喉を潤した。

「てゐにそこまで言わせて、未だに義理を通させるとはね。大国様ってのはよっぽどいい男だった訳だ」

「決まってるでしょ。なんたって出雲の元締めなんだから。あんたとは比べ物になんないの」

「神様の元締めか。そいつぁ確かに比べた所で決まりが悪ぃな。なんてったって有り難味が違う」

 おどけて額をぴしゃりと叩く姿に、私は少し違和感を感じた。
 
「……ふぅん。あんたのことだから、神様とか嫌いそうな気がしてたけど?」

「ああ、嫌いだよ。けど、神と名のつくものは片っ端に神殺しの対象として見るほど視野は狭くねぇよ。俺の場合、ケースバイケースなんだ」

「どういうことよ?」

「そうだなぁ。まぁ一口に神と言ってもいろいろいるだろ? あれをしなさい。これをしては駄目。私の教えに従いなさい。教えに背くと地獄に落とします。従っていれば死後に天国が待ってますよ。救世だか原罪だか知らねぇが、そういう押し付けがましいのは我慢がならねぇ」

 こいつが言う神は、海を越えた先の国にいる神のことらしい。
 西洋とか中東とか説明もされたけど、私には海の向こうという感覚が馴染めずにいまいち良く判らなかった。
 理解の及ばない様子に気がついたのか、あいつも深い部分の説明は端折った。

「日本の神様は大らかでいい加減じゃねぇか。ちょっと油断したら祟られたり、頼んでもいねぇのに守護したり、便所の神様とかいたり。そういう雑多でお節介で理不尽な所は、まあそれほど嫌いじゃない」

「理不尽でもいいの?」

「祟りってぇ法外な代償が吹っかけられるのにしても、ルールに沿った上なら俺にとって有りなのさ」

「ふぅーん」

 判ったような判らないような。
 私があまりにも気のない返事をしたりしたからか、あいつはわかりやすく言葉を噛み砕く。

「悪党の俺が祈っても聞き届けてくれそうな神様は、この国にしかいねぇって事だよ」

 あ、なるほどね。

「凄ぇ納得のされようだな。けどそういうこった」

「むしろあんたも神様に祈ったりするっていう方が驚きよ」

 基本的にこいつはなんでも自力の人間だ。
 他人任せにしないし、料理にしたって後片付け一つにしても自分でこなそうとするし、実際にそうしてきた。

 こいつが神様を嫌っているという私の印象は、要するに他人を信じていないという点からだ。
 神様頼みなんて他力本願の極みなんだし。

「あのな。俺の事なんだと思ってるんだ? 俺も一回くらいは神様に祈った事があるっつーの」

 あまりにも呆気なく肯定したから、私もつい訊ね返していた。

「それって、どんな?」

 訊くまでもなかったことだって私が気がついたのは、

「自分じゃどうにも取り返しようがなかった時さ」

 ほんの少し調子が落ちたあいつの声を聞いてからだった。

 ああ、そうか。
 私が毛皮を剥ぎ取られて赤剥けの格好で泣いていたのと同じように、こいつもどうにもできない痛みに泣いてたんだ。
 私は大国様のおかげで元の身体を取り戻した。
 剥ぎ取られたのは毛皮だったから、身体の痛みさえ取れれば元通りになることができた。

 けどこいつは誰の助けも得られなくて、しかも身体じゃなくて心の生皮を剥ぎ取られてしまった。
 剥き出しになってしまった心はいつまでもしくしく痛んで、薬を塗っても治せない。
 こいつが引ん剥かれてしまった時、一緒に蒲の花粉も吹き散らされて二度と手に入れることができなくなってしまったんだ。

 他人を思いやる気持ちなんて持ってなくて狡賢くて悪辣で、それなのにどうしてここまで他人の痛みに苦しんでいるんだろう?

「辛気臭い顔してるんじゃないわよ」

 黙りこんでしまったあいつのイスの脚を蹴った。
 私の力じゃあいつの体重が乗ったイスを蹴っ飛ばして転がすなんて真似はできなかったけど、別のどこかに向けていた視線を引き寄せることは出来た。

「しゃんと前を向いて笑ってなさいよ。いつもみたいに。へらへらムカつく感じに」

 苦しそうというよりも寂しげになってしまったこいつを見ていると、なんだか妙に胸がむかむかしてくる。
 腹が立つのはこいつに対してもなんだけど、ほとんどは別の誰か。
 顔も名前も知らないこいつの両親に対してだ。

 産んでおきながら片やさっさと自殺して、片や背負い切れずにあっさり逃げ出して。
 断片的に耳にした言葉からも、すがれる者が誰もいなかったってことくらい私にも判る。
 でも、そんな二人から見捨てられてしまったら、こいつは一体誰にすがれば良かったのか。
 たった一人取り残されて、今も癒えない傷を負って、亡くした両親に引きずられてる。
 逃げ出すのなら、もっともっと足掻けるだけ足掻いて、見苦しいくらい生きることに執着してからでもよかったのに。
 どうせその時がやってきたら、思いがけずにころっと死んでしまうんだから。

 ああ、これがどうにも取り返しのつかないことね。

 やるせなさは以前ちょっと知りたいと思った時よりずっと大きかった。
 私でさえそうなんだから、こいつが抱く虚無感はもっと強烈なものがあるんだろう。

 どれくらい以前の話なのか知らないけど、そろそろこいつを楽にしたっていいはずだ。
 親ってだけで死んでからもいつまでも重石になるなんて、情の薄い私だって――だからこそなおさら、どう考えたってフェアじゃなかった。

「そんな面、してたか?」

「してたの」

 今度は両頬を摘んでぐにぐにしてやった。

「面の皮が厚くなり過ぎて顔面の神経まで図太くなっちゃったんじゃないの?」

「へひゅひはひゃーひひゃへひゃっふ」

 辛気臭い顔を面白くしてやって、油断してたところを左右からぴしゃっと一発はたいた。

「いって! ちょい待て、最後のは絶対余計だろおい!」

 案の定、あいつもイスを蹴立てて怒り出した。
 その頃には私は席を立って手の届かない場所まで逃げていた。

「気を抜いたりしてるからそうなるのよ。引っかかったわねアホが!」

「こんのアマ。沖に出て鮫釣りの餌にするぞ!」

「きゃー。犯されるー」

 けらけらと笑って海の家から逃げ出す。
 あいつは顔を真っ赤にして追っかけてくる。

「ほんとに犯すぞこるぁー!」

「やぁん、不細工な顔ー。幸運って逃げ足も速いのよー♪」

 砂浜で始まった追いかけっこ。
 走る、走る。
 笑いながら、怒りながら駆け回る。
 走りにくい砂浜で、私たちはまるでダンスでも踊るようなステップで追いかけっこに興じた。

「ソソラ ソラ ソラ うっさぎっのダッンス♪」

「うわっぷ、べっ。このっ、逃げながら濡れた砂ぶつけてくんな! そっちがその気ならなぁ」

「ピョッコピョッコおっど――あ、いたっ。このっ、ヤドカリ投げてくるのは卑怯よ!」

「ありがとう。褒め言葉だ。食らえ、うら、うらっ」

「ああ、もう――姫様バリアー!」

「え?」

「うらうら」

「ぶへっ! このやろ、殺すぞ! てめ、このっ。なにすんの殺すわよ!」

「二言目には殺すとか私でも引くわ」

「もうちっと言葉遣いのお勉強をした方がいいな。うらうら」

「オーシャンに挑む私の大志がこんな貝もどきで阻めると思ったらぁ――あ、ちょっと待って水着の中に入った! 取って取って!」

 悪ふざけする私に、悪ふざけで返してくる。
 私たちはいつの間にか笑っていた。



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「反省したかしら?」

「はい」

「海よりも深く」

 取り押さえた主犯二名は焼けた砂の上に正座したまま項垂れた。
 懲りてはいないだろうけど反省の色を見せる二人に、私は輝夜に振り返る。

「二人はこう言っているけれど?」

 輝夜はにっこりと笑って言った。

「斬首」

 水着の内側にヤドカリが潜り込んだ事は腹に据えかねているらしい。

「独裁政権だー」

「斬首しても死なない人が斬首を命令するなんて横暴よー」

「ギャロップ!」

「黙れはシャラップよ」

「んんっ、んー。とにかく、姫の水着にヤドカリなるものを混入せしめた罪は月よりも重いのよ! 極刑あるのみ! 私の柔肌をなんと心得るのよナンマイダー!」

 輝夜は気まずそうに咳払いをした後、彼とてゐの不満を真っ向からぴしゃりと撥ねつけた。
 言動に些か不明な点があるのは、ヤドカリに這いずられた感触がまだ残っているからだろう。
 思い出しているのかむずむずと身体をくねらせていた。
 
「西瓜のグレコが姫様専用か。そりゃ初めて知った」

「色っぽさが足りてないわよね。ぷっ」

「私への侮辱は耳削ぎの刑よ!」

「こいつに言えって強要されました」

「うぉい!」

 姦しくなり始めた場を、私は拍手を打って収める。

「はい、輝夜をからかって遊ばない。二人とも、反省が足りないようなら私の方からも改善を促す処置を考えるけれど?」

「もうしません」

「誓います」

「よろしい。では羽目を外し過ぎないように遊びなさい」

「立場逆転してるじゃないのよ。このへたれ」

「ってもよぉ。即席でボーラ組み上げて投げつけてくるような永琳は敵に回したくねぇ」

 こそこそと話しながら盗み見ているのは、私の手から提げている物だろう。
 縄の左右に錘をくくりつけた物で、これで逃げる二人の足を絡め取ってから捕まえた。
 狩猟道具の一種で、逃げる相手が人でも使い方はそれほど変わらない。
 実際は鉄か石の錘を使うのだろうけれど、手近でそれらしいものは彼が持ち込んだ缶ジュースしかなかった。
 縄はパラソルを固定していたうちの一本を利用した。

「ウドンゲ。元に戻しておいてくれるかしら?」

「はい、師匠」

 ウドンゲはすっかり弟子の顔に戻って、私から即席の投擲器を受け取った。

「絶望したわ! 私の権威をミジンコも理解できないその愚かさに絶望よ!」

「輝夜。そういった場合、先人は先づ隗より始めよとのたまうわ」

 砂浜に蹲り両手を打ち据えて悔しがる輝夜を宥め、背を撫でながら海原を指差した。

「まずは足の届かない場所まで自力で泳ぎつけるようになりなさい」

 諺との関連性はないのだけれど、焚きつけるのにはそれらしく聞こえる言葉が必要だ。

「……そうね。さすが永琳ね。意味は判らないけど含蓄のある言葉ね。待ってなさいブルーオーシャン! 蓬莱山輝夜を受け入れたあかつきには、海水が甘くなったりする化学反応とか無駄に大規模で起こさせてやるんだから!」

 跳ね起きた輝夜は独自の方程式で啖呵を切り、二人の事も忘れて再び波に挑みかかっていった。
 しっかりと浮き輪も忘れず身に着けて。

「流石永琳。乗せるのが上手いねぇ」

 輝夜が走り去るのを見送ってから、彼は諧謔半分の褒め言葉を贈ってきた。

「例え小さな一歩でも自信をつける理由にはなるわ」

「お姫さまの場合、自信だけぶっちぎってるのがあれだがな」 

 苦笑いを浮かべながら、さほど難色を示しているでもない。
 輝夜を眺める彼の目に、ある特定の感情が宿る事は判っていた。

「チェエエエエンジ・プリンセェス! ルナティイイイック・オンッ!」

 輝夜は気勢を上げて押し寄せる波に挑みかかっていく。

 あら、呑まれた。

「おんきりきりばさらうんばった!」

 呆気なく砂浜に押し戻された。
 漂着したくらげのように見えなくもない。

「なあ」

「何かしら?」

「海に入る前から浮き輪をつけてっから押し戻されるんだって、教えてやらねぇのかい?」

「自分で気がつくまでは口出しはしないわ。貴方はどうなの?」

「俺が言っても意固地にさせるだけだからなぁ」

「そう。ならここで成長する様子を見守りましょう」

「お姫さまを眺めてると、こっちは先行き不安になってばっかりだよ」

 満更でもない癖に。

 最後の一言は口に含んだまま、彼の横顔を流し見た。
 今の表情を鏡に映して見せたいものだ。

 私たちの背後では、正座からいち早く抜け出していたてゐがウドンゲに捕まっている。

「ほら、放っておくと後で日焼けした所がひりひり痛むわよ? てゐもこれを塗っておかないと」

「油を塗るって……なんだか丸焼きにされるみたいねぇ」

 サンオイルを勧めているようだ。
 彼がいない間にウドンゲに効能を教えて、塗り込むように言って置いた物だ。
 私の説明をそのまま繰り返しているウドンゲの口調が、少しおかしい。

「お姫さまは頼むわ。滅多な事はないだろうが」

「ええ」

 請け負い、彼の視線を別に向けさせる。
 彼は輝夜ばかりを見ている訳にはいかないのだ。
 自業自得、とまでは言わないけれど、好んで負った義務は果たさせなければいけない。
 その為にも、彼の言う滅多な事が起きる確率を排除したのだ。

 彼が離れた後も、私は輝夜の成長を砂浜から見守った。



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「そこのお二人さん、今度は何して遊ぶ?」

「あ、ご主人様」

「ちょっと待ちなさいよ。このサンオイルっていうのを塗ってから――」

「サンオイルと聞いて」
「お触りイベントと聞いて」
「ちょっと通りますよ」

「……うわぁ」

「見苦しいのがまた戻ってきたわね」

「ギュピィーッ!」
「戻って早々俺たちの心に深い悲しみが訪れたのであった」
「おいトン太、一人だけ言葉責めで悦ぶとかずるいだろ」

「お前らか。随分遅かったじゃねぇか。それで、収穫はあったのか?」

「それが聞いてくれよ。サザエもアワビも超入れ食いの穴場を見つけたんだぜ?」
「潜ってみればあっちにうようよこっちにうじゃうじゃ取り放題!」
「ま、ちょっと網で仕切られてて難儀したけどな!」

「いいか、良く聞け? それは穴場じゃなくて養殖場ってんだ」

「大喜びで獲りまくってたら銛を持ったおっさんからボッコボコになるまで殴られました」
「うわ、おっさんつよい」
「土下座しても許してもらえませんでした」

「良かったじゃねぇか。突かれなくて」

「そのまま帰って来なかったら良かったのに……」

「鈴仙、言うわねー」

「そ、それでぇ。あのぉ」
「俺たちのボッコボコの姿を見れば判ると思いますが」
「ひもじいですぅ」

「これでも食ってろ藻屑三兄弟」

「俺たちが被ってた海藻じゃないっすかぁー! ……あ、でも(ちゅぱちゅぱ)」
「これはこれで(ちゅぱちゅぱ)」
「嫌いじゃないかも(ちゅぱちゅぱ)」

「……プライドとかないんだ」

「捨てては拾って、また捨ててるだけでしょ」

「どうしてお前らは見苦しさにだけ磨きがかかるんだか」

「それはそうと先生!(ちゅぱちゅぱ)」
「海藻しゃぶって飢えは凌いでも(ちゅぱちゅぱ)」
「心の栄養が足りてません!(ちゅぱちゅぱ)」

「ちゅぱるな」

「(じゅぼるる)是非とも俺たちにサンオイルの栄誉を!」
「(ぼじゅごっ)塗ります隈なく漏れなく隙間なく!」
「(あろろろろ)俺、一〇本は空けちゃうよ?」

「ふーん。じゃあ先着一名な。お前ら三人で戦って決めろ」

「またそのネタか。いいですとも!」
「サンオイル塗り塗りくらいで俺たちの友情がお前らを殺す!」
「あ、俺肉弾系はパスな。養殖業のおっさんに殴られすぎて真っ直ぐ歩けねぇし」

「ご、ご主人様ぁ」

「ちょっとぉ」

「まあまあ、二人ともちょっとそのウサ耳を拝借……」

「しゃあおらぁ! ライバル一人減ったぁ!」
「この豚野郎! 血の池に沈めた挙句もっぺん血反吐吐かせてやるぁ!」
「この円の外側に出たらアウトって事でな。お前らほっとくとマジで流血沙汰になるからな」

「でだな…してな……」

「……はい」

「じゃあいっそ…にした方が……」

「ワカメのミネラルで……俺の身体がこんなにいいいいい」
「抜かせ! 昆布の旨味ではああああこんなにいいいいい」
「お前ら今度バキにでも出ろよ」

「お。始めるとこか。よぉし、じゃあ俺の合図で――」

「あっ。永琳師匠のおっぱいがナショナルジオグラビティ!」
「えっ――ぬわあーっ!」
「騙まし討ちかよ」

「さっきの筋肉はなんだったんですか……」

「私でも引くわ」

「古今東西有史以降、先制攻撃を受けた後に立て直すのは至難と相場が決まってるのだぁー! デュクシデュクシ!」
「やめて、やめてやめてっ! ひ、ひどいよっ」
「サンオイル一つで全く大人気ない――あっ。姫様のフルネッチョ映像」

「なにをするきさまー!」
「ひいいいっ! 姫様が上下逆になって海に浮かんでるぅー!?」
「すまん、さっきのは嘘だ。あれはフルショック映像だったな。というわけでころしてでもうばいとる!」

「ここで参戦か」

「……もう勝手にして下さい」

「全員ビョーキね。頭が」

「騙まし討ちなんて卑怯じゃありませんかカン吉さん!? だから頭を狙うのは止めて下さいお願いします!」
「数秒前俺に何言ってたかもう忘れてるのかよ」
「勝てばよかろうなのだァァァアアア!」

「あー、もうお前の勝ちでいーや。めんどくさいし」

「めんどくさいって理由で!?」
「臭くないよ! 俺たち獣臭漂わせたりしてないよ!」
「ほんと、夏の海は地獄だぜ! フゥハハハハァー!」

「はーい、勝利者はあっち」

「い、いらっしゃいませ」

「天国へようこそん♪」

「ぃやったぁー! 今度はどぎつい詐欺が待ってたりしなかったよ!」

「負けた糞虫どもはこっちで肉体労働だ」

「ひーんひーん」
「強制連行に強制労働とか。我々は謝罪と賠償をあっ殴らないで!」

「じゃ、じゃあこの目隠しをつけて下さいね」

「ほら、見られると恥ずかしいし。ね?」

「あへえええええっ。それはつまり見られて恥ずかしいところまで塗り塗りしてもいいって事ですかぁー! やたーっ!」

「あの獣姦野郎、アヘ顔決めて喜んでいやがる」
「死ねばいいのに」

「まあそう言うな糞虫ども。今回の肉体労働は、お前らにとってもそう悪い話じゃねぇ。ちょっと俺の話を聞いてみねぇ?」



xxx  xxx



「右よ、右!」

「進み過ぎ、戻って戻って!」

「やめてっ! 来ないでっ!」

「もうちょい斜めー」

 耳に飛び込んでくるさまざまな声に戸惑いながら、ウドンゲは手にした棒をぎゅっと握り締めた。
 振り下ろす位置が決まったようだ。

「えいっ」

 掛け声とともに頭上に振り上げた棒を力いっぱい振り下ろし、どすっと鈍い音が聞こえる。
 ほとんど同時に上がる周囲からの残念そうなため息。
 ウドンゲは目元を覆っていた布をたくし上げ、砂浜を少しだけ抉った棒の先を眺めていた。

 左に五歩ほど離れた場所には丸々と太った西瓜が。
 右寄り三歩ほどには、三人組の一人が首から下を埋められていた。
 西瓜の皮を模した黒と緑の段だら模様も描かれて。

 私たちは彼の発案で西瓜割りの真っ最中だった。

「やっぱり詐欺だったじゃないですかぁー! やだーっ!」

「私に言われても……」

 西瓜にされている男の悲鳴に、ウドンゲは気のない声で答えていた。
 ビーチバレーの時に悟ったのか、もう気を許した様子はない。
 胡乱な眼差しを向けるウドンゲに、彼が近づき手から棒を抜き取っていた。

「鈴仙、残念だったね。おら、西瓜役は黙って審判の時を待ってろよ。言っとくがな、西瓜割りってのは西瓜が割れるまで終わりはねーんだぜ?」

 彼は手にした棒で肩を叩きながら、無慈悲にせせら笑った。
 それに追随して、生き埋めを逃れた三人組の二人が西瓜柄の男にちょっかいをかけ始める。

「いい気味だこのJOJOオタが。グラップラーのガイアみたく脱出して見せろよ」
「薄汚い裏切り野郎が。割れたら唾かけてやんよ。ぺっ、ぺっ」
「ドジこいたーッ!」

 悪は正義が打ち倒すもの、という想像はただの絵空事に過ぎない。
 いつの世も、よりあくどい悪が呑み込んでしまうだけ。

「さーて、次は誰の番だ?」

 騙して生き埋めにして、さらに嬉々として西瓜の柄を塗りたくった張本人である彼は、実に爽やかに笑っていた。



「永琳、つかまれ」

 海面に顔を出した私に、手が差し伸べられる。
 先行していた彼は沖に設けられた防波堤に上がっていた。

「ええ」

 その手を握り、彼に引かれて私も防波堤の上に登った。
 設けられて長い時間海に沈んでいた為か、すでに生態系の一部と同化してしまっている。
 主に海藻類が栄えるブロック帯も、海から上がれば山積みになった無愛想な石材だ。
 斜めに傾いだ石の中から座り心地の良さそうな場所を見つけ出し、そこに腰を落ち着けた。

「はあ」

 解いた髪から滴る海水を軽く絞り、一息つく。
 西瓜割りを終えた後、彼に誘われ軽く泳いでいた。
 砂浜は遠く、そこにいる輝夜たちも表情までは見て取れないほど小さくなっていた。

 うなじに視線を感じて振り向くと、座り込んだ彼が頬杖をついて私を眺めていた。

「どうしたの? 見てもそう楽しいものではないわよ」

「そりゃ自己設定が低過ぎるな。永琳が髪を下ろして水滴を落とす様子は、見てるだけで楽しいよ」

 そういうものかしら。

「そう。ありがとう」

 同意は出来なかったが、褒め言葉に礼を返しておいた。
 濡れた身体を日差しが温めていくのが判る。
 髪の水滴をあらかた落として、熱せられた石材に背中を預けた。
 斜め具合が、背もたれにちょうど良かった。

「私よりも、誘うべき相手は別にいるのではないの?」

 ゆったりと身体を休め、浅瀬でてゐと戯れるウドンゲの様子を眺めながら問うた。
 彼が苦笑を浮かべるのが雰囲気だけで伝わってきた。

「世話ばかり焼いてねぇで、もっと遊んで来いって鈴仙から言われちまってね」

 食事の時もそうだったが、西瓜割りの後も切り分けた西瓜を配り歩いているのが目に留められたのか。
 彼の性分と言ってしまえばそれまでだが、ウドンゲに言われては無碍にも出来ずこうしてここまで泳いできたのだろう。

「普段遊び倒してると、こういう時に遊んでないように見えるもんなのかね」

 彼の問いかけ、と言うよりも独白に近い声に答える。

「見知らぬ土地で、土地勘のある者は得てしてそう見えるものよ。レイセンも周りが見える程度に海に慣れてきたのではないかしら」

「そういうもんか」

 勿論それだけがウドンゲの心理ではないが、私の一般論に彼は曖昧に頷いた。
 彼自身に世話を焼いている自覚などないのだろう。

「ところで、永琳は海水浴を楽しめているかい?」

「ええ。月の海と違って中々新鮮な体験をさせてもらっているわ」

「へぇ。月にも海があるのか」

「月の海と違って地上の海は穏やかよ。湧き立つ思考活動を行わない海。余りある命を内包した巨人の死ね」

「……ふーん?」

「海水は流れ出した巨人の血液。海に住む者はその血を啜り、湧き出した蛆。それはやがて自ら肉の一部として存在する。大きな命が小さな命を内包している」

「例えが悪くないかい?」

「大地を巨人に例えるのは地上の民が良く行う事。大きすぎる物を認知するには、より身近なものに置き換えるものよ」

「俺たちは羽化もしない蛆虫で、死体を漁るだけか。なるほどそいつは判り易い」

 私たちは沖の防波堤から砂浜を眺めながら、取り留めのない話をした。

「西瓜割りはどうだった? あれだろ、永琳はああいう世俗的な遊びはしなさそうに思える」

「楽しかったわよ。食べ物で遊ぶ童心を思い出させてもらったわ。地位や立場が邪魔をして、ああいった遊びは月にいた頃は出来なかったけれど」

「その割りには目隠ししても大して迷わなかった上に、必要最小限しか割らなかったけどな」

「砂がついては台無しかと思って。それも遊び心の内なのだろうけれど、私は駄目ね。感じたままに行動するよりも頭で考えてしまう」

 幾ら新鮮な体験を得たところで、私は輝夜たちのようにははしゃげない。
 無垢な純真さはとうに失ってしまっている。
 失ってからどれだけの月日を重ねたのかも判らないほど以前に。

「その点は輝夜とてゐが抜群だな。どっちも勘だけで生き抜いていくタイプだ」

「本気でそう思っているの?」

「違うのかい? なら永琳の意見を聞こうか」

「てゐは計算に裏打ちされた勘よ。勿論第六感や感覚に依った決断を下す事もあるけれど、それも含めた計算で成り立っているわ。輝夜も根っこは同じ。その過程が綿密であるか、最短であるかの違いよ」

「それで、西瓜頭をこれ見よがしに棒っきれで三度もぶん殴ったり、すり足で突っ走ったりする訳か」

「反抗の芽をあらかじめ摘み取っておく事、砂場で足を取られずに目的地まで辿りつく事」

「てゐはともかくだ、お姫さまは転んで顔から砂に突っ込んでたぞ」

「結果はどうあれ、決断した過程に於いては間違ってはいないわ」

「過程で色々先取りしたりやり過ぎたりしてるんじゃねーの?」

「姫の姫たる由縁ね。周りの目をひきつけ思わず手助けしたくなる。人を集め注目を引き付ける事も才能よ」

「……確かに、何もかも上手くこなせるよりゃ可愛げはあるか」

「あら。それは皮肉?」

「なんでも知ってるように見えて案外世間感覚に疎いとこが、永琳の可愛げだ」

「こら。大人をからかわない」

「きゃん」

 言葉を繰って身体を温めた後は、再び海へ。
 沖側に向かって飛び込み、たゆたう海原に身を預ける。
 沖に出てしまうと波もほとんど感じられず、海中も穏やかだ。 
 潜水し、水底に沈む岩で一生を遂げる海藻がそよぐ様子や、精緻な動きで群れて行動する魚たちを目にし、海面から光が差し込み揺らぐ様子を泳ぎながら堪能した。

 呼吸の為に海面に顔を出すと、共に泳いでいた彼が仰向けになり浮かんでいた。
 空と太陽を仰ぎ、彼の口元は笑っていた。

「全て揃ってるな」

 波を立てずに近寄った私に、彼は呟いた。

「沢山あり過ぎて、両手だけじゃ余る程だ」

 人生において得るものは、失うものの方が多い。
 何を掴み取り、何を手放すべきか、常に決断を求められる。
 ぎりぎりの選択の中で決断の連続を経てきたのは、彼とて同じ事。

 私は、彼が手放したものの大きさを知っている。
 半身か、それ以上に大きなものを、自ら身体を引きちぎるほどの痛みと共に見送った。
 彼の心を完全に理解する事は出来ないが、その時の感情は紛れもない愛情だった。
 共通の目的をもって、私と彼は殺し合った。

 殺し合ったと言うと語弊がある。
 私が一方的に殺戮したからだ。

「そう」

 私は波間をたゆたう彼の黒髪に指を絡めた。

 私を憎んでいないのか、などと訊かなかった。
 憎んでいないはずがない。
 円くなったとはいえ、自らの身体に刻み付けられた恨みを忘れてしまう程彼の心は磨耗し切っていない。
 得たものを守る為に、彼が憎悪の置き所を敢えて定めずにいる事くらい、心の機微に疎い私にでも判った。

 彼は克服しようとしている。
 逃れえぬ憎悪の連鎖を断ち切るのではなく、自ら鎖を握り獣性をコントロールしようとしている。
 彼は憎悪も怨嗟も捨て切る聖人には決して成り得ない。
 それを悟った上で、人間らしさにしがみついている。
 両手に収まったものを、自らの手で捨て去らぬように。

 海を掻いてすいっと彼の頭側へ回り込み、胸元に抱き寄せた。
 ふらふらと拠り所なく浮かぶ様子は、ここで生きている彼の心境に近いものがあるのだろう。

 言葉はなかった。
 手繰り寄せた私の腕に彼も手を添え、二人で波間に揺れていた。

 どれくらいそうしていたのか。
 頭上から少し斜めに傾いだ後も燦々と陽気が降り注ぐ中、彼の手は私の胸元へと忍んでいた。

「おいたが好きな子ね」

 呆れ混じりに軽く睨む。
 私の乳房を円く撫でる彼はその手を休める事無く、悪戯が露見した幼子のようにはにかんだ。

「知的好奇心って奴さ。本当に浮かぶものなのかってね」

 言葉を行動に反映してか、彼の手つきがしたから支えるような動きに変わった。

「……なるほど、噂は本当だったか。浮くどころか手の平が吸い寄せられちまう」

「馬鹿ね」

 浮かんでいた彼の身体を背後から抱いて、軸をずらした。
 吊り合っていたバランスが崩れて浮力を失い、彼は慌てて手足をばたつかせてもがいた。
 私のちょっとした意趣返しに、一度は沈みながらもすぐに浮力を取り戻した彼は浮かび上がってきた。

「げっほ。予告もなしに沈めるのはなしだぜ?」

 慌てた拍子に海水を飲んだのか、咳き込みながら睨み返してくる。
 恨みがましい視線を涼しく流して、私は口元を緩めた。

「常に悪戯する側にいるとは思わない事ね」

 意図的に体勢を崩して海の中へと潜る。
 海水の分厚い層を蹴り勢いをつける。
 腰を中心に身体をうねらせ穏やかな水流を割って進む。
 泳ぎ始めてすぐに、頬を空気で膨らませた彼が、海水を両手で掻き分け追ってきているのに気がついた。

 私はここよ。

 言葉にならぬ声が伝わったのかどうか。
 彼は滑らかなフォームで真っ直ぐ私に向かって泳いできた。

 即興で思いついた戯れ。
 広大な海原の片隅で行う追いかけっこ。
 興が乗った私は、突き出される彼の両手を掻い潜り、水底を目差して躍り込んだ。



xxx  xxx



 追った。
 ただひたすら追いすがった。
 永琳が泳ぐ姿を目に焼きつけていた。

 遊泳を始める前にパレオを外していたので、身体がしなる度に絶妙のラインを描く。
 泳いでいるから尚更で、しなやかさは地上の比ではない。
 水を的確に捉える伸びた指先。
 下半身のしなり。
 躍動感に溢れる腿と上下に振られる脚。
 優雅でいながら力強いそのストリームラインは、魚類よりも海洋哺乳類を思わせる実に美しい姿だった。

 泳ぎにはそこそこ自信はあったが、都会育ちよりも泳げるといった程度で水泳選手ほど泳ぎに精通してる訳でもない。
 海に入るのも初めてなレイセンに、かろうじて指導らしきものが出来るような自信なんて、自由自在に泳ぐ永琳の前ではなんの役にも立ちやしない。
 陸を歩く者らしくまとわりつく海水を無様に掻いて、水中でターンする永琳を必死に追いすがった。

 永琳と比べてこの不自由で雑な泳ぎ方をどう例えればいいものか。
 溺れる犬と大差ない。
 すがる藁を探しているような犬っころに、海を泳ぐイルカや鯨に追いつく所か見つける事さえ一生出来やしない。
 だからこれは、千載一遇の邂逅に等しいのだ。

 息苦しさを無視して、酸素の足りなくなってきた血液を全身に送り出して手足を駆動させた。
 酸欠で頭がくらくらする。
 海が暗さを増していくのは時間の経過だけではないだろう。
 それでも指で掻いて足で蹴って泳いだ。

 もしも海でイルカや鯨やジュゴンなんかと思わぬ邂逅を果たしたなら、一緒に泳いでみたい、あわよくば触れ合ってみたいと思うのが人情ってもんだ。
 降って湧いたその感情が、いつしか俺の心を捕らえて離さなくなっている。
 自分でも溺れているのか泳いでいるのかさえ判らない。
 判っている事は肺の中に蓄えていた酸素がすっかり欠乏して、海面は遠く頭上にあるという事。
 それと、先行している永琳の息は未だ尽く事もなく、気持ち良さそうに泳ぎ続けているという事だ。

 新陳代謝が低いとかなんとか、いつかどこかで聞いたような気がする。
 呼吸すら、その気になったら止められるんだろうか。
 馬鹿言っちゃいけない、それじゃ土座衛門と変わりねぇ。
 ああ、畜生。
 かぐやめ、俺を悩ましてくれるな――

 我慢に我慢を重ね続けた為か、意識が遠くなってくる。 
 掻き分けていた海水に泥のような重みを感じる。
 今から海面に上がったらぎりぎり間に合うだろうか。
 もう少しで伸ばした手が触れそうだ。
 水圧と酸欠と願望と後悔と困惑と、何もかも混ざってぐちゃぐちゃだ。

 辺りが突然夜になったのか、暗さが増していく。
 意識が水底深くへと引き摺り下ろされていく。
 もう息苦しさも感じられなくなってきて、代わりに猛烈な眠気が襲ってくる。
 睡魔が心地良く全身を覆っていった。

 見果てぬ夢は、夢のまま終わってしまうから、いつまでも手が届かないのか。

 暗闇の向こうに光明が差す事は無く、俺は瞼を閉じた。






 強力に胸を締め付けられて激しく咽た。

「ぶっは、げっ、げほっ」

 えづきながら咳き込み、肺の中を針で刺されているような鋭い痛みに襲われる。
 立っているのか座っているのか、不安定な身体を支える為に両手を動かしてつかまる物を探したが、ばしゃばしゃと激しい水飛沫が散っただけだ。

「落ち着きなさい」

 無茶言うな。

 耳元で聞こえた囁きに内心悪態を返しながら、混乱したなりに状況の把握に努めた。

 俺は海に顔を出して浮かんでいる。
 バランスを崩しているのに沈まないのは手助けがあるからだ。
 俺の背後にぴったりと寄り添い、両腕を胸元に回しているのは永琳だ。
 立ち泳ぎで姿勢を安定させている。
 一呼吸するたびに胸がずきずきと痛む。
 潜水したまま、溺死寸前になっていた事を思い出した。

 自分の立ち位置と前後の状況が繋がれば、慌てる必要は何もなくなった。
 もがいていた手足の動きを止めて、深く、ゆっくりと深呼吸を繰り返す。
 早鐘を打ち鳴らしていた鼓動が安定していく。

「永琳、もういいぜ」

 死にかけた混乱は去った。
 波に揺られる落ち着きを取り戻した俺の身体から、背後の体温と柔らかさがそっと離れていった。

 お花畑を訪れる臨死体験なんてお上品なものはこれっぽっちもなかったが、永琳の機転と手腕のおかげで晴れてこの世に戻ってこれました。
 めでたくもありめでたくもなし。

「もういい? まさか。これから始まるのよ」

 そうは問屋が卸しませんでしたとさ。

「苦しくなれば普通は水面に顔を出して呼吸をするでしょう。人間は海ではなく陸上で生きる生き物なのよ? 貴方は一体どの程度それを自覚しているのかしら?」

 振り返った俺に待っていたのは、いつも以上に鋭く尖った永琳の眼差しだった。
 冷え冷えとした声音に、思わず海パンの中の金玉がきゅっと竦み上がる。
 大海原にぷかぷか浮かびながら、スケールがでかい割りにみみっちい言い訳タイムが始まった。

「いや、まあ、それは知ってるけどな。永琳だって息継ぎしてなかったからだな――」

「それはつまり、私の所為だと言いたいのかしら?」

「……いや、そうは言わねぇけど。ちょっと忘れてたって言うかだな」

「生き物として最低限の欲求――いえ、本能すらも忘れるとはね。一体どういった理由があったと?」

「俺にとって永琳は、船乗りを誘うローレライの歌声に等しいのさ」

 お、これって的確な例えじゃね?

「見え透いた世辞の一つで酌量が得られるとでも?」

 ばっさりですかそうですか。

 だがそいつが理由だったのは確かだし、何より海中で活き活きと躍動する永琳の姿は、死にかけたという事実を差っ引いても尚鮮烈に焼きついていた。
 なのでここはどれほどおっかない目で睨まれたっても引いちゃいけねぇ場所だ。
 ぐっと口を噤んだ俺に、永琳はうっそうと微笑んだ。

「返事は?」

「はい。いや、いいえ」

 弱ぇえよ俺。 

 反射的にはいと答えちまったが、ここは流れからして見え透いた世辞云々にかかってるとこだし、いいえが正しいだろう。
 お世辞じゃなくて本音だしな。

「そう」

 永琳はどちらとも取れる返事で微笑んだ。
 言葉少なな分、余計におっかねぇ。
 真夏の海水浴場だったはずが、北極の氷山から突き落とされたような寒気を覚える。
 極寒の海に突き落とされれば、心臓麻痺か凍死で大して苦しむ間もなく魚の餌になるだけ。
 そっちの方が幾らかましに思えた。

 据わった目つきで微笑む永琳は、俺の背筋をたっぷりと凍えさせた後、少しばかり疲れを感じさせるため息を吐き出した。

「海水を飲まなかっただけ不幸中の幸いね。これほど馬鹿馬鹿しい理由で命を落としてみなさい。どうなるか判っていて?」

「イかした二枚目、すげーかっこ良く波間に消える。とでも石碑に刻まれるか?」

「沈むわよ。レイセンが」

「……」

「さぞかし引きずるでしょうね? あの子があれだけ誰かに入れ込むのは稀よ」

「ああ――そうなの」

 命なんてものに価値はない。
 せいぜい別の誰かの餌って事くらいで、等しく無価値だ。
 人命は地球より重いなんて反吐が出るし、宇宙船地球号だとかイカれた妄言の類だ。
 価値は何もせずただ与えられるものじゃない。
 何かを成し遂げた時に燦然と輝くものだ。
 
 国と国を巻き込む大事でも、一つの家庭で収まるちっさい事でもいい。
 守り慈しみ育む事でも、逆にぶっ壊す事だっていい。
 なんだっていい。
 生まれたからには何かをするべきだ。
 何も出来ずに死んでいくだけなら、そのささやかで苛酷な一生を全うすればいい。
 世界は馬鹿馬鹿しくなる程寛容に、不条理な無慈悲さをもって、全てを受け入れてくれる。

 人間は意味を求める生き物だし、大量に氾濫した言葉の意味からは逃げられない。
 なんせ無意味という言葉ですら、意味を持ってるくらいだ。
 どれだけ無意味な一生を過ごそうとも、そこから誰かが何かの意味を見出す。
 世を捨て山に篭ったって、多過ぎる人間の目から逃れる事なんて出来やしないし、視線に触れた瞬間から意味を探して付け加える。
 飢え死にしようが孤独死しようが、誰かが意味を付け加えようとする。
 理解出来ないものだろうが、理解出来ないなら尚更理解し易い意味を与えて理解しようとする。
 俺でさえ、今の生活に意味を見出してるんだから。

 それはきっと、悪い事じゃない。
 理解しようとするって事は、存在の証を認めるって事に繋がるんだから。
 貴方は確かにここにいましたって、ほんの一時だろうと認められるのは幸福だ。

 そういった心情ってのは判らないでもない。
 そういったものが自分に向けられる事にゃ全く以って理解し難い訳だが、理解出来ないからってそれは存在しない訳じゃない。
 だったら、俺は考慮しなくちゃいけなかった。

「悪かったよ。もう忘れねぇ」

「肝に銘じておきなさい」

 神妙な気持ちが伝わったのか、お説教タイムは終わった。
 絶対零度まで落ち込んでいた永琳の雰囲気が、相場に相応しい夏の海水程度には戻ってきた。

 そうなったら、当然の事だが俺は海水に濡れた永琳の身体に欲情して、一気に押し倒した。

 死と天秤に乗せても上回った肢体が、目の前でぷかぷか無防備に漂っているんだ。
 襲うなって方がまず無理。
 馬鹿の良い点は、咽喉元さえやり過ごしたら不都合な事はさっさと忘れちまう事だ。

 掴みかかりもつれ合って、二人して海中に沈む。
 邪魔なあぶくを掻き分けると、そこに少し驚いた様子で俺を見つめ返す永琳の顔があった。

 解けた髪が広がり揺らめく様子は、まさに俺が焦がれた姿だ。
 抱き寄せて唇を隙間なく覆ってから、舌を口の中へと侵入させた。
 塩味なのは海で泳いでいるためなのか、唇もいつもより少し硬く感じる。
 同時に望んでようやく捕まえた身体のラインを手の平でも味わう。
 水着を着て海の中にいるってだけで、どうしてこれほど違って感じるのか。
 柔らかな脂肪の下には、水を蹴立てて泳ぐ力強い筋肉の弾力があった。

 そうこうしている内に、口の中で大量の唾液が分泌されて溜まっていた。
 迷わず永琳の口に流し込んだ。
 少し塩味が薄まった互いの口の中で、唾液を舌でたっぷり掻き混ぜた。
 永琳は腕を俺の肩に回して、爪を立てるのが判った。
 鈍い痛みに構わずに、永琳の口の中を味わった。

 永琳の促しに沿って、緩やかに両足で水を蹴り、そのまま海面に顔を出した。

「はぁ」

 ため息が洩れた。
 永琳の吐息が鼻先をくすぐった。
 まだ肩を抱いて捕まえたまま、お互いの顔をしばらく言葉もなく見つめあった。

「今のは、不意を打たれたわ」

 苦笑と呆れと、少しばかりの恥じらいがの入り混じった永琳の笑みを目の前で見せ付けられて、背筋にぞくぞくと恍惚感が走った。

 どうだ見たかと誇らしい気分になってくる。
 馬鹿の一念永琳をも驚かすだ。

「上手く出し抜けたか」

「調子に乗らないの」

 自然と口元が緩んでいた俺に、永琳は海面を削って飛沫を浴びせてくる。
 それを顔面に受けても、俺の頭を冷やすには足りなかった。

「ここでする気なのね」

 笑みだけで俺の意図は伝わったようだ。
 眉をひそめて難色を示してはいても拒みはしていないのは、拒んだ所で俺が放すはずがないと判っていたからだろう。

「流石永琳、話が早い。イルカになった気分で海中セックスってのもオツだと思う訳だ」

「魚になった気分、ではないの?」

「魚類は体外受精なんだよ。海洋哺乳類なら挿入もありだ」

「馬鹿ね」

 また少しばかり背中を引っかかれたが、痛みは気にならなかった。
 永琳の肌にぴったりと張り付く水着に隙間を作って、手を差し込む。
 骨盤に沿って魅惑の三角地帯へと指先を侵入させる。

 永琳は軽く睨んだ後、尖った眉を緩めた。
 俺のビキニを腰からずらして、その動きに合わせて素早く片脚を抜いた。

「見つかったら軽蔑されるわね」

 永琳の声には、幾らかの罪深い響きが伴っていた。

「まさか。大人は他人のセックスを笑ったりしないさ」

 色々な交わり方がある。
 手法を変えた所で興味を持たれる事はあるかもしれないが、軽蔑の目が永琳に向けられる事などありはしない。
 俺は軽蔑される事には慣れていた。

 永琳は少し困ったように眉根を寄せた後、白い歯を覗かせてはにかんだ。
 俺の指先は濡れた茂みに到達し、さらに奥へと伸ばした。
 永琳は海中で俺のペニスを手の平で包んで、軽く扱き始める。
 刺激を加えられて、俺のペニスはあっさりと硬く怒張した。

「好き者」

 親愛が込められた罵りを口元を綻ばせて肯定し、垂直の体勢を維持して互いに愛撫を始めた。
 指先が繊細な裂け目に辿りつき、敏感な肉芽を探して包んでいた柔肉を捲る。
 グミのような独特の硬さを持った肉芽を転がし、永琳は俺のペニスを遠慮なく扱き続ける。
 愛撫に意識を傾けると、浮かんでいる身体は不安定に揺れて思わぬ場所に触れる。
 意識の及びつかない不明瞭さに、却って興奮を誘われた。

「はっ、はぁっ、あっ、んっ」

 永琳の口からリズミカルな喘ぎが洩れ出している。
 いつもより声を出している姿は新鮮だった。
 沖からのうねりに身体を持ち上げられ、ついで急降下していく。
 体勢を維持するのがより難しくなってくる分、永琳の裂け目から海水とは及びもつかないぬめりが指先に絡むのが判った。

「あっ……どうしてかしら」

「ぅん?」

「いつもより感じてる」

「俺もだ」

 尻に力を入れて締めていなければ、波間に揺られているだけで果てていたかもしれない。
 ペニスの付け根にしこりが集まりだしたのを感じて、前戯を終わりにした。
 扱いていた永琳の手を柔らく留めて固辞し、俺もくすぐっていた肉芽から離して水着から手を引き抜いた。
 永琳は片手で俺の肩を抱き、自ら股間を覆っていた布地をずらした。
 俺はその腰を支えて固定し、秘裂へと狙い定める。

「入れたらすぐ出ちまうかも」

 予め断りを入れておいた。

「構わないわ。注いで」

 弾んだ声で許容された。

 挿入への期待感と、その先に待っている悦楽への滾りをほんの少しだけ我慢して、身体を密着させた。
 ペニスの先端を膣口へと誘い、タイミングを待つ。

 大きな波のうねりが俺たちの身体を持ち上げるのと合わせて、腰を短く突き上げた。

「――っ!」

 永琳の嬌声と俺の呻きは、海中に沈んだ拍子に分厚い水の層に密封されていた。
 水中で俺たちは交わっていた。
 腰のピストンを繰り返し、口付けして、俺たちは絡み合ったまま遊泳した。
 無重力のセックスだった。

 身体がしなり、うねり、きり揉みする。
 がつがつとがっつきそうになる俺の頬に、海水で髪を広げた永琳が手を当てて諌める。
 セックスとはいえ水中と地上では何もかも違う。
 荒々しく腰を動かしていれば容易く命の危機に晒される。
 欲望をなだめすかして控えめな腰使いへと変え、息継ぎと遊泳を繰り返しながらコツを掴んでいく。
 海面と海中を何度も行き来する内に、少しずつ判ってきた。

 腰の動きはなるべく短く、繋がり方は深く。
 行為には没頭せずに、意識の半分を泳ぎに残しておく。
 泳ぐ際には、永琳の脚の動きと干渉し合わないよう交互に上下させる。
 その動き自体がピストンの助けにもなり、挿入感は思った以上に深い。
 後は無重力の心地良さを存分に味わいつつ、息の続く限り海中セックスを楽しめば良かった。

 欲望に駆られず意識を半分置いておくのは、俺にとっても都合が良かった。
 意図的に意識を散漫にしなければいけない分、射精感が紛れる。
 断りを入れたものの、出来るなら男の子の見栄って奴にも拘りたい。

「次はもっと感じさせて」

 海面に顔を出した永琳が、濡れた髪を額に貼り付けたままうっとりと囁いた。
 普段冷然とした彼女が、官能に染まった顔を見せている。
 イきそうになっているサインだ。

「ああ。俺も次で」

 正直言って、さっさと面子などかなぐり捨てて楽になってしまいたかった。
 今までで一番長い息継ぎの後、俺たちは水の中へと潜った。

 腰を揺すって迎え入れる永琳に、俺は真っ直ぐ短く激しく応えた。
 その動きに耐えるだけの酸素を肺の中に溜め込んである。
 永琳は両足を俺の腰に絡ませてしっかりと固定し、その分俺も行為に没頭出来た。
 両手に余る尻肉を掴んで、腰を打ちつける。
 動きに影響されて俺たちの身体は上に下に斜めによじれ、緩やかに沈んでいく。

 膣内の断続的な締め付けが、吸いつきへと変わった。
 海水の浸入すら許さない程の吸着に、俺のタガはあっさり外れた。
 永琳のしなやかだった身体が硬直して、俺の身体にしがみついてくる。
 俺の方は精液と一緒に筋肉の緊張すら吸われて、脱力感と共に受け入れた。
 絶頂は思った以上に激しかったのか、耐えかねたように永琳が肩口に噛み付いてきた。

 虚脱感に似た恍惚と方の痛みと共に、俺たちはくるくると海中をスクリューしながらもつれ合った。
 天も地もなくひっくり返り、息が続く限界までそうして、余韻を楽しむ間もなく海面を目指した。

「はぁっ!」

 俺たちが顔を出してまず最初にしたのは、欠乏した酸素をむさぼる事だった。
 挿入したまま、息を切らせた呼吸を繰り返した。

 海中セックスの余韻は、海面に出てから楽しむものだ。
 息を整えた後は、波間に揺られて刻一刻と変化する挿入感をお互いに愉しんだ。

「……傷を負わせてしまったわね」

 事後の悦楽にひたっていた永琳の表情が曇る。
 指先で俺の肩をなぞっていた。
 海水で洗い流される度に、歯型の傷跡からじわじわと血が滲み出していた。

「これくらい舐めときゃ治る」

 痛みは鈍く、傷自体も浅く気にならなかった。
 二、三日もせずに傷は塞がり、一週間もあれば消えてしまうだろう。
 永琳の手を煩わせるまでもなかった。

「こら。さっき言った事をもう忘れているの?」

 軽率さを咎められたばかりだった。
 実際に忘れていたので、鼻先を指で押されても苦笑いを浮かべるしかなかった。

「それに、貴方が気にしなくとも私が気にしているの」

 永琳は俺の首に腕を回して、肩の傷跡を舐め始めた。
 俺は抱擁を返し、ピンクの舌が血を舐め取る様子を眺めてその言葉を吟味した。

 傷を負わせたという小さな負い目があるのなら、永琳の好きにさせよう。
 それで心の棘が抜けるなら安いものだ。

「また世話になるよ」

 濡れた髪を撫で付ける俺に、永琳は流し目をうっとりと細めた。

 困った事に、海中セックスは一度始めると中々終わり所を見つけるのが難しかった。
 海がある限り波は途切れる事無く、必然的に刺激を加えられ続けるので、一度二度達してもすぐに気分が乗せられてしまうのだ。
 波に乗るってのはこういう事だな。
 いや違うか。

 挿入しっ放しだったのがいけないのだが、さっさと抜いてしまうのは名残惜しく、結局両手両足の指の数では足りないほどの二人三脚ならず、二人四脚の素潜りを繰り返した。
 数えちゃいないが四、五回はイったと思う。
 新鮮味の成せる業か、射精のサイクルはいつも以上に短いスパンで永琳の膣内へと精液を注いでいた。

 流石に満足したんで、防波堤に上がって一休み入れていた。

「今まで海の中でこんなセックスが繰り返されてたのかと思うと、羨ましくなってくるな。畜生め」

 イルカも鯨もまとめて食卓送りにしてやりたくなってくる程、海中セックスは最高だった。
 ただしジュゴンは許す。

「馬鹿な事言ってないの」

 巨大な重なり合うブロックの一つにもたれかかりながら、日差しを浴びていた永琳がたしなめた。
 午前中にデッキチェアでサンオイルを塗っていた為なのか、永琳は余り日焼けしていないようだ。
 水着を全て脱がした訳ではないので、隅々まで確認した訳でもないが。

「どう? こぼれて垂れたりはしていないかしら?」

 魅惑的な肢体をじろじろと眺めたりしていた為か、永琳は際どい部分を指先でなぞった。
 遠慮なく膣内射精を繰り返したりしたから、薄い布地の向こうでは精液で溢れ返っている事だろう。
 俺はその場にしゃがみこんで訊ね返す。

「不安なら戻る前に吸い出しておこうか?」

「馬鹿ね」

 永琳は困ったように笑って、俺の額を軽く小突いた。

 割りと本気で言ったんだが。

 なんてやり取りを交わして、流石にずっと股間ばかりじろじろ眺めてるとまたぞろ欲情しかねないんで、膝を伸ばして視線を別の場所へと移す。
 永琳との水中セックスに明け暮れようとしていたが、砂浜の方はどうなっているのか――

「……あ?」

 なんか変なもん見つけた。

「あら」

 俺の声に、続いてブロックから身を乗り出した永琳が、気の抜けた声を洩らした。

 なんと言うか、まあ。
 変なもんがこっちに向かってきていた。

「はいどう! 止まりなさい」

 浮き輪に尻を収めて、海面にぷかぷかと浮かんでいるお姫さまは、声を上げると手にした縄の束を引いた。
 縄の先に繋がっているのは、いい加減見飽きた感が漂うのに未だに良く見分けのつかないぼんくらどもが繋がれていた。

「……何やってんの」

「私の冴え渡る頭脳が閃いたのよ。天才的にね。そう、天才的にね!」

 天災の間違いじゃねぇのか。

「ぶふ、ぶふーっ」
「この状況でもギャクボに鼻フックだから見上げたもんだよな」
「ある意味見下げた方がいいんだろうけどな」

 そしてお前らにゃ訊いてねぇ。

「自ら海を泳ぐなどナンセンス! これからの時代は、泳げる者に引かせればいいのよ!」

 それはつまり泳げねぇってカミングアウトなのか?
 そんなの浮き輪を手放さない時点で判ってるっつーの。

「どうしたの? 声も出ないの? 茫然自失するほど恐れ入っているのね? 私が怖いだなんて、いいわ。どこからでもかかってきなさい!」

「ぶふ、ぶぶ。ぶぶぶ」
「未だドMの悦びっていうのは判らないけど」
「ちょっと癖になりそうで怖い!」

 意気満々に気勢を放つお姫さまと、鵜よろしく繋がれて歪んだ性癖を目覚めさせるぼんくら共。
 思っていた以上に相性がいいのかもしれん。
 少なくとも上下関係はすでに確立されているようだ。

「どうしたの? 臆病者。来いよ下郎」

「ぶっぶぶっぶぶー」
「月の支配者にして地上の覇者たるお姫様のお言葉だー!」
「わめくがいい! ほざくがいい! ののしるがいい……ロープを掴まれている俺たちに出来る事は、それぐらいだからなあ……」

 挑発を続けるお姫さまと尻馬に乗るぼんくら共。
 俺は顎を撫でて、永琳と顔を見合わせた。

 少しばかりお灸を据えてやった方がいいかも知らん。 

「おりゃー」

 俺はぼんくら目掛けて飛び込んだ。

「ぶごごごご……」
「うはっ、マジギレとかちょっとまっがばば」
「うわーっ。やっぱりそうだったァァァァァァン~~~~」

 とりあえずぼんくら共を沈めて鵜飼いの鵜を奪った後は、推進力を失って漂うお姫さまの周りをぐるぐると旋回した。

「デーデン デーデン デデデデッ デデデデッ」

 定番のテーマと共に。

「来るな! 来ないでぇ! 永琳、永琳! 私がピンチよ助けて永琳!」

「輝夜。これを機会に、少し海に慣れましょうか」

 助けを求める必死の声を、永琳は笑顔で見送った。

 よろしい。
 ならばジョーズだ。

「デッレデッレ! デッレデッレ! デレレ~」

「ああ、なんかそこはかとなく不安を煽るBGMだわ! 姫のDNAがびんびんに危機を訴えているこの緊張感! 言うなれば冗談半分の肝試しで最初に命を落としてしまう目障りな男女組のような鉄板フラグが! バカな、姫ともあろう私が直撃だとでも言うの!?」

 動揺して色々口走っていたようだが、潜水した後は聞こえなくなった。
 微妙に海藻に絡まったりしているぼんくら共を尻目に、しっかりと潜った俺は海面を見上げた。
 ぷかぷかと浮かぶ浮き輪と慎ましやかな尻は、実に狙い定めるに易い目標だった。

 実際の鮫の如く、俺は真下からかぐやを襲った。



xxx  xxx



 沖まで出ていたご主人様たちが戻ってきた。

「やあ鈴仙、取れたての海の幸だよ」

「……それ、釣果なんですか?」

 私はご主人様の手に握られた縄の先に視線を移す。

「思うんだが、俺たちって何しても死なないって思われてるんじゃね?」
「海藻ってマジでしっかりしてるよな」
「おおおお……吸盤が…吸い付くぅ……みなぎるぅ……!」

 海藻を被ったり、貝殻を貼り付けたり、なんだかうねうねとした奇妙な生き物に絡みつかれたりしている三人組の姿があった。

「外道が三匹」

「納得しました」

 上手い事を言うなぁと感心してしまった。

「俺たちの存在はスルーですかそうですか」
「いっそ蔑んだ目で見て貰った方が色々と楽しめるよな」
「立った! タコの歯が立っ……いてぇ! タコに噛まれるのって超いてえ!」

「それはいいんですけど――」

 三人組の事はひとまず置いて、ご主人様から少し離れた場所にいた師匠へ視線を移した。
 正しくは、その陰に隠れるように佇んでいる姫様へ。

「どうかしたんですか? 姫様」

 姫様は午前中無駄に有り余るほど発散させていた自信や覇気を、すっかり喪失してしまっていた。
 弱々しい眼差しを持ち上げると、憔悴振りの著しさが痛いほど伝わってくる。
 まるで凍えたチワワだ。

 姫様は私と視線を合わせると、ぽつりと呟く。

「私、穢されてしまった」

 え。

「もう嫁入り出来ない」

 姫様は両手で顔を覆い隠し、その場でさめざめと泣き崩れた。
 蚊の鳴くような呟きに私の頭の中は真っ白になってしまった。
 儚く泣き濡れる姫様にかける言葉が見つけられず、姫様がこうなってしまった原因であろう人とを見比べるばかりだった。

「鈴仙、そんな泡食った顔して人の顔を二度見するもんじゃないですよ」

「だ、だって」

 姫様にここまで言わせるとなると相当なものだろうし、ご主人様がこの三人組が何かを仕出かすのを黙って見過ごすとも思えない。
 目を光らせているご主人様自身がその原因と考えるのが順当だった。

「泣ーかしたー泣ーかした」
「永琳センセーに言ーてやろ」
「赤い外道がぁー姫様をぉー泣かしましたぁー」

「うるせぇ」

 囃し立てる三人組をかなり本気に殴りつけながら、ご主人様にもいつものふてぶてしさが感じられない。
 私の視線に、後味が悪そうに口元を歪めてがりがりと頭を掻いた。

「そんな大袈裟な真似してねぇよ。ただ、ちょっとばかし尻にタッチしただけで」

 視線に耐えかねたように、ご主人様が告白した。
 やっぱり、原因はご主人様だったようだ。

「……ちょっと?」

 果たして、それは私が想像している通りなのだろうか。
 この人のちょっとは、はっきり言って余りあてにならなかった。

「ちょっとだよ。水着の下に指を差し入れたり、割れ目狙ったりもしてないって。尻をこうぺろんと撫でただけ」

「……」

「ほんとだってば!」

「必死過ぎワロタ」
「痴漢乙」
「言い訳って後からつく嘘の事でーす」

「お前らちょっと黙ってろ」

「ひぎいっ!」
「ガッシ ボカッ!」
「ひいっ。タコふんどしだけはやめ――タコは哺乳類だもぉ~~~ん!」

 私は三人組に制裁を加えるご主人様から、姫様へと視線を移す。
 ただ見るだけでなく、注意深く観察した。

 顔を覆った両手の隙間から、こっそりと様子を窺っているのが判った。

「ご主人様の言う通りですね」

「姫たる私の言葉がそこの下郎よりも軽いとでも言うつもりイナバ!? 姫の中の姫、キング・オブ・プリンセスのお言葉をなんと心得るつもりよ! 罰を当てるわよオーメン!」

 姫様だ。
 いつも通り過ぎるほど姫様だ。

 泣き落としを狙っていたのか同情を誘っていたのか、しおらしい態度はその為だったのだろう。
 ご主人様を擁護する一言であっさりと化けの皮が剥がれ落ちた。

「キングとプリンセスは両立しないと思います」

「イナバの癖にこの私に説教ですって!? 勝者の余裕とでも言いたいの? 皇子どころか公達にも劣るこの外道男に妥協して私に勝ったとでも言うの!?」

 むっ。

「いつの話ですか。いつまでもそんなだから、誰にも相手をして貰えなくなったんじゃないですか?」

 儚げをかなぐり捨てて怒鳴りつけてくる姫様に、私は棘のある言葉を投げ返していた。
 姫様に言い寄ってきたのだから、地上でもよっぽど位の高い男の人ばかりだったんだろう。
 けど、例えそれがどれほどの人物であったとしても、見ず知らずの人間と比べてご主人様を貶められるのは、私を苛立たせた。

 それは身分とか立場とか本人も気にしなさそうで、姫様と同じ時代に生まれていればずっと低い地位だったかもしれない。
 でも、私がご主人様が好きになったのは愛情が深い所なんだから、そういう部分は関係がなかった。

「きいーっ! イナバの癖にこの言い草! なに、なんなの? 一体なにを主張しようというの!?」

「姫様の癖に、過去の栄光を振りかざし過ぎなんじゃないですか?」

 そんな苛立ちもあったからか、きいきいと喚く姫様にこちらも売り言葉に買い言葉といわんばかりに言い返してしまっていた。
 睨み合いになる私と姫様の視線の間に、ご主人様が割って入ってきた。

「まあまあお二人さん、出先で喧嘩してちゃ台無しだぜ?」

「そもそもの元凶が言うな。私の神々しい臀部に触れた罪、塩酸に手を突っ込むに値する!」

「エッチなのがいけないと思います」

 食って掛かる姫様と共に、私もじっとりとご主人様を睨んだ。
 当のご主人様は、姫の罵声や私の恨みがましい視線もどこ吹く風で、からからと笑っている。

「怒った顔も魅力的だが、俺としちゃあ仲良く笑ってる方が好みだ」

 打てば響く姫様と違い、ご主人様はこちらが感情をぶつけても柳か暖簾のようにいなしてしまう。
 私の苛々は行き場を失ったまま急速に収まっていくのが判った。

「これがリアル俺の為に争わないでくれか」
「リア充爆発しろ」
「俺だって負けないぞ!」

 何故か三人組が割って入ってきた。

「二人とも、俺の為に争わないでくれ!」
「何言ってんだ。俺の為に決まっている!」
「なんだとこの野郎! クンニしろよオラァァ!」

「灯した火に自ら飛び込むような虫けらに、私が心を砕くはずがないでしょうに」

「貴方たちの事は一切関係ありませんから」

 三人組同士で勝手に喧嘩が始めて、滑稽なその姿にとうとう投げやりな気分なってしまった。
 宥められたというよりも、すっかり白けてしまった。

 漂白された視線で目の前の三つ巴を生暖かく見据える私たちに、拍手を打つ音が空気を入れ替える。
 師匠だった。

「さあ、もう気は済んだでしょう。まだ恨みが残っているのなら個別に晴らしなさい」

「いや、あの。恨みってほどでは……」

「きょええええいっ!」

 私の言葉をかき消すような奇声を上げて、姫様はご主人様に踊りかかっていた。

「けえええええいっ! きてはぁあああ!」

 怪鳥のような奇声を上げて襲い掛かるも、振り回される手足はご主人様に届いていない。
 つっかえ棒でもされたように額を手で押さえられ、相対的に短い姫様の手足は虚しく空を切るばかりだった。

「こ、今回は、これくらいで、許しといてあげるわ!」

「へいへい」

 ぜえぜえと肩で息をしながら虚勢を張る姫様に、ご主人様は適当な相槌を打った。
 
 なんだかんだで、姫様とも仲が良いように見えるのは気のせいなんだろうか?



 その後、私たちは沖に出た。
 人数分のシュノーケルと足ヒレを身に着け、装具一式をくしゃみと共に顔から飛び出してきた鵺さんを留守番に置いて。 
 てゐはぐずっていたけれど、最終的には泳ぐ事に同意して海に入った。

 魚の尾びれかカエルの後ろ足にも似た足ヒレをつけているおかげで、脚を振るたびに身体がぐんぐん前へと進んでいく。
 シュノーケルがあるので水面近くにいれば息継ぎに顔を出す必要もなく、目元を覆う水中眼鏡のおかげで海の中の様子を気兼ねなく楽しむ事が出来た。

 口にくわえた管を通るしゅうしゅうと息が抜ける音が、海水を隔てて聞こえてくる。
 てゐは一度海には言ってしまうと、海に入るのをあれほど嫌がっていたのが嘘みたいに楽しんでいる。
 すいすいと泳いで、今は海底付近で扇ぐように足ヒレを動かし砂を巻き上げていた。

 師匠が泳ぐ姿は、滑らかな動きでそれだけで絵になる。
 下手な魚よりも優雅に弧を描き、空を飛んでいるように水中を自在に回遊していた。

 姫様も三人組に引かせていたボートから降りて海底散歩を楽しんでいる。
 というか、何故か姫様は浮かないらしく、ぺたぺたと海底を歩いていた。
 息が切れそうになると側で様子を窺うご主人様か師匠が脇を抱えて浮上して息継ぎをする、という形で海を楽しんでいるようだ。
 もっとも、ご主人様の時はなにやら暴れていたけれど。

 そんな海の中の様子を、海底の風紋や揺らぐ海藻、魚や貝といった生き物たちのいる独特の景色と一緒に私は眺めていた。
 午前中、私はまだ上手く泳ぐ事も出来なかったというのが嘘のよう。
 泳ぎ方を覚えてしまうと、どうして泳げなかったのかその理由すら判らなくなってしまう。
 溺れる恐怖がなくなれば、落ち着いた心境で景色を楽しむ余裕もたっぷりと出て来る。
 海面を潜った先にある全くの別世界に、いつしか私の心は酔いしれていた。

 海中の散歩を楽しんだ後は、沖の防波堤の上に登り一休みしていた。
 防波堤に上がった後も、私は周囲の様子を眺めるともなく眺める。
 目に付くのはやはりというかなんと言うか、姫様だった。
 複雑に重ねられたブロックの一番高い場所に姫様が陣取っていた。

 気だるげに横たわって頬杖をつき、三人組を足元に侍らせていた。
 
「さあ貴方たち、月の姫を喜ばせる貢物は見つけてきたかしら?」

「へへぇ、この通りにございます」
「どうかお納め頂きたく」
「いずれもお喜び頂ける逸品にございます」

「苦しゅうないわ。近う寄りなさい」

「ははぁっ。まずは私め、トン太から。姫様に献上いたします物は、このナマコにございます」

「なにこれきもい」

「ジョセフィーヌぅぅぅぅぅぅ!」
「ナマコに名前付けるなよ。うわっ、中身出てるっ」
「触手系か。今までナマコはノータッチだったな……ゴクリ」

「私の前にそんなうんこみたいなものを差し出すなんて、脳が溺死しているんじゃないの!? 次よ次!」

「まさしくまさしく。このチン平は万事抜かりなどありますまい! 取り出したるは海に漂っておりましたこのカツオノエバチィッ」

「おま。そんなよりにもよってワーストから数えた方が早い危険生物を……!」
「はうっ、はうっ、はうっ」
「チン取歌だな」

「ええい、ろくなものを寄越そうとしないわね愚民どもは! もっとこう、金銀財宝の一つ二つくらいぺろっと差し出していいものを!」

「姫様、先の二名は所詮は素人。ここはうみんちゅたるカン吉にお任せあれ」

「これは――」

「海の宝石と呼ばれるウミウシにございます! この鮮やかな色彩にしてコンパクトに収まった体長、海の妖精と呼んで差し支えない希少にして神秘の生命こそが姫様に相応しいものかと愚考いたしまする!」

「……なるほど。確かに美しいわ、柑橘とやら」

「カン吉です」

「野郎、上手く取り入りやがって! 俺のジョセフィーヌにいやらしい視線を向けてた癖にぃいいい」
「……ビクッビクッ」
「どけゐ! お前らは最初から負け犬ムードだったのだ!」

「よろしい、褒美を取らせましょう。口を開けなさい」

「あー……んがくっく」

「ひぃっ! ウミウシを食わせた!?」
「……」
「しゃきしゃきとした食感……それでいてこりっと残る歯ごたえ……舌の上で蠢く様子は踊り食いの醍醐味……ンまぁーーいっ!」

 何をやってるんだか。

 私の呆れた視線に気がついた様子もなく、すっかり三人組を手下にした姫様は立ち上がり、沖に向かって手を振り上げた。

「さあ、茶番を楽しんだところで海へ繰り出すわよ。私の手足となって溺れるまで泳ぎ続ける支度をなさい!」

「さて、正装するか。おいチン平、いつまでも死んだ振りしてないで起きろよ。遠泳奴隷生活の始まりだぞ」
「いや、マジで身体痺れてたんだけどな。痛みが長引く分、スタンガン打たれるより辛いな」
「なじむ。実になじむぞ!」

 ボートの前部から垂れ下がる縄を身につけ、いそいそと海に入っていく三人組たち。

「プリンセス・オオオオォン!」

 姫様は意気揚々と係留していた巨大な魚型のボートに飛びつき、背中から張り出ていた取っ手にしがみついてつかまる。

「いざ、外洋へ。ハイヨー!」

「ヘーホー!」
「ヨーホー!」
「モーホー!」

 縄で繋がれた三人組が泳ぎだし、姫様を乗せた凶悪な牙を剥いたボートがゆっくりと出航していくのを見送った。
 色々と近づき難い雰囲気だったので、少し離れた場所から航海の無事を祈っておいた。

 姫様の船出を見送っていたのは私だけじゃなかった。
 ご主人様と師匠も視線を向けて、波間を揺れるボートを指差して話を交わしている。
 その短い会話がなんだったのかは潮騒に紛れてよく聞き取れなかったけど、すぐに師匠が海の中へと飛び込んだ。
 とても綺麗なフォームで伸ばした指先から海中に沈み、足首を最後に少し海面を波立て師匠の姿が消えた。

 多分、危惧する事は私と一緒なのだろう。
 転覆したら、沈むだろうし。
 師匠がついていればもしもの事態が起きても任せて安心で、ご主人様はそのような事を言ったんだと思った。

 ぼんやりと物思いにふけってご主人様の日に焼けた背中を眺めていると、不意にひょいと振り返る。
 ちょうど私と目が合って、でこぼことした足場をぴょんぴょんと飛び跳ねるようにしてご主人様が近づいてきた。

「や」

「はい」

 短い挨拶。
 ご主人様は適当なブロックに腰を落ち着けて、柔らかい笑みを浮かべた。

「どう、海は。午前中と比べて」

「そうですね」

 曖昧で幅の広い質問に、私は頷きながらじっくりと答えを探った。

 シュノーケルや足ヒレを用意して貰っただけで、午前中と比べると随分違った。
 泳ぐのに精一杯で、何とかコツらしきものを掴んだ午前中と比べて、余裕を持って海中での出来事を楽しめるようになっている。
 今は首に提げている目元をすっぽりと覆う水中眼鏡のおかげで、裸眼よりもずっと鮮明に、海水がしみる痛みも気にせず見通す事も出来る。
 私も、少し海に慣れてきたと言えるかもしれなかった。

「生き物が沢山いて、不思議で、綺麗で、それから」

「うん」

「――ちょっと不気味です」

 私は言葉を脚色する事無い生の声を洩らした。

 大量の塩水の奥に隠れた世界は確かに美しい。
 美しいけれど、私に海と縁がなかった為なのか地上と異なっている為なのか、どこか気味悪く映る部分もあった。

 たとえば、今私がいるこの防波堤。
 地上は何の変哲もない――と言ってもここまで正確に切り出された石自体余り見慣れてはいないのだけれど、それでもただの岩だと思える。
 けれどほんの少し場所を移して海の中に目を向ければ、そこは海藻の繁殖地帯になっている。
 色鮮やかとは言えない海藻が大量に繁茂し揺れている様子は、見た事もない生き物が暮らす住処に見える。
 隙間に手を突っ込めとか言われたら、それだけで背筋に悪寒が走るだろう。
 私の理解が及ばない場所は、どこか近寄り難い気味の悪さがあった。

「良くある事だよ。地上でさえそうさ。慣れ親しんでるつもりだろうが、未知の存在ってものは薄気味悪い。何せ既知外ってくらいなんだから」

「それはちょっと違うと思います」

「ところがどっこい違ってるようでこの関係は正比例するんだよ」

 ご主人様は大げさなジェスチャー交えて、両手を大きく広げて見せた。
 この感じは良く知っている。
 多分また、思いついたまま何も考えずに喋ってるんだろうと思う。
 ご主人様がこういう喋り方になった時、私はいつの間にか気を引き込まれて話にのめりこんでしまって、判ったような判らないようなうやむやにされてしまうのが常だ。
 私はじっとりとした眼差しで、これから続くであろうご主人様の調子のいい言葉に引き込まれないよう警戒を強めた。

「まずは簡単な例え話から始めようか」

「……はい」

 いつまでもご主人様のいいようにからかわれるだけじゃないって所を見せないと。
 私は若干硬く緊張しながらも、ご主人様の声にじっと耳を傾けた。



 ………………。

 …………。

 ……。



「――という事だよ。お判り?」

「はぁ」

 ご主人様は焼きそばから始まりいつしか世界の矛盾の説明にまで行き着いていた。
 私にも何故だか判らないけどそうなっていた。
 とりあえず、焼きそばだからと言って出されたものが全て焼かれている訳ではない事と、レトルト食品の功罪についてまた一つ造詣が深くなった。
 なってどうするって思わなくもないけど。

 いつの間にか神妙に耳を傾けていた私は、小首をひねってご主人様の顔を見上げた。

「えぇと。つまりどういう事なんですか?」

 ご主人様の話を頭の中で要約しようとしたけれど、始めと終わりが余りにも誤差があり過ぎたので上手くまとめられなかった。

「地上と海は別世界」

 ああ、そうか。
 ご主人様の長い説明を聞いた今なら、私が海に対して抱く奇妙な矛盾や違和感も含め、その一言に全て集約されていると判る。
 けれど、始めに聞かされていれば色々と細かい疑念が残っていた。
 多分、それを解消するのに聴いただけではまるで良く判らない長々とした前置きがあったんだろう。
 無駄のようにも全然無関係に思える話でも、前に聞くか後に聞くかでまるっきり違って聞こえるものなんだなと、私は納得していた。

 結局私の決意も虚しく、いいように言い包められてしまったような気がしなくもなかった。

「なーにつまんない話してるの?」

 いつの間に近寄ってきていたのか、てゐがご主人様の背後からひょこりと顔を見せた。
 てゐは顔見せるだけに留まらず、ぴったりと負ぶさるような形でしがみついてご主人様の肩に顎を乗せる。
 ご主人様もすぐに気がついたのか驚いた素振りも見せず、背中から抱きついてきたてゐに腕を回して頭を撫でた。

「つまんないたぁご挨拶だな。俺だって二七回に一回程度の頻度でためになる話もするっての」

「時と場所くらいは選びなさいよ。海に来て小難しい顔をしてる時点でダメなのよ」

 てゐはあっさりとご主人様に駄目出しをしながら黒髪を一撫でした手を目で追って、あぐっと噛み付いた。
 甘噛みだ。
 一目でそれと判る。
 ご主人様も怒ったり悪い顔はせずに、仕方ないなぁといった感じの笑みを浮かべただけに留まった。

 そんな様子を見せ付けられて、私はなんだか急に落ち着かなくなっていた。
 昼食の時と同じだ。
 てゐは私に見せつけるようにご主人様の顎先に吸い付いたりして。
 あれがただ姫様をからかう為だけに行われたわけじゃないと私は思っている。
 いつでも、誰の目を気にする事もなく、ご主人様の一番側にいられるって意思表示をその場の全員に対して見せていた。

「……」

 こういう考えに辿り付く時点で、私はかなり嫉妬深いんだと思う。

「どうかした? 鈴仙」

「いえ。なんでもないです」

 なんでもなくはないけれど、そう答えた。
 今まで余り気づかなかった、気づいても見て見ぬ振りしてきた自分の感情に戸惑ってしまう。
 誰かを本当に好きになるのは綺麗な事ばかりでは決してなくて、こういったどろどろとした心の一部も浮き出されていくものなのかもしれない。
 てゐへの嫉妬と、人前でも積極的になれる行動力への羨ましさと、憧れるばかりで行動に移せない自己嫌悪。
 とても複雑な心境が、私の胸の中で渦巻いていた。

「確かにくっちゃっべってても仕方ないか。よし、泳ぐぞ」

「そう来なくちゃ。せっかくだし海に沈んだ財宝とかの一つ二つ見つけて帰るわよ」

「貝殻を土産にする乗りでえらい事言ってんな。そもそも泳げねぇんじゃねーの?」

「バカね。フカが嫌いなだけで、泳げないなんて一言も言ったつもりはないわよ。お先♪」

 てゐは立ち上がったご主人様の瀬から降りると、競うように海の中に飛び込んだ。

「鈴仙もおいで。財宝はともかく、土産になりそうなもんでも探してみよう。楽しい事は探せば幾らでも転がってるもんだし」

 すぐにでも後を追いたそうにうずうずしているご主人様に手を引かれて、私はその手を握り締めた。

「あの。ご主人様」

「ん?」

 さまざまな感情のうねりはどれか一つに集約される事なく、ただ漠然とした不安という大きな海原に流れ込んでいった。

「私で、いいんですか?」

 今更だと思う。
 けど時々考えるのだ。
 てゐやお師匠と、ご主人様は良好な人間関係を築いている。
 あの姫様でさえ、一定の警戒心を解かせるのに成功してさえいるように見受けられる。
 仲の良い姿を眺めていると、どうしても私は比べてしまった。

 知識に富むお師匠様、したたかな生命力に溢れたてゐ、そして気品と行動力を併せ持つ姫様。
 私には何もない。
 胸を張って誇れるものが、悲しくなるほど何もなかった。

 愛されたいと強く願う一方で、私に一体何が出来るのかと不安になってしまう。

「私じゃなくて、お師匠様やてゐや姫様の方が、本当は――」

「レイセン」

 鬱々とした私の言葉が遮られた。
 握り締めていた手がそっと手の平に包まれる。
 顔を上げると、ご主人様が向き直り私が立っているブロックに乗り移ってくる最中だった。

 安定の悪い足場の上で正面から向かい合う。
 手を引かれていたのが抱擁しあうように密着している。
 実際にご主人様の腕が背後に回されて、私の腰を抱いていた。

「あ、あの」

 私の声に返事はなく、真剣な表情で顔を覗き込まれる。
 反射的に下がろうとしたけれど、力強く抱かれた腕の中から逃れられない。
 身体を密着させているだけでふつふつと頭の中が沸き立ってきて、声が言葉にならない。

「て、てゐに見られてしまうから」

 顔が火照る理由に辛うじて言い訳じみた言葉を見つけ出した私に、ご主人様は真剣に引き締めていた顔つきを綻ばせた。

「よっ」

「えっ」

 身体がぐいっと横向きに引っ張られたかと思った時には足が防波堤から離れていて、水平になった視界の中さざめく海面が急接近していた。
 悲鳴を上げる暇もなく、私の身体を海水が叩いた。
 覚えたはずの泳ぎ方を瞬間的に忘れて、手足をみっともなくばたつかせてもがく。
 必死に水面を目指して、水飛沫を上げて海面に顔を出した。

「びっくりした?」

 混乱と怯えに震える私の前に、ご主人様の顔が意地の悪い笑顔を浮かべて波間を漂っていた。
 立ち泳ぎの仕方を思い出すのと一緒に、ご主人様が私を抱いたまま横っ飛びに海の中へと飛び込んだのだと判った。

「溺れるかと思ったじゃないですか! なんて事するんですか!」

「レイセンがいけないんだよ。あんな顔されちまうと、つい悪戯したくなっちまうんだ」

 抗議を受け流すどころか、真っ向から原因が私の方にあると言い切られてしまい絶句してしまう。
 怒りの余り言葉を失ってしまうというのは初めてかもしれなかった。

「怒っても文句を言っても俺は悪戯するよ。呆れたってうんざりしたってするさ。何故かって?」

 ぷかぷかと浮かぶご主人様は(虫の居所が悪いと波間に揺れているだけでもむかむかとしてしまう)、満面の笑みを以って訊ねてきた。
 別に訊いてない。
 訊いてないけれど、理由があるのなら耳にしてみたい。
 手ひどい悪戯にへそを曲げていたので、それを素直に口には出来ず目で訴えるだけだったけど。

「レイセンが愛される事に優劣や資格や許可がいるんじゃないかと思う度に、俺はこういう真似をするよ」

「――え」

 すいっと波を割って近づいてきたご主人様の手が、私の頬に添えられた。

「レイセンが幾ら自分を嫌ったって、俺はレイセンと一緒に笑い合っていたいからね」






 一緒に笑い合っていたい。

 そっと口にしてみた言葉は泡になり、こぽりと音をたてて弾けた。

 ご主人様に道連れにされて海に飛び込んだ後は、ただ泳いだ。
 泳ぐだけなのにあれほど夢中になれるのが不思議なほどだった。
 私は何の屈託もなく笑えるようになっていて、ご主人様も笑顔で応えてくれていた。

 海の底に落ちているヒトデをひっくり返したり、泳いでいた小魚に身体を突かれたり。
 真新しいものを探しながら、ご主人様とてゐの三人で海を堪能した。

 こうして思い出すしているだけで、自然と口元に笑みがこぼれてくる。
 初めての海水浴は、遊園地に連れ出された時と同じように輝かしい記憶として留められるだろう。
 私は膝を抱いてお湯に浸かりながら、心地良い思い出の余韻にひたっていた。

 時間が過ぎるのも忘れて泳ぎ、砂浜に戻った頃にはすっかり夕暮れに染まっていた。
 水平線の彼方に臨む日は完全に落ちてはいなかったけれど、紅く焼けた空を眺めて私たちは帰り支度を整えた。
 やって来た時と同じように私たちは車に乗り込んで、ご主人様の運転で家路へとつく。
 その途中で、寄り道をする事になった。

 それがこの大浴場を兼ね備えた宿泊施設。
 何一〇人と同時に入浴が可能な大きな湯船を兼ね備えたホテルだった。
 浴場を売りとしているだけあってか入浴だけの利用も可能で、こうして一日の疲れを解きほぐしていた。

 手足を思う存分伸ばしても端から端まで届かない。
 立ち込めた湯気で白く霞む視界。
 お湯は天然の温泉で乳白色に濁っていた。

 湯船の縁に首を持たれかけさせて、目を閉じたままため息を吐き出した。
 疲労感がお湯に溶け出し身体から抜けていくような錯覚は、目に見えないだけで実際に行われているのかもしれない。
 広い浴場に反して利用客は私たちだけだったから、とても贅沢だ。
 目を閉じているとしとしとと溢れ出る湯水の音くらいしか聞こえなくて、瞼の裏に残る思い出に浸るのも容易――

「うっひょおおおおお! すっごい滑るわ! ちょっと、貴方たちもやってみなさい!」

「私が滑らせる役なら別にいいですけどー」

「ふふ。まるで子供みたいにはしゃいで」

 容易で……

「いいでしょう。因幡に栄誉を授けましょう。狙いは中央ど真ん中、ストライクよ!」

「いきますよー。そーれっ」

 カコォン!

「あら、ストライク」

「姫様ー。無事ですかー?」

「……さいこぉ!」

 私はぱちりと目を開けた。
 騒々しくて、ゆったりと余韻にひたっている暇もない。
 ぎしぎしと軋み音さえ聞えてきそうなほど妙に凝り固まってしまった首をひねると、桶に半ば埋もれた姫様が腕だけを突き出し、親指を立てていたところだった。

「何をやってるんですか……」

「なにって、見てわからないの?」

 見て判らないから訊いてるのに。

 がらがらと桶を崩して中から現れた姫様は、腰掛けていた桶を片手に得意げに笑った。

「大浴場パニッシュシスターズよ!」

 姫様の言葉で余計判らなくなってしまった。
 とりあえず思う事は一つ。

「幾ら女湯だからって、仁王立ちされるのはどうかと……」

「ふん。相変わらずつまらないところにこだわるイナバね。そんなだといつまでたってもつまらいままつまつまな人生を歩むことになるわよ」

「意味が判りません」

「妻妻……言うなれば側室ね」

「何がどうなればそうなるんですか」

「わからないのならそれが私と貴方の差ということよ。目を剥くがいいわ!」

 駄目だ。
 テンションが上がっている姫様には何を言った所で通じない。
 私は両手を腰に当てて胸を反らしている姫様から、湯気の中に立つ二人へと視線を移した。

「てゐはともかく。お師匠様まで姫様と一緒に悪乗りだなんて」

「ずいぶんな言い草だけど、私たち以外誰もいないんだから少しくらいハメをはずしたっていいじゃない? 眉間に皺を寄せてばかりだとすぐしわしわになっちゃうわよ」

「昼間に童心を思い出したのがいけなかったかしら。それとも、ウドンゲには年甲斐がのない姿に映ったかしら?」

「……うっ」

 底意地の悪いてゐの顔と、うっそりと笑って目を細める師匠を前にして、これ以上文句をつけるなんて出来やしない。
 ごく真っ当な正論を口にしているはずなのに、どうして私が悪いような空気になっているのか。
 私はどこまでも少数派だった。

「それともなに。邪魔されたから怒ってるのかなー?」

 声を飲み込んで怯んでしまった私に、てゐが近寄ってくる。
 何を考えているかなんてお見通しだと言わんばかりの笑みを浮かべるてゐに、私は首までお湯の中に浸かって隠れた。

「べ、別に怒ってなんて」

「あらそーお? 一人でにやにや笑ってたじゃない。思い出して笑ってたんでしょ? 違うのかなぁ」

 そ、そんなに笑っていたのだろうか。
 思い出に浸っていたのは確かで、その時自分がどんな表情を浮かべていたかなんて私にも良く判らない。
 身体を縮めて首を竦める私に、てゐが耳元で囁く。

「あいつと何かあったんでしょお?」

「……ごぼごぼ」

 何かあったなんて、色々あり過ぎてどれを言われているのか判らないほどだ。
 嫉妬したり、不安になったり、楽しかったり、エッチな事になってしまったり。
 思い出すだけで頭がかっかと茹だってきて、それは決して口元まで温泉に浸かったりしているからじゃなかった。

「あら図星? こそこそとなにしてたのかなぁ?」

「……」

 てゐの声から逃れてざぶざぶと湯船を移動する私に、てゐの方もざぶざぶと追いかけてくる。
 ご主人様の目から逃れているからか、いつになくしつこい。
 だからと言って助けを呼ぶ事も出来ず、すぐに四隅に追い詰められてしまった。

「て、てゐの方こそ」

 何かあったと言うなら、見せ付けるような真似をしていたのはてゐの方ではないか。
 そりゃあ私だって色々あって、あんな場所で二人きりで……ごにょごにょ……になってしまったんだけれど。
 てゐだってご主人様に平気で抱きついたり、舐めたりして。
 見えない場所ではもっと凄い事をしてたのかもしれなかったし。

「ふぅん。私のことを言うからには、それと同じか――もっと凄いことがあったりとか?」

「……」

「口にも出来ないくらいなんだから、さぞかし凄いことがあったんでしょうねぇ。ん?」

 どうして、私はてゐが相手でも一度も勝てないんだろう。
 完全に私の弱みを握った声音で昼の一件をほのめかしてくるてゐに背中を向けて、私は湯船の隅でうずくまり軽い鬱に囚われた。

「てゐ、その程度になさい。その調子では長湯で上せてしまうわ」

「はぁーい」

 師匠に言われて、てゐはあっさりと私への追求を止めた。
 永遠亭と変わらず、どこにいても師匠の立場は明確だった。
 私やてゐだけでなく、姫様をいさめ場をとりなす存在感で溢れている。
 師匠はきっとどんな状況になっても不安になったり立ち位置を見誤る事なんてないんだろう。
 怖いというのもあるが、それにも増して変わらず私の憧れだ。

 師匠ほどの落ち着きと静かな自信を見につける事が出来れば、私もご主人様とつりあえるのだろうに。
 真似をして身につける事が出来るのか、私には一生辿りつけない境地なのか。
 けど、いつか少しでも近づきたいと思う。

 師匠はまた桶を積み上げ始めていた姫様の元へ向かうと、二言三言話しかけて、あっさりとシャワーの前へと促していく。
 傍若無人振りが板についてきた姫様だが、師匠の言葉に素直なのは相変わらずといったところだ。

 不思議なもので、永遠亭にいた頃とはかけ離れた状況のはずが懐かしい雰囲気を頻繁に感じるようになっている。
 収まる所に収まったと言えばいいのか。
 姫様が覇気を取り戻したというのが大きいのだろうけど、中心にいるのは師匠――という気がする。
 私たちは言わずもがな、あのご主人様も一目置いた扱いだし。

 日焼けした身体にちりちりとしみる湯に浸かりながら、私はぼんやりと師匠と姫様の様子を眺めた。
 姫様の背を流す師匠は鼻唄などを口ずさみ、とても楽しげに見えた。

「――ウドンゲ」

 広々とした場所で湯浴みする心地良さもあって、その背を見つめていたはずの師匠がいつの間にか湯船に使って私の前にいた。
 慌てて視線をずらすと、姫様は一人で長い黒髪をわしわしと洗っている。

「どうかしたかしら?」

「あー……いえ。なんでもないです」

 じろじろと不躾に見つめていた事を思い出して、私は視線を伏し目がちに落とした。
 我に返ると改めて一糸纏わぬ肢体が視界に飛び込んできて、思わず視線を泳がせた。
 海に出ていたころにはあまり気づかなかったけれど、身体にくっきりと日焼けの跡が残っている。
 湯気で濡れた髪と肌は、色艶が普段よりずっと増しているような気がした。

「そう。ああ、それから」

 顔を上げるに上げられないでいた私の肩に、師匠の手が置かれた。
 身体を触れられびくりと跳ねてしまった事は伝わっているはずなのに、師匠は気に留めた様子もなく指で私の鎖骨の辺りをなぞった。

「身体を洗う時には気をつけなさい。日に焼けている分しみるわよ」

「は、はい」

 どぎまぎとしてしまう私に、師匠の指がすいっと顎先へと移る。
 伏せていた顔をくいと持ち上げられて、目の前にうっそうと微笑む師匠の顔があった。

「湯にのぼせない程度に、話でもしましょうか」



xxx  xxx



 夕暮れから日は完全に落ちて、暗くなった夜道を光で照らしながら車が進む。
 以前も似たような状況で隣に座ることがあったけど、以前と違うのは私の慣れ親しんだ夜だということ。
 夜になっても煌々と照らされる夜道ではなく、わずかな月と星明りの下、車の正面についた強力な白い光で道路が照らされているだけ。
 それがあるなしでずいぶん違うけど、無力なまま放り出されたのと似ている。

「しかしまあ。随分タフだな」

 片手でまるいハンドルを握って、あいつが私の髪を軽く撫でる。

「ペース配分が上手いって――んっ――言って欲しいわね」

 答える途中でなにかを踏んだのか、車ががたんと軽く縦に揺れて声が切れた。
 レイセンと鵺は勿論、あれだけ賑やかだった姫様も糸が切れたように眠りこけて、お師匠様までその隣で小さな寝息をたてている。
 その様子を天井からぶら下がった鏡で一瞥してから、私は強張った身体から力を抜いて、あいつの身体にもたれた。
 お風呂に入って、少し早い晩ご飯にすき焼きをぺろりと平らげ、とっぷりと夜の帳が落とされた夜道に帰途についている。
 海水浴に海を訪れた一日が終わろうとしていた。

「あんたの方こそ、感心するより呆れるくらいよ」

 私のことを言ってくるあいつ自身も、遊び疲れた様子もなくこうして車を運転しているんだから相当タフだ。
 無尽蔵に湧いてきてるんじゃないかという精力となにか関係があるんだろうか。
 すき焼きは精がつくとかなんとか言っていたけど、お腹がいっぱいになるとかえって眠たくなるはずなのに。

「ハンドルを握るって後が控えてるからな。そいつを念頭に置いときゃ、緊張の糸がぷっつり切れたりしねぇのさ。アルコールも汗で抜けたしな」

 視線は前に向けたまま、事も無げに私の疑問に答えた。

「満腹になるまで食った訳でもねぇ。腹六分目。適度に小腹を空かせときゃ意識なんて幾らでも保てるのさ」

「ふん。生意気」

 鼻を鳴らして悪態を叩き、私はあいつにもたれかかったままもぞもぞと体勢を直した。
 隣の助手席からあいつが座る運転席に移動したから、小柄な私でもそれなりに窮屈だった。

「大体あんたは――ぅくっ――い、いきなり動くな」

「こちとら椅子でも肉布団でもねぇんだ。そりゃ動くっての」

 いきなり身じろぎしたあいつに息を切らして抗議してみるも、ちっとも悪びれた様子もなく言い返してきた。
 あいつが動くたびに、私の腹の下に感じる肉圧が変わる。
 いや、動かなくても車から伝わるわずかな振動一つで、肉壁を小突いて私の身体を震わせる。
 緩やかなカーブを曲がれば、遠心力に振られて膣内をうねる。
 微細な変化も仔細に渡って、あいつの肉棒が私の胎の中で訴えてきた。

 ただあいつの上に座ってるだけじゃない。
 衣服の下では、私の濡れた割れ目をズボンのジッパーから取り出したあいつのちんぽが深く貫いている。
 私たち以外みんな眠っているとはいえ、いつ目を覚ましてもおかしくないこの状況で、あいつとセックスをしていた。

「ったく。最後の最後にカーセックスとはね。いい性格になったもんだな」

「なによぉ。どうせあんたのことだから、こそこそとお楽しみだったんでしょ。遠慮してやってたのに文句でもあるの?」

 鈴仙のあの態度から何かがあったことは一目瞭然。
 お師匠様だっていつも澄ました顔をしてるけど、なにもないとは限らない。
 知らぬは姫様ばかりなりってね。

「耳が痛いねぇ」

 私がもたれかかる格好で睨み上げると、あいつは遠回しに肯定した。

「あんたは胸の大きさに騙され過ぎなのよ。痛みが過ぎてそのうち耳が生えてくるわよ」

「頬が落ちる、目から鱗とは良く聞くが、耳が生えるってのは新しいな」

「そりゃそうでしょ。初めて言ったんだから。頭からにょきにょき耳が生えてきたら、私が顎で使ってやるわ」

「生えるって、てゐみたく兎耳か? 俺が兎耳ねぇ……ないな」

「ないわね」

 あいつが積極的に腰を動かそうとしなかったから、こうして無駄話を続けていられる。
 溺れるほどの快楽ではなく、徐々に身体が火照る悦楽。
 背後からの寝息や物音一つで背筋が粟立つ。
 いつばれてしまうか判らないこの状況が、なおさら私を興奮させた。

 ベッドにいる時ほど自由闊達に動けないけど、不自由なりに交わり方みたいなのがあることに気がついた。
 身体の上半身をしっかりと固定したまま、腰から下だけを動かす。
 横幅はほとんどないに等しいから、前後の動きが中心だ。
 動けば振動で擦れる場所が変わって、挿入感が異なる。
 腰を降ろせば、そのぶんあいつの肉棒の先端が深くまで響いた。

 湯船につかっているような感じ。
 激しく貪りあうのではなく、繋がったまま緩やかに快楽が身体に染み渡っていくような。
 あいつの身体に浮かんでたゆたっているような後を引く快楽。
 挿入感を長引かせて楽しむために、私は意識を下腹部から逸らして無駄話を振る。

「海から帰る時、あの座布団に浮かんだカビよりもしつこそうな三人組があっさり帰ったみたいだけど……あんたがなにかしたわけ?」

「何を想像してるのかしらねぇけど、大した事はしてねぇよ」

「大したことじゃなくても、なにかしたってことに変わりはないでしょ。なにしたの?」

「少しばかりお話をしたのさ」

「ほんとに話だけで済んだのか、怪しいものね」

 言葉に受け答えながら、私はあいつの身体でまどろむ。
 車の中はまるで水槽にいるみたい。
 海のようにどこかにフカが潜んでいるような危険のない、区切られた空間。
 そこにたたえられた湯水がこいつ。
 海を敬遠してはいるけれど、泳ぐことそれ自体は嫌いじゃない。
 私はゆらゆらと揺られて、人肌に溺れていく。

 ともすれば転げ落ちてしまいそうな浮遊感を伴う恍惚に酔いしれていると、あいつの片腕が私の腹部に回された。

「そんなにあのぼんくら共が気になるのか? 目の前で別の男の話をされるなんて悲しくなるじゃねぇの」

「なぁにー? 妬いてるのぉ?」

 視線は相変わらず前に向けたまま。
 けどどこか不機嫌そうに歪めるあいつの口元を見て取って、私はにたりと笑って意識して腰を前後した。
 焼きもちを妬くというよりも拗ねたようなその態度が、股間にも表れているように思える。
 心なしか硬さが増した気がするあいつの肉棒を、いつも頭を撫でられるのを真似て私の膣内で撫でくりまわしてやった。

「……面白くはねぇよ」

 不自然に押し殺した声で答えるあいつ。
 あの三人組の話題を振っただけでへそを曲げたり、悦楽を我慢している声音を聞いたりするのが妙に楽しい。
 私はこいつに飼われてはいるけど依然として悪戯好きな兎で、そのあり方を変えてまでペットになっていたりはしない。
 私の膣内をくちゅくちゅと掻き混ぜる音をかすかに聞きながら、その困った表情を目で見て楽しむ。

「かわいいとこあるじゃなぁい」

「調子に乗んな」

 頬をぺちぺちと平手で叩いていると、あいつが腰を持ち上げた。
 あいつの上に座ってる私に逃げ場はなく、今まで以上にぐりっと奥を抉られてしゃっくりが洩れた。

「あ、くぅ。あぁ」

 頭の芯がびりびりと痺れる。
 太ももの筋がひく引くと痙攣している。
 おまんこの一番奥にある小さな輪っかをぐりぐりされてる。
 憎まれ口の一つも出てこない。
 バカになりそうなくらい気持ちいい。

「運転中、まんこにローター突っ込んでて逮捕された阿呆な女だっているんだぜ?」

 あいつが何か囁いてるけど、言葉の意味が頭の中に入ってこない。
 腰を浮かして快楽から逃れようとするけれど、下半身が痺れて動けない。
 魚みたいにぱくぱくさせる私の口に、なにかが入ってきた。

 あいつの指だ。
 舌をはさまれて、余計言葉が出てこなくなってしまった。

「聞かれないようにたっぷりしゃぶってな」

 言われる前からしゃぶっていた。
 舌で絡めて唾液をちゅぷちゅぱ鳴らして口の中の指をしゃぶる。
 下半身の痙攣が全身に回り、絶頂に震えながら口寂しさを慰める。
 あいつの指はなんの味もしなかったけど、飽きることなく私は舐めては熱心に吸いついた。

「一回目」

 あいつの呟きとほとんど同時に、胎の中に精液が溢れた。
 子宮に直接流し込まれて、ゆるい勢いのまま射精は間断なく続き注がれていく。
 ふぅふぅと鼻で呼吸をしながら、しゃぶっていた指を噛んでいた。

「戻るまでに何回いくかな?」

 何度でも。
 体力が続く限り、何度でも。
 胎にたぷたぷの精液が溜められるのを自覚しながら、絶頂の波を越えて顎の緊張が抜けると、再びあいつの指をしゃぶりだす。
 少し鉄の味がした。

 硬い指がすっかりふやけてしまうまで、淫らな濡れ音を聞きながら私は何度も軽くイき続けた。



xxx  xxx 



 てゐに説明した言葉に偽りはない。

「こうして出会うのはいつ以来かしらね?」

 話をしただけだ。

「ごきげんよう。私の飼い犬」

 夕暮れに差し掛かりすっかり日が傾いた赤焼けの海辺で、俺はこの世で一番おっかないボスと相対していた。
 勿論、お目付け役と同じくぼんくらを経由しての接触だったが。

 以前は白痴の様に呆けてたり、目玉がぐるんぐるん回転したりしてエクソシストも裸足で逃げ出しそうな恐怖体験そのものだった訳だが、今回は違う。
 ぼんくらどもは意気込んだりすがり付いたりむやみに勝ち誇ったりと、そういった仕草を取っている。
 多分、このぼんくらどもにとってみてはボスどころか今の会話そのものが存在していない。
 俺とくだらない話をしている真っ最中で、さぞかし未練がましく同行を願い出ているんだろう。
 こっちはまるで無声映画の一人芝居を見せられている気分だ。

 そう、これは映画だ。
 映画の中の住人にとってはスクリーンに映し出されるものが現実であり全て。
 
 観客の存在になど気がつくはずがない。
 これはそういう事だ。

「ビッグマウンテンの頂きより降り注ぐ光にして煌く明星たる我らがボス。ご機嫌麗しゅう」

 某国を気取ったご機嫌伺いを口にしたのは、単に恐怖からだ。
 不自然さからくる異質感なんてものにはもう慣れている。
 そんな一目見れば判る違和感なんてものよりも、全く自然なままの異質さの方がよっぽど恐ろしい。
 俺の皮肉もボスの声も、それ所かボスの端末になっているという事さえ無自覚なまま、ぼんくらどもの目にしか見えていない現実ってもんが目の前で広がっている訳だ。

 脳ミソが公衆便所なんてもんじゃねぇ。
 パラノイアそのものだ。

「うふふ。貴方のそういう諧謔味を利かせた物言い、嫌いではないわよ」

 ぼんくらどもの一人が答えた。
 口の形から全く別の内容を叫んでいるはずなのに、ボスの言葉とすり替えられている。
 ボスとの会話以外は、ぼんくらがどれだけ口を歪めて大開きに訴えてこようと全くの無音だ。

「畏れ多い事で」

 三人同時で一人分の会話より、こっちの方が遥かに怖気を誘う。
 俺の数値化への欺瞞も万全なのか、ボスの感情は全く浮かんでこない。
 なまじ相手の心が見える俺にはこっちの方が堪えた。

「そんなに震えて。怖がらなくてもいいのよ? 出来の悪いかわいい飼い犬の様子を見に来ただけだから」

 ボスの言葉で俺は無自覚に震えていた右手を握り締める。
 怖がるなってのは無理がある。
 ちょっと様子を見に来たついでに、俺の首までちょんと落としていくような気紛れなボスだ。

「出来の悪さにお叱りを受けるんじゃないかと思いましてね。こちとらなんの芸もないただの人間なもので」

「ほほ。まさか。飼い犬が目の届く場所ではしゃぎ回っている姿を見ている、というのは楽しいものよ。判るでしょう。ね?」

 予め卑屈にへりくだっていたからなのかボスの機嫌は思ったより悪くない。
 こいつは血を見ずに済みそうだ。

 それはそうと、ね? だなんぞ可愛く言われたとこで別の意味で背筋が薄ら寒くなる。
 見た目はぼんくらだしな。

「いけないわ」

 背後から、俺の首を何かが撫でた。

「粗末な命でも扱いに気をつけるべきよ? ついひねり潰したくなる顔をするものではないわ」

 ひんやりと冷たいその感触が、蛇のように首を這い引っ込んでいった。
 一瞬遅れて全身の毛穴が開き汗が噴き出てくる。
 思考一つに気をつけなきゃならんなんて、全く以って俺のボスは厳しいったらありゃしない。

「イエス・ボス」

「よろしい」

 首を押さえて唸るように答える俺に、物騒な声音が幾らか満足げに緩んだ。
 こっちは不可視であっちはお見通しだ。
 トランプでこっちの手札だけ晒してゲームしてるのとさほど変わらねぇんだろう。
 それでもゲームが続いている以上この現状のまま相手の意図を探らにゃならん。
 下手なカードを切れば癇に障って俺の首が飛ぶ。

「ご遊覧に足を運ばれたボスが楽しめる内容でしたかね?」

「ええ。稀に見るなら暇潰しにはもってこいの茶番ね。貴方はそれをとても良く演じているわ」

 茶番の一言か。
 ばっさりもいいとこだな。

「尤も――茶番しか続かないのでは見ている側は飽きるだけ」

 それは判る。
 エンターテイメントなんてものは消耗品の使い捨てだ。
 飽きられたら最後捨てられる。

「私から付け加える言葉は特にないわ」

「イエス、ボス」

 今まで通り、ピエロよろしく踊り狂って楽しませろって事だ。

 いつまで?
 死ぬまで。

「貴方も楽しみなさい」

 底知れない笑みを含んだボスの声が潮騒に攫われるのとほぼ同時に、

「――じゃないですかぁっ!」

 今までミュートが入っていたぼんくら共が声を取り戻した。

 全身にのしかかってくるプレッシャーからようやく解放された俺は、頭を掻きながら急に口寂しさを感じて煙草が欲しくなった。
 ボスがどこからどこへ去っていったかも判らないまま、俺は曖昧に空を見上げた。
 どんよりと広がる薄闇の向こうに俺を見つめる目がある気がして、ケツの穴が少しすぼまった。
 急速に不機嫌になっていくのを自覚しながら、ぼんくらどもに視線を移した。

「つまり、なんだ。言いたい事を三行で要約しろ」

「もっと」
「ちょめちょめ」
「したいです!」

「そうか。死ね」

「都合一五分間に渡る俺たちの説得工作がたった二言で全否定された!?」
「交渉系のサスペンス映画ならここが山場ですよ!?」
「挿すペニス映画だと別の場所が山だけどな!」

「おい」

「アイン!」
「ツヴァイ!」
「グーテンモルゲン!」

 とりあえず順に殴った。

「よし。もう帰っていいぞ」

「ちょっと殴らせろの前置きもなく!?」
「ジャイアンだって殴る前に声をかけるのに!」
「余り俺たちを怒らせない方がいい……」

 馬鹿だなぁ、こいつら。
 てめぇが何かも判っていねぇで欲望全開のまま生きている。
 知らぬが仏ってのはこういう事を言うんだろうな。

「お前らが下僕生活を満喫してる間にな、俺は鈴仙を抱いてた」

 流石に理不尽が過ぎたか殺気立ってくる三人組に、俺は言ってやった。

「鈴仙だけじゃなく永琳もな。お前らが見る事しか出来なかったあの胸を散々いじり倒した挙句、海中セックスを愉しんでた」

 現実って物を教育してやる。

「つまり、判るか? 持たざる者には一生チャンスは巡って来なくて、持ち得る者だけが全部独占しちまうって事だ!」

 それが理だ。
 徒競走のような同じ立ち位置などあり得ない。
 全人類を含めた椅子取りゲームは、生まれた時点で参加資格を持つ者と持たざる者に分かれている。
 参加資格がない者に与えられる悦びなんてものは、勝者を気取っていた者が敗れて同じ立場に転げ落ちる様子を嘲笑うくらいしか許されていなかった。

「……」
「……」
「……」

 言い放った俺に、三人組はぽかんと立ち尽くしたまま言葉を失った。
 かと思うと突然その場に落ちていた海藻を拾って頭に被りだす。

「僕ワカメェェェェ」
「俺は昆布ぅぅぅぅ」
「ひーじーきぃぃぃ」

 海に向かって体育座りをすると、訳の判らん自己主張を始めた。
 厳しい現実を目の前にして、精神のバランスを欠いたんだろうよ。

「死ぬまでやってろ」

 俺は暮れなずむ三つの背中を置き去りにして、砂浜からさっさと離れた。



 目を開けても未だ夜が明けた空気はなく、眠っていたのはほんの一、二時間程度だろうと当てがついた。

 気分は最悪だ。
 何が悪いって、夢の中に男が出てくるほど不快なもんはない。
 口元をひん曲げて頭をがりがりと掻いていると、親指がじくじくと痛み出す。
 結局運転中のほとんどの時間てゐの口に突っ込んでたんで、歯形はつくわ皮膚を噛み切られるわで小さな傷を負っていた。

 痛みが尚更俺から眠気を奪い取り、赤熱した小さな明かりを不機嫌に睨み続けた。

 稀に見るなら――

 記憶に残る底意地の悪い声。

 暇潰しにはもってこいの――

 あの声音を聞いているだけで俺に対する印象がどういうものかが判る。

 茶番ね。

 手の平の上にいる虫けらに向けるものだ。
 いつでも握り潰せる上に、潰した所でこれっぽっちの同情心も湧かない相手。
 どう考えても飼い犬以下だ。

「はぁーあ」

 ため息ばかりが口を突く。
 生まれ持った差を埋めるには、努力や根性なんてもんじゃさっぱり追いつきやしない。
 その気になったら最後、指先一つでぷちっといわされるだけだ。

 考えようによっちゃあ、あのぼんくらどもは幸せだ。
 虫篭に押し込まれて飼われてるってぇ事実に気がつきもせず、いつ遊び半分にむしり殺されるかも知らないまま一生を終える訳なんだから。
 何も知らずに生きて何も気づかないまま死んで行く方が、よっぽどストレスが溜まらないだろう。

 だとしても、一度でも飼われてるってぇ自覚を持っちまったら、ああいう生き方は出来やしない。
 俺は俺だ。
 立場が不遇だろうと割に合ってなかろうと、それをかなぐり捨ててまで生きていくつもりはさらさらねぇ。
 そういう生き方を選べるのなら、そもそもボスに飼われる事もなかった。

 虚無感はあるものの、嘆きはなかった。
 そんな事、最初に喧嘩を売った時点で骨の髄まで思い知らされてる事だ。

 進歩も発展もねぇとは俺の言葉だが、成長するはずがありゃしない。
 そんな甘い夢を見るほど俺は落ちぶれちゃいない。
 俺はどうやったって俺なんである。

 だから、この選択に行き着くのは遅いか早いかってだけで、今がその時だって事。
 ただそれだけの事。

 俺はベッドから抜け出して、椅子の背にかけていたジャケットを羽織る。
 せめて衣装の一つくらい整えておかなきゃ罰が当たる。
 襟を折ってベルトを締めて、ここしばらく身につけることのなかったナイフを腰に差す。
 身につけていたこのナイフを置物にしていたのは、一週間か、もっとか。
 長年の相棒の存在感を忘れるなんて到底あり得ない話で、その重みはあっという間に俺の身体に馴染んだ。

 身支度を整えて部屋を出る。
 向かう先は決まっている。
 今までずっと棚上げしてきた。

 最小限の照明が続く長い廊下を歩く。
 歩きながら呼びかける。

「鵺」

「うん」

 俺の声に気の抜けた声で応じる。
 鵺は初めからそこにいたように俺のは斜め後ろからひょこひょことした足取りで着いて来ている。
 横目でそれを確認して、頭を帽子越しにぐりぐりとかいぐった。

「やろうや」

「うん」

 充分に楽しんできた。
 もう迷いはない。
 向かった先の扉を開けて、二歩室内に踏み込んだ。

 予感はあった。
 だから相手が俺が来るのを待っていたかのように起きていても驚かなかった。

「よう」

 低く唸るような俺の声に、

「こんばんわ」

 なんの疑念を抱いた様子もなく永琳は応じた。

 事ここに至っては今更言葉を交わす理由もないんだが、説明の一つくらいは必要だろう。
 その程度の義理は持っていた。

「借りをまとめて返しにきたぜ」 

 俺の言葉に永琳は怒るでも戸惑うでもなく、なんの感情も混ざらない冷たい眼差しで見つめてきた。
 この表情は覚えている。
 俺を殺した時に浮かべていた顔だ。

「随分我慢したわね」

「俺は我慢出来る子なんだよ」

「そうね。本当に」

 とっくの昔にどうにもならなくて、取り返しがつかない事も始めから知っていた。
 敵の敵は味方なんてのはあり得ない。
 敵はどこまでいったって敵だ。
 殺されてしまったら、殺し返さずにいられるはずがなかった。

「鵺」

 隣に立つ鵺が、俺の声に応じて帽子を脱ぐ。
 目も鼻も口もないのっぺらぼう。
 ただ、蓋を外した為に湯気か煙のように湧き立つ闇だけがそこにある。
 夜よりも深いその闇に、人間で言うならちょうど首の辺りに俺は左手を突っ込んだ。
 ずぶずぶと肘近くまで俺の片腕が闇の中に沈み、指先は貫通しない。
 鵺の無貌がざわざわとさざめき、形を持った闇が溢れた。

 手。
 手、手、手。
 視界を埋め尽くすほどの手の群れが鵺の顔面から噴き出し、洪水のように永琳に雪崩れかかった。

 永琳は抵抗しなかった。
 抵抗しない永琳を鵺の顔から生えた無数の手が掴み、縛り、包み、覆い尽くす。
 全身を闇色の手に包まれていながら、ほんの僅かな隙間から青い瞳が覗いていた。
 俺を見るその美しい瞳。
 心を濯ぐ美しい青に俺は口を開いた。

「――……」

 何を口にしようとしたのか、俺の身体を瞬間的に襲った感情がなんだったのか、定かになる事はなかった。
 何かを言いかけて、何も言えないままその瞳を見つめ返して、俺は鵺の首に突っ込んでいた腕を引いた。

 溢れ出た夜闇よりも暗い手の洪水は、渦を巻くように鵺の顔面に吸い込まれていく。
 包み込んだ永琳ごと、暗い闇が引きずり込んでいく。

 俺の手が鵺の首から抜けた時には全て終わっていた。
 永琳の姿はなく、鵺の顔面では音もなく闇が揺らめいているだけ。

 鵺は手にしていた帽子を深く被り直し、

「けふっ」

 小さなおくびを洩らした。

 残ったのは耳に痛い程の静寂と、気だるい虚脱感。
 ベッドにはめくられたタオルケットが被さっているだけで、そこに人が座っていた痕跡は何一つとして残っていなかった。

 始まる。
 終わりが始まる。

「鵺」

「うん」

 だらだらと続けてきた茶番は、とっておきの悲劇と喜劇で締めくくられる。
 これは、そういった類のお話。

「ご苦労さん」

「うん」

 初めから決まっていた、どこにでもある御伽噺。
 






























~おまけーね~



~もしも舞台が愛と勇気だけが友達のアレだったら~



赤 「そっおっだっ 悲しいんだ 生ーきる苦っしっみ
   ドルと オンナだけが いーきがっいっさー♪」

頓 「ハーヒ」
珍 「フーヘ」
漢 「ほう!」

鈴仙「きゃー!」

赤 「頓珍漢、白昼堂々ウサ子ちゃんこと鈴仙にセクハラはやめるんだー」

頓 「オレ様」
珍 「オマエ」
漢 「マルカジリ!」

赤 「やめないつもりだな。よーし。アーン…(溜め)…金的ー!」

頓 「ドゴォォォォォォ!」

赤 「アーン…(溜め)…ジェノサイドカッター!」

珍 「ウゥワ ゥワ ウゥワ(エコー)」

赤 「アーン…(溜め)…トカレフ横っ飛び二丁拳銃ー!」

漢 「バッキュンバッキューン」

赤 「今は悪が微笑む時代なんだぜ」

鈴仙「あ、ありがとうございます赤さんマン!」

赤 「これが僕の務めさ! 報酬は2000ドルでいいよ!」

鈴仙「えっ」

赤 「払えなくても今なら特別サービス期間中だから、鈴仙の身体でいいよ!」

鈴仙「ちょ、ちょっと待ってくださ――」

赤 「さあ、僕のマツタケをお食べよ!」



~少女、ネッチョ中~



赤 「ふー……とりあえずシャワー浴びて来いよ」

鈴仙「しくしく」

メデタシメデタシ



 アン○ンマンにあやかれば小さな子供たちも安心出来る気がした。
 どう足掻いてもぜつぼー。



~相変わらずのあの三人~



( 頓)<本編ッ 登場ッ! 再ッ 登場ッッッッ!
( 珍)<薄々そんな気はしてたがやっぱりひどい目に遭ったぜ!
( 漢)<途中からなんか記憶飛んでるんだよな。慣れてるけど。

( 頓)<いくらひどい目に遭ってもそれで俺たちの煩悩が収まるはずがない!
( 珍)<脳内にしっかりと焼き付けた水着姿でムラムラとくる!
( 漢)<そんな時は言わずと知れたAVタイム!

( 頓)<今回の晩餐ネタは、コレダー!



『ルナティック・プリンセス ~家庭教師と不適切な関係~』



( 珍)<姫様! 姫様!
( 漢)<過程教師って事は無論永琳先生と!?

 ウィー ガチャコ。

( 頓)<い、いくぅ。
( 珍)<落ち着けマゾヒスト! まだ始まってもいないのにいくな!
( 漢)<うはっwww夢がひろがりんぐwww

『やめて……触らないで』

( 頓)<前振りすっ飛ばしていきなりキタァァァァァ!
( 珍)<これこそ裏物、インディーズの醍醐味よぉ!
( 漢)<俺たちにとって女優の企画物なんて萎えるだけだしな!

『輝夜。貴方の肌は白くて、柔い』

( 頓)<先生色っぺええええっ!
( 珍)<はひゅっ、はひゅっ!←興奮の余り過呼吸
( 漢)<やっぱり人間が大好きだー!

( ?)<そのAV、しばしまた霊夢! 

( 頓)<な、何奴!?
( 珍)<この距離で我らに気配すら感じさせぬとは!
( 漢)<かじりつきでボリューム上げてたら気がつきゃせんだろうが。

( 不)<お前たちに名乗る名などないが、敢えて言おう! 不比等であると!

( 頓)<なにぃ、不比等だと!?
( 珍)<知っているのかマゾ豚!
( 漢)<養殖業のおっさんじゃないのは確かだな。

( 不)<輝夜といえば私、私といえば輝夜! 正二位右大臣府人とは私の事よ!

( 頓)<いや、知らん。
( 珍)<知り合いだったらお前との今後の付き合いを考える格好だしな。
( 漢)<お前ら、とりあえず名乗ってるし聞いてやろうぜ。

( 不)<輝夜テラカワユスwww フヒ、フヒヒ、フッヒィー!

( 頓)<いい年したおっさんが……。
( 珍)<真性ペド野郎かよ。
( 漢)<俺らでも引くわ。

( 不)<フヒヒwww サーセンwww

( 頓)<まあ、それはともかく。
( 珍)<ここに至りてする事は同じ。
( 漢)<だな。

『いやぁ!』

( 不)<フッヒィ! 嫌といいながらも濡れちゃうマンマン! パイパン! パイマン役満!

『良い表情になってきたわね』

( 頓)<先生の表情も溜まりましぇえええん!
( 珍)<えーりん! えーりん!
( 漢)<扱いてえーりん!

『ん、んんっ、ふっ、んんんんん~っ』
『きゅうきゅうと締め付けてきて。そんなにアナルが気持ちいいのね』

( 不)<此はなんぞ!?

( 頓)<カメラさん寄り杉!
( 珍)<これはおクリさんなのか!? それともお菊さん!?
( 漢)<どーなってんだよー。見えねーぞバンバン

( 不)<おお、全体像が見えてき

『( 赤)<マスカキやめ! パンツ上げ!』

( 頓)<こっ、これうぁ。
( 珍)<もしかして――
( 漢)<またですかぁー!?

『( 赤)<さて、ここまで楽しんだお前たちに重大な発表がある』

( 不)<……。
( 頓)<……。
( 珍)<……。
( 漢)<……ゴクリ。

『( 赤)<残り六〇分、全部ガチホモビデオに上書きしといてやったから!』

( 頓)<ひいいいい!?
( 珍)<鬼! 悪魔! ゴッドゲッドゥー!!
( 漢)<なっ! 何をするだァーーーーーッ ゆるさんッ!

『( ・´ェ`・)<必要な分は見せたという事だ。これ以上は見せぬ』

( 頓)<くっそが!
( 珍)<すっげぇムカつく顔!
( 漢)<陵辱しかないでしょッッッ!!

『( 赤)<プッ、プッ、プッ、チーン。はーい時間切れー。死ね』

( 頓)<や、やめっ
( 珍)<こんな所にいられるか! 俺は逃げるぞ!
( 漢)<光――光が見えるよ――



――某ピクシヴで R-18 ガチホモ を検索した空間が広がっています。検索は計画的に――



( 頓)<ハッ
( 珍)<俺たち何してたんだっけ?
( 漢)<何か――とても悪い夢を見ていたような……。

( 頓)<な、なあ。なんか。
( 珍)<お前もか?
( 漢)<……ケツが、痛いよな?



( 不)<前半で盛り上がり過ぎて我慢出来ませんでした。フヒヒww サーセンwww



 Q.不比等をフヒらせたかっただけちゃうんかと。
 A.はい。
 
お待たせしましたudon21です。
長いです。仕様です。

あと僅かばかりお付き合いを。
紺菜
コメント




1.名前が無い程度の能力削除
えーりんが喰われた!?
2.キョウ削除
やばい、先が超気になる
3.名前が無い程度の能力削除
持ち上げて持ち上げて、ついに落としにかかるか……
続きが楽しみでもあり楽しみでもなし
4.名前が無い程度の能力削除
まってました!
相変わらずのボリューム、楽しませていただきました。
次も待ってますよー。
5.名前が無い程度の能力削除
この5人の日常が崩壊するの?の?気になる
6.名前が無い程度の能力削除
な!もう終わりが近づいてるのか・・・
椛 うどん ときたら次はいったいだれになるやら(希望チルノ)
(勝手に終わらすなw)
7.名前が無い程度の能力削除
いよいよ終盤に近づいてきましたね
続きがきになるなー
次回作は個人的には星蓮船メンバーが見たいのでヒロイン星ちゃんがいいです
キャー!ショーチャーン!
8.名前が無い程度の能力削除
抜いた
9.名前が無い程度の能力削除
・・・テロップ!

いつになったら鵺とぬえっちょが競演するんだい?
教えてくれよおまけーねぇぇぇぇぇ!